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仲間の一部を「蒲鉾同行」と軽蔑し見下している高森顕徹会長と現役カルト信者

今回は、現役カルト信者の「蒲鉾同行」発言を通して、高森顕徹会長や現役カルト信者が仲間の一部を軽蔑し見下していること、対して法然聖人や親鸞聖人、蓮如上人は教えを聞きに来た方々をどのように御覧じ、またどのように仰っていたかを紹介したいと思います。

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(-.-)Zzz・・・・聴聞や蒲鉾同行をよしとするおまんら( TДT)
2019-01-19(10:48) : 元会員
 
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このコメントを見た当初、「蒲鉾同行」とは何ぞやと思いました。共著のしゃあも知らなかったそうですから、我々が退会した2009年以降に親鸞会で言われ始めた言葉なのでしょう。これについては別の方から

二千畳の一番後ろで壁にくっついて聴聞する人を蒲鉾同行と呼び、真剣に聴聞する姿勢が無いことだから気を付けるようにとお達しが有りました。

と教えて頂きました。それにしても聞きに来た人に対して酷い言い方ですね。仲間の一部を軽蔑し見下し、そんな姿勢では助からんとでも言いたげです。


対して、法然聖人や親鸞聖人は教えを聞きに来た人達をどう見られたでしょうか。こんな話を紹介します。

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善人であろうと悪人であろうと、賢くあろうと愚かであろうと、男だろうと女だろうと、如来様は分け隔てはなさらない。戒律を保って清らかな生活をしていようと、ふしだらな生き方をしてそれしか生きられなかった人であっても、如来さまの願いを聞き入れて「有難うございます。それではとお願いを申して、あなたの所へ帰らせていただきます」と言ったら、如来さまは一番喜んでくださるのです。それだから法然聖人はお念仏申しなさいと言われるのです。
 法然聖人のもとに集う在家の信者の方々は、「私みたいなものに、そこまで言われているのですか」と、出家、在家の区別なく、聖人の温かいお念仏のお諭しにしばしば感激されていました。そして法然聖人は、聖人のところからお念仏して帰る人の姿をご覧になって「ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを御覧じては、『往生必定すべし』とて、笑ませたまひしを、みまゐらせ候ひき」(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七七一頁)と仰っておられます。にっこりと微笑んで必ず浄土に生まれていく人だなと言われたのです。田舎の爺さんがお念仏申しながら帰っていったら、法然聖人が喜んでくださったということが書かれているのです。

『浄土より届く真実の教え』ー『教行証文類』のこころー(自照社出版)p.14~p.16
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法然聖人のお人柄がよく知られるエピソードです。

また、親鸞聖人が「御同行・御同朋と御かしづき候ふ」ことは蓮如上人が仰っています。

(293)
一 前住上人仰せられ候ふ。御門徒衆をあしく申すこと、ゆめゆめあるまじきなり。開山(親鸞)は御同行・御同朋と御かしづき候ふに、聊爾に存ずるはくせごとのよし仰せられ候ふ。

(294)
一 開山聖人の一大事の御客人と申すは、御門徒衆のことなりと仰せられしと[云々]。

(295)
一 御門徒衆上洛候へば、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。寒天には御酒等のかんをよくさせられて、路次の寒さをも忘られ候ふやうにと仰せられ候ふ。また炎天の時は、酒など冷せと仰せられ候ふ。御詞をくはへられ候ふ。また、御門徒の上洛候ふを、遅く申し入れ候ふことくせごとと仰せられ候ふ。御門徒をまたせ、おそく対面することくせごとのよし仰せられ候ふと[云々]。


【現代語訳】
蓮如上人は、「ご門徒の方々を悪くいうことは、決してあってはならない。ご開山聖人は、御同行・御同朋とお呼びになって心から大切にされたのに、その方々をおろそかに思うのは間違ったことである」と仰せになりました。

蓮如上人は、「ご開山聖人のもっとも大切なお客人というのは、ご門徒の方々のことである」と仰せになりました。

ご門徒の方々が京都にやって来ると、蓮如上人は、寒いときには、酒などをよく温めさせて、「道中の寒さを忘れられるように」と仰せになり、また暑いときには、「酒などを冷やせ」と仰せになりました。このように上人自ら言葉を添えて指示されたのです。また、「ご門徒が京都までやって来られたのに、取り次ぎがおそいのはけしからんことだ」と仰せになり、「ご門徒をいつまでも待たせて、会うのがおそくなるのはよくない」とも仰せになりました。


同時に、蓮如上人も御門徒の方々を大変大事に思い、温かく接していかれたことも分かります。これらのことと高森会長の「蒲鉾同行」発言は全く相容れません。会員さん方は早く高森会長の正体に気付くべきです。


もうお判りのように、教えだけでなく、こんなところまで高森顕徹会長と愉快な仲間達は法然聖人や親鸞聖人、蓮如上人と真逆なのです。会員を「御同行・御同朋」だという感覚が無いんです。だから、仲間の一部も平気で悪く言うし、会員の信仰上の悩みを聞いてそれに寄り添うこともできないんです。

信仰の悩みを相談しようにも、自身の信心が徹底していないから講師部員も幹部会員も説得力のない慰みの言葉しかかけられません。結局「もっと真剣に聞かせて頂きましょう」「より光に向かって進ませて頂きましょう」で終了だということは、会員の皆さんはよくご存知のはずです。そう言われることは予想済みでしたので、私は講師部員や幹部会員に信仰上の悩みを相談しませんでした。

何よりも、高森顕徹会長自身が会員の真剣な悩みの直訴を前に何も答えられなかったではありませんか。覚えている方も少なくないと思いますが、私が会員だった時、高森会長の話の途中で、一人の高齢の男性が真剣に求道の悩みを訴えていた中、特に法を説くでもなく高森会長は奥へ引っ込んでいってしまったということがありました。アシスタントの講師は「聴聞に極まるです!」とか叫んでいましたが、会長さんは知らん顔でした。それから休憩になり、その後は男性の悩みとおよそ関係ない話をしてその日の行事は終了しています。

教えも真逆、聞きに来た方々への感覚も真逆な高森会長に、会員の皆さんは何を期待しているのでしょうか? そろそろ現実を正見して、自分の取るべき進路をよく見定めて頂きたいものです。
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十劫安心、無帰命安心と浄土真宗の信心について

昨日の記事にチュウビ様よりコメントを頂きました。ありがとうございました。

十劫安心」について解説してほしいとのことでしたが、私が説明するまでもなく、既に多く解説がなされています。当ブログではそれらを紹介し、「十劫安心」と浄土真宗の信心の違いを書いていきたいと思います。

まず、「十劫安心」とはどういうものかですが、関連記事は以下の通りです。

『WikiArc』十劫安心
『安心問答』十劫安心とは(ぶりままさんのコメントより)
『安心問答』「十刧安心との違いを説明していただけませんか。」(田中屋さんのコメントより)
『飛雲』十劫安心の体験談しか自慢できない親鸞会
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』十劫安心の定義は教学聖典の通りに覚えたら間違いです(親鸞会機関誌顕正新聞平成25年8月1日号より)
『WikiArc』安心論題  (9)帰命義趣

十劫安心」は「無帰命安心」とも言われ、この二つは同義です。意味は

「無帰命安心」というのは、阿弥陀仏は私どもを救わねば仏にならぬとお誓いくだされ、すでに十劫のむかし仏となられたのだから、私どもはすでに救われているのである。だが、それを知らなかったために今まで迷うていたので、そのことを知りさえすればそれでよい。いまさら阿弥陀仏に帰命するなどということは無用である、という説である。これは阿弥陀仏のお救いを観念的にとらえ、いま法を聞いて信心決定させていただくということを無視した誤った主張『WikiArc』安心論題  (9)帰命義趣より)

「十劫正覚の初より、我等が往生を、弥陀如来の定めましましたまへること」を「忘れぬ」ことが信心であるというのが、十劫安心です。もっと別の言い方をすると「忘れたらいけない」信心であり、「忘れたらアウト」な信心『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』十劫安心の定義は教学聖典の通りに覚えたら間違いです(親鸞会機関誌顕正新聞平成25年8月1日号より)より)

が判り易いと思います。十劫の昔に私達の往生を阿弥陀仏が定めて下されたことを「知って」「忘れない」のが「十劫安心」「無帰命安心」だということが判ります。

これに対して、既に指摘がある通り親鸞会の「十劫安心」は意味が間違っています。親鸞会の「十劫安心」の定義は以下の通りです。

問(33) 十劫安心とはどんな異安心か。何をどう間違ったものか、喩えで示せ。
答(33) ○十劫の昔にすでに我々は助かってしまっているのだから、今さら求めることも聞き歩くこともいらぬと言う人達のこと。
(『教学聖典(7)』)

どこから持ち出してきたのか不明ですが「今さら求めることも聞き歩くこともいらぬ」という文言が盛り込まれています。会員はこの定義を基に考えていますから、信心獲得したといって親鸞会を辞めたり、高森顕徹会長の話を聞き求めに来なくなったりした退会者を指して「十劫安心」、「無帰命安心」だと騒ぎ立てているのでしょう。この手の非難は全くの的外れです。親鸞会を離れても、お聴聞されているお同行は多いと思います。また聴聞会場に足を運ぶばかりが聴聞ではなく、本やブログを読んだり、動画音声を視聴したり、お念仏申すことも聴聞です。富山へ行って、高森会長の話の間眠気をこらえて正座しているのが聴聞と思ってもらっては困ります。


では、浄土真宗の信心とはどのようなものかと言いますと、それは

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。『御文章』5帖目5通

とあるように「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」ことです。これは、南無はこういう意味、阿弥陀仏はこういう意味と聞いて頭で理解していることとは違います。それはいわゆる「合点安心」というやつで、先の「十劫安心」「無帰命安心」と構造的に変わりません。我らが往生の証拠である「南無阿弥陀仏」のおいわれをよく聞いて「南無と帰命する」ことが大事なんであります。

帰命」とは、

「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。『尊号真像銘文』

「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり『尊号真像銘文』

等とあるように、「如来の勅命にしたがふ」、「釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふ」ことです。では「如来の勅命」とは何かと言うと、これは「本願招喚の勅命」とも言われるように、阿弥陀仏が法蔵の昔に「我が真実なる誓願を信楽して念仏する者を必ず浄土へ迎えるぞ」と誓われた本願であり、その本願が成就したすがたである「南無阿弥陀仏」です。要は、「助けるぞ」、「必ず浄土へ迎えるから安心してまかせなさい」という本願の仰せです。

こうした「本願招喚の勅命」を聞き受けて疑いが無くなってしまった、仰せのままに後生・往生を阿弥陀仏におまかせしたことを「帰命」というのです。これは、過去のハッキリスッキリ体験でもなければ、未来においてそうなるという予測でもありません。現在只今、いついかなる時でも「助けるぞ」の仰せをそのまま頂戴し、仰せの通りに阿弥陀仏におまかせしていることです。これがすなわち「信心」です。

一度帰命の信心が発れば、何らかの事情(記憶障害、痴呆等)でそのことを忘れてしまっても問題ありません。一度摂取したら二度と捨てられないのですから。そういうことが無くても、いずれ我々の肉体は必ず滅びますが、その時に「この自分」というものを認識している意識も滅びます。忘れても、滅びても、決して忘れたまわない、捨てたまわない如来の大慈悲ましますことを聞き受け、これにおまかせしたのを「帰命」というのです。

ですから非常に安心ですね。自分がしっかりしてなきゃならない必要もありませんし、過去のハッキリスッキリ体験をたのむこともありません。現在只今、常に喚びかけられている「南無阿弥陀仏」を聞いてこれにおまかせなんですから、往生については心配ありません。というか、この後生・往生という一大事を私が今更ジタバタと心配してもどうにかなる問題ではありません。どうにかなる問題ではないからこそ阿弥陀仏におまかせです。

阿弥陀仏に帰命するというのは、阿弥陀仏の招き喚んでくださる勅命にしたがうことであり、本願に信順することであり、願力の道に乗託することであって、本願の信楽と同じ意味である『WikiArc』安心論題  (9)帰命義趣より)

とはこのことです。こうした南無帰命の信心、浄土真宗の信心と「十劫安心」「無帰命安心」との区別がつかないのは、間違った定義に加えて、獲信とはハッキリスッキリ体験だという勘違いをしているところに原因があります。また、救われたら三業がガラっと変わるという痛い勘違いもあるでしょう。会員は、救われても煩悩は変わらないと聞きつつ、それでも救われたら言わずにおれない、叫ばずにおれない、人間の中身が入れ替わったように行動が獲信の瞬間からガラリと変わると思い込んでいるように見受けられます。そう思ってないならいいですが、もしそう思っていたら今後改めて下さい。


それにしても、本来の言葉の定義からしますと、親鸞会こそ「十劫安心」「無帰命安心」です。

そこで、十劫安心を「聞いて忘れない信心」であるということになると、親鸞会会員こそ「十劫安心」ということになります。なぜなら、高森会長の話を聞いて忘れないことが善いことであり、教学聖典を覚えて忘れないのが、信心獲得への近道であると信じているからです。弥陀に帰命することなく、高森会長(親鸞会では善知識)の話や教学聖典の中身を忘れないこと大事にするのは、十劫安心にとても似ています。『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』十劫安心の定義は教学聖典の通りに覚えたら間違いです(親鸞会機関誌顕正新聞平成25年8月1日号より)より)

自力一杯求めていれば、いつか自力が廃る、などという十劫安心に陥って、その体験談を自慢しているのが親鸞会です。『飛雲』十劫安心の体験談しか自慢できない親鸞会より)

いや、会員は「高森会長の言葉を聞いて安心している人達」ですからそれ以前かもしれないです。会員の皆さんは、皆さんの一部を「蒲鉾同行」などと軽蔑し見下している高森会長や幹部の元から離れて、御同朋御同行と仰って下さる親鸞聖人の教えに順って本願招喚の勅命を聞き受け、信心獲得してこの度の報土往生を決定して頂きたいと思います。

「元会員」教を創設した現役カルト信者と、助ける法を仰がせずに、ひたすら「わろき機のかた」ばかり問題にしている親鸞会

『飛雲』高森顕徹会長と親鸞会が萎み続ける中、永久に獲られることのない創作信心を追い求める哀れな会員

に挙がっているように、本日は富山で高森顕徹会長の話がある予定でしたが、ドクターストップの為に中止となりました。ところで、

昨年12月に行われた高森会長の話を録画したものが、なんと破格値の1,800円で大バーゲンセール中

とは驚きですね。高森会長の法話ビデオをダビングしたら死刑とか何とか言っていた頃が懐かしいです。なりふり構っていられない親鸞会の台所事情がよく知られます。


話は変わりまして、愚かな現役カルト信者からは相変わらず愚かなコメントが来ています。でも彼はまだいい。なぜなら、記事のネタを提供してくれているからです。こちらは記事のネタに困らなくて、逆に助かってますよ。コメントのおかしなところをツッコめばいいんだから。ありがとうございます(^ω^)

それとは違って、自分の配達エリアの客どもは何じゃこりゃ!? 時間帯指定のすっぽかし、果ては再配達のすっぽかしを連発されて、今も思い出すだけで非常に腹が立ちます。こっちは時間と労力とガソリン代の無駄なだけでちっともいいことがありゃしない。それで、そういう自己中心的な客に限って俺が何らかの事情で時間帯不履行したらクレームつけてくるんですよ。初配の指定無しは仕方ないが、指定した時間帯にちゃんと在宅して受け取ってくれるだけで我々宅配業者は本当に助かるんです。何とかならんもんですかねぇ・・・(-_-;)

それで、また愚かなコメントが来ましたので引用しつつ邪義を明らかにしたいと思います。

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だらぶつがなんぼでも相手しまっせ~
未学徒で馬鹿で携帯でチマチマですが♪

喜んで♪♪♪♪♪♪

設有大火・・・

調熟の光明のお働きによる聞法を他力と言うんだ~馬鹿ww
2019-01-19(16:19) : 元会員

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まず、高森会長から聞いたこともない「調熟の光明のお働きによる聞法を他力と言う」という発言があります。勿論、真宗でもこんなことは言いません。ついに独自の珍説が出てきました。以前、異星教の教祖様が随分と発言されていた時期がありましたが、彼もまねて「元会員」教を創設したようです。信者が増えるといいですね。まぁ狭い私の知識に無いだけで本当はそんな教えがあるのかも知れませんので、

調熟の光明のお働きによる聞法を他力と言う

という聖教の根拠があれば示して下さい。よろしくお願いします。Abcさんが疑問に思うのも尤もです。

次に、彼は「設有大火・・・」と書いています。これは『大無量寿経』流通分

設有大火充満 三千大千世界 要当過此 聞是経法 歓喜信楽 受持読誦 如説修行。
(たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。)


のことでしょうが、このお言葉をもって自力の命がけの聞法をしなければならないんだとでも言いたげですね。しかし、残念でした。これも既に破られています。

前回の記事で示した紅楳英顕先生のお言葉で十分ですが、今は

『飛雲』自力の聞しか知らない高森顕徹会長と会員の関係は、善鸞と善鸞の言うことを信じて親鸞聖人の元に行く気のない同行

より引用します。

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高森会長が命がけで聞けと言っている根拠として挙げているのが『歎異抄』第2条や『浄土和讃』の

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり


などですが、異安心で聖教を読んだことのない高森会長に、親鸞聖人がどのような御心でこれを仰ったのか判る筈もないでしょう。
間違いを指摘しないと、良い気になっていつまでも言い続けますので、正しい意味を教えて差し上げます。

この和讃の元になった根拠が、『教行信証』行巻にいくつか引かれています。

まずは『平等覚経』から

かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして大利を得ん。
われらが類この徳を得ん。もろもろのこの刹に好きところを獲ん。
無量覚その決を授けん。
《われ前世に本願あり。一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとくわが国に来生せん。
わが願ずるところみな具足せん。もろもろの国より来生せんもの、
みなことごとくこの間に来到して、一生に不退転を得ん》と。
すみやかに疾く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
(中略)
たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば、
かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし〉


(現代語訳)

釈尊は、<このような人々は、仏の名号を聞いて心楽しく安らかに大きな利益を得るであろう。わたしたちもこの功徳をいただいて、それぞれこのようなよい国を得よう。無量清浄仏は衆生の成仏を予言して、≪わたしは前世に本願をたてた。どのような人も、わたしの法を聞けば、ことごとくわたしの国に生れるであろう。わたしの願うところはみな満たされるであろう。多くの国々から生れてくるものは、みなことごとくこの国に至ることができるのである。すなわち、来世をまたずに不退転の位を得るのである≫とお述べになった。阿弥陀仏の安楽国に、速やかに往くことができる。
(中略)
たとえ世界中に火が満ちみちていても、その中を通り過ぎて法を聞くことができるなら、必ず仏となって、すべての迷いを超えるであろう>と仰せになった


次に『安楽集』に引用されている曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』から

もし阿弥陀の徳号を聞きて歓喜讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとす。たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かばまた退せず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる

(現代語訳)

もし阿弥陀仏の功徳の名号を聞き、喜びたたえて信じれば、わずか一声念仏するだけで大きな利益を得て、功徳の宝を身にそなえることができる。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき阿弥陀仏の名号を聞くがよい。仏の名号を聞けば、不退転の位に至る。だから心をこめて礼拝したてまつる

更には『往生礼讃』より

弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。

(現代語訳)

阿弥陀仏の智慧の誓願は、海のようであり、限りなく深く果てしなく広い。名号を聞いて往生を欣えば、みなことごとく阿弥陀仏の国に至る。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき、仏の名号を聞け。名号を聞いて喜びたたえるなら、みな間違いなくその国に往生することができる。

とあります。
古文も現代文も読みこなす力のない高森会長と愉快な仲間達には上記の御言葉を理解することは無理でしょうから、簡単な説明だけすると、親鸞聖人はこれらを行巻に引かれていて、化土巻には引かれていないということがポイントです。行巻は真実の行、化土巻は方便の行と信について書かれてあることは高森会長でも知っている基礎の基礎です。

つまり、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」聞くことは、真実の行なのです。言い換えると他力の行です。

要するに、自力で命がけで聞けと親鸞聖人が仰ったのではないということです。

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お分かり頂けたでしょうか。親鸞会では「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」の部分だけを強調し、「だとえ大宇宙が火で充満してもそこを過ぎ行きて」聞くんだと、親鸞聖人がさも自力の命がけの聞法を勧めているかのように話しています。

まぁ確かにね、淳心房としてはいい加減な気持ちで聞いている人が本願のおこころを素直に聞き受けられるとは思わんです。往生ほどの一大事、地獄逃れるどころか仏果を得ようという教えです。それに対して、自分は真剣になっているつもりで、我ながら我に愛想を尽かしてしまうような、そんな聞き方、求め方しかできません。自分の真剣なんてホント役に立たんなぁ、箸にも棒にも掛からんなぁと、心底自分のいい加減さに呆れた人にこそ、「助けるぞ」「我にまかせよ」との如来の仰せが響くのだと思いますよ。まぁここは淳心房の味わいです。助けるも助けないも阿弥陀さまのなされることですから。どういう人が本願の仰せを頂けるかというのは、正直のところ私には計れないです。全て如来の計らいです。

ただですね、親鸞聖人は自力の命がけの聞法をせよとか、大宇宙が火の海になってもワシの元へ来て聞け、なんて仰ってないんです。これは、恒沙の身命を捨てても聞き難い法の尊さ、「南無阿弥陀仏」の素晴らしさを強調されているんであって、我々のわろき機の方を問題にして、もっと真剣になれ、もっと性根を入れて聞けと仰っているんじゃないんです。元々救われる手立ても無いし、計らいしか無い身の上です。そんなことを説いていたら、聞く者はますます自力心の虜になってしまいます。

ですから蓮如上人は度々、

あひかまへて自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひとは、たとへば十人は十人ながらみな真実報土の往生をとぐべし。『御文章』3帖目7通

等と仰って、「自力執心のわろき機のかたをばふりすて」なさい、「ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたの」みなさいと仰っています。自分の身の上、我が心の中に救いは無いのだから、自分の中に救いを探さずに、ひたすら本願のはたらきを仰ぎ、一心に阿弥陀仏におまかせしなさいというのです。

ともすれば自分の真剣さ、聞きぶり、求め方の良し悪しを問題にしてしまいがちですが、これは機の過失であって、法はそんなことは問題にしていません。無碍光如来ですから、我々の煩悩は往生の邪魔にならないです。では何が邪魔かと言ったら、もっと真剣にならなければ助けて頂けないだろうとか、こんな体たらくではダメではなかろうかと計らう自力心です。これは自分で何とかなる問題ではなく、「助けるぞ」「我にまかせよ」という本願の仰せをそのまま聞くところに廃るのです。ただ「南無阿弥陀仏」と受け容れないことには何ともなりません。

それを、助ける法を仰がせずに、ひたすら「わろき機のかた」ばかり問題にしているのが親鸞会です。だから会員は自力心の虜になって、いつまでも如来招喚の勅命を受けられずにいるのです。いや、そもそも如来招喚の勅命は説かれておらず、「ワシの指示に無条件で従え」という高森会長の朝令暮改の無理難題命令しかありませんので、会員が助からないのも当然すぎるほど当然の話でした。

会員の皆さんは、早く雑行悪業悪行を勧める偽善知識の元を離れ、「自力執心のわろき機のかたをばふりすてて、ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心にたのまんひと」になって頂きたいと思います。

聞法すら「獲信の因縁(宿善)」「聞法善」と善の一種に数え、それを真剣に励んで「絶対の幸福」を得ようと自力もどきの活動をしている親鸞会

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。「行文類」決釈
一 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。『歎異抄』第8条

等に明らかなように、正定業の念仏さえ私達にとっての「」でもなければ「」でもありません。念仏は如来の方から恵み与えられるものであり、本願のはたらきがそのまま私達の上に表れたものだというのです。

念仏は、ただ阿弥陀仏の本願のはたらきなのであって、自力を離れているから、それを称えるものにとっては、行でもなく善でもないのです。

とある通りです。念仏がそうですから、私達が自分の意思で行っているように思える聴聞やお勤めといったことも本願のはたらきがバックボーンとしてあって、舞台裏を覗けば阿弥陀仏にそうなさしめられているわけです。

このようなことですから、『歎異抄』の言葉は次のように言い換えられましょう。

・聞法は行者のために非行・非善なり。
・勤行は行者のために非行・非善なり。


聞法、勤行は念仏と共に、往生のために、信心決定に向かって「わがはからひにて行ずる」のでもなければ、「わがはからひにてつくる善」でもないのです。


これが理解できない、いわゆる無力(むりき)としか思えない親鸞会では、他力の法をお聞かせ頂く「聞法」すら「獲信の因縁(宿善)」「聞法善」と善の一種に数え、それを真剣に励んで「絶対の幸福」を得ようと自力もどきの活動をしています。他の諸善に比べたら明らかな優劣は認めるものの、

聞法に勝る獲信の因縁(宿善)のない

といって「聞法」を最も宿善が厚くなる行為と捉え、最も信心決定に近づく我々の行、我々の善であるかのように教えています。これは大変な間違いです。

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』聞法善ー他力の救いを自力の教えにした高森会長の大罪

には、次のようにあります。

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親鸞会では、聴聞・聞法のことを聞法善と呼び、最も宿善が厚くなる行為として位置づけています。そして、聞法に励んだ先に信心獲得の決勝点があるとしています。しかし、この教義は親鸞聖人の教えに根本から反し、聞法者を自力の教えに留めてしまう重大な誤りですので、他のブログでも誤りが指摘されていますが、本ブログでもこの問題を取り上げます。

まず、『本願寺なぜ答えぬ』では、以下のように「聞法に勝る獲信の因縁(宿善)はない」と書き、本願寺もタテマエの上ではこれを認めたとしています。

(3)〝なぜ実らぬ〟本願寺の聞法のすすめ~
 「善さえ励めば獲信できる」〝これが親鸞会の主張だ〟
 こんな本願寺の中傷を縁として、親鸞会は、聞法に勝る獲信の因縁(宿善)のないことを開顕し、〝仏法は聴聞に極まる〟ことを力説してきた。
 聴聞(聞法)の重要性には、本願寺も異存がないらしい。
(中略)
 いくら本願寺でも、聞法と獲信の関係を断ち切れば崩壊することぐらいは、ご存知のようだ。
「聞法を勧めねばならないことは、いうまでもない」と、珍しくも断言なさっている。
 ついでに、
〝大いに、すすめねばならぬワケ〟もききたいものだが、とにもかくにも、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを、タテマエだけでも、本願寺が認めたことはおめでたい。


しかし、親鸞聖人の教えにおいて、親鸞会が説くように「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」という教説は存在しません。このことは、宿善論争の発端になった『現代における異義の研究 伝道院紀要24号』(紅楳英顕著)でも既に指摘されていることです。

先ず「たとひ大干世界にみてらん火をもすぎゆきて仏のみなを聞く」の聞くであるが、宗祖において「聞」とは「信巻」には
聞といふは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心有ること無し、是れを聞と日ふ也(真聖全二の七二)
とあり、又『一念多念文意』には
きくといふは、本願をきゝてうたがふこゝろなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(真聖全二の六〇四)
等とあるように聞とは信心をあらわすものであり、信心とは「本願力回向之信心也(真聖全二の七二)とあるように他力回向の信心であるから、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名を聞く」という表現ではあっても決して自力の意ではなく、他力の意に他ならないのである。


ここでは聞法を勧められた親鸞聖人のお言葉「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」(『浄土和讃』)の意味が解説されています。親鸞聖人において、「聞」とは信心をあらわすものであり、他力の意味で説かれていることが明らかにされています。上で引用した『本願寺なぜ答えぬ』の中に「聞法と獲信の関係」という言葉が出てきますが、聞いたそのままが信心であるということが親鸞聖人が教えられた「聞と信の関係」です。親鸞会が主張するような「聞法が獲信の因縁(宿善)になる」というような関係を親鸞聖人は教えられていません。

『本願寺なぜ答えぬ』に引用するといっていながら、引用しなかった『派外からの異説について』(紅楳英顕著)でも同様のことが明らかにされています。

宗祖聖人は、
たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきく人は ながく不退にかなふなり(『浄土和讃』)
といわれ、蓮如上人は、
仏法は世間の隙を闕きてきくべし、世間の隙をあけて法をきくべきように思うこと、浅ましきことなり。(『御一代記聞書』)
いかに不信なりとも聴聞を心に入れ申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり、只仏法は聴聞に極まることなりと云々。(『御一代記聞書』)
等と教示されている。
このことは、論文にも述べたことであって、聞法(聴聞)を勧めることが間違いである等とは、私はどこにもいっていない。 私の述べているところを故意にネジ曲げて非難していることは明らかである。
そもそも、真宗の「聞」とは、第十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の如実の「聞」でなければならない。これは、第二十願の「聞我名号係念我国」の「聞」とも峻別される他力の「聞」なのである。 高森親鸞会の主張のように、破邪顕正や財施等の自力の行と同列に扱うこと自体が、そもそも問題なのである。この意味から、存覚上人は、
聞よりおこる信心、思よりおこる信心といふは、ききてうたがはず、たもちてうしなはざるをいふ。思といふは信なり、きくも他力よりきき、おもひさだむるも願力によりてさだまるあひだ、ともに自力のはからひちりばかりもよりつかざるなり。(『浄土見聞集』)
と述べられているのである。


『本願寺なぜ答えぬ』では、聞法が獲信の因縁(宿善)になることを本願寺が認めたかのように書かれていますが、本願寺はそんなことは認めていません。それどころか、引用した二つの論文では、親鸞聖人が勧められた聞法とは、十八願成就文の「聞其名号信心歓喜」の「聞」であり、他力の「聞」、聞いたままが信心である聞即信の「聞」であることが述べられ、親鸞会の主張する自力の行(宿善になる行)としての聞法の勧めは問題であると指摘されているのです。しかし、この本願寺の指摘をねじ曲げて、本願寺も聞法が獲信の因縁(宿善)になることをタテマエだけでも認めたとしているのです。酷い歪曲だといわざるをえません。

こうして、正しい意味での聞法はねじ曲げられて、宿善が厚くなる行としての聞法だけが親鸞会には存在することになってしまいました。そこで問題にされるのは、どれくらい聴聞しているのか、富山に参詣しているかという回数や、その真剣さ、聞いたことをどれだけ覚えているのかなどの自分の聞法姿勢ばかりです。まさに、破邪顕正や財施等の自力の行と同列の自力の聞法だけがそこにはあるのです。自らの聞きぶりばかりが問題にされ、救いの法が抜け落ちてしまった状態に陥っているのですが、親鸞会の内部にいるとなかなかそこに気が付くことはできません。

このような「聴聞、おつとめ、六度万行が獲信の因縁(宿善)になる」という教義、また「三願転入の教え」、「善をしなければ信仰は進まない」等の「親鸞会の教え」に共通しているのは、救いを彼方においてそこに向かって何らかの行に励み、ハッキリした信心をいただこうとしている点です。そして、この点こそが、「親鸞会の教え」の根本的な誤りなのです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

このように他力の教えを自力の教えにしているため、会員は自力に押し留められて阿弥陀仏の仰せに反し、「今日こそ信心決定しよう」「何としてもこの一座で聞き抜こう」「ここ一つ聞き抜かずばおくまい」等と意気込んで聞法に臨むために反って「助けるぞ」「我にまかせよ」の仰せを受け容れられずにいるのでしょう。

「聞法」を「聞法善」だとし、親鸞会の活動を「釈迦弥陀の善巧方便」なんかと捉えている内はいつまでも他力のおこころに気付かせて頂くことはできません。以下、『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』聞法善を積みなさいとは、阿弥陀仏もお釈迦さまも勧められていません(顕正新聞平成25年1月1日号より)より引用。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
全て釈迦弥陀のご方便 富山県(親友部*1)
(略)
「白道」で示されるのは、聞法心・聞法善であり、廃悪修善も収まると教えて頂きました。合点にとどまっていては、信仰は進みません。アニメ弘宣も、翻訳大事業も与えていただいた全ての勝縁は、釈迦弥陀の善巧方便です。(顕正新聞平成25年1月1日号(16)法友通信 12月2日の二千畳ご法話に参詣した法友からの手紙です)

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

まさに「自力のおしまかせ」、これで信心決定に向かって進んでいるつもりの会員は哀れ哀れです。

ただ、「阿弥陀仏に救われよう」「信心決定して報土往生しよう」というのならまだいいのですが、親鸞会の場合は求めているのが「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、夢・幻のようなこの世の幸福です。また、高森会長の話す内容に正しい意味での「仏願の生起本末」「南無阿弥陀仏の六字のこころ」はありません。加えて会員に勧められる活動は主として親鸞会への献金、勧誘、会長及び上司への無条件服従ですから、目的も行為も間違いです。こんなものは自力とも言えない、単なる一宗教活動であることが明らかです。

会員の皆さんは、「これが信心決定するのに役立つだろう」などという己が良し悪しと思う心を離れて、ただただ「助けるぞ」「我にまかせよ」と喚んでおられる「南無阿弥陀仏」のおいわれを聞き、受け容れて下さい。それがそのまま信心です。

聞法は聞法善、お勤めは五正行の実践、雑行・悪業悪行は六度万行の実践と、どこまでも自力であり、しかしてその実態は自力もどきの親鸞会

親鸞会はどこまでも自力であり、しかしてその実態は自力もどきの邪偽の宗教です。

真宗で聞法というのは、南無阿弥陀仏のおいわれ、すなわち救いの法をお聞かせ頂くのであって、聞法という善を修めて信心獲得しよう、信心獲得に近づこうなどという自力的な意味は全くありません。

お勤めに関しては昨日の記事でも書いたように聴聞であり御恩報謝であって、こちらも五正行という善行を修めて阿弥陀仏に救われよう、救いに近づこうなどという自力的な意味は全くないのです。

日々の親孝行や親切、言行一致といった倫理道徳上の善も、私を本願力に遇わせるための皆々様のご方便だと感謝し、その御恩に報謝するために行うべきです。決して、六度万行の実践をして光に向かって進もう、縦の線に少しでも近づこうなどという自力的な意味は全然ありません。

真宗は、私達が獲信・往生するのは全て本願力の回向によるものであり、自力の善も計らいも要らないんだ、ただ念仏一つ、ただ念仏一つで助かることに疑いない信心一つで往生し成仏するんだという教えです。聴聞も勤行も念仏も、全て本願力回向の法、南無阿弥陀仏のおいわれを聞き、讃嘆し、称えることであり、基本的には同じです。救いの法をしっかり聞いて阿弥陀仏に後生おまかせし、信心を獲て、有難いことだ、有難いことだと御恩を知り、至徳を報謝するのが聴聞、勤行、念仏であり、日々の私達の生活であります。


これが理解できない親鸞会では、本来真宗において善を修するとは言わない聞法やお勤め、倫理道徳上の善をさも信心決定するのに必要不可欠な善行であるかのように勧めています。

高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない
       阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む


こうした高森会長の教えは、よく言って雑行の勧めであり、しかしてその実態は

・高森会長の話を自力で命がけで聞く
・親鸞会に人を勧誘する
・親鸞会に献金する
・会長及び上司の指示に無条件に従う


等の悪業悪行の勧めです。よく言って自力であり、しかしてその実態は自力もどきの一宗教だと判ります。


真宗に雑行の勧めはありません。また、信一念まで雑行が有るのではなく、信前に雑行を捨てて念仏一行になるのです。これは正雑二行の沙汰をしてその意味が理解出来たら当然そうなります。親鸞会教義からしても、信前に雑行を捨てるのです。これが20願です。

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頭の信心・・・君ら信心
心(阿頼耶識)の信心・・・親鸞聖人の信心


追記
建仁かのとりの歴雑行を捨てて本願に帰す
時刻の一念の一向専念無量寿仏になるまで雑行は有る
2019-01-18(06:42) : 元会員

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恥も外聞もない、親鸞会の教義にさえ疎い現役カルト信者が愚かなコメントを続けていますが、20願の行者は一切諸行の少善、すなわち雑行を捨てて、善本・徳本である念仏一行を自利の一心で修めています。

顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。「化身土文類」三経融会問答

【現代語訳】
その顕についていうと、釈尊は、念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとしてこれを退け、善本・徳本の真門を説き示し、自力の一心をおこすようにと励まされ、難思往生を勧めておられる。

20願は親鸞会流『三願転入の教え』からしても時剋の一念でも信後でもありません。信前です。信前で既に雑行を捨てて念仏一行になるのです。時剋の一念まで「雑行は有る」と言っているのは、親鸞会の教義にも疎い、ましてや浄土真宗の教えを何も分かっていない証拠です。


再度言いますが、真宗に雑行の勧めはありません。ああだこうだ理由をつけて雑行を勧めている親鸞会は、浄土真宗とは無関係だということを会員の皆さんはハッキリと自覚しましょう。

お勤めの意義も当然知らない現役カルト信者

勝敗は決しているにも関わらず、相変わらず恥の上塗りコメントが続いています。

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そもそも一向専念無量寿仏なっとんが?おたくら!

善いことせんが?

お勤めせんが?




シカトかよww

一向専念無量寿仏なってようがなってまあが
善いことするよね?

お勤めするよね?

君らせんが?
悪人製造の教えけ?
2019-01-16(10:12) : 元会員

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どうもこの現役カルト信者は

「お勤めを勧められている」=「五正行を勧められている」

と主張し、何とか善の勧めに持っていきたいらしいです。これも既に破られていることを知らないのでしょう。

諸善万行は雑行と高森会長も教えていますが、正行の勧めがなぜ雑行の勧めになるのですか?

現役カルト信者は、まずこの質問に答えなさい。


次にお勤めの意義についてですが、蓮如上人は次のように教えられています。

一 のたまはく、朝夕、「正信偈和讃」にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、「正信偈和讃」は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。御一代記聞書(32)

【現代語訳】
「朝夕に<正信偈和讃>をおつとめして念仏するのは、往生の因となると思うか、それともならないと思うか」と、蓮如上人が僧たち一人一人にお尋ねになりました。
これに対して、「往生の因となると思う」というものもあり、また、「往生の因とはならないと思う」というものもありましたが、上人は「どちらの答えもよくない。
<正信偈和讃>は、衆生が弥陀如来を信じておまかせし、この信心を因として、このたび浄土に往生させていただくという道理をお示しくださったのである。
だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の御影像の前で喜ぶのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。


お勤めは聴聞であり、御恩報謝であって、信仰が進む手段、宿善が厚くなる手段、白道を進む手段、横の道を進む手段、光に向かって進む手段等のいわゆる「獲信するための手段」ではないことが判ります。お勤めを、獲信するための手段と考えている親鸞会の邪義を正しておられます。五正行という善行を修めて阿弥陀仏に救われよう、救いに近づこうなどという自力的な意味は全くないのです。ましてや、

「お勤めの実践」=「五正行の実践」で、宿善が二番目に厚くなる方法

だとかいう珍しい教えは蓮如上人の上にはありません。当然親鸞聖人の上にもありません。


それにしても、この現役カルト信者は過去の法論を全く学んでいないことが判ります。以下、この記事の内容を一部変えて再度アップします。

↓↓↓

よく親鸞会側は、浄土真宗の祖師方のお言葉通りに教える親鸞会批判者に向かって、

そんなに善をしたくないなら・・・
そんなに善をするのが嫌なら・・・


などと負け犬の遠吠えがましいことを言いますが、

そんなに善をするのが嫌なら、親鸞会にとどまって推進される活動をしたらよいでしょう

とでも返しておきましょうか。幹部や講師部員、会員の皆さんが親鸞会の活動に割かれている時間を自由に使える我々は、その時間で彼らよりずっと倫理道徳上の良いことを実践できます。しかも往生・獲信とは無関係とわきまえて。それに『さよなら親鸞会』などを見る限り、高森顕徹会長を始め一部の幹部や講師部員は、とても廃悪修善を実践しているとは言い難いものがあります。事実、教義面に絞っても、

・「親鸞会教義の誤り」への反論を依頼した特専部員を除名する。
・反論もしないのに、「これが親鸞聖人の正しい教えだ」と主張し、間違った教えを弘め続ける。「誤りを犯さないことを誇りとするよりも 誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」ではなかったのか。
・大沼氏や伊藤氏から盗作しておきながら、あたかも自分が書いたものであるかのように振る舞う。
・意図的な断章をした御文を教学聖典に用い、会員に親鸞会ドグマを浸透させる。
・根拠が存在しなかったり、根拠が間違った御文を教学聖典に掲載し続ける。
・法論すれば相手の主張を歪曲し、相手があきれて論戦放棄すると、勝手に勝利宣言。
・過去の法論では頑なに自説を曲げなかったのに、後になってしれっとそれまでの主張を修正してくる。若不生者の「生」の解釈が典型例。㈱チューリップ企画と田中一憲の法論はまさに勝他のための議論。
『飛雲』との公開法論に応じないまま6年以上経過。


等々、教えを説く者としての誠実さはカケラもありません。とにかく善がしたくない、善をするのが嫌なようです。教義面でこの有様であり、そんな教えを説いているのが高森顕徹会長ですからその下は推して知るべしです。不倫疑惑、セクハラ、万引き、偽装勧誘、偽装ベストセラー・・・挙げればキリがありません。とにかくやり放題。親鸞聖人の教えを悪人製造の教えにしているのは他ならぬ親鸞会です。

善もどきの善をいくら励んだところで往生は定まりませんし、少しも獲信に近づくことはできません。往生の因も果も、全て阿弥陀仏の方から恵み与えて下さるものだからです。この本願力回向の教えを真っ向から否定することが善なのか、悪なのか、そんな親鸞聖人の教えを否定する邪義を自分自身も深く信じ、それを宣伝する行為が良いことなのか悪いことなのか、会員の皆さんには一度立ち止まってよく考えてみて頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』昔も今も雑行・正行の分別もなく
『飛雲』「善知識方は五正行を勧められている」は本当?
『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い9

「一向専念無量寿仏」について、「阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む」という高森顕徹会長の主張は完璧な間違いであると認めた自称元会員

ご存知の通り、親鸞会は退会者との法論に連戦連敗、引き分けにすら持ち込めない状況です。そんな状況でまた敗北を喫したら、親鸞会の沽券に関わります。しかし、黙って指を咥えて見ているというわけにもいかないのでしょう。では、どうすれば敗北しても親鸞会に「敗北」という更なる汚名を着せずに済むか。それは皆さんお分かりの通り、親鸞会の部外者を装うか、教義と関係ない部分をツッコむかです。

親鸞会が外道だと馬鹿にしている他の宗教信者でさえ、自分は○○教、●●宗の信者だと答えます。自分の信ずる宗教、またそれを信じている自分に自信を持っているからです。なら尚更、「唯一絶対にして真実の宗教」を信じていると豪語する親鸞会の会員ならば、堂々と自分の信ずる宗教を明かし、真実の宗教の教義を示して邪義を破邪顕正すればよいのです。それができない時点で彼らの敗北は決定しています。


さて、この記事での自称「元会員」の愚かな書き込みによって勝負は着いたようです。

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諸善を信心決定するのに関係あると思ってやっているあなた方は一向専念無量寿仏になっていない。実際は高森教の組織拡大活動ばかりだから、ほとんどは諸善でもないけどね。

「一向専念無量寿仏」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」
2019-01-14(07:08) : 淳心房

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と私が書いたことに関して、揚げ足取りのつもりだったのでしょう。「元会員」が

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貴殿方の信仰では

一向専念無量寿仏に五正行ははいるが?
2019-01-14(07:27) : 元会員

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と書き込んだことが決め手となりました。以下、笑笑さんと元カルトさんのコメント。

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いきなり五正行とは。

ということは少なくとも雑行に関しては一向専念無量寿仏にははいらないとみとめたわけだ。

高森会長 一向専念無量寿仏に雑行は入る

これを完全否定したんだな否定したんだなp
2019-01-14(10:10) : 笑笑

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さすがカルト高森教の現役信者だ(笑)

まず
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「一向専念無量寿仏」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」
2019-01-14(07:08) : 淳心房 URL : 編集
*************************************************

という意見に対して

*************************************************
貴殿方の信仰では

一向専念無量寿仏に五正行ははいるが?
2019-01-14(07:27) : 元会員 URL : 編集
*************************************************

と返したのだが、この時点でアウト。

真宗において「諸行」「諸善」「万行」とは、雑行を意味しているので、

「一向専念無量寿仏」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」
             =「雑行を廃してただ念仏を用いる」

ということで、正行は入っていない。
にも関らず正行を無理やり入れた理由は、

○「一向専念無量寿仏」について

高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

これを完全な間違いと認め、最終的かつ不可逆的な結論となったんだよ。


因みに助業は、正業と近しい関係にあるから、助ける業、と言われ、念仏に付随するということで、念仏に含めて言われることもあるが、助業に心が掛かっているとそれは雑修となるので、捨てよになる。

あくまで念仏一行で、そこに念仏に付随した助業は認めるが、付随しないで、念仏と同列だったり単独では認めないのが真実の信心。

カルトの信者には関係ない話だね。

元会員さんと合意に至った最終かつ不可逆的な結論

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○「一向専念無量寿仏」について

高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

は完璧な間違いである。

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2019-01-14(11:59) : 元カルト

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一向専念無量寿仏」に「雑行=諸善」は入らないことを認めないと、あのような愚かなコメントにはならないということです。高森顕徹会長は、信心決定を目指して、「一向専念無量寿仏」の身になるために「諸善=雑行」を勧めています。「一向専念無量寿仏」に「雑行=諸善」は入ることを言わないと、高森会長の主張とは合致しません。それをしないということは、高森会長の邪義は邪義であると認めたと同じです。

また、正業と助業の関係についても元カルトさんご指摘の通りで、「元会員」はその後負け犬の遠吠えコメントを繰り返すのみです。「元会員」となってもいつまでも邪義から離れられないで、哀れ哀れです。

これを読まれている親鸞会会員の皆さんは、肝心要の教義が間違いだらけだから本願の救いに遇えないのは当然の結果だということをよく知って頂きたいと思います。そして一日も早く邪偽の宗教から決別し、浄土真宗の正意に基づいて本願を信じ念仏して頂きたいものです。


それと理想論者の「名無し」さん、いつまでもじらさずに

信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ

と教えられた聖教の根拠を早く出して下さい。あるならすぐ出せるはずです。お待ちしています。

嶋田さんの遺された数々のお言葉達こそ、嶋田さんの還相回向のご活躍そのものではなかろうか

二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。「証文類」還相回向

【現代語訳】
二つに、還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれることである。

如来二種の回向のうち、親鸞聖人は還相回向についてこのような書き出しで教えておられます。

還相とは「還来穢国の相状という意。往生成仏の証果を開いた者が、再び穢土に還り来て、他の衆生を教化して仏道に向かわせるすがた。」とのことです。往相回向の利益によって真実報土へ往生し、この上ないさとりを開いた者が、そのさとりの必然として展開される、娑婆世界へ還来しての衆生済度の活動のことです。

その根拠として聖人はまず天親菩薩の『浄土論』より

『浄土論』(四二)にいはく、「出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく」と。{以上}

というお言葉と、続いて曇鸞大師の『浄土論註』より

『論註』(下 一〇七)にいはく、「還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を度せんがためなり。このゆゑに、〈回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり」と。

というお言葉を引文されています。

還相というのは、浄土に生れた後、自利の智慧と利他の慈悲を成就することができ、迷いの世界に還ってきてすべての衆生を導き、みなともにさとりに向かわせることである」というのです。浄土へ生まれた者の、その後の衆生利益、衆生済度の活動ということです。

その後、様々な御文が示されますが、要は

浄土に往生してさとりを極めたものが、証果の必然として無縁の大悲を起こして衆生済度のため菩薩となり、あるいは、他方世界にあって釈尊のような仏陀のすがたを示現して説法し教化していく」(

という、浄土に往生した者の、種々の利他の活動相が顕されています。そして最後には

しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。「証文類」総結

と締めくくり、自利も利他も共に阿弥陀仏の本願力の回向によって恵み与えられるのだと教えられています。


以上、還相回向は浄土往生し、成仏した者の、その後の衆生済度の活動だということはわきまえております。ここからは、その上での淳心房の勝手な味わいです。

では今まで浄土へお還りになった善知識方や御同行方の、数々の書き残されたお言葉や伝えられている言動は一体何だろうか。実はこれこそ、善知識方や御同行方の還相回向の活動そのものではなかろうか。私にはどうもそのように思えてならないのです。

だってこんなにも有難い。こんなにも沢山の、後の世の人々に影響を与えている。その人達はもうこの世を去ってしまっているが、今なおもこの世にとどまって私達に教えを説き続けている。そのおかげによって淳心房は、如来興世の正意、阿弥陀仏の本願を知り、本願成就の南無阿弥陀仏に遇わせて頂くことができた。ですから、これは善知識方や御同行方の還相回向の活動と言っていいのではなかろうかと思うのです。

昨日の記事で言えば、『私の白道』『あなたの白道』に記された嶋田さんの数々の書き残されたお言葉です。嶋田さんの遺された数々のお言葉達こそ、嶋田さんの還相回向のご活躍そのものではなかろうか。

勿論、以前はそんなことは考えませんでした。しかし嶋田さんが往生し、この世を去られて、改めて私の過去のお育てを振り返ってみるに、あの時嶋田さんが『私の白道』を著して下さらなかったら、私は親鸞会の教義の誤りに気付かなかったかも知れない。未だに「平生業成」の看板を掲げた「死ぬまで求道」の教えに迷っていたかも知れない。であれば、私は今の私とは全く別の運命を辿っていた。親鸞会の教義にも自分の無力さにも絶望し、自ら死を選んでいたっておかしくはない。そう考えると、実はあれこそが嶋田さんが淳心房一人を助けんがための還相回向のおはたらきではなかったかと思えてくるのです。

今は嶋田さんに限って話をしていますが、嶋田さんだけではありません。釈尊、七高僧方、親鸞聖人、蓮如上人、その他有名無名の知識方、同行方、数え切れない沢山の方々の書き残されたお言葉が、今もなおこの世にとどまって、私に教えを説き続けている。その徳音によって、今私になんまんだぶが届いた。そうであれば、みな淳心房一人を済度せんがための還相回向のご活躍であったと言っていいのではなかろうか。

近藤元講師にしてもそうです。梯實圓和上にしてもそうです。皆々、淳心房一人に如来二種の回向を教えて、またこの尊い教えを弘めてくれよと言い残して還られた菩薩方ではなかろうかと思えてくるのです。


少し、いや大分、教義に外れたことを申し上げました。以前から思っていたのですが、嶋田さんの一周忌を機に述べさせて頂きました。同心される方、異論・反論のある方、様々おられましょうが、当記事で私の書いたことに納得頂かなくて結構でございます。私はこのように味わっている、それだけです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

嶋田久義元講師のご往生より早や1年

『あなたの白道』一周忌

の記事をご覧になった方も多いと思いますが、嶋田久義元講師のご往生より早や1年です。

直接のご縁としては華光会館で一度見かけて少々話をさせて頂いた程度なのですが、ブログ

『私の白道』

が私に与えた影響は非常に大きいです。このブログによって、親鸞会教義の誤りと高森会長や幹部講師らの実態を知らされ、また本願に救われた世界があるんだ、実際に私も救われるんだと勇気づけられました。この場を借りて、嶋田元講師に深く感謝の意を表したいと思います。本当にありがとうございました。おかげさまで淳心房、本願を信じお念仏を申して、浄土を期として願力の白道を歩む念仏行者とさせて頂きました。

現在は還相のご活躍をされていると思いつつ、私も一人でも多くの方に親鸞会教義の誤りと、正しい浄土真宗の教義・安心を知って頂きたくブログを続けていきたいと思います。嶋田元講師、どうぞ仏の大慈大悲をもって未だ迷っている有縁の方々を導いて頂きたいです。


さて、嶋田元講師はブログを読まれれば判ると思いますが、中央仏教学院の通信教育で勉学に励まれ、寺の僧侶として南無阿弥陀仏の六字のこころをお取次ぎする人生を歩もうとされる半ばで病魔に襲われました。

どれほど、今日を生きて法を伝えたかったであろうかと、その無念を思うとつい涙ぐんでしまいます。

朝3時に起きて 新聞配達をして 6時から昼3時まで豆腐屋で製造の仕事をして、夕方 5時30分から 葬儀社の駐車場の係りを 2時間してと1日 10時間は働きました 。第6章 ②

還暦を過ぎてこのような生活をし、合間に勉学されていたというのですからものすごい根性です。対して自分の不甲斐なさ、根性のなさに我ながら情けなくなります。あれは先週の金曜日、何とかその日に来た大量の荷物を片付けて、疲労困憊の中で会社に戻ろうと車を走らせていたそんな折、

『radico.jp』タイムフリー HOT69(1月18日まで。ただ無料で聴けるのは主に関東地域限定かも知れません)

の、開始3分ちょっとで流れる

BRAVE feat. Toshl(X JAPAN)

という曲が耳に入り、その中の

俺が死にてぇと思った今日は
奴が死ぬ程生きたかった明日
我に返り蹴飛ばすヴァース
奮い立つ


の部分に、「そうだ、今日という日は嶋田さんが死ぬほど生きたかった、生きて法を伝えたかった明日なんだ」と勇気をもらいました。またその後の、闇を打ち消すように力強く響くToshiさんのハイトーンボイスに、俺も現状に負けずに立ち向かってゆこうと元気づけられました。

よく、仕事が忙しすぎて家と会社の往復しかしてないなという時は、今日という日は何の意味があったのかな、いたずらに費やしてしまっただけなのかなと思ってしまうのですよ。最近は「死にてぇ」までは思いませんけど、やはり生きることの意味と死ぬことの意味をよく考えます。

私は仕事に1日の半分以上の時間を取られます。命の半分は、お金という対価の代わりに会社に捧げているようなものです。仕事で既にクタクタ、それでいて妻も小さい子供達もいるので、思うように法話を聞きに行ったり、勉強したりという時間が中々持てません。非常に厳しい中ですが、少しは嶋田さんのそういった生きざまを見習って、ブログの題に掲げた通りのことが実行できるように努めていきたいと思ったのでした。


未だ読まれたことの無い方は、親鸞会の実態を知る上で

『私の白道』
『あなたの白道』

を一読されることをお勧めします。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『歌ねっと』AK-69 BRAVE feat. Toshl(X JAPAN) 歌詞

「一向専念無量寿仏」や「雑行」の意味くらい押さえてから物を言いましょう

相変わらず自称「元会員」やその他のコメントが続いています。相手をして下さっている元カルトさん、お忙しいところありがとうございます。非常に的確なコメントで、負け惜しみしか言えない相手の反応は実に滑稽です。私がネットを閲覧できる時間が限られているので、大変助かります。この場を借りてお礼申し上げます。


さて、愚かなコメント群の中で彼の無知、誤解ぶりとその正しい意味について紹介していきます。まずは、

――――――――――――――――――――
よき人のおうせ

釈迦 一向専念無量寿仏

親鸞聖人 一向専念無量寿仏

高森会長 一向専念無量寿仏
2019-01-12(14:08) : 元会員

――――――――――――――――――――

というコメントに関してです。「一向専念無量寿仏」の意味すら知らないようなので再度取り上げます。なお、詳しくは以下の記事に書きましたので、そちらも参照して下さい。

「一心一向に弥陀をたのむ」=「一向専念無量寿仏」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」


一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。(中略)

すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。
『選択本願念仏集』三輩章 廃立

親鸞会では「一向専念無量寿仏」と煩いわりに

阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩・諸神を捨てて、阿弥陀仏一仏に向かうこと

だと思っている会員ばかりです、それは誤りも甚だしいです。

諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向」ですから、

阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩・諸神に加えて、諸行諸善を捨てる。弥陀一仏の悲願(18願)に帰し、往生行にはただ念仏一行を専修する

ことを「一向専念無量寿仏」というのです。

一向専念無量寿仏」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる

ということです。高森会長のように、宿善が厚くなる方法として「五正行の実践」「六度万行の実践」とか言って助正間雑雑行をやらせていたら、「一向専念無量寿仏」どころかその真逆です。そしてその実態は聞邪義、弘宣邪義、献金、服従といった「高森の行」ですから、そんな高森教の邪義を盲信している会員がいつまでも「一向専念無量寿仏」できないのはごく自然のことです。


このことを知らないばかりか、雑行に関しても相当に無知なようで、次のような愚かなコメントをしています。

――――――――――――――――――――
雑行に二種有るの知らないみたいね!現役カルトさん
2019-01-12(17:25) : 元会員

――――――――――――――――――――

元カルトさんのご説明通りですが、こちらも聖教のお言葉を挙げておきます。

次に雑行は、すなはち文(同)に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。

第一に読誦雑行といふは、上の『観経』等の往生浄土の経を除きてのほかの大小乗顕密の諸経において受持し読誦するをことごとく読誦雑行と名づく。
第二に観察雑行といふは、上の極楽の依正を除きてのほかの大小、顕密、事理の観行をみなことごとく観察雑行と名づく。
第三に礼拝雑行といふは、上の弥陀を礼拝するを除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において礼拝恭敬するをことごとく礼拝雑行と名づく。
第四に称名雑行といふは、上の弥陀の名号を称するを除きてのほかの自余の一切の仏・菩薩等およびもろもろの世天等の名号を称するをことごとく称名雑行と名づく。
第五に讃歎供養雑行といふは、上の弥陀仏を除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において讃歎供養するをことごとく讃歎供養雑行と名づく。

このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。
『選択本願念仏集』二行章

雑行」=「正助二行を除きてのほかの自余の諸善

です。「雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず」、雑行は無量にあり、ことごとく説き尽くすことができないというのです。それで、例として五種の正行に対して五種の雑行が説かれているのです。雑行の中に五雑行と諸善万行とがあるとか、五雑行は心も行為も間違いだが、諸善万行はやらねばならないというものではなく、無量にある「雑行(諸善万行)」のほんの一例が「五雑行」で、往生行としては共に捨てるべき行ということです。

そして、挙げた最後の文に着目です。

布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。

高森会長が「六度万行の実践」だとか言って勧めている「布施」や「持戒」も「雑行」だというのです。ですから、高森会長の教えはよくて雑行の勧め、実態は雑行にもならない悪業悪行の勧めということが明らかです。こんなもの、浄土真宗でも何でもありません。浄土真宗と名乗らず、高森教とでも改名すべきです。


「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む


雑行について

親鸞聖人 五正行以外の全ての諸善万行。五雑行と共に往生行としては捨てるべき行
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高森会長 五雑行と諸善万行とがある。五雑行は心も行為も間違いだが、諸善万行はやらねばならない




一向専念無量寿仏」や「雑行」の意味くらい押さえてから物を言いましょう。なおも恥の上塗りをしたいのならどうぞご勝手に。これによって親鸞会教義の誤りに気付いてくれる会員がいれば、喜ばしいことです。彼のコメントは他にもツッコミどころ満載なので、時間があれば他のコメントに関してもツッコんでいきたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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