身も心も喜びに満ち溢れた「歓喜」ではなく、二心なき本願力回向の「信心」が清浄報土の真因

最強寒波の影響で、日本全国どこも凄い冷え込みです。関東平野部は風雪こそありませんが、氷点下まで冷え込み、今年一番の寒さとなりました。昨日は京都や広島も積雪したというですから、北陸の積雪量は推して知るべしです。その中でも日曜日は高森顕徹会長の話があったそうですが、内容としてはアニメ映画『なぜ生きる』の蓮如上人の台詞

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります。」

この中、「幸せな人生にガラリと変わります」とあるが「どうガラリと変わるのか?」という質問に答えるというものだったそうです。話の中で、明法房弁円が歌ったとされる

山も山 道も昔にかはらねど かはり果てたる 我こころかな

の歌を出して話があったようです。

この歌は、親鸞聖人を殺そうと付け狙っていた者が教えの広深さに感服し、転じてお弟子の一人となった明法房のドラマティックな半生を歌ったものと言えます。本願を信じ念仏して喜ぶ幸せな人生に変わったことに違いはないでしょう。ただ、あくまで明法房自身のことであって、万人に当てはまるものと言えるかは定かではありません。それにこの歌だけでは明法房の心のどこがどのように変わり果てたのかが不明です。もし「高森顕徹会長の深いミココロで分かる」とでも思っているなら、その人は相当深くマインドコントロールされているでしょう。


他力の信心を得ても煩悩は変わらず満ち満ちていることは、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(一念多念証文)

とあることで分かりますし、そんな煩悩の雲霧でどれだけ覆われていようと浄土往生の妨げとはならないことは

よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。(正信偈)

と教えて頂きます。もし獲信のタイミングで「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」というなら、煩悩が少しも変わらないというのは考えられません。また、そんな分かりやすい浄土往生の証拠はないでしょう。報土の真因は、このように「人生(心境)がガラリと変化したこと」としてよいはずです。ところが、

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。(信文類)

【現代語訳】
ところで『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。「歓喜」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至」というのは、多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。「一念」というのは、信心は二心がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなわち清らかな報土に生れるまことの因である。

とあるように身も心も喜びに満ち溢れた「歓喜」ではなく、二心なき本願力回向の「信心」が清浄報土の真因だと教えられています。大いに喜びが有るから報土往生とか、喜びが少ないから報土往生できないとか、喜びの有無・大小によって報土往生か否かが分かれるとは言われていません。あくまで本願を二心なく信じているかどうかで報土往生か否かが分かれるのです「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」とか変わらないとかで報土往生が決まるのではありません。


「ガラリと変わる」というような物凄い心境の変化、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない

にも書きましたが、親鸞会では「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」ことをもって浄土往生の証拠としている節があります。逆にそのようにガラリと変わらないのは、まだ獲信していないからだと言うからです。そして会員は、いつしかこのような物凄い心境の変化、幸せの人生にガラリと変わることを目的にするということになってしまいます。これでは現世利益を追い求める新興宗教と何ら変わりません。

浄土真宗は、衆生を漏らさず浄土往生させるという阿弥陀仏の崇高な願い、それを果たし遂げる行が納まった南無阿弥陀仏の大功徳を回向せられ、それにより我らが往生成仏してゆくということが教えられています。私の苦しみの人生を幸せの人生にガラリと変えるということではないのです。そのような変化を追い求めるのではなく、阿弥陀仏の崇高な願いの言葉を計らい無く信じ受け容れ念仏することが大事です。これが本願のお心に叶い、善知識方の恩徳にも報いることになります。会員の皆さんには、現世利益で釣らなければ聞く者のモチベーションを維持できないような団体から離れ、本当の浄土真宗を聞かれるように願います。
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定散二善を修するのは、界王拳20倍でも不可能です

1月のくせに、何この物量・・・(-_-;)
祝日の絡みや寒波による風雪等の影響があるとは言え、取扱量が年末同然です。加えて人手不足、ドライバーの力不足で押し寄せてくる物量に完全に負けています。よく老人なんかは「忙しい方が良い」などと言いますが、それは後で人生を振り返っての話でしょう。今の苦しみの前には、そんな言葉は何の力にもなりません。現状が苦しい、思うようにいかないと、何かにすがりつくように現世利益を謳う宗教や怪しい物品販売等に引っ掛かりがちです。それらが流行るのも分かる気がします。


さて、松岡修造と並んで私が元気をもらいたい時によく見るのが『ドラゴンボール』です。現在自分の住まいでは日曜朝9時からテレビで『ドラゴンボール超』が放映されています。ヒット戦で見せた界王拳には「おぉ!」と思いましたが、やはり個人的には『ドラゴンボールZ』の時の悟空vsフリーザ、悟空vsセルとかの方が好きだったかな。中でも自分が一番好きなのは、フリーザ編での界王拳20倍のシーンです。

『ニコニコ動画』20倍界王拳かめはめ波
※ドラゴンボールZ版です。
AniTube 『ドラゴンボール改45話』 20倍界王拳だ! すべてを賭けたかめはめ波
※20倍界王拳は13分当たりから。個人的にBGMはこっちの方が好きです。AniTubeはYouTubeと違って危険なコンテンツが含まれる場合があります。視聴の際はご注意下さい。あ、健全な男性の皆さん、くれぐれも周りのエロサイトをポチっとしちゃダメですよ(笑)

私はガテン系の仕事柄、時にはフルパワーでやってもダメかもという時があります。土曜の午前中は、毎週時間指定の荷物を回り切れるかいつも冷や冷やしています。土曜の午前中に荷物が集中すること位わかっているのに、人数を増やすわけでもなく、出勤時間も同じ。それで時間内に間に合わせろというんですから、ドブラックな会社です。そしてこんな事を何十年と繰り返してきて一向に変えるつもりがないんですから、学習能力のないバカな会社です。ただ、私も金にならない仕事はしないので、間に合わなくてもしゃあないかという気持ちでいつも通り出勤していつも通り仕事をしています。
ただ、間に合わなくて頭を下げたくないので、よく朝から現場へ向かう車中で「20倍界王拳に賭けるしかねぇ!」と自分を鼓舞しています。技の特性として、無理をすると後で体力をごっそり持っていかれるという点からも、界王拳はある意味現実にマッチしています。34のオッサンが何をと笑うかもしれませんが、そう言えば当時の悟空も年齢的には30前後、妻子持ちなのでそんな変わらんかとも思います(笑)


どこから手をつけるか、どのように回るか。本当にヤバい時はド真剣に目の前の荷物と向き合っている私ですが、ただそういう真剣さで常に聖道門の修行や定散二善に取り組んだとしても、やはり本当の意味で修めることは不可能でしょう。行自体は諸仏成仏の行業であり、修める心も清らかなまことの心、さとりや往生を願う心でなければなりません。煩悩具足の人間が世俗の世界に生きてある限り、そんな心を保つことも、修行をし続けることも不可能です。

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。(信文類)

【現代語訳】
ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。

余談ですが、仕事に真剣に取り組んでいる時といっても、不在をくらったり相手が自分の思う通りに動かなかったりすれば怒り腹立ちの心が噴き上がりますし、心は常に散乱粗動で全く定まりません。それに「荷物を待つお客様のため」という立派な心はさらさらなく、あくまで「自分のため」「怒られたりクレームを貰ったりしたくない」「頭を下げたくない」という自己中心的な心です。「私の真剣」というのは所詮その程度だということです。

では、このような私がどうして助かるかと言えば、阿弥陀仏が真実清浄の真心でもって不可思議兆載永劫の間御修行されて成就された南無阿弥陀仏の大功徳を回向せられるより他にありません。

なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

【現代語訳】
なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

第一、隣のコースの女の子一人満足に助け切ることができない体たらくでは、如説に修行することも、修行を長期間継続して証果を得ることもできないでしょう。そのような機根が劣悪な私は、素直に南無阿弥陀仏の大善大功徳に心身を委ね、往生をお任せするよりないのだと知らされます。


確かに獲信の現在から過去を振り返れば、あのように苦しんでいたのも阿弥陀さまのお育てであったのだろうなと思われますが、これから獲信して往生を願おうという人に19願や定散二善、諸善万行を勧めるというのは本願に背き、釈尊や善知識方の教えに違反しています。親鸞聖人の教えに、「獲信・往生のために19願を実践せよ、定散二善を修せよ、諸善万行を修めよ」という珍説は存在しません。もしこれに異論があれば、

「獲信・往生のために19願を実践せよ、定散二善を修せよ、諸善万行を修めよ」

と教えられた具体的・直接的な根拠の提示を求めます。あくまで親鸞聖人のお勧めは、

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。(総序)

【現代語訳】
煩悩に汚れた穢土を厭い、清らかな涅槃の浄土を願いながら、自力のはからいをまじえて本願を疑うから、歩むべき行道に迷い、まことの信心の何たるかを知らずに惑い続け、心は迷妄に閉ざされて暗く、さとらねばならない大切な事柄についてはあまりにも無知であり、しかも身に具えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ浄土往生を勧めたまう釈迦如来の発遣を仰ぎ信じ、最も勝れたさとりへの道である本願に帰依して、如来よりたまわったこの行にひたすら奉え、ひとえにこの信心を崇めなさい。

とあるように選択本願(第十八願)の行信、すなわち南無阿弥陀仏一つ、念仏一つです。

所詮は、組織からしたら私は歯車の一つでしかなく、代わりなどいくらでもいる

12月の最繫忙期に、突然何人かのベテランの同僚が来なくなり、残された我々には更なる負担がのしかかって本当に辛かったです。どうせ辞めるなら辞表を出して正当な手段で辞めてほしかったですが、彼らにはもはや四の五の言ってられない辛さ、やり切れなさ、不満うっぷんが溜まっていたのでしょう。悪いことをしたのは間違いないが、その気持ちだけは十二分に分かります。自分もこの前、前日分の未配達の荷物がゴロゴロある状態で、しかも隣のエリアを一部くっつけられるということをやらされました。1月だというのに年末に戻ったようです。上司や同僚に恵まれない職場環境は本当に辛いです。

さて、突然開いた穴を埋めるのは実に大変でした(現在も欠員状態で回している状態で大変です)が、それも日が経つにつれて会社は順応していきます。別にその人でなければダメというわけではなく、代わりなどいくらでもいることを改めて知らされました。

Mr.Children「くるみ」Music Video

に出てくる歌詞が思い出されます。

良かったことだけ思い出して
やけに年老いた気持ちになる
とは言え暮らしの中で
今 動き出そうとしている
歯車の一つにならなくてはなぁ


所詮は、組織からしたら私は歯車の一つでしかないのです。どれだけ会社、組織に尽くしてきた人でも、「その人でなければダメ」という人は極々わずか。一般社員の一人や二人、その人の抜けた穴を埋める手段はいくらでもあります。会社や組織、仕事に生きがいを見出す人もありますが、入れ込みも程々にしないと痛い目を見ることになるかも知れません。


親鸞会でも同じ事です。組織からしたら、別に自分じゃなくても、自分と同程度か、それより多くのお布施を出し、多くの人を勧誘する人がいれば、自分は居ても居なくてもどっちでもいいのです。上司にしても、不満や愚痴をぶつけてきて大した働きをしない人よりも、何も言わず黙々と成果を上げてくる人の方が好き(好都合)に決まっています。

高森先生は皆さん一人一人の後生を案じておられます。

などとよく言われますが、間違ったことばかり説いて真に会員に獲信・往生させようという気がないのですから、そんなのは口先だけだと見抜けます。因果の道理や廃悪修善、19願ばかり教えて肝心かなめの南無阿弥陀仏の六字のこころを正しく説かないようでは、会員はいつまでも自力疑惑の範疇を出ません。否、やっていることがまこと仏説にそぐう行ならまだしも、会への献金・勧誘、会長や上司への無条件服従といった善もどきの善では仏教にもなりません。

組織からしたら、自分は単なる構成員の一人、組織拡大要員の一人であることに気づいたら、高森信心のマインドコントロールからはほぼ脱したも同然です。後は教義の誤りと正しい親鸞聖人の教えを知れば、心身共にエセ真宗から解放されるでしょう。後生を人質に取られ、必堕無間の呪縛に怯える生活に、会員の皆さんはそろそろ終止符を打ちませんか?

救われるのは○○してからであって今ではない

「因果の道理」が、仏教の根幹の教えですから、「因果の道理」が分からないと、親鸞聖人の教えは、全く分かりません因果の道理と親鸞聖人の教え

「因果の道理」がどの程度分かったら親鸞聖人の教えが分かるかどうかは不明ですが、親鸞会では

救われるのは「因果の道理」が分かってからであって今ではない

ということが言えます。


「善因善果 悪因悪果 自因自果」の厳然たる因果の道理を知らされた者は、必ず「廃悪修善」の心が起きる。弥陀の19の願意

どの程度「廃悪修善」の心が強く起きたらかは不明ですが、親鸞会では

救われるのは「廃悪修善」の心が起きてからであって今ではない

ということが言えます。


真剣に善をしようと努めると、まことの善のできない姿が知らされる。弥陀の19の願意

つまり「真実の自己」が知らされるということですが、親鸞会では

救われるのは真剣に善に努め、まことの善のできない姿が知らされてから(「真実の自己」が知らされてから)であって今ではない

ということが言えます。


・「後生の一大事」とはどんなことかを知らなければ、仏法は何十年聞いてもわかるものではありません。後生の一大事について(1) 親鸞会.NET仏教講座
・仏教はこの地獄必定の一大事に驚き、この一大事の解決で終るものと教えられています。
・法鏡に映し出された真実の自己を知らされたとき、誰しも脚下に渦巻く必定地獄の一大事に驚かずにおれないでしょう。
後生の一大事について(2) 親鸞会.NET仏教講座
・「後生の一大事」が分からなければ、これを「必ず救う」と誓われている 「弥陀の本願」も分からないし、その弥陀の本願一つを説かれた「仏教」も「浄土真宗」も、何にも分からないのも当然なのです。後生の一大事について(3) 親鸞会.NET仏教講座

何十年聞いて「後生の一大事」「地獄必定の一大事」が分かり、それに驚くのかは不明ですが、親鸞会では

救われるのは真実の自己が知らされ、地獄必定の一大事に驚いてからであって今ではない

ということが言えます。


後生の一大事に驚いてようやく19願の軌道に乗る(縦と横の線の図で言う、黒板の右端に立つ)

出拠元がありませんが、過去の「三願転入」の教学講義などから高森顕徹会長はこのように話していました。いつもは黒板の右端は「仏教の聞き始め」だと言いますが、実際は「因果の道理」が深く分かり、「廃悪修善」の心が強く起き、「真実の自己」が知らされ、「地獄必定の一大事」に驚きが立ってからでなければあの図で言うスタートラインには立てないようです。

救われるのは後生に驚きが立ち19願の軌道に乗ってからであって今ではない

ということが言えます。


・「この十八願に誓われた絶対の幸福、無碍の一道に出るには、十九、二十願の道程を通らなければならないことを発見し、教導なされたのが親鸞聖人です」(『こんなことが知りたい4』p.110)
・「十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する、十方衆生の道程」(『本願寺なぜ答えぬ』p.155)


色々とツッコまれて三願転入は心の道程などと誤魔化す場合もありますが、親鸞会では

救われるのは19願・20願(特に19願)の実践をしてからであって今ではない

ということが言えます。


真面目に力一杯、善行をやってみて知らされるのは、少しもやまない悪と微塵の善もできない自己の実態に絶望するのです。そんな人に誓われた弥陀のお約束が二十願です。三願転入とは、どんなことか

真面目に力一杯なんて、人によって全く程度が異なりますが、親鸞会では

救われるのは真面目に力一杯、19願の実践をして少しもやまない悪と微塵の善もできない自己の実態が知らされ絶望してからであって今ではない

ということが言えます。


一心不乱に、念仏を称えようと努めるのですが、称え切れない散乱懈怠の心ばかりが見えてきて、こんなことでよいのだろうかと不安な心が出てくるのです。三願転入とは、どんなことか

(親鸞会理論でですが)19願から20願に回入した人が一心不乱に念仏を称えようと努めるが、散乱懈怠の心ばかりで称え切ることができないと不安な心が出てくるとのことです。ですから親鸞会では

救われるのは一心不乱に念仏を努めて称え切れない自分であると知らされてからであって今ではない

ということが言えます。


このように、親鸞会では

救われるのは○○してから

という関門がいくつもいくつも設けられていて、とてもではありませんが只今、ここにいる、このままの自分が救われることはないようです。そして、親鸞会で言われる獲信までの道程を進むには、この先何年も、何十年も生きていられること、その間求道心を保ち続け、継続して十分な活動ができることが前提です。

今日や明日にも死が迫っている人はアウトです。怪我や病気などで身動きすら難しい人もアウトです。普段の生活費や活動費に加え、度重なる募財にも献金できるほど財力がある人でないとアウトです。何年聞いても廃悪修善の心が弱い人もアウトです。勧誘活動に積極的に参加しないような人はアウトです。上司の指示にロボットのように無条件に従える人でなければアウトです。まだまだアウトの条件はあると思います。

で、会員の皆さんは、正直なところ上に挙げた様々な条件をどれだけクリアしているでしょうか? 恐らくですが、進んだ気になってもよくよく自分の心に問いかければ、相変わらず廃悪修善の心が弱く、因果の道理が本当に知らされたとは言えないというのが実態ではないでしょうか? まだまだ先にいくつもの関門が立ちはだかっているのですよ? いつまで生きているつもりですか? いつ助かるつもりですか?

全ての人が救われるたった一本の道」だとか言いながら、注文の多い料理店よろしく、親鸞会では救われるまでには何重もの条件・注文が付いています。また、信心決定、絶対の幸福という素晴らしい御馳走を提供すると見せかけて、会員はそれが獲られると信じ、言う通りに行動し、そしてまんまと組織拡大要員として利用されてしまいます。これでは「全ての人が救われるたった一本の道」ではなく、

高森会長の私利私欲が満たされるたった一本の道

と言い換えた方が適当でしょう。

浄土真宗には、親鸞会で言う「横の線」に該当する教えはありません。本願に救われるのに私達が「○○しなければ救わない」という条件もありません。ただ本願の仰せ、「助けるぞ」を仰せの通りに「ハイ」と頂くだけであります。これだけです。ですから、今日や明日にも死が迫っている人も、生活するだけで手一杯という人も、寝たきりになってしまった人も、廃悪修善の心が無いような人も、顕正活動に消極的な人も、上司の指示には面従腹背の心しかない人も、その他どのような条件の人も、浄土を願い阿弥陀仏に救われたいと思う人なら、只今この場で、何も変わらないままの私が本願に誓われた通りに救われます。

無常を感じ、真剣に阿弥陀仏に救われたいと思う人は、一向に助からない、解決の糸口すらつかめない現状にもっと疑問を持ち、正しいと信じている今の教えは本当に正しいのか、自分の人生を賭けるに値するのか、教えの真偽を検証して頂きたく思います。

阿弥陀仏の本願の言葉を疑いを交えずに聞き受けていることを「信楽」という

今年の親鸞会の初聞法会は、アニメ映画『なぜ生きる』の蓮如上人の台詞

「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」

を演題として話がなされたそうです。その内容は、既に

これまでの主張を修正するも、誤魔化せないほどおかしい高森邪義

にも紹介されているように本願文と本願成就文の話です。

「若不生者」の「生」を”信楽に生まれさせる”とする解釈にまた戻りました

にありましたが、「若不生者」の「生」を”信楽に生まれさせる”とする従来の解釈でこの度も説明したとのことです。「若不生者」の「生」については最近当ブログでも

「なにごともなにごとも」は口だけの高森顕徹会長

にて触れています。その解釈のおかしさについては『飛雲』をご覧頂くとして、今回当ブログでは

「信楽」の「信」は明るい心、「信楽」の「楽」は楽しい心

とする解釈は適切なのか、親鸞聖人のお言葉を通して見ていきたいと思います。


「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。
(尊号真像銘文)

このことから「信楽」とは、

阿弥陀仏の本願が真実であることに疑いが無い

ということだと分かります。阿弥陀仏の本願の言葉を疑いを交えずに聞き受けていることを「信楽」というのです。そしてそれは「凡夫自力のこころにはあらず」ですから我々凡夫が自力で起こす信心ではなく、如来より与えられる他力回向の信心です。このことは「信文類」にも、

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。

【現代語訳】
次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。それで、これを信楽というのである。すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。

とある通りです。この後、「信文類」では機無・円成・回施の解釈を施されていますが、要は真実清浄の心は全く無く、果てしない過去から迷いを重ねてそこから離れることができない我々に、阿弥陀仏が五劫永劫の御修行を経て南無阿弥陀仏の六字の名号を成就され、それを私達に施し与えて浄土に導こう、私達を救おうとなされているということです。こうした南無阿弥陀仏の六字のこころ、すなわち「仏願の生起・本末」を聞いて疑いが無いことを「信楽」というのでした。

ですから、「信楽」とは「我々の心を明るく楽しい心にする」ということではないのです。真実心のカケラもない者に真実心を与える、その真実心が「信楽」であり、真実心を賜って本願の仰せを疑いなく聞き受けた状態、それを「信楽」というのです。所詮は我々の心は煩悩に穢れた不真実なもの、嬉しい楽しいという感情も煩悩の範疇を出ません。コロコロ変わり通しであり、順境には感謝できても逆境が続けば「何で俺だけこんな目に・・・」という感情は禁じ得ません。この変わり通しの我々の心は、本願を信受しようがしまいが死ぬまで変わりません。そんな心をどうこうするという程度の話ではないのです。

このように「信楽」の意味を親鸞聖人のお言葉を通して見てきましたが、そうすれば「若不生者」の「」が「信楽に生まれさせる」という解釈が如何にヘンテコなものかお分かり頂けると思います。既に本願の仰せを疑いなく聞き受けて「信楽」になった者を更に「信楽に生まれさせる」のでしょうか?

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

親鸞聖人の解釈をよくよくご覧下さい。たとえ納得がいかないことでも、親鸞聖人のなされた通りにする人が「親鸞学徒」だそうですが、親鸞聖人の解釈を無視して高森会長の解釈を受け容れるようなら最早その人は「親鸞学徒」ではなく「高森学徒」でしょう。早く「親鸞学徒」になられるようにお勧めします。


我々の心を明るく楽しい心にする」とか、こうした現世利益で釣らなければ会員のモチベーションを維持できないことは度々述べてきました。では、「信楽」を得たら、我々の心は変わるのか変わらないのか。私は・・・

●教えを説くべし
 親鸞学徒は 自己を語らず 教えを説くべし
(『顕正新聞』平成29年1月1日号6頁)

おっとっと。とのことですので止めておきましょう。

【ツッコミ】顕正新聞2017年1月1日号「論説」

平成29年親鸞会機関紙顕正新聞・年頭所感「大悲の願船に乗じ難度海を普く照らそう」(高森顕徹会長)を読んで思ったこと。

にて、既に親鸞会発行『顕正新聞』2017年1月1日号年頭所感について述べられています。せっかくなので、私も「論説」を引いてツッコミを入れてみたいと思います。


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 平成28年は、映画『なぜ生きる――蓮如上人と吉崎炎上』が全国の映画館で公開され、多くの人々が感動に包まれた。
 富山県の「TOHOシネマズ高岡」では、29週連続上映の大記録も樹立した。

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はいはい、いつもの会員を動員してのエセ記録ね。一万年堂出版の、『光に向かって100の花束』や『なぜ生きる』といった書籍同様、所詮親鸞会製作のものは会員を動員してなんぼです。観に行った人数のほとんどは会員でしょう。しかも何回、何十回と足を運んだであろうと覗えます。100回観たら祝賀会参加資格が得られるとのことでしたし。


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 映画に描かれていたように、蓮如上人は常に、「南無阿弥陀仏」の名号を御本尊となされていたという事実である。
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あれ? 山科本願寺は木像本尊だという記述がありますが・・・。
その名号を聞いて信心歓喜したその時に往生が定まるのですから、名号本尊が一番教えを的確に表現している本尊であることは言うまでもありません。しかし、親鸞会のように木像本尊、絵像本尊を排斥するのは如何かと思います。木像にしても絵像にしても、阿弥陀仏の我らを助けずにはおかぬ無限の智慧と慈悲を形として表したものですから、共に篤く敬うべき対象であると私は思うのですが、皆様は如何ですか?

ところが、親鸞会にいると【投稿文】 第4回 「 親鸞会を退会して 講師部の皆さんへ 」にあるように、

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私が講師部を退部する10年前 台湾布教に行っていた K山講師が 突然 帰国命令が出て 講師部会合の前に 引き出され糾弾されました。
 何をやったか S 木海外本部長がこう言いましました。
「私が 海外の視察で 台湾事務所に 行ったら 事務所 の中に 絵像が かけてあった。彼が 台湾の知人から もらって かけておいたそうだ、皆 これをどう思うか」と話し終わると 嵐のような 指摘が始まった。

(中略)

本願寺は木像本尊だから、 あれでは助からん
間違っている、狂っているとまで 講師 は言います。
その感覚だから 批判が出て 遂に こんな言葉が出ました。
ある女性講師が
「そんな 気持ちの悪いものもらってきて それでも講師部なのー」 と追及しました。

「そんな  気持ちの悪いもの」
ご絵像の阿弥陀仏を「気持ちが悪いもの」発言に私は 強い 衝撃を受けました。

********************

となってしまうのです。長いので一部抜粋に留めますが、まだご覧になっていない方はぜひ上リンクに飛んで全文ご覧下さい。名号も、絵像も、木像も、形は違えど「我にまかせよ、必ず助けるぞ」のお心は少しの違いもありません。

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ご木像、ご絵像は阿弥陀仏のお慈悲をもって救済して下さる本願の心を表しているのです。

右手の 親指 人さし指を捻って お胸の前に上げられ 掌は外に 向けられています。これは阿弥陀仏が 衆生を喚びたもうことをあらわすので召喚の印といいます。
南無の心です

左手は 親指と 人さし指を捻って 下に垂らされ 掌は上に向けられています。これは 阿弥陀仏が衆生を 洩らさず救済せずに やまぬ お心を表しますので  摂取不捨の印というのです。
阿弥陀仏の心です

********************

この通りです。南無阿弥陀仏の六字の心を形で表したのが絵像、木像ですから、その六字のこころさえ心得たなら一つに固執することはないのです。それを固執しているのは、形に囚われ心を失っている証拠です。


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 阿弥陀仏の本願を明らかになされた釈迦の「本願成就文」には、「名号を聞く一念に、絶対の幸福に救われる」と説き明かされている。
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後の方では「絶対の幸福(往生一定)」などと書いてありますが、本願成就文には絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を獲させるというような文言は一言もありません。問題なのは「絶対の幸福」という言葉が抱かせるイメージです。「絶対の幸福」と聞いて会員の皆さんが想像しているような心境と、実際本願を信じ念仏するようになった心境には、大きな隔たりがあると思います。

「名号を聞く一念に、往生が間違いなく定まる」

ならまだしも、

「名号を聞く一念に、絶対の幸福に救われる」

は不適切でしょう。この世の幻想的な楽で釣らなければ会員のモチベーションを維持できないのです。


********************
 そんな人間の実態を知り抜かれた阿弥陀仏は、信ずる心(機)と助ける力(法)を一体とした六字名号を完成なされ、「そのまま受け取ってくれよ」と、今も、お呼びづめなのである。
 その南無阿弥陀仏の名号を聞信すれば、信ずる心も念ずる心もない極悪人でも、浄土往生間違いなしの、絶対の幸福になれるのである。
 なんと透徹した深いお慈悲ではなかろうか。

********************

一部、らしいことは書いてありますが、今までの会員の皆さんに染み付いている教えをかんがみるに、

「そのまま受け取ってくれよ」と聞こえるところまで進ませて頂きます

ってな思考になってしまうでしょう。で、また因果の道理、廃悪修善、19願となるのは目に見えています。

南無阿弥陀仏の六字のこころ、「我にまかせよ、必ず助けるぞ」を聞くのに、時や場所は関係ありません。どれだけ聞いてきたかとか、どれだけ財施してきたとか、どれだけ人を誘ってきたとか、その他一切関係ないです。只今、この場で、このままの私が小賢しい詮索や先入観といった計らいを交えずに聞こえたままお受けするのみです。それで往生できるように阿弥陀さまが仕上げて下されてありますから、私は何のためらいもなく南無阿弥陀仏の六字に後生おまかせするのみです。ただこれだけのことを、それにはやれ宿善だ、やれ廃悪修善だ、やれ三願転入だと、どれだけ六字のこころと無関係なことばかり聞かされ続けているのかと思うと、会員の皆さんには同情するよりありません。


以上、簡単ですがツッコミを終了します。

謹賀新年(2017年) ― 知らないことは恥ではない

昨年も多くの方々に閲覧頂いたようで、コメントも多く頂きました。皆様ありがとうございました。本年もボチボチ書いていきたいと思います。よろしくお願いいたします(__ __)


私事ですが、世の中知らないことだらけです。様々なことを理解すればするほど、自分の知らない領域が沢山あることを知らされて、「自分はまだまだだ」という思いになります。

親鸞聖人の教えでもそうです。私はまだ七祖聖教はほとんど手つかず、『大無量寿経』の異訳も手つかず、親鸞聖人や蓮如上人方のお聖教全てにまだ目すら通せておりません。本願を信じ、念仏すれば、仏に成る。これさえ心得られたら後のことは石垣の組み方みたいなもんなんですが、教えを学ぶことは私のライフワークの一つにしていきたいですね。

私は古文漢文が滅法苦手で、センター試験では100点中30点前後しか取れませんでした(´;ω;`) 当然お聖教に向き合っていくと意味の分からない箇所に出くわしてストップなんてことはしょっちゅうです。会員の皆さんが抱いているであろう信後の妄想の一つに

・信心決定したらお聖教の御文がすらすら読めるようになる
・51段高とびして弥勒菩薩と等しい智慧を身に付ける


というものがあるかも知れませんが、んなわけあるか! 相変わらず難解な古文漢文ですよ。日本語しか読めなかった者が急に英字新聞をすらすら読めるようになるようなもので、あり得ません。また、高森会長はよく、「さとりの52位」の図を描いて「獲信すると同時に下からズボーッと51段高とびして弥勒と肩を並べる」なんてことを説いていましたが、残念ながら「便同弥勒」「次如弥勒」とは説かれていても「さとりの52位」で言うところの51段目に相当する智慧は身に付きません。これは、

金剛の信心をいただいた信心の行者は、次生において必ず仏になることに決定しているという意味で、一生補処の菩薩と同じ位にある。『WikiArc』補注6 正定聚参照)

という意味において言われている言葉であって、弥勒に等しい智慧を身に具えるのではないのです。

さて、しかしありがたいことにネットの世界でも教えに明るい方は多く活動しており、それらの方々のおかげでようやく「あぁ、こういうことか」と分からせて頂くことが沢山あります。試験で高得点を取らないといけないみたいなしがらみがありませんし、勉強して「後生助かろう」なんて力みもありませんから、教えを学ぶこと自体はマイペースで本当にちょっとずつですがやっています。

知らないことは知らないと言おう。そこで知らないことを知ろうと学ぼう

これが今の私の思いです。

知らないことは恥ではありません。そこで学ぶチャンスがあるのだから。本当に恥なのは、知らないことをさも知っていそうに振舞うことだと思います。


その点で、高森会長や親鸞会会員の皆さんはお気の毒です。親鸞会という狭い空間、狭い組織の中で、そこで教えられていることが絶対だと痛い勘違いをし、他から教義について学ぼうという気すらないのですから。
会員の皆さんは、高森会長の説かれることが仏教の全て位に思っているかもしれませんが、とんでもない誤りです。よく「教学の研鑽」なんかと言っていますが、お聖教の中のごくごく一部の言葉を、前後の意味も弁えずにぶった切って、意味を改変されたものを覚えていたってそんなの全然ダメです。今残っている会員の皆さんで、せめて浄土三部経や『選択本願念仏集』、『教行証文類』全巻を目だけでも通した方はありますか? 恐らくほとんどいないでしょう。「なぜ生きる」「なぜ生きる2」「歎異抄をひらく」「こんなことが知りたい」「本願寺なぜ答えぬ」などの高森本、また『教学聖典』などは何度も読んで、書いて覚えていても、『教行証文類』総序すら全て目を通していないという方が多いのではないかと推察します。

意味が難しければ、現代語訳もあります。

浄土三部経 原文・現代語訳・解説/浄土真宗本願寺派総合研究所教学伝道研究室〈聖典編纂担当〉
顕浄土真実教行証文類 (現代語版)

他にも、現代語訳されたものは数多く販売されていますので、買って読んでみたら如何でしょう? きっと親鸞会にお布施するお金の何分の一にも満たない金額で何冊も購入できますよ。

また、ネット上では私が普段からお世話になっている

WikiArc:浄土真宗聖典目次

からお聖教に触れることができます。安心論題も読むことができて大変重宝しています。


私としては、親鸞会で祖師や蓮師のお言葉を学んだこと自体は決して無駄ではありませんでしたが、親鸞会教義に毒されていたので染み抜きして正しい意味に覚え直す手間がありました。そして、御文を正確に覚えて書けても後生助かりませんので、まず本願を疑いなく聞いて念仏する身になって、それから勉強したい方はお聖教に直に向き合って学ばれていったらよいと思います。

私如きが仕事片手間に一生二生勉強しても尽きせぬ教えが仏教、浄土真宗であると痛感します。親鸞会で教えられていることが仏教の全てだなんて痛い勘違いをせずに、会員の皆さんもお聖教に接して頂きたいものです。そうすれば、篤い高森信者は無理かも知れませんが、教義の誤りに気づく方もあるでしょう。

今まで信じてきた教えが間違いだったと認めるのは大変辛い、今までの自分を全て否定されたかのような苦痛を伴うことは経験していますのでよく分かります。しかしいくら間違った教えを信じていても後生助からないのでは意味がないでしょう。過去は変えられません。変えられるのは今から先です。もし教義の誤りに気付いたなら、いつ無常の風に吹かれるか分からないのですから、早く決断し行動されるように願っています。

届くのは決して当たり前ではない

こんなニュース

が最近世間を騒がせているようです。配達員はどんな心理状態だったのか分かりません。荷物を投げつける、蹴るのは勿論悪いことですが、気持ちは分からないでもありません。捌き切れない荷物に加えて、集荷、未着対応、クレーム対応、客のすっぽかし、その他諸々のアクシデントが降りかかって来たら、イライラは天にも昇る勢いです。所詮はこの仕事をやった者でなければ分からない苦しみ悩み怒り腹立ちでしょうが、荷物を頼む側はもう少し事情を理解して、最繫忙期の状況を察してもらいたいものです。

昨日も自分の持ち分だけで200はあり、隣の女の子の分は20ほど持つのが限界でした。昼飯の10分以外はノンストップでやり続けて、最後の配達が21時少し前。恐らく読者の皆様の大半は俺の動きに一日ついてこれないと思います。実にきつく、損な役回りです。せっかく人が定着したと思ってもすぐに辞めてしまいます。自分が今の会社に入った頃よりも確実に人は減り、一人一人の仕事量は確実に増えていると実感しています。それで給料は増えるかと言えばそんな事は無く、逆に会社は残業代を削減するために出勤時間を遅らせ、早くタイムカードを切るように指示をしてきます。これじゃ誰もやる気が出ないでしょう。給料が同等の仕事が他に見つかれば俺だってとっくに辞めてますよ。近年ようやく保育や介護の仕事に大分目が向けられるようになってきましたが、物流・宅配の仕事にも目が向けられるようになって欲しいものです。

さて、一般の人が欲しいものをポチしてから自分の元に届くまではおおよそ以下の手順を踏みます。

出荷人が依頼を受けた商品を確保

集荷依頼し、物流会社が荷物を集荷

荷物を事業所へ持ち帰る

荷物を仕分けて、発送先の車両に積み込む

中継センター等を経由して発送先の事業所へ到着

荷物を配達地域毎に仕分ける

受け人の地域の担当ドライバーが持ち出し・配達

これが通常の時期は正常に稼働し、荷物はほぼ指定日通りに届けることができます。しかし、最繫忙期である12月はそうはいきません。荷物の集荷が遅れ、仕分け・発送も遅れ、中継センターはパンク状態で大型トラックがそこへ到着しても荷物をすぐに降ろすことができません。更にそこから捌けた順に発送していくので、直近の事業所へ届くのは通常の1~2日遅れになってしまいます。そこからまた仕分けて、持ち出しし、配達に向かいます。道が混んでいるとか、そういった事情ではないのです。

中には、バーコードを読み取って機械が自動的に仕分けるハイテクセンターを持つ物流会社もありますが、そんな会社でもそのようなハイテクセンターはまだまだごく一部であり、ほとんどのセンターは手作業で一つ一つ仕分けています。仕分け一つでも実に沢山の人の手が加わっています。この手順の内、どこかが行き詰まれば荷物は自分の元まで来ません。12月はこのほぼ全ての行程が行き詰まっていると言っていいでしょう。日本人の多くは荷物が指定日に、時間通りに来るのが当たり前みたいに思っている節がありますが、決して当たり前のことではないのです。荷物一つ届くのも、実に多くの人の手、苦労があってのことだというのを知ってほしいと思います。


このようなことが知らされますと、この私に阿弥陀仏の本願、南無阿弥陀仏の六字のこころが届いたことにも実に多くの人の手、苦労があってのことなのだなというのがしみじみと感じられてきます。決して当たり前のことではなかった。釈尊はじめ七高僧方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人、その他有名無名の知識方や同行方、誰一人欠けてもこの私まで届かなかったかも知れない。あくまでも私個人の事ですが、高森顕徹会長や声をかけてくれた先輩がいなければ、今私は本願の仰せを聞き受けていなかったかも知れない。邪義だらけの親鸞会ですが、私に本願を伝えてくれたというただ一点においては感謝しています。だからこそ邪義を邪義と認め、今までの悪行を改悔懺悔して、正しい親鸞聖人の教えを説いてくれたらと思うのですが、残念ながらそうはならないでしょうから今まで通りこれからも批判してゆくしかありません。

拙いブログですが、今年も当ブログをきっかけに親鸞会教義の誤りに気づき、本願を信じ念仏するようになった方があったかも知れません。そういう方がたった一人でも構わないから現れてくれれば幸いと思い、綴っています。きっかけが何であれ、一人でも多くの方が南無阿弥陀仏に遇って頂きたい、そう願っています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

「方便仮門」を捨てるのは、白道に踏み出す前、東岸の水火二河の直前で白道を進もうと決心した只今のことです

親鸞会の「二河白道の譬え」は、とにかく邪義だらけです。最近は善導大師の「二河白道の譬え」|阿弥陀仏に救われるまでの心の道のりという動画まで作っていますが、まず

阿弥陀仏に救われるまでの心の道のり

というのが邪義そのものです。二河白道の譬えは、

また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。(信文類)

【現代語訳】
また、往生を願うすべての人々に告げる。念仏を行じる人のために、今重ねて一つの譬えを説き、信心を護り、考えの異なる人々の非難を防ごう。その譬えは次のようである。

とあるように、他力の信心を守護する譬えであり、真実の他力信心を譬えられたものです。他力信心、真実信心を明かされた『信文類』に引文されているのですから、信前の

阿弥陀仏に救われるまでの心の道のり
信心獲得するまでの求道の道程を示すため

なわけがないこと位当然なのですが、親鸞会の邪義に毒されている人は、かつての私がそうだったように高森会長の話を受け入れてしまうのです。中には、実際の譬え話と高森会長の話が違うことを知りながら、「譬え話をより分かりやすくするために話を変えられている」という詭弁に納得してしまう人もあります。


さて、上リンク先では内容の詳しい邪義までは判りませんので、『安心問答』「親鸞会・高森顕徹会長の二河白道の喩えはおかしいと思います。どこがおかしいのでしょうか?」(頂いた質問)を基に譬え話から紹介します。

親鸞会の二河白道の喩え
 1.旅人が無人の荒野を旅していました。
 2.尊い人が現れて、西へ行けと教えます。
 3.西に向かうと、水の河、火の河が突如として現れます。
 4.再び尊い人が、二つの河の間にある幅四五寸の白道を往けと勧めます。
 5.それで旅人は、中間の白道を少しずつですが進みます。
 6.白道を進む旅人に、群賊・悪獣・悪知識が現れて「帰ってこい」と誘惑、妨害してきます。
 7.白道を真ん中ほどまで進むと、往くも死、帰るも死、とどまるも死の三定死の状態になります。
 8.その時に、西岸から「直ちに来たれ」という喚び声が聞こえます。
 9.声が聞こえると同時に幅四五寸の白道は無碍の大道に、水火二河は光明の広海に変わります。
 10.旅人は白道を進んで、西の岸に着きました。


善導大師の二河白道の喩え
 1.旅人が無人の荒野を旅していました。
 2.群賊悪獣に追われて、死を畏れて西に向かいました。
 3.西に向かうと、水の河、火の河が突如として現れます。
 4.群賊悪獣に追われて、帰るも死、とどまるも死、先にゆけばまた水火の二河に落ちて死んでしまう。
 5.旅人はそこで、どのみち行き場がないのなら、むしろ前に進んで行こうと決心をします。
 6.こう考えた時、旅人は東の岸に「この道を尋ねて行け」と人の勧める声と、同時に西の岸の上に人がいて
  「直ちに来たれ」と喚ぶ声とをたちまちに聞きます。
 7.その声を聞いた旅人は、疑いや恐れる心がなくなり、白道を進んでいきます。
 8.その後も白道は幅四五寸と狭いまま、水の河、火の河も変化はありません。
 9.白道を進み始めると、群賊悪獣が「帰ってこい」と誘惑します。
 10.それらの声に惑わされることなく、旅人は白道を進み、西の岸に着きました。


まず時系列で話の流れがそもそも違います。高森会長の話では、旅人は東岸にいる時から白道を進む過程において東岸の人の勧める声を聞き、白道を真ん中ほどまで進んでどうにもならなくなった時に西岸上の人の喚び声を聞きます。これは誤りです。本物の話では東岸で群賊・悪獣に追い詰められて、白道を進む決意をした時に、東岸の人の勧める声と西岸上の人の喚ぶ声を同時に聞きます。そして西岸上の人の喚ぶ声とは、

〈汝一心に正念にして直ちに来れ、我能く汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉

というものですが、これについては親鸞聖人が

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。
(中略)
「一心」の言は、真実の信心なり。
「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
(愚禿鈔)

と解説されています。注目すべきは「」です。「捨てて」と言われる「方便仮門」とは、この前にて既に

上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。(同)

と解説されているように「一切の定散の諸善」であり、「雑行」「発願の行」「回心の行」「浄土の雑行」「浄土の要門」です。高森会長の話では、白道の半分ほどまで進んでから「直ちに来れ」と聞くのですから、それまでは「方便仮門である一切の定散の諸善を信前の求道としてやれという話と辻褄が合います。

しかし、本物の話では白道へ一歩踏み出す前に「直ちに来れ」と聞くのですから、当然「方便仮門を捨てるのは、白道に踏み出す前です。東岸の水火二河の直前で白道を進もうと決心した只今のことです。「阿弥陀如来の誓願」の前には「方便仮門」である「一切の定散の諸善」「雑行」「発願の行」「回心の行」「浄土の雑行」「浄土の要門」は捨てものでしかないのです。方便仮門」である一切の定散の諸善を信前の求道としてやれという高森会長の話とは辻褄が合いません。

ところで、「「直」の言は、回に対し迂に対するなり。」と書かれていますが、これは

横超断四流(玄義分 二九七)といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。(信文類)

とあるように横超他力を顕されたものです。対する「」「」とは浄土門内の自力の教えである横出の教えを指しています。それは「すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善」ということですから、「方便仮門」である「一切の定散の諸善」「雑行」「発願の行」「回心の行」「浄土の雑行」「浄土の要門」と同じことです。

やはりお聖教のどこを読んでも、「如来大願の他力」すなわち18願と、「方便仮門」すなわち19願とは対比する形で教えられ、しかも「方便仮門(19願)を捨てて如来大願の他力(18願)に帰すること以外勧められていません。方便仮門である19願の勧めは皆無です。

18願の救いを求めて19願の善をやれ

だとかいう珍説は、親鸞聖人の教えからは出てきようはずもないのです。高森会長が譬え話を変えた目的は、「譬え話をより分かりやすくするため」ではなく「親鸞会の邪義を正当化し会員に刷り込むため」でしょう。


私はお聖教に書かれていることを正見して親鸞聖人のお勧めに順おうと決意し、親鸞聖人とは真逆のことを勧める高森会長・親鸞会とは決別しました。退会した当初は不安もありましたが、そういう経緯からついに本願を信じ念仏する身となれました。親鸞会が教える絶対の幸福だとかいう幻想的な楽は得られませんでしたが、阿弥陀さまに往生をおまかせし、後生をくつろがせて頂いた安心というのは何にも代えがたいものです。

他にも記すべき邪義が満載な親鸞会流「二河白道の譬え」ですが、長いのでこの記事では割愛します。

『親鸞会教義の誤り』宿善とは7
『同』宿善とは8
『親鸞会邪義を破る』▼二河白道の譬喩(1)
『同』▼二河白道の譬喩(2)

等をご覧下さい。また、動画では二河白道譬喩が正しい聖教に基づいた譬え話です。

会員の皆さんが高森会長の珍説を捨てて、親鸞聖人の教えに帰されるよう願っています。只今、ここにいる、このままの私が方便仮門を捨てて、如来大願の他力に帰するのです。「直ちに来たれ」すなわち「助けるぞよ」の仰せを、自分の計らいを交えずにそのままお聞きするだけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説

隣のエリアを回っている女の子がまた泣いていました。どうやら、前日・前々日にそこを回っていた奴が力量のないドライバーで、そいつが未配をやらかした荷物を持って行ったところ、客が激怒してきたとのことです。彼女は悪くないのに、実にかわいそうなことです。自分も空いた時間を使ってヘルプに入っているのですが、またしても彼女の涙を見てしまいました。悪いのは未配こいたドライバーであり、このくそ忙しい時にお構いなしに注文しては指定日に荷物が来ないとブチ切れる客なのですが、何とも後味が悪いです。隣を回っている女の子一人助けられないとは、人間の慈悲は実に不完全であることをつくづく思い知らされます。


この不完全ということで思い出されたのが、「行文類」

埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。

です。普通は、諸善の説の方が道理にかなった法であるかのように思えます。釈尊も廃悪修善の道理に従って悪を廃し、善を修めて仏のさとりまで到達された方でありましょう。そして経典の大部分ではそれぞれの機に応じて善を勧められています。であるのに、その善は理を尽くさない不完全な法であると退け、念仏こそ道理を尽くして説かれた完全な法であるとは、聖道門の方々は勿論、一般の人々には到底理解し難いものがあるでしょう。

念仏の法は、阿弥陀仏がかつて法蔵菩薩であった時、普く一切衆生を平等に救おうと発願し、五劫の間思惟し、兆載永劫に亘って御修行を重ねられて完成なされた法門です。阿弥陀仏の五劫永劫の願行は、南無阿弥陀仏となって十方世界に響き渡り、届かない処はありません。私としては、只今、この場で、南無阿弥陀仏の六字のいわれ、すなわち「我にまかせよ、必ず助けるぞ」の仰せを、自分の計らいや詮索を交えずに、そのまま、素直にお聞きし、お受けするのみです。それで、私の往生の業事は成弁し、間違いなく仏に成る身と定まるのですから、まことに我が根機にかなった、何ともたのもしい、完全な法であると言わざるを得ません。

対して諸善の法は、自業自得の道理に従って、悪を廃し、仏に成るだけの善行を積んでいかなければなりません。言葉だけなら廃悪修善と簡単ですが、煩悩具足の人間が、世俗の世界に生きてある限り行を発し道を修することは極めて困難です。加えて仏に成るには三祇百大劫と言って気の遠くなる長期間の修行が必要なのですから、極めて優れた素質をもった者でなければ到達することはできない、非常に厳しい難行道です。龍樹菩薩や天親菩薩といった方々でさえ念仏の法に帰依されたというのに、末代不善の我々は誰一人助かりはしないでしょう。道理としてはよくても、行を修める我々の根機という点から見て、諸善の法は不完全であります。

このように思われた時、前も挙げましたが『歎異抄』第四条

一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。

慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。このように聖人は仰せになりました。

がその通りその通りと思われたのでした。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

とは言え、この世の慈悲、人間の慈悲もやはり必要です。今日も何とか彼女の助けになるべく駆けつけてやりたいです。本当に頑張っている真面目な子なのでこんな所で潰すわけにはいきません。今日も界王拳で行くぞー!!
プロフィール

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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