高森の教行信証(信編) - 信心決定は過去の体験ではない。いまの南無阿弥陀仏こそわれらが往生の定まりたる証拠

親鸞会では「一念」ということを非常に重視します。その大体は、

「『一念』とは、人生の目的が完成する、何億分の一秒よりも速い時をいう」(『なぜ生きる』p.342)

という意味で、あっともすっともギャーとも言う間もない極めて短い時間のことを指しています。その「一念」に人生の目的が完成する、絶対の幸福になる、無碍の一道に出る、後生の一大事が解決する、などというのです。そしてその「一念」に自力間に合わなかったと無間のドン底に堕ち、同時に他力に摂取されるという摩訶不思議な体験をするように説き、それを「信心決定」だと言い、その時の体験を「聞即信の一念の体験」などと呼んでいます。会員の皆さんが追い求めている憧れの体験です。

しかし、そんなものが「信心決定」だなどとはどこにも説かれていません。全くもって珍しい教えであり、まさに「高森の信」であります。「信の一念」にしても、

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。

阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信受する信心が開け発った最初の時を信の一念(時剋の一念)といい、

一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。

また、阿弥陀仏の救済をふたごころなく疑いなく信ずることを一念(信相の一念)というのです。時剋の一念の瞬間を凡夫の上で必ず、ハッキリと自覚できるとか、時剋の一念の自覚が無ければ真実信心ではないとか、時剋の一念の瞬間に地獄一定と極楽一定を同時に知らされるなどとは、ただの一言も仰っていません。

そもそも「信心決定」「信心獲得」が「体験」であるとは言われていません。蓮如上人は

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(5帖目5通)

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。(5帖目11通)

等と仰って、信心決定する、信心獲得するといっても南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得る以外には無いのだぞとお諭しです。であるから、蓮如上人は事あるごとに南無阿弥陀仏の六字のこころを懇ろに説き示されたのです。「必ず浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という南無阿弥陀仏の仰せをそのまま心に受けたのが信心です。その信心が開け起る最初の時を指して時剋の一念といい、その信心のすがた、仰せの通り南無阿弥陀仏に全ておまかせしてふたごころないことを信相の一念というのです。

ですから、重要なのは時剋の一念の時をハッキリ自覚し覚えているかどうかではなく、現在只今、南無阿弥陀仏に全ておまかせしてふたごころがないかどうかなのです。時剋の一念(と自身で勝手に思っている時)にどんな体験をしたといっても、それは年月を経る毎にどんどん過去の話になっていき、その記憶は段々と曖昧になってゆきます。そして最後死んでゆくときは忘れ失ってゆく、やがて必ず滅びるものです。「聞即信の一念の体験」をしたといっても、自分の記憶しか証拠はありません。もしそれが真実まことの信心を獲た体験ならばよいのですが、それがいわゆる神の啓示、自己暗示の類だったらどうします? 記憶の上での体験を糧に信心を語るというのは非常に危ないことなのです。

そんな曖昧で、100年もしない内にやがて必ず滅びゆくものが往生の証拠なのでしょうか? 蓮如上人は、いまの南無阿弥陀仏こそわれらが往生の定まりたる証拠であると仰っています。

当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

阿弥陀仏が昔法蔵菩薩であった時、「衆生(お前)を仏に成さなんだら我も仏に成らんぞ」と私の正覚と自身の正覚とを同時に誓われました。その本願が成就し、誓いの通り阿弥陀仏と成ってすでに正覚が成就されたすがたが、いまの南無阿弥陀仏であるというのです。そして、いまの南無阿弥陀仏が、私達の往生が定まっている証拠だとの仰せです。

定まりたる」とは現在完了形で、過去だけでもなく、現在だけでもないところがポイントであるとお聞きしたことがあります。私達が名号のいわれを聞き受け信心が開け起こったはじまりが時剋の一念、その信心のすがたが信相の一念でありますが、信心が相続してゆくのは南無阿弥陀仏が成就して絶えず私を喚んで下さっておられる故、バックボーンに常に如来の本願力がはたらいて下さっているが故であります。

信心を頂いて私の心が立派になったから相続してゆくのではありません。また信心を頂いたその時に不思議体験をしたから往生一定なのではありません。私の中には何にもありゃしません。空っぽです。そこに如来の本願力が、つまり南無阿弥陀仏が来りたまい、入りたまうから「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とよく響くわけですね。私の中には確たる証拠はなく、証拠は今現に届いている南無阿弥陀仏しかありません。

常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人がよく言ったというのはそのことなのです。私にあるのは煩悩妄念のみで、まことはない。だから私の心の中に信心を探さずに、仏様の側に仰げというのです。それを、「自分がこうこうこういうハッキリした体験をしたのだから間違いない」と決めているのは、信を仏辺に仰がず、煩悩妄念の中に探しているすがたです。「高森の信」とは所詮その程度のもので、創価学会の信心を真宗の言葉を使って表現しているに過ぎません。


教義の根幹は大沼法竜師、伊藤康善師のパクリ、組織拡大法もパクリ、信心もパクリ、何もかもパクリというのが「高森の教行信証」です。こんなものを「唯一絶対にして真実の宗教」などと一時的にでも信じていたのですから、それは馬鹿にされ蔑まれても仕方ないかなと思わされます。会員の皆さんは、いくら「高森の教行信証」を仰ぎ奉ろうとも「真実の教行信証」とは無縁、どころか反って障害にしかならないことを知って、一刻も早く邪義を捨て去り、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』補註7 信の一念・聞
『飛雲』自力による一念の信心
『用管窺天記』慈悲は罪悪機中に味わう
スポンサーサイト

高森の教行信証(信編) - 二種深信の誤った認識、救済の予定概念、信心決定病

高森顕徹会長が信心を説明する際によく用いるのが「二種深信」です。「二種深信」は真実の信心か否かの判定基準であり、「二種深信」が立っていなければ絶対に真実報土の往生はできないというのです。

深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
信文類

『観経』にある三心(至誠心、深心、回向発願心)の内、深心を解釈されたお言葉ですが、これは言うまでもなく一なる他力の信心を機の面と法の面と二種に開いて顕されたものです。二つの心が同時に起こるとか、片方が先に起こって間もなくもう片方が起こるというようなものではありません。また、当然ですが「機の深信」と罪悪感は異なります。勿論、己が力量をよく理解することは大切な事には違いありませんが、罪悪感の極まりが「機の深信」ではないことに注意が必要です。

さて、これを踏まえて「高森の二種深信」を見ていきます。それは、先に言ってしまうと二種深信の誤った認識、それに「救済の予定概念」と「信心決定病」が加わったものといったところです。

「『一念』とは、無明の闇のなくなった心をいう」
「闇」が晴れれば、明るくなる。いままで見えなかったものが、すっきり見える。無明の闇が破れると、何がハッキリするのか。
「自己の真実」と「弥陀の誓願」の二つである。ハッキリしたことを「深信」というから、この二つが明らかに知らされたのを「二種深信」と説かれている。自己のことを「機」といい、弥陀の誓願を「法」というから、「機法二種深信」ともいわれる。
(『なぜ生きる』p.199)

 誓願不思議に救い摂られ、無明の闇が晴れると、次の二つのことがハッキリする。
「金輪際、地獄ゆきと、疑い晴れる」(機の深信)
「極楽へ、必ず往けると、疑い晴れる」(法の深信)
 この二つが、同時に疑い晴れている心だから、「機法二種一具の深信」(二種深信)といわれる。
「地獄一定」と「極楽一定」を同時に、どうして知ることができるのか。
(『なぜ生きる』p.292~p.293)

読んでお分かりのように、二つのことが知らされたことだと書いています。そして、「地獄一定」と「極楽一定」という、矛盾する二つのことが同時に知らされるように言っています。これは誤りです。

親鸞聖人は信文類にて

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

と仰せの通り、仏願の生起本末、本願の名号のいわれを聞いて疑い無いのが聞であり、それがそのまま信心である。それは自分で起こす信心ではなく、本願力回向の他力信心だと明らかにされています。その、名号のおいわれを聞くことによっておこさしめられた他力の信心を機の側と法の側とに分けて示されたのが「二種深信」ということですから、一つであって別々の二つの心ではないし、矛盾するものでもないのです。

①私というのは自力では決して迷いの世界を出られない者で、その私を助けるために②阿弥陀仏は名号を成就して、これを回向することで私を迷いの世から出離させ、往生成仏させて下さる。この南無阿弥陀仏の名号法におまかせして自力を離れたのが他力の信心であり、それを機の面から述べたのが①であり、法の面から述べたのが②です。①と信知したから②の法におまかせなのであり、②と信知したから①の機に用事はないなと自力が廃るのです。だからこの二つは別々でもなく一つです。また矛盾するものでもありません。それを矛盾した別々の心のように説いて、そんな摩訶不思議な信心だと騙っているのが高森会長というだけです。

ところで、『なぜ生きる』では無明の闇が破れると二つのことが知らされると書いてありますが、より高森教をハッキリと示している『こんなことが知りたい』ではまず真剣に実地に求道して、地獄一定を体験して、その直後に極楽一定を体験するかのように書いています。アニメ『世界の光 親鸞聖人』シリーズの親鸞聖人や韋提希の獲信のシーンは、こうした高森教を映像化したものです。

 信じたのも知ったのも、学問も修養もすべて間に合わず、堕ちるも助かるも判らぬ心一つが業に引かされて、地獄は一定すみかぞかしと、無間のドン底に叩き堕とされた時(機の深信)、
自力無功と他力不思議とは同時に働き、信心歓喜、歓喜踊躍とおどり上がり、阿弥陀さまこうまでして下さらなければ聞かない、しぶとい私でございました。(法の深信)
 どうしてこの御恩に報いようかと泣くより外にないのです。
(『こんなことが知りたい③』p.128~p.129)

 では、どうしたら自力が廃るのか。これは説明を聞いて判るものでもなければ、自ら捨てようと思って廃るものでもありません。先ず、自ら善知識を求めて真剣に聞法しなければなりません。そして、払っても払っても、後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底に、こびりつく自力の心に悲泣悶絶、求道聞法の絶壁に行きづまり、曠劫流転の逆謗の屍を如来の前に投げ出す体験を通らなければ廃りません。(『こんなことが知りたい①』p.110~p.111)

確かに真剣に求めるのは自力です。生れた時から他力に摂取されている者は一人もいないのですから、みんな自力で求めてゆくのです。そして聞けば聞くだけ、求めれば求めるだけ、聞ききらない必堕無間の自己に驚き、火の中突きぬけても、ここ一つはと思わずにおれなくなるのです。
 そして自力間に合わなかったと、助かる望みが断ち切られて、無間のドン底へ叩きおとされた時、十劫以来、呼び続けて下されていた阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫くのです。
(『こんなことが知りたい①』p.116)

アニメ『世界の光 親鸞聖人』の第一部では、法然聖人の元で火のつくような聞法求道をし、最後法然聖人の直の御説法を聞き、悲泣悶絶、地獄一定の苦しい体験をした直後に、泣いて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏を称えて喜ぶ姿が描かれています。それまでは南無阿弥陀仏の南も無いというのに、今思えばどんな教えなんだと不思議でなりません。

アニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』の韋提希にしても、釈尊の元で真剣に定善をやろうとするができない自分に絶望して深い苦悶に堕ちてゆくシーン、そしてその直後に無量寿仏のお姿を拝見し、やはり泣いて南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と念仏を称えて喜ぶ姿が描かれています。

これが獲信だ」と言わんばかりに教えられている親鸞会の会員は、先ず自ら善知識だと信じる高森会長を求めて真剣に聞法し、あるいは光に向かって、あるいは宿善を求めて、あるいは白道を進むために、あるいは三願転入するために、聞法(聞邪義)に加えて五正行の実践という名の朝晩の勤行(助正間雑)、六度万行の実践という名の諸善(雑行)、破邪顕正(弘宣邪義)、財施(献金)、服従等の行を求道だと称してやり続け、その果てにアニメの親鸞聖人や韋提希のような体験をするのだ、それが信心決定だと思い込んでいるでしょう。

思い描いている獲信までの道程は、「因果の道理を知らされるほど廃悪修善を実践せずにおれなくなり、そうすると見えてくるのは悪しかできない己の姿。そんな自分が今死んだら後生は一大事だと驚き立ち、火の中かき分けてもここ一つは聞かずにおれなくなる。そしてやがて求道の絶壁に行き詰まり、地獄は一定すみかぞかし、自力間に合わなかったと、助かる望みが断ち切られて、無間のドン底へ叩きおとされた時、十劫以来、呼び続けて下されていた阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫く」こんなものではないでしょうか。そして、こんなものを信心決定とか聞即信の一念の体験だみたいに思って、そんな体験に憧れて高森会長の話を聞き、活動している会員ばかりかと思われます。

こんなのを、増井悟朗師は「救済の予定概念」だとしています。「こうこうこうなったのが弥陀の救い」と観念的に決めつけて、私らの側で作り上げているのです。また、「信心決定が大事」「信心決定しなかったら後生は一大事」だと言われ、とにかく信心、信心、信心決定こそが唯一の目的だと、真剣(?)に聞き求めている、そんな親鸞会会員のような人達は「信心決定病」にかかっているというのです。

これは何も親鸞会会員に限ったことではありませんが、彼らはそれが特に色濃いということです。ここで教えが正しい真宗ならばやがて本願力をたのんで自力を離れるということがありましょうが、親鸞会では教えが「高森の教」、行が「高森の行」、そして信も前回示したように

「高森の信」=「絶対の幸福」=「光明輝く生活」

であり、今回示したように

「高森の二種深信」=「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」

といったものですから、こんなデタラメ創作教義を聞いていて「真実の信」を獲られる方がおかしいです。また会員の方も、そのような「高森の信」を獲るまではと自力でこしらえた「救済の予定概念」と、自覚なくかかっている「信心決定病」とによって「金剛の真信に昏」いわけであります。


高森の行」をやり続けて知らされる己の姿が「機の深信」でもなければ、「いつ死んでも極楽参り間違いなし」と自分の中でハッキリしたと思っているのが「法の深信」でもありません。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。 (執持鈔)

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄)

如来のお助けに助けられ、如来の計らいに計らわれ、往生には念仏一つと如来の誓いにすべておまかせしたのが「真実の信」であります。これを機の面から言えば、この煩悩具足の我は如来回向の念仏より他に出離の縁有ること無しなのであり、法の面から言えば、疑い無く慮り無く弥陀の願力にまかせて誓いの通り往生を得させて頂くとなるのであります。摩訶不思議な「高森の信」を求め、「高森の行」を修めていても、「真実の行信」は獲られないことに会員の皆さんは早く気付きましょう。



【参照】
『浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?』9.機の深信について
『浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?』10.法の深信について
『WikiArc』二種深信
安心論題/二種深信

「真実の行」を示さずに「大悲の願船」に乗るとか言い、創価学会の信心は貫き通す高森顕徹会長

『飛雲』 『観経』も『観経疏』も『教行信証』も全く読んだことがないから韋提希の話を創作するしかない高森顕徹会長

にて紹介されているように、11日はいつもの

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

について高森顕徹会長の話がありました。

大悲の願船」=「阿弥陀仏の本願」=「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

と相変わらず50年近く貫き通している創価学会の信心を説いていましたが、今回は「ガラリと変わる」説明に

与韋提等獲三忍 即証法性之常楽(正信偈)

のお言葉と、アニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』を用いていた点がいつもと違いました。そして「三忍」について、直前に本願成就文をいつものように説明した後、

信忍=信心
喜忍=歓喜
悟忍=即得往生住不退転
(※)

と「三忍」を成就文のお言葉に当てはめて教えていた点も違いました。従来は

『挑戦の道 in Singapore』三忍 ・・・ 「喜忍」 「悟忍」 「信忍」

に書いてあるような説明で、成就文のお言葉と関係づけて話していたことは記憶にありません。そういう高森会長の文章を読んだこともありません。このように当てはめて教えている方はいるのかと調べてみたのですが、現時点では判明していません。ただ『正信偈大意』には

「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」というは、一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜悟信の三忍をうべきなり。喜悟信の三忍というは、一つには喜忍という、これ信心歓喜の得益をあらわすこころなり、二つには悟忍という、仏智をさとるこころなり、三つには信忍というは、すなわちこれ信心成就のすがたなり。しかれば、韋提はこの三忍益をえたまえるなり。これによりて真実信心を具足せんひとは、韋提希夫人にひとしく三忍をえて、すなわち法性の常楽を証すべきものなり。

とあって、

喜忍」=「信心歓喜の得益をあらわすこころなり

とありますから「喜忍」が「信心歓喜」に該当するとは言えると思います。しかし他は・・・

信忍」をツユチリほどの疑心もなくなった心と説明するなら、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

とあるのですから「」もしくは「聞其名号」なのではないかと考えられますが、考察はこの辺にしておきます。


それにしても、譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇といい、

絶対の幸福になると苦しみの人生が幸せな人生にだんだんではなくガラリと変わる

と創価学会の信心の説明に正信偈(三忍)を利用するとは不届き千万であります。

自力から他力へと信心はガラリと変わっても、私たちの心も幸福もガラリとは変わらないのです。阿弥陀仏にすべておまかせをしたという点においてのみ、変わるだけです。

とある通りで、阿弥陀仏の本願を聞信した瞬間から、南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得た瞬間から、真実の行信を獲た瞬間から苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにはならないのです。仮にそうなるとしても、高森の教を学び高森の行を修めている者は絶対に真実の行信は獲ることはできません。なぜなら、

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

とは行文類に説かれており、真実の行、すなわち南無阿弥陀仏を称えるという念仏一行による徳益を述べられたものだからです。「高森の行」という悪業悪行、助正間雑、雑行を修める者には決して窺い知れないものであることは言うまでもありません。尤も「高森の行」を修めて創価学会の信心を獲られる可能性はあります。


最後の方で本尊と二益法門について語っていたようですが、本尊については『飛雲』に紹介されているリンク先へ飛んで下さい。こちらでは二益法門について述べます。高森会長はいつも「往生は2回ある」などとホラを吹いていますが、このように説くことが「体失往生」と「不体失往生」について無知な何よりの証拠です。

体失往生」とは「諸行往生」の機、19願の機が遂げる往生で「化土往生」のこと。「不体失往生」とは「念仏往生」の機、18願の機が遂げる往生で「報土往生」のことです。「念仏往生」の機は平生の聞信の一念に往生が定まりますからこれを「体失せずして往生を遂ぐ」と言われたのです。生きている時の往生ではありません。

高森会長は「不体失往生した者を体失往生させる」などと無知を晒す発言をしていますが、これは

報土往生を遂げる身になった念仏往生の機が、死ねば諸行往生の機と同じく化土往生する

と言っているようなもので全くのデタラメです。ろくに真宗を学んでいないことの証明であります。

また、高森会長は現益の方を「往生」の語を用いて

絶対の幸福に往かされて生く

などと言っていますが、現益は「正定聚」の位に入ることです。ところが、

正定聚」の位に入る=「絶対の幸福

としますと、七高僧方は死後に「正定聚」の位に入ると仰っていますので、死後に「絶対の幸福」になると教えられたのが七高僧方ということになります。つまり、私達には信心を獲ても「正定聚」の位に入ったという明確な自覚は無いということです。その無いものを有るように見せかけ、現世利益で聞く者を釣って組織拡大に利用せんとして浄土真宗の教義を用いる高森教は本当に許せません。


大悲の願船」に乗るのは「南無阿弥陀仏」の名号法、すなわち「念仏一行」という「真実の行」によるのですから、いくら「高森の教」を学び「高森の行」を修めたところで絶対にできません。会員の皆さんは、偽物の浄土真宗から速やかに離れ、本物の「浄土真宗」を聞いて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。



【参照 及び 追記】
『WikiArc』三忍

※・・・この配当は、山邊習學・赤沼智善共著『教行信証講義』からのパクリだそうです。
之を成就文に配すれば、信心が信忍、歓喜が喜忍、即得往生が悟忍である。」(P.878)
suさん、ありがとうございました。

高森の教行信証(信編) - 現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、という御約束通りに我々が絶対の幸福に助かった時を、他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです

仏教を聞く目的はあくまで後生の一大事の解決。絶対の幸福は後生の一大事の解決ができたらその必然として現れてくる副産物である。

親鸞会側からはこんな声が聞こえてきそうですが、では何をもって後生の一大事の解決ができたとするかと言えば、平生の救いに遇ったこと、現在の苦悩を救い摂られたことをもってです。

 親鸞聖人の著述で特に目立つのは、二度の弥陀の救済と、今の救いの強調だ。
 原因なくして結果なし。平生の救い(因)に遇わずして、死後の救い(果)は望めない。足元の小川が渡れぬ者に、その先の大河がどうして渡れよう。今生救われた者だけが浄土往生できるのである。
 現在の苦悩を救い摂り(不体失往生)、未来永遠、幸福に生かし切る(体失往生)、二つの往生を誓われた弥陀の真意を明らかにされたのが、体失・不体失往生の論争だった(十章参照)。
 現在の救いを抜きにして、死後の救いのみを弥陀の誓願とした、善慧房証空のあやまりを正されたのが親鸞聖人であったのだ。
 永遠の浮沈は、平生に決するのである。
(『なぜ生きる』p.291)

平生の救いとは「人生の目的」が成就して「永遠の幸福」になったこと、つまり「絶対の幸福」のことですから、「絶対の幸福」が因で、死後の救い、すなわち浄土往生という果を得ると主張していることが分かります。会員としても、死後の救いもけっこうだが、それよりも現在のこの苦しみを救うてもらいたい、このままでは何の為に生まれてきたのか分からない、生きる意味をハッキリ知らされて生命の大歓喜を得たい、永遠の幸福に生かされたい、というのが本音でしょう。現世利益のことしか頭に無く、浄土往生は「絶対の幸福」にならねばできないのだから、とにかく現在「絶対の幸福」になることが肝要と、自己の願いも相まって、幻想的な楽を獲たいがために聴聞し、活動していませんか? まず、会員の皆さんは自己の欲望を叶える弥陀の本願ではないことを、そして、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たことが報土の因ではないことをよく知るべきです。

ちなみに、「不体失往生」の「往生」とは「念仏往生」であり「報土往生(浄土往生)」、「体失往生」の「往生」とは「諸行往生」であり「胎生辺地の往生(化土往生)」です。高森会長の主張は

報土往生を遂げる身になった者が死ねば化土往生する

というトンデモ邪義です。詳しくはこの記事で書いています。


さて、今回は「高森の信」です。これについて、どのようなものか見ていきます。

①まして況や、無量永劫の魂の大問題です。色もなければ形もない、無限無辺、絶対の阿弥陀仏の大慈悲心を、色も形もない我々の心に受領するのが信心獲得ということですから、一朝一夕にはゆかないのです。
 浄土真宗の人々は「堕ちる者をお助けの阿弥陀さま」と聞いて知って信じて喜んでいますが、本当に堕ちた体験もなければ、助かった体験もありませんから本当の喜びもないのです。
 実地、地獄一定と堕ち切ったものでなければ本当に助かった信心(体験)は獲得出来る筈がないのです。
 明らかに、他力になるまで他力を求めぬきましょう。
(『こんなことが知りたい①』p.31)

②真実の他力信心を獲得するということは、阿弥陀仏の絶対の救いにあずかるということです。即ち阿弥陀仏の絶対の願力によって助かったことをいいます。
 阿弥陀仏は、その本願(約束)に「われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける」と誓っていられます。勿論、死後ではありませんから、これを平生業成というのです。現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、という御約束です。こんな素晴しい誓願は、二つとありませんから、親鸞聖人は、『正信偈』に、「無上殊勝の願を建立せられた、希有の大弘誓を超発せり」とも仰言っているのです。
 その約束通りに我々が絶対の幸福に助かった時を、他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです。
 これは偏に阿弥陀仏(他力)のお力によって、このようにさせて頂けた、ということがハッキリしますから、他力の信心、他力の信仰というのです。
 しかも、阿弥陀仏の救いは一念でなされます。阿弥陀仏は「ひとおもい」で絶対の幸福にしてみせると誓っていられるからです。これを聖人は「一念往生」とか「一念の信心」とも仰言っています。アッという間もない時剋の極促に我々の苦悩を抜き取り、無上の幸福を与えて下さいます。これを抜苦与楽といわれています。
(『こんなことが知りたい①』p.32~p.33)

色々とツッコミどころがありすぎる文章です。まず①の文章ですが、南無阿弥陀仏の六字を心に受領するのが信心ですから、前半の説明は間違いとは言い切れません。が、問題は後半です。明らかに、他力になるまで他力を求めぬき「高森の教」を聞いて「高森の行」を実践し)、実地、地獄一定と堕ち切った体験をした者が体験し、獲得する信心が「他力の信心」のようです。自身の獲信体験とは随分と違いますね。

次に②の文章ですが、阿弥陀仏の本願とは「われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける」というお約束だそうで、『こんなことが知りたい①』の初版が昭和44年5月5日ですから、もうかれこれ50年近く「絶対の幸福」という創価学会の信心を貫き通していることが分かります。ところが、いざ「絶対の幸福」とはどんな幸福かを説明する際は、最近は批判を極端に恐れているので昔のように上記のようなことを話しません。例えば、

18願成就文の「即得往生、住不退転」の説明を、生きている時に絶対の幸福になること

としてみたり、

譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇

等のお言葉を挙げ、結局よく分からない話をして煙に巻くだけです。あるいは、

不可称不可説不可思議の絶対の幸福

だとか言い、なれば分かるんだからそこまで求めよ、そうしなければ後生は一大事だと、半ば強制的に説明を打ち切って脅しの論法にすり替わるのが親鸞会のいつものパターンです。


ここで、特に②の文章は「高森の教」である映画『なぜ生きる』に通じるものがあります。映画の蓮如上人には

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります

と言わせて、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わったのが「信心獲得」の如き印象を与えています。それで、「信心獲得」するまでは、①の文章から読み取れるように「高森の教」を聞いて「高森の行」を実践していかねばなりません。そして実地、地獄一定と堕ち切った体験をした者が高森会長の説く「阿弥陀仏の本願」の通り現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようになるようです。そうなった時を「他力信心を獲たとか、信心決定したとかいう」とのことです。簡潔に言えば、

高森の信」=「絶対の幸福」=「光明輝く生活

ですので、「高森の信」は浄土真宗の信心、他力の信心、真実の信とは全く関係のない異教徒の信心であることが明らかに知られます。


会員も会員で、最近の訳の分からない高森顕徹会長の説明よりも「相対の幸福」と比較しての「絶対の幸福」の方でこれを捉え、信心獲得の暁にはそんな素晴らしい幸福の身になれるのかと夢見ていることと思います。組織拡大に利用されているだけとは知らずに。皆さんは、「どんな悪業煩悩も往生のさわりとならない」ことを「幸福感が最高無上で、絶対に変わらない崩れない」と痛い勘違いをし、そのような幸福の身になりたいと思って高森教を聞いている内は救われないことを知るべきです。

高森の教行信証(行編) - 高森の教を学び行を修すといへども、真実の行信を獲て報土に入ること無し

阿弥陀仏の本願」は確かに「聞く一つ」です。成就文に「聞其名号 信心歓喜」とあるように、名号のいわれを聞いて信心歓喜するので、我々は善知識からお救いの法を聞かせて頂く以外にありません。名号のいわれ、すなわち南無阿弥陀仏の六字のこころ、「助けるぞ」を聞くのがすなわち信です。聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はありません。

南無阿弥陀仏の六字が心に届いたのが信心、それが口に現れれば念仏であり、浄土真宗はこの名号六字の他に無いのであります。この名号六字によって我々は迷いの世界を離れ、浄土に往生して仏に成らせて頂くのです。念仏は私の口より出ずるものですが、それは我が計らいの心をもって称える私の行ではなく如来回向の真実行です。ですから、称名は私達の無明の闇を破り、往生成仏の志願を満たして下さる「最勝真妙の正業」だと仰せられてあります。

往生の行も信もすべて阿弥陀仏より回向せられる真実行、真実信であり、行と信は不離の関係です。分けて説かれてあるのみで、念仏と信心は二つであって一つ、一つであって二つです。『末灯鈔』11通には

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。

とあります。信心の内容は、「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」「行をひとこゑする」ということですから、これを聞いて疑う心が少しも無いということは、本願のおいわれの通り、おいわれのまんま、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申すということです。念仏と関係ない信心など真宗の信心ではありません。念仏といっても信心といっても共に本願の名号、念仏一つを心に、口に保つことに他ならないのです。

信心正因とか唯信独達とか、「信心を頂きなさい」「この信心一つ獲られたら・・・」などと、殊更信心ばかり強調するのは何も親鸞会ばかりではありませんが、「行をはなれたる信はなし」ですから、本願の仰せのままお念仏申す他に信心は無いのです。この他に、何かハッキリスッキリ安心満足しようと我が計らいの心をもって求めるから、反って訳が分からなくなってしまうのでしょう。

選んで正定をもつぱらにすべし」というよき人の仰せの通りただ念仏するより他に、我ら愚悪の凡夫が極楽に往生する道は二つと無いのです。仰せの通り念仏するのが行、仰せを疑い無く受け容れて念仏一つと心が定まったのが信、この行信は共に如来回向の真実の行信ですから、まことに真実の証果を開く因となって下さるというおいわれであります。

ですから、この如来回向の真実行をもって

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(中略)

正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。
尊号真像銘文

と仰せられる一方で、また如来回向の真実信をもって

「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。(同)

とも仰せられています。「仏名をとなふる」という念仏と、「往生にはただ念仏」という信心とは、共に「無上涅槃のさとりをひらくたね」であり、行で顕すか、信で顕すかの違いのみで、双方とも同じことを仰っています。

このようなことですから、親鸞聖人は『末灯鈔』12通

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

と仰っています。信心一つで事足りると念仏を軽視するのも、念仏を重視して信心を軽んじるのもどちらも良くない、弥陀の本願は念仏を称える者を極楽へ迎えようという誓いなのだから、この御誓いを深く信じて(信)、つまり仰せの通り疑い無く、そのまま受け容れて、お念仏申す(行)のが、まこと本願のお心にかなった念仏の行者であるとお示しです。

本願の仰せ、南無阿弥陀仏の六字のこころを「聞く一つ」にて、念仏一行と心が定まり、仰せのまんまお念仏申す。それは我が計らいの心で称える自力の行信ではなく、彼の仏願に順ずる正定業、計らいを離れ南無阿弥陀仏に全ておまかせして称える如来回向の真実の行信ですから、こうした念仏の行者、信心の行者は間違いなく浄土に往生してこの上ないさとりを開くことが決定したのです。


こうした「真実の行信」を知らず、「高森の行」と、後に示す「高森の信」をほんまもんと勘違いしている親鸞会の会員は実に哀れです。「高森の信」を求めて「高森の行」を修めても「真実の行信」を獲ることとは何の関係もありませんし、「真実の証」を開くことなど絶対にできません。高森教の「因果の道理」からしてもそれは明らかに知られると思います。

聞く一つ」ですが、敢えて聞いたことを実行すると言えばお念仏申すことだけ念仏一行です。それに対して、高森教では高森教を自力で命がけで聞くことを筆頭に助正間雑雑行高森教の布教高森教徒の獲得高森教への献金高森教、会長並びに上司への無条件服従とまぁ雑多な行をやらせています。これらの行をやらねば信仰は進みませんとか言ってるのですから、何が「聞く一つ」だとツッコまざるを得ません。

今回は行編で示したことを古文調にしたものを紹介します。一部紹介しましたが、これを基にその説明をしたのが前回の記事です。文法的におかしな部分もあるかも分かりませんが、古文に詳しい方がいらっしゃいましたら、ここをこう直した方がよいなどご指導頂きたいと思います。


つつしんで高森の行を案ずれば、表裏の義あり。その表といふは聞法なり。聴聞なり。聴聞といふは、高森顕徹会長の話を聞くことなり。曰く、真剣に聞くべし。命懸けて聞くべしと。

『御一代記聞書』に曰く、「ただ仏法は聴聞にきはまることなり」。また映画『なぜ生きる』に曰く、「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」

然るに「聞く一つ」といへども、聞法のみにては「絶対の幸福」を獲ず。高森に曰く、聞きたることを実践せよと。問う。何を実践す。答ふ。因果の道理なり。因果の道理といふは、すなはち廃悪修善なり。

その裏といふは聞法、廃悪修善の二行なり。これを修めて求道し、絶対の幸福を獲得すべし。求道を或は縦横の線と顕し、或は宿善厚くなる道程と顕し、或は二河譬の白道と顕し、或は三願転入の道と顕すなり。

高森に曰く、光に向かへと。光といふは縦線なり。信一念なり。決勝点なり。卒業なり。「人生の目的」完成なり。「絶対の幸福」なり。彼へ向けて、この横線を進むべしと。進む術は上にありて知るべし。横線を進み、縦線に到達する者、「絶対の幸福」を獲得するなり。その過程を求道と名づけたり。

また曰く、宿善薄き者、宿善を求めよと、厚くせよと。宿善厚くする術は、一に「熱心な聞法」なり。二に「五正行の実践」なり。すなわちこれ勤行なり。曰く、朝夕二度、欠くこと無く『正信念仏偈』、『御文章』を拝読せよと。三に「六度万行の実践」なり。布施(親切といふ)、持戒(言行一致といふ)、忍辱(忍耐といふ)、精進(努力といふ)、禅定(反省といふ)、智慧(修養といふ)なり。曰く、真剣に修すべしと。「善をしなければ信仰は進みませんよ」と。また破邪顕正せよ。財施せよ。高森顕徹会長並に上司の指示に無条件服従せよとなり。これらが行業を修して宿善薄きより厚きに至り、やがて宿善開発の時節到来するなり。時節到来する者、「絶対の幸福」を獲得するなり。その過程を求道と名づけたり。

また曰く、煩悩と格闘し、白道を進めと。白道とは、善導和尚の二河譬に依りけり。自力の求道を顕すなり。白道の中間に三定死あり。絶体絶命なり。その時、行者弥陀の喚び声を聞くなり。喚び声を聞く者、「絶対の幸福」を獲得するなり。その過程を求道と名づけたり。

また曰く、三願転入せよと。三願とは、弥陀の十九願、二十願、十八願なり。まず十九願より始めよ。十九願とはすなはちこれ修諸功徳の願なり。諸の功徳を修せよ。『観経』の定散二善を修せよとなり。やがて造悪不善の自己を知らるるなり。その者、二十願へ進む。二十願とはすなはちこれ植諸徳本の願なり。諸の徳本を植えよ。念仏を称えよとなり。やがて行者、地獄一定の自己を知らるるなり。必定地獄なり。地獄は一定すみかぞかし。その者、十八願へ進む。十八願に転入する者、「絶対の幸福」を獲得するなり。十九願より始めて十八願に至る過程を求道と名づけたり。

しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。信心は自利各別にして、利他の一心にあらず。

六度万行はすなはちこれ雑行なり。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。

五正行はその行殊勝なりといへども、助正間雑するなり。朝夕の勤行を「五正行の実践」といふにはあらず。これ聴聞なり、御恩報謝なり。行者、助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。

高森は念仏の一行を勧めず、南無阿弥陀仏の六字のこころを説かず。雑行、助正間雑の行を授ける悪知識なり。彼の者の話を聞くを「聞法」といふにあらず、「聴聞」といふにあらず、「聞邪義」といふべきなり。彼の教を弘めるを「顕正」といふにあらず、「法施」といふにあらず、「弘宣邪義」といふべきなり。彼の教に献金するを「布施」といふにあらず、「財施」といふにあらず。彼並に上司に従ふを「諸善」といふにあらず、「万行」といふにあらず。これをもっての故にその裏といふは、聞邪義、弘宣邪義、献金、服従、助正間雑、雑行なり。

あきらかに知んぬ、これ凡夫自力の行にして、不回向の行と名づけざるなり。しかのみならず、是は是、組織拡大活動にして諸善万行といふべきにあらざるなり。故に知りぬ。真実の行に非ざるといふことを。然れば、高森の教を学び行を修すといへども、真実の行信を獲て報土に入ること無し。

悲しいかな、親鸞会の会員、六度万行といふも修諸功徳といふも定散二善といふもこれ名ばかりなり。朝夕の勤行と号して助業をこのむ。たとひ如実の善といへども、是は是、雑行なり、助正間雑なり。その実は聞邪義等の悪業なり。この諸の悪業をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。悪業をもっての故に悪道に堕する、これ道理なり。高森の行、顕し終りぬ。

高森の教行信証(行編) - つつしんで高森の行を案ずれば、表裏の義あり。その表といふは聞法なり。その裏といふは聞邪義、弘宣邪義、献金、服従、助正間雑、雑行なり

高森教」のやり方は「絶対の幸福」という現世利益で聞く者を釣り、「絶対の幸福」を獲るにはと、ありもしない方法論を説いて聞く者を組織拡大活動に駆り立てるというものです。

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。(『御文章』1帖目11通)

等のお言葉を挙げて「死んでゆく時は何もたよりにならない」と説き、

「難度海を度する大船」に乗れば「絶対の幸福」という幸せな人生にガラリと変わる。その時、「よくぞ人間に生まれたものぞ」と生命の大歓喜が起き、一切の苦労が報われるのだから、そこまで求めよ。無常は迅速であり、罪悪は深重、一息切れたら後生は一大事。仏法の為には身命をも捨て、財宝をも惜しむべからず。

などとアメとムチを使い分け、無常と罪悪でせめ立てて人集め金集めをさせるというものです。私も、この世の無常や我々の罪悪、死の問題の解決を説く団体なのだからと、金や物、性、名誉や地位などに関して執着しない、クリーンなイメージを勝手に抱いていました。が、実態はそうではなかったのです。

100%何から何まで噓では人を騙すことは難しいです。しかし、無常や罪悪、幸福は続かない、最後は死によって崩れ去るなど、「確かにそうだなぁ」と思わせる話から入りますと、聞く者はどうもその後の話も真実なのだろうと錯覚してしまう傾向があるように感じます。一部、上に挙げた蓮如上人のお言葉などの根拠を用いてくるので、特に世間や仏教に無知な人ほど引っ掛かる傾向が強いでしょう。

そして、やがて「必堕無間」の呪縛をかけられ、「高森信心」が形成されて、「絶対の幸福」を獲ようと親鸞会に金と人を運ぶ働き蜂、働きアリと化すのです。今も活動している会員は、一生懸命になっている

高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
親鸞会に財施すること
高森会長や上司の指示に無条件で従うこと

などの行為がまさか「真実の行信」を獲るために無関係、どころかそれにこだわる事自体が獲信・往生の障害にしかならないとは露ほども思っていないでしょう。これらが「真実の行」ではなく「高森の行」であると分かればマインドコントロールは解けたも同然です。


さて、高森会長は「高森の教」である映画『なぜ生きる』にて

聞く一つで大船に乗せる

つまり「聞く一つで絶対の幸福になれる」と教えています。ですから、親鸞会では唯一無二の善知識である

高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと

が一番大事なことになっています。

ところが、聞く一つとはあくまで表向きの「高森の行」です。ということは、そうです、裏の「高森の行」が存在するのです。実際、「聞く一つ」とは大ウソで、聞いたことを実践しなければ聞いたことにならないと言うのです。で、何を実践するかというと、

善因善果 悪因悪果 自因自果

の因果の道理を説き与え、因果の道理の結論である廃悪修善を実践せよ、とこう言うのです。

善をしなければ信仰は進みません
実行しなければ、善果の現れぬは、当然である

などと執拗に「善の勧め」を説いてきます。どうやら聞く一つと言っている高森会長の教えには、「阿弥陀仏の本願」の他に「因果の道理」があり、「因果の道理」の結論であるという「廃悪修善」があるようです。このように親鸞会の教えは二本立てですから、当然聞く一つにはならず、聞いたことを実践する、というもう一つの行が出てくるわけです。

ですから、親鸞会の教義上では大きく分けると

①「絶対の幸福」に助けるとかいう高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
②高森顕徹会長の説く「因果の道理」を聞いて「廃悪修善を実践する」こと


この二つが「高森の行」であると言えます。これら「高森の行」を修めて「絶対の幸福」を求めなさいということを、あるいは「光に向かって進め」と教え、あるいは「宿善を求めよ、厚くせよ」と教え、あるいは「白道を煩悩と闘って進め」と教え、あるいは「三願転入せよ」と教えているのです。

いつもの縦と横の線で言えば、縦の線が「」であり、そこが「信一念」であり、「決勝点」であり、「卒業」である。「「人生の目的」完成」であり、そこで「絶対の幸福」になる。そこまで進めと言い、横の線の道を指します。横の線の道を進む方法は先ほど示した通りです。そうやって「高森の行」を実践し、横の線の道を進んで縦の線に到達した者が「絶対の幸福」を獲得する。その過程を求道と名づけています。

また、「宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない」として、親鸞会では「宿善を求めよ、厚くせよ」と教えています。それに関して、聴聞は「聞法善」と言って善の一つに数え、「熱心な聞法」は最も宿善が厚くなる行為と位置付けています。朝晩の勤行は「五正行の実践」といい、次いで宿善が厚くなる行為と位置付けています。それ以外の善をすることは「六度万行の実践」といい、3番目に宿善が厚くなる行為と位置付けています。これら、「聞法」「五正行の実践」「六度万行の実践」という「高森の行」を実践し、薄かった宿善が段々厚くなり、やがて宿善開発した者が「絶対の幸福」を獲得する。その過程を求道と名づけています。

また、善導大師の二河白道の譬喩を高森流にアレンジし、白道の中間で三定死となりそこで弥陀の喚び声が聞こえるとして、そこまで「白道を煩悩と闘って進め」と教えています。水火二河に代表される貪欲や瞋恚などの内からの煩悩に負けず、そして旅人が白道を進むのを妨げようとする群賊・悪獣・悪知識の言葉に惑わされずに、ひたすら白道を西へ向かって進めというのです。白道を進む方法は先ほど示した通りです。そうやって「高森の行」を実践し、白道を進み中間の三定死に到達して弥陀の喚び声を聞いた者が「絶対の幸福」を獲得する。その過程を求道と名づけています。

また、親鸞聖人の三願転入の御文を高森流に解釈し、19願→20願→18願と進むという、弥陀の救いにあうまでの三願転入の道程は「万人共通の道程」だとして、19願や20願の実践を勧めています。特に19願を強調し、「修諸功徳」「定散二善」の文言を出して「善の勧め」を説きます。「因果の道理」を聞いて「廃悪修善」を実践していくと、善のでき難い「真実の自己」が知らされてくる。そんな自分が一息切れたら「後生は一大事」だと驚き立った者に、弥陀は19願を用意され、「善をしなさい、そうしたら助ける」と誓われている。そして誠心誠意「廃悪修善」に努めるが、やはり見えてくるのは悪しかできない自分。そんな者に弥陀は20願を用意され、「念仏を称えなさい、そうしたら助ける」と誓われている。そこで念仏に目が向き、20願へと進んで真剣に称えようと努める。ところが(真心からの)念仏も称えられない自分が知らされ、「地獄一定の自己」がハッキリする。そこで「そのまま救う」18願に転入し、救われる。大雑把に言うとこのような理論が「親鸞会流三願転入の教え」です。一つは「後生は一大事」だと驚き立つため、もう一つは「20願に進む」ために二重の「善の勧め」をし、先に示した「高森の行」を実践し、三願転入の道程を進んで18願に転入した者が「絶対の幸福」を獲得する。その過程を求道と名づけています。


このように、切り口を変えては「高森の行」を勧める親鸞会ですが、「六度万行」、19願の「修諸功徳」、『観経』の「定散二善」等いわゆる「諸善万行」はいずれも報土の真因ではありません。またそれらを修める際の信心はそれぞれ行ずる者によって異なる自力の信心であり、利他の一心、他力の信心ではありません。(※)

廃悪修善の実践」「六度万行の実践」といっても、それらは「雑行」です。真宗に「雑行」の勧めはありません。なぜなら、阿弥陀仏の光明は「雑行」という自力の行をまじえるものを照らし摂めることはないからです。(※)

五正行の実践」も、行は殊勝ではあるけれども、それでは「助正間雑」であり、「なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし」(「行文類」)と念仏一行を「真実の行」だと教えられた親鸞聖人に反します。なお、朝晩の勤行は「五正行の実践」とは言いません。勤行は聴聞であり、御恩報謝です。(※)五正行の実践」をしているつもりの会員は、助正間雑し、定散心雑するがゆゑに迷いの世界を離れることがないのです。(※)

このような「雑行」、「助正間雑」を勧める高森顕徹会長には、当然「念仏一行」の勧めなどありません。また、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」も正しく説きません。唯一無二の善知識はおろか、とんでもない「悪知識」であります。そんな者の話を聞くことを「聴聞」「聞法」とは言わず、「聞邪義」とでも言うべきです。そんな者の説く教えを弘め伝えることを「顕正」「法施」とは言わず、「弘宣邪義」とでも言うべきです。そんな者が会長を務める団体に献金することは「布施」でも「財施」でもなくただの「献金」であり、そんな者やそんな者を崇拝する上司の指示に無条件で従うことは「諸善」でも「万行」でもなくただの「服従」なのです。このようなことですから、いくら「高森の教」を学び「高森の行」を修めても「真実の行信」を獲て報土往生することは無いのであります。

悲しいことに親鸞会の会員は、「六度万行」「修諸功徳」「定散二善」といっても名ばかりの悪業悪行を勧められ、これを修めています。朝晩の勤行として「助正間雑」を勧められ、これを修めています。聴聞といっても、悪知識からの邪義を聞いて信じているだけです。実態は「聞邪義」「弘宣邪義」「献金」「服従」です。このもろもろの悪業悪行を修めて無量光明土に生まれようとしても、絶対にできません。それどころか、悪業をもっての故に悪道に堕するのが高森会長の説く因果の道理の必然です。


以上、「高森の行」を顕し終わりました。これを前回になぞって古文調で書きますと、

つつしんで高森の行を案ずれば、表裏の義あり。その表といふは聞法なり。その裏といふは聞邪義、弘宣邪義、献金、服従、助正間雑、雑行なり。 ・・・ 故に知りぬ。真実の行に非ざるといふことを。

といったところでしょう。「高森の行」に執心してこれを修める者が「真実の信」を獲て「真実の証」を開くなど絶対にできないことがよくお判りになったと思います。会員の皆さんは、一刻も早くこのような邪義から離れ、「真宗の教行証」を敬信して、ことに如来の恩徳の深いことを知らされて頂きたいと思います。

高森の教行信証(教編) - それ高森の教を顕さば、すなはち映画『なぜ生きる』これなり

高森顕徹会長は、迷いの世界を果てしなくさまよい苦しみ続ける私達を出離させ、往生成仏せしめるという崇高な阿弥陀仏の本願を、人生を明るく楽しくわたす大船とかいった低俗な本願に貶めています。そして、本願の大船に乗ったことを「絶対の幸福」だとか、「絶対の幸福」になることが「人生の目的」だとか言って、そんな幻想的な楽、現世利益を獲ることを教えたのが親鸞聖人であるかのように吹聴しています。親鸞会の出版物は少なくないですが、いずれも「人生の目的」「絶対の幸福」を前面に打ち出しております。

阿弥陀仏の本願」=「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

この説明は毎回ブレませんから、親鸞会の教義をうかがうに、それは「絶対の幸福」を教えたものと言えます。しかし最近は非難を恐れて「絶対の幸福」とは何なのか、その説明はハッキリせずにブレまくりです。仕方なく過去から持ってきますと、講師部員や先輩から教わった話では

色褪せない、薄れない幸福
絶対に変わらない崩れない安心、満足、喜び、幸せ
たとえ死が来ても崩れない幸福

などというものでした。著書を参照しますと、

『なぜ生きる』
万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、”よくぞこの世に生まれたものぞ”の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである
一切の滅びる中に、滅びざる幸福こそ、私たちすべての願いであり人生の目的なのです
焼けもせず、流されも、盗まれもしない、いつも満ちている無上の幸せ

『こんなことが知りたい②』
どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜び
何時でも何処でも満足一杯、喜び一杯、安心し切って明るい生活ができるようになり、人生の醍醐味を心ゆくまで味わうことができるようになる

などです。こうした幸せになることが「人生の目的」であり、「人生の目的」を教えられたのが親鸞聖人であるというのです。ところが、どんなに親鸞会の教えを聴聞し研鑽して、推進される活動(破邪顕正、財施、会長や上司へ無条件服従など)に励んでも、親鸞聖人の教えられる信心は獲られません。なぜかと言うと、教えが親鸞聖人の説かれた「真実の教」ではなく、行が親鸞聖人の説かれた「真実の行」ではないからです。ですから、当然行ずる際の信心も「真実の信」ではないし、そんな体たらくで「真実の証」を得るなど夢のまた夢です。

それでも、たまに「親鸞会で救われました」「絶対の幸福になれました」という人が新聞や機関誌で紹介されます。その人がまこと「真実の行信」を獲たなら結構ですが、読んでみると高森会長を賛美する内容ばかり、また自慢するのは体験談のみです。喜んでいると言っても、念仏成仏し、還相のはたらきをさせて頂くのだと往還二種の回向を喜んでいる人は見たことがありません。また、それに伴う御恩報謝の活動も見られません。その程度の喜び、体験なら、他の色々な宗教の体験談でも普通に言われることです。


高森会長は「真実の教」ならぬ「高森の教」とでも言うべき独自の教えを弘めています。これには流石に

親鸞会では、「真実の教」は『大無量寿経』だと教えているではないか!

と言われそうですが、「如来の本願」は間違っていますし、「仏の名号」である「南無阿弥陀仏」の六字のこころは説かれません。第十九願成就文である「三輩の文」における「一向専念無量寿仏」を強調しながら、諸善を勧めてこれに反することを教えています。親鸞聖人がほとんど引文されなかった「五悪段」を重視し、「化身土文類」に長々と引文されている「智慧段」における胎化得失は説かれません。「流通分」のお言葉を、高森会長の話を自力で命がけで聞けという根拠に利用しています。それでいて「絶対の幸福」云々と現世利益を説いて、目的である往生成仏は「絶対の幸福」のおまけの如き印象です。肝心な説明には高森理論を用い、高森会長の話や著書で説明する有様です。「真実の教」を装い、「高森の教」を根本として話をしているというのが実態です。

では、「高森の教」とは何でしょうか? かつて高森会長は大沼法竜師や伊藤康善師の著書を剽窃して『会報』全五集を書き、「現代の教行信証だ」などと会員に呼ばせていました。しかし、パクリ本であることがばれたからか、今は絶版です。また、本願寺派と「宿善」について教義論争をした結果をまとめた『本願寺なぜ答えぬ』も絶版です。絶版の書を「高森の教」とするわけにもいきませんので色々と考えていましたが、やはり

映画『なぜ生きる』

でしょう。『なぜ生きる』『なぜ生きる2』も候補ですが、映画『なぜ生きる』は『なぜ生きる』に書いてある内容で高森会長が強調したい部分を映像化したようなものですし、今やあれだけ騒いだ「三願転入の教え」はすっかり影を潜め、最近の高森会長の話はほぼこの作品の解説となっていることからそう言えると思います。今年で親鸞会結成60年だそうですが、今までの高森会長の教えの集大成と言えるでしょう。また、高森会長の年齢から考えてこれが最後の作品であるとも考えられます。


この映画の中で高森会長が重要視しているのが、

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります

というセリフです。このセリフについての質問に答えるという話が多いことがそれを物語っています。

仏法を聞く目的は後生の一大事の解決

とは言われますが、では親鸞会では何をもって後生の一大事を解決したとするかというと、「現在、絶対の幸福に救われたかどうか」、映画の言葉なら「苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わったかどうか」で判断するのでしょうから、重要なのは

現在ただいま、絶対の幸福になること

だというのが親鸞会の教えです。それには

聞く一つで大船に乗せる

ということなのですが、実際はそうではありません。これについては次回、行編で書いていきたいと思います。ちなみに、この記事で書いてきた「高森の教行信証」の教編を古文調に書くと

つつしんで親鸞会教義を案ずるに、「絶対の幸福」あり。高森に曰く、すなわちこれ永遠の幸福なり、不変の幸福なり、不壊の幸福なりと。然るに教を学び行を修すといへども、真実の信を獲る者無し、真実の証を開く者無し。何を以ての故に、教は真実の教に非ず、行は真実の行に非ざる故なり。偶「絶対の幸福」を獲たりといへども、是は是、現世利益にして、九十五種の利益に同じ。「絶対の幸福」について高森の教行信証あり。

それ高森の教を顕さば、すなはち映画『なぜ生きる』これなり。


と言ったところでしょうか。ちょっと思いついたので書いてみました。


大沼法竜師や伊藤康善師の著書をパクっていた頃はまだ真実めいた内容もありましたが、現在は「高森教」色が強く、すっかり浄土真宗とはかけ離れた一新興宗教の教えであることが露呈しています。堂々と教えを公開せず、会員だけに実際の「高森教」を説く姿は、まさに土蔵秘事の法門ならぬ二千畳秘事の法門と言えます。こんなくせ法門に騙されて、「真実の行信」を獲られず真実の証果を開けないことがないよう、会員の皆さんには早く教義の誤りに気付いて頂きたいものです。



【参照】
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』今までの教義間違いを「なかったこと」にしようとする高森会長のアニメ映画「なぜ生きる」への偏重
『21世紀の浄土真宗を考える会』「三毒・五悪段」の基礎知識
『飛雲』自力の聞しか知らない高森顕徹会長と会員の関係は、善鸞と善鸞の言うことを信じて親鸞聖人の元に行く気のない同行

ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず

ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず。『教行証文類』後序

皆のコメントを見ていて思った。俺も一退会者として、退会者の皆の気持ちはよく分かる。俺だって、いつまでも過去の事を言われ続けてくどいと思ってる。ムカつくよ。腹立たしいさ。でもね、侮蔑に怒りや憎しみの心、報復の心や勝他の心でもって返すというのもまた違うと思うんだ。

俺らは親鸞会に騙されて一時そこに身を寄せて、これこそ真実の仏法だと信じて聞き求め、その布教活動もしてきた。でも、そんな者をも阿弥陀さまは決して見捨て給わず、本願力を回向して真実の行信を与え、真証の証へ導いて下さっているじゃないか。その如来大悲の恩徳を憶おうよ。ただ仏恩の深きことを念おう。

アングリマーラの話を紹介して下さった方もあるが、俺らは石を投げられたわけでもなければ、棒でめった打ちされたわけでもなし。お釈迦様はアングリマーラに「耐えなさい」と教えられている。なら俺らも耐えて、それを越えていこう。仏恩の深きことを念うて、至徳を報謝する念仏者としての人生を生きていこう。

それに、外部の者同士でやり合っていても何も得るものがない。ここは親鸞会教義の誤りと正しい浄土真宗を明らかにする場であって、こんなことをしていても親鸞会が喜ぶだけだと思うんだ。だから、気持ちは分かるけどもうこの辺で止めよう。それでも気持ちがおさまらなければ、ここを介さず直接やり取りしたらいいと思う。

俺らは、親鸞会に染まっていた頃、退会当初とはもう違うんだ。本願を信じ念仏を称えて、必ず仏になるべき人々の仲間になったんだ。嘲りや侮辱を受けても、念仏者としてそこを越えてゆこう。如来より賜った白道を一歩一歩進んでゆこう。時に水火の波に足元が見えなくなる時もあるけれど、口で言うほど容易いことじゃないけれど、お前が言うなって言う人もあるかも知れないけど、教えの光を受けて、お念仏申す人生を生きて行こう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

高森の教行信証(総序編) - 阿弥陀仏の本願は、苦しみの波の絶えない人生の海を明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的(=絶対の幸福)だ

親鸞聖人が「真実の教行信証」を教えられたのに対して、高森顕徹会長は独自の教行信証を会員に説き与えています。「真実の教行信証」と親鸞会の教えの違いは歴然で、浄土亜流どころか全く別物、まさに「高森教」「高森の教行信証」と名付けるのがふさわしいかと思います。

それが証拠に、『教行証文類』総序のお言葉の解説からして既に「浄土真宗」ではありません。

ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。

会員なら誰でも知っている言葉だと思いますが、これを高森顕徹会長は

弥陀の誓願は、私たちの苦悩の根元である無明の闇を破り、苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的だ」(『なぜ生きる』p.115)

と訳しています。これで正しいだろうと信じ込んでいる会員ばかりでしょうが、違います。「難思の弘誓」「難度海」「無碍の光明」「無明の闇」どれも正しくありません。

難思の弘誓」=「弥陀の誓願」≠「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

ですし、

無明の闇」=「疑情」=「自力疑心」≠「後生暗い心

ですし、

無碍の光明」=「無明の闇を破する恵日」≠「後生明るくする、智慧の太陽」(『なぜ生きる』p.282)

です。どれをとっても「高森教」が混じっているので、会員は親鸞聖人の仰せをそのままお受けできません。


難度海」にしても当然「高森教」が混じっています。高森会長は「苦しみの波の絶えない人生の海」とか言っていますが、そんな低レベルの話ではないのです。そもそも「難度海」という言葉は、『十住毘婆沙論』易行品

かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。われ自在人を礼したてまつる。

にあって、聖人はこれを「行文類」に引文されています。龍樹菩薩は、聖道門の八聖道(八道)を船に譬え、その船に乗って難度海を度するとされたのです。

難度海」とは生まれてから死ぬまでの人生だけの事ではありません。「」とは、過去無量劫から未来永劫に亘って生まれ変わり死に変わりを繰り返し、永遠に苦しみ彷徨い続ける、この迷いの世界の広く果てしないさまを例えたものです。それは、「難度海」を「生死の苦海」と表現されていることからもお判りになるかと思います(『高僧和讃』)。そして「度し難い」とは、こうした広く果てしない迷いの世界を出ることが難い、つまり我らは六道から離れられない、出離できないことを仰ったものです。この世を生きていくことが苦しいとか、そういった低次元の話ではないのです。

このようなことですから、「阿弥陀仏の本願」が「難度海」を「度する大船」であるというのは、この広く果てしない迷いの世界を自分の力では出離できないことを知って、「阿弥陀仏の本願」が成就したすがたである「南無阿弥陀仏」という「大悲の願船」によって迷いを離れなさいと、18願に帰依することを教えられたものです。要は二種深信の言い換えです。これは世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上での非常にレベルが高い話であって、人生を明るく楽しく生きるだとかいう低レベルの話ではないのです。


この非常にレベルが高い話を、低俗な話に貶めている一つが、「難度海」の説明の際に必ずと言っていいほど出てくる丸太や板切れの話です。「難度海」にはたくさんの丸太や板切れが浮いていて、それらは金や財産、地位や名誉、友人や恋人、妻子、才能、健康、仕事、趣味、生き甲斐などである。私達はそれらにすがっては裏切られ、すがっては裏切られを繰り返してやがて力尽きて死んでゆく等と言っていますが、親鸞聖人の上にはそういった丸太や板切れについての言及はありません。聖人は先ほども申し上げたように、世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上で、自分の力では出離できないことを知って18願に帰依し、念仏成仏せよと教えられた方です。木の深信」という珍しい信心を獲た人物がこだわっている丸太や板切れなどは、最初から問題外なのです。

高森会長のこの例えは、当てにならないものを信じて生きているという点では判り易いですが、「難度海」を説明するには大分不適切です。例えでは、大船に乗るには丸太や板切れを捨てなければなりませんが、本願を信じ念仏するようになっても丸太や板切れにすがる人生は変わりません。相変わらず信じて、たよりにして、あて力にして生きていくのです。命や健康を信じて生きているし、金や財、妻子をあてにして生きています。滅多なことはなかろう、今日も無事に過ごせるだろうと日々暮らすことは変わりません。時に信じているものに裏切られることもありますが、そうしたら大なり小なり苦しむのです。信心獲得したら丸太や板切れをあて力にしない人生になるように錯覚する方もあるかも知れませんが、そうではありません。

第一、丸太や板切れの話をするのであれば、「高森会長も丸太」「親鸞会も板切れ」と、知識や組織をあてにすることをも捨てよと説かねばなりません。ところが現実はどうでしょう? 会内では「誰が何と言おうと高森先生が正しい」「親鸞会に間違いない」ということを強調する話ばかりで、会員の皆さんは教義や組織への批判には耳を塞いで頑なに信じ込んでいませんか? 疑問に思うことがあっても、「教義は正しいがついていけない自分が悪い」と親鸞会を絶対視していませんか? 本当にまことなのは「ただ念仏のみ」「南無阿弥陀仏」だけだと言わなければ丸太や板切れの話にはならないのですが、そんなことを言ったら「謗法罪」だとか言って「除名」になってしまうので誰も言いません。高森会長や組織に捨てられるのを恐れているのです。


ところで、高森会長は崇高な本願を低俗な本願に貶めるだけに留まらず、阿弥陀仏の救済法についても間違った認識を聞く者に植え付けています。「救助の大船の厳存と、方角を明示されているのが親鸞聖人である(『なぜ生きる』p.182)」などと言い、高森会長が指し示す方角の先に大船があって、そこまで泳いで求めていった先に大船に乗れるかのような印象を与えています。しかし、大船に乗せられるのは現在只今であり、すべて阿弥陀仏のお力によってであり、私の力は必要なく、また私がどこかまで泳いでいく必要はありません。逆に私が何かしなければならないと自力を加えること自体が間違いになります。ここの所は、一部では真実らしい説明もあると言えばあるのですが、「高森の教行信証」が頭に染み付いていると、突然そんなことを言われても今まで受けてきた教えが邪魔をして受け容れられないでしょう。


それから、実際に海で溺れ苦しんでいる人が救助されて船に乗れば、その前と後でガラリと変わるし、変わったことがハッキリ分かるでしょう。しかし、あくまでも譬えですから、実際に救助された時のような体験をするわけではありません。私達としては、ただ「助けるぞ」の仰せを聞き受けて念仏し、後生・往生という大事は私の手に負える問題ではないと自力を離れるだけです。本願力におまかせして念仏するようになっても、私は何も変わっていないし、周囲も何も変わりません。

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります

だとか映画の蓮如上人に言わせていますが、私達の悪業煩悩は絶えず、また罪が全て消えるわけではありませんからこうは言えません。相変わらず欲まみれであり、些細な事ですぐに腹を立てるような私達です。物事がうまくいかなかったり、悪事災難がやってきたら当然苦しみますよ。信心獲得のその時から、念仏と何の関係があるのか分からないがとにかくとてつもなく大きな幸福感に満たされてそれがずっと続くなどということはありません。幸福感は外からの作用や、内からの煩悩によって常に変化します。

他力の信心」≠「絶対に崩れない、変わらない幸福感

です。幻想的な幸福感を夢見て、そんな幸せになりたい、なれるんだと親鸞会で聞いている人は多いと思いますが、そんな幸福感を獲たのが「他力の信心」などとは思わないことです。

譬如日月覆雲霧 雲霧之下明無闇(『正信偈』)

のお言葉にしても、どんなに煩悩が逆巻こうとも煩悩が往生の妨げとはならないことを言われたのであって、私達の心が明るく愉快になることを譬えられたわけではありません。


以上、延々と述べて来ましたが、要は高森会長の教えは

阿弥陀仏の本願は、苦しみの波の絶えない人生の海を明るく楽しくわたす大船である。この船に乗ることこそが人生の目的(=絶対の幸福)だ。聞く一つで、人生を明るく楽しく生きることができる。だからワシの話だけをド真剣に聞け

という程度のもので、まかり間違っても「浄土真宗」でもなければ「仏教」でもありません。幻想的な楽をエサに組織拡大を図らんとする、ただの一新興宗教であり、「高森教」と名づけるのが相応しいと冒頭申し上げた通りです。仏語や浄土真宗の言葉はそれを真実らしく見せかけるだけの装飾品に過ぎません。会員の皆さんは、こうした一新興宗教の教義に満足せずに、正しい浄土真宗を聞き受けて念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『WikiArc』難度海
『飛雲』木の深信が立った高森顕徹会長
『飛雲』愉快な信心の高森顕徹会長と愉快な仲間たち

公園の水道が凍っていて・・・

今週は最強クラスの寒波が2つも日本上空にあるらしく、とにかく寒いです。東京は48年ぶりの寒さとなったそうです。日本海側を中心としてものすごい雪になっています。月曜日には関東でも大雪が降りましたが、その夜、奇しくも子供達は『アナと雪の女王』を見ていました。その中の、

国中が 雪と氷に包まれたの!

というセリフ通り、自分の住んでいる一帯が雪と氷に包まれてしまいました(苦笑)

木曜朝に、子供が公園に行きたいというので連れていくと、公園はまだ真っ白に近い状態でした。水飲み場の水道管は凍っていて水が出ませんでした。こんなにも冷えていたのかと思うと共に、水道設備が壊れていなくてもこうして凍ってしまえば水が出ないことがあるのだなと改めて知らされました。


お釈迦様によって説かれ、七高僧方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と脈々と受け継がれてきた阿弥陀仏の本願念仏の教えが私まで届き、現在こうして本願力をたのんでお念仏申させて頂いております。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。数え切れない有名無名の方々が「弥陀の法水」のパイプとなり、今私の口という蛇口からなんまんだぶが出てきております。有難いことです。

ところが、この教法伝持に際して、水道管の例えで言えば途中で混ぜ物を加えたり、パイプを詰まらせて飲めなくさせる人がいるのは今も昔も変わりません。古くは中国で摂論宗の一派が念仏別時意説を唱えたために当時念仏する人がいなくなってしまったなどということがありました。法然聖人の教えを誤解して、諸善も19願に誓われているのだから往生の正因となるなどと専修念仏の教えを乱す輩も現れました。善鸞も、三業惑乱の智洞も、本願念仏の教えを誤り、邪義を唱えた者達の一人です。

せっかく親鸞聖人のお名前を知り、本願念仏の教えが目の前にあっても、そこに邪義を混入されてしまえば「弥陀の法水」は飲めません。私も約8年の間、そうしたことで本願を信じ念仏することができませんでした。私のかつての仲間達も、未だ「弥陀の法水」でない、言わば泥水をすすらされてしまっていることと思います。今回、凍結した水道管を見て、私も微力なりとも教法伝持の一旦を担うと共に、泥水を精製して与える者達の邪義を暴かねばならないと改めて思いました。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード