親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(12)

蓮如上人は、『御一代記聞書』では『御文章』とは少し違った意味で「宿善」の語を使われています。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。(『御一代記聞書』233)

自分が善根を積んできたから法に遇うことができたと、「宿善」を自らの手柄のように誇るのはよくない。私達が仏縁に恵まれ、善知識にお遇いして法をお聞かせ頂く身となったのは、全て阿弥陀如来のお育てのたまものである。だから、「宿善めでたし」ではなく「宿善ありがたし」、自分の中からは到底有り得ないことが有ったのだと言うべきであるというのです。「宿善」を「如来のお育てのはたらき」という意味で使われています。また、

一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。(『御一代記聞書』234)

のお言葉では、「信心獲得すること」という意味で「宿善」の語を使われています。


本日はこれを踏まえて、親鸞会で「宿善を求めよ、厚くせよ」という教えに利用している『聞書』のお言葉を見ていきます。が、まずはこのお言葉の元になっていると見られる『安心決定鈔』のお言葉をご覧下さい。

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。(【2】)

(中略)

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。(【9】)

ここに書かれてあることは、阿弥陀仏が十劫の昔に既に本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。

阿弥陀仏はかつて法蔵菩薩であった時、「衆生往生せずは仏に成らじ」と、自身の正覚と衆生の往生とを同時に誓われています。その誓いが成就して既に阿弥陀と成られているということは、私達は本願力によって必ず往生させて頂けるということです。阿弥陀仏が衆生に代わって浄土往生のための願と行業とを完全に成就し、南無阿弥陀仏と成って絶えず私にはたらいて下さっているのです。であれば、弥陀の正覚成就と同時にすべての衆生の往生が決定していてもよさそうなものなのです。ところが現実としてはそうなっていません。その答えが上のお言葉です。ここで『安心決定鈔』には

このことわりをこころうるを本願を信知すとはいふなり。
そのことわりをききひらくとき信心はおこるなり。

等とあるように、そういった衆生往生の道理を心得る、聞き開くことが「本願を信知す」「信心はおこる」、つまり「信心獲得」ということですから、

衆生がこのことわりをしること不同なれば
=「衆生がそれぞれ信心を獲ることが同時ではないから

と解釈できます。だから、

仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども
覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども

阿弥陀仏の方では衆生を往生させる手筈が整っているが、「衆生がそれぞれ信心を獲ることが同時ではないから、人によって往生の時期に前後ができるのだ」というのです。いくら弥陀の正覚が成就して南無阿弥陀仏と成って私達にはたらいて下さっていても、私達が善知識よりそのことわりをよく聞いて信心獲得しなければ、往生はできないということです。これは、「十劫安心」を度々正されている蓮如上人の教えと全く同じです。


これを理解した上で件の『御一代記聞書』のお言葉を見れば、どういうことを仰っているかは一目瞭然です。

一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。(『御一代記聞書』307)

【現代語訳】
蓮如上人は、「万物を生み出す力に、陽の気と陰の気とがある。陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を受ける日陰の花はおそく咲くのである。これと同じように、宿善が開けることについても、おそいはやいがある。だから、すでに往生したもの、今往生するもの、これから往生するものという違いがある。弥陀の光明に照らされて、宿善がはやくひらける人もいれば、おそく開ける人もいる。いずれにせよ、信心を得たものも、得ていないものも、ともに心から仏法を聴聞しなければならない」と仰せになりました。そして、すでに往生した、今往生する、これから往生するという違いがあることについて、上人は、「昨日、宿善が開けて信心を得た人もいれば、今日、宿善が開けて信心を得る人もいる。また、明日、宿善が開けて信心を得る人もいる」と仰せになりました。

かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。

の「宿善」は、『御一代記聞書』234にある「宿善」と同じく「信心獲得すること」という意味で解釈するのが妥当です。そうなれば、ここは「衆生がそれぞれ信心を獲ることが同時ではないから、人によって往生の時期に前後ができるのだ」という『安心決定鈔』の解釈そのものであることが判ると思います。

陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり

日なたの花は早く開き、日陰の花は遅く咲くのと同じように「宿善」にも遅い速いがあると書かれていますし、

弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり
昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とあることからも、「人によって信心を獲ることに遅い速いがあるから、已に往生した人、今往生する人、これから往生を遂げる人というように往生にも遅い速いという時間の前後ができるのだ」と仰っているということは明らかです。

ところで宿善の厚薄はここでは問題にされていませんので、宿善が薄い人は信心獲得が遅く、宿善が厚い人は信心獲得が速いという意味はありません。これを意図的にねじ曲げて、

遅ー宿善が薄い
速ー宿善が厚い


という意味だとして、「宿善を求めよ、厚くせよ」と邪義を唱えているのが親鸞会です。『教学聖典(5)』には、

(問)
 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、
 その根拠を示せ。
(答)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、
 弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く
 開くる人もあり。
              (御一代記聞書)


とありまして、上記のように結び付けて説明しています。非常に悪質な設問です。


いくら弥陀の正覚が成就していても、私達が「このことわり」すなわち「仏願の生起本末」、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」をよく聞いて信心獲得しなければ往生はできません。ですから蓮如上人は

とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり

と、「聴聞」を勧めておられます。これは勿論、親鸞会で言う「熱心な聞法」とは違います。聞法善に励めとか、高森会長の追っかけをせよということではありません。本願を疑い無く聞くこと、本願をそのまま聞き受けること、それがそのまま「信心」ですから、「聴聞」に自力的要素はありません。また、「五正行の実践」だとか言って助業を勧めることもありませんし、まして「六度万行の実践」の勧めなどは一切ありません。当然です。元となる『安心決定鈔』自力・他力、日輪の事)』には

本願の功徳をうけとることは、宿善の機、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふる六字のうちに、万行・万善、恒沙の功徳、ただ一声に成就するなり。かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず。

とあって、南無と帰命して阿弥陀仏ととなふるただ一声」つまり「念仏一行」で往生が決定するからです。これ以外我らが往生する道はありませんから、「かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからず」とまで書かれています。ちなみに、ここにある「宿善の機」とは、覚如上人のお言葉でいえば「浄土教を信受する機」、すなわち18願の法を信じる因縁がある人のことです。親鸞会で教えているような意味はありません。

それに対して、「念仏一行では足りぬ」と言わんばかりに助業も勧め、更には「雑行」である六度万行も勧めているのが親鸞会です。それでいて「布施」ほどに「念仏」を勧めません。前回も書きましたが、

「どうすれば救われますか?」という問いに対する答え

親鸞聖人 聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高森会長 ド真剣にワシの話を聞け。念仏以外の助業もやれ。雑行もやれ。


という教義の違いが歴然としてあるのです。これだけ教えが正反対なのに、どうして会員の皆さんが信心獲得できるでしょうか? 信心も安心も分からなくて当然でしょう。


活動しなければ救われない

今も残って活動している会員の皆さんは、このように信じ込んで、それには「やれ聴聞だ」「やれ破邪顕正だ」「やれ財施だ」と日々推進される活動に取り組んでいると思います。このシリーズでは「宿善」について詳しく見てきましたが、いくら活動して宿善を厚くしようとやっていても、それと信心獲得とは無関係です。

弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号となふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候。往生浄土用心

私達は、己の宿善が有るとか無いとか、厚いとか薄いとか、そんなことを論じていないで、ただ「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という本願を信じて念仏を申せば、彼の仏願に順ずるが故に必ず往生させて頂けるのです。会員の皆さんは、早く浄土真宗とは真逆な教えを聞かされている事実に気付いて、そのような偽の善知識の元を離れて下さい。そして、己の宿善の有無・厚薄など気にかけず、ただ「まかせよ、助ける」という如来の仰せを聞き受け念仏して下さい。


【参考文献】
『WikiArc』トーク;口伝鈔
『飛雲』『なぜ生きる2』のトンデモ邪義41
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親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(11)

蓮如上人は覚如上人の定義を踏襲し、「宿善」を

善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁

の意味で用いられ、事あるごとに御文にて門徒の方々に書かれています。ほとんどの場合は、

同じく親鸞聖人の教えを説いても、宿善の有る人はご法義を受け取るが、宿善の無い人にはかえって誹謗の元となる。だから、どこでも、誰彼構わず手広く法を説けばいいというものではない。法を説く時には、相手の宿善の有無をよく見定めて、宿善の有る人に当流の法を与えなさい。

と、法を伝え弘める際の注意として「宿善」の語を使われています。親鸞会のように、「宿善」に

これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

という意味を持たせ、

 宿善と言うのは、過去世の仏縁のことであるが、過去世に仏縁浅き者は、現在に於いて真剣に宿善を求められねばならない。
 でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。
 されば宿善は待つに非ず、求むるものである。
(『白道燃ゆ』p.203)

などと言って「宿善を求めよ、厚くせよ」と教えられた箇所は1箇所もありません。

その1箇所もないデタラメ教義を捏造し、己の欲望である「打倒本願寺」「組織拡大」「会員倍増」等の実現のために会員を利用し搾取してきたのが高森顕徹会長及び一部の幹部です。教義上は「因果の道理」や「七仏通戒偈」からの「廃悪修善」、十九願の「諸功徳」、『観経』の「定散二善」、菩薩の修行内容である「六度万行」等を根拠としての「善の勧め」で聞こえはいいですが、既にこれだけでも浄土真宗からはかけ離れた異義です。五正行以外の一切の諸善万行は「雑行雑善」であって、

雑行をせよ

という教えは勿論、

雑行が雑行と知らされ廃るには、実地に善(雑行)をやらなければならない

という教えも浄土真宗にはありません。

こんな血で血を洗うような教えは存在しません。いくら血で血を洗っても汚れは取れず、きれいになりません。きれいにするなら、「雑行雑善」という血ではなく「弥陀の法水」という清水です。この清水によって雑行の血が落ちるわけで、清水を与えられずに雑行まみれの会員が信心も安心も無いというのは不思議でも何でもなく、至極当然なわけです。こんな教えをまともに聞いて獲信できたら逆にビックリです。

更に、この「善の勧め」が如実の善の勧めならまだしも、デタラメ教義の聴聞・教学、親鸞会への献金・勧誘、会長及び上司への無条件服従等が親鸞会の主な活動ですから、中身の教えは浄土真宗とは無関係です。言葉だけ経典や聖教の文言を用いた新興宗教です。

それを示していきましょう。親鸞聖人は「行文類」に『選択本願念仏集』三選の文を引いておられます。

「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。

速やかに迷いの世界を離れようと思ったら、つまり救われたいと思ったら、どのようにせよと教えられているかという答えがこの三選の文です。

Q.どうすれば救われますか?
A.聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。


つまり「(称名)念仏一行」です。ちなみに親鸞聖人は「信心」を強調されたというのはその通りですが、それは

「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」

という信心です。「念仏一行で助かる」、逆に言えば「念仏の他に往生の道は無い」という信心です。高森会長の説く訳の分からない信心とは異次元なものなのです。「信心」と言っても「南無阿弥陀仏」、「念仏」の他にはありません。

浄土真宗の「信心」は「至心・信楽・欲生我国」の本願の三心ですが、うち「至心」については

この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(至心釈)

と、「至徳の尊号」すなわち「南無阿弥陀仏」がその体であるとされ、「信楽」については

すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(信楽釈)

と、「利他回向の至心」がその体であるとされ、「欲生我国」については、

すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。(欲生釈)

と、「真実の信楽」がその体であるとされています。「至心・信楽・欲生我国」の三心ともに、「南無阿弥陀仏」がその体であり、「南無阿弥陀仏」以外に浄土真宗の信心は無いということです。それで蓮如上人は、

当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。(4帖目8通)

されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。(5帖目9通)

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。(5帖目11通)

それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。(5帖目13通)

されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。(5帖目22通)

等々、至る所に「信心」の体である「南無阿弥陀仏」の六字のこころを懇ろに説かれています。これを正しく説いて人々に信を獲させる、後の世を渡す橋となることが浄土真宗の僧侶としての仕事です。人々が信を獲るのは坊主の力ではなく、全く阿弥陀仏の本願力に依るのだけれども、その本願他力の法のお取次ぎをする、如来の御代官を務めるということです。蓮如上人は生涯を通してこの仕事を全うされた方と言えましょう。


ですから、この「南無阿弥陀仏」の六字のこころを伝えずして、聞く者が「信心」獲得も何も無いんですよ。それが親鸞会ではどうですか? 「南無阿弥陀仏」の六字のこころ、会員の皆さんは聞いていますか?

私が会員だった時は、これと無関係なことばかり聞いていました。例えば、今話題にしている「宿善を求めよ、厚くせよ」という教え然りです。「宿善の薄い者はそのままで信心獲得はあり得ない」=「救われない」というので、宿善を厚くするための実践方法を教えられました。参考までに『教学聖典(5)』にはこんな問答があります。

(問)「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
また宿善が厚くなる順から三つあげよ。

(答)○「宿世の善根」とか、「善が宿る」とも読む。
  (1)熱心な聞法
  (2)五正行の実践
  (3)六度万行の実践


こんなデタラメ創作教義のために、今までどれだけの人が騙されて貴重な人生を無駄にしてきたことでしょう。私は8年ほどでしたが、中には20年、30年、それ以上という方もおられると思います。

最初の「(1)熱心な聞法」ですが、これは要は「高森顕徹会長の話を聞くこと」であり、「高森顕徹会長の追っかけ」でした。私が学生の頃には、既にほぼ富山でしか高森顕徹会長の話はありませんでしたが、歴の長い方々はたとえ海外であろうと「宿善を厚くしよう」と思って毎週毎週飛び回っていたことでしょう。

次に、「(2)五正行の実践」と言われて勧められたのは朝晩の勤行でした。『正信偈』や『御文章』を読むのは読誦正行、阿弥陀仏を思い浮かべるのは観察正行、ご名号に礼拝・合掌するのは礼拝正行、念仏称えるのは称名正行、お仏花やお供物を供えたり人を誘ったりするのは讃嘆供養正行だと説明され、「宿善を厚くする行い」として勧められました。

そして、「(3)六度万行の実践」では主として第一の「布施」と称する「法施」と「財施」、要は「勧誘(人集め)」と「献金(金集め)」を勧められました。親切や親孝行、言行一致といった世俗的な善の勧めも無くはありませんでしたが、より強烈に勧められたのは一にも二にも「布施」でしたね。実態は言わずと知れた「善もどきの善」ですが、教義上からしても「雑行の勧め」でした。

まぁ「南無阿弥陀仏」の六字のこころとは無関係なことばっかりですわ。聞法すら「聞法善」だとか言い、「宿善を厚くする手段」「救いに近づく行い」として捉えさせているのですから、これで聞く人が「信心」を獲られる方がおかしいです。浄土真宗とか言いながら、如来の御代官を務めるどころか、名聞・利養・勝他のために会員を利用し、引っ張り回し、搾取し続けて、完全に「世渡る僧」の状態です。親鸞聖人や蓮如上人が高森顕徹会長の話を聞いたら、どんなにか嘆くことでしょう。

ちなみに先ほどの問いを高森顕徹会長や親鸞会にすると、答えは以下の通りです。

Q.どうすれば救われますか?
A.ド真剣にワシの話を聞け。念仏以外の助業もやれ。雑行もやれ。


法然聖人、親鸞聖人のお答えと真逆であることが分かるでしょう。簡単に教えの違いをまとめます。


「どうすれば救われますか?」という問いに対する答え

親鸞聖人 聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高森会長 ド真剣にワシの話を聞け。念仏以外の助業もやれ。雑行もやれ。



浄土真宗とは無関係」、「言葉だけ経典や聖教の文言を用いた新興宗教」だと言ったのはそういうことです。こんな浅ましい外道邪教を真実の仏教、本当の親鸞聖人の教えなどと信じ込んでいる実態に、会員の皆さんは早く気付いて頂きたいものです。



【参考文献】
『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い9

自分の創作教義、創作アニメに浄土真宗の言葉を当てはめているような説明ばかりの高森顕徹会長

『飛雲』自力の迷情とは後生どこへ行くかわからない心とか言っているお笑い悪知識

にあるように、最近の高森顕徹会長の話は同じような内容でしかも中身は浄土真宗ではありません。

映画『なぜ生きる』の蓮如上人のセリフに関する質問
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか。」


に答えるという形で日曜日も座談会があったものの、内容も、出てくる根拠もこれまでとほとんど同じでした。

本願を信受するは、前念命終なり。すなはち正定聚の数に入る。
即得往生は、後念即生なり。即の時必定に入る。また「必定の菩薩と名づくるなり」
愚禿鈔【28】)

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」ともならひはんべれ。改邪鈔【19】)

「某[親鸞]閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と[云々]。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。改邪鈔【16】)

他にも出てきたでしょうが、主だったものはこの3つ。

弥陀の願船に乗せて頂くと、絶対の幸福にガラリと変わる
比較することない幸福にガラリと変わる、物凄く変わる
それを親鸞聖人は「信受本願前念命終・・・」と教えられている
絶対の幸福まことだった、絶対の幸福になった

と、創価学会用語をパクって浄土真宗の信心を騙り、

一念で心の臨終を迎えるのが「仏法の信心」
この一念(共発金剛心の一念)にお釈迦様の一切経が収まる
「ガラリ」は「一念」を言われたもの
「ガラリ」に一切経が収まる

などと言って、自分の創作教義、創作アニメに浄土真宗の言葉を当てはめているような説明ばかりでした。

そして、最後の方にちょろっと本願成就文に結び付けたような話をし、

其の名号を聞く一念で(絶対の幸福に)なれる
そこまで進ませていただきましょう


というような感じで終了したそうです。ここで縁があった方に伺いますが、「聞其名号」の説明はありましたか? 序盤の方では、

今日一念で本願を信受できる

とか何とか言っていたらしいですが、聞いた人はどうですか? 本願を信受できましたか? 結局

続けてワシの話を聞け

ということで終了でしょう? こんなことばっかり繰り返して一体何の意味がありますか? 信受すべき本願とは何か、本願を信受するとはどういうことか、この説明が無い、あるいはデタラメでは本願を信受しようがないでしょう。会員の皆さんはいい加減に気が付くべきですよ。そうしなかったら、夢幻の人生、あっという間に終わってしまいます。これでは、世の人々の営みに親鸞会の組織拡大活動を足しただけの人生で終わってしまいますよ? それで本当に後悔ないですか?


まず、本願とはどのようなことかと言えば、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通
「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」『御文章』3帖目2通
「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」『御文章』4帖目8通
「十方衆生、願行成就して往生せば、われも仏に成らん、衆生往生せずは、われ正覚を取らじ」『安心決定鈔』【2】

等と教えられています。つまり、

念仏を称える者を極楽に迎えて仏にしよう。もし出来なければ私は阿弥陀という仏に成らない。

ということです。

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

だとかいう、たわけた誓いではないのです。この世の我々の幸福感をどうこうするとかいう低次元のことを論じているのではありません。無始曠劫より流転してきた、さとりとは無関係な私達を救ってこの上ないさとりを得させよう、仏にしようという遥か高次元の話をしているのです。そして、この願成就したすがたが南無阿弥陀仏ですから、南無阿弥陀仏念仏と無関係な本願など有り得ないのです。では、高森会長の本願の説明に南無阿弥陀仏念仏は出てきますか? 南無阿弥陀仏と無関係なことばかり説いていて、聞く者が本願を信受できる方が無理がありますわ。

次に本願を「信受」するということですが、これは教えを信じ領受するという意で、仏の救いに対して疑いなく信じることです。親鸞聖人が「疑蓋雑はることなし」「ふかく信じて」等と仰っているものです。これは凡夫が自分で起こす信心ではありません。如来より回向せられる大信心ですから、

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「信文類」経釈文自釈

と示されています。真宗では、本願を「信じ」るというのは本願を疑い無く「聞く」ことの他には無いということで、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。一念多念証文

と仰せです。ですから、本願を「信じ」るというのを平たく言えば、

「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という本願を疑い無く、我が胸に持ち替えずにそのまま聞き受けて

ということです。如来の仰せに対して我が考えを差し挟まず、仰せが届いたそのままが「信心」ということです。如来の仰せを素直に聞いて、そのまま受け容れたすがたが「信心」ということです。そのまま受け容れたら、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

という本願なのですから、必ず「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と念仏称えるのは当然のことです。また、受け容れる前であっても、「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という本願をお聞きしたなら往生には念仏一行となるのも当然のことです。これに念仏以外の余行を交えていたら、お前何を聞いてるんだという話になるでしょう? 阿弥陀仏は

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。『選択本願念仏集』難易義

称名念仏一行を本願の行として選び択り、あまねく一切衆生を浄土に往生させようという本願をお建てになったのですから、疑い無く信じる前であってもそうした本願であることを聞いたなら、称名念仏一行となるのは当たり前のことです。ですから、高森会長の話を聞くことや財施や破邪顕正などが獲信の因縁(宿善)になるとして、これらを修めて助かろうとしている者が阿弥陀仏の本願を知らないというのは明白な事実です。更に目指しているところが往生ではなく

「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、夢・幻のようなこの世の幸せ

では方向違い、見当違いもいいところです。浄土真宗とは無関係の異教徒がやることです。

さて、それで「本願を信受」するとは本願が成就したすがたである南無阿弥陀仏を信受するということです。私達の往生は南無阿弥陀仏の名号によるしかないと、往生には念仏一行と定まり、我が手を離れて阿弥陀仏に100%往生をおまかせした、託したということです。その時に自力の計らい、前念が命終わり、同時に正定聚の数に入ると明らかにされたのが『愚禿鈔』のお言葉です。

同じく念仏一行でも、称えた念仏に功徳があると思って、それを積み重ねて助かろうという自力の念仏一行ではありません。阿弥陀仏に全ておまかせした他力の念仏一行です。私が「助かりたい」と思う遥か以前から、「まかせよ、助ける」と願われ、差し向けられている救いの御名が、私の口を通して顕現しているのが「なんまんだぶ、なんまんだぶ」というお念仏なのです。

われとなえわれ聞くなれど南無阿弥陀仏
 つれてゆくぞの親のよび声(原口針水和上)


とは、そのようなお心をうたわれたものでしょう。「助かりたい」という自力の臭みは全くなく、「まかせよ、助ける」の仰せに「お順いいたします、おまかせいたします」と信順した他力の念仏一行です。

余談ですが、自力の念仏一行さえ報土には参れません。念仏と雑行の兼行なんて論外です。まして念仏と雑行の兼行まがいのことをやっている会員の皆さんが「本願を信受」できないのは至極尤もな話なのです。


このように、往生には念仏一行と本願の仰せを疑い無く信じて念仏を称えるのがまこと本願のお心にかなった念仏の行者だということを、親鸞聖人は

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とお示しなのであります。それに対して、往生には念仏一行どころか、

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

等と念仏一行を否定しているのは何宗の者なのでしょうか? 少なくとも浄土真宗でないことは明らかです。

こんな偽の創作教義、創作アニメを浄土真宗だとして信じて聞いている人はまことにお気の毒です。早く、このような邪義を言う悪知識の手から離れて本物の浄土真宗を聞き、「念仏する者を極楽へ迎えよう」という本願をそのまま受け容れて念仏して頂きたいと思います。



【追記】
林遊@なんまんだぶ様より、「前念命終」と「共発金剛心」についてリンクを貼って頂いたので追記します。

前念命終
共発金剛心

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(10)

これまで数回に分けて、蓮如上人が「宿善」について書かれており、高森顕徹会長が『教学聖典』に断章取義している御文章を見てきました。

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。
この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
(御文章2帖目11通)

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。(3帖目12通)

ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(4帖目8通)

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。(4帖目1通)

上の4通の御文は、いずれも「善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁」という意味で「宿善」の語を用いられています。これに「宿世の善根」「前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと」の意味を含められなくもないですが、高森教で言うところの

これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

の意味で使われている箇所はありません。

なお、他にも、80通の『御文章』の中に「宿善」について書かれているお手紙はあります。

これによりて、その阿弥陀如来をば、なにとたのみ、なにと信じて、かの極楽往生をとぐべきぞなれば、なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。2帖目9通

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。2帖目13通

まづこの光明に宿善の機のありて照らされぬれば、つもるところの業障の罪みな消えぬるなり。3帖目1通

宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。3帖目2通

これによりて、いまこの時節にいたりて、本願真実の信心を獲得せしむる人なくは、まことに宿善のもよほしにあづからぬ身とおもふべし。もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。 3帖目9通

されば他力の信心発得せしむるうへなれば、せめてはかやうにくちずさみても、仏恩報尽のつとめにもやなりぬべきともおもひ、またきくひとも、宿縁あらば、などやおなじこころにならざらんとおもひはんべりしなり。4帖目4通

それ、中古以来当時にいたるまでも、当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、さらに宿善の有無といふことをしらずして勧化をなすなり。所詮自今以後においては、このいはれを存知せしめて、たとひ聖教をもよみ、また暫時に法門をいはんときも、このこころを覚悟して一流の法義をば讃嘆し、あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、この人数のなかにおいて、もし無宿善の機やあるらんとおもひて、一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、近代人々の勧化する体たらくをみおよぶに、この覚悟はなく、ただいづれの機なりともよく勧化せば、などか当流の安心にもとづかざらんやうにおもひはんべりき。これあやまりとしるべし。 4帖目5通

ただし不宿善の機ならば無用といひつべきものか。4帖目7通

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、他力信心といふことをばいますでにえたり。5帖目12通

宿縁」という言葉も含めて抜き出しましたが、5帖80通の中で漏れている御文がありましたらコメントにてお知らせ下さい。『帖外御文』は調べていません。『帖外御文』で「宿善」について書かれている御文がありましたら、全文を挙げた上で下線や色をつけて同様にコメントにてお知らせ下さい。

いずれもいずれも、「18願の法を信じる因縁」という意味で解釈するとしっくり読めるものばかりです。やはり、

これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

という意味で仰っている御文は皆無です。親鸞会教義に染まっている人は「宿善」という言葉を目にするにつけ「宿善を求めなければ・・・」等と条件反射的に解釈してしまうかも知れませんが、会で勧めている財施や破邪顕正といった活動が如実の善だとしても、それらは「なげすてて」としか言われていない「もろもろの雑行雑善」です。親鸞聖人、蓮如上人の教えに

雑行の勧め

はありますか? 「なげすてて」としか言われていないのであれば、そのお勧めに順い、獲信・往生のためと思ってやっている行いを一切止めて、ただ「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」をそのまま聞き受けて念仏しましょう。それが

なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ御一代記聞書159)

ということです。もし親鸞聖人、蓮如上人のお勧めに順わず、「誰が何と言おうと高森先生が正しい!」と思い定めているなら、残念ながらそのような「無宿善の機にいたりてはちからおよばず」というところでしょうか。



今回は、「宿善まかせ」という文言があり、今年の親鸞会報恩講でも出てきた

○あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。4帖目15通

のお言葉を見ていきたいと思います。全文はリンク先へ飛んでご覧下さい。大意としては

『ご文章の大意』大坂建立章の大意

が参考になるかと思います。

蓮如上人は大阪に後世の「石山本願寺」を建立されましたが、そこに住まいしているのは「一生涯をこころやすく過」すためでも、「栄華栄耀をこの」むのでも、「花鳥風月にもこころをよせ」るのでもない、

あはれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざし

があってのことだと仰っています。要は、

本願を信じて念仏し、往生極楽の本意を遂げんとする念仏の行者、信心決定の行者が多く現れるように

ということです。では、信心決定するとはどのようなことかと言うと、例えば

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
5帖目11通

と教えられています。蓮如上人は「他力の信心をとる」といっても「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」以外には無いと、ほぼ全ての『御文章』で「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を示しておられます。今回、調べがてら『御文章』を通読させて頂きましたが、既に信を獲た人も、まだの人も、時間を見つけて改めて『御文章』を拝読されたら良いと思いました。「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」で溢れており、しかも平易な文章で書かれていて、これほど私達に適した書物は無いのではと思われます。

南無」の二字は、「もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころ」です。「親鸞会へのお布施」も「破邪顕正」も、「高森会長及び上司への無条件服従」も、たとえ如実の善だとしても、それらは念仏以外の「自余の万善万行」、「雑行雑善」です。「自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる」と蓮如上人は仰せです。「もろもろの雑行(もどき)」を勧める高森会長の教えが、「南無の二字のこころに反することは明らかです。

一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる」とは、前に示したように「念仏一行」ということです。「雑行」の勧めか、あるいはせいぜい「念仏」と「雑行」の「兼行」の勧めを説く高森会長の教えをまともに聞いていて、その会員が「一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる」わけがありません。

阿弥陀仏」の四字は、「一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれ」です。「念仏を称える者を極楽へ迎えるぞ」という本願招喚の勅命にすっかりおまかせし、往生には念仏一行と定まったのを「南無」の二字で、その念仏の行者を造作も無く助けるというのを「阿弥陀仏」の四字で示しておられます。

このように「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を心得たのを「信心決定」というのです。ですから、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」も教えないで、聞く者が「信心決定」も何もないということがお分かりでしょう。では、高森顕徹会長の教えはどんな教えですか? 「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」はしっかり教えられていますか? 「信心決定」というと「絶対の幸福」になるとか、「真実の自己」がハッキリしたとか、「地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする」とか、そんなことばっかり言っていませんか? そんなことばっかり聞いて喜んでいる(いない?)会員の皆さんが、蓮如上人の願い通り「信心決定」できる方がおかしいんですよ。


これが「第十八の願」のこころですが、世の中には、こうした18願の法を信じる因縁の有る「宿善の機」と、18願の法を信じる因縁の無い「無宿善の機」があります。18願の法を信じる因縁の無い「無宿善の機」は、せっかくこのような素晴らしい法があることを聞いても信じず、それどころか反って謗り、中には教法を破壊しようとする者まであるため、「無宿善の機」を前にむやみやたらに法を説いてはならないと掟を作られたのが蓮如上人でした。そのような「無宿善の機」にも、日頃の悪心をひるがえして本願に帰して頂きたいとは思うものの、こればかりは私の思い計らいではどうにもならない、そのようなことで「みなみな信心決定あれかし」と思うがそれは「まことに宿善まかせ」だと書かれたのでしょう。決して、

「宿善」を厚くする行いについて、一番は聞法

などという寝とぼけた邪義を蔓延させるために「まことに宿善まかせ」と書かれたのではないことは、他の『御文章』を拝読すればすぐに分かることです。分からないのは邪義にすっかり染まっている者くらいです。


別に「浄土真宗」とか「親鸞」と名乗らずに「高森教」としてやっていくなら、私はすぐにでも彼らへの批判を止めます。だって「浄土真宗」「親鸞聖人の教え」とは関係ない「一新興宗教」ですから、勝手にやってもらって構わないです。しかし「浄土真宗親鸞会」としてやっていくなら、あんなデタラメ創作教義を本物と誤解する人がこれからも現れるでしょうし、「浄土真宗」の名が汚れますから放ってはおけません。高森会長は「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を説かず、それどころか雑行もどきの組織拡大活動に会員を利用し搾取し続ける悪知識です。会員の皆さんは早く気が付いて下さい。そしてそのような偽り、邪な善知識の手から一刻も早く離れ、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を聞き受けて念仏し、往生極楽の本懐を遂げて頂きたいと思います。

生きる意味と死んでゆく意味

ご存知の方がほとんどでしょうが、神奈川県座間市で起きた9人連続殺人事件について、連日ニュースで報道されています。詳しくは、

座間9人連続殺人事件

や、そのリンク先をご覧下さい。

容疑者の男はTwitter上で3つのアカウントを使い分け、自殺願望のある女性を次々と誘い出しては殺害していたようです。この事件をきっかけにTwitterでは規制をかけるとか、またテレビでは討論にて「(加害者と)会わなければいいということをよく教えなければならない」といったようなことを話していたりとか、とにかく

このような殺人事件を防ぐにはどうしたらいいか

ばかりが問題になっていることが気にかかりました。


どうして被害女性達が容疑者の男と会ったかというと、少なからず自殺願望があったからです。容疑者の供述によれば『実際に会ってみると、本気では死ぬ気がない人たちだった』らしいですが、「死にたい」「自殺したい」と考えていたのも事実のようです。その理由や頻度、程度は人によって様々ですが、要は

・生きていくのがつらい
・将来に希望が見出せない
・自分は誰からも必要とされていないと感じる
・自分なんかが生きていても迷惑をかけるだけだ
・何のために生きていくのか、生きる意味が分からない
・今の苦しみに耐えて生きていかなくてはならない理由が分からない
・そうやって生きていっても最後は死んでいかねばならない
・ならば苦しみ続けて死ぬのも、今死ぬのも同じこと
・むしろ今死んだ方がこれからの苦しみが無い分マシ

などの思いがあったからでしょう。無かったら自殺サイトはまず見ないだろうし、「死にたい」「自殺したい」などと書き込まないと思います。まして今回の殺人事件の容疑者と接触するなど有り得ないです。

では、どうして被害女性達は周囲の身近な人ではなく、そういった自殺サイト等にアクセスし、面識の無いサイトの人達と交流していたのでしょうか。私として考えられる理由は、自殺を考えていないと思われる周囲の身近な人に相談してもどうせ分かってもらえない、何とかなるさ的なことを言われて終わり、または相手に心配をかけて迷惑だろう、周囲が異様に騒いで多くの人に知れ渡りもっと面倒なことになって疲れるだけだから、などが思い浮かびます。相談しても根本的な解決、自分の探し求めている答えを指し示してはくれないだろうというのが大きいと考えられます。少なくとも私はかつてこのように考えて、親や周囲へ相談するのを止めました。

ならば、自分と同じように自殺を考えている人と交流した方がよいだろう、少なくとも考えていない人よりはこの苦しみが分かってもらえるだろう、少しは楽になれるかもしれない、何か変われるかもしれないと書き込みを始めたのではないかと思われます。「死にたい」「自殺したい」というのは本当の気持ちでもあるが、そういった人達の多くはそのようにつぶやき、気持ちを吐露することで何とか生き続けているのだというのです。これは言われて「なるほどな」と思いました。ところが、そんな中で今回の被害女性達は容疑者と接触し、実際に死ぬつもりは無かったのだけれども殺害されるに至ったのでしょう。


このような事件が起きるたびに、社会では様々な対策を施しますが、どれも先ほど述べた

このような殺人事件を防ぐにはどうしたらいいか

という対策に終始しています。確かにこれも大事です。でも、親鸞会じゃないですけど、肝心の

なぜ自殺をしてはいけないのか
苦しくても生きる意味は何なのか

といった根本的な部分に踏み込んで、それをしっかり教えるということがなされないのです。被害女性達が悩んだのはこれでしょう? 生きていくとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのか、そこにどんな意味があるのか。こんな大事なことを誰も教えてくれません。家庭でも学校でも職場でも、国会でも報道でも交流サイトでも、問題にするのは「生きる手段」「生き方」ばかりで、そうやって生きていくのは何のためという「生きる目的」「生きる意味」については完全に抜けていると言っていい位取り沙汰されません。色々間違ってはいましたが、私にこのことを教えてくれたのは高森会長や親鸞会の会員だけでした。

こうして火の粉ばかり問題にして、火の元は手付かずですから、日本の年間自殺者は30000人を切っても依然として20000人以上と多くの人が1年の内に自ら命を断っています。それも国の統計上ですから、実際の数字はその5倍とも10倍とも言われています。これに自殺願望がある人を足したら何百万人という数字になるでしょう。それだけ多くの人が苦しみ悩み、実際に死んでいるというのに、肝心の問題が野放し同然では解決できる道理がありません。

ところが、この「生きる目的」「生きる意味」については政治や経済、科学や医学、芸術やスポーツ、仕事や娯楽、趣味や生きがいといった分野では答えがありません。これらは、「生きる手段」「生き方」を論じているものだからです。「生きる目的」「生きる意味」について扱っているのは哲学や宗教です。当ブログは浄土真宗親鸞聖人の教えに帰依し、念仏者となった私淳心房が管理し綴っているものです。もしここまで読んで「なんだ宗教か」と思われた方、浄土真宗の教えに関心の無い方は静かにご退散下さい。




さて、続きを書きます。この人生の根本的な問題について、親鸞聖人は一つの答えを示されています。

この世は本願を信じ念仏を申して「必ず浄土に往生する方々の仲間入り」を果たす。そして命の限り念仏を申して、死ぬと同時に浄土に往生し一切の迷いを離れ、この上ないさとりを開く。

と。この世は、いつ何がどうなるとも分からない不安定な世界です。そこに、煩悩に目鼻をつけたような人間が暮らしていますから、何一つ取っても変わらないもの、確かなもの、いわゆる真実、「まこと」というものはありません。ということは、本当にたよりになるものがないということです。全てはいつか壊れるもの、変わるもの、私から離れてゆくもの、裏切るもので、「これだけは大丈夫」という本当に信じられるものが何もないということです。すべては空事であり、たわごとであり、「まこと」は無いと言われています。

そういった「まこと」と呼べるものが一つもない世の中で、安心して暮らしていける道理がありません。また、煩悩には際限がありませんから、これで満足といったこともないのです。そして私達は、刻一刻と死に向かって生きています。やがて、当たり前に見えていたものが見えなくなり、動いていた体が動かなくなり、愛する全ての人、物とさよならしていかねばなりません。死出の旅路に連れはありません。一緒に心中しても、その後は独り、独りです。「肉体の連れ」はいても「魂の連れ」がいないのです。その上に、その行先が真っ暗がり。死んだ後は有るのか無いのか、有るとしてもどんな世界なのか、どうなっているのかサッパリ分かりません。

たいていの人はこうした人間の浮生なるすがたを見ないか、見ても見ぬふりをして、ただ毎日を過ごしていることと思います。忙しい人なんかは見ている余裕がないですからね。ただ、そうやって人間のすがたを見ないで一生を過ごし、全てを置いてこの世を去り、何も分からない世界に飛び込んでゆくことに本当の安心や満足、幸福があるはずがありません。

そんな中で親鸞聖人は生きることだけではなく、死んでいくということにも意味があると教えて下さっています。それは、この迷いの世が迷いの世であることに気付いてそこから離れ、真の安らぎ、真の楽しみを得るためだと。そのために阿弥陀さまに願われ、この世に生まれた尊い命である。また、死ぬことはただ命が終わるのではなく、無に帰すということでもない。浄土に生まれるということだというのです。阿弥陀さまは、

お前は私の独り子だ。やっと探し出せた。お前を迎えるために浄土を建立したのだよ。お前が来てくれなかったらその甲斐がない。お前は決して独りじゃないんだよ。「誰もこの苦しみを分かってもらえまい」と思っているかも知れないが、私はよーく知っている。どうか我が名を聞いて称えておくれ。必ずお前を浄土へ連れてゆくから、どうか私にまかせておくれ。

と喚んでおられる、それが「南無阿弥陀仏」の六字のこころだというのです。「南無阿弥陀仏」と口に称える念仏は、単なるまじないでも気休めでも、あるいは助かりたいと祈願請求してのものでもない。「助けるからまかせてくれ」という大悲の喚び声であり、その大悲を受け容れた姿が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」という念仏なのです。そしてそのような念仏者は「必ず浄土に往生する方々」の仲間入りをし、死んだ暁には浄土に往生してこの上ないさとりを開き、真の安らぎ、真の楽しみを得るというのです。


この世にまことはありません。あるのは、「南無阿弥陀仏」という念仏のみです。このただ一つのまことを教えているのが浄土真宗です。関心がある方は、ネットや電話で法話日程を確認して参詣したり、書籍を読んだり、ネットでの法話を聞いたりしてみて頂きたいと思います。例えば、

『浄土真宗本願寺派』ご法話 生きる意味
『武庫之荘 寺院 浄土真宗本願寺派 真光寺』生きる意味と死ぬ意味

等、「生きる意味」についてはこのような記述があります。何とも走り書き感が否めませんが、この記事ではここまでとしたいと思います。

ただし「浄土真宗親鸞会」には気をつけて下さい。これは親鸞聖人の教えではないので、念のため。



【参考文献】
『Wikipedia』日本の自殺

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(9)

本日は、高森顕徹会長が

阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっている

根拠として利用している、

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。4帖目1通

のお言葉を見ていきたいと思います。全文は上リンク先へ飛んでご覧下さい。


結論から言うと、これも高森会長お得意の「断章取義」です。このお手紙でも、3帖目12通と同様、

・ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。
・人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
・このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。


等と、人に法を弘め伝える際の注意点として「宿善」「無宿善」のふたつを分別しなさいと教えられています。

さて、4帖目1通で蓮如上人は2つのことを教えられています。

一つには、自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。二つには、ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。

一つ目の「自身の往生すべき安心をまづ治定すべし」については、

わが往生の一段においては、内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、しかも他力仏恩の称名をたしなみ

往生の一段においては、真実の信心で念仏しなさいということを教えられ、

そのうへにはなほ王法を先とし、仁義を本とすべし。また諸仏・菩薩等を疎略にせず、諸法・諸宗を軽賤せず、ただ世間通途の義に順じて、外相に当流法義のすがたを他宗・他門のひとにみせざるをもつて、当流聖人(親鸞)の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。

その上でこのように暮らしていきなさいと指導されています。蓮如上人在世当時は真宗信者への非難、暴力は殊にひどく、上人自身、幾度となく命を狙われていましたから、このようなお手紙は他にも多く見られます。

ここで注意すべきなのは、蓮如上人は「往生の一段」以外の、いわゆる生活面については

王法を先とし、仁義を本とすべし
世間通途の義に順じて
世間の仁義をもつて本とすべし。(2帖目6通)
外には仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし(3帖目11通)

等と、門徒の方々が守るべき内容を「王法」「仁義」「世間通途の義」「仁・義・礼・智・信」などの言葉で教えられているということです。

王法」は仏法に対する語で、支配者が定めた民衆統治の法ということです。また「仁・義・礼・智・信」は儒教の言葉です。倫理道徳を守り、世間に合わせて行けというのです。一見、真宗は仏教なのですから、「布施」とか「持戒」といった仏教の言葉を使えばよさそうなものです。また、因果の道理を説いて「善因善果 悪因悪果 自因自果」等の名目を使って「廃悪修善に努めなさい」といった指導をされてもよさそうなものです。ところが、「往生の一段」については勿論、それ以外の生活規範としても、蓮如上人の上には仏教用語を用いて「善をしなさい」と教えられた文言は見当たりません。

それは、「一念発起の信心」、「他力信心のおもむき」は「南無阿弥陀仏の六字」以外に無いからです。往生のためには念仏一行であり、念仏以外の一切の諸行諸善は「もろもろの雑行雑善」として「なげすてて」と教えられています。「もろもろの雑行雑善」に執心してこれを修めている内は、「修めた善根功徳で何とか・・・」という自力心は無くならず、後生を弥陀に全ておまかせとはならないからです。阿弥陀さまは

・三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはん
・いかなる十悪・五逆、謗法・闡提の輩なりといふとも、すくはん
・「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」


と喚んでおられますから、その勅命にそのままお順いする、すなわち「南無」とたのめば、阿弥陀仏はその衆生をよくお知りになって光明の中に摂め取り、その人の命が終われば極楽に迎えるというのが「阿弥陀仏」という道理です。蓮如上人はこのことばかり『御文章』に多く書かれ、この他には別の仏をたのみ、また念仏以外の功徳善根を修めても何の所詮もないとまで言われています。

しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。
かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。
(3帖目4通)

ですから、蓮如上人が仏教の言葉で廃悪修善を説かず、世法、倫理道徳上の言葉で門徒の生活規範を教えられたのも頷けるというものです。親鸞会のように「善の勧め」だとか、「因果の道理」だとか、「廃悪修善」などと言って善を強調し、さも我々の獲信・往生と関係あるかのように勧めていたら、聞く者は雑行雑善に執心してしまい、雑行雑善をなげすてて弥陀に帰することなどできませんからね。


ところで、二つ目の「ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし」については

ことに当時このごろは、あながちに偏執すべき耳をそばだて、謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、かたくその用捨あるべきものなり。そもそも当流にたつるところの他力の三信といふは、第十八の願に「至心信楽欲生我国」といへり。これすなはち三信とはいへども、ただ弥陀をたのむところの行者帰命の一心なり。
そのゆゑはいかんといふに、宿善開発の行者一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこるきざみ、仏の心光かの一念帰命の行者を摂取したまふ。その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、またこのこころを願成就の文(大経・下)には「即得往生住不退転」と説けり。あるいはこの位を、すなはち真実信心の行人とも、宿因深厚の行者とも、平生業成の人ともいふべし。されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。しかれば近代当流の仏法者の風情は、是非の分別なく当流の義を荒涼に讃嘆せしむるあひだ、真宗の正意、このいはれによりてあひすたれたりときこえたり。かくのごときらの次第を委細に存知して、当流の一義をば讃嘆すべきものなり。


というのです。当時はうかつに真宗信者であると多くの人々に知られると危険であり、またそれでなくても「正雑二行の沙汰」は聞く者によってはとんでもない誤解を生じやすい問題ですので、話す相手が「宿善」の有る人か無い人かをよく推し量って教えを伝えなさいと指導されています。ここでの「宿善」は、やはり

18願の法を信じる因縁

と見るべきでしょう。18願の法を信じる因縁のない「無宿善」の人は、信じるどころか反って「謗難のくちびるをめぐらす」ので、誰彼構わず手広く話せばいいというものではないと誡められています。

このことが分かれば、最初に挙げた

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。4帖目1通

のお言葉も、説く側が聞く者の「宿善」の有無を推し量り、法を伝える上で「宿善」が大事ということであって、

これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

という意味は無い、「宿善を求めよ、厚くせよ」「獲信の因縁(宿善)として善を修せよ」という教えにはならないということは容易に理解できると思います。ですから、蓮如上人の仰りたいことを高森会長の言葉で言えば、

阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっているのだから、法を説く時は、相手が宿善の有る人か、宿善の無い人かをよく推し量って、宿善の有る人に法を伝えなさい

ということです。これを親鸞会では捻じ曲げて解釈し、

阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっているのだから、これから信心獲得しようとする者は、信心を獲るために宿善を求めよ、宿善を厚くせよ、獲信の因縁(宿善)として善を修せよ

と全く別の意味にしてしまっているのです。これをもっと分かりやすく言えば、

阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっているのだから、これから信心獲得しようとする者は、信心を獲るために「なげすてて」と言われる「もろもろの雑行雑善」を修せよ

ということです。これだけ蓮如上人とは真逆なことを教えていて、聞く者が蓮如上人の教えられる「一念発起の信心」、「他力信心のおもむき」である「南無阿弥陀仏の六字」が分かる方がおかしいでしょう。


高森顕徹会長の「断章取義」に騙されて未だに多くの会員が往生・獲信とは無関係、それどころかむしろ障害にしかならない活動をやっています。経典や聖教の言葉を自分の都合の良いように解釈しているのはどこの誰か。それをあきらかにみることは確かにつらい、苦しいことですが、信心決定して報土に往生したいならどうか正見して下さい。そして、南無阿弥陀仏に我が後生を全てゆだねてふかく一念発起の信心を決定し、他力仏恩の称名をたしなんで頂きたいと思います。

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(8)

今回は、高森顕徹会長が「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」という教えに利用している

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。『御文章』3帖目12通
無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(『御文章』4帖目8通

のお言葉を見ていきたいと思います。全文は上のリンク先へ飛んでご確認下さい。


始めに①についてです。このお手紙の前段では、「仏法者と号して法門を讃嘆し勧化をいたす輩のなか」で、その心中も、伝え弘めるべき教えも当流親鸞聖人の正義に基づかず、ただ人に取り入って噓を言い、門徒から物を取るばかりの者がいることを嘆かれています。そして、

これによりて、まづ当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもはん輩においては、その勧化の次第をよく存知すべきものなり。

と、教えを伝え弘める時の順序をよく知りなさいと注意されています。では、まずどのようなことに注意するかというと、続けて蓮如上人はこのように仰っています。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし」と仰っています。ここで「宿善」「無宿善」という言葉が出てきます。「無宿善」の機は信心を取り難く、「宿善」開発の機は自ずから信心を決定する。「無宿善」の機に「正雑二行の沙汰」をしてもかえって誹謗の元となるから、「宿善」の機、「無宿善」の機があるということを弁えず、誰彼構わず手広く世間の人々に教えを伝え弘めることは当流の掟に背く行為である、というのです。

注意すべきなのは、「宿善・無宿善の機を沙汰すべし」と言われている相手は「当流の他力信心のひととほりをすすめん」としている「当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもはん輩」だということです。教えを聞こうとしている人ではなく、教えを伝えようとしている人に言われているということです。これが分かれば、続く

されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。

のお言葉も、当然教えを聞こうとしている人ではなく、教えを伝えようとしている人に言われていることがお分かりでしょう。親鸞会が断章取義しているお言葉の後を読まれてもそれは明らかで、蓮如上人の仰ることは、

「宿善の機」と「無宿善の機」がいることを弁えて、「宿善の機」に法を説け

ということです。間違っても、

宿善の薄い者はそのままでは信心獲得は有り得ないから宿善を求めよ、宿善を厚くせよ

だとかいう教えではないことは明らかです。もしこのような珍説がありましたら根拠を示して頂きたいものです。


次に、②について見ていきましょう。4帖目8通では、親鸞聖人御正忌報恩講について語られています。報恩講において「往生浄土の信心獲得」することが如来聖人への報恩であり、いかに遠路はるばる莫大の辛労をして上洛しても、世間での評判を考えての参詣であったりとか、人並みに形だけ報恩の志を運んだりとか、そういう事であってはいけない。ただし、

無宿善の機にいたりてはちからおよばず。

というのです。「無宿善の機」にはいくら諭しても我が力及ばずと仰っています。要は、

いくら言葉を並べて報恩講の意義を訴えても相変わらず名聞、ひとなみの報謝のために参詣するような人

を「無宿善の機」と言われているのです。ここでいう「宿善」は、

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。『口伝鈔』第二条 光明・名号の因縁といふ事

と覚如上人が仰る「宿善」「宿福」と同じ定義で考えられ、

無宿善の機
=「浄土教を信受せざる機
=「この教にあふといへども念持せざる人
=「18願の法に遇っていながら信じない人

と言えます。18願の法を信じる因縁が熟していないから、蓮如上人のような方にお遇いして法をお聞きしていながらそのお心にそぐわないのでしょう。そういう人を「無宿善の機」と言われているのです。

これしかしながら今月聖人の御正忌の報恩たるべし。しからざらん輩においては、報恩謝徳のこころざしなきに似たるものか。これによりて、このごろ真宗の念仏者と号するなかに、まことに心底より当流の安心決定なきあひだ、あるいは名聞、あるいはひとなみに報謝をいたすよしの風情これあり。もつてのほかしかるべからざる次第なり。そのゆゑは、すでに万里の遠路をしのぎ莫大の辛労をいたして上洛の輩、いたづらに名聞ひとなみの心中に住すること口惜しき次第にあらずや。すこぶる不足の所存といひつべし。ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。しかりといへども、無二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば、いかでか聖人の御本意に達せざらんものをや。

ではそういった「無宿善の機」も含め、門徒の方々に蓮如上人は

宿善の薄い者はそのままでは信心獲得は有り得ないから宿善を求めよ、宿善を厚くせよ

だとかいう教えを説き与えているかと言えば勿論そんな「珍らしき法」はありません。また、

獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正をせよ

ということも、そういう趣旨のことも教えられていません。蓮如上人はこの後、「無二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば」どうして聖人の御本意に達しないだろうかと仰っています。今まで名聞のため、あるいは人並みの報謝をしていればいいだろうといった考えは間違っていたと深く悔い改め、そして自力の心をひるがえして真実の信心で念仏しなさいというのです。


この「一心の正念におもむかば」で思い出されるのが、二河白道の譬喩です。親鸞聖人は『愚禿鈔』にて

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
(中略)
「一心」の言は、真実の信心なり。
「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。


と教えられています。何度も書いていますが、旅人は西岸上の人の喚び声を東の岸にいて白道に一歩も踏み出さず、白道を進むのを躊躇している時に聞きます。そして、この喚び声を聞いて白道に一歩踏み出した時には既に「真実の信心」であります。「白道」を「煩悩と戦って求道していく道」だとする定義も間違っていれば、聞法や破邪顕正をすることで「白道」を進んでいくという教えも間違いです。加えて、

・「一心」=「真実の信心」
・「正念」=「選択摂取の本願」「第一希有の行」「金剛不壊の心」
・「直」=「方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰する」
・「来」=「報土に還来せしめんと欲して」


です。どこにも東の岸で善を修するような内容は書かれていません。当然ながら、「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」という珍説などあるはずがないのです。


この後、4帖目8通全文を読んでみましても、宿善について

宿善の薄い者はそのままでは信心獲得は有り得ないから宿善を求めよ、宿善を厚くせよ
獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正をせよ

といった親鸞会の邪義は存在しません。それどころか、「信心決定」ということについては

一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

とお示しです。「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓われた本願が成就したすがたが「いまの南無阿弥陀仏」であり、これこそ「これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり」と仰り、この「南無阿弥陀仏の六字のすがた」が「当流の信心決定すといふ体」であるというのです。

衆生(そなた)を仏に成さねば私(弥陀)も仏に成らない

という本願が成就し、正覚が既に成就したすがたが「南無阿弥陀仏」ということは、それは

衆生(そなた)を間違いなく仏にするぞ!

という力強い、噓偽りのない真実の喚び声であります。この本願招喚の勅命に「南無」と仰せのままに順えば、「阿弥陀仏」が「万善万行恒沙の功徳」を授けてお助け下さるという道理であります。

宿善を求めよ」? 「宿善を厚くせよ」? 一体どこに聞法や善をやったら我々の薄い宿善が厚くなるとか、厚くなるからやりなさいと書いてありますか?

他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

と蓮如上人は仰せです。「ただ」ですから、「この(南無阿弥陀仏の)六字のこころ」以外に「他力の信心」は無いということです。ならば、私達のすることはこの「南無阿弥陀仏の六字のすがた」を疑い無く聞いて念仏するよりありません。私が「聴聞」という行を重ねて重ねて行った先に救いがあるのではありません。私がこれから、将来に向かって何かしていって、救われるべき地点まで到達したら救われるのではありません。既に、ここにいる、この私に届いている救いの御名を、この場で、只今お聞かせ頂き、お救いにあずかるのを「聴聞」というのです。考え方、ベクトルが親鸞会の皆さんは逆なのです。

阿弥陀仏 ←←←←←← 私

ではありません。

阿弥陀仏 →→→→→→ 私

というベクトルです。私としては「なにのやうもなく」、何の造作もなく、只今、この場で、「われたすくべき」という阿弥陀仏の勅命を受けるのみです。会員の皆さんは、

宿善を求めよ、厚くせよという教え
獲信の因縁(宿善)として善を修せよという教え
光に向かう教え
三願転入の教え

といった親鸞会のデタラメ創作教義を皆ことごとく打ち捨てて、一心の正念におもむいて、すなわち「助けるぞ」の弥陀の仰せを仰せのままに受けて念仏して頂きたいと思います。そして、聖人の御本意に達する身となって下さい。

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(7)

『飛雲』釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途をむなしくする高森顕徹会長と親鸞会

に挙がっていますが、昨日の講師部講義にて高森顕徹会長は、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(『信文類』)

のお言葉を出し、「阿弥陀仏がどんな者のために、どのようにするとお約束されているか」という話から

真実の自己を知る、それが究極の目的
真実の自己を「機の真実」と言い、それは五逆、謗法、闡提
真実の自己をハッキリ知らされるところまで聞き抜く、これが「聞」

などと説明したそうです。以前からの繰り返しで、「仏願の生起」の部分に邪義を織り交ぜた話に終始し、「仏願の本末」の部分はありません。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とは縁の無い話ばかりです。それでいて、

「・・・するところまで」聞き抜く

と教え、聞き抜くまでは「因果の道理」「廃悪修善」「宿善を求めよ、厚くせよ」等とこれまた「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とは縁の無い教えを吹き込んで、会員を組織拡大活動に利用し搾取し続けるのでしょう。何とか親鸞会教義の誤りと、本当の浄土真宗を分かってもらいたいのですが、こればかりは「まことに宿善まかせ」です。早く18願の法を信じる因縁が熟することを願うばかりです。



さて、本日は高森顕徹会長が「宿善を求めよ、厚くせよ」というデタラメ教義の根拠に利用している五重の義について見ていきたいと思います。まずは、五重の義について書かれている『御文章』2帖目11通全文です。

 それ、当流親鸞聖人の勧化のおもむき、近年諸国において種々不同なり。

これおほきにあさましき次第なり。そのゆゑは、まづ当流には、他力の信心をもつて凡夫の往生を先とせられたるところに、その信心のかたをばおしのけて沙汰せずして、そのすすむることばにいはく、「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」といへり。

これさらに、弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、極楽には往生すべからざるなり。またあるひとのことばにいはく、「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」と[云々]。これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。これによりて五重の義をたてたり。

一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明六年五月二十日]


このお手紙では、最初に「当流親鸞聖人の勧化のおもむき」が「近年諸国において種々不同なり」と注意されています。親鸞聖人の教えを勧化、つまりお伝えする時に、その内容が様々に違っているというのです。

それで、蓮如上人は「十劫安心」と「知識帰命」の2つの邪義を取り上げられ、このどちらも誤りであるとお諭しです。「十劫安心」については安心論題/五重義相の第四段を、「知識帰命」については第五段をご覧下さい。

蓮如上人は「われらが往生すべき他力の信心のいはれをよく」知って、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」「阿弥陀仏に帰命せよ」と教えられています。そのように教える方が「善知識」であり、その「善知識」には「宿善開発」して遇うというのです。このように「宿善」があって「善知識」に遇い、「光明」の御はたらきによって「信心」を獲得し、御恩報尽の「名号」を称える。これを「五重の義」と示されています。

ここでまず注意すべきは、「宿善」の順番です。

・「宿善」があって「善知識」に遇う

ですから、ここでの「宿善」とは覚如上人が仰る

善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁

と見るのが妥当です。「宿世の善根」「前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと」の意味を含められなくもないですが、あくまで「宿世」「前世」です。もし「宿善」を「今生」において、しかも「善知識」に遇ってから「信心」獲得までの間にどうにかしなければならないものなら、「善知識」の後に重ねて「宿善」がなければなりません。ところが、「善知識」の後には「光明」、「信心」、「名号」の順に続き、「宿善」は有りません。つまり、「善知識」にお遇いしてから「信心」獲得するまでの間には「宿善」云々という教義は存在しないのです。

これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

親鸞会では「宿善」にこんな意味を持たせていますが、蓮如上人が言われる「宿善」にはこのような意味はありません。それが証拠に、蓮如上人は「獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正等の善を修せよ」とはただの一箇所も教えられておりません。もし親鸞会が自らの教義の正当性を主張するなら、「獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正等の善を修せよ」と教えられた根拠を示すべきです。それができなければ、親鸞会の教義は浄土真宗にあらざる邪義、異義であります。「浄土真宗」とか「親鸞」の名を団体名から外し、高森教とでも名乗るべきでしょう。


次に、「善知識」はどのようなことを勧めるかについてです。「善知識」とは「獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正等の善を修せよ」などと勧める方なのかどうか。それについて蓮如上人は、

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。

と仰っています。「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」「阿弥陀仏に帰命せよ」と教える方が「善知識」だというのです。

高森先生は「阿弥陀仏一仏に向け」「阿弥陀仏のみを信じよ」と教えられているではないか!

と会員の皆さんは思うかも知れませんが、そういう方は「一心一向に弥陀に帰命」するとはどういうことかがよく理解できていないと伺えます。「一心一向に弥陀に帰命」とは、親鸞会でもよく出てくる「一向専念無量寿仏」のことですが、これについて法然聖人は次のように教えられています。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。(選択本願念仏集)

往生行として諸善を廃してただ念仏一行を立てるのが「一向」です。

一心一向に弥陀に帰命」=「一向専念無量寿仏」=「念仏一行

ということです。もし念仏の他にまた布施や持戒等の諸善を加えたら、もはや「一向」ではないのです。それを三寺の例で言えば「兼行」ということです。では高森顕徹会長は、会員の皆さんに何を勧めているでしょうか。

そうです。教義上では十九願の「諸功徳」、『観経』の「定散二善」、また菩薩の修行内容である「六度万行」です。つまり「雑行」です。「念仏」の勧めは無いも同然ですが、有りとしても「念仏」と「雑行」の「兼行」です。これだけでも「一向専念無量寿仏」とは如何にかけ離れた教えかが判るでしょう。

これが如実の善なら化土往生の道くらいは開かれるかも知れませんが、実態は酷いものです。「デタラメ教義の聴聞・教学」に始まり、「お布施」という名の「献金(金集め)」、「破邪顕正」という名の「勧誘(人集め)」、また「高森顕徹会長及び上司への無条件服従」が主な会員の活動です。「勤行」「親孝行」「親切」「言行一致」といった勧めも無くはありませんが、高森顕徹会長からしてまともに実践しているとは言い難い現実があります。過去に、高森顕徹会長が導師を務めた勤行において御和讃を一つすっ飛ばしたり、『飛雲』からの公開法論の申し込みを5年以上無視し続けたり・・・。会員の方もデタラメ教義に染まっていますから『正信偈』や『御和讃』、『御文章』の内容など分かるはずもなく、勤行をキチンとやらないと助からない、親鸞学徒ではないなどと言われるからやっているだけの人が多いと見受けられます。

諸功徳」「定散二善」「六度万行」等いわゆる「諸善万行」は「雑行」であり、真宗においては「捨てて」としか言われない行です。「雑行をなげすてて」等と言われるのは、我々の報土往生には「雑行」は役に立たないどころか、これに執心している内は「一向専念無量寿仏」できないからです。まして「雑行」とも言い難い上述のような「雑行もどき」、すなわち「高森教の組織拡大活動」に執心してこれを修める者が「一向専念無量寿仏」できないのは小学生でも容易に理解できる道理です。ところが脳が高森教に浸食されていますと思考能力が失われてしまうらしく、東大クラスの頭脳の持ち主さえ

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。(『なぜ生きる2』)

などという詭弁に簡単に騙されて利用・搾取されてしまうのです。「念仏一行」、すなわち「一向専念無量寿仏」を否定しておいて「一心一向に弥陀に帰命」せよとは訳が分からないでしょう? このように、本当の意味で「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」とは教えられていないということが分かれば、高森顕徹会長が正しい仏教を伝えるという「善知識」かどうかなど論じるまでもなく、一刻も早くこのような人物から離れた方が良いということに気が付けると思います。


ところで、参考文献として挙げている「安心論題」に、以下のような記述があります。

しかし、偽り邪な善知識の場合が問題であります。現実には「帰するところの弥陀をすてて」とまではいかないにしても、人々を説得し心服させる才能にたけた者が指導者となり、指導される人々はその人を阿弥陀仏と同等に生き仏として無条件に帰依尊崇するということになれば、どのような事態になるか。実に危険きわまりないものといわねばなりません。

親鸞会の事を言い得て妙だと言わざるを得ない内容です。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。


講師部聖則」なるものを作って、朝晩講師部員や学院生にこんな唱和をさせているのはどこの誰でしょうか? また、「尊き生き仏様会長先生」などと書いてある手紙をまとめた『絶対の幸福』なる書物を出版し、会員に読ませているのはどこの誰でしょうか? 会員の皆さんには、「高森教の組織拡大活動」という悪を止め、そんな悪を勧める人の手から離れて、本当の意味で「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と教える「善知識」にお遇いして法をお聞かせ頂き、本願を信じ念仏して往生を遂げる身となって頂きたいと思います。


【参考文献】
安心論題/五重義相

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(6)

親鸞会では、『教学聖典(5)』の問(22)から順に宿善に関する珍らしき法の問答を掲載しています。

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。
この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
(御文章2帖目11通)

五つのものが揃わなければ助からない、その第一が「宿善」であると言い、

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(4帖目15通)

蓮如上人はご遺言にて信心決定は「宿善まかせ」であると教えられていると言い、

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。(3帖目12通)
ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(4帖目8通)
されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。(4帖目1通)

無宿善は絶対に助からぬ」「阿弥陀如来に救い摂られるか否かは、ひとえに宿善の有無にかかっている」根拠として以上の御文を挙げています。こうして宿善が如何に大事なものであるかを教えた後、

宿善には厚薄がある
宿善の厚い者は信心決定が早いが、宿善の薄い者は信心決定が遅い
宿善を求めよ、厚くせよ
獲信の因縁(宿善)として善を修せよ

という邪義へと移行します。

問(26)
 「宿善に厚薄あり」と言われた蓮如上人のお言葉と、その根拠を示せ。
答(26)
○宿善も遅速あり。されば已・今・当の往生あり、弥陀の光明に遇いて早く開くる人もあり、遅く開くる人もあり。(御一代記聞書)

問(27)
 宿善の厚き人と、薄き人との違いを教えられた『唯信鈔』の御文を示せ。
答(27)
○宿善の厚きものは今生も善根を修し悪業をおそる。
 宿善少きものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。


親鸞会では、これらのお言葉を使って

宿善の厚い人(「頓機」と説明) ― 宿善が速い ― 廃悪修善の気持ちが強い ― 早く救われる
宿善の薄い人(「漸機」と説明) ― 宿善が遅い ― 廃悪修善の気持ちが弱い ― 遅く救われる


と説明し、耳四郎や親鸞聖人、熊谷次郎直実などは宿善の厚い人で早く救われたが、そういう人は少なく、多くは宿善が薄い者で救われるのに時間がかかる。宿善の薄い者は聞法を重ねても、なかなか弥陀の救いにあえず流転を重ねてきたのだから、今生において真剣に宿善を求めなければならない。でなければ宿善開発の時節到来はあり得ない、つまり救われないというのです。


これが大体の親鸞会の「宿善論」ですが、こうして改めて書きますと、間違いだらけでどこからツッコミを入れたらいいのか迷います(笑) 今回は、根拠の捏造断章取義について書いていきましょう。

まずは宿善の厚い人を「頓機」といい、宿善の薄い人を「漸機」という大間違いからです。『本願寺なぜ答えぬ』ではp.93~p.94に、また『顕真』では平成22年11月号に

法然上人は『和語灯録』に、
「頓機の者は少なく、漸機の者は多し」
(宿善の厚い人は少なく、宿善の薄い人がほとんどである)
と仰せられている。


と書かれていますが、法然聖人の『和語灯録』にはそもそも「頓機」と「漸機」という言葉自体がありません。頓機」「漸機」という言葉を法然聖人の上で探すと、

頓機はききてやがて解る心にて候。漸機はようよう解る心にて候なり。(『往生浄土用心』)

と別の書物にあるようです。意味としては

頓機というのは聞いたならばすぐにその内容を理解できる人、漸機というのは徐々に理解していく人のことをいう。

というように、理解力等のことを「頓機」「漸機」という語で示されていて、宿善の厚薄という意味で使われてはいません。まして、「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」という珍説は法然聖人からは出てきようがないのです。


次に、『唯信鈔』のお言葉についてです。『唯信鈔』では第15段、

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。

という問いから、宿善について述べられています。「五逆を犯した罪人でも、十声の念仏によって浄土に生まれることができるというのは、前世の善行によるのである。私たちはとても前世の善がそなわっているとは思われない。どうして往生などできようか」というのです。これに対する答えが、

これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

です。「宿善のあつきもの」とは今生も善を修め悪を恐れる人で、言わば「善人」です。対して「宿善すくなきもの」とは今生に悪を好み善をしない人で、言わば「悪人」です。親鸞会で勧める

宿善を求めよ、厚くせよ
宿善と言うのは、過去世の仏縁のことであるが、過去世に仏縁浅き者は、現在に於いて真剣に宿善を求められねばならない。でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。

という教えは、この『唯信鈔』で言えば

「宿善すくなきもの」から「宿善のあつきもの」になれ

ということです。ということは、

「悪人」から「善人」になれ

と言っていることに他なりません。悪人正機の完全否定です。そしてこの説は、親鸞会自身の

「十方衆生に善人は一人もいない」という説の否定

でもあります。高森顕徹会長の説が、如何に破綻した噴飯ものかということがお分かり頂けると思います。

それで、「宿業の善悪」、つまり宿善が厚いか薄いかは今生のありさまにて明らかに知られるというのです。今生に善を修め悪を恐れる「善人」が「宿善の厚い人」、今生に悪を好み善をしない「悪人」が「宿善の薄い人」ということです。ところが次に、法印は「しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを」と仰っています。お釈迦様のお弟子の中でも「説法第一」と称された富楼那尊者のようだと人々に言わしめた聖覚法印でさえ、「善心なし」、「宿善すくなし」、そして「われら罪業おもし」というのです。では、そんな「宿善の薄い人」は、「宿善の厚い人」になるよう「宿善を求めよ、厚くせよ」と教えられているかと言えば、そんな創作教義は『唯信鈔』にはありません。それどころか、

宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。

と、「宿善すくなし」のままで「ふかく本願を信」じさせて頂いたと仰っています。つまり、

・宿善の厚薄と、「ふかく本願を信」じること(信心獲得)とは無関係
・今生において「宿善を求めよ、厚くせよ」という説示は無い
・宿善の薄い者は、宿善の厚い者にならねば救われないというのは間違い
・宿善の厚い者は厚いままで、宿善の薄い者は薄いままで救われる


ということです。今まで高森顕徹会長の邪義を真受けにし、何年、何十年と宿善を厚くしようと頑張ってきた人にとってはとても受け入れ難いものがあると思いますが、これが現実です。そして、宿善の薄い我々はどうして往生することができようかと考えること自体が

・これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。
・小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。


であると仰せです。我々が、宿善の厚い者は早く救われ、宿善の薄い者は救いに時間がかかるとかと宿善にこだわること自体が「痴闇にまどへる」「小智」だというのです。私達は己の宿善の厚薄にこだわるのではなく、そんなことは無関係に「我にまかせよ、必ず救う」と仰せの本願を、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を一心に仰いで念仏すればよいのです。

会員の皆さんは、「根拠の捏造」、及びごく一部の聖教の御文の「断章取義」により、浄土真宗を全く別の高森教として教えられていることに早く気付きましょう。そして、「痴闇にまどへる」「小智」の高森教からさよならし、「宿善すくなし」なら「宿善すくなし」のままで早く「ふかく本願を信」じて頂きたいと思います。



【参照】及び【参考文献】
『飛雲』 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り1
『同』 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り6
『浄泉寺』 『唯信鈔』(現代語訳)

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(5)

なんとか学会の真似をして全国各地に会館を建てまくっている親鸞会ですが、『顕正新聞』平成29年10月15日号にはその内の東京会館落慶座談会で、高森会長が話した内容が載っています。

1、「なぜ後世を知ることが最も大事なのか
2、「無明の闇を破り、往生一定の身になるにはどうしたらいいか

という質問に答えたようで、聞いた内容が多く掲載されている会員の手紙から伺えます。

1については、「もろもろの雑行(もどき)」を捨てもしないでやりまくっている者が後世を知るも何もありません。また、死んだらどうなるかは、決定後も自らの自覚の上ではハッキリ分かりません。返す返す如来の御誓いにまかせたてまつるのみです。親は我が子を我が家に連れ帰るだけですから親の方ではハッキリしていますが、子供としては行ったことがない、写真や動画等で見たこともない処なので子の方ではハッキリしません。でも、別にハッキリしてようがしてまいが子が目的地に着くことには変わりないでしょう? 間違いのない阿弥陀さまのなされることですから、私はただ阿弥陀さまのなされるまま身も心もゆだねるのみです。

もしどうしても後生ハッキリしたいなら、観仏三昧の行を修することですな。阿弥陀仏や浄土を観る方法は有るには有ります。ただ息慮凝心のゆえに行を成就できるかは貴方次第です。いつも挙げていますが、

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。『執持鈔』第二条

とあるように、地獄極楽がハッキリしたのではなく、本願にすっかりおまかせしたのを「他力に帰したる信心発得の行者」と言われます。詳しくはリンク先へ飛んで全文をよくお読み下さい。我々の側で後生ハッキリしていなくても、「連れてゆくぞの親の喚び声」にまかせて後生は安心なのです。私達としてはただ「極楽へ迎えるぞ」という本願の仰せを深く信じて念仏し、法然聖人、親鸞聖人がいらっしゃる処へ往くのだと心得るだけです。


さて、2の質問に対してですが、それは「聞く一つ」であり、

「仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し」となるまで聞くのだ

などと話したそうです。それを聞いて

「聞く一つで救う」阿弥陀仏の本願まことだったと疑心晴れるまで、釈尊、親鸞聖人、蓮如上人のご教示を、重ねて重ねて聞かせていただきます。
親鸞学徒の旅路は聴聞の一本道、行く先がハッキリするまで聞かせていただきます。

などと会員が決意の手紙を出していますが、何回こんな決意の手紙を出すのでしょうね? 人によっては何十年とこんな決意の手紙を出しているでしょうが、一体いつになったら疑心が晴れるのでしょうね?

私も会員だった時、途中限られた人しかお礼状を出せなくなるまで毎回毎々、聞いた内容と

光に向かって進ませていただきます
真剣な聴聞に身を沈めます

などと決意を手紙にしたためていましたが、聞いても求めても全くダメでした。毎回同じことの繰り返しで晴れたも曇ったも分からず、こうしている間にも無常が迫っているかも知れないと思えば不安だらけでした。そうやって大学時代が瞬く間に終わり、社会人になっても一向に前進している気配すらない状態で、次第に

何せ事は無量永劫の後生の一大事なんだから
死ぬまでに何とか解決できれば万々歳だ

という考えになり、地道に活動を重ねていくしか方法は無いという結論に至りました。それは決して私一人だけのことではないでしょう。親鸞会の活動をした経験のある方なら、ほとんど誰しもが至る結論と思います。なぜこうなってしまうのでしょうか?


それは、親鸞会では「聞く一つ」と言っても、「聞く」時、「聞く」内容を間違って教えられているからです。

まず「聞く」時というのは、「・・・となるまで聞く」と言われるような今から重ねて重ねて聞いていった先の未来ではありません。今、ここにいる、この私に届いている南無阿弥陀仏の名号法を現在只今聞くのです。勿論、人によっては何ヶ月、何年、何十年と本願を信じるまでかかる方もありましょうが、それは機の側が疑い計らって信受しないものでお救いにあずかれないだけです。私も例に漏れず随分と如来の御手を煩わせましたが、現在はこの通り本願を信じ念仏し、往生を期として生かして頂いております。なんまんだぶ、なんまんだぶ。要は今私に届いている「助けるぞ」の喚び声を、この場でそのままお聞きするのみですから、法としては今聞いて今救われます。今、ここに、私に本願力が届いていますから、どこかまで進む必要もありません。

乃木坂46『いつかできるから今日できる』

とはちょっと違いますが、今聞いて今救われるという点からすれば「今日できる」のです。対して、親鸞会の説く阿弥陀仏の本願は「今から重ねて重ねて聞いて行った先の未来のお助け」ですから、「称名念仏一行をもつてその本願」ではなく「多聞多見をもつて本願」だと言えましょうか。とても「今日でき」ません。「今日でき」ないということは、明日になればまた今日ですから、「明日でき」ないということです。これをずーっと辿ってゆけば、

「今日死なない」と思う心は、「永遠に死なない」と思う心だ

と高森顕徹会長がいつも話していることと同様に、

「今日でき」ないと思う心は、「永遠にでき」ないと思う心だ

と置き換えられます。これだと、高森会長がいつも本願寺を批判する際に話している「死んだらお助け」じゃないですか。どっか違いますか? 「平生業成」の教えを「臨終業成」の教えにしてしまっているのが分かります。まぁ19願を勧める時点で「臨終業成」の教えになっているのは明らかですがね。

次に「聞く」内容ですが、親鸞会では説く内容に「因果の道理」を混ぜ、因果の道理の結論は「廃悪修善」だとか言って善を勧めています。それで、「廃悪修善」を実践しなければ聞いたことにはならないというのです。

「聴聞」と「顕正」は車の両輪のようなもので、どちらか片方だけでは前に進まない
・「自力一杯求めたことのない者に自力無功と知らされる筈がありません」(『こんなことが知りたい①』p.117)

などとも言われ、善と称しての人集め金集め、上司への無条件服従といった活動を余儀なくされます。自力一杯の活動をしなければ自力が廃って他力に帰した妙味など分からないというのです。ド真剣に善をしなければ雑行が雑行と知らされ廃ることはないと言われ、雑行(もどき)に励んでいるのが親鸞会会員です。

活動しなければ救われない

という親鸞会会員の誤解はここから生じるのです。こんな教えは浄土真宗に無い珍説です。

また、「仏願の生起・本末」の内容に関係ない19願・20願の内容をねじ込み、「他力回向」「本願力回向」とは真逆の「自力修善」「自力回向」的な教えに改変しているのも誤解が生まれる要因の一つです。19願・20願を聞いている時は「如来の諸智を疑惑して信ぜず」の状態ですから、疑心が無くなるわけがありません

最近当ブログで論じている「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」という教義も要因の一つです。「信一念とそれまでとを分ける教え」もそうです。「縦と横の線の図」を用いて視覚的にも強調し、ありもしない道を訪ねさせる、「光に向かう教え」もそうです。このように、「一念の救い」「平生業成」という言葉はあっても、

活動しなければ救われない

と思わせる教義がふんだんに織り交ぜられているのが親鸞会の教義です。ですから、こんなデタラメ教義をまともに聞いている会員の皆さんが、阿弥陀仏の願い通りに本願を信じ念仏することができないのは当たり前の当たり前のことなのです。決して会員の皆さんが高森顕徹会長の話を正しく聞けていないのではありません。高森顕徹会長が聞き誤らせる教義を説いているから、会員の皆さんが聞き誤るのです。


親鸞聖人が教えられている「仏願の生起・本末」を、蓮如上人は「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」で教えられています。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(『御文章』5帖目5通)

19願・20願は関係なく、「第十八の願をこころうる」のが「信心獲得」であり、それは「念仏する者を極楽へ迎える」という本願招喚の勅命にそのまま順うその時に阿弥陀仏の方から私達に回向せられるといういわれです。『御文章』のどこかに「十九願の善をせよ」とか「聴聞や善をして宿善を厚くせよ」なんかと書いてありますか? あったら示して頂きたいものです。無ければ、高森顕徹会長の説くこのような教義は全てデタラメ創作教義だということです。

「釈尊、親鸞聖人、蓮如上人のご教示」ではなく、「高森顕徹会長の創作教義」を重ねて聞いて従っているという実態に、会員の皆さんはいい加減気付きましょう。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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