親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(3)

今週19日は大阪会館落慶の座談会が富山であるそうです。大阪の会員が財施して建てた大阪の会館なのになぜ富山で座談会なのかというと、会長の体調が思わしくなく、大阪に行けないからだというのです。ならば、回復してから改めて大阪へ行って話をすればよいのにとか、高齢で不調の会長に代わって、布教局長(?)である息子なり何なりが出向けばよいのにとか思いますが(いや、息子では話にならんか・・・。それに迎える側の支部長や会員も迷惑だろうな・・・)、とにかく高森顕徹会長あっての仏法、親鸞会という思考が会員にあるため、富山での座談会に変更になっても疑問にも思わないのかも知れません。


さて、Abc様から「宿縁」の捉え方について「すこし異なっているのではないか」ということでコメントを頂きました。そこで今回は、そもそもの「宿善」という言葉の意味について見ていきたいと思います。この「宿善」という言葉は文脈によって様々に意味が別れるところです。そして、使う人や時代によって段々と意味が変わってくるというところが厄介です。

①宿世の善根
能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。(浄土十疑論)

『浄土十疑論』という書物は天台大師智顗が著したようです。過去現在善をやったこともなく、五逆・十悪を造っている悪人が、平生に仏法をきくこともなく、臨終になって初めて仏法を聞きたいと言う気持ちになり、善知識から勧められたのは念仏1つで、勧められるまま念仏を十回称えて往生する、という信じられない『観無量寿経』下品下生の教説について、天台大師はこのように解釈しています。「臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げる五逆罪を犯した者は、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったので、往生できるのだ」というのです。

この解釈が聖覚法印のおられた当時は一般的だったのか、『唯信鈔』には以下の問答があります。

 つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
 これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。


この段ではさかんに「宿善」の語が使われております。
ちなみに、この問い自体が「痴闇にまどへるゆゑ」のものだと言われています。つまり、聖道門的発想の宿善論で我々の往生の得否を考えることが間違いであるというのです。更に言えば、宿善の厚薄を問題にすることが間違いであるということです。となると、盗人である耳四郎や、大勢の者を殺した熊谷次郎直実などが早く救われたのは、(宿世に善を行ってきた)宿善の厚い人だったからだ、という親鸞会の説はどうなのでしょうか? とにかく分かるのは、親鸞会の説は聖道門的発想そのものだということです。


②前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと
かの一生に悪業を作りて、臨終に善友に遇ひて、わづかに十たび仏を念じて、すなはち往生することを得。かくのごとき等の類は、多くこれ前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜるものの、宿善うちに熟していま開発するのみ。 ゆゑに『十疑』にいはく、「臨終に善知識に遇ひて十念成就するものは、ならびにこれ宿善強くして、善知識を得て十念成就するなり」と。(往生要集)

【現代語訳】
かの一生涯の悪業を作ったものでも、臨終に善知識に遇い、わずかに十たび念仏して、ただちに往生することができる。このような人たちは、多くは前世に浄土を欣い求めて、かの阿弥陀仏を念じていた者で、その宿善が内に熟して、いま開発したのに外ならぬ。それ故に《十疑論》にいわれている。臨終に、善知識に遇うて、十念が成就する者は、みな宿善が強いので、始めて善知識に遇うことができて、十念が成就するのである。

源信僧都は、『浄土十疑論』を引用しながら意味を変えられ、「宿善」を

前世に、浄土を欣求してかの仏を念ぜる

と定義されています。これは『大無量寿経』に

もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。

とあることや、『定善義』

この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得

と説かれているのも同様のことです。


③善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁
覚如上人に至って「宿善」の意味合いが随分と変わってきています。①や②の意味で使われている箇所もありますが、覚如上人、蓮如上人が言われる「宿善」は大体この意味です。

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。
しかるに宿善開発する機のしるしには、善知識にあうて開悟せらるるとき、一念〔も〕疑惑を生ぜざるなり。
(口伝鈔)

かつはまた宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば、むつびらるるもとほざかるも、かつは知識の瑕瑾もあらはれしられぬべし。所化の運否、宿善の有無も、もつとも能・所ともに恥づべきものをや。(改邪鈔)

宿善あつきもの」「宿善のある機」は善知識に遇って18願の法を聞くことができますが、「宿福なきもの」「宿善なき機」は善知識から遠ざかって悪知識に近付いて18願の法を聞くことができないと教えられています。こうした覚如上人の宿善観を承けて、蓮如上人はしばしば『御文章』に「宿善・無宿善の機を沙汰すべし」と教えられています。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。
(『御文章』3帖目12通)

正雑二行の沙汰をするときは」、「宿善・無宿善の道理を分別」して、「宿善の機」に「当流の法をばあたふべし」と仰っています。「往生には諸善を捨てて、念仏一行を専らにせよ」という18願の法を話す時は、それを聞いて信じる人か、疑い謗る人かをよく見定めて、信じる人に法を説きなさいというのです。法然聖人や親鸞聖人もこうした「専修念仏」の教えを説いたために、権力者の横暴によって流刑に遭われています。蓮如上人も幾度となく法難に遭われました。当時は今と違って信教の自由も保証されておらず、また治安も悪く、他宗の者からの寺の焼き討ちや門徒への暴力も平気でまかり通っていたようです。それで、蓮如上人は門徒の方々の生活を守りつつ、教えを伝え弘めるためにこのような掟を作られたのでしょう。


④信心獲得すること、如来のお育てのはたらき
一 他宗には法にあひたるを宿縁といふ。当流には信をとることを宿善といふ。信心をうること肝要なり。さればこの御をしへには群機をもらさぬゆゑに、弥陀の教をば弘教ともいふなり。(『御一代記聞書』234)
他宗では、仏法にあうことを宿縁によるという。浄土真宗では、信心を得ることを宿善が開けたという。信心を得ることが何より大切なのである。阿弥陀仏の教えは、あらゆる人々をもらさず救うので、弘教すなわち広大な教えともいうのである。

ここでは信心獲得することを「宿善」と言われています。あるいは、このお言葉と合わせて、直前の

一 蓮如上人仰せられ候ふ。宿善めでたしといふはわろし。御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。(『御一代記聞書』233)

のお言葉から、「宿善」を「如来のお育てのはたらき」であると釈する方もあります。梯實円和上はこれを、

「宿善めでたし」というのは、自分が善根を積んだからこそ、こうして法に逢うことが出来たと、宿善を自分の功績として誇っているから自力の宿善観になります。しかし「宿善ありがたし」というのは、自力の修行をしたことも含めて、すべては阿弥陀如来のお育てのたまものであったと味わう表現ですから、浄土真宗の宿善観として最もふさわしいといわれたものです。
 ともあれ宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉であって、宿善を積み重ねることによって教えに逢おうとするような次元の教説では決してなかったのです。


と解説されています。


このように、同じ「宿善」という言葉でも文脈によって意味を判断しなければなりません。一概に「宿世の善根」とは言えないことがお分かりでしょう。そして大事なのは、

宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉

であるということです。信心獲得の現在から過去を振り返って、阿弥陀仏のお育てのはたらきを慶ぶのであって、これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳ではないことに注意すべきです。この点、高森流の「宿善」の意味は、①、②に加えて

⑤これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

だと言えましょう。

法然聖人までは、おおよそ①あるいは②の意味で「宿善」の語を用いられております。宗祖親鸞聖人は、引文以外では「宿善」の語を用いられておりません。そこから覚如上人が③のように大幅に意味を変えられて、それが蓮如上人へと引き継がれていった形となっています。ただ、どなたとして、

⑤これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

の意味で教えられた方はおりません。ですから、高森顕徹会長が

同会の質問に対して、逆に私の方から「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示してもらいたいと求めたのが、一昨年(昭和五十五年)の六月二十一日(57頁)であるから、もう八百日以上が経過していることになるが、これについては何の返答もないままである。(『派外からの異説について』)

とあるように紅楳英顕師の質問に答えられないのは当たり前なのです。無いのですから。


このように「宿善」について新たな定義を設け、

宿善を求めよ、宿善を厚くせよ、獲信の因縁として善を修せよ

という「珍らしき法」を弘めているのが高森顕徹会長であり親鸞会会員です。こんな教えを「唯一絶対にして真実の宗教」であるなどと盲信している愚かさに、会員の皆さんは早く気付いて頂きたいと思います。



【参考文献】
『飛雲』聖道門と同じ発想で宿善論を叫ぶ無恥な高森顕徹会長
『同』ちょっと話がややこしくなるだけで理解不能に陥る高森顕徹会長
『21世紀の浄土真宗を考える会』宿善といふこと
『WikiArc』トーク:口伝鈔
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親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(2)

この記事で紹介した容疑者は、その後の調べで過去の余罪が明るみになっています。事件が起こる前にも、同様の行為を繰り返していたというのです。私も過去の文献を調べて高森顕徹会長の「デタラメ教義の捏造」、「真宗の宗教ビジネスへの悪用」、「放火未遂、復讐、脅迫、欺瞞、詐欺、保身、詭弁、法要妨害、扇動、搾取、剽窃、隠蔽、偽装勧誘、偽装ベストセラー」等の余罪を追及したいと思います。


親鸞会では、私達は死ねば必ず無間地獄に堕ちると言い、それを後生の一大事と呼んで、この後生の一大事を解決するには親鸞聖人の教えを真剣に聞いて信心決定しなければならないというのです。ではどうしたら信心決定して後生の一大事を解決できるかというと、『御文章』2帖目11通にある五重の義

これによりて五重の義をたてたり。一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。

を持ち出して、一番初めに挙げられている『宿善』に着目させるのです。そして、宿善薄い者は今生において真剣に宿善を求めねば信心決定は有り得ない、信心決定を目指して「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」と修善を勧めています。この教えは現在なお健在で、先日の報恩講でも「「宿善」を厚くする行いについて、一番は聞法」云々と未だに言っていました。ただ、昔はもっとハッキリ「宿善を積め」と言って善根功徳を積むように活動を促していたことが、『顕正新聞』

まず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ(イ、聴聞、ロ、破邪顕正)(第93号、昭和45・2・15)

等から分かります。また本文は分かりませんが、『顕正新聞』第69号には、2面の社説(現在の論説)見出しに「宿善を積もう 会員倍増運動を達成せよ」とあり、また『同』第74号には、2面の社説見出しに「真宗に多い 我利々々亡者  真 実 倍 増  宿善倍増に努力しよう」とあったようです。なお私の記憶では、会員が手紙の中で「真実倍増、宿善倍増が叫ばれ・・・」などと書いていたのをどこかで見た覚えがあります。「宿善倍増」とか、すごい表現ですね。高森流「長者窮子の譬え」で、

長者が窮子に「給料を倍にしてやる」と言ったが、「給料」とは宿善のことだ

と解説していたというのをかつて講師部員から聞きましたが、これでつながりました。

さすがに「宿善を積め」とは自力的要素が強いからなのか言わなくなりましたが、昔から親鸞会で聞いてきた人はそれが耳に残っていたのでしょう。以前に華光会である女性が体験発表で、

親鸞会では「宿善を積め」と教えられました

と話していたのを覚えています。もしこれをこの女性の聞き誤りと言うなら、「時代と共に変わる教え」ということで取り上げなければいけません。

では何をすれば宿善が厚くなるのかと言えば、『教学聖典(5)』に

問(28)
「宿善」とはどんなことか、二通りの読み方を示せ。
また宿善が厚くなる順から三つあげよ。

答(28)
○「宿世の善根」とか、「善が宿る」とも読む。
   (1)熱心な聞法
   (2)五正行の実践
   (3)六度万行の実践


という問答まで設けて教え、高森会長の話を真剣に聞くこと、朝晩のお勤めを欠かさずすること、法施(破邪顕正)や財施を勧めます。無常と罪悪でせめ立てて、背後には必堕無間の一大事。退路を断ち、背水の陣の状態で前進の一手に追い込む。「進めば極楽、退けば地獄」の如く、助かる道は信心決定しかないと徹底すれば、聞く者は救いを求めてこれらの活動に飛び付くでしょう。こうして会員を組織拡大要員として育成し、利用・搾取することこそが高森顕徹会長の目的であったのです。「会員倍増運動」等の文言からもそれはお分かりでしょう。会員一人一人の後生を案じてなど真っ赤な噓、会長の深いミココロは「打倒本願寺」「組織拡大」「会員倍増」「献金額倍増」の我執、我慢だったのです。会員の皆さんはいい加減気付きましょう、認めましょう。

かくして高森会長の目的通りに会員は動き、組織の規模も人数もそれなりに増大しました。特に学生は世間知らずな上、真面目で一直線なタイプが多く見受けられますから、こうした浄土真宗を騙った高森教に騙されて人生を捧げ、他人の人生すら巻き込んでしまう人が多いのです。主に大学生の会員が所属する「学友部」では、

7年前(学生時代)のあさ川の目で見た学友部

に書かれているような感じで親鸞会的人間にさせられてしまうのでした。


ところが、親鸞聖人や蓮如上人は「宿善が厚くなり、やがて開発して信心決定に至る行為」として聴聞やお勤めをせよとは教えられていません。まして六度万行の実践などと称して教えを弘め財施をせよなどとは一言も仰ってはいないのです。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

これによりて「南無阿弥陀仏」といふ六字は、ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。このゆゑに、願成就の文(大経・下)には「聞其名号信心歓喜」と説かれたり。この文のこころは、「その名号をききて信心歓喜す」といへり。「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。(『御文章』3帖目6通)

等に教えられるように、本願の名号、南無阿弥陀仏のいわれを疑いなくくこと、それがそのまま「信心」です。お勤めにしても、南無阿弥陀仏のいわれが書かれているものを拝読し、南無阿弥陀仏を称讃し称名する行為ですから聴聞と同じことです。これらを「宿善が厚くなる行為」と自力的に捉えて、やって宿善を厚くしよう、信心決定に近づこうとするのがそもそも誤りなのです。もし親鸞会の主張が正しければ、万善万行の総体である名号を一生懸命称えて宿善を厚くしよう、信心決定に近づこうと説くのが筋でしょうが、それは絶対にしません。本願寺攻撃の謳い文句を失う上、目的の組織拡大、「会員倍増」が果たせないからです。そして、目的の実現に直結する破邪顕正(高森教を布教する)、財施(高森教に献金する)、無条件服従(強固なトップダウン組織を形成する)等が厚い宿善、尊い宿善になるとして勧められるのです。

高森顕徹会長の目的は、このように会員の皆さんの獲信・往生の他にあることを知って、一刻も早く邪義を邪義と正見し、直ちに本願を信じ念仏して頂きたいと思います。


【参照】
現代における異議の研究 伝道院紀要24号
浄土真宗親鸞会 顕正新聞 索引 061号~075号
『あなたの白道』第6章①

存在しない「宿善を厚くする教え」を説き、説かねばならない「南無阿弥陀仏の六の字のこころ」を説かないのが、高森顕徹会長が会員の後生などどうでもよいと思っている何よりの証拠

今年の6月に、東名高速道路でワゴン車が大型トラックに追突され、夫婦が死亡した事故がありましたが、ワゴン車の進路を塞いで停止させ、追突事故を引き起こしたなどとして犯人が逮捕されたようです。

妨害行為、走行車260台から裏付け 東名夫婦死亡事故

視界がどうしても悪い夜間に、時速100キロ、場合によってはそれ以上出している車がバンバン走り抜けていく高速道路の、しかも路肩ではなく追い越し車線に無理やり停車させたというのですから、殺人罪だと私は思います。後続車が追突するであろうことは容易に想像できたはずです。可哀想に、お子さんが二人いらしたようですが、両親をいっぺんに亡くしてしまって、その悲しみ、憤りは如何ばかりかと不憫でなりません。

私も、高速道路の追い越し車線で事故が起きて間もなく、あわや前方の事故車両に追突というところで緊急回避した経験、また、高速ではなく一般の道路ですが、同じようにいちゃもんをつけてきた車に進路を妨害されて停止させられ、殴られた経験がありますから、黙っておれずに記事に起こしました。

どうしても運転をしているとこのような局面に出くわすことがあります。勿論、悪いのは逆上して進路を妨害して停車させ、いちゃもんをつけてくるこのようなクズです。もし読者の方がこんなクズに出くわし、停車させられたら、窓は閉めてドアロックし、すぐに110番通報して助けを呼びましょう。高速道路だったら、できたら路肩に止まって下さい。もし走行車線に停車させられたら、すぐに車から降りて中央分離帯へ逃げましょう。車両付近に留まらず、できるだけ離れましょう。そしてやはり110番通報して助けを呼んで下さい。相手のナンバー、車種、色、(大抵は男ですが)性別、見た目の年代、身長、体格、その他様々な情報を入手して伝えるのも大事です。


さて、お子さんの証言によると、事故当時ワゴン車に乗っていた一家は、事故が起きる直前にパーキングエリアに寄ったそうです。その時、この夫婦はまさかこの直後に自分達が死んでいかねばならないとは思っていなかったでしょう。まさに死の縁無量です。いつ何時、どのような形で死んでいかねばならないか分かりません。しかもそれが今日や明日にも迫っているかも知れないのです。このように書いている淳心房も、今は死ぬつもりはありませんが、さるべき業縁がやってきてこの世の終わりとなるかも分かりません。しかし、今はそのように思っていますが、時が過ぎれば元通り、生きることに安心し切ってすぐに死を忘れてしまいます。

ですから、今日聞いて今日助かる教え、今晩聞いて今晩助かる教えでなければ、親鸞会でいつも使う言葉で言うなら「一念の救い」でなければ我ら無常迅速の機は助かりません。では、親鸞会で説く「一念の救い」とやらは本当に「一念の救い」なのでしょうか?

親鸞会で「一念」というと大概「時剋の一念」のことで、「アッともスッとも言う間もない極めて短い時間」だと説明されます。それを、黒板の絵では縦の線で表しているということなんですが、この「一念」に到達するまでものすごく時間がかかるのが親鸞会の教えです。「一念」に至るまでの道程を横の線で表しているということなんですが、その横の線を今回の報恩講で出てきた「宿善」という言葉を使って表現すれば、

熱心な聞法、五正行の実践、六度万行の実践をして薄い宿善が次第に厚くなり、やがて開発する道程

ということです。これ、1日や2日、1ヶ月や2ヶ月、1年や2年で縦の線まで到達できますかね? もしこれが到達できるのであれば、『私の白道』3で紹介されている方の嘆きなどは無かったでしょう。

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30年近く求められ、聴聞も県で一番位回数が多く、アメリカ、ブラジルだろうと高森先生の御法話には一座も欠かされたことが無く、支部の御法話、会合も全日程参加でアニメ頒布にも、実に真面目に回われました。

財施額も常に県でも上位、高森先生との高額財施者の親睦会、会食会は常連でした。副支部長として生活の全てを親鸞会の活動にかけられ、本会からも、貴方は会員の模範だと、何度も表彰状を受けた方でした。

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こんな人でさえダメなんですよ? そして病床で、やって来た嶋田さんに

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こんなになって聴聞に行けんようになったー、どうしょうー。宿善積めんようになったー。困ったー弱ったー
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と仰ったということなんですよ? 現在、この方より親鸞会の活動に熱心な方はどれだけあるでしょう? 自分だったら絶対この人のようには活動できないです。この方がダメで、一体誰なら「一念の救い」まで到達できるんですか? また、

『あなたの白道』嶋田久義元講師の奥様の手記
『あなたの白道』とくよしみねさんの手記
『あなたの白道』RCさんの手記

にあるようなお三方も相当に活動されていた方々と見受けますが、これらの方々でさえダメなんです。

ですから、求めても求めても、安心も満足もない、「一念の救い」とやらに到達する気配が全くない会員さんばかりでしょう。この現実を皆さんはどう捉えているでしょうか? 恐らく、次のように考えていると思います。

救われるのは「一念」だが、そこまでは時間がかかる

と。これって「一念の救い」ですか? 違うでしょう。結局、「一念の救い」どころか、「一生求め続けても獲られるかどうかという救い」になっています。一番活動しているはずの講師部員でさえ会員に無信心ぶりを見抜かれているのですから、一般会員など到底信心を獲られませんわね。

なぜこのようなことになるかと言うと、親鸞聖人の教えに「宿善を厚くする教え」というものは存在しないからです。そして、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を教えられず、それとは無関係な活動に従事させられていたからです。だから、聞いても聞いても、求めても求めても、信心も安心もなく、「聴聞せよ」「破邪顕正せよ」「もっと性根を入れて求めよ」の連呼で、死ねば必堕無間と後生を人質に取られて活動せざるを得ない状態に陥って、心からの喜びも満足もなく求めているというのが実態と思います。

この私を浄土へ迎え取り、仏にするという本願は成就して南無阿弥陀仏と成り、既に私に届いています。私は、只今、この場で、この私一人目がけて喚びかけられている「南無(我をたのめ、我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず助けるぞ)」の六字のこころをそのまま頂いてお念仏申すのみです。なんまんだぶ、なんまんだぶと称えて御覧なさい。「何としてもお前を助けるぞ」という阿弥陀仏の喚び声が私の口から出てきます。浄土真宗はこのなんまんだぶを聞く一つなんです。だから老少善悪の人を選ばず、なんまんだぶと深く信じて念仏する者は浄土に往生するのです。今聞いて今救われる教え、それが浄土真宗なのです。

その浄土真宗を、己の私利私欲のために利用しているのが高森顕徹会長です。会員の後生のことなど、どうでもよいのでしょう。存在しない「宿善を厚くする教え」を説き、説かねばならない「南無阿弥陀仏の六の字のこころ」を説かないのが何よりの証拠です。形だけは毎回蓮如上人の御遺言を説法の前に読んでいますが、会員の皆さん、これに騙されてはダメです。どうか高森顕徹会長の実態に早く気が付いて、邪義を唱える人の手から離れ、本物の真宗に遇って本願を信じ念仏して頂きたいと切に願います。

いなみ様へ

今回は、いなみ様より頂いたコメントにお答えします。

********************
> 高森会長の説法を聞き、この話は仏願の生起本末のどこを話しているのだろうと思いながら聞きますが、よくわかりません。
> 仏願の生起本末を話しているのでしょうか?
********************

邪義を織り交ぜながらの「仏願の生起」の部分を話しています。生起とは阿弥陀仏の本願の起こりということですが、それは悪業煩悩を重ねて六道二十五有生を果てしなく流転輪廻し、真の安らぎ、真の楽しみ、真のさとりとは縁のない「この私」がいたというのが本願の起こりです。ただ、私達は死ねば必ず無間地獄に堕ちるということ、私達は生まれながらに五逆罪・謗法罪を造っているということ、全ての人間は悪人しかいないということ、一つの善もできないということなどは間違いです。

仏願の生起本末について詳しくは、安心論題/聞信義相等をご覧下さい。


********************
> 仏願の生起本末を聞いていないとしたら疑心が有ることも無くなることもありません。
> 「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を聞かせて頂いたという実感がありません。
********************

その通りです。仏願の本(因本)と末(果末)を説いていないどころか間違って教えており、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」など全くと言ってもいいほど説かれないからです。

阿弥陀仏は苦悩の衆生、すなわちこの私、今で言えば「いなみさん」を捨てずして、何とかして浄土へ迎え取り、仏にしてやろうと五劫が間これを思惟して48願を起こされ、永劫が間これを修行されました。これが仏願の本(因本)です。

そして、今や威神功徳不可思議の名号である南無阿弥陀仏は既に成就され、「名声十方に聞こえん」と重ねて誓われた通り、いなみさん目がけて絶えず喚びかけられ、「我にまかせよ」「我が名を称えよ」と常にはたらきかけているのです。これが仏願の末(果末)です。

こうした仏願の生起、本、末を聞いて疑う心のないのを「」というのです。すなわち、本願が南無阿弥陀仏と仕上がって私にはたらいているぞということを、そのままお聞きする、そのまま受け容れるということです。これが「」であり、また「」であります。「仏願の生起本末」、「南無阿弥陀仏の六の字のこころ」を「」くのがそのまま「信心」なのです。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

それは長いこと聞法を重ね、活動を重ねていった先の話ではなく、現在只今のことです。今、この場で、ここにいる私が本願力に摂取され、ひとえに後生を阿弥陀さまにおまかせ致すわけです。だって本願は南無阿弥陀仏と仕上がって今、この場、ここにいる私まで届いているのですから。でなければ今臨終という人は到底間に合わないでしょう?

それと、高森会長は仏願の本は18願、仏願の末は19願・20願という珍説を打ち出し、「なぜ生きる2」に書いて出版までしていますが、そもそも考えてみて下さい。19願・20願を聞いて、それらを実践している、あるいは実践しようとしている時というのは本願(18願)を疑っている状態です。19願・20願を聞いていて、疑いが無くなるわけがないでしょう?

加えて言えば、「「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」のお言葉は「信文類」、すなわち至心信楽の願、18願について明らかにされた文類の中にあります。19願・20願は無関係です。それを関係づけて、会員の獲信・往生とは無関係の組織拡大活動をやらせているだけだということが明らかにお分かり頂けるかと思います。


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> 本当は高森会長に直接質問したいのですが、それは叶わないので、支部長や幹部の会員に質問しようとすると、「えんしょう」の人が来ているからと言われ質問しにくい雰囲気を感じます。
> 和合僧を破ると五逆罪で地獄行きだと暗黙のプレッシャーを感じ、そんたくしてその場の雰囲気をよくするように努めたりしています。
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そのお気持ちは察するに余りあります。私も会員だった当時は似たような思いでした。あと、聞いても「もっと真剣に聞かせて頂きましょう」「もっと光に向かって進ませて頂きましょう」と言われて終わりということは判り切っていたので質問もしませんでした。「物を言え物を言え」と最初は教えられますが、肝心な部分については「忖度しろ」という暗黙の了解がありますよね。それではいけないのですが、そうなっているのが親鸞会です。


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> いままでは高森会長の教えに誤りはなかろうと勝手に思い込んで自分で調べませんでした。
> 調べようにも反論の根拠になる学がありません。
> 言われるままにそういうことだと思っていました。
>
> 反論の根拠としてお聖教が上げられるので自ら聖典で調べてみると確かにそのように書かれています。
> お聖教をよくよく読んで判断したいと思います。
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高森会長の説が正しいか、批判者の説が正しいか、あるいはどちらも正しくないか、本当のところはどうなんだと疑問を持って、それを後回しにしたりうやむやにしたりせずに、納得いくまで調べてみることが大事です。当ブログの題名が「真偽検証」ですが、いなみさんも親鸞聖人の正しい教えをどうぞ真偽検証なさって下さい。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお書き下されたものを根本としているという点ではいなみさんも私も同じであると思います。そういった善知識方の直のお言葉に向き合って頂きたいと思います。


以上、簡単ではありますがお返事とさせて頂きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。



【追記】
林遊@なんまんだぶ様がいなみさんのコメントへのお答えとして書いて下さっています。
↓↓↓
『用管窺天記』利他力

「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説くどころか、ここへ来て未だ「宿善」を厚くする行いがどうだと邪義を唱え続ける高森顕徹会長

頂いた情報からは、やはり高森顕徹会長は今年の親鸞会報恩講にて

南無阿弥陀仏の六つの字のこころ

を懇ろに教えるといったことはなかったようです。2日目はまず、アニメ映画『なぜ生きる』と絡めて、

信心決定とは「難度海を度する大船」に乗せて頂くこと。すると無明の闇が無くなる。

と話し、「無明の闇」=「後生暗い心」だとして、

無明の闇を破れると、後生がハッキリする

という邪義を繰り返したとのことです。呆れてしまいます・・・。


信後であっても後生が我々の上でハッキリするものではないことは、

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。
『執持鈔』

より明らかです。『私の方から、浄土へ参るとも、また地獄へ行くとも、決めてはならない。法然聖人の「源空が生まれるところへ行くのだと思って下さい」という仰せを確かに承った上は、たとえ地獄であっても法然聖人のいらっしゃるところへ参るのだと思うのである』というのです。信心決定したとて浄土の様相を見たわけではありませんから、相変わらず死んだらどうなるか分かりません。当然ですね。親鸞会の言葉で言えば「後生暗い心」のままです。そのまま、死後どうなるかまで含めて、すべて「如来の御ちかひ」におまかせしたのを「他力に帰したる信心発得の行者」というのであって、私の自覚の上で「極楽参り間違いなしとハッキリするわけではありません。私達の側としては、「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という本願を深く信じて念仏申すのみです。このように、死後、どこへお連れ下さるかを阿弥陀仏におまかせしたのを「信心決定」というのであって、「後生がハッキリする」だとかいう説は浄土真宗に無い珍しき法です。


今回、このことでもガッカリしたのですが、もっとガッカリしたことがあります。それは、

どうすれば「信心決定」できるのか

ということで蓮如上人の「まことに宿善まかせ」の言葉を出し、

「宿善」を厚くする行いについて、一番は聞法

だと話したということです。ここへ来て未だ「宿善」を厚くする行いがどうだと邪義を唱え続ける姿勢に、

あぁ、高森顕徹という人物には、一貫して会員の皆さんに「信心決定してもらいたい」などという気持ちは更々無いのだな

と再認識させられました。会員の皆さんはこのような教えを聞き、

・重ねて重ねて聴聞した先に決勝点がある
・重ねて聴聞すれば信心決定できる


という間違った観念をより一層強固にしたことでしょうが、「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」といった教えは浄土真宗に無いデタラメ創作教義です。簡単に言えば、親鸞聖人の教えを信じて聞ける「宿善の機」と、信じるどころか反って謗るような「無宿善の機」を分別し、「宿善の機」に法を説けというのが蓮如上人の御教示であります。どこにも、宿善を厚くする手段としての聞法、おつとめ、諸善の勧めはありません。宿善については、最近

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(1)

でも触れましたが、今回の報恩講で高森会長がまたしても「宿善」を厚くする行い云々と抜かすとは正直思ってもいませんでした。この親鸞会の邪義については、上のエントリーのリンク先に詳しく詳しく書かれていますので、まだ知らない方はぜひともお読み頂きたいと思います。また、当ブログでも今後重ねて宿善について触れていきたいと思います。


浄土真宗では、本願が成就して南無阿弥陀仏と成り、「我をたのめ、我にまかせよ、必ず浄土に迎えるぞ」とお喚びづくめであるということをそのままお聞きし念仏しなさいということを教えられています。南無阿弥陀仏、要は「そなたを助けるぞ」を、素直に、そのまま、聞き受けた、受け容れたのです。これが

南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理

であり、

南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり

なのです。この「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」をお聞きするのを「聞法」とか「聴聞」というのです。宿善を厚くして、信心決定に近づく行為を「聞法」「聴聞」というのではないのです。

おつとめにしても、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を正信偈や和讃、御文章を通してお聞きする行為であって、「聴聞」と同じです。五正行の実践だとかいう宿善を厚くする行為ではありません。

念仏以外の諸善は往生のためには「雑行」と言われ、「もろもろの雑行をなげすてて」と説かれている行為ですから勧め自体がありません。六度万行の実践だとか言ってお布施(献金)、破邪顕正(勧誘)、また会長や上司への無条件服従を親鸞会では勧めていますが、たとえ如実の善だとしてもそれらは「なげすてて」と言われる「もろもろの雑行」です。そんな「もろもろの雑行」をやりまくっている者が「一心に弥陀に帰命」することもなければ、「不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ」こともありません。正定聚の位に入ることもなければ、御恩報尽の念仏を称えるということもないことを、会員の皆さんはよくよく知るべきです。

今回の報恩講で、高森顕徹会長は会員の皆さんに信心決定してもらおうなどという気持ちは更々ないことが改めてハッキリしました。会員の皆さん、これ以上無駄な犠牲を出さぬよう、後悔をせぬよう、一刻も早くトンデモ邪義を唱え続ける悪知識から離れて下さい。そして、本物の真宗に遇い、南無阿弥陀仏の六字のこころをそのまま聞いて念仏し、浄土往生の本懐を遂げて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

批判を恐れて当たり障りのない話しかしない高森顕徹会長

今年の親鸞会報恩講では、高森顕徹会長は説法形式ではなく座談会形式で話をしたそうです。内容は

「蓮如上人の御遺言」

であると説明し、高森顕徹会長がいつも「形だけ」読んでいる

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(『御文章』4帖目15通)

についてでした。

親鸞聖人、蓮如上人は生きている間に、皆が信心決定してほしいと、そのこと一つ教えていかれた

と話して「信心」の説明をしていった高森会長ですが、結局はいつもと同じく、

「鰯の頭も信心から」の信心とは違う。阿弥陀仏より賜る「まことの心」だ。

という以上の説明はなかったようです。批判を恐れて当たり障りのない話しかしなかったことが伺えます。これでは、会員の皆さんは、頭に染み付いている

・光に向かう教え
・信一念とそれまでとを分ける教え
・宿善を厚くする教え
・三願転入の教え


によって阿弥陀仏より「まことの心」を賜る一念の決勝点までより真剣に聴聞し、活動しようとなるだけですし、新しく縁のあった人は「どうしたらまことの心を賜ることができるのか?」と疑問に思い、そこから死ぬまで求道の教えへと誘導されるだけです。


ところで、高森顕徹会長が「信心」の説明に用いた根拠は『御文章』1帖目15通

信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。

か覚如上人の『最要鈔』

この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるゝなり。

でしょうが、そのいずれにも出てくるのが「本願成就文」です。成就文の、

聞其名号 信心歓喜

の「信心」について覚如上人、蓮如上人が解説されているお言葉であることが分かります。ですから『御文章』には

『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。
これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。


とあり、『最要鈔』には、

聞其名号という聞は、善知識にあふて如来の陀力をもて往生治定する道理をきゝさだむる聞なり。
おなじ「経」(大経巻下)に「其仏本願力・聞名欲往生」ともみえたり。
またこの「経」の流通にも「其有得聞・彼仏名号」とらあり。
宗師の御釋にも「弥陀智願海・深広無涯底・聞名欲往生・皆悉到彼国」とらいへり。
また祖師鸞聖人の御釋にも「本願の生起本末をきくべし」とみえたり。
経釋すでに聞をもて詮要とせられたり。
よくきくところにて往生の心行獲得する條顕然なり。しるべし。


と教えられています。「其の名号を聞いて信心歓喜せん」ですから、「其の名号」たる「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」を聞かなければ「信心」もへったくれもないわけです。では親鸞会の報恩講に縁があった方にお聞きしますが、今回高森顕徹会長は「其の名号」たる「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」を説いたでしょうか? 世間で言われる「鰯の頭も信心から」の信心については長々と説明しても、「信心」の体である「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」については何の説明もないといってもいい位説明しないのが高森顕徹会長です。

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
(『御文章』5帖目11通)

今回の報恩講でもお勤めの際に読まれたかも知れませんが、私達が聞かねばならないのはここなのです。会員さんはこの蓮如上人のお言葉が耳には聞こえていても、頭には全く入っていないと見えます。

南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。

ですよ? だから蓮如上人は御文章に重ねて六字釈を施されているのです。これを説かなければ、聞く者が「信心決定」も何もあったものではないことがお分かり頂けると思います。

ではなぜその「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を説かないのか。考えられる理由は2つです。

1、高森顕徹会長が「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を知らない。
2、知ってはいるが、聞く人に「信心決定」させるつもりがない。


いずれにしても、高森顕徹会長の目的は会員の獲信・往生とは別にあると見て間違いありません。だから、

高森顕徹会長がいつも「形だけ」読んでいる

と冒頭申し上げたわけです。


会員の皆さん、今回の報恩講で、目的の「信心決定」は果たせましたか?

「決定」というハッキリとする瞬間、受け取る前と受け取った後と分ける線がある

だとか、「信心決定」によって「難思の弘誓は難度海を度する大船」の大船に乗せて頂けるだとか説いていたようですが、肝心要が抜け落ち、このような邪義を唱え、大船に乗れば

私達の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります

だとかアニメの蓮如上人に言わせて現世利益を夢見させている高森顕徹会長の話をまともに聞いている限り、浄土真宗の「信心決定」もなければ「念仏の行者」となることもないことを知るべきです。

宇宙から見たら塵のような地球、そのまた塵のような存在である私に南無阿弥陀仏が至り届いているという不思議

先日愛知県へ旅行に行ったことをこの記事で書きましたが、今回はラグーナビーチを歩きながら考えたもう一つのことを書きます。

その日の朝、私は長女と三女を連れて歩いていた(三女は抱っこの状態)のですが、やがて三女は寝てしまいました。長女は長い木か竹の棒を見つけて波打ち際でお絵かきを始めたので、三女の睡眠時間確保のために私はしばし別行動をとり、少し離れた海岸線の先へと向かいました。

普段のせわしない日常から離れ、ゆっくりと時間が流れているようでした。視界を遮るものはなく、沖に目をやれば水平線が見え、山に目をやれば広大な自然が広がっており、周囲に人間は私達家族を含めて5、6人しか見当たりません。何て広いんだ・・・。都会で生活していると、実にせせこましい所で毎日同じことの繰り返しで生きているため、すごく新鮮な気分でした。そして、この小さい体と頭で普段俺は一体何をやっているんだと思わされました。

こんな広い世界で、俺一人居ても居なくても何も変わらないし、一生の間でやることなど実にちっぽけなことだ。俺が死んで何十年、何百年と経ってしまえば、俺という人間がこの地球に存在していたことすら誰も知らなくなるだろう。道路には沢山のトラックが走っていて、俺もいつもは似たようなことをやっているが、遠くから見るとあんなちっぽけに見えるのか・・・。この広い海や山に比べたら、何て小さいんだ・・・。これが宇宙から見たならば地球なんて塵のような小ささで、星ごと一つ消滅したところで何の変化もないのではなかろうか。海や山と比べたってこんなにちっぽけだというのに、まして宇宙と比べてしまったら、俺は何て小さな存在なんだ・・・。

このように考えた時、藤村操の「巌頭之感」が頭をよぎりました。

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。


こう書き残して自殺した藤村操の心中は分からんでもありません。わずか50年乃至100年の人生、わずか五尺の躰でこの広い世界に挑戦しようというのですから、無謀もいいところです。一生の間で分かることなどホンのごく一部に過ぎず、ほとんど何も分からんまんま生き、ほとんど何も分からんまんま死んでいくのです。自分一人でできること、残るものなんて無いに等しいです。子供が海辺に書いた絵と同じで、自分が残した足跡は消えてしまいます。ならば今死ぬのも、この先苦労して、世界のほんのちょっとのことを勉強して理解して、ほんのちょっと人の役に立って、ほんのちょっと周りに迷惑をかけて、ほんのちょっとの足跡を残して死ぬのも、何も変わらないのではないか。どうせ俺という存在さえ遠くない将来にこの世から抹殺されてしまうのだ。そうならば、苦労しない分今死んだ方がマシではないか。

このように考えを巡らしますと、自殺者が絶えないというのも理解できます。実際私も思うようにならない現実にもがき苦しみ、人生苦を感じて自殺したいと思っていた口ですので。


ただ、今は自殺をしなくて良かったと思えます。つらかったけど、苦しかったけど、毎日死にたいと思っていたけど、南無阿弥陀仏が私に至り届いていると知ることができましたから。いつ何が起こるか分からない、あっという間に生きて死んでいくこの世界で、ただ一つのまことに遇えたことは喜びの中の喜びです。死に際しては何一つたよりにならず、死出の山路、三途の大河をただ一人逝かねばならないというのに。苦しみから苦しみの綱渡りで、死んでも我が業苦で責め立てられて安らぎなどないというのに。その私を浄土へ連れていって仏にするというのですから、南無阿弥陀仏にはいかなる淳心房も頭が下がります。

宇宙から見たら塵のような地球、そのまた塵のような存在である私に南無阿弥陀仏が至り届いているという不思議。名声聞十方と重ねて誓われた阿弥陀仏の本願はまことでした。その願成就して南無阿弥陀仏と成って私にはたらいていることを知らせて頂けました。噓偽りだらけ、無常のものしかないこの世の中で、「ただ念仏のみぞまこと」と仰った親鸞聖人のお言葉は本当だなぁ、南無阿弥陀仏しかまことにたよりになるものはないなぁと思わされます。この偉大なる選択本願念仏の御法によくぞ遇うことができました。そしてそれを信じ奉り念仏しているのは、不思議の中の不思議。本当に良かったです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

ただ「難度海を度する大船」の絵を眺めていただけだったあの頃

先日、家族旅行で愛知県のラグナシアというテーマパークへ行ってきました。前日はそこへ隣接している変なホテルに泊まったのですが、長女は随分気に入ったようでした(次女は受付のでかい恐竜にビビッてましたが・・・(;'∀'))。3歳~10歳位の小さい子供がいるご家庭にはお勧めです(^ω^)

朝食を終え、開園時間まで随分あったので、私は長女と三女を連れて近くの海岸へと向かったのですが、内海とは言え久々に見る海の大きさに、改めて人間の小ささを知らされました。

ふいに遠くの方へ眼をやると、大きなタンカーのような船が見えました。それが、かつて親鸞会で説法のたびによく目にしていた「難度海を度する大船」によく似ていたので懐かしく思われました。しかしあの頃は

難度海を度する大船があるぞ~!
早くこの船に乗れよ~!


といくら言われても、大船がどこにあるのかも分からず、ただ「難度海を度する大船」の絵を眺めていただけでした。私と「難度海を度する大船」の間には随分と距離があるように感じ、その距離感は聞き始めた当初から退会まで変わりませんでした。ただ黒板に書かれる大船の絵を眺めては、「早く乗せて頂きたい。どうすればあの船に乗れるのか・・・」ともがいていたことを思い出します。

このように、かつての私と同じくただ「難度海を度する大船」の絵を遠くに眺めているだけで、私と大船の距離感は聞き始めから現在に至るまで変化がないという会員さんはいませんか? いらっしゃるとしたら、どうしてだと思いますか? 親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」だということは耳タコと思いますが、これを高森顕徹会長は

人生の目的が現在に完成する

ことだとしています。ということは、

「難度海を度する大船」に現在乗せて頂ける

ということです。しかし現実としては、何年、何十年求めても一向に大船に乗ることができない。大船に近づいているのかも全く分からないし、もうすぐ乗れるかもしれないという兆しも全く無い。どうしてでしょうか?

それは、求める方向性というか、ベクトルが逆だからと言えると思います。皆さんは、かつての私同様、

「早く乗せて頂きたい。どうすれば・・・」

と考えて、そのために推進される様々な活動に取り組み、それによって横の道を進んで大船に近づいていると思っていると思います。逆に現在の活動と、大船に乗ることが無関係なら、今のようには一生懸命取り組まないと思います。私が救われるべき地点まで到達しなければと思い、破邪顕正(勧誘)や財施(献金)をすることでそこへ近づき、やがてたどり着けるかのように思っているでしょう? これが大間違いなんです。

浄土真宗の信心は「本願力回向の信心」と言われるように、「如来の加威力」によって一方的に恵み与えられる信心です。それを、こちらから掴みにかかっているんですから、素直にお受けできる道理がありません。こちらの掴もう、助かろう、何とかなろうという力みを捨てて、あちら(阿弥陀)様の仰せを受けないことには信心も安心もないのです。

また、信心、信心と言われるものの、肝心の信心の内容を間違って教えられていることも原因の一つと考えられます。他力の信心をとるといっても、それは「ただ南無阿弥陀仏」なのです。

さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(御文章3帖目2通)

「我をたのめ、必ず助けるぞ」の六字のこころを信受したのが「信心」、それが口に出たのが「念仏」ですから、蓮如上人の仰る「ただ南無阿弥陀仏」は

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第二条)

の「ただ念仏」と全く同じです。名号で語るか、念仏で語るかの違いのみで、南無阿弥陀仏の他に信心も安心もありません。ところが親鸞会では二種深信を誤解して、

地獄一定と極楽一定が同時にハッキリすることだ

などと訳の分からない説明をしています。また、映画『なぜ生きる』を盲信していると、

苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わったのが他力の信心だ

と思ってしまうでしょう。このように、南無阿弥陀仏、念仏と全く関係ない信心を教えられますから、そんな教えを聞く会員の皆さんが親鸞聖人の教えられる「信心」を獲られないのも道理です。


根機つたなしとて卑下すべからず、仏に下根をすくふ大悲あり。行業おろそかなりとて疑ふべからず、『経』(大経・下)に「乃至一念」の文あり。仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆゑに臨終にふたたび名号をとなへずとも、往生をとぐべきこと勿論なり。(執持鈔)

覚如上人も仰せのように、「本願の名号」が「正定業」であり、それは「弥陀の名願力を称念す」ること、「本願の名号を持念す」ること、つまり「ただ念仏して」です。で、念仏するその信心はというと、「本願あにあやまりあらんや」、本願を聞いて疑いない信心です。本願、また本願が成就したすがたである南無阿弥陀仏の名号を聞くことの他に信心はありません。その「本願の名号」と無関係な信心の説明を聞いていて、「本願の名号」を信受できる方がおかしいというものです。

一部『教学聖典』に出ているお言葉も混じっていますが、会員の皆さんはお聖教に取り組もうとしないので、覚如上人の仰る意味がまるで分かっていないと伺えます。まぁ私も当初はそうでした(今も知らないことだらけで勉強中ですけど・・・)から当然と言えば当然です。知らないなら知らないで知ったかぶりをせず、知らなかった自分を反省して覚えればいい話です。

このように平生本願の名号を聞き受け念仏すれば、その時往生の業事は成弁し、臨終に再び念仏を称えなくても往生を遂げるであろうことは勿論です。死の縁無量ですから、どのような死に方をするか分かりません。念仏を称える間もなく、あっという間に死んでしまうかもしれません。凶弾に倒れたり、溺れ死んだり、焼け死んだり、病気に苦しみ悶えて死んだり、あるいは寝ている間に死んだりして、臨終に念仏する余裕もないかも知れません。しかし、どのような臨終を迎えるにせよ、臨終の有様と往生は無関係であることをこの段では教えられているのです。そして最後のお言葉が、

本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし。

です。「本願を信じ念仏せよ」、これ以外に往生のみちは無いのです。逆にこれ以外の道を示してそこへ聞く者を誘導し、獲信・往生と無関係な組織拡大活動をやらせて私利私欲を満たしているのが高森顕徹会長です。

もし会員の皆さんが「難度海を度する大船」「大悲の願船」に乗せて頂きたいと願うなら、間違った教えを説く知識から離れて本物の真宗に遇い、本願を疑い無く聞き受けて念仏する他にありません。週末には親鸞会で報恩講が営まれますが、如来聖人のご恩に報いようとするならどうするべきか、よく考えて頂きたいと思います。

如来の本願をたよりとし、本願の仰せに安心する

私達凡夫の上には、「これで大丈夫」と安心することはありません。さりとて、「こんなことで大丈夫なのか」と不安になる必要もありません。私達はあくまで、如来の本願をたよりとし、本願の仰せに安心するのです。死んで極楽へお連れ下さるのか、はたまた地獄に堕ちるのかは、阿弥陀さまがお決めになることです。私としては、「我にまかせよ、必ず助けるぞ」との力強い真実の御言葉をそのまま信楽し念仏するのみです。たとえその教えが偽りで地獄へ堕ちるようなことがあっても、私の力でそれ(地獄行き)が変わるようなことはありませんし、師と共に堕ちるのですから孤独ではありません。

・たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。
そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
(執持鈔)

・たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 (歎異抄第二条)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

ブログ「あなたの白道」(嶋田久義元講師)の案内                               及び 成就文から念仏も死後のことも取り去ってニセモノの本願を説く高森顕徹会長

『私の白道』で知られる嶋田久義元講師が新たなブログを書かれていますので以下に紹介します。

『あなたの白道』

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さて、前回の続きです。まずは聖人のお言葉を今一度挙げます。

『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。

「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。

また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。
一念多念証文


今回は「乃至一念」からでありますが、それについては、

「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。 「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。

とお示しです。「乃至」とは、数が多いとか少ないとか、時間が長いとか短いとか、次第の前とか後とか、そういったもののすべてが包摂されている言葉だというのです。この「乃至」からは、念仏は百遍でも十遍でも一遍でも、あるいは一遍も無くてただ本願の名号を聞くだけでも往生が可能であるように成就されているのが本願名号の救いであるということと、信一念より命終わるまで念仏の行者は一生涯に亘って念仏を相続していくということの、二つの方向が含まれていることが伺えます。

一念」については、『一念多念証文』では「信心をうるときのきはまりをあらはすことば」であるとされ、信心がおこる時の極限を顕した言葉であるといわれています。いわゆる「信の一念」、「信楽開発の時剋の極促を顕」されたお言葉ですが、では本願成就文の「一念」には「信の一念」の時剋釈のみで「行の一念」、すなわち念仏は無いのかと言ったら「称名の一念」の意味があると存覚上人は仰せです。詳しくは

『飛雲』念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

をご覧下さい。本願を「念仏往生の願」と言われるからには、その「念仏往生の願」成就の文には当然念仏があるのです。その当然あるはずの念仏を成就文から除いて、訳の分からない「信心」を教えているのが高森顕徹会長です。恥ずかしいことに高森会長は『教学聖典(3)』にて

問 阿弥陀如来の本願でハッキリせぬ四つのことが、釈尊の『本願成就文』でどのようにハッキリするかを示せ。
答 (中略)
  ○信心が正因か念仏が正因か判らぬ ― 念仏がないから信心一つ

という珍回答を載せています。はぁ? 「念仏がない」だぁ? こうして念仏が除かれ、訳の分からない「信心」が独り歩きして、「地獄一定と極楽一定が同時にハッキリしたことだ」とか、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽が獲られたことのように誤解している会員の皆さんがほとんどかと思われますが、飛雲さんの言葉を借りれば「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」が信心です。念仏と離れた「信心」は浄土真宗の信心ではありません。「信心正因」「信心為本」「唯信独達」とは言っていても、肝心の「信心」が何なのか全くもって知らないのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。


次に、先日の講師部講義でチラッと出てきた「至心回向」についてですが、親鸞聖人は

「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。

と仰せです。阿弥陀如来が、真実の御心をもって、「本願の名号」すなわち南無阿弥陀仏を十方衆生に与えて下されるというのです。高森会長は「何を」与えて下されると言ったのか、或いは「何を」の部分は話をしなかったのか、頂いた情報のみからは分かりかねますが、南無阿弥陀仏を頂くのです。それが心に頂かれたのを「信心」といい、口に出れば「念仏」といいます。「信心」も「念仏」も体は同じ、南無阿弥陀仏の名号であります。であるから、往生のみちは「ただ念仏して」と言われるのです。これに「信心」という言葉を付け加えるなら、「ただ『念仏一つで助かる』という信心で念仏して」となります。もう一度言いますが、念仏と離れた「信心」は浄土真宗の信心ではありません。


それから「願生彼国」にも触れておきましょう。これについては、

「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。

とお示しです。かつて本願文の「若不生者」についての法論がなされていたおよそ9年前、教学講義にて「若不生者」の「」は「「信楽」に生まれさせることだ」とこだわる高森顕徹会長はこのように明言しました。

成就文には死後のことは説かれていないから、本願文に死後のことが説かれているはずがない

と。じゃあ「本願の報土へ生れ」るのはいつですか? 当然死後です。死後の「本願の報土へ生れんとねがへ」と仰せです。現生では必ず「本願の報土へ生れ」る位に定まり、臨終一念の夕べに「本願の報土へ生れ」るのです。ちゃんと「死後の往生を願え」と死後のことが説かれているじゃないですか。成就文に死後のことが説かれているから、本願文にも当然死後の往生が説かれています。それを親鸞聖人は

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)

と仰っているのです。そもそも「往生」の語源は法然聖人の「捨此往彼 蓮華化生」(『往生要集大綱』)の語に由来し、その往と生で「往生」ですから、「生きているときの往生」などと言ったりはしないのです。「即得往生」の語は、「正定聚の位につき定ま」ったことをいうので、これを「生きているときの往生」などとは言いません。「不体失往生」にしても、平生に必ず往生すべき位に定まったことを「体失せずして往生す」と言われているのです。別に「生きているときの往生」と「死んでからの往生」と二つの「往生」があるのではありません。

生きているときの往生」=「不体失往生
死んでからの往生」=「体失往生

と親鸞会では捉えているでしょうが全く違います。『口伝鈔』一 体失・不体失の往生の事をよくお読み下さい。往生はあくまで死んでからです。その往生すべき位に定まるのが平生か臨終かというのが体失・不体失往生の諍論です。書かれているお二方の主張は以下の通りです。

親鸞聖人 ― 往生が平生に定まる ― 念仏往生の機 ― 18願 ― 不体失往生
証空上人 ― 往生が臨終に定まる ― 諸行往生の機 ― 19願 ― 体失往生


生きているときの往生」などというのは語義からの逸脱であり、高森顕徹会長の無知も甚だしいです。


このように成就文から念仏も死後のことも取り去ってしまうから、会員は念仏を軽視して信心のオマケのように思い、浄土往生ではなく「夢・幻のような現世の幸せ」を願ってしまうのでしょう。死後の浄土も結構だが、それよりも今のこの苦しみを何とかしてもらいたい、「絶対の幸福になりたい」「幸せな人生にガラリと変わりたい」が本音ではありませんか? そしてそのために推進される活動な活動に励んでいるのはありませんか? そんなだから、阿弥陀仏が遠く感じられてしまうのです。阿弥陀仏のねらいは私を浄土往生させることにあり、そのために本願を信じさせ、念仏を称えさせようとしているのです。試しに浄土往生を願って、様々な活動を止めて念仏一行を称えてごらんなさい。今まで遠かった阿弥陀仏が、近く感じられませんか?

親鸞聖人は念仏と諸善を様々に比較されていますが、その中で

親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。


と教えられています。親鸞会の活動が諸善の中に入るとしても、それは雑行であり、阿弥陀仏から疎遠であり遠く離れた行であって、そんな雑行を修める者を阿弥陀仏の光明は摂め取っては下さいません。浄土真実の行である念仏一行を、本願を疑い無く聞き受けて称える者を、阿弥陀仏は必ず摂め取って決してお捨てにならないのです。会員の皆さんには、早く念仏と死後のことが抜けたニセモノの成就文、及び念仏の抜け落ちた訳の分からない信心を獲させるニセモノの本願を説く邪義と決別して本願を計らい無く聞き受け、本願の名号を専ら修めて往生を願う念仏の行者となって頂きたいものです。

以上、簡単ではありますが、成就文を介して本願のお心を伺いました。あらゆる人々が、諸仏が褒め称える南無阿弥陀仏の名号を聞いて、信じ喜ぶ心がおこるとき、それは阿弥陀如来が真実の心をもってお与えになったものであるから、本願の報土に生まれたいと願うその時に往生が定まり、正定聚不退転の位に住する。これが本願の救いだと明らかにされたのが釈尊であり親鸞聖人です。私達はこうした浄土真宗を計らいなく聞いて念仏申すのみです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。


【参照】及び【参考文献】
一念多念証文(現代語訳)
『WikiArc』トーク;一念多念証文
親鸞聖人における現生正定聚の意義
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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