譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

ここの所、太陽をあまり見ていない気がします。

ウェザーニュース

によれば、9月中旬の日照時間が関東では10時間に届かなかったそうです。通りで・・・

中々爽やかな秋晴れとはいかず、良くて曇天の日々です。今週は台風がやって来たり、秋雨前線によって今日も午前中を中心に強い雨が降りました。外仕事をしている自分には正直きつかったです。週末は子供の運動会があるのですが、天気は期待できそうにありません・・・

そういえば親鸞会では信心決定すると日本晴れの心になると教えていますが、

「ガラリと変わる」というような物凄い心境の変化、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない

にて紹介しているように、真実信心の天は貪愛・瞋憎の雲・霧に常に覆われているのですからそれは違うでしょう。信心を得れば疑いの暗闇こそ除かれますが、スカッと爽やかな日本晴れとも異なります。晴れた夜に月がハッキリ見えるように、さとりの月がハッキリ拝めればよいのですが、雲や霧でぼんやりしていてハッキリしないのです。ただ、そうやって煩悩の雲や霧で信心が覆われていても、それらは浄土往生の妨げとはならないというのですから不思議です。

親鸞会教義に染まっていると、救われると大安心、大満足、絶対の幸福と聞かされるものですから、どうしても信後は大いなる喜びが満ち溢れるように想像しがちです。そして救われたことは火に触ったよりもハッキリするものだと確信しているでしょう。ですが、喜びが満ち溢れたから信心決定でもなければ、ハッキリした体験をもって信心決定でもないことを知るべきです。信心決定とはあくまで本願を疑いなく聞き受けたこと、南無阿弥陀仏のすがたを心得たことですから、それを抜きにしては他教の信心になってしまいます。絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めるのではなく、ハッキリした体験を追い求めるのでもなく、浄土往生したいと願って「助けるぞ」の仰せを素直に聞いて頂きたいと思います。「三願転入しなければ蟻一匹助からぬ」などの邪義は勿論、「求道していかねば助けてもらえない」などといった先入観、「どうすれば」「どうしたら」といった凡夫の小賢しい詮索は捨てて、ただ南無阿弥陀仏を疑いなく受け容れて下さい。念仏一つで助かる、という信心一つで往生は定まります。

明日も全国的に曇りや雨の予報ですが、親鸞聖人の『正信偈』のお言葉を思い出しながら空を眺めれば、曇天や雨天もいつもと違った見方ができるかも知れません。当記事をご覧の方は、是非とも「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を思い出しながら空を見上げてみて頂ければと思います。よろしければ感想お待ちしております。
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「凡聖逆謗=才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違い」では説明が不十分です(3)

「凡聖逆謗=才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違い」では説明が不十分です(2)

の続きです。『正信偈』のお言葉

凡聖逆謗斉回入
如衆水入海一味


について親鸞聖人は、『尊号真像銘文』にて

「凡聖逆謗斉回入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提、みな回心して真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海に入りてひとつ味はひとなるがごとしとたとへたるなり。これを「如衆水入海一味」といふなり。

【現代語訳】
「凡聖逆謗斉廻入」 というのは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・一闡提などのさまざまなものが、自力の心をあらためて真実信心の海に入れば、みな等しく救われることを、どの川の水も海に入ると一つの味になるようなものであるとたとえているのであります。そして、このことを 「如衆水入海一味」 というのであります。


と詳しく教えられていることは既に紹介しました。

余談ですが、親鸞会発行『顕正新聞』平成28年9月1日号の法友通信では、

親鸞聖人は『正信偈』で唯一、例えを出されて「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」と明らかにされていることをお聞きしました。

と載っています。それは間違いです。現代語訳を読まれればお分かりのように、「本願を信じ念仏する者は、たとえどのような者であっても平等のさとりを得る」ということを河川の水と海に例えて表されているのが凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味のお言葉です。他にも、どこまでも深く、際限なく広い本願名号の功徳を海に例えられた如来所以興出世 唯説弥陀本願海、自力難行道を陸路を歩いていくことに、他力易行道を水路を船に乗って渡ることに例えられた顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽など、『正信偈』の中でも譬えは多く用いられています。細かな指摘、揚げ足取りだと思う方もあるかも知れませんが、こういう細かな部分を挙げると親鸞会教義の誤りはキリがないということを示す一例だとご理解下さい。


さて、河川の水と海の譬えは『正信偈』のみでなく、『高僧和讃』にも

名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり


と読まれています。高森会長は大沼法竜師の味わいをそのままパクり、

「全人類は逆謗の屍だ」

などと妄言を吐いていますが、

逆謗の屍骸もとどまらず

ですから、五逆罪を造り、仏教を謗っている仏道の死骸のような者でもということであって、全人類は逆謗の屍という意味ではありません。勿論、私というものをよくよく見つめた上で、自分はつくづく仏道の死骸のようなものだ、逆謗の死骸だと懺悔することはありましょう。しかし、親鸞会のように一切衆生必堕無間を正当化する根拠として、聞く者の恐怖を煽り、会に縛り付けるような使い方をすることは間違っています。そんな邪教の脅しのようなことは、善知識方の教えからはどこにも見られません。第一、七高僧方からしてどなたも「自分は逆謗の屍だ」と仰ってはいないので、親鸞会が主張している

「獲信したら逆謗の屍と必ず知らされる」

は完全な誤りです。この主張は同時に善知識方を異安心と誹謗しているのと同じことですから、そんな謗法罪を造り続けて慚愧あることのない団体からは一刻も早く抜け出すべきです。そして、親鸞聖人が上の和讃にて

南無阿弥陀仏の名号の海水には逆謗の人も信心の行者となりその屍骸がとどまらない。
万川が海に入れば一味の海水になるように、よろずの悪人も他力の信心をうれば、仏の功徳と一味になる。


と仰っているように、どのような罪悪の深い者でも南無阿弥陀仏の名号によって必ず救われますから、親鸞会教義を真に受けて今でも必堕無間の呪縛に怖れ慄いている方は只今その名号のいわれを聞いて信心決定して下さい。


ところで、南無阿弥陀仏の功徳の広大なることを表す「海」ということについて、聖人は『行文類』にて、

「海」といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ、逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、経に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水となる」とのたまへるがごとし。{以上}願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人天の虚仮邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。

【現代語訳】
「海」 というのは、はかり知れない昔からこれまで、凡夫や聖者の修めたさまざまな自力の善や、五逆・謗法・一闡提などの限りない煩悩の水が転じられて、本願の慈悲と智慧との限りない功徳の海水となることであり、これを海のようであると喩えます。これによってまことに知ることができました。経典に「煩悩の氷が解けて功徳の水となる」と説かれている通りであります。
 本願の海は声聞や縁覚の自力の善の死骸を宿しません。まして神々や人々のよこしまないつわりの善や煩悩の毒のまじった自力の心の死骸などを宿すはずないでしょう。


と教えられています。ここでは「海」という言葉で、どのような煩悩も関係なく、どんな自力の善も残らず、またどんな悪業も残ることなく、これらすべてを転じてさとりの智慧と慈悲ならしめるご本願の功徳を示されていると仰せです。それを経典には「煩悩の氷が解けて功徳の水となる」と説かれているというのです。

このように煩悩を断ぜず、煩悩を転じて南無阿弥陀仏の大功徳にして下さるはたらきを、真宗では不断煩悩得涅槃とか転悪成善、あるいは煩悩即菩提といった言葉で表現しています。ただ親鸞会では煩悩即菩提と言った場合、絶対の幸福なる身となったことを説明する時に用いられます。

・煩悩がそのまま喜びの元になるということです。
『仏教講座.com』絶対の幸福・煩悩即菩提とは?
・私たちを煩わせ悩ませる煩悩がそのまま、喜びのタネとなります。
『浄土真宗の住職、門徒総代、門徒のためのネット講座』浄土真宗で用いられる念珠について

親鸞会であることを隠して勧誘しているこれらのサイトでは、煩悩即菩提をそのように説明しています。また、高森会長はよく、

借金がそのまま貯金となる

などということも言っていました。「なぜ生きる」でも、

・欲や怒りの煩悩を、減らしも無くもしないままで体験できる、驚くべき幸福(p.306)
・煩悩(苦しみ)一杯が功徳(幸せ)一杯となる(p.308)

などと表現しています。そのように聞いたり読んだりして、自分もそういう幸せな身になりたいと活動していた時分を思い出しますが、本来の意味での「転悪成善」「煩悩即菩提」は感情の上での喜びとか幸福といった話とは次元が違うものなのです。それに対して親鸞会は「喜び」「幸福」という言葉で聞く者を釣り、「借金と貯金」の例えなどは『救われたら借金が貯金になるような素晴らしい喜びの世界に出られるのだから借金してでも親鸞会に貢献しなさい』と言わんばかりです。親鸞会で言われるような絶対の幸福なる幻想的な楽を追い求めている人は救われないことをよくよく知るべきです。この『行文類』海釈のお言葉と、「借金と貯金」の例えは

『安心問答』転悪成善の益は、「借金が貯金になる」ようなものですか?(頂いた質問)

にも載っていますので参照して下さい。

またも余談ですが、煩悩即菩提を検索しますと親鸞会並びに日蓮系が数多くヒットします。

『よくわかる仏法用語』(11)「煩悩即菩提」(抜粋転載)

などです。高森会長は創価学会の組織拡大法のみでなく、「絶対の幸福(学会では絶対的幸福という)」、「煩悩即菩提」といったことまでパクったのかも知れません。何にせよ、高森顕徹会長の主張は親鸞聖人の仰せと似ても似つかぬデタラメ創作教義であることは紛れもない事実です。


この功徳の大宝海である南無阿弥陀仏は、どのような者であっても拒みません。親鸞会の教えについていけずに辞めた人も、教義や組織、あるいは高森会長という人物に疑問をもって辞めた人も、勿論救済の対象です。「超選民思想」の会員には理解できないでしょうが、只今、ここにいる、このままの私をそのままお救い下さるのが南無阿弥陀仏のはたらきです。それが救われていないとしたら、私の方で拒んでいるだけです。どうかこの南無阿弥陀仏の勅命を、自分の小賢しい詮索や先入観を入れずに、そのまま聞き受けて念仏して頂きたいと思います。

親鸞会版の吉崎御坊について

昨日の記事に関してコメントを頂きました。ありがとうございました。

********************
吉崎御坊

御坊跡地の近くで、410坪の敷地、浜辺まで芝生の広がる庭園、ふんだんに銘木を使った70坪の絶好の聞法道場です。
リフォームが終わる9月半ばには拝観していただける予定です。
===============
という連絡がありました。

********************

寄せられた情報によると、親鸞会版の吉崎御坊は土地を買い取るか何かして手に入れ、そこに元々あった建物をリフォームした模様です。

正直、全国に建設されている親鸞会各地の会館も月2~3回の行事でしか使われていないようなのに、またこんなハコモノを用意して、本当に要りますかね? 庭園の手入れ、ふんだんの銘木にも相当額のお金が使われていると推測されます。そう言えば、近年何十台と購入したアニメバスはその後使われています?

御報謝として献金するのは会員の皆さんです。皆さんのお金をどう使おうとそれは皆さんの勝手ですけれども、いくら献金したところで後生の一大事が解決するわけではありません。獲信・往生には無関係ですから、それだけはよく弁えておいて下さい。

またハコモノ?

事実確認は現在調査中ですが、先日頂いたメールによりますと、どうやら親鸞会版の吉崎御坊が建立されたようです。場所は福井県あわら市吉崎2丁目1002、あわら警察署吉崎駐在所の右隣。反対側は蓮如上人記念館とのことです。

映画『なぜ生きる -蓮如上人と吉崎炎上-』

にかこつけてまたハコモノ建設に着手したものと思われます。

『さよなら親鸞会』映画「なぜ生きる」を見てきました

にも以下のようなコメントがありましたので紹介しておきます。

********************
浄土真宗親鸞会吉崎御坊建立…
                      投稿: | 2016年8月31日 (水) 15時40分


映画のお布施
吉崎御坊建立お布施…


辞めるって言っても留められそう。


お布施びた一文出さないと除名!とかしてほしい。

無理ですね。会費滞納しても除籍にならないし。

会費といえば、
郵貯の口座からの自動引き落としを推進されています。
                      投稿: | 2016年9月 2日 (金) 16時18分
********************

ちなみに明日18日は二千畳法話で、今日・明日と大々的に公開披露とのことです。

何か詳しい情報をお持ちの方はお知らせいただければと思います。

「凡聖逆謗=才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違い」では説明が不十分です(2)

「凡聖逆謗=才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違い」では説明が不十分です(1)

の続きです。法然聖人の教えをそのまま受け継ぎ、本願を信じ念仏する人ならば、どのような者であっても平等に救われてゆくということを親鸞聖人は、

凡聖逆謗斉回入
如衆水入海一味


と仰せられています。これを『尊号真像銘文』では、

「凡聖逆謗斉回入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提、みな回心して真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海に入りてひとつ味はひとなるがごとしとたとへたるなり。これを「如衆水入海一味」といふなり。

と教えられています。

凡聖逆謗

を、さらに詳しく

小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提

と説明されています。小聖とは小乗のさとりを得た聖者および大乗の菩薩のこと、凡夫とは煩悩が具足しており、迷いの世界を輪廻するもののこと、五逆とは五逆罪を造っているもののこと、謗法とは仏の教えをそしり、正しい真理をないがしろにするもののこと、無戒とは戒律がないこと、闡提とは世俗の快楽ばかりを求めて、さとりを求める心がなく、成仏できない衆生のことです。最高の善を実現した仏陀から、最低の悪人までは無限の階層がありますが、今は小乗の聖者や大乗の菩薩といった優れた方々、煩悩具足の凡夫、五逆の者、謗法の者、無戒の者、そして闡提の者と六種類を挙げられています。親鸞聖人はここで、聖者や善人も、煩悩具足の悪人も、五逆や謗法の者も、無戒の者も、さらには闡提の輩に至るまでも、本願を信じ念仏する者は、罪の軽重、善根の有無・多少に関わらず平等に救われると仰っているのです。

さて、ここから分かることは、

親鸞聖人は「一切衆生の中には聖者や善人もいれば悪人もいる」と教えられている。悪人の中でも、五逆・謗法という重罪までは犯していないが煩悩を具足した悪人、五逆の者、謗法の者、無戒の者、闡提の者など、罪の軽重によって様々に分類されている。

ということです。親鸞会のような

「善人は一人もいない。全ての人は悪人である」
「全人類は逆謗の屍」


という主張は、親鸞聖人の教えには存在しない文底秘沈の珍説です。「一切衆生必堕無間」の邪義を正当化するために、高森会長が聖教もろくに知らず、大沼法竜師の味わいをそのままパクり、大学者を気取って言っているに過ぎません。

このように言うと、親鸞会側は決まって、

「そんなことを言うのは真実の自己が分かっていないからだ」
「自分のことを善人だとでも思っているのか」


などと反発してきます。親鸞会批判者は誰も「自分は善人だ」と思っているとか、「自分は真実の善ができる」などと言っているわけでも書いているわけでもないのに、そのように決めつけ、相手の主張を捻じ曲げてきます。【3.善人と悪人について】についてにて紹介している「知ってるから応えるよ」さんの主張はまさにそれです。念の為申しておきますが、淳心房は煩悩具足の悪人であると自覚しています。

また、善人がいるかどうかという議論を避け、

「私たちは悪人なんだから、悪人として仏教を求めればいいのではないですか」

と言ってきたり、そう思っていたりする会員さんも多いと思いますが、釈尊は善人と悪人とにそれぞれ何を教えられたかを知らないから「肛門に目薬」的な親鸞会の教えを真受けにしてしまうのです。今はそれを

『浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?』③善人・悪人について

より引用します。

********************
問い

善人が存在するかどうかという机上の空論よりも、私たちは悪人なんだから、悪人として仏教を求めればいいのではないですか。

答え

善人を認められないから、おかしな理解をするのです。法然上人は「わが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」(勅修御伝)と判りやすく教えられました。
悪人が、善人に対して説かれた教えを自分に関係があることと誤解したなら、救われないということです。


問い

善人に対して説かれた教えと悪人に対して説かれた教えが違うというのですか。

答え

釈尊は機に応じて法を説かれたのですから、違います。これを対機説法、応病与薬といいます。存覚上人が「如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。」(持名鈔)と教えられた通りです。「上根の機には諸行を授け」、つまり善人には諸善を説かれ、「下根の機には念仏をすすむ」、つまり悪人には念仏を勧められたということです。
下根の機に諸行をすすむ」と頓珍漢なことを言っているのが、高森会長です。

********************

この通りです。教義上下根の機に諸行をすすむと言っている高森会長の教えが如何に「肛門に目薬」的な教えかお判り頂けるでしょうか? 間違った薬をさも良薬のように処方して診察代と薬代を取る悪医そのものです。世の中に善人と悪人がいるという当たり前のことを認められないために、会員の皆さんは世間の人々を「どう生きるかしか知らない人達」と見下す傾向にあるだけでなく、その後の

・獲信のために善は必要か
・定散二善について
・19願について
・宿善について


など、親鸞聖人の教えにおいて重要な部分を全てと言っていいほど誤解してしまうのです。獲信のためには念仏一つ、善は不要であり、定散二善は「捨てよ」、19願も「捨てよ」、宿善を求めよ・厚くせよとの説示は無いというのが親鸞聖人の教えです。


今回もまた大分長くなってしまったので、続きは記事を改めて書くことにいたします。
ちなみに、最近参照している『お坊さんのつぶやき部屋』、まだ三分の一も目を通していませんが、これはいいです。もっと早く出会いたかったです。正信偈の意味を、親鸞聖人のお言葉を挙げて詳しく説明されています。読まれれば分かる通り、『「死んだら極楽、死んだら仏、念仏さえ称えていたら死んだらお助け」が本願寺の教え』などという高森会長や親鸞会の主張は全くのデタラメです。このように親鸞聖人のお言葉を通して他力の信心を解き明かされる知識が少なからずおられるということを、会員の皆さんには知って頂きたいものです。

【参考文献】
『お坊さんのつぶやき部屋』凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

「凡聖逆謗=才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違い」では説明が不十分です(1)

親鸞会発行『顕正新聞』平成28年9月1日号に付属されている保存版Cページに、

凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
<凡・聖・逆・謗、斉しく回入すれば、衆水の海に入りて一味なるがごとし>
(正信偈)

のお言葉が載せられています。意味は「なぜ生きる」と同様で、

”阿弥陀仏の本願に救い摂られ、
 人生の目的が完成した人は、
 才能の有無、健常者・障害者、
 人種や職業・貧富の違いなど関係なく、
 万千の水が
 海に入って一味になるように、
 すべての人が、
 同じよろこびの世界に
 共生できるのだよ”


と書かれています。一見尤もかと思われますが、これでは説明が不十分です。どこが不十分かと言えば、

凡聖逆謗

の部分です。これを親鸞会では

才能の有無、健常者・障害者、人種や職業・貧富の違い

としていますが、これではを詳しく説明しただけに過ぎません。また、ここではそうした問題よりもむしろ罪の軽重、善根の有無・多少を問題にすべきです。そうしなければ凡聖逆謗の説明にはなりませんし、阿弥陀仏の本願がいかに仏教の常識から逸脱した不可思議の誓願かということも分からなくなります。

一般的な仏教では、死後どのような世界に生まれるのか、涅槃をさとるか、生死にとどまるか、六道の中でも三悪道に堕するか、はたまた無間地獄に堕するかは、その人その人の罪の軽重、善根の多少などによって異なるとされています。そして、転迷開梧を目的とする仏教では、廃悪修善を実践して己の身心を浄化し、究極のさとりである仏陀のさとりを目指せと教えられます。勿論悪人は悪人のままではさとりなど開けるはずもありませんから、悪人には廃悪修善を勧めて善人になるように導いてゆきます。そして善人から賢善な聖者へ、最終的には最高の善を実現した仏陀を目指せというのです。

繰り返しになりますが、悪人は悪人のままでさとりを完成するということはありません。悪人は善人になるように廃悪修善を実践し、自分の心を浄化していかねばならないのです。これは到底、誰もが歩めるという安易な道ではありません。しかも目指すところである仏陀のさとりへは、勝れた素質をもった方が、永劫にわたる難行を実践していくことでようやく到達できるという非常に厳しい教えです。当然、修行を実践するどころか、悪業煩悩にまみれた生活をしている庶民が救われる教えではありません。こうした善人正機・悪人傍機の教え、すなわち善人を正しき教化の目当て(正機)とし、悪人の救いは第二義的(傍機)としているのが一般的な仏教、聖道門の教えです。

これに対して法然・親鸞両聖人が開かれた浄土真宗の教え、すなわち阿弥陀仏の本願は、この上なく重い悪業を抱えていて、自分の中にはさとりを開く手がかりすら持たない煩悩具足の悪人を救って最高のさとりの領域である浄土へ往生させ、仏陀にならせることを規範としています。
阿弥陀仏はかつて法蔵菩薩であった時、本願を建てられるにあたって、五劫という気の遠くなるような長い間、どうすれば普く一切の衆生を平等に救うことができるのか思惟されました。その結果、布施や持戒等の一切の諸行を選び捨て、念仏一行を往生の行とされたのです。それは、例えばもし布施や持戒などの諸善を本願の行としたならば、そうした善のできない者は救いから落ちこぼれてしまうからです。しかも善を実践できる者はほんの僅かであり、実践できずに落第する者の方が圧倒的に多いからです。そこで阿弥陀仏は、至って易くしかも最も勝れた行である念仏一行を選び取られ、私達に代わって兆載永劫の御修行をなさって願行具足の南無阿弥陀仏を成就して下さいました。そして、今や念仏は我々の元に至り届いて、絶えず深い迷いの中にいる我々に喚び続けられています。私達が口に南無阿弥陀仏と称えることは、「我にまかせよ、必ず救う」という大悲が至り届いて我々に働きかけているという証拠でしょう。念仏を称えることは、まさに本願のお心にかなった正しき行ですから、善人悪人を選ばず、善人は善人のまま、悪人は悪人のまま、罪の軽重に関係なく往生するのだと言われるのです。

このようなことですから、法然聖人に後生について尋ねた熊谷直実は、「犯した罪の軽重に関係なく、ただ念仏を称えれば往生できます、それ以外に別にしなければならないことはありません」と聞くやさめざめと涙を流しています。法然聖人が理由を尋ねると、「手足を切り、命を捨ててこそ後生助かると覚悟して来たのに、ただ念仏を称えれば往生するとの仰せ、あまりに嬉しくて涙しているのです」と答えています。

『法然上人行状絵図』第27

武蔵国の御家人、熊谷の次郎直実は、平家追討のとき、所々の合戦に忠をいたし、名をあげしかば、武勇の道ならびなかりき。しかるに宿善のうちにもよをしけるにや、幕下将軍をうらみ申事ありて、心をゝこし、出家して、蓮生と申けるが、聖覚法印の房にたづねゆきて、後生菩提の事をたずね申けるに、さやうの事は法然上人に、たづね申べしと申されければ、上人の御庵室に参じにけり。罪の軽重をいはず、ただ念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし、との給をきゝて、さめざめと泣きければ、けしからずと思たまひてものもの給はず、しばらくありて、なに事に泣給ぞと仰せられければ、手足をもきり命をもすてゝぞ、後生はたすからむずるとぞうけ給はらむずらんと、存ずるところに、たゞ念仏だにも申せば往生するぞと、やすやすと仰せをかふり侍れば、あまりにうれしくて、なかれ侍るよしをぞ申しける。まことに後世を恐たるものと見えければ、無知の罪人の念仏申して往生する事、本願の正意なりとて、念仏の安心こまかにさづけ給ければ、ふた心なき専修の行者にて、ひさしく上人につかへたてまつりけり。


悪人が悪人のままで救われる教え、それが浄土真宗です。そのような教えでなければ、熊谷直実同様、私のような者は到底救われるものではありません。善人にもなれず、それどころか煩悩悪業にまみれそれをどうすることもできず、身心共に穢れ切っている私には、本願念仏の救い以外に救われる手立てはありません。あぁ、本願のかたじけなさよ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

これは、ひたすら厳しい修行に打ち込み、廃悪修善を実践してさとりを完成しようとしている方々からは到底想像もできないような論理です。念仏は確かに釈尊が勧められている行に違いはないが、悪人が悪人のまま念仏一行で往生できるなど、天地がひっくり返るよりもあり得ないことだと思うに違いありません。この阿弥陀仏の第十八願の教えこそ真実と思うどころか、悪人を導くための方便の教えとしか考えられないでしょう。
しかも法然聖人は徹底して諸善を廃して念仏一行を勧められ、そしてこの念仏往生の教えを「下劣根機」、つまり悪人だけでなく聖道の学僧達を含めた「天下の諸人」、すなわち善人にまで適応されています。そのため諸行を重んじ、念仏を悪人のための行と考え、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も重んじていた聖道門の学僧達が、法然聖人の教えに対して猛烈に反発したというのです。承元の法難の背景には、こうした仏教の常識からは考えられない教えを法然聖人が説かれていたということを、会員の皆さんには知って頂きたいものです。


ところで、上のお言葉から分かるように、法然聖人は後生について尋ねてきた熊谷直実に、「後生は一大事だ」「必堕無間だ」と恐怖を煽るようなことは一切仰っていません。むしろ逆で、「ただ念仏すれば往生できます」と救いの法を直ちに与えられています。勿論、後生とも菩提とも思わず、悪を悪とも感じない者には我々が普段造りに造っている悪業煩悩罪悪を説く必要もあるでしょう。しかし、親鸞会の話は罪悪の話ばかりで一向に救いの法が説き与えられません。

「難度海を度する大船がある」
「絶対の幸福になれる」
「人生の目的が現在に完成する」
「親鸞聖人の教えの一枚看板は平生業成だ」


と聞く者を現世利益で釣り、どうしたら大船に乗れるか、絶対の幸福になれるか、人生の目的が完成するか、平生業成の身になれるかは

「もっと教えを聞いて下さい」
「続けて話を聞いて下さい」


と先送りします。続きを聞いていけば、

「逆謗の屍である我々の後生は、因果の道理に順じて必堕無間」

と、因果の道理から真実の自己、そして後生の一大事と言った具合に、地獄の恐怖を徹底的に教え込まれます。この後生の一大事の解決はどうすればよいかは、

「三願転入しなければ蟻一匹助からぬ」

そうで、直ちに18願の世界には入れない、19願・20願を通らなければならないと教えられます。それで19願を根拠に阿弥陀仏が本願(18願)において選び捨てられた善(実態は善もどきの善)を勧めてきます。

会員の皆さんは、19願が臨終業成を誓われた願だということも知らず、平生業成の身になれることを夢見て19願を通ろうとしています。阿弥陀仏が本願において選び捨てられた諸善を、選び取ってやろうとしています。善知識方なら、直ちに救いの法を説き与えられるだろうに、地獄の恐怖ばかり植え付けられて一向に救いの法が説き与えられません。
こうした法然聖人と熊谷直実のエピソードからも、浄土真宗の教えと高森会長の教えの違いが分かると思います。会員の皆さんは、機についての話ばかりで救いの法が与えられていませんから、あとは第18願念仏の救いを聞くのみです。大丈夫です。親鸞会的言い方をすれば、直ちに18願の世界に入れますから、今すぐ只今助けるという本願を聞いて念仏して下さい。


幾分話が脇に逸れ、長くなりましたので、凡聖逆謗の説明は記事を改めて書いていきたいと思います。



【参考文献】
Wikipedia - 熊谷直実
慈悲の道徳(2) -法然と熊谷直実-

【ツッコミ】善知識方の語られなかったこと

親鸞会発行『顕正新聞』平成28年9月1日号の三面下に、次の文章があります。

善知識方の語られなかったこと

あの人は獲信した。
この人も獲信したが、
Aさんや、Bさんはまだだ。

こんな言葉が
飛び交っている所がある。

娘は7歳2ヶ月で、
甥は昨年の9月に獲信したと、
実名や年月を記したり、
語ったりされている。

善知識は、どこにもない。
ここで善知識とは、
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の
ことである。



以前から度々このようなことが言われ続けていますが、親鸞会で熱心に聞法し、親鸞会発行の著書を読み、『教学聖典』なるものを覚えている人は、上の言葉に疑問を持たないでしょうか?

まず、親鸞会発行『教学聖典(4)』には以下の問いと答えがあります。

問(16)
親鸞聖人が、信心獲得された時のことを明示されている御文と根拠を、二つ示せ。

答(16)
○愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)

○建仁第一の暦春の頃、隠遁のこころざしにひかれて源空聖人の吉水の禅坊に尋ね参りたまいき。真宗紹隆の大祖聖人ことに宗の淵源をつくし教の理致をきわめてこれを述べたまうに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽くまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。(御伝鈔)


問(18)
法然上人の獲信せられた時と処と、どんな御文を読まれていた時かを記せ。

答(18)
時-承安五年の春 四十三才
処-黒谷の報恩蔵の中
文-一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 
   念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(観無量寿経疏)


これは、親鸞聖人や法然聖人が獲信した実名や年月を記したり、 語ったりされていることではないのでしょうか?


次に、私は『末灯鈔』を読んだことがありません、と高森会長が告白にありますが、

高森顕徹編『獲信の記録』(昭和24年発行)には、高森会長が獲信を認定したと取れる文章が書かれています。
また、高森会長は信心獲得していると公言した元講師を、すべて異安心と認定しています。
これは、「あの人は獲信した。この人も獲信したが、Aさんや、Bさんはまだだ。」と言っていることとどう違うのでしょうか?


②以下、引用。
********************
『末灯鈔』には、

・明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。

・またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。

・明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。

・なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。

・さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。


と、明法房、平塚の入道、聖覚法印、隆寛律師という個人名を挙げて、信心獲得していた人だと親鸞聖人は書いておられます。親鸞聖人のこのお言葉をどう説明するつもりでしょうか。

まさか、信・不信と往生とは関係がないとはいわないでしょうね。

********************
これも、親鸞聖人が「あの人は獲信した。この人も獲信した」と言っていることではないのでしょうか?


それから、【検証】親鸞会における救済論に書きましたが、

会員の皆さんは、新しく人を誘う時、高森会長をどう説明しますか?
「高森先生は獲信の体験と深い仏教の学問を兼ね備えた善知識です」と話してはいませんか?
私は親鸞会製作ビデオで、「高森先生は18歳で信心決定(獲信)した」ということを何度も聞きましたし、講師部員や先輩からも聞きましたし、新人にそのように話をしていました。
これは、高森会長及び親鸞会会員が獲信した実名や年月を記したり、 語ったりしている
ことではないのでしょうか?


更には、親鸞会発行『こんなことが知りたい③』p.122には、以下の文章があります。

『御一代記聞書』には、堺に住んでいた日向屋という豪商は、三十万貫の大金を所持し豪奢な日暮らしして死んだが仏にはなれない、それに較べて大和に住んでいた了妙は帷一枚も着かねた貧乏人であったが、よく信心獲得していたから仏になるだろう、と蓮如上人は道破なされています。

これは、蓮如上人が了妙は獲信した、日向屋は獲信していないと実名を語られていることではないのでしょうか?


それと、こんな言葉が 飛び交っている所があるって具体的にどこなんでしょうかね?
これは、もうご存じの方も多いと思いますが、高森会長の出身母体である浄土真宗華光会のことでしょう。会員の皆さんにそれを知られたら会長の沽券に関わるので、敢えて団体名は出さずに非難しているわけです。
清森元講師などは、華光会の名前を出しただけで厳しく指摘を受け、学院送りにされています。

さて、上述のような内容、会員の皆さんは疑問に思いませんか? お聖教の御文や高森会長が過去に言ってきたことと、現在言っていることの整合性を図ろうとしても、もはや無理でしょう。先の読めない高森会長が、その場の思い付きで過去言ってきたことを忘れて話しているのですから、このように至る所で矛盾が生じてしまうのです。これを自業自得、自因自果、身から出た錆と言います。因果の道理を説くのなら、これ位は知っておいてくださいよ、高森顕徹センセイ。

ところで、このようにツッコむと、親鸞会はお決まりの詭弁を使って会員を納得させようとします。
機相・信相のプリントに関する質疑応答にて書いたようなK講師長の問答など、既にマインドコントロールから解放された人が聞けば「それで答えのつもりか」とすぐに詭弁を見破れるのですが、深いマインドコントロール下にある会員は「K講師長が仰るんだから」と自分に落とし込んで納得してしまうようです。会長や上司、教義に疑問を持つのは謗法罪みたく思っているのでしょうか、哀れなものです。無常の風に誘われる前に、気付いて頂ければよいのですが・・・。

以上、【ツッコミ】善知識方の語られなかったことでした。

時代と共に変わる教え(4)-『若不生者』の『生まれる』とは

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』「『若不生者』の『生まれる』はこの世で正定聚に生まれることだ」の主張をこっそり翻した高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)顕真平成26年4月号を読んで

では、「なぜ生きる2」にて本願文の『若不生者』の『生まれる』をかつての主張から修正したことが書かれています。18願の意訳を引用しますと、

********************
私が仏になったならば、どんな人も私の与える信楽の信心(絶対の幸福)を獲て念仏を称える者が、もし私の真実の浄土へ往生(※)できぬことがあれば、私は仏の座を捨てよう。
唯、五逆罪の者と正法を謗る者とは、除く。
   ※往生・・・「体失往生」と「不体失往生」とがある。ここでは体失往生で、浄土に往って仏に生まれること。

********************

と書かれています。ここでは、『若不生者』の『生まれる』とは、浄土に生まれることであり、体失往生であると説明されています。私がまだ会員だった時、教学講義にて毎回毎々、

『若不生者』の『生まれる』はこの世で信楽に生まれることだ、この世で正定聚に生まれることだ、不体失往生を誓われているんだ

と散々繰り返していたことをあっさり修正しています。以前に「二河白道の譬え」がそれまでずっと説いてきたのと違った話だったとか(『飛雲』もろもろの行業を回してただちに西方に向かふ)、60年断言し続けてきた「一切衆生必堕無間」をあっさり修正してきた(朝令暮改の人に随ふべからず)などということもありましたが、所詮はデタラメ創作教義ですから、その時その時の都合によってコロコロと教えが変わってしまうのです。


ところで、2008年3月18日更新『親鸞会公式ホームページ』若不生者の誓いでは、当時高森会長が主張していた内容が現在も掲載されています。

********************
死んだらどうなるかハッキリしない心、後生不安な心を、親鸞聖人は「無明の闇」と言われ、人生苦悩の根元と断定されている。そして、「苦しみの根元・無明の闇を一念で破り、必ず絶対の幸福(信楽)にしてみせる」と誓われたのが、本師本仏の阿弥陀如来なのだと仰せである。

大宇宙最高の仏であり、十方諸仏の指導者であられる阿弥陀如来は、その本願に、「若不生者不取正覚」(若し生まれずは、正覚を取らじ)と誓われている。もし苦悩の根元の無明の闇をぶち破り、晴れて大満足の「信楽(しんぎょう)」の身に生まれさせることができなければ、この弥陀は、正覚(仏の命)を捨てましょう、とのお約束なのだ。

********************

「なぜ生きる2」や『顕真』で以前からの主張をあっさり修正しておきながら、公式ホームページでは相変わらず以前の主張のままの親鸞会サン。後でこっそり修正してくるかも知れませんが、それにしても間抜け過ぎでしょう(笑) 度々公式ホームページは見ていますが、もし修正してきたらどなたか情報下さい。
これらをどちらも正しいんだと疑問を抱かない人は、残念ながらよほど洗脳度の高い、自分で考えることを放棄してしまった高森学徒です。「どう生きる」しか知らない人ばかりの中で自分は「なぜいきる」を知っているんだと自惚れて親鸞会教義に酔いしれている間はいいかも知れませんが、今宵後生となったらどうするのでしょうか? どうか、こんな100年と経たない間にコロコロ変わってしまうデタラメな教えから離れ、本当の親鸞聖人の教えを聞いて頂きたいと思うばかりです。

親鸞聖人の教えられた教え、解釈について無条件に従っていくのであって、親鸞会の無理難題に無条件に従っていくのではない

『飛雲』「聖人の宏才仰ぐべし」と高森会長の「深い御心」との違いより引用。


********************
カルト教団の象徴的な点が、絶対的指導者への絶対的無条件の服従を強いることです。親鸞聖人の教えに、そんなカルト要素があるのかといえば、ありません。親鸞会がよく使う『御一代記聞書』192

善知識の仰せなりとも、成るまじなんど思ふは、大きなるあさましきことなり。成らざることなりとも、仰せならば成るべきと存ずべし。この凡夫の身が仏に成るうへは、さてあるまじきと存ずることあるべきか。しかれば道宗、近江の湖を一人してうめよと仰せ候ふとも、畏まりたると申すべく候ふ。仰せにて候はば、成らぬことあるべきかと申され候ふ。

ですが、ここには蓮如上人のお言葉は一切ありません。蓮如上人のお言葉の場合には、「前々住上人」とか「仰せられ候ふ」という言葉が必ず入りますが、ここにはありません。従いまして、ここは『御一代記聞書』を編纂した著者の意見と道宗の意見とが書かれているだけです。それを、蓮如上人が自分への無条件服従を仰ったお言葉、として説明しているのですから、まさにカルト教団でしょう。

また同じく『御一代記聞書』159に

前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

を無条件服従の根拠として親鸞会は使いますが、ここには「前々住上人」「仰せられ候ふ」とありますので、これは蓮如上人のお言葉として書かれているところです。蓮如上人は親鸞聖人の御心が判らないところがあっても、親鸞聖人が仰った通りにしていくのだ、と仰ったのですが、親鸞会で言っている説明とニュアンスが違います。
たとえば、親鸞会では

親鸞会講師部員聖則
一、会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
一、上司の指示は会長先生の命と心得ます。

としていて、まさにカルト教義ですが、蓮如上人の仰っていることとはずれがあります。蓮如上人は親鸞聖人の教えられた教え、解釈について従っていく、という意味です。
関連する内容で『御一代記聞書』304に

存覚は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』には三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人(親鸞)の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物をや。かやうのことが名誉にて御入り候ふと[云々]。

(現代語訳)

「存覚上人は大勢至菩薩の化身といわれている。
ところが、その上人がお書きになった『六要鈔』には、三心の字訓やその他の箇所に、<知識の及ばないところがある>とあり、また、<親鸞聖人の博識を仰ぐべきである>とある。
大勢至菩薩の化身であるけれども、親鸞聖人の著作について、このようにお書きになっているのである。
聖人のお心は本当にはかりがたいということを示されたものであり、自力のはからいを捨てて、他力を仰ぐという聖人の本意にもかなっているのである。
このようなことを存覚上人のすぐれたところなのである』と仰せになりました。


とあります。親鸞聖人には、確かに独特の解釈をなされた箇所がありまして、凡人の理解の及ばないところがありますが、そんな箇所についても親鸞聖人の解釈を受け入れていく、という意味です。それを存覚上人は「勘得せず」「聖人の宏才仰ぐべし」と表現され、蓮如上人も評価なされているのです。親鸞聖人の解釈と関係ないところまで無条件で従っていくということではありません。
実際、蓮如上人は親鸞聖人のなされたことと違うことをされていて、それ故に蓮如上人を批判する人もあるくらいで、高森会長も著書でそれを言っているのですから、親鸞会は自己矛盾に陥っているのです。
********************


既にお分かりのように、蓮如上人が仰りたいことは、親鸞聖人の教えられた教え、解釈について無条件に従っていくということです。教え、解釈と関係ない行動、言動、指示、命令についてまで無条件に従っていくということではありません。ですから、『歎異抄』を書いたとされる唯円房は、「千人殺してきなさい」という親鸞聖人の命令に「かしこまりました!」などと答えて人を殺害しに行くなどという暴挙はしていません。

歎異抄第13条
また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。

【現代語意訳】(歎異抄を読もう その3(第10章~第13章)も参照のこと)
またある時、親鸞聖人は、
 「唯円房は私の言う言葉を信じるか」と仰せられたので、
 「信じます」とお答えしましたら、
 「では、私の言うことに背かないだろうな」と念を押されたので、
 「その通りにします」とお答えしたところ、
 「では、人を千人殺してきなさい。そうすれば浄土往生は確定するぞ」と仰せられましたが、
 「仰せではございますが、私の器量では、一人でさえも殺すことは到底出来ません」とお答えしましたところ、
 「では、どうして親鸞の言葉に従うと言ったか」と仰せになりました。
 「これで分かったであろう。何事でも自分の思い通りに出来るのなら、浄土往生のために人を千人殺せと言われたらその通り殺せるはずだ。
 しかし、一人でも殺せないという理由があるから殺すことが出来ないのだ。自分の心が良いからということではない。殺さないでいたいと思っていても、百人も千人も殺すこともあるのだ」と言われました。
 これは、自分の心が良ければ、それが良いことであると思ったり、悪い心であれば、悪いことと思う、自分のはからいだけを思い、実は阿弥陀仏の願いの力によって救われるのだという大切なことを忘れていることを言われたことでした。


唯円房は親鸞聖人という善知識の仰せに「かしこまりました!」と答えるどころか、「仰せではございますが、自分には到底そのようなことは出来ません」と答えています。これでよいのです。聖人もこれから教えることを分かりやすくするための譬えとして仰ったのであって、実際殺しに行こうとしたら間違いなく止めていたでしょう。また、「出来ません」という返答に親鸞聖人は「それは大変あさましいことだ」と叱ってもいません。当然ですね。
これについて知れば、

しかれば道宗、近江の湖を一人してうめよと仰せ候ふとも、畏まりたると申すべく候ふ。

という文章も、道宗が蓮如上人をそれほど敬愛していたという表れでこそあれ、高森会長や親鸞会の朝令暮改の無理難題に「かしこまりました!」と答えなければならないというものではないことはお判り頂けるでしょう。実際に蓮如上人が本気で「琵琶湖を一人で埋めてきなさい」などと命ずることはないでしょうが、たとえそういうことがあっても自分は「かしこまりました」と言うだろうという道宗の意見が書かれているまでです。師をそのように敬愛する姿勢は見習うべきものですが、「だからワシの命令に無条件に従え」と高森会長や上司の指示に無条件に従わせる根拠としている親鸞会は、カルト教団と断定するに疑う余地がありません。しかし、後生を人質に取られ、高森会長の教えこそ絶対と盲信している会員は「助かるためにはやるしかない」と従う他ないのです。哀れというよりありません。

昨年から入会基準が下がり、その分例年の何倍もの目標人数を割り当てられ、今も残っている会員の皆さんの中にはうんざりという方もあるかもしれません。家族や親せき、友人を「名前だけ会員」にし、入学金と毎月の会費を負担して「何でこんなことをしてるんだ?」と疑問に思う方もあると思います。もういい加減そんなこと止めにしませんか? そんな親鸞会や上司からの指示命令にどれだけ無条件に従ったところで、後生が助かるわけではありません。「善知識の仰せ」とは何かを正しく知り、組織拡大要員として利用される人生はもうおしまいにして、本願を信じ念仏する人生と転じて頂きたいものです。

【お知らせ】宗教問題15:親鸞会とは何か

宗教問題15:親鸞会とは何か

が発売されています。主として、

・今年の親鸞会追悼法要にて高森会長に取材した内容
親鸞会を脱会した人(したい人)へで知られる宮田秀成元講師の記事
・本願寺座り込み事件の際に、親鸞会教義を批判された紅楳英顕相愛大学名誉教授の記事
・親鸞会批判サイトのブロガー4人に取材した内容
・参院選に出馬した柴田未来氏に取材した内容
・観勢寺が親鸞会に譲渡された問題に関する記事
・映画『なぜ生きる 蓮如上人と吉崎炎上』についての記事

などが書かれています。単にネットのみの情報や、親鸞会批判サイドの情報のみを集めただけではなく、高森会長にも取材しその内容も記してある点から見て、編集者の皆さんが力を入れてこの本を出版されたことが分かります。興味がある方は一読してみて頂ければと思います。
プロフィール

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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