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阿弥陀仏の薬

先日、麻薬や覚せい剤関係でまた芸能人が逮捕されたと聞いた。その人が有名な映画やドラマ、劇や舞台などに出演していればいるほど大変だ。未公開なものは演者や声優を差し替えて撮り直しを、今公開しているのであれば公演中止等を余儀なくされ、既に公開して出回っているものに関しては回収されることもあるらしい。まことに自損損他の咎逃れ難いことである。

ところが私は、麻薬や覚せい剤関係に手は染めていないものの、無明という酒にはついつい手を出している。飲んでは後悔し、後悔しては懲りずにまた飲むという毎日。本当にダメな父ちゃんだ・・・

また怒りにまかせて子供達を叱ってしまった。
また睡眠欲に抗えず子供達と十分に遊べなかった。
またあまりの仕事量にイライラして同僚に当たってしまった。
また惰眠をむさぼって聖典を読み進められなかった。
・・・すまぬ・・・

親鸞聖人は自らを「精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして・・・」と懺悔しておられるが、我が身の懈怠ぶり、精進の心のなさと比べたら「いやいやいやいや何を仰いますか聖人さま」と思ってしまう。

親鸞聖人を引き合いに出さなくても、妙好人として伝えられる浅原才市さんとか、無量精進仏の化身のような自分の先輩と比べても、自分の情けなさ、不甲斐なさが際立ってしまう。

実に根っからの悪人、真性の怠け者である淳心房。しかも、中々聴聞にも参れないときてる。そんな淳心房だからこそ阿弥陀仏の薬は手放せないし、これだけは切らしてはならないと強く感ずる。

まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。『末灯鈔』20通

あまりに欲や怒りが逆巻いて念仏する気にもならず、念仏していてもちっとも味気ないこともしょっちゅうだが、そのように欲や怒りしかないこの煩悩の只中に、よく阿弥陀さまの喚び声が届いて下さったものだなとも思う。

この口から出る一声一声が、知らず知らずのうちに心のブレーキになっていることに後で気づく。

普段、何気なく称えている一声一声が「まちがわさぬぞ」「助けるぞ」「安心して我にまかせよ」とのお喚び声であり、如来のお育てにあずかっていることだとは、何とも言えず有難く、かたじけないことである。

阿弥陀仏の薬をつねに好みめして生きていきたい。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『本願力』金魚掬いの救いと磁石のはたらき
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「信」→他力の信心、疑いをまじえずに受け容れること

これまで「ふかく」や「あさく」、「たのむ」「たすけたまへ」などの語を見てきましたが、今日は「」の語について見ていきたいと思います。これも、親鸞聖人が使われる「」、「信ずる」ということと、現代の我々が使う「」、「信ずる」では意味が全く違うからです。

まず現代の我々が使う「」、「信ずる」とは、例えば「明日は晴れると信じる」「君の言うことを信じよう」「○○神(●●仏)を信ずる」などのように、不確定な未来、証明できない事柄、特定の神仏に対して使います。そこには、当然ながら我が計らいをまじえ、もしかしたら違っているかもしれないという疑いが入っています。そして、その疑いを押さえつけて、あるいは払拭する意味で「信じる」と言っているのです。

しかし親鸞聖人が使われる「」、「信ずる」は、その対象が本願や名号、念仏であれば「他力の信心」を表し、善知識方の教説であれば「疑いをまじえずに受け容れること」を意味しています。前者は、例えば

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。「総序」

弥陀の本願信ずべし
 本願信ずるひとはみな
 摂取不捨の利益にて
 無上覚をばさとるなり


五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり
『正像末和讃』

などです。後者については

五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。正信偈

道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。正信偈

などが該当するでしょう。尤も、明確にスパスパ分けられない箇所もあるでしょうが、現代で使われている意味とは全く異なります。

これらの「」、「信ずる」を現代の感覚で捉えると、途端に浄土真宗とは異なる教えとなってしまいます。


親鸞聖人は「信文類」において

信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり

と言われ、「」には真実という意味があることを教えておられます。しかし、同じ真実でも「」の場合は、人偏に「言」という字が書いてあるように、特にその言葉に「うそ・いつわり」が無いことを「」と言われています。噓も偽りも無い、裏表の無い言葉、これが「」という文字にこもっている意味です。

ところが、我々が使う言葉には悲しいことに噓や偽り、裏表、裏切りがつきものです。それゆえ、「信じる」といったらその裏には「違うかも知れない」という「疑い」があります。その「疑い」を押さえつけて「信じる」より他に仕方がないのです。「」の持つ、噓も偽りも無い、裏表の無い言葉という意味が文字通り適用できるのは、これは人間の言葉には無理です。我執・煩悩を完全に浄化した如来の言葉だけです。

如来の言葉には噓や偽りはありません。七高僧方や親鸞聖人が示された教えは、仏陀の教説です。そのような噓も偽りもない仏陀や善知識方の教えの言葉を聞いた時、それを疑うことは、まことに失礼なことです。まことの言葉は、疑いをまじえずに、仰せの通りに聞き受けるべきですから、「」には「疑いをまじえない」という意味が自ずから具わっているのです。

それに対して「何と無批判な」「それでは進歩も何もあったもんじゃない」と仰る方があるかも知れません。確かにこの世のことであれば、なぜそうなるのか疑問を持ち、とことん追求するという姿勢も大事でしょう。ただ、仏教、浄土真宗で扱っているのは我々の生と死の問題です。そして、生死の迷いを超えていこうというのです。

自分で道を開けるという人、教えを乞うのが嫌な人は自分で追求すればよいでしょうが、私には生きることも、死ぬことも、何一つも見定めることはできません。ですから、「死ぬことはお浄土に生まれることだよ」と仰って下さる阿弥陀さまの真実のお言葉、それを信じよと勧めて下さる釈尊や七高僧、親鸞聖人方の言葉を「」ずる他には何もないのです。

この信心は自分で作り上げたものではなく、阿弥陀さまが与えて下さった本願の信心、他力の信心です。疑いを押さえつけて信じ込むこととは全く違います。疑いを押さえつけるのではなく、疑いが無いのです。さも、燦燦と降り注ぐ太陽の光を仰ぎ見て今の天気に疑いない如く、今、ここにいる、この私に届いている、「助けるぞ」の如来のお言葉に疑いない、これが信心です。


なお、親鸞聖人には勿論、自力の信心を意味する「」の使われ方もあります。

罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。「化身土文類」真門釈

などです。仏教で「罪福を信ずる」、因果の道理を信ずることは非常に大事なことであり、真宗といえどもこれを軽んずることは許されませんが、因果の道理をもって善悪平等の救いを誓われた本願をとらえようとすることは自力と言われ、この自力心がある内は本願力に帰することができません。

この「」という言葉一つ取っても世俗と仏教、また真宗とで随分と違うので、難しいものです。

悪人正機説に触れながら、「そのまま(悪人のまま)では助からないから、宿善を求め宿善を修めて(善人になって)、阿弥陀仏の救いに向かってゆきなさい」と、悪人正機とは真逆なことを説いていることに全く気付かない高森顕徹会長

先日12月8日(日)は富山で高森顕徹会長の講演がありました。『歎異抄』第三条を取り上げての講演でしたが、頂いた情報からその内容を推するに

一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

ここの部分を取り上げて、後はいつもの高森教を説いたようです。


まず第三条に表されている「悪人正機」説は、

・阿弥陀仏の本願は、悪人を救済の正しき対象とする
・阿弥陀仏の大悲は、幸せな善人よりも、すべての人に見捨てられていく不幸な悪人のうえにその憐れみは深く、重くかけられている
・阿弥陀仏の救いは、ひとえに如来の慈悲心の必然として恵みあたえられるものであって、人の功績に応じて与える褒美ではない


ということを、特に浄土のご法義を正しく受け止め、理解しているであろう弟子を選んで、その弟子のみに口伝された教えです。ご法義をよく理解していない者が表面的に浅く受け取って、自他共に悪道に堕さないようにとの配慮から、書ではなく、口伝えで伝えられたご法義だということをまず理解すべきです。

そのことをよく理解しない高森会長のような者がこの第三条を読みますと、悪人正機でありながら善人正機のような教えになってしまうのでしょう。そして、親鸞会の「善」の名の下に真実を伝えるためならどんな悪も許されるということで、他人の著書の剽窃を始めとし、執拗な本願寺批判、法要を妨害しての座り込み抗議、大学での偽装勧誘、偽装ベストセラー、息子の不倫疑惑事件もみ消し、上司のセクハラパワハラ、あいまいな会計報告、その他私も知らない、挙げ切れない様々な問題が親鸞会から発生しているのだと思われます。


さて、しかして高森会長は善人よりも悪人を目当てとして救う本願というよりは、ほどんど「真実の自己」の話をして一日の講演を終えました。『大無量寿経』五悪段 五悪

心につねに悪を念ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。

や、いつもの身口意の三業の話、心の行いを重視する話をし、

仏法を聞くとは、法鏡に向かうこと。法は真実。真実を映し出す鏡に近づくこと。
最後、真実の自己、悪人が知らされる。
自惚れている善人でさえ、救われるのだから、悪人と知らされた者はなおさら救われる。


などと話していたようです。


親鸞会では宿善の薄い者がそのままで助かるということはあり得ず、宿善を求めて、薄い宿善がやがて厚くなって、そして救われるのだと教えます。その宿善のものがらの一つが聞法で、それは宿善が厚くなる行為であると共に、法鏡に向かって進み、真実の自己が知らされてゆく行為だというのです。また、聞法のみでなく、五正行の実践と称した朝晩のおつとめ、六度万行の実践と称した布施等の善も勧められます。

前にも言いましたが、「善人」とは宿善の厚い人、「悪人」とは宿善の少ない人、つまり宿善の薄い人です。

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。『唯信鈔』【15】)

ですから、高森会長の説くところは、そのまま(悪人のまま)では助からないから、宿善を求め宿善を修めて(善人になって)、阿弥陀仏の救いに向かってゆきなさいということだと分かります。そして法鏡まで辿り着いた者を救うということですから、そこまで求めた者に論功行賞的に救いを与えるのが阿弥陀仏の本願だということになります。これは悪人正機の完全否定です。

勿論、浄土の教え、阿弥陀仏の救いはそんなものではありません。『唯信鈔』には続いて

しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。

と宿善(過去の善根)すくない身でありながら「ふかく本願を信ぜり」と、他力の信心を獲て摂取不捨の光益にあずかったことを述べられています。この記事で述べたように「ふかく」=「他力」です。


聞法とは、高森教が言うような宿善を厚くする善とか、阿弥陀仏の救いに向かってゆく手段ではなく、既に成就し、私に向かってはたらきかけていて下さる南無阿弥陀仏の救いの法をお聞かせ頂き、これを計らいをまじえずに領受させて頂くことです。真宗の聞法に自力的な意味はありません。念仏にしても同様です。それを自力の聞法、自力の念仏に貶めているのは聞く側、称える側の問題です。

阿弥陀仏は「ここまで求めて来い」と言うので無しに、「お前を待ちきれずにここまで来たぞ」と、南無阿弥陀仏と成って真如の世界より届いて下さった仏様なのです。今、ここにいる、この私の元に、既に来て下さっている仏様なのです。

私には、迷いを離れることも、さとりを開くこともできません。永久に迷い、苦しみ続けていくしかない凡夫です。その私目がけて

一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟(『唯信鈔』【4】)

して、その願成就してはたらいていて下さるのが南無阿弥陀仏の名号法です。宿善が厚かろうが薄かろうが、そんなものは救いと関係ありません。私達はただ、この深重なる誓願を計らいをまじえずに受け容れて、仰せの通り南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と阿弥陀仏の御名を称えて往生一定と期するのみです。


高森教では、「どこそこまで進んで行け」というばかりで、今、ここにいる、この私は救われません。今、ここにいる、この私を救うのが阿弥陀仏の本願です。それは、廃悪修善によって仏に近づいていく善人や聖者よりも、むしろ仏に背を向けて苦しみ続けていくしかない悪人である私を目当てとして建てられたご本願ですから、その教えを「悪人正機」と言われるのです。会員の皆さんは早く「悪人正機」を完全否定する高森教から離れ、本物の「悪人正機」説に出遇って本願を信じ念仏申して頂きたいと思います。



【参照】
『浄土真宗本願寺派 報徳寺』聖典セミナー 『歎異抄』第三条 ~悪人正機の伝承~

「たのむ」=「たすけたまへ」=「たすけたまへとたのむ」=たのみにする、おまかせする、信順する

前回の続きです。

『御文章』は浄土真宗の門徒に大変親しまれている、「凡夫往生の鏡」とも言われる大事な聖典です。かな交じりで漢文を読み解くような難しさはなく、平易な文章で浄土真宗の安心の一義を教えられています。浄土真宗から『御文章』を取ったら何も残らないと言った人もある位、特に本願寺派、真宗大谷派にとっては重要な書物です。

ただ、今から五百年前に書かれたものであり、特に安心を表す重要な言葉が現代の我々の感覚とは違う用い方をされています。誰でも読める平易な文章である反面、安心の一義をよくわきまえた方から教えて頂かないと非常に誤解が多かろうと思われます。

その重要な言葉が、タイトルでも示した「たのむ」とか「たすけたまへ」、あるいは「たすけたまへとたのむ」等です。これが、普段我々が使う言葉の意味とは真逆の意味で用いられているので注意しなければならんのです。

普段我々が「たのむ」といったら「用事をたのむ」「たのむから許してくれ」というように「お願いする」「請う」という意味で用いています。昔は「たのむ」に「お願いする」「請う」という意味は無かったそうですが、いつの間にやらそのような意味が追加され、それが今では主流になってしまったようです。

なお、名無しさんのコメントによれば現代語でも普通に「期待する、あてにする、ゆだねる」という意味で使うことはあるそうですが、私の周囲では中々お耳にかかりません。地域性や年代の違いでしょうか。

このような、「お願いする」「請う」といったいわゆる祈願請求の意で「たのむ」の語を捉えると、永久に浄土真宗の信心とはかけ離れることになるので注意しなければなりません。ここをお読みの皆様にはそのような心配は無用かとは思いますが、一応述べさせて頂きます。蓮如上人が使われる「弥陀をたのむ」とは、われらがごとき末代不善の凡夫を「我ひとり助けん」と仰せの本願を聞いて、その本願の仰せに我がなまじいの計らいや疑いをまじえずに

たのみにする、おまかせする、信順する

といった意味であり、

どうか阿弥陀さま一つ私の後生何とか助けて下さい、お願いします

といった、凡夫の側から救いを請い求める意味はありません。

阿弥陀仏の「我ひとり助けん」という願いは既に南無阿弥陀仏と成就して、今現に我々に届いています。我々が「助かりたい」と願うより先に既に届いている「助けるぞ」の先手の法に対して計らいをまじえずに受け容れ、おまかせし、仰せの通りに順うというのが「弥陀をたのむ」ということです。


さて、「たのむ」だけならまだよいのですが、問題は「たすけたまへ」が絡んできた場合です。『御文章』にはしばしば「たすけたまへとたのむ」とあります。現代の感覚で言ったら間違いなく「お助け下さいとお願いする」という意味になってしまいます。特に

ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば・・・2帖目13通

等を拝読した時です。こうした御文の誤解から三業帰命等の異説が発生したのだろうかとも思われます。

どうやら、蓮如上人はゆかりのあった浄土宗(一条流)が用いていた「たすけたまへ」の語を、語はそのままで、意味を許諾(こだく)という意味で転用されたらしいです。許諾とは

他人の要求や希望などを聞き入れて、それを許すこと。承諾すること。

というほどの意味ですが、ここでは阿弥陀仏の願いを聞き入れて、仰せの通りに受け容れることです。

先ほども書いた通り、私達が「後生助かりたい」と思う以前に、阿弥陀仏は既に私達の「後生助ける」と願いを発し、今やその願成就して、南無阿弥陀仏の念仏と成って届いて下さっています。南無阿弥陀仏の声は

我にまかせよ、必ず浄土に迎えて仏にする

という仏勅であり、その仏勅をそのまま聞き入れて、それでは仰せの通り「たすけたまへ」ということです。ですから、「たのむ」と「たすけたまへ」は同義であることが分かります。またこのことから、「たすけたまへとたのむ」とは、例えば「二度と再び」というように同じ意味の語を重ねている言葉なのだということも分かります。


阿弥陀仏は衆生往生の行として称名念仏の一行を選択し、「我が名を称えよ」と与えて下さっています。念仏とは、阿弥陀仏のお願いなんですね。「お願いだから我が名を称えて浄土に生まれてきておくれ」というのが念仏に込められた阿弥陀さまのお心です。

だからお念仏申すとは、阿弥陀さまのお心を聞いて、その通りに順うことを言うのです。念仏を自分の功徳だと思って称え、それを当てにして往生しようというのは、阿弥陀さまのお心、本願のお心を聞いていないのです。

蓮如上人の当時は浄土の教えは相当広まっていて、浄土宗や時宗が大変盛んでした。浄土を願ってお念仏を申される方々が相当あったんでしょう。しかし、その信心は必ずしも正しくなかったのです。ただ称えていればいいとか、念仏はお助け下さい阿弥陀様という凡夫の祈りだと思っている人が多かったわけです。そういう人々に、念仏のこころ、念仏の信心を「たのむ」「たすけたまへ」という言葉で明らかにされ、浄土真宗を再興されたのが蓮如上人でした。それで『御一代記聞書』には

一 聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。

と言われています。


なお、一条流の「たすけたまへ」の意味とか、蓮如上人は最初は「たすけたまへ」を否定的な意味で使われていたことについては、長くなりますのでここでは割愛させて頂きます。



【参照】
安心論題/タノム・タスケタマヘ
『本願力』梯實圓和上  『攻めの蓮如上人』

「ふかく」=「他力」、「あさく」=「自力」

いや~、日本語って、非常に難しいですね。色々な国の言葉が混じり合っているだけでなく、親鸞聖人や蓮如上人の時代のいわゆる古文漢文と我々が日常用いている現代文とでは同じ言葉でも意味が違うのですから。

特にセンター試験で古文漢文30点だった自分には、聖典と向き合うのは厳しい厳しい。先哲の解説をもとに、読み誤りのないように注意して拝読したいものです。


さて、昔と今とで意味が違う用語の中でも、「あさく」「ふかく」とか、「たすけたまへ」「たのむ」等は誤解が多いのではなかろうかと感じます。

まず前者の「あさく」「ふかく」ですが、漢字で当てれば「」「」です。これは現代の感覚では相対の世界での浅い、深いという意味に捉えがちです。井戸が浅い、深いとか、信じる度合いが浅い、深いとか。

しかしそうではなく、信心について「あさく」「」と言ったら自力を、「ふかく」「」と言ったら他力を表します。

これについては二種深信がまさにそうです。

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
「散善義」

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。『往生礼讃』

決定して深く・・・と信ず」「信知」とありますが、これは現代の感覚で深く信じ込むこととは違います。『正信偈』にも源信讃

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。

とあります。専修になり極まった念仏の行者の信心は他力なるが故にふかく、雑行雑修を捨てやらぬ機の信心は自力なるが故にあさいということです。

念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。『末灯鈔』12通

のお言葉など典型例です。「ふかく信じて」とは他力の信心、真実の信心であり、自力で信じ込もう信じ込もうとすることとは全く異なります。本願力にまかせたてまつる信心は他力なるが故に「ふかく」と表され、逆にどんなに強く深く信じ込んでいようとそれが自力であれば「あさく」の範疇になります。

一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて5帖目4通

等の『御文章』のお言葉もそうです。「ふかく心に疑なく信じて」とあるから、現代の感覚では疑わないように深く強く信じ込むことのように思いがちですが、どんなにそうだそうだと強く深く信じ込もうとそれは自力の信心の範疇であり、「ふかく心に疑なく信じて」という他力の信心、真実の信心ではありません。5帖目4通では後に

仏にまかせまゐらせて

とあるように、これは自力を離れて阿弥陀仏におまかせした他力の信心を意味しています。久しく聖典を拝読している方には敢えて尋ねたり注意したりする必要も無い常識ですが、自力雑行の捨てやらぬ親鸞会の会員や退会して間もない方、それほど聖典を勉強していない方は知らないことかもしれません。


『御文章』ではこの「ふかく」に加えて「たすけたまへ」「たのむ」「たすけたまへとふかくたのみ」等とあり、現代の感覚では更に誤解しやすくなっています。こちらについては記事を改めてみてみたいと思います。

日向と日陰

あれほど暑かった夏も、そして秋も過ぎ、もう今年も12月になってしまった。本当に早い・・・。いよいよ寒くなり、太陽の光が恋しくなってきた。日中、日陰に入るととても寒く、日向を求めたくなる。

蓮如上人は『御一代記聞書』307にこのように仰ったと伝えられている。

一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

万物を生み出す力に陽の気と陰の気とがある。陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を受ける日陰の花はおそく咲く。そのように、宿善が開け、信心獲得するにもおそい・はやいの違いがあるというのである。


蓮如上人は主に信前の人を勧化するためにこう仰ったと思われるが、

信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり

ともあるように、信後の人にも同様に心から仏法を聴聞するように勧められている。

信後も、相変わらず仏の教えに反逆し続ける自性は変わりない。欲は起こすし腹は立てるし、ねたみそねみ、憎む心はとどまらず消えず絶えずで、悪いとは思いながらも止めることができない。仏道の死骸とは他ならぬ自分のことを言うのだなと反省せざるを得ない。

法に触れ、教えの光を身に受けなければ、この時期乾燥して体中から水分が抜けていくように、教えて頂いたことや有難い思いが心から体から抜けていってしまう。世俗に埋没し、周囲に仏法の「ぶ」の字もない環境下で暮らしている私なんかなおさらだ。

ならばこそ、常に法に触れ、教えを受けて、有難い光が差してくるように、暖かくなってくるようにしなければならない。それもしないで有難い、嬉しい気持ちが起こらないのは、あたかも真冬に日陰で、冷たい風にさらされる場所にいながら「寒い寒い」「なぜ暖かくないのか」と言っているようなものであると思う。

蓮如上人はまた、『御一代記聞書』(88)にて次のように仰ったという。

一 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

その籠を水につけよ」。心がけたいことである。これを解説して梯實圓和上は

仏法についての知識を蓄えようとばかり努めるのは、学習ではあっても、まことの聞法ではありません。肝心のことを聞き落としているからです。私が老耄して、たとえ如来さまを忘れてしまうようなことがあったとしても、私を決して忘れてくださらぬ阿弥陀如来さまのましますことを聞いていないからです。
如来の救いを記憶しようとすることは、如来を自分の心の中に取り込もうとしているのであって、目の粗い籠に水をためようとしているようなものです。まことの聞法は、その籠を水につけておくように、自分が如来の大悲に包まれていることを聞いて喜び、如来の大悲にわが身を任せることなのです。忘れることを悲しむよりも、また聞くことを楽しむのです。


と仰せられたという。如来を取り込もうとするのではなく、如来の大悲に包まれていることを知らせて頂くことがまことの聞法であると受け取らせて頂いた。私には非常に有難く感じられる。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『用管窺天記』その籠を水につけよ

弥陀をたのむ人生を

保育園の、親同士の飲み会の席のことである。

その会はほとんどママさんで、旦那はいないためにしばしば旦那への愚痴話が聞かれた。どんな仲むつまじい間柄だって相手への不足や不満の一つや二つはあるんだから、パートナーへのそれは当然あるだろうな。まぁ愚痴をこぼすことによって少しでも日頃の鬱憤が晴れて前向きに生きられるならと思って聞いていた。

その中で、あるママさんが「旦那からの愛情が感じられない」と嘆いていた。一説によると、男性は愛情をしぐさで表現し、あまり言葉では表さないらしい。対して、女性は言葉でハッキリと愛していると伝えてほしいそうだ。―無論、全ての男性、女性がそうではないだろうが―

そのママさんは、冗談半分か、酔った勢いかは知らないが「浮気してやる~」と言っていた。それを見て、

「愛をたのむ人生を生きちゃダメだ。
愛をたのむよりは、弥陀をたのむ人生を・・・」

と密かに思った。


愛をたのむ人生は、常に期待と不安に揺れ動く。
確かに人生、愛がなくては生きてゆけない。

ところが、愛する人が自分を愛してくれるとは限らない。
愛しい人の愛を得られない苦しみは、愛が募る分だけ大きい。
愛が得られなければ、生きていても仕方がないと思わしめるほど。

ただし、幸いにして結ばれても、その愛の心は続かない。
人間の愛は、冷めもするし、心変わりもする。
悲しいことにウソと偽りと裏切りが付きもの。
とろけるような幸福感は、次の瞬間には崩壊につながっている。

そして最も悲しいのは、憎しみに転じかねないこと。
恋愛のもつれは勿論、家族、恋人同士で殺し合う愛憎の悲劇は後を絶たない。

しかして、どんなに愛し愛されていても必ず別れてゆかねばならない。
心中したとて、死んでゆくのは一人一人。決して一緒にはなれない。
詮ずる所、愛のみでは人間は幸福にはなれない。
まして生死苦悩を脱することは決してできない。

やはり、愛憎を超え、生死苦悩を超える道は念仏往生の一道よりなかろう。
同じく阿弥陀仏より賜るお念仏によってのみ、俱会一処とまた遇える世界のあることが知らされる。
同じく阿弥陀仏より賜るご信心によってのみ、怨親平等に救われる世界のあることが知らされる。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

寺カフェ

最近、寺カフェなるものが流行っているらしい。この前ラジオで紹介されていた。
↓↓↓
寺カフェ代官山

ラジオでは聞き逃したため何宗の寺なのか分からなかったが、

浄土真宗本願寺派 生田山 信行寺 春秋苑

と一番下に書かれている。真宗のようだと知って少し驚いた。

ホームページには、

仏教を皆さまにとってもっと身近なものにしたい。


私たちの寺カフェは現代の人々の、いわば「駆け込み寺」です。
何かに思い悩んでいる。誰に相談したらいいかわからない。こんな小さな悩みを笑われたらどうしよう。
お寺ってどうなんだろう? でも今まで行った事がないから敷居が高い。

皆さんが行きにくいなら、私たちから出かけて行こう。
それが寺カフェです。


このように寺カフェを運営するに当たっての動機が書かれている。これによって、宿善の機(関心のある人)が浄土真宗の教えを知り、本願を信じ念仏を申す同行となって下されば有難いご縁である。


時に親鸞会サン。もしこれを「事業仏教」と罵倒するのなら、食事処「サンキュー」や安心弁当などを経営し、呼び込みにギネス認定を受けて世界一大きい畳部屋を誇っている貴方がたも、十分「事業仏教」ですよ。

鸞聖人・御命日

今日は親鸞聖人の御命日である。ということで鸞聖人・御命日の『御文章』を拝読。

 そもそも、今日は鸞聖人(親鸞)の御命日として、かならず報恩謝徳のこころざしをはこばざる人、これすくなし。しかれどもかの諸人のうへにおいて、あひこころうべきおもむきは、もし本願他力の真実信心を獲得せざらん未安心の輩は、今日にかぎりてあながちに出仕をいたし、この講中の座敷をふさぐをもつて真宗の肝要とばかりおもはん人は、いかでかわが聖人の御意にはあひかなひがたし。しかりといへども、わが在所にありて報謝のいとなみをもはこばざらんひとは、不請にも出仕をいたしてもよろしかるべきか。

されば毎月二十八日ごとにかならず出仕をいたさんとおもはん輩においては、あひかまへて、日ごろの信心のとほり決定せざらん未安心のひとも、すみやかに本願真実の他力信心をとりて、わが身の今度の報土往生を決定せしめんこそ、まことに聖人報恩謝徳の懇志にあひかなふべけれ。また自身の極楽往生の一途も治定しをはりぬべき道理なり。これすなはち、まことに「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」(礼讃)といふ釈文のこころにも符合せるものなり。

それ、聖人御入滅はすでに一百余歳を経といへども、かたじけなくも目前において真影を拝したてまつる。また徳音ははるかに無常の風にへだつといへども、まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり。これによりて、いまこの時節にいたりて、本願真実の信心を獲得せしむる人なくは、まことに宿善のもよほしにあづからぬ身とおもふべし。もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。

しかるにいま本願の一道にあひがたくして、まれに無上の本願にあふことを得たり。まことによろこびのなかのよろこび、なにごとかこれにしかん。たふとむべし、信ずべし。これによりて年月日ごろわがこころのわろき迷心をひるがへして、たちまちに本願一実の他力信心にもとづかんひとは、真実に聖人の御意にあひかなふべし。これしかしながら今日、聖人の報恩謝徳の御こころざしにもあひそなはりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明七年五月二十八日これを書く。]


大意(『御文章ひらがな版・拝読のために』本願寺出版社より)

 今日は親鸞聖人のご命日ですから、参集の人々で、報恩の気持ちを持たない人は少ないでしょう。しかし真実信心を得ていないものが、ただ今日だけ参詣すればいいと思っているのなら、聖人のお心には沿いません。

けれども家にいて報恩のおつとめもしない人は、いやいやながらでも参詣するのもよいでしょうか。

毎月二十八日にかならず参詣しようと思っている人は、しっかりと心構えをし、信心をまだ決定していない人は、このたびの参詣ではやく他力の信心を決定して、浄土往生を定めるようにしてください。

そのようにしてこそ、報恩の気持ちにかない、また自らの浄土往生も定まるというものです。

このことは善導大師の「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」というお言葉にも合うものです。

聖人が入滅なさって百余年を経過しますが、今、目の前にご真影を拝することができ、またお声を直に聞くことはできませんが、み教えはそのまま伝えられて他力の信心は今も絶えることはありません。

このときに他力の信心を得なかったら、自分は、如来のお育てのご縁が実を結ばなかったと思わなければなりません。それは嘆いてもあまりあることです。

ところが、いま私たちは、本願の教えに遇いがたくして遇うことができました。これにすぎる喜びはありません。まことに如来の本願を尊び、疑いなく信じるべきです。このことにより、自力の心をひるがえして他力の信心をいただく人は、まことに聖人のお心にかなう人です。これこそ、聖人に対する報恩謝徳のこころがそなわったということです。



今日も仕事で、残念ながらどこにも参詣は果たせないが、聖典を拝読し、本願を仰ぎ念仏しつつその御恩徳を偲びたいと思う。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

質問に答えたようで、実は自分の首を絞めていることに気づかない高森顕徹会長

11月24日(日)、親鸞会館では映画解説がなされました。そこで高森会長は、映画『歎異抄をひらく』についての2つの質問に応答したようです。なお、この映画解説については

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』初の映画「歎異抄をひらく」解説で高森顕徹会長が語ったことから、親鸞会の今後を考える。2019年11月24日(日)映画解説より

の記事でも扱われているので参照して下さい。


まず1つ目の質問は

(1)シナリオブック25ページに平次郎が「親鸞さまは、救われたのですか?」と聞いたあと周りの人は驚いていますが親鸞聖人は「よい質問だな」とおっしゃっています。本当に良い質問だったのでしょうか。

というものでした。ここで「平次郎」とは幼い頃の唯円房のようです。

話の中で高森会長は

法に依りて人に依らざるべし

という四依の文の一部を出し、

その人が、救われていたら教えを聞こう、救われてなかったらやめようと判断するのは間違い。
説かれる法で判断しなければならない。


と話していたようです。説かれる法が正しければ聞こう、間違っていればやめようと判断するのが正しいという主張のようですが、ならば、後生は必堕無間と脅し、全ての人は五逆、謗法、闡提の極悪人だと言いふらし、「宿善を求めよ」「三願転入せよ」と言っては雑行(実態は悪業悪行)を勧め、会長や上司の指示に無条件服従を強いる親鸞会の教えは正しいでしょうか? 間違っているでしょうか? 親鸞聖人はどのように仰せですか?

会員の皆さんは親鸞会で言われることを鵜呑みにするのではなく、実際のところはどうなのかを徹底調査した上で親鸞会の教えを聞くべきかどうか判断すべきだと思います。なお、この話の結論は

真実に導くために子供に花を持たせるという意味で、平次郎に「よい質問だな」と言われた。

というような答えでした。ということは、ハッキリ言えばよくない質問だということでしょう。もっとハッキリ言えば、都合の悪い質問だからしてくれるなということでしょう。

最近、二千畳で講師部員が話をしているが、彼らは信心を獲た上で話をしているのか、未信のままで話をしているのか。この質問は、「こんなことを思ったり、聞いたりするのはよくないことなのか?」と疑問に思った会員から出た質問かもしれません。



次に2つ目の質問は、

(2)阿弥陀仏に速く救われる人と、遅く救われる人があり、阿弥陀仏の救いには条件があるのではないか?

といった質問です。これは唯円房が、殺人を犯して死刑執行を待つ幼馴染みの権八に、牢屋で面会した時のセリフに関してのものです。唯円房は権八に対して

全ての人間が阿弥陀仏の本願に救われ、極楽浄土に生まれることができるんだ。 阿弥陀仏の救いに、条件はないんだよ。

と語っています。このセリフに関しての質問のようです。

これについて、高森会長はまず

阿弥陀様の本願は無条件。善人になったらという条件は一切ない。

などと話したようです。それで、一休禅師と蓮如上人の歌を通して条件と蓋の違いを説明し、その後どうしたら蓋が取れるかについては「宿善にかぎれり」だといって、

宿善を厚くする一番の方法は聞法。仏教を聞かせて頂くこと。

などといった論調で宿善厚くするための聞法を勧めていました。

あのー、高森さん、「宿善」の厚い人ってつまり善人ってことなんですが・・・。要は高森会長の説く阿弥陀仏の本願とは「宿善の厚い者を救う」ということで、「善人になったらという条件」がついています。「無条件」などとはとても言えない本願であることが明らかです。


宿善」に関しては散々述べて来ましたので詳しく言いませんが、蓮如上人は『御文章』においては教えに関心が有るか無いか、教えを真剣に聞く気が有るか無いかで「宿善」「無宿善」の言葉を用いています。高森会長のように、これから阿弥陀仏に救われよう、信心獲得しようとする者が修めるべき善根功徳が「宿善」であるとは教えられておりません。

過去において宿善薄い者は今生において真剣に宿善を求めなければならない。そうしなければ救われない

というような意味で「宿善」の語を用い、「宿善」厚くするための聞法求道、おつとめ、修善を勧めている箇所は一箇所もありません。

聞法といっても、因果の道理や高森教の邪義を聞くことではありません。「本願の名号」「仏願の生起本末」を聞くのです。そして、本願を聞いて疑いないのが聞であり信です。聞法を重ねていってやがて宿善が厚くなり、そして救われるというなら、「多聞多見」というのが救われる条件となります。

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。『選択本願念仏集』難易義

法然聖人はこのように教えられ、教えを多く聞くことが往生の行、つまり救われる条件だとしたなら、そのようにできない多くの人々は、往生の望みを絶たねばならないというのです。

親鸞会は他にも「善をしなければ信仰は進みません」などと話します。要は「善をしなければ信仰は進まず助からない」ということです。ここでは善をすること、そして信仰(?)を進めることが救われる条件となっています。

まだまだ、因果の道理をもっと深く知らされねばならないとか、真実の自己がもっと知らされねばならないとか、後生に驚きが立たねばならないとか、19願の善をド真剣にやらねばならないとか、会員の皆さんは個々に色々とそう考えて活動していると思います。それらは全て救われる条件です。

このように、救われる条件は無い、条件と蓋との違いを知らない、などと話しながら、現実には思いっきり救われる条件を設けまくって、あれせいこれせい、せなんだら助からんぞと会員を組織拡大活動に駆り立て、利用・搾取しているのが親鸞会であり高森顕徹会長であると判ります。

そういった、皆さんが考えているような「救われる条件」というものは本願にはありません。本願を聞く、聞法といっても、今、ここで、この私を浄土に迎え取るという本願の仰せを疑いをまじえずに聞き容れるのみです。

しかしながら、親鸞会では邪義の雑じった「仏願の生起」が説かれるのみで「仏願の本末」は聞かせてもらえず、「本願の名号」である「南無阿弥陀仏の六字のこころ」も教えてはくれません。聞け、聞けと言っていても、我々が聞くべき内容が無いのです。聞くべき内容が無い団体に身を置くことや、そこで話を聞くこと、及び活動することは意味があるのかないのか、会員の皆さんはよく考えてみるべきでしょう。



さて、(1)については、無安心無信心の講師部員が二千畳で話をするようになって

・未信の講師たちに法を説かせること、また未信の講師たちの話を聞くことはどうなの?
・講師の方々に「あなたは救われましたか?」なんて聞くのは悪いことではなかろうか。


と内心思っている会員らから、(2)については

「条件がない」と聞くが、自分も周りも救われていない。本当に阿弥陀仏の救いには条件がないのか?

と思っている会員らから出た、親鸞会の話を聞いていれば当然すぎるほど当然出てくる質問と言えるでしょう。

それに答えたものの、恐らく高森顕徹会長は自分の首を絞めていることに気づいていません。説かれる内容で判断したら親鸞会教義などは親鸞聖人の仰せとは似て非なる邪義であり、救われる条件がないと言いながら「多聞多見」を始めとして多くの条件を設けているからです。

蓮如上人は『御一代記聞書』

一 信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。

と仰って、「自分が信心を得てもいないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、自分は何もものを持たないでいて、人にものを与えようとするようなものである。これでは人が承知するはずがない」と教えられています。また、「まず自分自身の信心を決定して、その上で他の人々に信心を勧めるのである。これが仏恩報謝になるのである」とも仰せです。

自身も助からず、それでいて人前で話をしなければならず、人々に信を取らすこともできない講師部員。また、そんな講師部員の話を半ば疑問視しながらも聞き続ける会員は、実に哀れ哀れです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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