目的もハッキリしないし、そこまでの道順もハッキリしないので、”生きる力”とやらは湧いてきません

よく親鸞会の学生部会で出されたのが、『なぜ生きる』

 生きる目的がハッキリすれば、勉強も仕事も健康管理もこのためだ、とすべての行為が意味を持ち、心から充実した人生になるでしょう。病気がつらくても、人間関係に落ち込んでも、競争に敗れても、
「大目的を果たすため、乗り越えなければ!」
と”生きる力”が湧いてくるのです。
 ニーチェは『道徳の系譜』に、なぜ生きるかがわかれば、「人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする」と書いています。方向さえ正しければ、速く走るほど早く目的地に着きますから、損をする苦労は一つもありません。人生の目的成就のためならば、時間、体力、お金をどれだけ使っても、百パーセントそれらは生かされます。使い捨てにはならないのです。(p.35)


の言葉です。どう生きるより先になぜ生きるが大事、人生の目的を正しく知ってこそ充実した人生になる、等の文言で新入生を釣り、偽装勧誘・正体を隠した勧誘を繰り返して組織拡大要員を集めている親鸞会です。私もこのように聞いて「確かにそうだ」と思い入会していった口ですが、しかし聞いても聞いても人生の目的・生きる目的は退会するまでハッキリしませんでした。そして人生の目的・生きる目的を果たす手段もハッキリせず、活動を続けたからとて目的達成に近づいているという確かな実感などまるでありませんでした。親鸞会にゆかりがある人で、他の方々はどうだったのか。ご意見を伺いたいところです。

確かに道に例えれば、目的地と道順さえ正しければ、上の言葉通り速く走るほど早く目的地に着きますし、損をする苦労は一つもないかも知れません。しかし、人生そのようなパターンばかりかと言えばそうではないことは皆さんご承知の通りです。

今学生や浪人生が必死に励んでいる受験一つ取っても、頑張ったから志望校に合格できるとは限りません。意中の男性・女性のハートを掴みたいと思っても、時間、体力、お金をどれだけかけたとてそれらが生かされるかどうかは極めて不明確です。自分の持てる範囲でどれだけ努力しても銀メダルで終わるアスリート、メダルはおろか表彰台にも登れないアスリートがどれだけあることか。

後々幸せな気分の状態で、過去の努力や苦労を振り返って「今までの自分の行動はあながち無駄ではなかったかもな」と思い返すことはあり得るでしょうが、このように目的がハッキリしていたとて報われるかどうか不明確なことばかりです。まして目的がハッキリしないことが叶うでしょうか? そして目的を果たす手段、道順もあいまいだったら? それとも人生の目的は宝くじや棚ぼた的なもので偶然達成するものなのでしょうか?


「人生の目的は後生の一大事の解決」
「信心決定して絶対の幸福になること」


と説いてはいますが、そう聞いたとて、目的地や受験合格・恋愛成就・金メダル等のように自分の中でハッキリとはしませんでした。そして、それを果たす手段として教えられるものも、続けたからとて目的に近づいているという確かな実感もなく、こちらも自分の中でハッキリとはしませんでした。このように目的もハッキリしないし、そこまでの道順もハッキリしないので、”生きる力”とやらは湧いてきませんでした。それどころか現実の苦しみにもがいて、自殺したいと何度思ったことか。熱心な会員からしたらこういうのは「聞き誤り」の一言で片づけるのでしょうが、もし自分のように思っている(いた)方が多数おられるなら、そんな誤りやすい、難しい教えが浄土真宗かということになってしまいます。

何度も書いていますが、浄土真宗は私が本願の救いに向かって進んでいくという教えではありません。親鸞会の教えは向きが真逆です。阿弥陀仏が私に向けて差し向けられている救いの御名をそのままお受けする、それで私が往生成仏していくという教え、これが浄土真宗です。目的と手段を普段我々が考えているように捉えていたら誤りです。それでは本願のお心を正しく受け取ることはできず、せっかくの如来、高僧知識方の骨折りも水泡に帰すというものです。会員の皆さんには、早く親鸞会の邪義に気づいて利用・搾取される人生からはさよならし、本願を信じ念仏して頂きたいばかりです。
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【お知らせ】親鸞会の青年・学生大会

来月3月12日は、親鸞会で青年・学生大会が行われるようです。昔は青年大会と学生大会は別々の行事でしたが、学生の数が激減しているのでしょうか、今は一つにまとまっています。演題は、

映画「なぜ生きる」の了顕は、なぜ仏法を聞くようになったのか(白骨の章を通して)

とのことです。ちなみに青年学生大会は誰でも参詣できるそうです。


最近は専らアニメ映画『なぜ生きる』が法話の題材に取り扱われています。もはや『なぜ生きる』『なぜ生きる2』『映画なぜ生きる』等が根本聖典のようなもので、肝心の教えになると聖教ではなく高森本や親鸞会製作物でしか根拠を示せないというのが現在の親鸞会の実態です。大悲の願船に只今乗れると説きながら、いつまでも乗れないことに疑問がある方は、ぜひ聖教に直に向き合って頂きたいものです。現在は

飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~
親鸞会を脱会した人(したい人)へ

などのように聖教上の根拠を示して親鸞会教義の誤りを詳細に指摘しているブログが多くあります。自分の命が今日終わるとしたら、親鸞会の教えで果たして後生助かるのか。組織に利用されているのは突如出家すると世間を騒がせている人だけではありません。辛いことですが、教えを巧みに織り交ぜて組織拡大に利用されていたというのが現実です。

今朝、子供とランニングをしていたら鳥が路傍に横たわっていました。それが私達の確実な未来です。どうか自分の死と向き合って、今一度真面目に考えて頂きたいと思います。

本願に疑い晴れても、何もかもハッキリするわけではない

昨日の富山での法話は、先日

身も心も喜びに満ち溢れた「歓喜」ではなく、二心なき本願力回向の「信心」が清浄報土の真因

で紹介したものと同じく、アニメ映画『なぜ生きる』の蓮如上人の台詞

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります。」

に対する質問の返答だったそうです。既に

邪義を修正してもやはり邪義にしかならない

にもupされています。話の中で、前回と同様、明法房弁円の歌を出して話があったようですが、今回は「変わり果てたる心」について、

・苦しみの根源と教えられる、疑情、無明の闇、後生暗い心が願船に乗せて頂くと無くなる
・生きている平生、一念の瞬間に阿弥陀仏の極楽浄土に往って生まれることがハッキリ定まる


と話をしたそうです。親鸞会では、

疑情=無明の闇=後生暗い心往生一定=極楽に必ず往けるとハッキリする

などと教えますから、今回の回答も従来の教え通りですが、これは間違いです


まずは疑情からですが、これは「本願を疑う心」であって、「後生暗い心」「後生ハッキリしない心」ではありません。親鸞会では基本的な知識が間違っています。ですから、本願に疑い晴れても、後生がハッキリ分かるわけではないのです。それを言われているのが『執持鈔』

 「是非しらず邪正もわかぬ この身にて 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(正像末和讃・一一六)。往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。


のお言葉です。これについて詳しくは

阿弥陀仏に救われた人は浄土往生が確信できるか?について考える(サイクロンさんのコメント)のまとめ
浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

等を参照して下さい。韋提希のようにお釈迦様から浄土の様相を見せられたならともかく、我々はそうではないのですから、後生どのような処へ生まれるかは私達の側からは分からないのです。その分からないことをハッキリ分かると説く輩は親鸞聖人の教えとは異なりますから要注意です。あくまで他力の信心とは、

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

とあるように何もかも本願におまかせしたことを言うのであって、神秘的な体験でも、相当の智慧が身に具わることでもないことを知るべきでしょう。


親鸞会では「とにかくハッキリするからハッキリするまで求め抜け」と会員の尻を叩いて組織拡大を図っていますが、本願に疑い晴れるというのは何もかもハッキリすることとは違います。特に会員の皆さんが想像しているような、盲者開眼の一刹那よりも明らかな体験だというのは、親鸞会の邪義の聞き過ぎから生じる妄想です。

私達は善知識方の教えを承けて、法然聖人、親鸞聖人と同じ処へ生まれるのだなと領解するだけです。たとえそこが地獄であろうと孤独ではありません。一人ではなく、師と共に堕ちるのです。ただかたじけないことに、阿弥陀さまが「間違いなく浄土へ生まれさせるぞ」と力強く仰せになって、その願は既に成就していますから、私としてはこの力強い本願に身も心も委ねて往生を願うのみです。これが自力を捨てて他力に帰する、すべて阿弥陀仏におまかせするということです。

往生ほどの一大事、我々の力や智慧が及ぶ問題ではありません。そう思えばこそ、素直に阿弥陀仏の仰せに全托するしかないでしょう。まだ計らっている方も、どうか本願の仰せを聞き受けて、後生を阿弥陀さまにおまかせして頂きたいと思います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

親様の運転にまかせておけばよいのです

先日子供と夕食にラーメンを食べに行った帰り、よく行く日帰り温泉に行こうという事になって向かっている途中でした。すっかり暗くなり、周囲の様子がよく分からなかったため不安だったのか、子供(7)がこう言いました。

「お父さん、ホントにこの道で合ってるのかなぁ?」

私は言いました。

「大丈夫だから」

「本当にこっちで合ってるの?」そんな心配は無用。親は外が暗がりでも、ちゃんと目的地までの道順を覚えています。子供は道中の事はよく分からなくても、ただ車に乗って親の運転にまかせているだけで、目的地まで着いたというわけです。たとえ分かっていたって、慣れない夜道を七つの子供の足で数キロ離れた先まで進むのは困難でしょう。ここは素直に親の運転にまかせておけばよいのです。


私達が浄土に往くということもこれに似ています。本願に疑い晴れても、浄土の様相、浄土までの道順といったことは分かりません。私の子供のように不安に思うこともあるでしょう。しかし親様はちゃんと分かって、間違いなく私達を浄土までお連れ下さいます。道中の事はよく分からなくても、大悲の願船に乗じて親様の舵取りにまかせているだけで、浄土まで渡して下さるというわけです。たとえ分かっていたって、私の歩める道ではありません。私としてはただ親様の運転にまかせておけばよいのです。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

宿善にしても三願転入にしても、求道のプロセス・方法論を教えたものではない

ちょっと古い内容なのですが、せっかくなので(;^ω^) 林遊さんのコメントを見て、なるほどと思ったので書きます。

「善の勧め」という高森顕徹の宿善論も、浄土真宗に於ける宿善とは、獲信の現在から過去をふり返る言葉を求道のプロセスとした誤謬なのでした。

以前本願寺と揉めた宿善論も、獲信の現在から過去を振り返って阿弥陀仏のお育てを喜ぶという本願寺の主張と、これから獲信しようという人が未来に向かって善を修めて求道のプロセス・方法論とする親鸞会の主張がぶつかったものでした。

・宿善とは、現在から過去をふり返っているのであって、これから獲信のために修することを宿善といっているのではない。(『本願寺 なぜ 答えぬ』)

・宿善は、将来の獲信のために積まねばならないという方向で語られるものではなく、遇法獲信の現在から過去にさかのぼって、宿善のお陰である、と、その縁由を喜ぶ方向で語られるものである。(『同』)


本願寺としてはこのように主張していますが、これで間違いないです。

これは三願転入にしても同じ事で、選択の願海に転入し難思議往生を遂げる身となった親鸞聖人が、現在から過去を振り返って遥か遠い昔からの阿弥陀仏のお育てを喜ばれたというものです。これから選択の願海に転入しようという人が、まず19願から始めて20願へと進み、そして18願の世界に入る、という求道のプロセス・方法論として書かれたものではありません。

その証拠が、数多くの聖人の書物の中で三願転入の御文と呼ばれるものは「化身土文類」の唯一ヶ所だということ、19願を勧められた根拠が皆無だということ、誡疑讃等にて20願を厳しく誡められているということです。もし三願転入を求道のプロセス・方法論として聖人が教えられたとするなら、そんな大事なことを『教行証文類』に唯一ヶ所しか記さないとは考えられません。次に、19願の実践が獲信に不可欠なプロセスだというなら、至る箇所で勧められていて当然です。ところが、唯の一ヶ所も19願や定散二善の実践を勧めた箇所が無いのです。そして、親鸞会理論で言えば20願の行者は一般人や聖道門・19願の行者より獲信に近い優れた人であるはずなのに、聖人は褒めたり、「あとちょっとだぞ」と励ましたりすることもなく、それどころか重ねて重ねて誡められています。


『教行証文類』始め沢山のお聖教には、阿弥陀仏が我々に本願を信じさせ、念仏を称えさせ、浄土に迎え取って仏に成らしめるということが書かれています。私達がどうやって本願を信じ、念仏を称え、浄土に往生して仏に成るかという方法論・ハウツーが書かれているのではありません。

平成29年親鸞会機関紙顕正新聞・年頭所感「大悲の願船に乗じ難度海を普く照らそう」(高森顕徹会長)を読んで思ったこと。

にあるように、難度海を度する大船で言うなら私達がどうやって乗るかという「乗り方」ではなく、「難度海を度する大船に阿弥陀仏がどうやって私を乗せるかの乗せ方」です。

このように親鸞会では語られる方向性が真逆ですから、会員はいつまで経っても仏願の生起・本末、南無阿弥陀仏の六字のこころが分からず、方法論に囚われて如来広大の恩徳を迷失しているのです。本願招喚の勅命の前には、獲信へのプロセス・方法論などありません。直ちに疑いなく聞き受け念仏する他ないのです。それは長いこと求道してゆかねば聞けないというのではなく、正覚大音響流十方ですから既に届いているのです。それを我々の方であれこれ計らって聞かないだけです。

本願に救われるに当たって、「私のターン」というものはなく、私がどうこうしなければならないということもありません。獲信へのプロセス・方法論はありません。縦と横の線で言う「横の道」も、高森顕徹会長のでっち上げであって、実際に存在する道ではないのです。只今、この場で、何も変わらない今のままの私が、既に回向せられている本願の名号を聞き受け念仏するのみです。早く利用・搾取される人生から脱して本願の行者となって頂きたいばかりです。

私が本願をお聞きするに当たって、「私のターン」というものはありません

私事ですが、自分は子供の頃から「ファイアーエムブレム」というゲームが大好きです。思春期から現在に至るまでその熱は冷めず、大の大人が3DSまで買って、バーチャルコンソールで昔のゲームを購入してまでプレイするという入れ込み様です。とは言ってもゲームボーイアドバンス以降のシリーズには手出しできておらず、「暗黒竜と光の剣」「外伝」「紋章の謎」「聖戦の系譜」「トラキア776」しか実際にプレイしたことはありませんが・・・。いつか3DSの「覚醒」「if」もやってみたいとは思いますが、物語も登場キャラも全く違いますし、子供と違ってドはまりしたら大変なので自重しています。

ファイアーエムブレム 新・紋章の謎 ~光と影の英雄~

は特にお気に入りで、もう最難関のルナティック´で5回はクリアしました。始めれば吟味地獄に陥ることは重々分かっていながら、ついつい何周もやってしまうという阿保な自分がいます。

さて、このゲームの特徴の一つに、自軍のターンと敵軍(同盟軍、中立軍)のターンがあることが挙げられます。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーでも、コマンド入力して各キャラの行動を決定するというのは同じですが、自分と敵の行動はお互い入り混じっています。対してファイアーエムブレムは、自軍のターンに各キャラを動かし、終了したらターンエンドして相手ターンに譲るというシステムです。自軍のターンにいきなり敵軍が動き出すことはありません(攻撃を仕掛ければ反撃はしてきます)。自軍のターン→敵軍のターン→自軍のターン・・・と繰り返す点は囲碁や将棋と似ていますが、同一ターン内に複数のキャラを動かせる点は異なります。基本的に一度動かしたキャラは次のターンまで動かせず、同じマスに重ねてキャラを配置できないため、順番や配置等で長考することもしばしば。難易度が上がるほど高い戦略性が求められます。


前置きが長くなりましたが、タイトルでも示した通り、私が本願をお聞きするに当たって、「私のターン」というものはありません。どういう事かというと、普通は「教・行・証」と言われるように教えがあって、教えの通り実行して、証(さとり)を得るというのが一般的な仏教です。世の中でも全てと言っていい位そうで、まず「このような結果が得られますよ」という教えがあって、実際にその結果を得るための方法を実践実行し、望みの結果を得る(得ない)という構図です。サプリメントなんかは実に巧い商品で、それが実際効果があるかは分かりませんが、体験談を前面に押し出し、科学的な理屈を連ねて巧みに消費者の購買意欲をそそっています。

つまりは、望む結果(証)を得るには、教えを行ずるという「私のターン」というものが必ずあるということです。「このようになりたい」という願いだけで、具体的な行動に出なければその願いは果たせないということです。時には「棚から牡丹餅」的な感じで、願ったり叶ったりということもあるでしょうが、それは今までの自分の業が花開いたということであって、何もなく結果が現れたということではありません。

これがいわゆる自業自得の道理というもので、私達が生きてゆくにはこの道理に従って善業を修め、悪業を造らないようにしていくのが大事なことです。何が善で何が悪かということは国や時代、価値観や求めるものなどによって異なりますが、行動無くして成果は無い、「私のターン」無くして望みの結果は得られないということです。当然ながら聖道門や浄土門内の自力の教えでもそうで、さとりや往生という証を得るには、教えに従って行を修めていくということが必要不可欠です。


ただこれを親鸞聖人の教え、第十八願の教法に適応しようとすることは「自力」と言われ、この自力ある限り十八願によって救われるということはありません。第十八願の教法は、阿弥陀さまが衆生を漏らさず救い摂りたいという願いの元、五劫の思惟、不可思議兆載永劫の御修行を経て南無阿弥陀仏の大功徳を成就され、それを与えて救おうというものです。「浄土往生したい」というのは私の願いではなく、「浄土往生させたい」という阿弥陀さまの願いです。そのための行も私が加わる隙は微塵もなく、私に代わって全て阿弥陀さまが修められました。その願行を与えられ、私が往生成仏するという証も、阿弥陀さまが願われ行ぜられた結果です。

私としては、その本願をただ仰せの通り聞き受ける(信じる)のみにて往生成仏が決定するという、何とも有難くたのもしく、かたじけないご本願です。その信すら私が起こすのではなく、向こう様が恵み与えて下さるのですから、私が報土往生することは易いという言葉も要らぬ易さです。既に私を救おうという願行は成就され、その行信も与えられ、証を得るだけなのですから、私が特別何かを行じなければならないということはないのです。強いて言えば本願の言葉、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き、そのまま信じ受け容れるのみです。

こうした第十八願の教法に自力を混ぜ込み、求道のプロセスなどと称して会員を利用・搾取しているのが親鸞会です。因果の道理や19願、宿善、三願転入といった概念を巧みに利用し、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽で聞く者を釣って、組織拡大要員として利用しているのです。私が薄い宿善を厚くし、私が19願・20願の行を実践して18願の世界まで到達するのだと、「私のターン」を設けて、献金・勧誘・無条件服従に都合よく従事させようというのが狙いです。私が本願に救われるに当たって「私のターン」というものはなく、先手の「阿弥陀さまのターン」で往生の一大事の勝負は決してしまうというのに、「私のターン」に執着させて本願を聞かせなくしています。獲信・往生とは無関係なことばかりやらせ、阿弥陀さまと私の仲を取り持つどころか、私を往生成仏させようという阿弥陀さまの願いを阻害しています。

親鸞会教義は親鸞聖人の教えとは向きが真逆ですから、それを正しいと信じている限りは本願に背き、本願の言葉を受け容れずにひたすら利用・搾取されるしかありません。「私が救いに向かって進んでいく」のではなく、「既に回向せられている本願の救いを受け容れる」のです。往生の問題は私がどうこうできるレベルの話ではないのです。それをどうにかしようとしている時点で既に自惚れの極みです。会員の皆さんには、早くそのような邪義は捨て去って、南無阿弥陀仏の六字のこころ、「我にまかせよ、必ず助けるぞ」の力強い本願の仰せに身も心もまかせて頂きたいと思うばかりです。

「現生で十種の利益を獲る」≠「現生で十種の利益を獲たことが実感として知らされる」

信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心

を読んでなるほどと思いました。親鸞会では

至心信楽欲生我国

という本願の三心の説明で、よく

大安心、大満足、絶対の幸福

などと教え、現生十種の幸せに生かされると説いていましたが、それは間違いであるということがよく分かりました。とにかく獲信するとハッキリすると教えられ、今まで流した涙の一滴一滴が真珠の玉となって戻ってくる、今まで体験したことのない物凄い幸せな気分になれると思っている会員は多いと思いますが、残念ながらそのような幻想的な楽は獲られないということです。


主に本願寺を「死んだらお助け」と決め込み、対して現世利益を強調している親鸞会ですが、そんな親鸞会の教えに傾倒してしまっている会員は、

現生で十種の利益を獲る

ことと、

現生で十種の利益を獲たことが実感として知らされる

ことの違いが全く分からないようです。私もかつてそうだったので他人の事は言えないのですが、例えば心多歓喜の益とか、知恩報徳の益とか、常行大悲の益とか、そういった利益を獲たことが実感として知らされると思っていました。それで、獲信したら谷口春子さんの手紙に表れているような、心に歓喜満ち溢れる身となり、親鸞聖人や高森先生のように如来大悲の恩を知り、常に法を伝えずにおれない幸せ者になるのだろうと勝手に妄想していました。実際に信を獲てからも、そのようにならないことをよく疑問に思ったものです。


『飛雲』では以前もありましたが、今回も、入正定聚の益を通して説明されています。現生で正定聚に入ると教えられたのは親鸞聖人が初めてで、七高僧方の仰っていないことであるというのです。ということは、

現生で正定聚に入る益を獲ると実感として知らされることはない

ということです。確かに正定聚に入ったという自覚はありません。本願の仰せを疑い無く聞き受けた以外、全く変わらないと言っていい位何も変わってないです。相変わらず煩悩具足ですし、ダメな人間です。暑い寒いと苦しみ、欲は盛んで、怒られたり嫌なことがあったりすれば怒り腹立ち、嫉み妬む心は多く間ないです。他にも、

冥衆護持の益
諸仏護念の益
心光常護の益


とあっても、護られているという自覚は全くありません。自分の身は自分で守らねばと思いますし、ちょっとでも油断していたら事故を起こして人を撥ねて終わり、そういう感覚でハンドルを握っています。

至徳具足の益
転悪成善の益


これもないですね。親鸞会では煩悩即菩提といって、苦しみがそのまま喜びになるなどと説いていましたが、それを真受けにしたら転悪成善の益を誤解するだけです。

諸仏称讃の益

とてもではないが諸仏に誉められるような身の上ではございません。

心多歓喜の益
知恩報徳の益
常行大悲の益


これらは僅かばかり知らせて頂きますが、法を聞いたり思い出したりしないと法悦は湧いてきませんし、恩を忘れ恩徳に報いようともせずにいることばかりですし、誰彼関係なく親鸞聖人の教えを叫びまくると言ったことはありません。


別益についてもこのように考察してきましたが、総益である入正定聚の益が実感として知らされないのですから、それが知らされるという親鸞会教義はとんだパチモンだということです。今まで親鸞会教義に毒されて、ハッキリしないのは獲信ではないとか、大安心大満足の絶対の幸福になったという自覚がなければ信心ではないとか、そんな風に思い込んでいる方がいましたら、そんな考えはきれいさっぱり捨て去ってしまうべきです。そんなものはどうでもよろしく、大事なのは本願の仰せを計らい無く聞き受けることです。今現在も喚んでおられる、「助けるぞ」を聞くだけです。なんまんだぶを聞くだけです。これで往生の大事は助けられたのです。あとは念仏を申して、弥陀の御助けあるべきことの尊さよと喜ぶだけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

「若不生者」の「生」とお聖教中の「生」との結び付け方が無理矢理な高森顕徹会長

信心について知ったかぶりの高森顕徹会長

に既に書かれていますが、22日(日)の講師部講義では本願文の「若不生者」について話があったようです。詳しくはそちらをご覧頂くとして、当ブログでは高森顕徹会長の挙げる根拠をもって「若不生者」の「」は信楽に生まれさせると言えるのかどうか検証します。


とその前に、まず本願文を見てみましょう。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

【現代語訳】
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは」ですから、当然生まれるのは「わが国」すなわち浄土に生まれるです。聖人の解釈はごく自然ですね。対して高森会長の解釈は無理矢理です。


その無理矢理具合を見ていきましょう。まず講義に出てきたという、アニメ「世界の光親鸞聖人」第二部にある体失・不体失往生の諍論についてですが、これは聖教に基づかない高森会長の妄想上の諍論ですから省きます。詳しくは

本願念仏(18願)の機の不体失往生と、非本願諸行往生(19願)の機の体失往生の諍論

等に書いていますので参照下さい。


次に、『愚禿鈔』上巻のお言葉

本願を信受するは、前念命終なり。[「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。文]
即得往生は、後念即生なり。[「即の時必定に入る」(易行品 一六)と。文
また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品・意)と。文]


についてです。本来「前念命終」「後念即生」とは、善導大師の『往生礼讃』

上一形にありては少苦に似如たれども、前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ、長時永劫につねに無為の法楽を受く。

から来ています。念仏の行者は前念に命が終れば、後念にただちに浄土に往生するということです。ですから、「前念命終」の「命終」とは肉体の命が終わること、「後念即生」の「即生」とは「すなはちかの国に生じ」ですから浄土に生まれることです。これが本来の意味です。

それを親鸞聖人は、現世において信心を獲得すると同時に正定聚の位に入る意とされました。本願を信受することが「命終」であって正定聚に入ること、即得往生が「即生」であって必定(正定聚)に入ることというご解釈です。信楽を獲たその時に正定聚に入る、不退転に住するということです。信楽(信心)が因で、正定聚に入るというのが果という関係で、この因果は時を隔てず同時です。これを信益同時と言われます。

ところが、これが信楽を獲たその時に信楽に生まれるではおかしいでしょう。いくら因願の「若不生者 不取正覚」に対応する語が成就文の「即得往生」だからとて、高森会長の主張には無理があります。『愚禿鈔』にこう書かれているから「若不生者」の「生」は信楽に生まれさせることだと言われても「何それ?」となるだけです。


それから、今回挙げられたのかは不明ですが、『外邪鈔』

本願の不思議をもつて生るべからざるものを生れさせたればこそ、超世の願ともなづけ、横超の直道ともきこえはんべれ。(第10条)

のお言葉についてです。ただこれも、このお言葉の直前に「本形としては往生浄土器ものにきらはれたるに似たり。」とあって、「我々人間の本来の姿は浄土に生まれる器ではないと嫌われている」と言われていることから、当然ながらこの文章中の「」は浄土に「」まれさせることだと見るのが妥当です。それにこの御文の前後に「若不生者」と関連するお言葉はありませんので、「若不生者」と結びつけるのは無理があります。


やはり親鸞聖人の解釈としては、「若不生者」の「」は浄土に生まれるという当益以外には書かれていません。逆に以前、教学講義において

本願成就文には死後のことは書かれていないから、本願にも死後の意味は全くない

と当益を否定してしまったのが高森顕徹会長です。それから二転三転して、再び現在は

若不生者」の「」は「信楽に生まれさせる」ということだ

と主張しています。所詮は教学もない、信心も定かではない高森会長が、大沼法竜師から得た知識を自説として披露するために、大沼師の引いた御文をそのまま出しているというだけのことです。親鸞聖人の解釈を否定したり、肯定したり、また自説を頑なに主張したり、高森会長からは「正しい浄土真宗を伝える」という誠意が微塵も感じられません。


今回の検証でも、高森顕徹会長は「若不生者」の「」とお聖教中の「生」との結び付け方が無理矢理であるということがお判り頂けるかと思います。なぜ無理矢理なのかと言うと、答えは簡単、高森顕徹会長の主張が大沼師の味わいをパクったものであり、本来親鸞聖人が解釈されたことと異なるからです。いくら閉鎖された「講師部講義」という場で話をしたとしても、今はすぐさま全世界に発信されてしまうという時代です。秘事法門はそろそろ終わりにして、飛雲さんとの公開法論に乗り出してもらえませんかね?

セカンドオピニオンの勧め

先日テレビを何となく見ていたらこのようなニュースが流れてきました。

【林道也画像】新宿セントラルクリニック院長を逮捕!性病と偽り詐欺

この院長は診察に来た人に病気でもないのに病気だと偽り、診療代と薬代を騙し取っていたというのです。沢山の方が騙されてしまったということなのですが、その原因として、

・医者から言われ、(改ざんした)診断書を見せられたら信じるしかないから
・「性病」という周囲には相談しづらい病気だから
・病気の状態は嫌なので何とかして早く病気を完治して安心したいから


などの理由が挙げられます。記事のコメントにもあるように、今後二度と事件を起こさぬよう、このような卑劣な医師からは免許をはく奪位のことはしてもらいたいものです。

さて、この詐欺事件がどうして明るみになったかというと、一向に病気(数値)が良くならないことを不審に思った来院者がセカンドオピニオン(医師の診断や治療法について、患者が別の医師の意見を求めること)をしたからでした。やはり一口に医師といっても、真に患者のためを考えて仕事に当たる優れた立派な医師もいれば、生計を立てるために仕方なくやっているような医師、そして患者から金を騙し取ろうなどという腐った医師と、様々な医師がいると思わなければなりません。ろくに診察もせずに薬の処方だけしたり、何度通っても病気が改善されないような医師からは、離れて別の医師に診てもらった方が良いかも知れないです。


これは浄土真宗でも同じ事が言えます。

・ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。(信文類)

【現代語訳】
このようなわけで、いま釈尊の真実の教えによると、救われがたい五逆・謗法・一闡提のもの、すなわち、治しがたい重病人とたとえられたものも、阿弥陀仏の大いなる慈悲の誓願にまかせ、他力回向の信心に帰すれば、如来は深く哀れみ、救ってくださる。たとえば、醍醐の妙薬がすべての病を治すのと同じである。五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々は、何ものにも砕かれない他力金剛の信心をいただき、尊い本願の妙薬をしっかりとたもたねばならない。よく知るがよい。

・この光明の縁にあひたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことは、さらにもつてあるべからざるものなり。(御文章2帖目13通)

などのように、祖師や蓮師は私達が果てしなく迷いを重ねて苦しみ悩むさまを病気に例え、早く本願醍醐の妙薬をもって無明業障のおそろしき病を治癒しなさいと教えられます。今までどのように迷いを重ね、どれだけ苦しんで来た者であっても、阿弥陀仏の大いなる慈悲の誓願にまかせ、他力回向の信心に帰すれば、如来は深く哀れみ、すぐさま横に五趣八難の道を超え、必ず浄土に往生して仏に成るべき身と定めて下さいます。

ところが、そうした浄土真宗の教えの通りに救いに遇えていない方が多く見受けられるのが悲しいことです。原因は疑情、本願疑惑の一言に尽きると言えば尽きるのですが、中には本願疑惑を増長させるような間違った教えをいつまでも正しいと信じて従っているという場合も考えられます。

・光に向かって進め
・宿善を求めよ、厚くせよ
・獲信の因縁として善を修せよ
・三願転入せずしては蟻一匹助からない
・19願の善、定散二善をやりなさい


このような教えは、浄土真宗とは名ばかりのデタラメ創作教義です。私もこんなデタラメ教義を正しいと信じていた口ですが、なぜ騙されたかと言えば、診断自体はそう間違ったものでもなかったからです。いわゆる人間の実相部分の話を聞いて、その部分は正しいと思えるから教え全体も正しいと誤解・錯覚してしまったのがそもそもです。

診断の方はまぁいいとして、問題は治療の方でした。煩悩にまみれ、世俗の世界で暮らす我々が到底どうにかできる問題ではないから、阿弥陀仏が代わって願いを発され、行を成就され、南無阿弥陀仏の妙薬を与えて助けて下さる。私としてはその本願の仰せを疑い無く聞き受けるだけであるというのに、その救いに遇うのに「ああせい」「こうせい」と全く的外れなことを説いてきたので、そのせいで随分と遠回りさせられました。その間に事故などで命終わっていたらどう責任を取ってくれるんだと今でも思います。一向に救いに遇えないが、本当に正しいのか。常々疑問を持ちながら求めていました。その教えから離れた当初は不安もありましたが、ちゃんと正しい教えを説いて下さる方が実は沢山ありました。セカンドオピニオン、本当にお勧めです。

この問題は信仰上のことゆえ、訴えて勝訴するということが難しいので提訴もできず、実に悔しく歯痒いことです。せめて未だ騙されている方々に気づいてもらえるようにと思って綴っています。どうか一人でも多くの方が現在迷っている教えから離れ、正しい浄土真宗の教えを聞かれ、本願を信じ念仏するようになってくれたらと思います。

「仏法は聴聞に極まる」「聞く一つで助かる」と説きながら、「聞いているだけでは助からない」「活動しなければ助からない」親鸞会

親鸞会ではよく、

「仏法は聴聞に極まる」
「聞く一つで助かる」


と説きます。しかし、

「聞いているだけでは助からない」
「教学(教えを聞くこと)と行学(教えを実践すること)は車の両輪のようなもの」
「教えを聞いているだけで実践(行学)をしなければ前に進めない(=助からない)」


とも説きます。そして教えを実践することとは何かと言えば、

・親鸞会に人を誘い入会させること(勧誘)
・親鸞会にお布施をすること(献金)
・高森会長や上司の指示に無条件服従すること


などです。朝晩のおつとめや、親切、親孝行といった世俗の善の勧めもなくはないですが、三願転入の道を進み、宿善を厚くするとして強烈に勧められるのは上記のような行為です。

とすると、最初に挙げたことと矛盾するのですが、親鸞会の言い訳としては

聞いてよく分かったら、必ず実行する
「聞く」に行学を含めて「聞く一つで助かる」ということ


だというのです。


しかし、これは間違いです。親鸞会では「聞く」と言われているその内容が間違っているので、こんな珍説に納得してしまうのです。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(信文類)

親鸞会でもよく出てくるお言葉ですが、聞くのは「仏願の生起本末」です。

『飛雲』昔は言葉だけは正しかったもののずれていた解釈、今では解釈以前に言葉もずれまくりの高森顕徹会長

では信文類のお言葉を引いて機無円成回施と教えられています。『飛雲』を参考に説明しますと、

衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのを「円成」と言います。
その「円成」された不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを「回施」と言われます。
この他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではありません。


ということです。これが「仏願の生起本末」です。これを疑いなく聞き受けたのを「」というのですが、この中のどこに、親鸞会で勧められるような活動や、世俗の善の実践が含まれているでしょうか? 逆に我々の自力の行、自力の心を一切廃した、他力回向の真実行、他力回向の真実心によって我々が往生成仏せしめられることが教えられています。

この「仏願の生起本末」の内容に、因果の道理や19願を混ぜ込んでいるのが親鸞会教義です。当然ながら、「仏願の生起・本末」=「其の名号」=「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」であり、世俗の因果の道理や19願の内容は入らないことは言うまでもありません。ところが、

『親鸞会公式ホームページ』「聴聞」とは何をどう聞くのか

には、「仏願の生起本末」の「」が18願、「」が19願・20願などと教えられています。巧みに「三願転入の教え」と連結させて、とりわけ19願の「善の勧め」を利用して会で勧められる活動の正当化を謀っていることがお判りでしょう。当たり前ですが

」が18願、「」が19願・20願

などというのは聖教上のどこにも見られない珍説であり珍らしき法であり、

仏願の生起本末」とは18願のこと

であります。自力諸善、自力念仏による往生を誓われている19願、20願の入り混じる隙はありません。阿弥陀仏が、到底迷いの世界を離れることのできない私のために五劫永劫の願行を成就され、南無阿弥陀仏となって回向せられている名号を疑いなく信受する、これが仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなりであります。我々の自力の行信に代わって如来回向の行信を用いよと教えられているのです。我々に「ああせい」「こうせい」「これをしなきゃ助けない」と無理難題をふっかける無慈悲な親様ではないということです。


そして、実践するというなら念仏一行です。念仏を称えるというのは、私の口を通して顕現せられている本願の仰せを聞いていることに他なりません。

われ称えわれ聞くなれど南無阿弥陀
つれてゆくぞの親のよびごえ
(原口針水師)

という歌は度々紹介していますが、念仏を称えるとは、念仏を自分の善根として称えて助かろうというのではなく、「浄土に連れてゆくぞ」の大悲招喚の勅命を聞くことであるというのです。

『浄土真宗本願寺派 光明寺』2015年1月 称えるままが つねに御本願の みこころを 聞くことになる 法語カレンダー解説

に上の歌のことが詳しく載っていますので参照して下さい。


「仏願の生起・本末」に因果の道理や19願を混ぜ込んだ教えをいくら聞いていても「聞」とはなりません。会員の皆さんが本当に後生助かろう、本願に救われようというなら、正しい「仏願の生起・本末」を聞いて頂きたいと思います。尤も、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めているなら別ですが。
プロフィール

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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