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少々根拠を調べてみました

本日は、前回引用した文章の根拠を見ていきたいと思います。


十八願成就文の乃至一念に行の意味もあることは宗祖も存師も教えられている

宗祖(親鸞聖人)のお言葉(『浄土文類聚鈔』
『経』(大経)に「乃至」といふは、上下を兼ねて中を略するの言なり。「一念」といふは、すなはちこれ専念なり。専念はすなはちこれ一声なり。一声はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ正念なり。正念はすなはちこれ正業なり。また「乃至一念」といふは、これさらに観想・功徳・遍数等の一念をいふにはあらず。往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり、知るべし。

存師(存覚上人)のお言葉(『真要鈔』
第十八の願成就の文(大経・下)にいはく、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といへり。この文のこころは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」となり。こころは、「一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり」となり。この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。これすなはち相好・光明等の功徳を観想する念にあらず、ただかの如来の名号をきき得て、機教の分限をおもひ定むる位をさすなり。


七祖、宗祖、蓮師は、阿弥陀仏の第十八願について、
(A) 信と行により往生すると信と行を並列して、 
(B) 信により往生すると信に重きを置いて、
(C) 行により往生すると行に重きを置いて、
お聖教または同じお聖教であってもお言葉ごとに、いずれかの説かれ方で教えられている。


(A)の説かれ方
この真実の称名と真実の信楽をえたる人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへるなり。『三経往生文類』
念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。『末灯鈔』12通
本願を信じ念仏を申さば仏に成る『歎異抄』第12条
など。

(B)の説かれ方
正定の因はただ信心なり。「正信偈」
この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。「信文類」
(48)不思議の仏智を信ずるを 報土の因としたまへり『正像末和讃』
など。

(C)の説かれ方
念仏成仏これ真宗『浄土和讃』
本願の名号は正定の業なり。「正信偈」
弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。『唯信鈔文意』
など。


根拠はほんの一例です。(A)、(B)、(C)それぞれの説かれ方について善知識方が仰せられたお言葉はまだまだ沢山あります。お手持ちの真宗聖典、または『WikiArc』等でよくお調べになることをお勧めします。

思えば、我々退会者がかつて親鸞会教義をまことと信じ込んでしまったのは、一部の断章されたお言葉のみをもって聖教を理解したことと、高森会長の解釈を絶対視して「高森先生の仰ることに間違いない」と盲信していたことにありました。こうした、聖教に依らず、一人の知識の教え、考えのみを鵜呑みにする危険性を我々は過去の経験から痛感しているはずです。どうか、自分の目で確かめる作業を大切にして頂きたいと思います。
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「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という説の根拠は?(3)

とあるコメント欄に、私の言いたいことが書かれていましたので、以下引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
阿弥陀仏は第十八願に、至心信楽欲生(信)と乃至十念(行)により、往生させることを誓われている。

釈尊は、第十八願成就文で第十八願が成就していることを説かれている(なお、十八願成就文の乃至一念に行の意味もあることは宗祖も存師も教えられている)。

七祖、宗祖、蓮師は、阿弥陀仏の第十八願について、
(A) 信と行により往生すると信と行を並列して、 
(B) 信により往生すると信に重きを置いて、
(C) 行により往生すると行に重きを置いて、
お聖教または同じお聖教であってもお言葉ごとに、いずれかの説かれ方で教えられている。
そして、宗祖のお言葉には、(A)、(B)、(C)のそれぞれの立場に立たれて書かれたものがいずれも存在する。ここから言えることは、(B)の立場で説くことは、(A)や(C)の立場を否定することを意味するのではなく、(C)の立場で説くことも、(A)や(B)の立場を否定することを意味するのではない。

つまり、(B)の立場にたって説かれたお言葉に基づいて、(A)や(C)の立場を否定することは、宗祖の教えとは合致していない。

また、事実として、「後生たすけたまへと弥陀たのめ」と御文章で一貫して教化された蓮師は(B)の立場で教えを説かれているが、(A)や(C)の立場を否定することは一切仰っていない。

よって、(B)の立場にたっていると主張して、その上で「阿弥陀仏は念仏を称えよとはおっしゃっていない」という説を立てることは、宗祖の教えに照らせば明らかに誤りであり、蓮師のご教化とも合致していない。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

この通りです。行と信は如来の御ちかひですから、片方だけを立てて片方は不要であるような発言は、本願に対する不敬でしょう。ですから、信心を強調して説かれることはあっても、そこから念仏を抜いてしまうようなことは歴代の善知識方は一切教えられていないのです。

念仏往生の願に信と行とが誓われているのだから、念仏往生の願成就の文にも信と行とが説かれています。『教行証文類』では成就文の「乃至一念」は信の一念と解釈されていますが、『浄土文類聚鈔』や『真要鈔』には称名の意もあることが説かれています。それを無視して、『教行証文類』以外の根拠は認めないという態度は浄土真宗の布教使としてあるまじきことだと思います。私は『教行証文類』でも、それ以外のお聖教でも、あるいは御消息でも、聖人の法語は句面の通り受け容れるべきであると考えますが如何でしょうか。

本願成就文に立って物事を言うのは構いませんが、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という教えはどう解釈しても出てきようがありません。もしどうしてもこのように主張したいならば、然るべき根拠を示してからにするべきでしょう。尤も、そのような根拠が存在すればの話ですが。

「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という説の根拠は?(2)

親鸞聖人が「全ての人は死ねば必ず無間地獄に堕ちる」と教えられた根拠は?
→1箇所もありません。(蓮如上人の上にはそれらしき根拠が1箇所ありますが、前記事の通りです)


親鸞聖人が19願を勧められた根拠は?
→1箇所もありません。


親鸞聖人が、獲信の因縁(宿善)として善を修せよと諸善万行を勧められた根拠は?
→1箇所もありません。


親鸞聖人が白道を(自力の)求道心、信心と解釈された箇所は?
→1箇所もありません。


このように根拠が1箇所も無い教えを、さも真実の教えであるかのように教えられ、そのように信じ込んで

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
・親鸞会に財施すること
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


を中心とする「高森の行」、いわゆる組織拡大活動、善でも行でもない悪業悪行をやってきたのが親鸞会会員であり元会員です。教義の誤りに気付いて退会した方の中で、もはや上記のような高森会長の説を信じている方はいないでしょう。これらは根拠のない、「珍らしき法」であると正見しておられる方々ばかりと思います。



では、重ねて問います。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という説の根拠は?


もし、根拠が経・論・釈の上に無いとしたら、それは仏意、師意にかなった正法と言えるのですか? もし、根拠が経・論・釈の上に無いとしたら、それは上に示した高森会長の邪義同様の「珍らしき法」ではないのですか?

このような説を信じている方は、今一度、どなたの教えを聞いているのかということを自問して頂きたいです。私達が信奉するのは親鸞聖人の教えであり、親鸞聖人のお言葉です。聖人の上に根拠が無い、どころか、それを覆す根拠ばかりがあるという状況で、それでもそのような説を信じていて、浄土真宗の人と言えますか?

根拠の無い説だと批判する者を、きちんとした根拠も示さずに正法誹謗だと逆批判するのは高森会長と一緒です。そういう先生の説を鵜呑みにしている方は、高森会長から鞍替えしただけだと言われても、残念ながら何の文句も言えないでしょう。


別に、その先生の全てが間違っているとは言っていません。高森会長にさえ、正しい部分はあるのですから。しかし、間違いは間違いなのですから、そこはきちんと認めて頂きたいものです。同じ布教使の方でも、それができる方とできない方がいます。それはきっと、教えを根本としているかどうかの違いと思いますね。

先生はネット上で応じるつもりがないらしいので、別に信奉者のどなたかで構いません。先生の説が正しいと言うのなら、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という経・論・釈の根拠を提示して下さい。

願(第十八願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く〉と。仏願力によるがゆゑに十念念仏してすなはち往生を得。『浄土論註』引文

また『無量寿経』にいふがごとし。〈もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得と。『往生礼讃』引文

三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉と。『往生要集』引文

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。『尊号真像銘文』

如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。[文]
『三経往生文類』

縦令一生造悪の
 衆生引接のためにとて
 称我名字と願じつつ
 若不生者とちかひたり
『高僧和讃』
称我名字と願じつつ・・・【左訓】「わが名を称へよと願じたまへり」)

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり。『唯信鈔文意』

「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。『同』

称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。『同』

弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。『同』

本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきはまりなきことをしめしたまふなり。『一念多念証文』

「及称名号」といふは、「及」はおよぶといふ、およぶといふはかねたるこころなり、「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。『同』

誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものをむかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまゐらせて生死を出づべしと信じて、念仏の申さるるも如来の御はからひなりとおもへば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆゑに、本願に相応して実報土に往生するなり。『歎異抄』第11条

これら『教行証文類』の引文、及び親鸞聖人のお言葉は、みんな嘘っぱちのデタラメですか?

「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という説の根拠は?

高森顕徹会長が主張している/いた「一切衆生必堕無間」の根拠は、辛うじて1箇所あります。

そもそも、開山聖人(親鸞)の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞといふに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

とある『御文章2帖目2通』のお言葉がそれです。ただし、以前から随所に指摘されているように、これは他の「一切衆生必堕無間」を否定する膨大な根拠を全て無視しての暴論であり、断章取義です。


一方、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という説の根拠は?

私はただの1箇所も発見できていません。尤も、これを覆す、これと真反対な根拠なら沢山見つかりますが。


ちなみに、これを主張している先生が示している「行文類」親鸞聖人の六字釈は、根拠にはなりません。そのような内容はどこにも書かれていないし、第一、そんなことを顕そうとして南無阿弥陀仏の六字を釈されたのではないからです。これは、よほどの思い込みと、こじつけ解釈をしなければ、到底出てきようの無い説です。人には『教行信証』は読めないと言いながら、読めていないのはどちらでしょうか。


平生業成の立場なのか何なのか知りませんが、その立場であろう覚師や蓮師の上にも彼の主張は見られません。経、論、釈のいずれにも、また宗祖、覚師、蓮師の上にも無い、それどころか、祖師方の説と真反対の説を唱えておきながら、批判されると正法誹謗だと言う。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」が正法だというのならば、根拠の一つや二つ提示頂きたいものです。根拠が示せないようなら、どのように理由をつけても、それは仏説、師説に反する「珍らしき法」です。

仏、菩薩の教えは「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という教え?

私も、他人の主張を批判するからには当然批判を受けることは覚悟しています。ただ、それにしても正法誹謗はひどいなぁ・・・。しかし、意味が分かってその言葉を使っているのかしら?

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。
「信文類」

【現代語訳】
問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
 答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。


私は、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という説を批判しています。それは仏説、師説に反するでしょうと。それとも、仏、菩薩の教えは「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という教え?

あるいは、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と振れ回っている人は仏か菩薩?


「行文類」親鸞聖人の六字釈に、未だ誰もしたことの無い珍釈を施しておいて、『教行信証』が読めているつもりの人物を、私は仏や菩薩だとは思いません。尤も、本願の念仏と信心をもっと深く理解しなさいと促しておられる還相の菩薩と味わうこともできますがね・・・

まぁ私が『教行証文類』を読めている、全て理解しているとは口が腐っても言いません。まだまだ勉学の途上ですが、現段階でも分かることは分かります。

「行文類」の決釈は、本願の念仏は凡聖自力の行ではなく不回向の行だということと、念仏成仏の勧めです。それに導かんがための七高僧方を始め数々の引文があり、その途中で出てくるのが親鸞聖人の六字釈です。念仏は浄土真実の行であり、選択本願の行であって、弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった大行であるということを証明しようとしているその最中に、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」などという意味の釈を施すはずがないでしょう。


私に言われた位で自説を撤回するような人でないことは予想していましたが、自説を批判する者を正法誹謗とまで仰るとは思いませんでした。自説に都合の悪い根拠を全て無視し、親鸞聖人のお言葉に珍釈を施すだけでなく、弥陀仏の本願念仏を本願から抜いてしまうような説を聞いてしまったからには、私は無視できません。

親鸞聖人のお勧めは、一心一行の選択本願の行信であって、行を離れた信の勧めではありません。

・穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。(総序)

・しかれば真実の行信を獲れば、(中略)仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(「行文類」)

・釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。(「同」)

・宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。(「信文類」)


等とある通りで、親鸞聖人の上では、念仏と信心は決して別々のものではありませんでした。そして、親鸞聖人の教えられた信心は念仏から別開した信心であって、念仏と無関係のものではありませんでした。

しかし、別開した信心を強調するのはよしとしても、元の念仏は「称えよと仰っていない」などということではありません。念仏と信心は、例えば財布の中から金を抜き出したからもうその財布は要らんみたいな、あるいは、念仏は信心に必ずついてくるオマケみたいな、そういう関係ではありません。信楽受持するのは弥陀仏の本願念仏です。阿弥陀仏から共に回向されるのが本願の念仏と信心です。そして、念仏の信心を別開して明らかにされたのが親鸞聖人です。

信の一念は、時間、空間を超えた普遍の法が、時間的、空間的に限定された個人の上に実現することを顕した機受の極要ですから大事なことに変わりはありません。ただ、領受した私の心に開き起こるのが信心ですが、開き起こしたのは法、すなわち念仏です。念仏はわずか一声称える者をも往生成仏させる正定業であると深信するのです。これが信心です。


その先生の説を信じる信じないは個人の自由ですから構いませんが、もし淳心房の主張は間違っているという方がありましたら、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という経、論、釈の根拠を提示して下さい。

【考察】選択本願の行信について(15)

私がこの考察で取り上げている例の発言を看過できない理由は、聞く人に本願に対して誤解を与えかねないから、そして親鸞聖人が「行文類」を顕されたその命がけの報謝の行為が見失われかねないからです。聖人の「行文類」撰述の動機について、『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』には次のように書かれています。

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   「行文類」撰述の動機

 親鸞聖人が、この「行文類」を顕されるには、重大な動機がありました。まず対外的には、法然聖人の在世当時から滅後にわたって、いくたびも加えられた国家権力による専修念仏停止という弾圧と、それを引き起こすもとになった南都・北嶺の旧仏教側からの執拗な論難に対して専修念仏の真実性を証明するためでした。また対内的には、本願の念仏は、本願力回向の法であるという念仏の本質を明らかにすることによって、人間のはからいを否定し、一念にとらわれて多念を否定したり、多念にとらわれて一念を否定するような一念多念の諍いに明快な決着を与えて、法然聖人の念仏往生説の真髄を明らかにするためでした。そのために、本願力回向の行信というまったく新しい教学的視野を開いて、浄土教学を大成していかれた。それが「行文類」だったのです。

 すでに述べたように、建永二年(承元元年、一二〇七年)二月、承元の念仏停止といわれる事件が起こりましたが、それに思想的な根拠を与えたのは、南都の興福寺から朝廷に出された「興福寺奏状」であったということは、『教行証文類』の後序にも言われているとおりです。そこには九箇の失をあげて、法然聖人の教学を批判していますが、第四万善を妨ぐる失、第六浄土に暗き失、第七念仏を誤る失の三失は、選択本願に立脚して構築されていた法然聖人の専修念仏の教説を真向から否定するものでした。

 「万善を妨ぐる失」とは、これまで仏教においてさとりへの道とされてきたさまざまな修行道を、すべて難行道のゆえをもって捨てしめ、ただ称名念仏の一行だけが生死を超える道であるということは誤りだというのです。ことに、そのころの仏教界で功徳ありとされていた『法華経』の読誦や、真言、止観に縁を結び、堂塔を建立し、尊像を造絵することを、ことごとく雑行であると称して、土くれのように捨てしめたことは、仏教への反逆であり、正法を誹謗するものであるというのです。

 「浄土に暗き失」というのは、『無量寿経』や『観無量寿経』をはじめ、浄土の諸師たちも盛んに諸行による往生を説かれているのに、それを無視して、諸行は往生の行に非ずというのは、人びとを欺くものだというのです。ことに、下下の悪人と上上の賢善者とが同じ浄土に往生できるなどということは、因果の道理に背き、わが身のほどもわきまえない愚痴のきわまりであると嘲笑しています。

 また「念仏を誤る失」というのは、法然聖人は口称念仏を最上の行のようにいうが、それは誤りであるというのです。同じ念仏といっても、念ぜられる仏に、仏名もあれば仏体もある。その仏体にも報身や応身といった姿形のある事仏もあれば、色もなく形もない法身という理仏もある。この法身真如こそ仏のさとりの本体であるから最高とし、仏名を最下とする。また仏を念ずる相にも、口に仏名を称える口称もあれば、心に仏を念ずる心念もある。その心念にも仏徳に想いをかける繋念と、禅定(深い精神統一)を修して報身仏や法身仏を観念していく定心念仏とがあり、その定心のなかにも、まだ煩悩がまじわっているような有漏定もあれば、煩悩妄念の消滅した無漏定もある。こうしたなかで、口称念仏は最も浅劣な行であり、無漏の定心念仏が最も深く勝れた行であるということは、仏教の常識ではないか。それなのに法然は、阿弥陀仏は第十八願において、「乃至十念せよ」と称名念仏を往生行と定められているから、称名以外の行をする必要はないという。しかし阿弥陀仏の本願が、どうして勝行をさしおいて、劣行のみを往生行と定められることがあろうか。下下の悪人がわずかに称えた十声の念仏を、まるで阿弥陀仏の本意であるかのように主張し、上上の善人が修行している勝れた諸善を捨てさせることは、近くは善導の釈義に背き、遠くは『観無量寿経』などの諸経の説に反する邪説であると、痛烈に非難しています。

 法然聖人が亡くなって、その十三回忌にあたる貞応三年(元仁元年、一二二四年)、今度は天台宗の本山、比叡山延暦寺から専修念仏を禁制にするようにという訴状が朝廷に上奏されました。「延暦寺奏状」では、六か条にわけて法然聖人の教えを非難していますが、その第五条に掲げている「一向専修の輩、経に背き、師に逆らふ事」というのが、さきにあげた「興福寺奏状」の三か条と同じ意趣を述べたものです。すなわち専修念仏者は、称名以外はすべて雑行であるから往生できないといい、逆に十悪五逆をつくって慚愧の心さえないものも称名すれば往生できるといい、あまつさえ「悪業を怖れるものは仏願を疑うものである」といって愚人をたぶらかしている。それは『観無量寿経』に説かれた諸善万行による往生を否定し、持戒の清僧であった善導大師の誡めに背くもので、責めても余りあるものだと非難しています。こうして法然聖人が開顕された選択本願念仏の教えは、南都・北嶺の学僧たちの非難の的となり、朝廷からは激しい罪科に問われ、誕生したばかりの浄土宗(選択本願の教法)は、地上から抹殺されようとしていたのです。

 このような状況のなかで、法然聖人からその主著『選択本願念仏集』の伝授をうけ、浄土宗の将来を託された遺弟として、その師恩に応答するために『教行証文類』を著されたわけですが、なかでも「行文類」は、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と法然聖人から教示された念仏の一行こそが、弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった大行であり、龍樹菩薩以来の浄土の祖師が証明せられる真実行であることを、仏祖の言葉をもって立証していかれたものでした。『教行証文類』のなかでも「行文類」だけが、七高僧の聖教のすべてが引用され、さらに各宗の祖師方の念仏讃仰の文まで引かれるのも、称名が普遍の真実行であることを広く証明するためでした。

 ことに引文の最後に、『選択本願念仏集』の題号と「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」の標宗と三選の文が引かれます。これは『選択集』全体を引用されたと同じ意味をもっていることは、すでに先哲の指摘されたとおりです。しかも『選択集』の法義の真実性を顕すために書かれた『教行証文類』において、『選択集』の引用は、ただこの「行文類」だけなのです。一見、不思議に思えるこのことによって、「行文類」が選択本願念仏の本質を明らかにし、その法義の真実性を証明するためのものであったことがわかります。

(『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』p.157~p.162)
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・


ここでは、本願の念仏は、

・弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった大行
・龍樹菩薩以来の浄土の祖師が証明せられる真実行
・普遍の真実行


等と説明されています。ですから、先にも紹介したように三国伝来の祖師方は「念仏の一行」を勧められたのでした。ところが、それを認めない旧仏教側は、唯一生きとし生ける全ての者が平等に救われる専修念仏の教えを国家権力によって禁制にし、それだけでなく主だった念仏者を死刑、流刑に処すという非道を行ったのです。承元の法難、嘉禄の法難の思想的根拠となったのは、いずれも興福寺奏状、延暦寺奏状(延暦寺大衆解)といった聖道諸宗からの論難の訴訟状でした。

諸宗からの厳しい論難に的確に応答するには、まず法然聖人の示された選択本願念仏の教えが真実の仏法であることを証明する必要がありました。親鸞聖人は六十二、三歳の頃、まだ嘉禄の法難の余塵くすぶる京都にお帰りになったと言われていますが、それは『教行証文類』の完成のためであろうと言われています。隆寛、幸西、空阿といった主だった浄土宗の念仏者が流刑に処せられ、念仏禁制が公布されていたあの時代、あの状況で、専修念仏の真実性を訴えるというのは文字通り命がけであったと思われます。

信教の自由も無い、基本的人権の尊重などという理念も無い、そんな中で専修念仏の教えを説いたら何をされるか分からなかったのです。暴力は当たり前、集団リンチに遭って殺されても決しておかしくなかった。もし、自分がそんな状況にいたら、その中で高らかに選択本願念仏の教えを説けるものかと思ってしまいます。今と違ってネットもブログも無い、本すら全て回収されて版木も没収されて焼かれてしまう、そういう状況です。本当に、念仏の祖師方は、そんな危ない中をよく法灯を絶やさずに伝えて下さったものです。

そうやって命がけのご苦労で守られ、真実性を証明された本願の念仏を本願から抜いてしまうような行為は、私としては断固として許すわけにはいかないんです。しかも、本願の念仏が真実の仏法であると証明された「行文類」の文を根拠にそのような主張をしているのです。正気の沙汰かと思ってしまいます。それを、真宗の素人や、高森顕徹会長のような人物ではなく、本願寺の一布教使がやっているのです。

更にその布教使はそれだけではなく、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っています」と話す坊さんをつかまえて、「どこにそんなことを仰っているんだ」と質問するそうなんです。きっと私が出したような根拠を示した坊さんもあったでしょう。しかし私の時は、「それは法然聖人の教えだ」と言われてはねられてしまいました。おそらくですが、他の坊さんにも同様の対応をしたのだと推測されます。

真宗の僧侶の間でもしこのような思想が広まったら、今後どのような方向に曲がっていくか分かりません。聞く方々にもきっと影響するでしょうから、私は問題視して、念仏は本願に明確に誓われている本願の行であって、阿弥陀仏ご自身が選ばれ、称えてくれよと大悲を込めて与えられている大行なのだということを訴えています。別にその布教使の先生に私怨があって書いているわけではありません。


ところで、親鸞聖人は更に、またそれ以前の誰よりも、念仏の信心を強調していかれました。それというのも、自力の執心捨てやらぬ機は、報土往生の大益を失い、方便化土にとどまるからです。

『歎異抄』の作者(唯円房)もそれを歎いて、後序に次のように記しています。

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。

何が異なることを歎いたかと言えば信心ですが、なぜそれをそんなに歎くのかと言えば、一室の行者のなかに法然・親鸞聖人の信心と異なる者は「直に報土に生れずして、辺地に宿をと」るからです。

親鸞聖人も、みな人が真実報土の往生を遂げてもらいたいの思いから、真実の行信を顕かにされました。それが「行文類」「信文類」の内容であり、その他様々なお聖教や御消息となったのです。

ただ、あくまで報土に往生するか、化土にとどまるかは、「さいはひに念仏」している「一室の行者」の話です。何の宿縁でか、生死を出離することを一大事だと思い、法然聖人の教えに巡り遇って、念仏往生こそ末代の私のような者が救われる時機純熟の真教であると知らされた人の話です。往生行として念仏一行を修めて浄土を願う行人の中で、仏智の不思議をたのまず、助正間雑し、定散心雑わる者は報土に往生できないから、親鸞聖人は「悲しきかな、垢障の凡愚」と悲嘆され、唯円房も同様に「かなしきかなや」と歎いているのです。


本願寺は覚如上人によって寺院化され、浄土真宗の教えは蓮如上人によって日本全国に広まりました。以来約五百年間、その教えは信心正因称名報恩説で語り伝えられているそうです。確かに信心が間違っていたら一大事です。ただその信心は、念仏一行を修める際の信心であって、それ単体で独立しているというものではありません。念仏が私達の心に響き込んできて帰命の信となるわけですから、念仏の他に信心は無いといっても過言ではありません。

念仏を抜きにしたら、信心も抜きになってしまうのです。「行と信とは御ちかひを申すなり」ですから。弥陀の御ちかひに「我が真実なる誓願を疑いなく信じて、浄土に生まれると思え」という信心と、「我が名を称えよ」という行が誓われているから、それを根本として釈尊も十方諸仏も本願の念仏を勧められるわけです。浄土の祖師方が「念仏の一行」を勧められたのもそのためでした。こうしたことですから、私も「念仏の一行」を勧め、同時にその信心を誤りなく、できるだけ判って頂けるように書いていきたいと思っています。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

【考察】選択本願の行信について(14)

選択本願の行信を最も身近に、詩の形で明らかにされているのが、浄土真宗の門徒に古くから親しまれてきている「正信偈」です。親鸞聖人はその正式名称を「正信念仏偈」と仰っています。

「正信偈」はご承知のように「行文類」の一部です。「行文類」は真実の行を明かされたものですが、それは本願の念仏です。「正信偈」と聞くと、「正しい信心の詩」ということで、正しい信心についてのみ書かれているように受け取られがちですが、何についての信心かと言えば、それは本願であり念仏です。

「正信念仏偈」とは、本願を「正信し、念仏する詩」と読むこともできますし、本願の「念仏を正信する詩」と読むこともできます。いずれにせよ、選択本願の念仏(行)と信心(信)を讃える「行信偈」であることは間違いありません。親鸞聖人は「正信念仏偈」をお作りになる直前に、そのお心を次のように仰せです。

 おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

 ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈(論註・上 五一)を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加す、このゆゑに仰いで告ぐ」とのたまへり。{以上}
 しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、

帰命無量寿如来 南無不可思議光(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)
・・・
「行文類」偈前序説

この御文についても梯實圓和上は解説されています。以下、解説文を引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
   偈前の文のこころ

 これは一般に「偈前の文」といいならわしていますが、「正信念仏偈」の序文で、「偈」をお作りになる親鸞聖人のお心を端的に言い表された文章です。

 はじめに、阿弥陀仏の誓願には真実の行信と方便の行信が誓われているといわれます。方便の行信にとどまることは如来の本意を見失うことですから、何が方便であるかを明らかにするために、第十九願(自力諸行往生)・第二十願(自力念仏往生)にもとづく法義を「化身土文類」に明かされます。その方便の教えに育てられて真実の教えを受けいれることができるようになったものには、選択本願の行信が与えられます。その選択本願(第十八願)の行信因果を五願に開示して、教・行(第十七願)・信(第十八願)・証(第十一願)・真仏・真土(第十二願・第十三願)の六法として示したのが、「教文類」、「行文類」、「信文類」、「鈔文類」、「真仏土文類」でした。このように選択本願によって生きとし生けるすべてのものが、善悪・賢愚の隔てなく救われ、智慧と慈悲を完成せしめられるのは、その本願の教法が自他の隔てを超え、生死を超えた真如の顕現であったからです。人間の分別思議を超えた不可思議なる仏智の顕現であるような選択本願の救いを親鸞聖人は他力真宗とも浄土真宗とも呼ばれたのです。そしてこのような尊い浄土真宗に遇わせていただいた如来の恩徳に応えるために、その教えを要約して「正信念仏偈」を作ったといわれるのです。これによって、「正信念仏偈」は『教行証文類』の全体を真実の行信を中心に要約して讃嘆されたものであり、浄土真宗の法義のすべてがそこに摂まっていることがわかります。

 ところで、このような浄土真宗(選択本願)に遇うことができたのは、ひとえに弥陀・釈迦二尊のはからいであり、インド、中国、日本と、二千数百年にわたってこの法を伝承してくださった祖師方のたまものです。その御恩を報謝するために、ここに「正信念仏偈」を説いて、その教えを讃仰するわけですが、このように知恩報徳のために仏徳讃嘆の詩を書かれた例としては、天親菩薩の『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』)がありました。その冒頭に、「世尊よ、われ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」といわれています。その「世尊よ」という呼びかけの意義について、曇鸞大師は次のように註釈されています。天親菩薩が「世尊よ」と釈尊の名を呼んで自身の浄土願生の信心を表されたのは、一つには、教主釈尊への知恩報徳のためであり、二つには、釈尊の説かれた「浄土三部経」の真実義を説き明かすというような大事業は、釈尊の威神力を加えていただかねば、菩薩の力をもってしても実現不可能なことであるから、「世尊よ」と呼びかけられたというのです。

 そこで親鸞聖人は、釈尊の説かれた『大無量寿経』の真実の言葉に呼び覚まされ、三国伝来の祖師方の解釈によって、深遠な阿弥陀如来の恩徳を信知せしめられた慶びを「正信念仏偈」として讃嘆されるわけです。それゆえその最初には、

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。           (『註釈版聖典』二〇三頁)


と阿弥陀仏の名を称えて、知恩報徳の想いを表し、如来が威神力を加えてくださったお陰で、仏徳を讃嘆させていただくことができたことへの謝念を表されたのです。

 『浄土文類聚鈔』では、同様の偈を「念仏正信偈」といわれています。文言に違いはありますが、内容に違いはありませんから、その題の意味も特別に違った内容を顕すために変えられたものとは考えられません。いずれにせよ阿弥陀仏から与えられた選択本願の行信を讃嘆する偈ということで、「行信偈」ということでは共通していると思います。したがってその読み方も、本願を「正信し、念仏する詩」と読むこともできますし、本願の「念仏を正信する詩」と読むこともできます。また「念仏正信偈」も「念仏し正信する詩」と読むべきでしょうが、「念仏を正信する詩」と読むこともできます。いずれにせよ、正信とは、私のはからいをまじえず、第十八願の仰せを疑いなく受けいれることであり、念仏とは阿弥陀仏が選択して回向してくださった本願の念仏を生涯称え続けることのほかにありません。

(『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』p.363~p.366)
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・


親鸞聖人は、自ら「正信偈」の解説を『尊号真像銘文』にしておられます。経典や祖師方の文を解釈することは当然としても、自分の書いた文を解釈することは異例のことと言わねばなりません。それだけ「正信偈」を重視しておられたことが伺えますが、その中でも『尊号真像銘文』で扱われている御文は

本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就 
如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言 
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味 
摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬得大慶 即横超截五悪趣


の部分です。

これは、選択本願の行信によってこの世は正定聚の位に入り、一息切れたら必ず大般涅槃をさとるべき身につき定まるという超世の悲願を説くことが釈尊出世の本懐であるということと、その本願を疑いなく聞き受けて念仏する行者が現生で獲る利益について詳しく顕された一段です。そのご解説は

「本願名号正定業」といふは、選択本願の行といふなり。「至心信楽願為因」といふは、弥陀如来回向の真実信心なり、この信心を阿耨菩提の因とすべしとなり。

で始まっています。親鸞聖人にとって何よりも訴えたかったことは、往生成仏の因である選択本願の行信であったのです。確かに弥陀如来回向の真実信心が成仏の因であることは疑う余地がないことです。ただ、それは弥陀如来回向の本願の名号を専修する際の信心であって、念仏と無関係な信心ではありません。

最勝真妙の正業にして不回向の行たる本願の念仏を本願招喚の勅命として聞き受けた時、極めて速やかに成仏の因が行者の身に満足せしめられます。こうした真実の行信を獲得した行者は歓喜地という言葉で表されるような、現生にして入正定聚之数という偉大な利益を賜ります。本願の行信に帰命した行者を摂め取って決して捨てない、だから阿弥陀といい、その阿弥陀仏の強大な本願力を利他力(他力)と言います。これこそ、生きとし生ける全てのものが善悪・賢愚の隔てなく平等に救われるただ一つの教え(誓願一仏乗)であり、本願の念仏はいかなる諸善万行の法にも超え勝れた円融満足極速無碍絶対不二の教でした。

このような本願、念仏、如来のはたらきを聞いて計らいをまじえずに受け容れることを信心といいます。信心の内容は「行文類」「信文類」の内容であり、開いて言えば浄土三部経の内容であり、祖師方の経・論・釈の内容でありますが、つづめて言えば一句の「南無阿弥陀仏」に収まります。そのようなわけで蓮如上人は、

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土(中国)なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

と三国伝来の祖師方の勧めは「念仏の一行」にあったことを明かされています。この念仏とは、当たり前ですが「正信偈」は「行文類」の一部なのですから勿論他力の念仏です。

そして、弥陀仏本願念仏と言われているように、念仏は阿弥陀仏の本願に誓われている念仏です。本願の行として称えなさいと大悲を込めて与えられている念仏です。信心は念仏を称える際の信心ですから、もし本願から念仏を抜いてしまったら、同時に信心をも抜いてしまうことになります。


称名正因の異義に陥るのを防ぐためか何なのか分かりませんが、信心を強調するのはよしとしても

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

はありません。こんなことを法然聖人、親鸞聖人が聞いたらどう思われるでしょうか。『興福寺奏状』にさえ

ただ弥陀一仏の称名のみを説き

とあるように、法然聖人の教えは専修念仏、選択本願念仏の教えだったのです。その法然聖人の教えによって救われ、法然聖人の教えの真意を明らかにされたのが親鸞聖人ならば、どんな理由があるにせよ上記のような発言は出てこないと思います。法然聖人までと親鸞聖人とでは立場が違うそうですが、ならば

弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまふ。
道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。


のお言葉は一体どうなるのでしょうか。親鸞聖人は「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」と説く、自分と立場を異にする方々の説を信じよとお勧めになったのでしょうか。謎は深まるばかりです。

【考察】選択本願の行信について(13)

梯實圓和上はまた、このようにも解説されています。以下は、「信文類」

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論 二九)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同 三三)とのたまへり。

の講讃部分です。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
 「信文類」のはじめに「この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり」(『註釈版聖典』二一一頁)といわれているように、真実信心は念仏往生の本願によって回向された心でした。その「念仏往生」について親鸞聖人は、『一念多念文意』に「浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし」(『註釈版聖典』六九四頁)といわれています。それは一念往生に固執して多念往生を否定したり、逆に多念往生に固執して一念往生を否定したりする一念多念の諍いを誡められた言葉でした。一念往生に限定するのでもなく、多念往生に限定するのでもなく、一念多念を超えて、一念多念を包摂している本願力回向の行信による往生を念仏往生といわれているのです。したがって、念仏往生の本願を疑いなく信受している真実信心は、同時に「念仏申さんと思い立つ心」でもあるのです。『歎異抄』第一条に、

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
                                              (『註釈版聖典』八三一頁)


といわれているとおりです。ですから、信心はかならず念仏となって実践されていきますから、「真実信心はかならず名号を具す」といわれたのです。また本願の念仏はかならず信心を具していますから、法然聖人は『選択集』に「念仏の行者かならず三心を具足す」(『註釈版聖典』七祖篇一二三一頁)といわれたのでした。いいかえれば、信を具していない行も、行を具していない信も、いずれも本願力回向の行信ではないということになります。

 もともと本願の信と行は、決して離れることのない在りようをしていました。そのことを『親鸞聖人御消息』第七章には、次のように説明されています。

信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。
                                        (『註釈版聖典』七四九~七五〇頁)


 信は念仏往生の本願を疑いなく領受している心相を表しており、行は領受したとおりに本願の名号を一声十声と口に称えていることをいいます。したがって、信と行と言葉の表す意味は違っていますが、本願が疑いなく心に領受され、領受した通りに口に称え顕されているのですから、両者は決して離れたものではありません。念仏往生の本願を聞きながら、念仏もうさんと思い立つ心の起こらない信心はありえません。また如来が回向された行ならば、疑いなく信受した行でなければなりませんから、信を離れた行は第十八願の行ではありません。こうして第十八願に誓われ、本願力によって回向された信と行は、本来離れることのできない救済法として私のうえに実現しているものだったのです。そのことを「行と信とは御ちかひを申すなり」といわれたのです。行を重視して信を軽視したり、信を重視するあまり行を軽視したりすることは、本願を取捨する不敬になります。そこで真実信心には名号を称念する行を具していて、決して行を離れた信ではないことを表して「真実の信心はかならず名号を具す」といい、如実の信心は行不離の信であることを明らかにされたのです。

 こうして信と行とは離れない関係にありますが、往生の正因が決定する時はいつかということになりますと、それは本願の名号という時間を超えた法が機のうえに実現した時ですから、信心のおこった時ということになります。すなわち信の一念(時剋の一念)が正因決定の時になります。称名は、その信心、名号が行者の口業に現れて相続しているすがたです。その行体からいえば、一声、一声、無上の功徳である名号正定業が相続しているありさまであり、その行相からいえば、私たちの口を通して本願招喚の勅命(名号)が響流している姿でした。そして、それを聞いて喜ぶ行者の思いからいえば、仏恩報謝の営みであったというべきでしょう。

 しかし、同じように称名していても、願力回向の信心を具していない称名があります。それは、念仏が如来より回向された行であることに気づかず、自分が称えて功徳を積み重ね、その功徳を回向して往生しようと祈願している自力念仏です。それは本願の名号が告げている真実のいわれ(名義)に背いて、自己の見解に基づいて行っていますから不如実修行と名づけ、方便化土にしか往生することのできない化土の業因であると誡められています。こうして自力の称念を誡め、願力回向の救いを疑いなく領解して行うようにと勧誡する意味をこめて、「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」といわれたのです。


(『聖典セミナー 教行信証[信の巻]』p.254~p.258)
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『教行証文類』は往還二種の回向を顕されたものですが、それは第十二願、第十三願によって成就した真仏、真土を大悲の淵源とし、そこから第十七願を通して衆生に与えられる如来の救済法でした。南無阿弥陀仏を往生の正業、正因と選び定められたのは念仏往生の願(第十八願)ですが、阿弥陀仏はその法義を与えるために、十方諸仏に名号の功徳を讃嘆させ、証誠させるという巧妙な方法を取られています。阿弥陀仏の大悲は、第十七願によって十方世界に展開していくというので、特に第十七願を「大悲の願」()といわれます。

この「大悲の願」によって与えられた本願の名号によって、我々の疑い心は破られ、信心を成就され、念仏の行者たらしめれていきます。成就文に

諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念

等とある通りです。これが機受の極要を顕された真宗の至極であることは言うまでもありません。

ただしその成就された信心は、「この心すなはちこれ念仏往生の願より出でたり」と言われたように念仏と離れた信心ではありません。それを分かり易く表したのが「信行一念章」のお言葉と言えるでしょう。


このような「信行一念章」や、『末灯鈔』12通等に顕著に表れている、阿弥陀仏より選択回向された名号を信じ称えて浄土に往生する第十八願の法門を念仏往生と言います。この場合は、特に行と信に時間的な前後を分けません。念仏と信心は別々の二つのことではなく、同じ南無阿弥陀仏を心に領受し、口に称える選択本願の行信であるからです。

それに対して、「信と行とを機の上で前後して起るものとして語る場合に「信心正因 称名報恩」」と言われます。体は同じように阿弥陀仏一仏に向かって合掌礼拝し、口では同じように念仏一行を称えて往生を願ってはいても、本願を疑い、我が計らいの心をもって、念仏を私の功徳のように思って称えているようでは、化土にとどまり、報土往生はできません。念仏往生のつもりで、心は諸行往生のままだという者がけっこう多いのです。『歎異抄』の作者が嘆いていたのもこのことでした。

また、法然聖人在世当時から、生涯一声でも多く念仏を称え続け、その人が臨終の来迎を感得した時に初めて往生が定まるという多念義、臨終業成説を主張する者が法然門下にもあったようです。念仏は一念に限らず、生涯に亘ってその人を荘厳していく相続の行であることは間違いないのですが、この人達は一念を軽視して多念を重視し、臨終の来迎を待たずしては往生が定まることなどあり得ないといい、一念に往生が定まると主張する者と水火の如く諍っていました。

一方で、信は一念(一声)の念仏により往生は決定するという主張は正しいのですが、これはともするとその後の称名は往生には不要なのだから称えなくてもよいという考えに陥りがちです。更に誤解が進むと、阿弥陀仏はどんな悪もさわりとせずに救って下さるのだから、悪を恐れることなく、心のおもむくままにやりたいようにやればよいといった造悪無碍の異義に陥り、放逸無慚となっていきます。こういう考えの者が世間のひんしゅくを買い、聖道諸宗が浄土宗を非難し迫害する一因となったのは周知の通りです。

そこで、本願を疑いなく信受した信の一念が肝要であり、その時に摂取不捨の利益にあずかって正定聚の位に住せしめられ、臨終を待つことなく往生は定まる。その上の称名は往生を祈願するものでも、往生をより確かなものにしようとするものでもなく、はや往生を定めて下された御恩に報いる信後相続の行であるというので、覚如上人は信心正因称名報恩説、また平生業成説をもって教えを説かれたのでした。


私は、念仏往生の法義と、信心正因、平生業成は別々の法義とは捉えていません。むしろ、念仏往生の法義を正しく言い表した、念仏往生の真実義が信心正因、平生業成という法義であると思っています。念仏往生と平生業成と二つの教えがあるというのは、あくまで一つの説ですので、支持する方はそれはそれでいいでしょう。しかし、元である念仏往生の本願から念仏を抜いてしまうような発言は看過できません。

私達は、往生の行も信も、阿弥陀仏の清浄願心の回向成就したもうた大悲回向の行信であると聞き受けて、もっぱら念仏の一行につかえ、ただ本願の信心を崇めて往生一定と期することが、聖人のお心にかなうことであると思います。

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

【考察】選択本願の行信について(12)

御消息「信行一念章」を取り上げて、梯實圓和上は次のように解説されています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
   大行と大信

 さて「行文類」は「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」と、これから明かす大行ばかりか、のちに巻を改めて明かす大信までも挙げられています。これは往生の因として与えられている行と信は、決して切り離すことができない一具の法であるからです。『親鸞聖人御消息』第七通には、行と信の関係を述べて、

行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。        (『註釈版聖典』七四九~七五〇頁)


といわれています。「行というのは、本願の名号をわずか一声称えただけでも往生できる(無上の功徳をもった名号である)ということを聞いて、仰せにしたがって一声、あるいは十声、さらには一生涯称えることを行というのです。この本願の仰せを聞いて少しも疑いをまじえないことを信の一念(二心をまじえない一心)というのです。このように信と行とは二つあるようですが、行を一声するだけでも往生ができるという本願を聞いて疑いをまじえないことを信というのですから、行を離れた信はないと、お聞かせにあずかっています。また(本願を疑いながら称えているような念仏は、方便の自力行であって、第十八願に誓われている本願他力の真実行ではありませんから)信を離れた行はないとお心得ください。(信も行も)みな阿弥陀仏が第十八願において選択して与えて下さった御誓いのたまものである(本願力回向の法である)と心得なさい」といわれるのです。

 こうして行は、所信(信じられる)の行法といわれるように、万人を救う普遍の法を表す言葉であり、信は念仏往生の本願に呼び覚まされて、念仏を私の救われる道であると疑いなく受けいれた状態を表しています。このように疑いなく行法を受けいれることによって、万人の道が私の道となるのですから、信心が肝要であるといわれるのです。

 このように信心の内容は、選択本願の行のほかにはありません。信は疑いの「ない」状態をあらわしているのですから、「ある」状態をいえば、行法が私のうえに「ある」といわねばなりません。いいかえれば、信心とは、行法が機のうえにある状態をいうのですから、はからいなく念仏しているすがたが本願を信じているすがたなのです。『親鸞聖人御消息』第六通に、

本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」と仰せられたり。                                        (『註釈版聖典』七四七頁)


といわれたのは、そのゆえです。本願を信じているすがたが念仏しているすがたであり、はからいなく念仏していることを、本願を信じているというのです。

 このように、行は所信の法であり、信はそれを疑いなく受けいれている機のありさまをいいますから、信心のことを機という言葉で表される場合があります。もともと機という言葉は、阿弥陀仏が救いの目当て(対象)とされているものを表す言葉なのですが、そのような機のうえに起こっている「信心」のことを、また「機」という言葉で表される場合があります。親鸞聖人が「行文類」の一乗海釈のなかで、一乗といわれる本願の法(南無阿弥陀仏)を、法(教法)と機(信心)に分けて表し、念仏という法の徳をただちに讃嘆して「しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無礙絶対不二の教なり」(『註釈版聖典』一九九頁)といい、続いてその法が私たちのうえに届いて、私たちを仏になるべきもの(正定聚の機)に転換していることをたたえて、「しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし」(『註釈版聖典』一九九頁)といわれています。このように信心を絶対不二の機と呼ぶことによって、念仏という絶対不二の教法が、信心という絶対不二の機を成立させ、煩悩具足の凡夫でしかない私たちが仏になることを知らせようとされたのでした。

 こうして親鸞聖人にとって行と信とは、一つの南無阿弥陀仏を法として表すか、機として表すかの違いであって、決して別物ではなかったことがわかります。そして、法(行)が機(信)となると明かすことによって、機(信)は法(行)の徳を内に保ってよく往生成仏の因となるという道理が明らかになり、「念仏成仏」という浄土真宗の法門理論を完成していかれたのでした。のちに蓮如上人は、親鸞聖人の行信論を機法論として受け継ぎ、機法一体の南無阿弥陀仏という教語をもって、真宗の信心の内容をつまびらかにしていかれます。

『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』p.166~p.170
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念仏と信心は、共に「弥陀の御ちかひ」の内容であり、切り離すことができない一具の法です。そもそも本願の念仏は、我が計らいによって一声でも多く称えて功徳を積んでいこうとか、往生をより確かなものにしようとする自力の行ではありません。一声一声が「我にまかせよ、必ず浄土に迎え取る」という力強い本願力に支えられ、本願の仰せを計らいなく受け容れて、その仰せに順って現れ出ている他力回向の行です。

信心と言っても、その対象は念仏という行法です。それゆえ、『往生礼讃』には

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

と教えられ、名号を称することわずか十声、一声の者までも往生させるという念仏往生の本願を決定的に深く信ずることが真実の信心であると明かされています。こうした本願の念仏と組み合う『観経』の三心は、『大経』第十八願の至心・信楽・欲生我国の三信と同じ他力の三心です。


なお、如来の衆生救済の道理を如来の側から明かせば、本願の名号(南無阿弥陀仏)という如来の行(法)が来たって我々の心に信心が開け起こるのですから、『教行証文類』は行、信の次第で説かれています。ただ、行と信は本来一体であるものを敢えて二つに分けて詳細に釈されたものですから、至る所に行と信は不離であることが示されています。そして、信を行におさめて念仏往生と言われるのです。

これを衆生の側から明かせば、本願の名号のいわれを計らいなく聞き受けるところに信心が開け起こります。救済が成立する時は、念仏した時ではなく、念仏往生の本願を受け容れた信の一念の時と言わねばなりません。ここに、念仏往生の法義はそのまま信心正因の法義であるという道理が明かされます。

それから、信心を獲た上での称名は、救いを祈願して称えるものではありません。これは、すでに摂取不捨の利益にあずけしめたもうた如来広大の恩徳を報謝する行であるとして、明確には覚如上人以来、称名を報恩の義で示されてきたのです。


確かに信の一念に関しては、私が念仏するとかしないとかそのような我々の行為、所作は問題になりません。ただ「我にまかせよ」との如来の仰せを仰せのままに聞き受けるのみです。

この点に関してはその通りなのですが、だからといって「念仏を称えよではない」は行き過ぎでしょう。覚如上人も蓮如上人も、その他数多く現れた和上様方も、信心正因称名報恩で教えを説かれてはいても、このような、本願から念仏を抜いていると受け取れる発言はされていません。少なくとも私は聞いたことも読んだこともありません。勿論私の不勉強もあるでしょうから、どなたか

阿弥陀仏は念仏を称えよとは仰っていない
阿弥陀仏は「我にまかせよ」と仰っているのであって、「念仏を称えよ」ではない

等と示された御文、あるいはそう教えられた和上様方の文章や言葉がありましたらどうぞご教示下さい。なお、当然ですが成就文から念仏を抜いてしまった高森顕徹会長のような人物は論外です。

【考察】選択本願の行信について(11)

行と信と聞くと二つあるようですが、この二つは密接不離な関係にあります。

仏教では行を修する際の心を非常に重要視します。「仏教では心を重視する」とは親鸞会でもよく言っていますが、親鸞会のそれとは違います。これについては

『飛雲』心を重視する仏教、心を軽視する高森会長

を参照して下さい。「仏教で心を重視するのは、心で造る罪を重視しているということではなく、体で造る罪のその時の心を重視するということ」とありますが、同様に、体で造る善のその時の心を仏教では重視します。

なお信心とは異なりますが、仏道を志す者が最初に発さなければならない心として菩提心があります。それは仏に成ろうと願う自利の心と、一切衆生を済度しようと願う利他の心のことです。これは、仏道の出発点であるばかりでなく、仏道の終始を一貫している心です。

菩提心を発さなければ、いくら修行に明け暮れたところで仏果をさとる因にはなりません。それゆえ、聖道門では勿論のこと、浄土経典でも菩提心に関することが説かれています。聖道門であれ、浄土門であれ、この土でさとるか、浄土に往生してさとるかの違いはあれども、成仏し、衆生を済度することが究極の目的であることは変わらないからです。『無量寿経』三輩段には、上、中、下の三輩に通じて発菩提心が往生の因として説かれており、それによって曇鸞大師は

このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。『浄土論註』

と教えられています。更に、それに続く文には、

もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。

と仰って、無上菩提心を発さず、ただ極楽浄土が楽しい世界であることを聞いて楽をするために浄土に往生したいと願っても、それは決してできないことであると釘を刺されています。


さて、信心が重要である証拠に、『観無量寿経』には、

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。

と説かれています。これを承けて善導大師は『往生礼讃』

この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。

と教えられています。浄土願生者は至誠心、深心、回向発願心の三心を欠け目なく具えたならば必ず往生できる、もしこの三心の内一心でも欠けたならば浄土には往生できないというのです。この御文は「化身土文類」にも引かれています。

それゆえ、ただ経典に説かれている通りの行に取り組むのではなく、その際にこうした三種類の心を発しているかどうかという行者の信心が問われるのです。善導大師によれば、三心は上品上生にのみ説かれていますが、それは広く世、戒、行の三福を修める九品に通じ、そして定善にも通じている心であるというのです()。勿論、本願の念仏とも組み合っていることは言うまでもありません。いずれにせよ、浄土往生できるかどうかについては、この三心が起こせるかどうかにかかっているといっても過言ではないということです。

ところが、特に第一の至誠心は、善導大師の釈によれば三業と信心の内外不調を厳しく誡め、たとえ外相には賢善精進のすがたを現じていても、内心に煩悩が燃え盛っているようでは至誠心とは言えないというような心で、とても煩悩具足の凡夫が起こせるような代物ではありません。たとえ外相には立派な振舞いをしていても、内心に欲や怒り、愚痴といった煩悩の虚仮を懐いているようでは至誠心とは言えないというのです。これでは往生に必要な三心を欠け目なく具えることができませんから、往生できないということになります。法然聖人や親鸞聖人が善導大師の至誠心釈をめぐって悪戦苦闘されたのは、そのためでした。


これがやがて、こうした三心は決して自分で起こせるような心ではなく、如来が成就された真実心を回向され、それを計らいをまじえずに受け容れた時、はじめて私達にも浄土にふさわしい真実心(至誠心)が具わるのだと明らかにされていくわけですが、今私が問題にしたいのは別の点です。

至誠心、深心、回向発願心という観経の三心にしろ、至心、信楽、欲生我国という大経の三信にしろ、それらは行と組み合っている信心であるということです。言い換えれば、信心はそれ単体で有るというのではなく、行と組み合って成立しているもの、行無しには成り立たないものだということです。

『観無量寿経』では、世福、戒福、行福という行と、それによって浄土に往生したいという願生の信心が説かれていますし、十八願には「至心信楽欲生我国」という信心と「乃至十念」という行が誓われています。

これは菩提心についても同様のことが言えます。十九願には

発菩提心 修諸功徳

とあり、内に自利利他の菩提心を発して、そして実践すべき行(諸の功徳)を説かれています。

仏教では教、行、証と言われ、仏陀の説かれた教説通りに様々な善を行じて迷いを離れ、さとりを開く教えですが、行者の仏道修行を根本から支えているのが菩提心であり、信心です。菩提心を発し、自力成仏の因果を信じる心を発さずにいくら諸善万行を修めようと、また三心を発して修めた善で往生したいと発願回向しないと、それは煩悩に穢れた有漏善であって、天上界まではいけても三界を出離する因にはなりません。

菩提心、信心は、行とは切り離せない関係にあるのです。菩提心、信心を抜きの行は仏教の行とは言えませんし、たとえ菩提心、信心を発したとしても(発すだけでもすごいことですが)、行を修めて仏と成るべき因徳を積まなければ智慧を極めて生死を離れ、仏陀のさとりまで到達することはできません。

尤も、本願の念仏は、それによって功徳を積んでさとりに近づいていくという行でも、往生をより確実にしようという行でもありません。本願においてただ一つ往生の行として誓われ、これを頂いてわずか一声称える者の身に無上の功徳を具足し、速やかに仏因円満する超世稀有の大行であり、内に開き発っている信心は、その本体は如来の大悲心であり、往生成仏の正因であるような願力回向の大信であり、同時に横超の大菩提心でもあります。自力の菩提心、信心とは構造を全く異にしますが、大行と大信は一つの南無阿弥陀仏が口に現れたすがたであり、心に領受されたすがたです。行と信を切り離すことが出来ないという点では共通しています。

それゆえ、親鸞聖人は至る所で行と信をセットにして顕されています。例えば、

・もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
・たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。
総序

・往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
・真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。
・往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。
・釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。
・誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
(行文類)

・もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。
・宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。
・この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。
(信文類)

等と言われている通りです。しかし、最もそれが顕著なのは高田の覚信房に宛てた御消息「信行一念章」

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。


でしょう。覚信房はおそらく『教行証文類』を伝授されており、その中の「行の一念」「信の一念」の関係について聖人に質問をしたのだと思います。これについては長くなりましたので記事を改めて見ていきたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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