これって事業仏教でしょ・・・

会員宛てに以下のメールが来ているようです(一部伏字にしています)。


下記、サンキューからお知らせを頂きました。
御縁のある方は、是非ご利用ください。
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※メールは過去のもので、既に販売は終了していると思われます。


こんなの、仏法と何か関係がありますかね?

会員の皆さんはこういうのに慣れっこになってしまっているのかも知れませんが、事業仏教化して中身がカスカスの実態にどうか気づいてもらいたいものです。
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「他力廻向」といっても、それまでのプロセスが思いっきり自力ではね・・・

昨日の高森顕徹会長の話は、

「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たいというのは、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」に他ならない

で紹介した話の一部繰り返しと、その続きという内容だったようです。


相変わらず「若不生者」の「」について自説を展開した後、

自力の迷信しか持たない自分が「信楽」の身になるには、阿弥陀仏から仏心を頂くしかない

として、今回は『正像末和讃』

如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまひて
 大悲心をば成就せり


の和讃を出して「他力廻向」の話をしたそうです。

「信楽の身になる」という表現が引っ掛かりますが、とにかく私達が浄土に生まれるには、信楽を獲得しなければなりません。それは自分で起こすものでも、自分から取りに行けるものでもありません。阿弥陀仏から一方的に与えられるものです。「阿弥陀仏から仏心を頂くしかない」というのはその通りです。ただそれは、時々法友通信等で取り上げられ、会員の大多数が思っている、

・一念の決勝点まで光に向かって進ませて頂きます

というような、私が未来の救いに向かってある程度自力で求めてゆくものではありません。これでは、阿弥陀仏の救いは「名号を成就したから、助かりたければ私の元まで取りに来なさい。そうすれば授けてやるぞ」というようなものです。これは間違いです。

只今、ここにいる、この私一人目がけて喚び続けられている本願招喚の勅命、すなわち「我汝を助けるぞ」の仰せを、今私がこの場で計らい無く聞き受けるだけです。私を往生成仏させるはたらき、南無阿弥陀仏は既に成就して、いつでもどこでも私にはたらきかけていますから、善知識から教えを聞いてそれが分かったなら、もはや凡夫の小賢しい詮索は要りません。計らいは廃り、素直に本願力に身を任せたのです。如来のお助けに、助けられたのです。これが「信心を頂く」「仏心と凡心と一つになる」ということです。

これが本願力回向、他力廻向ということですが、親鸞会ではこうした浄土真宗の教えを「無力」として否定しています。じゃあどうなったのが「他力」かと言えば、大雑把に言いますとまずは「自力」で求めていって、「もうダメだ」「自力間に合わなかった」と精根尽き果てた時に「タダで救うぞ」と摂取される、これが「他力」だと教えています。おそらく会員の皆さんはこのように考えているからこそ、うんざりするほどの募財や活動にも参加し、上司への無条件服従にも我慢しているのでしょう。これが、このような活動とは無関係に阿弥陀さまから回向せられるのだとしたら、あれほど熱心に活動したりしないと思います。

「他力廻向」といっても、それまでのプロセスが思いっきり自力ではね・・・残念ながら信楽を獲得することも浄土往生もおぼつきません。会員の皆さんには、我らの往生の因も果も、全て阿弥陀さまから賜り、自力の混じる隙は一部もないことを知って、直ちに本願招喚の勅命に順って頂きたいと思います。

目に見えるものは不真実なもの、目に見えないものこそ真実

人員不足に加えて年度末のため、例年ではあり得ない物量をやっています・・・。単に物量が多いだけではなく、休み明けに出勤すれば、再配達の荷物すら回っていない状況。代わりに謝るのもいい加減イヤになりました。いつまでこんなことが続くのか・・・。

あのYマト様でさえ人員不足等を背景に運賃の値上げに踏み切ろうというのですから、うちも身の丈に合った集配をしてもらいたいものです。荷物を取るだけ取っても、運ぶ人がいないのですから、着かないだの時間通り来ないだのとクレームが増えることは誰の目にも明らかです。その内、バックレる奴や、心身の疲労から事故を起こす人間が更に増加するでしょう。自分はそうなりたくないですが、ならないとも言い切れません。それを見て見ぬふりなのか、全て現場まかせにする上の連中にはほとほと愛想が尽きます。


さて、『歎異抄』後序

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

のお言葉についてこの前教えて頂いたので、今回はそれに自分が思ったことも含めて書きたいと思います。


私達は普通、目に見えるものこそ真実であり、目に見えないものなど虚構に過ぎないと否定することがままあると思います。だから死後の世界を否定したり、「仏様なんているの?」「目に見えない仏様をどうやって信じたらいいんだ?」という人もあるでしょう。ですから、この記事のタイトルを見て「は?」と思った方もあるかも知れません。

しかし、私達が見ているもの、人物も風景も物も、全てはやがて変化したり壊れたり、全く別のものになったりします。例えば、私を含めて家族も、同級生も、先生も、近所の方々も、面影はあるものの昔とは姿形が違っています。特に子供は赤ん坊の頃とは別人のようになっています。子供の成長の場合は良い意味ですが、病気を患った方などは悪い意味でその変化に驚いてしまいます。縁起でもありませんが、死人を目の前にすると、「これがこの前まで生きていた人か?」とびっくりするほど変わってしまいます。
また私の実家の方では、最近圏央道が出来まして、昔見ていた風景とは随分異なってしまいました。物では、この前携帯が壊れたと思ったら今度はレンジが壊れて買い直したり、色々なものが時節到来しております(泣) 中には壊れて買い直したばかりのパソコンやスマホでこの文章を読んでいる人もあるかも知れません。

こうして姿形が変化することもそうですが、私達は普段色々な人、モノを信じ、当てにして生きています。「まさか今日自分が死んだり、人を殺したりしないだろう」「今日も一日無事に過ごせるだろう」と信じています。働けば相応の対価を獲られると信じて働いています。自分や家族は世間を騒がすような悪いことはしないと信じて生活しています。荷物の再配達を頼んだ人であれば、指定した日時に荷物が来るだろうと信じているでしょう。他にも各人各様、程度の差こそあれ、何かを信じ、当てにして生きてます。

その信じる対象や、信じる自分の心は正しいでしょうか? 裏切らないでしょうか? 変わらないでしょうか?

今日死ぬつもりのない人が、事件や事故などで亡くなっています。給料や残業代の未払いで苦しんでいる人。事件や事故で人を傷つけたり殺したりして、当事者でなくとも家族や親せきというだけで叩かれている人。素行の悪い生徒ということで顔写真付きの資料がupされて心を痛めている人。荷物が指定通り届かなくて怒っている人。予算委員会なのにM学園追求委員会化して名前を挙げられ、答弁に困惑している人。それを見て落胆やら怒りやら、ため息しか出ない私達。「まさかこんなことになるとは・・・」ということばかりではないでしょうか?

時には、裏切るつもりがなくても結果的に裏切る、裏切られるということもあります。自分が気をつけていても、事件事故を起こしたり、巻き込まれたりする時はあります。また、自分の心が変わってしまって、それまで大切だと思っていたことがどうでもよくなってしまうこともあります。自分が昔収集したものなど、今からしたら無駄遣い以外の何物でもなかったなというものが多いです。あんなに好きだった人・物・事が、そうでもなくなったり、逆に嫌で仕方なくなったり・・・。誰しも経験済みと思います。

もうお気付きのことでしょうが、私達の目に見えるもので確かなもの、変わらないものは一つもありません。今私達が見ているこの眼ですら、やがては死んで焼いていくんですから、親鸞聖人の仰せの通り

よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき

です。変わってしまうんですから、目に見えるもので本当に当てになるものは一つもないということです。


それに対して阿弥陀さまは色も形もありません。ありませんから変わりません。変わらないから真実です。この真実が形を取り、声となって現れて下さったのが南無阿弥陀仏です。私を仏にせずは我も正覚ならじという願が成就して、既に私に届いているのが南無阿弥陀仏の六字の名号です。

果てしなく迷いを重ね、苦しみ続けてそこから離れ出ることが決してできない私を、迷いの世界から出させ、しかも仏にするというんですから、これほどたのもしく、たよりになるものはありません。それで、

ただ念仏のみぞまことにておはします

と仰るわけです。私の中に、迷いを離れてさとりを得るような因は全くありません。そんな者をさとらせる、仏にするというんですから、この世にないことです。世を超えています。ですから、

超世の悲願
超世稀有の正法


などと言われたりします。南無阿弥陀仏のことです。

目に見えるものが真実なのではなく、実は目に見えないものこそが真実であり、無上の宝です。この無上の宝である南無阿弥陀仏を教えているのが浄土真宗です。せっかく浄土真宗のお話を聞いていながら、この私を仏にするというおはたらきを信じられないでいる人は、宝の山に入っていながら何も手にしないで帰るようなものです。今、ここで、私の口から出ておられる「南無阿弥陀仏」こそが、我らが往生の定まりたる証拠。南無阿弥陀仏の他にまことはありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

無常と罪悪の話自体はよいのですが・・・

昨日の親鸞会の青年・学生大会は、

【お知らせ】親鸞会の青年・学生大会

で紹介した通り、

映画「なぜ生きる」の了顕は、なぜ仏法を聞くようになったのか(白骨の章を通して)

だったようです。

了顕の身に起こったことを話し、「この世の無常と我が身の罪悪を観じて仏法を聞くようになった」とのことです。いつもの親鸞会への入口のような話ですね。


この、無常と罪悪の話自体は大事なことなのですが、親鸞会ではその後別方向へと誘導されてしまいます。それは、

なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんと教えられているか?

などで書いているように、阿弥陀仏をどのように信じて極楽へ往生するのかについてです。

これについては、蓮如上人は

「念仏以外の諸善を捨てて、念仏一行を専らにせよ」
「南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得ることを信心獲得の体とする」

として、南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)の六字の心を疑い無く聞き受け念仏しなさいとしか教えられていません。三願転入せよだとか、19願から始めよだとか、宿善を求めよ・厚くせよだとか、煩悩と戦って白道を進めだとか、善(雑行)の勧めだとかいったことは一切ありません。また、それに伴う献金・勧誘・上人及び僧侶への無条件服従等は一切勧められていません。

浄土真宗に秘密の教えはありません。もし高森顕徹会長や会員が、「明確には教えられていないけれども、実はこれが本当の親鸞聖人の教えだ」と主張するなら、それこそ秘事法門です。

今回、誘われて初めて親鸞会で話を聞いた方もあるかも知れません。そういう方へも含めて、親鸞会では肝心かなめの救いの法について真宗とは真逆なことが教えられていると、改めてここで申し上げておきます。

「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たいというのは、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」に他ならない

昨日も富山では高森顕徹会長の話があったと教えて頂きました。

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とはどんなことでしょうか?


という質問に答えるという内容だったそうです。既に

高森顕徹会長の解釈は、教え以前に国語の問題で躓いている

で扱われています。本願文の若不生者の「」について、今回も高森顕徹会長は従来の解釈を繰り返し、若不生者の「」は私達の心を「信楽」の心に生まれさせると説明したそうです。これについては

「若不生者」の「生」とお聖教中の「生」との結び付け方が無理矢理な高森顕徹会長

でも触れていますし、改めて言うまでもないことですが親鸞聖人のなされなかった解釈です。これで「親鸞聖人の教えを正確に、迅速に・・・」などと言っているのですからギャグ漫画以外の何だと問いたいです。


さて、話の中で『帖外御文』にあるという、

「信心という二字をば、まことの心と読めるなり、まことの心と読む上は、凡夫自力の迷心に非ず。全く仏心なり」

という文章を出して話があったそうです。ただ、この文章は調べても親鸞会関係のサイトでしかヒットしませんでした。

ただ、『御文章』1帖目15通には、

信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。

とあり、覚如上人の書かれた最要鈔には、

この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。

という御文がありますので、蓮如上人がそのような文章を書かれていたとしても不思議ではありません。が、ちょっとモヤモヤしますので、もしご存じの方は前後の文章を含めて教えて頂きたく思います。


1帖目15通のお言葉は様々な所で解説されていますが、今は下の文章を紹介します。

 世間の人びとは、ご利益を求めて祈願祈祷することが信心だと思い、水垢離やお百度参り、跣参りに熱心です。自力の信心です。
 これに対して真宗の信心は、他力の信心、詳しく言えば「他力回向の信心」、阿弥陀さまから頂いた信心ですから、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」ではなくて、仏の真実心(まことのこころ)が衆生の心に届けられてできた信心です。
 そこを解説されたのが、この『御文章』です。
「信心という二文字は、信(まこと)の心と読めます。信の心というのは、衆生の悪い自力の心では助からず、如来の他力の良き心によって助かるので、信の心というのです。」と。
 自力の信心と他力の信心の違いを鮮明にし、信心の実体を明示されました。

御聖教の御文(43) まことのこころより)

真宗の信心は、穢れた凡夫の心で起こす信心ではなく、如来より回向せられる信心です。この信心が正因となって本願の実報土に往生させて頂くわけです。本願文で言えば、「我々に信楽を獲させ、その信楽を因として我国(浄土)にまれさせる」ということです。これが、「我々に信楽を獲させ、その信楽を因として信楽(信心)にまれさせる」では意味が判らないでしょう。飛雲さんの仰るように国語の問題でつまづいているのが高森顕徹会長です。

また高森顕徹会長は現世利益を強調したいがために、創価学会の言葉をもじって「絶対の幸福」になるだとか言っています。それを聞いて会員の皆さんはどうお思いでしょうか? 浄土往生も有難いが、それよりも今の、現実のこの苦しみを救うてもらいたい。今、絶対に崩れない壊れない、たとえ死が来ても崩れない絶対の幸福になりたいという気持ちが強くはないでしょうか? 否、むしろそれしかないのではないでしょうか? それはまさに上で紹介した文章中の、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」です。その信心でもって、正しい真宗の教えを説かず、私利私欲を満たすために法を説いている者から話を聞いていても、本願の信楽が獲られるわけがありません。

「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たいというのは、「ご利益が欲しいという欲望から作った信心」に他ならないことを知って、会員の皆さんはそんな目先の幻想的な楽を追い求めるのではなく、阿弥陀仏の崇高な願いを聞いて頂きたいものです。

なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんと教えられているか?

昔から信心決定して浄土往生するためには宿善を求めよだとか、(二河白道の譬の)白道を進めだとか、現在は三願転入しなければ蟻一匹救われないだとか教えて、会員に善という名の献金・勧誘・無条件服従を勧めている親鸞会ですが、浄土真宗にはそのような教えはありません。

アニメ映画『なぜ生きる』で途中から主役のような扱いになっている蓮如上人は、私達や私達の生きている境界はどのようなものと心得たらいいか、また阿弥陀仏をどのように信じて極楽へ往生するのかについて、『御文章』にて数多く教えられています。煩雑ですが、少々抜き出してみます。


 問うていはく、さてかやうに弥陀如来のわれらごときのものをすくはんと、たびたび願をおこしたまへることのありがたさをこころえわけまゐらせ候ひぬるについて、なにとやうに機をもちて、弥陀をたのみまゐらせ候はんずるやらん、くはしくしめしたまふべきなり。
 答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。これを信心をえたる多屋の坊主達の内方のすがたとは申すべきものなり。
(1帖目10通)


その信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において、今生のいのりをのみなせるこころを失ひ、またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり。(2帖目2通)


 それ、弥陀如来の超世の本願と申すは、末代濁世の造悪不善のわれらごときの凡夫のためにおこしたまへる無上の誓願なるがゆゑなり。しかればこれをなにとやうに心をももち、なにとやうに弥陀を信じて、かの浄土へは往生すべきやらん、さらにその分別なし。くはしくこれををしへたまふべし。
 答へていはく、末代今の時の衆生は、ただ一すぢに弥陀如来をたのみたてまつりて、余の仏・菩薩等をもならべて信ぜねども、一心一向に弥陀一仏に帰命する衆生をば、いかに罪ふかくとも仏の大慈大悲をもつてすくはんと誓ひたまひて、大光明を放ちて、その光明のうちにをさめとりましますゆゑに、このこころを『経』(観経)には、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」と説きたまへり。
(2帖目4通)


さればこの信心をとりてかの弥陀の報土にまゐらんとおもふについて、なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんをこころうべきや。ねんごろにこれをきかんとおもふなり。
 答へていはく、それ、当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。これまことにわれらが往生の決定するすがたなり。
(2帖目8通)


阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる
(中略)
なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。
(中略)
これによりて、その阿弥陀如来をば、なにとたのみ、なにと信じて、かの極楽往生をとぐべきぞなれば、なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。
(2帖目9通)


さればその他力の信心のすがたを存知して、真実報土の往生をとげんとおもふについても、いかやうにこころをももち、またいかやうに機をももちて、かの極楽の往生をばとぐべきやらん。そのむねをくはしくしりはんべらず。ねんごろにをしへたまふべし。それを聴聞していよいよ堅固の信心をとらんとおもふなり。
 答へていはく、そもそも、当流の他力信心のおもむきと申すは、あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。
(2帖目10通)


これによりて、この仏をばなにとたのみ、なにとこころをももちてかたすけたまふべきぞといふに、それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。(3帖目1通)


 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。
(3帖目2通)


さればその信心をとるといふは、いかやうなるむつかしきことぞといふに、なにのわづらひもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、余へこころを散らさざらんひとは、たとへば十人あらば十人ながら、みなほとけになるべし。(3帖目3通)


これによりて、かの阿弥陀仏の本願をば、われらごときのあさましき凡夫は、なにとやうにたのみ、なにとやうに機をもちて、かの弥陀をばたのみまゐらすべきぞや。
(中略)
それ在家止住のやから一生造悪のものも、ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、他力の信心といふことを一つこころうべし。さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、他力の信心をえたる人とはいふなり。この「南無」といふ二字は、衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもひて、余念なきこころを帰命とはいふなり。
つぎに「阿弥陀仏」といふ四つの字は、南無とたのむ衆生を、阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり。「摂取不捨」といふは、念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにをさめとりてすてたまはずといへるこころなり。さればこの南無阿弥陀仏の体は、われらを阿弥陀仏のたすけたまへる支証のために、御名をこの南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまへるなりときこえたり。
(3帖目5通)


しかるにいまわれら凡夫は、阿弥陀仏をばいかやうに信じ、なにとやうにたのみまゐらせて、かの極楽世界へは往生すべきぞといふに、ただひとすぢに弥陀如来を信じたてまつりて、その余はなにごともうちすてて、一向に弥陀に帰し、一心に本願を信じて、阿弥陀如来においてふたごころなくは、かならず極楽に往生すべし。この道理をもつて、すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。そもそも信心といふは、阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、一心に弥陀に帰命するかたをもつて、他力の安心を決定すとは申すなり。されば南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。(3帖目7通)


まだまだありますが、この辺で・・・。
さて、蓮如上人からは、「救われるにはこうせよ」ということについて親鸞会で勧められるようなことは見ることができません。この世は50年乃至100年の境界であり、栄耀栄華を極めても死んでゆく時には頼りになるものは無い、ということは親鸞会でも言いますが、じゃあどのように阿弥陀仏を信じて極楽世界へ往生するのかということについては、その教えが全く違います。

親鸞会で勧められる諸善万行については雑行と名づけて嫌われ、往生のためには「捨てて」「投げ捨てて」「ふり捨てて」と厳しいです。そして、阿弥陀仏を一心一向にたのめと教えられています。以前から書いているように、一心一向とは念仏以外の諸善を捨てて、念仏一行を専らにするということですから、意味としては「もろもろの雑行をすてて」と同じことです。

そして、阿弥陀仏を一心一向にたのむということは南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく心得たこと、これが信心決定ということですから、蓮如上人は六字釈を重ねて重ねて施されています。信心決定とは驚天動地の摩訶不思議の体験ということではなく、南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得たことに他なりません。この南無阿弥陀仏の六字のこころを知るために、宿善を求めよだとか、後生に驚きが立たねばならないとか、煩悩と戦って白道を進めだとか、三願転入せよとか、19願から始めなければならないなどという珍説は一切ありません。「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)」の仰せを計らい無く聞き受けて、仰せのままに後生おまかせするだけです。これが信心決定ということであり、私達が聞かなければならないことはこれだけだと言っても過言ではありません。

このようなことですから、信心を取る、信心決定するということはどれだけ難しいことかと躊躇し身構えてしまう人もあるかも知れませんが、ただ「汝を助けるぞ」の仰せをそのままお受けするだけです。なので、余計な詮索や先入観を捨てて、直ちに如来の仰せに順って往生を願って頂きたいと思います。


ところで、蓮如上人の上に「難度海を度する大船」とか、「大悲の願船」という文言が使われている箇所は今のところ見当たりません。また、

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります。」

だとかいう、この世私達の人生がどう変わるかについてはほとんど教えられていません。御文の方はどうかとしても、蓮如上人とは根本的に教えが異なるため、親鸞会教義は浄土真宗ではありません。アニメ映画『なぜ生きる』も、単なる親鸞会入門映画に過ぎないでしょう。比較するのもおかしな話ですが、あんなアニメを100回観るよりも、『御文章』を一通でも拝読した方が断然良いです。会員の皆さんには、ぜひとも間違った教えから離れて、お聖教に直に向き合い、南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得て極楽往生を遂げて頂きたいと思います。

目的もハッキリしないし、そこまでの道順もハッキリしないので、”生きる力”とやらは湧いてきません

よく親鸞会の学生部会で出されたのが、『なぜ生きる』

 生きる目的がハッキリすれば、勉強も仕事も健康管理もこのためだ、とすべての行為が意味を持ち、心から充実した人生になるでしょう。病気がつらくても、人間関係に落ち込んでも、競争に敗れても、
「大目的を果たすため、乗り越えなければ!」
と”生きる力”が湧いてくるのです。
 ニーチェは『道徳の系譜』に、なぜ生きるかがわかれば、「人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする」と書いています。方向さえ正しければ、速く走るほど早く目的地に着きますから、損をする苦労は一つもありません。人生の目的成就のためならば、時間、体力、お金をどれだけ使っても、百パーセントそれらは生かされます。使い捨てにはならないのです。(p.35)


の言葉です。どう生きるより先になぜ生きるが大事、人生の目的を正しく知ってこそ充実した人生になる、等の文言で新入生を釣り、偽装勧誘・正体を隠した勧誘を繰り返して組織拡大要員を集めている親鸞会です。私もこのように聞いて「確かにそうだ」と思い入会していった口ですが、しかし聞いても聞いても人生の目的・生きる目的は退会するまでハッキリしませんでした。そして人生の目的・生きる目的を果たす手段もハッキリせず、活動を続けたからとて目的達成に近づいているという確かな実感などまるでありませんでした。親鸞会にゆかりがある人で、他の方々はどうだったのか。ご意見を伺いたいところです。

確かに道に例えれば、目的地と道順さえ正しければ、上の言葉通り速く走るほど早く目的地に着きますし、損をする苦労は一つもないかも知れません。しかし、人生そのようなパターンばかりかと言えばそうではないことは皆さんご承知の通りです。

今学生や浪人生が必死に励んでいる受験一つ取っても、頑張ったから志望校に合格できるとは限りません。意中の男性・女性のハートを掴みたいと思っても、時間、体力、お金をどれだけかけたとてそれらが生かされるかどうかは極めて不明確です。自分の持てる範囲でどれだけ努力しても銀メダルで終わるアスリート、メダルはおろか表彰台にも登れないアスリートがどれだけあることか。

後々幸せな気分の状態で、過去の努力や苦労を振り返って「今までの自分の行動はあながち無駄ではなかったかもな」と思い返すことはあり得るでしょうが、このように目的がハッキリしていたとて報われるかどうか不明確なことばかりです。まして目的がハッキリしないことが叶うでしょうか? そして目的を果たす手段、道順もあいまいだったら? それとも人生の目的は宝くじや棚ぼた的なもので偶然達成するものなのでしょうか?


「人生の目的は後生の一大事の解決」
「信心決定して絶対の幸福になること」


と説いてはいますが、そう聞いたとて、目的地や受験合格・恋愛成就・金メダル等のように自分の中でハッキリとはしませんでした。そして、それを果たす手段として教えられるものも、続けたからとて目的に近づいているという確かな実感もなく、こちらも自分の中でハッキリとはしませんでした。このように目的もハッキリしないし、そこまでの道順もハッキリしないので、”生きる力”とやらは湧いてきませんでした。それどころか現実の苦しみにもがいて、自殺したいと何度思ったことか。熱心な会員からしたらこういうのは「聞き誤り」の一言で片づけるのでしょうが、もし自分のように思っている(いた)方が多数おられるなら、そんな誤りやすい、難しい教えが浄土真宗かということになってしまいます。

何度も書いていますが、浄土真宗は私が本願の救いに向かって進んでいくという教えではありません。親鸞会の教えは向きが真逆です。阿弥陀仏が私に向けて差し向けられている救いの御名をそのままお受けする、それで私が往生成仏していくという教え、これが浄土真宗です。目的と手段を普段我々が考えているように捉えていたら誤りです。それでは本願のお心を正しく受け取ることはできず、せっかくの如来、高僧知識方の骨折りも水泡に帰すというものです。会員の皆さんには、早く親鸞会の邪義に気づいて利用・搾取される人生からはさよならし、本願を信じ念仏して頂きたいばかりです。

【お知らせ】親鸞会の青年・学生大会

来月3月12日は、親鸞会で青年・学生大会が行われるようです。昔は青年大会と学生大会は別々の行事でしたが、学生の数が激減しているのでしょうか、今は一つにまとまっています。演題は、

映画「なぜ生きる」の了顕は、なぜ仏法を聞くようになったのか(白骨の章を通して)

とのことです。ちなみに青年学生大会は誰でも参詣できるそうです。


最近は専らアニメ映画『なぜ生きる』が法話の題材に取り扱われています。もはや『なぜ生きる』『なぜ生きる2』『映画なぜ生きる』等が根本聖典のようなもので、肝心の教えになると聖教ではなく高森本や親鸞会製作物でしか根拠を示せないというのが現在の親鸞会の実態です。大悲の願船に只今乗れると説きながら、いつまでも乗れないことに疑問がある方は、ぜひ聖教に直に向き合って頂きたいものです。現在は

飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~
親鸞会を脱会した人(したい人)へ

などのように聖教上の根拠を示して親鸞会教義の誤りを詳細に指摘しているブログが多くあります。自分の命が今日終わるとしたら、親鸞会の教えで果たして後生助かるのか。組織に利用されているのは突如出家すると世間を騒がせている人だけではありません。辛いことですが、教えを巧みに織り交ぜて組織拡大に利用されていたというのが現実です。

今朝、子供とランニングをしていたら鳥が路傍に横たわっていました。それが私達の確実な未来です。どうか自分の死と向き合って、今一度真面目に考えて頂きたいと思います。

本願に疑い晴れても、何もかもハッキリするわけではない

昨日の富山での法話は、先日

身も心も喜びに満ち溢れた「歓喜」ではなく、二心なき本願力回向の「信心」が清浄報土の真因

で紹介したものと同じく、アニメ映画『なぜ生きる』の蓮如上人の台詞

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります。」

に対する質問の返答だったそうです。既に

邪義を修正してもやはり邪義にしかならない

にもupされています。話の中で、前回と同様、明法房弁円の歌を出して話があったようですが、今回は「変わり果てたる心」について、

・苦しみの根源と教えられる、疑情、無明の闇、後生暗い心が願船に乗せて頂くと無くなる
・生きている平生、一念の瞬間に阿弥陀仏の極楽浄土に往って生まれることがハッキリ定まる


と話をしたそうです。親鸞会では、

疑情=無明の闇=後生暗い心往生一定=極楽に必ず往けるとハッキリする

などと教えますから、今回の回答も従来の教え通りですが、これは間違いです


まずは疑情からですが、これは「本願を疑う心」であって、「後生暗い心」「後生ハッキリしない心」ではありません。親鸞会では基本的な知識が間違っています。ですから、本願に疑い晴れても、後生がハッキリ分かるわけではないのです。それを言われているのが『執持鈔』

 「是非しらず邪正もわかぬ この身にて 小慈小悲もなけれども 名利に人師をこのむなり」(正像末和讃・一一六)。往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。


のお言葉です。これについて詳しくは

阿弥陀仏に救われた人は浄土往生が確信できるか?について考える(サイクロンさんのコメント)のまとめ
浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

等を参照して下さい。韋提希のようにお釈迦様から浄土の様相を見せられたならともかく、我々はそうではないのですから、後生どのような処へ生まれるかは私達の側からは分からないのです。その分からないことをハッキリ分かると説く輩は親鸞聖人の教えとは異なりますから要注意です。あくまで他力の信心とは、

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

とあるように何もかも本願におまかせしたことを言うのであって、神秘的な体験でも、相当の智慧が身に具わることでもないことを知るべきでしょう。


親鸞会では「とにかくハッキリするからハッキリするまで求め抜け」と会員の尻を叩いて組織拡大を図っていますが、本願に疑い晴れるというのは何もかもハッキリすることとは違います。特に会員の皆さんが想像しているような、盲者開眼の一刹那よりも明らかな体験だというのは、親鸞会の邪義の聞き過ぎから生じる妄想です。

私達は善知識方の教えを承けて、法然聖人、親鸞聖人と同じ処へ生まれるのだなと領解するだけです。たとえそこが地獄であろうと孤独ではありません。一人ではなく、師と共に堕ちるのです。ただかたじけないことに、阿弥陀さまが「間違いなく浄土へ生まれさせるぞ」と力強く仰せになって、その願は既に成就していますから、私としてはこの力強い本願に身も心も委ねて往生を願うのみです。これが自力を捨てて他力に帰する、すべて阿弥陀仏におまかせするということです。

往生ほどの一大事、我々の力や智慧が及ぶ問題ではありません。そう思えばこそ、素直に阿弥陀仏の仰せに全托するしかないでしょう。まだ計らっている方も、どうか本願の仰せを聞き受けて、後生を阿弥陀さまにおまかせして頂きたいと思います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

親様の運転にまかせておけばよいのです

先日子供と夕食にラーメンを食べに行った帰り、よく行く日帰り温泉に行こうという事になって向かっている途中でした。すっかり暗くなり、周囲の様子がよく分からなかったため不安だったのか、子供(7)がこう言いました。

「お父さん、ホントにこの道で合ってるのかなぁ?」

私は言いました。

「大丈夫だから」

「本当にこっちで合ってるの?」そんな心配は無用。親は外が暗がりでも、ちゃんと目的地までの道順を覚えています。子供は道中の事はよく分からなくても、ただ車に乗って親の運転にまかせているだけで、目的地まで着いたというわけです。たとえ分かっていたって、慣れない夜道を七つの子供の足で数キロ離れた先まで進むのは困難でしょう。ここは素直に親の運転にまかせておけばよいのです。


私達が浄土に往くということもこれに似ています。本願に疑い晴れても、浄土の様相、浄土までの道順といったことは分かりません。私の子供のように不安に思うこともあるでしょう。しかし親様はちゃんと分かって、間違いなく私達を浄土までお連れ下さいます。道中の事はよく分からなくても、大悲の願船に乗じて親様の舵取りにまかせているだけで、浄土まで渡して下さるというわけです。たとえ分かっていたって、私の歩める道ではありません。私としてはただ親様の運転にまかせておけばよいのです。なんまんだぶ、なんまんだぶ。
プロフィール

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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