あれ、この言葉、どっかで見た覚えが・・・

最近、とある配達先の年配の女性がよく日蓮○宗のパンフレットを渡してきます。この前も受け取ったので、ちょっと中身を読んでみると、あれ、この言葉、どっかで見た覚えが・・・

 日蓮大聖人は、
  「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知ら
   んと欲せば、其の現在の因を見よ」(開目抄・御書571㌻等)
とのお経文を引かれて、・・・
(以下省略)

     ↕

仏教では、

 「過去の因を知らんと欲すれば、現在の果を見よ。
   未来の果を知らんと欲すれば、現在の因を見よ」(因果経)

と教える。



また、この言葉も、どっかで聞いた覚えが・・・

日蓮大聖人のご本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるとき、
(中略)苦悩の人生は歓びの人生へと必ず変わっていくのです。


     ↕

阿弥陀仏の大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わる。


まさかパクリ!? いや、私の勘違いですかね(;^ω^) それにしてもよく似てるなぁ。



【参照】
『21世紀の浄土真宗を考える会』因果経
『親鸞会公式ホームページ』宗教は何を救う!?
『親鸞会公式ホームページ』親鸞聖人のただ一つ説かれた「なぜ生きる」の答え
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親鸞会の会員は、自力か他力かを論ずる以前の問題の人達

高森顕徹会長の信心は他力どころか自力の信心でもない「創価学会の信心」であることが

『飛雲』親鸞聖人が問題にされた自力の信心の範疇にさえも入っていない高森顕徹会長の信心

に分かりやすく書かれています。これを読んでいよいよ親鸞会の会員は、自力か他力かを論ずる以前の問題の人達であることが知らされます。それは、教えを教行証の三法で顕すことによってより鮮明になります。

まず聖道門では、大雑把に各宗所依の経典や菩薩の論、また開祖の教えを基に、そこに説かれている通りの修行をしてさとるという教えです。ですからその教行証は

教 - 各宗所依の経典(法華経や華厳経等)
行 - 諸善万行
証 - さとり(究極的には仏のさとり)


です。次に浄土門では、自分はとても聖道の修行によってはさとれないと知って、阿弥陀仏の本願によって次の生に浄土に往生してさとろうという教えです。浄土門にも色々別れますが、今は、第18願によって救われようとする宗派に限定します。第18願の行は「念仏一行」、証は死んで後に浄土に往生してさとるというものです。法然聖人は『選択本願念仏集』において浄土宗の教行証を

教 - 大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、浄土論
行 - 念仏一行
証 - 往生浄土


とされています。速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、聖道門を閣きて浄土門に入れ。雑行(諸善万行)を抛てて正行に帰せよ。助業を傍らにして「念仏一行」を専らにせよ。必ず浄土に生まれることができる。なぜなら阿弥陀仏が本願においてそう誓われているからだ、と「三選の文」には

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

と教えられています。『選択集』では、聖道諸宗が修行してさとるという諸行の法に対して浄土宗は念仏の法、念仏によってさとるのだと、念仏が阿弥陀仏の唯一選択された至易最勝の法であることを行行相対して明らかにされています。こうした法然聖人の教えを受けて、親鸞聖人は

「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」

のお言葉と共に「三選の文」を「行文類」に引文され、浄土真実の行は「念仏一行」であると教えられています。ですから、浄土真宗では「念仏一行」が当たり前なんです。浄土真宗を教行証の三法で示せば、

教 - 大無量寿経
行 - 念仏一行
証 - 往生成仏


です。親鸞会の会員は浄土真実の行である「念仏一行」を差し置いて「高森の行」を重んじているのですから、そんな人々は浄土宗でも浄土真宗でもない、創価学会亜流の一宗教団体の構成員であることが明らかです。


さて、それで、「念仏一行」を専らにする念仏者を自力と他力に分けたのが親鸞聖人です。同じく念仏していても、念仏を自分の善根だと思い、それを積み重ねて往生しようというのは自力で、報土往生はできない。他力というのは「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」という本願の仰せを疑い無く信楽することだと、

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。「化身土文類」真門決釈

 それ浄土真宗のこころは、往生の根機に他力あり、自力あり。このことすでに天竺(印度)の論家、浄土の祖師の仰せられたることなり。
 まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。
『末灯鈔』2通

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。『末灯鈔』12通

と教えられています。自力の念仏者は仏智を疑う罪によって化土にとどまるとこれを誡め、明らかに仏智を信じる他力の念仏者となって報土往生を遂げなさいと勧められたのが親鸞聖人です。その最も顕著なのが誡疑讃でしょう。23首に亘って仏智疑惑、自力疑心を誡め、仏智の不思議をたのめと仰っています。


ここで大事なのが、先ほども申し上げたように

念仏一行」を専らにする念仏者を自力と他力に分けたのが親鸞聖人

ということです。他力と自力の違いを『飛雲』より引用しますと、

他力の信心=念仏を称えて往生できると深く信じた心
自力の信心=念仏を称えて往生できると浅く信じた心


です。他力の信心と自力の信心の違いは

本願を深く信じているか、浅く信じているか
本願を疑い無く信じているか、疑いが雑じっているか
仏智を明らかに信じているか、疑惑しているか


であり、他力の信心と自力の信心に共通することは

念仏を称えて往生できると信じた心
往生には「念仏一つ」と専ら念仏を称えていること


です。上に示したように

行 - 念仏一行

というのは、他力の信心と自力の信心で共通なのです。そこに、

他力信 - 疑蓋無雑、明信仏智
自力信 - 疑蓋間雑、不了仏智


という違いを峻別し、強調されたのが親鸞聖人ということです。自力と言えば聖道門、他力と言えば阿弥陀仏の本願という程度の認識しかないのが会員でしょうが、親鸞聖人が問題にされたのは

「念仏一行」を行ずる際の信心

です。その信心が、法然門下や同行の方々の間で異なっていたので、

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。外見あるべからず。『歎異抄』後序

と『歎異抄』の製作者は書いています。現代語訳を読めば分かると思いますが、

幸いにも念仏する身となりながら、ただちに真実の浄土へ往生しないで、方便の浄土にとどまるのは、何と悲しいことでしょう。同じ念仏の行者の中で、信心の異なることがないように、涙にくれながら筆をとり、これを書いたのです。「歎異抄」と名づけておきます。同じ教えを受けた人以外には見せないでください。

このように、同じ念仏の行者の中で、化土へとどまる者がいることを嘆いて、泣く泣く筆を執ったというのです。これは「一室の行者のなか」の人々へ向けて書かれたもので、同じ教えを受けた人以外には見せないようにとあります。では、「念仏一行」どころか助正間雑、雑行、悪業悪行という「高森の行」に執心してこれを修める者達が「一室の行者のなか」に入るのかどうか。もはや論ずるまでもありませんね。


一室の行者のなか」にさえ入っていないのに、親鸞聖人の信心と同じだとか、同じ信心になりたいなど片腹痛いというものです。そんな「一室の行者」でない者がそのふりをして「外見あるべからず」と注意書きされている『歎異抄』を解説した本や映画を世に出しても、カミソリ聖教の異名の如く自他共に傷つけるだけです。もしも、親鸞聖人と同じく「真実の行信」を獲て「利他円満の妙位、無上涅槃の極果」をさとろうというのなら、ただちに「高森の行」を捨てて、「念仏一行」を一心に称えるべきです。

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。『歎異抄』後序

とあるように、方便の教えを捨てて真実の教えを用いよと『歎異抄』でも言われています。まして邪偽の教えなんか捨て去るのは当たり前の当たり前の話です。高森会長は真実の教えを用いず、邪偽の教えを説き与えて会員を利用・搾取することしか頭に無いことを、会員の皆さんはどうか気付いて頂きたいと思います。



【おまけ】
ちなみに高森教の教行証は以下の通りです。

教 - 高森の教(映画『なぜ生きる』を代表した高森顕徹会長の製作物)
行 - 高森の行(助正間雑、雑行、悪業悪行)
証 - 高森の証(絶対の幸福)


詳しくは高森の教行信証のカテゴリに示しています。聖道門でも浄土門でも成仏が目的なのに、高森教はそうではありません。仏教以前の、一新興宗教であることが明らかです。

自力諸善(雑行)を勧めていながら「他力の念仏になりなさい」と話す高森顕徹会長

『飛雲』高森顕徹会長の総括?がこの程度の噴飯話

に挙がっていますが、5月12日、13日は親鸞会の降誕会がありました。

今回は『歎異抄をひらく』の10周年記念と絡んで『歎異抄』の言葉を用いて話がありましたが、ところがと言うか、やはりと言うか、親鸞聖人の教えは聞くことができず、結果的には「絶対の幸福」という創価学会の信心を話して終了した模様です。


1日目は60余年説いてきた「絶対の幸福」が『歎異抄』第7章の「無碍の一道」だと話し、

・碍=煩悩
・無碍=煩悩があってもさわりにならなくなる
・一道=幸福


だとか言って、総括すると

「絶対の幸福」=「煩悩があってもさわりにならない幸福」

といった説明でした。しかし、後の方では

「絶対の幸福」=「死んだらどうなるかがハッキリする」

だと言い、『正信偈』の「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して

・煩悩熾盛、罪悪深重のまま「絶対の幸福」になること
・「闇」は、人生の目的の分からない心、生きる目的の分からない心、死んだらどうなるか分からない心


という説明をし、結局太陽(日光)の話は有ったのか無かったのか、頂いた情報からは分からず終いでした。


2日目は、「念仏者は」について涙の例え話をして念仏する心を説明し、

・お礼の心で称えるのが他力の念仏
・他力の念仏になりなさい


とか話していたようです。この2日間の内容をまとめて言えば、

・煩悩があってもさわりにならない幸福になれますよ

と往還二種の回向を現世利益に貶めた話を説き、

・死んだらどうなるかハッキリしますよ

と親鸞聖人が教えられてもいない我々の上での後生ハッキリ話を説き、

・他力の念仏になりなさい

というものの、どうしたら他力の念仏になるのかよく分からない話をしていた、というものです。

飛雲さんの仰る通り、『歎異抄』を出したのだから念仏と信心について『歎異抄』の言葉で説明せよと言いたいですが、浄土真宗に無知な高森顕徹会長には無理な話なのでした。


さて、「無碍の一道」を「絶対の幸福」だとする邪義は『飛雲』をご覧頂くとして、当ブログでは別の面をツッコんでみたいと思います。まずは『正信偈』の「」についてです。これは直前に「無明闇」とあるように「無明の闇」です。ただし、「無明の闇」とは高森会長が説くような

人生の目的の分からない心、生きる目的の分からない心、死んだらどうなるか分からない心

とか言った心ではありません。また迷いの根元である痴無明でもありません。これは疑無明、つまり

本願疑惑、仏智疑惑、自力疑心

のことです。だから阿弥陀仏の本願が分からなくては話になりません。本願のことを

絶対の幸福にしてみせるという御約束
後生ハッキリしてみせるという御約束

だなんかと信じ込んで聞いていても、それとは全く異なるのですから、その本願に対する疑いが晴れないのは当たり前のことです。会員の皆さんの「無明の闇」が晴れない理由の一つはここにあります。

では親鸞聖人が教えられる阿弥陀仏の本願とは何かと言えば、いつも出しますが

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

ということで、名号を称える者を極楽へ迎えようという誓いです。名号には我々の「無明の闇」を破り、往生の志願を満たして下さるはたらきがある。そうしたはたらきのある名号を、我々に聞かせ与えて下さる誓いであるとそのまま受け容れて称えよということをここでは仰っているのです。これを『歎異抄』第一条では

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

と説かれ、『歎異抄』第二条では

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

と教えられています。「ただ念仏する者を往生させるぞ」という本願を信じて称える、そのまま本願におまかせして称える、その称えようと思うまさにその時に摂取不捨の利益にあずかり、往生が定まるのだというのです。ここで行である「ただ念仏」とはいつも申し上げている通り「念仏一行」ということです。そして信心は

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり

という信心、また

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

という信心で、要は本願におまかせしたこと、如来回向の「念仏一行」で往生すると心が定まったことです。

ところが高森顕徹会長は、「念仏一行」どころか、(教義上では)助業を勧め、また自力諸善という雑行を勧めています。自力諸善(雑行)を勧めていながら

他力の念仏になりなさい

と話すとは、一体どの口が言っているのでしょうか。「念仏一行」はおろか、念仏よりも

「高森会長の話を聞くこと」
「親鸞会に献金すること」
「親鸞会に人を誘うこと」
「会長や上司の指示に無条件で従うこと」


などの「高森の行」を強烈に推し勧めて、聞く者が「ただ念仏」と心が定まるわけがないのです。これでは、聞く者の本願疑惑、仏智疑惑、自力疑心が晴れるどころか、反って深まるだけです。会員の皆さんの「無明の闇」が晴れない理由の二つ目は、こうした

・本願疑惑、仏智疑惑、自力疑心を増長させる闇の教えを受けているから
・「念仏一行」とはおよそかけ離れた行の実践を勧められているから


ということにあります。

また今回も、高森会長は

煩悩があるままで、煩悩がさわりとならない幸福になれる

という説明を「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して繰り返していましたが、ここで親鸞聖人は、煩悩は往生のさわりとはならない、往生のさまたげとはならない、煩悩によって一度定まった往生が取り消しとはならないことを言われています。煩悩が幸福のさわりとはならない、幸福のさまたげとはならない、煩悩によって幸福が壊されないことを言われたのではありません。『尊号真像銘文』には、

「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇」といふは、日月の、雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

とありまして、貪愛・瞋憎の雲や霧に信心は覆われていても、往生のさまたげにはならないと知りなさいと教えられています。我々が煩悩のために煩い悩み苦しむことは信前も信後も変わらないのです。それを、

救われたら煩悩があってもさわりとならない、さまたげにならない、煩悩によって壊されない幸福になれる

と現世利益を夢見て、そんな幸福を獲させる本願だと誤解して追い求めていても救われるわけがありません。会員の皆さんの「無明の闇」が晴れない理由の三つ目は、「絶対の幸福」という現世利益に幻惑されて往生を願っていないからです。願っているとしても、「絶対の幸福」のおまけのように思っているからです。


こんな高森会長の与太話を真剣に聞き続けても、獲られたとして「創価学会の信心」です。教えが間違っているのですから、親鸞聖人の教えられる「真実の教行信証」が分かるはずもなければ、大悲回向の行信を獲て如来広大の恩徳を知ることができるはずもありません。今回も信心獲得はかなわなかったという会員さんは、これを機会に自分の聞いている教えが正しい浄土真宗なのか検証するご縁にして頂きたいと思います。



【参照】
『聖典セミナー』「歎異抄」第一条
『聖典セミナー』「歎異抄」第二条
称名破満の釈義

称えてくれてありがとう、聞かせてくれてありがとう

私に褒めてもらいたいからか、次女と三女が急に「なむなむ」と称え出すので驚かされます。普段、仏法の「ぶ」の字もないような今の暮らしの中で、家の中にお念仏の声が響き渡るのは不思議の中の不思議です。

最近までお念仏を聞かせたいから、称えてほしいから車の中でも寝る時でも、思いついたら「なむなむ」と称えていたんですが、今日ふとこのようなことに気づきました。

この子達を通して阿弥陀さまが自分にお念仏を聞かせて下さっているのか!?

と。今までは自分の真似をして「なむなむ」と可愛らしく称える姿に

「よく称えてくれた。称えてくれてありがとう」

という気持ちで一緒に称えていたのですが、今日からは

「よく聞かせてくれた。聞かせてくれてありがとう」

という気持ちで子供達のお念仏を聞きつつ、一緒にお念仏しようと思ったのでした。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

阿弥陀さまの救いを求めてお念仏してる方が後生地獄なわけないじゃん

昨日、R1000さんからコメントを頂いたので、それに改めて答えてみたいと思います。

確かにR1000さんの仰るように、親鸞会辞めた後も「俺の後生は地獄なんだ」と苦しまれている方は多いと思います。退会した方は、それぞれ事情があって退会したことと思いますが、あさ川進さんとか一部の人を除き、ほとんどの未信の退会者に依然として残る問題が

俺の後生はどうなるのか。俺の人生このままでいいのか。

ということでしょう。退会しても、死ななくなったわけでもないし、後生の問題が解決できたわけでもない。特に、親鸞会一本でやってきた人なんか、今後の人生をどうしたらよいのか迷うでしょう。親鸞会の活動や無理難題から解放されて、その点はよいのですが、老病死の問題、後生の問題はどうしたって付き纏うわけです。

それで、奇特な方なんか一度辞めた後でもう一度親鸞会に舞い戻ってしまうこともあります。親鸞会では

真実の杭は一度刺さったら抜けない

等とこのことを言っていますが、必堕無間の呪縛の何が「真実の杭」だと恐ろしく思います。


ここからは、主に未信の退会者の皆さんに向けて書きます。R1000さんも仰っていますが、

阿弥陀さまの救いを求めてお念仏してる方が後生地獄なわけないじゃん」。

勿論あれですよ。「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を求めて、浄土を願わない人は別です。

しかし、「浄土に往生したい」、「迷いの世界を離れて二度と迷わない身になりたい」と18願の救い、阿弥陀さまの救いを求めて念仏するなら、その方が本願をふたごころなく深く信じて称えているなら報土往生、本願に疑いが雑じって浅く信じて称えているようなら化土往生すると教えられているのが親鸞聖人です。

 尋ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
 この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。
末灯鈔12通

最後の一文には馴染みのある方もあるでしょうが、親鸞聖人は本願に疑いが雑じっていても「名号をとなふ」者は「辺地に生るべし」と仰っています。「自力念仏の者は必堕無間」と言っている親鸞会とは全然違います。


念仏は自力心で称えていようが「多善根・多功徳・多福徳因縁」です。それは「化身土文類」三経融会問答

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。

とある通りです。これは『阿弥陀経』の顕説についてですので、第20願について言われているところです。

念仏自体は「多善根・多功徳・多福徳因縁」ですが、それを称える者に本願を疑い無く信じる「利他の一心」が欠け、「自利の一心」で称えているために「難思議往生」ではなく「難思往生」、化土往生するというのです。

親鸞聖人は上のお手紙でもそうですが、特に『正像末和讃』誡疑讃には仏智疑惑の自力心、化土往生を厳しく誡め、専ら報土往生を勧められています。ただ、「自力念仏の者は必堕無間」という思想はありません。

なぜそんな思想になるかというと、念仏を諸善より功徳の少ないもの、あるいは無功徳のものと見ているからです。念仏が「多善根・多功徳・多福徳因縁」なら諸善は「少善根・少功徳・少福徳因縁」でしょうが、高森顕徹会長や親鸞会は念仏を諸善より下、あるいは「無善根・無功徳・無福徳因縁」のものだと見ているのでしょう。だからこそ、そのような「念仏誹謗」の考え、主張が発生してくるのです。


化土往生の思想は、高森顕徹会長が今まさに映画を作ろうとしている『歎異抄』に色濃いですが、それは

『親鸞会教義の誤り』一切衆生は必堕無間なのか11(化土往生について)

等をご覧になられたらよいと思います。退会者の皆さんは、「念仏誹謗」の親鸞会とさよならできたのですから、まずはそれを喜ぶと共にいたずらに後生は地獄だと暗く沈まないで下さい。

それでも、自力心の者はあるいは往生できると思い、あるいは往生できないと思う、そうした不定の心が離れないものですから、心からの安心はできないと思います。そのような方は、この際その安心できない心を放っておかずに、お聴聞し、お念仏を申して、如来回向の行信を受けて下さい。称えるという「私の行為」に目を向けず、称えられる「なんまんだぶつ」におまかせするならば、すぐに18願です。

聴聞することも、「助けるぞ」という如来の呼び声を聞くこと。念仏することも、「まかせよ」という大悲招喚の勅命を聞くことです。「助けるぞ」を聞くのが即ち信です。往生の行信を念仏にこめて回向して下さるのですから、こちらとしては計らい無く如来回向の御名を受け容れて「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏申すのみです。どうか、そのように本願を信じ念仏を申して、今度の一大事の往生をよくよく遂げて頂きたいと思います。

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(4)

高森顕徹会長の説く「聞く一つ」の誤りをあと1つ挙げるとすれば、

(4)「聞く」目的が間違っている

からと言えるでしょう。この記事等でも書きましたが、親鸞会の「仏教を聞く目的」「真宗を聞く目的」は

浄土往生、成仏

とは言っていてもそれは建前であって、会員の本音は

・「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
・アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。


にあります。そのことは親鸞学徒信条に、

一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます
一、われら親鸞学徒は、阿弥陀仏の御本願を聞信すれば、一念往生、現生不退、絶対の幸福を獲ると教え給うた親鸞聖人のみ教えを信じます。


とある通りです。死後の往生極楽も結構なことだが、それよりも何よりも現実のこの苦しみを救うてもらいたい。人生の目的を達成して絶対の幸福になりたい。「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜を獲得したい。このままでは何のために苦しい人生を生きてきたのか分からない。多くのものを犠牲にして親鸞会で活動してきたのか分からない。せっかくここまで求めてきたのに、何も獲られないで終わりたくはない。流した涙の一滴一滴が真珠の玉となってその手に戻るという、一切の苦労が報われる世界へ早く出たい・・・

要するに、会員は阿弥陀仏の願いを聞き受けようというのではなく、自分の欲望を叶えてほしい、叶えて下さいという気持ちで聞法し、活動しているということです。そのために辛くても、苦しくても、理不尽な目に遭ってもそこを耐え忍んでいるというわけです。とにかくこの世が「絶対の幸福」にならなければ死後の救いも無い、と教えられるので、自己の欲望とも相まってそのような「夢・幻のような現世の幸せ」を追い求めているのです。違いますか? そういう目的違いの人は救われないと教えられています。

寺参りしている人の目的が「死後の華降るお浄土」なら、会員はそれが「この世で、きわもない大功徳大利益を頂いて、幸せ一杯、満足一杯で生活させて貰えるようになる(※)」という「現世利益」に変化しただけです。この場合、前者はまだ欣求浄土の思いが見られますが、後者は浄土を願ってさえいないので、浄土真宗からは尚更遠いです。「浄土真宗」「親鸞」会と言いながら、その目的からして既にズレてしまっていることに、会員の皆さんは早く気付くべきです。


このように言いますと、あるいは、

・後生の一大事(無間地獄に堕ちるという一大事)の解決のためだ!

と反発する人もあるでしょう。しかし、これも浄土真宗の目的から幾分ズレてしまっています。こちらは、要するに地獄に堕ちたくないから、地獄行きを免れるために、ということでしょう。

確かに、死後の地獄が恐ろしいというのが浄土真宗を聞くきっかけにはなると思いますが、浄土真宗の目的はあくまでも自身の往生成仏(往相)と、仏果を得ての必然である衆生済度(還相)です。二度と迷わない身になりたいと出離を目指した上での18願他力の救いですから、ただ地獄を免れるために聞くというのは非常に程度が低く、真宗の目的にかなっていないと思います。

また、単に地獄行きを免れたかったら、わざわざ親鸞会で苦しい思いをせずとも神を拝めばよいのです。一生を費やして苦しい活動の日々を送った挙句、解決できずに後生無間地獄に堕ちて八万劫中大苦悩をひまなく受ける位ならば、神を拝んで蛇に生まれた方が比較にならないほどマシだというものです。

ところで、「後生の一大事」という用語においても、実際の意味と親鸞会で使われている意味とは随分と異なります。「後生の一大事」という語は主に蓮如上人が使われておりますが、上人が度々仰る「後生の一大事」という言葉は

(a)凡夫が浄土往生し、仏に成るという一大事。
(b)凡夫が浄土往生し、仏に成れるかどうかという一大事。


といった意味で使われていることがほとんどです。親鸞会のように

(c)信心決定していない者は必ず無間地獄に堕ちるという一大事。

という使われ方はされていません。それは高森信心の色眼鏡を外した状態で拝読すればよく判る事です。ちなみに、「信心決定せずに死んだならば、再び迷い苦しみの世界へ戻ることになる。最悪、地獄へ堕ちる」ことを「後生の一大事」ということは問題ありません。ただ蓮如上人は、「信心決定した人が死ねば、極楽往生でき弥陀同体のさとりを得て、永生の楽果を受ける」意味で「後生の一大事」の語を使われる事が多いようです。


親鸞会が「必堕無間」の意で「後生の一大事」を説く目的は会員の皆さんに獲信・往生して頂くためではなく、皆さんを利用して「打倒本願寺」「組織拡大」「会員倍増」といった「高森会長の私利私欲を満たすため」です。それは、往相の回向である真実の教行信証を説き与えずに化土の教行信証まがい、八万四千の法門まがいの邪偽の教行信証を授けていることからも十二分にお判りになるでしょう。

真実の教行信証」によって私達は真実の報土に往生するのです。「真実の行信」は如来回向の「念仏一行」であり、「至心、信楽、欲生」の「他力信」、本願に対して疑蓋無雑の「他力の一心」です。

化土の教行信証」によっては方便化土にしか往かれません。「化土の行信」は、行は19願の場合は「諸功徳」であり「定散二善」、要は「雑行」です。信心は「至心、発願、欲生」の「自力信」、「定散心」です。

邪偽の教行信証」によっては永く三途に沈むのみです。「邪偽の行信」は、行は親鸞会の場合は「助正間雑、雑行、悪業悪行」です。信心は「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、「自力心」の者がほとんどで、救われたと言っている者でも話を聞いてみれば「創価学会の信心」の者ばかりです。

親鸞会では「化土の行信」を根拠として、それを「真実の行信」を獲得するために絶対必要な手段であるかの如く教え、その実「邪偽の行信」を吹き込んで会員を組織拡大に利用しています。「化土の行信」からは化土へしか往けませんから速やかにこれを捨てて、「真実の行信」を賜りなさいと教えられているのが親鸞聖人です。まして「邪偽の行信」などに執心していては迷いの世界を流転するという果しか得られません。

このようなことですから、高森教をまともに聞いていては報土化土どころか、三悪道は必至です。それどころか「自力念仏の者は必堕無間」と念仏誹謗して慚愧あることなしですから、必堕無間もあながち間違いとは言い切れないのであります。


絶対の幸福」などというのは決して浄土真宗の信心ではありません。それは「高森の信」「創価学会の信心」であって「自力の信心」ですから、そんなものを獲たい、幸せになりたいと思って、いくら高森教を「聞く一つ」と聞き続けていても「真実の行信」は獲られません。

専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず「化身土文類」真門決釈

で、如来広大の恩徳を知ることができないのですから、専修にさえならず雑心極まりない者が大慶喜心を獲られないなど当たり前すぎるほど当たり前のことです。会員の皆さんは、聞いている教も、行も、信も、証も、全て間違っているから救われないのだと知って直ちに「高森の教行信証」を捨て、速やかに「真実の教行信証」に帰依して頂きたいと思います。

以上をもちまして、「ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか」の問いに対する答えとしたいと思います。



【参照】
『21世紀の浄土真宗を考える会』「後生の一大事」といふ事
『飛雲』謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長

(※)・・・『こんなことが知りたい①』p.21

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(3)

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(2)

の続きです。浄土真宗は、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」、すなわち

「必ず助けるから、安心して私にまかせなさい」という阿弥陀仏の仰せ

を、計らいを交えずにそのまま聞き受ける以外にありません。また、聞くままがすなわち信心であります。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。『一念多念証文』

このようなことですから、浄土真宗の教えは「聞く一つ」、正確に言うなら阿弥陀仏が「聞かす一つ」だと言えるのです。本願力がはたらいていることを疑い無く聞くことによって、報土の真因が決定する、つまり「信心決定」するということを、「行文類」では六字釈の中で

「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。

と仰せられています。「本願の名号」も「本願」も「願力」も、共に「南無阿弥陀仏」に他なりません。私達はただ御回向のなんまんだぶのはたらきによって往生成仏せしめられてゆくのです。

私の真剣、私の求道、私の聞いた力などが少しでもプラスになって救われるのではありません。全て本願力のはたらきによって信ぜしめられ、称えさせられ、仏に成らせられるのです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。「信文類」総決

とある通りです。こうして、往生の因も果も全て阿弥陀仏がお与えになったものであり、私の側には迷いの世界を出るだけの因は全く無いし、出離の因を成就するだけの行を修めることもできないということに疑い無いのが「機の深信」です。そして、ひとえに「南無阿弥陀仏」の独用(ひとりばたらき)で往生成仏せしめられるということに疑い無いのが「法の深信」であります。

これが「他力の信心」を機と法に開いた「二種深信」の内容です。「南無阿弥陀仏」のおはたらき一つで助かるということは、私の中には往生の資助となるものが何も無いということであり、願力にまかせることによってのみ往生を得るということです。これは「他力の信心」を獲て知らされることで、私が真剣必死に求道して、その結果知らされることが「機の深信」ではありません。私の求道で知らされることは「自力の浅信」の範疇のことです。

親鸞会の会員は、真剣必死に求道していった結果知らされる自分の姿が「機の深信」だと思っている節がありますが、勘違いも甚だしいです。「他力の深信」と「自力の浅信」の間には如何とも踏み越えられない深い深い溝があることを知らねばなりません。

南無阿弥陀仏」のおはたらきが私の心に届いたのが「信心」、それが口に現れれば「念仏」です。だから念仏申すままが信心であり、「南無阿弥陀仏」のおはたらきにまかせているということです。おはたらきとか、信心と言われても色も形も無いので愚鈍な衆生は分かりませんが、要は念仏を称えることの他には無いのです。

このようなことですから、「南無阿弥陀仏」のおはたらき一つで助かる、というのは言葉を換えれば「念仏一つ」で助かる、ということです。これはすなわち、「念仏一つ」で助かる、と受け容れた「信心一つ」で助かる、ということです。そのように「聞く一つ」なのが浄土真宗です。


ところが親鸞会は違います。これまで高森顕徹会長の説く「聞く一つ」が誤りである理由として

(1)そもそも親鸞会の教えは「聞く一つ」ではない
(2)「聞く」内容が間違っている

を挙げました。親鸞会では真実の教行信証とは別の「因果の道理」を聞かせ、真実の信心を獲るためと称してその実践を勧めています。これでは当然「聞く一つ」ではありません。「仏願の生起本末」にしても邪義雑じりの「仏願の生起」を教え、加えて「末は19願・20願」だとか言っているので、「聞く」内容が間違っています。

このように「聞く一つ」ではないし「聞く」内容が間違っているので、当たり前ですが「信心」も間違っています。「」と「」が間違っていて「」は正しいなど有り得ません。今回挙げる、高森会長の「聞く一つ」が誤りであるその3番目の理由は、

(3)「信心」の内容が間違っている

です。高森会長が「真実の信心」とは異なる「創価学会の信心」を教えていますので、そんな教えを聞き求めて「真実の信心」を獲られると考える方が気ちがい沙汰です。

信心」の内容が間違っているのは下の【参照】にリンクしてある記事をご覧頂けばよろしいかと思います。が、今は何より会員の皆さんに「信心」についての理解、また、「信心」を獲た、「信心決定」した、と聞くとどのようなことを思い浮かべるか聞いてみた方がよりハッキリするでしょう。どのような理解、想像をしているか。

・絶対に崩れない変わらない、永遠の幸福になったこと
・苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わったこと
・現在只今、苦悩渦巻く人生が、光明輝く生活の出来るようになったこと
・真剣必死に求道聞法していった先のこと
・真実の自己と、弥陀の誓願まことの二つがハッキリしたこと
・実地、地獄一定と堕ち切った体験をすること
・十劫以来、呼び続けて下されていた阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫く体験をすること
・地獄一定と極楽一定が同時に知らされること
・極めてハッキリと救われた鮮明な体験をすること
・一切経を読み破った体験をすること
・「さとりの52位」の内、51段の身になること


恐らくこのようなことではないでしょうか。これが「絶対の幸福」だと「創価学会の信心」を教えられ、そんな体験をすること、そんな身になることに憧れて、日々推進される活動をこなしているのではないでしょうか。あるいは

無常迅速、罪悪深重、信心決定しなかったから後生は必堕無間だ!

と無常と罪悪、死後の恐怖にせめたてられて、地獄へ堕ちたくないから求めているという人もあると思います。こんな教えを聞き続けて、「あぁ有難いなぁ」と思っている方が何人あるのでしょうね。確かに私も、

人生の目的は絶対の幸福になり、未来永遠の幸せに生かされることだ

と聞いて、実際にその身になれると教えられた当初は心の底から救われた思いがしました。その教えを周りの皆にも伝えようと『なぜ生きる』の本を片手に知人に声をかけもしました。ところが段々喜びも薄れ、

聞いても聞いても、頑張って活動してもそのような身にはなれない。自分がなれないのは仕方ないとしても、先輩達も、どうやら担当の○○講師でさえもまだ信心決定していないようだ。「人生の目的が、現在に完成する」の「現在」っていつのことだ? 無常はいつやってくるか分からない。もしかしたらこの帰りの車で事故を起こして死んでしまうかも知れない。後生の一大事とは大変な問題で、20年や30年で獲られるような信心ではないと言われるが、いつ解決ができるのか。とは言え求めなければ後生は必堕無間だからなぁ・・・。他に聞ける場所や教えてくれる先生はきっと無いのだろうから、とにかく親鸞会で求めていくしかない。

このような思いが退会までぐるぐる脳裏をよぎり、喜びとか有難いとかとは程遠い生活でした。それどころか、日々の仕事と親鸞会の活動の両立が苦しくて苦しくて、毎日のように自殺したいと思っていました。今考えてみると、「南無阿弥陀仏」のおはたらきも「念仏」も皆無同然で、「絶対の幸福」だとかいう現世利益、真宗の信心とは無関係な「創価学会の信心」を教えられ、無常と罪悪、死後の恐怖でせめたてられ、獲信・往生とは無関係の「組織拡大活動」に体よく利用されていただけですので、それは幸せも有難いもあるはずがないのでした。

親鸞会では「信心正因」、「唯信独達」を強調して「信心一つで助かる」とは言っていますが、肝心の「信心」が間違っており、会員は現世利益に釣られてありもしない信心を追い求めているために真宗の信心とは無縁の生活になるのでした。そこには「念仏」申す喜びも、「南無阿弥陀仏」のおはたらきにまかせた安心も無く、いつ無常が来るか知れない不安、いつ後生の一大事の解決が出来るか知れない苛立ちばかりで、来る日も来る日もただ献金・勧誘・服従といった活動の日々しかないでしょう。

たまたま信心決定したと言っている人がいても、語ることは体験談のオンパレードだったり、高森会長の賛美だったり、果ては念仏誹謗だったりと、やはり「真実の信心」を獲たとは言い難い人ばかりです。


その「信心一つで助かる」さえ最近は言わなくなり、

世界の多くの宗教が信じる宗教だが、信じることも要らない、聞く一つ

だとか言って「信心不要」を説いているのが高森顕徹会長です。「念仏」に続いて「信心」も抜き去り、ただ60年一貫してつらぬいているのは「絶対の幸福」なる「創価学会の信心」「一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心」なのでした。会員の皆さんは「聞く一つ」と言っても何を聞いているのか、よく思案を巡らせて頂きたいものです。



【参照】
高森の教行信証(信編) - 二種深信の誤った認識、救済の予定概念、信心決定病
高森の教行信証(信編) - 現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、という御約束通りに我々が絶対の幸福に助かった時を、他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです

なんのために生まれて なにをして生きるのか

先日、4歳の次女と1歳の三女を連れて横浜アンパンマンこどもミュージアム&モールに行ってきました。

久々に満員電車に乗りましたね(;^ω^) あんな風に毎日通勤していたころが懐かしい・・・。まぁ二度とあの頃には戻りたくはありませんが・・・

平日に行ったのですがそれでも中々の盛況ぶりで、土日に行ったら混雑しすぎて何にも遊べないのではないかと思ったほどでした。GWとかすごいことになりそうですね。

さて、そこで人形劇やらミニコンサートを見てきたのですが、その中で流れてきた歌の一つが

アンパンマンのマーチ

でした。しかし、歌は二番の

なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ!


から始まり、一番は聞けませんでした。歌が二番から始まるというのはずっと昔に親鸞会の学生部会で聞いていましたが、本当なんだなと思ったのでした。ちなみに一番の歌詞は皆さんよくご存知でしょうが

なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!


というものです。今や日本中の子供達の誰もが一度は通ると言ってもいいアンパンマン。そのアンパンマンのマーチには、実はこんなに難しくて深いことが問われているのですが、果たしてこの問いにハッキリ「これだ!」と即答できる大人がどのくらいいるでしょうか? もしこの問いに答えを持ち合わせていないとしたら、それでは残念ながら薄っぺらい人生だと言わざるを得ません。

この記事でも書きましたが、何のために生まれてきたのか、生きる意味とその方向性、そして死んでいく意味についてよく考えもしないで、ただ毎日を生きるだけの生き方では、私はそれは動物と一緒だと思います。それで動物とは違う、人としての一生を生きたと言えるのかと思うのです。


この問いに対して、私は親鸞聖人から二つのことを教えて頂きました。これを一言で言えば

お念仏申すため

です。広げて言いますと、二つに分かれます。一つは

阿弥陀仏の本願を信じてお念仏を申し、浄土に往生・成仏して迷いから離れるため

です。二度と迷わない身になるということですが、とても聖道の修行に堪えられない私はひとえに本願の独用(ひとりばたらき)によって浄土往生するほかありません。それともう一つは、

如来二種の回向を縁のある方々にお伝えし、仏恩を報ずるため

です。法を聞いて喜び、なんまんだぶなんまんだぶとお念仏申すままが人にも伝わってゆき、それがまた仏恩を報謝することにもなる。このようなことですから、つづめて言えば先の

お念仏申すため

というのが「なんのために生まれて なにをして生きるのか」に対する私なりの回答です。


この答えに対して同調する人もあれば否定する人、または無関心な人と色々あるでしょう。私は有縁の方々に本願を信じてお念仏して頂きたいと思っていますが、否定する人や聞く気のない人に対して強制するつもりはありません。今の私には仏様の如く法を示す自在性がありませんので中々人を納得させることができませんが、それでも何とかと思ってこのように綴っています。

僅か50年乃至100年で終わってしまう人生、「なんのために生まれて なにをして生きるのか」。まだ考えたことも無い方には、この記事がそれを考えて頂くきっかけに、親鸞聖人の教えを聞いて浄土に参りたいと思う方には、本願を信じ念仏するきっかけになって頂ければ幸いです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『週刊みんなの法話』何の為に生まれて 何をして生きるのか
『法話ライブラリー』親鸞聖人の求道に思う -宗祖750回御遠忌を前に-
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』 『親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?ー本願寺 いない』と歪曲する親鸞会
『うたまっぷ』アンパンマンのマーチ

「仏願の生起・本末」を聞きなさいと言いながら、「仏願の生起」しか話さない高森顕徹会長

先日の日曜日は、富山でいつもの2通りの内、

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
とは、どんなことでしょうか。


という質問に対して高森顕徹会長の話があったようです。

今回の話を要約すると、高森流「仏願の生起」を『歎異抄』後序のお言葉と「人間の実相」の掛け軸の譬え話で説いたというものです。古参の会員なら耳タコの、特に新しい話題も無い話でした。


今回の話で問題だったのは(今回ばかりではありませんが)、高森会長が「信文類」

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

のお言葉を出して

「仏願の生起・本末」を聞きなさい

と話しておきながら、実際に話したのは「仏願の生起」の部分だけだったということです。

前回の記事で少し「仏願の生起本末」について触れましたが、そこで指摘した通りのことを今回もやっていたのが高森顕徹会長です。違いと言えば、「仏願の生起」の部分を

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき

のお言葉と、人間の実相の掛け軸を用いたオリジナル「仏説譬喩経」の譬え話で話したという点くらいです。それで何をどのように聞くのかと言うと、

「火宅無常の世界に生きている煩悩具足の凡夫」
「これ(掛け軸に描かれている旅人の姿)が自分の本当の姿」
と知らされるところまで聞かせて頂くこと


だと言っていたそうです。


恐らく、高森会長の話を聞き続けてそのように知らされたのを「機の深信」だと思い込んでいる会員ばかりだと思いますが、全くもって的外れも甚だしいです。「二種深信」は「他力の信心」を二種に開いて顕されたものですから、「他力の信心」を獲ないことには「機の深信」もなければ「法の深信」もないことは当たり前の当たり前のことです。では「他力の信心」を獲る、「信心獲得」するとはどういうことかと言えば、

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。『御文章』5帖目5通

とあるように「第十八の願をこころうる」ことであり、それは「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」ことです。ですから「南無阿弥陀仏のすがた」を聞かないことには「信心獲得」もなければ「機の深信」も立たないことは言うまでもありません。「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」の阿弥陀仏の勅命を受けて、仰せの通りおまかせするのが「信心獲得」ということですが、高森会長の話のどこに「南無阿弥陀仏のすがた」が説かれていますか?

阿弥陀仏の勅命を受けて、我が機に用事は無い、計らいは要らないことに疑い無いのが「機の深信」です。私は自力では決して迷いの世界を出られるような者では無かったなと知らされるのです。これは、疑い無く慮り無く仏願力に乗託して往生を得ると決定して深く信じた「法の深信」が必ずその裏にあります。

こうした「南無阿弥陀仏のすがた」を「信文類」では「仏願の生起本末」と言われ、仏願の起こりから法蔵修行、そして南無阿弥陀仏を成就して私達に往生の因を恵み与えて下さるまでの一部始終を聞きなさいと仰せられています。ところが親鸞会ではご存知の通り私達のこと、いわゆる「堕つる機」ということばかりが問題にされ、南無阿弥陀仏のこと、いわゆる「助ける法」は全くと言っていいほど説かれません。「仏願の生起」の話ばかりで「仏願の本末」が無いのです。

助ける法」が無いのに、助かるということがあるはずがありません。薬を与えずに、患者の病気が治るということがありますか? 救助隊を派遣せずに、動けない被災者を助け出すことができますか?

南無阿弥陀仏」は今、現にここにいる私に向かって常にはたらいています。「南無阿弥陀仏」が成就したのは未来の話でも過去の話でもなく、現在只今です。それは他の誰のためでもなく、ここにいるこの私一人のためです。「そなたを救う法が完成しているから、安心してまかせよ」という「南無阿弥陀仏のすがた」を説かずして、どうして聞く者が本願の通りに救われることがあるでしょうか。


「私がどのようなものなのか」という話ばかり聞いていても、「南無阿弥陀仏」を聞いて、本願におまかせすることがなければ私は助かりません。肝心の「助ける法」が抜けた話を何十年聞いていても、私は救われるはずがありません。会員の皆さんには、皆さんの聞き方、求め方以前に「何を聞くのか」を間違って教えられている事を知って頂くと共に、早くエセ真宗教義を捨て去って浄土真宗に帰して頂きたいと思います。



【追記】
ところで、もうご存じの方も多いと思いますが、親鸞会の「仏説譬喩経」の譬え話は経典の話とは随分異なっています。実際に説かれている話との違いは

『親鸞会の邪義を正す』 『仏説譬喩経』には”無常の虎の譬え”は説かれていない

を参照して下さい。「経典の言葉は一字一句加減してはならない」と言いながら、経典の通りに説いていないのが高森顕徹会長です。また譬え話に関連することですが、「二河白道の譬喩」や「長者窮子の譬喩」に関しては親鸞会に都合の良いように経典や聖教の話を変えているということも知って頂きたいと思います。

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(2)

前回の続きです。

高森顕徹会長の説く「聞く一つ」が誤りである理由、その二つ目が、前回とも重複する事ですが

(2)「聞く」内容が間違っている

です。私達が聞くべきことは「本願の名号」「南無阿弥陀仏の六字のこころ」です。これとは別の「因果の道理」とか、「因果の道理の結論である廃悪修善」ということを聞くのではありません。親鸞聖人は、

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「信文類」

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。一念多念証文

と仰せられています。この御文自体は親鸞会でも出てきますが、この「仏願の生起本末」が間違っています。

仏願の生起本末」=「本願の名号」=「南無阿弥陀仏の六字のこころ

です。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」、つまり

「必ず助けるから、安心して私にまかせなさい」という阿弥陀仏の仰せ

を、計らいを交えずにそのまま聞く以外に私達が聞くことはありません。そして、それがすなわち「信心」であるというのです。この「信心」は、私達が自分で起こす信心とは全く異なる「本願力回向の信心」である、阿弥陀仏より起こさしめられる他力回向の信心であると仰せです。

では「本願の名号」である「南無阿弥陀仏」はどのようにして成就されたのか、その起こりから一部始終を詳しく示されたのが「仏願の生起本末」です。それは「信文類」に

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

等と教えられている通りです。どうして阿弥陀仏が「我にまかせよ」と仰せかと言えば、私達が自力では永遠に迷いの世界を出られない「罪悪生死の凡夫」、「煩悩を具足せる凡夫」であるからです。私達の中には、迷いの世界を出られるだけの因が無く、また因を成就できるだけの行を修めることができません。仏願の生起、名号の起こりは、このような迷いから離れられずに流転を続けて際限なく苦しみ続ける私がいたからです。

それで、阿弥陀仏は私達に代わって「必ず助ける」という願いを発し、それを果たし遂げるだけの「不可思議兆載永劫」の行を修められ、ついに「南無阿弥陀仏」と成って下さいました。これが仏願の本、因本であります。

ところで、「不可思議兆載永劫」の行を修められる前、本願を発される際にも阿弥陀仏は、「五劫思惟之摂受」と五劫もの間かかってこの私の救済法を考えに考えておられます。これについて梯實圓和上は

 念仏往生の道を選択(せんじゃく)するために、法蔵菩薩が五劫(ごこう)ものあいだ思惟されたというこの経説には、二つのことがらが暗示されているようです。その一つは、法蔵菩薩というさとりの智慧をきわめたほどの菩薩が、五劫もの時をかけて思惟(しゆい)しなければ救いの道が見出せなかったということは、救いのめあてである私どもが、想像を絶する愚か者であり、罪深いものであったということです。二つには、如来が思いのかぎりをつくした上で、必ず救うと見きわめられた本願の救いは、微塵の狂いもない確実さで完成されているということです。

と仰せられています。ある先達は、『正信偈』の「五劫思惟之摂受」の御文を読む度に涙されたと聞いたことがありますが、きっと如来広大の御恩徳というものを人一倍感じられた方だったのでしょう。この私一人の救済にこんなにもかかり果て、今も現にかかり果てて下さっている御方がましますこと、またその御方のおこころを知ることができたということは、これ以上ない喜びであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

そして、このようにして成就された「本願の名号」、往生の因行が完全に仕上がった「南無阿弥陀仏」を私達に受け取りに来いと言うのでなしに、「回施」、恵み与えて下さるというのです。これが仏願の末、果末です。

このように私達は全く自力を要せず、ひとえに本願の独用(ひとりばたらき)によって浄土に往生し、この上ない仏陀のさとりを開かせて頂くという教えが浄土真宗です。

これら、仏願の生起から因本と果末に至るまでの一部始終が

仏願の生起本末

ということであり、それを計らいを交えずに仰せの通りに聞くのがすなわち「信心」です。


ところが親鸞会ではどうでしょうか? 私達は「罪悪生死の凡夫」、「煩悩を具足せる凡夫」であるという、いわゆる「仏願の生起」の部分ばかりが強調されます。それだけでなく、「全人類は五逆・謗法・闡提」であると邪義を唱え、「一切衆生悉有仏性」ではなく「一切衆生必堕無間」と説いて執拗に死後の恐怖を煽ってきます。

一方、「仏願の本末」の部分はほとんどありませんし、その説明も間違っています。「仏願の生起本末」の本が18願、末が19願・20願などというのは高森教でしか言われない珍説です。

このように、「仏願の生起」、「仏願の本末」のいずれも正しく説かないのが親鸞会です。それどころか、私達が「一つの善もできない極悪人」であると知らされなければ、「そんな者を助ける」阿弥陀仏の本願であると判らないと地獄秘事信心を説き続けています。この前の話では、『歎異抄』第一条を挙げて

罪悪深重の私であったと判るまで聞く。そう思えないのは聞法不足。聞法不足だから判らない。

などと説いていました。高森教では「罪悪深重の私であったと判」ったのが「機の深信」、「そんな者を助ける」と判ったのが「法の深信」であり、この二つが同時に立つとは言いながら、まずは「機の深信」が立たなければ「法の深信」は立たない、つまり救われないようです。この記事にて紹介したように、高森顕徹会長の著書にはそのように書かれていますし、アニメの親鸞聖人や韋提希の獲信シーンではそれが如実に描かれています。

ですから、会員はまず「罪悪深重の私であったと判」ろう判ろうとして高森会長の話を聞きます。そして私達の姿をそのように知らされようとして活動しています。ではどうすれば知らされるかというと、因果の道理に従って実地に廃悪修善をしていかねばならない。そうしなければ「罪悪深重の私であったと判」らない、後生の一大事(「必堕無間」の意)は分からない。まして後生の一大事が解決したということは絶対に無いというのです。

地獄一定の自己が分からず、聞いても聞いても中々後生に驚き立たないようなものは「無宿善の機」であり、「宿善の薄い我々は真剣に宿善を求めねば宿善開発の時節到来は有り得ない」と言い、そして、私達が仏教を聞き始めて後生の一大事が解決するまでの万人共通の道程を表現されたのが「三願転入の御文」であるというのです。こうした親鸞会の教義から、会では

・「因果の道理
・「廃悪修善
・「宿善
・「六度万行
・「三願転入
・「十九願
・「修諸功徳
・「定散二善

など、おおよそ「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とは縁遠い話、聖道もどきの「八万四千の法門」と林遊さんが指摘している通りの話ばかりを聞かされ、やりなさい、やらねば信仰は進みませんと勧められます。そして、「善の勧め」と称して上記の「六度万行」や「定散二善」等を根拠に

「高森会長の話を聞くこと」
「親鸞会に献金すること」
「親鸞会に人を誘うこと」
「会長や上司の指示に無条件で従うこと」


こんなことばっかりが勧められます。こうした活動の一環として、全国各地に会館を建てること、名前だけ会員の獲得、著書や映画の製作出版に関する財施等を勧められ、それらに躍起になっているというわけです。会員は、そういった活動の先に「信心決定」、彼らが憧れる「絶対の幸福」「光明輝く生活」「ハッキリスッキリ体験」があると思い込んでいるのでしょうが、このように「聞く」内容が間違っているため、高森顕徹会長や親鸞会の教えをまともに信じて実行している限り会員が「信心決定」するということはありません。


さて、この「信心決定」ということについて会員に甚だしい誤解が見受けられるのですが、随分長くなりましたので、それは次回に譲りたいと思います。



【参照】
聖典セミナー 「歎異抄」後序
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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