11月24日(日)、親鸞会館では映画解説がなされました。そこで高森会長は、映画『歎異抄をひらく』についての2つの質問に応答したようです。なお、この映画解説については
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』初の映画「歎異抄をひらく」解説で高森顕徹会長が語ったことから、親鸞会の今後を考える。2019年11月24日(日)映画解説よりの記事でも扱われているので参照して下さい。
まず1つ目の質問は
(1)
シナリオブック25ページに平次郎が「親鸞さまは、救われたのですか?」と聞いたあと周りの人は驚いていますが親鸞聖人は「よい質問だな」とおっしゃっています。本当に良い質問だったのでしょうか。というものでした。ここで「平次郎」とは幼い頃の唯円房のようです。
話の中で高森会長は
法に依りて人に依らざるべしという
四依の文の一部を出し、
その人が、救われていたら教えを聞こう、救われてなかったらやめようと判断するのは間違い。
説かれる法で判断しなければならない。と話していたようです。説かれる法が正しければ聞こう、間違っていればやめようと判断するのが正しいという主張のようですが、ならば、後生は必堕無間と脅し、全ての人は五逆、謗法、闡提の極悪人だと言いふらし、「
宿善を求めよ」「
三願転入せよ」と言っては
雑行(実態は悪業悪行)を勧め、会長や上司の指示に無条件服従を強いる親鸞会の教えは正しいでしょうか? 間違っているでしょうか? 親鸞聖人はどのように仰せですか?
会員の皆さんは親鸞会で言われることを鵜呑みにするのではなく、実際のところはどうなのかを徹底調査した上で親鸞会の教えを聞くべきかどうか判断すべきだと思います。なお、この話の結論は
真実に導くために子供に花を持たせるという意味で、平次郎に「よい質問だな」と言われた。というような答えでした。ということは、ハッキリ言えば
よくない質問だということでしょう。もっとハッキリ言えば、
都合の悪い質問だからしてくれるなということでしょう。
最近、二千畳で講師部員が話をしているが、彼らは信心を獲た上で話をしているのか、未信のままで話をしているのか。この質問は、「こんなことを思ったり、聞いたりするのはよくないことなのか?」と疑問に思った会員から出た質問かもしれません。
次に2つ目の質問は、
(2)
阿弥陀仏に速く救われる人と、遅く救われる人があり、阿弥陀仏の救いには条件があるのではないか?といった質問です。これは唯円房が、殺人を犯して死刑執行を待つ幼馴染みの権八に、牢屋で面会した時のセリフに関してのものです。唯円房は権八に対して
全ての人間が阿弥陀仏の本願に救われ、極楽浄土に生まれることができるんだ。 阿弥陀仏の救いに、条件はないんだよ。と語っています。このセリフに関しての質問のようです。
これについて、高森会長はまず
阿弥陀様の本願は無条件。善人になったらという条件は一切ない。などと話したようです。それで、一休禅師と蓮如上人の歌を通して条件と蓋の違いを説明し、その後どうしたら蓋が取れるかについては「
宿善にかぎれり」だといって、
宿善を厚くする一番の方法は聞法。仏教を聞かせて頂くこと。などといった論調で宿善厚くするための聞法を勧めていました。
あのー、高森さん、「
宿善」の厚い人ってつまり
善人ってことなんですが・・・。要は高森会長の説く阿弥陀仏の本願とは「
宿善の厚い者を救う」ということで、「
善人になったらという条件」がついています。「
無条件」などとはとても言えない本願であることが明らかです。
「
宿善」に関しては散々述べて来ましたので詳しく言いませんが、蓮如上人は『御文章』においては教えに関心が有るか無いか、教えを真剣に聞く気が有るか無いかで「
宿善」「
無宿善」の言葉を用いています。高森会長のように、これから阿弥陀仏に救われよう、信心獲得しようとする者が修めるべき善根功徳が「
宿善」であるとは教えられておりません。
過去において宿善薄い者は今生において真剣に宿善を求めなければならない。そうしなければ救われないというような意味で「
宿善」の語を用い、「
宿善」厚くするための聞法求道、おつとめ、修善を勧めている箇所は一箇所もありません。
聞法といっても、因果の道理や高森教の邪義を聞くことではありません。「
本願の名号」「
仏願の生起本末」を聞くのです。そして、本願を聞いて疑いないのが聞であり信です。聞法を重ねていってやがて宿善が厚くなり、そして救われるというなら、「
多聞多見」というのが救われる条件となります。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。(
『選択本願念仏集』難易義)
法然聖人はこのように教えられ、教えを多く聞くことが往生の行、つまり救われる条件だとしたなら、そのようにできない多くの人々は、往生の望みを絶たねばならないというのです。
親鸞会は他にも「
善をしなければ信仰は進みません」などと話します。要は「
善をしなければ信仰は進まず助からない」ということです。ここでは善をすること、そして信仰(?)を進めることが救われる条件となっています。
まだまだ、因果の道理をもっと深く知らされねばならないとか、真実の自己がもっと知らされねばならないとか、後生に驚きが立たねばならないとか、19願の善をド真剣にやらねばならないとか、会員の皆さんは個々に色々とそう考えて活動していると思います。それらは全て救われる条件です。
このように、救われる条件は無い、条件と蓋との違いを知らない、などと話しながら、現実には思いっきり救われる条件を設けまくって、あれせいこれせい、せなんだら助からんぞと会員を組織拡大活動に駆り立て、利用・搾取しているのが親鸞会であり高森顕徹会長であると判ります。
そういった、皆さんが考えているような「救われる条件」というものは本願にはありません。本願を聞く、聞法といっても、今、ここで、この私を浄土に迎え取るという本願の仰せを疑いをまじえずに聞き容れるのみです。
しかしながら、親鸞会では邪義の雑じった「
仏願の生起」が説かれるのみで「
仏願の本末」は聞かせてもらえず、「
本願の名号」である「
南無阿弥陀仏の六字のこころ」も教えてはくれません。聞け、聞けと言っていても、我々が聞くべき内容が無いのです。聞くべき内容が無い団体に身を置くことや、そこで話を聞くこと、及び活動することは意味があるのかないのか、会員の皆さんはよく考えてみるべきでしょう。
さて、(1)については、無安心無信心の講師部員が二千畳で話をするようになって
・未信の講師たちに法を説かせること、また未信の講師たちの話を聞くことはどうなの?
・講師の方々に「あなたは救われましたか?」なんて聞くのは悪いことではなかろうか。と内心思っている会員らから、(2)については
「条件がない」と聞くが、自分も周りも救われていない。本当に阿弥陀仏の救いには条件がないのか?と思っている会員らから出た、親鸞会の話を聞いていれば当然すぎるほど当然出てくる質問と言えるでしょう。
それに答えたものの、恐らく高森顕徹会長は自分の首を絞めていることに気づいていません。説かれる内容で判断したら親鸞会教義などは親鸞聖人の仰せとは似て非なる邪義であり、救われる条件がないと言いながら「
多聞多見」を始めとして多くの条件を設けているからです。
蓮如上人は
『御一代記聞書』に
一 信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。と仰って、「自分が信心を得てもいないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、自分は何もものを持たないでいて、人にものを与えようとするようなものである。これでは人が承知するはずがない」と教えられています。また、「まず自分自身の信心を決定して、その上で他の人々に信心を勧めるのである。これが仏恩報謝になるのである」とも仰せです。
自身も助からず、それでいて人前で話をしなければならず、人々に信を取らすこともできない講師部員。また、そんな講師部員の話を半ば疑問視しながらも聞き続ける会員は、実に哀れ哀れです。