阿弥陀さまは私達を救うにあたって私達の罪を咎めはしないものの、進んで罪悪を重ねてよいわけではありません。

12月4日の記事の記事にて、

どんな苦しみ悩み、それまでの喜びがすっ飛んでしまうような災難悪果がやって来ても、どんなに煩悩が吹き荒れても、またその後どんな罪を犯してしまったとしても、それが浄土往生の妨げとはならない

と書きました。すると、読む人の中には誤解するかも知れない人がありますので補足します。

阿弥陀仏の本願は、この上なく重い悪業を抱えていて、自分の中にはさとりを開く手がかりすら持たない煩悩具足の悪人を救って最高のさとりの領域である浄土へ往生させ、仏陀にならせることを規範としています。そして、その救いを善人にも及ぼしてゆくということから、親鸞聖人の教えは悪人正機、善人傍機の教えだと言われます。

では、この本願に救われるにあたって、また救われた後も、煩悩のおもむくまま、どんな罪悪を造ってもいいのかというと決してそうではないことを明記しておかねばなりません。

阿弥陀仏は、その本願において

唯除五逆誹謗正法(ただ、五逆の罪を犯したり、正法を謗るものだけは除かれます)

と仰っています。この部分は「抑止門」といって、阿弥陀仏が私の造る罪を抑止されているというのです。「こういう者は救わない」と言わねばならない程に私の造っている罪は重いということです。第一、本願を建てるにあたって思惟だけで五劫も費やされたというのですから、私の身の程というものをよく知らねばなりません。

ただ、「救わない」と言われる本心は、「そのようなお前だから尚更放ってはおけない。必ず浄土へ迎え取って救ってみせる。そうでなければ決して私は仏にはならない」という底知れない大慈悲心です。

このように、「私の作る罪の大きさを知らせ、心をひるがえさせて、漏らさず救おう」というのがやるせない阿弥陀仏のお心であると、親鸞聖人は『尊号真像銘文』にて

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と仰せになっています。私達は罪悪を重ねなくては生きてはいけないという深い業を抱え、しかもそれを自分ではどうすることもできないという悲しい存在であります。阿弥陀さまは私達を救うにあたってその罪を咎めはしないものの、進んで罪悪を重ねてよいわけではありません。そんなこと、阿弥陀さまは一言も仰っていません。煩悩のおもむくまま、自ら進んで罪悪を造ることは勿論ですが、私利私欲のために多くの人を騙すなんとか会長やその息子のような行為は以ての外です。そんなことでは浄土真宗の名を汚し、周囲の人々を阿弥陀仏とのご縁から遠ざける結果となってしまうでしょう。こうした自損損他の罪は大きいことを自覚し、少しでも日々の言動に注意したいものです。

・・・とは言いながら、言うは易し行うは難しで、偉そうにこんなことを書いている私自身が一番注意しないといけないんですけどね(~_~;) 欲望や怒り腹立ち、嫉みねたむ心は全く変わらず、それが口や体の行いに漏れ出てしまっている情けない身の上です。懺悔、反省。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ。



【参照】
『お坊さんのつぶやき部屋』抑止門のすくい
スポンサーサイト

人生の目的とやらを完成した時の喜びは、自分がこれまでに経験した最高の幸福感以上の幸福感が、永遠に続くのだろうと想像するしかない

12月4日の記事で、R1000さんからのコメントを読んで思い出したことがあります。

私が学生だった時、「釣りが人生の目的」と言っていいほど釣りに入れ込んでいる後輩がいました。そんな彼にK講師長(当時学友部長)は、人生の目的を完成すると、釣った瞬間の喜びが永遠に続くといったような話をしていました。今K講師長に「こんな話をしましたよね?」と聞けばどこかの政治家よろしく「そんなことは言っていない」といった返答があるでしょうが、とにかく欲望を満たす喜びしか知らない私達には、人生の目的とやらを完成した時の喜びは、自分がこれまでに経験した最高の幸福感以上の幸福感が、永遠に続くのだろうと想像するしかないでしょう。加えて喜忍とか、広大難思の慶心と聞くと、信後は想像を絶する大きな喜びの心が起きるのだろうと想像し、ともすると現生での喜び・幸福感を目的にしてしまいがちです。

この点は一応高森会長も釘を刺してはいますが、会員の皆さんの多くは、やはり現生で大きな喜び・幸福が得られるといった親鸞会の話を魅力に感じているのではないでしょうか。そして、苦しみがそのまま喜びとなる、そういう世界に出るのだということで次の和讃が思い浮かぶのではないかと思います。

罪障功徳の体となる
 こほりとみづのごとくにて
 こほりおほきにみづおほし
 さはりおほきに徳おほし
(高僧和讃)

高森会長は、救われたら煩悩はどうなるのかといった疑問に、よくこの和讃を出して話していたことを思い出します。ただ、その時の高森会長の説明が

「苦しみが、そのまま喜びとなる」
「苦悩が、そのまま歓喜となる」
「借金が、そのまま貯金となる」


といったもので、今思えば大変誤解を生む解説であったなと知らされます。上の和讃についてよく知るには、その前後の和讃と、『行文類』海釈について読む必要があるかと思います。

無碍光の利益より
 威徳広大の信をえて
 かならず煩悩のこほりとけ
 すなはち菩提のみづとなる

罪障功徳の体となる
 こほりとみづのごとくにて
 こほりおほきにみづおほし
 さはりおほきに徳おほし

名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり



「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『経』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。{以上}願海は二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人・天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。

【現代語訳】
「海」というのは、久遠の昔から今まで、凡夫であれ聖者であれ、自力で修めてきた、さまざまな川の水に等しいような雑行、雑修の善根を転換し、悪人が積み重ねてきた、大海の水ほどもある五逆罪、謗法罪、一闡提など、数限りない無明煩悩の濁水を転換して、本願によって成就された大悲智慧の真実なる無量功徳の宝の海水に成らせることです。この転成のはたらきを海のようだと喩えたのです。これによって、経に「煩悩の氷がとけて功徳の水となる」と説かれている意味がよくわかります。本願の海には、下類の声聞や中類の縁覚の自力雑行の善の死骸を宿しません。まして人間や天人の偽善や、煩悩の毒のまじった自力心の死骸を宿すはずがありません。

我々の煩悩罪障をさとりの智慧と慈悲ならしめる、名号の転成のはたらきを讃えているのが「罪障功徳の体となる・・・」の和讃です。そして、凡夫も聖者も、五逆謗法の者も、闡提無戒の者も、どのような者であってもみな等しく救う南無阿弥陀仏の大功徳を解説するお言葉の一部でもあります。我々の上の、苦しみが喜びに変わるとか言った、ちんけな話ではないのです。苦しみが煩悩なら喜びも煩悩です。我々はどこまでいっても煩悩しかない身の上です。その煩悩一杯の私を、仏の功徳と一体にしてやろうという本願名号の不可思議なはたらきを讃えてこのように仰っているということです。


こうした本願の名号の他に何の不足があってか、少善根であり本願において選び捨てられた諸善など勧めているのか。雑行を勧める親鸞会は、決して親鸞聖人の教えでも浄土真宗でもありません。

「借金が多ければ多いほど貯金が多くなる」という話の本心

にも少し書いていますが、親鸞聖人の教えを低俗な話に貶め、現生での喜び・幸福で聞く者を釣る高森顕徹会長の本心としては、

「借金が多ければ多いほど貯金が多くなる。人生の目的を達成すれば、一切の苦労が報われ、流した涙の一滴一滴が、真珠の玉となって戻ってくる。信心決定したらそうなるんだから、借金してでも財施しなさい。苦労を求めて活動しなさい。ワシの指示に無条件で従いなさい」

といったものでしょう。このように見抜けた人は、マインドコントロールからの脱出が近いです。


我々はどうしても信後の喜びとか、幸福といったことに関心が行ってしまいがちですが、そんな事に心を奪われて南無阿弥陀仏の六字のこころを頂けないようでは大変申し訳ないことです。情けないことです。「後生助けるぞ」の仰せを仰せのままにお聞きし、仰せの通り後生おまかせして、後生をくつろがせて頂く。これが阿弥陀仏の本願のお心にかなっています。その上で喜ばれるとか、喜ばれぬとかの心配は要りません。我々の喜べるとか喜べないとかの感情で後生助かるか助からないかが決まるのではありませんもの。そんな事を一々心配したとてどうにかなる問題ではありませんし、後生の心配は阿弥陀さまが既に十分心配して、そして助ける手筈も整えて下されてあります。そのご用意に我々はただただ乗じさせて頂くだけです。ただ南無阿弥陀仏によって救われてゆくのです。何の造作も計らいも要らず、南無阿弥陀仏におまかせする。これ以外ありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

親鸞聖人の教えは「歓喜正因」でも「ハッキリ正因」でもなく「信心正因」であり、その信心とは南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いないこと

親鸞会教義を真に受けていると、救いの前後で物凄い心境の変化が起きると考えがちです。

・三定死の苦しい体験をし、「地獄は一定すみかぞかし」と無間のどん底に叩き落されるのだろう。
・そして間髪入れずに「ただで救うぞ」の弥陀の呼び声が五臓六腑を貫くのだろう。
・救われたその瞬間に雷に打たれる如きピカドン的な体験をするのだろう。
・無明の闇が破られて、暗い闇に閉ざされた心に光が充満し、明る~い心になるのだろう。
・体験したことのない驚きと喜びが心の底から湧き上がってきて、とんでもない幸せな心になれるのだろう。
・日本晴れの大安心大満足、よくぞ人間に生まれたものぞの生命の大歓喜が湧き上がるのだろう。
・「人命は地球より重い」「生命の尊厳」の意味が心の底から分かるのだろう。
・例え苦しみ悩みがやってきても、煩悩即菩提ですぐに喜びに転じ変わる素晴らしい人生になれるのだろう。
・人生の醍醐味を心ゆくまで味わえるようになるのだろう。
・誰に何を言われても微動だにしない金剛心になるのだろう。
・阿頼耶識の中の、過去に自分が造ってきた業が分かって必堕無間の自己がハッキリするのだろう。
・自分だけでなく、全人類が逆謗の屍だと分かるのだろう。
・いつ死んでも極楽参り間違いなしとハッキリするのだろう。
・今まで読んでもよく分からなかった経典やお聖教の意味がすらすら分かるようになるのだろう。
・高森先生のように伝えずにおれない、叫ばずにおれない常行大悲の身になるのだろう。


自分は会員だった頃、会でなされる話からこのような劇的ビフォーアフターが起きると思っていました。特に、苦しみ悩みの人生が、明るく楽しい大安心大満足の人生にガラリと変わると信じていました。これらの他にどんな劇的ビフォーアフターが起きると思っていたか、よろしければ読者の皆様の意見をお聞きしたいと思います。

親鸞会の場合、このような劇的ビフォーアフターの体験を信心決定といい、そのようなハッキリした体験がないのはまだ信心決定していない証拠だというのです。ですから、会員の皆さんは何とかしてこのハッキリした体験をしたいと、そのためには聴聞だ、破邪顕正だ、朝晩のお勤めだ、お布施だ御報謝だ、会長先生や上司や本会の指示に無条件服従だとやっていることと思います。全ては縦の線の一念で決まる、今までの苦労も全て真珠の玉となって戻ってくるのだからと、並々ならぬ情熱を傾けて親鸞会に身も心も財産も捧げる人は少なくないのではないかと思います。

ですが、以上挙げたような想像上の変化、摩訶不思議な体験をもって信心決定とは言わないことを知らなければなりません。なぜなら、浄土真宗の信心は、仏願の生起・仏願の本末を聞いて疑いないことであり、本願力回向の信心であり、南無阿弥陀仏のすがたを心得たことだからです。

しかるに『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。(信文類)

「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「聞」というなり。また、きくというは信心をあらわす御のりなり。(一念多念証文)

信心獲得すというは、第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるというは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章五帖目五通)

信心決定された方の中には、もしかしたら上に列記したような変化や、似たような変化を一部でも感じている方があるかも知れません。しかし、例えば「尽きせぬ喜びが噴き上がってきた」「歓喜の心が日々絶えない」ということをもって浄土往生の証拠とはならないのです。これでは「信心正因」ではなく「歓喜正因」でしょう。あくまで浄土往生の証拠は南無阿弥陀仏、「助けるぞ」の仰せを計らいなく聞き受けた信心です。

阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。(『御文章』4帖目8通)

他力の信心を獲得するといっても、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころです。喜べるとか喜べないとか、自分の感情や幸福感などと、浄土往生とは無関係です。これらは全て煩悩です。煩悩はどれだけあっても浄土往生の妨げとはならないことは

「ガラリと変わる」というような物凄い心境の変化、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない

などで述べてきました。これは逆に関係あったら大変です。極端な話、殺人者に出くわして自分が殺されなければならないとなったら、目の前の殺人者に恐怖・憎悪の感情こそあれ、喜びなどないでしょう。猛スピードで突っ込んできた車に撥ねられねばならないとなったら、そんな状況でのんきに喜んでいられますか? 喜びといっても感情の一つ、感情は煩悩ですから、喜べるから浄土往生とか、喜べないから浄土往生できないということではないのです。


「じゃあ阿弥陀仏に救われても何も変わらないの?」「喜びはないの?」と疑問に思う方があるかも知れませんが、勿論変わる点はあります。阿弥陀仏に救われる前後で何が変わるかというと、顕著なのが

阿弥陀仏 ← 私

私が聴聞して、私が念仏をして、という具合に私が何かして阿弥陀仏の救いにあずかろうとしていたのが、

阿弥陀仏 → 私

阿弥陀仏が、私が往生する因も果も全て用意して恵み与えて下されるものだった、私はただそれをお聞きしお受けするのみであったと気付かされ、阿弥陀仏の一方的な救済に疑い無くなる点です。ここは親鸞会でも言っているようにガラリと変わるところです。手のひらを返したように変わります。劇的ビフォーアフターです。そうしますと、不思議と後生を阿弥陀さまにおまかせした安心感というか、後生への不安がなくなるのです。
かと言って、浄土の様相が見えるとか、心に映るとかそんなことはありませんので、後生はどのような処に生まれるのか私の方からは分かりません。私としては、本願力に身をまかせ、阿弥陀さまのお連れ下さる処に生まれてゆくだけです。たとえそれが地獄であろうと、私の業からしたら元々地獄なので仕方ありません。実際地獄に堕ちたとしても、「だまされた」という後悔は起きようはずもありません。

自余の行もはげみて、仏になるべかりける身が、念仏をもうして、地獄にもおちてそうらわばこそ、すかされたてまつりて、という後悔もそうらわめ。(歎異抄)

とあるように、私が自力の修行に励んで仏になれるような者であれば「だまされた」という後悔もあるでしょうが、大体聖道門の修行はおろか親鸞会の活動でさえも音を上げてしまうような私ですから。こんな落ちこぼれの私をよくも見捨てず腐らず諦めず、追いかけ続けて本願の網にひっ捕らえて下さったものです。阿弥陀さまには本当に頭が上がりません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。有難い、というより申し訳ない、かたじけない、と言った方が私にはしっくりきます。かたじけなくも、阿弥陀さまが「浄土に連れて往く」と仰せですから、私はその仰せに対して何の計らいもなく「浄土に往くのだな」と受け止めているだけです。過去に「往生ハッキリ」「往生スッキリ」などと言っていた人を親鸞会製作ビデオで観ましたが、私とは感じ方が違うのだなと思うだけです。

こうした阿弥陀仏の大慈悲を法話などで聞いたり、その聞いたことを日々の生活の中でふと思い出したりすると有難さ、申し訳なさ、かたじけなさから喜びの心が起きてまいります。よくもこんな俺が本願を聞かせて頂けたな、この淳心房一人助けるために阿弥陀さまはご苦労されていたんだな、思惟だけで五劫もされたとはどれだけ自分の罪業が深いのだろう、摂取不捨の真言は誠であったな・・・縁に触れ折に触れ思い出すと泣きそうになり、念仏申したくなります。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
ただ、24時間365日、毎日毎時間喜んでばかりいられるかと言ったらそんなことはありません。相変わらず日々の生活は忙しく、仏法から離れ、仏法を忘れている時の方が私は長いです。特に苦しみ悩みがやってきた時はやはり苦悩に苛まれます。気に入らない相手に対しては怒り憎しみの心を覚えます。苦しくてどうしようもない時、むしゃくしゃしてどうしようもない時、当然あります。とくよしみねさんのブログにある、「いいことばかりはありゃしない!」というのは本願を信じ念仏するようになっても変わりません。阿弥陀さまは、私の生活の面倒まで看て下さるわけではないので、眠くても起きて、仕事をして、家事をして、育児をして、掃除をして・・・と、色々面倒なことでもやらなければなりません。そしてついつい阿弥陀さまの事は忘れて、自分中心の生活となってしまいます。ですから、やはり信後も法は聞き続けて阿弥陀さまが中心であることに気づかせて頂かねばならないのだと思います。信心決定後一切法を聞かなくても浄土往生取り消しとはなりませんが、やはり何らかの形で法に触れなければ法の喜びはなく、一般の人々と同じような喜びしか感じることはできないでしょう。

要は、どんな苦しみ悩み、それまでの喜びがすっ飛んでしまうような災難悪果がやって来ても、どんなに煩悩が吹き荒れても、またその後どんな罪を犯してしまったとしても、それが浄土往生の妨げとはならないと知ってもらえればいいです。信一念の瞬間がハッキリするとかしないとか、喜びの心があるとかないとか、逆謗の屍だと知らされたとか知らされないとか、そのようなことをもって浄土往生の証拠とはならないということです。親鸞会教義に染まっているとハッキリした体験、噴き上がる喜び、後生ハッキリするなど、とにかくハッキリしたこと、とてつもない喜びの身になったことが信心決定だと思いがちですが、それは一旦横に置いて、「助けるぞ」の仰せを聞いて只今救われて往生一定の身となるのが大事です。親鸞聖人の教えは「歓喜正因」でも「ハッキリ正因」でもなく「信心正因」であり、その信心とは南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いないことですから、ハッキリした体験や絶対の幸福なる幻想的な楽を追い求めるのではなく、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことです。

いつなんだ?

因果の道理が心底分かって、廃悪修善の気持ちが強くなるのは、いつなんだ?

悪しかできない己の姿が本当に知らされるのって、いつなんだ?

後生は一大事と驚き立つのって、いつなんだ?

後生に驚き立って、横の線の軌道に乗るのって、いつなんだ?

19願の実践をしていって、善のできない自分が知らされるのって、いつなんだ?

信仰が進んで、20願へ進むのって、いつなんだ?

20願の実践をしていって、心からの念仏も称えられない自分が知らされるのって、いつなんだ?

結局のところ、18願の世界へ転入するのって、いつなんだ?




【投稿文】 第4回 「 親鸞会を退会して 講師部の皆さんへ 」

等で嶋田元講師が仰るように、親鸞会教義とは

「雑行を知るだけでも30年40年かかる、真実信心は50年100年で 獲られるものではない」

という教えですから、今日や明日にも無常が迫っている人、肉体的精神的な病気・怪我で十分に親鸞会の活動ができない人は救われっこないことが分かります。一念の救いに遇うのに、雑行を知るだけで30年40年かかる、真実信心は50年100年で獲られるものではないというなら、結局は

30年40年では救われない、50年や100年では救われない

ということです。これに気づき、おかしいと疑問を持たねばなりません。会員の皆さんの多くは、

こんな こと言われて はーそうですかと  受け入れている

ようですが、嶋田さんも仰るように早く目を覚まして下さい。先に挙げた疑問をもっと深く自分の上に突き詰めて、親鸞会の教えで自分は助かるのかどうか、もっと真剣に考えて下さい。


仏願の生起・本末」とは18願のことです。19願・20願は入りません。
南無阿弥陀仏の六字のこころ」も18願のことです。19願・20願は入りません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(『御文章』5帖目5通)

どこに、18願を心得るために19願・20願を実践せよなんて説かれていますか? 高森会長が私利私欲を満たすために教えを利用し、捻じ曲げているところから、こんな邪義が発生してくるのです。19願を勧めるのは、虎どころか、猫でもない、ネズミの絵を与えて「虎を描け」と言っているようなもので、一生虎は描けません。

私達が聞くべきは、最初から最後まで18願のみです。方便仮門は直ちに捨てて、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」、「助けるぞ」の仰せを聞いて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

もし(親鸞会流の)三願転入をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

先日日曜の高森会長の話の中で出てきた「口伝鈔」のお言葉

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

が出てくる一段は、元々題名にもあるように

一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべしといふ事。
往生は一念で十分であると知った上で、一生涯にわたって多念の称名を励むべきである

ということを言われています。「一念」とは一念の信あるいは称名の一声を表し、「多念」とは「多念の称名」ということで、多くの念仏、一生涯の念仏ということを表しています。なお最初に注意しておきますが、この一段は「念仏」及び本願の名号を信ずる「信心」について教えられているのであり、親鸞会の大好きな「諸善」は教えられておりません。「諸善」は「非本願」であるとして選び捨てられた難行・劣行であるからです。

なぜ覚如上人が「一念」、「多念」ということについて仰っているかというと、実は法然門下の中で、法然聖人の念仏往生の真実義を誤り、一念義の立場・多念義の立場という邪義が生じていたからです。一念義とは、一声の称名または一念の信で往生の業事は成就すると偏執して、多念の称名を嫌い否定する立場のことをいいます。それに対して多念義とは、平生に多念の称名を積むことによって、臨終に往生の業事が成弁すると偏執して、一念業成を否定する立場をいいます。それらの邪義に対し、法然聖人の教えられた専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義であることを親鸞聖人は明らかにされ、その親鸞聖人の教えを覚如上人もここで教えておられるのです。

いわゆる、往生が決定するのは信一念においてであり、その後の称名は仏恩報謝として命のある限り一生涯相続すべきであると教えられています。それを多念の称名により往生が決定するととらえるのは、弥陀の本願に違反し、釈尊の教えに背くものであるというのです。なぜなら、ということで先に挙げた一文が出てきます。如来の大悲は「短命の根機」を本とし、もし多念の称名により往生が決定するという本願だとすると、「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」は多念の称名を行ずる間もなく命が終わり、本願では助からないからです。ですから、真宗の肝要は一念往生であるというのです。

ここで会員の皆さんに考えて頂きたいのが、「もし(親鸞会流の)三願転入をもって本願とせば」という問題です。親鸞会流の三願転入の教えとは、

まず19願の自力諸善を精一杯励み、信仰が進んで善のできない自分が知らされて20願へ進む。
次に20願の自力念仏を精一杯励み、更に信仰が進んで心からの念仏も称えられない自分が知らされる。
微塵の善もできないと地獄の釜底に叩き落された時、ただで救うと誓われた18願の世界に転入する。


といった類のものです。要は

まず19願の自力諸善、次に20願の自力念仏を精一杯励んで、微塵の善もできないと知らされること

が往生が決定する因であると言うのと変わりません。そうしなければ18願の世界に転入できないというのですから。これを「口伝鈔」のお言葉に照らし合わせて考えますと、こう言えます。

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし(親鸞会流の)三願転入をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

如来の大悲は、極めて短命な者を障りなく救うことを根本とされているからです。もし「まず19願の自力諸善、次に20願の自力念仏を精一杯励んで、微塵の善もできないと知らされること」を往生の因とするというような本願をお立てになったならば、一瞬の後に死が迫っているような迅速な無常にさらされている者は、どうして本願のお救いに遇うことができましょうか。そういうわけですから、浄土真宗の肝要は、本願を信ずる一念(時)に往生が定まるという宗義を根源としております。

お分かり頂けたでしょうか? 親鸞会流「三願転入の教え」は、「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」は本願のお救いに遇うことができない、本願のお救いから漏れてしまう、そういう教えなのです。


最近、東北地方で津波を観測する大きな地震があったことは既にご存じかと思います。5年前の東日本大震災を想起させるような出来事でしたが、当時このブログでは

「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」とは誰の事だと思っていますか?

という記事を書いています。親鸞会流「三願転入の教え」は、この先何十年も健康で活動できることを前提として説かれているため、今日や明日にも命が終わってしまう人には不相応な教えなのです。5年以上前からこうしたことを訴え続けているのですが、会員の皆さんはまだ気づかれないでしょうか? 今臨終となって気づいても遅いのです。早く気づかないか、早く気づかないかとやきもきしているのは私だけでしょうか?


ところで、もし「まず19願の自力諸善、次に20願の自力念仏を精一杯励んで、微塵の善もできないと知らされること」を往生の因とするような本願をお立てになったとすると、往生が決まるという18願の世界に転入する時はどの時と定めたらいいのでしょうか。もし「いのち」が終る最後の時とするならば、凡夫にとって死の縁はまちまちであって、火に焼かれて死ぬかも知れませんし、水に流されて死ぬかも知れません。あるいはまた刀剣に突かれ切られて死ぬこともあり、眠っている間に死んでしまうかも知れません。これらはみな過去の業因縁の催しであって、逃れるすべはありません。ところがもしこのような業縁に催されて、死んでいく者が、今が18願の世界に転入する時であるぞと思い、かねてから期待してきた通りに、たじろぐことなく、改めて心を静め、「南無阿弥陀仏」と十遍称えて、如来の来迎引接に預かることは極めてむつかしく、会員としては、たといかねてから思いめぐらせていたことであったとしても、阿弥陀仏の第十九願のはたらきから言って、必ず来迎されるかどうかは大変不確かなことです。

ですから第十九願の文にも「現其人前者(その人の前に現れる)」の上に「仮令不与」などの言葉が置かれています。「仮令」とは「たとい」と訓読すべき言葉です。「たとい」とは「あらまし」ということで、「大体のところ」「おおよそ」という曖昧さを表しています。阿弥陀仏が、往生の行としては選び捨てられた非本願の諸行を修行して浄土に往生したいと願う行者を、阿弥陀仏の大慈大悲は見放したまわずに、行者が、その諸行の中の一つとして行じていた自力念仏を評価し、それを根拠として、もし来迎に値するならばその人の前に現れてやろうといわれているのです。必ず来迎するとは決まっていませんから「仮令」の二字を置かれたのです。 「もしもそういうこと(来迎に値すること)がありうるならば」という意味を表しているのです。

親鸞会の会員は来迎が不定であるという結果を招いた過失の大部分は、自力の企てによって第十八願に背き、仏智に違反していることです。自力の企てというのは、凡夫が我を立ててはからうことで、それを過ちとして嫌うのです。「18願の世界に転入するには、19願・20願の道程を経なければならない」とする親鸞会流「三願転入の教え」が、第十八願に背き、仏智に違反している邪義だということは、もうお気づきでしょう。

今、「口伝鈔」の言葉になぞらえて書いてきましたが、多念の行者と親鸞会会員とで違う点がいくつかあります。重大な違いは、やはり本願の行である念仏一行を往生の行としているのと、本願において選び捨てられた諸善を自力の企てにより拾ってやろうとしている点でしょう。それに、往生を願うか、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めているかという、行を修める動機という点も違うと思います。あとは、親鸞会教義の観点・高森会長の言葉から、多念の行者は20願の行者、親鸞会会員は19願の入口にも入っていない者ということが言えるでしょう。往生という点においては、親鸞会会員は多念の行者よりはるかに遠い存在であることが判ると思います。こんな体たらくで、ある時は「今助かる」だとか言っているのですから、おめでたいという他ないでしょう。「今助かる」わけがありません。「今助かる」教えではないんですもの。「今助からない」教えを信じていて、どうして「今助かる」というのでしょうか?


「平生業成」「現生不退」「不体失往生」とは言葉だけで、親鸞会では「臨終業成」「現生活動」「体失往生」の教えになってしまっています。否、臨終に救いにあずかれるならまだいい方で、平生邪義を聞かされ続け、邪義を弘め伝える善もどきの善を懸命に積み、自力念仏の者は必堕無間などと念仏を誹謗する罪を重ね続けていますから、必堕無間はあながち間違いではないかもしれません。ただそういう人であっても、今までの悪心をひるがえし、改悔懺悔して一心に本願のこころ、南無阿弥陀仏の六字のこころを頂けば、本願を信じたその時往生定まる身とさせて頂けます。もう邪義に惑わされて後生は勿論、今生でも多くの犠牲を伴わないようにと、会員の皆さんにはそう願うばかりです。


【参照】
『口伝鈔』(21)一念と多念
『口伝鈔』現代語訳
「短命の根機」「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」とは誰の事だと思っていますか?

実際には、親鸞会では「聞く一つで、大船に乗れる」ということはありません。

本日も富山では高森会長が

「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」

という、アニメ映画「なぜ生きる」の中の、蓮如上人のセリフについて話をしていたようです。


・還来生死輪転家 決以疑情為所止(正信偈)

・「聞 と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり。(信文類)

・如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす。(口伝鈔)

等の文を示して話をしていたとのことです。結構根拠を挙げて話をしていたようですね。

まだ大船に乗っていない人に出てくる、「本当に聞く一つで大船に乗せてもらえるのか?」などと疑う心を疑情といい、この疑情一つで大船には乗れない。疑情は聞く一つで晴れる。その聞には時間はかからず、どんな臨終の人でも救われる。

概要としてはこんな話をしていたそうですが、残念ながら実際には、親鸞会では「聞く一つで、大船に乗れる」ということはありません。なぜなら、親鸞会では仏願の生起・本末19願・20願と教えているからです。

19願はいつも解説しているように、臨終業成を誓われた願であり、平生は修諸功徳の善に励み、臨終に阿弥陀仏の来迎を待つものですから、死ぬまで求道です。つまり、19願を聞いている限りは「聞く一つで、大船に乗れる」ことはない、疑情は死ぬまで晴れない、一念往生はあり得ないということです。

なお、19願は上の『口伝鈔』のお言葉で言えば多念をもって本願としています。上のお言葉はごく一部の文章ですが、読み進めていきますと、次のような文があります。

 もし多念をもつて本願としたまはば、多念のきはまり、いづれのときと定むべきぞや。いのちをはるときなるべくんば、凡夫に死の縁まちまちなり。火に焼けても死し、水にながれても死し、乃至、刀剣にあたりても死し、ねぶりのうちにも死せん。これみな先業の所感、さらにのがるべからず。しかるに、もしかかる業ありてをはらん機、多念のをはりぞと期するところ、たぢろかずして、そのときかさねて十念を成じ来迎引接にあづからんこと、機として、たとひかねてあらますといふとも、願としてかならず迎接あらんことおほきに不定なり。
 されば第十九の願文にも、「現其人前者」(大経・上)のうへに「仮令不与」と等おかれたり。「仮令」の二字をばたとひとよむべきなり。たとひといふは、あらましなり。非本願たる諸行を修して往生を係求する行人をも、仏の大慈大悲御覧じはなたずして、修諸功徳のなかの称名を、よ〔り〕どころとして現じつべくは、その人のまへに現ぜんとなり。不定のあひだ、「仮令」の二字をおかる。もしさもありぬべくはといへるこころなり。まづ不定の失のなかに、大段自力のくはだて、本願にそむき仏智に違すべし。自力のくはだてといふは、われとはからふところをきらふなり。


現代語訳
 もし多念を往生の因とするような本願をお立てになったとしますと、往生が決まるという多念の極まりはどの時と定めたらいいのでしょうか。もし「いのち」が終る最後の時とするならば、凡夫にとって死の縁はまちまちであって、火に焼かれて死ぬかも知れませんし、水に流されて死ぬかも知れません。あるいはまた刀剣に突かれ切られて死ぬこともあり、眠っている間に死んでしまうかも知れません。これらはみな過去の業因縁の催しであって、逃れるすべはありません。ところがもしこのような業縁に催されて、死んでいく者が、今が多念の終りの時であるぞと思い、かねてから期待してきた通りに、たじろぐことなく、改めて心を静め、「南無阿弥陀仏」と十遍称えて、如来の来迎引接に預かることは極めてむつかしく、行者としては、たといかねてから思いめぐらせていたことであったとしても、阿弥陀仏の第十九願のはたらきから言って、必ず来迎されるかどうかは大変不確かなことです。
 ですから第十九願の文にも「現其人前者(その人の前に現れる)」の上に「仮令不与」などの言葉が置かれています。「仮令」とは「たとい」と訓読すべき言葉です。「たとい」とは「あらまし」ということで、「大体のところ」「おおよそ」という曖昧さを表しています。阿弥陀仏が、往生の行としては選び捨てられた非本願の諸行を修行して浄土に往生したいと願う行者を、阿弥陀仏の大慈大悲は見放したまわずに、行者が、その諸行の中の一つとして行じていた自力念仏を評価し、それを根拠として、もし来迎に値するならばその人の前に現れてやろうといわれているのです。必ず来迎するとは決まっていませんから「仮令」の二字を置かれたのです。 「もしもそういうこと(来迎に値すること)がありうるならば」という意味を表しているのです。まず多念の行者は来迎が不定であるという結果を招いた過失の大部分は、自力企てによって第十八願に背き、仏智に違反していることです。自力の企てというのは、凡夫が我を立ててはからうことで、それを過ちとして嫌うのです。


このようなことですから、30年聞いても40年聞いても助からない方々ばかりなのは当たり前なのです。死ぬまで求道の教えを聞いていて、どうして平生の一念に助かりますか?

私達が聞くべきなのは19願でも20願でもなく、ただ18願、南無阿弥陀仏の六字のこころです。自力では迷いから離れ切れない私達を哀れに思召して、私達に代わって五劫永劫の願行を南無阿弥陀仏と成就され、私達に回向せられているその名号を、すなわち「助けるぞ」の仰せを、只今、この場で、このままの私が疑いなくお聞きする。小賢しい詮索や先入観を入れずにそのままお聞きする。これを聞と言うのです。そして、そのようにお聞きしたままが信心ですから、聞即信と言われるわけです。信心と言っても別にあるのではなく、この南無阿弥陀仏の六字のこころをそのままお受けしたことに他なりません。

救いを匂わせる話があっても、よくよく聞いてみればやはり救いはないのです。南無阿弥陀仏の六字のこころを説かない、説けない高森会長からいくら聞いていても大船には乗れません。会員の皆さんには、19願が臨終業成の願、死ぬまで求道の願であることを知り、そんな19願を勧める悪知識の手から離れ、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞いて信心獲得し、報土往生の一大事を遂げて頂きたいと思います。

100万回の御名

もうすぐ年末です。1年経つのは実に早い。こうやって月日はあっという間に過ぎ、人生もあっという間に終わってしまうのでしょうね。
しかし、朝仕事に向かう時は「今日も早く終わりそうにねぇな・・・」と思いながら通勤しています。そして実際仕事に費やす時間は長く、夜9時10時まで仕事をしています。決して楽じゃない暮らしです。

「決して楽じゃない暮らし」で思い出したのが、ロックバンド「GLAY」の『100万回のKISS』という歌です。この歌には次のような詩があります。

決して 楽じゃない 暮らしの 終わりに
彩りのような 優しいKISSをしよう


いつからか夢は現実にハジかれて、都会の海で家族を食わすため企業戦士として働く私のような者にはけっこう沁みる歌詞です。TAKUROの歌詞は個人的に共感するところが多いです。

さて、『100万回のKISS』の歌詞を思い付きで一部変えてみました。

この御名は 後生助けるだけじゃなく
あなたの喜び あなたの悲しみ 全て 寄り添い 歩んでくれるよ
時々 あなたは 傷ついて しまうけれど
届いてるかな 確かなこの誓いが uh

永遠の救いなら ここにあるよ
uh 僕らは 100万回の御名を数えて 生きてゆこう

この御名は 浄土に迎えるだけじゃなく
あなたの切なさ あなたの淋しさ 全て 寄り添い 包んでくれるよ
決して 楽じゃない 暮らしの 終わりに
まことの御法 南無阿弥陀仏称えよう
南無阿弥陀仏称えよう


メロディーに合わせるとこのような感じでしょうか。賛否両論あると思いますが、まぁ後に見ん人謗りをなさざれ。

今日の仕事も楽ではありませんでしたし、もう12月は目前ですからますます忙しくなるのは間違いありません。世間事に煩わされ、仏様を忘れて生活している自分に、せめて念仏しなさいと阿弥陀さまから降りてきたようです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

【参照】
GLAY / 100万回のKISS - YouTube
GLAY 100万回のKISS 歌詞

念仏を軽視し、善もどきの善を修め、絶対の幸福などという幻想的な楽を追い求めている者は、千人に一人も信心獲得して浄土往生することはできません

仏号むねと修すれども
 現世をいのる行者をば
 これも雑修となづけてぞ
 千中無一ときらはるる
(高僧和讃)

【現代語訳】
もっぱら南無阿弥陀仏を称えても、
現世での幸せを求める者は雑修となづけられ、
千人に一人も往生するものはいない。
『畢竟依を帰命せよ』仏号むねと修すれどもより引用)

こういうことですから、仏号の他に諸仏の勧めがない万行諸善を修めている人は勿論千中無一です。

当たり前ですが、念仏を軽視し、善もどきの善を修め、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている者は、千人に一人も信心獲得して浄土往生することはできません。

私は一人ではない。二人だ。いや、二人でもない。三人だ。

処方薬が効いて何とか持ち直してきましたが、病み上がりにこの仕事量か・・・。まさに社畜です。

休みの日まで遠い・・・。その上休みの日まで色々やらないといけないんだよなぁ・・・。

さて、あさ川さんのブログを読んでいると、勉強会で法を聞き、南無阿弥陀仏の讃嘆をし、色々な法友とご縁を持てていいなぁと思います。自分は土日出勤は当たり前で、子供も3人授かり、仕事と家事と育児に手一杯です。妻や子供達の手前もあって、単独で法話や勉強会へは残念ながら中々参られません・・・。

【投稿文】埼玉恵日会のご案内

のお知らせを見ましたが、12月は繁忙期で休みが少なく、子供の行事等もあって12月4日(日)はちょっと参られそうもありません・・・いつか参加したいとは思っているのですが・・・開催地が近い方で当日空いているという方は参加してみられたらよいのではないかと思います。お聴聞は信前も信後も大事です。なんつってる自分自身が一番聴聞しないといけないんですけどね。


仕事が終わって帰宅すると、既に家族は寝ていて実質自分一人です。帰宅途中、「今日も一人か」と思うと空しく、寂しくもなるのですが、有難いことに阿弥陀さまは「お前は私の独り子だ」と仰って下さる。会いたかったら名を呼べと言われる。なんまんだぶ。私の口から出て下さる仏様が阿弥陀さまだ。そうだ、自分は一人ではない。二人だ。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

いや、待てよ? そう言えば親鸞聖人は、

我歳きはまりて安養浄土へ還帰すとも和歌の浦の片雄波の
よせかけよせかけ帰らんに同じ。一人居て喜はば二人とおもふべし
二人寄て喜はば三人と思ふべしその一人は親鸞なり
我なくもと法は尽まじ和歌の浦あをくさ人のあらんかぎりは
弘長二歳十一月 愚禿 親鸞; 満九十歳


と仰せだった。そうか、自分は二人でもない。三人だ。阿弥陀さまと、親鸞聖人と、淳心房の三人だ。

このように思い、念仏申しました。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。



【補足】
「黄金の雨がふるよ~」様からコメントを頂きました。どうやら「御臨末の御書」は偽書のようです。

『用管窺天記』浄土をねがふ行人は、病患を得てひとへにこれをたのしむ

にもそのことが触れられています。『真宗聖典』にも書かれていたので本物かと思っていました。勉強不足で申し訳ありません。

ただ記事としては、その時思ったことを書いただけであり、私には、阿弥陀さまと親鸞聖人が寄り添って下さっているという思いは特に変化ありませんのでそのままにしておきます。

因果の道理すらまともに理解する気のない親鸞会会員

親鸞会では「因果の道理は宇宙の真理」「因果の道理が分からなければ仏教は一切分かりません」と執拗に因果の道理を強調するものの、会員は報土の因果、化土の因果、18願・19願・20願の行信因果となるとさっぱり判らなくなってしまうようです。往生・獲信を目的としているはずなのに、こんな重要なことを理解する気がないのかとも思われます。ちなみに、各願の行信因果は以下の通りです。

◎18願の行信因果
 願:至心信楽の願
 行:選択本願の行(他力念仏一行)
 信:至心・信楽・欲生の心(本願力回向の信心)
 果:難思議往生(報土往生)


●19願の行信因果
 願:臨終現前の願
 行:修諸功徳の善(定散二善、六度万行)
 信:至心・発願・欲生の心(自力心)
 果:雙樹林下往生(化土往生) ※臨終来迎が条件

●20願の行信因果
 願:植諸徳本の願
 行:善本、徳本(自力念仏一行)
 信:至心・廻向・欲生の心(自力心)
 果:難思往生(化土往生)


この内、赤で示したのが報土の因果、黒で示したのが化土の因果です。このように因果という観点で見れば、報土往生という果を得るのはどのような因(行信)に依るのか、一方化土往生という果になってしまうのはどのような因(行信)に依ってなのかがこれでお分かりでしょう。一応、下に答えとして載せておきます。

では、19願を勧めていたら、勧められた人はどうなるでしょう?
答えは、平生はひたすら諸善を修めることになり、往生は命終わる時、すなわち臨終に定まります。そして臨終来迎があったら、という条件付きで化土往生します。もし臨終来迎がなければ、化土往生もできません。往生が定まるのは臨終ですから、臨終業成です。また、当然ながら死ぬまで求道です。死ぬまで安心できません。そういう人生を歩むことになります。

もしそのような「死ぬまで求道」の人生を求めていないのなら、どうしたらよいでしょうか?
答えは、19願から離れて18願一つ聞けばよいのです。18願による救いとは、南無阿弥陀仏のいわれを疑いなく信受したその時に往生が定まり、臨終を待つことなく、来迎をたのむことなく報土往生が決定するというものです。本願を信受した只今、平生に往生が定まりますから、平生業成です。現在から往生を阿弥陀さまにおまかせし、後生をくつろがせて頂けます。
なお、18願による救いは、往生の因も果も全て阿弥陀仏から一方的に回向されるというもので、救われる者の力を借りることなく、ただ如来の願力のみで救われます。私としては、この救いの法を疑いなく聞き受けて念仏申すのみです。

このように、報土の因果、化土の因果が分かったならば、19願の善は化土の因であるからやろうとも思いません。19願は捨てて、念仏一行になるのは当然です。後は、阿弥陀仏の回向を撥ね付けている、あるいは念仏称えることと引き換えに往生させてもらおうと取引きする、そういった自力の心が問題となります。

その自力の心も、自分で捨てられるものではなく、如来に取り上げて頂くのです。阿弥陀仏の「我にまかせよ、必ず助けるぞ」という本願招喚の勅命をお受けするところに自力の計らいは取り去られます。本願を聞くところに自力は廃るのです。信心を頂くと聞くと何かをもらう、何がもらえるのかなと貰うことばかり考えてしまいますが、自力の計らいを取り上げられるということです。

家から出るまでは天気がよく分からず、とりあえず傘を持って出かけようと玄関を開けると、外は雲一つない青空。その青空と太陽を見て、「こんな邪魔なものは要らないな」と傘を置いて出るように、阿弥陀仏が「そなたの後生は私が引き受けた」と仰るのを受けて、「こんな邪魔なもの(私の計らい)は要らないな」と自力の心が廃るのです。傘を置いたら晴れるのではなく、晴れているのを見て傘を置くのです。自力を捨てようとするのも自力であり、絶対に自分では捨てられません。他力を聞いて自力が廃る。他力を受けて自力が取り上げられる。こういうことです。

親鸞聖人は念仏を自分の善根として往生しようとする自力を厳しく誡められ、真実なる誓願を疑いなく信楽して念仏しなさいと18願一つお勧めになっています。自力念仏すら誡められてしかいません。まして、諸仏の勧めもなく、付属もされず、仏と疎遠であり、本願において選び捨てられた自力諸善にこだわっていてどうなりますか。会員の皆さんがいつまでも救われないのは、勧められている行為が間違いであるからです。

そして、「念仏一行になるのは信の一念で、そこまで進むには善をやらねばならない」などと邪義を植え付けられているからです。本願の救いはどこかまで進むも進まないもありません。現在只今、ここにいる、このままの私目がけて喚びかけられている仏の勅命を、小賢しい詮索や先入観を入れずにそのまま受け容れ念仏するのみです。救いを未来に見据えて「そこまで進め」などという邪義を真に受け、往生について間違った行を間違った心でやっていても、その結果が親鸞聖人のお勧めの通りにならないのは当たり前の当たり前の当たり前のことです。こんなのはまさに自力の象徴と言うべきでしょう。

因果の道理、因果の道理と、そんなに因果の道理を重要視するなら、報土の因果、化土の因果位きちんとわきまえましょうよ、親鸞会の皆さん。そして邪義を直ちに捨てて、本願を信じ念仏して報土往生を願って下さい。



答え
      因               果
(18願)
本願力回向の信心・念仏  ― 難思議往生(報土往生)

(19願)
自力心・自力諸善      ― 双樹林下往生(化土往生)

(20願)
自力心・自力念仏      ― 難思往生(化土往生)

(おまけ・親鸞会)
高森信・善もどきの善    ― 必堕無間
                    ∵自力念仏の者は必堕無間と念仏誹謗し、その邪義を信じているから


※傘の譬えは阿部信幾先生のご法話より拝借いたしました。ちなみに、

日時:12月4日(日)
14時10分~17時
場所:熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室2

熊谷市筑波3丁目202番地
(熊谷市男女共同参画推進センター:ハートピア)
電話番号:048-599-0011

にて今年最後の埼玉恵日会があるそうです。関心のある方はリンク先へ飛んで下さい。
プロフィール

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード