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『歎異抄』という名の由来も、「摂取不捨の利益」も、何一つ理解していない高森顕徹会長

先日10月13日(土)、14日(日)は親鸞会で報恩講が催され、高森顕徹会長の話がありました。今回は

歎異抄第一章にある「摂取不捨の利益(りやく)」の世界とはどんな世界か?

という質問に関してだったそうです。しかし内容を聞けば、創価学会の信心に加えて親鸞聖人の言われたことのない珍らしき法を説いていただけ。これで親鸞聖人の御恩に報いる講のつもりかと言いたくなります。もしも御開山が高森会長の話を聞いたとしたら、どんなにか悲しまれることでしょう。なお、話の一部は

『飛雲』親鸞聖人の教えに無知で正反対の信心を自慢する高森顕徹会長と愉快な仲間達
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』有名俳優のトークと歌。そして映画「歎異抄をひらく」制作発表しかなかったような60周年大会(2018年10月13日14日親鸞会館報恩講について)

にて既に取り扱われています。


当ブログも内容を一つずつ区切って見ていきます。まず『歎異抄』という名の由来について高森会長は

親鸞聖人が教えられたことと異なることに対する歎きであることから『歎異抄』

と話していました。これに関しては全く的外れではありませんが、唯円房自身が語っていることとは違います。それについては「後序」にある通り、

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。

ということです。一室の行者のなかに、幸いに念仏申しながら、報土ではなく化土に生まれる同行がいること、すなわち信心の異なる同行がいることを歎き、そういう同行がいないように筆を執ったというのです。

一室の行者」とは同じ念仏の教えをうけた同門の人々ということで、第六条で言えば「専修念仏のともがら」のことです。念仏以外の助業を兼修していたり、五正行以外の雑行を兼修していたりしたら「専修念仏」になりません。でははたして親鸞会の会員は「一室の行者」「専修念仏のともがら」の中に入るのかどうか。こんな事は論ずるまでもない問題ですね。そういう者達が『歎異抄』について話をするとか、「摂取不捨の利益」がどうだとか話をする事自体、ギャグ以外の何物でもありません。


次に、話の中心である「摂取不捨の利益」については

1、阿弥陀仏の誓願、本願によって絶対の幸福の身になったこと

と説明し、その「絶対の幸福」とは

2、死んだら阿弥陀仏の浄土に往って生まれることがハッキリすること

だと話していました。更にここで「無明の闇」の語を出し、それは

3、「死んだらどうなるか分からない心」「なぜ生きるか分からない心」

なのだと解説。お判りの通り、浄土真宗ではなく、いつもの高森教の話をしただけでした。

1については、そんな「絶対の幸福」という語が連想させるような、莫大な幸福感が得られ、その幸福感が常に満ち溢れているといったものではありません。それに第一、「摂取不捨」とは

一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。『観無量寿経』真身観

から出てきたもので、阿弥陀仏の光明は「念仏の衆生」を「摂取して捨てたまはず」です。三願転入の教えだとか言って雑行や雑行もどきの組織拡大活動に走っている会員が「念仏の衆生」なのか。これも先ほどと同様に論ずるまでもない問題です。阿弥陀仏の光明は雑行を修める者を照らし摂めることはありません。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。「化身土文類」雑行釈

会員の皆さんは、「摂取不捨の利益」の世界がどんな世界かを知る前に、どのような者が「摂取不捨の利益」にあずかれるのか、親鸞会はどのような団体なのか、まず自分達自身を知った方が良いと思います。

さて、さすがに1だけでは非難を免れないからか、高森会長は「絶対の幸福」を2の意味で説明していました。が、これも聖教に反する珍しい教えです。

『飛雲』浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

を読まれればお判りのように、信心獲得とは死後がどうなるかハッキリすることではありません。

死後どうなるかまで含めて、全て阿弥陀仏に、本願力におまかせすること

です。これが「摂取不捨の利益」にあずかった念仏行者の信心ですから、「死後どうなるかハッキリする」という神がかった智慧を体得することとは違うのです。

この違いが理解できない高森教徒は盲目的に高森会長の説を信じ切っていますが、それは教えの正しさ云々ではなく、何十年と信じて従ってきた教えが今更間違いであっては困るという我執ゆえではないでしょうか。

これまでの事がお判り頂けたら、3もデタラメであることが明らかに知られると思います。「無明の闇」とは言葉を換えれば「本願疑惑心」であり「自力の心」です。それは

「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」という本願を疑う心

であって、その「無明の闇」が破られても死後どうなるか分かるわけでも、「なぜ生きる」かの答えが分かるわけでもありません。親鸞聖人は「なぜ生きる」かの答えを示された方ではなく、我々の浄土往生、成仏の道である「念仏」を教えられた方です。その「念仏」の信心も教えられていますが、とにかく

念仏を称えると極楽浄土に生まれるというのは間違い

と主張する高森会長の信心とは正反対であることはまたまた論ずるまでもない問題です。


親鸞聖人の教えによって人生は「お念仏申すための人生だった」と知らされたというのが淳心房の領解です。これに同調される方もあるでしょうし、されない方もあるでしょう。あるいは私とは全く違う領解の方と色々あると思います。「人生の目的」「なぜ生きる」の捉え方は他力の信心とは無関係であり、各人各別で一つに限定されるものではありませんから、この辺は自由で良いのです。

「人生の目的」「なぜ生きる」の答えではなく、全ての衆生(私)を迷いの世界から出離させ、往生成仏させるという「阿弥陀仏の目的」、その目的を果たす(全ての衆生が往生成仏する)万人共通の道である「念仏」を明示されたのが親鸞聖人です。「人生の目的」「なぜ生きる」ではどうしても自分が主体となって阿弥陀仏の救いを求めていく方向に走りがちです。それが親鸞聖人の誡められた「自力の心」であり、「無明の闇」です。

難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。「総序」

二日目はこの御文を出して話をしていましたが、親鸞会の教えはどう考えても「無明の闇」を深めるような教えなので、それをいくらまともに信じて聞いたところで「無明の闇」は破られません。我が身の無常、罪悪を思い、迷いの世界からの出離、往生を願うなら、

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

と仰せのように専ら如来選択回向の念仏一行を修め、ただ願力回向の信心を崇めて頂きたいと思います。
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【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(12)

更に往相回向の行信についての解釈が続きます。今回は「行の一念」についてです。

おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。「行文類」行一念釈

弥陀選択回向の称名と、願力回向の信心、それぞれに一念ということがあります。

行に「則ち」一念あり、また信に一念あり。

行については「則」の字がついていますが、信については「則」の字がありません。信の一念はそのもの当体で顕されているのに対し、行の一念は違います。行の一念は、「称名の遍数について」、念仏ではなく、念仏の数について顕されているからです。

称名の遍数に「」いて選択易行の至極を「」開す、ですから、就顕の法門とこれを言うそうです。対して信の一念は、「」れ信楽開発の時剋の極促を「」す、ですから、斯顕の法門と言われます。参考までに「信文類」の信一念釈を載せておきます。

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。「信文類」信一念釈

信の一念は往生の因を直接あらわしているのに対し、行の一念は念仏の数にことよせて、わずか一声の念仏で往生が決まってしまうと「選択易行の至極」を顕されています。我々が往生成仏するのに、これ以上易しい、これ以上楽な方法は無いということを教えられているのです。


信心を獲なければ往生できんと言われりゃ難しい。楽なと言ったらお念仏。浄土往生の最高に楽な法、これが釈尊や七高僧方が示して下された念仏成仏の教えだというのです。私には行一念釈にて「行を間違えるなよ」と言われている気がしてなりません。「行は弥陀選択回向のお念仏以外に無いぞ」とお諭しなのではないか。

信心を獲なさい、貰いなさいとこう言われると、それを求めてガタガタと苦労して、一生の間かかっても信心が頂けないように不安に思う方もあるでしょう。それで、どうすれば信心を獲られるかと考えて、自分なりの一番真剣な姿勢で聞法に臨んだり、無常や罪悪をとりつめたり、聞いた体験談の真似事をしてみたり、知識や同行がこうしたらいいあぁしたらいいということを試してみたりと方法論に走ってしまいがちになります。

信心というのは考えれば考えるほど分からないものです。そして、何とかして獲たい、それで安心したいと求めるのですが、形あるものと違って雲をつかむような話ですから、真剣になって求めれば求めるほど苦しくなります。しかし考えても頑張っても求めても何をしても獲られない。果てはどうして阿弥陀さま助けて下さらないんだと阿弥陀さまにまで刃を向ける、そんな始末です。

信心正因、唯信正因、唯信独達、と信心を強調する話を聞いている人はたいていこのようになると思います。信心が報土の因には違いないんだけれども、その信心の何たるかを誤解して、念仏、南無阿弥陀仏と無関係なありもしない信心、安心、満足、ハッキリスッキリ体験を求めることにつながってしまうのです。

信心正因称名報恩のご法義を誤解すると、信心さえあればいい、念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、等の異安心に陥りがちです。特に真宗以外の、念仏を呪文やまじないの類、また他宗の題目と同類かその変化形位にしか思っていなかった人にとっては。そのような人がいきなり信心正因称名報恩と聞いても何のこっちゃとなるだけではないかと思われます。これではせっかく親鸞聖人が行中摂信から信を別開して明らかにして下されたというのに、聖人のお心に背く結果となるでしょう。


信前だろうと信後だろうと関係ありません。念仏は阿弥陀仏が選択し、往生の行として唯一つ我々に称えよと回向して下さった至易最勝の妙行ですから、称名それ自体は正定業に違いないんです。これを知らない人は、まずそこから理解する必要があります。釈尊や七高僧方が念仏一行を勧める理由はここにあるのです。呪文やまじない、題目なんかと一緒くたにして「念仏くらい・・・」と思ってもらっては困ります。

そして、念仏自体には自力も他力もありません。これを称える人の心に自力、他力の別があるのです。念仏を称えながら大慶喜心を獲られない、仏恩を報ずる心が起きないのは、念仏のこころを知らずに我が善根功徳としているからです。阿弥陀仏の与えられし往相回向の大行であることを知らないからです。

まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
「化身土文類」真門決釈

ここではまず「専修にして」とあります。この世からの出離を願い、往生を願った上で、この悪凡夫が助かる道は念仏しかないと念仏一行を往生行として称える人です。だもの、それ以外の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養等の助業を兼行して往生の助太刀にしようとか、五正行以外の雑行にまで手出ししてあれもこれもとやっている者が「大慶喜心を獲」られないなんて、そんな事当たり前すぎるほど当たり前じゃないか。

釈尊や諸仏はおろか阿弥陀仏の脇士さえも拝まず、ただ阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来、南無阿弥陀仏のみを本尊としているのは、「ただ念仏」のみが我ら末代不善の凡夫の助かる道だからです。そしてその念仏は、我が善根功徳ではない。「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」という如来の喚び声であると共に、我々の心へ入って来て疑いを除きさとりを獲させる帰命の信となってくださるもの、それが念仏なんだ。我々は大悲招喚の声として念仏を称え聞き、ただなんまんだぶに往生をおまかせするばかりなんだ。

だから、色々と迷う必要はない。信心がどうだとか、自力だとか他力だとか、称え心がどうだとか、お前の考えに用事は無い。「お前を浄土に迎えて仏にするぞ」という本願のはたらきにまかせてただなんまんだぶつ。これでこの度の往生は一定だと如来の方できちっと決め定めて下さるんだ。

このようにただ念仏で往生すると心が定まったのが信心です。獲る、頂く、貰うと言うけど、ものを貰うように何かを頂くんじゃない。我が往生は念仏によるしかないことに疑いが無くなってしまった、それが信心であり、この信心が往生の正因だ。

そしてその上の称名念仏は如来我が往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と言わざるを得ない。信心が正因なら称名は報恩。一声の念仏をも待たない究極の慈悲だから、仏の御恩に報いざるを得ない。信心を獲た上の称名はもはや自分の功徳として称えるのではなく、如来さまの御恩に報いる行、本願が弘まってゆく報恩の行だと明らかにして下されたのが蓮如上人でございます。


信心を獲なければ往生できんと言われりゃ難しい。信心を獲る方法が判りませんもの。楽なと言ったらお念仏。その初一声のところで往生が決まってしまうという阿弥陀仏のお慈悲のきわまりを示されたのが

選択易行の至極を顕開す

と言われたお心かと伺います。これは勿論、下のリンク先にあるように、阿弥陀如来の願力一つで救われることを顕しています。一声称名することによって始めて往生の因が決定するとか、あるいは本願を信受したとき(信の一念)に、同時に最初の一声が必ず称えられるといったものではないことに注意が必要です。

南無阿弥陀仏。字にすればたった六文字ですが、我々の往生はこれ以外無いし、仏教もこれ以外無い、これが全てと教えられたのが法然聖人であり親鸞聖人であり蓮如上人です。なんまんだぶがアルファでオメガってのはこういう事かな。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『安心論題』行一念義
『21世紀の浄土真宗を考える会』行の一念

【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(11)

真実の行信による利益を述べられた後、続いて聖人は両重因縁についてお示しです。

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。また「真宗遇ひがたし」(散善義 五〇一)といへるをや、知るべしと。「行文類」両重因縁

ここでは、阿弥陀仏のどのようなはたらきによって衆生の往生成仏が成立するのか、その因と縁とを二種類に分けて示されています。まず最初の因縁(初重の因縁)が、

因-徳号の慈父(名号)
縁-光明の悲母(光明)
果-報土の真身(衆生の往生成仏)

です。父なる名号と母なる光明によって私が仏に生まれることを明かされています。なお、名号と光明は敢えて因と縁とに分けられているだけであって、この二つは分けることができない、不二の関係です。

初重の因縁は、名号と光明のはたらきによって衆生が往生成仏の果を得ることを示し、これは行と証とが直接する教・行・証の三法門を表しているというのです。行証直接の三法門とは、例するに、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。『歎異抄』第二条

等に見られる法然聖人の御化導が判り易いと思います。聖道門の諸行に対して念仏の超勝性をあきらかにし、名号の独用(ひとりばたらき)によって衆生が往生成仏することが示されています。この場合、信はどこへ行ったのかと言いますと「行中摂信」と言いまして行の中へ入れてしまっています。

一方、後の因縁(後重の因縁)は次の通りです。

因-真実信の業識(真実信心)
縁-光明名の父母(光明と名号)
果-報土の真身(衆生の往生成仏)

衆生往生のいわれ、南無阿弥陀仏のいわれを聞き受けた真実信心を内因、阿弥陀仏の光明と名号を外縁として私が報土往生し、仏と成ることを顕されています。

後重の因縁は、信心(内因)と光明・名号(外縁)によって衆生が往生成仏の果を得ることを示し、これは信と証とが直接する教・行・信・証の四法門を表しているというのです。信証直接の四法門は、『教行証文類』を始め蓮如上人の信心正因称名報恩の御法義に基づいて書かれた『御文章』に特に明らかですね。


ところで、初重の因縁を獲信の因縁、後重の因縁を報土の真身得証の因縁とすると、色々と釈義に合わない部分が出てきます。元々、両重因縁の解釈は、喩えを

もし父なくは能生の因すなはち闕け、もし母なくは所生の縁すなはち乖きなん。 もし二人ともになくはすなはち託生の地を失はん。かならずすべからく父母の縁具して、まさに受身の処あるべし。すでに身を受けんと欲するに、みづからの業識をもつて内因となし、父母の精血をもつて外縁となして、因縁和合するがゆゑにこの身あり。『観経疏 序分義』散善顕行縁

の釈により、その釈義は

弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をもつて求念すれば、上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得。『往生礼讃』光号摂化

等の義を承けて顕わされたものでした。ここで初重と後重とで果が違うとすると、まず「序文義」の釈が「受身」「この身」という同一の果を得るについて両重を示されているものと合いません。次に、宗祖の釈の上で後重の

能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは・・・

の文を領解することができません。「能所の因縁和合」して信心獲得するなら、「といへども」とはつながらないからです。ですから、初重の因縁も後重の因縁も、共に「光明土に到る」「報土の真身を得証する」という果の因縁を明らかにされたものと見なければなりません。

報土往生という果の真因が名号であることは、『口伝鈔』【2】光明・名号の因縁といふ事

もし光明の縁もよほさずは、報土往生の真因たる名号の因をうべからず。

にも言われています。その報土の真因たる名号のいわれを聞いた、領受したのが信心であり、この信心がまた涅槃の真因と言われます。じゃあどっちが真因なんだと問われる方もあるでしょうが、どっちも真因です。名号(行)と信心(信)は一応分けて説かれてありますが、行は南無阿弥陀仏という行、信も南無阿弥陀仏という信なわけで、この二つは光明と名号の如く分けるに分けられない不離不二の関係です。

ただ、この行と信がバラバラな状態というのがあります。それが、無信単称の場合や、衆生の側が念仏を自分の功徳のように思って、それを積み重ねて助かろうという自力心で称えている場合です。これでは報土の真因たる名号のはたらきが阻害されてしまい、衆生は報土往生することができません。悲しいことに、念仏称えておっても名義に相応しない、自己流を混ぜた念仏を称えている者がいるのです。それで親鸞聖人、蓮如上人はご親切に名号のいわれ、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく聞いて信心獲得(領受)しなさいよ、その信心が正因だぞと明らかにして下されたのであります。


この両重因縁釈を是とすれば、『正信偈』の

光明名号顕因縁

とは報土往生、成仏の因縁は名号と光明であると顕かにしたお言葉と言えます。一方、名号を因とし光明を縁として信心を獲ると解釈している方もあります。名号、光明ともに阿弥陀仏のおはたらきですから、そういう解釈もあって然るべきかと思います。しかし間違っても「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、「信心獲得」と称した神秘的体験の因縁が名号と光明ということではありません。その意味で、

********************
 悪ばかり造り続けている私たちが、信心獲得し、本当の幸福になる因縁とは何か。これこそ、全人類が最も知りたいことであり、知らなければならないことである。

 その絶対の幸福の因と縁とを、親鸞聖人は『正信偈』の一行で、

「光明・名号の因縁を顕す」

と明らかにしてくださっている。
『親鸞会公式ホームページ』名号を因とし光明を縁として
********************

というのは誤りです。それに、光明・名号の因縁で信心獲得するなら自力修善は要らないでしょう。自力修善を勧める親鸞会は何重にも間違っています。方便の善とかそれらしいことを言って適当にごまかしているだけで、会員の獲信・往生を願って教えを説いているのはないことがここからも明らかに知られます。


このように、阿弥陀仏の名号と光明のはたらきによって私が仏の教えを聞くようになり、やがて本願を信じ念仏する者に育てられ、摂取不捨の利益にあずかって往生成仏せしめられるまでの因縁を二重に示されたのが、この両重因縁釈です。お判りのように全て阿弥陀仏のおはたらきです。真実信さえ自分で起こすのではなく、南無阿弥陀仏が私の中へ入ってきて帰命の信心となって下さいます。私の力は一切間に合わない、全て如来さまのご用意下された浄土への旅支度に乗託するばかりであると、こう聞き受けたのが信心です。

この衆生往生の道理を、「念仏成仏これ真宗」と言われ、「真宗遇ひがたし」とも仰せられています。遇い難い「念仏成仏」という真実の教えに遇わせて頂き、真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知らせて頂けたことは喜びの中の喜びであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』両重因縁
『安心問答』御文章「五重の義」の光明とは?(摂取の意味で、調熟ではありません)
『安居会読判決』光号因縁

【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(10)

ここで一旦今までを振り返り、「大行」の「大行」たる所以を確認しておきます。

Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 「よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」から。


Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 最勝真妙の正業(正しく浄土往生が決定する行業)だから。


Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 称名は、人間の声を借りた阿弥陀仏の「本願招喚の勅命」だから。


Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 凡聖自力の行ではない、不回向の行だから。


Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 念仏が、大小の聖人も、重軽の悪人も、みな同じく斉しく成仏する「万人共通の道」だから。


何とも尊いお示しですね。もう信心がどうだとか、自力だとか、他力だとか、いらんこと考えずに本願のはたらきにまかせてただなんまんだぶつ。これでこの度の浄土往生、成仏はきちっと決まりだ。

もし私の口から素直になんまんだぶつとお念仏が出ていないとしたら、それは凡夫の小賢しい詮索、先入観、つまりは自力の計らいが邪魔をしているのです。勿論いついかなる時も称えているというわけにはいきませんけれども、真実信心必具名号でありますから、称名を伴わない信心は怪しいと言わざるを得ません。


本願のはたらきといっても、信心といっても、この口に称え聞こえる南無阿弥陀仏の他にはありません。そして本願を仰ぎお念仏申すところに歓喜の心が起きてくるのです。お念仏称えずに、お念仏を忘れて、以前と変わらない煩悩にまみれた生活をしておって、法の喜びが起きるものか。私はそう思います。

実際、恥ずかしながら私は近年まで聴聞もせず、お念仏申すこともなく、御同行方と触れ合うこともなく、法に触れる機会と言えばブログを書いている時くらいでした。喜びの心が無い。喜びどころか生きていくのがつらい。親鸞会時代からの鬱的な症状を引きずっていたこともあり、どうにもしんどかったです。ほとんど周囲の真宗を知らない人々と同じ生活を繰り返していただけですから、それではね・・・。

現在はようやく聴聞の機会も少しずつできてきました。本願力に遇えた有難さ、お念仏を申す喜び、本願念仏を私まで伝えて下さった方々の御恩、また本願を聞けるまでお育て頂いた様々な有情非情の御恩、そういったものを少しずつ感じられるようになってきました。聴聞も念仏も何もせんとって歓喜の心、知恩報徳の心、大悲を行ずる心が起きるのではないことを、よくよく分からせてもらいました。


大体、私は喜びについて誤解があったようです。何が喜びか。それは法の喜びです。法に対する歓喜であり、慶喜です。本願の名号によって、この度の往生成仏が平生名号のいわれを聞信する一念に定まった喜びです。言葉を換えれば、如来選択回向のお念仏を称える身になった喜びです。また、人にもお念仏を伝えて共に浄土往生の道を歩むという大悲を行ずる喜びです。

その喜びを聖人は「歓喜地」と仰っています。

しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。「行文類」行信利益

初めて真理をさとる智慧を得た初果の聖者は、たとえ修行中に居眠りするような、怠け心を起こしたり、修行を中断するようなことがあったとしても、天上界と人界と(中有と)を二十八返往復する生と死を繰り返すならば、自然に煩悩が尽きて、阿羅漢のさとりを完成し、二十九番目の迷いの生存をうけることがない
歓喜地の菩薩は、必ず仏陀のさとりを完成することに決定している

だから41段目の初地を開いた菩薩は心に大いなる喜びが起こるというのです。ところが念仏の衆生は、真実の行信を獲得したその時に往生が定まり、臨終一念の夕には往生と同時に大般涅槃のさとり(仏のさとり)を開くという往相の利益、その後迷いの世界を舞台に衆生を思うが如く救済する還相の利益に恵まれます。それで「真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく」と言われています。初地の聖者と比べて、真実の行信を獲た念仏行者の利益は量り知れません。その喜びは「大慶喜」と言われても当然です。

獲信見敬大慶喜

とはこのことです。これは「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲たことではなく、「如来二種の回向」を恵まれたことによる喜びを仰っているのです。本願を疑いなく信じてお念仏を称える喜び。光明に摂取されて捨てられるということがない喜び。往生の志願がかなう喜び。如来大悲の恩徳を始め、様々な御恩を知らせて下さる喜び。有縁の方々に本願念仏が弘まっていく喜び。迷いの世界を出離してさとりの世界へ至る喜び。再び迷いの世界へ還り来て、衆生を思うが如く利益する喜び・・・。このようなことを聖人は喜びとされたことを知らず、「光明輝く生活」とやらを目当てにしている方々は、浄土真宗の教えの何たるかを全く知らない人達です。

このように人びとを本願を信じ念仏するものに育てて摂取する阿弥陀仏の本願力のはたらきを他力といい、それゆえに、龍樹菩薩は「阿弥陀仏を念ずるものは、即時に必定に入る」といわれ、曇鸞大師は「正定聚の数に入る」といわれたと仰せられています。勿論曇鸞大師は往生して死後に正定聚の数に入ると教えられたのですが、そこのところを親鸞聖人は読み替えによって現生正定聚を明らかにされたのでした。そして最後に

仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。

とこの一段を結ばれています。「これ」とは、ここは「行文類」ですから、当然「本願の名号」、「真実の行」のことです。親鸞聖人は仰いで本願の名号を憑み(真実の信心で)、専ら念仏しなさいと教えられています。

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。
穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
「総序」

からも判るように、聖人は専ら「円融至徳の嘉号」に奉え、ただ「難信金剛の信楽」を崇めよとお勧めになっています。「もつぱら」も「ただ」も、共に「これ以外に何も無い」「これ一つ」ということです。「これ」とは念仏一行であり、真実信心です。「総序」や「行文類」で親鸞聖人が「奉へ」、「行ずべき」と仰っているのは、念仏一行であることが判ります。なお、ここの

ゆゑに知んぬ(故知)

も、「まことに知んぬ(信知、真知、誠知、良知)」「あきらかに知んぬ(明知)」等と同様に「経釈を通して理屈として知らされた」ということです。まぁこれが親鸞会の言うように

「疑いなくハッキリ知らされた」
「露チリの疑いもなく明らかに知らされた」


という意味でも構いませんが、それならどうして親鸞会は

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。

という聖人のお示し通り念仏一行を勧めないのでしょうか。理由は、高森会長が「ゆゑに知んぬ」より後のことを「露チリの疑いもなく明らかに知らされ」ていないか、高森会長が親鸞聖人より偉いかのどちらかでしょう。

ともあれ、私達は親鸞聖人のお勧めに順って専ら如来選択回向のお念仏を称え、ただ願力回向の信心を崇めて、今度の一大事の往生を遂げるべきであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『東本願寺』正信偈の教え-みんなの偈- 歓喜地
『WikiArc』歓喜地

【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(9)

「行文類」決釈の文に続いて親鸞聖人は、

ここをもつて『論の註』(論註下 一二〇)にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。

と『浄土論註』のお言葉を引かれています。この「同一念仏無別道故」というお言葉を、聖人は「行文類」だけでなく「証文類」「真仏土文類」等にも引かれ、大変重視されています。不回向の行である往相回向念仏によって速やかに浄土往生し、成仏する。その根拠がこの曇鸞大師のお言葉であるというのです。

阿弥陀仏の浄土に往生するには、同じ念仏という道による

とのことですから、まさに念仏は全ての衆生が迷いを離れさとりに至る「万人共通の道」と言っていいでしょう。


一方、諸善はそういった「万人共通の道」には成り得ません。これは諸機各別の自力の行だからです。業因が千差万別ですから、当然ながら業報も千差万別です。諸善「真仏土文類」

まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。

【現代語訳】
方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。

と言われている通り、真の仏土ではなく仮の仏土に往生する因であります。

真実報土の因 - 念仏
方便化土の因 - 諸善


とこういう関係です。勿論上の念仏不回向の行である往相回向の大行であって、自力心を雑じえて往生を祈願する自力の念仏ではありません。

でありますから、真実報土の往生を願うなら念仏一行です。念仏の他に助業や諸善を加えて何とかとやっているようでは人それぞれ異なる方便化土へしか参れません。これが諸善とも言い難い悪業悪行では悪道に堕するよりないでしょう。まして「自力念仏の者は必堕無間」などと念仏を誹謗する者は、自分達が言っているように必堕無間もあながち間違いではありません。

このようなことですから、「真仏土文類」には続けてこう言われています。

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

言葉自体はご存知の方も多いでしょう。これは「人生の目的」と「趣味や生きがい、人生の目標」は違うだとかいう珍説を言われたものではありません。ここで「真仮を知らざる」とは

阿弥陀仏の本願に真実の願と方便の願とがある
真実の願の行信によって真実報土へ往生する
方便の願の行信によっては方便化土へしか往けない

ということが判らないことを仰っているのです。例えば、

善をしなければ信仰は進みません
獲信と修善は良い関係にある
獲信の因縁(宿善)として善を修せよ

といった教えを真に受けて方便の願の行信、つまり19願の諸善や20願の念仏が要るように思っている者を

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

と言われているのです。

18願の世界に転入するためには、19願、20願の道程を通らなければならない

こういった珍らしき法に迷って、念仏一行を修する者、勧める者を誹謗しているのはまさに「真仮を知らざる者」です。これでは如来広大の恩徳を迷失するのも至極当然のことです。

贔屓目に見て方便化土の行信を修めている者が、どうして真実報土の往生を遂げることができるでしょうか。真実報土の往生を遂げたければ、方便化土の行信を捨てねばなりません。ましてそれ以前の諸善とも言い難い悪業悪行を捨てるのは当たり前の当たり前のことです。そして速やかに生死を離れさとりに至るには念仏によるしかないとなった上で、その念仏のこころを聞かせて頂くのです。

念仏はお前が称えるお前の善根ではない。念仏は、お前の口を借りて阿弥陀仏が

必ず浄土に迎えよう、お前の後生は引き受けたから安心してまかせなさい

と喚んでおられる声なんだ。阿弥陀仏がお前を助けたい助けたいという願いが届いているのが、今お前が口に称えている南無阿弥陀仏なんだ。お前はただこの阿弥陀仏の勅命をそのまま聞き受けて、仰せの通り阿弥陀さまにおまかせするのみなんだ。往生ほどの一大事、凡夫の計らうべきことではない。ひとえに阿弥陀仏のお計らい、本願成就の南無阿弥陀仏にまかせなさい。これが念仏のこころです。


阿弥陀如来の正覚浄華に化生するには、如来回向の念仏一行によってのみです。無碍光如来の名を称することが大行であるのは、こうしたいわれのためです。私達は阿弥陀如来がただ一行選び択って与えて下された本願の名号をもっぱらよりどころとし、仰いでたのみたてまつるべきであり、ひとえに称したてまつるべきです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』親鸞聖人が教えられた「万人共通の道」

親鸞会会員の誤解ー絵像や木像には「南無阿弥陀仏」の「南無」が無い

前回の記事を書いていた際、かつて会員だった時にある先輩に言われたことを思い出しました。それは、なぜ絵像や木像を本尊とせず名号のみを本尊とするのか、その理由についてです。その先輩は

絵像や木像には「南無阿弥陀仏」の「阿弥陀仏」しかない。「南無」が無いから間違い。

というような説明をしていました。

これが親鸞会の公式見解なのかどうかは判りません。ただ、似たようなことを聞いたり話したりしていた会員、元会員は多いのではないかと思います。先輩の理屈を推測すれば、本願成就文の

聞其名号 信心歓喜

から南無阿弥陀仏のいわれを聞いて信心歓喜と説かれているので名号を本尊とする。阿弥陀仏という助ける法だけでなく、南無の信心も「南無阿弥陀仏」の六字にこめて阿弥陀仏が与えて下さる。ところが絵像や木像には「阿弥陀仏」のみで「南無」が無い。機法一体でないので間違い。と、このような理屈になるかと思います。これは、浄土真宗の絵像や木像の阿弥陀仏を他流の臨終来迎仏と同一視するところから生ずる誤解です。


浄土真宗で安心・起行の対象として用いられている絵像や木像の阿弥陀仏が他流の臨終来迎仏と同じならば、確かに本願力回向の南無帰命の信心がありませんから上のような理屈も尤もかも知れません。ところが、浄土真宗の形像は祈願請求や観念のための物体としての意味は全くなく、御恩報謝から出てきたものです。絵像や木像はお姿で表わされた名号の内容であって、形像も名号も全く同一、名体不二であります。

南無阿弥陀仏という名号(名)と阿弥陀仏という仏体(体)は別々の異なる二つのものではなく、一つのものであるというのが名体不二ということです。仏体が可聞(聞くことができる)、可称(称えることができる)の名号となって私に働きかけてくださるので、その名号は仏体と別のものではありません。阿弥陀仏の絵像や木像は、南無阿弥陀仏の名号を形で表した像ということで、そのおこころは全く異なるところがないのです。

形像に込められた南無阿弥陀仏の六字のこころについてはAbcさんがコメント下さっています。

********************
 阿弥陀様が立たれているすがた、また座られているすがたともに右手の手のひらを私たちに向け、左手の手のひらを上に向けていらっしゃいます。

これは「不畏招喚の相」ともいわれ「不畏」が「右手」、すなわち「おそれなくてもよい(安心してまかせなさい)」であり名号でいうところ「南無(または帰命) 梵語:ナマス」であります。
「招喚」が「左手」、すなわち「必ず助ける」であり、名号でいうところ「阿弥陀仏(無碍光如来 不可思議光如来) 梵語:アミダーバ(無量光、智慧光) アミダーユス(無量寿)」に相当します。

ですから、名号、絵像、木像 共に「なんまんだぶの心」にほかならないのです。

********************

阿弥陀仏の「私達を浄土に迎えて仏にする」というお心は、色も形も無く、心も及ばず言葉も絶えた世界のものです。それを字で示したのが「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光如来」「南無阿弥陀仏」等の名号。すがたで示したのが絵像であり木像であります。それを「方便法身」とか「善巧方便」というのです。法性法身が具象化した方便法身として、木像、絵像、名号という形態をとって我々に浄土の真実を告げるもの、それが「方便法身」ということです。

私達は名号、絵像、木像という形ある如来を通して、形なき無限の光の如来を仰ぎこれに帰命しなければなりません。だから名号には「方便法身尊号」、絵像には「方便法身尊形」「方便法身尊像」と裏書されるのです。ちなみに木像も「方便法身尊像」と言われますが、木像自体にそう彫ったり書いたりされているかどうかは現物が手元に無く、また資料も無いため現時点では判りかねます。

ともあれ、このような「方便法身」のお示しを知らず、逆に形にこだわって「御本尊は名号でなければならない」「絵像や木像は間違った真宗の御本尊」と固執し絵像や木像の阿弥陀仏を忌み嫌っているのが親鸞会です。絵像や木像も、「我々を助けたい、助けたい、迷いの世界から出離させて浄土へ迎え取り、仏にしたい」という崇高で無限の慈悲の顕れであるのに、その心を知らずに形だけ名号を本尊としていては聖人のお心に反することになるでしょう。まして名号を前に、「これで信仰が進むだろう」「横の道を進めるだろう」などという気持ちで勤行や合掌、礼拝をしていたら。


それにしても親鸞会では「方便」の意味も大変間違った意味で教えられています。最近では

弥陀の善巧方便はもの凄い”だまし”

だとか言っている始末で、これはもはや完全に阿弥陀仏に対する誹謗中傷です。こんな謗法罪を造り続けて平気な団体に身を寄せていることを、会員の皆さんは早く自覚すべきです。



【参照】
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』親鸞会の本尊論について
『WikiArc』名号画像
『広島仏教学院』浄土真宗における本尊について

親鸞会会員の誤解ー絵像や木像は間違った真宗の御本尊

頂いた情報では、来年には次の親鸞会製作の映画が出来るそうです。また会員を総動員して偽装ロングヒットさせるのでしょうね。あの年になっても新たなことをやり続ける高森会長のバイタリティーだけは称讃に値しますが、これ以上デタラメ創作教義をまき散らすのは止めてもらいたいものです。

それと23日(日)は富山で高森顕徹会長の話があったそうです。飛雲さんが挙げておられないことからご想像の通り、特に取り上げる価値も無い、毎度毎度の「絶対の幸福」話でした。幻想的な楽、ハッキリスッキリ体験が目当ての会員は勿論「現当二益」は得られません。そして後生の一大事の解決を目的としている会員でさえ、ベクトルが違う上に邪偽の教行信証を授けられているので「現当無益」は必至です。縦の線に近づいている、横の線の道を進んでいると思い込んで騙されている会員はどこまでも哀れ哀れです。



さて、ここから本日の本題に入っていきたいと思います。この記事を書こうと思ったきっかけは

「あながち間違っていない」というのが大問題

の記事に頂いた名無しさんからのコメントです。まぁその内容は何とも情けなく、親鸞会を批判するな、それよりあっちはどうなんだと本願寺や寺の僧侶を挙げて批判の矛先を別に向けろとでも言いたげなものです。

タイトルに示している通り、「親鸞会教義の誤りを紹介する」というのが当ブログの目的の一つです。本願寺や寺の僧侶の話は別問題ですし、親鸞会の与える社会的害悪の方が当然大きいので、私としては親鸞会が無くなるか、団体名から「浄土真宗」「親鸞」の名を外すかしない限りは教義批判をやめるつもりはありません。

で、名無しさんのことは置いておいて、今回取り上げたいことは

絵像や木像は間違った真宗の御本尊

という親鸞会会員の誤解です。どうも会員は、絵像や木像を本尊にしていては助からない、絵像や木像を本尊にしている本願寺の僧侶も門徒も信心獲得していない、と思っている節があります。まず申し上げておきます。阿弥陀如来の絵像や木像は、浄土真宗の御本尊であって間違いではありません。親鸞会は本願寺攻撃の唯一と言っていい足掛かりとして、この本尊の問題を執拗に取り上げているだけです。


親鸞会では、

本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈六八尺随機現の形像をば、祖師あながち御庶幾御依用にあらず。天親論主の礼拝門の論文、すなはち「帰命尽十方無礙光如来」をもつて真宗の御本尊とあがめましましき。『改邪鈔』(2) 一 絵系図と号して、おなじく自義をたつる条、謂なき事。

他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。 『御一代記聞書』(69)

等を根拠に

・親鸞聖人は名号のみを本尊とされ、絵像や木像は排斥された
・そのためにそれまで掲げられていた弥陀三尊の絵像などもすべて捨て去り、名号本尊を徹底された
・蓮如上人も親鸞聖人同様、名号のみを本尊にされ、絵像や木像は廃された


などと主張しています。この親鸞会の主張が間違いであることは、既に

『あさ川進の、宗教と私』(参考資料)「親鸞会の本尊論を再考する」(1)
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』親鸞会の本尊論について

等で取り扱われています。なお、親鸞会では「何事も何事も親鸞聖人のなされた通りにせよ」とうるさいですが、本当に何事も何事も親鸞聖人のなされた通りにするのなら、現存する親鸞聖人御真筆の名号は十字名号、「帰命尽十方無碍光如来」が一番多いそうですから、それに倣って十字名号を本尊とすべきです。

ちなみに、正しい本尊だと思って会員の皆さんが礼拝合掌している親鸞会の本尊は、貼り合わせの偽造本尊であることが既に明らかになっています。 ⇒ 『用管窺天記』コピー&ペースト正本尊

林遊さんのご指摘の通り、

切り抜き貼り付けのコラージュ偽造の本尊を会員にレンタルしてたなんて、会長は切腹もの

と私も思います。

それにしても、絵像、木像とは言え阿弥陀如来を「排斥された」、「すべて捨て去り」、「廃された」と教えるとは、親鸞会は日蓮系の新興宗教そのものです。「絶対の幸福」「正本堂」等の用語もかの団体のパクリですから、名実ともに謗法罪の集団です。その証拠に、阿弥陀如来のご絵像を

「気持ちが悪いもの」

と誹謗する講師部員があったと嶋田元講師は証言しています。


名号が仏心の表象であれば、形像もまた仏心の顕現に他ならぬ」とはまことその通りです。名号も形像も、共に「必ず助けるから、安心してまかせなさい」という仏心、南無阿弥陀仏の六字のこころを、字で、すがたで顕したものです。それを形にこだわり、名号本尊にのみ固執しているのが親鸞会です。

名号本尊が一番良いことは珍しく正しいのですが、「絵像や木像は間違った真宗の御本尊」というのは誤りです。もしそうなら、親鸞聖人以前の高僧方は何を本尊とされていたか。親鸞会に言わせれば「木像や絵像本尊を排して名号本尊となされたのは、親鸞聖人が最初であった」そうですけど、なら七高僧方は間違った本尊を礼拝・起行の対象としていたのか。そのような七高僧方の信心は正しくないのか。蓮如上人に言わせれば、七高僧方は「他流」だというのか。「他流」のことを親鸞会では「地獄行きの人々」などと言ったりするが、七高僧方は「地獄行きの人々」なのか。

また、山科本願寺に木像を据えられたり、門徒に絵像や木像を下付されたりしたこともある蓮如上人はどうなるのか。名号のみを本尊とし、門徒にも下付されていない蓮如上人も「他流」「地獄行きの人々」の仲間なのか。

更に言えば、高森顕徹会長やそのお母さんのいた寺の本尊はどうなのか。谷口春子さんのいた寺は名号本尊ではないようだが、彼らは親鸞会ではお墨付きの獲信者だ。彼らも「他流」「地獄行きの人々」の仲間なのか。

・・・と、このような問題に発展してしまいます。親鸞会は極端すぎるんです。

でも、そうしないと本願寺攻撃の足掛かりを失うので絶対にその主張を曲げません。高森会長は会員の獲信・往生は眼中に無く、「打倒本願寺」を目的に生きてきたような人物ですから、とにかく本願寺が困るようなことばかりするのです。かつての本願寺座り込み事件しかりです。そして、都合の悪いことには答えませんし、本願寺の主張を会員に故意に捻じ曲げて伝え、さも高森会長、親鸞会が正しいように偽装しています。やっていることが実に幼稚です。やり方がお隣の国と同じだ、と言えば失礼でしょうか。


本尊が名号だから救うとか、絵像・木像本尊だから救わないなんて、そんな差別は阿弥陀如来には一切ありません。名号のいわれを聞く、阿弥陀如来の御姿を拝してそのこころに気付かせて頂くことが大事なんです。

参考までに西本願寺の見解はこうです(『浄土真宗本願寺派』よくある質問 >ご本尊は?より)。

Q.ご本尊は?
A.阿弥陀如来です。「阿弥陀(あみだ)」とは、インドの言葉「アミターバ」(無量光(むりょうこう))、「アミターユス」(無量寿(むりょうじゅ))の「アミタ」(無量)を音写した言葉です。阿弥陀如来とは、「無量光」と空間的に制約のない救済活動を表し、「無量寿」と時間的に制約のない救済活動を表しています。無限にすくいを届けられる仏さまなのです。
この阿弥陀如来を表して親鸞聖人は南無阿弥陀仏、帰命尽十方無礙光如来、南無不可思議光如来などの名号を書かれました。これが「名号本尊」「尊号」と呼ばれるものです。また、阿弥陀如来をお姿で表したご本尊が「絵像」や「木像」です。
これらのご本尊は、苦悩の底に沈み、自ら抜けきることのできない者のために、阿弥陀仏の方から、その中に入りこみ苦悩の者を助けるという阿弥陀如来の究極的なお慈悲のはたらき(本願他力)を表したものです。
ご家庭のお仏壇は、ご本尊を安置し、私が阿弥陀仏のお慈悲にあい、気付かせていただく場です。「うちには亡くなった人がいないから、仏壇はまだいらない」というのは誤りです。


名号に限らず、絵像や木像も「苦悩の底に沈み、自ら抜けきることのできない者のために、阿弥陀仏の方から、その中に入りこみ苦悩の者を助けるという阿弥陀如来の究極的なお慈悲のはたらき(本願他力)を表し」ています。私達は名号や形像を通してその究極的なお慈悲のはたらきに気付かせて頂くことが大事なのです。

その大事なことを高森会長は教えません。やれ因果の道理だ、やれ廃悪修善だ、やれ19願だ、やれ修諸功徳だ、やれ定散二善だ、やれ光に向かって進めだ、やれ善をしなければ信仰は進みませんだとか言って、名号のいわれ、形像に込められた阿弥陀如来のこころを正しく説きません。こんな諸行往生もどきの外道の教えをまともに聞いていて、会員の皆さんが正しい信心も安心もあるわけないじゃないですか。

形にこだわり、本質を見失っている。それどころか、デタラメ創作教義にまみれているのが親鸞会です。会員の皆さんは、高森会長の本心が皆さんの獲信・往生とは別にあると早く気付き、邪義とは決別して、浄土真宗の正意に基づいて頂きたいと思います。

親鸞会会員の誤解ー信心を獲たら、51段のさとりまで高跳びして特別な智慧が授かる

信心を獲たら、51段のさとりまで高跳びして特別な智慧が授かる

会員の皆さんは、そう思っていませんか。違うんです。大変な誤解です。

こんな誤解が生まれてしまう原因の一つに、高森会長が「真に知んぬ」を

「疑いなくハッキリ知らされた」
「露チリの疑いもなく明らかに知らされた」


と教えていることが考えられます。この間まで『飛雲』に書き込みをしていた「さとし」なる人物も

********************
「真に知んぬ」を「疑いなくハッキリ知らされた」以外にどう解釈すればいいのでしょうか。
                              投稿: さとし | 2018年9月13日 (木) 22時32分
「真に知んぬ」は「疑いなくハッキリと知らされた」ですよ。
                              投稿: さとし | 2018年9月13日 (木) 22時46分
********************

と書いていました。彼のこの発言からも、会員は信心獲得した暁には相当の事が「疑いなくハッキリ知らされ」るように勘違いしてしまっていると伺えます。

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

この『信文類』のお言葉を親鸞会では

"本当にそうだったなぁ!あの弥勒菩薩と今、同格になれたのだ。全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。しかもだ。弥勒は五十六億七千万年後でなければ、仏の覚りが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、仏の覚りが得られるのだ。こんな不思議な幸せが、どこにあろうか"

と説明し、「真に知んぬ」については

「真に知んぬ」とは、他の宗教のように、疑いの心を抑えて信じ込もうとする信心とは、全く異なる。

「露チリの疑いもなく明らかに知らされた」驚嘆の叫びであり、今は弥勒菩薩と肩を並べる身であるが、死ねば、"弥勒お先ご免"と最高無上の仏の覚りが得られるのだ。この世と後世(死後)の、二度の弥陀の救いに疑い晴れた、聖人の他力金剛心の表明なのである。

この弥勒と同格の大信心を獲得することこそ、人生の目的である。


と書いています。親鸞聖人が経典や聖教を読み解いて理屈の上で知らされたことを、すべてまるで我が体験のように「疑いなくハッキリ知らされ」るように教えているのですから、誤解するのも尤もな話です。


ここで親鸞会の説が正しいとすると、いくつか矛盾点が出てきます。上の「まことに知んぬ・・・」のお言葉では、親鸞聖人が「疑いなくハッキリ知らされた」ことが二つあります。その二つとは

①弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
②念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。


です。①は弥勒菩薩の成仏の時期について、②は親鸞聖人を含めた「念仏の衆生」の成仏の時期について親鸞聖人が教えられたお言葉です。「さとし」さんは

********************
>51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ると思っている親鸞会会員

とありますが、高森先生がどこにそのように言われているのか示してもらえませんでしょうか。

                              投稿: さとし | 2018年9月12日 (水) 20時35分
********************

と、51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ることを否定しているようですが、それなりの智慧、どころか仏のさとりを開いて仏智でも獲なければ①も②も「疑いなくハッキリ知らされた」とは言えない内容となっています。

もし①が「疑いなくハッキリ知らされた」なら、その人は仏の智慧を身に具えた仏陀です。特別な智慧が授からない限り、弥勒菩薩の成仏の時期が「露チリの疑いもなく明らかに知らされ」ることなどあり得ません。

ちなみに、「真に知んぬ」が②だけにかかっていて、①にはかかっていないと強弁するつもりなら、その人物はもはや小学生の国語の能力すら持ち合わせていないということです。私の娘が現在小3ですから、もしお近くにお住まいなら一緒のクラスで国語の授業をやり直すことをお勧めしたい位です(笑)

そして②は、主語が「親鸞は」ではなく「念仏の衆生は」ですから、親鸞聖人がご自身を含めた「念仏の衆生」全ての成仏の時期を「疑いなくハッキリ知らされた」ことになります。これは

他人の体験は、自覚はできない

とW氏が教えてくれている通りで間違いです。他人の臨終一念の夕のことまで「疑いなくハッキリ知らされ」ることはありません。こちらも先ほどと同じで、特別な智慧が授からない限り、「念仏の衆生」全ての成仏の時期が「露チリの疑いもなく明らかに知らされ」ることなどあり得ません。

それに、七高僧方は死後に浄土に往生して正定聚になり、そこで修行して成仏すると教えられていますから、往生と同時に成仏すると教えられた親鸞聖人とは解釈が異なっています。つまり、七高僧方は「念仏の衆生」の成仏の時期について親鸞聖人のようには「疑いなくハッキリ知らされ」ていないことになります。

このように、②に絞ってみても七高僧方と親鸞聖人とで解釈の仕方が異なっています。まして①が体験で知らされるなどあり得ません。飛雲さんの仰る通り、「まことに知んぬ・・・」以下の内容は親鸞聖人がご自身の体験で「疑いなくハッキリ知らされた」というものではなく、経釈を通して理屈として知らされたことです。理屈の上のことであって、信心とは関係ない話ですから、信心の上での疑いの話とは関係ないです。

それを無理やり関係づけ、答えようのない質問をして喜んでいるのが「さとし」という人物です。ですから、以前『飛雲』のコメントにこのように書かせて頂きました。

********************
残念でしたね、さとしさん。貴方が言っていようがいまいが、「真に知んぬ」は

②念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

だけではなく

①弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。

にもかかっているわけですよ。これが判らないなら国語の勉強を小学生からやり直した方がいいです。

飛雲さんが仰っているように、②に関してさえ七高僧と親鸞聖人で違っています。これは信心とは無関係な解釈上の問題です。それを無理やり関係づけて喜んでいるようですが、②が「疑いなくハッキリと知らされた」ことをもって真実信心とするなら、往生と同時に成仏すると疑いなくハッキリと知らされていない七高僧は異安心となります。

また、貴方の釈だと①は弥勒菩薩が竜華三会の暁に成仏することを「疑いなくハッキリと知らされた」ことになります。弥勒の成仏の時期は仏陀の智慧によって判ることですから、さとしさんは信心獲得した一念に仏のさとりを開くと言っているようなものです。貴方が必死に否定しても、「真に知んぬ」=「疑いなくハッキリと知らされた」という意味ならそうなるんですよ。これは勿論

『歎異抄』第十五条 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。

にあるように「もつてのほかのことに候ふ」です。

答えようのない質問をして喜んでいるようで、何とも幼稚です。七高僧とも親鸞聖人とも違う異安心の親玉を無二の善知識と仰ぎ、思考力を奪われて、組織拡大を「真実開顕」という名目でやっているさとしさんは哀れ哀れです。

                              投稿: 淳心房 | 2018年9月14日 (金) 05時21分
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往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。『執持鈔』(2)

信心獲得したとて「凡夫の浅智」は変わらないのです。特別な智慧が授かるのではなく、「往生ほどの一大事」を「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつる」のが「他力に帰したる信心発得の行者」です。それを特別な智慧が授かって相当の事が知らされるように誤解しているから、高森会長のような人物を絶対視して「蓮如上人以来500年に一度の善知識」などともてはやすのです。また、後生を握られて、高森会長の仰せに何事も何事も無条件に従わなければ後生の一大事の解決はできないように信じ込んでしまうのです。


なお、他にも会員の皆さんは、信心獲得の暁には

・地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする
・全ての人は五逆、謗法、闡提であるとハッキリする
・一切の過去も未来も皆分かる
・阿頼耶識におさまっている業が分かる
・経典や聖教のお言葉がすらすら読めるようになる
・人生の目的と趣味生き甲斐の違いがハッキリする
・「人命は地球より重い」とハッキリする


とまぁこのようになるとお思いかも知れませんが、いずれも、聖教に根拠のない高森教のそらごとたわごとから発生する妄想です。『執持鈔』の続きを読まれたらお判りのように我が身の後生すら私の側からはハッキリしませんし、たとえ私のことは判ったとしても全ての人のことがこうだとハッキリ判るものではありません。

会員の皆さんは、このような人生の劇的な変化に憧れるばかりで、肝心の浄土往生、成仏という浄土真宗の目的を知らないと見えます。また、本願力を回向して救う南無阿弥陀仏の名号法を知らず、こちらから救いに向かって進む教えのように思いこんでいると伺えます。このような皆さんの親鸞会教義による様々な誤解が、南無阿弥陀仏のはたらきを阻害する一番の障害に思えてなりません。会員の皆さんには、様々な教義の誤解から解き放たれて、只今、この場で、この私を救う本願のはたらきをそのまま受け容れてお念仏を申すようになってもらいたいです。

知恩報徳の益

先日、敬老の日にちなんで実家の祖父、父母、妹家族を交えて食事会を開きました。最初はその予定はなかったのですが、母の提案で、自分が誘えば父も祖父も喜んでくれるとのことで開催しました。費用も全部自分の支払いで済ませる予定でしたが、なんやかんや母も一部出してくれたり、妹も気を遣って俺の子供達のためにと色々用意してくれたりで、最終的には出した額以上のものを頂いてしまった気がします。

帰省の度にお米をくれ、野菜や食料を買ってくれる。ガソリン代も出してくれる。食事を用意してくれる。また、お隣にあいさつに行けば子供のためにお小遣いをくれる。毎度毎度、こちらが何かしても、何倍にもなって返ってきてしまって申し訳ないやら有難いやら・・・。自分に孫ができたら、子供や孫のためにとて、両親のようなことはとてもしてやれないだろうと考えると、我が親ながらその偉大さに頭が下がります。

日々、色々とつらいこと、苦しいことはあるけれども、こうして何不自由なく暮らしていられるのも両親を始めとした家族、親戚、近所の方々・・・その他目に見えない、気付かない多くの人々のおかげです。お念仏を申すほどに、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳を感じるとともに、そういった自分を慈しみ育んでくれる多くの方々の御恩までも喜ばして頂ける。これまた幸せなことであります。

親鸞聖人は現生十種の益の第八に「知恩報徳の益」を挙げておられますが、それを最近しみじみと感じさせて頂きます。勿論、逆境の最中に御恩を感じて喜べるような私ではありませんが、お念仏を申していると御恩を思い、有難いと思う気持ち、それに少しでも報いたいと思う気持ちが増してくる。そのように感じます。

結局、父母や周りの皆さんのおかげさまで生かされている。それが私なのでした。愚鈍な自分は、こんな当たり前のことに気づくのに随分と長いことかかってしまいました。尤も、そういうことが知らされてきたからといって、急に人間の中身が入れ替わって孝行息子になるとか、何か特別なことができるようになったわけではありません。「だからどうした?」という話ですが、恩を知り、恩を感じるということは何と幸せなことだと思います。

やはり人間、色々な楽しみや喜び、幸せがあるけれども、御恩を感じ、御恩を思わせて頂くという幸せはいわゆる欲望を満たす幸せとは一線も二線も画した格別のものであると思います。特に、この恩知らずが恩を知らされるというのが不思議なもので、私なんかは浄土真宗の教えを聞かなければわかりませんでした。だから、誰かに教えられるわけでもなくこのことに気づける人というのはすごい人、立派な人です。

私は立派でもないし、将来立派になって「こんなお前ならもう大丈夫だ」と親に安心してもらえるような自分になれる自信はあまりありません。ただ、子供の頃から自分勝手に生きてきた分、これからは少しでもお世話になった/なっている方々の御恩に報いるようなことをしていきたい。決して、して下さったことを当然と受け流すことだけはしてはならないと思わされました。

少しでもこの気持ちが残っている内に、感謝の気持ちを伝えねばな。残酷にもこの世は無常の世界で、言いたいこと、伝えたいこと、伝えなければならないことを何一つ伝えられずに突然お別れするかもしれない。感謝も何も伝えられなかった、そんな後悔は残したくない。ただ、面と向かっては恥ずかしいし、メールでは軽い。・・・やっぱ手紙にするか(;^ω^) なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

知識とか国語力以前の、「人間性の問題」を抱えている高森顕徹会長

昨日は高森顕徹会長の話がありました。今回も飽きずにいつもの

映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか?


という質問に答えるという形式でした。その中で創作『二河白道の譬』を説いていたことは既に

『飛雲』国語の問題よりもさらに深刻な人間性に問題のある高森顕徹会長と愉快な仲間達

に書かれている通りで、未だ邪義を貫き通す高森会長には「人間性の問題」があるとしか思えません。


高森会長の「人間性の問題」は本当に深刻で、今回も相変わらず本願の説明が

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

というものでした。そんな幻想的な楽、夢・幻のような現世利益を追い求めて間違った本願、教えを聞いていても、本願の通り浄土往生できないことは随所に言われている通りです(※)

大体、この世が「絶対の幸福」なんていう結構な世界に変わってしまったら、もう浄土なんか要らないんだ。この六道の迷いの世界には真の安らぎ、真の楽しみも無く、我々は際限なく流転を繰り返して苦しみ続けるから、それを哀れんで阿弥陀仏は迷いの世界から出離させ、我が国に迎えて救うと本願に誓われているのです。

それに会員の皆さんも皆さんです。「浄土真宗は、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」教えです。もしこの世からの真の安らぎ、真の楽しみをお望みなら、聖道門へ行って入聖得果することですな。

親鸞聖人を世界の光と仰ぐと言い、自分も聖人の真似をして「愚童釈顕徹」だとか名乗っておきながら、また蓮如上人の真似もしていつも「みなみな信心決定あれかし」と言っておきながら、ちっとも親鸞聖人、蓮如上人の教えの通りに法を説かない。会員の皆さんの後生をどう思っているのか。またも流転を重ねようとしている人々が可哀想ではないのか。やはり知識とか国語力以前の、「人間性の問題」を抱えています。


高森会長は会員の内なる欲望を煽り、無常と罪悪でせめ立てて、自らの欲望を満たそうとしているだけです。聞く者の獲信・往生は眼中に無く、言葉だけ蓮如上人の仰せを真似しているのです。その証拠に今回も

・蓮如上人は
「善知識の能(任務)というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』と人を勧むべきばかりなり」
と教えられている。

・お釈迦様が仏教を説かれた結論は、「一向専念無量寿仏」


などと話しておきながら「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」という肝心な教えを説きませんでした。聞法すら「聞法善」だとか教えて善行の一つに数え、19願の「修諸功徳」、『観経』の「定散二善」、七仏通戒偈などを根拠に、因果の道理の結論であるという廃悪修善をせよと教える高森会長が親鸞聖人の仰せに反していることは繰り返し繰り返し述べている通りです(例えばこの記事)。

話の中で高森会長が「西に向かって進む」と言っていましたが、その本当の意味は

〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。「信文類」

つまり自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたものです。その「すべてふり捨て」るべき自力の行を拾わせやらせておいて、聞く人が西方、浄土に向かうはずがないんだ。高森会長が必死で否定する「ただ念仏」こそが迷いを離れさとりの世界に至る唯一の道、すなわち「無碍の一道」なのです。

我々は「真実の行信」によって「真実の証果」を得るわけで、いくら信心を強調してもその信心が間違っていたらダメなのは当たり前です。信心は何を信ずるかといったら行を信ずるんです。だから、行が間違っていたら当然ながら信も間違うんですよ。高森教では行にあたる部分が「行学」とか言っているように廃悪修善の実践なわけで、その中身を言ったら勧誘、献金、服従を中心とした善もどきの善です。これが親鸞聖人の教えられた行かどうかは論ずるまでもない問題です。

真宗で行といったら本願のはたらき、「南無阿弥陀仏」です。この六字のこころを聞くのがすなわち信心です。「お前は決して迷いの世界を出られない者だ。そのお前のためにこの南無阿弥陀仏を成就したから、お願いだから称えて我が国に生まれてきてくれよ」という仏さまの心を聞く、心を受ける。その仏さまの心を聞いたなら、心を受けたなら、もう我々の計らいは要らんでしょう。このように本願力にまかせて自力を離れたのを「唯信」というのです。阿弥陀仏の仰せの通り、「ただ念仏」と心が定まったのが「信心」です。

それがどうですか? 仏さまの心を聞き受けて「ただ念仏」どころか、

仏教を聞くということは、細い白道を見えない西に向かって進むこと

などと説いています。「西に向かって進む」というと聞こえはいいですが、その先には、細くて弱い聞法心を奮い立たせて聞け、煩悩と闘って白道を進め、といういつもの教えがあるに違いありません。高森会長の話の後でなされる講師部員や先輩会員の教えや勧めを聞けばそれは明らかでしょう。会員の皆さんは何を教えられ、どんなことを勧められているか、静かに振り返ってみましょう。


ところで、話の中で高森会長は

自力の心、雑行、聞く一つという阿弥陀仏の本願を疑っている心

がどういうものかを説明していましたが、会員の皆さんに判り易く言うと

何十年という聞法や朝晩のおつとめ、顕正活動、お布施、高森先生を無二の善知識、尊き生き仏様先生と信じて、何事も何事も会長先生の仰せにひらすら従ってゆくことがいるのではないか。ホントだろうか、他に何かいるものがあるのではなかろうか。

という心こそが自力の心です。会員の皆さんは、高森会長の話はそんな自力の心を助長、増長させるだけだと気づき、早く如来選択回向の念仏に目を向けて、その南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き受けてお念仏申して頂きたいものです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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