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善知識方は「死んだらどうなるか」を明確に教えられているのに、間違った本願を説き、触れられてもいない「死んだらどうなるか分からない心」にこだわって浄土真宗を説かない高森顕徹会長

近年は圏央道などの高速道路ができたり、外環道が延長開通し高速道路同士がつながったりして益々便利になりました。昨日は子供2人を連れて実家へ行っていましたが、その帰り道にできて間もない高速道路を通り、ふと「これが10年前に開通していたら富山への往復が随分と楽だったのにな・・・」などと思った次第です(笑)


さて、時を同じくして昨日は高森顕徹会長の話があったようです。内容は

自分が獲てもいない空想妄想創作信心を偉そうに説明する高森顕徹会長

に一部紹介されています。今回は「無明の闇」についての質問に答えるというものでした。高森会長はお尋ねの「無明の闇」を

1.苦しみの元凶(根元)
2.疑情
3.阿弥陀仏の本願を疑っている心
4.死んだらどうなるか分からない心


等、様々に言い換え、

「死んだらどうなるか分からない心」がある
=「往生一定」の身になっていない
=阿弥陀仏の本願を疑っている心がある


と説明し、「無明の闇」が破れると「死んだらどうなるか分からない心」が無くなる、つまり「死んだらどうなるかハッキリ分かる心」になると。こうなったのが「往生一定」「往生治定」ということだという話でした。

こうした高森会長の説も、先ほどの「無明の闇」の言い換えが全て適切で、聖教に根拠のあることなら尤もなのですが、言い換えの適切性を検証しますと、

1.半分正解
2.正解
3.正解
4.大不正解(w

となって間違いです。

1は、「流転輪廻のきはなきは 疑情のさはりにしくぞなき(※)」等と言われるように、流転輪廻の因は輪廻を断ち切って往生させると本願に誓われていてもそれを受け容れない疑情であるとも言えます。ただ、流転の因はあくまで我々の煩悩なので半分正解としました。

また、親鸞会の会員の場合「絶対の幸福」「光明輝く生活」という言葉が連想させるように「無明の闇」が破れたなら生きて行く上での苦悩が全て無くなって(苦悩が転じ変わって)幸せになれると考えている節があります。苦しみの元凶(根元)とは何か、それが無くなるとどうなると理解しているのか甚だ疑問です。この人生の不幸の元で、生死出離まで考えが至らないことにつながるので、この点からしてもこの言い換えは半分正解です。

2と3は特に問題ありません。

問題は4です。「無明の闇」が「死んだらどうなるか分からない心」である、という聖教上の根拠はありません。そもそも「死んだらどうなるか分からない心」というものを善知識方は問題にしていません。問題にしているのは高森会長と愉快な仲間達が主で、それと「無明の闇」「疑情」を結び付けて考えるという発想自体が善知識方にはありません。というのも、善知識方は「死んだらどうなるか」を明確に教えられているからです。

法然聖人は本願を信じるか疑うかで、涅槃の城へ入るか、生死にとどまるかが決すると教えられていますし、親鸞聖人は本願を深く信じて念仏する者は報土往生し、本願を浅く信じている者は一向に名号を称えていても化土往生すると教えられています。第一、こういう心でこういう行いをした者はこうなると「死んだらどうなるか」を細かく分類して教えられているのが仏教です。親鸞会で有名な「八大地獄」なんかも、それぞれどういう因でどういう地獄へ堕ちるのか、その因果関係を教えられています。普段は因果の道理、因果の道理とうるさいのに、その辺は一括りに「一切衆生必堕無間」とする、非常に大雑把なのが親鸞会です。

仏教を信じる、因果を信じるというのは、こういう因がこういう果を生むという釈尊の教えを信じるということです。例えば、こういう因を造ると死後こういう世界に堕ちるとか、こういう因を積めばこういうさとりが開けるということを信じるわけです。それを信じないということは、仏教を信じている、因果を信じているとは言えません。

ここで阿弥陀仏の本願を信じるというのは、念仏を称える者を極楽へ迎えるという誓いを信じるということです。誓いを信じたらどうなるか。その信心が自力だろうと他力だろうと、念仏を称えますわね。信じない人は念仏を称えません。逆に言うと、念仏を称えない人は、浅くも深くも信じていないということです。それで、念仏を称える身になった上で、念仏を称える際の心、信心に特に重きを置いたのが親鸞聖人です。

ここからして親鸞会では「どんな人も 必ず助ける 絶対の幸福に」ですからもうダメなんですよ。本願の行、信、証の代わりに、訳の分からない「絶対の幸福」だとかいう文言が盛り込まれている。だから本願を信じるも何も無いんです。会員が念仏軽視、念仏誹謗に陥っているのは、どんな者をどうする本願かということを間違って教えられているからです。

それで、せっかく念仏を称えていても、自分の功徳のように思い、それを積み重ねて往生しようというのは自力のはからいであって、それでは化土にとどまり報土往生できない。念仏は自分が称えて功徳とするのではなく、善根薄少にして生死火宅を出ることのかなわない我々を必ず往生させると誓われ、これを成就した阿弥陀仏がお与えになった大善大功徳なんだから、その誓いの名号のいわれを聞いてそのまま受け容れて称えなさいよと聖人、蓮師は懇ろに示して下さったのです。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。「化身土文類」真門決釈

他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。『末灯鈔』2通

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。『末灯鈔』12通

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。『御文章』2帖目9通

このように、本願を疑いなく信じて念仏する者は報土往生と「死んだらどうなるか」を明確に教えられているのが善知識方です。一方で、我々の側の「死んだらどうなるか分からない心」がどうだとかは一切触れられていません。つまり、我々の側で「死んだらどうなるか」が分かるようになるわけでもなければ、分かる必要もないわけです。必要なのは、本願を疑いなく信じて念仏するということ、ただこれだけです。それを教えずに、触れられてもいない「死んだらどうなるか分からない心」にこだわって浄土真宗を説かないのが高森会長です。


この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。

とあるから聖人は「死んだら浄土に往くとハッキリしていたのだ」とか高森教徒は強弁するかも知れませんが、ではどうして親鸞聖人と同じ信心であるはずの覚如上人は

・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。
・さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
『執持鈔』【2】

と仰ったのか。本願で阿弥陀仏が誓われているからそれを信じて受け容れている、だから死ねば浄土で待っていると仰ったのであって、自己の自覚の上で死後がハッキリしているわけではないことがお判りでしょう。

故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。(同)

ですから、我々は法然聖人、また親鸞聖人のおられるところへ参るのだと心得るのであって、我々の側で後生どのような世界へ往くかはハッキリしないのです。飛雲さんの言葉で言えば、

「死んだあとどうなるか分かる」のではなく、「念仏往生の願を深く信じたならば死んだあとは阿弥陀仏が浄土に連れて行ってくださると誓っておられるので浄土に往けると分かる」

です。我々の側の自覚ばかり強調して如来の御誓いにまかせよと教えないばかりか、三願転入は弥陀のお計らいなどと珍しい教えを説く知識に従う結果は・・・。とにかく会員の皆さんは哀れ哀れです。
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ねんぶつとは、なんまんだむです

娘の宿題の一つに、日記のようなものがあります。この前、特に書くことがなかったのか、娘が突然

「念仏について書こう」

と言い出しました。しかもその書き出しが

ねんぶつ
ねんぶつとは、南無阿弥陀仏です。

(漢字は私が書きました。娘は更に、横に「なんまんだむ」と振り仮名を振っています)

ですから二度ビックリ。「なんまんだぶととなえることです」とか書くと思ったけど、確かにこれで間違いない。

念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。「行文類」経文結釈「破闇満願」

しかも南無阿弥陀仏を赤鉛筆で横線引いて「大じ!」と書いている。間違いない。これ以上大事なことは無い。

すげーな我が娘。しかし宿題でこんなこと書いていいのか?


まぁせっかくだからと様子を見ていると、どうもその後、「念仏を称えると極楽浄土に往ける」と書きそうだったのでちょっと手助けを。これでも間違いではなんですけどね・・・どうせなら正確な教えを書いてもらいたい。ただ、あまり長ったらしいと娘も書く気をなくしてしまうだろうな。少し考えた結果、

阿弥陀仏はその昔、全ての人を平等にすくうにはどうすればいいか考えて、わが名をとなえる者を往生させるとちかいを立てました。今はそのちかいがかんせいし、ちかいをうたがいなくしんじてとなえるものはかならずじょう土に生まれます。

習っていない漢字もあるので、このように書いてもらいました。ほとんど手伝っちゃった感がありますが、念仏について書くことは恐らくこれが最初で最後だと思ったので、まぁいっか。あと、先生としたらいきなりこんなことを子供が書いてきたらビックリすると思ったので、一応

パパはこういうのをべんきょうしているそうです。

と書き足してもらいました。オウム真理教の一件以降、日本では宗教偏見が多いのでどう思われるかおおよそ察しはつきますが、読むだけ読んでもらいましょうというつもりで・・・。


ちなみに後日。先生のコメントは赤ペンで

むずかしいのにすごいなあ・・・

というものでした。非常にまともなコメントですね(^-^;

どうも極楽とか浄土というと遊園地のちょっといいのを向こうに思い描いているような娘ですが、往生のみちは弥陀選択回向のお念仏以外には無いと計らいなく信じて称えるようになってもらいたいものです。


なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

19願は臨終来迎、辺地・胎生・懈慢界の往生を誓われた願であって、実践していけば20願へ進むという願ではない

会員の中で一番下の親会員の会費が月5,000円となったそうですね。これによって、ますます会員の中には「さすがにおかしい」と疑問に思う人が出てくるでしょう。なおこれとは違いますが、私がかつて会費を一燈から親会員へと下げた時、当時の担当支部長が血相変えて理由を聞いてきたことに少なからず疑問を感じました。

それにしても高すぎる。高森顕徹会長の話へのお布施が1回に5,000円ですから、普通に活動している会員なら月1回話を聞くとしてもそれだけで最低10,000円かかる計算です。月2回話を聞けば15,000円。遠方から富山へ行く会員は交通費や宿泊費もばかになりません。更に、降誕会や報恩講ではお布施が50,000円。また映画や著書への財施やら、地元会館への御報謝、地元行事の参加費等を含めると、活動費は年間100万円は固いんじゃないでしょうか。私も当時は独身だったからもっていましたが、今なら無理や・・・(;^ω^)

こう思うと親鸞会の会員は金持ちですね~。そして熱心な方々ですね~。そんな金銭的にも恵まれ、求道心の強い方々でさえ助からないのでは、その教えのどこが「全人類の救われるたった一本の道」なんだと疑問に思ってしまうのは私だけでしょうか?


さて、

『飛雲』19願を無視された歴代の獲信者、一方で19願を重要視する聖道門と高森顕徹会長

では、歴代の善知識方や妙好人が、どなたも「18願で救われるためには必ず19願を通らなければならない」とは教えられていないことが判り易く書かれています。

18願で救われるためには必ず19願を通らなければならない

そんな主張をすること自体、19願がどのような願なのか全く無知な証拠です。前々回、前回の記事で19願を実践するとはどのようなことか述べて来ました。

「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)
「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(2)

菩提心」をおこし、すなわち「四弘誓願」をおこし、心から浄土に生まれたいと願って、死ぬまで「修諸功徳」の善を修める。「菩提心」をおこせなければ、そしてその上で「諸功徳」を修めなければ、「至心発願」しなければ、19願の行にならんのです。もし19願の行の真似事をして、それをもって19願を通ったとするなら、それこそ「観念の遊戯」というものでしょう。如実に実践してこそ「通る」と言えるのです。

確かに親孝行や親切、慈善事業といったことは大事ですよ。でもね、それをやる時の心はどうですか? また、それが往生の業因になり得ると思いますか? 「絶対の幸福」とやらになりたいという自己の欲望の実現を願ってやっていても19願の行になりませんよ。それじゃお寺の阿弥陀仏の仏像に商売繫盛、家内安全などを祈願している人と本質的に何も変わりません。「後生の一大事の解決」とは口では言うけど、純粋に迷界からの出離を目指し、さとりの領域である阿弥陀仏の浄土に往生したい、そして必ず仏と成り、一切衆生を救おうという崇高な菩提心をおこして種々の善行を修めているんですか? それに今まで修めた善行は、阿弥陀仏が多くの聖衆を伴って来迎して下さるほど価値が高い代物ですか?

このように、19願の実践というのは口で言うほど容易いことではありません。というかこの末法の世において、在家の生活をしている煩悩具足の我々が行えるような行ではないのです。「菩薩道を作す」者が19願の対機であって、自己中心的な想念に支配され、愛欲と憎悪にまみれた我々には到底不可能な行なのです。菩提心をおこして菩薩道を歩める優れた善人が生涯修め続ける行、それが19願の行というものです。

更に、そうやって生涯懸命に19願の行に努め励んでも、臨終に阿弥陀仏の来迎がなければ往生できません。行自体大変厳しいことに加えて、臨終に往生が決まり、それまで往生できるかどうか不確定なのが19願です。また、往生できたとしても「辺地・胎生・懈慢界」の往生であって、報土往生ではありません。そのように19願をご覧になり、これは自力諸行往生を誓われた願だと教えられたのが親鸞聖人であり覚如上人でした。

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
(中略)
定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。
『末灯鈔』1通

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終まつこと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。これすなはち第十八の願のこころなり。臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願のこころなり。『執持鈔』(1)

読めばお判りのように、19願について説明されているものの、18願と比較する形で教えられ、その上で18願のみを勧められています。19願を実践せよとか、実践していった先に18願の救いがあるなどとは一言も教えられていません。19願を実践していった先は臨終来迎、化土往生です。平生業成、報土往生を誓われた18願とは行も、信(菩提心)も、往生の定まる時期も、証も全く異なります。18願と19願の関係を比較すれば、

18願
行ー往相回向の念仏(他力念仏)
信ー本願力回向の信心(他力の菩提心)
往生の定まる時期ー平生(至心信楽帰命の一念)
証ー報土往生

19願
行ー自力諸善
信ー自力の信心(自力の菩提心)
往生の定まる時期ー臨終
証ー化土往生(来迎があって)


となります。18願と19願では他力回向と自力発願でベクトルも180°違う上、行から証果から全て異なります。平生に往生が定まり、報土往生する18願の救いを求め、どうして化土往生の業因を積まねばならないのか。親鸞会の理論は理解不能です。19願を実践していくと20願へ進みますよ、18願の救いに近づきますよという教えがあり、実践しなさいと勧められた根拠でもあれば話は別ですが、そんな教えも根拠も全く無いのです。

そういえば20願についての記述は?

にも書きましたが、19願の実践の先について教義の対比は以下の通りです。

19願を実践していくとどうなるか

親鸞聖人 (臨終に来迎があれば)辺地・胎生・懈慢界の往生。20願へ進むという説示は無い

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長 善のカケラもできない自己が知らされて、20願へ進む

19願を実践せよと勧める知識方も無ければ、実践していけば20願へ進むと教えられたお言葉もありません。親鸞聖人自身、高僧知識方の教えによって「19願を出た」とこそ仰せられたものの、「19願に入った」とは仰っていません。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。「化身土文類」真門決釈

先ほどの飛雲さんの記事にある通り、善知識方も妙好人も、どなたも19願を勧められていません。そのことを踏まえてこのお言葉を普通に読めば、善知識方の教えは「19願を出なさい」という教えだと判るでしょう。その仰せに順って聖人はその通り「19願を出た」のです。それをどう解釈すれば我々に19願の実践が必要だということになるのでしょうか。親鸞会の理論は悪意と詭弁と誤魔化しに満ちています。加えて、

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。「化身土文類」真門釈

これがどうして19願を勧めた根拠になるのか理解不能です。20願を勧められているから19願を勧められていると訳の分からないことを言っています。もし善知識方の歩まれた道を通らねばならないとしたら、聖道門の修行から始めなければならないでしょう。あるいは曇鸞大師のように仙人の教えから始めなければならないかも知れません。勿論その必要は無いです。70年に及ぶ布教人生の中で、会長の口から19願を実践してきたと語られないことが何よりの証拠です。

ちょっと考えてみて下さい。高森会長は特攻隊を志願して16歳の頃は軍隊にいました。それから戦争が終わって、彼は18歳で信心決定したと言っています。そのたった2年間の間、いつどれだけの19願の善を成したのか。それで信仰が進んで18願の世界に転入できるというなら、会員の皆さんはとっくにしているはずです。なのに、一向に真仮を知らず、如来広大の恩徳を迷失しているのは一体どういうわけでしょうか?

それさえ、「先生は宿善の厚い人だったからだ」とか理由をつけておさめてしまうつもりですか、会員の皆さん。あるいは「軍隊で無常と罪悪に満ちた厳しい現実世界を見せつけられたからだ」とか? なら我々は軍隊から始めなければなりませんよ。

・親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がない
・19願を実践していくと20願へ進むと教えられたお言葉もない
・高森会長自身、19願を通ってきたと告白していない


このように親鸞会流「三願転入の教え」は完全に破綻しています。その破綻した邪偽の教えにいつまでも付き合わなければならない愉快な仲間達は哀れ哀れです。

「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(2)

最近の教科書はどうか知りませんが、私の記憶によれば、中学校の歴史の教科書には法然聖人や親鸞聖人のところで「念仏を称えれば極楽浄土に往ける」というような事が書かれていました。一方で、諸善については全く書かれていませんでした。

もし親鸞聖人の教えに「善の勧め」があれば、「諸善を修め念仏を称えれば極楽浄土に往ける」と説いた人といった説明になるでしょう。しかしそんな事を書いている教科書があるでしょうか? それほど親鸞聖人の教えと言ったら念仏だけなんです。信心は目に見えませんから、第三者は信仰を言動で判断するしかありません。では聖人の書かれたものや、各地の伝承といった言動から教えを判断するとどうなるか。

親鸞聖人の教えに「善の勧め」は無く、「専修念仏の勧め」しかない。

そのように言わざるを得ないのです。歴史の教科書の担当者とて、デタラメに書いているわけではありません。日蓮上人といったら題目、道元禅師といったら禅というように、親鸞聖人の教えの特徴は念仏なのです。それは高森会長が注目し、映画まで作ろうとしている『歎異抄』に特に顕著です。

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
『歎異抄』第二条

念仏のほかに往生のみちがあるというなら、それは奈良や比叡山へ行って聞きなさいと仰せです。念仏のほかに諸善という往生のみちを教える親鸞会は、断じて親鸞聖人の教えではないことがここからも明らかです。


さて、前回の続きです。「菩提心」をおこすとは、すべての仏や菩薩に共通している「四弘誓願」をおこすということでした。その上で、

修諸功徳、至心発願、欲生我国・・・

と19願は続いていきます。「菩提心」がおこせなかったら、その後どのような善根功徳を積んでも19願の行とは言えません。行を起こす時の心を重んじる。仏教で心の行いを重視するとはこういうことです。「死んでくれ」と親に対して思っただけで五逆罪とか、そんな事とは違うのです。また、たとえ「菩提心」をおこせたとしてもその心が途中でくじけたり失われたりしてしまっては落第です。

この「菩提心」をおこすこと自体、末法の世に生きる煩悩具足の我々にはとてもできることではありませんが、勿論それだけでは自利と利他とを円かに具えた仏陀とはなれません。「菩提心」をおこした者は仏道の完成、すなわち仏のさとりを目指して修行していくのです。その修行内容は数え切れないほど多いので「諸善万行」と言われますが、これをまとめて説かれているのが「六度万行」とか、「六波羅蜜」と言われる六種の行業です。それを19願では次に「修諸功徳」、諸々の功徳(善)を修めよと説かれているのです。

それは本来、苦しみ悩みの人生を明るく楽しく幸せにわたす行いとか、幸せで豊かな人生を送れるとかいったそういう目的で行ずるものでもなければ、我々にもちょっと努力すればできるというような程度の低い行いでもありません。「諸功徳」とか「六度万行」、「六波羅蜜」とは自利利他円満した仏陀となるべき修行内容で、突き詰めれば法蔵菩薩のなされた行業であります。

国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。『大無量寿経』法蔵修行

それを19願では「発菩提心、修諸功徳」と言われているのです。我々にそんなことができるかどうか。確かに、やってみなければ分からないということもありましょう。が、法蔵菩薩の修行が我々にできるかどうかですから、そんなことはやる前からハッキリしています。


ところで、19願ではこの世でのさとりの完成を目指す聖道門と違って、「諸功徳」を阿弥陀仏の浄土に往生するために行じます。それが次の「至心発願欲生我国」です。行ずる内容は聖道門と変わりません。ただ心を浄土に振り向けてやるのです。浄土へは遊びに行くのでも、楽をしに行くのでもありません。仏陀のさとりを完成し、あらゆる衆生を救ってゆくためです。往生してそこで終わり、良かったね、ではありません。

この世界は五濁悪世と言われるように、仏道修行を妨げる因縁があまりに多く、さとりを完成することは極めて困難です。そのような悪縁が全く無い世界が阿弥陀仏の浄土です。ですから、19願の行者はまず阿弥陀仏の浄土に往生して、そこで修行してさとりの完成を目指すわけです。仏陀のさとりを完成し、あらゆる衆生を救うという自利利他が究極の目的であることは、聖道門も19願も、勿論18願も変わりません。

そうやって諸々の功徳を積み重ねた行者の臨終に、多くの聖衆を伴って迎えに行きましょうと誓われているのが19願です。そしてその19願意を明らかにされたのが『観経』顕説の定散二善です。ちなみに散善も三世諸仏の成仏の業因です。

かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
『観無量寿経』散善顕行縁

ですから、19願の修行を仕事や子育ての片手間にやるとか、そういう訳にいかないんです。全てを捨てて出家して、一生涯身命を賭して仏道修行に打ち込まねばなりません。当然です。一体、何を目指していると思っているのか。三悪道はおろか、この迷いの世界から出離して、さとりの境界である阿弥陀仏の浄土へ往生しようというのですよ。しかも自分の成した善で。十九願というと捨家棄欲、そんなの当たり前でしょう。これは半身不随的理解じゃないですよ。何かの片手間にちょっと修行して往生できるほど甘い世界じゃないんです、19願は。

今まで積み重ねた功徳に往生できるほどの価値があるか分かりませんし、この後の人生において、どんな罪を犯して功績が消えてしまうかも分かりません。阿弥陀仏は行者の功績を評価して迎えに来て下さるわけですから、19願の行者は死ぬまで仏道一筋、修行一筋で廃悪修善に励み、臨終も心乱れることなく祈願を凝らし、来迎を待ち望まねばならないのです。もし来迎が無ければ、今までの成果も空しく往生はかないません。


このように19願は大変厳しいことを言われているとお判り頂ければけっこうだと思います。そのようなことに全くもって無知なのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。だから軽々しく19願の実践だとか、定散二善の実践だなどと言っているのでしょう。「菩提心」をおこして行を修めなければ19願の実践にならんのですよ。園児さんのコメントの通り、親鸞会は「菩提心」をなめていると言わざるを得ません。ですから、「19願を実践しました」とか「三願転入して救われました」とうそぶいている親鸞会のなんちゃって獲信者などみなもつてそらごとたはごとと考えて間違いありません。

菩提心」「至心発願欲生我国」どころか、「絶対の幸福」だとかいう楽を獲たいがためじゃね・・・。ましてやっていることが「諸功徳」ではなく親鸞会への献金や勧誘、会長及び上司への無条件服従でしょう? 行も、行ずる心もみな間違い。だから、一生懸命やっていたって19願とは無関係ですし、18願の救いにも遇えません。

18願によって救われようというなら、19願を聞いていても無意味です。19願は菩提心を発し、至心発願して諸の功徳を修めて往生しようとする行者を臨終に迎えに行く、つまり救うという願ですから、平生、至心信楽帰命の一念に往生が定まるという18願とは全く異なる救いです。平生業成の教えを聞いて今救われようというのに、臨終に救うと誓われた願を聞いて実践しようとしてどうなりますか? ただちに18願を聞いて、南無阿弥陀仏のこころ、すなわち「助けるぞ」のお心を領受すべきなのは当たり前の当たり前のことです。

三願転入の教え」なる邪義を授けられ、18願の救いとは無縁な話ばかり聞き、18願の救いとは無縁な行いばかりやらされている会員の皆さんは実に哀れです。早く教義の誤りに気付いて邪義を授ける人の手から離れ、浄土真宗の正意に基づいて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。


ちなみに、我々には絶対に起こせない菩提心ですが、親鸞聖人は願力回向の他力の信心が横超の大菩提心だというのですから驚きです。こんなことは聖人でなければ言えたことではありません。全く、とんでもない御方の教えを学んでいるのだなとつくづく知らされます。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』六波羅蜜

「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)

諸善は絶対に不要だと言わないのに、念仏はその時々で必要だと言ったり、不要であるかのように説いたりするのが高森会長です。20願から18願の世界に転入するんでしょ? なら念仏は絶対に必要じゃないですか? その絶対に必要な念仏を絶対に必要だと言い切らない高森会長が「三願転入の教え」を説く目的は、会員を18願の世界に転入させるためではなく、単に諸善(という名の組織拡大活動)をさせるためでしょう。

さて、その親鸞会流「三願転入の教え」にて絶対に必要なのが19願の諸善の実践です。19願は要門であり、重要な教え、必要な教え、通らなければならないかなめの教えだと喚き散らしています。ところがその割には、それほど強調する19願の説明は随分といい加減なものです。特に序盤の「発菩提心」の解説、これは本当にいい加減です。私は、高森会長や講師部員らから「発菩提心」について

・「よーし、やるぞ!」とやる気を起こして
・奮発心を起こして
・ド真剣になって


というような説明しか聞いたことがありません。他の皆さん、会員の皆さんはどうでしょうか?

この「発菩提心」、菩提心を発すというのがどのような事か。これ一つ分かっただけでも、19願を実践するのは我々には不可能、それこそ捨家棄欲、出家して仏道一筋にでもならなければできないことだと判るでしょう。


古くはこの記事で林遊さんの解説を載せてありますが、今一度説明します。まず、菩提心とは

梵語ボーデイ・チッタ(bodhi-citta)の漢訳。詳しくは阿耨多羅三藐三菩提心といい、無上正真道意・無上菩提心・無上道心などと漢訳する。仏果に至りさとりの智慧を得ようとする心のこと。

です。この心をおこすことを「発菩提心」といい、仏道の出発点とされるというのです。「絶対の幸福」などというこの世の楽しみを得ようとする心でもなければ、単純にやる気、奮発心を起こすということでもありません。

これについて、梯實圓著『本願のこころ』ではこのように書かれています。

********************
すべての仏や菩薩は、仏道修行を始めるときに総願と別願とをおこします。総願というのは、すべての菩薩に共通している誓願のことですから、通願ともいいます。菩薩が修行を始めるときに、まず自利(智慧)と利他(慈悲)を完成して仏になろうと誓う菩提心をおこしますが、その内容は、願作仏心(仏になろうと願う自利の心)と度衆生心(衆生を済度しようと願う利他の心)であり、さらにそれを広げれば四弘誓願として表されているような誓願を総願といいます。
 『往生要集』作願門には、
  一には衆生無辺誓願度。(衆生は無辺なれども、度せんと誓願す)
  二には煩悩無辺誓願断。(煩悩は無辺(尽)なれども、断ぜんと誓願す)
  三には法門無尽誓願知。(法門は無尽(量)なれども、知らんと誓願す)
  四には無上菩提誓願証。(無上なる菩提を証せんと誓願す)
                             (『註釈版聖典』七祖篇、九〇三~九〇四頁)
という度、断、知、証の四弘誓願として表されています。なお文言は書物によって少し違うこともありますが、意味は同じです。
 別願というのは、特定の仏、菩薩が、それぞれ特色のある誓いを立てられることをいいます。釈尊には五百の大願があり、薬師如来に十二の大願があり、阿弥陀如来に四十八願がありますが、それを別願というのです。
(p.39~p.40)
********************

菩提心」の内容は、仏になろうと願う自利の心(願作仏心)と、衆生を済度しようと願う利他の心(度衆生心)であり、それをさらに詳しく言い表したものが四弘誓願であります。ですから、

菩提心を発して」=「四弘誓願を発して

ということです。我々に四弘誓願をおこせというのですから無茶ですね。「発菩提心」とはこういうことなんです。救うべき衆生は数限りなくいるが、ことごとく救い尽くそう。煩悩は際限なくわき起こってくるが、残らず断ち切っていこう。学ぶべき真理に尽きることはないが、ことごとく知り尽くしていこう。さとりの智慧は無上であるが、完全にさとり極めていこう。これが四弘誓願の内容であり、このような心をおこすことを「発菩提心」と言うのです。高森会長と愉快な仲間達はこの「菩提心」ということをあまりに軽く考えすぎています。

19願を実践するというのなら、まずは「菩提心」をおこすところからです。でなければ、次の「修諸功徳」以降が意味をなしません。19願も究極的にはさとりを完成し、あらゆる衆生を救う自利利他円満を目指す仏道です。仏道の出発点であり阿弥陀仏がおこせと言われる「菩提心」の抜けた行は19願の行とは言えません。


会員の皆さんは、自身はそのような清らかで崇高な「菩提心」をおこせるものかどうか、よく考えてみましょう。そして、やるなら「菩提心」をおこしてから様々な善根功徳を修めて下さい。そうでないと「19願を実践する」ことになりません。親鸞会で言う「三願転入の道」とやらを進むことにはなりませんよ。

今回はここまでとし、続きは改めてまた書きたいと思います。



【参照】
『WikiArc』菩提心

「御正忌」の御文章に出てくる「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」が、親鸞会流「三願転入の教え」を完全否定していることに全く気付いていない高森顕徹会長

本日はまたいつもの演題

映画『なぜ生きる』のセリフ
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか。


で高森顕徹会長の話がありました。内容の一部は

『飛雲』曇鸞大師の体験談を全否定する高森顕徹会長の謗話

で紹介されている通りです。前回の鳥取会館落慶の時には

・18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」であり「念仏」であり、大切な「宿善」となる

などと、救われるには念仏称えることが必要であるかのように説いておきながら、今回は

・親鸞聖人の教えについて、学校の教科書では「念仏称えたら極楽浄土に往ける」とあるが間違いだ
・今朝の西本願寺のラジオ放送でも「念仏称えたら極楽浄土に往ける」と間違ったことを言っていた


と、前々回の報恩講の時のような念仏否定の教えを話していました。相変わらずの迷走ぶりです。


ところで、今回は話の中で『御文章』5帖目11通が取り上げられました。この「御正忌」の御文章では、親鸞会の大好きな「信心決定」とはどんなことかについて、その正確な意味が教えられています。それが、

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。

善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。

さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。


というお言葉です。ここから、

信心決定す
=「南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたる
=「南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたる

ということが分かります。「信心決定す」とは、高森会長の言葉で言えば「18願のお約束通りになる」ということですから、蓮如上人は高森式に言うなら

・18願のお約束通りになるために必要なのが、南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしること

と教えられています。では「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」とはどんなこころかと言えば、

「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。

「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。


だというのです。諸善は「必要な方便」どころか「もろもろの雑行をすてて」と教えられています。

蓮如上人 もろもろの雑行(諸善)をすてて
――――――――――――――――――
高森会長 必要な方便が「諸善」


蓮如上人の仰せと高森会長の主張は正反対です。他の『御文章』もそうですが、「必要な方便」だと言って諸善を勧めている箇所は1箇所もありません。どこを読んでも諸善(雑行)は「すてて」としか教えられていません。つまり、知りなさいと言われる「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」の中に

・18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」

などという内容は無いことが分かります。親鸞会流「三願転入の教え」の完全否定です。高森会長はそのことに全く気付いていない様子です。


人間の力では如何ともしがたいこの生死出離の問題、後生の一大事を、ひとえに阿弥陀仏におまかせする。そのような者を造作もなく助けて下さる。これが「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」です。阿弥陀仏は名号を称える者を極楽に迎えるとお誓いですから、ひとえに阿弥陀仏におまかせするとは

念仏一行で助かると深く信じて称える

ということです。それを、浅く信じて、念仏を自分の功徳のように思っていたり、あるいは何の分別もなく、信心もなくただ発音念仏していたりしたら往生は極めて不確定だから、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」をよく知って称えなさいよと教えられたのが蓮如上人です。

信心は大事ですが、念仏を離れた信心はありません。しかし、親鸞会では信心の内容に念仏はまったく関りが見えません。これでは会員が信心も安心も無いのは当たり前です。会員の皆さんは、蓮如上人とは正反対の教えを授ける高森会長から離れ、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」をよく知ってお念仏申して下さい。

退会して9年を振り返る ー 悔いが残らない方を自分で選べ

私が親鸞会を退会したのが2009年10月25日の事です。もうその後、親鸞会在籍期間より長い時間を過ごした計算になりますが、気がついてみればあっという間だったなぁという感想しかありません。退会して9年、年末にはブログを始めてから10年目ということになります。何か特別な事情がない限りは今後もボチボチと更新していくつもりなので、読者の皆様どうぞよろしくお願いいたします<(_ _)>

それにしても改めて読んでみると懐かしいです。昔はこんな記事を書いてたんだなぁ(;^ω^)

退会から1年を振り返る
退会して2年
退会して3年を振り返る
退会して7年を振り返る ― 決して幸せにならない教えに彷徨(まよ)って

普段忙しくて振り返る余裕もありませんが、たまにはそんな時間を設けたいものです(笑)


さて、何度も書いていますが、私が親鸞会を退会した理由は教義上の矛盾です。弥陀の救いは「一念の救い」だと言いながら、実際は「宿善を厚くする教え」、「三願転入の教え」、「光に向かう教え」。宿善が厚くなるにしても、信仰(?)が進むにしても、横の道を進むにしても、救われるのは宿善が厚くなった先、信仰(?)が進んだ先、横の道を進んだ先、縦の線まで辿り着いた先の「未来」であって「」ではありません。これでは明らかに「あと一秒しか命のない人に、三秒かかる(※)」教えです。

高森会長によると、お釈迦様は当時の人々を横の線の軌道に乗せるのに45年かかったらしいです。それなら俺はいつ横の線の軌道に乗って、それから横の道を進んで助かるんだ? これがずっと疑問でした。とにかく言えるのは、とても今助かる教えではないということです。

その分かり易い例を一つ挙げるならば、親鸞会ではよく「善をしなければ信仰は進みません」と言うでしょう? ここで考えてみて下さい。もし自分の命が今日一日しかないとしたら。その一日24時間の間に、どのような善をどれだけやれば信仰が進んで助かるというのでしょうか?

「因果の道理」や「七仏通戒偈」、「十九願」や「定散二善」、「宿善」や「方便」等の語を用いてさも「善の勧め」が要るように説いているけれども、それを実践した後でないと助けないという本願では救いから漏れてしまう者が相当いるのではないか。何より自分自身、死ぬまでに如実に実践して横の道を進み、縦の線まで辿り着けるのだろうか? たとえ教えは正しいとしても、自分のような者にはとても無理なのではなかろうか?

このように信仰上の疑問をずっと抱えていたところ、先に退会した先輩から教義の誤りを知らされ、これはもう親鸞会にいても駄目だ、無駄だと見切りをつけて退会しました。


もはや思考能力のある人、今の救いを求める人は粗方出て行ってしまったかもしれませんが、会員の皆さんの中にはまだ真摯に我が身の後生と向き合い、阿弥陀仏に救われたいと求めている方がおられると思います。

もし、教義上や信仰上の疑問でも、組織的な点でも、「何か親鸞会はおかしい」と感じて当ブログを読んでいる会員さんがありましたら、どうかその疑問を放っておかずに、納得ゆくまで調べて頂きたい。親鸞会からの情報のみを信じ、鵜呑みにするのではなく、もっと幅広く情報を取り入れて、総合的に、自分の頭で良し悪しを判断して頂きたい。その結果、やはり親鸞会が正しいと判断したのなら続ければいいし、間違いだと判断したら退会するなり、お仲間に教えてあげるなり、その他自分が最善だと思える道を選んだらよいと思います。

私に言わせれば、親鸞会を退会して本当に良かったです。その後、まことの真宗に遇い、本願を信じ念仏申す身とさせて頂きました。最近は、聴聞し、お念仏申すほどに、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳、有名無名の教法伝持に携わった方々の御恩、また今まで私を護り育んで下さった両親を始め、多くの有情非情の御恩が思われ、その有難さ、申し訳なさにしばしば目頭が熱くなります。もしもあのまま親鸞会に留まり続けていたら、お念仏の尊さも分からず、助からない不安や焦燥をずっと抱えていたことでしょう。生活面も経済面も、今より格段に苦しかったに違いありません。可愛い子供達も親鸞会の行事に巻き込み、運動会等の学校の行事より富山や行くことを優先していたでしょう。とにかく、退会して本当に良かったです。


ただ、私の価値判断が全てではありません。だから今回は、今後どうしようか迷っている人に、決断を下す際のヒントとして『進撃の巨人』からリヴァイ兵士長の言葉を紹介します。

まぁせいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ

私や他の人に言われるまま退会するなら、それは親鸞会に言われるまま活動しているのと何ら変わりません。大事な事は自分で考え、自分で調べ、自分で探し、自分で選ぶべきです。親鸞会に居続けた方がいいのか、勇気を出して外へ踏み出した方がいいのか、自分で考えて選んで頂きたいのです。当ブログの内容は、その考えて選ぶ際の材料として読んで頂きたいと思います。


親鸞会側の情報は会員の皆さんはよくお聞きの通りですので、当ブログでは「それはおかしいんじゃない?」という情報を提供しています。また他のブログ等でも多く取り扱われていますので、それらで言われていることは正しいのかどうか、経典や聖教に忠実であるのかどうか、読んでよく考えて自分で判断して頂きたいです。

教義面では、
飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~
親鸞会を脱会した人(したい人)へ
親鸞会教義の誤り
用管窺天記
安心問答(浄土真宗の信心について)
元会員から見た浄土真宗親鸞会
21世紀の浄土真宗を考える会
親鸞会の邪義を正す

組織面、法話案内、その他に関しては、
さよなら親鸞会
なぜ私は親鸞会をやめたのか
浄土真宗の法話案内
あさ川進の、宗教と私
私の白道
あなたの白道

等が参考になると思います。他にも親鸞会経験者、非経験者問わず浄土真宗関連のブログは多くあります。一部は右下のリンク先に載せてありますが、ご自分で検索してご法義に則したものを探すのも良いでしょう。

人生は一度きりで、失った時間は戻りません。ことは生死出離の問題、後生の一大事です。この問題に関しては、どうか一人一人が悔いなき選択をして頂きたい。そう思うばかりです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
悔いが残らない方を自分で選べ:進撃の巨人

(※)・・・『なぜ生きる』p.343より

「仮」「方便」が「方便化身・化土」のことだと分からない、本当に真宗に無知な高森顕徹会長

昨日は鳥取会館落慶行事が富山であり、そこで高森顕徹会長の話があったようです。内容は

『飛雲』再開した三願転入の妄想話

に紹介されているように親鸞会流「三願転入の教え」でした。去年復活させた親鸞会流「宿善論」といい、今年復活させた創作「二河白道の譬」といい、高森会長は徹底的に論破されて引っ込めざるを得なくなった自説をほとぼりがさめた頃にまた復活させるという手法を用いています。

『顕正新聞』等の機関誌ではちょいちょい「三願転入の教え」は出てきていました(※)。が、公に話をするのは随分久しぶりな気がします。それほど「善の勧め」をせざるを得ないという状況なのでしょう。


さて、今回は「大悲願海」について話がなされたそうです。「大悲願海」の語は、公式ホームページにあるように

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。「真仏土文類」

から取ってきたものです。ここから「三願転入の教え」に結び付ける点だけ考えても、高森会長が本当に真宗に無知であること、また相当の悪意があって話をしていることが判ります。

親鸞聖人は『教行証文類』の証文類までで、真実の教行信証とは何かを教えられてきました。真実の教行信証とは、我々が真実報土に往生し、成仏する教、行、信、証のことです。証とは助かった結果で、もう後の話ですから、我々に必要なのは助かるタネ、すなわち行信です。その真実の行信とは、

行ー如来選択回向の念仏
信ー本願力回向の信心


です。共に阿弥陀仏より回向され与えられる真実行、真実信で、我々の方で何か用意することは要らないぞ、そこへ我々の方であれこれ計らって手を加えるというのは間違いだということを親鸞聖人は仰っているのです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。「信文類」総決

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。「証文類」総決

往生成仏の行も信も、因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならないというのです。対して、私達がどんなに真心を尽くして浄土に往生したいと願い、様々な行を積んだとしても、我々に清浄の真心は起こせませんから報土往生はできません。だからそのような我々が報土に到ってこの上ないさとりを開こうとするなら、ただ如来回向の他力の行信を用いよと教えられたのが親鸞聖人です。

それから、「真仏土文類」では阿弥陀如来という仏、また浄土というのが本願に報いて成就された報仏、報土であることが説かれています。阿弥陀如来の浄土というてもそれは化土ではないかという論難が中国では盛んにあったそうで、そうではない、願に報いて成就された真の報仏土なんだということを論証されているのです。


そして、いよいよ次の「化身土文類」を用意する前段階、準備として

それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。

と仰っています。阿弥陀仏の本願に真実と方便がある、だから成就された仏と浄土にも真実と方便とがあるというのです。ここで「」(方便)とあるのは、

真実に近づけるために絶対必要なもの

と高森会長が強弁するようなことではありません。「方便化身・化土」と言われているように、方便の仏と浄土、すなわち『観経』真身観の仏、また化土、懈慢界、疑城胎宮のことです。

まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。

真実の行信、如来回向の南無阿弥陀仏によって往生する世界は、因が同じですから当然果も同じです。ところが、方便の浄土は各人各別の自力の行信によって往生する世界ですから千差万別で、同じ浄土というわけにはいきません。その千差万別の自力の行信による果報、それが「方便化身・化土」です。

ですから、「方便」というのは真実報土に到るのに絶対必要なものとして建てられた願、説かれた教え、行信ということではなく、方便化土に往生する願、教え、行信ということです。高森会長が

18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」であり「念仏」であり、大切な「宿善」となる

として19願、20願の行信、自力諸善と自力念仏を勧めるということは、結果から言えば

方便化土に往生しなさい

と勧めていることに他なりません。そうやって自力の行信に囚われている間は報土往生できませんから、

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。

と親鸞聖人は仰っているわけです。方便の願の行信を勧められている親鸞会会員は、完全に如来広大の恩徳を迷失しています。だから心からの安心も満足も無く、勧められるまま獲信・往生とは無関係な活動をやって、信仰とやらが進んでいるつもりで喜んでいるのです。


自力の行信に囚われて「これで助かるんだ」とやっていては化土へ往ってしまいます。『歎異抄』の作者は

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。

と、念仏しながらも辺地(化土)へ往ってしまう同行がいることを歎いているのです。本願に真仮、行信に真仮があることを知らず、仮の行信に執心していては、その結果は方便化土への往生です。これが親鸞会の場合は、化土へ往ければ万々歳で、自力の行信もどき、善もどきの組織拡大活動に従事する会員はどう考えても流転輪廻を免れません。加えて念仏誹謗していますから、必堕無間というのもあながち間違いとは言えません。

高森会長が勧めていることは良くて方便化土への往生で、実態は流転輪廻、必堕無間の因を勧めています。会員の皆さんは、間違っても真実報土への往生、獲信を勧めているのではないと気付き、早く親鸞会を脱してその邪義から離れて下さい。

『歎異抄』という名の由来も、「摂取不捨の利益」も、何一つ理解していない高森顕徹会長

先日10月13日(土)、14日(日)は親鸞会で報恩講が催され、高森顕徹会長の話がありました。今回は

歎異抄第一章にある「摂取不捨の利益(りやく)」の世界とはどんな世界か?

という質問に関してだったそうです。しかし内容を聞けば、創価学会の信心に加えて親鸞聖人の言われたことのない珍らしき法を説いていただけ。これで親鸞聖人の御恩に報いる講のつもりかと言いたくなります。もしも御開山が高森会長の話を聞いたとしたら、どんなにか悲しまれることでしょう。なお、話の一部は

『飛雲』親鸞聖人の教えに無知で正反対の信心を自慢する高森顕徹会長と愉快な仲間達
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』有名俳優のトークと歌。そして映画「歎異抄をひらく」制作発表しかなかったような60周年大会(2018年10月13日14日親鸞会館報恩講について)

にて既に取り扱われています。


当ブログも内容を一つずつ区切って見ていきます。まず『歎異抄』という名の由来について高森会長は

親鸞聖人が教えられたことと異なることに対する歎きであることから『歎異抄』

と話していました。これに関しては全く的外れではありませんが、唯円房自身が語っていることとは違います。それについては「後序」にある通り、

かなしきかなや、さいはひに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて『歎異抄』といふべし。

ということです。一室の行者のなかに、幸いに念仏申しながら、報土ではなく化土に生まれる同行がいること、すなわち信心の異なる同行がいることを歎き、そういう同行がいないように筆を執ったというのです。

一室の行者」とは同じ念仏の教えをうけた同門の人々ということで、第六条で言えば「専修念仏のともがら」のことです。念仏以外の助業を兼修していたり、五正行以外の雑行を兼修していたりしたら「専修念仏」になりません。でははたして親鸞会の会員は「一室の行者」「専修念仏のともがら」の中に入るのかどうか。こんな事は論ずるまでもない問題ですね。そういう者達が『歎異抄』について話をするとか、「摂取不捨の利益」がどうだとか話をする事自体、ギャグ以外の何物でもありません。


次に、話の中心である「摂取不捨の利益」については

1、阿弥陀仏の誓願、本願によって絶対の幸福の身になったこと

と説明し、その「絶対の幸福」とは

2、死んだら阿弥陀仏の浄土に往って生まれることがハッキリすること

だと話していました。更にここで「無明の闇」の語を出し、それは

3、「死んだらどうなるか分からない心」「なぜ生きるか分からない心」

なのだと解説。お判りの通り、浄土真宗ではなく、いつもの高森教の話をしただけでした。

1については、そんな「絶対の幸福」という語が連想させるような、莫大な幸福感が得られ、その幸福感が常に満ち溢れているといったものではありません。それに第一、「摂取不捨」とは

一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。『観無量寿経』真身観

から出てきたもので、阿弥陀仏の光明は「念仏の衆生」を「摂取して捨てたまはず」です。三願転入の教えだとか言って雑行や雑行もどきの組織拡大活動に走っている会員が「念仏の衆生」なのか。これも先ほどと同様に論ずるまでもない問題です。阿弥陀仏の光明は雑行を修める者を照らし摂めることはありません。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。「化身土文類」雑行釈

会員の皆さんは、「摂取不捨の利益」の世界がどんな世界かを知る前に、どのような者が「摂取不捨の利益」にあずかれるのか、親鸞会はどのような団体なのか、まず自分達自身を知った方が良いと思います。

さて、さすがに1だけでは非難を免れないからか、高森会長は「絶対の幸福」を2の意味で説明していました。が、これも聖教に反する珍しい教えです。

『飛雲』浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

を読まれればお判りのように、信心獲得とは死後がどうなるかハッキリすることではありません。

死後どうなるかまで含めて、全て阿弥陀仏に、本願力におまかせすること

です。これが「摂取不捨の利益」にあずかった念仏行者の信心ですから、「死後どうなるかハッキリする」という神がかった智慧を体得することとは違うのです。

この違いが理解できない高森教徒は盲目的に高森会長の説を信じ切っていますが、それは教えの正しさ云々ではなく、何十年と信じて従ってきた教えが今更間違いであっては困るという我執ゆえではないでしょうか。

これまでの事がお判り頂けたら、3もデタラメであることが明らかに知られると思います。「無明の闇」とは言葉を換えれば「本願疑惑心」であり「自力の心」です。それは

「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる」という本願を疑う心

であって、その「無明の闇」が破られても死後どうなるか分かるわけでも、「なぜ生きる」かの答えが分かるわけでもありません。親鸞聖人は「なぜ生きる」かの答えを示された方ではなく、我々の浄土往生、成仏の道である「念仏」を教えられた方です。その「念仏」の信心も教えられていますが、とにかく

念仏を称えると極楽浄土に生まれるというのは間違い

と主張する高森会長の信心とは正反対であることはまたまた論ずるまでもない問題です。


親鸞聖人の教えによって人生は「お念仏申すための人生だった」と知らされたというのが淳心房の領解です。これに同調される方もあるでしょうし、されない方もあるでしょう。あるいは私とは全く違う領解の方と色々あると思います。「人生の目的」「なぜ生きる」の捉え方は他力の信心とは無関係であり、各人各別で一つに限定されるものではありませんから、この辺は自由で良いのです。

「人生の目的」「なぜ生きる」の答えではなく、全ての衆生(私)を迷いの世界から出離させ、往生成仏させるという「阿弥陀仏の目的」、その目的を果たす(全ての衆生が往生成仏する)万人共通の道である「念仏」を明示されたのが親鸞聖人です。「人生の目的」「なぜ生きる」ではどうしても自分が主体となって阿弥陀仏の救いを求めていく方向に走りがちです。それが親鸞聖人の誡められた「自力の心」であり、「無明の闇」です。

難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。「総序」

二日目はこの御文を出して話をしていましたが、親鸞会の教えはどう考えても「無明の闇」を深めるような教えなので、それをいくらまともに信じて聞いたところで「無明の闇」は破られません。我が身の無常、罪悪を思い、迷いの世界からの出離、往生を願うなら、

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

と仰せのように専ら如来選択回向の念仏一行を修め、ただ願力回向の信心を崇めて頂きたいと思います。

【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(12)

更に往相回向の行信についての解釈が続きます。今回は「行の一念」についてです。

おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。「行文類」行一念釈

弥陀選択回向の称名と、願力回向の信心、それぞれに一念ということがあります。

行に「則ち」一念あり、また信に一念あり。

行については「則」の字がついていますが、信については「則」の字がありません。信の一念はそのもの当体で顕されているのに対し、行の一念は違います。行の一念は、「称名の遍数について」、念仏ではなく、念仏の数について顕されているからです。

称名の遍数に「」いて選択易行の至極を「」開す、ですから、就顕の法門とこれを言うそうです。対して信の一念は、「」れ信楽開発の時剋の極促を「」す、ですから、斯顕の法門と言われます。参考までに「信文類」の信一念釈を載せておきます。

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。「信文類」信一念釈

信の一念は往生の因を直接あらわしているのに対し、行の一念は念仏の数にことよせて、わずか一声の念仏で往生が決まってしまうと「選択易行の至極」を顕されています。我々が往生成仏するのに、これ以上易しい、これ以上楽な方法は無いということを教えられているのです。


信心を獲なければ往生できんと言われりゃ難しい。楽なと言ったらお念仏。浄土往生の最高に楽な法、これが釈尊や七高僧方が示して下された念仏成仏の教えだというのです。私には行一念釈にて「行を間違えるなよ」と言われている気がしてなりません。「行は弥陀選択回向のお念仏以外に無いぞ」とお諭しなのではないか。

信心を獲なさい、貰いなさいとこう言われると、それを求めてガタガタと苦労して、一生の間かかっても信心が頂けないように不安に思う方もあるでしょう。それで、どうすれば信心を獲られるかと考えて、自分なりの一番真剣な姿勢で聞法に臨んだり、無常や罪悪をとりつめたり、聞いた体験談の真似事をしてみたり、知識や同行がこうしたらいいあぁしたらいいということを試してみたりと方法論に走ってしまいがちになります。

信心というのは考えれば考えるほど分からないものです。そして、何とかして獲たい、それで安心したいと求めるのですが、形あるものと違って雲をつかむような話ですから、真剣になって求めれば求めるほど苦しくなります。しかし考えても頑張っても求めても何をしても獲られない。果てはどうして阿弥陀さま助けて下さらないんだと阿弥陀さまにまで刃を向ける、そんな始末です。

信心正因、唯信正因、唯信独達、と信心を強調する話を聞いている人はたいていこのようになると思います。信心が報土の因には違いないんだけれども、その信心の何たるかを誤解して、念仏、南無阿弥陀仏と無関係なありもしない信心、安心、満足、ハッキリスッキリ体験を求めることにつながってしまうのです。

信心正因称名報恩のご法義を誤解すると、信心さえあればいい、念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、等の異安心に陥りがちです。特に真宗以外の、念仏を呪文やまじないの類、また他宗の題目と同類かその変化形位にしか思っていなかった人にとっては。そのような人がいきなり信心正因称名報恩と聞いても何のこっちゃとなるだけではないかと思われます。これではせっかく親鸞聖人が行中摂信から信を別開して明らかにして下されたというのに、聖人のお心に背く結果となるでしょう。


信前だろうと信後だろうと関係ありません。念仏は阿弥陀仏が選択し、往生の行として唯一つ我々に称えよと回向して下さった至易最勝の妙行ですから、称名それ自体は正定業に違いないんです。これを知らない人は、まずそこから理解する必要があります。釈尊や七高僧方が念仏一行を勧める理由はここにあるのです。呪文やまじない、題目なんかと一緒くたにして「念仏くらい・・・」と思ってもらっては困ります。

そして、念仏自体には自力も他力もありません。これを称える人の心に自力、他力の別があるのです。念仏を称えながら大慶喜心を獲られない、仏恩を報ずる心が起きないのは、念仏のこころを知らずに我が善根功徳としているからです。阿弥陀仏の与えられし往相回向の大行であることを知らないからです。

まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
「化身土文類」真門決釈

ここではまず「専修にして」とあります。この世からの出離を願い、往生を願った上で、この悪凡夫が助かる道は念仏しかないと念仏一行を往生行として称える人です。だもの、それ以外の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養等の助業を兼行して往生の助太刀にしようとか、五正行以外の雑行にまで手出ししてあれもこれもとやっている者が「大慶喜心を獲」られないなんて、そんな事当たり前すぎるほど当たり前じゃないか。

釈尊や諸仏はおろか阿弥陀仏の脇士さえも拝まず、ただ阿弥陀仏、帰命尽十方無碍光如来、南無阿弥陀仏のみを本尊としているのは、「ただ念仏」のみが我ら末代不善の凡夫の助かる道だからです。そしてその念仏は、我が善根功徳ではない。「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」という如来の喚び声であると共に、我々の心へ入って来て疑いを除きさとりを獲させる帰命の信となってくださるもの、それが念仏なんだ。我々は大悲招喚の声として念仏を称え聞き、ただなんまんだぶに往生をおまかせするばかりなんだ。

だから、色々と迷う必要はない。信心がどうだとか、自力だとか他力だとか、称え心がどうだとか、お前の考えに用事は無い。「お前を浄土に迎えて仏にするぞ」という本願のはたらきにまかせてただなんまんだぶつ。これでこの度の往生は一定だと如来の方できちっと決め定めて下さるんだ。

このようにただ念仏で往生すると心が定まったのが信心です。獲る、頂く、貰うと言うけど、ものを貰うように何かを頂くんじゃない。我が往生は念仏によるしかないことに疑いが無くなってしまった、それが信心であり、この信心が往生の正因だ。

そしてその上の称名念仏は如来我が往生を定めたまいし御恩報尽の念仏と言わざるを得ない。信心が正因なら称名は報恩。一声の念仏をも待たない究極の慈悲だから、仏の御恩に報いざるを得ない。信心を獲た上の称名はもはや自分の功徳として称えるのではなく、如来さまの御恩に報いる行、本願が弘まってゆく報恩の行だと明らかにして下されたのが蓮如上人でございます。


信心を獲なければ往生できんと言われりゃ難しい。信心を獲る方法が判りませんもの。楽なと言ったらお念仏。その初一声のところで往生が決まってしまうという阿弥陀仏のお慈悲のきわまりを示されたのが

選択易行の至極を顕開す

と言われたお心かと伺います。これは勿論、下のリンク先にあるように、阿弥陀如来の願力一つで救われることを顕しています。一声称名することによって始めて往生の因が決定するとか、あるいは本願を信受したとき(信の一念)に、同時に最初の一声が必ず称えられるといったものではないことに注意が必要です。

南無阿弥陀仏。字にすればたった六文字ですが、我々の往生はこれ以外無いし、仏教もこれ以外無い、これが全てと教えられたのが法然聖人であり親鸞聖人であり蓮如上人です。なんまんだぶがアルファでオメガってのはこういう事かな。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『安心論題』行一念義
『21世紀の浄土真宗を考える会』行の一念
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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