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お念仏しながら髭を剃ってみた

この記事の後日談。

私もお念仏しながら髭を剃ってみた。

一応剃れないこともない。

500年前とは違って今はくっきり映る鏡もあるし、髭剃りクリームもある。また、今自分が使っているカミソリはシッククアトロの5枚刃だから、そうそう口の周りを切る心配も少ない。

ただ、大雑把には剃れるが、特に口角の辺りをきれいに剃ろうとすると口をすぼめなければならない。その時はきちんと発音できず、どもった声の念仏になってしまった。

さすがに道宗のような、割り木を敷いて寝るようなことはできないが、先人の念仏者を尊敬し、自分も如来回向のお念仏を称え聞きつつお浄土へ旅する人生を生きたい。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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自分だけ「安全な所」に立って、溺れている者を助けようとしない高森顕徹会長

1月19日(日)は富山で高森顕徹会長の「ご講演」がありました。内容は

映画『歎異抄をひらく』のセリフ
「溺れている者を助けるには、安全な所に立たねばならぬ」
とはどんなことでしょうか?


という質問に答えるというものだったそうです。

既に高森会長の言葉ありきで、それに合わせて聖教の言葉を出して解説している感でいっぱいです。自分の説ありきでそれに合うような聖教の言葉を持ってくる人というのは本願寺派でもたまにありますが、僧籍を剥奪されて「打倒本願寺」に生涯を捧げてきた高森会長はそれしかしないと言っても過言ではありません。


さて、それではまず高森会長の話の大まかな内容を記します。

・「溺れている者」とは色々な苦しみで苦しんでいる人
⇒四苦八苦の説明

色々な苦しみで苦しんでいる人を助けるには、「安全な所に立たねばならぬ」。

・「安全な所に立たねばならぬ」には二義ある。

・一つは「助ける力を持たねばならない」。
しかし私達は阿弥陀仏の本願に救われて絶対の幸福になっても苦しんでいる人を救う力は無い。
助ける力があるのは、阿弥陀仏の本願、大悲の願船のみ。
だから釈尊は仏教の結論として「一向専念無量寿仏」と教えられた。

・もう一つは「阿弥陀仏にこの世で救われて絶対の幸福になること」。
それを「捨自帰他」、自力(本願を疑う心)を捨てて他力に帰するという。
そうなった人は死ぬと阿弥陀仏の極楽浄土に仏と生まれることができる。
そうすれば神通力で縁のある人を救うことができる。
⇒『歎異抄』第五条

・人を救う力は無いが、導くことはできる。それは善知識のもとへ誘うこと。
人に一向専念無量寿仏を勧めること。

・「捨自帰他」とは絶対の幸福になること、正定聚の位に入ること。
入正定聚までの生活は五正行
⇒五正行の説明


先ほど私が言ったことがお判り頂けるのではなかろうかと思います。


次にこの「ご講演」の内容に私からは二点、ツッコミを入れていきます。一つ目は

「溺れている者を助けるには、安全な所に立たねばならぬ」

というセリフ自体についてです。

まぁこれは不適切ですね。高森会長が言っている「溺れている者を助ける」云々といった話は

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(善導大師・観無量寿経疏・玄義分)

等の語を意識してのことでしょうが、そもそも「水に溺れたる人」を助けるのは阿弥陀仏であって善知識や私達ではありません。私達が何かをする、何かをできるというのは驕慢も甚だしいです。

確かに阿弥陀仏から大慈悲心を頂いた我ら念仏行者の心情からすれば、何とかして有縁の方々も本願を信じ念仏して浄土へ生まれる人生を生きてもらいたいという、いわゆる有情利益の心が出てくるかとは思います。

しかし、私達には人を救う力どころか、人をご法座へお連れすることも難しい、お念仏のいっぺんも称えさすことすらかなわない、非常に非力な存在です。それどころか、本心をたたけば自分や愛する者の幸福は願うが、縁の無い人、憎い人にはそんなことは思わない、冷たい心しか持ち合わせていないことに気付きます。

そういう私達が、一人一人行動は違えど、ご本願を、お念仏を、ご信心を有縁の人に何とか何とかとやっているのはひとえに南無阿弥陀仏のはたらきであって、私達の煩悩妄念から出ている心、行動ではありません。

また、還相回向にしても、衆生済度はすべて回向ですから南無阿弥陀仏のはたらきによってであって、あくまで私達は衆生を済度するという利益を恵まれるということです。私の力というのは微塵も及ばない、ただ本願力の回向によってすべてなさしめられる業なんだと示されたのが二回向四法の『教行証文類』の教えです。

何やらかんやらと説明していますが、

「溺れている者を助けるには、安全な所に立たねばならぬ」

というセリフからは、我執我所執のにおいがプンプン漂ってきます。


二つ目は、入正定聚までの生活は五正行を毎日実践することだというような話をしていた点についてです。

高森教で言う「五正行」とはいわゆる朝晩のおつとめのことですが、これを信心獲得までの階梯、道のりとして教えるところが高森教らしいです。これでは親鸞会で言うところの本願寺が「念仏称えたら助かる」と言っているというのと同じで、親鸞会は「朝晩のおつとめをキチンとしたら助かる」と言っているようなものです。

おつとめとは、南無阿弥陀仏の六字のこころが説かれている『正信念仏偈』や『御文章』を拝読させて頂き、「一心に我をたのめ、必ず後生助けるぞ」の仰せを一身に受けさせて頂いて有難いことだ有難いことだと喜ぶ御恩報謝の行です。その反対におつとめをして助かろう、救いに近づこうとかかっているのは雑行雑修です。

こうやって救いを彼方に置き、そこまで求めていこうというのが特に高森教経験者の心情ですが、これは本願に反する悪い心がけです。本願は南無阿弥陀仏と仕上がって今、ここにいる、この私に届いているのです。今、ここにいる、この私に既に届いている南無阿弥陀仏を、「一心に我をたのめ、必ず後生助けるぞ」の仰せであると称え聞かせて頂く。これが信心であり、この他には後生助かるためには何もありゃしません。後は、既に往生を定めて下された如来広大の恩徳に、行住坐臥にお念仏して報じたてまつるのみです。

それと、この話では一見、雑行を勧めていないように思えますが、高森教に詳しい人は実は雑行、高森の行の勧めがなされていることが分かることでしょう。五正行の中に「讃嘆供養正行」がありますが、高森教では

・親鸞会に人を誘うこと
・親鸞会にお布施をすること


をも「讃嘆供養正行」の中に位置づけています。今回の話の中に

・人を救う力は無いが、導くことはできる。それは善知識のもとへ誘うこと。

等とあったことからもそれが伺えるでしょう。この「善知識」が高森会長を指すことは会内では常識だからです。五正行の意義は正しく示されず、こんな自力雑行、実態は高森の行を勧められ、絶対の幸福というご利益が目当てで後生を願わない会員がいつまでも助からないのは当然すぎるほど当然のことです。


結局、高森会長風に言えば、高森会長は自分だけ「安全な所」に立って、溺れている者を助けようとしません。いや、溺れている者を更に溺れさせ、むしれるだけむしって生死の滝壺に突き落とそうとしていると言っていいやも知れません。これに気付かず、本願のおこころを頂いてお念仏することができない、どころか、搾取されるだけされて現当無益の一生を空しく過ごさんとする高森教の信者は、実に哀れ哀れです。

津国郡家の主計と申す人あり。ひまなく念仏申すあひだ、ひげを剃るとき切らぬことなし。わすれて念仏申すなり。

昔の念仏者には我々の常識ではとても考えられない方が多くいた。例えば摂津の国の主計。

『御一代記聞書』(62)
一 津国郡家の主計と申す人あり。ひまなく念仏申すあひだ、ひげを剃るとき切らぬことなし。わすれて念仏申すなり。人は口はたらかねば念仏もすこしのあひだも申されぬかと、こころもとなきよしに候ふ。

【現代語訳】
 摂津の国、郡家村に主計という人がいました。
いつも絶えることなく念仏を称えていたので、ひげを剃るとき顔のあちこちを切ってばかりいました。
ひげを剃っていることを忘れて念仏を称えるからです。
「世間の人は、ことさらつとめて口を動かさなければ、わずかの間も念仏を称えることができないのだろうか」と、何とも気がかりな様子でした。


これについて、『我が師村田和上』(桜井 鎔俊)には次のように記されている。

津の国とは摂津国(現大阪府)、郡家は役名であろう。『伝記』に依れば、この郡家の主計なる人物は、非常に貧しくて困り果て、清水の観音に「福徳を授かりたい」と祈願した。満願の霊告に、「これより東の方へ尋ねて行け。必ず汝に福徳を授けてくれる人に出会うであろう」というお言葉を聞き、お告げのとおり東の方を尋ねて行くと、数人のお同行たちがお寺参りの帰りらしく、念仏して通るのに行き合い、事の次第を語り、尋ねると、異口同音に「それは野村殿(蓮如上人住居、住居をもって聖者の尊称とした)のことであろう」と、上人のご住居を教えてくれた。教えられたとおり野村殿に上人を訪ね、詳しく次第を物語ると、上人は快く承諾され、「七日間滞在し、続けて法縁に会いなさい」と言われるのであった。彼はお言葉のとおり毎日法縁の席に列していた。三日目の法縁の果てた後、一般の参詣者は帰っても、彼は独り残り、大声をあげて泣いていた。上人が、その訳を尋ねられると、彼は答えて言う。「われこの世の福徳に惑い、後生の大事を忘れたり」と。

この返答の語は原文のままを掲載したが現代語で言えば、夢幻泡影の如く実体のない幸福を追及して、永遠不滅なる真実の幸福の何であるかを知らなかったと、懺悔したのである。その時、上人は彼の懺悔を尊く思われ、彼のために一文を書き与えられたのが、現在まで伝わっている蓮如上人五帖一部の『おふみ』の第五帖目第六通であるという。

一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、和讃に聖人のいはく、五濁悪世の有情の、選択本願信ずれば、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり。(以下略)

 この『おふみ』の書きぶりが、他の『おふみ』の書きぶりと、かなり違っている点を考えると、かの『蓮如上人伝記』の編者の伝えたところの物語とともに、いかにも真実を伝えているように思われる。このことは、村田和上の御法話にも出たことがあった。この予備知識をもたずに、かの『蓮如上人御一代聞書』のグンケのカズエの条下を読んでも「ヒゲをそるときも念仏を忘れず申すので、顔を切らぬことがなかった」と蓮如上人から誉められるような念仏者に、どうしてなり得たのか、理解に苦しむであろう。

(p.211~p.213)


私もこれを読むまではどうして髭剃りしている時まで、口の周りを切ってまでお念仏しているのか理解できなかったが、こういう物語を聞かせて頂くとそれが少し分かる気がする。

蓮如上人は信心決定の人のまねをせよと仰せられている()が、信心決定の念仏行者であるならばなおさら先人のお念仏に対する姿勢位は見習わねばならないと思った。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「ねてもさめてもたつてもゐても」「行住坐臥に」「昼夜朝暮に」「ただねてもおきてもへだてなく」称名念仏すべきものなり

前回少し触れた称名報恩について。

信心を獲た上の称名は報恩であると知っている人は多いと思いますが、絶え間なく念仏せよと教えられ、またそれを実践している人は珍しいように見受けられます。

さてこのうへには、たとひ行住坐臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもふべきなり。1帖目2通

されば善導和尚の「上尽一形下至一念」(礼讃・意)と釈せり。「下至一念」といふは信心決定のすがたなり、「上尽一形」は仏恩報尽の念仏なりときこえたり。1帖目4通

そのうへには、仏恩報謝のためには行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。1帖目5通

さてこのうへには、ねてもさめても、たつてもゐても、南無阿弥陀仏と申す念仏は、弥陀にはやたすけられまゐらせつるかたじけなさの、弥陀の御恩を、南無阿弥陀仏ととなへて報じまうす念仏なりとこころうべきなり1帖目7通

かやうにこころえてのちは、行住坐臥に口にとなふる称名をば、ただ弥陀如来のたすけまします御恩を報じたてまつる念仏ぞとこころうべし。1帖目15通

ねてもおきてもつねに申す念仏は、かの弥陀のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。2帖目2通

昼夜朝暮は、如来大悲の御恩を雨山にかうぶりたるわれらなれば、ただ口につねに称名をとなへて、かの仏恩を報謝のために念仏を申すべきばかりなり。2帖目4通

昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。2帖目7通

行住坐臥に口に申さんところの称名は、弥陀如来のわれらが往生をやすく定めたまへる大悲の御恩を報尽の念仏なりとこころうべきなり。2帖目8通

このうへにはただねてもおきてもへだてなく念仏をとなへて、大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこころうべきものなり。2帖目9通

昼夜朝暮にはただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。2帖目10通

・・・(以下略)

称名報恩というと随分と気軽に思っている方もあるかも知れませんが、蓮如上人はこのように、

ねてもさめても、たつてもゐても
行住坐臥に
昼夜朝暮に
ただねてもおきてもへだてなく


念仏せよと仰せです。昼、夜、朝、暮れ、動いている時も、止まっている時も、坐っている時も臥している時も、ですから、一日中ということです。称名報恩もそんな甘っちょろいことではありませんね。

蓮如上人は御門徒の方々にこう仰っておられるばかりでなく、何よりもご自身が実践されてきたことは

予が安心の一途、一念発起平生業成の宗旨においては、いま一定のあひだ仏恩報尽の称名は行住坐臥にわすれざること間断なし。4帖目13通

このようなお言葉を拝せば明らかです。すごい断言ですよね。淳心房、我が身の懈怠ぶりを思うと恥ずかしくてこのような言葉は現時点ではとても言えないです。今後も申せるか自信が無い・・・。

では、今この記事をご覧の皆さんの中で、この蓮如上人の通り実践されている方はあるでしょうか?

お互い反省するところであると思いますが、とにかく、真宗は念仏しなくていいということではありません。また時々申せばよいというものでもありません。信後の称名念仏に対する捉え方は違えど、真宗も他宗と同様、「ねてもさめてもたつてもゐても」「行住坐臥に」「昼夜朝暮に」「ただねてもおきてもへだてなく」称名念仏すべきものなのです。いや、はや往生を定めて下された御恩を思えば、他宗よりよほど称えさせて頂くべきでしょう。

お礼だからしてもしなくてもいいなんてのは論外。おつとめやご法話の時だけというのもさみしい。一日にこの時間はと決めて称名するのは尊いが、ちと・・・。やはり生活の至るところで称名念仏すべきでしょうね。

行住坐臥 不問時節久近

ですから、歩きながら、仕事しながら、寝ながらでもよいのです。仏前で心静めて姿勢を正してでなければならないということはありません。心が落ち着いていようといまいとそんなことは関係ありません。

称名念仏は念仏者のつとめです。念仏者とは何を行ずる人か。念仏者をまた真実信心の行者と言いますが、何を行ずる人を真実信心の行者というのか。よく考えてみたいものです。

蓮如上人のように心がけ、実践されている方が信心正因称名報恩を説かれるなら説得力がありますが、そうでない人がいくら信心正因称名報恩と言ってもね・・・。お互いに、反省しつつ、行住坐臥につねに称名念仏して大悲弘誓の恩を報じたてまつりたいものです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

念仏往生と信心正因、称名報恩

親鸞聖人の教えは、念仏往生、念仏成仏です。

阿弥陀仏が本願において私の往生の行としてただ一つ選択し、称えよと与えて下された念仏の一行を専修して浄土に往生し、救われてゆく教えです。

その肝要を私の上で適示するならば、本願の仰せを疑いをまじえずに受け容れた信心を正因とします。

念仏は万人に与えられている往生のみちですが、これを私が受け容れなければ私のみちにはなりません。すなわち、私は往生することができません。それで念仏往生ということは、そのまま信心正因と帰結するのです。

この信心は自分で起こすものではなく、如来より与えられる信心であるとして、他力の信心と言われます。

そして、信心を獲た上の称名念仏は、我が往生のためと思って修するのではなく、ひとえに我が往生を定めて下された如来広大の恩徳を報謝したてまつる報恩の念仏と心得て、命ある限り申していきなさいと称名相続を勧められたのが、蓮如上人の示して下されている称名報恩ということです。

称名報恩ということを少し間違うと、念仏は往生の因ではないとか、信前の称名は信心獲得するのに無意味、信前の人に念仏を称えるように勧めるのは間違いだ、などといった異安心に陥ってしまうようです。



【参照】
『飛雲』親鸞聖人の仰る往生の道とは6

自分こそが一番親鸞聖人を悲しませていることに気付かない高森顕徹会長

先日1月5日(日)は富山で高森顕徹会長の初聞法会があったそうです。演題は

「親鸞聖人の悲しみ」

でした。親鸞聖人が喜ばれる年とさせて頂くには、悲しまれたことを知ることが大切だというのです。それを

かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す
『正像末和讃』愚禿悲歎述懐

のお言葉を通して話があったとのことでした。

説明を一通りした後、私達の禍福は鬼神がもたらすものではなく、我々の身口意の三業による善悪の行為が引き起こすものであると因果の道理を出します。その後、釈尊は、私達は身口意の三業で悪ばかり造り続けていると説き()、親鸞聖人はその姿をハッキリと照らし抜かれて

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

と述べておられ、かかる我々を救おうと阿弥陀仏は本願(設計図)を立て、大悲の願船を作られたということを話しています。そして、

・大悲の願船には迷信を破らなければ乗せて頂けない
・鬼神が禍福を与えるという迷信を破らねば、大悲の願船には乗れない


と言って、冒頭の和讃は現在の日本人について嘆かれた聖人のお言葉、悲しみであると話していたようです。


高森会長は、自分は親鸞聖人が喜ばれることをしていると思っているのかも知れませんが、実は、自分こそが一番親鸞聖人を悲しませていることに気付かない様子です。

親鸞聖人は『教行証文類』において二ヵ所、「悲しきかな」と仰っています。一箇所は「信文類」

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

です。これは、金剛心を獲て諸仏方に真の仏弟子と讃えられる身となったにも関わらず、依然として広い海、大きな山のような煩悩にまつわられて、必ず往生すべき身に定まったことを喜ばず、日々仏のさとりに近づいていることを楽しまない己に慚愧されているお言葉です。これは親鸞会的に言えば、

絶対の幸福になったのに、煩悩のために絶対の幸福を喜ぶ心が無い

という告白です。阿弥陀仏に救われたことを「絶対の幸福」とか表現する愚かさがよく知られます。

もう一箇所は「化身土文類」

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

です。ここでは煩悩にまみれた愚かな凡夫が迷いの世界を出離することができない理由を、

助正間雑し、定散心雑するがゆゑに

と教えられています。称名念仏一行を往生の正定業として選択し、回向して下さる弥陀の願心に背き、五正行の中の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の助業と称名の正定業とを同格にみなして修め、その功徳によって往生しようという「定散心」すなわち自力心が雑じっているからだというのです。それを高僧和讃では

助正ならべて修するをば
 すなはち雑修となづけたり
 一心をえざるひとなれば
 仏恩報ずるこころなし


と讃詠されています。善導大師は往生行を正行と雑行とに分けられ、更に正行を称名の正定業と、読誦等の前三後一の助業とに分けられています。そして、上の一つ前の和讃を読めば判るようにその意は

ひとへに専修をすすめしむ

すなわち専修念仏、専修称名を勧めるためであったと親鸞聖人は見ておられます。

その専修念仏、専修称名に対して、助業と正定業を同格にみなして修めるのは雑修であり、これは他力の一心を獲ざる自力の信心の人であるから仏恩を報ずる心が欠けていると言われるのです。

なお上の「化身土文類」のお言葉は真門決釈の御文ですから、その行者はもはや雑行を離れて正行に帰した20願の行者です。ところが20願の行者も、本願のおこころを知らずに助正並べて修め、その功徳によって助かろうという自力心にたぶらかされて本願力に身をまかせることがない、信心の大海に入ることができないから、迷いの世界を出離することができません。そのことを「悲しきかな」と仰っているのです。


親鸞聖人は20願の行者を悲しまれています。では、20願の行者以前の、正行と雑行の分別もつかず、雑行をやることは救いに近づく手段だと思ってこれを修めている人を親鸞聖人はどう思われるでしょうか。また、雑行をやることは救いに近づく手段だからやりなさいと勧める人を親鸞聖人はどう思われるでしょうか。

親鸞会では、因果の道理、七仏通戒偈、19願「修諸功徳」、『観経』「定散二善」等を根拠に、信前の人に六度万行で言い表されているような布施、持戒等の諸善を勧めています。

この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。

ですから、親鸞会では雑行を勧めています。雑行をやっている者は、大悲の願船に乗れるでしょうか。

仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。「化身土文類」雑行釈

ですから、雑行をやっている者を、阿弥陀仏の光明は照らし摂めることはありません。すなわち、雑行をやっている者は、大悲の願船に乗れません。

雑行をやっている者を、親鸞聖人は喜ばれるでしょうか。悲しまれます。

雑行を勧める者を、親鸞聖人は喜ばれるでしょうか。悲しまれます。


高森会長も会員も、親鸞聖人が悲しまれることを平然とやっていることが分かります。先日の高森会長の言葉をもじって言えば

・大悲の願船には迷信を破らなければ乗せて頂けない
・雑行をやることによって救いに近づくという親鸞会の迷信を破らねば、大悲の願船には乗れない


と言うことができます。「親鸞聖人の悲しみ」は親鸞会に向けられています。いつまでも親鸞聖人を悲しませる「親鸞学徒」とは何ぞやと、ため息が出るばかりです。

【ツッコミ】R02.01.01 顕正新聞(年頭所感等について)

本日は、高森顕徹会長以外の年頭所感についてツッコミを入れたいと思います。


まずは「法が説かれる所あればこそ」と題したM布教局長の年頭所感より。

なぁアンタさぁ、四依の文をもじって

「人に依らず、法に依れ」の釈尊のご遺言は、仏法者の死守しなければならぬ指針である。


なんて書いてるけど、「人に依れ」と一番自分に無条件服従を強いているのはアンタ(か父親か)じゃないの?

大丈夫、アンタに言われなくてもアンタに依っている人はいないから。みんな、アンタのバックにいる会長さんに依っているだけ。「人に依らず、法に依れ」なんてわざわざ言わなくても誰もアンタに依らないよ。意味はその内分かると思うからお楽しみに。


次は「「一向専念」貫く学徒に」と題したY総務局長の年頭所感より。

おいおい、釈迦一代の仏教の結論は

「一向専念 無量寿仏」(阿弥陀仏に一向専念せよ)


だって!? アンタ、未だに意味が分かってないんだねぇ。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
(中略)
あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。
『選択集』廃立

親鸞会の大好きな諸善(雑行)を廃して専修念仏になるというのが「一向」という意味だよ。

もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。

法然聖人の教えは明快だ。

一向専念無量寿仏」という経典の言葉は使うけど、全然その通りになっていないのが親鸞会なの。

諸善、すなわち雑行を混ぜたら、もう真宗じゃない。蓮如上人が

されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。『御文章』1帖目15通

と仰っている通り。阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神を拝したり、吉日良辰をえらんだり、加持祈禱をしたり、呪術・符水を用いたりしないことだけが「一向専念無量寿仏」じゃないから。太宰春台の文を用いて、さも親鸞会は「一向専念」を貫いてますみたく教えているけど、ギャグにしかならないから。

三願転入の道を進むために、宿善を厚くするために、信仰を進めるために・・・。こんなことを言っては、諸善と言う名の雑行、しかしてその実態は献金、勧誘、無条件服従等の組織拡大活動を勧めているのが親鸞会。

新春早々、あなたのおかげで、親鸞会は浄土真宗ではないことが明らかになりました。よかったね。


それから、「時間は確実に減っている」と題したK特専部長の年頭所感より。

人間怱々として衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。『往生礼讃』無常偈

の文を引いて、我々に残された時間は確実に減っていること、今やっていることは命をつぎ込む価値のあるものか自らに問えと訴えています。その通りですね、K部長。

ただ、その後の文は読まれていますでしょうか?

おのおの聞け。強健有力の時、自策自励して常住を求めよ。

次の瞬間の命さえ保証できない無常の世界に生きているのですから、健康でいられる時、すなわち今、自らつとめはげんで生滅変化を離れた涅槃のさとりを求めよと善導大師は教えられています。この迷いの世界を厭い離れ、常住の極楽に往生して涅槃のさとりを得ることこそが、命をつぎ込む価値があるものだというのです。

ところで、『往生礼讃』には称名念仏を専修する一行三昧の意義を明かされています。往生極楽のためには、専修念仏以外の雑多な行業、自力の雑行をまじえず、ただ念仏一行を称えよと仰せです。そして信心は、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

という、「名号を称することわずか十声、一声の者に至るまで間違いなく往生させる」という本願に露ほども疑いない念仏の信心です。

これこそ我々が人間に生まれて本当にやるべきこと、命をつぎ込む価値があるものですが、果たして親鸞会はどうでしょうか。絶対の幸福というご利益を餌に聞く者を組織拡大活動に駆り立てるばかりではありませんか。平生業成という看板を掲げていても、会員の一体誰が平生業成の身になって喜んでいるというんでしょうか。私が会員だった時はそういう人は周囲に一人もありませんでした。これじゃ看板倒れじゃないですか。

先に書いた通りです。雑行に執心し、これを修めている者が真実信心の行人になれるわけがありません。残された時間が確実に減っていると我が後生を自覚するならば、速やかに雑行を投げ捨てて念仏の一行に帰し、念仏の声は「助けるぞ」の如来の喚び声と聞き受けて往生をおまかせする以外にありません。

今なされている活動は命をつぎ込む価値のあるものか、貴方自身がまず問うべきと思います。


その他、「善巧方便」と題した、三願転入の道を進めと暗に示すような短い文章もあります。

19願は善巧方便ではなく、権仮方便です。18願の法門の前には、還りてこれを廃するものです。これが理解できていないのと、19願がどのような願か全く無知なのとで、会員は後生助かるにはまず19願から始めなければならないという珍説に騙されてしまうのです。19願については

第十九願について全く無知であり、第十九願とは無縁な高森顕徹会長と親鸞会会員

を参照のこと。今宵の後生助かるには、速やかに19願は離れましょう。そして、18願一つ聞いて下さい。



以上で、令和2年1月1日号の顕正新聞へのツッコミは終了します。

【ツッコミ】悪人こそ弥陀の本願の正客(R02.01.01 顕正新聞【論説】より)

【論説】では人間の善悪の価値判断が国や時代や人々によって異なること、当てにならないものであると述べています。そのことを教えられた『歎異抄』のお言葉の口語訳と思しきものが載っていますが、その『歎異抄』のお言葉が後序

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに

です。その後、善悪を知り通した如来は我々のことを

心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善

と仰っていると『大無量寿経』五悪段 第五悪の文を引いて、仏教では心を重んじること、その心が悪ばかり造っているから口も体も悪ばかりなのが全人類であることを述べています。かかる悪人である全人類を

「絶対の幸福に救わずばおかぬ」

のが本師本仏の阿弥陀仏の本願であるというのです。これで論説は終わっています。しかしこれでは決定的に何かが足りません。一部分だけ述べて、その後を語らない物語のようです。足りないものとは何か、会員の皆さんは気付いているでしょうか?


もう多くの方はお気づきの通り、我々の実相に関する部分だけ述べて、それを助ける法、すなわち『歎異抄』で言えば

ただ念仏のみぞまことにておはします

の部分が無いのです。「本師本仏の阿弥陀仏の本願」という言葉は出しているものの、上のような説明で終始し、本願の説明も間違っていれば、どうしたら救われるのかという点については一切触れられていません。

阿弥陀仏が衆生救済の願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあることを「仏願の生起本末」と言いますが、これで言えば仏願の生起だけで仏願の本末は説かれていないという体たらくです。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『信文類』経釈文自釈(聞によって信をあらわす)

とあるように、仏願の生起だけ聞いて仏願の本末を聞かないようではとは言えません。

また仏願の生起本末について蓮如上人は南無阿弥陀仏の六字のこころとして丁寧にお示し下さいましたが、その六字のこころについても一切触れられていませんから、親鸞会でいくら聞いていてもも何もないのです。


本願は、本願を信じ念仏する者を浄土に往生させる、という本願です。
仏願の生起とは、我々は煩悩具足で迷界を出離することができないということです。真実心も、真実を疑いなく受け容れる信心も、浄土願生の心も、我々は金輪際持ち合わせていないということです。
仏願の本とは、かかる我々をむねとして救うために五劫思惟、兆載永劫の修行を経て本願の三心(体は名号)を成就されたということです。
仏願の末とは、阿弥陀仏は三心(体は名号)を現に今、我々に施し与えて救おうとされているということです。

迷界を出離させ、必ず往生成仏してさとりを完成する法、すなわち南無阿弥陀仏の名号法を阿弥陀仏の方でご成就、ご用意下さったから、それを計らいをまじえずに受け容れよというのが仏願の生起本末の結論であり、それが南無阿弥陀仏の六字のこころです。そのように聞いて疑いないのがです。

もっとつづめれば、南無阿弥陀仏という「助けるぞ」の弥陀の仰せを聞く、これがです。そのがそのままでありますから、これを聞即信と言われるのです。

本願を計らいをまじえずに聞き、受け容れた姿が信心であり、念仏であります。信心、念仏となって我々の上に現れているのは、まったく本願力そのものであり、私の造作、私の計らいは雑じりません。

こうして如来の仰せを受け容れたその時、摂取不捨の利益にあずかり、現世は正定聚の位に入って決定往生の身となり、命が尽きた時が浄土に参ってさとりを完成する時ですから、これを現当二益というのです。往生が決定するのは臨終を待って初めて定まるのではなく、平生本願を聞信する一念に定まるから、これを平生業成というのです。


親鸞会では聞即信や現当二益、平生業成という語は出てきても、結局絵に描いた餅で、救いの法がありませんから道理から言っても助かるはずがないのです。例えれば、会員は重い病気でそのままでは死んでしまうという診断を聞かされているだけの病人のようなものです。

確かに病に無自覚なままではそれを治す薬には全く無関心ですから、診断を聞くというのも大事でしょう。しかし、診断を聞いただけでは病気は治りません。それを治す薬を飲まねば病気は治りません。ですから、患者には早く薬を飲ませねばならないのです。薬を飲むこと、そして病気が治ること、これが一番大事です。薬を飲んで病気が治ることがなかったら、ハッキリ言って診断を聞く意味は皆無でしょう。

ところが、この度の論説でもせいぜい医者がいるというだけで、病を治す薬すら教えていません。親鸞会の話というのはたいていこれで終わりです。救いがないんです。

更にひどいことに、救いについて触れたとしても、親鸞会は間違った薬を処方し続けているのです。そして患者の病気を治すことには無関心で、病院を大きくすること、来院者を増やすことにのみ執心しているのです。

ここで、病を治す薬が名号、念仏であり、薬を飲むのが信心であり、間違った薬が諸善(組織拡大活動)です。

親鸞会で聞き続けても、救いがありませんから、あるいはありもしない救いしか説かれていませんから、本願の救いには遇えません。いつまでも希望を捨て切れずに居残る会員は、実に哀れ哀れです。

【ツッコミ】皆々信心決定あれかし(R02.01.01 顕正新聞【年頭所感】より)2

前回の続きです。

高森顕徹会長の頭では、悪人とは「人間の代名詞」であり、善人、悪人と分けて教えられていても実際は世の中には悪人しかいないようです。自分こそが悪人であり、しかもそれに恥じることもなく、それでいて周囲には「無二の善知識」「蓮如上人以来五百年に一度の善知識」等と思わせ言わしめてきた人間、更に世の人々を「どう生きるかしか知らない人達」と見下しているのですから、ある意味仕方ないのかも知れません。

では、高森会長の頭では善人とは何を指すのか、年頭所感では次のように書いています。

 では聖人の「善人」とは、どんな人をいうのであろうか。

“善を励んで助かろう”“念仏称えて救われよう”と努める人である。励めば善ができ、念仏ぐらいは称え切れると思っている人だから、「自力作善」の善人と聖人はおっしゃる。

“諸善も念仏も、いずれの行もおよばぬ悪人”と見極められて建てられた、弥陀の本願を受け入れられず、疑っている人だから、「疑心の善人」とも言われている。


いつもの高森会長の妄想です。

善人とは、仏陀の戒めを守って悪をつつしみ、善をつむことによって、自分も周囲の人々も、安らかな幸せに向かってゆくような生活をしている人のことです。勿論最高の善人は仏陀ですが、善人の中にも煩悩を断じた初地以上の聖者もあれば、まだ煩悩は断じていないがさとりを目指して廃悪修善に努める善凡夫もあります。

要は善悪因果の道理を信じ、できる限りを尽くして廃悪修善に励み、さとりを開こう、あるいは浄土に往生してそこで仏道を完成しようという人を善人というのです。その内、因果の道理を深く信じている人は上品中生の人であり、浅くでも因果の道理を信じている人は上品下生の人であると『観経』には説かれています。

私が会員だった時、信心決定のことを「深信因果」と話す講師部員もいましたが、それでは悪人が信心決定して上品の仲間入りをするということであり、悪人正機を完全否定していることになります。

また、事あるごとに親鸞会では因果の道理を説いてそれを信じるよう勧めていますが、前述したように浅くでも信じていれば上品下生の人です。そういう人は、もはや必堕無間の極悪人ではありません。いずれにしても、悪人正機を完全否定して、善人になれと教え勧めているのが親鸞会であると分かります。


ところで、上の引用文によって高森会長の中では諸善と念仏は同じ位置づけなのだなということも分かります。何ですかね、この

念仏ぐらいは称え切れる

というのは。実相の念仏とか、観相の念仏ならできないというのは分かりますが・・・。

念仏とは何か高度なものだと思っているのかも知れませんが、そうではありません。念仏は、

ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず『選択集』難易義

と法然聖人が仰せのように、 男でも女でも、 身分の高いものでも低いものでも、 行住座臥の区別なく、 時・処やいろいろの場合を論ぜず、 これを修めるのに難しくない行です。そしてそれは、性懲りもなく煩悩を燃やし続け、仏の戒めに背いて悪を犯し、生死の迷いを離れられない我ら凡夫を哀れにみそなわして、衆生往生の行として成就され、善悪賢愚の隔てなく平等に与え施されている本願力回向の行です。

本願文では「乃至十念」と誓われていますが、善導大師はこれを「下至十声」と教えられ、南無阿弥陀仏とその御名を口に称えることだとされています。法然聖人は念声是一と言われ、念と声は一つだと明確に教えられています。親鸞聖人も『唯信鈔文意』

「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

と、ただ口に十返南無阿弥陀仏と称することだと教えられています。

この愚かな悪人を救おうと平等の大悲から至って易く、それでいて最も勝れた行として念仏の一行を本願の行として阿弥陀仏が選び択られ、我々に施されている、それが本願の念仏です。いつでも、どこでも、うちの三歳の末娘でも称えられる至極の易行です。だから称えられるんです。なんまんだぶと口を動かしてみて下さい。簡単にできるでしょう。『観経』の下品下生で、臨終の悪人に勧められているのはこの口称の念仏です。

ただ、その選択の願心を聞かず、あるいは疑って、見失って、これを自分の功徳として、他の諸善万行を修するのと同じように称えて往生しようという自力心があっては報土往生は不可です。なので『歎異抄』には

自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

と、自力のこころをひるがえして阿弥陀仏の本願力にまかせたならば報土往生すると教えられています。

念仏は我々の上に現れていますが、決して我々の行いではなく、いずれの行も及び難い我々を目当てとして救おうと願い立たれた阿弥陀仏の大慈悲心の顕現なのです。念仏が「わがちからにてはげむ善」ではない、「行者のために非行・非善なり」と言われるのはそのためです。


ですから、高森会長は弥陀の本願を

“諸善も念仏も、いずれの行もおよばぬ悪人”と見極められて建てられた、弥陀の本願

なんかと表現していますが、これもデタラメであることが分かります。そして高森会長は念仏とは無関係な信心を勧め、「みなみな信心決定あれかし」の蓮如上人の言葉だけ用いて、実際は会員を信心決定させる気がないということも分かります。

本願を疑う自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得すれば、真実の浄土へ往生できるのである。

などと書いていても、教えが自力の心を増長させるような教えですから、それをまともに信じている会員が自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得できないのは当たり前の当たり前のことです。

信心獲得して真実報土の往生を遂げたければ、さっさと親鸞会を離れましょう。ただし絶対の幸福という妄想を捨て切れない人はお好きにどうぞ。



【参照】
『報徳寺』聖典セミナー 「歎異抄」第三条 ~悪人正機の伝承~
『WikiArc』念仏

【ツッコミ】皆々信心決定あれかし(R02.01.01 顕正新聞【年頭所感】より)

令和2年の親鸞会発行『顕正新聞』を読むことができましたので、ツッコミを入れていきたいと思います。

本日は高森顕徹会長が書いた、「皆々信心決定あれかし」と題した年頭所感より。


ここでは『歎異抄』第三条を挙げ、

人間はみな煩悩の塊、永遠に助かる縁なき「悪人」

であって、一応、善人、悪人と分けてはあるが、親鸞聖人の仰る「悪人」とは

ごまかしの利かない阿弥陀仏に、悪人と見抜かれた全人類のことであり、いわば「人間の代名詞」

だと言っています。善人、悪人という区別はなく、全ての人は悪人であり、善人とは

励めば善ができ、念仏ぐらいは称え切れると思っている人

だというのです。全ての人は悪人である根拠の一つとして『歎異抄』第二条

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

が挙げられていますが、その口語訳が

どんな善行もできぬ親鸞であるから、所詮、地獄の外に行き場がないのだ。

とあって、いつものようにヘンテコです。ちなみに上のリンク先の口語訳は

どのような行も満足に修めることのできないわたしには、どうしても地獄以外に住み家はないからです。

となっています。この違いが判るでしょうか。


我々は善行ができないのではありません。いわゆる「無善根」ではないのです。ただ、末代の我々がやるような善行では、とうてい迷いの世界を離れ、さとりを開いて仏道を完成するには及ばないのです。善導大師は

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

『往生礼讃』に教えられていますが、ここでは「善根薄少」と言われています。また「散善義」にも

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。 たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

とあり、ここでは「福慧は微微たる」と仰っています。「福慧無し」ではありません。

ですから、高森会長の主張する「善人は一人もいない、全ての人は極悪人である」というのは全くのデタラメであるということです。世の中には煩悩を断じた初地以上の聖者もいれば、煩悩を断じないまでも善行を修めてある程度までさとっている善凡夫もあります。一方で、さとりどころか悪しか造っていない悪凡夫もいます。


でも私達はさとりどころか悪しか造っていない悪凡夫でしょ?

という返答が親鸞会から聞こえてきそうですが、善人と悪人がいるということが分からない、認められないことが、親鸞会のヘンテコ教義を受け容れる下地となっていることをよく知るべきです。法然聖人は『勅修御伝』に

わが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。

と教えられ、善人に対してと悪人に対してとで、勧められることが違うと言われています。ではどう違うのかというと、これについて存覚上人は『持名鈔』

薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。

と教えられています。対して高森顕徹会長は独自の宿善論や「三願転入の教え」にある如く、布施や持戒等の六度万行、第十九願の諸功徳、『観経』の定散二善を獲信の因縁(宿善)として勧めています。聞法や勤行も勧められますが、聞法は「聞法善」、勤行は「五正行の実践」という、修善の一つという位置づけです。これは、存覚上人のお言葉で言えばまさに

下根の機には諸善をすすむ

です。こういうのを「肛門に目薬」というのですが、知らぬは高森顕徹会長とゆかいな仲間たちのみです。


私達が悪人であるならば尚更、往生のためには諸善を捨てて、本願の念仏一行に帰さなければ助かりません。それを阻害し、善を捨てるには善をやってできない自分を知らねばならないだとかいう詭弁を振りかざしてあくまで諸善に執着させているのが親鸞会です。そうやって「もろもろの雑行」、その実「悪業悪行」に執着し、往生に無関係どころか、ますます自他共に迷い苦しんでゆく会員は、哀れ哀れです。



【参照】
『飛雲』高森顕徹会長とその弟子達の無知を証明しておきます
『飛雲』高森顕徹流詭弁「極重の悪人に善を勧められているのは、善のできない者と知らせるため」
『浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?』親鸞会との問答(善人・悪人について)
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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