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親鸞会会員の誤解ー信心を獲たら、51段のさとりまで高跳びして特別な智慧が授かる

信心を獲たら、51段のさとりまで高跳びして特別な智慧が授かる

会員の皆さんは、そう思っていませんか。違うんです。大変な誤解です。

こんな誤解が生まれてしまう原因の一つに、高森会長が「真に知んぬ」を

「疑いなくハッキリ知らされた」
「露チリの疑いもなく明らかに知らされた」


と教えていることが考えられます。この間まで『飛雲』に書き込みをしていた「さとし」なる人物も

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「真に知んぬ」を「疑いなくハッキリ知らされた」以外にどう解釈すればいいのでしょうか。
                              投稿: さとし | 2018年9月13日 (木) 22時32分
「真に知んぬ」は「疑いなくハッキリと知らされた」ですよ。
                              投稿: さとし | 2018年9月13日 (木) 22時46分
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と書いていました。彼のこの発言からも、会員は信心獲得した暁には相当の事が「疑いなくハッキリ知らされ」るように勘違いしてしまっていると伺えます。

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

この『信文類』のお言葉を親鸞会では

"本当にそうだったなぁ!あの弥勒菩薩と今、同格になれたのだ。全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。しかもだ。弥勒は五十六億七千万年後でなければ、仏の覚りが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に浄土へ往って、仏の覚りが得られるのだ。こんな不思議な幸せが、どこにあろうか"

と説明し、「真に知んぬ」については

「真に知んぬ」とは、他の宗教のように、疑いの心を抑えて信じ込もうとする信心とは、全く異なる。

「露チリの疑いもなく明らかに知らされた」驚嘆の叫びであり、今は弥勒菩薩と肩を並べる身であるが、死ねば、"弥勒お先ご免"と最高無上の仏の覚りが得られるのだ。この世と後世(死後)の、二度の弥陀の救いに疑い晴れた、聖人の他力金剛心の表明なのである。

この弥勒と同格の大信心を獲得することこそ、人生の目的である。


と書いています。親鸞聖人が経典や聖教を読み解いて理屈の上で知らされたことを、すべてまるで我が体験のように「疑いなくハッキリ知らされ」るように教えているのですから、誤解するのも尤もな話です。


ここで親鸞会の説が正しいとすると、いくつか矛盾点が出てきます。上の「まことに知んぬ・・・」のお言葉では、親鸞聖人が「疑いなくハッキリ知らされた」ことが二つあります。その二つとは

①弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
②念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。


です。①は弥勒菩薩の成仏の時期について、②は親鸞聖人を含めた「念仏の衆生」の成仏の時期について親鸞聖人が教えられたお言葉です。「さとし」さんは

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>51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ると思っている親鸞会会員

とありますが、高森先生がどこにそのように言われているのか示してもらえませんでしょうか。

                              投稿: さとし | 2018年9月12日 (水) 20時35分
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と、51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ることを否定しているようですが、それなりの智慧、どころか仏のさとりを開いて仏智でも獲なければ①も②も「疑いなくハッキリ知らされた」とは言えない内容となっています。

もし①が「疑いなくハッキリ知らされた」なら、その人は仏の智慧を身に具えた仏陀です。特別な智慧が授からない限り、弥勒菩薩の成仏の時期が「露チリの疑いもなく明らかに知らされ」ることなどあり得ません。

ちなみに、「真に知んぬ」が②だけにかかっていて、①にはかかっていないと強弁するつもりなら、その人物はもはや小学生の国語の能力すら持ち合わせていないということです。私の娘が現在小3ですから、もしお近くにお住まいなら一緒のクラスで国語の授業をやり直すことをお勧めしたい位です(笑)

そして②は、主語が「親鸞は」ではなく「念仏の衆生は」ですから、親鸞聖人がご自身を含めた「念仏の衆生」全ての成仏の時期を「疑いなくハッキリ知らされた」ことになります。これは

他人の体験は、自覚はできない

とW氏が教えてくれている通りで間違いです。他人の臨終一念の夕のことまで「疑いなくハッキリ知らされ」ることはありません。こちらも先ほどと同じで、特別な智慧が授からない限り、「念仏の衆生」全ての成仏の時期が「露チリの疑いもなく明らかに知らされ」ることなどあり得ません。

それに、七高僧方は死後に浄土に往生して正定聚になり、そこで修行して成仏すると教えられていますから、往生と同時に成仏すると教えられた親鸞聖人とは解釈が異なっています。つまり、七高僧方は「念仏の衆生」の成仏の時期について親鸞聖人のようには「疑いなくハッキリ知らされ」ていないことになります。

このように、②に絞ってみても七高僧方と親鸞聖人とで解釈の仕方が異なっています。まして①が体験で知らされるなどあり得ません。飛雲さんの仰る通り、「まことに知んぬ・・・」以下の内容は親鸞聖人がご自身の体験で「疑いなくハッキリ知らされた」というものではなく、経釈を通して理屈として知らされたことです。理屈の上のことであって、信心とは関係ない話ですから、信心の上での疑いの話とは関係ないです。

それを無理やり関係づけ、答えようのない質問をして喜んでいるのが「さとし」という人物です。ですから、以前『飛雲』のコメントにこのように書かせて頂きました。

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残念でしたね、さとしさん。貴方が言っていようがいまいが、「真に知んぬ」は

②念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

だけではなく

①弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。

にもかかっているわけですよ。これが判らないなら国語の勉強を小学生からやり直した方がいいです。

飛雲さんが仰っているように、②に関してさえ七高僧と親鸞聖人で違っています。これは信心とは無関係な解釈上の問題です。それを無理やり関係づけて喜んでいるようですが、②が「疑いなくハッキリと知らされた」ことをもって真実信心とするなら、往生と同時に成仏すると疑いなくハッキリと知らされていない七高僧は異安心となります。

また、貴方の釈だと①は弥勒菩薩が竜華三会の暁に成仏することを「疑いなくハッキリと知らされた」ことになります。弥勒の成仏の時期は仏陀の智慧によって判ることですから、さとしさんは信心獲得した一念に仏のさとりを開くと言っているようなものです。貴方が必死に否定しても、「真に知んぬ」=「疑いなくハッキリと知らされた」という意味ならそうなるんですよ。これは勿論

『歎異抄』第十五条 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。

にあるように「もつてのほかのことに候ふ」です。

答えようのない質問をして喜んでいるようで、何とも幼稚です。七高僧とも親鸞聖人とも違う異安心の親玉を無二の善知識と仰ぎ、思考力を奪われて、組織拡大を「真実開顕」という名目でやっているさとしさんは哀れ哀れです。

                              投稿: 淳心房 | 2018年9月14日 (金) 05時21分
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往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。『執持鈔』(2)

信心獲得したとて「凡夫の浅智」は変わらないのです。特別な智慧が授かるのではなく、「往生ほどの一大事」を「かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつる」のが「他力に帰したる信心発得の行者」です。それを特別な智慧が授かって相当の事が知らされるように誤解しているから、高森会長のような人物を絶対視して「蓮如上人以来500年に一度の善知識」などともてはやすのです。また、後生を握られて、高森会長の仰せに何事も何事も無条件に従わなければ後生の一大事の解決はできないように信じ込んでしまうのです。


なお、他にも会員の皆さんは、信心獲得の暁には

・地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする
・全ての人は五逆、謗法、闡提であるとハッキリする
・一切の過去も未来も皆分かる
・阿頼耶識におさまっている業が分かる
・経典や聖教のお言葉がすらすら読めるようになる
・人生の目的と趣味生き甲斐の違いがハッキリする
・「人命は地球より重い」とハッキリする


とまぁこのようになるとお思いかも知れませんが、いずれも、聖教に根拠のない高森教のそらごとたわごとから発生する妄想です。『執持鈔』の続きを読まれたらお判りのように我が身の後生すら私の側からはハッキリしませんし、たとえ私のことは判ったとしても全ての人のことがこうだとハッキリ判るものではありません。

会員の皆さんは、このような人生の劇的な変化に憧れるばかりで、肝心の浄土往生、成仏という浄土真宗の目的を知らないと見えます。また、本願力を回向して救う南無阿弥陀仏の名号法を知らず、こちらから救いに向かって進む教えのように思いこんでいると伺えます。このような皆さんの親鸞会教義による様々な誤解が、南無阿弥陀仏のはたらきを阻害する一番の障害に思えてなりません。会員の皆さんには、様々な教義の誤解から解き放たれて、只今、この場で、この私を救う本願のはたらきをそのまま受け容れてお念仏を申すようになってもらいたいです。
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知恩報徳の益

先日、敬老の日にちなんで実家の祖父、父母、妹家族を交えて食事会を開きました。最初はその予定はなかったのですが、母の提案で、自分が誘えば父も祖父も喜んでくれるとのことで開催しました。費用も全部自分の支払いで済ませる予定でしたが、なんやかんや母も一部出してくれたり、妹も気を遣って俺の子供達のためにと色々用意してくれたりで、最終的には出した額以上のものを頂いてしまった気がします。

帰省の度にお米をくれ、野菜や食料を買ってくれる。ガソリン代も出してくれる。食事を用意してくれる。また、お隣にあいさつに行けば子供のためにお小遣いをくれる。毎度毎度、こちらが何かしても、何倍にもなって返ってきてしまって申し訳ないやら有難いやら・・・。自分に孫ができたら、子供や孫のためにとて、両親のようなことはとてもしてやれないだろうと考えると、我が親ながらその偉大さに頭が下がります。

日々、色々とつらいこと、苦しいことはあるけれども、こうして何不自由なく暮らしていられるのも両親を始めとした家族、親戚、近所の方々・・・その他目に見えない、気付かない多くの人々のおかげです。お念仏を申すほどに、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳を感じるとともに、そういった自分を慈しみ育んでくれる多くの方々の御恩までも喜ばして頂ける。これまた幸せなことであります。

親鸞聖人は現生十種の益の第八に「知恩報徳の益」を挙げておられますが、それを最近しみじみと感じさせて頂きます。勿論、逆境の最中に御恩を感じて喜べるような私ではありませんが、お念仏を申していると御恩を思い、有難いと思う気持ち、それに少しでも報いたいと思う気持ちが増してくる。そのように感じます。

結局、父母や周りの皆さんのおかげさまで生かされている。それが私なのでした。愚鈍な自分は、こんな当たり前のことに気づくのに随分と長いことかかってしまいました。尤も、そういうことが知らされてきたからといって、急に人間の中身が入れ替わって孝行息子になるとか、何か特別なことができるようになったわけではありません。「だからどうした?」という話ですが、恩を知り、恩を感じるということは何と幸せなことだと思います。

やはり人間、色々な楽しみや喜び、幸せがあるけれども、御恩を感じ、御恩を思わせて頂くという幸せはいわゆる欲望を満たす幸せとは一線も二線も画した格別のものであると思います。特に、この恩知らずが恩を知らされるというのが不思議なもので、私なんかは浄土真宗の教えを聞かなければわかりませんでした。だから、誰かに教えられるわけでもなくこのことに気づける人というのはすごい人、立派な人です。

私は立派でもないし、将来立派になって「こんなお前ならもう大丈夫だ」と親に安心してもらえるような自分になれる自信はあまりありません。ただ、子供の頃から自分勝手に生きてきた分、これからは少しでもお世話になった/なっている方々の御恩に報いるようなことをしていきたい。決して、して下さったことを当然と受け流すことだけはしてはならないと思わされました。

少しでもこの気持ちが残っている内に、感謝の気持ちを伝えねばな。残酷にもこの世は無常の世界で、言いたいこと、伝えたいこと、伝えなければならないことを何一つ伝えられずに突然お別れするかもしれない。感謝も何も伝えられなかった、そんな後悔は残したくない。ただ、面と向かっては恥ずかしいし、メールでは軽い。・・・やっぱ手紙にするか(;^ω^) なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

知識とか国語力以前の、「人間性の問題」を抱えている高森顕徹会長

昨日は高森顕徹会長の話がありました。今回も飽きずにいつもの

映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか?


という質問に答えるという形式でした。その中で創作『二河白道の譬』を説いていたことは既に

『飛雲』国語の問題よりもさらに深刻な人間性に問題のある高森顕徹会長と愉快な仲間達

に書かれている通りで、未だ邪義を貫き通す高森会長には「人間性の問題」があるとしか思えません。


高森会長の「人間性の問題」は本当に深刻で、今回も相変わらず本願の説明が

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

というものでした。そんな幻想的な楽、夢・幻のような現世利益を追い求めて間違った本願、教えを聞いていても、本願の通り浄土往生できないことは随所に言われている通りです(※)

大体、この世が「絶対の幸福」なんていう結構な世界に変わってしまったら、もう浄土なんか要らないんだ。この六道の迷いの世界には真の安らぎ、真の楽しみも無く、我々は際限なく流転を繰り返して苦しみ続けるから、それを哀れんで阿弥陀仏は迷いの世界から出離させ、我が国に迎えて救うと本願に誓われているのです。

それに会員の皆さんも皆さんです。「浄土真宗は、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらく」教えです。もしこの世からの真の安らぎ、真の楽しみをお望みなら、聖道門へ行って入聖得果することですな。

親鸞聖人を世界の光と仰ぐと言い、自分も聖人の真似をして「愚童釈顕徹」だとか名乗っておきながら、また蓮如上人の真似もしていつも「みなみな信心決定あれかし」と言っておきながら、ちっとも親鸞聖人、蓮如上人の教えの通りに法を説かない。会員の皆さんの後生をどう思っているのか。またも流転を重ねようとしている人々が可哀想ではないのか。やはり知識とか国語力以前の、「人間性の問題」を抱えています。


高森会長は会員の内なる欲望を煽り、無常と罪悪でせめ立てて、自らの欲望を満たそうとしているだけです。聞く者の獲信・往生は眼中に無く、言葉だけ蓮如上人の仰せを真似しているのです。その証拠に今回も

・蓮如上人は
「善知識の能(任務)というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』と人を勧むべきばかりなり」
と教えられている。

・お釈迦様が仏教を説かれた結論は、「一向専念無量寿仏」


などと話しておきながら「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ」という肝心な教えを説きませんでした。聞法すら「聞法善」だとか教えて善行の一つに数え、19願の「修諸功徳」、『観経』の「定散二善」、七仏通戒偈などを根拠に、因果の道理の結論であるという廃悪修善をせよと教える高森会長が親鸞聖人の仰せに反していることは繰り返し繰り返し述べている通りです(例えばこの記事)。

話の中で高森会長が「西に向かって進む」と言っていましたが、その本当の意味は

〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。「信文類」

つまり自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたものです。その「すべてふり捨て」るべき自力の行を拾わせやらせておいて、聞く人が西方、浄土に向かうはずがないんだ。高森会長が必死で否定する「ただ念仏」こそが迷いを離れさとりの世界に至る唯一の道、すなわち「無碍の一道」なのです。

我々は「真実の行信」によって「真実の証果」を得るわけで、いくら信心を強調してもその信心が間違っていたらダメなのは当たり前です。信心は何を信ずるかといったら行を信ずるんです。だから、行が間違っていたら当然ながら信も間違うんですよ。高森教では行にあたる部分が「行学」とか言っているように廃悪修善の実践なわけで、その中身を言ったら勧誘、献金、服従を中心とした善もどきの善です。これが親鸞聖人の教えられた行かどうかは論ずるまでもない問題です。

真宗で行といったら本願のはたらき、「南無阿弥陀仏」です。この六字のこころを聞くのがすなわち信心です。「お前は決して迷いの世界を出られない者だ。そのお前のためにこの南無阿弥陀仏を成就したから、お願いだから称えて我が国に生まれてきてくれよ」という仏さまの心を聞く、心を受ける。その仏さまの心を聞いたなら、心を受けたなら、もう我々の計らいは要らんでしょう。このように本願力にまかせて自力を離れたのを「唯信」というのです。阿弥陀仏の仰せの通り、「ただ念仏」と心が定まったのが「信心」です。

それがどうですか? 仏さまの心を聞き受けて「ただ念仏」どころか、

仏教を聞くということは、細い白道を見えない西に向かって進むこと

などと説いています。「西に向かって進む」というと聞こえはいいですが、その先には、細くて弱い聞法心を奮い立たせて聞け、煩悩と闘って白道を進め、といういつもの教えがあるに違いありません。高森会長の話の後でなされる講師部員や先輩会員の教えや勧めを聞けばそれは明らかでしょう。会員の皆さんは何を教えられ、どんなことを勧められているか、静かに振り返ってみましょう。


ところで、話の中で高森会長は

自力の心、雑行、聞く一つという阿弥陀仏の本願を疑っている心

がどういうものかを説明していましたが、会員の皆さんに判り易く言うと

何十年という聞法や朝晩のおつとめ、顕正活動、お布施、高森先生を無二の善知識、尊き生き仏様先生と信じて、何事も何事も会長先生の仰せにひらすら従ってゆくことがいるのではないか。ホントだろうか、他に何かいるものがあるのではなかろうか。

という心こそが自力の心です。会員の皆さんは、高森会長の話はそんな自力の心を助長、増長させるだけだと気づき、早く如来選択回向の念仏に目を向けて、その南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き受けてお念仏申して頂きたいものです。

親鸞会会員の誤解ー伊藤康善師の『安心調べ』の内容を教義と勘違いしてしまった高森顕徹会長

親鸞会会員が「信心決定はものすごい体験」と思ってしまう理由の一つが、

・この一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられる
・大千世界を踏み破って恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚が生まれる

(以上、会報第二集より。該当箇所はこの記事参照)

などという高森会長の説(正確には伊藤康善『安心調べ』のパクリ)にあることは間違いないでしょう。この前

「51段目の覚りになったことを、親鸞聖人はハッキリと『教行信証』に述べている」
「大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚になる」
「「定聚の数」とは52位ある覚りの51段目。「等覚」とも呼ばれる、阿弥陀仏の本願に助けられ、「絶対の幸福」になった覚の境地。」


などと宣っていましたし、会員はそれを信じて

・信心獲得すると、51段目の等覚になる(等覚のさとりの境地に出る)
・高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる


と思い込んでしまっていることは想像に難くありません。


確かに、信心決定の瞬間に「51段目の等覚になる」という説が本当であれば

信一念の瞬間は、必ず、ハッキリと自覚できるものだ
信心決定は火に触ったよりもハッキリする、今こそ明らかに知られたりと驚き立つ体験
会員が、高森会長を無二の善知識として崇め奉る

などの主張や行為も尤もです。覚ったかどうか本人に判らないということはあり得ないでしょう。ましていわんや51段の等覚のさとりをやです。また初地を覚った龍樹菩薩が「八宗の祖師」と敬称されるのですから、51段目の覚りになった等覚の菩薩様を崇め奉るのは当然です。

では、信心決定の瞬間に「51段目の等覚になる」という説があるかというと、勿論そのような珍説は浄土真宗には存在しません。高森会長は伊藤康善師の『安心調べ』の内容を教義と勘違いして

信一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられ、恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚が生まれる

と理解し、そしてここにある「豪快な自覚」とやらが信心だと思ってしまったのでしょう。


親鸞聖人は「正定聚」とか「等正覚」、「等覚」という言葉を使われていますが、これらは聖道門で使われる意味とは違っていることを高森会長は知らないとしか思えません。聖人は「正定聚」については

「往生すべき身とさだまるなり」

と左訓され、「等正覚」については

①「正定聚の位なり」 ②「まことのほとけになるべき身となれるなり」

と左訓されています。聖道門で言われる「さとりの52位」には全く配当せずに使われているのです。ですから、信一念に51段高とびするとか、51段目の覚りになるなどとは当然一言も仰っていません。

それでも高森会長の珍説を信じるのは、曇鸞大師がどのように仰っているかを全く知らない人々です。以下、浄土を願う心もなく、念仏誹謗宗の信心を目指す高森顕徹会長と愉快な仲間達より引用。

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信心を獲たら、51段のさとりまで高跳びして特別な智慧が授かるのかどうか、親鸞聖人のお言葉で見てみます。

『高僧和讃』曇鸞讃に

世俗の君子幸臨し
 勅して浄土のゆゑをとふ
 十方仏国浄土なり
 なにによりてか西にある

鸞師こたへてのたまはく
 わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば
 念力ひとしくおよばれず

一切道俗もろともに
 帰すべきところぞさらになき
 安楽勧帰のこころざし
 鸞師ひとりさだめたり


とあります。
現代語訳は

東魏の孝静帝は、 曇鸞大師のもとを訪れ、 浄土への往生を願う理由について、 「あらゆる仏がたの国々はみな清らかである。 なぜ西方にある阿弥陀仏の浄土に限るのか」 と問うた。

曇鸞大師は、 「私は智慧が浅い凡夫であり、 いまだ不退転の位に至っていないので、 あらゆる浄土を等しく念じるには力がとうてい及ばない」 と答えられた。

出家のものも在家のものも、 みな帰依するところをもたずに迷っている中で、 曇鸞大師はただ一人、 阿弥陀仏に帰依し、 その浄土への往生を願うよう勧められた。


です。曇鸞大師のお言葉として「わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」と紹介されています。ここで言う「地位」とは初地以上のさとりのことですから、41段以上には至っていないので智慧が浅いのだ、と曇鸞大師が仰ったと親鸞聖人が紹介されています。51段高跳びしてそれなりの智慧を獲ると思っている親鸞会会員には、驚きのお言葉かもしれませんが、これが現実です。

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恥ずかしながら私は存じませんでした。私の記事では説得力に欠けますが、これなら会員の誤解が誤解だとハッキリしますね。飛雲さんすごいっす(^ω^)

ここで曇鸞大師は「自分は初地(41段)以上には至っていない」と仰っていますから、当然ながら51段目の等覚になっていないことは明らかです。もし親鸞聖人の仰る「正定聚」が51段目の覚りなのだとしたら、曇鸞大師は「正定聚」に入っていないと告白されていることになります。だから、「正定聚」に入っていないと仰る曇鸞大師は親鸞会的に言うと異安心になります。しかし、聖人はその曇鸞大師を七高僧の三人目に数えられ、一番多く大師の和讃を作られています。また、大師の「鸞」の字を一字頂かれてご自身の名を「親鸞」とされています。このことからも「正定聚」が51段目の覚りを言われたのでないことは明らかですし、「正定聚」の位に入ったことが実感として知らされるわけではないことが判ります。


親鸞聖人は「正定聚」等の一般にいわれる三定聚説をさとりの意味で用いられたのではなく、真仮分判の名目として転用して用いられたのでした。

聖道門では、不退転(正定聚)の階位を菩薩の修道階梯の種々に配当するのだが、御開山の用いられる三定聚説は「願海真仮論」によるのであって聖道門の五十二位説と混同してはならない

とあるように、親鸞聖人の仰る「正定聚」はさとりとは違うのです。その違うことを同じであるかのように誤解し、さも自分は51段目の等覚になったかのように会員に思わせている高森顕徹会長が自分の運命、後生を預けるに値する人物なのかどうか。会員の皆さんはよく考えてみましょう。


ちなみに浄土の菩薩は「無相供養功徳」といって、一切世界の諸仏の会座にあますところなくあらわれて、すべての諸仏を供養し讃嘆するそうです。その浄土の菩薩が供養し讃嘆する諸仏に、信心を獲たとて煩悩具足の人間が怒号叱咤するって? 高森教の自覚って、すごい自覚ですね・・・(;^ω^) だから高森会長や講師部員らは真宗に無知でありながらあんなに傲慢な態度を取れるのだと納得です。自惚れもここに極まれり。あぁはなりたくないものです。



【参照】
『WikiArc』七祖-補註11

久々に『約束の場所』(CHEMISTRY)を聴いて思ったこと

この前久々にラジオで『約束の場所』(CHEMISTRY)を聴きました。これが発売されたのは2006年ですから今から12年前。まだ私は現役の親鸞会会員でした。

当時は親鸞会の価値判断で生きていましたので、MVには載っていませんがこの歌の2番

途中でもし死んでしまっても ひたむきに夢と向き合えば
きっと同じ未来を描く 誰かが引き継いでくれる
『歌詞タイム』約束の場所より)

という歌詞はどうしても受け入れられなかったです。

いやいや、誰かが引き継いでくれたって、我が身は満足か? 人生の目的を果たせずに途中でもし死んでしまったらなんてそんな未来はいやだ。ひたむきに向き合っても、途中で死んでしまっては何にもならない。

この歌詞の「」を「人生の目的」、「絶対の幸福」と置き換えて聞いていたため、歌のメロディーは好きな方でしたがこの部分は好きにはなれませんでした。


現在は親鸞会を離れて9年。私の心境も大分変化しました。今はこの歌詞の「」を「衆生の志願」と置き換えて聴いています。「衆生の志願」というと、往生の志願だとみんな言うんですが、櫻井鎔俊和上は阿弥陀仏の本願を伝えたいというのも「衆生の志願」であると仰せられています。私もこの説に賛成です。
(こんなことを書いてると林遊さんあたりに怒られちゃうかな・・・まぁいっか)

願わくは、全ての人に阿弥陀仏の本願を聞いてもらいたい。そして皆人一同に浄土に往生し、迷いの世界を離れさとりの世界に参りたい。本願を仰ぎお念仏申すほどに、私はこのような気持ちになります。

みんなが幸せになってもらいたい。お念仏申してもらいたい。現実はとてもそうはいかないし、伝える手段も分からない。途方もない「」で、とても実現不可能に思えるけれども、念仏者なら程度の差こそあれ、このような気持ちが起こってくるのではないかと思います。ここは皆さんの意見を伺いたいところです。

それで、歌詞の「」を「阿弥陀仏の本願を伝えたい」と読むと、私の中では心地よく響くんですよね。私なんかがいくら伝えようとしても、仏様のように自在性がないから全くダメだ。でも、途中でもし死んでしまっても、ひたむきに夢と向き合えば、きっと同じ未来を描く誰かが引き継いでくれるのでは・・・、と素直に思えるのです。

また、サビの

夢は時間を裏切らない 時間も決して夢を裏切らない
その二つがちょうど交わる場所に心が望む未来がある
夢を携えて目指すその場所に 僕がつけた名前は「約束の場所」


という歌詞もとても素敵に聞こえます。


まだ子供も小さいし、色々心残りもありますから死ぬわけにはいきませんが、無常の世界ですからどうなるか分かりません。また、この先何十年とブログを続けていっても、果たしてどれだけの人に影響があるかと思うと、私の存在などチリみたいなもんでしょう。それでも、お念仏を申していると、伝える方法なんか全然分からないけれども、それでも伝えたい、幸せになってほしいという気持ちが起きてきます。

我が身可愛い、我が身第一、我が身の事しか考えない煩悩具足の私がこのようなことを思わして頂くのも、全く如来選択回向のお念仏のおかげです。現実は、目の前の悩んで泣いている会社の同僚にどうやって慰めたらよいやらも分からない、何の力も智慧もない私ですが、何とか何とかと思う気持ちは止みません。


ちなみにこれは経験則ですが、どうも信心を獲ても、その後法を聞かない、お念仏申さないようだと、法の喜びも、御恩を喜ぶ心も、伝えたいと思う気持ちも起き難いです。やはり有難い光が差してくるように、不断聴聞し、お念仏の生活をさせて頂くのが大事であるとつくづく思います。これは私の経験と考えですので、読者の皆様には一意見として捉えて頂ければと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

親鸞会会員の誤解ー「等正覚にいたる」ことと「等正覚をさとる」ことは違う

今回は園児さんからのコメント、及びそれに関連する皆さまからのコメントを読んで、この際ハッキリさせないとあかんと思うことがあったので取り上げます。

親鸞会会員の誤解として多いものの一つに、

・信心獲得すると、51段目の等覚になる(等覚のさとりの境地に出る)
・高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる


という誤解があります。これは随分と後を引く問題のようで、この前ある退会者の方とのメールでも、

この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。『御文章』5帖目6通

とある「等正覚」と、この記事を扱った時に出てきた「等覚」の関係を聞かれました。園児さん、またこの退会者の方に限らず、親鸞会出身者は混乱する内容だと思います。私もかつてそうでした。


まず、「正定聚」や「等正覚」、「等覚」についての言葉の意味はこちら。
↓↓↓
「正定聚」「等正覚」、「等覚」

浄土(真実報土)に往生することが正しく定まり、必ずさとりを開いて仏になることが決定しているともがらをいう。第十八願の信心の行者のこと。

Ⅳ 真実信心を得たものは、仏因円満していて、必ず仏と成るから、現生の正定聚の位を「弥勒に同じ」といい、また「等正覚」ともいう。

親鸞聖人が仰る「正定聚」や「等正覚」、「等覚」はおおよそこのような意味です。それをまた「すなはち往生す」「不退転に住す」「等正覚を成る」「阿毘跋致にいたる」「阿惟越致にいたる」「即時入必定」(一念多念証文)等々、様々な言い方で教えられます。信心決定したその時、本願を信受したその時、私達は次生浄土に往生することが決定しますから、今生でもう「正定聚の数に入る「証文類」)」、「正定聚の位に住す末灯鈔1通)」と言えるのだというのです。

親鸞聖人は、七高僧までと違った意味で「正定聚」や「等正覚」、「等覚」の語を使っておられます。両者の一番大きな違いは、死後に正定聚に入るとしか解釈しようのない七高僧方の釈を、親鸞聖人は読み替えによって現生に正定聚に入ると教えられた点でしょう。「現生正定聚」を明確に打ち出されたのは、親鸞聖人が初めてです。

このことから判るのは、

「現生に正定聚に入る」ことと、「現生に正定聚に入ったことが実感として知らされる」ことは違う

ということです。もし、「現生に正定聚に入ったことが実感として知らされる」ことをもって真実信心としますと、七高僧方は異安心ということになります。ということは、

「現生に正定聚に入る」が、「現生に正定聚に入ったことが実感として知らされる」のではない

ということです。林遊さんのコメントにあるように「ご信心の徳」から真実信心の行人は「正定聚の位に住す」と親鸞聖人は仰いました。これが私達にとってはたまらず有難いことなのですが、それを私達が偉くなるように思ったり、浄土の菩薩や弥勒菩薩に等しい智慧や徳が身に具わるように考えたりするのは間違いです。私達はご信心に恵まれても、それによって特別な智慧や徳が得られるわけではありません。「凡夫の浅智」、煩悩具足の浅ましい身の上は変わりません。あくまで阿弥陀仏より賜った「ご信心の徳」を「正定聚」や「等正覚」、「等覚」などの語で表現されているのです。


我々の側からではない、言わば仏様方からの誉め言葉を、意図的にか、無知ゆえかは知りませんが、とにかく私達の身の上にものすごい変化が起きる、「ガラリと変わる」と誤解させているのが高森会長です。

『正信偈』には「成等覚証大涅槃」とあるからこの世で51段目の等覚になるのだろう。また、

(24)如来二種の回向を
 ふかく信ずるひとはみな
 等正覚にいたるゆゑ
 憶念の心はたえぬなり

(25)弥陀智願の回向の
 信楽まことにうるひとは
 摂取不捨の利益ゆゑ
 等正覚にいたるなり

(26)五十六億七千万
 弥勒菩薩はとしをへん
 まことの信心うるひとは
 このたびさとりをひらくべし

(27)念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし

(28)真実信心うるゆゑに
 すなはち定聚にいりぬれば
 補処の弥勒におなじくて
 無上覚をさとるなり
(以上、『正像末和讃』

補処の弥勒菩薩とおなじということは、信心決定するとズバッと高とびして51段の等覚の位をさとるのだろう。

覚りは1段違っても人間と虫けらほどの違いがあるという。高森先生は51段目の覚りになっておられるのだから、その御心が我々に判る筈がない。私達はひたすら会長先生の御跡を慕い、何事も何事も先生のご指示に無条件に従ってゆく事によってのみ無碍の大道に雄飛し、絶対の幸福に救い摂られるのだ。

高森会長の篤信者の胸の内を想像すると、まぁこんなもんでしょう。非常に短絡的というか、親鸞聖人の教えに暗いというか、誤解も甚だしいです。まず『正信偈』の文については

「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位とひとしとなり。『尊号真像銘文』

とあるように「成等覚」正定聚の位です。それは弥勒の位とひとしだというのですが、では何が弥勒とひとしいのか。智慧か。才覚か。徳か。人格か。そうではありません。『正像末和讃』にあるように

このたびさとりをひらく
大般涅槃をさとる
無上覚をさとる

ことがひとしいのです。それが、この世で弥勒と同格? 「よぉ弥勒」だって? 「ご信心の徳」からはそう言えるかも知れませんが、それこそ「お前が言うな!」と言われてしまうことの一つでしょう。煩悩具足の我が身を知る度に、恥ずかしくて弥勒菩薩と同格なんてとてもとても・・・。もし私達が「51段目の覚りになる」ならそのように申しても構わないでしょうが、この世では何のさとりも開けないのですから。それに、もしこの世で51段をさとるのなら、親鸞聖人は

等正覚をさとる等正覚をひらく

と仰っていなければなりません。ところが聖人はそうは仰らず、

等正覚にいたる

と教えられています。「等正覚にいたる」ことと「等正覚をさとる」ことは違うのです。親鸞聖人は正定聚と覚りとを明確に分けておられます。その違うことを同じように説き、自分は全人類とは一線も二線も画した特別な存在であるかのように思わせているのが高森会長です。

親鸞聖人はさとりの52位に配当して「正定聚」や「等正覚」、「等覚」を教えてはおられませんし、第一、横超の教えは速やかに仏の位をさとるものですから、堅出の教えのように段階的なことは言いません。過去に一回だけ、私は高森会長が「私達はこの中(さとりの52位の中)に入らない」と言っていたのを聞いたことがありますが、これは珍しく正しいです。

ただそれ以外はさとりの52位の図を書き、信心決定すると下50段を一気に飛び越えて51段の位に入るような話ばかりでした。その時高森会長が何を思って「私達はこの中(さとりの52位の中)に入らない」と言ったのか。そのミココロは知りませんが、私達は信心決定しても51段目の位はさとれません。「ただの浅ましい凡夫です」と一生なんまんだぶ、なんまんだぶとやっていくだけです。


等正覚にいたる」ことと「等正覚をさとる」ことを混同しているから、会員が高森会長を無二の善知識として崇め奉ったり、世間一般の人々や特に退会者に対してあれだけ傲慢な態度を取れたりするのだと考えられます。また、「信一念の瞬間は、必ず、ハッキリと自覚できるものだ」という彼らの主張も、こうした誤解から来ているのかも知れません。これを機に、会員始め親鸞会出身者に根強いであろう誤解が解けたらと思います。



【参照】
『飛雲』信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心
『飛雲』どちらが異安心か?
『飛雲』浄土を願う心もなく、念仏誹謗宗の信心を目指す高森顕徹会長と愉快な仲間達

「阿弥陀仏の勅命に順うまでには、善知識の仰せに無条件服従しなければならない」と教えるのが親鸞会の実態。こうした親鸞会の教えは正しいのかどうか。

本日は響さんのコメントや皆さんのコメントを読んで、親鸞会の教えの実態について思ったことを書きます。


この記事にも書いていますが、親鸞会では

信心獲得するまでには、善知識の仰せに無条件服従しなければならない

と教えています。以下、『なぜ私は親鸞会をやめたのか』3.高森顕徹会長と絶対無条件服従より抜粋。

********************
私達が助かる否かは全く善知識の御化導によるしかない。その御化導に私見をはさんでいては万劫聞いても助からない。ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、会長先生の御下にぬかずかねばならない。【顕正新聞 昭和49年12月】

我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、 この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。 
この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。【顕正新聞 昭和54年8月】

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。【親鸞会講師部聖則】

********************

後生は必堕無間と叩き込まれ、「助かるには高森先生から真実の仏法を聞かせて頂くよりない」と信じている会員の皆さんは、たとえ意に沿わない命令でも後生の一大事の解決のためということで従っていることと思います。中には「そんな事まで上司に相談して指示を仰ぎ、指示通りに従うのか?」と思うことまで相談し、受けた指示に素直に従うマジメなと言うか、思考停止と言うか、そういう会員もいます。

また、教義の誤りに気付いた人が親切に教えて差し上げても、相手を説得できないということもしばしばです。報告・連絡・相談が染み付いていると、説得を受けた会員はその内容を逐一上司に報告します。自身は上司の詭弁を正しいと信じ、これに丸め込まれてしまいます。一方、上司は情報網を張って周囲の会員に警戒を促して、会員の離反を防ぐという手法を用います。家族や友人を説得しようにも、後生を人質にとられている上に高森信心が篤いと来ているので、説得が失敗するケースが大半かと思われます。


交通費や宿泊費をかけて富山へ行くのはなぜか。顕正(入会)目標人数を達成するのはなぜか。目標財施額を達成するのはなぜか。高森顕徹会長や上司の指示に無条件で従うのはなぜか。それは己の後生の一大事の解決、信心獲得のため以外にはないでしょう。

その信心獲得のことを「阿弥陀仏に帰命する」と言い、帰命とは阿弥陀仏(釈迦弥陀二尊)の勅命に順うことを言いますから、先に挙げた親鸞会の教えは言葉を換えれば

阿弥陀仏の勅命に順うまでには、善知識の仰せに無条件服従しなければならない

という教えだと言えます。こうした親鸞会の教えは正しいのかどうか。これが問題ですね。


結論から言うと、これは間違いです。これは、「本願招喚の勅命」と「善知識」、「善知識の仰せ」とは何たるかについて無知である、または誤解していることから来るトンデモ邪義です。

まず「本願招喚の勅命」についてです。詳しくはこの記事を参照願いますが、

本願招喚の勅命
阿弥陀仏が我々に向かって「来いよ来いよ」「我にまかせよ」「助けるぞ」と喚んでおられる本願の仰せ

です。これは人の命令ではありません。真実の仏様の「勅命」であります。「勅命」と言っても、我々にあれせいこれせいと命じる命令ではありません。「助ける、まかせよ」との仰せです。「そなたを助ける手筈は全て整えたから、安心して我にまかせよ」との命令です。

その「本願招喚の勅命」に順う、本願の仰せに順うとはどういうことかと言えば、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へん(念仏する者を浄土に迎える)

本願の仰せをもう一つ詳しく説き開くとこういうことですから、その仰せをふかく信じて、つまり真実の信心でお念仏申すのが「帰命」であり「本願招喚の勅命」に順ったすがたということになります。勅命に順うといっても、「本願招喚の勅命」というものが自ずからはたらいて我々の「帰命」の信となり、称名となって下さいます。我々がすることはただ本願の仰せをそのまま聞き受けてお念仏申す以外ありません。ですから、

阿弥陀仏の勅命に順う
本願の仰せをふかく信じて(=真実の信心で)念仏する

ということです。この支部で一年に何人入会させるとか、何万円財施させるとか、その他会長や上司から様々に下される指示命令は、当然ですが「本願招喚の勅命」ではありません。そういう指示命令に何でもかんでも無条件に従うことと、阿弥陀仏の勅命に順うことは当たり前の当たり前ですが無関係です。


次に「善知識」です。「善知識」のお役目は

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。『御文章』2帖目11通

であることは親鸞会会員なら耳タコでしょうが、「一心一向」が間違っているために正しく理解できていません。さすがに「一心一向に弥陀に帰命」=「一向専念無量寿仏」であること位は判ると思いますが、阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神を捨てることだけかと思っていたら大間違いです。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。(中略)
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。
『選択本願念仏集』廃立

諸行を廃してただ念仏を用」いることを「一向」と言います。親鸞会では諸行(諸善)を廃するどころか強烈に勧めています。これでは「一向」になりません。「一向専念無量寿仏」にならないのです。

この「一向」が諸善を捨てて念仏一行であれば、「一心」は

信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。「信文類」三心一心問答

とあるように真実の信心です。このことから、

一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし
=「一向専念無量寿仏」せよ
諸善を捨てて真実の信心で念仏しなさい

となります。これは先ほど話した「本願招喚の勅命」そのものです。まとめると、

本願招喚の勅命
諸善を捨てて真実の信心で念仏しなさい

善知識
=「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかり」の人
諸善を捨てて真実の信心で念仏しなさいとばかり教える人

善知識の仰せ
=「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし
諸善を捨てて真実の信心で念仏しなさい
=「本願招喚の勅命

です。これを踏まえれば、諸善を勧め、自らの指示に無条件に従わせようとする高森会長が「善知識」なのかどうか。聖教を素直に読むことができればそれは明らかですね。ですから先ほどの問いの答えは

「善知識の仰せ」=「阿弥陀仏の勅命」であり、「善知識の仰せ」と称した会長や上司の指示に何でも無条件服従しなければ信心獲得できない、阿弥陀仏の勅命に順うことはできない、という教えは無い

です。会員の皆さんは、普段どんなことを教えられ、どんな指示を受けているか、静かに振り返ってみましょう。


善知識」とは、「本願招喚の勅命」を正しく説いて、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」とばかり教える人、真実の信心で念仏しなさいとばかり教える方です。「善知識の仰せ」とは人の言葉ではありますが、その内容は人々を助けたい、助けたいという阿弥陀仏の大慈悲心です。ですから、「組織拡大」「会員倍増」など、阿弥陀仏の大慈悲心に私利私欲を混ぜてこれを正しく教えないような人は「善知識」ではないので、いくらそういう人の指示命令に従ったところで信心獲得とは無関係であることは再三述べている通りです。

善知識の仰せ」、「本願招喚の勅命」をお聞かせ頂くのが「聴聞」です。また「聴聞」とは「善知識」という「人」から直接聞くに限らず、聖教を読むことも、それを解説した和上さん方の著書を読むことも、法話の動画や音声を聞くことも、広義で「聴聞」と言えるでしょう。

そしてお念仏申すこと、これが何よりの「聴聞」です。お念仏とは、私の口を借りて阿弥陀仏が「助けるぞ」と喚んでおられる声です。念仏を往生の取引材料に用いるのではなく、大悲招喚の声として聞く。聞即信、信即称、称即聞とはこういうことです。すべて南無阿弥陀仏のおはたらきです。

本願招喚の勅命」を正しく説きもしない、なんちゃって善知識の話をいくら聞いてその指示に無条件で従ったところで、阿弥陀仏の勅命に順う、すなわち信心獲得できるわけがないことは当然すぎるほど当然の話です。親鸞会の外には正しい浄土真宗を説かれる「善知識」が多くおられますから、浄土往生、成仏を願う方は親鸞会から離れて聞くことをお勧めします。在籍しながらでも構いませんが、親鸞会の邪義が染み付いた状態ではどうしても親鸞会以外の人の話が聞き難いです。

一方、「絶対の幸福」だとかいう現世利益を夢見る人は残ったらよいでしょう。せいぜい、悔いの残らない方を自分で選んで頂きたいと思います。

この世でさとれるわけがないのに、「大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚になる」と一益法門を説く高森顕徹会長

日曜日の高森顕徹会長の話は、毎度毎度の

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」
とは、どう変わるのでしょうか。


という質問に答えるというものでした。既に

『飛雲』国語力の乏しい高森顕徹会長とそれを信じる思考停止の会員

でも取り扱われていますが、指摘されている通り「代り映えのしないいつもの現世利益の内容」でした。


高森会長は今回も、大悲の願船に乗ると、つまり信心決定すると等覚をさとるかのように教えていました。

51段目の覚りになったことを、親鸞聖人はハッキリと『教行信証』に述べている
大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚になる
「定聚の数」とは52位ある覚りの51段目。「等覚」とも呼ばれる、阿弥陀仏の本願に助けられ、「絶対の幸福」になった覚の境地。

親鸞会では「さとってもいないのに『さとった』と言うこと」を「増上慢」と言うらしいですが、まさにその「増上慢」です。それでいて

大悲の願船に乗せて頂いても「煩悩具足」の身は全く変わっていない

と宣っています。煩悩具足が少しも変わっていないのに51段をさとれるかっちゅうの(-_-;)

そして嘘ばっかりです。親鸞聖人が「51段目の覚りになった」根拠として

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。「信文類」

を挙げていますが、どこにそんなことを仰ってるのか理解不能です。


この世でさとりを開くという邪義については

『歎異抄』第15条 煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。

でも扱われている通りです。なお『歎異抄』では「仏覚」のことを言われていますが、高森会長は51段の「等覚」をさとるかのように説いていますから内容的には同じことです。第15条に、

弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無碍の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。

とあるように、迷いの海を渡り、浄土の岸に至りついたなら「さとった」と言えるでしょうが、現在の

弥陀の願船に乗じて

の状態は「定聚の数に入」ったことであって、それと51段の「等覚」をさとったこととは全く別物です。もし

信心決定して大悲の願船に乗ったら51段目の等覚になったことはハッキリする。それがハッキリしないのはまだ大悲の願船に乗っていない証拠であり、異安心だ

と非難するようであれば、曇鸞大師は異安心になります。大師は『浄土論註』に

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

と仰って、浄土に往生した後、つまり死後に正定聚に入ると教えられました。何も曇鸞大師のみでなく、本願を信受したその時、この世で正定聚に入ると明言されたのは親鸞聖人が初めてですから、親鸞会の説を是とすれば七高僧方はみな異安心になります。

「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。

と『歎異抄』第15条は締め括られていますが、この世において阿弥陀仏の本願を信じ、浄土に往生してさとりを開くというのが浄土真宗です。親鸞聖人は「今生に本願を信じ」たその時に「正定聚に入る」と教えられましたが、それと「51段目の等覚になる」ことは当然異なります。この世でさとれるわけがないのに、「大悲の願船に乗せて頂くと51段目の等覚になる」と一益法門を説いているのが高森顕徹会長ですから、こんな珍しい教えは浄土真宗でも何でもありません。


ところで高森会長は、「ガラリと変わる」根拠に

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。「信文類」悲嘆述懐

を出していますが、これもおかしな話です。

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」

とアニメの蓮如上人に言わせておきながら、「愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して」いる我が身は何も変わらず、「定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざる」ですから。

「悲しきかな」「恥ずべし傷むべし」と「懺悔」されているのが「ガラリと変わる」の一つ

などと言っていますが、これは言わば「我が身は何も変わらない」根拠でしょう。横超の金剛心を得ているから間違いなく次生浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開くことが決定しているのに、「ガラリと変わる」も何も、「大悲の願船に乗せて頂いても「煩悩具足」の身は全く変わっていない」からそれを喜ばず、楽しいとも思わない、恥しく、嘆かわしいことである、というのです。

親鸞聖人は、大悲の願船に乗じて浄土往生が決定し、字の如く「ガラリと変わる」と言われて当然の身となったのに、現実は「我が身は何も変わらない」。激変のあまり死んでしまっても全然不思議ではないのに、喜びも楽しみもしない煩悩具足の我が身を恥じているのです。高森会長にもしこの「恥づべし傷むべし」の懺悔心があるなら、まず『飛雲』との公開法論に6年以上も応じない公約違反の我が身を「恥づべし傷むべし」と懺悔して、直ちに公開法論に応じてもらいたいものです。


幸せな人生にガラリと変わる」と精神的大飛躍に憧れ、その瞬間、その体験を夢見て聞いている会員ばかりかと思いますが、会長の教える「絶対の幸福」という現世利益を求めていくら聞いていても「定聚の数に入る」「真証の証に近づく」ことはできません。これらは真実の行信を獲得したことによる利益です。念仏一行ただ念仏を否定し、間違った教え、間違った行、間違った信心を説く者に仕えておって、真実の行信、真実の証果が得られるわけがないのです。会員の皆さんは思考停止状態から早く抜け出し、「念仏する者を往生させる」という本願をふかく信じて念仏して頂きたいと思います。

『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」について

少し前に、承元の法難の直接のきっかけとなった『興福寺奏状』について、林遊@なんまんだぶ様よりコメントを頂きました。ありがとうございました。


私も親鸞会を退会した当初、『興福寺奏状』について調べたことがありました。コメントにあるように、また

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』「因果の道理が分からなければ、親鸞聖人の教えは分からない」(「親鸞聖人を学ぶ」より)は間違いといえるのは、なぜか

にもあるように、親鸞会の公式ホームページでは『興福寺奏状』第六「浄土に暗き失」が意図的に省かれています。古くは高森顕徹著『こんなことが知りたい③』にも

(11)親鸞聖人が総攻撃を受けられた原因は何か

と題して『興福寺奏状』のことが書かれていますが、やはり「浄土に暗き失」についての説明はありません。どうして省かれているのか、また、聖道諸宗がなぜ「浄土宗」を立てた法然聖人を「浄土に暗い」と非難したのか。これらの疑問が調べるきっかけになったのですが、調べて解ったことは、親鸞会が本願寺を攻撃しているのは聖道諸宗が法然聖人を攻撃したのと理屈が同じだということでした。


法然聖人の教えは、『興福寺奏状』第一「新宗を立つる失」

ただ弥陀一仏の称名のみを説き

とあるように専修念仏、念仏往生であり、諸行兼修、諸行往生は認められませんでした。『選択本願念仏集』には、それがハッキり打ち出されています。

わたくしにいはく、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量せよ。「純雑対」

すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。「廃立」

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。「難易義」

諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。「傍正」

今はほんの一部を抜き出すに止めますが、諸行諸善を廃して念仏一行を専らにせよ、それが釈迦弥陀二尊のお勧めだ、十方諸仏のお勧めだ、末世の我々の往生の道はこれ以外無いと念仏ばかりを勧められています。勿論、法然聖人も信心について教えられていますが、それは裏の方で、表向きはとにかく「念仏申せ」「念仏の他に救われる道は無い」と念仏に急なる教えでありました。

こうした諸行諸善を廃して専修念仏という教えが、どうも聖道諸宗の逆鱗に触れたようです。最も手厳しい批判は明恵上人の『摧邪輪』ですが、それはさておき、『興福寺奏状』第六 浄土に暗き失ではまず浄土教でも諸行往生を認めているではないかと非難しています。

観無量寿経を勘ふるに、云く、「一切の凡夫、かの国に生ぜんと欲せば、まさに三業を修すべし。
一は、父母に孝養し、師長に奉仕し、慈心にして殺さず、十善の業を修す。
二は、三帰を受持し、衆戒を具足して、威儀を犯さず。
三は、菩提心を起して、深く因果を信じ、大乗を読誦すべし」と云云。
また九品生の中に上品上生を説いて云く、「諸の戒行を具し、大乗を読誦すべし」、中品下生に、「父母に孝養し、世の仁愛を行ふべし」と云云。
曇鸞大師は念仏の大祖なり。往生の上輩において五種の縁を出せり。その四に云く、「修諸功徳」、中輩七縁の中に、「起塔寺」「飯食沙門」と云云。
また道綽禅師、常修念仏三昧の文を会して云く、「念仏三昧を行ずること多きが故に常修と言ふ、全くに余の三昧を行ぜずと謂ふにはあらざるなり」と云云。善導和尚は、見るところの塔寺、修葺(しゅうしゅう)せずといふことなし。しからば、上、三部の本経より、下、一宗の解釈に至るまで、諸行往生、盛んに許すところなり。


『観無量寿経』にこう説かれている、念仏の大祖である曇鸞大師も、道綽禅師もこう教えられている、善導大師はこういうことをされている。このようにいずれも諸行による往生を教え認めているのに、法然は諸行を捨てて専修念仏と言うておる。とんでもない間違いであり、浄土の教えに暗い奴だ、というのです。

この中には親鸞会の大好きな「深く因果を信じ」「修諸功徳」等の文があります。因果の道理や七仏通戒偈、十九願や定散二善等を根拠に本願寺を非難している親鸞会と理屈はほぼ同じです。諸善を勧める親鸞会は、その結果から言えば諸行往生を勧めていることになります。ですから、「「往生の資助になる」ということでは、断じてない」など色々と詭弁を使っていますが、「親鸞会は諸行往生」と批判されても何の文句も言えません。


それから法然は善人と悪人が一処に倶に生ずるように主張しているが、それは因果の道理に反した間違った思想であり「愚痴の過」であると次のように非難しています。

かの帝王の政を布くの庭に、天に代わって官を授くるの日、賢愚品に随ひ、貴賤家を尋ぬ。至愚の者、たとひ夙夜(しゅくや)の功ありと雖も、非分の職に任せず。下賤の輩、たとひ奉公の労を積むと雖も、卿相の位に進み難し。大覚法王の国、凡聖来朝の門、かの九品の階級を授くるに、おのおの先世の徳行を守る。自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。

『観経』には、三福九品の諸行による凡聖の往生が説かれているが、彼等が往生するとき、仏はその先世の徳行の高下に応じて上々から下々に至る九品の階級を授けられていく、それが自業自得の道理の必然だからである。たとえば帝王が天に代わって官を授くるのに賢愚の品に随い、功績に応ずるようなものである。しかるに専修のものは、下々の悪人が、上々の賢善者と倶に生ずるように主張しているが、「偏へに仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚痴の過」を犯している)、というのです。

法然聖人によれば、『観経』に説かれる三福九品の往生の違いは釈尊の巧みな御教化によるもので、善人も悪人も同じ浄土に生まれると言ったら悪人は慢心を起こすから、品位差別を設けて善人は上品の往生を、悪人は下品の往生を遂げると説かれているのだと仰せです。

 問。極楽に九品の差別の候事は、阿弥陀仏のかまへたまへる事にて候やらむ。

 答。極楽の九品は、弥陀の本願にあらす、四十八願の中になし、これは釈尊の巧言なり。善人悪人一処にむまるといはは、悪業のものとも慢心をおこすへきかゆへに、品位差別をあらせて、善人は上品にすすみ、悪人は下品にくたるなりと、ときたまふなり。いそぎまいりてみるべし。 云云
『西方指南抄』

ところがそのようなことを聖道門の学僧は到底認められないでしょう。さとりを求めて菩提心を発し、諸々の悪を廃し衆々の善を修めて仏道を成就しようというのが根本的な考えですから、この理屈で言えば善人も悪人もただ念仏のみで一処に往生するという法然の主張は自業自得の道理に反したものだというのです。

自業自得、その理必然なり

とあるように、善悪因果の道理、自業自得、廃悪修善の因果論をもって法然聖人を批判しています。「浄土宗」と名乗りながら仏教の根本教義も分かっとらんし、あんたらの重んじている経典や中国の高僧方の説にも反しているじゃないか、全くもって「浄土に暗い」を言わざるを得ない、ということでしょうね。


阿弥陀仏の本願は、衆生の力を全く要せず、ただ本願力の回向によって善悪賢愚の隔てなく平等に救おうというものですから、その点「おほきに因果の道理にそむけり」で、聖道門の論理とは全く別物です。その本願を説く団体や退会者を、聖道門の論理とほぼ同じ論理、同じ根拠で非難しているのが親鸞会です。本願寺が呆れて相手にしなくなったのも道理です。浄土真宗と名乗りながらその教えが全く分かっていないのですから。

法然聖人、親鸞聖人を始めとし、門徒数輩が死罪、流罪となってまで明らかにして下された念仏の教え。世間難信の法と言われるように、とても世法の理屈にも聖道門の理屈にも合わない破格の教えですが、このような教えでなければ末世の、しかも淳心房のような者は出離、往生のみちはありませんでした。如来広大の恩徳、師主知識の恩徳に感泣すると共に、浄土真宗と名乗りながらこの法を破壊せんとする親鸞会の教義の誤りを、これからも世に知らしめていきたいと思う所存です。


なお、今回取り上げた「浄土に暗き失」については様々なブログで既に取り扱われています。

『用管窺天記』自業自得の救済論
『親鸞会教義の誤り』親鸞会は諸行往生10
『21世紀の浄土真宗を考える会』興福寺奏状 第六 浄土に暗き失
『WikiArc』興福寺奏状と教行証文類

これらも合わせてご覧下さい。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

こんな不可解事があるでしょうか。

会員全員の望みでもあるはずです。高森顕徹会長の教え、宗教法人『浄土真宗親鸞会』の説くところが正しい浄土真宗だと世に知らしめ、それが全ての人々に伝わってゆくことが。

絶好のチャンスでもあるはずです。『飛雲』との公開法論に応じ、これに勝利して、親鸞会教義の正当性を揺るぎないものにすることが。

仏弟子の使命であり、最高の善であり、御恩報謝でもあるはずです。公開法論に応じて異安心を破邪顕正し、真実の仏法を明らかにすることは。


もし高森顕徹会長の教え、宗教法人『浄土真宗親鸞会』の説くところが正しい浄土真宗なら、なぜ高森会長はかつての公約通り、法論に応じて破邪顕正し、真実の仏法を明らかにしないのでしょう?

ねぇ会員の皆さん。こんな不可解事があるでしょうか。



かつての公約であり、因果の道理、廃悪修善の実践でもあるはずです。せめて公開法論の一つもなされない限り、親鸞会の因果の道理、廃悪修善は信用できません。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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