ブログのタイトルを「間違った真宗教義の伝承のために」に変えた方がいいんじゃないの?

親鸞会は依然として『飛雲』との法論には応じないようです。元々高森会長を始め「親鸞学徒」の皆さんは仏弟子でも何でもないので、約束の一つもまともに守らないのは当然かも知れません。それでいて散善(世福、戒福、行福)を勧めているのですから、親鸞会教義は漫才以外のなにものでもありません(笑)

その代わり、親鸞会の者ということでは責任が負えないからか、親鸞会擁護の偽装退会者という立場で、過去に飛雲さんに破られて逃走した内容を未だに書き続けている者がいます。彼の論法としては、飛雲氏は祖師の御教えを否定したという証言ですね。

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この十六観の法を説きたまふは、ただ『常没の衆生』のためにして、大小
の聖のためにせずといふことを証明す。(観経疏)

しかるに『常没の凡愚』、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。(化土巻)

「定散二善をすすめられた『常没の凡夫』は定善も散善もできない悪人である。」

というのが祖師聖人の結論です。だから

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと
  勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよと
  なり、知るべし。(化土巻)

は、定散諸機イコール極重悪人となるんですよ。

「一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。」(観経疏)

一切衆生には定機と散機しかない。信前に十八願の機などない。

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等と書いているように、

・一切衆生(全人類)は定、散の二機しかない
・定散二善は聖者ではなく常没の衆生(一切衆生=全人類=定散諸機)に対して説かれたもの
・常没の凡愚(一切衆生=全人類=定散諸機)は定散二善を修めることができない者
・「定散諸機=極重悪人」であって一切衆生必堕無間


であるというものです。祖師の解釈にも合わない、都合のよい根拠を並べているだけのお粗末極まりない理論です。


まず、最初の「・一切衆生(全人類)は定、散の二機しかない」ということについて、『愚禿鈔』を挙げて聖人の解釈を見てみましょう。

【31】 また二種の機について、また二種の性あり。
二機とは、 一には善機、二には悪機なり。二性とは、一には善性、二には悪性なり。
【32】 また善機について二種あり。また傍正あり。
一には定機、二には散機なり。[『疏』(序分義 三八一)に「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」といへり。文]

(中略)

【35】 また悪機について七種あり。
一には十悪、二には四重、三には破見、四には破戒、五には五逆、六には謗法、七には闡提なり。(愚禿鈔)


このことから、『観経疏』序分義の散善顕行縁の文

四に「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るこのかたは、まさしく勧めて三福の行を修せしむることを明かす。これ一切衆生の機に二種あり。一には定、二には散なり。もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。ここをもつて如来(釈尊)方便して三福を顕開して、もつて散動の根機に応じたまふことを明かす。

「一切衆生の機」とは、悪機とは別の善機の意であると分かります。悪機とは別の善機に対して定善、散善を説き与えられているのです。悪機には定散二善は説かれていません。当然です。『観経』を読めば、上三品、中三品の善人に散善を説かれていますが、下三品の悪人には善は説かれず、念仏しか勧められていないのは誰でもわかることです。これはちょうど、19願の「十方衆生」が『平等覚経』では諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)ということで、作菩薩道者に修諸功徳の善を説き与えられているのと同じです(『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(聖道門の19願に対する見解・宿善))。十方衆生、一切衆生とあるからと言って、必ずしも私達と関係があるとは限らないのです。『飛雲』「十方衆生」の意味によれば、

「十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。「十方衆生」と同義の「一切衆生」に至っては、「十方衆生」よりも多くの経典で出てきます。つまり、親鸞会理論を適用するならば、聖道門は全人類にとって実践しなければならない教え、ということになります。

ということです。まぁ戒福すらまともに行じることのできない者達が聖道門の行などできるわけもありませんが。この当たり前のことが断章取義の親鸞会やその擁護者には分からないのです。100年経っても分からないかも知れません。高森会長の犠牲者はまともな思考が停止しています。

この最初の理論が間違っていますから、後はみな間違いです。善機と悪機があるとは親鸞聖人のお言葉ですが、それを無視して善機も悪機も一緒くたに悪機にして理論展開しているところに、彼の如き愚かさがあります。

「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。(『観経疏』序分義 要弘二門

・一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば(行文類)
・定散と逆悪とを矜哀して(同)

(19)
一 如来の本願は、もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事。
 本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(源空)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもつて往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。凡夫もし往生かたかるべくは、願虚設なるべし、力徒然なるべし。しかるに願力あひ加して、十方衆生のために大饒益を成ず。これによりて正覚をとなへていまに十劫なり。これを証する恒沙諸仏の証誠、あに無虚妄の説にあらずや。しかれば御釈(玄義分)にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。(口伝鈔)


善機と悪機、善人と悪人、善凡夫と悪凡夫、このように分けられているお言葉は挙げればきりがありません。親鸞聖人はじめ祖師方のお言葉を無視して、何が「正しい真宗教義の伝承のために」でしょうか? ブログのタイトルを「間違った真宗教義の伝承のために」に変えた方がいいんじゃないの?


さて、次の「・定散二善は聖者ではなく常没の衆生(一切衆生=全人類=定散諸機)に対して説かれたもの」についてですが、これについては「凡夫のためにして聖人のためにせず」「常没の衆生」とは?「定散と逆悪とを矜哀して」の意味さえ知らない高森会長などを参照して下さい。

如来(釈尊)この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小の聖のためにせずといふことを証明す。(玄義分)

当時の中国では、『観無量寿経』の九品の中で上品の三生と中品の三生は、大乗、小乗の聖人等のために説かれた、という解釈でした。そのため、その誤りを正されてこのように仰ったということです。ただ、常没の衆生と言っても、定散二善を説かれたのは悪機、悪人、悪凡夫ではなく、善機、善人、善凡夫です。先ほど説明した通りです。『観無量寿経』『観経疏』をまともに読まず、言葉尻だけ取ってつなげているだけですから、実に薄っぺらくそして脆い理論だと分かりますね。


それから、「・常没の凡愚(一切衆生=全人類=定散諸機)は定散二善を修めることができない者」についてですが、これは雑毒の善ができる下品下生???かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからずなどを読まれたらよいと思います。誰も定散二善を行じることができないのではありません。「この定かならずすなはち得やすし」と仰った善導大師、そのお弟子の懐感禅師、また後善導と呼ばれた法照禅師は、定善ができた方と言われているようですし、智覚禅師が、上品上生の善人であったことは法然、親鸞両聖人が言われていることです。
「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」に書かれていますが、「かたし」とは「難しい」ということで「不可能」「可能性0」ということではありません。親鸞会のおつとめで読んでいる『浄土和讃』

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし


の「かたし」を「不可能」「可能性0」と理解している会員はいないでしょう。なのに、「化身土文類」の

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。

の文章だけは「不可能」「可能性0」と言っているのは愚かなことです。


最後の、「・「定散諸機=極重悪人」であって一切衆生必堕無間」については、当たり前のことですが、「定散諸機」≠「極重悪人」、「善凡夫」≠「悪凡夫」当たり前の当たり前の当たり前ですが、「定散諸機」≠「極重の悪人」などが参考になると思います。「定散諸機」とは定善・散善のできる善人のことです。それと「極重の悪人」は違うのです。そして「定散諸機」は必堕無間の悪人などではありません。この程度のことさえ判らなくなってしまうところに、高森会長の被害者の愚かさ、そして悲しさがあります。
そして、善知識方が「他の方便なし」と教えられているのに、まだ反抗するのですか?

19願、定散二善は、聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、実践しても化土往生しかできない、と要門釈で解説され、浄土門に入った「定散の諸機」も18願他力念仏に帰せよ、と結論付けられたのです。それで『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、要門釈の最後で

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

とされたのです。「極重の悪人」には他の方便がありませんが、「定散の諸機」には他の方便があります。その「定散の諸機」に対しても、結論は「ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。「よくみづからおのれが能を思量せよとなり」と、その理由を付け加えておられます。「定散の諸機」と言っても、龍樹菩薩や天親菩薩と比べたならば、能力はたかが知れているではありませんか。龍樹菩薩や天親菩薩という大変に優れた方でさえも、18願の念仏に帰依されたのです。
そのことを『正像末和讃』で

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と仰ったのです。従って、善人にも結局は念仏を勧められているのだということです。


と書かれている通りです。


ちなみに、偽装退会者は「一切衆生悉有仏性」=「一切衆生必堕無間」などと下らないことを書いていますが、これについては「悉有仏性」と「必堕無間」の違いが、真宗とカルトとの違いを参照して下さい。あんな恥ずかしいことを書いていてよく「正しい真宗教義の…」などと言えるものです。


なお以下は、5月12日に「根拠捏造」さんがコメントした質問に対して、偽装退会者が一切触れずに論点ずらしにかかったために再度「根拠捏造」さんがコメントした内容です。
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No title
さて、以下の質問には答えられないということで決着しました。


1.聖道門での善を実践されて初地まで至られた龍樹菩薩は、善のできない極重の悪人ということですか?

2.定善が容易くできると仰った善導大師は、本当は定善のできない極重の悪人ということですか?

3.智覚禅師は上品上生の方、つまり散善の機と仰った法然上人・親鸞聖人は、嘘を仰ったということですか?

4.定散の機は、凡夫であることを明らかにされたのが善導大師ですが、善凡夫は常没ではない、迷いの衆生ではない、ということですか?

5.親鸞聖人が、すべての人は闡提、逆悪の機、極重の悪人と仰った【直接的な】お言葉を出してください。(化土巻はそんな意味にはなりません)

6.真仏土巻にある闡提の貴方の解釈が示されていませんので、現代語訳をして示してください。



答えられないとは、あなたの主張が間違っていたことを認めたことで、終了です。
アンチにはただの一度も勝てなかったあなたが、以前と同じことを書いて勝てるとでも思った愚かさを学習しましょう。
2012-05-16(20:03) : 根拠捏造 URL : 編集

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都合の悪い質問には一切答えず、論点をすり替えて勝っているように偽装する。親鸞会のお家芸ですね。「アンチSはコテハン全敗」だなどと、大本営発表もいいところです。篤い高森信者は約束を守らないわ、平気でウソをつくわ、人間としてどうかというところまで成り下がってしまっています。せいぜいおかしなことを書いて会員を失望させて下さい。

親鸞聖人がご門弟の方々に勧められた『後世物語聞書』に、三願転入の教えはない(2)

親鸞聖人がご門弟の方々に勧められた『後世物語聞書』に、三願転入の教えはない

では、『後世物語聞書』の内容そのものにはあまり触れませんでしたが、今回は少しばかり中身を見ていきたいと思います。

【2】あるひと問うていはく、かかるあさましき無智のものも、念仏すれば極楽に生ずとうけたまはりて、そののちひとすぢに念仏すれども、まことしくさもありぬべしともおもひさだめたることも候はぬをば、いかがつかまつるべき。
 師答へていはく、念仏往生はもとより破戒無智のもののためなり。もし智慧もひろく戒をもまつたくたもつ身ならば、いづれの教法なりとも修行して、生死をはなれ菩提を得べきなり。それがわが身にあたはねばこそ、いま念仏して往生をばねがへ。


ある人が、「このようなあさましい無智の者でも、念仏すれば極楽に生まれるとお聞きして、その後ひとすじに念仏するのですが、本当に念仏すれば極楽に生まれると思い定めることがありません。どうすればいいのでしょうか」と尋ねています。
それに対して師(隆寛律師か?)が、「念仏往生は、もともと破戒無智の者のためのものです。もし智慧も広く戒律をも完全にたもつ身であるならば、仏教のどの法でも修行して生死を離れ、さとりを得ることができるでしょう。それが我が身には不可能であるからこそ、いま念仏して往生を願いなさい」と答えています。

「いま三願転入して往生を願いなさい」でも「いま第十九願の修諸功徳の善をして宿善を厚くして往生を願いなさい」でもありません。「いま念仏して往生を願いなさい」です。私達が諸行(善)のできる器ではない破戒無智の者だからこそ、阿弥陀仏は本願において往生行として一切の諸行を選び捨て、念仏一行を選び取って下されたのです。その選び捨てた諸行(善)を再び拾って勧める知識は、選択本願という意味すら分かっていないのか、組織拡大しか頭にないのか。親鸞会の教えは浄土真宗とは似ても似つかぬえせ法門です。


【3】またあるひと問うていはく、いみじきひとのためには余教を説き、いやしきひとのためには念仏をすすめたらば、聖道門の諸教はめでたく浄土門の一教は劣れるかと申せば、
 師答へていはく、たとひかれはふかくこれはあさく、かれはいみじくこれはいやしくとも、わが身の分にしたがひて流転の苦をまぬかれて、不退の位を得ては、さてこそあらめ。ふかきあさきを論じてなににかはせん。いはんや、かのいみじきひとびとのめでたき教法をさとりて仏に成るといふも、このあさましき身の念仏して往生すといふも、しばらくいりかどはまちまちなれども、おちつくところはひとつなり。善導ののたまはく、「八万四千の門〔あり〕。門々不同にしてまた別なるにあらず。別々の門はかへりておなじ」(法事讃・下 五四八)といへり。しかればすなはち、みなこれおなじく釈迦一仏の説なれば、いづれを勝れり、いづれを劣れりといふべからず。あやまりて『法華』の諸教に勝れたりといふは、五逆の達多、八歳の竜女が仏に成ると説くゆゑなり。この念仏もまたしかなり。諸教にきらはれ、諸仏にすてらるる悪人・女人、すみやかに浄土に往生して迷ひをひるがへし、さとりをひらくは、いはばまことにこれこそ諸教に勝れたりともいひつべけれ。まさに知るべし、震旦(中国)の曇鸞・道綽すら、なほ利智精進にたへざる身なればとて、顕密の法をなげすてて浄土をねがひ、日本の恵心(源信)・永観も、なほ愚鈍懈怠の身なればとて、事理の業因をすてて願力の念仏に帰したまひき。このごろかのひとびとに勝りて智慧もふかく、戒行もいみじからんひとは、いづれの法門に入りても生死を解脱せよかし。みな縁にしたがひてこころのひくかたなれば、よしあしとひとのことをば沙汰すべからず、ただわが身の行をはからふべきなり。


この段落では、「能力のすぐれた人のためには他の教えを説き、能力の劣った人のためには念仏をすすめたのであれば、聖道門の諸々の教えはすばらしく、浄土門の一つの教えは劣るのでしょうか?」という質問がなされ、それに対して「聖道門の教えと浄土門の念仏往生の教えとの優劣を論ずるよりも、みずからの能力に応じた念仏往生の道を選ぶことが肝要である」と教えられています。
「このあさましき身の三願転入して往生す」でも「このあさましき身の定散二善をして信仰を進めて往生す」でもありません。「このあさましき身の念仏して往生す」です。中国の曇鸞大師、道綽禅師、日本の源信僧都、永観律師という方々も、自力修行には堪えざる身であると自力の修行を捨てて念仏に帰依されたのです。ならば、尚更私達は念仏以外に救いの道がないということは明らかでしょう。十九願を勧めるのは、自力修行を勧め諸行往生・臨終来迎を願えと言っているのと変わりません。そんな真宗にあらざる教えを説く知識からいくら聴聞し、彼の指示に無条件服従していても、念仏往生とは無関係です。

大体、おおよその親鸞会の会員は、第十九願の内容、定散二善の内容などについてろくすっぽ解説も受けていないでしょう。ただそれらを根拠に出され、「善をしなければ信仰は進みません」やら「獲信と修善はよい関係にある」やら「獲信の因縁として善を修せよ」と言われ、実際は修諸功徳の善でも定散二善でもない献金や勧誘をやっているに過ぎません。それでいて念仏を勧める者(主に本願寺)を称名正因の異安心呼ばわりしたり、「念仏は信後報謝に限る」などと教えられて念仏を軽視する風潮があります。更に自力念仏の者も必堕無間だと唱えているのですから、念仏誹謗もいいところです。おかしな新興宗教の教祖を絶対者と信じ込むと、せっかくの明晰な頭脳を持っていても台無しです。そして未信のまま流転の旅に出てしまうとなれば、哀れもここに極まれりと言ったところでしょうか。何にせよ、親鸞会の邪義を離れ、本願の念仏を称えて往生を願って頂きたいばかりです。


【参考資料】
『妄念の凡夫』『後世物語』を勝手に訳して
『WikiArk』後世物語聞書

親鸞聖人がご門弟の方々に勧められた『後世物語聞書』に、三願転入の教えはない

ただ詮ずるところは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』、この御ふみどもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。(親鸞聖人御消息)

このように、親鸞聖人はお手紙にて『唯信鈔』(聖覚法印)、『後世物語聞書』(隆寛律師?)、『自力他力事』(隆寛律師)などをよくよく常に読んで、そのお心に違わないようにしなさいとお書きになっています。その内、前回は『自力他力事』を見ましたので、本日は『後世物語聞書』を取り上げてみます。


   後世物語聞書

【1】ちかごろ浄土宗の明師をたづねて、洛陽東山の辺にまします禅坊にまゐりてみれば、一京九重の念仏者、五畿七道の後世者たち、おのおのまめやかに、衣はこころとともに染め、身は世とともにすてたるよとみゆるひとびとのかぎり、十四五人ばかりならび居て、いかにしてかこのたび往生ののぞみをとぐべきと、これをわれもわれもとおもひおもひにたづねまうししときしも、まゐりあひて、さいはひに日ごろの不審ことごとくあきらめたり。そのおもむきたちどころにしるして、ゐなかの在家無智のひとびとのためにくだすなり。よくよくこころをしづめて御覧ずべし。

【2】あるひと問うていはく、かかるあさましき無智のものも、念仏すれば極楽に生ずとうけたまはりて、そののちひとすぢに念仏すれども、まことしくさもありぬべしともおもひさだめたることも候はぬをば、いかがつかまつるべき。
 師答へていはく、念仏往生はもとより破戒無智のもののためなり。もし智慧もひろく戒をもまつたくたもつ身ならば、いづれの教法なりとも修行して、生死をはなれ菩提を得べきなり。それがわが身にあたはねばこそ、いま念仏して往生をばねがへ。

【3】またあるひと問うていはく、いみじきひとのためには余教を説き、いやしきひとのためには念仏をすすめたらば、聖道門の諸教はめでたく浄土門の一教は劣れるかと申せば、
 師答へていはく、たとひかれはふかくこれはあさく、かれはいみじくこれはいやしくとも、わが身の分にしたがひて流転の苦をまぬかれて、不退の位を得ては、さてこそあらめ。ふかきあさきを論じてなににかはせん。いはんや、かのいみじきひとびとのめでたき教法をさとりて仏に成るといふも、このあさましき身の念仏して往生すといふも、しばらくいりかどはまちまちなれども、おちつくところはひとつなり。善導ののたまはく、「八万四千の門〔あり〕。門々不同にしてまた別なるにあらず。別々の門はかへりておなじ」(法事讃・下 五四八)といへり。しかればすなはち、みなこれおなじく釈迦一仏の説な れば、いづれを勝れり、いづれを劣れりといふべからず。あやまりて『法華』の諸教に勝れたりといふは、五逆の達多、八歳の竜女が仏に成ると説くゆゑなり。この念仏もまたしかなり。諸教にきらはれ、諸仏にすてらるる悪人・女人、すみやかに浄土に往生して迷ひをひるがへし、さとりをひらくは、いはばまことにこれこそ諸教に勝れたりともいひつべけれ。まさに知るべし、震旦(中国)の曇鸞・道綽すら、なほ利智精進にたへざる身なればとて、顕密の法をなげすてて浄土をねがひ、日本の恵心(源信)・永観も、なほ愚鈍懈怠の身なればとて、事理の業因をすてて願力の念仏に帰したまひき。このごろかのひとびとに勝りて智慧もふかく、戒行もいみじからんひとは、いづれの法門に入りても生死を解脱せよかし。みな縁にしたがひてこころのひくかたなれば、よしあしとひとのことをば沙汰すべからず、ただわが身の行をはからふべきなり。

【4】またあるひと問うていはく、念仏すとも三心をしらでは往生すべからずと候ふなるは、いかがし候ふべき。
 師のいはく、まことにしかなり。ただし故法然聖人の仰せごとありしは、「三心をしれりとも念仏せずはその詮なし、たとひ三心をしらずとも念仏だに申さば、そらに三心は具足して極楽には生ずべし」と仰せられしを、まさしくうけたまはりしこと、このごろこころえあはすれば、まことにさもとおぼえたるなり。ただしおのおの存ぜられんところのここちをあらはしたまへ。それをききて三心にあたりあたらぬよしを分別せん。

【5】あるひといはく、念仏すれどもこころに妄念をおこせば、外相はたふとくみえ内心はわろきゆゑに、虚仮の念仏となりて真実の念仏にあらずと申すこと、まことにとおぼえて、おもひしづめてこころをすまして申さんとすれども、おほかたわがこころのつやつやととのへがたく候ふをば、いかがつかまつるべき。
 師のいはく、そのここちすなはち自力にかかへられて他力をしらず、すでに至誠心のかけたりけるなり。くだんの、口に念仏をとなふれどもこころに妄念のとどまらねば、虚仮の念仏といひて、こころをすまして申すべしとすすめけるも、やがて至誠心かけたる虚仮の念仏者にてありけりときこえたり。そのこころに妄念をとどめて、口に名号をとなへて内外相応するを、虚仮はなれたる至誠心の念仏なりと申すらんは、この至誠心をしらぬものなり。凡夫の真実にして行ずる念仏は、ひとへに自力にして弥陀の本願にたがへるこころなり。すでにみづからそのこころをきよむといふならば、聖道門のこころなり、浄土門のこころにあらず、難行道のこころにして易行道のこころにあらず。これをこころうべきやうは、いまの凡夫みづから煩悩を断ずることかたければ、妄念またとどめがたし。しかるを弥陀仏、これをかがみて、かねてかかる衆生のために、他力本願をたて、名号の不思議にて衆生の罪を除かんと誓ひたまへり。さればこそ他力ともなづけたれ。このことわりをこころえつれば、わがこころにてものうるさく妄念・妄想をとどめんともたしなまず、しづめがたきあしきこころ、乱れ散るこころをしづめんともたしなまず、こらしがたき観念・観法をこらさんともはげまず、ただ仏の名願を念ずれば、本願かぎりあるゆゑに、貪瞋痴の煩悩をたたへたる身なれども、かならず往生すと信じたればこそ、こころやすけれ。さればこそ易行道とはなづけたれ。もし身をいましめ、こころをととのへて修すべきならば、なんぞ行住坐臥を論ぜず、時処諸縁をきらはざれとすすめんや。またもしみづから身をととのへ、こころをすましおほせてつとめば、かならずしも仏力をたのまずとも生死をはなれん。

【6】またあるひとのいはく、念仏すれば声々に無量生死の罪消えて、ひかりに照らされ、こころも柔軟になると説かれたるとかや。しかるに念仏してとしひさしくなりゆけども、三毒煩悩もすこしも消えず、こころもいよいよわろくなる、善心日々にすすむこともなし。さるときには、仏の本願を疑ふにはあらねども、わが身のわろき心根にては、たやすく往生ほどの大事はとげがたくこそ候へ。
 師のいはく、このことひとごとになげく心根なり。まことに迷へるこころなり。これなんぞ浄土に生ぜんといふみちならんや。すべて罪滅すといふは、最後の一念にこそ身をすててかの土に往生するをいふなり。さればこそ浄土宗とは名づけたれ。もしこの身において罪消えば、さとりひらけなん。さとりひらけば、いはゆる聖道門の真言・仏心・天台・華厳等の断惑証理門のこころなるべし。善導の御釈によりてこれをこころうるに、信心にふたつの釈あり。ひとつには、「ふかく自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、煩悩具足し、善根薄少にして、つねに三界に流転して、曠劫よりこのかた出離の縁なしと信知すべし」とすすめて、つぎに、「弥陀の誓願の深重なるをもつて、かかる衆生をみちびきたまふと信知して、一念も疑ふこころなかれ」とすすめたまへり。このこころを得つれば、わがこころのわろきにつけても、弥陀の大悲のちかひこそ、あはれにめでたくたのもしけれと仰ぐべきなり。もとよりわが力にてまゐらばこそ、わがこころのわろからんによりて、疑ふおもひをおこさめ。ひとへに仏の御力にてすくひたまへば、なんの疑かあらんとこころうるを深心といふなり。よくよくこころうべし。

【7】またあるひとのいはく、曠劫よりこのかた乃至今日まで、十悪・五逆・四重・謗法等のもろもろの罪をつくるゆゑに、三界に流転していまに生死の巣守たり。かかる身のわづかに念仏すれども、愛欲のなみとこしなへにおこりて善心をけがし、瞋恚のほむらしきりにもえて功徳を焼く。よきこころにて申す念仏は万が一なり。その余はみなけがれたる念仏なり。されば切にねがふといふとも、この念仏ものになるべしともおぼえず。ひとびともまたさるこころをなほさずはかなふまじと申すときに、げにもとおぼえて、迷ひ候ふをば、いかがし候ふべき。
 師のいはく、これはさきの信心をいまだこころえず。かるがゆゑに、おもひわづらひてねがふこころもゆるになるといふは、回向発願心のかけたるなり。善導の御こころによるに、「釈迦のをしへにしたがひ、弥陀の願力をたのみなば、愛欲・瞋恚のおこりまじはるといふとも、さらにかへりみることなかれ」(散善義・意)といへり。まことに本願の白道、あに愛欲のなみにけがされんや。他力の功徳、むしろ瞋恚のほむらに焼くべけんや。たとひ欲もおこりはらもたつとも、しづめがたくしのびがたくは、ただ仏たすけたまへとおもへば、かならず弥陀の大慈悲にてたすけたまふこと、本願力なるゆゑに摂取決定なり。摂取決定なるがゆゑに往生決定なりとおもひさだめて、いかなるひと来りていひさまたぐとも、すこしもかはらざるこころを金剛心といふ。しかるゆゑは如来に摂取せられたてまつればなり。これを回向発願心といふなり。これをよくよくこころうべし。

【8】またあるひといはく、簡要をとりて三心の本意をうけたまはり候はん。
 師のいはく、まことにしかるべし。まづ一心一向なる、これ至誠心の大意なり。わが身の分をはからひて、自力をすてて他力につくこころのただひとすぢなるを真実心といふなり。他力をたのまぬこころを虚仮のこころといふなり。つぎに他力をたのみたるこころのふかくなりて、疑なきを信心の本意とす。いはゆる弥陀の本願は、すべてもとより罪悪の凡夫のためにして、聖人・賢人のためにあらずとこころえつれば、わが身のわろきにつけても、さらに疑ふおもひのなきを信心といふなり。つぎに本願他力の真実なるに入りぬる身なれば、往生決定なりとおもひさだめてねがひゐたるこころを回向発願心といふなり。

【9】またあるひと申さく、念仏すれば、しらざれども三心はそらに具足せらるると候ふは、そのやうはいかに候ふやらん。
 師答へていはく、余行をすてて念仏をするは、阿弥陀仏をたのむこころのひとすぢなるゆゑなり。これ至誠心なり。名号をとなふるは、往生をねがふこころのおこるゆゑなり。これ回向発願心なり。これらほどのこころえは、いかなるものも念仏して極楽に往生せんとおもふほどのひとは具したるゆゑに、無智のものも念仏だにすれば、三心具足して往生するなり。ただ詮ずるところは、煩悩具足の凡夫なれば、はじめてこころのあしともよしとも沙汰すべからず。ひとすぢに弥陀をたのみたてまつりて疑はず、往生を決定とねがうて申す念仏は、すなはち三心具足の行者とするなり。「しらねどもとなふれば自然に具せらるる」と聖人(源空)の仰せごとありしは、このいはれのありけるゆゑなり。

【10】またあるひとのいはく、名号をとなふるときに、念々ごとにこの三心の義を存じて申すべく候ふやらん。
 師のいはく、その義またあるべからず。ひとたびこころえつるのちには、ただ南無阿弥陀仏ととなふるばかりなり。三心すなはち称名の声にあらはれぬるのちには、三心の義をこころの底にもとむべからず。



『自力他力事』に比べると少し長いですが、まだ読んだことのない方は一読してみて下さい。
読めばわかることですが、『後世物語聞書』のどこを読んでも親鸞会流「三願転入の教え」なるものは存在しません。他力念仏のお勧めばかりで、諸行諸善を勧めた文言は一ヶ所も見当たりません。もし私の見落としで、往生・獲信のために諸行諸善を勧められたお言葉がこの中にあれば教えて頂きたく思います。お詫びして訂正いたします。
定散二善等の余行を勧められるどころか、「余行をすてて」と教えられ、本願を信じて念仏する者を三心具足の行者とすると書かれています。

・余行をすてて念仏をするは、阿弥陀仏をたのむこころのひとすぢなるゆゑなり。
・ただ詮ずるところは、煩悩具足の凡夫なれば、はじめてこころのあしともよしとも沙汰すべからず。ひとすぢに弥陀をたのみたてまつりて疑はず、往生を決定とねがうて申す念仏は、すなはち三心具足の行者とするなり。


親鸞会教義は、「縦の線(獲信)を目指して余行(実際は献金、勧誘、無条件服従等)をせよ」ということですから、『後世物語聞書』とは真逆な教えであることが窺えます。会員の皆さんは、余行をたのんでいるから弥陀をたのめず、信心も安心もないのです。早く皆さんの往生・獲信を阻んでいる邪義を捨てて、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。

誤りを正さない限り、未来は決してないことを親鸞会は覚悟しなければならないだろう

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』「本願寺 なぜ説かぬ 信心一つの弥陀の救い」と言いながら、信心についての無理解を曝け出している親鸞会公式ホームページ

の記事の中に紹介されていた親鸞会公式ホームページの文章を少しいじったら、まんま親鸞会のことになったので報告します。

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 親鸞聖人の教えは、「信心正因、称名報恩」。信心一つで助かり、称える念仏は弥陀に救われたお礼である。
 この浄土真宗の根本教義を、本願寺トップが戦後ずっと、「念仏を称えて救われるのが親鸞聖人の教え」と説き、門徒をはじめとする大衆を誤解させ続けてきたのだ。
 そのような誤解を親鸞聖人のお言葉で正し、「唯信独達の法門」が本当の親鸞聖人の教えであることを明らかにされたのが『歎異抄をひらく』である。発刊後、本願寺は一冊の反論書も出せないまま4年が経過した。
 誤った教えを説き続けてきたところに本願寺凋落の真因があるのだが、親鸞会の度重なる警鐘にもだんまりを決め込んでいる。誤りを正さない限り、未来は決してないことを本願寺は覚悟しなければならないだろう。

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 親鸞聖人の教えは、「信心正因、称名報恩」。名号を疑いなく聞き受けた信心一つで助かり、称える念仏は信心の相続するすがた、名号の活動しているすがたをあらわし、そして弥陀に救われた深い感謝の心から出るものである。
 この浄土真宗の根本教義を、親鸞会トップが戦後ずっと、「信心一つで助かり、念仏は信後報謝に限るのが親鸞聖人の教え。その信心を得るには、宿善薄い我々は善をして宿善を厚くしなければ信心獲得はあり得ない。宿善を求めよ。一、聴聞。二、破邪顕正」と説き、それが近年では「18願の世界に入るには、19願、20願の道程を経なければならない。18願だけ聞いていたのでは助からない。三願転入が親鸞聖人の教えの根基」と言い出して会員をはじめとする大衆を誤解させ続けてきたのだ。
 そのような誤解を親鸞聖人のお言葉で正し、宿善を求めよ・厚くせよという教え、親鸞会流「三願転入の教え」など浄土真宗には存在しないことなど、様々な親鸞会の邪義を明らかにされたのが『飛雲』である。ブログ設立後、親鸞会は表立った反論もできないまま2年が経過した。
 誤った教えを説き続けてきたところに親鸞会凋落の真因があるのだが、飛雲氏の度重なる法論の申し込みにもだんまりを決め込んでいる。誤りを正さない限り、未来は決してないことを親鸞会は覚悟しなければならないだろう。

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偽装本願寺の僧侶と偽装退会者のブログは影でこそこそと『飛雲』批判をしていますが、本丸の親鸞会サンは直接法論を申しこまれたのにダンマリです。親鸞会が正しいという自信がお有りなら法論に応じるのが当然ですし、会員さんにもどのような親鸞会批判がなされているのか知らせてもいいはずです。しかし親鸞会では、「飛雲を読んではいけない」と言ってブログを読むこと及び飛雲さんに会うことを厳しく禁じているようです。情報統制し、内輪でしか親鸞会が正しいと言えないようでは土蔵秘事と言われても仕方ありません。

誤りを正さない限り、未来は決してないことを親鸞会は覚悟しなければならないだろう。

如来大悲のお言葉に、二の足をふむことは、如来さまの頭をふみつけることである。

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  四 善知識の教えたもうは信心のことです

  六 まことなるかな、摂取不捨の真言

 「まことなるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」は、ご開山様の心血をそそいでのおさとしであります。
 聞思してとは、言うた通り聞いて、聞いた通り思うて、ということであります。
 遅慮することなかれとは、二の足をふむなということです。如来大悲のお言葉に、二の足をふむことは、如来さまの頭をふみつけることである。
 これは、鮮妙和上のこの世の最後のおさとしであります。

(p.39~p.40)



聞思してとは、「助けるぞよ」を「助けるぞよ」と聞いて、聞いた通り「助けるぞよ」と思うて、ということであります。如来のお言葉を凡夫の浅智で勝手に変換したり、思い計らいを加えてはなりません。こんなことを、二の足をふむと言われているのでしょう。遅慮することなかれ、です。こちら側での思い計らいの堂々巡りは止めにして、あちら様の仰せに耳を傾けて頂きたいと思います。

邪教

冬虫夏草の他にも、とある新興宗教を連想するような話がありましたので報告します。


あずみ「人を殺すことを楽しむような人間は確かにいます……俺は何人か見てはきました……ですが……あんなに大勢の者たちが揃って、そんな行動に走ることは……あまりに不思議です。」
武信「邪教だろうな。」
あずみ「邪教……」
武信「全員が背に同じ入れ墨を彫るなど、邪教を信じ込まされたからこそできる行為だ。信仰心を利用して人々を操るのだ。たとえば……子供のうちから囲い込み、不信心者は地獄に落ちるなどと恐怖を植え付け、信仰心の篤い者だけが極楽浄土に行けるなどと教え込む。そうすると人は……愚かにも操られていくらしい……
あずみ(…………確かにそうだ……俺は見てきたではないか……)
武信「そして…さらにその教えを信じていない外界の人間共は皆、地獄に落ちる運命にある哀れな人間達であり、そういう者達を殺してあげることは、地獄に落ちる魂を極楽浄土に救い上げてやる尊い行為だ。などと教え込むのだ……」


あずみ 第39巻(小山ゆう、BIGCOMICS)
「第五話 邪教」より抜粋


考えされられますね。このセリフを、とある宗教風にアレンジすると、

信仰心を利用して人々を操るのだ。たとえば……新入生のうちから囲い込み、不信心者は無間地獄に堕ちるなどと恐怖を植え付け、信心決定した者だけが極楽浄土に往けるなどと教え込む。そうすると人は……愚かにも操られていくらしい……
そして…さらにその教えを信じていない外界の人間共は皆、無間地獄に堕ちる運命にある哀れな人間達であり、そういう者達をこの教えに導いてあげることは、無間地獄に堕ちる者にこの世から絶対の幸福に生かされる道を示すという尊い行為だ。などと教え込むのだ……


といったところでしょうか。操られてなどいないと思うのは本人達ばかりなり。恐ろしいものです。

「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人を眼目とされている」のに、臨終説法を依頼した人は眼目とされていないのか?

「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人を眼目とされている。もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ」(『なぜ生きる』p.343)

高森会長は著書にこのように書いて、弥陀の本願は一刹那に臨終の迫っている、最悪の人をも救う本願だと説明しています。ところが一方では、

 私は時々、悲惨な臨終説法を依頼されることがある。たまたま不治の病を自覚していざ後生と踏み出すと、魂は真っ暗な未来に泣くのである。
 今まで命にかえて、大事に愛し求めてきた一切のものから見放され、何一つあて力になるものがなかったことに、驚き悲しむのである。
 そして眼前に開けるものは、無底の黒闇あるのみである。過日も、臨終の迫ったTさんは、ポロポロと落涙しながら「先生、私は六十何年間、何をしてきたのでしょうか。何の為に苦労してきたのでしょうか。馬鹿でした、馬鹿でした」と自らの握り拳で、ガンガン頭を叩いて泣かれた。これが、弥陀の本願に救われない一切の人々の終末の相なのか。弥陀の本願に値えない人間ほど、悲劇的動物は外にはあるまい。(『白道燃ゆ』p.82~p.83)


とも書いています。Tさんに何を話したのかは定かではありませんが、ガンガン頭を叩いて泣かれたということは、一刹那に臨終の迫っている人でも救う本願を説いて聞かせてあげなかったのでしょうか? 臨終説法を依頼した人は眼目とされていないでしょうか? 当時親鸞会では宿善薄い者は信心獲得はあり得ないとし、宿善を求めよと教えていましたから、Tさんのような臨終の迫った人は後生の恐怖ばかり教えられて救いは説かれなかったかも知れません。今では教義が変わって(加わって)、三願転入しなければアリ一匹助からないとし、獲信目指して19願の善をせよと教えていますので同様に臨終の迫った人は助かりません。

勿論、只今平生に本願を信じ念仏申す身になって頂きたいですが、臨終の迫った人でも救いからは除かれていません。『観無量寿経』には、下品下生の者が臨終に善知識に遇い、その教えを聞いて念仏し、救われたことが説かれています。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。これを下輩生想と名づけ、第十六の観と名づく」と。

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。「次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、< もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい > と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。その蓮の花に包まれて十二大劫が過ぎると、はじめてその花が開く。そのとき観世音・大勢至の二菩薩は慈しみにあふれた声で、その人のためにひろくすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えをお説きになる。その人はこれを聞いて喜び、ただちにさとりを求める心を起すのである。これを下品下生のものと名づける。以上のことを下品のものの往生の想といい、第十六の観と名づける」


親鸞会では、この部分では罪悪ばかりをやかましく説きます。一声の念仏に八十億劫の罪を消す力があると説明することもありますが、そのような念仏よりも諸善(という名の勧誘、献金、無条件服従など)を勧めてきます。今臨終という人に話すべきなのは「(必堕無間の意で)後生は一大事だ」ではなく「弥陀をたのめ」ということです。それは決して今臨終という人だけではありません。平生と臨終は隣り合わせですから、当然平生元気な人にとってもです。そう話さないような者は善知識ではありません。まして地獄の恐怖を説いて会員を縛り付け、助かるには献金せよ、勧誘せよ、ワシの指示に無条件に従えと迫るような者は悪知識であり、仮善知識、偽善知識、邪善知識、虚善知識、非善知識、悪善知識、悪性人であります。
今年のゴールデンウィークも、平生元気な人が突然臨終を迎えられたという事故がいくつもありました。明日は我が身、決して他人事ではありません。平生と言わず、臨終と言わず、信心を得たその時に往生が定まるという本願の救いに只今遇わずしては、親鸞聖人の教えを聞いている所詮がありませんし、聖人の御心にも反するというものです。

『白道燃ゆ』のこの部分を読んで、私は「臨終に後悔しても遅いのだから、元気な今頑張って求めよう」などと考えておりました。高森会長の狙いは、臨終に間に合わなければ必堕無間だから真剣に求道(活動)しようという意欲を湧き立たせることでしょう。普通に今臨終が来ても決しておかしくはないし言い過ぎではないのに、宿善を求めよだとか、19願の善をせよだとか、往生・獲信と無関係なことばかり説いている高森会長。『白道燃ゆ』の文章のように臨終の人を引き合いに出す目的は、会員に救われてもらうためではなく、無常感と罪悪感を煽って活動してもらうためだということです。一日も早く会員の皆さんには、高森会長が朝夕思っていることは「信心決定あれかし」ではなく「組織拡大あれかし」であると気づいて頂きたいと思います。

名号のぬしになったのであります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  四 善知識の教えたもうは信心のことです

  五 仰せ一つで御廻向下さる

 「たすけるぞ」の仰せ一つで廻向したもうのであります。これを聞かせていただくばかりが、名号が私のものとなったのであります。名号のぬしになったのであります。如来より言えば、名号を私のものとなされたのであります。あたえたもうたのであります。私より言えば、あたえられたのであります。如来より言えば、摂取下されたのであります。私より言えば、摂取されたのであります。ああ、私はただおよび声を聞かせていただくばかりであります。

(p.39)



「ただおよび声を聞かせていただくばかり」とは、本願の名号、「たすけるぞ」の仰せを聞く以外に信心はないということです。この他に、我々凡夫が後生助かる道はありません。仰せのままに後生をおまかせするばかりにて、かたじけなくも私達の往生を決定下さるのです。早く弥陀をたのみ、往生安堵とくつろがせてもらって下さい。

親鸞会は”religion”、会員は”religionism”

新入生の皆さんはこんな話に注意!(6)

にて親鸞会が新入生相手に話す「宗教偏見カット」について書きましたが、その内容についてふと思ったことがありますので報告します。以下、上の記事から少々引用します。

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宗教という言葉は、英語の「religion」を翻訳したものです。
「re」とは「recycle」の「re」と同じで「再び」、「ligion」のもとになる語はラテン語で「結び付ける」という意味でした。「religion」とは、再び結びつけるという意味になります。

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この説明の中で、「religion」が再び結びつけるという意味なら、親鸞会こそ”religion”です。
では、親鸞会は何と何を結び付けているのか?

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神と私を再び結び付けるということです。キリスト教では、人間はエデンの園から追放されたアダムとイブの子孫であると教えられます。その原罪を背負った人間と神を再び結びつける教えがreligionであり、これはキリスト教のことを指すのです。
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上記の文章に当てはめれば、

高森会長と私(会員)を再び結び付けるということです。親鸞会では、人間は十悪、五逆、謗法、闡提の者であり、後生は必ず無間地獄に堕ちると教えられます。その罪を背負った人間と高森会長を再び結びつける教えがreligionであり、これは親鸞会のことを指すのです。

となるでしょう。
親鸞会では必ず無間地獄に堕ちるということを後生の一大事とし、後生の一大事を解決するには仏教の真髄を明らかにされた親鸞聖人の教えを聞いて信心決定するしかないと言います。ところが今日、どの寺でも葬式や法事ばかり。説教しても「死んだらお助け」「死んだら仏」「念仏さえ称えていたら死んだら極楽」と仏教を死んでからのことにしてしまっている。正しい親鸞聖人の教えは聞かれない。その中、親鸞聖人の正しい教えを明らかにされているのが高森顕徹先生であるとし、自らもその御教導を仰ぎ、人にもお伝えしている者の集まりが親鸞会だなどと説明しています。
しかし、その教えは会内にいてさえ矛盾を感じます。先日挙げた「一念別時意説」はその典型例です。また、絶対他力ならなぜ自力で求めていかねばならないのかという疑問も生じます。「仏教は聴聞に極まる」「聞く一つで助かる」と言いながら聞いているだけではダメで、教えられたこと(献金、勧誘、無条件服従、日常生活上のよいこと)を実践していかなければ聴聞しているとはいえないと言います。「この御報謝、仏教と関係ないのでは?」と首をかしげる募財が相当あります。極めつけは全ての人が救われる教えだと言いながら、会内で救われている人が皆無同然ということです。宿善の厚い人だけが救われる、忍耐強く求めていける人だけが今生ギリギリ間に合うかどうかという教えで、それについていけない自分は到底助からないのではないかという疑問、不安が常にありました。でも求めるのを止めても後生は必堕無間だからしゃあないといった感じでした。
本当に正しい親鸞聖人の教えなのか、この教えで自分は助かるのか、という疑問が頭をもたげた時、「高森先生は絶対正しい」と高森会長と私を再び結び付けるもの、それが親鸞会でありその構成員(講師部、学徒)なのです。
そうなると、キリスト教の宣教師が民衆に話したと言っている言葉が

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「今、皆さんが苦しんでいるのは、神の試練です。あなたの運命は神が作ってお与えになったもの。神を信じて下さい。今は苦しいでしょうが、それに耐えれば神はあなたを天国に連れていって下さいます。逆に運命に背くようなことをすると、神はお怒りになり、更にあなたに苦しい運命を課すことになるでしょう。だから、反乱を起こそうなんてバカな考えは捨てて、神から与えられた運命を受けとめて怒りを治め、仕事に励んで税金を納めて下さい。」
********************

というものですが、これを親鸞会に当てはめてみますと、

「今、皆さんが苦しんでいるのは、弥陀の試練です。あなたの必堕無間という運命はあなた自身が蒔いたタネ。それをこの世も未来も絶対の幸福に救おうというのが弥陀です。弥陀を信じて下さい。今は苦しいでしょうが、それに耐えればやがて必ず、無上仏からのご褒美があることでしょう。逆に苦しみから逃れようとすると、弥陀は悲しみ、更にあなたの無間地獄行きはより確かなものとなるでしょう。必堕無間の一大事から逃れることはできません。だから、退会しようなんてバカな考えは捨てて、弥陀から与えられた試練と受けとめて怒りを治め、活動に励んでお布施を納めて下さい。」

と言い換えられます。一部『元会員から見た浄土真宗親鸞会』他力回向にも平生業成にも反する能登会館落慶祝賀会での高森会長の話を参考にしましたが、よく当てはまっているのではないでしょうか?


『飛雲』『親鸞会教義の誤り』等で指摘されているように、会員は絶対正しいと思っている教義のほとんどが誤りです。そして、会員でも疑問に思うことを押し殺して、高森会長と私(会員)を再び結び付けている”religion”が親鸞会なのです。
そういえば、”religion”の意味を調べてみたところ、似たような言葉として”religionism”という単語がありました。(eプログレッシブ英和中辞典参照)意味は、「1 宗教に凝ること,狂信. 2 信心家ぶること,えせ信仰.」とのことで、まさに親鸞会会員のことですね。篤い高森信者で、真実信心とはほど遠いえせ信仰の持ち主の集まりですから。タイトルに示したように、親鸞会は”religion”、会員は”religionism”であります。こんな団体に属していたことが本当に情けなく感じます。会員さん方も早く気付いて脱出して頂きたいと願って止みません。


それでは、Have yourself a funky Friday!

高森会長の説く「一念の救い」は、言うなれば「一念別時意説」

『観経』に説かれた念仏往生説は、別時意という方便説であって、凡夫が称名をしたくらいで阿弥陀仏の報土に往生することなど決してできない、というのが、摂論宗の学僧らが唱えた念仏別時意説でした。以下、親鸞会で言われることは方便でも何でもないただの邪義だということを御理解頂いた上で、親鸞会で言われる「一念の救い」を考察します。


高森会長は法話にて、

「一念の救いですから、まだ説法が終わるまでに○○分ありますから十分救われます」

というようなことを話したり、『なぜ生きる』には

「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人を眼目とされている。もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ」(p.343)

と書いたりして、只今救われるようなことを説いたりします。一方、いつもの縦と横の線と人の図を書いて、

「後生の一大事が問題にさえなっていないのだからまだあの軌道に乗っていない」
「コンマ以下」
「黒板外」
「あの軌道に乗せるのにお釈迦様はご苦労された、それで四十五年かかった、一切経になった」


などと話し、救われるのは遠い先のことであるかのように説いたりします。

この両方を聞いている会員は、「一念の救い」をどう理解するでしょうか? 私は、「救われるのは一念だが、私はそこまで至るのに時間がかかる」と理解していました。というより、高森会長の話の整合性を考慮するとこの理解しかないのではないかと思われます。逸話で出てくる耳四郎や親鸞聖人、弁円などは宿善の厚い御方で、私のように宿善薄い者は一念の救いまでに長い求道が必要だと思うよりありませんでした。今から見ればこれは「飴と鞭作戦」だったことがよく分かります。

さて、高森会長の説く「一念の救い」は「救われるのは一念だが、ほとんどの人はそこまで至るのに時間がかかる」というもので、言うなれば「一念別時意説」です。ほとんどの人は横の線の軌道にも乗っていなく、何十年と聞いて求めたくらいで信心決定など決してできない、というものです。
「人生の目的が現在に完成する」などと言って誘い、蓋を開けてみれば完成するまでに何十年かかるか分からない、それどころか今生で完成できればいい方だ、でも完成しなければ後生は必堕無間だからやるしかない、とカルトまっしぐらの暗き道を歩ませるのが親鸞会です。教えが親鸞聖人とは異なりますから、いくら親鸞会の話を聞いて信じて従っていても他力の信心とは無関係です。そのような邪義とは即刻縁を切り、「只今救うぞ」の仰せを聞いて念仏して下さる会員さんが一人でも多く現れることを念じています。

特に大学新入生の皆さん、親鸞会は因果の道理、廃悪修善、善の勧めなどと体のいいことを言ってはおりますが、幹部は不倫疑惑をおこしたり、万引きをしたりしています。最初は親鸞会と分からないように正体を隠し、ダミーサークルまで作って勧誘しています。皆さんもそうやって勧誘されたことでしょう。また、いつでも法論に応じると言いながら約束の一つも守れません。今は合宿の真っ最中で情報に触れられないかも知れませんが、当ブログや他の親鸞会批判に接する機会があればと願うばかりです。
プロフィール

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
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