「善知識の仰せ」を知らず、それとは真逆な事ばかり教える高森会長

高森会長が、善知識に無条件服従せよと教える時に用いる根拠が

(159)
一 前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

(192)
一 善知識の仰せなりとも成るまじきなんど思うは、大きなるあさましきことなり。なにたる事なりとも、仰せならばなるべきと、存ずべし。此の凡夫の身が仏になるうえは、さてなるまじきと存ずること、あるべきか。しかれば、「「道宗、近江の湖を一人してうめよ」と、仰せ候うとも、「畏まりたる」と、申すべく候う。仰せにて候わば、ならぬこと、あるべきか」と、申され候う。


の『御一代記聞書』のお言葉です。なお、これについては

「なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ」と教えながら、親鸞聖人のなされたようにしない高森会長

でも触れていますので、そちらも参照して下さい。

上の御文は、蓮如上人が「たとえ自分が知らないことでも、何事も親鸞聖人のなされたようにするのだ」と仰せになったというものであり、下の御文は、赤尾の道宗が善知識の仰せに対してのあり方を述べたものです。
ここで大事なのは、親鸞聖人がなされたこと、「善知識の仰せ」を正しく知るということです。これが正しく教えられるどころか、全く真逆なことばかり教えられていますから、親鸞会の会員は「善知識の仰せ」を正しく受け取ることができず、高森会長の思惑通り組織拡大要員として利用・搾取されているのです。

その「善知識の仰せ」とは、親鸞会でもよく出てくる蓮如上人のお言葉で言えば、

「善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。」(御文章2帖目第11通)

ということです。一心一向に弥陀に帰命するとは、阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩・諸神を捨てるだけではなく、往生行として念仏以外の善を捨てて念仏一行を専ら修することを言います。これが親鸞会でもやかましく言われる一向専念無量寿仏ということですが、会員は正しい意味を教えられていないため、いつまでも一向専念無量寿仏できないでいるのです。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。
(選択本願念仏集)

念仏のほかに、定散二善や布施、持戒といった余行(余善)を加えたら一向専念無量寿仏にはなりません。往生行として諸善を廃し念仏一行を称えることを一向専念無量寿仏というのです。親鸞聖人の教えに「善のすすめ」があるとして、獲信目指して定散二善や布施をやらせようとしている高森会長が、以下に親鸞聖人の教えに無知であるかがわかりますね。
上のお言葉は法然聖人のものですが、親鸞聖人も、

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。 (一念多念証文)

と仰っています。余の仏を念じない、他仏にうつらないだけを一向専念無量寿仏と思っていたら大間違いです。余の善にうつらない、すなわち念仏に不足を感じて他の善に手出ししないことを一向専念無量寿仏というのです。既に阿弥陀仏がこの私一人を助けようと五劫の間思惟し、永劫の御修行を経て成就された南無阿弥陀仏の他に、何の不足があって諸行・諸善に手出ししようというのでしょうか。人集め・金集めには念仏ではダメで、どうしても「善のすすめ」が要るため、そして救われてもらっては組織拡大要員として利用できなくなるために高森会長はニセの親鸞聖人の教えを吹き込んでいるのです。ですから、よく親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点で出てくる、

19願のすすめ
定散二善のすすめ
宿善のすすめ


などは、みな間違いです。親鸞聖人が全く教えられていない珍しい法です。

こうした「善知識の仰せ」を知らないどころか、それとは真逆な事ばかり教えているものですから、聞いている者が「善知識の仰せ」に「ハイ!」と従えるわけがありません。親鸞聖人の教えを踏みにじる悪知識の仰せに「ハイ!」と無条件服従しているのが親鸞会の会員です。いくら高森会長及び親鸞会の指示に無条件服従していても、獲信・往生はおろかこの世の幸福さえも得られません。従うべきは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」という善知識方の教えです。


【参照】
高森会長のために「一向専念無量寿仏」の意味を教えてあげます
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【考察】なぜ親鸞会会員は「高森先生に間違いない」と信じるのか

前回の記事にコメントを頂きました。ありがとうございました。

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 先日、親鸞会の先輩だった人から何年かぶりに電話があり「会に戻る気はないか」と言われました。私は断り、親鸞会の教義の誤りや組織のおかしさ等を例をあげて教えて上げました。
 しかし彼は「高森先生の教えに絶対に間違いはない。高森先生の言われる ことだけが真実だ。いろんな親鸞会誹謗のサイトも知ってるがすべて出鱈目だ」 と言う。
「じゃあ、どこがどういうふうに出鱈目なのでしょうか?」「ちゃんと、サイトを読んだんですか?」と反論しても聞く耳を持ちません。
しまいには「君は高森先生の御恩をすっかり忘れてしまったようだね」と言って電話を切りました。
「ダメだこりゃ。」 私には空しさだけが残りました。
 高森信者からすれば、「高森先生の悪口を言う人間は絶対に許せない! キーイッ!」とヒステリックになって部外者の意見に耳を傾ける気はないのです。
 これじゃ法論など望んでも無駄でしょう。
マインドコントロールの恐ろしさを感じた一件でした。

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熱心に求めている会員は、そのほとんどが先の文章に見られるように「高森先生の教えに絶対間違いない」「高森先生は間違いない御方」と、高森顕徹会長の教えこそが唯一正しい親鸞聖人の本当の教えだとか、高森会長は素晴らしい人格者だと信じています。そこで今回は、なぜ親鸞会会員は高森先生の教え及び人格を間違いない、素晴らしいと信じるのか、またどのようにしてこのような信心(以後「高森信心」と命名)が形成されていくのかを考察しました。とはいえ、勧誘のされ方は色々あるので、私の経験を基に大学で偽装勧誘されたケースで見ていきたいと思います。

まず、勧誘の初期時点では高森信心はありません。ですが、部会を重ねていくうちに先輩や講師との信頼関係ができていきます。これが初期段階では非常に大事で、辞めていく人と残る人を分別するものさしの一つとなります。例えば私を勧誘した先輩(恐らく現在は講師部員)は、ネットを見ていたにも関わらず先輩や講師部員との信頼関係ができていたために辞めなかったと言います。話や教義に納得がいくというのも大事なのですが、初期の段階ではそれよりもむしろ勧誘する側が「いい人」であるという方が重要です。その点、親鸞会に残る人の多くは優しい人、純粋な人、自分が騙されていることに気づかずに「何とか相手に分かってもらいたい」と願っている人であるため、勧誘を受ける側との間に信頼関係ができてしまいがちなのです。

次に、親鸞会であると明かされ始める新勧合宿時点です。ここで先輩や講師部員との信頼関係を軸に徐々に高森信心が形成されています。新勧合宿まで行く人は、部員との信頼関係の他、多少強引に誘われたにせよ人生の目的を知りたいと思う人、ある程度話に納得がいっている人です。合宿は短くても3~4日、長ければ1週間あり、それまでの部会の総復習に加え、因果の道理→真実の自己→後生の一大事と話を展開し、人生の目的は「後生の一大事の解決」であり、その答えは仏教・浄土真宗にあると持っていきます。そして、親鸞聖人の教えを今日、高森顕徹先生が誰にでも分かるように話をしているから、講演会に行こうと誘うのです。中には、コメントを頂いたひろせさんのように親鸞会的因果の道理に疑問を持つ人、それがきっかけで辞めていく人もいます。ただ、たとえ疑問を持っても、真実の自己や後生の一大事など、何か引っかかっていたり、納得している部分があれば続けて話を聞いていきます。

それから、夏合宿及び親鸞会へ入会していく時点です。人によって様々ですが、多くは「高森先生は親鸞聖人の教えを正確に説かれる善知識」という信心が大分出来上がっています。講師部員や先輩は高森会長を賛美する話ばかりします。また、著書や製作ビデオなどを通して高森会長がなぜ本願寺を飛び出したのか、どうして親鸞会を立ち上げたのかを知り、仏教について素人同然の新入生は「寺は葬式・法事に明け暮れて親鸞聖人の教えを説かない」「高森先生以外に今日真実の仏教を説かれる先生はいない」と信じるようになります。人間の実相部分についての話は概ね間違いないですし、『真宗聖典』などから根拠を挙げて話をするため、親鸞会で説かれる内容全体が正しいと思い込んでしまうのです。
ところで、私が参加した夏合宿では、後生の一大事の強調、教学(親鸞会発行『教学聖典』を覚えること)の推進、宿善、善知識の仰せに無条件服従すること、などを教えられました。「後生の一大事の解決には、親鸞聖人の教えを真剣に正しく聴聞して信心決定しなければならない。まず教えを正しく学ぶことが大事」ということで教学を推進されました。そして親鸞会流宿善論を持ち出し、「宿善を求めよ・厚くせよ」という邪義を、『御一代記聞書』から「善知識の仰せに無条件服従しなければならない」という邪義を徹底されました。これによって、「無間地獄を逃れて絶対の幸福になるためには高森先生の話を真剣必死に聴聞し、教学を研鑽し、人にも教えを伝えなければならない。これこそ全人類が救われるたった一本の道だ」と叩き込まれたのです。

あとは、講師部員や先輩・同輩と接し続け、高森会長の話を聞き続けることで高森信心がより強固なものとなっていきます。加えて、「ネットや外部の親鸞会誹謗情報は全てデタラメだ」「あんなもの見たら目が腐る」「匿名で、妬み嫉み恨みの気持ちで有る事ないことを書き連ねているだけだ」と吹き込んで、情報統制を徹底します。このようにして、外からの情報は全てデタラメだと耳を塞ぎ、内部の人間同士で馴れ合って、親鸞会の教えのみが正しいと信じる「親鸞会的人間」が出来上がります。私などは退会するまで直接高森会長と話をすることすらなかったのに、高森信心を持ち続けてしまいました。

これでお判りのように、親鸞会では講師・先輩との信頼関係、一部分の話に納得させること、周囲からの賛美、情報統制、継続して求めていくことなどをもって、直接接する機会のない人間を、「この御方に間違いない」と信じさせています。これをマインドコントロールと呼ばずして、何と呼ぶのでしょうか。ヘッドギア等洗脳用具を使わずとも、マインドコントロールはできるのです。
騙される方にも責任があるのかもしれませんが、一番悪いのは騙す側です。しかし、騙す側は悪いことをしているわけではない、相手を騙そうと思って騙しているわけではないところが厄介なところです。上のコメントにある先輩も、名無さんの後生を思って(あるいは入会目標人数のためか)電話をしてきたのでしょう。ただ、組織や教義の誤りを伝えようとしても全く聞く耳を持たずに電話を切られてしまったことから、完全に高森信心に支配されている様子が伺えます。

たとえ人間の実相部分が正しいと思えても、親鸞会教義はパクリと断章取義によるデタラメ創作教義です。インターネットという世界で最も開かれた場所で公開法論に応じないという点から見て、高森会長は自分の説く教義に自信がなく、勝利どころか逆に親鸞会の惨敗を世に知らしめる結果となることを恐れているのでしょう。そんな親鸞会や高森会長からは一刻も早く見切りをつけ、正しい親鸞聖人の教えを聞いて頂きたいと思うところですが、こちらの聞く耳も持たず、本願寺もみな間違いと信じ込まされているため難しいです。高森信心に支配された会員の皆さんは、どこまでもお気の毒です。

全ての人間が五逆謗法の者ではないし、宿善の厚薄にかかわらず獲信できる

最近、wikiarkにアクセスできません。原因はよく分かりませんが、どうしたらアクセスできるかご存じの方は教えて下さい。


さて、今回は「全ての人間が五逆謗法の者ではないし、宿善の厚薄にかかわらず獲信できる」ことを、親鸞聖人が同行に読むことを薦められている『唯信鈔』のお言葉から紹介します。

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

(註釈版聖典 1353-1354頁)

〔意訳〕
次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

宿善の厚薄 唯信鈔の言葉より)


五逆罪の定義についても当然知らない高森会長
パクリで大学者を演じても、聖教を全く読んでいないので簡単にボロを出す高森顕徹会長

等にあるように、全ての人間が生まれながらにして五逆謗法の者というわけではありません。お聖教のどこをどう読んでも、

「私達は六道を果てしなく巡り、その中で三悪道に堕ちる者がほとんどで、稀に五逆謗法という極めて重い罪を犯している者が無間地獄に堕ちる」

という意味にしかなりません。親鸞会が地獄を強調するのは、カルト宗教によくある手法で、地獄の恐怖を信者の心に植え付けて抜け出せないようにするためです。

「後生の一大事を解決したい」なんて、本気で思っているんですか?

にて書いていますが、このように指摘すると親鸞会としては「後生の一大事に驚かない自己が一大事。そんな自己に驚いて、後生の一大事の解決を求めるのが親鸞学徒なのだ」などということを言ってきます。確かに、会員として何年も活動していれば慣れっこになってあまり恐怖や不安を感じなくなります。ところが、問題はやがて会の組織や教義に疑問を持って脱会しようかとなった時に再び地獄の恐怖が頭をよぎるということです。中には一度脱会してから「やっぱりこの問題を解決しなければ」と舞い戻ってしまうという奇特な人もあります。私も大学4年の時、親鸞会の活動に疲れてやめようかどうしようかと悩んでいたのですが、「やっぱり死の問題を解決しない限り安心できない」ということで退会という道ではなくそこに留まって求めようという選択をしました。生苦、老苦、病苦、死苦、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦といった人間存在そのものの苦しみ、死後への不安といった問題は真実であり、会にいようといまいと変わりません。こうした、いわゆる人間の実相の部分が正しいと思えることをもって教義全体が正しいと思い込んでしまう人が多いため、まんまとその宗教に騙されてしまうのです。カルト宗教教祖の狙いの一つはここにあると見て間違いないと思います。


次に、今では「親鸞会流三願転入の教え」の影で見え隠れしている「親鸞会流宿善論」についてです。ただ、親鸞会発行の『教学聖典』にも載っており、特に古参の会員には根深い邪義ですので触れておきます。
「破邪顕正は最高の宿善」とか、「真実のために財施することは尊い宿善になる」というような文言で、親鸞会はかねてより破邪顕正(親鸞会に人を誘い、入会させること。要は人集め)と財施(いわゆるお布施。親鸞会に献金すること。要は金集め)を推進してきました。これもカルト宗教によくある手法で、「この教えを世界に広めることは自分だけでなく多くの人を救う素晴らしい善だ」などと教えて組織拡大を計るためです。
信者を組織拡大要員として利用し、人集めと金集めをさせるにはそれなりの理屈と根拠が必要です。まずは、自分自身が救われるのに役立つ、必要不可欠であること。そして、自分だけでなく多くの人が救われること。これらが共に素晴らしい活動であること。その根拠として高森顕徹会長が目をつけ利用したのが「宿善」だったのでしょう。

『親鸞会教義の誤り』宿善とは
『飛雲』宿善

にて詳細に述べられていますが、

・宿善の薄い者に信心獲得はありえないという教えはない
・宿善を求めよ、厚くせよという教えはない
・宿善の厚薄を問題にすること自体が間違い
・宿善の厚薄にかかわらず獲信できる


ということが言えます。宿善にはそれ自体にいくつも意味があり、分かりづらい点も多いのですが、少なくとも高森顕徹会長が主張していることは間違いです。それが、高森会長が断章取義している言葉の後にある、

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。

にて分かるでしょう。私達の罪業は重く深いものであるが五逆の重罪までは犯していないし、善根が少ないといっても深く本願を信じる身とさせて頂いたというのです。この短いお言葉の中に、親鸞会教義の誤りが2つも指摘されています。大概は高森会長が断章取義している言葉の前後をよく読んで意味が分かれば、親鸞会教義の誤りなど簡単に理解することができます。しかし、そんな簡単なことも理解できないほどマインドコントロールされているのが哀れ親鸞会の会員なのです。「誰が何と言おうと高森先生が正しい」。いつの間にされたのか分からなくても、このように信じていれば、それはマインドコントロールされているということです。


今年の追悼法要も終わりました。去年は元気だった人が今年はもういない。今まで見送る身だった自分が、見送られる側になる。こんなことを何回聞いてきましたか? 今年も相も変わらず同じように話を聞き、組織拡大要員として活動して終わるつもりですか? そんなことを毎年繰り返している内に、人生終わってしまいますよ。それで本当に悔いはないですか?
本当に安心して死んでゆくには、本願に救われて阿弥陀さまに後生おまかせするしかありません。それは親鸞会に在籍していようといまいと関係ありませんが、高森信心根深いままでは親鸞聖人の教えられた本願力回向の救いは理解しがたいと思われます。それにインチキ創作教義を広める片棒を担いでいるのですから、そんな教えからは速やかに離れて本当の親鸞聖人の教えを聞かれるのがよいでしょう。マインドコントロールから解放され、本願を信じ念仏される会員の方がより多く現れてくれたらと願っています。

未だにアレフに入信する人がいるのだから、未だに親鸞会を信じている会員がいるのも尤もか

少し前のニュースなので既にご存知の方も多いと思いますが、オウム真理教から改称した「アレフ」が札幌に新たな施設を造ったそうです。詳しくは、

札幌にオウム後継団体による全国最大規模の新施設=公安調査庁が立ち入り検査
アレフ、札幌に新施設 公安庁「最大規模」と警戒

等をご覧下さい。

アレフも親鸞会と同様、大学で正体を隠した勧誘活動を行っているようです。通りで若い信者もいるわけです。

◆【北海道・札幌】アレフの勧誘の実態

に彼らの勧誘方法が紹介されていますが、見てみれば親鸞会とそっくりです。親鸞会も、主に3月~5月にかけて各地の大学で正体を隠した勧誘をし、徐々に親鸞会であることを明らかにして、大学生(主に新入生)を入会させるという手法を取っています。昔ほど活発ではないにせよ、コメントを下さる方がいらっしゃることから未だにやっている実態が浮かんできます。アレフもそうですが、親鸞会も入会すると親鸞会的人間に洗脳されてしまいますので、勧誘を受けている方はそうなる前に親鸞会だと気付いて決別してもらいたいものです。縁あって、親鸞会らしき団体からの勧誘を受けながらも当ブログをご覧の方は、

新入生の皆さん、親鸞会の勧誘にはくれぐれもご用心下さい(2013年)

や、記事中のリンク先などを読まれて、聞いている話が親鸞会と一致するかどうかを判断して下さい。自分一人では判断できないという場合は、詳細をコメントやメールに書いて頂ければと思います。

さて、地下鉄サリン事件であれだけ世間を騒がせたオウム真理教(現アレフ)を未だに信じている人、また入信していく人がいるという事実を知れば、未だに親鸞会を信じている人、また入会していく人がいるというのも仕方ない、尤もかという気持ちになります。

誰が何と言おうと教祖(会長)の言うことは正しいと信じているのか。
自分が今まで信じてきたものだから間違いだと認めたくないのか。
家族や友人が信者(会員)だから脱会しにくいのか。
他に自分の救われる正しい教えはないと思い込んでいるのか。
他の教えを探す気力がないのか。

他にも脱会しない理由はあると思います。ただ親鸞会に関して言えば、

教えが親鸞聖人の仰せと全く異なりますので、いくら信じて従っていても親鸞聖人と同じ信心にはなれません。
絶対の幸福だとかいう幻想的な幸福は得られません。
それどころか、親鸞会に身も心も財産も捧げた挙句に得られるものは骨折り損のくたびれ儲けかとなってしまいます。
最悪自分の人生がそうなるのは構わないとしても、勧誘した学生、友人、家族の人生までもインチキ宗教によって台無しにされてしまいます。


私は運良く脱会できましたが、未だに聞く耳持たず会員として活動しているであろうかつての仲間達のことを思うと欝々とした気分になります。彼らにも早く親鸞会の実態と教義の誤りについて知って頂きたいと思うと同時に、これから勧誘されて親鸞会に入会していく人を一人でも止められたらと思います。

盗作・盗用は善いことか? 悪いことか?

ドナルド・トランプ氏のメラニア夫人が行った演説が、2008年のミシェル・オバマ大統領夫人のスピーチに酷似しており、各メディアから酷評されているようです。知っている方がほとんどかと思いますが、どのような内容かは

ドナルド・トランプ氏のメラニア夫人、ミシェル・オバマ夫人のスピーチを盗用? 検証してみた

などをご覧頂ければと思います。またトランプ氏は『伝説のチャンピオン』の楽曲を無断使用したとして、英ロックバンド、クイーンから抗議されています。前々から「勝手に自分達の曲を使うな」と言われていたというトランプ氏。クイーンの怒りは当然ですね。

さて、少し前には平浩二の『ぬくもり』の歌詞はMr.Childrenの『抱きしめたい』のパクリなどという報道もありました。また、東京五輪のエンブレム問題や、北京五輪のPRソングが岡本真夜の「そのままの君でいて」にそっくり、北京冬季五輪の招致ソングがディズニー映画「アナと雪の女王」の劇中歌「Let It Go」のパクリというような話題も記憶に新しいかと思います。それぞれの問題の真偽・是非はここでは問題にしませんが、盗作・盗用は善か悪かと言ったら悪、あってはならないことであることはそれなりの良識を弁えた人なら当然ではないかと思います。

これはさすがに親鸞会の会員と言えど認めるところだと思いますが、しかし高森顕徹会長のこととなると、彼らは悪が悪だと判断できなくなってしまうようです。自分の子供を悪く見れないのと一緒で、欲の色眼鏡を通してしか高森会長の盗作問題を受け止められないのでしょう。

「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」というのは大沼法竜師のパクリ
「三願は孤立したものでない」「十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する、十方衆生の道程」「衆生摂生の願」も大沼法竜師のパクリ
『光に向かって』シリーズは大沼法竜師『教訓』のパクリ

など、少し挙げただけでも高森会長が大沼法竜師の書籍を盗作・盗用しているというのは疑う余地がないことです。今一度会員の皆さんにお尋ねしたい。盗作・盗用は善いことですか? 悪いことですか? そんなことも分からないで「親鸞会には善の勧めがある」なんて言っていて恥ずかしくないですか? この問題一つ取っても退会するには十分な理由であり、高森顕徹会長は信用に値しない人物であると判ります。いつまでも後生を人質に取られ、獲信・往生と無関係な活動にこき使われているままで、今日死んでも本当に悔いがないですか? 自分が聞いている教えが本当に正しいのか、それぞれが真偽検証して頂きたいと願うばかりです。

世間の因果の道理と、報土の因果の道理をごちゃ混ぜにして邪義をまき散らし続ける親鸞会

この三連休は、プールや保育園の同窓会、遊園地、川遊びと出ずっぱりでした。他の家族と行動する機会も多く、親子共々相当疲れましたが、眠気との格闘で終始していたビデオ聴聞に比べたらもう雲泥の差です。助かる見込みも、信仰とやらが少しでも進んでいるのかどうかさえ全く分からない親鸞会の活動に費やすことなく過ごせるようになって本当に良かったです。あんな活動を続けたところで阿弥陀仏の救いとは無関係ですから、本当に後生の一大事を解決する気があるならさっさと親鸞会から離れることです。

親鸞会ではお決まりの因果の道理を盾に会員を獲信・往生とは無関係な活動に従事させていますが、会員の皆さんはそもそも親鸞会の教える因果の道理と、信心決定して報土往生するための因果の道理は全く異なるということを知らないためにまんまと騙されてしまっています。世間の因果の道理と、報土の因果の道理をごちゃ混ぜにして会員を騙し続けているのが親鸞会であり、高森会長なのです。

①自分は一体、何を求め成就しようとしているのか、静かに振り返らねばならない。家一軒、建てるのに、皆どれだけ苦労していることか。一生かかって建てられればよいほうで、果たせぬ人が多いのだ。たとえマイホームの夢がかなっても、マッチ1本で灰になるシャボン玉のような幸せであり、臨終には置いていかなければならぬものばかり。
われら親鸞学徒の求めているものは、そんな50年や100年の苦労や、3千万、5千万の金で手に入るものではなかろう。無始より迷い続けてきた魂の解決である。

『親鸞会公式ホームページ』龍樹菩薩と弥陀の本願より)

とか、

②「弥陀の救い」は、百年や千年の問題ではない、幾億兆年の迷いの魂を解決し、浄土往生させることである。
平生に往生一定の大満足を獲たならば、当然ながら「往生のために善をしよう」など微塵もないから「他の善も要にあらず」と言われているのである。
往生の一段のことであって、それを日常生活へ持ちこんで”善が不要”などと誤解するから、
仏法を破壊し世の中に猛毒をまき散らして平気でいるのだ。
因果の道理は宇宙の真理、ゴロゴロ怠け放題では人生の落伍者となるだけ。

日常生活の問題と往生の一段とが混在した文章(親鸞会.NETより) より)

とか、

 ③阿弥陀仏の浄土に往生するのは、弥陀の名号の独り働きだから、諸善や六度万行をやる必要がない。
“雑行雑修を捨てよ”とはこのことだと教えられている。
 後生の一大事は、名号不思議を聞信する一つで解決するが、暮らしの実態面はどうか。
 仏縁のない人達でさえ、悪を慎み善を励んでいるのに、仏教の根幹、因果の道理を無視して、善を修する必要がないと言っているのが真宗の惨状である。
 在家よりも悲劇や災難が多発して業苦に攻めたてられているのは、狂いない因果の道理の実証である。
 修善を往生の資助にしようとするから雑毒の善とか、虚仮の行と嫌われ、その機執を捨てよ、と言われているのだ。
 原因は厳しく結果を開く。
 善を実行しなければ、絶対に善果は獲られない。

『往生』と日常生活は別問題というなら・・・ より)

などなど。阿弥陀仏の救いに善悪は無関係であるのに、さも関係があるかのように、さも善をしなければ阿弥陀仏の救いには遇えないかのように、日常生活の問題をそこへ混ぜ込んで誤解させています。
会員の皆さんは、③に出てくる「善果」=「獲信」「報土往生」と脳内変換して理解していることでしょうが、報土往生の因果は全て阿弥陀仏の願行の成せる業であって、微塵も私達の善悪の入り混じる隙がないのです。そもそも親鸞会内では、世間の因果の道理と、報土の因果の道理は根本的に異なるということを知る機会がありません。それについて高森顕徹流因果の道理という迷信に書かれていますので、以下引用します。

親鸞聖人は報土の因果を、本願力回向で説明なされました。『教行信証』信巻

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

(現代語訳)

このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。

この御言葉は、『浄土文類聚鈔』にもあります。

親鸞聖人が教えられた因果の道理とは、衆生が報土往生する因は、100%阿弥陀仏が用意なされたものであるということです。ですから、私の方で何かを付け加えることは不要ですし、付け加えようとすること自体が間違いになるのです。

蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教なり」とまで絶賛された『安心決定鈔』にも

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」とほめたまへり。衆生にかはりて願行を成ずること、常没の衆生をさきとして善人におよぶまで、一衆生のうへにもおよばざるところあらば、大悲の願満足すべからず。面々衆生の機ごとに願行成就せしとき、仏は正覚を成じ、凡夫は往生せしなり。

とあります。世間の因果の道理と聖道門の因果の道理に超越し異なった因果の道理だということです。

親鸞聖人は『正像末和讃』に

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる


と仰っているように、世間・出世の因果と報土の因果とを同一視していることを疑心と仰っているのですから、高森会長の教えは疑心の教えであり、報土往生を完全に妨げる教えです。


これでお分かりのように、世間の因果の道理を強調されればされるほど、報土の因果の道理は理解しがたくなり、疑心を増大させることとなります。ですから、信心獲得して報土往生するには、因果の道理など聞いて実践している場合ではありません。高森会長の話など聞けば聞くだけ害ですから、親鸞会とはさよならして本願力回向の救い、今の救いを説く知識を探した方が断然よいのです。聴聞するのは直接話を聞くでもいいですし、音声を聞いても、本で読んでも、ネットで検索でも、どのような形態でも自分に合った方法を取られたらよろしいでしょう。何せ阿弥陀仏の名号は、十劫の昔からこの私一人助けんがために喚びかけられているのですから、なんまんだぶを聞くのに時や場所は選びません。只今、ここにいる、このままの私一人目がけて南無阿弥陀仏は働いていますから、私は何の計らいも無く救いの御名を頂き、その仰せのままに後生をおまかせするのみです。善を実践してそれが阿弥陀仏の救いに何らかの良い関係があるならいいですが、無関係ですから行ずる必要は皆無です。高森邪義に惑わされず、直ちに本願招喚の勅命に順って頂きたいと思います。

聖道諸宗が法然聖人を非難したのと同じ根拠、同じ理屈で、本願寺や退会者を非難している親鸞会

親鸞会が”善の勧め”の根拠として利用しているのが、

・因果の道理
・七仏通戒偈
・阿弥陀仏の第19願
・定散二善


です。これらを基に親鸞聖人の三願転入の御文を利用し、「三願転入の教え」なるものをでっち上げて、会員を組織拡大要員として酷使しているのが親鸞会であり高森会長です。しかし、七仏通戒偈や19願、定散二善などを根拠に「親鸞聖人の教えに善の勧めがある」として本願寺や退会者を非難するのは、実は聖道諸宗が法然聖人を非難したのと同じ理屈なのです。そのことが『親鸞会教義の誤り』親鸞会は諸行往生10に書かれていますので、以下引用します。

********************
親鸞会が、獲信のための善を勧める根拠としているのが、七仏通誡偈と19願および『観無量寿経』の定散二善です。親鸞会では、『本願寺なぜ答えぬ』に獲信のための善を勧める根拠が余すところなく書かれてあるという迷信が未だにあります。

しかし、800年前の法然上人に対する非難について少しでも知っているならば、これが如何に噴飯ものであるかが、お分かり頂けると思います。

法然上人が阿弥陀仏の48願中18願を選択本願、王本願とされて、諸善を廃して念仏を専修すべきことを主張されたことは、これまで何度か述べてきました。これに対して、当然のごとく聖道仏教の学僧達から激しい非難が浴びせられました。
『延暦寺奏状』に

一、一向専修の輩、経に背き師に逆う事

とあり、この中に

諸悪莫作諸善奉行は寧ろ七仏通誡にあらずや。

と書かれてあります。七仏通誡偈を根拠に、諸善を廃することの誤りを指摘しようとしていることが分かります。
また『興福寺奏状』九箇条の中に、

六、浄土に暗き失。
七、念仏を誤る失。


があります。浄土と念仏という浄土仏教の根本的教義に踏み込んでの非難です。つまり、これまでの浄土仏教の教義に照らしても、法然上人の主張は間違っていると説明したものです。

「六、浄土に暗き失」には、『観無量寿経』の散善について書かれています。親鸞会の公式ホームページの「承元の法難」には、「六、浄土に暗き失」が省かれているのですが、これは意図的なものであることに間違いありません。
この内容は
「用管窺天記」の自業自得の救済論
に詳しく書かれてありますので、御参照下さい。

「七、念仏を誤る失」には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

と念仏往生の18願のみを選択された本願としているが、他の47願も本願ではないか、と法然上人の主張に異議を唱えているのです。

また明恵高弁が『摧邪輪』を著して『選択本願念仏集』を徹底的に非難しています。その中で以下のように

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出しているのです。善を勧められた19願は本願ではないのかと。
これ以外にも『観無量寿経』の定散二善を解説し、菩提心等の余行を廃するという法然上人の教えは、間違っていると長々と述べているのです。

********************

そもそも法然聖人が聖道諸宗から非難を受けられたのは、六度万行や定散二善といった一切の諸善を廃して、念仏一行を往生行として勧められたためでした。よく親鸞会でも出てくる「一向専念無量寿仏」というお言葉がありますが、これには阿弥陀仏以外の諸仏、諸菩薩、諸神を捨てるだけではなく、六度万行や定散二善等の一切の諸善を廃して念仏一行を専ら修するという意味があります。以下、高森会長のために「一向専念無量寿仏」の意味を教えてあげますより引用します。

********************
一向専念無量寿仏」については法然上人が『選択本願念仏集』で次のように教えておられます。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。


現代語訳

ところが本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。
「一向」というのは、二向・三向などに対する言葉である。例えば、かの五天竺 (印度) に三種の寺があるようなものである。一つには一向大乗寺。この寺の中には小乗を学ぶことはない。二つには一向小乗寺。この寺の中には大乗を学ぶことはない。三つには大小兼行寺。その寺の中には大乗と小乗とを兼ねて学ぶから兼行寺という。大乗・小乗の両寺には一向の言葉があり、兼行の寺には一向の言葉がないと知るべきである。
今この経の中の一向もまたその通りである。もし念仏のほかにまた余行を加えるのであれば、すなわち一向ではない。もし寺に準ずるならば兼行というべきである。すでに一向というのであるから、余の行を兼ねないことは明らかである。すでにさきには余行を説くけれども後には「一向に専ら念ずる」という。よって諸行を廃してただ念仏だけを用いるから一向ということが明らかに知られる。もしそうでなければ、一向の言葉がどうしても解釈しがたいであろう。


念仏と善との「兼行」では、「一向」ではありません。「諸行を廃してただ念仏を用ゐる」ことが「一向」です。つまり法然上人の仰っている「一向」とは念仏だけを専ら修することです。
********************

親鸞会のように獲信に向かって善を勧め、実践させているようでは「一向専念無量寿仏」とは言えないのです。法然聖人の教え、そしてその教えを無我に相承された親鸞聖人の教えを否定する邪説です。
他にも、詳しくは三願転入の背景等を参照して頂きたいですが、法然聖人は

・諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
・また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。
・諸行は機にあらず時を失す。 念仏往生は機に当り、時を得たり。


等のお言葉で分かるように、徹底して諸善を廃して念仏一行を勧められ、そしてこの念仏往生の教えを「下劣根機」だけでなく聖道の学僧達を含めた「天下の諸人」にまで適応されました。そのため諸行を重んじ、念仏を「下劣根機」のための行と考え、阿弥陀仏の本願の中で19願を最も重んじていた聖道門の学僧達が、法然聖人の教えに対して猛烈に反発したというのです。

親鸞会が本願寺に対して執拗に”善の勧め”を強調しているその根拠、その理屈が、かつて法然聖人を攻撃した聖道諸宗と同じであることがこれでお判り頂けたでしょうか? ですから、本願寺にも呆れられて相手にされないのも当然の話なのです。親鸞会は本願寺が返事をしないのをいいことに、ここぞとばかり勝利宣言をして会員に大本営発表をしているのですが、それに気づかない会員の皆さんは実に哀れなものです。情報統制されているお隣の国の人々とさして変わりません。会からの一方的な情報を鵜呑みにするのではなく、他の情報を取り入れて総合的に判断する大切さを今一度思い出して頂きたいものです。

教義正当化の脳内変換

前回の記事で、高森信心のために親鸞会の会員は、

A.18願の救いに善は必要
B.18願の救いに善は不要


という、矛盾する2つのことをどちらも正しいと信じていると述べました。


親鸞会は、ある時は

・善をしなければ信仰は進みません
・修善は獲信とよい関係にある
・獲信の因縁として善を修せよ


などと、さも18願の救いに遇うために善が必要であるかのように説きます。また宿善が厚くなる順に

1.熱心な聞法
2.五正行の実践
3.六度万行の実践


と教え、高森会長の話を聞くこと、朝晩のお勤めをちゃんとすること、親鸞会に人を誘うこと、親鸞会に財施すること、会長や上司の指示に無条件服従することをメインに勧めています。聞法も聞法善などと言って、善の一つと位置付けています。そして、その根拠が七仏通戒偈、第19願、定散二善だというのです。

では、親鸞会の勧めに従って善を積んでいけばやがて助かるのかと言うとそうではなく、またある時は、

・善をすれば助かるというのは間違い
・修善は獲信の因縁になるのであって、獲信の資助になるということではない
・自力無功、捨自帰他、自力が廃らない限り、絶対に弥陀の本願は分からず、報土往生はできない


などと、18願の救いに遇うために善は役に立たない、つまりは不要であるかのように説きます。親鸞会の言い訳としては、自力の善の積み重ねで信心獲得できるとか、善根が獲信の資材、助けとなるのではなく、自力無功と知らされるために実地に善をやってみなければならないというのです。言葉を換えれば、18願の救いに善は役に立たない(不要)だが、自力が廃るためには善が必要だということです。

こうしたダブルスタンダードな教えを受け、しかもその両方を正しいと信じているのが親鸞会会員です。ですが、いくら親鸞会の活動を熱心に、長年やっていても一向に信仰が進んでいるかどうか、縦と横の線で言う横の道を一歩でも進んでいるのかどうかも分からず、ただただ献金、勧誘、無条件服従を迫られるため、どうしても疑問が出てまいります。それを会員はどのように正当化し、自己の脳内で同一化して納得させているのでしょうか?

全ての会員に当てはまるとは限りませんが、教義正当化の脳内変換は、過去の経験から言わせてもらうと

「縦の線(信一念)と、それまでの道程(横の道)を分けて考えている」

と推測されます。

縦の線(信一念)に到達すれば、阿弥陀仏の独用で信心獲得し、往生が定まるから「B.18願の救いに善は不要」は正しい。それまでは善ができると自惚れていて本願まことと聞けない。自惚れ心を打ち砕き自力無功と知らされなければ、他力全托、ひとえに私一人がための弥陀のご本願でございましたと救われることはないから、「A.18願の救いに善は必要」は正しい。

と、このように自分に落とし込んで納得させ、うんざりするほどやってくる募財や、名前だけ会員の獲得、何度も映画館へ通って親鸞会製作映画を観る、というようなことをやっているのでしょう。

ただ、AとBは高森信心によって融合されているだけであって、一度高森信心から解き放たれた者にとっては両者は全く融け合わないものであるとお判り頂けると思います。いくら高森会長が尤もらしいことを言っていても、親鸞会の説く教えは、仏法(親鸞会の話)を聞き始めてからトータルで見れば善は必要、阿弥陀仏の独用で救われるわけではないことは明白です。そして、信一念に到るまでの道程を設け、何十年と活動している講師部員ですらその道程を進み切れていないことを考えれば、とてもではないが今宵の後生に間に合うような救いではありません。高森会長の目的は、会員の皆さんを信心獲得し、往生させるということではなく、ただ組織拡大要員として利用することであると知って頂きたいものです。

親鸞会会員の信心はある意味、絶対矛盾的自己同一

静かな劇場

が、最近更新されていたので覗いてみました。笑えるのが、

絶対矛盾的自己同一

の記事で

********************
私たちが根拠とすべきものは、あくまで親鸞聖人のお言葉でなければなりません。
********************

なんて書いてあるところです。それなら、最低でも親鸞聖人のお言葉を根拠として、


いつもの14項目


1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間


2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である


4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない


5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力


6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ


7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ


8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない


9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる


10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる


11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ


12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 因果の道理を深信しなければならない


13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 全人類は19願から始めなければならない


14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む



という、親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張の相違点について明快に答えて頂きたいものです。まぁ、

「如来の遺教を疑謗し 
 方便破壊せむものは
 弓削の守屋とおもふべし
  したしみちかづくことなかれ」


の和讃について間違ったことを3年以上修正もせずにほったらかしているブログですから無理でしょうけど。正しい意味については、『なぜ生きる2』のトンデモ邪義16等を参照して下さい。


会員の皆さんにも、狂った教えを聞いているから、別段矛盾でも何でもない二種深信を絶対矛盾的自己同一だなんだと誤解していることを知って頂きたいものです。そう言えば、親鸞会会員の信心はある意味、絶対矛盾的自己同一かも知れません。なぜかというと、高森会長の話をまともに聞いている人は、

A.善をしなければ信仰は進まない(=助からない)
B.善をしたら助かるというのは間違い


という、矛盾する2つのことを両方とも正しいと信じているからです。簡潔にハッキリ言ってしまうと、Aは「救いに善は必要」、Bは「救いに善は不要」だということです。

確かに世の中、

C.努力をしなければ成功しない
D.努力をしたら成功するというのは間違い


という、一見すると矛盾するこの2つはどちらも正しいと言えるでしょう。偉人と呼ばれる人達は、その伝記を聞く限り例外なく努力をしています。その一方で、いくら努力を重ねても成功できずに死んでいった人が数知れずいるのも事実です。いわゆる成功者は努力をしていますが、努力をしたから成功者になれるかは極めて不明確です。でも、成功したかったら努力するしかありません。
しかし、後者が何の約束も誓いも後ろ盾もない世間の成功についてであるのに対し、前者は「必ず救う」と誓われた阿弥陀仏の本願の救いについてです。こちらとしては必ず助けて頂かなければならない、そうでなければ未来永劫困る大問題です。「善をして助かるかどうかは極めて不明確だけど、助かりたかったら善をしなさい」なんて、阿弥陀さまは仰っているでしょうか? 本願に救われるのに善が必要なのか、あるいは不要なのか。必要なら、どの程度やらなければならないのか。そういう極めて大切な問題に対して、親鸞会は一方では「善をしなければ信仰は進まない」と説いて善もどきの善を勧めます。そこで会員は「善をしなければ助からない」「救いに善は必要」と理解しますが、もう一方では「善をしたら助かるというのは間違い」と説くので、会員は「善をしても助からないのか?」「救いに善は不要なのか?」と悩んでしまいます。ただ、高森先生に間違いないのだからと、会員は、一方では救いに善は必要だと信じ(何らかの形で必要だと思わなければ善はしません)、一方では救いに善は不要だと信じています。この矛盾したことを結び付けているのが高森信心です。

本当は、弥陀の救いには念仏一つ(念仏一つで助かるという信心一つ)、善は不要であって、そもそも親鸞聖人の教えにA.善をしなければ信仰は進まない(=助からない)なんてことが出てくる自体間違いなんです。

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。『口伝鈔』

ということですから、本願の救いに遇うのに善は不要、善の勧めはないのです。あくまで本願の救いに遇うのにですから、ボランティア活動などは本願の救いとは無関係とわきまえて、そういった慈善活動に意欲的な人は大いにやればよろしいでしょう。そんな下らないことで一々本願寺の揚げ足取りに勤しんでいないで、親鸞会には早く飛雲さんとの公開法論に応じてもらいたいものです。負け戦であることは火を見るよりも明らかなので応じないでしょうが。

大切に抱きしめてた宝物が、ある日急に偽物と明かされようとは・・・

最近、親鸞会の根本聖典は『なぜ生きる』になったようです(映画「なぜ生きる」の感想(2)ー「ご著書」が「聖典」になった宣言を会員向けにした作品)。親鸞会の講師や会員が、高森会長の説法や『なぜ生きる』を根拠に自説を展開し、それに対して退会者に聖教上の根拠を求められると答えられないか、的外れな根拠を出してくるか、というようなやりとりがもう何年もずっと続いています。これでは浄土真宗でもなければ親鸞聖人の教えでもありません。高森教でしょう。

親鸞会では親鸞聖人の名を語り、さも以下のような教えが親鸞聖人の本当の教えであるかのように説きます。

・獲信していない人の死後は必堕無間
・全ての人は生まれながらに五逆罪、謗法罪を造っている
・善人はいない、全ての人は悪人である
・善をしなければ絶対に獲信できない
・(二河白道の)白道とは(自力の)求道心、信心
・定散二善をせよ
・19願を実践せよ
・過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない
・逆謗の屍と必ず知らされるのが機の深信
・浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされるのが法の深信
・善知識に無条件服従せよ
・因果の道理を深信しなければならない
・全人類は19願から始めなければならない
・「一向専念無量寿仏」とは、阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む


私も会員であった当時は、高森先生こそ本当の親鸞聖人の教えを、全人類が救われるたった一本の道を説かれる方だと信じ、何とか信心決定して絶対の幸福の身になりたいと思っていました。
ところがふとしたきっかけで、高森会長の主張は、その主要部分のほとんどが親鸞聖人の仰せと異なるということが分かってしまいました。親鸞会の教えは、偽物の親鸞聖人の教えだったのです。そして親鸞聖人の本当の教えに遇い、どおりでいくら高森会長の教えを聞いても救われないし、周囲にも救われた人を見かけないわけだと納得しました。上の14項目は、全て聖教に基づかない、高森教独自の珍説であります。


自分が本当に手に入れたいものが手に入らない。いくら努力しても自分より上は沢山いる。この広い地球、宇宙の中では自分一人いようがいまいが何も変わらない。この先苦労して生きて何になるのか。こんな思いを抱えたまま苦しみに耐えて生きるなら死んだ方がマシだ・・・そんな感情が先行していた高校時代を抜け、大学で「人生の目的がある」「たとえ死が来ても崩れない絶対の幸福の身になれる」と聞かされた私にとっては、親鸞会の教えは「宝物」でした。それが、ある日急に偽物と明かされようとは・・・。

大切に抱きしめてた宝物がある日急に偽物と明かされても oh oh oh
世界中にすり込まれている 嘘を信じていく
すべてはフェイク(Mr.Children『フェイク』)


ミスチルの歌詞が脳裏をよぎります。それにしても未だに脳内にすり込まれている嘘を信じていく会員が多い中、自分はよく偽物を偽物と認めることができたなと思います。後輩の一人は熱心なK講師長信者で、私や先輩がいくら何を言っても親鸞会が正しいと信じて疑わず、説得は出来ず仕舞いで終わっています。まぁ親鸞会側としても、親鸞聖人の教えに似せて作ったマガイモノを、すぐにそれと見破られぬように所々親鸞聖人や蓮如上人のお言葉を用い上げ底して説いていますからね。私もかつてはそうでしたが、親鸞聖人の教えに明るいつもりで実は真っ暗な素人会員には、マガイモノがマガイモノだと分からないかも知れません。そして必堕無間と脅し、無条件服従せねば助からぬと言い、様々な詭弁を駆使するので、会長や上司への服従心が強い人は中々偽物が偽物だと受け容れられないのです。必堕無間の呪縛に高森信心が加わると実に厄介です。

ハッキリ言いまして、「親鸞会のすべてはフェイク」と言っても言い過ぎではありません。上の14項目然り、教義面では主要部分が正反対と言っていいくらい、親鸞聖人の仰せと違います。ですから細かな誤りを挙げていくとキリがありません。
教義以外でもそうです。例えば、親鸞会では「まことに死せんときは・・・」などのお言葉を用いて、死んでいく時はそれまで必死にかき集めたお金も財産も名誉も地位も、何一つ頼りになるものはないなどと説きます。なので高森会長や上司の方々は、さもこれらの世間事に執着していないかのように思えます。こう思わせるのが狙いの一つなのかも知れません。これらの世間事に執着してなさそうで実は物凄い執着しているのが高森会長始め親鸞会上層部なのです。当ブログでも度々紹介してきました。
会員の皆さんは、「会長先生は皆さん一人一人の仏縁を念じておられます」なんていう講師のたわ言を信じ、外の情報に耳を塞ぎ、ひたすら会の指示に従っていることでしょう。が、皆さんは実は高森会長からしたら単なる組織拡大要員であって、誰かと取っ替えのきく代用品でしかないのです。高森会長の教えや指示に異議を唱える者あらば、それまでどんなに会長や会に尽くしていたとしても指摘の嵐を浴びせ、除名にし、会員にもその者を忌み嫌い近づかぬように仕向けるでしょう。800年前の親鸞聖人と善鸞とは違い、直接会って話す機会はいくらでもあるのに、その者に納得いくように説明し、後生助かるように教え導くなどということはしないのです。組織拡大要員としての利用価値がなくなったと判断された時点でもうその人はポイです。瓜生崇元講師、近藤智史元講師、宮田秀成元講師、嶋田久義元講師、清森義行元講師、上田祥広さん、齊尾裕史さん、その他有名無名の元会員の退会、除名の経緯を知ればもうお分かりでしょう。
そして彼らが親鸞会や高森会長を批判するや、ほっぺたから横隔膜まで退会者を呪ってやるって気持ちを膨らまし、普段は顔をピクピクさせて説法をし、裏では退会者の批判対策、また組織拡大のために苦肉の策を練っているわけです。しかし、あれこれと知恵を絞った挙句が裏目に出て、会員歴何十年という人が次々退会していっています。

これからも、たとえ教義の誤りに途中で気付いていたって御身大切、保身のために尻尾を振り続けるか。ただただ信じてついてゆくのか。あるいはおかしさに気づいて、親鸞会という沈没寸前の船から本当の親鸞聖人の教えを探しにtake offするか。今宵の後生と向き合い、親鸞会の教えで今宵の後生救われるかと真剣に考えれば、答えは自ずから出ることでしょう。あとは勇気をもって決断できるかどうかです。
プロフィール

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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