親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(1)

親鸞会会員の皆さんは高森顕徹会長から間違った教えを聞かされ、それを本当の親鸞聖人の教えだと誤解しています。当ブログではこれまで、

・高森会長は51段目の位にいる
・親鸞会でしか真実は説かれていない
・方便だからやらなければならない
・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある


といったことに関して、会員がどのように誤解しているかを述べてきましたが、今回からは、

・活動しなければ救われない

ということに触れたいと思います。


親鸞会会員の目的は、『親鸞学徒聖則』

一、親鸞学徒は信心獲得することを本と致します。

にあるように信心決定、信心獲得以外にはありません。そのためには

活動しなければ救われない

と思う、そうとしか思えない、そのように教えられるからこそ、推進される様々な活動に勤しんでいます。もし会の活動と無関係に信心が獲られるなら、誰もそんな一生懸命に勧誘活動をしたり、生活をトコトン切り詰めて財施したりする者はいないでしょう。私も活動が信心獲得に必要不可欠、「活動しなければ救われない」と固く信じていたからこそ、毎回の富山詣で、朝晩の勤行、地元行事の参加、声かけやチラシ配り、家族友人の勧誘、うんざりするほどやってくる募財への参加等、それなりに活動していました。その

活動しなければ救われない

と思わせるキーワードが、一昔前は「宿善」でした。

親鸞会では、設立当初はどうだったか知りませんが、少なくとも『会報第三集』が発行された昭和43年には既に『厚い宿善になる』として、破邪顕正という名の人集め、六度万行第一の布施と称した金集めが勧められていたことが伺えます。宿善についてはその後発行された『こんなことが知りたい①』(昭和44年)、『白道燃ゆ』(昭和49年)等にも出てきます。中でも有名なのは、『白道燃ゆ』

 宿善と言うのは、過去世の仏縁のことであるが、過去世に仏縁浅き者は、現在に於いて真剣に宿善を求められねばならない。
 でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。
 されば宿善は待つに非ず、求むるものである。
(p.203)

の文章でしょう。昔は「宿善」の名の下に破邪顕正と称して様々な勧誘活動、時には本願寺へ座り込みなどといった事まで行っていたようです。また「真実のために財施することは、尊い宿善になる」だとか言われて、中には家一軒建つ位親鸞会へ財施したという人も少なくないと思います。そうやって活動していくことで横の道を進み、信心獲得に近づく、やがて宿善開発の時節が到来するんだと信じていたに違いありません。


ところが、浄土真宗には高森顕徹会長の説くような「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよといった教えもなければ、宿善になると言って信心を獲るために聴聞、勤行、破邪顕正、財施、六度万行をせよといった教えもありません。逆にそういった自力修善は徹底的に廃して、念仏一行を勧められたのが親鸞聖人であります。前回も挙げましたが、覚如上人は祖師の教えを

一 自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事。

 たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。
(口伝鈔)

と表されています。まぁ親鸞会の活動はそのほとんどが「善もどきの善」、組織拡大に都合の良い行いなわけですが、どれほど推進される活動(聴聞、勤行、破邪顕正、財施、六度万行等)に取り組んでも、それがもとで信心獲得し、往生するわけではないのです。修めた行いが宿善となり、段々と厚くなって、やがて開発して救われるように考えている方も多いと思いますが、行いが如実の善だとしても「たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず」でありますから、我々の獲信・往生と修善とは無関係です。ただ弥陀の仏智である念仏によってのみ往生を得るので、活動することで宿善が厚くなるとか、横の道を進むとか、信心獲得に近づくといった考えは大間違いも大間違いなのです。


宿善については長くなりそうなので、今回はこれで終わります。なお親鸞会の宿善に関した邪義については、

『親鸞会教義の誤り』宿善とは
『飛雲』2012年5月の、5月1日~5月16日のエントリー
現代における異議の研究 伝道院紀要24号

等に既に詳しく書かれていますので、参照して下さい。
スポンサーサイト

大丈夫です。絶対後生助かります。

南無阿弥陀仏。字にすればたった六字であり、それを口に称えるという至って易しい行なのに、どうしてただそれだけのことで浄土往生という証が得られると言われるのでしょうか。その答えが善導大師の

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。『観経疏 散善義』称名正定業

であります。法然聖人は承安5年(1175年)43歳の時、様々な修行や学問、読経の末にこの御文に出会われ、ご自身は勿論、人々の救われる道は専修念仏によるしかないと感得し、それから比叡山を下りて東山吉水に移り住み、念仏の教えを弘めてゆかれました。それで浄土宗ではこの年が立教開宗の年であると言われています。法然聖人は善導大師のこの御文を『選択本願念仏集』にて引かれています。

阿弥陀仏はその本願において、念仏一行を本願の行として選び択られたことを次のように教えられています。

もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。難易義

もし仏像を造り、塔寺を建てる者を助けるという本願であれば、金持ちしか助かりません。もし賢く智慧すぐれた者を助けるという本願であれば、愚かで智慧の劣った者は助かりません。もし仏の教えを多く見聞して学問がある者を助けるという本願であれば、学問がない者は助かりません。もし戒律を守って犯さない者を助けるという本願であれば、戒律を守れない者は助かりません。それで阿弥陀仏は法蔵菩薩であった昔、様々な行を選んでは「これではダメだ」と捨て、また選んでは「これでもダメだ」と捨てて、そして最終的に我が名を称える者を助けようと余の一切の難行諸行を選び捨て、至って易くしかも最も勝れた行である称名念仏を本願の行として選び択り、本願をお建て下さったというのです。

念仏を称えるというのは至って簡単なことで、3歳の子供でも称えることができます。うちの末っ子はまだ1歳なのでちょっと難しいですが、4歳の次女であれば「なんまんだぶなんまんだぶ」と簡単に称えることができます。しかも念仏を称えるのはその行に心身共に集中しなければならないという制限はなく、立っていても座っていても臥していても、止まっている時も動いている時も、仕事や家事、子育てをしている合間にでも称えることができます。とても保ちやすい行です。

ただ、どうしてそれだけのことで浄土往生の証果を得られるのかということが問題でした。仏教では教があって、行があって、その行に応じた証(さとり)を得るというのが常識ですが、ただそれだけのことで十悪五逆の悪人でも浄土往生というのですから、到底考えられないことです。法然聖人も天台宗で学ばれていましたので、『観無量寿経』下品下生の往生はご存知だったかと思いますが、その理由が分からなかったのでしょう。

そして辿り着いたのが先の善導大師の御文です。そこには、本願の行である念仏を称えるということは、「彼の仏願に順ずるが故に」、だから往生できるのだと教えられています。だから、一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるは、これを正しく浄土往生が決定する行業、正定業と名づけるのだと言われています。私が称えるから往生するのではなく、阿弥陀仏が「称える者を往生させる」と誓われているから往生するのだというのです。


阿弥陀仏は、この淳心房を仏にせずば、我も正覚ならじと誓われ、今はその本願が成就して南無阿弥陀仏と成りましまして私にはたらいております。こうした本願が既に成就してはたらいて下さっているからこそ、私の計らいや様々な方法論は無用なのであり、この本願力に乗じて間違いなく往生を得るのであります。だから、こうした本願のいわれを信じて念仏すれば、皆人が必ず後生助かります。淳心房の言葉など何のあてにもなりませんが、阿弥陀仏が真実の御言葉で誓われ、そしてそれが成就されたことを釈尊をはじめ十方諸仏が証誠されていますから大丈夫です。安心して下さい。必ず後生助かります。ですから、安心して阿弥陀さまに後生まかせて下さい。阿弥陀仏は決してあなたを救うことをあきらめません。だからあなたもどうか「俺(私)みたいな者はどうせ・・・」とあきらめないで下さい。

その上での私の心の有り様は問題ではありません。喜びが有るとか無いとか、多いとか少ないとか、そういった私の心で往生が決定しているかどうかが決まるのではありません。私の心など次の瞬間には変化するもので、何のあてにもなりません。往生の定まりたる証拠はあくまで南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為本。まことに私に相応したありがたい教えです。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

念仏往生? 一念義? 多念義? いや、邪義です。

親鸞聖人は第十八願の教法を「念仏往生」と度々仰っています。

浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。(一念多念証文)

この『一念多念証文』とは、一念とは一念義のこと、多念とは多念義のことです。一念義とは、浄土往生は信心ひとつで決定する、またはひと声の称名で決定するとし、その後の称名を軽視する説です。これに対して多念義とは、浄土往生は一生涯数多くの念仏を称え、臨終来迎をまって往生が決定するとする説であります。親鸞聖人在世の頃、法然門下の諸流派がこの一念多念をめぐって互いに論争したことを受け、専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義であることを明らかにされたのがこの書物です。

これを踏まえて考えてみますと、親鸞会の教えは一念義に近いものがあります。「信心正因 称名報恩」が行き過ぎて信心を強調するあまり念仏がおろそかになり、「念仏は信後報謝に限る」とか、「信前も信後も念仏はお礼」と言って、選択本願の大行である念仏を軽視しています。また、高森顕徹会長の

本願寺は、念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助けと説いている

という本願寺批判の言葉等から、会員は「信前の念仏は信心獲得するのに無意味」との異安心に陥っているとも考えられます。念仏は、

一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。

と教えられる通り、彼の仏願、阿弥陀仏の本願に順ずる行為であるから、正しく往生が決定する行業であります。阿弥陀仏が本願において、一切の諸行を廃して唯一選び択られたのが念仏ですから、そのいわれを信じて念仏する者は必ず浄土往生の証果を得るというのです。「順彼仏願故」の意味が分からず、また信一念とそれまでとを分ける教えによって「一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者」が只今のことだと受け容れられないことから、会員は念仏を「正定之業」だなどとは到底思えなくなっていると推測されます。まぁ「信心正因」と言われてはいても肝心の「信心」の内容が間違っているので、実際のところは一念義とは程遠いものがありますが・・・。

一方で、親鸞会では独特の「光に向かう教え」「宿善を厚くする教え」「三願転入の教え」「信一念とそれまでとを分ける教え」によって、会員は只今の救いを只今の救いと捉えられなくなっています。親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」だと言ってはいますが、「一念の救い」にあずかるまでにはやれ因果の道理だとか、やれ廃悪修善だとか、やれ後生に驚き立たねばならんとか、やれ19願から始めなければならないとか、いくつもいくつも関門を設けています。

会員は求めるほどにそれだけ「一念の救い」に近づいているかと思いきや、結局因果の道理も心から分かっていないと間接的に教えられてまたスタート地点に逆戻りということを繰り返しているかと思われます。そんなことを何年と繰り返していれば、「死ぬまでに助かれば万々歳だ」としか思えなくなるのは道理でしょう。加えて、後生の一大事、一生参学の大事と繰り返されるほどに、助かるには一生涯に一回でも多く高森顕徹会長の話を聞き、活動を続けてようやく「一念の救い」にあずかれるかどうかだという理解に至るのは容易に想像できます。そうなりますと、そういった意味で親鸞会は多念義にも通ずるところがあります。ただやっていることが念仏相続ではなく邪義を聞き続けることと、善もどきの善の相続では多念義とも違いますが・・・。

詮ずる所、タイトルにも示した通り親鸞会教義は、念仏往生? 一念義? 多念義? いや、邪義です。浄土真宗を知り、浄土往生を遂げたい方は早く見切りをつけて離れることをお勧めします。


【参照】
『WikiArc』一念多念

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(3)

親鸞会では一秒の何憶分の一よりももっと短い「一念」で救われるとか、人生の目的が現在に完成するだとか説いてはいますが、聞いても聞いても、求めても求めても「一念の救い」とやらに到達する兆しはありません。それは、全て阿弥陀仏のお力のみで往生成仏せしめられるという本願力回向の法をそのまま受け容れ信ずるのみであるのに、受け容れるどころか逆らい、撥ね付けて見当違いのことをやっているからです。

「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

こんな誤解を、いつもの縦と横の線の図で視覚的にも強く植え付けられていますから、素直に聞けるわけがありません。まずは正しく聞こうと、高森会長の話をいかに正確に覚えているかをもって本とし、それを重ねて「聞」まで進もうというのですから自力そのもの、自力のおしまかせです。更には高森流因果の道理も手伝って、

 因果は厳しく、結果を招く。
自己の善根を往生の助太刀にするから雑毒の善、虚仮の行と嫌われるのだが、善根そのものに変りはない。
 実行しなければ、善果の現れぬは、当然である。
『親鸞会批判の真実』修善を実行さすのが、十九願より)

こんな理論を獲信・往生に関してまで適応しようというのですから、そんな頭で他力回向の法が受け容れられる方がおかしいというものです。お布施を募る時なんかは決まってこんなことを講師部員や先輩から言われたり、こんな文章が『顕正新聞』に載ったりします。もうじきシネマ学院がお披露目されるでしょうが、

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』「捨てものは「自力の心」ただ一つ」の論説(顕正新聞平成29年8月1日号)を読んで思ったこと

にある通り、今回も漏れなく「善の勧め」が論説に掲載されました。それで多くの会員が「諸善に努めねば善い果報は来ない」というところを「諸善に努めねば宿善開発の時節到来は来ない」等と脳内変換して捉え、「少しでも横の道を進めるなら」「信心獲得に近づくなら」という思いで今回も財施に参加したことと思います。高森教では聴聞に関しても「聞法善」だとか言いますので、「聞法善に努めねば宿善開発の時節到来は来ない」等とも脳内変換して捉えている節はあります。聞法までも自分の善根として捉えているのですから、「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」があると考える、としか考えられないのは道理です。

しかし、どうでしたか? 毎回毎回、阿弥陀仏の善巧方便だとか、善の勧めだとか都合の良いことを言われ続け、その都度聴聞し財施をして、今回は少しでも横の道を進めましたか? 信心獲得に近づきましたか?

私は、どれだけ富山へ聴聞に出かけても、どれだけ献金や勧誘に努力しても、少しも横の道を進んだとか、信心獲得に近づいたという感覚はありませんでした。それもそのはずです。我々が救われるにはただ五劫思惟の本願を仰いで仏智を信受する以外なく、親鸞会の活動が如実の善だとしても、それは報土往生のためにプラスにもマイナスにもならないからです。

かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。
(中略)
機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。
(中略)
ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。
(『口伝鈔』4、善悪二業の事)

会員の皆さんは、きっと阿弥陀仏の本願力によらねば助からないということまでは分かっていると思います。ところが、本願力のみでは助からない思い、そこに私が「聴」いた力、教えを実践した力をプラスして、救われるべき地点へ到達してようやく救いにあずかるかのように思ってはいないでしょうか? そうした行為は、全て

報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり

と切り捨てられ、ただ弥陀の仏智をたのむ、如来の他力にまかせる他に我々凡夫が往生する方法はないと、

・さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや
・往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからず


と教えられています。このような教えを知らず、弥陀の仏智をつのりとするのではなく、高森顕徹会長という「人」をつのりとし、高森教という新興宗教をつのりとし、高森教の活動をつのりとしているのでは、いつまでも往生の大益をば如来の他力にまかせることができないのは当たり前の当たり前のことです。

更に覚如上人は、親鸞会の邪義を完膚なきまでに次のように叩きのめしています。

たとひ万行諸善の法財を修し、たくはふといふとも、進道の資糧となるべからず。ゆゑは六賊知聞して侵奪するがゆゑに。念仏においては、「すでに行者の善にあらず、行者の行にあらず」と等釈せらるれば、凡夫自力の善にあらず。まつたう弥陀の仏智なるがゆゑに、諸仏護念の益によりて六賊これを犯すにあたはざるがゆゑに、出離の資糧となり、報土の正因となるなり。しるべし。(『口伝鈔』5、自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事)

たとえ諸善を修し、善根をたくわえるといっても、往生のもといとはならないのです。ということは、獲信のもといとならないということです。善をしなければ信仰は進みませんと言われ、会員の皆さんは善をして横の道を進もうとか、善をして信心獲得に近づこうと活動に励んでいると思われます。その一番の方法が熱心な聞法すなわち真剣な聴聞だと言われ、聞法善なる言葉まで出して、全ては「」の名の下に様々な活動が勧められています。聴聞にしても、「」という聞法善を重ね、その先にと聞こえる時があるからそこまで進め、みたいな。ところが、そういった親鸞会の活動が諸善の中に入るとしても、それらは獲信・往生のもといとはならないのだと覚如上人はバッサリ切り捨てられています。

聞法を自分の善根として捉え、聞法を始めとする様々な親鸞会の活動に取り組んでも、それでは他力の信心は獲られません。生死の大問題に手も足も出ない、生死苦悩から離れられない私を出離させ、往生成仏せしめる本願力をお聞きかせ頂くのを聴聞とか聞法というので、これを自分の善根と捉えるのは誤りです。これでは、念仏を自分の善根として捉え、念仏を称えて救われようというのと構造は変わりません。親鸞会は

念仏を一生懸命称えて助かろう

というのが、

聴聞を一生懸命して助かろう

に変化しただけです。尤も念仏の場合は阿弥陀仏が本願に誓われたことなので行は正しいですが、間違った教えを聞き、念仏を軽視して、本願に選び捨てられた念仏以外の諸善(善もどきの善)に励んでいる点、親鸞会は浄土真宗にもなりません。


私はただ本願の仰せをお聞きし信受するだけであって、そういった真宗の聞法に自力的要素はありません。あるとすれば、信受しようとしている機の側にあります。救いを遠くに見据えて、

「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

と思って聞法しているのはまさに自力そのものです。只今、この場で、この私一人を助ける本願と聞き受けるのみですので、このような間違った考えは捨てて、直ちに本願を聞き受け念仏して下さい。


【参照】
『飛雲』都合の悪い根拠を隠し、断章取義を繰り返す確信犯

「正雑の分別」ができていない者が、「一向一心」になることも、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す」こともあるわけがない

日曜日の高森顕徹会長は相変わらず「絶対の幸福」「ガラリと変わる」を連呼し、真宗もどきの話をしていたようです。真宗の皮をかぶるためにお聖教の言葉を出しているのみで、浄土往生の正しい教えも行も教えられませんから、それをまともに聞いて正しい信心を獲、報土往生・成仏の証果を得るなど奇跡です。

今回は「お疲れのため」だそうで、いつもの説法ではなく座談会形式での話だったそうですが、あのような高齢でも高森顕徹会長が話をしなければならない、会員は高森顕徹会長の話を求めて聞きに来ている、ということを考えるに、つくづく親鸞会というのは高森顕徹会長という「」に依っている集団なのだなと感じます。それが将来どのような結果につながるかは、推して知るべしでしょう。


さて、『顕正新聞』9月1日号「論説」へのツッコミ記事を書いていて思ったことがあります。会員の皆さんが救われないのは、もちろん間違った教えを正しいと信じているから、正しい教えを全く知らないからなのですが、これは言葉を代えると

「正雑の分別」ができていないから

と言えるのではということです(それ以前に、倫理道徳上の善悪の分別もできているか疑問ですが・・・)。

「正雑の分別」くらいできている!

と会員の皆さんは思うかも知れませんが、できていません。その証拠に、横の道を進んで信心決定に近づこうという目的でお布施をし、人を誘う活動をし、上司の無理難題にも「畏まりたる」と表面上つくろっていませんか? 「正雑の分別」ができていたら、こんなことはしないんです。たとえ親鸞会の活動が仏教の善に含まれるとしても、それらは「雑行」もしくは「正行と雑行の兼行」だからです。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
(化身土文類)

【現代語訳】
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。


まぁ実態を言えば、浄土に往生してさとりを開こうというのではなく「絶対の幸福」「ガラリと変わる」だとかいう「夢・幻のような現世の喜び」を追い求めており、勤行など一部の行為を除いて他は一新興宗教の組織拡大、私利私欲を満たすための活動ですから、親鸞会は「浄土門」でもなければ活動のほとんどは「雑行(諸善)」でもありません。一部経典や真宗用語を使っているだけの「新興宗教」すなわち「外道」であり、主たる活動の多くは「善もどきの善」「行もどきの行」つまり「悪行(諸悪)」です。こんな教えをまともに信じて親鸞聖人と同じ信心になれる方があり得ないというものです。


ところで、『御文章』1帖目1通に、蓮如上人は

うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな

という古歌を引いています。この意味について上人は、

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。


と続けて教えられています。信前の「むかし」と、信心獲得の「こよひ」とで、違う点がいくつかあります。

むかし」・・・「雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつる
こよひ」・・・「正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す

その一つが、「正雑の分別」があるかないかだというのです。「雑行・正行の分別」もない会員が信心決定していないというのは至極尤もな話なのです。

また、信前の「雑行・正行の分別」もなかった「むかし」であっても蓮如上人は「念仏だにも申せば、往生するとばかりおも」っていたと仰っています。親鸞会の大好きな「諸善」いわゆる「雑行」をやっていたという記述もなければ、「諸善」「雑行」をやれば往生すると思っていたとも言われていません。信前にして既に往生行として「念仏一行」であったことが伺えます。信前も信後も関係なく、浄土真宗は往生行として「念仏一行」。これは当たり前の当たり前のことなのです。「正雑の分別をききわけ」るとは捨自帰他のことですが、それにはまず何が正行で何が雑行かを分別し、往生行は「念仏一行」となっていなければ話になりません。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
(「行文類」大行釈)

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(「行文類」経文結釈)

その当たり前のことが教えられず、教義だけ見ても「雑行」もしくは「正行と雑行の兼行」を勧めているから

「正雑の分別」ができていない

と言っているのです。「正雑の分別」を聞き、浄土真実の行は「念仏一行」となって、それから念仏する心が自力か他力かということが問題になるわけで、「念仏一行」どころか念仏を軽視し、「雑行(という名の悪行)」をやりまくっている者は、高森顕徹会長の言葉で言えば「コンマ以下」なのです。

正雑の分別」ができていない者が、「一向一心」になることも、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す」こともあるわけがありません。会員の皆さんは、まず正しい教えを聞いて「正雑の分別」をし、「念仏一行」になるところから始めてはいかがでしょうか。なお、私が勧めているのはあくまで「一向一心」の他力の念仏ですから、そこのところはお間違いなく。

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(2)

会員の皆さんは、何年何十年と「聴」き続けても一向に「聞」と聞くことができない現実と、

弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。(正信偈)

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。(信文類)

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

一代諸教の信よりも
 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ
 無過此難とのべたまふ
(浄土和讃)

等のお言葉、また高森顕徹会長の、雑行は30年40年聞いて分かるものではないとか、お釈迦様は全ての人をあの軌道(縦と横の線でいう横の道)に乗せるのに45年かかった等の話から、

信心獲得することは大変難しい
その前段階の、よく聞く、正しく聞くということも難しい
真剣に、一座でも多く「聴」を重ねていかねば「聞」と聞くことはできない

としか考えられなくなっていることと思われます。そうした高森教の色眼鏡をかけた状態で、

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。 (『御一代記聞書』193)

【現代語訳】
「<きわめて堅いものは石である。きわめてやわらかいものは水である。そのやわらかい水が堅い石に穴をあけるのである。心の奥底まで徹すれば、どうして仏のさとりを成就しないことがあろうか>という古い言葉がある。信心を得ていないものであっても、真剣にみ教えを聴聞すれば、仏のお慈悲によって、信心を得ることができるのである。ただ仏法は聴聞するということにつきるのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

のお言葉を聞けば、何年何十年と聞かなければ助からないとしか思えないでしょう。石に水で穴を開けるのは一滴二滴では到底不可能です。何十年と同じところに水が落ち続けてようやく穴が開きます。その理屈で考えたら、私のぬるい聞法心、求道心の水で後生の一大事という大石に穴を開けるなどということは絶対不可能です。一般人が100m10秒切るより不可能です。その絶対不可能なことに挑戦しているんですから、一生聞き続けて解決できるかどうかという考えに至るのは至極当然なことです。


ここで会員の皆さんは、親鸞聖人が「真実の信楽まことに獲ること難し」と仰るその理由を知らねばなりません。信文類には、このお言葉に続いてこう教えられています。

なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。

【現代語訳】
なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

全て阿弥陀仏のお力によって得られる、本願力回向の信心であるから難しいというのです。一見「ん?」と思うかも知れませんが、これは一般的には勿論、仏教界(聖道門)からしても常識外れなことなので、これを聞いて素直に信じられる人は少なく、多くの人は逆に疑って信じないのです。

因果の道理は仏教の根幹というのは親鸞会では耳タコと思いますが、これについては確かにそうで、釈尊も十二因縁を順観し逆観することによってさとりを得られたそうです。その十二因縁の内、苦悩の根本である無明、煩悩を滅すれば、一切の苦悩は滅し無為涅槃のさとりの境地に出られるというのです。そのために菩薩が行う修行を六波羅蜜とか、六度万行というのですが、当然さとりの境地に至るには、「私が」行を修めなければなりません。「他人が」行を修めたその功徳によって私がさとりを開くというのは因果に反しますわね。他人が働いて得たお金がまんま私のものになるようなもので、因果を深く信じていればいるほどそんな理屈は受け入れられないでしょう。

「私が」行を修めなければならないというのは、仏教以外の他宗教でもそうでしょう。どのような宗教でも、教えがあって、その教えに従って実践する行があって、そして行に応じた利益が得られるとかどうとか言います。宗教に限らず私達の生きている世界はみんなそうです。受験合格も、お金や財産を築くことも、地位や名声を得ることも、恋愛成就だって健康だって一家和楽だってそうです。自分の理想を実現する、果報を得るためには、その因果を学び、心得て、その因行を積むべく努力する。勿論、望む結果を得たくても何をやったらいいのか分からないとか、いくら努力しても果報を得られない、他人と同じようなことをやっても自分は上手くいかないなどといったことは当然あります。ただいずれにしても、何かの教えに従って行を実践するのは果報を得ようとしている「私」であって他人ではありませんね。

ところが真宗の場合、浄土に往生し、同時に成仏するという果報を得るのに、全く私の力を要せず、ということは行を要せず、ただ弥陀の名号願力によってそのようになさしめられるというのです。全く南無阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)で、行を回向され、信を回向され、如来の行信によって証果を得るのです。これが、私の行に阿弥陀仏のお力をプラスしてさとるというのならまだ話は分かるのですが、他なる阿弥陀仏のお力のみで私が往生成仏の果報を得るのですから、これは親鸞会で言うところの「他因自果」です。これでは一般的な考えを持つ人、自業自得の因果論を信じる人は簡単に信じられなくて当然でしょう。特に聖道門の学僧は、深く因果を信じ、廃悪修善を行じてさとりを得ようとされている方々です。自業自得の修道の因果論に立脚し、自業自得の因果論の延長線上に浄土教の救済を見るのが彼らの立場ですから、ただ本願を信じ念仏するだけで浄土に往生するなどというのは悪人を導く方便の教えであると捉えていたのでした。

しかし、このような因果を超越した、ただ如来の本願力によって往生成仏せしめられるこの第十八願の法門こそが、一切衆生の救われるただ一つの乗り物なのだと明らかにしていかれたのが親鸞聖人であります。そして、本願の名号であるなんまんだぶによって私が往生成仏せしめられると疑いなく聞き受けたのを「」といい、それがそのまま「信心」であると明らかにされたのでした。私は何の力も要らず、智慧も才覚も要らず、ただ名号願力におまかせするのみで、それが「信心」ですから、信心を獲ることは難しいどころか、逆にこんなに簡単なこと、易いことはないのです。

この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。(御文章2帖目7通)

何の造作も要らず、本願の仰せ、なんまんだぶを疑いなく聞き受けるのみです。それで、私達のような末代不善の凡夫が極楽に往生することが定まったのです。こうした本願力にすっかりゆだねてしまえばよいものを、

「そんなのは観念の遊戯であって、後生の一大事はそんな簡単に済む話ではない」
「自己の上に『救われたぞー』『助けられたぞー』というハッキリした自覚がなければならない」
「大安心大満足の身にならねば助かったとは言えない」
「一つの善もできないと地獄一定の自己が知らされなければ阿弥陀仏の絶対の救済にあずかれない」
「それまでは高森先生から教えを真剣に聞いて、聞いたこと(廃悪修善)を実行しなければならない」
「真剣必死な『聴』を重ね、『聴』の先に阿弥陀仏の呼び声がジカに聞こえる『聞』がある」


このように自らの上での自覚を重視し、救済にあずかるまでの道程があると思ってそこまで求めよう、求まるんだと、如来の諸智を疑惑して信ぜず、それでいて自業自得の因果論に基づいて本願の救いを捉え、自らの求道によって救いをつかもう、救いにあずかろう、救いに近づこうとしているのですから、これほど難しいことはないとなってしまうのです。

信心を獲ることは大変難しい、だからそれまでは地に足をつけた求道で真剣に「聴」を重ね、求道に精も根も尽き果てた絶壁に行き詰まり、地獄一定の自己を如来の御前に投げ出す体験をしなければ「聞」と聞くことはできない。

こんなのがおおよその会員の理解だと思いますが、まさに自力そのものです。そんな誤解や先入観、高森流因果の道理をもって本願の救いを捉えているのですから、「難のなかの難これに過ぎたるはなし」となるのは当然です。しかし、今はそのような状態でも、もっている誤解や先入観を捨てて素直に本願を聞いたなら、もはや「真実の信楽まことに獲ること難し」ではなくなります。信心を獲るといっても、何かものを貰うとか、確固たる信念のようなものが心に定まるのではなく、「助けるぞよ」の仰せ、なんまんだぶをそのまま聞き受け後生をおまかせするのを「信心を獲る」と言い表しています。ですから、信心を獲ようとか貰おうとか考えるのではなく、ただ本願の仰せを仰せの通りに聞いて下さい。それがそのまま「信心」です。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏


【参照】
『用管窺天記』自業自得の救済論

2017年(平成29年)親鸞会報恩講の日程 及び ツッコミ『顕正新聞』9月1日号「論説」

最近の親鸞会の発行物は、月2回の『顕正新聞』に加えて、『親鸞会法話のある仏事のご案内パンフレット』だとか、レストランウェルカムの販売広告チラシ『ウェルカム通信』だとか、同朋の里にある食事処「サンキュー」の無添加洗剤の広告チラシ、アニメバス事業への支援を募る『移動映画館 友の会』とやらの案内など、多岐にわたっています。すっかり事業仏教が板についてきた感がありますね。

それと、今年2017年(平成29年)親鸞会の報恩講は

10月7日(土)、8日(日)

だそうです。演題はまだ分かっていません。情報をお持ちの方はお知らせ頂ければと思います。


さて、『顕正新聞』平成29年9月1日号では、1面に「晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました」と喜びを語るブラジルの会員さんの記事が載せられている一方で、3面の「論説」では最後に

 仏教の目的は、夢・幻のような現世の喜びではない。曠劫流転の迷いの打ち止めをし、浄土往生一定の身になることである。
 ゆめ、忘れてはならない。


と書かれています。おやおや、1面で語られているような喜びも所詮は「夢・幻のような現世の喜び」でしかないと皮肉っているのかな?

でも、この世の幸せが仏教の目的ではないといくら言われても、親鸞会では絶対の幸福が強調され、「この世から救われる」と説かれるので、会員さんはどうしたってそんな現世利益、「夢・幻のような現世の喜び」を求めてしまいますよね。浄土往生もありがたいが、それより今のこの苦しみを救うてもらいたい、この世を喜びいっぱい、幸せいっぱいで生きたいというのが本音じゃないでしょうか? 結局、会員の皆さんは「大安心大満足」「広かったぞー、大きかったぞー、想像を絶する大きな慶びの心が起きたぞー、といった驚天動地の体験」「変わらない安心、満足、喜びの境地」「絶対の幸福」という「夢・幻のような現世の喜び」を追い求め、言われるままに活動に従事しているのが実態かと思います。まして、そんな喜びの境地に至ったのを他力の信心だと誤解していたら、そりゃ親鸞聖人の教えられた信心は分かりませんわ。


ところで、3面の「論説」では

往生極楽の道

という見出しで『歎異抄』第2条

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

のお言葉を挙げ、

関東で二十年、聖人の教えは「往生極楽の道」以外になかったことが知らされる。
「往生極楽の道」とは何か。
「必ず極楽浄土へ往ける身にしてみせる」と誓う、阿弥陀仏の本願(お約束)のことである。


と書かれています。

必ず極楽浄土へ往ける身にしてみせる

という表現は、1面の

すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に

よりは随分マシですが、きちんと聖人の言葉を示して

念仏する者を極楽へ迎えよう

という本願であることを伝えるべきです。しかし、そんなことは絶対に言いません。それでは組織拡大、私利私欲を満たすという目的を果たすのに不都合だからです。

「論説」ではその後、現当二益であることを蓮如上人のお言葉を挙げて説明し、先に紹介した文章へとつながっています。会員にとっては尤もな文章かも知れませんが、実は「往生極楽の道」とは何かということについて大事な部分が隠されています。『歎異抄』第二条の続きを読んでみますと、

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。
(中略)
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(中略)
このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。


とあるように、

親鸞聖人の仰る「往生極楽の道」とは「念仏」である

ということが分かります。親鸞会では「念仏」を「本願」と言い換えられてしまい、「本願を聞きなさい」「(本願を)聞く一つで助かる」とは言われても「念仏一つで助かる」とはまず言われません。本願寺への批判の一つが

本願寺は、「念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助け」と説いている

というものですので、その反動でか、念仏を表立って勧めません。それどころか、念仏は信後のお礼だとか、信前も信後も関係なくお礼だとか言って軽視しています。しかし実は、

「念仏一つで助かる」が法然聖人から親鸞聖人へと相承された浄土真宗

なのです。勿論その「念仏」は、何の分別も無くただ南無阿弥陀仏と称えれば助かるという念仏でも、念仏を自分の善根だと思って称えて助かろうという念仏でもありません。「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずる」ですから他力の念仏です。また、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」ですから、阿弥陀仏にお助け頂くにはただ他力の信心(真実の信心)で念仏してと教えられていることが分かります。

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い2 の問答

Q.どうすれば救われますか?
A.真実の信心で念仏して(最初から他力の念仏)


ということの正しさが『歎異抄』第二条からも窺えます。加えて、「ただ念仏して」ですから往生極楽の道はただ念仏一行であり、念仏以外の「自余の行」、すなわち念仏以外の諸善をせよという教えはないことが分かります。シネマ学院だ大阪会館だ越前鯖江会館だとハコモノばかり建設し、阿弥陀仏の善巧方便とか都合の良いことを言ってお布施を要求しているのは、「ただ念仏して」という教えに反する邪義であります。聞く方も聞く方で、会で勧められる活動をやればそれだけ横の道を進んで信心獲得に近づくと思って念仏以外の「自余の行」(行もどきですが)に励んでいるのですから、こんな体たらくで「往生極楽の道」が正しく理解できる方がおかしいというものです。

往生極楽の道」「往生のみち」は「ただ念仏して」です。「自余の行」ならぬ、邪教への献金、勧誘、無条件服従という罪悪に執心している内は、「必ず極楽浄土へ往ける身」になることはありません。まして「絶対の幸福」だとかいう現世利益を追い求めていては・・・。会員の皆さんは、親鸞聖人のお言葉に順い、直ちに「念仏する者を極楽へ迎えよう」という本願を疑い無く信じて念仏して頂きたいと思います。

追記 親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

の記事に林遊@なんまんだぶ様からコメントを頂きました。

********************
聴聞という語について御開山は『平等覚経』の引文、

 宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。(行文類p.145)

の聴聞の左訓に

 ゆるされてきく、信じてきく

と、されておられますです。聴にはゆるすという訓もありますから、このように左訓されたのでしょう。

********************

記事を書いていた当時はこの左訓がすっかり頭に無かったもので、この記事で取り上げたいと思います。

親鸞聖人は、「行文類」大行釈の引文としてお示しの御文を述べておられます。→『平等覚経』
それともう一ヶ所、「化身土文類」善本釈でも引いておられます。→『平等覚経』

そして、この左訓を挙げて、多くの方がそれぞれ解説されています。

不自由な耳に聞こえる声 (聴と聞について)
若院のコラム(24) 聴聞とは
真宗の味わい 聴聞
かりもんの実践的!真宗法座論 ゆるされて聴く

他にもありますので、お時間ある方は調べてみて下さい。

ただ、どういう感じで親鸞聖人が左訓として施されているのか、原文が手元に無いので

「聴聞」=「聴(ゆる)されて聞(き)く」=「信じて聞く」

ということなのか、それとも

      「聴」ーゆるされてきく
「聴聞」<
      「聞」ーしんじてきく


ということなのかが分かりません。祖師は「聞」を「信」で表されていますので、漢和辞典等の意味を含めますと一見後者とも考えられますが、この場合は本願成就文の「聞其名号」の「」であって、この「」が『平等覚経』の「聴聞」の「」と同じであるかは不明です。また、「聴」を「ゆる」すと訓んだ場合、「先方の望みをきき入れる」という意味があるそうで、そうなると一概に後者とも言い切れなくなるのです。

聴すとは - Weblio辞書
聴すとは - コトバンク

等をご覧頂ければ分かるように、「聴(ゆる)す」には「願い・申し出などをききいれて、願いどおりにさせる」という意味があります。「き」くと読んだ場合と、「ゆる」すと読んだ場合で意味が変わるので、そうなると「ゆるされてきく」と「しんじてきく」は同じ意味ではないかとも取れるのです。それでこの左訓を挙げて、「聴」と「聞」を明確に分けて解説されているものもあれば、分けずに解説されているものもあります。「ゆるされてきく」とはどういうことなのか。また「しんじてきく」とはどういうことなのか。2つは同じ意味なのか違う意味なのか。これについて親鸞聖人のお言葉、ご解説があれば良いのですが、残念ながら無いので明確に分かりません。淳心房としましては、真宗では「聞」も「聴聞」も共に本願の名号を疑いなく聞くことを仰っているのだと拝察しますが、何しろ親鸞聖人が仰せになっていないことなので断定はできないです。


なお、今問題にしているのは『平等覚経』の「聴聞」ではなく、蓮如上人の『御一代記聞書』(193)

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。

の「ただ仏法は聴聞にきはまる」の「聴聞」です。これについて高森顕徹会長が

・「聴」という聞き方と、「聞」という聞き方がある
・「聴」とはこのような聞き方である


と珍しい教えを説いています。会員の皆さんは聞いても聞いても「聞」と聞けない現実と、上の蓮如上人のお言葉から「雨だれが石に何十年と落ち続けてようやく穴が開く」と思考して、

・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

としか考えられなくなっているので、そうした親鸞会会員の誤解を説かんとしています。


いずれにせよ、縦と横の線の図で言う「横の道」を求道の道程に当てはめ、「聴」により横の道を進んで縦の線の「聞」に至るという高森教の説は誤りです。更には「横の道」を二河白道の譬喩で言う「白道」に当てはめ、「聞」に至るまでのプロセスの意味で「聴」を定義づけ、勧めています。このデタラメ創作教義については

飛雲 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

にて暴かれていますのでご覧下さい。

何せ教えが正しくても、それを聞き重ねて信心を頂こうというのも悪い自力の心がけだと言われます。ですから、いくら高森教の邪義を真剣に「聴」き続け、重ねたところで、教えが間違っているので当然ながら本願を疑いなく「聞」くことはできません。私達は今、南無阿弥陀仏の勅命、「助けるぞよ」の仰せを仰せのままに「聞」き、仰せのままに「聴聞」し、受けて念仏するのみです。「聴」というプロセスを経なければ「聞」ときけないなどと思わずに、そんな邪説は速攻ふり捨てて、直ちに本願招喚の勅命に順って頂きたいと思います。

【考察】「晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました」というブラジルの会員さんの手紙を『顕正新聞』1面に掲載した意図について

親鸞会発行『顕正新聞』平成29年9月1日号には、1面表紙に

「晴れて大悲の願船に」
ブラジルから届いた歓喜の手紙


と題して、あるブラジルの会員さんが高森顕徹会長に宛てた手紙の内容が掲載されています。そのブラジルの会員さんが、映画『なぜ生きる』を見て、「大悲の願船に乗せていただけた」というのです。このことは既に

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』親鸞会の今後がわかる「ブラジルから届いた歓喜の手紙」(顕正新聞平成29年9月1日号)

に書かれている通りです。新聞に依りますと、この方は学徒となって2年目の、30代のデザイナーだそうです。いつも通訳を通して高森顕徹会長の話を聞き、映画『なぜ生きる』を見ているようで、現在は直接日本語で聞きたいと、独学で「ひらがな」の勉強中とのことです。そんな方がよく、漢字・仏語をふんだんに使ったお礼状を書けたなと不思議でならないです。しかも文法も読んだ限りは間違いなく、親鸞会独特の言い回し(「・・・せずにおれません」とか)まで見られます。


さて、このブラジルの会員さんの信心が真実信心なのかどうかは定かではありませんが、以下、真実信心と仮定して話を進めていきます。

私は会員であった時、高森顕徹会長から直接聞かせて頂かねばならないと教えられ、遠方の法話も参詣していました。途中から富山のみの法話となりましたが、年に何十回も富山へ足を運び、意味の分かる日本語で、直接聞いていました。また勧誘活動もそれなりにし、少なくない額を献金してきました。それを何年も続けていましたが、救われる気配はおろか、横の道を一歩も進めていないのではないかと不安な日々でした。これが私のような者はダメだけれども、私よりはるかに頑張っている講師部員や先輩会員は救われているというなら話は分かるんです。しかし、支部長始め誰も

”我、十方に叫ぶ この世でいちばんの幸福者、否、大宇宙一の最高の幸福者と”
(他に難しい漢字が沢山使われているのに、なぜか「いちばん」がひらがな・・・)

とブラジルの会員さんが言っているような喜びを表現している人はいませんでした。それが今回、日本語が分からず通訳を通して聞いている方で、ほとんど直接高森顕徹会長から聞いたことがないであろう、現在「ひらがな」を勉強中の、学徒2年目の方が救われたというのです。


まず、救われたということ、体験談を『顕正新聞』1面に持ってくるということについて考えてみますと、ここから多くの日本の会員が救われない現実を不満、不安、不足に思っていることが伺えます。というのも、親鸞会は体験談が語られる浄土真宗華光会(親鸞会内では名前は出しません)や他宗教を非難し、教えが正しいということを謳っていた団体だからです。

ところが会員達には、正しい教えを正確に説かれる高森先生から直接教えを聞き、教えを実行せんと活動しているのに、一向に救われないという現実が頑としてあるのです。これが自分も周りも、支部長でさえ救われてないと知ると、「本当に教えは正しいのか」「本当にこの道間違いないのか」という疑問が出てきて当然です。それを払拭せんがために、『顕正新聞』『顕真』等には数年に一度くらいで、救われたという人の体験談が載せられてきました。今回も、教義の誤りを徹底的に暴かれ、それを見た会員が退会するという流れに歯止めをかけるため、「親鸞会で救われるんですよ」「高森先生に間違いありません」とアピールする狙いで体験談を1面トップに持ってきたのかと考えられます。

次に、紹介したような方が救われたことから、

・高森顕徹会長から直接話を聞かなくても救われる
・『教学聖典』を丸暗記して大導師試験や講師試験に合格しなくても救われる
・親鸞会の宿善論や、「三願転入の教え」が説かれていないアニメを見て救われる
・沢山の人を勧誘したり、多額の献金をしたり、会長や上司の指示に無条件服従しなくても救われる


ということが分かります。私のやってきたことは何だったのかと、茫然自失する会員さんも少なくないでしょう。

親鸞会の映画『なぜ生きる』を見たら救われるとは言い難いですが、

高森顕徹会長から(直接でも間接でも)話を聞かなくても救われる
難しい教義体系を知らなくても救われる
宿善を求め、厚くしようとしなくても救われる
19願を実践しなくても救われる
勧誘、献金、会長や上司の指示に無条件服従しなくても救われる

はその通りです。浄土真宗は本願力回向の法であり、既に回向されて届いている本願力にそのままおまかせするのみで往生が定まるという教えです。本願は既に成就して南無阿弥陀仏と成り、「重誓名称聞十方」と重ねてお誓い下された通り私の元まで届いています。私が南無阿弥陀仏のお慈悲に既に包まれていると言ってもいいでしょう。それを凡夫の我々の側で疑い撥ね付けるから生死輪転の家に還来するのであり、本願力を疑いなく信じた信心を以てすみやかに寂静無為の楽に入るのです。

南無阿弥陀仏、すなわち「助けるぞ」という先手の法に対し、私の手は無くそのまま受け容れおまかせするのみです。往生の分かれ目は本願を信じるか疑うかであり、救われているか否かの違いも本願を信じるか疑うかの違いのみです。ですから、今本願を聞き受ければ今往生が定まる、今助かるのです。何年、何十年と聴き続け、活動し続けなければならない教えではないのです。

「どう聞けば」も「どう信じたら」もありません。「助けるぞ」と仰っているのだから、その仰せを仰せのままに受けるだけです。高森教の大好きな無条件服従です。高森教では高森顕徹会長や上司という「」には無条件に従えと言われるものの、阿弥陀仏の仰せ、南無阿弥陀仏という「」に無条件に従えとは教えられません。教えられても、「そこまでは」とか何とか言って「」へ無条件服従させているのが実態です。


このブラジルの会員さんは、親鸞会の邪義をあまり聞く機会が無かったおかげで、阿弥陀仏のお慈悲をそのまま受け容れられた方なのかも知れません。ただ、それにしては念仏に関する記述が全く無く、先ほど申し上げたように「ひらがな」を勉強中の人が書いた文章とは思えないので正直疑問です。何らかの救いに遇って喜んでいる人は、華光会や他宗教でも沢山見られます。すごい表現で喜びを語っている人もあります。ただ、浄土真宗の救いは「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(歎異抄)であって、喜びの大小ではなく本願の信疑が問題です。会員の皆さんは、所詮は皆さんを繋ぎ止めるには体験談を出すしかない体験至上主義の親鸞会とはさよならし、本当の浄土真宗を信じ念仏して頂きたいと思います。

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

会員の皆さんの多くは、「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」があると思っていることと思います。そして、「聞」に至るまでは容易ではなく、真剣必死に高森顕徹会長の話を「聴」き続け、また活動し続けることによってようやく到達できるように考えているのではないでしょうか。これ、完全な間違いです。そもそも、

・「聴」という聞き方と、「聞」という聞き方がある
・「聴」とはこのような聞き方である
・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある


親鸞会ではこのようなことを教えられますが、では親鸞聖人や蓮如上人はどこにこんなことを教えられていますか? そうです。これらは聖教上に全く根拠の無い、高森顕徹会長の創作教義なんです。


親鸞聖人や蓮如上人は、本願成就文にある「聞其名号」の「」についてはこのように教えられています。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(「信文類」経釈文自釈)

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(『一念多念証文』)

されば『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(『御文章』1帖目15通)

ところが、「聴聞」ということを「聴」と「聞」とに分け、「聴」とはこのような聞き方、「聞」とはこのような聞き方だと教えられているかと言えば、祖師、蓮師の上には1箇所もありません。


一応、真宗でも

『真宗の味わい』聴 と 聞
『手品師』おはたらき

などにあるように、「聴聞」の「聴」とはこのような聞き方、「聞」とはこのような聞き方だと説明している人は無くはありません。ただそれは漢和辞典に書かれている意味を元に、真宗の本願力回向の教えに基づいての解釈であります。読まれればお分かりかと思いますが、浄土真宗の重要な教義を見事に表現されています。

ところが、真宗に無知な高森顕徹会長は、漢和辞典の意味もわきまえず、また本願力回向の教えも知らずに、どこからパクってきたのか知りませんが自身の著書にてこのようなことを堂々と書いています。

 先ず、聴というきき方は、ただ耳からきいて頭で合点しているようなきき方を言います。2+2は4、4+4は8、というように、きいて納得している状態をいいます。
 庄松同行が「合点ゆかずば合点ゆくまでききなされ、きけば合点のゆく教え、合点したのは信ではないぞ、それは知ったの覚えたの」と言っていますが、このようなきき方を聴といいます。

(中略)

 では、聞というのはどんなきき方かと申しますと、心のドン底へ阿弥陀仏のジカの呼び声が響き亘るきき方をいいます。
(『こんなことが知りたい②』p.154~p.155)

これと同様のことが『親鸞会公式ホームページ』聞即信とは、どういうことかにも載っています。「聴」についての説明はほぼ同じですが、さすがにこの説明ではマズいと思ったのか、公式ホームページ版では「聞」についての説明が『こんなことが知りたい②』とは異なっています。

 この驚天動地の一念の体験を聞即信というのですから、この阿弥陀仏の御声をジカに聞くまで、聞きぬきましょう。(『こんなことが知りたい②』p.157)

であったのが、公式ホームページ版では「「聞」と言うは・・・」と信文類のお言葉を挙げ、

絶対動かぬ逆謗の屍そのままが、不可称不可説不可思議の願力に動かされた一刹那、娑婆往来八千遍、種々の善巧方便は、私ひとりのためでありましたと、弥陀の本願の生起・本末に疑心が晴れ(信)、大安心大満足になったのを、聞即信といわれるのです。
 聞即信まで聞き抜きましょう。
(公式ホームページ版)

と説明しています。どちらにしろ、とにかく高森顕徹会長の話を真剣に何十回、何百回、何千回と「聴」き続け、その最果てに「聞」と、阿弥陀仏の御声が心のドン底へ、ジカに聞こえる聞き方をするかのように説かれています。何十年「聴」き続けても一向に「聞」と聞けないでいる現実と、

 聴聞ということは、なにと意得られて候やらん。ただ耳にききたるばかりは、聴聞にてはなく候。そのゆえは、千万の事を耳にきき候とも、信得候わぬはきかぬにてあるべく候。信をえ候わずは、報土往生はかなうまじく候なり(一宗意得之事)

“聴聞ということを、どう思っていられるだろうか。ただ、耳できいて理解し合点しているだけでは、それは聴聞とはいえないのである。たとえ千座万座きいても、信心を獲得しなければ聞いたことにはならない。信を獲なければ、弥陀の浄土へは往けないのである”


の言葉がそれを助長しています。なお、親鸞会が根拠としている『一宗意得之事』ですが、

各学僧の評価の 揺れが大きい談義本が、親鸞撰『南無之釈』・ 覚如撰『真宗意得鈔』・ 存覚撰『持信記』・ 蓮如撰『一宗意得之事』・ 蓮如撰『真宗教要鈔』の五つであり、今日ではいずれも各宗主や存覚の撰述ではなく後の創作であることが判明しているものである。【『宗教研究』87巻別冊(2014年)】真宗談義本における教学理解の特徴について

とのことです。後の創作なのかどうか、いずれにしましても、親鸞会の説明は根拠に基づかない「珍らしき法」です。独自の創作教義をもって浄土真宗とか、親鸞聖人の教えなどと言わないでもらいたいものです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード