【考察】念仏の勧めについてⅡ(7)
いつの時代、どこの国でも、保守と革新と言いますか、やはり何か新しいことを発そうとすると、必ず旧勢力がそこに立ちはだかるものです。興福寺奏状では、まず
第一 新宗を立つる失
を挙げて正統な論拠を示すことなく、勅許も得ずして、新しい宗派を立てることはおかしいという非難に始まり、全九箇条に亘って徹底的に浄土宗を非難攻撃しています。浄土宗の教義に関しては主に
第四 万善を妨ぐる失
第六 浄土に暗き失
第七 念仏を誤る失
の三箇条ですが、他条にも所々、諸善を捨てて専修念仏はおかしいということに触れています。また、専修念仏を信奉する一部の者達による非常識な言動についても述べられています。このように、法然の説くところは教義的にも、それを信奉する人々の倫理的な側面から見ても仏教ではない、こんな教えが世に弘まったら国の終わりだ、そうなる前に何とかしてほしいと訴えています。
そうやって、浄土宗誕生からわずか30年余りで起こった専修念仏の大弾圧事件がかの承元の法難です。その思想的根拠となったのが興福寺奏状です。更にそこから20年後には、嘉禄の法難が起きています。その原因となったのが延暦寺奏状です。その他にも浄土宗、法然聖人の教えは何度も窮地に立たされ、多くの念仏者が死刑や流刑といった極刑に処されたり、今では考えられない暴力を振るわれたりと、様々な迫害を受けました。
なぜこうも執拗に浄土宗、法然聖人の教えが弾圧されたのでしょうか。それは教義的に言えば
法然の教えは仏教ではない
と見做されたからです。特に聖道の修行である諸善万行をことごとく雑行と名づけて廃し、どんな愚かな者もただ称名念仏の一行のみで往生できると主張したことが、彼らにとって最も許せないことであったに違いありません。最下の悪人でも行ずることのできる称名念仏という劣行をもって往生の行と定め、仏教に広く説かれる諸善万行を捨てしめることは謗法であり、断じてこんな教えは仏教ではないと、激しい怒りを買ったわけです。
それに対して親鸞聖人は、いや、法然聖人の教えこそ真実の仏教だと。それを証明しようじゃないかと『教行証文類』、正確には『顕浄土真実教行証文類』を著されたのでしょう。この題号には、
ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
と「後序」の文にある如く、時代が経るについて滅びゆく聖道門の教行証に対して、どんな時代のどんな人も平等に救われる浄土門の教行証があるんだ、これこそ真実の仏教だ、これはお師匠様の法然聖人や親鸞が勝手に言っていることではなく、お釈迦様を始めこれまでインド、中国、朝鮮、日本に出られた高僧知識方が仰っているんだ、そのことを経、論、釈の文を集めて証明した書がこれだ、という意味が込められていると推察します。
では、どうしたら法然聖人の教えこそ真実の仏教だと証明することができるでしょうか。お分かりのように、聖道諸宗からは「諸善を捨てて専修念仏、称名念仏の一行」という行を否定されています。これに対して、法然聖人の教えの真実性を明らかにするためには、専修念仏、称名念仏の一行こそが真実の仏教であることを証明する必要があったのです。
仏教と言えば教行証です。存覚上人はこれについて
「教行証」とは、いわゆる次の如く所依・所修・所得の法なり。霊芝の『弥陀経義疏』に云わく「大覚世尊一代の教は、大小殊なるといえども、教理行果を出でず。教に因りて理を顕わし、理に依りて行を起こし、行に由りて果を克す。四法にこれを収むるに鮮〈すこ〉しきも尽くさざることなし」已上。教行証と教理行果と、その義は大いに同じ。中に於いて教行の二種は全く同じ。理はこれ教に摂す。彼の『義疏』に云わく「理は即ち教の体なり」。即ちその義なり。証は即ち果なり。果に近遠あり。近果は往生、遠果は成仏なり。証に分極あり。分証は往生、究竟は成仏なり。その義は同じなり。(『六要鈔』巻一之一)
と示されています。釈尊一代の教えは、教理行果、すなわち教行証を出ません。
行の無い仏教はありません。では聖道門の様々な行に対して、浄土門の行は何かと言ったら念仏です。中でも法然聖人が正定の業と仰り、専らにせよと勧められているのは難しい実相の念仏や観想の念仏、また観像の念仏ではなく、阿弥陀仏の名号を口に称える口称の念仏、称名念仏の一行です。
どうして釈迦一代の勝行をことごとく雑行と捨てて、最も浅劣な称名念仏一行と言うのか
聖道諸宗の言いたいことを一言におさめたらこれでしょう。これをどうしても経、論、釈の上で正しい仏教なんだと証明する必要があったのです。
【参照】
『Wikipedia』興福寺奏状