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信心を獲るということと、この世の幸福感の関係について

この前、

『安心問答』「阿弥陀仏に救われると、「この世の利益きわもなし」というご和讃と合わせると、大変な幸福感に包まれるように思っていました。しかし、そうでもないという人の話を聞くと実際のところはどうなんだろうと思います。」(頂いた質問)(レンタルなんもしない人について)

を読みました。私もかつては信心を獲るということと、この世の幸福感について随分と疑問を抱いていました。親鸞会では、阿弥陀仏に救われると「絶対の幸福」になるだとか、それはたとえ死が来ても崩れない最高無上の幸福だとか聞いていましたし、他力の信心を顕す「広大難思の慶心」については

広かったぞー! 大きかったぞー! 想像を絶する大きな慶びの心が起きたぞー!

などと説明を受けていましたから、救われた暁にはさぞ素晴らしい世界に出られるのだろうと想像していたものです。毎日、生活の瞬間、瞬間が「生まれてきてよかったー!」「生きてきてよかったー!」という生命の歓喜に溢れ、質問した方の言葉にもあるように「大変な幸福感に包まれるように」思っていました。


ところが、実際は本願の仰せを信受させて頂いた以外は何も変わらないと言っても差し支えないほど何も変わらないので、当初は想像していたこととのギャップに戸惑いました。

確かに後生、往生の心配は阿弥陀仏によってすっかり取り払われ、いつどのように命終わっても我が往く先は安養の浄土であると慶ぶことを許されてはいます。

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。『末灯鈔』1通

されば聖人の仰せには、「来迎は諸行往生にあり、真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。『御文章』1帖目4通

とあるように、只今本願の仰せを疑い無く信受している念仏の行者は、この世は摂取不捨の利益にあずけしめられ、この世の命が尽きると同時に本願の実報土である滅度に至るという無上の功徳を与えられています。

ところが、申し訳ないことにそのように慶ぶ心は実におろそかで、本願や念仏、浄土よりも関心は世事ばかり。順境には感謝しても、逆境に見舞われると怒り憎しみ、言い訳や繰り言は絶えず起こってまいります。自分の中には仏法らしいものはなく、あるのはひたすら煩悩悪業のみです。摂取不捨の利益にあずかり、真の仏弟子と讃えられる身になり、間違いなく往生の大益を獲させて頂くというのに、何か気に入らないことがあると造作も無く心の底から不平不満が噴き上がってきます。そのような時にお念仏申しても実に味気ないものです。

とてもではないが、会員時代に想像していた「絶対の幸福」なるものに自分はなっていません。私が本願を信じ念仏申す身にさせて頂いた当時は親鸞会で得た知識がほとんどで、親鸞会教義にかなり染まった状態でしたから、後生の心配はすっかり阿弥陀さまにおまかせして安心したものの、全くと言っていいほど変わらない現実に疑問を抱き、そして現実の苦しみに喘いでいました。


これについては先ほどの安心問答に宮田先生がその答えをお書きになられています。以下引用。

これは、阿弥陀仏の救いについての誤解からくるものです。阿弥陀仏の救いとは生死を繰り返す私をそこから出て離れさせ浄土に往生させ、仏にするというものです。その意味では、病気や人間関係の解決をする仏さまではありません。


この通りです。私は阿弥陀さまの願いを聞かずに、阿弥陀さまに私の願いを聞かそうとしていた。阿弥陀さまは、自分の願いを満たしてくれる仏さまではなかった。「絶対の幸福」とは、言ってみれば私の願い、私の欲望です。であれば、そうなれないのは当然です。本願に私を「絶対の幸福」にするとは誓っていません。

本当に(至心)、疑いなく(信楽)、我が国に生まれることができると思って(欲生我国)、わずか十遍ほどでも我が名を称える者を(乃至十念)、もし我が浄土に生まれさせることができなければ(若不生者)、私はさとりを得た者とは言えません(不取正覚)。

こう誓われているのに、俺は本願に何を求めていたのか。何が不足でもっと幸福感が増してもよさそうなものだ、もっと不幸な思いをしなくなってもよさそうなものだと思っておったのか。自分がみじめなのは自分の今までの業の報いではないか。今までの業が悪すぎたから現在苦果に喘いでいるのではないか。

存覚上人は『持名鈔』にこのように仰っています。

ただし、今生をまもりたまふことは、もとより仏の本意にあらず。かるがゆゑに、前業もしつよくは、これを転ぜぬこともおのづからあるべし。後生の善果を得しめんことは、もつぱら如来の本懐なり。かるがゆゑに、無間に堕すべき業なりとも、それをばかならず転ずべし。しかれば、たとひもし今生の利生はむなしきに似たることありとも、ゆめゆめ往生の大益をば疑ふべからず。いはんや現世にもその利益むなしかるまじきことは聖教の説なれば、仰いでこれを信ずべし。ただふかく信心をいたして一向に念仏を行ずべきなり。

今生を護るというのは仏さまの本意ではありません。ですから、過去の悪業が強ければ、これを転ずることができないということもあります。しかし後生の善果を得させることは如来の本懐であるから、無間地獄に堕する業であっても必ず転じて下さいます。だから、たとえ今生の利益が空しかろうとも決して往生の大益を疑ってはなりません。まして現世にもその利益が空しくないことは聖教に教えられている通りですから、仰いでこれを信じなさい。ただ本願の仰せをそのまま受け容れて一向に念仏を行じなさいというのです。


信心を獲るということと、この世の幸福感の関係については、必ずしも連動しません。信心を獲たから幸福感が増すとか、逆に幸福感が無いから信心を獲ていないとは言えません。本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れたのが信心を獲るということです。我が心の良し悪しで信を獲たかどうか決まるのではありません。反対に、我が心の良し悪しで阿弥陀仏の救いを計らうことを自力というのです。

ただ、南無阿弥陀仏という幸せに出遇わせて頂きながらこれを慶べないとしたら実にもったいないです。幸福を感じられないことについては相応の原因があるのでしょうが、とりわけ法の慶びは、法に触れてこそです。常に教えをたしなみ、嬉しいにつけ悲しいにつけ、お念仏を申してゆくことが肝心であると思います。

さて、これはこれとして、まだ疑問は残ります。それは、最初に挙げた『安心問答』への質問者のように、現益を得ると説かれていることと幸福感との関係です。これについては、長くなりましたので、記事を改めて書きたいと思います。
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【考察】念仏の勧めについて(34)

前回、法然聖人の御文を解釈された『尊号真像銘文』のお言葉を紹介しました。長くなるので、御文と現代語訳は前回の記事を参照頂くとして、この記事では省略します。


さて、信心正因称名報恩にのみ拘泥している人には理解できないかも知れませんが、親鸞聖人は

安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。


と教えられています。「仏名をとなふる」という念仏は「安養浄土の往生の正因」であって、それは「浄土に生れて仏にかならず成るたね」「かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」であるというのです。念仏は決して信心のオマケでもなければ、当然無意味なものでもありません。

現今の真宗では、あるいは他宗との教えの差別化を図るためか、あるいは称名正因の異義に陥ることを防ぐためか、積極的に念仏を勧める方が少ないと見受けられます。聞く方も聞く方で、未信の私の称える念仏は自力だからダメだとでも思っているのでしょうか、どうも称名の声が小さいように思えます。勿論あからさまに人に聞こえるように大きい声で称える必要はないし、説法中に他の人の聴聞を妨げるような称名をすることは如何かとも思います。しかしながら、称名の声が絶えるとまで言いませんが、細々となっている感は否めません。

確かに信心が「菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたね」です。ただ、それがどのような信心なのか分からず、とにかく阿弥陀仏の方より賜る信心であるという程度の認識であれば、どうすれば、どう聞けば信心が獲られるかと求め彷徨う信心乞食となり、他宗の人が「念仏を称えて助かろう」というのが「信心を頂いて助かろう」となっただけで、構造的には何も変わらないということになってしまいます。


信心の内容は行です。行は「仏名をとなふる」という念仏です。南無阿弥陀仏と称えれば、南無阿弥陀仏と聞こえてきます。その称え聞こえる南無阿弥陀仏は「かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」であるということを疑いなく受け容れたのが信心です。そうした信心が「無上涅槃をさとるたねなりとしるべし」なのです。

いくら念仏が「かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」であっても、私が受け容れなければ私が「無上涅槃をさとるたね」とはなりません。念仏は万人に平等に与えられている救いの法ですが、これを受ける機が信受しないようでは救いは成立しません。そこで、念仏の法を受け容れる信心が正因と言われるのです。

だからといって、法である念仏は要らないとか、称えても称えなくてもどっちでもいいとか、そもそも称えよと仰っていないということでは決してありません。親鸞聖人にとっては

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

は常識です。というか、それ以外の解釈をする人が真宗にいるとしたらその人が非常識です。非常識の証拠には、そのように解釈している根拠が一つも存在しません。もし根拠があるという方は、御提示願います。


親鸞聖人は、同じく法然聖人から「念仏一行」の教えを受け、同じように弥陀一仏を礼拝し、「念仏一行」を称えて往生を願う同門の信心を、自力と他力に分けられたのです。親鸞聖人が問題にしているのは、何度も言っているように「念仏一行」を称える際の信心なのです。

法然聖人の勧化によって、教えを受けた人々は聖道門を捨てて浄土門に入り、雑行を捨てて正行を修し、更に助業も傍らにして、「念仏一行」を称えて阿弥陀さまに助けて頂こう、浄土往生させて頂こうとなった。ところが、「念仏一行」を称える信心が、雑行を修める時のような定散自力心では真実報土に往生できず化土にとどまるとして、その自力疑心を誡め、真実信心を勧めておられるのです。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」は当たり前、往生の行として「念仏一行」を修めるのも当たり前、そういう前提での信心正因の教えなのです。法然聖人の教え、念仏為本の教えを承けての上の信心為本の教えなのです。この世の楽しみにうつつを抜かして生死を離れようとも思わない、正行と雑行の区別もついてない、浄土往生を願う気もない、念仏の一声も称えない、そういう人相手の信心正因の教えじゃないんです。そういう人にはあるいは無常や罪悪ということを分からせ、あるいは後生こそ一大事であると知らせ、往生を願わせて「念仏一行」に向かわせないといけないでしょう。

浅薄な知識、考えで当時の時代背景もろくに知らずに『御文章』を読み、信心正因、信心為本とあるからと何とかの一つ覚えみたく信心正因を強調する。一方で『御文章』には信前の念仏の勧めが顕わになく、それでいて「ただ称名していても往生できない」等とあるものだから、信心さえ獲ればいい、念仏は要らない、念仏は往生の役に立たないなどと読み誤っている人が一定数いるんじゃないでしょうか。


こんなことを言っているとキリがありませんが、とにかく、念仏は私の上に現れていながら決して私の煩悩妄念から出たものではなく、また自分で選んで称えているのでもありません。阿弥陀仏が「お願いだから我が名を称えて、我が浄土に生まれてきてくれよ」と大悲を込めて与えられている、弥陀選択による、弥陀回向の法なのです。称え聞こえる南無阿弥陀仏の声は、

我をたのめ、我にまかせよ、助けるぞ、必ず浄土に迎えるぞ、だから安心してまかせなさい

と喚び続けておられる招喚の勅命であり、その勅命を計らいをまじえずに受け容れたのが信心です。この信心も自分で起こしたものではなく、南無阿弥陀仏の声が私に届いて起こさしめられた信心ですから、これを本願力回向の信心というのです。念仏も信心も、共に阿弥陀仏より回向せられる行信ですから、私の方で用意するものは何もありません。ただ本願の仰せを仰せのままに受け容れ、仰せの通りにお念仏申すのみです。

法然聖人は、

たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。『西方指南抄』

と教えられたとあります。煩悩や罪障、我が身の罪悪がどうということは問題とせず、ただ口に南無阿弥陀仏と称えなさい。南無阿弥陀仏と称えたら、必ず南無阿弥陀仏と耳に聞こえてきます。その南無阿弥陀仏と聞こえる声について往生が決定したと思えというのです。それは私の「称える」という行為によって往生が定まるのではなく、「称えられる」南無阿弥陀仏の力、南無阿弥陀仏のはたらきによって往生が定まるということでしょう。

この可聞可称の声を親鸞聖人は「本願招喚の勅命」と受け取ってゆかれたのだとすれば、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

などという僻事が浄土真宗の布教使の口から出てくるというのは有り得ないことです。



【参照】
『用管窺天記』こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし
『WikiArc』本願招喚の勅命

【考察】念仏の勧めについて(33)

親鸞聖人は「行文類」にて、法然聖人が著された『選択本願念仏集』という題号と、

「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」

という標宗の文、そして『選択集』の結論である三選の文を引文し、念仏が真実の行であることを証明されています。『教行証文類』は『選択集』の法義の真実性を顕された書物のはずなのに、『選択集』からの引文はここだけ、これだけです。一見、不思議に思えるこのことによって、「行文類」が選択本願念仏の本質を明らかにし、その法義の真実性を証明するためのものであったことが分かります。


さて、親鸞聖人は『選択集』の題号と標宗の文、三選の文、及び信疑決判の文を『尊号真像銘文』に引いて解説しておられます。

『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。

 またいはく、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかに疾く生死をはなれんとおもへとなり。「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・浄土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。「選入浄土門」といふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法のなかに選びて浄土門に入るべしとなり。

「欲入浄土門」といふは、浄土門に入らんと欲はばといふなり。「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。「選応帰正行」といふは、選びて正行に帰すべしとなり。「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。 「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。

 またいはく、「当知生死之家」といふは、「当知」はまさにしるべしとなり、「生死之家」は生死の家といふなり。「以疑為所止」といふは、大願業力の不思議を疑ふこころをもつて、六道・四生・二十五有・十二類生[類生といふは一、卵生 二、胎生 三、湿生 四、化生 五、有色生 六、無色生 七、有相生 八、無相生 九、非有色生 十、非無色生 十一、非有相生 十二、非無相生]にとどまるとなり、いまにひさしく世に迷ふとしるべしとなり。

「涅槃之城」と申すは、安養浄刹をいふなり、これを涅槃のみやことは申すなり。「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。


【現代語訳】
『選択本願念仏集』というのは、 法然上人が著された書物である。 「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。

 また 「夫速欲離生死」 というのは、 速やかにはやく迷いの世界を離れたいと思えというのである。 「二種勝法中且閣聖道門」 ということについて、 「二種勝法」 とは、 聖道門と浄土門という二つの法門である。 「且閣聖道門」 というのは、 「且閣」 とはまずさしおけということであり、 聖道門をさしおくがよいというのである。 「選入浄土門」 というのは、 「選入」 とは選んで入れということであり、 あらゆる教えの中から浄土門を選んで入らなければならないというのである。

「欲入浄土門」 というのは、 浄土門に入ろうと思うならということである。 「正雑二行中且抛諸雑行」 というのは、 正行と雑行の二つの中から、 さまざまな雑行を捨ててさしおくがよいというのである。 「選応帰正行」 というのは、 正行を選んでこれに依らなければならないというのである。 「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」 というのは、 正行を修めようと思うなら、 正定業と助業の二つの中から、 助業をさしおくがよいというのである。 「選応専正定」 というのは、 正定業を選んでひとすじに修めなければならない。 「正定之業者即是称仏名」 というのは、 正定の因となる行いは、 すなわち阿弥陀仏の名号を称えることであるというのである。 正定の因というのは、 必ずこの上ないさとりを開く因ということである。 「称名必得生依仏本願故」 というのは、 名号を称えると間違いなく安楽浄土に往生することができるのであり、 それは阿弥陀仏の本願のはたらきによるからであるというのである。

 また 「当知生死之家」 ということについて、 「当知」 とはよく知るがよいということであり、 「生死之家」 とは生れ変り死に変りし続ける迷いの世界のことをいうのである。 「以疑為所止」 というのは、 大いなる本願の思いはかることのできないはたらきを疑う心によって、 六道・四生・二十五有・十二類生という迷いの世界にとどまるというのであり、 今に至るまでの長い間このような世界に迷い続けてきたと知るがよいというのである。

「涅槃之城」 というのは、 安養浄土のことをいうのであり、 これは涅槃の都ということである。 「以信為能入」 というのは、 真実信心を得た人は阿弥陀仏の本願に誓われた真実の浄土に往生することができると知るがよいというお言葉である。 信心はさとりを開く因であり、 この上ない涅槃に至る因であると知るがよいというのである。


ここで、

「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。

信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。


とあります。「仏名をとなふる」という念仏と、信心とは、共に「無上涅槃のさとりをひらくたね」であるというのです。最初にもあるように念仏は「安養浄土の往生の正因」であり、「浄土に生れて仏にかならず成るたね」ですから、念仏正因でもあり、信心正因でもあるということです。信心正因、信心正因と真宗ではとかく信心が強調されますが、その信心とは

本願の念仏が「浄土に生れて仏にかならず成るたね」「かならず無上涅槃のさとりをひらくたね」であると疑いをまじえずに受け容れたこと

です。我が身の上には迷いを離れられるだけのものは無い、我が往生はひとえに念仏(南無阿弥陀仏)によると、如来の本願念仏に身も心もすっかりまかせた念仏の信心であって、念仏と無関係な信心ではありません。

そして、「御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり」と教えられています。その理由が

仏の本願によるがゆゑなり

です。私が称えたから念仏が往生の行になるのではありません。また称えたから往生するのでもありません。阿弥陀仏が念仏一行を往生の行と定め、「名号を称える者を極楽に迎える」と誓われている。その本願は既に成就しており、その本願のはたらきによるからだというのです。この道理を善導大師は

「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。 『往生礼讃』

と教えられ、法然聖人はこの御文を『選択集』本願章に引いておられます。

法然聖人は度々この御文を用いられています()。以前にも紹介しましたが、親鸞聖人が法然聖人の肖像画を写すことを許された時、法然聖人は絵像の讃として自らこの御文を書いておられます。自己のことを滅多に語らなかった聖人ですが、これについては克明に、そして感動的に記されています()。


もし「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」なら、親鸞聖人はこんなことを教えられますか?



【参照】
『飛雲』「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」が絶対に理解できない高森顕徹会長

阿弥陀さまが選択されたのが称名念仏一行でよかった

消費増税前後の駆け込み需要のために物量が膨らみに膨らんで、先週から仕事づめで休憩時間も中々取れない状況が続いています。ホントお前らいい加減にしろよと言いたくなります。

帰ったらもうクタクタで、なんにもできないと言っていい位なんにもできないです。

しかし、お念仏を申すことなら通勤中でも、車を運転しながらでも、軒先でお客さんを待っているほんの少しの間にもできます。

もし造像起塔(仏像を造り、塔寺を建てること)や智慧高才、多聞多見(仏の教えを多く見聞して学問があること)や持戒持律(戒律を守って犯さないこと)、布施や忍辱、精進や禅定、発菩提心等を阿弥陀仏が往生の行と定めていたら、俺みたいな奴は絶対助からなかった。

以下、『選択本願念仏集』本願章より。

第十八の念仏往生の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは布施をもつて往生の行となす土あり。あるいは持戒をもつて往生の行となす土あり。あるいは忍辱をもつて往生の行となす土あり。あるいは精進をもつて往生の行となす土あり。あるいは禅定をもつて往生の行となす土あり。あるいは般若[第一義を信ずる等これなり。]をもつて往生の行となす土あり。あるいは菩提心をもつて往生の行となす土あり。あるいは六念をもつて往生の行となす土あり。あるいは持経をもつて往生の行となす土あり。あるいは持呪をもつて往生の行となす土あり。あるいは起立塔像、飯食沙門および孝養父母、奉事師長等の種々の行をもつておのおの往生の行となす国土等あり。あるいはもつぱらその国の仏の名を称して往生の行となす土あり。

かくのごとく一行をもつて一仏の土に配することは、これしばらく一往の義なり。再往これを論ぜば、その義不定なり。あるいは一仏の土のなかに、多行をもつて往生の行となす土あり。あるいは多仏の土のなかに、一行をもつて通じて往生の行となす土あり。かくのごとく往生の行、種々不同なり。

つぶさに述ぶべからず。すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。

(乃至)

答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。


阿弥陀さまが選択されたのが称名念仏一行でよかった。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

『飛雲』との公開法論からすでに7年以上逃亡し続けている高森顕徹会長が講演している『「二千畳」がギネス世界記録™・世界最大の畳部屋に認定』だってさ

『親鸞会公式ホームページ』【令和元年9月】親鸞会館 二千畳の行事案内(7月22日配信)

を境に、親鸞会の公式ホームページでは令和元年10月以降の行事の案内がありません。度重なる高森会長の講演中止に、案内を出せずにいるのでしょう。代わりと言っては何ですが、お知らせとして

「二千畳」がギネス世界記録™・世界最大の畳部屋に認定

という記事が紹介されています。

9月23日、審査の結果発表には、地元の射水市民はもちろんのこと、県内外や、地元の国会議員、市議会議員、町内会の方々、複数のメディアも取材に訪れ、大勢の観衆で会場はいっぱいとなり、熱気であふれました。


と報道してはいますが、所詮は「ギネス記録認定」という名利のためであって、往生の一大事のために人々が集まって熱気であふれたのではありません。それに、たとえ往生の一大事のために人々が集まったとしても、教えが親鸞聖人のそれとは異なりますから、人々は何も無い山に宝を採りにいくようなものです。いや、宝の山に入ったと思わせて持っている宝を根こそぎ取られると言った方が適切かも知れません。

親鸞会の教えは無常と罪悪で聞く者を責め立てて後生を人質に取り、解決のためにと言っては組織拡大活動に利用するというものです。決して、会員や聞く人々の獲信・往生を目的としているとは言えません。その証拠に、親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張とは真反対のものが少なくないです。

それについて今一度、『飛雲』より引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

ちなみにギネス世界記録公式認定員の方々、またギネス記録ということで親鸞会について知ったという方々、先日認定を受けた親鸞会館で講演している高森顕徹会長は、『飛雲』との公開法論からすでに7年以上逃亡し続けています。こういうことも知っておられた方がよろしいかと思います。


ところで、去る9月15日は、高森顕徹会長は午後から講演したと新たな情報を頂きました。午前中は講師部員による話があったのか、ビデオ法話だったのか、アニメ映画の上映だったのか分かりませんが、一日を通しての講演ではなかったようです。このことから、一つには高森会長はもう体調的に一日を通して講演は難しいこと、二つには最近の親鸞会の動きから、ようやく新体制に向けて移行しつつあることが伺えます。

しかし、あれだけ高森会長一辺倒でやってきたのに、会員はこうした事態をどう見ているのでしょうか。また、特に古参の会員は、高森会長のコピー劣化版の講師部員の話をどのように聞いているのでしょうか。

親鸞会ではたすけたまふ法が皆無に等しく、それでいて講師部員は未信の者ばかりですから、いくら二千畳で毎日聴聞できるとなっても、聞く人は真宗の肝要である本願の念仏と信心はさっぱり分からないままでしょう。会員の皆さんには、早く自分達は組織拡大活動に利用されているだけだという事実に気付いて脱会し、正しい本願を聞かせて頂いて、本願を疑いなく信じ念仏されるようになって頂きたいです。

もっともっと哀れな親鸞会会員

消費増税前の駆け込み需要がヤバいです(´-ω-`) たかだか2%の増税くらいでこれだけ荷物が集中するとは、多くの国民の底知れぬ欲望を垣間見る思いです。尤も、そうなるのは分かり切ったことですから、会社も人員を集中する段取りをすればよいものを、そうせずにいつもの戦力で回そうとしているのですから阿保です。毎度、無能な上の連中と国民の深い欲望に振り回される物流業界の末端人員は哀れです、私を含めて。


ところで、二千畳で一般講師も話をするようになったことは以前紹介しましたが、始まったのは今年の7月13日かららしいです。日程表を見せて頂きましたが、午前と午後で話があり、違う講師部員がそれぞれの演題で話をしているようです。講師の中には大学時代にお世話になった先輩の名前もありました。なつかしいと思ったと同時に、未だに高森教を真実の宗教と妄想誤解して不浄説法しているのかとため息が漏れました。

ご存知の方がほとんどでしょうが、話をする講師部員達は高森会長曰く

十九願の入り口にも入っていない

者達です。高森会長から聞いていてもダメなのに、そんな未信の講師達の話を聞いて信心獲得なんてできるんですかね? 「絶対の幸福」だとかいう欲望に狂って真実の報土を願わず、逆に高森一族の深い欲望に振り回され、エセ真宗の未信の講師による不浄説法を聞き続ける会員はもっともっと哀れです。

【考察】念仏の勧めについて(32)

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い9より。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
言うまでもなく、親鸞聖人は法然上人から阿弥陀仏の救いの教えを聞かれて、救われられています。

その法然上人の教えられた結論が『選択本願念仏集』にある三選の文です。それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

(現代語訳)

そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

どうすれば救われるのか、法然上人・親鸞聖人が具体的に仰ったお言葉です。

簡潔に言いますと、

Q.どうすれば救われますか?

A.聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

対してA先生。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない
念仏を称えて往生は親鸞聖人の教えではない


信心を「我にまかせよ」と表現することは賛同しますが、なぜ「念仏を称えよ」ではないとなるのか、不明です。七高僧方は勿論ですが、親鸞聖人以後も、どなたとしてこのように信心と念仏を対立関係で見て、称名念仏を仏の本意ではないように教えている方の言葉は見受けられません。


称名念仏は阿弥陀仏の「本願の行」です。

称名念仏はこれかの仏の本願の行なり。『選択集』五正行

それを法然聖人は「選択本願念仏」と仰っていますが、「本願の行」である称名念仏は

「選択」とはすなはちこれ取捨の義なり。「選択と摂取」

とあるように、諸善の中から他の一切を選び捨て、ただ一つ選び取られた行ということです。誰がそうされたかと言えば、他ならぬ阿弥陀仏ご自身です。阿弥陀仏が法蔵菩薩であった時、二百一十億の諸仏の浄土をご覧じて、布施や持戒、忍辱や精進、禅定や般若、菩提心や六念、持経や持呪、起立塔像、飯食沙門、孝養父母、奉事師長等の種々数多の行を全て選び捨て、ただ称名念仏一行を衆生往生の行として選び取られたのです。

すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。

このように、念仏は阿弥陀仏の選択された行だったのです。

それだけではありません。法然聖人は、「三選の文」の直前に八つの選択(選択本願選択讃歎選択留教選択摂取選択化讃選択付属選択証誠選択我名)があると言われ、

本願・摂取・我名・化讃、この四はこれ弥陀の選択なり。讃歎・留教・付属、この三はこれ釈迦の選択なり。証誠は六方恒沙の諸仏の選択なり。しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。

と、念仏は弥陀、釈迦、諸仏の選択であると教えられています。念仏こそは弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった行であるということです。それゆえ親鸞聖人は本願の念仏を「大行」と讃え、

選択本願の行

と言われて、「もつぱらこれを行ずべきなり」と念仏一行を勧められています。つまり親鸞聖人も

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

と解釈されているのです、『教行証文類』において。


ただし、勘違いしてもらっては困ります。念仏を勧めるというと、どうも自力念仏の勧めに聞こえる方があるようです。そういう方は、他力の救い、無条件の救いに私達の念仏を足して救いが成立するように思うようですが、親鸞聖人は、いわゆる現在の浄土宗で言われているような念仏を勧めておられるのではありません。

念仏は確かに私達の口に現れていますが、決して私達の煩悩妄念から出たものではなく、また私達の恣意的な行いでもなく、本願力によって与えられた行、本願力によって私達の上に顕現している如来行だったのです。念仏することは如来に「奉へ」ていることであり、如来のはからいにまかせていることと言えます。親鸞聖人は、このことを「自然法爾」の念仏と仰せられました。

念仏は称えて我が功徳とし、浄土に近づこう、往生をより確かなものにしようという自力の行ではなく、浄土より届いた本願力回向の行である。称え聞こえる南無阿弥陀仏は「我をたのめ、我にまかせよ」という大悲招喚の声なのだ。だから私達は本願のはたらきに身も心もすっかりまかせて、本願の仰せの通り念仏して成仏すべきである。このように、法然聖人が「念仏を称えよ」と仰せられた心を親鸞聖人が明らかにされたのです。それが

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(中略)しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。

という大行釈であり、

しかれば南無の言は帰命なり。(中略)ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。

の聖人独自の六字釈であり、

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

という決釈の御文でした。こうした本願の念仏が、法然聖人の仰せられた「本願の行」「選択本願念仏」であると親鸞聖人が明らかにされたのです。それを、何をどう誤読したら

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない
念仏を称えて往生は親鸞聖人の教えではない


と解釈できるのでしょうか。疑問は尽きません。

【考察】念仏の勧めについて(31)

本日は法然聖人の「念仏の一行」の勧めを

『飛雲』「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い8

より伺います。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
法然上人の御著書である『選択本願念仏集』には、10回以上も「念仏一行」と仰っています。つまり、法然上人の教えは、「念仏一行」の教えそのものなのです。
法然上人のお弟子であった親鸞聖人は法然上人のことを『正信偈』で

本師源空は、仏教をあきらかにして、

と、ここでは念仏という単語を出されずに仰ったのですが、それを蓮如上人は『正信偈大意』で

日本には念仏の祖師その数これおほしといへども、法然聖人のごとく一天にあまねく仰がれたまふひとはなきなり。これすなはち仏教にあきらかなりしゆゑなり。されば弥陀の化身といひ、また勢至の来現といひ、また善導の再誕ともいへり。

と解説なされています。日本における多くの「念仏の祖師」の中でも法然上人以上の方はないということで、法然上人も当然「念仏の祖師」だと表現なされています。

その法然上人の教えられた「念仏一行」の教えで、親鸞聖人が特に注目されたのが、

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって能入とす

です。
蓮如上人はこれを

生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり。また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり。されば『選択集』にいはく、「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信をもつて能入とす」といへる、このこころなり。

疑情」と「信心」で「生死輪転の家に還来る」か「寂静無為の楽に入る」か分かれる、いわゆる信疑決判です。(中略)「疑情」とは「念仏一行」を疑う心です。もう少し言葉を加えると、「念仏一行」で往生できるとは思えない心のことです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

10回以上も「念仏一行」と仰ってい」るのか~、と思って改めて調べてみました。以下、該当箇所を抜き出しますが、漏れているお言葉があればコメント等で教えて下さい。

なんがゆゑぞ、第十八の願に、一切の諸行を選捨して、ただひとへに念仏一行を選取して往生の本願となしたまふや。「勝劣と難易」

弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。「難易義」

初めに同類の助成とは、善導和尚の『観経の疏』(散善義)のなかに、五種の助行を挙げて念仏一行を助成すこれなり。「助正」

後には定散二善を廃して、念仏一行に帰す。「輩品開合」

ただ念仏の一行につきてすでに選びて讃歎す。「利益章」

これすなはちかの仏願に順ずるがゆゑに、念仏一行を付属す。「王本願」

また道綽禅師念仏の一行において始終の両益を立つ。「約対章」

ただ念仏三昧の一行をもつてすなはち阿難に付属し遐代に流通せしむ。「念仏」

ただ念仏の一行をもつて、すなはち後世に付属流通せしむ。「観仏三昧と念仏三昧の一経両宗」

三に選択付属といふは、また定散の諸行を明かすといへども、ただ独り念仏の一行を付属す。
しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。「結勧流通」

『選択集』はそれほど長い書物ではありませんが、確かに10回以上「念仏一行」という言葉を使われています。また「念仏一行」という言葉ではありませんが、ただ念仏「廃立」)、一向念仏、みな念仏「傍正」)、無上大利の念仏「無上功徳」)、まつたく念仏、殊に念仏、ひとへに念仏「特留章」)、ただ念仏の一法「結勧流通」)等々、それに近い言葉は多数見られます。そのように法然聖人が念仏の一行を勧められたのは、当然ですが

・弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる
・念仏の人みなもつて往生す


からでした。言葉を換えると

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

からでした。『歎異抄』にはそうした法然聖人の教えを

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

と表現されています。これに対する親鸞聖人の応答は

・よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり
・ただ念仏のみぞまことにておはします


です。これと同じことが「行文類」にて示されています。すなわち、

選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

という法然聖人の教えを引いて、

念仏成仏すべし

と親鸞聖人が応答されているのがそれです。『歎異抄』の応答と「行文類」の応答は、言葉は違えど同じであることが分かると思います。親鸞聖人は念仏の一行を勧められた『選択集』を

真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。後序」

とまで絶賛していますが、普通に考えたらそのような親鸞聖人が

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

などと、法然聖人と真逆なことを仰せられるはずがないこと位は小学生でも分かりそうなものです。

【考察】念仏の勧めについて(30)

法然聖人は、阿弥陀仏が「ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文」として第十八願と、それを釈した善導大師の文を挙げておられます。

弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文。
 『無量寿経』の上にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ」(第十八願)と。
『観念法門』に上の文を引きていはく、「もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名号を称すること下十声に至らんに、わが願力に乗りて、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
 『往生礼讃』に同じき上の文を引きていはく、「〈もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉と。かの仏いま現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生することを得」と。
『選択集』本願章

「我が名号を称することわずか十声の者をも必ず往生させる」本願であるという善導大師の釈をそのまま承けておられますから、法然聖人も

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

と解釈されていることは明らかです。その後、阿弥陀仏が一切衆生を平等に救うために、至って易く、それでいて最も勝れた行である称名念仏一行を往生の行として選び択られた経緯を細かに述べておられます。

「行じ易いということはそれほど勝れた行ではない」というのが、念仏に対するおおよその方々の見解ですが、「弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、みなことごとく阿弥陀仏の名号のなかに摂在」するから最勝の行であるとし、同時にあらゆる衆生を分け隔てなく一人も漏らさず救おうという平等の大悲から、誰でも、いつでも、どこでも行ずることができる至易の称名行のみを往生の行とし、これを私達に称えよと授けて下さったのだというのです。

であるから、私達が速やかに迷いの世界を離れようと思ったら、仏名を称することを専らにせよと法然聖人は仰せられています。こうした法然聖人の教えを結論的に言われているのが有名な「三選の文」です。

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

親鸞聖人は「行文類」の決釈の直前にこれを引かれています。

なぜ煩悩具足の凡夫が煩悩具足のままで、ただ南無阿弥陀仏と称えたくらいのことで往生できるのか。それは「仏の本願によるがゆゑなり」と仰っています。阿弥陀仏の本願に、「我が名を称える者を浄土に迎える」と誓われ、その誓い通りに本願が成就しているから、そうした本願に身をまかせて念仏する者は必ず往生できるというのが法然聖人の教えでした。


ところで、法然聖人は「念仏の人みなもつて往生す」る根拠に本願成就文を挙げておられます。

かくのごとく初め無三悪趣の願(第一願)より終り得三法忍の願(第四十八願)に至るまで、一々の誓願みなもつて成就す。第十八の念仏往生の願、あに孤りもつて成就せざらんや。
しかればすなはち念仏の人みなもつて往生す。なにをもつてか知ることを得る。すなはち念仏往生の願成就の文(同・下)に、「もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す」といふこれなり。
誓願成就

本願が成就してはたらいているんだから、その本願のはたらきにまかせて念仏する人はみなもって往生するんだというのです。法然聖人も大無量寿経の立場、本願成就の立場からこう仰っています。

願が念仏往生の願なのだから、念仏往生の願成就の文にも当然ですが念仏の意味があります。親鸞聖人は「信文類」では本願成就文の「乃至一念」は「信の一念」と解釈されていますが、『浄土文類聚鈔』や『三経往生文類』には真実行の根拠として本願成就文が用いられています()。本願成就の立場だからとて

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

とは言えないのです。


七高僧から親鸞聖人に至るまで、行、すなわち念仏を重要視し、これを用いられなかった知識方は一人もありません。「行文類」には念仏が真実行である根拠として、七高僧全ての文が引かれています。たいがいは一人とか二人とかの引文の中、ここだけは七高僧全てです。それだけでなく、三論の祖師嘉祥や法相の祖師法位、禅宗の飛錫の文まで引かれて「念仏は浄土真実の行だぞ、選択本願の行だぞ」と強調されているのです。

善導大師の主著は『観経疏』であり、法然聖人は『観経』由来の解釈が多いことは事実ですが、『観経』一辺倒の善導、法然でないことも事実です。善導大師や法然聖人は『観経』のみによってではなく、浄土三部経を中心に様々な経論釈の文によって念仏往生義を明かされています。そして、『大経』の本願から『観経』をご覧になられたのです。だから、釈尊の本意は、経に顕わに説かれている定散二善ではなく、隠微にあらわされている本願の念仏にあったと見抜かれたのです。

他にも、『往生礼讃』の末には浄土三部経の意訳の文を並べ、称名念仏による現世と当来の得益に言及されていますし、『選択集』では三経一論をもって浄土宗を立教開宗するということが明確に打ち出されています。また三選の文の直前に三経と『般舟三昧経』の意訳を引いて念仏は弥陀、釈迦、諸仏の選択であると八選択を顕され、

本願・摂取・我名・化讃、この四はこれ弥陀の選択なり。(中略)
しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。


と教えられています。これについて詳しくは林遊さんのコメント「八選択の釈意」をご覧下さい。


このようなことですから、親鸞聖人も浄土真実の行、選択本願の行である称名念仏一行を勧められています。これは根本を言えば阿弥陀仏が本願において「念仏称えよと仰っている」からです。念仏は弥陀の選択だからです。七高僧までは勿論、親鸞聖人の立場においてもこれは動きません。

【考察】念仏の勧めについて(29)

本日は法然聖人の教えを伺います。私は法然聖人ほど「念仏の一行」を強調された方はインド、中国、日本のどこを探してもおられないのではないかと思います。それは主著である『選択本願念仏集』という題号と、標宗の文を見ただけでも伺えます。親鸞聖人は「行文類」

『選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。

と、本願の念仏が真実の行である根拠として、後の『選択集』結論である三選の文と共に引文されています。

選択本願とは、『浄土真宗辞典』には

阿弥陀仏の四十八願の根本である第十八願において、衆生往生の行が選択されたという意。また、その第十八願を指して選択本願という。法然は『選択集』「本願章」において、称名念仏と諸行を「勝劣の義」「難易の義」(選択集 P.1207)によって論じ、選択の意義を述べている。 そして、衆生が修めるべき浄土往生の行について、難劣である諸行が選び捨てられ、勝易二徳をそなえた行である称名念仏が選び取られたのが第十八願であるとする。 さらに

弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択集 P.1209)

と述べ、いかなる者も修めることのできる称名念仏を浄土往生の行として誓う阿弥陀仏の選択の願心は、一切衆生を平等に救おうとする大慈悲心のほかならないことを明らかにしている。このように法然は念仏往生を誓った第十八願は平等の慈悲がまさしく具現したものであるとうけとめ、これを「本願の王」(選択集 P.1228)とも呼んでいる。


とあると紹介されています。阿弥陀仏が本願において、衆生往生の行として称名念仏一行を選び択られたというのです。親鸞聖人は選択本願「信文類」に第十八願の別名として挙げ、『御消息』には

浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。

と仰せられています。「選択本願」=「浄土真宗」であるというのです。今でこそ「浄土真宗」とは教団名となっていますが、親鸞聖人が言われる「浄土真宗」とは、教団名ではなく教法の名称でした。その「浄土真宗」とは、「選択本願」の教法であることが分かります。

これは『御消息』のみに言われていることではありません。親鸞聖人は『高僧和讃』にて

智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ


と仰せられています。「浄土真宗」は本師源空法然聖人によって開かれた教えであり、それは「選択本願」の教法であるというのです。親鸞聖人は続けて

善導・源信すすむとも
 本師源空ひろめずは
 片州濁世のともがらは
 いかでか真宗をさとらまし

曠劫多生のあひだにも
 出離の強縁しらざりき
 本師源空いまさずは
 このたびむなしくすぎなまし


とも仰せです。いくら善導大師や源信僧都がおられても、法然聖人がましまさなかったならば親鸞は救われることがなかったに違いないとその恩徳を讃えられています。そのような親鸞聖人が、法然聖人と共に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

と理解されていることは論ずる余地のないことです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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