ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(2)

前回の続きです。

高森顕徹会長の説く「聞く一つ」が誤りである理由、その二つ目が、前回とも重複する事ですが

(2)「聞く」内容が間違っている

です。私達が聞くべきことは「本願の名号」「南無阿弥陀仏の六字のこころ」です。これとは別の「因果の道理」とか、「因果の道理の結論である廃悪修善」ということを聞くのではありません。親鸞聖人は、

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「信文類」

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。一念多念証文

と仰せられています。この御文自体は親鸞会でも出てきますが、この「仏願の生起本末」が間違っています。

仏願の生起本末」=「本願の名号」=「南無阿弥陀仏の六字のこころ

です。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」、つまり

「必ず助けるから、安心して私にまかせなさい」という阿弥陀仏の仰せ

を、計らいを交えずにそのまま聞く以外に私達が聞くことはありません。そして、それがすなわち「信心」であるというのです。この「信心」は、私達が自分で起こす信心とは全く異なる「本願力回向の信心」である、阿弥陀仏より起こさしめられる他力回向の信心であると仰せです。

では「本願の名号」である「南無阿弥陀仏」はどのようにして成就されたのか、その起こりから一部始終を詳しく示されたのが「仏願の生起本末」です。それは「信文類」に

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

等と教えられている通りです。どうして阿弥陀仏が「我にまかせよ」と仰せかと言えば、私達が自力では永遠に迷いの世界を出られない「罪悪生死の凡夫」、「煩悩を具足せる凡夫」であるからです。私達の中には、迷いの世界を出られるだけの因が無く、また因を成就できるだけの行を修めることができません。仏願の生起、名号の起こりは、このような迷いから離れられずに流転を続けて際限なく苦しみ続ける私がいたからです。

それで、阿弥陀仏は私達に代わって「必ず助ける」という願いを発し、それを果たし遂げるだけの「不可思議兆載永劫」の行を修められ、ついに「南無阿弥陀仏」と成って下さいました。これが仏願の本、因本であります。

ところで、「不可思議兆載永劫」の行を修められる前、本願を発される際にも阿弥陀仏は、「五劫思惟之摂受」と五劫もの間かかってこの私の救済法を考えに考えておられます。これについて梯實圓和上は

 念仏往生の道を選択(せんじゃく)するために、法蔵菩薩が五劫(ごこう)ものあいだ思惟されたというこの経説には、二つのことがらが暗示されているようです。その一つは、法蔵菩薩というさとりの智慧をきわめたほどの菩薩が、五劫もの時をかけて思惟(しゆい)しなければ救いの道が見出せなかったということは、救いのめあてである私どもが、想像を絶する愚か者であり、罪深いものであったということです。二つには、如来が思いのかぎりをつくした上で、必ず救うと見きわめられた本願の救いは、微塵の狂いもない確実さで完成されているということです。

と仰せられています。ある先達は、『正信偈』の「五劫思惟之摂受」の御文を読む度に涙されたと聞いたことがありますが、きっと如来広大の御恩徳というものを人一倍感じられた方だったのでしょう。この私一人の救済にこんなにもかかり果て、今も現にかかり果てて下さっている御方がましますこと、またその御方のおこころを知ることができたということは、これ以上ない喜びであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

そして、このようにして成就された「本願の名号」、往生の因行が完全に仕上がった「南無阿弥陀仏」を私達に受け取りに来いと言うのでなしに、「回施」、恵み与えて下さるというのです。これが仏願の末、果末です。

このように私達は全く自力を要せず、ひとえに本願の独用(ひとりばたらき)によって浄土に往生し、この上ない仏陀のさとりを開かせて頂くという教えが浄土真宗です。

これら、仏願の生起から因本と果末に至るまでの一部始終が

仏願の生起本末

ということであり、それを計らいを交えずに仰せの通りに聞くのがすなわち「信心」です。


ところが親鸞会ではどうでしょうか? 私達は「罪悪生死の凡夫」、「煩悩を具足せる凡夫」であるという、いわゆる「仏願の生起」の部分ばかりが強調されます。それだけでなく、「全人類は五逆・謗法・闡提」であると邪義を唱え、「一切衆生悉有仏性」ではなく「一切衆生必堕無間」と説いて執拗に死後の恐怖を煽ってきます。

一方、「仏願の本末」の部分はほとんどありませんし、その説明も間違っています。「仏願の生起本末」の本が18願、末が19願・20願などというのは高森教でしか言われない珍説です。

このように、「仏願の生起」、「仏願の本末」のいずれも正しく説かないのが親鸞会です。それどころか、私達が「一つの善もできない極悪人」であると知らされなければ、「そんな者を助ける」阿弥陀仏の本願であると判らないと地獄秘事信心を説き続けています。この前の話では、『歎異抄』第一条を挙げて

罪悪深重の私であったと判るまで聞く。そう思えないのは聞法不足。聞法不足だから判らない。

などと説いていました。高森教では「罪悪深重の私であったと判」ったのが「機の深信」、「そんな者を助ける」と判ったのが「法の深信」であり、この二つが同時に立つとは言いながら、まずは「機の深信」が立たなければ「法の深信」は立たない、つまり救われないようです。この記事にて紹介したように、高森顕徹会長の著書にはそのように書かれていますし、アニメの親鸞聖人や韋提希の獲信シーンではそれが如実に描かれています。

ですから、会員はまず「罪悪深重の私であったと判」ろう判ろうとして高森会長の話を聞きます。そして私達の姿をそのように知らされようとして活動しています。ではどうすれば知らされるかというと、因果の道理に従って実地に廃悪修善をしていかねばならない。そうしなければ「罪悪深重の私であったと判」らない、後生の一大事(「必堕無間」の意)は分からない。まして後生の一大事が解決したということは絶対に無いというのです。

地獄一定の自己が分からず、聞いても聞いても中々後生に驚き立たないようなものは「無宿善の機」であり、「宿善の薄い我々は真剣に宿善を求めねば宿善開発の時節到来は有り得ない」と言い、そして、私達が仏教を聞き始めて後生の一大事が解決するまでの万人共通の道程を表現されたのが「三願転入の御文」であるというのです。こうした親鸞会の教義から、会では

・「因果の道理
・「廃悪修善
・「宿善
・「六度万行
・「三願転入
・「十九願
・「修諸功徳
・「定散二善

など、おおよそ「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とは縁遠い話、聖道もどきの「八万四千の法門」と林遊さんが指摘している通りの話ばかりを聞かされ、やりなさい、やらねば信仰は進みませんと勧められます。そして、「善の勧め」と称して上記の「六度万行」や「定散二善」等を根拠に

「高森会長の話を聞くこと」
「親鸞会に献金すること」
「親鸞会に人を誘うこと」
「会長や上司の指示に無条件で従うこと」


こんなことばっかりが勧められます。こうした活動の一環として、全国各地に会館を建てること、名前だけ会員の獲得、著書や映画の製作出版に関する財施等を勧められ、それらに躍起になっているというわけです。会員は、そういった活動の先に「信心決定」、彼らが憧れる「絶対の幸福」「光明輝く生活」「ハッキリスッキリ体験」があると思い込んでいるのでしょうが、このように「聞く」内容が間違っているため、高森顕徹会長や親鸞会の教えをまともに信じて実行している限り会員が「信心決定」するということはありません。


さて、この「信心決定」ということについて会員に甚だしい誤解が見受けられるのですが、随分長くなりましたので、それは次回に譲りたいと思います。



【参照】
聖典セミナー 「歎異抄」後序
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ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(1)

大分前になりますが、親鸞会を退会した方からのメールで、

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか

ということを聞かれました。その時は簡単にメールでお返事したのですが、今回はこれについて、淳心房なりに考察したことを書いてみたいと思います。


親鸞会では「聴聞に極まる」「聞く一つ」「重ねて重ねて聞くのです」等と説かれ、最近では

浄土真宗は「聞の宗教」、「聞くことを教えている宗教」

であると発言し、他宗教と比較して「聞く」ということを強調するあまり

阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない

というアッと驚くタメゴロー発言まで飛び出したことは皆さんの記憶に新しいかと思います。


「聴聞に極まる」「聞く一つ」「重ねて重ねて聞くのです」

これ自体は間違いとも言えないのですが、親鸞会では教義の問題と会員の誤解があるため、高森顕徹会長が説くこうした教えは間違いです。なぜ間違いかと言いますと、


(1)そもそも親鸞会の教えは「聞く一つ」ではない

第一の理由がこれです。この記事でも書きましたが、「聞く」に「聞いたことを実行する」ことを含めるなら「聞く一つ」ではありません。親鸞会では「教学」と「行学」と言って、教えを聞いているだけではダメで、聞いたことを実践しなければ横の道を進んで助かるということは無いようです。「教学」だけで「行学」が伴わなければ

観念の遊戯、信仰の幼稚園

などと言われ、実地に求道していかねば信心決定して阿弥陀仏に救われることはないというのです。しかし、「聞く」というのと「聞いたことを実行する」とは普通別の事です。

例えば健康法にしても、「○○すれば健康になる」と「聞く」のと、実際に「○○する」、「聞いたことを実行する」のは違うことです。それがどんなに理にかなった方法で健康になるとしても、「聞く」だけで「聞いたことを実行する」ことがなければ絵に描いた餅です。

それに、「聞いたことを実行する」ことと「聞いた通りのことが実現する」ことも別の事です。聞いた通りに実行したとしても、聞いた通りのことが実現するまでは多少なりとも時間がかかります。

これら「聞く」「聞いたことを実行する」「聞いた通りのことが実現する」を仏教に配当すれば、教えを知る、つまり「聞く」。如説に修行する、「聞いたことを実行する」。説の通りのさとりを開く、「聞いた通りのことが実現する」と言えるでしょう。


この点、浄土真宗は、「わが真実なる誓願を信楽すべし」と「聞く」、すなわち

お前を仏にするという本願が既に成就してはたらいておるぞ。必ず浄土に迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせて、我が名を称えなさい。

という如来の勅命を疑い無く「聞く」という教えです。それがそのまま「信心」であり、仰せを計らい無く受け容れたすがたが「称名」つまり「念仏」となって行者の上に現れるのです。「」が「」であり、「」であるという教えというわけですね。このように「聞く」ままが「」であり「」であるという教えはあまり類を見ないと思います。「聞く」がすなわち「聞いたことを実行する」ということになるのですから。これは、真実の教行信証が本願力の回向によるものだから、私の所作や計らいは要らないからそうなるのです。

さて、こうした「信心」の行者、「念仏」の行者がやがて一期の命が尽きますと、浄土に往生して仏のさとりを開くのです。これを『歎異抄』では「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と仰せられてあります。

これを先ほどの「教行証」で当てはめれば

教 - 本願(阿弥陀仏の仰せ)
行 - (信じ)念仏を申さば
証 - 仏に成る


となります。まことに有難い教えであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


このようなことですから、浄土真宗は「聞く一つ」ということ自体は間違いではありません。先ほど示したような阿弥陀仏の仰せ、「南無阿弥陀仏」を「聞く一つ」ですから。ところが親鸞会の場合はそうではありません。

親鸞会では、阿弥陀仏の仰せ、「南無阿弥陀仏」以外の別の教えを説いています。高森の教行信証(行編)でも示しましたが、それは因果の道理であり、因果の道理の結論である廃悪修善の実践ということです。

この教えは誓願一仏乗である浄土真宗とは異なった八万四千の法門であり、こちらは当然のことですが「聞く」がすなわち「聞いたことを実行する」ということにはなりません。ですから、

・教えを聞いているだけではダメで、聞いたことを実践しなければ横の道を進んで助かるということは無い

となるのも道理です。親鸞会では独自の方便論を用いて、因果の道理因果の道理の結論である廃悪修善の実践が必要不可欠であるかのように説いていますが、親鸞聖人はそれを自力と誡められてしかいません。

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける
『正像末和讃』誡疑讃

とある通りです。実際のところは八万四千の法門もどき、19願もどき、自力諸善もどきの悪業悪行を主体とする活動がメインですから、そんな活動を「真実の仏法だ」などと信じてやっておる者は「七宝の獄」にさえ入れず、「自業自得の道理」にて三悪道に堕すのが必然です。それどころか、念仏誹謗の報いで「必堕無間」というのもあながち間違いとは言えないのであります。

ちなみにこうした高森教を先ほどの「教行証」で当てはめれば

教 - (高森流)因果の道理
行 - 悪業悪行、助正間雑、雑行
証 - 絶対の幸福


となりましょうか。「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、「創価学会の信心」を求め、組織拡大要員として獲信・往生とは無関係なことをやっている会員は哀れでしかありません。


まだまだ高森顕徹会長の説く「聞く一つ」についての誤りに関して書きたいことがありますが、一旦ここで切り、続きは次回書いていきたいと思います。

救われないのは「聞法不足」と会員のせいにし、何十年と聞いて活動しても救われないような教えを説く高森顕徹会長

『飛雲』嘘体験至上主義の与太話を60数年し続けてきた高森顕徹会長

にあるように、日曜日はまたまたいつもの演題

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

で高森顕徹会長の話がありました。現在は『歎異抄をひらく』の映画への移行期であることが誰の目にも明らかで、今回は第一条と第九条を出していました。今後は、親鸞会は映画『歎異抄をひらく』が公開になればそれ一色になり、『なぜ生きる2』同様に映画『なぜ生きる』もほとんど見向きもされなくなるでしょう。

第一条については、大悲の願船に乗せられるとは阿弥陀仏の本願(お約束)によって絶対の幸福の身になることであり、阿弥陀仏はどのような者を絶対の幸福に助けるかということから

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。

とつなげています。ただ話したのは主に下線部のみで、「死ぬまで罪悪深重で煩悩しかない者、この私を(絶対の幸福の身に)助ける」とか何とか言っていたようです。ここで問題だったのが

罪悪深重の私であったと判るまで聞く。そう思えないのは聞法不足。聞法不足だから判らない。

などと話していた点です。おそらく会員の頭では、

罪悪深重の私であったと判」ったのが機の深信機の深信が立たなければ法の深信も立たず救われない

という理解でしょうから、これをまともに聞けば、「罪悪深重の私であったと判」るためにますます高森会長の話を聞き、因果の道理を聞き、廃悪修善という名の「組織拡大活動」に身を沈める方向へと向かってしまうことでしょう。そんな活動をいくらやったところで二種深信とは無関係な徒事とは知らずに。それが高森会長らの目的なのですが、それにしても何十年と聴聞している講師部員や幹部会員も多くある中で

聞法不足だから判らない。

とは何とも無慈悲な話です。救われないのは「聞法不足」と会員のせいにし、何十年と聞いて活動しても救われないような教えを説いておいて「平生業成」とか「不体失往生」などとはどの口が言っているのでしょうか。

親鸞会教義が染み付いている会員には理解不可能でしょうが、本願に救われるには

念仏にまさるべき善なき」「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき

という念仏一つ、またそのような念仏一つで助けるという本願に疑い無い

信心を要とす

です。「聞法不足」などというのは救われない条件ではありません。法然聖人は

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。『選択本願念仏集』難易義

と仰り、多く聞法した者を助けるという本願ならば、聞法の少ない者は往生の望みを絶たねばならず、しかも多聞の者は少なく少聞の者は甚だ多いと教えられています。親鸞聖人は

修行の久近を論ぜず「信文類」大信嘆徳(四不十四非)

と仰って、修行期間の長い短い、親鸞会で言えば聞法歴活動歴の長い短いが問われるのではないと教えられています。日本の、それこそ何十年と聞いている会員の皆さんが「聞法不足」なら、昨日今日聞き始めた人はどうなってしまうのでしょうか。今まさに臨終という人が聞いたところで「聞法不足」です。到底救われっこありません。ところがなぜか学徒になって2年目の、通訳を通して聞いているブラジルの会員さんなどは救われたことになっています。このことは会員の間では、親鸞会七不思議(笑)の一つに数えられているでしょう。

会員の皆さんは、高森教については「聞法不足」ではありませんが、浄土真宗の教えについては「聞法不足」です。今すぐに高森教を捨て離れ、「南無阿弥陀仏」(必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい)という如来の勅命をそのまま聞き受けて念仏して下さい。彼の仏願に順ずるが故に、仏の本願によるが故に、本願が成就してはたらいて下さっている故に、本願の仰せを疑い無く、そのまま聞き受けて念仏すれば必ず往生を得させて頂けます。往生の安心についてはこれだけです。


さて、大悲の願船に乗るとガラリと変わるという根拠に先日も

与韋提等獲三忍

を用いていましたが、これは詳しくはこちらの記事をご覧頂くとします。当ブログでは、今回高森会長が

0段の煩悩具足の凡夫が51段の身となる

と宣ったことについて触れます。これは本願成就文の

即得往生 住不退転

の説明から出てきたことですが、正定聚の位に入ったことを正定聚の位に入ったことが実感として知らされると勘違いした高森会長の珍説です。正確には伊藤康善師からのパクリなのですが、親鸞聖人は「さとりの52位」に配当して正定聚の位を「51段の身となる」などとは説明されていません。即得往生について聖人は

「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。 一念多念証文

と解釈され、正定聚の左訓に「往生すべき身と定まるなり」と施しておられます。信心獲得のその時に必ず次生往生してさとりを開く身と定まるということで、「51段の身となる」わけではないのです。「51段の身となる」なら、51段の位に達したと判らないはずはありませんから当然自覚はあるでしょうが、それなら七高僧方がどなたも現生正定聚を仰らず、死後に正定聚に入るとしか教えられていないのはどうしてでしょうか。

親鸞会理論でいくと、死後に「51段の身となる」と教えられたのが七高僧方ということになります。現生で「51段の身とな」った自覚の無い七高僧方は異安心になりますが、親鸞聖人はそうは仰っていません。つまり現生で正定聚の位に入るが、それは正定聚の位に入ったことが実感として知らされるとか、「51段の身となる」ということではないということです。あくまで往生すべき身と定まったのを正定聚の位につき定まると言われているのです。このように述べますと、反論として

『正信偈』に「成等覚証大涅槃」とあり、「等覚」=「51段」ではないのか!

とか何とか言われそうですが、親鸞聖人はそうは解釈されていません。このお言葉は『大無量寿経』の異訳である『無量壽如來會』の11願

もし我、成仏せんに、国中有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せざれば、菩提を取らじ。

から出ていると思われますが、先ほど申し上げたように七高僧方は「等正覚を成」ることは死後だと仰せられています。親鸞聖人はこれを現生のことだとされましたが、「等正覚を成」ると言っても51段の位をさとるわけではありません。『尊号真像銘文』正信偈の文には

「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位とひとしとなり。

と、「等覚」=「正定聚の位」の意味で教えられています。「弥勒の位とひとし」と言われるのも、次の生で仏に成る弥勒菩薩と同様に、念仏の衆生は必ず次の生で仏に成ることが確定しているからです。その点で「ひとし」なのであって、弥勒菩薩と等しいさとりを開くのでも、智慧や徳が具わるのでもありません。第一、51段の位を現生でさとるのなら、煩悩が少しも変わらないというのは有り得ない話です。


高森会長の説は、『歎異抄』で言えば第十五条

煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと

という邪義に近いものがあります。さすがにこの世での成仏は否定していますが、高森会長の説明からは51段の位をさとるかのような印象しか受けません。一段違えば人間と虫けらほど違うと言い、信心獲得した人は51段の高みにいるように教えます。高森会長や講師部員、また熱心な高森教徒の傲慢な態度はここが由来かと思われます。遥か高みから虫けらを見るように一般世間や各真宗宗派、また退会者を見下し蔑んでいるのは、「高森先生は51段の位に達した御方」という痛い勘違いから来ているのでしょう。

対して、阿弥陀仏はごそごそと蠢く虫の類にも「必ず往生させる」と深い慈悲を注いでおられます。言動を近くで見ている方は、「高森先生は51段の位に達した御方」なのかどうかはよくお判りでしょう。また、見ていなくても、飛雲さんからの公開法論の申し込みに6年間も応じないこと一つ取ってもその真偽は明らかです。

会員の皆さんは、阿弥陀仏の御心とはおよそ縁の無い高森顕徹会長、また親鸞会に見切りをつけ、早く浄土真宗に帰依して、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。


【参照】
『WikiArc』正定聚

どう答えればよいか困ってしまった質問

以前、安心問答にてどう答えればよいか困ってしまった質問がありました。

当時、「みそみそ」さんという方が阿弥陀仏の救いについて悩んでおられたようだったので、何とかその方が本願を信じ念仏するきっかけになればという思いで以下のように書き込みました。

********************
自力では無理だから弥陀をたのむしかありません。「南無阿弥陀仏」(必ず助けるから安心してまかせなさい)という勅命をそのまま受け容れるよりありません。では弥陀をたのむとはどういうことかというと、ただ念仏するよりないのです。

・極重の悪人はただ仏を称すべし。(正信偈)
・なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに(行文類)
・親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第二条)


信心決定したい、弥陀に救われたい、そのお気持ちは結構なことですが、善知識方はこのように仰せです。ただ南無阿弥陀仏のすがたを心得て念仏するより他に信心も安心も無いのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称える一声一声が、みそみそさんを必ず助けるぞよとの阿弥陀仏の喚び声であります。どうかただ念仏して弥陀に助けられて頂きたく思います。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・
淳心房のコメント
********************

そうしたところ、みそみそさんからの返答は

********************
淳心房さま
では本当に念仏を唱えるだけで助かるのですか?
みそみそさんのコメント
********************

というものでした。これを受けて、とにかく答え方に困ってしまいましたね。私が「そうです」と答えてもみそみそさんに響くか分からない。第一、私自身が「必ず助けるぞよとの阿弥陀仏の喚び声」をただ聞き受けて念仏しているだけ、善知識方の教え・仰せをただ信じて念仏しているだけだ。自己の上でハッキリ確かめたわけでもないので「そうです」と言うわけにもいくまい。かと言って「知らん、阿弥陀さまに聞いてくれ」と突っ撥ねるのもどうだろうか。読者の皆さんだったら、こういった質問を受けた場合どうお返事しますか?

色々思案しましたが、結局は以下のようにお答えしました。

********************
私が助けるわけではないので、私には教えを示すことしかできません。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(末灯鈔12通)

阿弥陀仏の本願は、念仏を称える者を極楽へ迎える、平たく言えば「助けるぞ」という本願ですから、その誓いをそのまま受け容れて仰せの通り念仏申すだけです。私の中に信心を探していてもそんなものはありゃしません。あるのは煩悩妄念のみです。親鸞聖人が示して下された教えを通して阿弥陀仏の勅命を受けて下さい。なんまんだぶなんまんだぶ・・・
淳心房のコメント
********************

以前にも思いましたが、親鸞会教義の誤りを示すことはそんなに難しいことではありません。正しい教えを示して聞く方が信心を獲て念仏される身になることに比べたら。これを通して、

自信教人信 難中転更難往生礼讃

のお言葉が思い浮かんだのでした。まぁ私のやっていることなど大悲を伝える中に入らないかも知れないし、善導大師のような方が仰る「難しい」とは比較にならないほど浅い「難しい」の捉え方なのかも知れませんが。


すべては阿弥陀仏の本願力によって皆さんが本願を信じ念仏して仏に成るのですが、それは分かっていても「どうしたら皆さんに誤りなく、正しく伝わって本願を信じ念仏して頂けるのか」と悩まずにはいられません。結局その方が法を聞かれるかどうかは阿弥陀さまのお計らいであって私の力の及ぶところではないのですが、何とか聞いて頂きたいという気持ちは消えません。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』自信教人信

親鸞聖人や蓮如上人の「知らん」は、高森会長の「知らん」とは全く異なります

問ひていはく、華厳・天台・真言・禅門・三論・法相の諸師、おのおの浄土法門の章疏を造る。なんぞかれらの師によらずして、ただ善導一師を用ゐるや。

答へていはく、かれらの諸師おのおのみな浄土の章疏を造るといへども、浄土をもつて宗となさず、ただ聖道をもつてその宗となす。ゆゑにかれらの諸師によらず。善導和尚は偏に浄土をもつて宗となして、聖道をもつて宗となさず。ゆゑに偏に善導一師に依る。
『選択本願念仏集』偏依善導

法然聖人は、この後も様々な問答を設けて、「この法然はひとえに善導一師による」と仰っています。


その法然聖人から教えを受け、『選択集』の書写を許された親鸞聖人は

『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。『教行証文類』後序

【現代語訳】
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。

と師の御制作を絶賛なされ、また『選択集』や法然聖人のご絵像を書写させて頂いたことは「念仏の道を歩んできたことによる恵みであり、往生が定まっていることのしるし」であるとまで仰っています。

しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。

こうした親鸞聖人が法然聖人から受けた教えの結論が

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。『選択本願念仏集』三選の文

であり、また法然聖人が親鸞聖人にお書きになったお言葉の一つが

「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」

でした。それを『歎異抄』第二条では

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

と仰っています。念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったく知るところではなく、ひとえによきひと法然聖人の「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という仰せをそのまま頂いて信ずるほかに何も無い、というのです。私としてはこの『歎異抄』第二条のお言葉から、もちろん仰ってはおられませんけれども、「この親鸞はひとえに法然一師による」というお心がうかがわれます。


このような、師匠に随順するすがたは蓮如上人も同じで、

一 前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。『御一代記聞書』159

とある通りです。私としてはこのお言葉を読むと、先ほどと同様にもちろん仰ってはおられませんが、「この蓮如はひとえに親鸞一師による」というお心が味わわれます。

当然ではありますが、法然聖人も親鸞聖人も蓮如上人も、善導大師という人、法然聖人という人、親鸞聖人という人に依っていらしたのではなく、これらの方々のお説きになられた「専修念仏」の法に依っていらしたのだと拝されます。蓮如上人の『御一代記聞書』のお言葉を用いて巧みに知識帰命、知識への絶対無条件服従へとつなげる輩がありますので念のため。


親鸞聖人や蓮如上人のような方々といえども、さとりを開いたわけではないのですから、当然知らないこともあるのです。それを知ったかぶりせず、知らないものは知らないとお答えになるところに、お二人の仏法に対して真っ直ぐで正直な姿勢がうかがわれます。中々、教える立場の者が「知らない」などとは言えません。そして、お二人には「俺についてこい」という姿勢も見られません。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。

このように『歎異抄』では仮定形で、「弥陀の本願、釈尊の説教、善導の御釈、法然の仰せがまことならば、この親鸞が申すことも空しくないのではないでしょうか。私の信心は今申し上げた通りです。これから、念仏して往生させていただくという教えを信じようとも、また念仏を捨てようとも、皆さん一人一人のお考え次第です」と命懸けで京都までやってきた関東の同行達に仰っています。

関東の同行としては、親鸞聖人の口から念仏は決定往生の業であるとハッキリ言ってほしかった、そしてそれを聞いて安心したかったと考えられます。ところが、そのように人の言葉を信じることが虚構のはじまりであるとよく知っていらした聖人は、「俺の言うことを信じて安心するんじゃない。阿弥陀さまの仰せに安心するのだ」と仰りたかったのではなかろうかとうかがわれます。

親鸞聖人としては、浄土真宗の祖師方の教えをそのまま相承し、そのまま人に教え聞かせるばかりであるというお考えだったのでしょう。蓮如上人も、そのような親鸞聖人のすがたをそのまま体現され、「何事も、たとえ知らないことでも、私は御開山のなされた通りにするのである」と仰っています。まぁそのような祖師や蓮師であるから私達はついていきたくなるかも知れません。


「知らん」は「知らん」でも、親鸞聖人や蓮如上人の「知らん」は、高森会長の「知らん」とは全く異なります。私達も、何も判らなくても、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」というよきひとの仰せをそのまま受け、ふたごころなく深く信じてただお念仏申すばかりです。「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」という本願招喚の勅命をそのまま聞き受けてお念仏申すばかりです。

それで助かるか助からないかは私の知るところではありません。助けるか、助けないかは阿弥陀さまがお決めになること、阿弥陀さまのなされることであって、オレの仕事ではない。オレの仕事は、ただこの六字の取次ぎをするばかり。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
梯 實圓和上「歎異抄二条のこころ」
『用管窺天記』歎異抄の仮定法
『同』善知識帰命の過ち

コメント返信(いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らない)

不正な投稿だと撥ねられてしまうので記事に書きました。いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らないの記事へのコメント返信です。


Abc様

本当に早いです。学校が休みで給食が無いので、私のと合わせて娘の弁当も作っておりますが、学校の準備となると妻や子供にまかせきりですね・・・。これではまずいのですが、本当に「知らん」です(*_*;

さて、仰る通りで

> 現生に「摂取の利益」に預かる

ことは間違いありません。聖人も「信文類」にて

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

と教えられている通りです。ここで問題なのが、「現生に十種の益を獲」たことと、「現生に十種の益を獲」たことが実感として知らされることとの違いです。高森教では実感として知らされるように説いていますから、会員は種々の誤解を抱いてしまうのです。例えば記事で冒頭申し上げたようなことです。

高森教でよく言われる「弥勒と肩を並べる」というのも随分傲慢な表現かと思います。馬鹿野郎、こちらの方が早くさとらせて頂くか知れないが、今生では弥勒菩薩と同格などとはとてもとても・・・。「弥勒におなじく」という表現は確かにこの記事でも書いたようにありますが、智慧や徳まで同じくなるわけではありません。会員は、「高森先生は阿弥陀仏の御心を知らされて51段の境地に出た御方」だなどと盲信していますので、高森会長は勿論ですが講師部員、一部会員の傲慢な態度はここから出ているものかも知れません。

信を獲ても「仏智の不思議」は「仏智の不思議」です。我々が判る程度のものならばそれは「思議の法」です。「仏智の不思議」を「思議の法」に貶め、念仏を説かず信心も誤り、神秘的体験、ハッキリスッキリ体験を獲信のように誤解させていること、またそんな体験を求めさせ、ありもしない道程を通らせようと「一切要らない」行をやらせて金集め人集めに狂奔する親鸞会の邪義をもっと明らかにしなければなりません。


林遊@なんまんだぶ様

梯和上のご法話を紹介して下さりありがとうございました。記事上でもリンクを貼らせて頂きました。私の人生、色々苦しい事や辛い事もありましたし、当然これからも生きてある限りやってくるでしょうが、遇うべき法には遇わせて頂き、聞くべき法は聞かせて頂きました。阿弥陀さまの仰せ一つで、念仏一つで死ねます。と申しましても、今はまだ死ぬつもりはないのですが(;^ω^) なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・。

いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らない

親鸞会では、獲信したら「さとりの52位」の中、51段高とびして正定聚不退転の明らかな大自覚が起きる、現生で十種の幸せに生かされると言い、仏智満入、仏智全領して相当の事が知らされるかのように説いています。それを聞いて会員は、信心決定すると仏智を体得して相当のことが判ると考えているに違いありません。

よく「さとりの52位」を示し、これを山登りに例えて、登れば登るほど見える範囲が広がってゆき頂上では360度見渡せるというような話が会内でなされます。会員は信心決定の暁には頂上付近から相当の範囲を見渡せるように、51段の高みから今まで分からなかった多くのことがハッキリ分かる、見えるようになると信じ込んでいる節がありますが、残念ながらそうはなりません。獲信しても等覚のさとりを開くわけでも、等覚に等しい智慧を獲るわけでもありません。七高僧方は死後に正定聚に入るとしか仰っていないので、獲信しても冒頭述べたようなことにはなりません。

信心決定しても、智慧のない凡夫は変わりません。それを示されたのが、

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。執持鈔

のお言葉です。「往生という後生の一大事」、「仏智の不思議」は「補処の弥勒菩薩」でさえ判らないのですから、まして況や「凡夫の浅智」で判るわけがないのです。その判らないことを「凡夫の浅智」で判るなんて考えるのは、今生で仏のさとりを開ける、今生で極楽に往生できる、という一益法門の異安心です。

親鸞会は体験談を否定しつつ最後は「一念の体験」にしがみつく「体験至上主義」の集団ですが、もし「念仏」が「まことに浄土に生るるたね」だと体験として知ることができたなら、それは弥勒菩薩を超えて、阿弥陀仏の五劫思惟に智慧が及んだということでしょう。少なくとも「念仏」の果報が現れる死後の世界、浄土に往ったことがあるか、浄土の様相が今現に見えるかしていなくては「体験として知った」とは言えないはずです。

親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、極楽が判った、地獄が見えた、とは全く仰っていませんし、判る筈もないのです。もし極楽、地獄が判る、見えるということならば、その人は最低でも定善は容易くできることでしょう。しかし、そのような智慧は親鸞聖人でも体得されていませんでした。ですから、

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。『歎異抄』第二条

の「総じてもつて存知せざるなり」はその文字通り

知らない

です。いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らないのです。実際のところ、阿弥陀仏の救済の仕組みは阿弥陀仏でなければ判りません。であるから「仏智の不思議」なのです。我々が判る程度の事なら不思議でも何でもありません。ですからここでは、

親鸞は念仏が本当に浄土に生まれるたねか、逆に地獄に堕ちる行いなのかは知らない、判らないが、ただよきひと法然聖人より受けし教えを信じて念仏するほかには何もありません

と言われているのです。そうした親鸞聖人の信心が、この直前の

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

というお言葉に端的に表れています。無有出離之縁の煩悩具足の凡夫が「ただ念仏」して「浄土に生るる」というのは弥勒菩薩でも到底思慮の及ばない「仏智の不思議」です。そんなことを知りすぎた知らんだと言う人がいたら、その人は仏のさとりを開いた仏陀か、知ったかぶりして覚者を演じる悪知識かのどちらかです。


私は「念仏よりほかに往生のみち」は無いとの法然・親鸞聖人の教えをそのまま受け止め、お念仏を申し浄土を願って生きておりますが、それは本願を信じて念仏すれば仏に成るという理屈、道理がハッキリ理解できてのことではなりません。何にも分からないが、分からんまんま、よきひとの仰せの通り「なんまんだぶ」と念仏を申して本願のはたらきに身も心もおまかせしているだけです。何しろ、サークル活動の延長のような親鸞会の活動も満足に出来ず根を上げてしまう機根最劣の凡夫ですから、このような者は「念仏」以外に手立てがないという善知識方の仰せを聞き受けて信ずることの他に何にもありません。

『歎異抄』は、これほど信心のありのままを顕した書物は無いと言えるとても有難いお聖教ですが、念仏も信心も無い「創価学会の信心」の者が扱えば非常に危険な書物です。これ以上珍説を世間に晒して恥をかき、多くの会員を更に迷わせる前に止めておけばいいものを、幸福のなんとかの真似をしてまた映画を出すそうですから呆れてしまいます。その映画製作に関してまた財施が募られていると思いますが、どれだけ財施したところでそういった活動は「大悲の願船」に乗るには「一切要らない(※)」そうですから、会員の皆さんはよく考えた方がよろしいかと思います。

我々が獲信・往生するには「念仏一つ」、それ以外の行は「一切要らない」捨てものです。その「一切要らない」捨てものを事実上「絶対必要」だと教えるのが高森教です。会員の皆さんはそのような偽の教えを捨て離れ、また「このようにしていかなければ信心決定できないだろう」とか「信心決定したらこうなるはずだ」という高森教で得た概念も捨てて、ただよき人の仰せの通り本願をふたごころなく深く信じて念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長

【追記】
梯 實圓和上「歎異抄二条のこころ」を林遊さんが紹介して下さいましたので、記事上にも載せておきます。
関心のある方はぜひ聴聞されたらよいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

どこまでも「念仏」についての話は避け続け、邪義を唱え続ける高森顕徹会長

先日日曜日(25日)の高森顕徹会長の話は、またいつもの

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
とは、どんなことでしょうか?


という質問に対して答えるというものでした。


今回も、相変わらず「聞其名号」の「」を強調するあまりに

世界の多くの宗教が信じる宗教だが、信じることも要らない、聞く一つ

だとか言っていました。これでは、過去の説との整合性も、自身の教義との整合性も取れていません。過去の説との整合性についてはこの記事などに書いています。自身の教義との整合性については高森の教行信証(行編)に書いた通りで、実際は「聞く一つ」などとは大ウソです

映画を観られた方の多くの方から、「大船に乗せて頂くには、修行をしなければならないのではないか?」「学問が必要ではないか?」「修養が要るのではないか?」という感想が寄せられている

らしいですが、事実大いに助正間雑、雑行、悪業悪行(聞邪義、弘宣邪義、献金、服従)といった「高森の行」に励まなければならないではありませんか。「宿善を求めよ、厚くせよ」という教えからは、聴聞の他に破邪顕正や財施などの行が不可欠です。親鸞会流「二河白道の譬え」からも、煩悩と闘っての求道が不可欠です。親鸞会流「三願転入の教え」からも、19願の行の実践は不可欠です。高森教を聞いている限り、どう考えても「修行」「学問」「修養」などが要るという事にしかなりません。これは会員の皆さんの聞き誤りではありません。正しく聞いているからこそ思う事であり、率直な感想なのです。それに対して

それらは一切要らない

とは一体どの口がこんな事を言っているのでしょうか。

だから、何十年と「一切要らない」行に励んでいる講師部員や幹部会員が救われていないのです。まぁそこは「後生の一大事」だ、「100年や200年」では獲られない信心だと言って救われないことを正当化していますが、この世ではまず獲られない、求め切れないようなものを求めさせておいて「人生の目的」とか「完成がある」とか、「平生業成」「現生不退」などと言っているのはお笑い以外の何物でもありません。

また、「それら(修行、学問、修養等)は一切要らない」と聞いて、会員の皆さんは「縦の線では一切要らないが横の道を進むには必要」などと忖度しているのかも知れませんが、結局それでは救われるまでのトータルで考えると一切必要ということになります。では本当のところは要るのか要らないのかと言えば、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。「信文類」総決
しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。『口伝鈔』善悪二業の事

とあるように、往生の行も信もすべて阿弥陀仏の回向によるものであり、我々の善悪は報土往生のプラスにもマイナスにもならないということですから、要らないが正解です。早く聴聞を含めた一切の「高森の行」を捨てましょう。「高森の教」は聖教に基づかない外道の教えですから、いくら聞いていても「真実の行信」は獲られません。「信じることも要らない」と言って信心も不要だと説いているのですから、こんなものは浄土真宗でも何でもないただの新興宗教であるということに会員の皆さんは気付くべきです。


ところで、今年から『歎異抄』と関連づけることの多い高森会長ですが、今回も『歎異抄』第二条

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり
たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ


のお言葉の一部分を「聞く一つであることを仰った生々しい親鸞聖人のお言葉」として紹介したようです。これのどこがと思う方がほとんどでしょうが、いつもの断章取義です。頂いた情報からは説明したのは下線部についてであり、やはり「念仏」については何の説明も無かったようです。それに、

総じてもつて存知せざるなり。

については

分かり過ぎていることを聞いてくる者に対して使われる「知らん」

だと従来の説明を繰り返していました。これについては

『飛雲』そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長

やそのリンク先に既に述べられていますので、詳しくはそちらを参照して下さい。

高森会長は『教行証文類』を始めとする聖典を体験記だと勘違いして久しいですが、そうではありません。親鸞聖人の著作、特に『教行証文類』は、聖人が多くの資料や文献を集め、それらをまとめて私見を述べられた学術論文です(※)。そこに書かれていることのほとんどは体験として知らされたことではなく、これらの事からこうした結論が導き出されるとか、あるいはこうでなくては理屈が通らないという親鸞聖人の理論です。親鸞聖人のその他の著述にしても、経典や論や釈のお言葉を引いて解説されたり、それらを基に教えを書かれたりということがほとんどです。そこには、体験から知らされた内容ではなく、経典や七高僧方や先哲の釈文から、理屈の上で知らされた内容が書かれているのです。

では、親鸞聖人は「念仏」が「浄土に生るるたね」であると体験から知らされたのかというと、違います。当時まだ聖人は御存命であって、浄土にはお生まれになっていません。一方、阿弥陀仏や浄土については、煩悩が眼をさえぎって見たてまつることができないと仰っています。そんな状態で、どうして凡夫の側から念仏を浄土に生まれるたねだと言えるのかという話です。見たことも往ったこともない浄土が、どうして私達の自覚の上でハッキリするでしょうか。親鸞聖人はよき人法然聖人からの教えを、体験からではなく、そのままわれも信じ私達にもそのまま教えて下さったのです。その信心の表明が『歎異抄』第二条です。凡夫の浅智で分かることはほとんどありません。

ここのところを親鸞会の会員は、信心決定したならば、阿弥陀仏から智恵を賜って相当のことが判ると考えていると思います。信心決定を神秘的なものとして聞かされていますのでそのようにしか考えられないでしょうが、しかし凡夫の浅智は信前信後変わらないのです。よって「知らん」は文字通り「知らん」、「分からん」で、「浄土へ往けるかどうか詳しくは阿弥陀仏か法然聖人にお尋ねになって下さい」ということです。

私達はただ、阿弥陀仏に死後どのような処へ行くのかも含めてすべておまかせするのみです。「他力の信心」とはそういうことです。「往生一定」は、力強い本願力に依るが故に「往生一定」、釈尊や七高僧、先哲の教えから「往生一定」なので、凡夫の側から「極楽参り間違いなしとハッキリする」のとは違うことを知って下さい。


◎のお言葉に戻ります。ここで大事なのは「念仏」です。現代語訳は

念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったくわたしの知るところではありません。たとえ法然上人にだまされて、念仏したために地獄へ堕ちたとしても、決して後悔はいたしません。

ですが、これはどう見ても、「聞く一つ」と言うより「念仏一つ」と仰っているお言葉です。しかし「念仏一つ」とは高森会長は絶対に言いません。教義が根底から覆されるからです。どこまでも「念仏」についての話は避け続け、邪義を唱え続けています。言うまでもありませんが、『歎異抄』第二条は「往生極楽のみち」は「ただ念仏」であることが教えられているのです。「念仏」を説かずして聖人の教えは分かりません。この直前のお言葉

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

にあるように、よきひと法然聖人の仰せは

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

でした。その仰せを仰せの通りに頂いて、信じて念仏する他に、親鸞何にもございませんというお言葉です。そこから◎のお言葉へとつながるわけですが、「よきひと(法然)の仰せ」も「ただ念仏して」も「信じて」も「弥陀にたすけられまゐらすべし」も何にも分からない高森会長は、分からない部分をすっ飛ばして自分の都合の良い部分だけを切り取り、独自の解釈を加えて「正しい解説」をしているつもりなのでした。

ではどうして「騙されて念仏して地獄へ堕ちても後悔ない」と言えるのかというと、その答えが次です。

そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

念仏以外の善を励んで仏に成れるような身なら、念仏して地獄へ堕ちたら「騙された」という後悔もあるだろう。しかし、どのような行も満足に修めることができない私は、地獄より他に住み家がないのだ、との仰せです。そういう親鸞だから、よき人の仰せをそのまま受けて信じ念仏する他に何にもない、それで地獄へ堕ちても元々地獄なのだから後悔しないと仰っているのです。会員には分からないかも知れませんが、「決して騙されない身になった」からこういうことを仰っているのではなく、信心のありのまま、そのままを語られているのです。我々には他の方便は無く、ただ念仏して浄土に生まれるという教えを、法然聖人から受けて親鸞もそのまま信じている、受け容れているということです。それは

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ
『高僧和讃』源信讃

のお言葉によってもお判りになるでしょう。


こうした法然聖人、親鸞聖人の教えに対して、高森会長は「念仏」を全く説きません。それどころか、今までは間違ってはいたものの強調していた「信心」も要らない、聞く一つだと宣っています。こんな「念仏」も「信心」も無い、ハッキリスッキリ体験が根拠の高森教をいくら聞く一つと聞き続けても、法然・親鸞聖人と同じ信心になり、同じく念仏して、同じ浄土へ参ることはありません。会員の皆さんは、間違ったオリジナルの『歎異抄』講釈を始めて更に惑わそうとする高森教から離れて、早く「往相の回向」である大行と大信を賜り、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。

親鸞聖人を「群賊」呼ばわりする謗法の徒が高森顕徹会長

親鸞会発行『顕正新聞』平成30年3月15日号6面に以下の文章が載っています。

●親鸞会と群賊の違い

親鸞会と群賊の大きな違いの一つは、
親鸞聖人の教えは三願転入であると説く。
三願転入の教えは「なぜ生きる2」にも
詳述されている。
それに対して、群賊たちは、三願転入は
不要として説かない。


久しぶりに「三願転入の教え」という言葉が出てきた気がします。「一切衆生必堕無間」といい「宿善」といい、「若不生者の「生」について」といい、親鸞会では外部からの批判を恐れて、それまで大上段に構え自信満々で唱えてきた説を引っ込めて、ほとぼりが冷めた頃にまた復活させるということを繰り返しています。尤も、今回は飛雲さんが今では、会の中で話題にさえしない駄作だと煽ったのが要因かも知れません。


それにしても親鸞会は「親鸞聖人の教えは三願転入である」とこれまた大ウソをついています。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。教文類

浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。(末灯鈔1通

浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり一念多念証文

真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。唯信鈔文意【3】

等とあるように、親鸞聖人の教えは阿弥陀仏の本願を説く無量寿経の教えであり、往還二種の回向であり、往相の回向について真実の教行信証であり、選択本願すなわち第十八願であり、念仏往生であり、信心往生の教えであります。親鸞聖人の書き残されたもののどこかに、

・つつしんで浄土真宗を案ずるに、三願転入あり。
・浄土真宗のならひには、三願転入と申すなり


のような文言が一箇所でもあれば親鸞会の主張にも筋が通るのですが、御存じのようにそんなお言葉は存在しません。では何を根拠に言っているのかと言えば、言わずと知れた大沼法竜師です。

大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ

他人の著書をパクりまくって自説のように振舞っている、これが偽らざる無二の善知識様の正体です。


さて、親鸞聖人はある処では本師源空法然聖人の教えを「浄土真宗」だと仰っています。

智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ
『高僧和讃』源空讃

元々「浄土真宗」とは教団の名前ではなく「浄土往生を説く真実の教え」という意味でした。親鸞聖人としては、法然聖人の明かされた選択本願念仏の教えをそのままわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなりという思いだったのでしょう。では法然聖人の教えに「三願転入」があるかと言えば、これまた全くありません。

そもそも親鸞会流「三願転入の教え」とは、

・弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。
・ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。
『なぜ生きる2』のトンデモ邪義10『なぜ生きる2』のトンデモ邪義11より)

とあるように阿弥陀仏の第19願の善を実地にやること、つまり19願の『修諸功徳』の勧め、及び『観無量寿経』顕説である19願意の定散二善の勧めが大前提としてあります。ところが法然聖人はこうした十九願、定散二善は実行させるためではなく、捨てさせるために説かれたのだと仰せです。

・諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。(『選択集』傍正

・また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。(『選択集』観仏三昧と念仏三昧の一経両宗


こうした『選択本願念仏集』を一度でも読んでいたら、「三願転入の教え」云々とは絶対に言えないし、ましてそれを本に書いて世に出版するなど有り得ない話です。高森会長が七祖聖教を読む者を罰するのも道理です。

法然聖人のお言葉が親鸞会にとって水爆級であることはこの記事にも書いていますが、『選択集』にはそれほど諸行諸善を廃して念仏一行を立てよという一貫した教えが説かれていました。それ故、聖道門から『摧邪輪』という書物や『延暦寺奏状』『興福寺奏状』という朝廷への直訴状まで出されて厳しく批判されねばならなかったのです。その中でどのような批判がなされていたのかと言えば、例えば

********************
『延暦寺奏状』にこうあります。

しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、「諸悪莫作 諸善奉行」むしろ七仏通戒の誠に非ずや。
『なぜ生きる2』のトンデモ邪義9
********************
承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけでいいというのはおかしいと言っているのです。
また法然上人が亡くなられた後、明恵高弁が『摧邪輪』を著して、

しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出して、19願は本願ではないのかといっています。
『なぜ生きる2』のトンデモ邪義20
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とあるように「七仏通戒の誠に非ずや」「ただ一種を以て本願と号せんや」「是れ本願にあらずや」などというものでした。まさに高森会長ら親鸞会側の主張そのものです。かつて聖道諸宗が法然聖人・親鸞聖人を攻撃したのと同じ理屈、同じ根拠で、現在親鸞会が本願寺や退会者を攻撃しているのが判るでしょう。


「三願転入」は七高僧方の仰っていないことであり、親鸞聖人も「化身土文類」にただ一箇所述べられているのみ、覚如上人や蓮如上人は言及されていません。また親鸞聖人はお手紙にて、ご自身の『教行証文類』ではなく、『唯信鈔』、『後世物語聞書』、『自力他力事』等を読むように同行に教えられています(※)。それらの書物の中にも当然「三願転入」は説かれていません。ということは、「三願転入」は我々が18願の救いにあずかるために不要だということです。必要なら親鸞聖人が至る所に書かれているはずですし、また「三願転入」が書かれていない兄弟子達の書物を同行に勧めるのも疑問です。第一、親鸞聖人の教えを正確に伝えられ、聖人と一味の安心だと親鸞会でも言っている覚如上人や蓮如上人が言及されないわけがないではありませんか。

以上より、獲信・往生のために「三願転入は不要」なのでした。会員の皆さんは、親鸞聖人を「群賊」呼ばわりする謗法の徒が高森顕徹会長であることに早く気付いて親鸞会に見切りをつけましょう。



【参照】
『WikiArc』浄土真宗

高森の教行信証(証編) - つつしんで高森の証を顕さば、表裏の義あり。その裏といふは、『「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活』『アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験』なり。

高森の教行信証」も後は「高森の証」を残すのみとなりました。今までを簡単に振り返りますと、

高森の教」・・・映画『なぜ生きる』(を代表とした高森顕徹会長の出版物)
高森の行」・・・助正間雑、雑行、悪業悪行(人集め金集め、高森への無条件服従)
高森の信」・・・①創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心(獲られたとして)
          ②「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、善知識だのみ

です。いずれも「真実の教」「真実の行」「真実の信」とは大いに異なります。決定的な違いは

如来より回向せられる他力真実の教行信に対して、高森より授けられる自力邪偽の教行信

という点です。「他力回向」に対して「自力いっぱいの求道」、「念仏一行」に対して「高森教の組織拡大活動」、往生には念仏一つとふたごころない「真実の信」に対して意業の上での「ハッキリスッキリ体験」ですから、そんな教えで「浄土真宗」「親鸞」会などと名乗る資格はありません。「高森教」とでも名乗るのが相応しいです。


阿弥陀仏は久遠実成の古仏として、五濁の凡愚を憐れに思われ、釈迦牟尼仏となってこの世に応現して下さいました。そして『大無量寿経』を説いて、南無阿弥陀仏の名号という形で我々のような凡愚に「往生のみち」を与えて下さったのです。全く本願力の独用(ひとりばたらき)によって、我々は本願力がはたらいていることを聞かされ、信知させられ、成仏させられるのです。私達はこの道理を造作もなく、計らいも要らずにただ聞き受けるのみです。こうして十八願のいわれ、南無阿弥陀仏の六字のこころを領受したのを「信心決定」と言います。その人にしかない神秘的体験やハッキリスッキリ体験のことではありません。このように「真実の行信」を獲た念仏の行者がやがて得させて頂くのが

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。(「証文類」往相の真証

とあるようにこの上ない仏のさとりという「真実の証」であり、そして大悲の必然である「還相」でした。

二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。「証文類」還相回向

迷える人びとを救うために、煩悩の渦巻く穢土に還ってくる。思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれるというのです。


このことは高森教でも「浄土往生」「往生即成仏」「還相回向」と言うには言いますが、「高森の教行信」からは出てきようもない証果です。また会員にとっては、死後の「浄土往生」「往生即成仏」もけっこうだがそれよりも何よりもこの世を「絶対の幸福」に生きたい、苦悩渦巻く人生を「光明輝く生活」の出来るようになりたい、としか思っていないでしょう。それに現在「絶対の幸福」になりさえすれば死後の証果は必ずついてくるのだから、今はとにかく「絶対の幸福」になることが肝要、それには聴聞、おつとめ、善・・・といった感じで、会員は念仏一行とは程遠い活動の日々を過ごしていることと思われます。

そうやって頑張って求めていけば、やがて信仰が進んで、ドタ牛のような下の心が被っている布団がはがれていって、下の心が「」と阿弥陀仏のジカの呼び声を聞ける時が来るのだ。アニメの親鸞聖人や韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験ができるんだと夢見ているのは想像に難くありません。いつまでも救いは今ではなく求めていった先の未来の話で、それでいて「平生業成」とはどの口が言うのか、今から振り返れば狂人の寝言としか思えないです。

こんな具合で、会員は阿弥陀さまの願いを聞き受けるどころか、逆に自分の願望を阿弥陀さまに聞き入れてもらおうというつもりで教えを聞いています。迷いの世界からの出離、報土往生をさせると誓われている本願を、この世を「絶対に崩れない変わらない幸福、一切の滅びる中に滅びざる永遠の幸福」にする本願だと思い込み、早くその身になりたい、早くしてくれ、どうしてして下さらないんだ、こんなに頑張っているのに、こんなに苦しんでいるのにと、どこかの幸福製造機や、求道の褒賞として信心を獲られるかの如く思っているのですから、これで親鸞聖人の教え、浄土真宗が分かるわけがないのです。

それに、「浄土往生」「往生即成仏」はまだしも、「還相回向」は肯定的に捉えていないのではないでしょうか。私は親鸞会で初めて「還相回向」の話を聞いた時、鬱々とした気分になったものでした。

え~、またこの世に還って来て苦しまねばならないのか~

と思ったからです。講師部員や先輩から「浄土から還って来た人は必ず信心決定できる」などと聞かされてはいたものの、またこの世の苦しみを味わい、信心決定までの遠き道を求めなければならないのかと思うとイヤで仕方ありませんでした。無間地獄に堕ちることと比べたらマシか位で、けっこうなことだとは到底思えませんでした。ここらへんR1000さん辺りは同感してくれると思いますが、読んでたらコメきぼんぬ(笑)


このように「死後の救い」と言っても実質言葉のみで、死後の地獄を説くことも組織拡大に駆り立てるためのツールに過ぎず、現世利益を謳って浄土真宗を利用しているのが高森顕徹会長であり、その教えが「高森の教行信証」であることがお判り頂けると思います。「高森の証」も表向きの証と裏の証があり、表向きの証は

・「浄土往生」「往生即成仏」「還相回向

ですが、会員が憧れ求めているところの証、裏の証は

「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。

です。ただこれも、高森教の理想像であって現実に獲られる人は極めて稀です。たいがいは絵に描いた餅、目の前にぶら下げられたニンジンであって、組織拡大活動のモチベーションとして掲げられているに過ぎません。そして獲られたとしても、あくまで「高森の証」であって「真実の証」とは似ても似つかぬ邪義の証です。そんなものはよその宗教、特に新興宗教へ行けばいくらでも聞くことができるでしょう。


以上、長くなりましたが「高森の教行信証」を一通り顕し終わりました。会員の皆さんは、一刻も早くこのような高森の邪道を出て、「真実の教行信証」に帰依して頂きたいと思います。


つつしんで高森の証を顕さば、表裏の義あり。その表といふは、すなはちこれ浄土往生なり。往生即成仏なり。還相回向なり。然るに親鸞会の会員、かくのごとき証果を求めず。弥陀の本願を知らず、本願を聞かず、ただ己が願望を弥陀に叶えさせんとして活動するのみなり。その裏といふは、

・「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
・アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。


なり。かくのごとき己が願望を叶えんと高森の教を学び、高森の行信を修するのみなり。是は是、高森教の理想像なり。画餅なり。目前の餌なり。組織拡大活動の根源なり。もし、これを獲たりといふとも、高森の証にして真実の証に非ず。邪義の証にして大般涅槃を超証せざる条勿論なり。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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