【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(6)

本願のはたらき、名号のはたらきが我々の行為となって現れている。これが真宗の「」すなわち「称名念仏」です。それは念仏して助かろうという我が計らいを雑じえた行為ではありません。「念仏する者を助ける」という本願のはたらきにまるっきりまかせたすがたが、「称名」という行為なのです。

いわゆる所行派()の方々は、「称えられる名号」に重きを置いて「称える念仏」を軽視するきらいがあります。けれど、祖師は本願のはたらきがそのまま我々の口から現れてきた称名の位で「大行」と言われているのですから、やはり能所不二です。名号を信受したからには、称名という我々の行為になってくるのが当たり前です。

称名しているから真実信心とは言えませんが、やはり称名となって現れてこないとね。「念仏する者を助ける」という仰せに順って称名しているすがたこそ、本願を計らい無く受け容れている信心の表れです。でないと名号と衆生の接点がありません。名号は衆生の周りを空転するのではなく、我々の心に飛び込んで信心となり、また称名となって下さる。この一連の本願のはたらきを「大行」と言わねばなりません。

そして「大行」たる念仏は正定業です。「往相の回向」だからです。阿弥陀仏が「どうか私の名を称えておくれ」と下さった行だからです。念仏は浄土往生の正しきしわざですから、命のある限り申し勤めてゆくべき行です。信一念で事足りるから信後の称名は要らんみたいな人は、どこか聞き違いをしていると言わざるを得ません。


しかし、あまり「称える念仏」、称名を強調すると今度は称名正因に陥る危険があります。能行派の方々が一番困るのはこの問題ですね。信心の対象は行ですが、行を「称える念仏」とすると信心は「念仏称えたら助かる」とこうなる。これでは称名正因と受け取られても仕方ない。これを人間の側で言うたらあかん。これでは、聞く側は私が称える私の念仏と心得て、その功徳を積み重ねて浄土に往生しようとなりやすい。

論釈の文には人間の称える念仏が説かれているが、ともすると念仏が私の行、私の善と受け取られやすい。自力の雑じらない、往相回向の念仏ということを示すには、「南無阿弥陀仏」の六字のいわれを説き開く必要があった。念仏は私の行でも善でもなく、阿弥陀仏からの「帰せよの命」であることを示しておく必要があったと推察されます。親鸞聖人によると、私の口から出ずるお念仏は、阿弥陀仏が私の口を借りて「助けるぞ」と喚んでおられる声だというのです。それが、

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音(こえ)なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。「行文類」親鸞聖人の六字釈

とのお言葉です。これは善導大師の六字釈など十文を挙げた後の結びとなるような御文です。

南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「悦(えつ)」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。

また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「税(さい)」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。説(せつ)の字には、悦(えつ)と税(さい)の二つの読み方がありますが、説(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。

“説”のいろいろな読み方と例文によると、このように「説」には実に多くの読み方があります。「帰」を「帰説」と熟語して、阿弥陀仏が我々に思召しを述べられているということを細かに説明しておられます。

次に「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。

このように丁寧に字訓を述べられ、最後に「帰命は本願招喚の勅命なり」と結ばれています。阿弥陀仏が我々に向かって「来いよ来いよ」「我にまかせよ」「助けるぞ」と喚んでおられる本願の仰せ、命令、勅命が、すなわち「南無阿弥陀仏」だというのです。


本来「帰命」とは「命に帰す」で、我々人間が仏に信順帰依することを意味する語です。しかし聖人は阿弥陀仏が我々人間に「帰せよと喚んでおられる命」だと、仏と人間の位置をひっくり返して説明されています。

また「帰命は本願招喚の勅命なり」に関しても、通常は「帰命は本願招喚の勅命を聞くことなり」とか、或いは「帰命は本願招喚の勅命を信ずることなり」と言わなければならないところです。そこを、聞く、信ずるということを取り除いてただ「帰命は本願招喚の勅命なり」と言われたということは、如来の喚び声というものが自ずからはたらいて我々の帰命の信となって下さる、我々人間の方でプラスするものは何も無いんだということでしょう。

それで私はたまにこの言葉を紹介しています。

「仰せで安心するのである。仰せを聞いて、わが胸の中へ持ちこんで安心しようとするのではない。仰せだけで安心してしまうのである」(※)

本願招喚の勅命を聞いて、我が胸に持ち込んで様々に思考を巡らし、「あぁそうか」と分かったのが信心のように思うかもしれませんが、そうではないのです。月がそのまま池に姿を宿すように、仰せがそのまま我々の心に宿る。我々があれこれ手を加え思考を加える必要は無いんです。逆にその計らいが蓋となって我々の心に宿ろうとする如来のはたらきを妨げているのです。

それでよく言うでしょう? 「助けるぞ」を聞くのがすなわち信だと。私は近藤智史さんからこの言葉を聞きましたが、当初は意味不明でしたね。けれど今は、これほど如来の勅命と、聞と、信の関係を言い得て妙だと思える語は見当たらないと思います。「助けるぞ」をただ聞くばかり、ただ頂くばかり、それがそのまま信心。だから信心といっても「助けるぞ」の仰せ、すなわち「南無阿弥陀仏」以外に無い。その「南無阿弥陀仏」が領受されたなら、今度はそれが我々の口に称名となって現れてくる。これが聞即信、信即称とこういうことですね。

南無阿弥陀仏」は「助けるぞ」という大悲招喚の声。私が称えるには称えるのだけれども、それは私の口を借りた如来の喚び声である。だから名号を称えるというのは、喚び声を聞くということ。称名はすなわち聞名。この喚び声一つで安心してしまうのが浄土真宗です。

有難いことです、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【浄土真宗本願寺派 鹿鳴山 願生寺】私的研究室 16.浄土真宗の行
『安心論題』(16)六字釈義
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【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(5)

本日は「破闇満願」の釈について見ていきたいと思います。これは大行釈の後、経典からの引文と、論釈の文からの引文の間に出てきます。諸仏讃嘆の名号を信受して、真実信心の念仏を称えるなら「破闇満願」の徳益を得ることを

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」

と示されています。

ここでもただ「名は」とは仰らずに「名を称するに」と仰っています。名号そのものに我々の無明を破り、志願を満たして下さるはたらきがあるのだけれども、聖人は名号が衆生の中へ入ってきて信心となり、それが我々の身の上に現れてきた称名の位で「破闇満願」の徳益を教えられています。『浄土論註』には名号の徳用、名号のもつはたらきに主眼が置かれていますが、親鸞聖人は、名号に我々の無明を破り志願を満たすはたらきがあるなら、それを信受した真実信心の称名にもまた「破闇満願」のはたらきがあると仰るのです。

経典と論釈の文の間にこうしたご自釈を置かれているのが私達には大変有難いですね。昔から承上起下といって、上をうけて下をおこす、とこういう言葉があるそうです。

上のお経に諸仏が南無阿弥陀仏を称揚称讃するということがあって、下の論釈に人間が称える念仏がある。その真ん中にご自釈を置いたということは、私達の称える念仏が諸仏の称讃と少しも変わらない、素晴らしい念仏なんだということなんですね。

そりゃそうです。我が計らいの心をもって称えているんじゃない。本願のはたらきがそのまま出てくるのが念仏なんだから。念仏は往相の回向による行、阿弥陀仏がただ一つ選び択って「称えよ」と与えて下さった本願の行ですから、その名義にかなって称えるお念仏には我々の無明を破り、往生の志願を満たすはたらきがある。だから「大行」だというのです。

このようなことですから、「称名」は「最勝真妙の正業」なり。正しく浄土往生が決定する行業であると言われていますね。「称名」には報恩の意味もあるけれども、その徳義から言えば「正定業」なのです。これを、私を主体に置いて「称える」という行為に目をやり、称えて助かろうと計らいを雑じえるから本願名号のはたらきが阻害されてしまうんです。私が主体ではなく、また「称える」行為に目をやるのでもなく、阿弥陀仏が主体、阿弥陀仏の「助けるぞ」のお慈悲がそのまま我々の念仏となる。そのお慈悲を受け容れ、本願他力にまかせた「称名」が「正定業」ということです。念仏は私の口から出ているけれども、それで助かろうというのではない。「助けるぞ」の仰せに全てまかせている。これが他力念仏行者の心持ちです。

次に「正業」、正定業は念仏の他にありませんから「正業はすなはちこれ念仏なり」と仰っています。善導大師は他の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の行を助業と仰っていますが、これらは称名の助けとなり称名に伴う行であるからですね。これを、やはり私の行為に目をやって正定業と助業の区別なく並べて修め、それによって助かろうというのを「助正間雑」といい、それでは報土へは参れないと教えられています。

それから、「念仏」は「南無阿弥陀仏」なりと続きます。ここでは、お念仏、名号を離れて阿弥陀仏という仏様は無いんだと名体不二であることを表されています。お念仏の他に阿弥陀仏という仏様を考えても我々には分からない。南無阿弥陀仏の名号が、すなわち阿弥陀仏という仏、阿弥陀仏という正覚である。

最後に「南無阿弥陀仏」は「正念」なり、つまり信心であると仰せられています。これは、なんまんだぶを称えることの他に信心は無いんだと行信不二を表しています。本願のはたらきも、それを計らい無く受け容れる信心も、念仏を称えることの他には無いんだということです。そのことは先に紹介した大行釈で往相の回向について「大行あり、大信あり」と行と信を一緒に教えられていることからも判るでしょう。往相回向の行には、当然往相回向の信が具足しています。本願力を疑い無く信じてまかせる信心を南無阿弥陀仏に込めてお与え下さるので、南無阿弥陀仏と称える行の中に自ずから信心を具足しているのです。


信心が大事、信心正因、唯信独達と、真宗にはとにかく信心を追い求める人が多いようですが、南無阿弥陀仏の他に信心はありませんよ。けっこう前に、淳心房の信心は「南無阿弥陀仏の他に何もない」と書いた覚えがありますが、この口に称え聞こえるなんまんだぶがすなわち信心です。なんまんだぶは「助けるぞ」の仰せ。「助けるぞ」の仰せを聞くのがすなわち信心です。念仏の他に信心を探すから分からなくなるのだと思います。

また、聴聞が大事、聴聞に極まるというけれども、この口より聞こえるなんまんだぶの他に一体何を聞こうというのでしょうか。なんまんだぶはすなわち、「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」という阿弥陀仏の喚び声、帰せよの命であり、直の説法なんです。善知識よりこうした念仏のいわれを聞くのが聴聞です。御文の意味を聞くんじゃない。何か変わったことを聞くんじゃない。南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞くんだ。

「同じことを聞く」と言いますが、「同じこと」とは南無阿弥陀仏の六字のいわれです。お前は決して迷いの世界を出られない者だ。そのお前を目当てに阿弥陀仏は「念仏する者を助ける」と誓われた。そして今やその願成就して南無阿弥陀仏と成られている。だから、私達はその誓いをそのまま受け容れてお念仏申すのみなんだ。我々の口から出てくるなんまんだぶ、なんまんだぶという一声一声に、「助けるぞ」「お前の後生引き受けた」「安心してまかせなさい」という阿弥陀仏のお慈悲が満ち満ちているんだ。その阿弥陀仏のお慈悲を聞く。

因果の道理」を聞くんじゃない。「廃悪修善」をせよという話を聞くんじゃない。「真実の自己」がどうたらという話を聞くんじゃない。「19願」「20願」を聞くんじゃない。「相対の幸福」「絶対の幸福」が云々という話を聞くんじゃない。参詣目標人数、入会目標人数が何人、目標財施額がいくらという話を聞くんじゃない。

私達が聞くべき南無阿弥陀仏の六字のいわれ。口では「信心決定あれかし」と蓮如上人の真似をしていても、これを話さないようではその知識は善知識ではありません。信心の体は南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏を話さないということは、信心を獲させる気がないということです。もし今の知識、先生が南無阿弥陀仏を話さないのなら、その先生から離れて別の知識を求めた方がよいでしょう。


話が逸れてしまいましたが、一応これで「破闇満願」の釈についての考察を終えたいと思います。



【参照】
称名破満の釈義

「二河白道の譬え」は回避し、「絶対の幸福」を連呼するも結局説明になっていない高森顕徹会長

7月8日(日)は高森顕徹会長の座談会があったそうですが、またも「二河白道の譬え」は回避です。今回は

「弥陀の本願」と「大悲の願船」の関係について

だったとのことですが、今更会員はこのようなことを聞きたいでしょうかね? それよりも、

どうしたら大船に乗せて頂くことが出来るのか

ということを分かりやすく徹底するために善導大師が説かれたという「二河白道の譬え」を聞きたいという会員の方が多いんじゃないかと思います。おそらく、最近の『飛雲』で徹底的に譬え話自体の誤りと何を譬えたものかの誤りを暴かれていますから、更なる批判を恐れて出すに出せないといったところでしょう。


さて、今回は高森会長の話を聞いていれば当然ですが

「絶対の幸福」がわからないという質問も多い

ことを紹介していました。長年聞いている人ならお判りでしょうが、高森会長は結局「相対の幸福」ではないと話しているに過ぎません。それで「絶対の幸福」がどんなものか分かる人の方がおかしいです。今回も例に漏れず「相対の幸福」の話ばかりで、「絶対の幸福」については

「相対の幸福」しか知らない私たちは分からない。世を超えている。

と煙に巻いていました。「相対の幸福」については

全て死んで行く時に崩れてしまう幸福。比べて初めて感じる幸福。煩悩を満たす幸せ。

等と説明していましたが、それなら「絶対の幸福」は

死んで行く時も崩れない幸福。比べなくても感じる幸福。煩悩を満たす幸せではない。

ということかと想像するよりありません。訳の分からない幻想的な楽で人々を釣って組織拡大に利用するのみで、高森会長には親鸞聖人の教えを正しく伝えて往還二種の回向を獲させる気など更々無いことが伺えます。


そう言えば、今回高森会長は演題の質問について

「弥陀の本願」と「大悲の願船」の関係は「イコール」

だとか宣っていました。今までは「弥陀の本願」が設計図、それに基づいて出来上がったのが「大悲の願船」だということでしたが、念仏する者を浄土に迎えるという本願も、本願が成就したすがたである南無阿弥陀仏の六字も全く説く気が無いのですから、もはや高森会長には本願も願船も一緒、とにかく騙し続けられればそれでいいのでしょう。こんな邪偽の善知識を未だに盲信している会員が哀れでなりません。

もちろん無関係ではないけれども、本願と願船はイコールではありません。念仏する者を浄土に迎えるという本願が成就して南無阿弥陀仏の船が仕上がった、という関係です。私達は、名号のいわれを聞いて信心歓喜乃至一念し、正定聚の位に定まるわけですから、名号のいわれを聞かないことには救われません。

阿弥陀仏はかつて法蔵菩薩であった時、迷いの世界で苦しみ悩んでいる全ての衆生を平等に救い摂りたいと願いを発されました。この世にはまことのやすらぎも楽しみもなく、私達は永遠に流転して苦悩は絶えることがありません。そこで法蔵菩薩は諸仏に超え勝れた浄土を建立し、衆生を迷界より出離させ、浄土へ迎えて救うと誓われたのです。そして不可思議兆載永劫において菩薩の行を行ぜられてついに阿弥陀仏と成られ、今や円融無碍不可思議不可称不可説の至徳である南無阿弥陀仏を恵み与えて衆生を救いつつあります。

南無阿弥陀仏とは必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさいという阿弥陀仏の真実なる仰せなのです。そのいわれを聞き受けたのが信心、本願のはたらきがそのまま出てくるのが念仏。こうした往相回向の念仏を「大行」とされ、その「大行」による利益が

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

という「行文類」のお言葉です。これは真実信心による念仏生活の楽しさ、専ら念仏一行に仕えただ本願力回向の信心を崇める有難さを仰ったのであって、「絶対の幸福」だとかいう南無阿弥陀仏と何の関係があるのか分からない、説明を聞いても全く訳の分からない幻想的な幸福を教えられたものではありません。


阿弥陀仏の目的は衆生を出離、往生、成仏させることです。この世は火宅無常の世界であり、すべて空事、たわごと、まことあることなしです。そんな世界に生きる我々をこの世で絶対に崩れない変わらない幸福にする云々という目的の本願ではないのです。そんなにこの世の幸福にこだわるのなら、聖道門に行ってこの世での成仏を目指すべきです。そんな気概のない人も、親鸞会にいるより別の宗教に行ったり自己啓発セミナー等に通ったりした方がよほどマシでしょう。

本願はこの世の幸福をどうこうするというものではありませんし、この世の幸福は必ず崩れます。後生に対する心構えさえ、誰しも想像上の死と眼前に迫った死は異なりますから、眼前の死の恐怖を前に今まで聞いてきたことなど吹っ飛んでしまうかもしれません。しかし、臨終の様子がどうであれ、平生本願力をたのんで念仏する者は必ずその本願力によって往生させて頂くことが決定しているのです。私の心が問題じゃないんです。いまの南無阿弥陀仏が往生の定まりたる証拠で、私はまるまる南無阿弥陀仏におまかせするよりないんです。

幻想的な幸福に憧れ、ありもしない信心を求めて勧められるまま勧誘や献金や服従の行を繰り返しても、会員が思っているような本願ではありませんから往相の回向である「大行」、「大信」は獲られず報土往生はかないません。まして「白道」が「聞法心」だとかいうデタラメ「二河白道の譬え」を本物と思っていてはね。今回その話が無かったのは反って良かったかも知れません。

会員の皆さんには、この世の幸福云々を超えた、迷いの世界からの出離を目指した上で、阿弥陀仏の浄土に往生して仏に成るのが真宗の目的であるとわきまえて、それにはただ必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさいという本願招喚の勅命を聞き受けて念仏するのみであることを知って頂きたいと思います。

【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(4)

実は「行文類」の冒頭に、はや私の問いの答えが示されています。

Q. なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか?
A. 「往相の回向」だから。


念仏は私が称えておりながら私の行ではなく、阿弥陀仏の願いが届いたすがたです。名号が自ずからはたらいて信心となり、称名となって現れてくる。これら全てが往相の回向によるもの、私達の力は全く要せず、ただ本願の独用(ひとりばたらき)によってなさしめられるものです。こうした本願のはたらきをそのまま受け容れ、はたらきのままに出てくる念仏だから、その称名を「大行」と言われるわけですね。


これだけで十分有難いですが、もっと聖人のお言葉を通して「大行」の所以を探っていきたいと思います。

しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。「行文類」大行釈

ここでは、無碍光如来の名を称するという「大行」の出処はどこにあるのかということを述べられています。それは、阿弥陀仏の第17願だというのです。行の根拠を第17願から持ってこられたのは親鸞聖人が初めてです。善導さまも法然聖人も行の根拠は第18願の「乃至十念」であり、こんなことは仰せられていません。

『WikiArc』十七願文の文意

には法然聖人と聖覚法印が第17願を扱っていることが書かれていますが、17願は名号を往生の因とすることを一切衆生にあまねく聞かせるために建てられたのだと言われており、行の根拠としてではありません。それもそのはずで、第17願には

たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。

と、十方諸仏が我が名を称する、つまり阿弥陀仏の名号を褒め称えることを誓われています。十方諸仏に関係した願であって、我々の行がどうだとか、お念仏がどうだとかそんなことは言われていません。

第17願は諸仏に関係した願ですから、これを「諸仏称揚の願」「諸仏称名の願」「諸仏咨嗟の願」と名づけると仰っています。この3つの願名は先人によってすでに呼称されてきたものです。称揚も称名も咨嗟も褒め称える、称讃するという意味ですから、これらは17願文から見てもごく自然な呼び名です。


ところが、その後の「往相回向の願」「選択称名の願」という2つの願名は聖人が独自に付けられた名前です。だから「名づくべきなり」、こうとも言えると仰っています。

前の3つの願名からは諸仏、諸仏、諸仏と、諸仏に関係した願であって、我々には無関係なことと思われますが、「往相回向の願」と言われると急に意味合いが変わってきます。第17願は諸仏に関係した願でありながら、同時に私達に下さる願なんだ。諸仏が南無阿弥陀仏を褒めるというのは、そのまんま私に下さるために褒められるんだとこういうことなんですね。

選択称名の願」と言われると、ますます私達の為だということがハッキリしてきます。「選択」とついたら、若干の例外はあるものの大抵は第18願を指します。標挙の文に「選択本願の行」とありますが、これは第18願の行ということです。第18願の行と言ったら「乃至十念」の念仏しかありません。

こうなってくると、私達がなんまんだぶなんまんだぶと称えるということは、諸仏が南無阿弥陀仏を称讃する、褒め讃えるということとおんなじことなんだということになってきます。諸仏と私達凡夫と、褒める口には大変な違いがあるけれども、褒められるのは南無阿弥陀仏で一緒なんだ。私達が念仏することは、そのままで仏の行とおんなじ位に属するものなんだというのですから驚きです。念仏することの価値をそこまで高められたのが、親鸞聖人という御人なのです。


このことは『大無量寿経』の本願文からだけでは出てこないでしょうが、本願成就文と『大無量寿経』の異訳経、また先ほどのリンク先にある法然聖人や聖覚法印などの様々な論釈の文から、親鸞聖人は「」を第17願から出たものと見られたのではないかと思われます。

本願成就文(第17願成就文、第18願成就文)
十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く。

『平等覚経』の第17願(『大無量寿経』の第17願と第18願)
十七に、我作仏せん時、我が名をして八方・上下の無数の仏国に聞かしめん。諸仏各々弟子衆の中にして、我が功徳、国土の善を歎ぜん。諸天・人民・蠕動の類、我が名字を聞きて、皆悉く踊躍せんもの、我が国に来生せしめん。爾らずば、我作仏せず。

『大阿弥陀経』の第4願と第5願(『大無量寿経』の第17願と第18願)
それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得て乃し作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ。

某、作仏せしめん時、八方上下、諸の無央数天人民。及び蜎飛・蠕動の類、若し前世の悪を作し、我名字を聞きて、我国に来生せんと欲ん者は、即便(すなわち)反政し自ら悔過し、道の爲に善を作し、便ち経戒を持して、願じて我国に生れんと欲して、断絶せざらしむ。寿終りて皆な泥犁・禽獣・薜荔に復(かえ)らざしめて、即ち我国に生れて、心の所願に在らしめん。是の願を得て乃し作仏せん。是の願を得ずは終に作仏せじ。


このように並べてみると、単に諸仏が南無阿弥陀仏の名号を褒め讃えるだけでなく、衆生が名号を聞くという点で、本願成就文と『平等覚経』、『大阿弥陀経』の本願文とがピタッと一致します。

これらを伺いますに、諸仏が称讃し称揚する阿弥陀仏の名号のはたらきを「」といい、そのはたらきによって衆生が名号を聞いて領受した、信心歓喜した、歓喜踊躍したのを「」といい、「」を第17願に、「」を第18願に配当されたのではないかと思われます。一方は諸仏に関係した願、一方は衆生に関係した願でありながら、南無阿弥陀仏の「名号」「名字」という点で両願は共通しています。

同じ南無阿弥陀仏を、諸仏は聞かせるために褒め讃え、衆生は聞いて領受する。そして、衆生の口から称えられても仏の位に属する性質を失わない、衆生を間違いなく往生成仏させるはたらきを具えた南無阿弥陀仏ですから、まさに無碍光と称するに相応しい「威神功徳の不可思議」であります。

やはり(17願成就文を含めた)本願成就文を中心とした本願観からこそ、「往相の回向」である「大行」、「大信」が明らかになり、これら「真実の行信」をもって「真実の証」を得るという教行信証の四法が顕されたのではないかと考察されます。こんなことを言っているとまたなんやかんやと言われそうですが、私にはどうもそのように思えてなりません。


今回は一旦ここで切り、また別記事にて続きを書きたいと思います。


【参照】及び【参考文献】
『WikiArc』10 大行・真実行
『鹿鳴山 願生寺』浄土真宗の行
「教行信証を読む」(桜井鎔俊)

コメント返信(【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(3))

今回は頂いたコメントに返信します。



林遊@なんまんだぶ様

やはり親鸞聖人は、言わば法然聖人の教えの正当なる継承者なのですね。法然聖人と親鸞聖人の教学が大きく隔たってしまった理由の一つとして、梯和上が

「覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したこと」

を挙げておられるのは頷かざるを得ません。覚如上人は浄土宗から宗門を別にするために、あまり似通った教えでは別にする意味がないので信心正因称名報恩を前面に打ち出したのでしょう。それが蓮如上人に引き継がれて、以降浄土真宗ではずっと蓮如教学を代用して親鸞教学としてきた。

しかし、蓮如教学と親鸞教学が全く一緒ならいいのだけれども、どうも聖教を読んでみると一緒とは言えませんね。特に今考察中の「」すなわち「念仏」に関してはその教え方が違う。親鸞聖人の領解は、ただ「念仏する者を往生させる」本願をふたごころなく深く信じて念仏する、というものですね。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。『末灯鈔』12通

念仏の信心を詳しく説き開かれたのが「信文類」ですが、林遊さんが仰るように大行は大信であり、大信は大行。行と信とは一つであって二つ、二つであって一つという不離の関係でした。分けて説けば行と信と二つになるが、如来回向の大行には自ずから大信が具足しているし、大信は必ず大行の念仏となるのだから行と信はセットで見るべきですね。

これを分けて信心ばかり重視し、しかも信心を獲たことを「絶対の幸福」などと教わるものだから誤解し、ありもしない信心を求めて彷徨う羽目になる。これが親鸞会会員のすがたです。自分もかつてやっていたのですから他人事ではないですけど、実に困ったものです。特にあの「」の押し付け、「報恩の強要」は本当に勘弁してもらいたいです。



愚愚流様

信心といっても念仏の信心ですからね。念仏と信心を別々に考えたらいかんですね。まして「念仏を称えないのが大谷派の伝統である」て何ですか、そりゃ(苦笑)。念仏称えない真実信心なんて、声が出せないとか特別な事情がない限りあり得ません。称名報恩と教わっているなら御恩を報ずるためにお念仏申して当然。それが出ないのは如来広大の恩徳を迷失していると言われても仕方がないことかと思います。



チュウビ様

親鸞会の場合は「如来大悲の恩徳」、「師主知識の恩徳」を「高森先生の恩徳」にすり替え、「お礼の強要」をしてくるので論外です。高森先生がおられなければ親鸞聖人に遇うことができなかったと「高森先生の恩徳」を感じるならば、間違った教えを間違った教えとハッキリ指摘し、間違った教えを受けている人を正しい浄土真宗に誘引して差し上げることですね。これが「高森先生の恩徳」に報いることになるでしょう。また、それが同時に「如来大悲の恩徳」、「師主知識の恩徳」を報ずることにもなると思います。これからもお互い、共に本願を仰ぎお念仏を申して至徳を報謝する人生を歩みたいものですね。



Abc様

> 高田派では「お念仏の中に生かされる生活」として日々念仏と共に日暮しをしております。私は「念仏」を「阿弥陀さまがいるぞ」と言うことを私と私の近くにいる方(正しく言いますと私の声の届くところにおられる方)に聞かせていただくこと と受け取っております。

やはり仰せに順って称名しているすがたこそ、本願を計らい無く受け容れている信心のあらわれですね。念仏相続の日暮らしが、真宗門徒としてあるべきすがたと思います。お念仏する中に、仏を仰ぎたい気持ち、お浄土を願う気持ち、お念仏を伝えたいという気持ち、大悲の中に生かされながらそれに背反する心しかない自分を知らされ懺悔する気持ち、何とか仏の恩に報いたいという気持ち、等の様々な気持ちが起きる気がします。全ての本というか、お念仏申すことが根本ですよね。

そしていつも示して下さる御和讃からも知られるように、信心と念仏を必ずといっていいほどセットで聖人は教えておられる。念仏申すままが信心であり、信心は必ず念仏となって現れるのだから当然と言えば当然ですが、六字の他に信心があるように思っていたら信心を求めてガタガタと苦労することになります。

かと言って念仏申していれば誰でも真実信心かというとそうでもない。どこか自己流が雑じっていたら如実修行ではない。帰せよの命を受けてしまえば何でもないが、純粋なる他力の故に信じることが難しい。しかし何とか有縁の方々にお念仏とそのこころが伝わってもらいたいと願う他ありません。



コメントを下さった皆様、ありがとうございました。ご意見を受け、私自身法に触れ、お念仏を申す機縁となりまして有難く思います。これからもより聖教をたしなみ、お念仏を申して少しでも報恩謝徳の人生を歩みたいものです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんなんまんだぶ・・・

【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(3)

浄土真宗で「」とは本願のはたらきです。第17願から、諸仏によって南無阿弥陀仏の名号が説かれ、それを私達が聞いて信受し、与えられるままに称える。念仏は私が称えてはいますが私の行とは言いません。それは「名号を聞かせる」という本願のはたらきにより称えさせられている、如来の行です。如来が称えさせる如来の念仏だから、私達の口より出ずるお念仏はただの「」ではなく「大行」と言われるのです。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

親鸞聖人はただ「無碍光如来の名なり」とは仰らずに「無碍光如来の名を称するなり」、称名が「大行」だと仰っています。そうした称名の位で「大行」を語られていることに注意を払わねばならないと思います。

単に「無碍光如来の名」ではなく、これを「称する」ことをもって「大行」とせられたのには理由があるはずです。私はその理由の一つを、「名号が実際にはたらいていることを示すため」だと見ています。本願の名号やそのはたらき、また名号を領受した信心というのは色も形もないので愚鈍な私達には分かりません。名号が実際に生きてはたらいているかどうかは、我々の称名に現れて初めて形を取り、認識にのぼるものになります。本願の救いは絵に描いた餅ではないし、名号は衆生の周りを空転するものでもない。実際に私達を摂取して仏にするんだぞ。実際に我々の心に飛び込んできて信心となり、称名となるんだぞ。こういうことを示すために、名号の位ではなく、称名の位で「大行」を説き示されたのではないかと思うのです。

やはり、本願のはたらき、他力回向の行といっても、それが実際にはたらいて、回向せられて、我々の三業の上に現れてこないとね。そうでなければ本願の救いは絵空事であり、桃源郷のようになってしまいます。単に「お前を仏にするぞ」という本願が成就しただけではなく、それが現実にお前の身の上にはたらいて実際に仏に成るんだぞ、その証拠は今お前の口から出ている南無阿弥陀仏だ、とこういうことを私達に伝えたかったのではなかろうか。

またAbcさんも仰っていましたが、『教行証文類』は叡山の学僧に向けて書かれた面もあります。行のない仏教などありませんから、称名が諸善に超え勝れた浄土真実の行業であることを示すためであるのは勿論です。


「行文類」では大行釈の後、『大経』やその異訳経、また『悲華経』の御文を並べて、この通りどのお経を開いても諸仏が阿弥陀仏の名号を褒め讃えていなさるぞと明らかにされています。お経の御文では讃えられる名号の位で語られていますが、やがて論釈の文になってくると、今度は衆生の称名として教えられています。

諸仏が讃えられる名号を我々が聞き受けて信心となり、やがてそれが我々の称名となってくる。我々の行ではない、善ではないと言っても、やはりお念仏として三業に現れてこないと「行」になりません。名号はただ讃えられるのみではなく、衆生の中に入ってきて信心となり、称名とならなければなりません。

衆生が名号のいわれを信受したのが信心で、これが報土の因。ならその上の称名念仏は何かというと、信心を報土の正因とした上は称名は報恩と言わざるを得ない。これで一貫して教えられたのが蓮如上人ですね。

称名が報恩であるのは、私達が南無阿弥陀仏を聞いて感動し、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏することが周りにも伝わって本願を弘めてゆくことになるからです。本願を聞かせたい、弘めたい、全ての衆生を平等に救い摂り、さとりの領域に導きたいというのが阿弥陀仏の願いだからです。私達にはこの度迷いの世を離れ、さとらせて頂く身となった感謝、謝念の気持ちもありますから、「御恩報謝=お礼」は間違いとキッパリ片付けることには私は反対です。ただ、「私の称える私の行い」と捉えられやすいのも事実なので、「御恩報謝=お礼」はあまり適切な表現ではない位が穏当ではないかと思います。


ここでちょっと脇道に逸れますが言わせて下さい。以下は私の個人的意見ですので参考程度に。

こうした信心正因称名報恩説。これに勿論異論を唱えることも、これを説くことを否定するつもりもありません。ただ私は時代背景とかが現代とはちょっと合わないんじゃないかと思う。往生を願ってもいない、念仏一行ともなっていない人にいきなり信心正因称名報恩を説いても理解不能なんじゃないかと考えます。

蓮如上人時代は「一向宗」と言われたように、専修念仏が当たり前、念仏一行を称えて往生を願うというのが、現代と比べて民衆の間で相当盛んだったんじゃないか。その専修念仏、念仏一行を称える信心を蓮如上人は詳しく説き開かれたのではないかと思うんです。それに対して現代は、当然地域によって違うでしょうが、自分の周りなんかは念仏の声は無きに等しいです。価値観が多用して、無宗教が当たり前の時代です。そんな中で往生、浄土を願う人なんているのかと思ってしまいます。それぞれが色んな考えを持っていて、それが許される時代。話を聞きに来る人にも、様々な考え、利害、打算があることでしょう。

そういう人を相手に、いきなり信心といっても観念的なものと捉えられやすいのではないか。または親鸞会の「絶対の幸福」のように、幻想的な幸福を思い浮かべる人が多いのではないか。そして、称名を無用排斥して、とにかく信心を獲たい、信心を獲たいと信心乞食になる人が多くなるのではないかと思うのです。私は今一度、念仏一行を称えて往生せよと教えられた法然聖人に立ち返り、往生を願い、念仏一行となった上で親鸞聖人、蓮如上人の教えを受けねばならないのではないかと考えます。

まず往生、浄土を願わない人が信仰の道に入れるか。また、行は間違っているが信心は正しい、そんなことがあり得るか。往生、浄土ではなく、この世の幸福、安心、満足を目的にしているようでは、「浄土に迎える」という本願の仰せは頂けないでしょう。次に、信心の対象は行です。行は、如来が選択回向せられる南無阿弥陀仏以外にありません。お念仏一つになって浄土を願っている人でも、自力回向の考え、信心では如来のおこころにかなっていません。まして如来選択回向のお念仏の他、例えば助業や雑行、そんなものにもこころをかけ、それで何とかお浄土参りさせてもらおうなんて人が真実信心であるわけがないのです。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

速やかに迷いの世界を離れようと思ったらこうせよ、と法然聖人は仰せです。こんな判り易い教えがあるでしょうか。ここからですよ、往生極楽の道は。私が救われる道はお念仏の他に無いとお念仏一本になった上で、そのお念仏する心、信心が問題になるのです。今自分が称えているお念仏が他力にまかせて「仏の本願」にかなった念仏なのか、それとも計らいを雑えて「仏の本願」にかなっていない自力の念仏なのか。

「信心を頂いて浄土に参ろう」という方が真宗には多いようですが、その信心は念仏の信心ですよ。念仏をどう信ずるかです。念仏以外の余行を雑じえておって、心をかけておって、信心が獲られるわけがないんだ。まず迷いの世界を離れようという気で、次にそれには如来回向のお念仏以外にないと念仏一行になった上で、その念仏の信を聞かせて頂かなければなりません。私はそう思います。

今称えている南無阿弥陀仏のこころは、「助けるぞ」という阿弥陀仏の勅命なんだ。その「助けるぞ」を聞くのがすなわち信心なんだぞ。何かものを貰うように信心というものを頂くんじゃないんだ。「助けるぞ」を聞くばかりなんだ。「助けるぞ」の勅命にそのままおまかせするばかりなんだ。信心といっても、この南無阿弥陀仏の六字のこころ以外には無いぞと、こう教えられた方が蓮如上人です。


どうも信心正因称名報恩だから、いくら念仏称えても救われるには無意味、信心さえあれば念仏は要らないと考え、ありもしない信心を追い求める人。また、聞いていればそのうち信心が頂けてお浄土参りできるだろうなどと考えて聞いている人が多いような気がしてなりません。これでは、「念仏を称えて参ろう」が「信心を頂いて参ろう」「聴聞して参ろう」に変化したのみです。

迷いを離れて仏に成り、如来広大の恩徳に報いる道は選択回向のお念仏以外にはないと念仏一行に帰した上で、この口より称えられる念仏は「助けるぞ」という阿弥陀仏の大悲招喚の勅命なんだと、南無阿弥陀仏の六字のこころを領受して頂きたいものです。

【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(2)

」と言えば、普通は我々の為す行い、行業のことです。それでいくと、浄土真宗で「」とは南無阿弥陀仏とお念仏することだと思いがちです。あるいは本願のはたらきを「」と説かれる方もいます。これは確かにその通りなんだけれども、本願名号のはたらきばかりで私達の称名を全く無視していたらやはり祖師方のご解釈に合いません。とにかく御開山の「」の捉え方はそう単純なものではないのです。余談ですが、

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり

だから、私は当初短絡的に「なんまんだぶ、なんまんだぶ、とお念仏することか」と思っていました。けれども、「行文類」を読んでみるとそうは書いてないんです。まず「行文類」の標挙の文が

諸仏称名の願(浄土真実の行 選択本願の行)」

であり、これは諸仏の称名であって我々の念仏とは言われていません。諸仏が無碍光如来の名を褒め讃えることが「浄土真実の行」だというので、当面は我々の関係することではないんです。

ところが、です。「浄土真実の行」と並べて「選択本願の行」と書いてある。「選択本願の行」といったら第18願の念仏です。だから親鸞聖人の仰る「」の捉え方は難しいのです。ここのところを蓮如上人は、衆生の称名は信後報謝に決めてしまって、信前は法体の名号で語られています。『御文章』は皆そのような教えられ方になっています。その方が判り易く、また称名正因の異義に陥る心配がないからです。判り易かったから浄土真宗が庶民に広まったのでしょう。しかし親鸞聖人は「」についてそのような単純な捉え方はされていません。


親鸞聖人は、第17願に誓われた諸仏讃嘆の名号、また名号を私達に回向して信じさせ、称えさせ、往生成仏せしめる本願のはたらき、本願のはたらきのままに称えられる念仏、更に、私達の声を借りて「助けるぞー」という大悲招喚の呼び声となり、絶えず一切衆生を平等に救わんと濁世に活動している有り様、それらを「」と仰っています。そしてそれは、生きとし生ける者を平等に成仏せしめる絶対唯一の教法(誓願一仏乗)であり、諸善に対して遥かに超え勝れた浄土真実の行、選択本願の行です。

『行文類』には「」についてまず、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
大行釈

とお示しになられています。ここで、いきなり私達の常識では考えられないことを仰っています。

往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

大行」というのは「往相の回向」によるものなんだと言われています。阿弥陀仏より回向される、与えられる。我が計らいで称える行ではなく、阿弥陀さまの方より与えて下さる行なのです。このことは、後の

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。「行文類」決釈

にも明らかですし、『歎異抄』第8条にも

念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。

と教えられています。「」と言ったら私の行いと誰しも当たり前のように思っているでしょうが、もはやこの時点で「」に対する捉え方が常識とは全く異なるのです。私が称えるには称えるのだけれども、それは称えさせる阿弥陀仏のおはたらきがあって称えているのだということです。私には念仏申そうなどという殊勝な心は無い、ひとえに本願のおはたらきにより称えさせられている、本願のはたらきがそのまま我々の口から出てくるというのが浄土真宗のお念仏です。

「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。『一念多念証文』

」は「(はかり)」ということで、秤は乗っかったものがそのまま出てきます。そのように、なんまんだぶせよと私にはたらいている本願力がそのまま出てきたのが称名念仏だというのです。だから浄土真宗では「」の字ではなく「」の字を使うわけです。

ここで、「信心」を阿弥陀仏より賜る、頂くというのは親鸞会でも言われますし、ご存知の方も多いと思います。しかし、「」を賜る、頂くというのは親鸞会では聞いたことがありません。高森会長が真宗に無知であること、また会員には念仏という「真実の行」ではなく、献金・勧誘・服従といった「高森の行」を授けたいためでしょう。高森会長には「阿弥陀仏の本願を正しく説いて聞く皆さんに浄土往生して頂きたい」なんて気持ちは更々無いことに、会員の皆さんは早く気が付くべきです。

話を戻します。もし念仏が「私が称える私の念仏」なら「大行」ではありません。しかし、「阿弥陀仏が称えさせている阿弥陀仏の念仏」、阿弥陀仏が「どうか私の名を称えておくれ」と回向されている念仏、つまり阿弥陀仏の行ということならば、「大行」と言われてもすんなりきますね。お念仏は私の口よりいずるものですが、実際には阿弥陀仏をして称えしめている他力の行ですから、無碍光如来の名を称することを「大行」というのです。

ところで、「」とはただ口に出して言うということではなく、称揚、称讃のことで褒め讃えるということです。私達がなんまんだぶなんまんだぶと称えるということは、意識するしないに限らず南無阿弥陀仏を褒め讃えていることなんですね。

では南無阿弥陀仏を褒め讃える、称名念仏するという「大行」はどのようなもので、どのようなはたらきがあるのか。それは、如来が完成されたすべての善徳をおさめ(もろもろの善法を摂し)、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており(もろもろの徳本を具せり)、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきがある(極速円満す)というのです。そしてそれは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態(真如一実の功徳宝海)であるから、「大行」と名づけるのだと教えられています。

これも先ほど述べたように私の行ではなく、阿弥陀仏より回向される阿弥陀仏の行だからです。仏の行だからこのような素晴らしい功徳、はたらきがあるのです。そんな仏の行を阿弥陀仏にさせて頂いている、素晴らしいじゃないですか。有難い。かたじけないです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


そういうことならば、『観無量寿経』流通分にて

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。

と、念仏する人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると言われるのも、

「分陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。 この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。
もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。
『観経疏』散善義

と、念仏する人を五種の嘉誉といって様々に誉めるのも、

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。『観経疏』散善義

と、称名が正定業であることも、これら皆仏の行を行じているからということなら全て納得いくんです。また仏智を疑い、本願の嘉号を己の善根として称えている者でも化土往生する、ということも納得いくんです。たかだか念仏を称えた位でと思われますが、行自体は仏の位に属する行だからです。

ただし、親鸞聖人は化土を誡め専ら報土往生をお勧めになっています。化土は本願のお心にかなっていない者が往くところです。化土へ生まれた者は500年の間、宮殿の中で仏智疑惑の罪を償わねばなりません。また邪定聚ほどの危うさはないけれどもやはり往生が不定だというので、自力念仏往生をしようという人を不定聚の機と言われています。それで聖人は自力疑心を誡め、他力の信心を獲て念仏しなさいと教えられています。


今回はここで一旦切ります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


【参照】
『安心問答』20願は「○○往生」でしょうか?(スナフキンさんのコメント)
『みんな、西に向かう命の旅人』真門(第二十願)
『WikiArc』大行

【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(1)

これから何回かに分けて「行文類」の「大行」について考察してみたいと思います。というのも、称名報恩といっても念仏は信後報謝としての意味ばかりではないだろう、それでは俺の腹はふくれない、という考えからです。

確かに本願に対して疑蓋無雑の「信心」が往生の正因だから、「称名」は行者の心持ちからしたら報恩感謝の意だと言われるのも分かります。蓮如上人の『御文章』を読んでいますと、このことばかりが書かれています。それはその通りなんだけれども、だとしたら「信心」が先で「称名」は後ではないか。また助かるだけで言ったら「信心」ばかりで「称名」は要らないということになりはしないか。まだまことの信心の行者ならいいが、素人がちょっと聞くと「信前の念仏は全て自力の念仏」「称えても無意味なもの」と捉え、「称名」を敬遠し廃することになりはしないか。

ところが『教行証文類』では「信心」に先駆けて「称名」すなわち「」が説かれている。そして、

名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。「行文類」 経文結釈「破闇満願」

と、「称名」に我々の一切の無明を破り、一切の志願を満たして下さるはたらきがある。「称名」すなわち「最勝真妙の正業」、正しく往生が決定する行業だと仰っています。蓮如上人とは教え方が随分と違っています。

もしお念仏が親鸞会の言うようにただの「お礼」であれば、ちっとも、というのは言い過ぎだけれども、有難くありません。しかし、私はお念仏を称えていると法の喜びが多くなり、本願のはたらきを感じられます。一声一声が「淳心房を救うぞ」という呼び声であり、後生を安心させて頂くと共に、何とかこの本願を伝えたいという気持ちも起きてきます。お念仏が信後報謝の意味しかないとしたら、なぜこんなに有難いのだろうか。

また、南無阿弥陀仏と称えることが単に「お礼」ということならば、どうして南無阿弥陀仏を本尊にして崇め奉るのか不明です。私達が拠り所とし、根本に尊ぶべきものが本尊であるはずなのに、「お礼」の言葉を本尊として掲げるというのはちとおかしくはないか。

まだあります。親鸞聖人のお言葉として『歎異抄』後序には

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします

と書かれています。「信心」が正因で「称名」に「お礼」の意味しかないとしたら、なぜ「ただ念仏のみぞまこと」と仰ったんだろうか。「ただ信心のみぞまこと」とか、あるいは「ただ本願のみぞまこと」「ただ名号のみぞまこと」とは仰らずに、どうして「ただ念仏のみぞまこと」と仰ったんだろうか。

親鸞聖人は、ただ南無阿弥陀仏の名号が「大行」であるというのでなしに、

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり大行釈

と、無碍光如来の名を称すること、南無阿弥陀仏の名号を称えることが「大行」だと仰っています。これが私達の口に称えられる念仏でないとしたら一体何だ。御開山の釈に合わないじゃないか。

もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

総序のお言葉でも判るように、親鸞聖人は「信心」だけではなく「」を一緒に教え、「奉へ」よとお勧めです。

なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか? ここが分からないとお念仏の持つ意味合いが軽くなり、その有難みも薄れ、場合によっては無くなってしまう気がします。この謎を紐解くことが、如来広大の恩徳をより深く重く受け止め、味わうことにつながるだろうと思います。そこで私なりに様々な文献を参照しつつ、少しずつ区切って考察していこうと考えています。


何せ私は親鸞会時代に全くデタラメな教義を吹き込まれてきました。特に「」については第19願の「諸功徳」、『観経』顕説の「定散二善」、七仏通戒偈の「諸悪莫作 衆善奉行」、仏教の根幹、因果の道理の結論であるという「廃悪修善」、『浄土和讃』の「往生浄土の方便の善」、『御文章』の「宿善」等を根拠に

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に献金(財施)すること
・親鸞会に人を誘う(破邪顕正する)こと
・高森顕徹会長及び上司の指示に無条件で従うこと


およそこれらに代表される行為を「」だとし、「横の道を進む手段」「縦の線(信心獲得)に近づく手段」として勧められてきました。それらが獲信・往生に無関係であるだけでなく、「本願力回向」「往相回向」に真っ向から反することも知らずに。一方で、「念仏は信後報謝に限る」「信前も信後も念仏はお礼」と教えられ、成就文には「念仏がないから信心一つ」などと言われてきたものですから、救われるには関係の無いもの、意味の無いものと思って勤行や法話の前後位しか「称名」はせず、敬遠してきました。

またこんなこともありました。学生時代の夏合宿で『一枚起請文』のお言葉

ただ極楽往生のためには、南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには、別の子細そうらわず。

を覚えようと読んでいたところ、大学院生と思われる他大学の先輩から「それじゃ称名正因の異安心だよ」と言われてしまったのです。この御文は親鸞会発行『教学聖典(8)』の中に載っていたのでそのことを告げると先輩は「あぁそうなのか」と言っていましたが、先輩の理解も自分と同様に「信前の称名は救われるために無意味」というものだったのでしょう。

それでいて上述した「高森の行」は「救われるまでに絶対に必要なもの、つまり意味のあるもの」と思って重視していました。振り返ると、信前の念仏は「無善根・無功徳・無福徳因縁」で意味のないもの位にとらえていたかも知れません。信後の自然法爾の念仏、心の底から吹き上がる報謝の念仏でなければならない、いくら称えていても助からない、逆に称え過ぎると「称名正因の異安心」に陥ってしまう恐れがあるから、あまり一生懸命称えない方がよいと考えていました。


このように、『教行証文類』と『御文章』の教え方の相違、「」についての理解がめちゃくちゃだったこと等から、改めて「真実行」について考えてみようと思ったのでした。これだけで随分長くなってしまったので、「行文類」に入るのは次回からにしますが、それにしても「行文類」は難しいです。しかし、だからこそ噛み締めて味わうほどよく味が出てくる。『御文章』も有難いが、遡り「行文類」に至ってようやくお念仏申す有難さが味わわれます。

今までお念仏をそれほど称えて来なかったことの口惜しさよと思いますが、これが阿弥陀さまのお育てかも知れませんし、今から縁に触れ折に触れ申してゆけばいい話ですね。また、どんな言葉巧みに話すよりも、有難い、おかげさまでとなんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏申してゆくのが、本願が弘まってゆく真宗繫昌の根本かとも最近よく思われます。と言っても、言葉にしなければそのこころを伝えることはできませんから、どちらも大切ですね。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【後書】
『大悲にふれて』「お礼の念仏」は間違い ②

にありますが、「御恩報謝=お礼」と解釈するのはあまり適切ではないと思います。

序盤の方で『二河白道の譬え』の存在を示していながら話さない高森顕徹会長

『飛雲』二河白道の譬えを回避した話で、更に恥の上塗りをして収拾のつかない無知ぶりを発揮する高森顕徹会長

にある通りで、日曜日の講義でまたしても高森会長は『二河白道の譬え』を話しませんでした。これが最初から譬えには一切触れずに、

「聞く一つで、大船に乗せる」とはどういうことか。どうしたら大船に乗せて頂けるのか。

という映画『なぜ生きる』の質問に沿って話をするというのならまだ判るのですが、序盤の方で

どうしたら大船に乗せて頂くことが出来るのかを分かりやすく徹底するために善導大師が『二河白道の譬え』を説かれた。

と『二河白道の譬え』の存在を示していながら話さないという体たらくです。話せば全く違う話だと叩かれるのは火を見るよりも明らかですから、逃げに逃げ回っている様子が鮮明に分かります。


さて、上リンク先では高森流宿善論を論破していますが、何しろ高森教は信心獲得の速い遅いは宿善が厚いか薄いかによるという教えです。それで、耳四郎や親鸞聖人、熊谷蓮生房、明法房弁円等は過去世の宿善が厚かったから、つまりは聞法や仏法・世法のさまざまな善根を積んできたから、今生において早く信心決定したというのです。これは、『観経』下三品の悪人を実は「大乗始学の凡夫」だと説明した天台大師ら諸師の理論と非常によく似ています。

更に高森教では、「耳四郎や親鸞聖人は宿善が厚かったから早く救われたんだ。私達は宿善薄い者だから、努めて宿善を求め、厚くしなければならぬ。そうしなければ信心獲得の時節到来はあり得ない」ということで、様々な「高森の行」を授けて実践させています。そんな行を人によっては何十年と続けてきた方もあるでしょうが、どうでしょうか。それによって信心獲得できましたでしょうかね? そういった「宿善を厚くする教え」、近年で言えば「三願転入の教え」なるものを信じている人には、下三品の悪人、中でも下品下生の極悪人が臨終に善知識に遇い、言われるまま「南無阿弥陀仏」と10回称えて往生したとはとても信じ難い話でしょう。

この下品下生の往生について、摂論宗の一派は念仏別時意説を唱え、すぐに往生したように説かれているが実際には往生を得たのではないと主張しています。何だかこれも、「平生業成」の語を「人生の目的が現在に完成する」という意味だと教え、あたかもすぐに「平生業成」の身になれるかのように説いてはいるが実際にはそうではないという高森教と似ていますね。


では下品下生の極悪人は摂論宗の者達の言うように実際は往生を得ていないのかどうなのか。それについて善導大師は有名な六字釈でもって説明されています。

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。
「玄義分」六字釈

【現代語訳】
いまこの『観経』の中の十声の称名には、 十願十行があって具足する。 どのように具足するのか。「南無」というのは、すなわち帰命ということである。またこれは、発願廻向の意味でもある。「阿弥陀仏」というのは、すなわち衆生が浄土に往生する行である。南無阿弥陀仏の六字の名号にはこのようないわれがあるから、必ず往生することができるのである。

十声の念仏は唯願無行ではなく、願行具足しているから、次の生にはまちがいなく浄土に往生できるというのです。こうした善導大師の古今楷定の註釈により、高位の菩薩の為の経であると見られていた『観無量寿経』は主人公の韋提希を始めとした凡夫の為の経典であることが明らかにされたのでした。


これを親鸞聖人はさらにご自身の六字釈において、「帰命」とは阿弥陀仏からの「帰せよの命」であると仰せられています。「必ず浄土へ迎えるから、安心して我にまかせよ」との仰せであるというのです。こうした名号のいわれを聞くところに私達の自力疑心の計らいは取り去られ、報土の真因決定しますから、そのような意味で浄土真宗は「聞く一つ」と言っても差し支えありません。

浄土往生するのに、我々の煩悩は邪魔になりません。「無碍光如来」ですから。では何故、そのような名号が成就していながら全ての衆生は救われていないかと言えば、その名号のいわれを領受していないからです。撥ね付けているからです。茶碗に水を注げばそこに水は入っていきますが、蓋がしてあれば注いだ水は全て外に流れてしまいます。そのように、我々の疑いの蓋が本願力を撥ね付け、領受しないから、本願が成就してはたらいていながら救われないのです。

この疑いの蓋、「疑蓋」も、南無阿弥陀仏のひとりばたらきによって取り去られます。私達の力は要りませんし、要るとしてもどうにもなりません。「聞く一つ」とは言いますが、私の聞いた力と合わせて取り去られるのでもありません。だから正確には如来の「聞かす一つ」にて浄土往生決定となるのです。


これに、従来の「煩悩と闘って白道を進む」という創作『二河白道の譬え』を合わせたら当然ですが「聞く一つ」にはなりません。そして高森会長自身が言っている「人生の目的が現在に完成する」ということにも反します。

平生業成」というからには今です。ずーっと聞き続けていった先、煩悩と闘っていった先の話ではありません。南無阿弥陀仏は既に成就して、今、ここにいる、この私にはたらいているのですから、私は今、ここで、この私一人を「助けるぞ」と仰せの勅命を聞き受けるのみです。

高森教では「聞く一つ」と言いながら実際は「聞く一つ」ではないし、「聞く」内容も間違っています。名号のいわれを聞かず、高森会長の「絶対の幸福に救われる」という邪義を「聞く一つ」なのが親鸞会会員の実態です。次回も説くのかどうか甚だ怪しいですが、創作『二河白道の譬え』をいくら聞いていても大悲の願船に乗ずることはできません。名号のいわれを信受した真実信心の称名による利益が「乗大悲願船」のお言葉です。そのようなわけですから、大悲の願船に乗りたいなら一刻も早く親鸞会を離れて、名号のいわれを正しく説かれる方(動画や音声、本、ブログ等でも)から聞いて信心決定し、お念仏申すことをお勧めします。



【参照】
安心論題/六字釈義

『僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ』は阿弥陀さまのセリフだった

幸せだなァ 僕は君といる時が一番幸せなんだ
僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ
(『君といつまでも(加山雄三)』より)

よくラジオで若大将のこの曲がリクエストされます。この前もこの曲が流れていて、それを聞いてふと

幸せだなァ 僕はお念仏称えている時が一番幸せなんだ
僕は死ぬまで君(お念仏)を離さないぞ いいだろ


という歌詞が思い浮かびました。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


いや、そうじゃないな。この表現は正しくない。特に二行目。離れない、離さないとこちらでいくら思っていても、すぐ離れてしまう、離してしまうのが悲しい俺の実態だ。そんな俺を死ぬまで離さないのは阿弥陀さまだった。

誠なるかな、摂取不捨の真言。阿弥陀さまが「摂め取って捨てない」と真実の言葉で仰せだから、それが俺に届いてこの口からなんまんだぶが出てくるんだった。離さないのは阿弥陀さまだった。そうか、

僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ

は阿弥陀さまのセリフだったんだな。

勿論でございます! ありがとうございます! こんな俺をすいません!

摂取不捨の真言に涙が流れます。そのおかげで、幸せだなァと思わせてもらえる時がある。有難いことです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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