FC2ブログ

何のために生まれてきたんだ・・・!?(がん細胞)

連休明けで仕事に出たところが、尋常じゃない数の荷物・・・。午前中指定は全て時間内に回り切ることを諦めました(笑) 指定すれば届くと皆さん思っているかも知れませんが、そうではありません。現場は相当混乱しているので、営業所にあるにはあるのだけれど見つからないという荷物も相当あります。指定通りに来なくて怒っている客が少なからずいますが、元々はあんたの欲望が生み出した怒りやないか(-_-;) この記事をお読みの皆様はどうぞそのような愚者になることなく。欲しい商品がありましたら、今は堪えて、どうぞ年明け以降にお願いします。で、年明けて何買おうと思ってたか覚えてないという程度の荷物は所詮要らない荷物です。そういう商品は注文されないのがベストです。


さて、この前、同僚の後輩ちゃんに冗談半分で「ドラゴンボール超も、進撃の巨人season3も終わっちゃったし、これから何を楽しみにしていったらいいんだ」とぼやいたところ、ご丁寧に

はたらく細胞

のDVDを貸してくれました。最初は、正直観ている時間がもったいないんだがなぁなんて思っていたんですが、観てみると中々面白いです。また私以上に子供がハマってしまって、オープニングは雰囲気で何となく覚えています。「はたらくぞ、はたらくぞ、毎日毎日修行中」と口ずさんでいるのがほほえましいです。現在、期間限定でこちらから観られますので、関心のある方はご覧下さい(年内まで公開中らしいです)。

(注:ここからはネタバレ注意です)それで、私としてはその中で

7話「がん細胞」(12月20日まで公開です)

の話が強烈に印象に残りました。話に出てくる説明によりますと、がん細胞とは「細胞の遺伝子に異常がおきて、無軌道に増殖するようになった細胞。周囲の正常な細胞との境界を侵し、どんどん増殖していく」とのことで、健康な人でも一日数千個できているらしいです。いわゆる細胞分裂の過程でコピーミスによってできてしまった細胞で、放っておきますと増殖し、浸潤し、転移して人間の体は破滅してしまうわけです。

最後にはやられてしまったがん細胞ですが、死に際に白血球さんにこんなことを話していました。

普通の細胞に化けてお前に助けてもらった時、僕は、僕は普通に嬉しかったんだ。誰かに助けてもらうなんてこと、生まれて初めてだったからな。こんな僕のことを助けようとしてくれる細胞なんて、この世界には一人たりとも存在しない・・・当然だよな。本当は、僕はただの細胞なんだ。この世界の一員として、みんなとただ、毎日平和に生きていくはずだった・・・なのに・・・
(中略)
今日が終わったら、どうせみんなすぐ忘れてしまう。僕の恨みも、怒りも、悲しみも、誰にも聞いてもらえないまま風化して、無かったことになってしまう。何も残らない。
細胞分裂の手違いで味方になるはずだった免疫細胞に命を狙われて、闘って、負けて、この世界に何も残せずに死ぬなんて・・・何のために生まれてきたんだ・・・!?


ただのアニメだと思っていたら、こんな深いことを言われているのに驚きました。


みんないつかは必ず死ぬ。自分も必ず死ぬ。これは動かしようのないこの世の真実です。でも、誰一人として、現在自分の死に際のことを考えている人はいないでしょう。私も普段はそんなことは考えていません。しかし、必ずやってくるのです。自分の死に際というものが。その時に、自分の人生を振り返って

何のために生まれてきたんだ・・・!?

というような人生だったら・・・。それでは、あまりにみじめです。そんな空しい、愚痴の中で終わってたまるかと梯實圓和上は仰っていましたが、私もそう思います。

ところが、どうでしょうか。私達が普段やっていることは、やがて風化して何も残らないというのが現実ではないでしょうかね。また、必死にかき集めたものも、死んでいく時には全て我が身から離れてしまいます。死ぬまい死ぬまいと私達は毎日闘っていますが、最後は必ず負けです。そして、たった一人で、この肉体さえも置いて、焼いて、いかねばならないのが人生の末路です。やはり聞くべき教えを聞き、遇うべき法に遇わずしては、この世界を思うように生きたって最期は危ういと言わざるを得ないんじゃないでしょうか。

では、みじめな、空しい愚痴の中で終わらない、そんな生き方をするには、どうすればいいのでしょうか。生きることも死ぬことも共に有難いことであると受け容れることができるには、どうすればいいのでしょうか。


親鸞聖人は、そのような生と死の問題を越えてゆく道、「生死出づべき道」を求め、それは「念仏」であると私達に教えて下さいました。「念仏」とは「南無阿弥陀仏」であり、それは生きることの意味も、死ぬことの意味も分からない私達に生きる意味とその方向性を示し、必ず浄土に迎えるから安心してまかせなさい、念仏を申して浄土に生まれて来なさいと喚んでおられる阿弥陀さまの仰せでした。

こうした阿弥陀さまの仰せ、「南無阿弥陀仏」の六字のこころを計らいなく聞き受けて、お念仏を申して生きる。これが一番心の安らぐ生き方だし、日々受けている様々な御恩に感謝してゆける生き方、そして一番死を受け容れやすい生き方であろうと思います。なお、私達が申すお念仏は、自分が称える自分の行というのではなく、阿弥陀さまが私達にお与えになった行だと心得るのが浄土真宗の受け取り方です。ですから、念仏に「お」をつけて「お念仏」というのでしょうね。如来より賜った往生の正しき行業ということです。

南無阿弥陀仏」が心に届いたのが、迷いの終わりです。その後は、正しく往生が定まった人々の仲間入りをし、往生を定めて下された御恩をなんまんだぶ、なんまんだぶと報謝して生きてゆく。相変わらず苦しみはやってきますが、蒔いた種なら受けていかねばなりません。割り切れないこともありますがね。

しかし、当然後の世の迷いを生み出すはずだったのがそうはなりません。生きてゆく先は浄土だよ、死ぬとは浄土に生まれることだよと仰って下さるのです。これは不思議であり、有難くかたじけないことです。こんなことは自力では絶対不可能で、本願力のみ為せる業です。

この御恩を知り、感じたならば、それに少しでも報謝しようという生き方になっていきます。それと、今まで生きることも、衣食住も、その他全てがあるのが当たり前だと思っていたのが、そうではない、生かされているのだ、恵まれているのだということに少しずつ気づけるようになっていきます。不満が感謝に変わるのです。この辺は人によって、または状況によって様々でしょうが、教えをたしなみ、それを日々の生活で味わってゆくことでゆっくりと知らされてゆくことだと思います。

これらは、「南無阿弥陀仏」が心に届き、口に保たれて、法に育てられていることです。このような素晴らしい行を如来から賜っているということを知るべきと思います。

そして、そうした念仏の行者の往く先は浄土です。そこで仏のさとりを開き、まことの安らぎを得た後に、今度はこの世ではどうすることもできなかった人達を責任をもって自在に救ってゆくことができるのです。

浄土に往くまでが往相。浄土から仏のさとりの必然としての衆生済度に還り来るのが還相。この二種を回向されるというのが浄土真宗で、これらは要約すれば「南無阿弥陀仏」におさまります。ですから浄土真宗の教えはお念仏の教えと言われるわけですね。


中学の教科書で浄土真宗の説明を読んだ時は「ただ南無阿弥陀仏と称えて浄土に往ける? そんなばかな」と思っていた私。けれど、様々な苦しみにぶち当たり、真っ暗な死にどうすることもできない無力な自分、生きることの意味も死ぬことの意味も分からずに空しく一生を終えねばならない自分を思い知り、この如何ともし難い生死の問題を越えてゆく道が「念仏」であるとは当時は知る由もありませんでした。

こんな俺のことを本当に助けようとしてくれる存在なんて、この世界には一人たりとも存在しない・・・そう絶望していたところが、ただ御一人おられたのです。それが阿弥陀仏であり、「南無阿弥陀仏」でした。一体、どのような遠い過去からの阿弥陀仏のお計らいかと、宿縁を慶ばずにはいられません。

当ブログを読んで浄土真宗とはどんな教えか知りたいと思われた方がありましたら、

浄土真宗の法話案内

より場所、日時などを検索して頂ければと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
スポンサーサイト

仏の教えと共に生きてゆく

いよいよ最繁忙期真っ只中となっている私の仕事ですが、今年は人員を融通してもらっているので、今までのところは去年や一昨年よりずっとマシです。いや~、助かる(;^ω^)

しかし、昨日はせっかく休みだったのに娘が嘔吐してしまったので病院に連れてったりと色々看病することに。もうちょっと休んだり、ブログを書いたり、本を読んだりとかしたかったのですが・・・あぁ、時間が無い! 仕事に追われ、家事や育児に追われ、法を聞き求める時間がほとんどないのでもう本当に不本意です。

まぁ、こんな小さな子でも助かる法は念仏の一行しか無いなとか、私が仏を忘れていても常に忘れて下さらないのが仏様だなとか色々感じてお念仏して有難いなとは思いますが、もう少し何とかならんかなとも思います。


さて。

今は、偉そうに「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」をこのように知らされましたと書いている私ですが、別に人間的に跳躍的によくなったとか、いつでもどこでも変わらない最高の幸福感をもって生きられるようになったとか、そんなわけではありません。

ひと度、大いなる逆境が去来してきたら、たちまち苦悩にのたうち回り、仏法だとか、如来大悲の恩徳だとか、お念仏申す人生を生きるだとか、そんな大そうなことは言っておれなくなるかも知れません。また、一昔前のように「こんな苦しみに耐えて生きる位なら死んだ方がマシだ」という思いにかられてしまうかも知れません。

本願を信じお念仏申すようになっても煩悩具足は変わりませんから、縁が来たら何をしでかすか分からない、このようなことだけは絶対にしないとは言い切れない我が身の危うさは少しも変化がありません。気がついたら仏法のぶの字も無い、法の喜びどころじゃない、我が身を呪い世間を呪い、苦悩の人生の只中を行っていたということにだってなりかねないのです。だからこそ、なるべく法に触れるような縁を選んで、我が身を法に浸して生きてゆく必要があります。


南無阿弥陀仏の六字のこころ、「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」の仰せを受けたその時、往生の信心は即座に定まりますが、私達の人間性や言動、心までが立派になるわけではありません。今日聞いて今日救われる法、今聞いて今救われる法ですが、考え方や言動までがガラリとは変わらないのです。ちょうど大型のタンカーがすぐに方向転換できないように、法に照らされてもそう急に身口意の三業が変化するものではありません。そんな人はあってもとても稀ではないかと思います。

また1回2回聞いてその後、仏の教えを深く心にとどめて正しく生きてゆけるという人もそういないと思います。もし私達がそんな賢善な者なら、阿弥陀仏が五劫もの間思惟して本願を建立することも、不可思議兆載永劫もの間ご修行して南無阿弥陀仏を成就することも要らなかったでしょう。まぁ他の方々はさておき、淳心房は1回2回聞いた位で仏の教えを深く心身に刻み込み、念仏者として正しい行いをして生きていけるほどできた人間ではありません。それどころか逆に仏の心に反するようなことばかりやっており、書いていて恥ずかしいです。でも自分への戒めの意味も含めて書かねば・・・。

やはり信後も聴聞を重ねさせて頂き、日々お念仏を申させて頂く内に少しずつ、少しずつ、如来の仰せを聞き受け浄土に向かう者として恥ずかしくない言動を取ろうと、我が身の振る舞いを正すようになってゆくものだと思います。そんなにすぐには変われませんが、生きる意味とその方向性を常に確認し、段々と身の振る舞い、口の振る舞い、心で思うことを反省し、よくないと思った点は改めていくようでないと、教えを聞いている意味が薄れてしまうでしょう。それに「あれが浄土真宗を聞いている者がすることか」と悪評判になっては、本願を弘めたいという阿弥陀仏のお心に遠く背く結果となってしまいます。

食事と同じで、仏法も常に聞いて摂取していかないといけないものだと思います。煩悩具足のこの身口意は、それとは正反対の方向へ向かおうとする仏の教えと相反するものです。だから聞いてこの身この心に取り入れていかなければどんどん抜けていってしまう、そういうものです。それが抜けないのは共著のしゃあ位でしょう(違うかw)。体も栄養失調になればおかしくなってしまうように、法の栄養失調に注意が必要です。もしかしたら体以上に法の栄養失調の方が厄介かも知れません。


信前だから喜べない、信後だから喜べる、そんな単純なものじゃないんです。信前であっても遇い難い教えに遇えたと喜んで聞いている方もあるでしょうし、自分は信後だからもう聞かなくてよいと仏縁が遠のいて、現在業苦の只中にあるという方もあるかも知れません。

今喜んでいる人も、そうでない人も、ありがたい光が差してくるように絶えず仏の教えを聞き求め、本願を仰ぎお念仏を申して人生を浄土へ歩む旅としたいものです。仏の教えと共に生きてゆく。これが大事です。

浄土真宗の法話案内

上ウェブサイトより場所、日時、布教使の先生を検索してお参りすることができます。お互いに、法縁を求めて共にお浄土への旅とさせて頂きたいものです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

南無阿弥陀仏のことについて触れておきながら、「私たちを絶対の幸福にするはたらきがある」と、どこまでも創価学会の信心は外さない高森顕徹会長

日曜日の高森顕徹会長の話は、いつもと違って

「映画『なぜ生きる』で、自ら命を投げ出した了顕を見ると、命よりも大切なものがあるように感じました。仏教では、なぜ人の命は尊いと教えられるのでしょうか。」

という演題についてでした。内容の一部は既に

『飛雲』 『阿弥陀経』を読んだことがあっても意味は知らない高森顕徹会長

に紹介されています。当ブログでも頂いた情報を基に今回どんな話があったか紹介したいと思います。

まず人の命は尊い、人命は地球より重いということを、盲亀浮木の譬えや「人身受け難し」、横川法語のお言葉を挙げて説明しています。それは人間に生まれなければ果たせない大事な目的があるからで、その人間に生まれた目的、「なぜ生きるか」を教えられたのが仏教。それは「絶対の幸福」になることだというおなじみの話がされたようです。その後、

南無阿弥陀仏には私たちを絶対の幸福にするはたらきがある。
釈迦は南無阿弥陀仏を頂いて絶対の幸福になると教えられている。
ところが「仏法聞き難し」と言われ、南無阿弥陀仏の法は聞き難い。


などという話から、『阿弥陀経』に説かれる六方諸仏の証誠のお言葉を挙げて話をしています。加えて

利他の信楽うるひと『高僧和讃』(79))は信心獲得した人、絶対の幸福になった人

と説明し、獲は現益、得は当益と無理やり現当二益を結び付け、

それまで(絶対の幸福になるまで)重ねて聞きなさい

と言ってまたしても救いはお預けの話でした。「生きる目的」を伝える『教行信証』の証の巻を命を投げ出して守ったのが了顕だとのことでしたが、聞く者にいつまでも大事な「生きる目的」というのを果たさせない高森顕徹という人物には憤りしか感じません。『教行信証』もまともに読んだことがない高森会長は、「生きる目的」という親鸞聖人が直接論じていないことを論じ、目的達成に向けて進んで行きましょうという方向で話をしています。これが本願力回向という真宗の要の教義に真っ向から反していることを会員の皆さんは早く知るべきでしょう。


そんな人物を無二の善知識だと勘違いしているところにいつまでも騙され続ける要因があります。親鸞聖人が教える浄土真宗の救いは、今であり、ここであり、この私を救うというものです。高森会長の話では、平成業成と言いながら救いは聞き続けていった未来、求め続けていった未来であって「今」ではありません。また、救いは光に向かって進んでいった処であって「ここ」ではありません。そして、宿善を求めて厚くなった人、三願転入の道を進んで決勝点にたどり着いた人が救われるんであって、「今」「ここ」にいる「この私」は救われません。

本願は成就して南無阿弥陀仏と成り、今、私の上にはたらいています。それは昨日の話でもなければ明日の話でもなく、今日、「今」の話です。また、私のいないどこかの世界で空転しているのではなくて、今、私がいる「ここ」ではたらいているんです。そして、何かの行をやっていって救われるに値する人物をでもなくて、抱えきれない罪業を抱えてどうすることもできないでいる「この私」を仏にするとはたらいているんです。

はたらいているのになぜ救われないのか。計らいが邪魔をしているんです。自力心が邪魔をしているんです。自分には後生なんてとても手に負える問題じゃないと素直に手を放して如来におまかせすればいいのに、何もしなくていいなんてそんなわけがない、それでは無力(むりき)だ、それでは救われるはずがないと計らっているから本願のはたらきを受け容れられずにいるのです。

南無阿弥陀仏というのは、もうこの阿弥陀はお前を仏にする仏に成ったよ、だから安心してまかせなさい、と我々に救いを告げている名乗りです。要は南無阿弥陀仏とは

阿弥陀仏がこの私目がけて「助けるぞー」と喚んでおられる声

なのです。この「助けるぞ」の仰せを聞くのがすなわち信、喚び声が心に届いたのが信心です。この如来招喚の勅命の他に信心はありません。また、この如来の仰せが口に出れば念仏です。念仏は、私を必ず往生させるという本願のはたらきがそのまま出てきたのであって、我が計らいの心をもって往生を祈願する自力の念仏とは違います。本願の仰せを疑いなく受け容れ、はたらきのまま出てくる自然法爾の念仏です。

成就した南無阿弥陀仏の名号が心に届いたら南無阿弥陀仏という信心、口に出れば南無阿弥陀仏という念仏で、真宗はどこまでも南無阿弥陀仏以外にはありません。だから蓮如上人は、

当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。
『御文章』5帖目9通

それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。『御文章』5帖目13通

等と仰って繰り返し南無阿弥陀仏の六字のこころを説き示されています。下線部は一昨日の話の中で出てきた根拠のようですが、その前後に大事な南無阿弥陀仏の六字のこころが説かれているのです。全くもって会員の皆さんは大事なところを教えられていません。これは故意に教えられていないと言わざるを得ません。

蓮如上人は宿善だ三願転入の教えだなどと言って、19願や定散二善を根拠に善(もどきの善)をやれなんて一言も言われてないんです。「弥陀をたのめ」、つまり本願のはたらきにおまかせして念仏せよ、これしか仰っていないんです。高森会長が邪義をまき散らして『阿弥陀経』の顕説にも反することを説いているのは飛雲さんの記事に書かれている通りです。


せっかく南無阿弥陀仏のことについて触れておきながら、

私たちを絶対の幸福にするはたらきがある

と、どこまでも創価学会の信心は外さないとは・・・。自利の一心でもない信心と雑行とを勧める高森会長には浄土真宗を説く気がないことは明白です。会員の皆さんには、今回挙げられた『御文章』の前後に目をつけ、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き受けて、本願のはたらきにまかせてお念仏して頂きたいと思います。

お念仏申す人生を生きる

私の長女は今年からiPadを持ち始め、ゲームやら何やらダウンロードして毎日楽しく遊んでいます。そのiPadの機能の一つにAI(人工知能)との会話機能があります。話しかけると応えてくれたり、必要なことを検索したりしてくれます。ただ、変な質問に関しては変な回答で返してきます。昨日、試しにAIに

「死んだらどうなるんですか?」

と聞いてみたら、ご丁寧にと言うか何と言うか、自殺予防サイトを検索してくれました(笑) AIまでが死ぬな、生きろ生きろと言ってきているように感じましたが、そうやって生きてゆくのは何のためなのか、やがて必ず死んでゆくが、その先はどうなっているのか、人間が知らないんだからAIに聞いても分かるわけないですね。

AIまでが人を生かそう生かそうとしてきますが、こんな人生の根本的な問題が分からずして本当に安心した、満足した生き方ができるとは私は思いません。「生まれてきた理由」や「生きる意味とその方向性」を知らず、ただ毎日を繰り返して死んでゆく人生は、私ならイヤです。


色々と紆余曲折はありましたが、有難いことに私は浄土真宗の教えを通してこうした大事なことを知らせて頂くことができました。人生に絶望し、苦しみに耐えかねて自殺を考えないことは無かった日々もあった。けれど、生きていてよかったです。自殺しなくてよかった。今、さるべき業縁が来て死ななければならないとなっても、遇うべきものには遇わせて頂いたし、聞くべき教えは聞かせて頂いたので、そういう点で後悔はありません。


この世に「生まれてきた理由」は、迷いの世界を出離して往生成仏するため。「生きる意味」は現在正定聚の数に入り、往生一定の身になること。「生きる方向性」は、浄土。そのような身にして頂いた御恩を思えば、それに報いようと生きてゆく。これも「生きる意味」であり「生きる方向性」である。「死んでいく意味」は、往生成仏、そして還相のはたらきをさせて頂くこと。私はこのように知らせて頂きました。

私が浄土に生まれゆく姿が往相で、再び娑婆へ還り来て一切衆生を利益するのが還相です。この往相も還相も如来選択回向のお念仏、またお念仏一つが往生のみちであることに疑いない願力回向の信心によってなされます。なので私は信心をお念仏に含めて、人生は「お念仏申すための人生であった」と領解しています。


生きることの意味も、死ぬことの意味も何も分からず、ただひたすら食うて糞して寝て起きて、あとは死ぬのを待つばかりでは、人としての一生を生きたとは言えません。迷いの世界を迷いの世界と知らせ、煩悩具足の我が身、火宅無常の世界を知らせて、さとりの世界である阿弥陀仏の浄土へ導こうとしている浄土仏教、とりわけ浄土真宗はやはり他の宗教とは比較にならない素晴らしい教えであるなと思います。

しかも、往生成仏の因行を南無阿弥陀仏の名号と成就し、これを回向して下さるというのですから、何とも有難くかなじけないことです。けれど、このような全分他力、本願力回向のご法義でなければ、親鸞会の活動にすらついていけない私のような愚悪な凡夫には到底救いにあずかることは不可能でした。

こうした南無阿弥陀仏のはたらきによって、現在この世で正しく往生の定まった人々のお仲間に入らせて頂いたことは、不思議の中の不思議であり、慶びの中の慶びです。

阿僧祇劫という長期間の修行によってようやく初地の位に到達した聖者は、天上界と人界と中有とを二十八返往復する生と死を繰り返すならば、自然に煩悩が尽きて、阿羅漢のさとりを完成し、二十九番目の迷いの生存をうけることがないそうです。菩薩がこの位に至れば真如をさとるから、再び退転することなく必ず成仏できることが定まり、歓喜が生ずるので、初地の位を歓喜地とも言います。

今、南無阿弥陀仏のはたらきで正定聚となった念仏の行者は、二十八返往復はおろか一返の往復もなく死ぬと同時に浄土に参って仏果を得ます。初地の聖者は、その後もう二阿僧祇劫もの修行を経て等覚と成り、更に百大劫に及ぶ修行を過ぎて仏果を得るというのですから、念仏者の賜っている利益はとてつもない利益です。このことを踏まえれば、真実の行信を獲たならばそれを歓喜地と名づけるという親鸞聖人の御釈はまこと理にかなっています。このような利益を獲させて頂いた身の幸は、宗歌のように「なににくらぶべき」であります。

「死ぬということは、浄土へ生まれることだと思ってくれ」。このような阿弥陀仏の願心を聞き受けた今となっては、この人生は浄土への旅です。旅ですから、晴れの日もあれば雨の日、時には嵐や暴風、大雪の日もあります。順境もあれば逆境もありで、楽しいこともありますが苦しくてたまらないこともあります。ただ、死は死としか考えられなかった私にとって、その死が「浄土に生まれる」ことに変わったのはまさに一大転換です。

そしていよいよ臨終には浄土に仏として生まれるのです。でもそこで終わりじゃない。そしたら今度は仏の大慈大悲をもって一切衆生を思うが如く利益する還相の始まりです。親の有難みが知らされたらその恩に報いたいと思うのが子供です。人間の力では如何ともし難い生死の問題から救って頂いたその御恩を思えば、今度は少しでも御恩に報いたいという気持ちが出てくるでしょう。

自分一人が喜んでいたら、他人は苦しんでいても構わないなんて教えではありません。また道理の上でも、人に伝えたいと思わない信仰が真実の信仰であるはずがありません。勿論、伝え方が分からずどうしたらいいのかということはありますが、お節介にも、他人にも御親の徳の尊さを伝えたいと思う気持ちは、お念仏を申し、御恩を知らされるほどに湧き出てまいります。ただし、別に無理強いはしません。阿弥陀さまはその人その人に最適な方法で導いておられることでしょうから、私としてはこのお念仏の教えを紹介させて頂くばかりです。

今はてんでなっちゃいないが、人それぞれ、本願の尊さ、お念仏の素晴らしさを弘めたいと御法座へ参ったり、法座を企画して人を誘ったり、お念仏申したり、私ならこうして書いて何とか何とかとやって完成の時を待っている。私一人が救われたらいいなんていう狭い教えじゃない。皆さんにもどうか本願を信じて念仏申して頂きたい。本願は成就して私の上にはたらいているんだと知って頂きたい。こう思ってやっていた所が、死ぬと同時にいっぺんに完成してしまう。それからは自在な還相のはじまりです。


私は親鸞聖人の教えによって「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」を知らされ、しかもそれが全て如来回向のお念仏一つによって果たされると領解しました。ですから、

Q.何のために生まれてきたのか?
A.お念仏申すためです。


一言で言うなら、私はこのように答えます。お念仏申す人生を生きる。これこそが本当に生まれてきた甲斐があり、生きる甲斐があり、そして死んでゆく甲斐がある人生を送れることだと思います。

もし、当ブログをきっかけに浄土真宗を聞いてみたいと思われる方がありましたら、

浄土真宗の法話案内

等で法話の日程や場所、先生などを確認し、お参りして頂きたく思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』歓喜地

私が知らされた「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」

現在、この記事をご覧になっているあなたの周りには、「生きる意味とその方向性」を教えてくれる/くれた人はいるでしょうか? 何のために生まれてきたのか? 何のために生きるのか?

明るく楽しく、強くたくましく、苦しみ悩みがあってもそこを乗り越えて生きろ生きろとは言うけれども、苦を耐え、難を乗り越えて生きる意味は何なのか? そうして生きていった先には何があるのか? 生きていったその先は老病死、愛別離、怨憎会です。老病は無くても必ず死なねばなりません。では死んだらどうなるのか?

残念ながら私の周囲にはありませんでした。まずこの問い自体を出す人がいませんでした。それよりも、

「どうしたら勉強ができるのか」
「どうしたらスポーツができるのか」
「どうしたら友達と仲良くできるのか」
「どうしたら事件や事故に遭わないか」
「どうしたら受験に合格できるのか」
「どうしたら効率よく単位が取れるのか」
「どうしたら志望する会社に就職できるのか」
「どうしたら仕事ができるのか」
「どうしたら起業できるのか」
「どうしたら恋愛・結婚ができるのか」
「どうしたら良い子に育てられるか」
「どうしたら良い人間関係を築けるか」
「どうしたら健康に過ごせるか」
「どうしたらお金が稼げるか、貯まるか」
「どうしたら安心した老後を過ごせるか」
「どうしたら病気が治るのか」
「どうしたら今の苦難を乗り越えていけるのか」
「どうしたら家族に争いの種を残さずに死んでいけるのか」
・・・

等、いわゆる「How to」「より良く生きられる方法」ばかりが問題にされ、「そうやって生きていくのは何のため」「なぜ生きる」かは昔も今も問題にしている人をほとんど知りません。たまに街頭でもらう新興宗教の冊子には、「これが生きる目的だ」みたいなことが書いてありましたが、それは「神のため」であったり「奉仕すること」であったり、決して自分の納得いく答えではありませんでした。

こうした「生きる方法」に終始するのみで、肝心の「生きる意味とその方向性」は全くと言っていいほど論じられないのは、いい点数を取る事のみに終始して学んだことをどう生かすか知らない学生に似ていると思います。学んだことを生かさなければ本当に学んだ意味が無いように、「生きる意味とその方向性」が分からなければ本当に人としての一生を生きたとは言い難いと思うのです。

こんな大事な問題が扱われないのは、人間の智慧や知識では到底答えようのない問題だからでしょう。どこか気にはなりつつも、考えても本を読んでも何をしても分からない。そんなことを考えているのは弱いとか、変だと思う。そういう悩みを抱えていると、おかしな宗教にハマってしまう。それで考えたり、答えを探したりすることを放棄して、とにかく今を明るく楽しく生きてゆこうやということに落ち着くのだと思います。

ただ、これは単なる問題の先送り、棚上げで、何の解決にもなっていません。他の誰でもない、自分の人生です。そして、もう一回とはいかない、一度っきりの人生です。もっと真剣になって、この問題に向き合ってみるべきです。突然でも晩年でも、死を迎えねばならなくなって、「しまった!」では遅いのです。皆さんの中にはそれでいいと思われる方もあるかも知れませんが、少なくとも私はそんな人生はまっぴらごめんです。

ですから、私はよく親鸞会は全て間違いであるかのように書くこともありますが、「人生の目的」「なぜ生きる」は大事なことだと説いている点まで間違っていると言っているのではないんです。諸行無常、罪悪深重、死の問題・・・。それは、確かに仏教教義に照らして細かく見ていけばおかしな点もありますが、ここまで間違ってはないんです。別に親鸞会を肯定したり、擁護したりするつもりは更々ありませんが、これを考えずして、きちんと見定めずして本当に明るい楽しい人生が送れるか? この点は同感せざるを得ないところです。


幸いにも、私は親鸞聖人の教えを通して、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」を知ることができました。

仏教の目的は、生死出離、転迷開悟、成仏すること。現在、阿弥陀仏の本願を信じ念仏を申せば正定聚の数に入る。その後は、常にお念仏を申して如来大悲の御恩を報じつつ、浄土を目指して生きてゆく。そして命終わると同時に浄土に往生し、即成仏する(往相)。それからは仏の大慈大悲をもって衆生を思うが如く利益する(還相)。この往還二種を阿弥陀仏より回向される教えが横超他力、すなわち浄土真宗である。

親鸞聖人の教えをつづめて言えばこの通りです。

これに沿って言うならば、私が「生まれてきた理由」は迷いの世界からの出離、往生成仏することです。果てしない過去から、私は迷いの世界を生まれ変わり死に変わり無限に繰り返してきた。自身は欲や怒り、腹立ち、そねみねたむ煩悩の塊で、現在は人間として、いつどうなるか分からないこの火宅無常の世界に生きている。そして、死んだなら今までの業に応じた世界へ行って、それからまた永遠に迷っていく。こうした迷いの世界を出て、まことの安らぎを得ることが「生まれてきた理由」です。

生きる意味」は現在正定聚の数に入ること。迷いの世界を出るには、迷いの因を知ってそれを断ち切り、さとりの因を知ってそれを修める行をしなければなりません。ところが、末世の今の世において、世俗の生活をしている私のような煩悩具足の者がとてもできることではありません。それで、阿弥陀仏は法蔵の昔にそのような私を浄土に迎えて救うと発願し、気の遠くなる長期間の修行を経て私の往生成仏の因行である南無阿弥陀仏の名号を成就されました。この南無阿弥陀仏のお心を領受したその時、正しく往生の定まった人々のお仲間(正定聚の数)に入れさせて頂く。そうなることが、この世に生まれ、「生きる意味」です。

生きる方向性」は、浄土です。今まで死は死でしかなかった、死に向かって生きていた人生が、浄土の旅となったのです。「お願いだから我が誓願を計らい無く信じ、念仏を称えて浄土へ生まれてきてくれよ」という弥陀の誓願の通り、本願を信じお念仏を申して、必ず往生し、仏となるべき位に定まったからには、生きてゆく先は浄土往生、そして成仏です。

また、自分がそのような身になったからには、如来大悲の恩徳、本願を伝えて下された師主知識の恩徳、ほか私をこれまで育て生かして下さった様々な人、ものへの御恩を感じ、少しでもそれらに感謝し報いようと生きてゆく。お念仏申すのも、本願のましますことをお伝えすることも、みな仏恩、師恩への報謝です。本願力に遇うたからこれでお終いではありません。これも大切な「生きる意味」であり「生きる方向性」であると思います。

死んでゆく意味」は、往生成仏して還相のはたらきをさせて頂くこと。この世では私のような者がいくら何を言っても自在性が無いから全然本願の尊さ、お念仏の素晴らしさを伝えられない。でも、浄土にて利他円満の妙位、無上涅槃の極果をさとった暁には、迷いの世界へ還り来て、一切衆生を思うが如く利益させて頂ける。浄土へは私一人が安らぐために往くんじゃない。浄土へ参ったら、今度は私が浄土の素晴らしさを伝えて回るんだ。死んで終わりじゃない。むしろ死んでからが本番か。

と、このように言えましょうか。それで、これらは本願成就のなんまんだぶのはたらきによって全てなされることなので、淳心房は人生を「お念仏申すための人生であった」と領解しています。


なお以上は私の領解を紹介させて頂いたまでで、これを皆さんに押し付けようというのではありません。それと同じく浄土真宗を聞いている方でも、私の領解には賛否両論様々だと思います。私のように思わねばならないということもありませんし、受け取り方は各人のご判断です。それはそれとして、親鸞聖人、浄土真宗の教えに関心があるという方、聞いてみたいと思われた方は、日時、場所、布教使の先生などを

浄土真宗の法話案内

等で確認して頂き、御法座へお参りして頂きたく思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「二河白道の譬え」の「白道」について

色々とややこしいので、私の方でもまとめてみました。


・『観経疏』の廻向発願心釈に、雑行と組みあった諸行往生の願生心と、専修正行の願生心とが釈されていると法然聖人は見られた。

・二河譬のなかに白道を合法して「喩衆生貪瞋煩悩中、能生清浄願往生心也」(衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふなり)といわれているが、この白道たる願生心のなかに、貪瞋水火のために損ぜられるものと、損ぜられないものとがあると法然聖人は言われている。

・その二種類の願生心の内、諸行往生の願生心は破損するが、専修正行の願往生心は破損することなく金剛堅固であると法然聖人は教えられた。

法然聖人は三心料簡事の「白道事」にあるように、白道の譬喩には自力の諸行と弘願他力の二種類の法門が説かれていると領解された。

・こうした法然聖人の解釈を踏まえ、願生心には雑行と組みあった諸行往生の願生心と専修正行の願生心の二種類があるため、親鸞聖人は善導大師の回向発願心釈を「信文類」と「化身土文類」とに引文されている。

・雑行と組みあった諸行往生の願生心、すなわち自力の願生心は本願の三心と組み合わないため、親鸞聖人は「二河白道の譬え」そのものを『教行証文類』の方便の信を顕す「化身土文類」では引文されておられない。

・専修正行の願生心、すなわち他力の願生心は火焔にも水波にも損われざる白道、煩悩に汚されざる清浄なる願往生心であるから彼願力之道と言われる。これは本願の三心と組み合う他力の信心を顕しているため、親鸞聖人は「二河白道の譬え」を『教行証文類』の真実の信を顕す「信文類」にのみ引文されている。

親鸞聖人は「二河白道の譬え」の「白道」は他力の意味でしか用いられていない。

〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。「信文類」二河譬引文

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。
「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。
「信文類」白道四五寸を釈す

ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。『浄土文類聚鈔』

「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。『愚禿鈔』下巻

「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。(同)

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。
『一念多念証文』「致使凡夫」等の文意


以上です。「白道」についてコメント頂いた名無し様等、加筆修正すべき点がございましたらご意見下さい。

なお大変参考となるため、まとめ様の以下の文章を載せておきます。

********************
1.善導大師の創られた二河白道の譬喩で白道に雑行・19願の意はない。
2.親鸞聖人の解釈では、白道は他力の意しかない。

以上を踏まえれば、偏依善導の法然上人が白道を雑行の道と仰ったのは、法然上人の独自の解釈ではなく、白道を雑行の道と考えるのは善導大師の譬喩から外れていると間違いを示されただけである。それを親鸞聖人も受け継がれた。

********************


また最後に、林遊さんは

********************
二河譬の白道を、まるで求道のプロセスであるかのように説く人がいるが、『教行証文類』で説かれる白道の譬喩は本願力回向を顕わしているのであって、求道のプロセスを顕わしているのではない
********************

と仰っていることから判るように間違った教義理解をしているのではありませんし、

********************
ネット上にお聖教や御法話を纏めて下さっている方でもある事を、
皆さん忘れないで下さい。

********************

という名無し様のコメント通りの方です。また、浄土真宗の理解において、淳心房なんぞを遥か凌駕されている方だという事実は一向に変わりございません。そのことを申し添えてこの記事を終わりたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

コメント返信(現在の苦しみを「神の試練」と言われて納得している他宗教の信者と同程度の信心の親鸞会会員)

しばらく間を空けていた間に多くのコメントを頂いておりました。皆さまのそれぞれの主張、言いたい気持ちはよく分かりますが、もうここらでお納めください。会員や講師部員との諍いならまだしも、親鸞会退会者と観察者で諍っていてもいい方向へは向かわないと考えます。

さて、二河白道の譬えは18願意を表したものであることは言うまでもありません。ところが、その18願で誓われる信心は自分で起こすのか、本願力回向の信心として如来より賜るのか。ここが善導大師のお言葉を当面読みしますと、私達には判断しかねるのです。

例えば至誠心ですが、『観経疏 散善義』の当面読みはこうです。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。

この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。また真実に二種あり。 一には自利真実、二には利他真実なり。(中略)

不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。 またもし善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。 内外明闇を簡ばず、みなすべからく真実なるべし。 ゆゑに至誠心と名づく。
『散善義』至誠心釈

浄土へ往生しようという者が起こさねばならない三心の一つが至誠心ですが、その至とは真、誠とは実で、至誠心とはすなわち真実心のことだと教えられています。それで、私達は親鸞聖人から教えを受けていますから「真実心」とは我々凡夫の心ではなく如来の真実心だと分かりますが、善導大師がお書きなされたままを私達が読みますと、真実心を我々の方で起こさなければならないように読めるのです。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

如何ですか? これを私達が浄土真宗の知識なく読んで、これは如来の真実心をもちいることが真実心であると分かるでしょうか? 私には、至誠心とは自分で起こさなければならない信心であるように受け取れます。

それを、法然聖人、親鸞聖人が血みどろの求道、研究をなされて、私達には如来のお心にかなうような、浄土へ往生できるような真実心は持ち合わせていないし、到底起こすことができない。これは自分で起こす信心ではなく、如来より回向される真実心である他にないと明らかにして下さったのです。親鸞聖人は善導大師の真意を明らかにするために次のように読み替えて下さいました。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。

もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}

不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。


こう読み替えられることによって、真実心は我々凡夫の起こす信心ではなく、如来の真実心であることを明らかにされたのです。18願意といったら他力回向に決まっている、というのは我々が親鸞聖人から教えを受けているから分かるのです。至心信楽欲生の三心は、これを普通に読めば我々が「至心に信楽して我が国に生まれんと欲うて」という信心を起こして、と読むより他にないでしょう。


読み替えによって他力回向の義を明らかにされたお言葉として今問題になっている、回向発願心釈の例のお言葉もそうです。清浄願往生の心を自分で起こすのか、それとも如来より賜るのか。当面読みでは判断しかねるところを、親鸞聖人が読み替えられることによって如来より回向される清浄願往生の心だと明らかにされたのです。

親鸞会では19願を持ち出してきてごちゃごちゃと言っておりますが、林遊さんは19願のことを問題にしているのではないのです。自力といったら19願と、短絡的に結び付けてはいけません。18願を信ずる人の中にも自力あり、他力ありです。

また林遊さんが悪いのではなく、それを利用して善導大師の真意を捻じ曲げ、浄土真宗の他力回向のご法義を捻じ曲げている講師部員が悪いのです。林遊さんは自分の主張をズバッと仰る方ですから、それは退会者の皆さんの癇に障ることもあるでしょうが、あの林遊さんの説明まで悪くはないのです。

私達は経典やお聖教を読めば内容が分かると思っています。しかし、実際はそうではないのです。菩薩の論、高僧方の釈、そして親鸞聖人のお言葉を通すことによって初めて如来のお心がどういうものか、我々のような凡夫が浄土に往生するにはどのようにしたらよいのか、どうすることが如来のお心にかなうことになるのかといったことが明らかになるのです。親鸞聖人に至って、本願力回向、全分他力、現生正定聚、往生即成仏、その他様々な善知識方の真意が明らかになりました。私達はそこを知らなければならないと思います。


それにしても許せないのが高森顕徹会長であり講師部員です。退会者の挙げた根拠を逆手に取って自説の根拠としたり、今回の清浄願往生の心のことといい、利用できるものは何でも利用して会員を騙し続けています。私達はこうした親鸞会の言動に憤りを感じ、その誤りを糾弾していかねばならないと思います。

親鸞聖人は「白道」を他力の意味でしか教えられていません。それを、善導大師の当面読みを利用して聖人の御釈をひっくり返すような、悪びれることなく今までの創作話に合うような説明をして、なおも会員を獲信・往生と無関係の組織拡大活動に利用・搾取している親鸞会は本当に許せません。

私達は東の岸にいる時、「白道」に踏み出す前に弥陀の招喚のお言葉を聞きます。そのお言葉を聞くまでに、親鸞会で説かれるような自力の命がけの求道は不要です。そんなものは捨てて、阿弥陀さまが我々を助けるために命がけの修行をされ、今も現に、常に助けようと願われはたらき続けられている、その阿弥陀仏のお心を受けなければなりません。今、ここで、この私一人を救うという南無阿弥陀仏の六字の心を聞き受けお念仏申す。この他に我々が為すべきは無いことを訴えて、この記事を終わりたいと思います。


【後書】
そういえば、高森会長は上の至誠心釈の当面読み

外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

を利用し、19願の「発菩提心 修諸功徳」の説明の際に

「ド真剣に善をしなさい」とはどれくらい「ド真剣」なのか

を教える根拠として利用していました。実に許し難い行為です。こんなデタラメな教えを受けて信心獲得を妨げられていることに、会員の皆さんは早く気付いて頂きたいです。

現在の苦しみを「神の試練」と言われて納得している他宗教の信者と同程度の信心の親鸞会会員

この前、最近の親鸞会発行『顕正新聞』や「教学試験だより」を見る機会がありました。「教学試験だより」には大導師試験合格者の中に見知った名前がチラホラ・・・。あーあ、まだ在籍して頑張っちゃってるんだなぁとため息が(-_-;) 高森教の短冊教学を覚えた位で真宗の学者より教学力があるように勘違いして喜んでいる会員は実に滑稽です。

さて、何とか学会の真似をして全国に会館を建てまくっている親鸞会ですが、『顕正新聞』10月15日号にはその中の神奈川横浜会館落慶関連の記事が1面、2面、4面、5面と4ページに亘って書かれています。

4面には、「建立までの道」と題して会館が建てられるまでの経緯が書かれています。その中に、

如来の試練に違いない

という見出しで

今にして思えば、建立までの紆余曲折は、私たちの本気度を如来に試されていたのだと思います。

という文章があり、親鸞会会員の信心をよく表していると思いました。何かと求道上で苦難や障壁がまつわりついてくるのが親鸞会会員の常ですが、彼らはそれを「如来の試練」「本気度を如来に試されていた」という言葉で表現しています。これは他宗教で説かれる、現在の苦しみをいわゆる「神の試練」だと言われるのを聞いて納得している信者と同程度の信心であることは疑う余地がありません。


こうなってしまうのも、高森会長の創作「二河白道の譬え」を本物と信じ込んでいるところが大きいと思います。

白道は、私達の求道心、聞法心

だとして「煩悩と闘って求道せよ」、これが高森会長の教えです。

この創作「二河白道の譬え」は、苦しい会員の心情をよく表しています。これは、

白道を進めば進むほど、群賊悪獣悪知識がその道を進むなと妨害をしてくる
白道を進めば進むほど、火の河水の河の勢いが増してくる
白道を進んでいくというのはとても難しい

ことを表現し、「高森先生の仰る通りだ」と思わせる恰好の譬え話なんですね。

外からは富山へ行ったり親鸞会の教えにのめり込んだりすることに対する、家族の反対あり、寺の反対あり。主に退会者からの教義批判あり。また高森会長の出身母体である浄土真宗華光会の存在あり。それでいて、内からは欲や怒りの煩悩ありで、それらのために会員は求道聞法を妨げられて、思うように白道を進めない、信心獲得できないと思い込んでいます。

また、白道を進めば進むほど外からの非難、水火の波は大きくなると説かれるものですから、白道を進んだつもりになっている会員は「高森先生の仰る通りだ」と感じてますます高森会長に心酔してしまうのです。いくら説得しても言葉が通じないのは、こうした創作「二河白道の譬え」を信じ込んでいるところが大きいと思われます。


ところがこの譬え話、善導大師が作られた本物の「二河白道の譬え」とは全く別物です。まず譬え話自体が異なっており、譬えで表されている内容も違います。中でも決定的に違うのは「白道」です。

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。

親鸞聖人は、「二河白道の譬え」で善導大師が自ら解説されたこのお言葉を

〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。

と読み替えられ、

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。「信文類」

ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。『浄土文類聚鈔』

「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。『愚禿鈔』下巻

「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。(同)

と解釈されて、「白道」とは信前の、私達の求道心、聞法心といった自ら起こす自力の信心ではなく、信後の、本願力回向による真実の信心、他力の信心であることを明らかにされています。

たとえ善導大師が行者の起こす、つまりは自力の「清浄願往生の心」だと教えられていたとしても、親鸞聖人は本願力によって生じる「如来回向の信心」の意であるとされたのです。ちなみに、善導大師にしても「かの願力の道に乗じて」と仰っているのですから白道は他力の意にも受け取れます。いずれにせよ、親鸞聖人の教えにおいて、「白道」には自力の意味は全くありません。他力の意味しかないのです。


蓮如上人は、たとえ理由が分からなくても親鸞聖人がなさった通りにするのだと、

一 前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。『御一代記聞書』(159)

蓮如上人に対して、ある人がご開山聖人ご在世のころのことについて、「これはどういうわけがあってのことでしょうか」とお尋ねしたところ、上人は、「それはわたしも知らない。どんなことであれ、たとえ、わけを知らないことであって、わたしはご開山聖人がなさった通りにするのである」と仰せになりました。

と仰せられています。親鸞会の会員なら耳タコでしょう。このお言葉を基に、木像本尊の本願寺は間違いだと散々批判していることは承知のはずです。では、肝心の親鸞聖人の教えについてはどうでしょうか。

親鸞聖人は「白道」を他力で教えられているが、善導大師は自力で教えられていて、善導大師の教えられ方でワシは話をしているのだ

高森会長は以前こんな大ボケ珍答をしていたようですが(※)、ではどうして親鸞聖人の教えられ方で教えないのでしょうか。それで浄土真宗を説いていると言えるでしょうか。親鸞聖人の教えを親鸞聖人の教えられ方で教えることは、「なにごともなにごとも」の中に入らないのでしょうか。


こんな自力求道の教えを叩き込まれるから、会員は他力の信心どころか、他宗教の信者の信心と同類の自力の信心に住する羽目になってしまうのです。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。


譬え話の中で、釈尊と阿弥陀仏はこのように仰せられています。二尊は、別に我々を試すようなことは何一つされていません。それどころか、「直ちにこの道を行きなさい」「直ちにこの道を来なさい」とお勧めです。我々を救いたい、救いたい、浄土に迎えて仏にしたいと願われているのが御二方のお心です。その御二方の発遣と招喚とを東の岸で聞き受けて白道へ踏み出すのですから、我々には自力の命がけの求道など不要です。それでは報土往生はできないから直ちに捨てて、如来大願の他力に帰すべきであると親鸞聖人は仰せです。

そのお勧めと真反対の、別の道に誘い入れて会員さん方の獲信・往生の妨害をしているのが高森会長です。親鸞聖人の教え通りに法を説かないことこそ、高森会長が群賊悪獣悪知識の親玉である何よりの証拠です。

親鸞会の説く救いにあずかるには、何十年と命があって、健康で、活動し続けられることが必須です。しかし、一生涯懸命に活動したとしても、ベクトルが違う上に教えが根本から違いますから信心獲得、報土往生はかないません。会員はあと何年生きて、あと何年元気に活動し続けられるつもりなのでしょうか。またそんな教えにいつまで付き合うつもりなのでしょうか。いつまでも命があると思って、求道もどきの求道をして、白道を進んだつもりになって喜んでいるのが己の情けない姿だという実態に早く気付いてもらいたいものです。


【参照】
『WikiArc』清浄願往生の心
『飛雲』麻原教祖を未だに信じているアレフの信者より幼稚な高森顕徹会長信者
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』親鸞会での「群賊悪獣悪知識」の意味が変わってきた件(2018年11月26日(日)アニメ映画解説より)

「聞く一つ」と言ったり、19願の「諸善」と20願の「念仏」とを修行するように勧めたり、矛盾だらけの高森顕徹会長

昨日は富山で高森顕徹会長の話がありました。内容はいつもの

映画『なぜ生きる』の蓮如上人のセリフ
『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか。」


という質問に答える形式の、飽き飽きしてしまう高森教でした。話の一部は既に

『飛雲』創作二河白道の譬え話で、苦境に陥っていることが判る高森顕徹会長率いる親鸞会

に書かれています。当ブログでも、話を一部紹介しつつツッコミを入れていきたいと思います。


まず、今回も相変わらず高森会長は、阿弥陀仏の本願は

「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に」

というお約束であると創価学会の信心を説明していました。しかもその「絶対の幸福」とやらの解説に

南無阿弥陀仏をとなふれば
 この世の利益きはもなし
 流転輪廻のつみきえて
 定業中夭のぞこりぬ
『浄土和讃』現世利益和讃

を用いて、「仏教で利益(りやく)は幸福のこと。幸福がきわもない、無限」だと説いていたのがお笑いでした。あのね高森会長、これは冒頭に「南無阿弥陀仏をとなふれば」とあるように、真実の行である念仏一行を称えることによる利益を教えられたものですよ? この少し前には

絶対の幸福に「聞く一つ」と言われても、それがわからない。何か修行がいるのではと思う。学問、座禅、祈ること、信ずること、願じなさい、念仏称えなさい・・・多くの宗教はこのような修行を勧めている。

などと話して、念仏行さえ「多くの宗教」の勧めの一つに数え、真宗では「聞く一つ」などと否定しておったのに一体どの口がそんなことを言っているのでしょうか。仏教、浄土真宗に無知な高森会長は、真実行と真実信、そして聞との関係は当然ながらご存知ないようです。


真宗では如来選択回向の念仏一行を真実の行と定め、

仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。「行文類」行信利益

と本願の名号、南無阿弥陀仏を仰いで往生をおまかせし、専ら行ぜよ、称えよとお勧めです。その念仏一行を称える際の信心に注目し、これは自分で起こす信心ではなく、如来より与えられる本願力回向の信心であることを明らかにされたのが親鸞聖人です。そしてその信心は、仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の六字のこころをそのまま聞くこと、この他に信心は無いというのです。それを教えられたのが「信文類」

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

であり、また『一念多念証文』

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

のお言葉でした。お前が修めるべき往生の行はこの阿弥陀が名号として仕上げたから、どうか南無阿弥陀仏と称えて浄土に生まれてきてくれよとの大悲招喚の勅命を、己の計らいを雑じえず、仰せのままに聞き受けているのが、取りも直さず真実の信心であることをこのように仰せられているのです。何かの一つ覚えのように「聞く一つ」、「聞く一つ」とうるさいですが、何を「聞く一つ」なのか全く教えられていない、間違って教えられていることを会員の皆さんは早く気付くべきです。

高森会長の、都合によってコロコロ変わる与太話をいくら「聞く一つ」と真剣に聞いていたってダメです。会員の皆さんは約1ヶ月前、どのような話を聞いていたか覚えていますか?

18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」であり「念仏」であり、大切な「宿善」となる

こんな話を聞いていたんですよ? 18願のお約束通りになるために必要であり大切だからやりなさいと、19願の「諸善」と20願の「念仏」とを修行するように勧められていたじゃないですか。なのに「聞く一つ」だなんて全く理解不能ですよ。これを善知識の深いミココロなんかと騙されているようではもはや「病膏肓に入る」です。


さて次に、『飛雲』でも触れられている、高森会長が必死の求道を勧めるために話した創作「二河白道の譬え」についても書いておきましょう。高森会長は、こちらも何かの一つ覚えのように

白道は、私達の求道心、聞法心

と話していましたが、全く根拠のない珍しい教えです。善導大師は譬え話を解説して

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。

と教えられています。これを親鸞聖人は

〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。

と読み替えられ、

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。「信文類」

と解釈されて、他力回向の義、「白道」は信前の、私達の自力の信心ではなく信後の、本願力回向による真実の信心、他力の信心であることを明らかにされました。またその直前には「白道四五寸」を釈して

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。

と仰せられています。これによりますと、「白道」とは

白 - 選択摂取の白業、往相回向の浄業
道 - 本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道


ということで、本願において選択摂取され、往相回向の浄業として回施される念仏一行を称えてゆく第十八願の唯一信心の道であり、その信心は「金剛の真心」「本願力の回向の大信心」です。どこにも

白道は、私達の求道心、聞法心

なんていう珍釈もありませんし、

18願のお約束通りになるために必要な方便が「諸善」であり「念仏」

と説いて19願の「諸善」と20願の「念仏」とを修行するように勧めることもありません。高森会長は、親鸞聖人の仰せの通りに法を説いていないことが「まことに知んぬ」です。なぜこうまで教えを捻じ曲げるのでしょうか。一つ言えるのは、高森会長は会員の獲信だとか往生だとかは兎の毛で突いた程も眼中に無いということです。


月最低5,000円以上の会費を払い、人によっては高い交通費や宿泊費を払って富山へ通い、その都度その都度更にお布施を払い、勧誘活動もやって目標財施額、目標入会(入学)人数を達成し、会長や上司の指示に無条件に従ってゆく。こんなことが普通の人間にとって苦しくないはずがありません。それを正当化し、会員を体よく利用しているだけだということに、会員の皆さんは早く気付きましょう。



【参照】
『飛雲』再開した三願転入の妄想話
「仮」「方便」が「方便化身・化土」のことだと分からない、本当に真宗に無知な高森顕徹会長

【後書】
林遊@なんまんだぶ様よりツッコミを頂き、一部記事を修正致しました。ありがとうございます。なお、親鸞聖人は読み替えによって善導大師の真意を明らかにされたのであって、善導大師が「白道」を自力だとは教えられていません。そもそも譬え話自体が信後の「信心守護」の譬えであって、信前の自力求道の譬えではないのです。高森会長が「白道」を信前の私達の求道心、聞法心だと主張するなら、その根拠を提示すべきでしょう。

この世へは、お念仏申すために生まれてきたんだよ

この世に「生まれる」ということ、「生きる」ということ、「生きてゆく」ということ

の記事に、複数の方からコメントを頂きました。ありがとうございました。

親鸞聖人は、直接には「生きる意味はこうだ」というようなことは仰っていません。なので、本願を信じお念仏を申した上でそれでも生きる意味は無いと考えるのは、それはもうその人の自由じゃ。私は一つの思想に皆さんをはめ込むつもりではないし、私の考えや領解を押し付けるわけでもありません。また皆さんの考え方を無理に変えようという気もないので、「生きる意味」について反対意見や、別の捉え方があれば意見して頂いて全然かまわないです。それよりも、こういった大事な問題について無関心というのが一番困ると私は考えます。

ただ、生きる意味は無いと説く宗教が人を救い得るのか。そういう教えを人は聞きたいと思うのか。私はそうは思いません。それに生きる意味が無いなら、自死を止める理由もありません。一人一人が誰とも代わることのできないかけがえのない「いのち」を持って生きている。その「いのち」のある間に果たすべき事柄がある。そしてそれを果たし終えた人にも、その人にしかできない大切な事柄がある。私はこう考え、「生きる意味はある」というスタンスで書いていきますので、よろしくご承知おき下さい。



さて、ここからは「生きる意味とその方向性」について、本日も書いていきます。

生きる、生きてゆくということは、その文字からは想像もつかないほど大変なこと、そして覚悟の要ることです。若い内、周囲から守られている内は分からないかも知れませんが、当ブログをご覧の方の中にも、言うに言えない苦しみを抱えて生きてきた、今生きているという方もおられると思います。確かにいいこともあったが、やはり苦しみの連続が人生ではないかと思います。

たしかに今の日本には昔のように戦争もありません。世界から見たら平和そのもので、物は豊か。GDPは世界3位に後退しましたが、それでも経済大国であることは変わりません。昔は死病と言われていた病気も医学の進歩で治癒可能となったものもあります。貧しい生活を強いられている方も少なくありませんが、世界の難民と比べたら、比較にならないほど恵まれています。

ところが豊かさと幸福度は必ずしも一致しないようです。「世界幸福度報告書2018」では日本は54位とのことですから、「豊かさ」=「幸福」とは一概に言えないことが分かります。「幸せだなぁ」と身の幸をかみしめて生きている人もあるかと思いますが、今の生活が当たり前になってしまうと、中々幸福を感じられないものです。経済的な豊かさと心の幸福感が必ずしも比例しないのはそのためです。

また、生きる過程でどんな幸せなことがあったとしても、ずっとその状態を保ち続けることはできません。やがてそれは思い出となり、記憶となり、過去のこととなります。美味しいものを食べたこと、皆に褒められたこと、好きな人を見つめるだけで胸がときめいたこと、家族や友人と笑いあったこと、受験に合格したこと、志望する会社に入社したこと、いい仕事ができたこと、会社を立ち上げて成功したこと、愛する人と結婚したこと、子供ができたこと、美しい風景を見たこと、難病を克服したこと・・・人それぞれ幸せなことは色々あったでしょうが、そこで人は止まることはできません。幸せの瞬間に、「ここで、このまま時が止まってしまえば・・・」と思うのは、やがてその幸せも終わってしまうことが感じ取れるからです。

現在テレビ放映中のアニメ「HUGっと!プリキュア」の敵である「クライアス社」は、時間を止めて人々の未来を奪うらしいですが、その社長ジョージ・クライの考えも分からなくはありません。むしろその思想には同調です。今を花咲くプリキュア達も、彼女らが本物の人間だったならやがて大人になり、おばさんになり、おばあさんになります。いつまでも元気、可愛くきれいではいられません。仲間との別れ、大切な人との別れもあるでしょう。どんな悪事災難が起こるか分かりません。そして、護り、はぐくみ、育ててゆこうとしていた自分自身の未来さえも無くなり、たった一人で死んでいかねばならないのです。

「人々が笑顔で暮らし続けられる世界を作るため、新たな苦しみが永遠に生まれぬよう、時間を止めることで未来を消滅させる」

こんなことが可能ならば、「幸せだなぁ」と感じたその瞬間にぜひともそうしてもらいたいものです。

実際に、私達が感じている幸せは終わります。それには、残念ながら永続性が無いのです。生まれたからには老いと病と死はまぬがれません。出会ったからにはいつか別れねばなりません。嫌なこととも向き合わねばなりません。突然の事故、病気、家庭不和、いじめ、隣近所とのいざこざ、仕事上のトラブル、死別・・・無いものもありますけど、やがて出くわさなければならないものばかりです。生きてゆく限り、招かれざる客は必ずやって来る。その苦難に堪えて、苦難を超えて生きてゆく。生きてゆくのは覚悟が要ると言ったのはこのことです。

愛は幻、幸せは一瞬で、掴んだと思った幸福も一夜の夢、一朝の幻と消えていった経験はありませんか? 今、招かれざる客のために苦心惨憺、これからどうやって生きてゆけばいいのか途方に暮れて悩んでいる方もきっとおられるでしょう。次の瞬間には、このように書いている私がそうならねばならないかも知れません。本当にいつ何時、どのようなことが起こるか分かりません。全く予想だにしなかったことが起きるものです。

それがいいことならいいですが、反対に今まで経験したこともない逆境に立たされた時、強烈に生きる意味を問わずにはいられなくなるでしょう。苦しいのに、なぜ生きてゆかねばならないのか。この苦しみに耐えてまで生きてゆくのは何のためなのか。辛い思いをして生きてもやがて死んでゆく。なら、今死ぬのも変わらないではないか。私は10代半ばからずっとこのことを考えていました。


生きることに疑問を持たず、またそれほどに苦しくもないのなら、そんなことを考えなくても生きてゆけるのでしょう。しかし、思うようにならない現実に苦しみ、この苦しみに耐えてまでどうして生きていかねばならないのかと考えていた私はそうではありませんでした。ここに、親鸞会の教えに惹かれる下地があったのです。

ただ、教えは間違っていましたが、「人生の目的」「なぜ生きる」という問いかけまでは間違いではありません。逆にこのような問いに対して正面から向き合わない、どこかお茶を濁してあいまいに終わってしまう、何も教えられないというこの社会が間違っているとさえ感じてしまいます。何せ生きてゆくということについて根本となる問題です、この「なぜ生きる」「生きる意味」というのは。これが分からないんじゃあ、人は自死を選んだって全然おかしくないです。強くたくましく生きろ。で、生きたその先が老病死では、生きた甲斐がないですもの。

生きれば生きるだけ幸せになっていくならいいかも知れないけれども、そうではありませんから。私は、祖母が生前ぽつりと呟いたこの言葉が強く胸に残っています。

「人生って、いったい何だろうね・・・」

若い時から苦労して体もやせ細り、心臓も弱って立つこともままならなくなった祖母がこう呟いていたことが、今も忘れられません。たしかその時の祖母は88か89歳だったと記憶しています。きっと、今まで夢・幻のように過ぎて行った人生を振り返り、遠くない将来に死にゆく未来を見て呟いたのでしょう。私には、生きる意味、また死んでゆく意味を知らずに生きるとはこういうことになるのだという説法だと思われてなりません。


できるなら、その時に戻って、感謝の言葉と共に伝えてやりたい。

この世へは、お念仏申すために生まれてきたんだよ。人間の世界は迷いの境界で、本当の安心や満足は無いんだ。この迷いの世界を出て、まことの安らぎを得るのが人間に生まれて死ぬまでになさねばならないことなんだよ。ところが我々は欲望や怒り、憎しみといった煩悩の塊で、とても自分の力で迷いを離れられるような者じゃない。それで阿弥陀仏は、「お願いだから南無阿弥陀仏と称えて浄土へ生まれてきておくれ」と私達に往生のみちである念仏を与えて下さった。阿弥陀さまは「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」と仰せなんだから、その通りにまかせてただなんまんだぶ、なんまんだぶと称えて必ず生まれられると思い定めて。あとはいのちのある限りお念仏を申して、往生を定めて下された御恩を喜んで共に浄土の旅を生きようね。そして、いのちが終わった時がお浄土参りだよ。


浄土真宗では、私達がさとりの領域、まことの安らぎである阿弥陀仏の浄土に往生するみち、すなわち「念仏」を教えています。人間の力ではどうにもできない生死の問題ですが、平生南無阿弥陀仏のこころを聞いたその時に必ず往生定まる身となります。するとそこからはお浄土へ向かう人生となります。

「南無阿弥陀仏(必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい)」という真実の仏の言葉を仰ぎ、光とし、口に称えて常に聞きつつ、浄土を目指して生きてゆく。こうして生きる意味と方向性とを常に真実の御名を称え聞いて確かめつつ、いのちのある限り生きてゆくのです。そして、いのちが尽きたらただ死ぬんじゃない。お浄土へ生まれるのです。死んでゆく意味は、浄土へ参ってこの上ないさとりを完成し、まことの安らぎを得ることです。そうなってこそ死んでゆく甲斐があるというものです。そうしたら、今度は皆さんにもそうなってもらいたいと有縁の方々を思うが如くお浄土へ導くことができる。これみな、阿弥陀仏がお与え下されたお念仏の利益です。

生きる意味は何なのか。どこへ向かって生きているのか。死んでゆく意味は。こういうことが気になる方には、ぜひとも浄土真宗を聞いて頂きたいものです。日時、場所、布教使の先生については

浄土真宗の法話案内

等を参照して頂きたく思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


【参照】
国連「幸福度ランキング」、日本は54位だった
『Wikipedia』HUGっと!プリキュア
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード