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勅命を仰せのままに受け容れて、疑いがないのが信心

信心決定、信心獲得とは、「絶対の幸福」とかいうワードが連想させるような、心が常にものすごい幸福感でいっぱいになる体験とは違います。

信心とは本願の信心のことで、それは本願の仰せを疑いをまじえずに受け容れたことです。本願の御言葉は南無阿弥陀仏の六字に結晶し、称え聞こえる南無阿弥陀仏のそのわけは

われをたのめ、われにまかせよ、必ず浄土に迎えるから安心しなさい

と喚んでおられる阿弥陀仏の勅命です。その勅命を仰せのままに受け容れて、疑いがないのが信心です。

この信心は、本願の通りに「必ず浄土に生まれられる」と慶ぶ心となって現れてきます。「欲生我国」の心です。

ですから慶ぶ心は当然あります。ただそれは、往生の慶び、必ず往生できることに定まった慶び、遇うべき法に遇わせて頂いた慶び、聞くべき法を聞かせて頂いた慶びです。欲望を満たした時や、願いがかなった時に感じるような幸福感ではありません。幸福というよりは、安心といった方が近いかも知れません。

また慶びの感じ方もそれぞれではないかと思います。人それぞれ、生き方も感性も、立場も状況も様々です。同じ法を頂き、同じく摂取不捨の利益にあずかって決定往生の身となっても、慶び方、慶びの感じ方はその人その人違うでしょう。淳心房で言えば、法を頂き、お念仏申すところに、有難いなぁ、うれしいなぁ、かたじけないなぁとしみじみ味わわれてくる、静かな慶び、尽きせぬ慶びです。

法に触れていない時は、その慶びは表に出てきません。どんなに煩悩が逆巻いても捨てられる、往生取り消しとはならないので何とも言えない安心感ですが、いつもいつも慶んでいられるというわけにもいきません。悪業の報いでしょうが、つらいこと、苦しいこと、悲しいことは様々起こってまいります。それを受ければやはりつらいし、苦しいし、悲しいです。全然へっちゃらになるというわけにはいきません。

なので、信心決定したら幸せ一杯の生活、光明輝く生活をさせてもらえる、一切の苦労が報われて流した涙の一滴一滴が真珠の玉となって戻ってくるなどと期待しているとしたら、その考えは改めた方がよいでしょう。これは、往生成仏という米を求めるべきところが、現世利益という藁を求めてしまっています。米を取れば自然に藁はついてきますが、藁を求めても米はついてきません。「絶対の幸福」という現世利益を求めて仏法を聞くことは本末転倒です。


慶ばれるとか、慶ばれぬという心配は要りません。慶ばれるから往生一定、慶ばれぬから往生不定、ではありません。我が心を見て法を仰がぬようではなりません。

「ほんとうに、疑いなく、浄土に生まれられると思って、念仏せよ、必ず救う」

こうした本願に身も心もすっかりまかせて、ただ念仏申すのみです。

そして、信を獲た後もよく聴聞させて頂き、聞かせて頂いたことを思い出してはお念仏申すことです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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悪口、不平不満ばかり言うその口で南無阿弥陀仏を称えるのだ

山家の伝教大師は
 国土人民をあはれみて
 七難消滅の誦文には
 南無阿弥陀仏をとなふべし

一切の功徳にすぐれたる
 南無阿弥陀仏をとなふれば
 三世の重障みなながら
 かならず転じて軽微なり
『浄土和讃』現世利益讃

この前、上のような現世利益讃を拝読している内にこのようなことを考えました。

淳心房、お前、口を開けば人の悪口ばかり言うておるじゃないか。不平不満ばかり言うておるじゃないか。その口で南無阿弥陀仏を称えるのだ。南無阿弥陀仏と称えることは仏を誉め讃えることになる。それはまた、罪を懺悔することにもなる。

『尊号真像銘文』には次のようにあります。

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。

南無阿弥陀仏を称えることは、「仏をほめたてまつるになる」「無始よりこのかたの罪業を懺悔するになる」というのです。こちらは別して仏を誉め讃えたり罪を懺悔したりするつもりでなくとも、そうなると教えられています。これがありがたいところです。

私には申し訳ないけれどもそのような殊勝な心がありません。起きてきません。造悪は止まず、その報いで苦しむしかありません。それが念仏することは嘆仏、懺悔となって下さるというのですから、今後も悪業を造って苦しむはずであった果報は自ずから変わってくるはずです。


法のお育てを受けていきますと、少しずつですが、仏さまを中心とする考え方というものができてきて、自然と悪を慎むような心がけができてきます。勿論、造作も無く縁によってむさぼりの心、怒り、腹立ち、憎しみの心が出てくるのは変わりませんが、それを恥ずかしい、申し訳ないと反省、懺悔するような心も起きてくるのです。

本来そのような性分でなかった私にそのような心が起こってくる。これは、阿弥陀仏や諸仏方、菩薩方や神々の護念摂護にあずかっているから、そのおかげによって起こさしめられるのではないかと思うのです。

・七難消滅の誦文には南無阿弥陀仏をとなふべし
・三世の重障みなながらかならず転じて軽微なり


以前はそんなこともあるもんかいなと考えていましたが、このように考えてまいりますと今は故あることではないかと思われます。勿論これは私の味わいなので、そのように捉えて頂きたいと思います。尤も、現実の悪果が善転することを期待して念仏するというのは本末転倒です。念のため。


色々申しましたが、要はつべこべ言わずになんまんだぶせいということだと味わいました。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

またまたBlu-ray&DVD販売の親鸞会

今度、映画『歎異抄をひらく』がBlu-rayとDVDで出るそうです。

『Amazon.co.jp』「歎異抄をひらく」完全版(Blu-ray/DVD各1枚組)

親鸞会では新たに製作物が出る度に募財をしていますから、今回も

高森先生が命がけでご製作下されたものです。精一杯御報謝させて頂きましょう

なんてな感じでやっているのでしょう。

会員の皆さん、そうやっていくら御布施、御報謝と称して献金しようとも、それと皆さんの往生・獲信とは無関係です。それどころか、往生・獲信に何らかのプラスになるだろうと思ってやる献金や勧誘などの親鸞会の活動は良く言って雑行です。悪くというか、事実を言えば、エセ浄土真宗を繫昌させるだけの高森の行悪業悪行です。そんなことばっかりに余念がなく、それでいて本願の念仏一行を専修しない/させないんですから、これで信心決定とか、後生の一大事の解決なんて言っていることの方がおかしいです。


そういえば頂いた情報によりますと、先日日曜日の行事では、会員はウェブサイト上から課金で法礼を納めていたようです。それ以前からそういうシステムで御布施を集金できていたのか、詳しいことは分かりませんが、今や法礼までが電子マネーとは時代は変わったものです。

一方、地元講師も公共施設で講座が出来なくてグループラインで法話をあげています。その法礼はラインペイで払うことが出来るらしいです。

そうやって取るものは取るものの、肝心要の教えが間違っていては、聞く側がどんなに真剣に聴聞し、献金や勧誘に努めようとも、親鸞聖人と同じ信心は獲られません。今生もまた空しく過ぎようとしているのに、それに気づかずに騙され続ける会員は、本当に哀れ哀れです。

ネット中継の講演すらしない高森顕徹会長 その2

4月26日(日)は高森会長のネット中継による講演がなされる予定でしたが、実際は行われず、過去のビデオでの講演記録が流されたようです。それもどうやら、一般会員には断り無く。

ネット中継の講演すらしない高森顕徹会長

にて予想した通りです。この分だと、来月に予定されている高森顕徹会長の行事もそうなるでしょう。

それにしてもおかしいのが、過去の講演記録に切り替えるのに会員に予告が無いという点です。普通ならば、「ドクターストップがかかって・・・」などと事情を説明した上で切り替えるのが筋でしょう。ところが親鸞会は異常です。もはや異常が異常であるということに慣れ過ぎてそれが普通になり、あるいは忖度の域になっているのかも知れませんが、こういうところからも会員の皆さんは、親鸞会は異常だと感じ取って頂きたいものです。


さて、頂いた情報によりますと、今回流されたのは去年2019年5月の「聖人一流の章」についての講演記録のようです。内容については

『飛雲』係念の宿善?の念仏を勧めた?高森顕徹会長?

を参照頂きたいと思います。当ブログでも

いくら聞いても、親鸞聖人、蓮如上人と同じ信心になどなりはしない、「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」という阿弥陀仏のお約束を説き続ける高森顕徹会長

にて扱っています。こんな教えをいくら聞き続けても、残念ながら徒事です。


まず、浄土真宗の目的はこの迷いの世界からの出離です。そのための本願であり、念仏であり、信心です。「絶対の幸福」だとかいうこの世の幸福ではありません。もし、「絶対の幸福」という現世利益を目的に仏法を聞こうというのなら、それは本末転倒です。存覚上人はこれを稲と藁の関係で教えられています。

まめやかに浄土をもとめ往生をねがはんひとは、この念仏をもつて現世のいのりとはおもふべからず。ただひとすぢに出離生死のために念仏を行ずれば、はからざるに今生の祈祷ともなるなり。これによりて『藁幹喩経』といへる経のなかに、信心をもつて菩提をもとむれば現世の悉地も成就すべきことをいふとして、ひとつのたとへを説けることあり。「たとへばひ とありて、種をまきて稲をもとめん。まつたく藁をのぞまざれども、稲いできぬれば、藁おのづから得るがごとし」といへり。稲を得るものはかならず藁を得るがごとくに、後世をねがへば現世ののぞみもかなふなり。藁を得るものは稲を得ざるがごとくに、現世の福報をいのるものはかならずしも後生の善果をば得ずとなり。『持名鈔』

何のために生まれてきたのか。何のために生きるのか。なぜ苦しくても生きなければならないのか。

この答えが、親鸞会では「絶対の幸福になるため」です。そして本願の説明が

「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」という阿弥陀仏のお約束

です。親鸞会の説く本願は言わば「」です。ここからして親鸞会ではもうダメなことが分かります。

次に、迷いの世界から出離する方法です。これについて、この世で修行してさとる聖道門、死後浄土に往生してさとる浄土門がありますが、浄土真宗は死後浄土に往生してさとる浄土門です。

その浄土門の行に、正行と雑行とがありますが、浄土真宗は余のもろもろの雑行をまじえず、本願の念仏一行によって浄土往生しようという教えです。雑行とは

『飛雲』高校生並みの国語力なら簡単に理解できる雑行の話

にあるように「万行」=「雑行」=「諸行」、つまりは親鸞会の大好きな諸善です。「絶対の幸福」(建前としては浄土往生)のために諸善という「雑行」を勧める親鸞会が、如何に親鸞聖人の教えと反しているか分かります。親鸞会はダメダメです。

それから信心についてですが、親鸞会では

真実信心
=「二種深信
=「絶対の幸福
=「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる

などという創価学会の信心、魔訶不思議な信心を教えています。しかし、浄土真宗の信心は本願の仰せを疑いをまじえずに受け容れたことであり、死後どのようなところへ赴くかも含めて全て阿弥陀仏におまかせしたことです。それも「念仏の信心」ですから、絶対の幸福とやらを願い、諸善をまじえてそれに執心している者にはまず分からないでしょう。

その浄土往生が、阿弥陀仏の本願を聞信した平生の一念に決定するというのが信心決定です。その信心は自分で起こすものではなく、阿弥陀仏より賜る信心です。阿弥陀仏より賜る信心ということは親鸞会でも言いますが、それに沢山の尾ひれはひれがついて、驚天動地の体験、ものすごい幸福感を得られる体験のことだと妄想しているのが親鸞会の会員です。これで「浄土真宗」「親鸞」会と名乗っているのですから意味不明です。


阿弥陀仏の浄土に往生して後生助かるためには、もろもろの雑行を捨てて本願の念仏一行を専ら称え、称え聞こえる南無阿弥陀仏の声は「助けるぞ」「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」と喚んでおられる阿弥陀さまの仰せだと聞き受けて、一心に後生おまかせして下さい。仰せを聞くのがすなわち信です。

親鸞会の教えは、浄土往生とは無関係、どころか、障害にしかなりませんから、しがみついているだけ無駄事です。早く会員の皆さんが親鸞会教義の誤りに気付いて脱会し、本願を信じて念仏されるよう願います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

少しずつ変化すること

変化すること、しないこと

の記事の続きです。


自分の能力、健康状態、経済状態、人間関係、仕事、その他周囲の環境は、本願に遇わせて頂いたからといって変わるものではありません。そういうものをよくする、改善するという誓いではないからです。

また、自分の煩悩も変わりません。欲や怒り、ねたみそねみの心、人やものを疑う心、うぬぼれ心などは、臨終の一念に至るまでとどまりも消えも絶えもしません。

では、そういったものは全く変わらないか、よくならないかと言ったら、そうではないと申しておきます。それは、本願を受け容れ、教えをたしなむことによって自分の心が少しずつ変化していくからです。

法をたしなみ、お念仏をたしなんでいくことでまず自分の中に変革が起きます。人生の諸問題は、それによって少しずつ変化、改善していく、されていくものだと思います。勿論、変化に相当に時間がかかるもの、どう頑張っても変化しないものだってあるでしょう。変わるのは自分の内部、自分の心です。

煩悩については、これは心のブレーキがかかると言いますか、今までは煩悩のままに従っていたのが、如来さまが主体となることによって、こういうことをしていいんだろうか、やめた方がいいんじゃないかという考えに少しずつ変わっていきます。無くなりはしませんし、悪いことをしてしまうことはしてしまうのですが、それにブレーキがかかったり、悪いことをしたと懺悔する心が起きてきたりします。

それは数で言ったら小数点第一位か第二位か、あるいはもっと小さい位かという微小な変化かも知れません。でも、その微小な変化が大事なんです。物事を100か0かで捉えようとする人には理解不能かも知れません。また変化とは言わないかも知れません。しかし、人間とは機械人形や粘土細工じゃないんですから、逆にすぐにガラッと変化するということの方がおかしいです。

こういうことを梯和上はモーターボートと巨大タンカーの譬えで教えて下さいます。モーターボートは舵を切れば割合すぐに方向転換が可能です。一方、巨大タンカーは舵を切っても方向転換に時間がかかります。しかし、時間はかかっても舵を切ったなら方向転換していきます。そのように我々は巨大タンカーのようなもので、教えを1回2回聞いた位であぁ分かったと行動がいきなり様変わりするような、そのような存在ではありません。

逆に、教えを何回聞いても直らない、直そうとしない、まるで子供のような存在です。うちの末娘は食事中に立つなと何回言っても立ち上がりますが、そんなもんです。しかし、注意し続けていけばやがて直ってゆくでしょう。そのように、教えをたしなみ続けていけば、その1回1回で見れば変化したんだかしないんだか、よく分からないようなものであっても、そういう人は必ず変化していくものです。教えをたしなまない人は別です。


本願の仰せを疑いを交えずに受け容れ、お念仏申して浄土を目指す行者を、今生は摂取不捨の利益にあずけしめ、後生は浄土に迎え取るというのが現当二益の救いです。阿弥陀仏のねらいは私を浄土往生させることです。摂取不捨の利益は、決定往生の身になった行者についてくるものです。尤も、それを「絶対の幸福」などと教えられ、そのような幻想的な楽、現世利益を獲ることが目的になっている/いた人にとっては、浄土往生の大益と共に無関係なものかも知れません。

人によっては、阿弥陀さまが自分の願いを都合よく叶えてくれる神様になっています。阿弥陀さまの願いを聞き、それを受け容れて、阿弥陀さまの願い通りの身になるというのが浄土真宗を聞くということのはずなのに、阿弥陀さまの願いはそっちのけで、逆に自分の願いを阿弥陀さまに聞かそうとしているのです。

私達は自分の願いを押し付けずに、ひたすら阿弥陀さまの願いを聞き、仰せのままに受けてお念仏し、往生を一定と思い取らせて頂くべきなのです。

そして、法を受けて、教えをたしなんでいって、少しずつ様々な御恩や恵みの中で自分は生かされていることを知らされてくる。それを、あぁ、有難いことだな、かたじけないことだなと感じられてくる。そうしたことによって、少しでも阿弥陀さまをはじめ様々な御恩や恵みに報いさせて頂こうと思う心が起きてくる。

そうした心の変化が少しずつですが起きてきて、実際の行動が変わってくる。中にはガラッと変わる人もあるかも知れません。ほとんど変わらないという人もあるでしょう。私などは申し訳ありませんが、10年経ってようやく少し変化してきたかなという程度です。


往生の信心は即座に定まりますが、このように、教えを受け、教えをたしなむことによって少しずつ変化することもあります。そういうこともあるということを知って頂きたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

変化すること、しないこと

よく私は、自分のことを「本願を信じ念仏を申す身になった」と言います。本願の救いという言葉は使いますが、あまり「救われた」とは言いません。それは、阿弥陀仏に「救われた」「救われる」という言葉のイメージが、本願に遇わせて頂くということとかけ離れているように感じるからです。それは私が親鸞会を通して浄土真宗に遇わせて頂いたからなのかもしれません。

私事ですが、自分は阿弥陀仏に「救われる」とは、心が常に幸福感いっぱいで、大きな喜びに満たされ、何物もそれを壊すことはできず、どんな苦しみや困難も乗り越えて行けるようになることだと、そんな風に想像していました。「救われる」という言葉に対するイメージは各々違うでしょうが、特に親鸞会の退会者の方は私に近いイメージを持っているのではないかと思います。これはきっと、「絶対の幸福」という言葉による弊害でしょう。

阿弥陀仏に「救われる」ということに過大な期待をして、人生の諸問題まで全て解決、または大幅に改善するように勘違いをされるかも知れないため、私は本願のはたらきに対して「救われた」とはあまり言わないのです。


本願に遇わせて頂いた後も、目の前の現実は変化しません。自分の能力、健康状態、経済状態、人間関係、仕事、その他周囲の環境は変化がありません。病気を抱えている人は抱えているまま、借金がある人は借金があるまま、人間関係もそのまま、自分の能力や今抱えている仕事もそのままです。末期のがん患者だったのが健康体に変わるとか、借金が貯金に転じるとか、激務だった仕事が軽くなるとか、今まで厭い憎んでいた人が大好きな人に変化するとか、そういうことはあり得ません。

また、煩悩具足の身であることも変わりません。相変わらず欲望、怒り腹立ち、ねたみそねみ、人やものを疑う心、うぬぼれ心などは次々起こってきます。気に入らないことが起こったり、嫌味の一言でも言われたりしたら腹は立ちますし、自分より幸せそうな人の環境をうらやんだり、ねたんだりする心は変わりません。

急に人間の中身が入れ替わって、身体ですることも、口に言うことも、心に思うことも全て清らかで正しい行いに変化するとか。親不孝ばかりしていた者がいきなり孝行な子供に変わるとか。ケチで舌出すのも嫌な人が、広く人々のために施すようになるとか。とか!?

そんな人はあっても稀ではないかと思います。


変わるのは、本願力に摂取されて必ず往生成仏すべき身に定まった点です。十方衆生をみな漏らさずに往生させるというのが本願の誓いであり、平生に本願を聞信する一念に、臨終を待つことなく往生は決定してしまいます。煩悩を抱え、迷いの世界から離れられない者が、煩悩を断じないままで涅槃を得る身となる。そのことを親鸞聖人は正定聚の位に入ると教えられました。

一方、煩悩は変化がありません。自分の生活や周囲の環境も変わりません。なので、ぶっちゃけ往生の問題以外は全て残されています。阿弥陀仏の本願はそういった問題を何とかするとか、少しでも良い状態にするとか、そういった誓いではないため、現世を生きていく問題は自分で立ち向かい、自分で解決していくしかありません。当たり前と言えば当たり前の話なのですが、信心決定しさえすれば全て解決みたく思っていた人からすれば、びっくりする位何も変わらない現実に戸惑うこともあろうと思います。私もその一人でした。

それはちょうど、医者の仕事は病気を治すことであって、生活や環境、人間関係を改善することではないようなものです。この場合、医者は病気を治すことが仕事で受け持ちです。その医者に、自分の人生の全てを面倒見てもらおうというのは酷な話です。

また、治そうとする病気によって薬が違うようなものです。心臓の薬は心臓の病に、肝臓の薬は肝臓の病に効果がありますが、心臓の薬でもって肝臓の病を治すことはできません。本願醍醐の妙薬は無明業障の病には効能があります。しかし、肉体的精神的な病、人間関係の病、仕事上の病、その他様々な生きていく上での病にも効能があるかといったらそうは教えられていません。


変化することもあればしないこともあります。また、少しずつ変化していくということもあります。それについては別記事で書きたいと思います。なお、当記事では本願力に遇わせて頂くことを「救われる」という語で表現されている方を否定しているわけではありません。念のため。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

仏心を体現した医師団のはずなのに・・・

a様よりコメントを頂きました。ありがとうございました。


実際、添付されているURLを開いてみると、赤の太字で次のように書かれています(4月19日現在)。

なお、当院では新型コロナウイルスの検査(PCR検査)を実施することは
できませんのでご了承ください


病院や老人ホームにおけるクラスター(集団感染)が広がりつつありますので事情のほどはお察ししますが、かの病院は「仏心を体現した医師」の集団ではなかったでしょうか。


なお、院内の書には

あれを見よ
 みやまの桜
 咲きにけり
 真心つくせ
 人知らずとも




驚くな
 諸行無常と
 説かれたり


等の作品があるそうです。「仏心を体現した医師」ならば、今まさに苦しんでいる人々に真心尽くして救いの手を差し伸べるべきではないか、そしてそういう人々に「諸行無常」を通して往生のみちを示して差し上げたらよいのではないでしょうか。まぁ詮ずる所は各々の病院の判断ですがね・・・。しかし「仏心を体現した医師」の集団がこれではねと考えてしまいます。



余談ですが、教義云々は置いといて、今回の全国民に一律10万円給付という政策を私は評価しています。元々の30万円給付は収入の落ちた人々の救済措置ということですが、線引きが難しいですし、30万円程度では到底足りないという方もいらっしゃるでしょうし、それに関連する詐欺も多発するでしょうし・・・。当然、全国民に一律10万円給付というのも問題が無くはありませんが、苦しんでいるのは国民全体です。新型コロナ対応を拒否しているどこかより、国民全体でコロナ問題を乗り切っていこうという姿勢は評価できます。

親鸞会の皆さんは、もし全国民に一律10万円給付が現実化した場合、どうするのでしょうね。気になります。

ネット中継の講演すらしない高森顕徹会長

昨日(4月12日)は高森会長のネット中継による講演がなされる予定でしたが、実際は行われず、代わりに過去のビデオ法話が流されたようです。

『飛雲』新型コロナに怯える絶対の幸福の体現者

によれば高森顕徹会長はF館に籠って、掃除をする係以外は入れないようにしているそうですからさもあらんと思います。確かに高齢者は若者に比べて新型コロナウイルス感染症による重症化率、致死率が高いのですが、この自分だけ安全を確保して会員の後生の問題をほったらかしにしている会長さんの姿を、会員の皆さんはどのように感じているのでしょうか。


とは言え、もう話をしようにも、高森会長は絶対の幸福の連呼ばかりでまともな質疑応答もできない状態なのかも知れません。

念仏の話もしなければ、念仏往生の願も、念仏(南無阿弥陀仏)のこころも説かない高森顕徹会長
「死なない身になりたい、ということと、絶対の幸福になりたい、ということは同じ」だそうです

で紹介しましたが、前回3月8日にネット中継の講演をした際は、質問を受け付けておいていざ質問をされたらしょうもない回答しかできない様子でした。今後は、以前頂いた情報通りなら4月26日にネット中継の講演がある予定ですが、この分だとまたビデオ法話になるか、中止になるかの確率が高いです。


新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が出され、一部地域では県独自の緊急事態宣言も出されて、現在は法を聞くことすら困難な状況です。会員の皆さんは、今の自分を見つめ直すいい機会だと思って、本当にこのまま親鸞会で求め続けて後生助かるのかをよく考えてみて下さい。

今、ここで、この私一人が救われる法、それが弥陀仏の本願念仏です。高森会長のおっかけをしたり、親鸞会に献金したり勧誘したり、会長や上司の指示に無条件服従をしたりという行を何十年とやり続けなければ助からんというのではありません。それでは今、ここにいる、この私は助かりません。

今、ここにいる、この私一人を救う法は既に成就されています。それが南無阿弥陀仏の名号法です。この法に救われるには善も悪も、煩悩の多い少ないも関係ありません。ただ南無阿弥陀仏と称え、耳に聞こえるお念仏の声は「助けるぞ」「後生まかせろ」「安心して浄土に来なさい」と阿弥陀さまが喚んでおられる声だとお心得下さい。その阿弥陀さまの喚び声を聞くのがすなわち信です。後は命のある限り南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えて、如来広大の御恩徳に報いさせて頂くのみです。

会員の皆さんが知っている限りの親鸞会の教えで、今、ここにいる、この私は救われるでしょうか。もし救われないと感じたなら、その教えに用事はありません。早く脱会しましょう。そして、本願を信じ念仏して下さい。この先、そのような浄土の同行が一人でも多く現れてくれることを願います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

人として生まれたからには必ず死ぬ

今日は花祭りで祝うべき日なのだが、世間はそれどころではない。

遂にというか、今更というか、7都府県を対象にコロナウイルス感染症に関する緊急事態宣言が発令された。毎日毎日、新聞もテレビもラジオもネットもコロナコロナで気が滅入ってしまう。この先行きの見えない状態が、少しでも快方に向かうことを願う他ない。


ところで、今や全世界の人々がコロナウイルスの情報に関して非常に関心を持ち、対策をしていることと思う。それは、コロナウイルスで死に至るからに他ならない。

AFPが各国当局の発表に基づき日本時間7日午前4時にまとめた統計によると、世界の新型コロナウイルスによる死者数は7万3139人となっているそうである。
新型コロナウイルス、現在の感染者・死者数(7日午前4時時点) 死者7.3万人に

コロナウイルスにかかってもほとんど死者が出ないならばこんなに大騒ぎしない。沢山の人が死ぬから、これほどの騒動になっているのだろう。

しかし、コロナウイルスにかからなければ人は死なないかと言ったら全くそんなことは無い。コロナウイルスにかかろうとかかるまいと、人として生まれたからには必ず死ぬ。この事実は微動だにしない。

けれども、多くの人はコロナウイルスには騒いでも、必ず死ぬという「自分の死」、そして死んで行く先には騒がない。これに驚かない人には宗教は無縁である。縁があったとしてもこの世を生きる道具のようにしか思えないだろう。そういう人には地獄も極楽も問題にならなければ、念仏やその信心もどうでもよいものであろう。

浄土には往き易くして人無しと言われるが、至極尤もなことである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

ごちそうさまでした。なんまんなんまんなんまんなんまん

次女(6歳)は恥じらいがあるというか、大分周囲に対して「こんなことを言ったらどう思われるか」と気にする。

この前も末娘(3歳)がショッピングモールのフードコートで

「ごちそうさまでした。なんまんなんまんなんまんなんまん」

と大きい声でやっていたのを気にしていた。

末娘はまだそんなことお構いなしだから、こうやって出てくる。これがいいなぁ。


やがて末娘にも次女と同じような感情が芽生えるだろうが、出るものは止めずに出してやったらいい。

この凡夫の口からなんまんだぶが出てくるということは仏さまが説法獅子吼しているのとおんなじだと桜井和上は仰る。『大無量寿経』、ひいては釈尊一代の仏教を一言で言えば「南無阿弥陀仏」と教えて頂くのだからそういうことだろう。フードコートで娘の口を通して仏さまの説法獅子吼に遇わせて頂いたと思うと嬉しい。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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