【ツッコミ】「破闇満願」の「闇」とは何か(親鸞会発行『顕正新聞』平成30年6月15日号論説)

 阿弥陀仏の本願は、”全人類の「闇」を破り、必ず絶対の幸福に救い摂る”「破闇満願」の誓いである。

親鸞会発行『顕正新聞』平成30年6月15日号論説は、このような書き出しで始まっています。「破闇満願」という言葉を使ってきましたが、相変わらず「絶対の幸福」の文言は外しません。往生成仏、還相を教えられた浄土真宗を、幻想的な楽を獲させる教えに堕としめています。会員の皆さんは、この世の楽を追い求めていくら話を聞いていても信心獲得もなければ浄土往生もないことを知るべきです。


今回もツッコミを入れていきます。まず阿弥陀仏の本願についてですが、親鸞聖人は

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

と教えられています。「名号を称える者を極楽へ迎えるという誓い」だというのです。「絶対の幸福に救い摂る」という文言も、それを意味する言葉もここには見当たりません。それどころか、「名号をとなへん」という「称名」を外してしまっています。そんなデタラメな本願を聞いている者が、本願の通りに救われるはずがありません。


次に「破闇満願」というお言葉についてです。これは真実行を顕された「行文類」に出てきます。元は

「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明の黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。『浄土論註』讃嘆門

と曇鸞大師が仰ったことを承けて、親鸞聖人は

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

と教えられました。曇鸞大師は「かの無礙光如来の名号」に破闇満願のはたらきがあると名号に主眼を置いた教え方で示されています。これを親鸞聖人は「名を称するに・・・」と言われ、名号に破闇満願のはたらきがあるなら、名号を疑いなく信受して称えている真実信心の称名には同じくそのはたらきがあるのだと、称名の位で教えられています。

破闇満願」は、「無碍光如来の名を称する」という「称名」、「真実行」による徳益です。その「称名」、「真実行」を全く説かずにただ「破闇満願」すると教えても、聞く者がその利益を得られないのは言うまでもありません。


『論説』ではその後、「」を「自力」「疑情」「本願疑惑心」「仏智疑惑」等と説明し、

 では、どうすれば、自力が廃って絶対の幸福になれるのか。
「本願を聞く一つ」、と善知識方のご教示は一貫している。
(中略)
 ところが、「聞く一つで救う」弥陀の本願を疑って、自分のやった善や称えた念仏をあてにしているから、いつまでも助からないのだ。聴聞していても「聞く一つ」の本願と聞いていないのである。


と書かれています。「」の言い換えはこれで問題ありませんが、自力が廃ったことと「絶対の幸福」とやらになったこととは違います。「本願を聞く一つ」と言っている本願は間違っていますし、念仏以外の助業や雑行や、その他様々な組織拡大活動を勧められ、それらに執心する者が「「聞く一つ」の本願」と聞けるわけもありませんから、「いつまでも助からない」のは当たり前です。

さて、「本願を聞く一つ」と聞即信を明確に教えられたのは親鸞聖人が初めてです。それまでは、七高僧方の御教示はいずれも「念仏を称えよ」というものでした。

もし人疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬の心をもつて執持して名号を称すべし(龍樹菩薩)
もしよくつねに念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来の一切諸障を問ふことなくみな除くなり(道綽禅師)
まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得(善導大師)
極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得(源信僧都)
称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに(法然聖人)

少しばかり「行文類」に引文されているお言葉を抜き出しましたが、簡単に言えば「念仏一つで往生する」と教えられたのが七高僧方です。その「念仏一つ」を称える際の信心に着目し、「名号を称える者を極楽へ迎える」という本願を「ふかく信じて」、疑い無く信じよと教えられたのが聖人です。名号のいわれを聞き受けたその時に「念仏一つ」と信心が定まり、その信心一つで往生が定まりますから、親鸞聖人は本願、願力、名号を疑い無く「聞く」重要性を訴えられたのです。これは勿論、本願成就文の

聞其名号 信心歓喜

のおこころから仰られたものであることは言うまでもありません。

本願を聞く一つ」といっても、「念仏一つで往生する」と「念仏一行」になった上での「聞く一つ」です。何を聞くのかと言ったら、名号のいわれ、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」です。助正間雑、雑行、悪業悪行をやれという高森顕徹会長の話を「聞く一つ」ではありません。本願とは何か、名号のいわれとはどんなものか、親鸞会ではこれが間違っていますから、『論説』の通り「聴聞していても「聞く一つ」の本願と聞いていないのである」という会員ばかりなのは至極当然のことです。元々「聞く一つ」ではない教えを「聞く一つ」と聞けたらそれはもうびっくり仰天、開いた口が塞がりませんよ。


名号、また名号を信受した信心具足の称名によって私達は「破闇満願」の徳益にあずかれるのですが、問題なのは名号や信心、称名の捉え方、信じ方です。念仏を自分の善根だと思って、それを積み重ねて往生しようとするのは自力であり、それでは化土へしか往けません。他力とは、「助けるぞ」の仰せに疑いないこと、言い換えれば、我々が称える念仏は阿弥陀仏から与えられたものだと如来の回向を受け容れて、阿弥陀仏に後生をまるまるおまかせしたことです。「助かりたい」という自力の計らい、力みが廃って、「助けるぞ」という他力の勅命に往く先をまるっきりゆだねたことです。これが「本願を聞く」ということです。

こうした他力回向の法を授けず、相変わらずこちらから救いに向かって行く方向で教えを騙るだけでなく、更には「真実行」である如来回向の「念仏一行」以外の余行を「獲信の因縁(宿善)」として修めよと説いてデタラメ創作教義を授けているのが高森顕徹会長です。

現在、ここここから6月10日の講演が期間限定で一部視聴できるようですが、これは高森教への導入の導入部分の話であって、高森教の奥座敷へ行っても救いの法は説かれていません。新たに親鸞会で聞き始めたという方、何となく訪れてみた方には、このような浄土真宗を騙った一新興宗教のデタラメ教義に引っかからないで頂きたいものです。会員の皆さんは、これ以上無駄な犠牲を払う前に、早く教義の誤りに気付いて偽の教えから脱し、本当の浄土真宗を聞いて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。




【参照】
称名破満の釈義
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実際は「まことのみむね」を頂かせる気も無く、「六字のみ名をとなえ」よとも、「浄土(みくに)の旅をともに」しようとも教えていない高森顕徹会長

この記事で紹介しましたが、高森会長はこの前、「絶対の幸福」とやらを

宗歌に「永久の闇よりすくわれし…」と歌われている通り、「永久の闇から救われた」というもの

だと教えていました。この中の「」というのは我々の迷いの根本である「無明」のことですが、親鸞聖人は我々「衆生の一切の無明」が「称名」という「真実行」、「大行」によって破られることを

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」破闇満願

と教えられています。

ところが、高森会長はこうした「称名」という「真実行」、「大行」を説きません。それでいて「五正行の実践」という名の助正間雑「六度万行の実践」という名の雑行、更には「善」と称しての組織拡大活動(悪業悪行)を勧めています。真実信心の対象は真実行ですから、間違った行をいくら修めていても真実信心は獲られません。


ところで高森会長は真宗宗歌の

とわの闇よりすくわれし 身の幸なににくらぶべき

の部分は用いるものの、私はその後の

六字のみ名をとなえつつ 世の生業にいそしまん

を出して説明しているのを聞いたことがありません。阿弥陀仏の救いがあるというのなら、当然救われた人がなければなりません。私はここに、救われた人はどのような生業、職業に就いても、常に我々が心の拠り所とすべき南無阿弥陀仏の六字の御名と共に歩んでゆくのですよという意味が込められていると味わっています。

しかし、親鸞会では実際に救われて喜んでいる人が皆無同然です。信後の人の生活を示しているのが宗歌の2番、3番ですが、高森会長の話にはそれが無く、またそのような会員も無いのです。「絶対の幸福」になるとは説いても、「六字のみ名をとなえつつ」生きていくんですよというお念仏の生活、信仰は全く説かれません。

逆に、信後の人の信仰、大悲伝普化を表された「わがはらからに伝えつつ」という布教伝道を、信前の人に「獲信の因縁(宿善)」になると教えて雑行(もどきの悪業悪行)を勧めている有様です。

この記事にも紹介していますが、蓮如上人は

信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。『御一代記聞書』(93))

自分が信心を得てもいないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、自分は何もものを持たないでいて、人にものを与えようとするようなものである。これでは人が承知するはずがない」と仰せです。教えを弘めることが自らの救いにつらなってゆく等と説いて、未信の者に布教勧誘をせよと教える高森会長とは真逆です。その他お布施にしても、自分や坊主への服従にしても、上人は信心獲得のためにやれと勧められてはいません。

他力の信心を獲るために、我々が布教伝道したり、お布施を出したり、上司の指示に何でもかんでも無条件に従ったりする必要はありません。そうせよとも教えられていません。ただ「助けるぞ」と仰せの本願招喚の勅命を聞き、仰せのままにこれを受けるのみです。自力念仏さえ報土往生できないと誡められているのに、念仏以外の余行、まして善もどきの善を修めている者が信心を獲られないなど、当然すぎるほど当然です。


念仏者は、どんな幸せになれるのか

新聞広告にこんな面白い見出しで講演案内をしていた高森顕徹会長ですが、たとえ幸せになれるとしてもそれは「念仏者」が、「信心の行者」が、「念仏の衆生」が、ですからね。それがどのような人なのかを一切話さず、ただ「絶対の幸福」になれると話したって、聞く者がなれるわけがないことは少し考えを巡らせば判ることです。

念仏者」、「信心の行者」、「念仏の衆生」とは、往相の回向である大行、大信を獲た念仏行者のことであり、「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」という如来招喚の勅命を聞き受けて往生には御回向の念仏一つと心が定まった人のことです。

それは間違っても、阿弥陀仏が唯一選択回向して下された念仏よりも「高森の行」を重視し、「自力念仏の者は必堕無間」などと念仏誹謗する者の邪義を真に受けて、信仰が進むだとか横の道を進むだとか言って組織拡大活動に挺身している高森の行者のことではありません。会員の皆さんが今やっている活動と阿弥陀仏の救いとは無関係であり、活動の先に救いはありません。「高森の行」など無用の長物です。そんな無駄なことをやっている間に皆さんの命の持ち時間が切れてしまいますよ。

みなみな信心決定あれかし

と言いながら、高森顕徹会長は実際は「まことのみむね」を頂かせる気も無く、「六字のみ名をとなえ」よとも、「浄土(みくに)の旅をともに」しようとも教えていないのでした。会員の皆さんは親鸞聖人のお勧めに順って

もつぱらこの行(念仏一行)に奉へ、ただこの信(念仏の信)を崇め

て頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
真宗宗歌(歌詞付き)

改めて聞かせて頂くといい歌です。感動すら覚えます。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

真宗の根本とも言うべき南無阿弥陀仏の「南無」や、その翻訳語である「帰命」の言葉の意味を説けない高森顕徹会長

『飛雲』親鸞聖人の教えられた二河白道の譬えの解説で高森顕徹会長を攻撃しておきます

でも紹介されているように、日曜日は富山で高森顕徹会長の話がありました。今回は

『正信偈』と『歎異抄』について

という質問に答える形式だったようです。ただ、話した内容は浄土真宗ではなく、いつもの「絶対の幸福」という「創価学会の信心」を『真宗宗歌』や『正信偈』や『歎異抄』の言葉で粉飾し説明しただけというものでした。

この記事で書いたように、前回高森会長は

どこでどのように大悲の願船に乗せて頂けるのか、絶対の幸福になれるのか

二河白道の譬え」で善導大師は明らかにされていると話していました。が、今回その説明は一切無しです。前の講演でその説明を中途半端で終えていながら、話をすれば容赦のない批判を浴びせられることに戦々恐々としてか、頂いた情報からは「二河白道の譬え」の「二河」の字もありませんでした。「創価学会の信心」は説き続けるくせに、浄土真宗については説かない、説明も途中で終わりというのが最近の高森クオリティです。


ところで、高森会長はまたまた面白いことを言っていました。

「帰命」と「南無」の言葉の意味は説けない。分かりやすく言うならば「永久の闇より救われた」ということ

だと。仏教の勉強もろくにせず、『教行証文類』もまともに読んだことがない高森会長らしい発言です。これは、『真宗宗歌』で「永久の闇よりすくわれし・・・」と歌われている通り、「永久の闇から救われた」というのが仏教で教えられる「絶対の幸福」だとし、そこからお釈迦様と阿弥陀仏の違いを説明する一環で

帰命無量寿如来 南無不可思議光

の『正信偈』冒頭のお言葉を挙げた際に言い出したことです。

それにしても「帰命」と「南無」の言葉の意味を親鸞聖人が丁寧にご解説されているのを高森会長は知らないとしか思えない発言です。または知っていても意味が分からず、解説ができないのでしょう。

親鸞聖人は「行文類」にて、善導大師の六字釈を承けてご自身の六字釈を施しておられます。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。


そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「悦(えつ)」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「税(さい)」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。説の字には、悦と税の二つの読み方がありますが、説(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることを顕しています。『無量寿経』には「即得往生」と説かれ、その心を釈して『十住毘婆沙論』には、「即時人必定」といわれています。「即」の字は、阿弥陀仏の本願力を疑いなく聞くことによって、真実報土に往生するまことの因が決定する時の極まりを明らかに示された言葉です。「必」の字は、「明らかに定まる」ということであり、本願力によって自ずから然らしめたまうという道理を表しており、迷いの境界と分かれて、さとりを極めるべき正定聚の位につけしめられたことを表しており、金剛のように堅固な信心を得ているすがたを表しています。


現代語訳を載せておきましたが、聖人は一字一字とても細かく説明をされ、「帰命は本願招喚の勅命なり」と結ばれています。「帰命」とは、阿弥陀仏が私達に来いよ来いよと絶えず招き喚び続けておられる本願の仰せだというのです。その仰せ、願力を仰せのままに聞き受けて「報土の真因決定」し、阿弥陀仏に心身共に帰依したこと、また阿弥陀仏一仏、念仏一行を心の拠り所としたことの表明として、親鸞聖人は『正信偈』冒頭に

帰命無量寿如来 南無不可思議光

と仰っています。「親鸞聖人の教えを徹底する」とか言うつもりなら、もっと親鸞聖人の教えをよく勉強し、人にも教えられるようになってからにするべきでしょう。

順番が飛んでしまいましたが、「帰命は本願招喚の勅命なり」の後に聖人は、「南無」のもう一つの意味である「発願回向」について、

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。

と仰せられています。私達が「迷いの世界を離れたい」「清らかな世界へ往生したい」と願いを発す遥か以前に、法蔵菩薩は私達を「迷いの世界にとどめてはおかぬ」「必ず浄土へ迎え取る」と願いを発され、48願を建立して菩薩の行を成就され、ついに阿弥陀仏と成られました。

本来私達が迷いを離れてさとりの世界である浄土へ往生しようとするなら、私達自身が浄土へ生まれたいと願いを発し、相応の修行を積まなければなりません。しかし私達は如実にそのような清らかな願いを発すことも、相応の行を修めることもできないと知られて、阿弥陀仏は本来私達がしなければならない願と行とを成就して、私達に回施、まるまる与えることで助けようとされているのです。その願行が具足して、衆生を必ず往生させるはたらきとしての顕現体が「南無阿弥陀仏」という六字の名号だったのです。

しかも、それを自分の元まで取りに来いと言うのでなしに、ご自身が「南無阿弥陀仏」という声の仏と成られて、この「諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海」である私達の心に飛び込んで下されるというのです。

これが高森会長の説き方だと、阿弥陀仏が横の道を進んで自分の元まで来た者を助ける、また助かるに相応しい行いをしてきた者を助ける、と仰っているかのようです。そうではなく、現在只今、ここにいる、この私めがけて阿弥陀仏は「衆生の行を回施したまふ」ているのです。私は何もやる必要も変わる必要も無く、ただ「願力を聞くによりて報土の真因決定する」のです。それまでに「白道を煩悩と闘って進む」とか、「白道は聞法心」とか言っているのは、全く根拠の無いデタラメです。

帰命」や「南無」の言葉の意味を説けないのなら、「南無阿弥陀仏」のすがたを心得たのを「信心獲得」するというのですから、私達は「南無阿弥陀仏の六字のこころ」が分からず「信心決定」できない、「無明の闇」が破られない、「永久の闇よりすくわれ」ないということになってしまいます。高森会長の話をどれだけ真剣に聞いても「信心決定」も「信心獲得」もできない、「永久の闇よりすくわれ」ないのは当然すぎるほど当然なのです。


さて、『歎異抄』の「念仏者」というのは大行である如来回向の「念仏一行」を称える念仏行者のことです。本来は本願の名号に我々の無明を破り、志願を満たすはたらきがあるのですが、聖人は本願の名号が我々に至り届いて信心となり、それがそのまま現れてきた称名の位で

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」破闇満願

と仰せられています。名号はそれを信受した念仏行者の口に称えられても仏の位に属する性質を失わない、正しく浄土に往生する行業だというので「称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり」と言われています。そして念仏の他に阿弥陀仏という仏様は無いんだと、名体不二を表しているのが次の「念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり」であり、南無阿弥陀仏の他に信心は無いんだと、信行不二を表しているのが「南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり」というお言葉です。そういう真宗の根本とも言うべき南無阿弥陀仏の「南無」や、その翻訳語である「帰命」の言葉の意味を説けない者が、法話と称して講演していること自体が気ちがい沙汰なんです。

話を戻しますが、そうした念仏行者は、現生では「不退の位に至ることを獲る」、正定聚の位に入ると言われ、この世の命が尽きたら浄土に往生して仏のさとりを開くのだと、

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。「信文類」決釈

と示されています。こうした現当二益を教えられたのが浄土真宗です。世俗的な幸福、「相対の幸福」と比較しての「絶対の幸福」の身になると教えられたのではありません。迷いの世界を出離するという、この世の幸福云々といった世俗的なことを超越した上での18願、阿弥陀仏の救いですから、「絶対の幸福」だとかいうこの世の幸福を求めて教えを聞いていても現当二益は獲得できません。まして

念仏者は、どんな幸せになれるのか

と新聞に一面いっぱい使って大々的に広告する割、「念仏者」とはどんな人か、「念仏」とはどういうことか一切話されず、ただ「絶対の幸福」だとかいう親鸞聖人の教えられたことのない幻想的な楽の話を聞いていても、「現当無益」は必至です。会員の皆さんも、広告や勧誘によって初めて参加したという方々も、中身は空っぽ、浄土真宗の仮面を被った一新興宗教の教えを聞かされていることに気付いてもらいたいものです。

その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

一 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。『御一代記聞書』(88)

【現代語訳】
ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。

このお言葉は一見、信前の人に対して言われているように思われますが、信後の人にも言われているのではないかと私は思います。特にこの淳心房に対して言われているお言葉だと思わざるを得ません。


恥ずかしい話ですが、私の日々の生活は仕事、子育て、家事にほとんどの時間、体力、気力を使い、仏法に充てる時間、体力、気力はほとんどないという状態です。愛憎の煩悩にまみれた生活の只中にいると、とにかく目の前のこと、生きることに精一杯で、有難いという気持ちも、御恩を思い報いようという気持ちもどこへやら・・・。

貪愛の心は常に善心を汚し、瞋憎の心は常に法財を焼いてしまいます。御恩を思いそれに報いようどころか、余裕がない時なんかは子供達にさえきつく当たってしまうこともしばしばです(*_*; すまぬ・・・。

聴聞にも行けない。お同行と会うこともできない。そんな毎日ですが、そういう私がどうすれば如来広大の恩徳を有難く頂戴しつつ、至徳に報謝する人生を生きられるのか。私のような者には無理なのではなかろうか。

この私の問いに、蓮如上人はお答え下さっているのではと思うのです。そうだ、有難く思う気持ち、御恩を思う気持ちが籠から水が出ていくように無くなってしまうのであれば、籠を水につければいいんだ。

聴聞するといっても、聞くべきは南無阿弥陀仏しかないじゃないか。とすれば、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏申すことがすなわち聴聞じゃないか。御恩報謝じゃないか。

このように気づいてからは、私はなるべくお念仏を申すようにしています。通勤中自転車をこいでいる時、車の中も、風呂の中も、何かの待ち時間も、思い出してはお念仏しています。

すると、たちまち煩悩いっぱいの私の空間が大悲招喚の勅命を聞き受ける聞法道場となり、有難い気持ち、仏様の御恩を思う気持ちも起こり、本願を多くの人に聞いてもらいたいという気持ちも起こってまいります。勿論、そのような時ばかりではなく、逆境の最中なんかは念仏していても実に味気ないですがね・・・(^-^;

天親菩薩は浄土往生の行を五念門で教えられていますが、これは念仏におさまるんだなということをいよいよ知らせて頂きます。お念仏申すところに阿弥陀仏を礼拝したくなる気持ちが起きます。お念仏申すことがそのまま阿弥陀仏を讃嘆しています。浄土に参ってさとりを完成したいという気持ち、阿弥陀仏や浄土を思う気持ち、人にも本願を聞いてもらいたいという気持ちも、お念仏申すところに起きてきます。念仏が「自利利他双行」とはよく言ったものです。これみな本願力のご回向によるものと有難く頂戴し、もっぱらこの行に仕え、ただこの信を崇めるよりないとよくよく知らされます。


やはり、念仏も称えないのに有難い気持ちが起きないのは当たり前すぎるほど当たり前なのでした。今までを反省すると共に、改めてお念仏申す人生を生きたいと思います。

こうしてブログで記事を書くことも、真宗の言葉に触れ、お聴聞しお念仏する有難いご縁です。

日々、反省。懺悔。そしてお念仏。お念仏が中心の生活を。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『安心問答』「その籠を水につけよ」と蓮如上人がいわれた意味は?(頂いた質問)
『立徳寺』籠を水につけよ

念仏という正定業を、「五雑行」や、題目を唱えることより下に見ている高森顕徹会長

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。『観経疏』散善義

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。『選択集』三選の文

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
「行文類」大行釈

正しく浄土往生が決定する行業は、この通り如来回向の「念仏一行」です。であるから、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。『歎異抄』第二条

と「ただ念仏」一行が勧められるのです。なぜなら、

・かの仏の願に順ずるがゆゑなり
・仏の本願によるがゆゑなり


阿弥陀仏の本願がそうであるからだと善知識方は教えられています。だから本願のおこころにかなって念仏する者は、正しく浄土往生が定まった正定聚の機だと親鸞聖人は教えられるのです。


この「ただ念仏」をヘンテコな解釈をして、「念仏一行」を否定しているのが高森顕徹会長です。それどころか、朝晩の勤行を「五正行の実践」だとか言って助正間雑を勧め、高森会長の話を聞くことや、親鸞会への献金・勧誘、上司の指示に無条件に従うことなどを「」という名目で勧めています。親孝行や親切など世俗的な善も勧められますから、ひいき目に見て雑行を勧めていると言えます。ただ、会員のメインの活動は先述した雑行とも呼べない悪業悪行で、それらを「尊い宿善」だとか、「信仰が進む」などと言われてやっているだけです。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。

正定業と助業の区別もつかずに往生には如来回向の念仏一つと心が定まらない、それでいて、自力心で称えた念仏や助業を我が善根功徳として、それによって往生しようとしているから迷いを離れることができないのだと聖人は仰せです。これは真門である第20願の決釈のお言葉ですが、ならなおのこと、雑行を修めている者は弘願である第18願から遠いです。まして悪業悪行をそれとは知らずに修めていたら・・・。


高森会長は「多功徳・多善根・多福徳因縁」である念仏よりも、念仏に対して「少功徳・少善根・少福徳因縁」と言える諸善を勧めています。諸善は

善をしなければ信仰は進みません

と勧めながら、念仏に関しては

念仏を称えなければ信仰は進みません

とは絶対に勧めません。誰か現会員元会員問わず聞いたことがありますか? 念仏を勧めたら「称名正因」に陥る危険があるなら、諸善を勧めたら同様に「諸行往生」に陥ってしまいます。諸善が勧められるなら、念仏は万善万行恒沙の功徳ですから勧められて当然なのに、その念仏の勧めが無いのです。それどころか

自力念仏の者は必堕無間

と念仏を誹謗しています。これは念仏を諸善より下、あるいは「無功徳・無善根・無福徳因縁」のものと見ているからでしょう。そんな思想の持ち主が『歎異抄』を講釈しているのですから危険極まりないです。


ところで、法然聖人は浄土三部経以外の経典を読む行為を「読誦雑行」と仰っていますが、これは雑行の一種です。言葉を換えると、高森会長の大好きな「諸善万行」の一種です。会員の皆さんは雑行の中に「五雑行」と「諸善万行」とがあって、「五雑行」は心も行為も間違いだからやってはならないが、「諸善万行」は行為はいいことであり、やらねば信仰は進まない、つまり救われないと思っていることでしょう。が、それは誤りです。

無量にある「諸善万行(雑行)」のほんの一例が「五雑行」

です。「五雑行」はダメだが「諸善万行」はやらねばならないとか、そんな教えではないのです。会員の中には「五雑行」さえやらなければ雑行はやっていないと思っている人があるかもしれませんが、「五雑行」だろうと「五雑行」以外の「諸善万行」だろうと雑行雑行です。本願の念仏の前には、「五雑行」も「諸善万行」も共に廃捨すべき雑行だと教えているのが浄土真宗です。勿論、高森会長の大好きな「布施」も雑行です。

会員は、実は堅く千中無一の雑修雑行を執していることを自覚すべきです。そんな体たらくで「大悲の願船」に乗るとか、「信心決定」とか言っていても、「百即百生の専修正行を捨てて」いるのですから無理な話です。

わたくしにいはく、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量せよ。

雑行をやっていたら、専修正行を捨てているのと同じです。雑行正行の兼行では専修になりません。会員はこの法然聖人のお言葉を重く受け止め、仰せの通りよく思量すべきでしょう。


ここで「読誦雑行」とか「五雑行」の話をしたのは、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えるのも修行の一つである、「諸善万行」の一種であることを述べるためです。『​想学談林』南無妙法蓮華経によると天台大師も唱えていたようです。『葬儀レビ』天台宗によると、日蓮宗のように連続しては唱えないけれども、天台宗でも朝の勤行の中で「南無妙法蓮華経」と唱えるそうです。「私は妙法蓮華経(法華経)の教えに帰依します」と所依の経典たる『法華経』を受持するのですから、題目を唱えるのは「読誦雑行」と言えるでしょう。

勿論、各宗派で題目に対する捉え方、読み方など、様々な違いはあります。それに、近現代の新興宗教のようにこの世のご利益を求めて唱えるのは如何かと思いますが、ともかく「南無妙法蓮華経」と題目を唱えるのも「少功徳・少善根・少福徳因縁」である諸善の一種であるということです。

それで先ほど、高森会長は念仏を諸善より下に見ていることを述べました。ということは、ここから

高森会長は念仏という正定業を、「五雑行」や、題目を唱えることより下に見ている

ことが伺えます。このように考察すると、「自力念仏の者は必堕無間」と念仏を誹謗するのも、「絶対の幸福」だとかいう創価学会の信心を勧め、念仏は救われた後のお礼と言って救われるには関係のないものとするのも納得です。「念仏がないから信心一つ」と本願成就文から念仏を抜き、「本願寺は念仏さえ称えていたら」云々と他の真宗宗派を一括りに非難することを考えても、自身が「念仏者」「信心の行者」ではないからと断ぜざるを得ません。隠れて唱題していても、少しも不思議ではないのが高森会長です。


南無阿弥陀仏」はお経にハッキリ書かれているが、「南無妙法蓮華経」とはどのお経にも載っていない

位の認識で、念仏と題目はどう違うのか、本当のところはよく分かっていない会員が多いかと思います。諸善を勧められるということは雑行を勧められることであり、「五雑行」や題目を勧められるのと本質は変わらないことを知るべきです。お経に有る無いで言うなら、「絶対の幸福」も「一切衆生必堕無間」もお経には有りません。

絶対の幸福」というこの世のご利益を求めて「高森の行」という善もどきの善を励んでいる人は、言葉が真宗用語なだけで構造はパクリ元の団体の構成員と何ら変わりません。会員の皆さんは、念仏軽視、念仏誹謗の悪知識の元を一刻も早く離れ、阿弥陀仏が唯一つ選び択ってお与え下さる本願の念仏を称えて往生を願って頂きたいと思います。

【ツッコミ】驚くべき「無碍の一道」(親鸞会発行『顕正新聞』平成30年6月1日号論説)

親鸞会発行『顕正新聞』平成30年6月1日号の論説では、

驚くべき「無碍の一道」

という見出しで、降誕会で高森顕徹会長が話した内容が書かれています。一読して分かる事は、

・「無碍の一道」の説明が間違っており、親鸞聖人の教えは書かれていない
・「絶対の幸福」をメインに、浄土往生を後付けしたような教えが書かれている
・浄土往生のたねである行(念仏)と信(信心)については一切書かれていない


などです。「無碍の一道」については、

「無碍」とは、「煩悩がなくなる」ことではなく、「煩悩がさわりにならない」ことである。「一道」は絶対の世界をいう。
「無碍の一道」とは、煩悩も罪悪も、何ものも壊すことのできぬ、永遠に続く幸福なのである。


と説明し、全く聖教に合わない独自の高森教を説いています。これに

・必ず浄土へ往ける大安心に生かされる
・往生一定の身になる


などと真宗らしい話を付け加えて、現当二益を説いているつもりのようです。そして傑作なのが、

どんな者を、どのように救うと弥陀は誓われているのか。その阿弥陀仏の本願を、疑心晴れるまで、真剣に聞かせていただこう。

で終わっていることです。論説では、浄土へ往くたねである行と信は一切書かれていません。それについては次の、話すかどうかも判らないデタラメ「二河白道の譬え」を聞けとでも言うのでしょうか。こんな教えを聞いていて本願に救われるとか、疑心が晴れるとか、そんなことが起きるわけがないでしょう。


さて、区切って親鸞会の邪義を明らかにしていきたいと思いますが、まず「無碍の一道」とは

念仏者は無碍の一道なり。『歎異抄第七条』

から来ています。『飛雲』高森顕徹会長の総括?がこの程度の噴飯話などをお読み頂ければお判りかと思いますが、これは本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

だったのではないかという学説があります。いずれにしても、「念仏」という「真実行」、あるいは「念仏者」という「真実行を修する者」について言われているお言葉であって、助正間雑、雑行、悪業悪行という「高森の行」、あるいは「高森の行者」について言われているお言葉でないことは明白です。

念仏一行どころか助業や雑行、更には悪業悪行を勧められ、念仏よりそれらの方が「より光に向かって進む」などと重視して修め、「絶対の幸福」という現世利益を追い求めている念仏軽視の団体の信者には、速やかに迷いを離れさとりの境地に至る「念仏成仏」の教えは理解不能でしょう。

仏教の目的は「成仏」です。この世でさとるか、来世浄土に往生してさとるかの違いはあれども、目指すところの「成仏」、これは聖道門、浄土門共通です。それを「念仏者は、どんな幸せになれるのか」とこの世の幸福、現世利益を大々的に打ち出しているのは、「ナンミョーホーレンゲーキョーと唱えたらこういうご利益がある」と教えているパクリ元のとある団体などと五十歩百歩です。

次に「無碍」ですが、これも本願のはたらきについてであって、我々の幸福について言われているお言葉ではありません。何ものもさわりにならない、私達の深い煩悩悪業さえ妨げにならない、私達を摂取して間違いなく浄土往生させ、仏果を得させるという本願力の不可思議を讃えてこれを「無碍」と仰っているのです。それを

天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなき

と言われているので、煩悩があるままで、さわりにならない幸福を言われたのではありません。またここでは罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなき念仏」の功徳について言われており、「高森の行」によるご利益を言われているのでもありません。

私達が迷っているのは、深い煩悩悪業があるからです。それは諸仏が見捨てるほどどうしようもないものです。そんな煩悩悪業さえ救いの障害とならない、問題としないので、そのお力を讃えて「帰命尽十方無碍光如来」と阿弥陀如来の御徳、念仏の功徳を称讃するのです。誰が、何について「煩悩がさわりにならない」のか。この点について高森顕徹会長は実に頓珍漢です。


では、どうしたら私達の煩悩悪業さえ救いの障害とならない、問題としない阿弥陀如来の救いに遇えるのか。何と高森会長はこんな大事な点について全く説いていません。次回説くのかどうかは知りませんが、親鸞会のデタラメ「二河白道の譬え」ではこれについて、阿弥陀仏の喚び声が聞こえるところまで、白道を煩悩と闘って進んでいけ、求道していけと教えます。そのために、「助正間雑、雑行、悪業悪行」という「高森の行」を修めて行けというのです。

一方、本当の「二河白道の譬え」では、旅人は此岸で、白道に一歩踏み出す手前で

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

という喚び声を聞きます。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

ですから、このお言葉が18願意を表していることは言うまでもありません。その18願を白道に踏み出す前に聞くのですから、高森会長が言うように「阿弥陀仏の喚び声が聞こえるところまで、白道を煩悩と闘って進んで」ゆく必要はありません。まして求道と称して「高森の行」を修める必要など更々ないのです。

それどころか、親鸞聖人はこれを解釈されて

「一心」の言は、真実の信心なり。
「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。
『愚禿鈔』

と仰り、「方便仮門を捨てて、真実の信心で念仏せよ」と教えられています。「方便仮門」に会員を押しとどめ、念仏以外の行をやらせて直ちに18願を聞くのを妨げている高森会長とは真逆です。

その18願についても、「念仏する者を極楽へ迎えよう」ではなく

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

などと「創価学会の信心」を獲させるものとしてデタラメな本願を教えているのですから、いくら聞いたところで本願に対する疑心が無くならないのは当たり前の当たり前の話です。


念仏一行という真実の行と、「念仏する者を極楽へ迎えよう」という誓いを疑い無く聞き受けた真実の信によって私達は浄土往生します。その真実の行真実の信を、南無阿弥陀仏の名号にこめて我々に回施して下さるので、私達はただ南無阿弥陀仏の六字のこころ、「助けるぞ」の仰せを聞き受けお念仏申すのみです。

浄土往生のたねは、この真実の行信です。肝心な浄土往生のたねを一切説かず、聞く者を「念仏者」にする気がない者の話をいくら聞いていても、無碍の一道を往くことはできません。会員の皆さんは親鸞聖人のお言葉に順って速やかに邪義の法門を離れて真実の教行信証に帰依し、「念仏者」となって如来広大の恩徳を知らされて頂きたいと思います。

「念仏者」がどんな者かも分からないのに、「どんな幸せになれるのか」と絶対に説けもしないことを新聞広告に打ち出す高森顕徹会長

『yugaomemoの日記』新聞一面紙いっぱい使って広告している高森会 どんだけ銭かけとるの?

の記事に挙がっていますが、親鸞会では北日本新聞に、6月10日(日)の高森顕徹会長の講演行事の案内を載せています。しかも一面全て使って。以前は名札とバッジを付けた会員と会員が誘った人しか入れなかったのが随分な変わり様です。降誕会の時はこのように大々的に広告を使って多くの人が集まったそうですから、味をしめたのでしょうか。


それにしても見出しが面白いです。

念仏者は、どんな幸せになれるのか

助正間雑、雑行聞邪義、弘宣邪義、献金、服従等の悪業悪行を加えた「高森の行」を勧めて、会員を始めとして聞く者を念仏者にする気が無い者がこんなことを説けるはずがないでしょう。「念仏者」がどんな者かも分からないのに、「どんな幸せになれるのか」と絶対に説けもしないことを新聞広告に打ち出しているのが実に痛々しいです。

念仏者にも色々ありますが、親鸞聖人の仰る念仏者とは、『歎異抄』なら「信心の行者」であり、「信文類」なら「念仏の衆生」であって、それは往相の回向である「大行」、「大信」を獲た人のことです。言うまでもありませんが「信心の行者」といっても、「創価学会の信心の行者」ではありません。「真実信心」の行者のことです。では「大行」、「大信」を獲た「真実信心」の行者とはどんな人なのでしょうか。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。「行文類」大行釈

とあるように、無碍光如来の名を称するという如来回向の念仏一行が「大行」です。その「大行」による利益が

破闇満願(よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ)」(「行文類」経文結釈「破闇満願」

であり、また会員なら耳にタコが出来るくらい聞いているであろう

大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず」(「行文類」乗大悲願船

ということです。如来回向の念仏一行どころか自力の念仏一行でもない、「高森の行」なんかをやっている者が「無明の闇」が破られない、「大悲の願船」に乗れないなんてことは当たり前すぎるほど当たり前なんですよ。

こうした往相の回向である「大行」には、自ずから「大信」が具足しています。信心の無い行は通常ありえないからです。だから最初に聖人は「大行あり、大信あり」とセットで教えられているのです。

信心といっても、何を信じるかと言ったらそれは行です。行って何か。南無阿弥陀仏の名号のはたらきですよ。私の力は一切役に立たない、名号の独用(ひとりばたらき)によって往生成仏せしめられると、名号のはたらきを信じる、名号のはたらきにひとえにおまかせするのが信心です。

南無阿弥陀仏という「助けるぞ」の喚び声が私に届いて信心となり、それが称名となって現れる。本願を信じるのも、お念仏申すのも、仏に成るのも、みな南無阿弥陀仏の名号のはたらき、阿弥陀仏の御回向によるものです。そのはたらきを疑い無く受け容れたのが「大信」、そして「大信」を具足した「大行」である念仏一行を称える者を念仏者、「真実信心」の行者というのです。

それから如来回向の念仏一行を称える真実信心の念仏者

横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲「信文類」獲信の利益(現生十種の益)

るのであり、これも会員なら誰でも知っているであろうお言葉

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。「信文類」決釈 臨終一念之夕超証大般涅槃

でも判るように、現生では正定聚の位に住し、往生すべき身と定まって、臨終一念の夕には大般涅槃を超証するのです。念仏者はこのような現当二益を獲得すると教えられたのが親鸞聖人です。そういう念仏者でも、自力の念仏者でもない、「高森の行」なんかに執心して「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」といった「高森の信」に凝り固まっている者が「現生十種の益」を獲られない、「便同弥勒」となれないなんてことは当然すぎるほど当然なのです。


高森顕徹会長は「絶対の幸福」という創価学会の信心は教えても、往相の回向である念仏一行という「大行」は教えません。信心決定信心獲得といっても言葉だけで、信心の体である南無阿弥陀仏の六字のこころ、すなわち名号のいわれについては全くと言っていいほど説きません。それでいて、「大行」とおよそかけ離れた「高森の行」を勧め、「大信」とは似ても似つかない「高森の信」という自力心を深めるようなことばかりやらせています。これで聞く者が念仏者になんてなれるわけないでしょう? これで聞く者が信心決定信心獲得できることの方がおかしいんですよ。「大信」を獲られないなんて、当たり前田のクラッカーですよ。

思惑通り沢山の人が集まっても、信を獲て念仏する者が現れなければそれは真宗の繫昌ではありません。今親鸞会がやっていることは、親鸞聖人の御心にかなうものなのか、単なる人集め金集めなのか。会員の皆さんは冷静に事態を見つめて頂きたいと思います。

無料視聴動画のその裏で、会員からお布施を要求する高森顕徹会長

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』公式サイトに高森会長の降誕会講演が公開(一部無料)されたことについて考えたこと

にも紹介されていますが、現在、期間限定で、高森顕徹会長の話の内容が一部視聴できるそうです。見る価値もないかと思いますが、見たい方は早めに以下のサイトへどうぞ。

◆(期間限定)講演『正信偈』と『歎異抄』23分間無料視聴のご案内
(※既に終了している場合も考えられます。ご了承ください。)

ここから飛んでいけば、約2分の、「無碍の一道」を「絶対の幸福」だとか言っている動画は誰でも見られます。しかし、23分間の動画とやらは氏名やメールアドレスを入力しないと視聴できないようです。

教えて頂いた方によりますと、その後いくつか動画を見られるらしいのですが、お布施の要求もあるそうです。お布施は自由なのか強制なのかは分かりませんが、会員でない、無料視聴目当ての人はまずお布施は払わないでしょうから、会員に見させてお布施を取るつもりなのではないかと考えられます。

お布施は払うも払わないも自由です。その人の気持ち以上に納める必要はありません。また、もし必ず納めねばならないという暗黙の了解があるのだとしたらおかしいと思った方がよいです。会員の方も、そうでない方も、そういった点からも教義や組織について疑問を持ち、調べるきっかけにして頂きたいものです。


ちなみに、「無碍の一道」を煩悩があるままでそれがさわりにならない幸福とか言っているのは完全なデタラメです。親鸞聖人はどこにもそのようなことは仰っていません。

一道」≠「幸福

ですし、「無碍」についても

道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。行文類

と、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることです。無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、「無碍の一道」と親鸞聖人は仰っています。煩悩があるままでそれがさわりにならないといった意味はここでは見られません。

なお、「無碍」を「煩悩がさわりにならない」という意味だと教えられている箇所はあるにはあるのですが、そこも親鸞聖人と高森会長とで解釈に大きなズレがあります。親鸞聖人は「帰命尽十方無碍光如来」を解釈されて

「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 『尊号真像銘文』世尊我一心の文

と仰せられていますが、これは衆生の煩悩悪業にさまたげられない如来のはたらきを意味しています。要は、本願力が我々を摂取するのに、我々の煩悩はさわりにならないということを言われているのです。高森会長の言う、煩悩があってもさわりにならない幸福云々という話とは全く別物ということがお判りでしょうか。


浄土往生、成仏、そして還相という崇高な誓願一仏乗の教えを、幻想的な楽を獲させる一新興宗教に堕としめているのが高森顕徹会長です。だからチュウビさんのコメントからも判るように、信心決定がいかなることか全く分かっていない会員だらけなのです。本願に対する疑いが晴れたかどうかと、現在自分の身に起こっている幸不幸の果報は関係ないでしょう。信心決定と言ったら「絶対の幸福」になったことだと邪義を叩き込まれているからそんなズレた発言をするのです。まさに学会員のようだ、といったら大本の方々に失礼でしょうか。

幻想的な楽を追い求めて、浄土真宗に非ざるニセの教えを聞いていても、本願に救われることはありません。会員の皆さんは、間違った教えを聞き、獲信・往生とは無関係な組織拡大活動に従事させられている事実に、一刻も早く気付きましょう。



【参照】
『飛雲』高森顕徹会長の総括?がこの程度の噴飯話
『WikiArc』無碍人

恥も外聞も無くデタラメ「二河白道の譬え」を説き続け、会員を騙し続ける高森顕徹会長

昨日は高森顕徹会長の話がありました。今までの二通りとは少し違い、

「大悲の願船に乗せて頂くとはどういうことか」
「そんな絶対の幸福があるとは信じられない」


といった映画を観た人(会員?)の感想に対する話でしたが、

『飛雲』あれだけ醜態を曝しながらいまだに二河白道の譬え話をする厚顔無恥な高森顕徹会長

に挙がっている通り何とも厚顔無恥であり、かつ中途半端なものでした。


まずは「死ぬまで求道」に対して「平生業成」の語を出し、

絶対の幸福は、これで求まったということがある

といつも通りの「創価学会の信心」は欠かさず話します。それから、

平生業成の身、絶対の幸福になるにはどうすればよいのか。その道程、道のりを明らかにされている。

として善導大師の「二河白道の譬え」を紹介し、

白道は聞法心を表している

と相変わらずのデタラメ創作教義を披露。しかし、

どこでどのように大悲の願船に乗せて頂けるのか、絶対の幸福になれるのか

善導大師は明らかにされているそうですが、その説明は途中で終わっています。そういえば、先日の降誕会でも高森会長は「譬如日光覆雲霧」の内、太陽(日光)の説明を「明日命があれば話す」とか言っておいて、結局話したのかどうか・・・。もはや一つの話を時間内に完結する能力も無くなっているのかも知れません。


この記事で紹介したように、親鸞会ではデタラメ「二河白道の譬え」を動画にして公開していますから、信前の

阿弥陀仏に救われるまでの心の道のり
信心獲得するまでの求道の道程を示すため


という主張を変えるつもりは毛頭ないでしょう。しかし、本当の「二河白道の譬え」は、信後の

他力の信心を守護する譬え

です。これは、「二河白道の譬え」を信後の真実信心を顕された「信文類」に引文され、自力信心、つまり信前である「化身土文類」には引文されていないという事実からも分かると思います。

このように、まず譬えたものが何か間違っています。だからその後、何もかもが狂ってくるのです。その上、更に高森会長は話を所々改変しています。信前の求道の譬えとし、話自体を変えることで、会員に

煩悩と闘って求道する
求道してゆこうとすると、必ず煩悩が邪魔になる
白道を進んでゆくと、必ず聞法求道をさまたげるものが出てくる

という邪義を植え付け、また会員の苦しい心情を掌握して「高森先生の仰ることに間違いない」と信じ込ませているのです。間違っても「会員の皆さん一人一人の後生を案じて」といった殊勝な心からしていることではないでしょう。もしそうなら、善導大師が

一句一字加減すべからず。 写さんと欲するものは、もつぱら経法のごとくすべし、知るべし。散善義

と記された『観無量寿経疏』のお言葉を勝手に加減・改変するのは考えられないことです。


さて、高森会長のデタラメ「二河白道の譬え」本当の「二河白道の譬え」では相違点がいくつもありますが、中でも違うのはやはり「白道」についての解釈と、

弥陀の招喚の言葉を、いつ、どのようなタイミングで聞くか

でしょう。「白道」については詳しくは『飛雲』をご覧頂くとしますが、少し言わせてもらいますと、聞法心と譬えるからには当然自力の聞法心、自力の信心です。真実の信心を譬えたという本当の譬えとは全く異なります。

さて、当ブログでは後者について再度扱います。

デタラメ「二河白道の譬え」では、釈迦の発遣の言葉は白道に踏み出す前の此岸で聞きますが、弥陀の招喚の言葉は白道を進んでいき、此岸と彼岸の中間ほどで絶体絶命の状態となった時に聞きます。

それに対して本当の「二河白道の譬え」では、釈迦の発遣と弥陀の招喚の言葉を双方とも此岸で聞きます。話の都合上、釈迦の発遣が先で弥陀の招喚は後に書かれていますが、この二尊のお言葉は同時と考えてよいでしょう。ともかく、白道に踏み出す前、此岸で弥陀の招喚の言葉を聞くのであって、白道を進んでいった先で聞くというのは間違いです。

すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。
この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、(後略)


全文は「信文類」二河白道をご覧下さい。三定死、釈迦の発遣、弥陀の招喚、これらは全て白道に踏み出す前のことで、釈迦弥陀二尊の勅命を聞いて旅人は白道を一歩二歩と踏み出していることが分かります。

これは親鸞会流の、白道が聞法心だとか、譬えが信心獲得するまでの求道の道程を示したものだとかいった邪義を完全否定しています。今、ここにいる、この私に真実の教行信証が回向されている、それを今、ここで、この私一人を招喚したもうと聞くのです。煩悩と闘い、「高森の行」に邁進して、心身疲れ果てた先に聞くのとは違います。それは、

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(中略)大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。浄土文類聚鈔

のお言葉によっても明らかに知られるでしょう。譬えで阿弥陀仏は「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」と仰せですが、その「一心正念」とは真実信心による念仏です。「真実信心で念仏しなさい」という弥陀の招喚を白道に踏み出す前に聞くのですから、信心を獲るために煩悩と闘い、「高森の行」を修める必要は皆無です。それどころか「高森の行」は助正間雑、雑行、悪業悪行という雑多な行ですから、そんなものに執心して修めている内は弥陀の招喚を聞いて順うなど有り得ません。

〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

とあるように、<道の上をまっすぐに西へ向かう>というのは、自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたものですから、「高森の行」など反って邪魔なだけです。ただちに捨てるべきものです。


以下、簡単ではありますが、高森会長のデタラメ「二河白道の譬え」本当の「二河白道の譬え」の相違点を挙げておきます。譬え話を勝手に加減・改変しているのは、会員の皆さんにより判り易くするためとかではなく、「高森の教」を真実と信じ込ませて「高森の行」を効率よくやらせるため、要は高森会長の私利私欲を満たすためです。

会員の皆さんは、原文をよく読んで、双方の違いをよく理解して下さい。そして、ただちに「高森の行」を捨て、「必ず助けるから、安心してまかせなさい」という阿弥陀仏の仰せをそのまま受け容れて念仏して下さい。


(1)二河白道の譬えとは

親鸞聖人 信後の、他力の信心を守護する譬え
――――――――――――――――――――――
高森会長 信前の、絶対の幸福になるまでの道のり


(2)白道とは

親鸞聖人 真実の信心
――――――――――――――――――――――
高森会長 (自力の)聞法心


(3)弥陀の招喚の言葉を、いつ、どのようなタイミングで聞くか

親鸞聖人 白道に踏み出す前、此岸で聞く
――――――――――――――――――――――
高森会長 白道を進んでいった先、此岸と彼岸の中間ほどで聞く


(4)信心を獲るために、煩悩と闘い、「高森の行」を修める必要はあるか

親鸞聖人 無い
――――――――――――――――――――――
高森会長 ある




【参照】
「信文類」二河白道

子供達は私になんまんだぶを勧めにやってきた化身

「私が念仏称える」という行為によって助かるのではなく、称えられる念仏、南無阿弥陀仏によって救われる。称えられるなんまんだぶに我々の無明を破り、志願を満たすはたらきがあるのです。

子供達のかわいらしい口から称えられるのも南無阿弥陀仏。私の穢い口から称えられるのも南無阿弥陀仏。誰の口から称えられても、称えられる南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏で一緒です。南無阿弥陀仏自体には、自力も他力もありません。それを我が計らいの心をもって、「私が称える私の念仏」ととらえ、私の念仏に功徳があるように思ってこれを称えて浄土に往生しようとするのを自力と言われます。

その人を助ける助けないは阿弥陀さまのお仕事、阿弥陀さまのお計らいであって私が知る所ではありません。なのに最近まで、子供達のお念仏を「どうせ信を獲ていないだろうから自力念仏だろう」と勝手に思ってしまっていました。それこそ計らいではないかと反省させられました。本当に子供達を通して知らされることが多いです。子は親の鏡とはよく言ったものです。

やはり、共に念仏して阿弥陀仏の名を褒め讃えつつ、どういう思いで念仏しているか聞いてみないといけないなと思いました。そこで、念仏を取引材料にする気持ちや祈願請求の気持ちが見られたら「そうではないよ」と話し、「お念仏はお前達を浄土に迎えるはたらきだから。そのはたらきにおまかせするんだよ」と本願力回向の法を伝えなければなと思いました。

また、決して念仏すること自体を否定したり、止めたりしてはならないのだなと思いました。せっかく阿弥陀さまが子供達に称えさせて下さっているのに、私が止めちゃいかんですよね。

大人でも難しいのに、子供には・・・と思われますが、それも計らい。全ては阿弥陀さまのお計らいなのだから、こちらで先入観を持たずに、子供にも受け止められるように話そうと思いました。


ところでこの前、突然次女が

「私は阿弥陀さまの子なの?」

と聞いてきたのでまたまた驚き。

「そうだよ。お前たちは阿弥陀さまの子だ」

と、次女と傍にいた三女に言いました。その時、子供達は私になんまんだぶを勧めにやってきた化身なのではないかと思われたのでした。時に感情的に叱りつけてしまったりして反省することしきりですが、この仏の子達が何とか一人前になってくれるまでは傍で共にありたいと思いました。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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