【考察】高森顕徹会長の話の進め方

毎回のテレビ座談会がそうかは知りませんが、この前のテレビ座談会では高森会長は1日合わせて1分無い位しか会員の前に姿を見せなかったそうです。法話が始まる最初と最後、別室で医師や講師部員と座している姿が5~10秒程度映るだけだそうで、この演出は「会長先生は大変お疲れの中、私達の後生を案じてこのようにテレビ座談会のご縁を設けて下さっている」等と会員に思わせるのが目的なのかと考えてしまいます。

さて、高森会長は昔からそうですが、最初はゆっくり簡単な話をして、途中から急に仏教用語をバンバン出し、時間が無いから詳しく話せないとか、次に命があったら話しますなどと言って終わる話をよくします。今回も例に漏れず、最初は相対の幸福の話をゆっくり長々と説明し、途中から「信受本願 前念命終」(愚禿鈔)、「この娑婆生死の~」(改邪鈔)等の根拠を挙げて、結局説明途中で時間切れという形で終わったようです。本日はそうした高森顕徹会長の話の進め方について考察したいと思います。


1、最初はゆっくり簡単な話
無常、相対の幸福といった、いつも聞く話を具体例を挙げてゆっくり丁寧に、くどい位説明します。会員は、「無常を無常とも思わない私のために話してくださっているんだ」「相対の幸福が分からなければ絶対の幸福はもう分からない」等と思い込んで聞いているのではないかと思います。

2、途中から急に仏教用語をバンバン出す
会員としては「今日こそは真剣に聞くぞ」と臨むものの、1のいつもの話に多少なりとも気を抜いてしまうことでしょう。そこへ(会員にとって)高速で高レベルな内容に切り替えられると、「うわ~、何を言っているのか分からない」「やっぱり会長先生はスゴイ」「自分は真剣に聞いていなかった」「次こそは・・・」等と戸惑ってしまうのではないでしょうか?

3、時間が無いから詳しく話せないとか、次に命があったら話しますなどと言って終わる
今でこそ「前半で長々といつもの話はせずに、さっさと親鸞聖人のお言葉の解説に入ればいいのに」と思いますが、「七千余巻の一切経の内容をぎゅっと絞って話されているのだから3~4時間で話し切るのは不可能だ」「先生も次の命は無いかも知れないと思われている。もっと無常を見つめなければならない」「次も必ず参詣して真剣に聞かなければ・・・」と会員に思わせる作戦なのかなと考えられます。

大体いつもこんな感じです。会員は「今日こそは・・・」と思って参詣したのに、やはりというか、今回も信心獲得はならず、あるいは「今日もダメだった」と落胆し、あるいは「次こそは・・・」と誓って帰途に就く。これもいつも通りです。私は会員時代、毎回、毎年これでした。尤も今残っている会員でこのような志で臨んでいる人はどれだけあるかと思われます。


ここから推測されるのは、高森会長が話をする目的は「会員の信心獲得」ではなく、「次も来てもらうこと」だということです。最初のゆっくり分かりやすい話で油断した脳は、途中からの高速で仏教用語を交えた話を理解するのが難しくなります。そして前半で費やした分時間は押しますから、経典や聖教の言葉の説明はどうしたって短くなります。ケツの時間は決まっているので、午後4時で問答無用でタイムアウト。続きは次回、命があったらということになります。で、次行くとまた序盤はいつもの話。中盤から終盤にかけて急にペースアップして内容も難しくなり、途中で終わる。たまに完結したように思う回もあるが、やはり説明を聞いただけで肝心の信心は獲られない。目的は信心獲得、それには「聴聞に極まる」だから次も来るしかない。このように、次、次と期待を持たせて「次も来てもらうこと」を目的に話をしているように思えてなりません。「極難信だ」とかいうのはその理由付けに他なりません。

また、「自分はスゴイ人物なんだと思わせること」も目的かと思われます。分かりやすい話から真宗の淵源に至る話まで、とにかく幅のある話ができる、スゴイ仏教の先生なんだと思わせることで、先の目的もかない、また「先生、先生」と付き従う者も現れてくるでしょう。


浄土真宗は、突き詰めれば

他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。(歎異抄第12条)

とあるように「本願を信じ念仏を称えたら仏に成る」という教え以外にありません。阿弥陀仏が私達を救うと本願を発し、それが既に成就して私にはたらいていること、私はひとえにそのおはたらきによって本願を信じ念仏を申して仏に成るのだというのが親鸞聖人の教えです。それを私の計らい、余計な詮索や先入観を交えずにそのまま聞き受けるのが聴聞です。

こうした本願他力の法を説かず、いつも聞く者を煙に巻いて逃げるような話をする目的は、会員の獲信・往生の他にある、これだけは間違いありません。「絶対の幸福」だとか、「人生がガラリと変わる」だとか、現世利益を強調し、「(縦の線を指して)ここで絶対の幸福になる。そこまで求めよ」と自力回向のような話をする親鸞会は、断じて浄土真宗ではありません。会員の皆さんには、いつもの栓の抜けた風呂のような話で満足せずに、今聞いているような話で自分は後生助かるのか真剣に考えて頂きたいと思います。
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弥陀の本願は「念仏を称える者を浄土往生させる」という本願であって、「親鸞会の活動をする者を絶対の幸福にする」という本願ではありません

前回、高森会長が「自力」についてトンデモ発言をしたことについての追記です。高森会長は

自力とは絶対の幸福が分からない心。その他は自力と言わない。

と話したそうですが、阿弥陀仏の本願は私達を「絶対の幸福にする」という本願ではないので、これは高森教に浄土真宗を当てはめんとする「珍らしき法」です。親鸞会は「本願寺、本願を知らず」と非難していますが、

浄土真宗親鸞会こそ本願を知らず、浄土真宗に非ず、親鸞聖人の教えを知らず

であります。更には、前回は出しませんでしたが

絶対の幸福のわからない心が無くなるその根拠をあげよう

と言って高森会長が挙げた根拠が『改邪鈔』19段

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」ともならひはんべれ。

だったそうです。「えっ?」と思う人も多いでしょう。なぜこれが「絶対の幸福のわからない心が無くなる根拠」なのか全くもって分かりませんよね? このお言葉にあるように、

生死流転の本源をつなぐ自力の迷情

すなわち生死流転を際限なく重ねて迷いの世界から出られない迷いの心を「自力」というのです。それは、阿弥陀仏が本願をお建て下さり、五劫永劫の願行が既に成就して私にはたらいているのにこれを疑って信じない、おまかせしない心ですから、「本願を疑う心」です。その本願とは、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる(『末灯鈔』12通)

とあるように「念仏を称える者を浄土往生させる」という本願であって、「親鸞会の活動をする者を絶対の幸福にする」という本願ではありませんから、自力が廃って他力に帰したとしても「絶対の幸福が分からない心」などは無くなりません。

ところでどんなのを自力と言うのか具体例を挙げますと、念仏を自分の善根だと思って称え、称えた功徳によって助かろうというのを自力と言います。また、念仏以外の諸善にも手出しして、これこれこういう良い事をしていますからどうか阿弥陀様お助け下さいとやっているのも自力です。当然ですが、地元会館やシネマ学院建立にお布施をしたり、名前だけ会員を獲得したり、その他諸々の推進される活動に参加して獲信に近づこう、横の道を縦の線まで進もうと努力することをみんな自力というのです。まぁ、求めるものが浄土往生ではなく絶対の幸福という現世利益、努力するものがらが如説の善行ではなく善もどきの善では自力にもならないのですが、細かなことは目をつぶりましょう。

真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。「廃」といふは、捨なりと釈す。聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道を捨てよとなり。
「立」といふは、すなはち、弥陀他力の信をもつて凡夫の信とし、弥陀他力の行をもつて凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもつて凡夫報土に往生する正業として、この穢界を捨ててかの浄刹に往生せよとしつらひたまふをもつて真宗とす。
(『改邪鈔』18段)

とあるように弥陀他力の信、すなわち本願力回向の信心をもって凡夫の信とし、弥陀他力の行、すなわち念仏一行をもって凡夫の行とし、弥陀他力の作業、すなわち本願の独用(ひとりばたらき)で凡夫が報土に往生するのです。浄土往生の因も果も、全て阿弥陀仏が恵み与えて下さるもので、私達凡夫としては、そうした本願を計らいなく受け容れて念仏し、ひとえに往生を阿弥陀様におまかせするのみです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。(信文類)

【現代語訳】
このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。

覚如上人は親鸞聖人のこのお言葉を先のように言い換えられているといえましょう。

なお高森顕徹会長は、聖典には触れずに「この娑婆生死の~」の御文が書かれた模造紙を持ってきて説明したとのことです。聖典には先ほど挙げた御文しかり高森会長にとって都合の悪い御文が数多くあるので、映画やシナリオブックを聖典化してごまかすしかないのでしょう。『改邪鈔』19段には最後の方に

なにをもつてかほしいままに自由の妄説をのべて、みだりに祖師一流の口伝と称するや。自失誤他のとが、仏祖の知見にそむくものか。おそるべし、あやぶむべし。

とありますが、この言葉は、高森顕徹会長に対して言われているように聞こえてなりません。

絶対の幸福だとかいう幻想的な楽は獲られませんから「自力」=「絶対の幸福が分からない心」ではありませんし、「獲信・往生に関して努力することを捨てよ」ということなら寺は正しいです

今日はテレビ座談会だったそうで、映画『なぜ生きる』のシナリオブックを通して話があったそうです。今回は色々とツッコミどころがあるので、順番に述べていきます。


まず、シナリオブックに書いてあるのか知れませんが

阿弥陀仏は太陽、釈迦は月

と言っていたようです。親鸞会では去年、論説の

『親鸞会公式ホームページ』善知識の説かれる教法

という記事にてこのことを書いていますが、何を根拠に言っているのか不明です。少し調べましたが、親鸞会系のサイトでしかヒットしませんでした。どなたか根拠をご存知の方は教えて頂きたく思います。


次に、相対の幸福に関連して最近よく出てくる話が、追悼法要の時も今回もあった

上見て暮らすな 下見て暮らせ

です。会員の多くは年間多額の出費を余儀なくされています。月々の会費、法話毎のお布施に交通費・宿泊費、降誕会や報恩講といった大きな行事のお布施、地元行事毎のお布施、各地の会館建設やら名前だけ会員の入学金やら今度のシネマ学院建設と次々やってくる募財・・・時間や労力もそうですが、金銭面でも大変で、その大変さは数ある新興宗教の中でも上位にランクインするのではないかと思われます。支出の分稼ぎがよければいいのですが、このご時世中々そんな人ばかりではなく、大概は生活費や娯楽代を削って活動費に回しているというのが実情でしょう。

この言葉を高森会長が出す意図としては、1つは会外のこと、もう1つは会内のことを言っている気がします。
会外の良い暮らしをしている人達を見たら、やはりうらやましい、自分もたまにはそういう楽しいことをしてみたい、という思いが起きますわね。でもあれはやがて必ず崩れ去るんだからうらやましがらずにそんなものを見ないで暮らせ。逆に貧困家庭やワーキングプアの人達を見たら、あの人達より自分は恵まれていると慰められますわね。沢山の活動費で生活は手一杯だが、人生の目的を知らされ光に向かう幸せ者なんだと。だからそんなに裕福ではないがそれでいいんだと。下を見れば自分がいかに恵まれているか分かるから下見て暮らせと言っているのかなと思ったりします。
一方、会内でも格差があり、講師部員の中でも格差があります。余裕で参詣できてお布施も沢山出せる会員もあれば、月3000円の会費で参詣もやっとやっとという会員もあるでしょう。講師部員でも上層部は良い暮らしをしていますが、講の低い講師はカツカツの生活かと思います。ここでも、環境の恵まれた人を見れば妬み嫉みの心が起きるしみじめになるだけだからそういう人を見ないで暮らせ。逆に環境に恵まれない人を見れば自分はまだマシだと思えるから下見て暮らせ。また、恵まれたければ布施をしなさいと更なるお布施の要求かと思ったりもします。


さてそれから、高森会長は

大悲の願船に乗ったら、絶対の幸福になる。人生がガラリと変わる。それはいつ乗れるのか? (縦と横の線を描いて、縦の線を指して)ここで、一念で願船に乗る。

と話したようですが、相変わらず現世利益をちらつかせ、一念で乗れるからそこまで求めよと一念で救われない話を展開しました。こんな話を何百回と聞いている会員さんも少なくないと思いますが、では一念で願船に乗りましたか? 実感としては自分はまだ黒板の右端だ、いやひょっとしたら黒板外かもと思ってはいないでしょうか? 聴聞して、活動して救われよう、救いに近づこうなどというのは自力そのものですから、そんな高森会長の話をまともに聞いていて助かるわけがないのです。いい加減気が付いて頂きたいものです。


それと、これが今回一番の邪義かと思われますが、高森会長は

自力とは絶対の幸福が分からない心。その他は自力と言わない。

と話していたようです。それに関連して

世間や寺は自分の努力を自力と誤解している。
「自力を捨てよ」=「努力することを捨てよ」
と寺は誤解しているから衰退しているのだ。


などと話したそうですが、聖教の解釈からの逸脱も甚だしいトンデモ邪義です。絶対の幸福だとかいう幻想的な楽は獲られませんから「自力」=「絶対の幸福が分からない心」ではありませんし、「獲信・往生に関して努力することを捨てよ」ということなら寺は正しいです。

・自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。(一念多念証文)

・まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(末灯鈔2通)

ですから、自力とは「浄土往生に関して努力する人、こと、心」と言えます。親鸞聖人の解釈からは「絶対の幸福が分からない心」などとは出てきようがありません。全くもって「珍らしき法」であります。そして、

自力を捨てよ=獲信・往生に関して努力することを捨てよ

です。例えば、シネマ学院建立にお布施をして獲信に近づこうと努力することを捨てよです。会員の皆さんは横の道を縦の線まで進もうとそれはもう血のにじむ努力をされていると思いますが、横の道を縦の線まで進もうと努力することを捨てよです。

阿弥陀仏は五劫永劫の願行を成就され、南無阿弥陀仏と成りましまして私に届いております。私としてはこの本願の仰せを只今、この場で、この私一人を助けるお喚び声と聞き受けるのみです。「シネマ学院建立にお布施をして獲信に近づこう」とか、「横の道を縦の線まで進もう」というのは、弥陀の五劫永劫の願行では足りないと言っているようなものです。自力そのものです。もうすでに成就されている救いにケチをつけて受け容れない、そして何か足りないものがあると思いプラスしようと努力する、これを自力というのです。

こうして会員の皆さんは自力の何たるかを知らず、逆に自力を増長させるようなことばかりしていることに気づいていないのですから、他力などもう分かりませんわね。ちなみに他力とは、

他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。 (末灯鈔2通)

とあるように我々の計らいを離れ、「念仏する者を極楽へ迎える」という本願を疑いなく信じたことを言います。「絶対の幸福が分からない心が無くなったこと」などでは決してありません。阿弥陀仏は私達を絶対の幸福にするなどと誓われてはいませんから、他力信心を獲ても「絶対の幸福が分からない心」など無くなるわけがないのです。

後生、往生という一大事に対して、私達のやることなすこと、思い計らいは無意味です。それを意味があると思って様々に努力することを自力というのです。阿弥陀様はとうの昔に「お前は決して迷いから離れられない者だから我にまかせよ」と往生の手はずを整えて下されている。そのような本願があり、その願成就して私にはたらいていることがわかったら、私のやることなすこと、思い計らいは無意味だな、こんな邪魔なものは要らないなと自力が廃るのです。そして後生をすっかり弥陀におまかせする、丸投げする。これが他力に帰するということです。

これが分かったら、親鸞会の活動など自力そのものだと分かるでしょう。いや、やっていることが如実の善行なら自力と言えますが、会の組織拡大に都合の良い善もどきの善ですから実際は自力にもなっていないのです。会員の皆さんが信心を獲られないのは、このように間違った教え、間違った行を正しいと思い込んでいることにあります。それで正しい信心を獲て浄土に往生できるなら弥陀のご苦労は何だったのかということになります。どうか間違った教行から離れて正しい教えを聞き、もっぱら正しい行に仕え、ただ正しい信を崇めて報土往生という正しい証を得て頂きたいと思います。

生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題(『なもあみだぶのつぶやき部屋』3-12.明信仏智 より)

『なもあみだぶのつぶやき部屋』3-12.明信仏智

を読んでいて「その通りだなぁ」と思ったことがあるので紹介します。全文は上リンク先を参照頂くとして、当ブログでは該当箇所を抜き出します。


1.信前に間違った他力の信心のイメージを強く持っていると、如来の願心を聞き受けたとしても「これが他力の信心なのだろうか」と混乱する
********************
A君 つまりね、実際に信を頂く、という経験は、信を頂くまでに思い浮かべていたイメージとはまったく違うものなんだ。予想外も予想外。だから、信前に抱いていた誤ったイメージが強ければ強いほど、実際の経験とそのイメージとのギャップは大きくなる。そうすると、人は、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだね。

B君 あぁ、分かった。つまり、人の認識のありかたに関わる問題なんだ。

A君 そうなんだね。人は言葉の概念をもって物などを認識しているが、人はそのような認識のあり方をしている。机という概念をもってるから、いま見ている物が机か、それ以外かを判断している。ところが、既存の概念をもたないものに遭遇すると、それが何であるのか理解できないんだね。例えば、こんな記事を読んだことがある。大都会のビル群を空中から撮影した写真をビルという物を知らないアフリカ奥地の原住民に見て貰ったところ、そもそも写真だということが理解できなかった。そして、写っている物がビルだと理解することができず、四角い形のものが整然と並んでいるので、きれいな花壇だと認識したという話しだった。他力の信というものに関しては、信前において、概念化して信をとらえていたとしても、それは大間違いだ。つまり、信前においては誤った理解をし、誤ったイメージしか持つことができない。そうした人が如来のまことの願心を聞いて聞き受けたとしても、それが他力信だと直ちに判断することはできないんだ。信について誤ったイメージを強く持っている人ほど心の中でのギャップは大きくなる。だから、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだ。因みに、信後においても信を言葉で表現し、概念化することができたとしても、その概念化された信は実際の信とは違ったものになってしまう。

********************

親鸞会では、他力の信心についてとにかく誤ったイメージを会員に植え付けています。例えば、

・信の一念はハッキリと自覚できる。ハッキリした自覚がないのは他力の信心ではない。
・他人に確かめずとも他力の信心を獲たことが火に触れたよりもハッキリ分かる。
・51段高とびして弥勒と肩を並べる身になったということが実感として知らされる。
・現生十種の利益を獲たことが実感として知らされる。
・地獄しか行き場のない自己の姿(逆謗の屍)が知らされる。
・曠劫流転してきた過去も明らかになり、未来永劫の後生の一大事も知らされる。
・自力無功、必堕無間の苦しい体験をし、同時に如来の喚び声が五臓六腑を貫いて救われる。
・いつ死んでも極楽参り間違いなし、極楽へ必ず往けると疑い晴れる。
・「人間に生まれてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜が起きる。
・誰の命も平等に尊い、「人命は地球より重い」ということが実感として知らされる。
・親鸞聖人のように、どんな苦難をも生き抜く強く逞しい人生が開かれる。
・最高無上の、最悪の死に直面しても変わらない安心、満足、喜びの境地に出る。
・苦しみがやって来ても煩悩即菩提ですぐさま喜びに転じ変わる。
・経典やお聖教がすらすら読めるようになる。意味が理解できるようになる。
・親鸞聖人や高森先生のように、伝えずにおれない叫ばずにおれない身になる。
・深信因果させられ、阿頼耶識に納まっている業がどんなものか分かるようになる。


とまぁ挙げればキリがありませんが、私は高森会長の話しぶりや著書などから「このようになったのが他力の信心だ」というイメージを抱いて、そういう身になりたいと思って聞いていました。しかし実際に本願の仰せを聞き受けてみても思い描いていたような事は実現せず、当時はA君が言うように随分と混乱したものです。その後、お聖教やその解説を学んでいく内に、浄土真宗の教義についても信心についても念仏についても、ものすごい間違ったイメージを持っていたことが知らされていきました。


2.信心を獲ても、「この信が間違っていたらどうしようか」などと思うこともある
********************
A君 もう少し、先のことをいうよ。信を得た人は、この信が間違っていたらどうしょうか、などとは思わないと思うかい?

Cさん いいえ。そう思うことはあると思うわ。私は、そう思ったもの。

B君 じゃ、どうして、今は、間違っていないと思うようになったの。

Cさん 間違っていないと思ったわけじゃないのよ。間違っているかどうか、そんなことを詮索する必要はないと分かったのよ。

A君 そうだね。ここが大事な所なんだ。Cさん、説明してよ。

Cさん つまりね、信心が間違っていたとしても、自分ではどうしようもないってことに気づいたのね。信心が間違っていて、また何かを得ようとして聞いてゆくとしても、私の生き死にの問題は私が解決できる問題じゃないってことが分かったの。生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題なの。浄土往生は決定されていると聞いたので、私は、それでもういいのって分かったの。だから、今さら、どうしようもないのね。

********************

本当にCさんの言う通りで、生死の問題は私の力が及ぶものではありません。何もかも阿弥陀仏におまかせしたのを他力の信心というのであって、何もかもハッキリするというものではないのです。極楽の様相を見たわけではありませんから、信後も相変わらず死ねばどのような世界に行くのか、私の側からは分かりません。もしかしたら地獄へ堕ちるかも知れません。でも、地獄だとしても元々の自分の罪業からしたら地獄なのですから仕方がないです。ただかたじけなくも、そのような私を阿弥陀様は哀れに思召して、「我を一心にたのまん衆生を必ず救うべし」とお誓い下さっているので、そのお言葉をそのまま受け容れて念仏致しているのみです。今更私がジタバタしたって、どうにかなる問題じゃないんです。だから阿弥陀様におまかせなんです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)

往生の一大事は自分が何とかできるレベルの問題ではないと自らの手を離れ、我が行く先を阿弥陀様におまかせしたのを自力を捨てて他力に帰した信心発得の行者というのです。韋提希のように極楽世界を見たのなら「そのような世界へ往くのだな」とハッキリするのかも知れませんが、そうではないのですから「極楽参り間違いなし」とハッキリなどしません。そうしたハッキリしないことをハッキリすると説く高森会長は、浄土真宗に非ざる異安心なのです。

「ジタバタしたって、どうにかなるお前じゃないぞ」「お前は決して迷いを離れられん者だぞ」と見抜かれて本願を発され、「まかせておくれ。お前を必ず浄土に連れて行って仏に成すぞ」と真実の言葉で仰せられるその勅命を聞いたなら、もはや私の「どうしたら」「こうしたら」なんて思いは邪魔者だと自力が廃るのです。そして、後は如来の仰せをひたすら仰いで念仏申すのみです。「生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題」ですから、私の手出しは無用です。口出し無用です。その手出し、口出し無用のものに手を出し、口を挟むのを自力の計らいというのです。手を出し、口を挟んで生死の問題が解決できるならば大いにやればいいですが、それが邪魔で如来の仰せを素直に聞けませんから「捨てよ」と言われるのです。


浄土真宗とはこうした教えだということを知らず、まんまと会長が説くスーパー信心を本物だと誤解して、それを獲たいと利用されていた自分は本当に愚か者でした。幸いにも途中で間違った教えを間違った教えと受け止め、正しい教えを求め、そして出遇うことができて本当に良かったです。自分の言葉に耳を貸す者などほとんどいなかったかつての仲間達を思うと、よく自分は今まで正しいと信じ求めてきたものを間違った教えと受け止めることができたなと不思議に思います。まことに「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」であります。

自分が正しいという判断を下し、何年何十年と求めてきたものを間違いであったと認めるということは実に苦しいことです。それは、何年何十年という時間だけでなく、それに費やしたお金や労力が全て無駄だったって認めることです。また活動に割くために切り捨てたいくつもの輝きはもはや取り戻せないものばかりですから、本当にこれ以上の地獄はないですよ。そして、今いる場所、共に求めてきた仲間から離れて新たに正しい教えを探そうとするのは、随分と勇気の要ることです。大概は不安に負けてしまうでしょう。ですから、中々離れようとしない会員が少なくないというのも分からなくはありません。

しかし、それで今死ぬとなって満足して死んでいけますか? 今の救いを求め続けた苦しみの人生で終わり、死ねば自らの業に報いた世界にゆくのですよ? 満足だという人はどうしようもありませんが、一向に救われない現状や組織のやり方に疑問を持っている方は、ぜひとも一度立ち止まって徹底的に調べて頂きたいものです。1、2ヵ月かかったって、何十年という時間からすればたかだか数%です。モヤモヤしながら求めるよりも、よほど良いと思います。「このまま皆と活動していけば、たとえ今生ダメだとしても遠生の結縁にはなるだろう」などと既にあきらめムードの方もあるかも知れませんが、阿弥陀様は決して諦めていません。どうか親鸞会だけが全てだと思わずに、もっと広く探し求める気持ちを持って頂きたいと思います。

私達の姿ばかりを聞くのが聴聞でもなければ、このような私達の姿がハッキリ知らされたことが救いでもありません

先日の親鸞会追悼法要では、高森顕徹会長の片手に余るレパートリーの中、かねてから案内されていた通り『白骨の章』について話がありました。まぁいつも通りといえばいつも通り、相対の幸福の話や無常を取り詰める話が大半で、阿弥陀様に関しては「『絶対の幸福』にするとお約束されている」とかいう話位だったようです。初めての人もOKの追悼法要だけあって、まさに親鸞会導入部分の話ですね。

ところで今回、今まで私が聞いたことがなかったこととして、

浮生なる相」に二面あり、その二面とも自分の本当の姿だとハッキリと知らされるところまで聞き抜きなさい

という話がありました。その一面とは、「相対の幸福」(比べて初めて感じる幸せ)という浮いた物を日々求めて生きているということ、もう一面は、無常の身であり「煩悩具足の凡夫」である人間がいつどうなるかも分からない「火宅無常の世界」に生きておりながら、自分は全くそうと分かっていない、ということのようです。内容としてはいつも聞く話ですが、その説明の仕方が若干異なっていました。

しかし、このような私達の姿ばかりを聞くのが聴聞でもなければ、このような私達の姿がハッキリ知らされたことが救いでもありません。第一、親鸞会ではハッキリハッキリうるさいですが、ではどの程度知らされることを「ハッキリ知らされる」というのでしょうか? 全くもって曖昧です。相変わらず栓の抜けた風呂のような話を、会員の皆さんはいつまで有難がって聞いているのでしょうか? 

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

浄土真宗は本願の名号、すなわち「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」を聞くのです。本願を聞いて疑い無いのを「」といい、それをまた「信心」というのです。その本願とは、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔12通)

とあるように「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」というお誓いであり、その誓いのお言葉をそのまま受け容れて念仏しなさいと仰せです。ですから、高森会長が話しているような私達の姿がどのようにハッキリ知らされたところで、本願を聞き、本願を深く信じて念仏しなければ徒事なのです。速やかに浄土往生させ、成仏させるという崇高な本願を「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲させる本願に貶め、浄土真宗と関係ない教えを説いて多くの人を騙している親鸞会は本当に許せません。



さて、親鸞会では相変わらずアニメ映画『なぜ生きる』を強烈に推し進めているようで、今後お盆の週に各地で上映を予定しています。入手した情報によると、石川県、栃木県、大阪府、島根県、愛知県、北海道、富山県、福岡県、そして埼玉県で、文化会館や小ホール等で上映予定とのことです。

29週連続上映のロングラン記録を樹立した人気の映画

だとか言って案内しておりますが、これは会員を総動員しての偽装ロングラン記録です。会員が毎週毎週せっせと足を運んで料金を払って見ていたのでロングランとなっただけのことです。この時期、各道府県の方々の中で、会員にこの映画を見に行こうと誘われる方があるかも知れませんが、ただの親鸞会導入映画ですのでご注意下さい。まぁ別に一度見たからといってどうということはありませんが、今後勧誘対象として見られ、様々な親鸞会の行事に誘われる可能性が高くなります。怪しいと感じたら早めに調べた方がよいです。

それと、これはシネマ学院の財施を募るのが最大の目的かも知れません。各地で上映した上で、「シネマ学院なら、もっと素晴らしい映像と音響設備で見せて頂けますよ」などと講師が説明して募財を推進するのではないかと推測されます。親鸞会としては、家族友人を誘えてもおいしい、誘えなくてもおいしい、という二段構えかと予想されます。会員の皆さんはこれ以上多くの時間や労力、財産を捧げる前に今一度教えの真偽を検証してもらいたいと思います。

親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(6)

親鸞聖人が法然聖人から承けられた教えは、念仏の教え、南無阿弥陀仏以外にはありませんでした。そのことを聖人は「後序」にて、

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(往生礼讃 七一一)の真文とを書かしめたまふ。
(中略)
『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。


【現代語訳】
ところでこの愚禿釈の親鸞は、建仁元年に自力の行を捨てて本願に帰依し、元久二年、源空上人のお許しをいただいて『選択集』を書き写した。同年四月十四日には、「選択本願念仏集」という内題の文字と、「南無阿弥陀仏 浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」というご文、並びに「釈綽空」というわたしの名を、源空上人が自ら書いてくださった。また同じ日に、源空上人の絵像をお借りしてそれを写させていただいた。同じ元久二年の閏七月二十九日、その写した絵像に銘として、「南無阿弥陀仏」の六字の名号と、「本願には、<わたしが仏になったとき、あらゆる世界の衆生がわたしの名号を称え、わずか十回ほどの念仏しかできないものまでもみな浄土に往生するであろう。もしそうでなければわたしは仏になるまい>と誓われている。その阿弥陀仏は今現に仏となっておられるから、重ねて誓われたその本願はむなしいものではなく、衆生が念仏すれば、必ず浄土に往生できると知るべきである」と述べられている『往生礼讃』の真実の文を、源空上人が自ら書いてくださった。
(中略)
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。長い年月のうちに、源空上人の教えを受けた人は数多くいるが、親疎を問わず、これを書き写すことを許されたものはごくわずかしかいない。それにもかかわらず、わたしは、すでにその書物を書き写させていただき、その絵像も写させていただいた。これは念仏の道を歩んできたことによる恵みであり、往生が定まっていることのしるしである。よって、喜びの涙を押えて、その次第を書き記すのである。


と仰せになっています。法然聖人が自ら親鸞聖人に書き与えられた言葉は、

「選択本願念仏集」
「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」
「釈綽空」
「南無阿弥陀仏」
「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(往生礼讃)


であったというのです。「釈綽空」は別として、承けた真筆は念仏の本願、南無阿弥陀仏しかないと言っていいでしょう。それほどに念仏、南無阿弥陀仏というのは大切なものなのです。ですから、上の御真筆の内、『選択本願念仏集』の標宗でもある「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」というお言葉について親鸞聖人は、

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(尊号真像銘文【15】)

【現代語訳】
「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」 というのは、 安養浄土に往生する正因は本願の念仏を根本とするというお言葉であると知らなければならない。 「正因」 というのは、 浄土に生れて間違いなく仏になる因ということである。

と教えられています。これは「信心為本」「信心正因 称名報恩」を強調され、念仏を軽視しありもしない信心を追い求める会員には理解不能でしょう。
まず気を付けなければならない点は、これは念仏以外の諸行(諸善)に対して「念仏を本とす」であって、信心に対して「念仏を本とす」といわれたのではないということです。阿弥陀仏の浄土に往生する業因としては、称名念仏以外の行は「本」ではなく、南無阿弥陀仏と仏名をとなえる念仏が「本」であるというのです。
次に、「念仏為本」とは、自分の称えたことに功を認めて、これを正因と考える「称名正因」とは全く異なることにも注意が必要です。「念仏する」という自分の行為によって助かるのではなく、名号願力によって助けられるのです。本願の名号を心に頂いたのが信心、それが口に出れば称名ということで、信心も称名も共に如来の名号が私の上に届いたすがたに他ならないのです。


廃悪修善や三願転入といった文言で念仏以外の諸善(善もどきの善)を勧め、「本」である称名念仏行を疎かにしている親鸞会。それは、「念仏一つで助かる」という信心も疎かにしているのです。

大安心大満足
どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜び
『人間に生まれてよかった』『よくぞ人間に生まれたものぞ』と生命の大歓喜が起きる
『人命は地球より重い』ということがハッキリ知らされる
地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする
曠劫流転して来た自己も明らかになるし、未来永劫の後生の一大事も知らされる

会員の皆さんはこんなものを他力の信心だと思い、それを求めて日夜活動してはいませんか?

方便だからやらなければならない

としてやっているのは念仏以外の善(もどきの善)、親鸞会の組織拡大のための活動であり、追い求めている信心は「念仏一つで助かる」とはおよそ縁遠い、幻想的幸福感ともいうべき境地です。こうして行に迷い信に惑い、何が浄土真実の行か、何が浄土真実の信かさえ分からないようでは、浄土真宗の人とは言えません。

阿弥陀仏は「念仏を称える者を極楽へ迎える」と仰せですから、称名念仏一行が浄土真実の行であり、阿弥陀仏の仰せを深く信じて念仏するのがまこと本願のお心にかなった念仏の行者です。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔十二通、御消息第二十六通)

他の御消息を読めば分かりますが、親鸞聖人が仰るのは「念仏」ばかりです。「諸善」の勧めはありません。『教行証文類』は『選択本願念仏集』を種々に非難する聖道諸宗への反論として書かれたという面もあり、精密な理論と膨大な文類で埋め尽くされており相当に難解です。対して御消息は同行へ向けて書かれた手紙ですから、聖人が何を勧められているかが容易に分かります。それは、「念仏」という行と「念仏一つで助かる」という信心であります。ただ、念仏と信心は別々の2つのものではなく、先ほど申し上げた通り共になんまんだぶの法が私に届いたすがたに他なりません。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

このような浄土真実の行信を正しく教えられず、またもハコモノを建てるために『善の勧め』という名の献金を求められている会員の皆さんは実にお気の毒です。今日は親鸞会館ではまた『白骨の章』の話らしいですが、いくら無常を取り詰めてもなんまんだぶの法が聞けなければわざわざ富山まで行く意味はないでしょう。どうか『必ず助ける』の仰せをそのままお受けし念仏して頂きたいものです。最後に、念仏を称えるというのはこういうことだと教えられたお言葉を『尊号真像銘文』よりお聞かせ頂いて終わりたいと思います。

智栄と申すは、震旦(中国)の聖人なり。善導の別徳をほめたまうていはく、「善導は阿弥陀仏の化身なり」とのたまへり。「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。「一切善根荘厳浄土」といふは、阿弥陀の三字に一切善根ををさめたまへるゆゑに、名号をとなふるはすなはち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと。智栄禅師、善導をほめたまへるなり。(尊号真像銘文【8】)


【参照】
『飛雲』「往生の正因は念仏を本とす」という親鸞聖人のお言葉を全否定する高森顕徹会長
『同』念仏一行を勧めるのが善知識、念仏一行を否定するのが悪知識高森顕徹会長
安心論題/念仏為本

せっかく目の前に届いていても、受け取る側が拒否していたら受け取ることはできません

もはや日本人の4人に1人は65歳以上という超高齢社会です。それでいて、この先はどうか知りませんが今の高齢者はそこそこ財力もありますから、テレビやラジオ、ネット等の通販のよいカモになっています。若い人達は在宅率が低く、中々連絡を入れてこない、連絡を入れてきてもすっぽかし率も高いのが問題ですが、高齢者は注文したことを忘れている、何を注文したか覚えていないことが多いというのが問題です。

何も高齢者に限らずですが、よく「中身は何ですか?」と聞いてくる人があります。これ実は困る質問なんです。記事欄や外装に明記してあれば答えられますが、書いてなければ答えられません。自分が梱包したわけではないので、配達員は何でも知っているだろうという思い込みは止めてもらいたいものです。中には「爆弾でも入っているんじゃない?」みたいなことを言われたこともありますが、アホかと思います。爆弾なら、もう輸送中の衝撃か何かでとっくに爆発してるわ。命狙われる悪い行いでもしてるんですかね? また代引きで中身が何なのか分からないから支払えないとか平気で言ってくる人もいますが、頼まないものが代引きで来るかよ? あんたの蒔かない種は生えないだよって感じです。

こちとら熱中症の危険も覚悟して、連日の真夏日・猛暑日の中をフラフラになりながら荷物を届けに回っているというのに、何を頼んだのか忘れているなんて言語道断です。せっかく目の前に届いていても、受け取る側が拒否していたら受け取ることはできません。また、そこまで届けようとしてきた配達員はじめ全ての関係者の苦労が水の泡です。自分で頼んだものくらい、メモって冷蔵庫などに貼るか、スマホなどに記録しておいてもらいたいものです。後で、やっぱり頼んだものだから受け取りたいとか平気で言ってくる人もありますが、本当に止めてもらいたいです。


同じように、阿弥陀仏は五劫永劫の願行を成就して南無阿弥陀仏となりましましたのに、これを受け取る側が拒否していたら受け取ることはできません。もう届いているのに、疑ったり計らったり、余計な詮索や先入観から方法論に走ったり、拒否しているつもりはなくてもそうやって撥ね付けていたらそれは拒否しているのと同じことです。そうやって自分の殻に閉じこもって本願を聞かないようでは、せっかくの阿弥陀仏の御身労も、釈尊や師主知識方の骨折りも、その他有名無名の仏法を伝えて下された方々の苦労も台無しです。

一体どれだけ多くの有情非情の「おかげさまで」こうして生きて弥陀の本願をお聞きし、念仏申しているのか分かりません。どうか余計な詮索や先入観を交えることなく、我が胸に持ち替えるでもなく、「助けるぞ」の仰せを仰せのままに聞き受け念仏して頂きたいものです。どっかのジジババよろしく受取拒否しないで受けて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

「私に間違いなく本願力が届いているかどうか、それを受け容れているかどうか」が大事

私は日常、荷物を渡す際にお客さんに伝票に押印やサインを求めます。中には印をどこに押せばいいかとか、印の向きとか、サインの場合は字のきれいさ等を気にする方あります。質問されれば「ここです」とか答えはしますが、別にどこに押してあろうが、逆を向いていようが、ミミズが這ったような字であろうが心配ありません。大事なのは、

本人に間違いなく荷物が届いているかどうか、本人が荷物を受け取ったかどうか

です。伝票の押印やサインはあくまで会社の都合、受け取る側にとっては重要ではありません。また伝票は本人宛てのものであっても、荷物が別人宛てであったら大変です。なので受け取る側は伝票ではなく、荷札の住所氏名で確認する必要があります。まぁ、それが合っていて中身が違っていたりしたら、それは配達する側の責任ではないので悪しからず・・・。



さて、煩悩にまみれ、深い罪業を抱えて、生死流転を際限なく繰り返して迷い苦しみ続ける私達を「むねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけ」がいまします。本願がすでに成就して阿弥陀と成っているということは、私を救う本願力が私にはたらいているということです。私はいま、ここで本願をお聞きし、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく心得て念仏するのみです。大事なのは、

私に間違いなく本願力が届いているかどうか、それを受け容れているかどうか

です。まぁ前者は、本願がすで成就しているのでよいのですが、問題は後者、我々の側がこれをそのまま、素直に受け容れているかどうかです。「そんなうまい話があるかい」「自分には関係ない」と否定するのは勿論、「そんな本願があるんだぁ、ふーん」と絵空事のように眺めていたり、「本願に救われるにはどう聞けばいいのか、どうすればいいのか」と方法論に迷ったりするのも、本願力がはたらいていながらこれを受け容れず、撥ね付けている姿です。

同じく念仏していても、南無阿弥陀仏のいわれを了せず、それでいて自分の善根と捉えて助かろうというのであればそれは「おぼつかなきこと」です。また、信心があってもお念仏しないのはその甲斐がないと仰せられています。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

信心の内容は南無阿弥陀仏のいわれであり、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」ということですから、信心と念仏は不離の関係であります。他力の信心とは、「ただ南無阿弥陀仏」です。最後に、御文章のお言葉より南無阿弥陀仏のいわれを伺いたいと思います。

ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。
(3帖目2通)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(5)

法然聖人は『選択集』において様々に諸善と念仏を比較し、諸善を捨てて念仏一行に帰依して往生を願えとそればかり教えられています。尤も諸行による利益を否定されてはいませんが、末法の今の世においては如説に修行する者がなく、さとり得る者がいないため、その利益は空しいのです。一方で念仏による利益は末法、法滅に至っても決して空しくなく、いずれの時にも通じる法門であります。

またこのなかに「遐代」とは、『双巻経』(大経)の意によらば、遠く末法万年の後の百歳の時を指す。これすなはち遐きを挙げて邇きを摂するなり。しかれば、法滅の後なほもつてしかなり。いかにいはんや末法をや。末法すでにしかり。いかにいはんや正法・像法をや。ゆゑに知りぬ、念仏往生の道は正像末の三時、および法滅百歳の時に通ず。随自随他

正法・像法の時機ならともかく、また我々が如実に定善・散善の行を修めることができる善人や聖者ならともかく、末法の今の世において、我ら末代不善の凡夫が迷いを離れて往生する道はただ一つ、念仏往生の道以外にありません。その念仏往生の道、すなわち18願の世界に入るために定散二善などの諸行諸善を勧められた箇所など浄土真宗には存在しないのです。獲信・往生に諸善が絶対必要なら、念仏と諸善はセットで付属されていなければおかしいですし、「定散は廃せんがために説き」「釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり」などと教えられるわけがありません。

さて『選択集』では、釈尊が定散の諸行を付属せず、ただ念仏一行を阿難に授けられた文を挙げた後、

「念仏をもって多善根とし、 雑善をもって少善根とせられる文」
「六方恒沙の諸仏は余行を証誠せず、 ただ念仏だけを証誠せられる文」
「六方の諸仏が、(諸善の行者ではなく)念仏の行者を護念される文」

と次々挙げられていきます。獲信・往生のためには諸善を廃して念仏一行に依れと、これでもかこれでもかと示されます。在りもしない横の道をでっち上げ、これでもかこれでもかと廃された諸善を勧める高森教とは真逆です。そして、

釈迦如来、弥陀の名号をもつて慇懃に舎利弗等に付属したまふ文

へと続きます。『阿弥陀経』及び善導大師の文を挙げ、それから浄土三部経は諸行の中に念仏を選択して念仏を根幹とするとの私釈を展開されます。まず『大無量寿経』において諸行の中に念仏を選択されていることを明かされ、次に『観無量寿経』でも念仏一つを選択されたことを教えられています。

次に『観経』のなかにまた三の選択あり。一には選択摂取、二には選択化讃、三には選択付属なり。
一に選択摂取といふは、『観経』のなかに定散の諸行を説くといへども、弥陀の光明ただ念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。ゆゑに選択摂取といふ。
二に選択化讃といふは、下品上生の人、聞経・称仏の二行ありといへども、弥陀の化仏、念仏を選択して、「汝称仏名故諸罪消滅我来迎汝」(観経)とのたまふ。ゆゑに選択化讃といふ。
三に選択付属といふは、また定散の諸行を明かすといへども、ただ独り念仏の一行を付属す。ゆゑに選択付属といふ。
結勧流通

選択摂取とは、弥陀の光明はただ念仏の衆生を照らし、摂取してお捨てにならないということです。ということは、弥陀の光明は定散の諸行を修める者、余の雑業の行者を照らし摂めないということです。
選択化讃とは、いろいろな経の題名を聞くことと仏名を称えること(念仏)では、弥陀の化仏は念仏を選択して 「汝は仏名を称えたから、 もろもろの罪が消滅し、 われは来て汝を迎える」といわれてあるということです。
選択付属とは、定散の諸行が説かれてあるけれども、 ただ念仏の一行だけを付属されていることです。

また『阿弥陀経』では、念仏往生を説くに至って六方恒沙の諸仏がこれを証誠されていることを教えられています。沢山の経典の中に多く往生の諸行を説かれるけれども、諸仏はこれを証誠されていないというのです。


しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。

阿弥陀仏、釈尊、十方恒沙の諸仏は「念仏の一行を選択」されています。「余行はしからず」です。『大無量寿経』『阿弥陀経』『観無量寿経』の三経ともに諸善ではなく、念仏を選んでその要点とされているのです。

方便だからやらなければならない

として親鸞会が勧めているのは教義上でも「しからず」と三仏の勧めがない「余行」すなわち「諸善」であり、実態は親鸞会への献金・勧誘、会長及び上司への無条件服従などの「善もどきの善」を主とする活動であります。敢えて「やらなければならない」というならそれは三仏が勧められる「念仏の一行」です。ですから、次の有名な三選の文にはこのようにあります。

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

【現代語訳】
「そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

親鸞聖人はこの三選の文を「行文類」に引文し、浄土真実の行はただ念仏の一行であり、南無阿弥陀仏とは「我にまかせよ、必ず救う」という本願招喚の勅命であること、これをそのまま信じ受け容れ念仏する者は必ず往生を得ることを明かされています。このように、親鸞聖人が法然聖人から承けられた教えは、念仏の教え、南無阿弥陀仏以外にはなかったのです。


ところが、親鸞会ではどうでしょうか? 本尊こそ「南無阿弥陀仏」ですが、会員の誰が南無阿弥陀仏の六字のいわれを心得て念仏しているでしょうか? 念仏ほど尊いものはない、念仏のみぞまことと信じて念仏しているでしょうか? 念仏より信心が大事だと念仏を軽視して、ありもしないスーパー信心を追い求めることに必死になっていませんか? 信心は大事なことに違いありませんが、その信心とは

自分の修した善程度では出離できず、「名号を称すること下至十声聞等」によって往生できると信知したこと
「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」たこと
念仏を称えて往生できると深く信じたこと


であり、要は「往生には南無阿弥陀仏しかない」という信心です。念仏とは切り離せない、一つであって二つ、二つであって一つのものなのです。だから、「ただ念仏さえ称えていれば死んだら極楽、死んだら仏」なんですよ。「仏の本願によるがゆゑなり」これが阿弥陀仏の本願なんですから。これ自体は間違っていないんです。これに疑い無いのが「信心」であり、この「信心」を抜きにただ口に称名さえすれば助かると思って念仏しているのを「おぼつかなきことなり」と言われているだけです。

これを高森会長は称名正因の異安心だと非難し、

信心が大事だ。信心は二種深信だ。二種深信とは地獄一定と極楽一定が同時にハッキリすること。
信心を獲たら絶対の幸福になる。無碍の一道に出る。「人間に生まれてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」と生命の歓喜が起きる。これが人生の目的だ。そこまで光に向かって進め。


と説いているでしょう? 念仏はどこへ行ったんですか? 念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、との異安心から、とにかく信心獲得が大事、それには聴聞、破邪顕正と会で推進される活動に勤しんで、念仏は聴聞の前後かお勤めの時に辛うじて称える程度、完全に置き去りにされているというのが実態ではありませんか? 「信仰が進めば念仏称えずにおれなくなってくるのです」とか言いますが、それはいつの話ですか? 私が会員だった時は、ついにそういう人には会えなかったです。

深いマインドコントロール下にある会員さんは到底理解不能でしょうが、念仏の教えこそが浄土真宗です。念仏をおろそかにし、ありもしない信心を求めて狂奔し、念仏を称える人を「あれは称名正因だ」としか思えないなら、もはや浄土真宗の人とは言えないでしょう。「高森教信者」と名乗るのが相応しいかと思います。



【参照】
『飛雲』”親鸞聖人の教えの根基”の話をしない高森顕徹会長

一方的に質問して相手の質問には答えず、相手の主張を決めつけ捻じ曲げる、親鸞会のお家芸継承者

この記事この記事のコメント欄を、相変わらず親鸞会のお家芸継承者が荒らしに来ています。親鸞会のやり方はいつもワンパターンで、一方的に質問して相手の質問には答えず、相手の主張を決めつけ捻じ曲げます。例えば、

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親鸞会の高森顕徹氏を、退会者が非難攻撃することは、謗法罪になりません。
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というOHEさんのコメントに対して、「ふじた」さんは

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しかし、OHE様のお答えで、高森会長が伊藤氏を非難することは法謗罪ではないとお教えいただきました。
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と答えています。OHEさんのそれまでのコメントからは、こんな主張は出てきません。こんなことさえ聞き間違っている、読み間違っているのですから、そりゃあ正しい法が入らんわね。

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「(18願を信じていない人は、)三業で信心の有無を判定できる」
「謗法罪を造っている者は真実信心でないと断定できる」
「以前所属していたところの師匠(偽真宗の高森会長)を非難することは謗法罪にならない」

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がOHEさんの主張ですから、ふじたさんはまず相手の主張を正しく理解するところから始めて下さい。

次に、ふじたさんは相手からの質問に答えて下さい。相手からの質問にきちんと答えて、質問があればする。これが議論というものです。あなたは高森教に冒されてこんな基本的な事が全く出来ていません。

1、謗法罪の定義を経典や聖教に基づいて書きなさい。

ふじたさんはまずこれにきちんと回答して下さい。OHEさんや私に何度言わせるつもりですか?
そしてその上で、次の質問にも回答して下さい。

2、ふじたさんは高森顕徹会長は真実信心を獲ていると思っていますか? 「はい」「いいえ」「分からない」でお答え下さい。

3、2の答えが「はい」の場合、何を根拠に高森顕徹会長の信心を真実信心だと思ったのか答えなさい。



なお、ふじたさんの質問
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淳心房様はOHE様と一緒に、「三業で法謗罪を造っている者は真実信心を得ていない」と断言できるとおっしゃっておられたのに、今度は「三業では真実信心を得ているか分からない」という立場ですか。どちらが本当の立場なのでしょうか。その時その時で変わるのでしょうか。
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について答えたいと思います。私は(18願を信じている、念仏を称えていると言っても)三業では真実信心を得ているか分からないという立場です。
浄土仏教に無関係な人が阿弥陀仏に救われているということはあり得ません。高森会長でさえ、「最初から他力の人はいない」と言っているはずです。ですから、仏や仏の教えを否定する謗法の者、念仏誹謗の者は真実信心を獲ているかどうかなど最初から問題外だと申し上げました。当然、「三業で謗法罪を造っている者は真実信心を得ていない」です。何も矛盾しません。人の言葉を聞けないようなら質問などしないことです。

これで質問には答えました。次は、ふじたさん、あなたの番です。誠意ある回答を期待しています。もしこんな簡単な質問にも答えられないというなら、中央仏教学院通信教育等を受講してよく真宗を学んでから出直して下さい。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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