批判を恐れて当たり障りのない話しかしない高森顕徹会長

今年の親鸞会報恩講では、高森顕徹会長は説法形式ではなく座談会形式で話をしたそうです。内容は

「蓮如上人の御遺言」

であると説明し、高森顕徹会長がいつも「形だけ」読んでいる

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(『御文章』4帖目15通)

についてでした。

親鸞聖人、蓮如上人は生きている間に、皆が信心決定してほしいと、そのこと一つ教えていかれた

と話して「信心」の説明をしていった高森会長ですが、結局はいつもと同じく、

「鰯の頭も信心から」の信心とは違う。阿弥陀仏より賜る「まことの心」だ。

という以上の説明はなかったようです。批判を恐れて当たり障りのない話しかしなかったことが伺えます。これでは、会員の皆さんは、頭に染み付いている

・光に向かう教え
・信一念とそれまでとを分ける教え
・宿善を厚くする教え
・三願転入の教え


によって阿弥陀仏より「まことの心」を賜る一念の決勝点までより真剣に聴聞し、活動しようとなるだけですし、新しく縁のあった人は「どうしたらまことの心を賜ることができるのか?」と疑問に思い、そこから死ぬまで求道の教えへと誘導されるだけです。


ところで、高森顕徹会長が「信心」の説明に用いた根拠は『御文章』1帖目15通

信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。

か覚如上人の『最要鈔』

この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるゝなり。

でしょうが、そのいずれにも出てくるのが「本願成就文」です。成就文の、

聞其名号 信心歓喜

の「信心」について覚如上人、蓮如上人が解説されているお言葉であることが分かります。ですから『御文章』には

『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。
これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。


とあり、『最要鈔』には、

聞其名号という聞は、善知識にあふて如来の陀力をもて往生治定する道理をきゝさだむる聞なり。
おなじ「経」(大経巻下)に「其仏本願力・聞名欲往生」ともみえたり。
またこの「経」の流通にも「其有得聞・彼仏名号」とらあり。
宗師の御釋にも「弥陀智願海・深広無涯底・聞名欲往生・皆悉到彼国」とらいへり。
また祖師鸞聖人の御釋にも「本願の生起本末をきくべし」とみえたり。
経釋すでに聞をもて詮要とせられたり。
よくきくところにて往生の心行獲得する條顕然なり。しるべし。


と教えられています。「其の名号を聞いて信心歓喜せん」ですから、「其の名号」たる「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」を聞かなければ「信心」もへったくれもないわけです。では親鸞会の報恩講に縁があった方にお聞きしますが、今回高森顕徹会長は「其の名号」たる「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」を説いたでしょうか? 世間で言われる「鰯の頭も信心から」の信心については長々と説明しても、「信心」の体である「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」については何の説明もないといってもいい位説明しないのが高森顕徹会長です。

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
(『御文章』5帖目11通)

今回の報恩講でもお勤めの際に読まれたかも知れませんが、私達が聞かねばならないのはここなのです。会員さんはこの蓮如上人のお言葉が耳には聞こえていても、頭には全く入っていないと見えます。

南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。

ですよ? だから蓮如上人は御文章に重ねて六字釈を施されているのです。これを説かなければ、聞く者が「信心決定」も何もあったものではないことがお分かり頂けると思います。

ではなぜその「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を説かないのか。考えられる理由は2つです。

1、高森顕徹会長が「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を知らない。
2、知ってはいるが、聞く人に「信心決定」させるつもりがない。


いずれにしても、高森顕徹会長の目的は会員の獲信・往生とは別にあると見て間違いありません。だから、

高森顕徹会長がいつも「形だけ」読んでいる

と冒頭申し上げたわけです。


会員の皆さん、今回の報恩講で、目的の「信心決定」は果たせましたか?

「決定」というハッキリとする瞬間、受け取る前と受け取った後と分ける線がある

だとか、「信心決定」によって「難思の弘誓は難度海を度する大船」の大船に乗せて頂けるだとか説いていたようですが、肝心要が抜け落ち、このような邪義を唱え、大船に乗れば

私達の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります

だとかアニメの蓮如上人に言わせて現世利益を夢見させている高森顕徹会長の話をまともに聞いている限り、浄土真宗の「信心決定」もなければ「念仏の行者」となることもないことを知るべきです。
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真実信心は「まことにつのる心」、「まことにまことの心」と読めます

おはようございます、Abcです。

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(『御文章』4帖目15通)

4帖目15通は「大阪」とも称される御文で、高森さんがいわれているように、
「蓮如上人の御遺言」ともいわれる御文です。

ここで問題となるのは、高森さんはこのように「言葉だけ」『信心決定あれかしと』といわれていること、『宿善まかせ』の箇所を抜いて「善をすすめられている」といわれているところです。蓮如は「知識に遇うためには」というニュアンスで「過去(宿)の善まかせ」といわれているのであって、「現在世の善」ではないことを知るべきです。

>信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。(『御文』1帖目15通)

この言葉を挙げられるならば、「よきこころ」は「如来他力のこころ(代表されるのは六字である南無阿弥陀仏)」であり、「自力のこころ」は「わろきこころ」としか釈せないところです。にもかかわらず「善をせよ」といわれているところが腑に落ちない箇所にございます。

>「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。(尊号真像銘文)

と「我らが自力凡智」は「煩悩具足であり、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。」とまで親鸞が申されておいでなのです。

元来より「上司のあやつり人形」となっていたならば「自らが思案する必要がない」ので確かに楽なのかもしれません。ですが、高森さんは「善をせよ」といい(ここだけ抜き出すと化土ですが、)ながら「化土往生すらできない、死んだら無間地獄だ」といわれているのです。

「絶対の幸福」は学会での文言で、「無間地獄」は日蓮がいわれている言葉なのです。

親鸞は、「念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞときたまふ」(正像和讃)とありますが、これには音を示す点(なんというのかわからないので私がそういってるだけです)が打ってありません。

これは、「念仏をまなび、念仏をつのりとする衆生に説く必要がない」ので、点は打たれていないのだと私は感じました。

親鸞は、「ただ念仏のみぞまことにておわします」といわれています。

どうぞ、「念仏はいらない」と撥ね退けないで、「南無阿弥陀仏」を受け取っていただきたいです。

なもあみだ

Abc

教えて下さい

高森会長は、
>「決定」というハッキリとする瞬間、受け取る前と受け取った後と分ける線がある
と説きます。

聞即信の一念は、迷いが晴れるので信前信後がはっきりすると想像しています。
ゼロ段の凡夫から、正定聚51段に横超するので、すごい体験があるのではないかと思っています。
阿弥陀仏の救いに相対から絶対に切り替わる一念があるのでしょうか?

あるのではないか。
当然自覚できるものと思っています。

また、その時に、三品の懺悔と等しい懺悔がさせられるのでしょうか?

よろしくお願いします。

いなみさん へ

こんばんわ、お初にお目にかかります。

>聞即信の一念は、迷いが晴れるので信前信後がはっきりすると想像しています。
ゼロ段の凡夫から、正定聚51段に横超するので、すごい体験があるのではないかと思っています。
>阿弥陀仏の救いに相対から絶対に切り替わる一念があるのでしょうか?

>あるのではないか。
>当然自覚できるものと思っています。

いなみさんは、「獲信」は「自覚できるもの」とお思いなのですね。

「仏のかたより往生は治定せしめたまふ」(蓮如)といわれている「仏願回向」ですが、「体験」というならば「仏智不思議を疑うこころ(法然は『疑情』といわれています)」が「廃れ(「自力が廃れ」といういわれ方をされます)」ることですね。

そのほかの、「怒り、そねみのこころ」「欲のこころ」は阿弥陀さまに遇われた後にも当然ある心です。ただ「後生(死んだあとどこに往くか)」をお任せしたかどうかだけが変わるのです。

親鸞は、「正信偈」のなかにて、

還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
と書かれています。 書き下し(直訳に近い意訳)を行いますと、
「生死輪転の家(六道輪廻の生き様)に還ってくるのは
 疑情を決する(正定業のあつまりに入る)を以って止める所であり
 速やかに(涅槃(ニルバーナ 滅度))寂静の楽に入り
 必ず信心(まことのこころ)を以って能入します」

という書き下しとなります。

(a 本願寺蔵 「正像末和讃」内)(『註釈版聖典』六一七頁)
小慈小悲も無き身にて
  有情利益思うまじ
如来の願船居まさずば
  苦海を如何でか渡るべき

すこしの慈悲もない身でありながら
有情利益(自力の利益)は思ってはなりません
阿弥陀さまの船がなかったならば
この苦しみの海をどうやって渡ることができましょうか

(b 専修寺蔵 「三帖和讃 正像末法和讃」内)(国宝 親鸞筆)
小慈小悲も無き身にて
  有情利益思うべき
如来の願船居まさずば
  苦海を如何でか渡るべき

すこしの慈悲もない身であるからこそ
有情利益(他力の利益)を思わなければなりません
阿弥陀さまの船がなかったならば
この苦しみの海をどうやって渡ることができましょうか

(a,bのうち、いなみさんの馴染みのある和讃を参照されてください)

といわれており、
「自力のこころ廃るとき」と同時に「名号を阿弥陀さまからいただく」のです。
ただ、本人は「本願まこと」と慶喜しても、「見濁、衆生濁」などの「五濁」に
いる私たちにとっては、「あの方は正定の方である」と見定める眼がないのも
事実です。悲しいことに「三業」にこだわるいわれは、「そのように見る眼がない」からなのです。

そのため、弥陀より「念仏うけとった」(信心決定した)という「おもい」は自覚できましょう。ただ、「名利の大山」などの「煩悩」が相変わらず邪魔立てして素直には喜べませんが

超世の悲願ききしより
 われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかはらねど
 こころは浄土にあそぶなり

弥陀のよび声を聞いてからは
 わたしたち生死の凡夫は
有漏の穢身(「有漏」「穢身」ともに「けがれた身」という意味)は変わらないが
 こころだけは「弥陀の浄土」にてあそんでいる

と親鸞が詠まれています

なもあみだ

Abc

Re: いなみ様

> 聞即信の一念は、迷いが晴れるので信前信後がはっきりすると想像しています。
> ゼロ段の凡夫から、正定聚51段に横超するので、すごい体験があるのではないかと思っています。
> 阿弥陀仏の救いに相対から絶対に切り替わる一念があるのでしょうか?
>
> あるのではないか。
> 当然自覚できるものと思っています。
>
> また、その時に、三品の懺悔と等しい懺悔がさせられるのでしょうか?

あれだけ「ハッキリ」「ハッキリ」言われ続けたら、それは「ハッキリするのだろう」と思ってしまいますね。では、「聞即信の一念が我々にハッキリ自覚できる」と言われている根拠はありますか? なければ、それは高森会長のオリジナル教義です。

現生十種の益の一つに、「入正定聚の益」というのがあるのはご存知でしょうか? 七高僧方は、正定聚の位には浄土に往生した後に入ると教えられましたが、これを現生で正定聚に入ると釈されたのは親鸞聖人が初めてなのです。もし「すごい体験」とやらがあるなら、七高僧のどなたも仰っておられないというのは不思議ではありませんか? つまり、正定聚に入ったことが体験として知らされるということではないのです。このことは、

『飛雲』どちらが異安心か?
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2016/08/post-f1dd.html

等に詳しく書かれています。

信の一念というのは当然ありますが、その瞬間が我々に自覚できるかどうかというのはまた別問題です。中にはハッキリ自覚したと仰る方もありますが、あくまでその人の「体験談」なわけで、その時が本当に信の一念なのかどうかは分かりません。

三品の懺悔するひととひとし(高僧和讃)

ですから、実際に血の涙、血の汗を流すということはありませんし、必ず三品の懺悔と等しい懺悔をさせられるということでもありません。聖教をよくよくお読みいただきたいと思います。

教えて頂きありがとうございます

ハッキリしないのは救われていないからだと、救われていない専任講師に言われます。
今後は、仏願の生起本末を聞いて疑心が無いかを何度も何度も確かめていこうと思います。

高森会長の説法を聞き、この話は仏願の生起本末のどこを話しているのだろうと思いながら聞きますが、よくわかりません。
仏願の生起本末を話しているのでしょうか?
仏願の生起本末を聞いていないとしたら疑心が有ることも無くなることもありません。
「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を聞かせて頂いたという実感がありません。
本当は高森会長に直接質問したいのですが、それは叶わないので、支部長や幹部の会員に質問しようとすると、「えんしょう」の人が来ているからと言われ質問しにくい雰囲気を感じます。
和合僧を破ると五逆罪で地獄行きだと暗黙のプレッシャーを感じ、そんたくしてその場の雰囲気をよくするように努めたりしています。
いい子ぶって何をやっているんだかと自分にあきれます。

いままでは高森会長の教えに誤りはなかろうと勝手に思い込んで自分で調べませんでした。
調べようにも反論の根拠になる学がありません。
言われるままにそういうことだと思っていました。

反論の根拠としてお聖教が上げられるので自ら聖典で調べてみると確かにそのように書かれています。
お聖教をよくよく読んで判断したいと思います。

ありがとうございます。

南無阿弥陀仏

No title

いなみさん

投稿が「本文に含まれるURLの数が超過しています」と撥ねられたので、自前のブログに記してみました。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2017/10/10/4618/

Re: Abc様

> ここで問題となるのは、高森さんはこのように「言葉だけ」『信心決定あれかしと』といわれていること、『宿善まかせ』の箇所を抜いて「善をすすめられている」といわれているところです。蓮如は「知識に遇うためには」というニュアンスで「過去(宿)の善まかせ」といわれているのであって、「現在世の善」ではないことを知るべきです。

仰る通りです。蓮如上人は遇法の因縁、18願の教法を信じる因縁ということで「宿善まかせ」と仰っているのであって、既に法に遇った人に、これから未来の信心獲得を目指して善をせよという意味ではないことは明白です。
結局救われるのは今ではなく宿善が厚くなった未来、無条件の救いではなくて宿善を厚くしなければ救われない条件的な救い、悪人正機を否定して悪人が善人にならなければ救われないという善人正機の教えと、浄土真宗とはまるでかけ離れた創作教義であることに会員の皆さんは早く気付いてください。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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