親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(8)

今回は、高森顕徹会長が「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」という教えに利用している

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。『御文章』3帖目12通
無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(『御文章』4帖目8通

のお言葉を見ていきたいと思います。全文は上のリンク先へ飛んでご確認下さい。


始めに①についてです。このお手紙の前段では、「仏法者と号して法門を讃嘆し勧化をいたす輩のなか」で、その心中も、伝え弘めるべき教えも当流親鸞聖人の正義に基づかず、ただ人に取り入って噓を言い、門徒から物を取るばかりの者がいることを嘆かれています。そして、

これによりて、まづ当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもはん輩においては、その勧化の次第をよく存知すべきものなり。

と、教えを伝え弘める時の順序をよく知りなさいと注意されています。では、まずどのようなことに注意するかというと、続けて蓮如上人はこのように仰っています。

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。

まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし」と仰っています。ここで「宿善」「無宿善」という言葉が出てきます。「無宿善」の機は信心を取り難く、「宿善」開発の機は自ずから信心を決定する。「無宿善」の機に「正雑二行の沙汰」をしてもかえって誹謗の元となるから、「宿善」の機、「無宿善」の機があるということを弁えず、誰彼構わず手広く世間の人々に教えを伝え弘めることは当流の掟に背く行為である、というのです。

注意すべきなのは、「宿善・無宿善の機を沙汰すべし」と言われている相手は「当流の他力信心のひととほりをすすめん」としている「当流の義をたて、ひとを勧化せんとおもはん輩」だということです。教えを聞こうとしている人ではなく、教えを伝えようとしている人に言われているということです。これが分かれば、続く

されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。このおもむきをくはしく存知して、ひとをば勧化すべし。

のお言葉も、当然教えを聞こうとしている人ではなく、教えを伝えようとしている人に言われていることがお分かりでしょう。親鸞会が断章取義しているお言葉の後を読まれてもそれは明らかで、蓮如上人の仰ることは、

「宿善の機」と「無宿善の機」がいることを弁えて、「宿善の機」に法を説け

ということです。間違っても、

宿善の薄い者はそのままでは信心獲得は有り得ないから宿善を求めよ、宿善を厚くせよ

だとかいう教えではないことは明らかです。もしこのような珍説がありましたら根拠を示して頂きたいものです。


次に、②について見ていきましょう。4帖目8通では、親鸞聖人御正忌報恩講について語られています。報恩講において「往生浄土の信心獲得」することが如来聖人への報恩であり、いかに遠路はるばる莫大の辛労をして上洛しても、世間での評判を考えての参詣であったりとか、人並みに形だけ報恩の志を運んだりとか、そういう事であってはいけない。ただし、

無宿善の機にいたりてはちからおよばず。

というのです。「無宿善の機」にはいくら諭しても我が力及ばずと仰っています。要は、

いくら言葉を並べて報恩講の意義を訴えても相変わらず名聞、ひとなみの報謝のために参詣するような人

を「無宿善の機」と言われているのです。ここでいう「宿善」は、

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。『口伝鈔』第二条 光明・名号の因縁といふ事

と覚如上人が仰る「宿善」「宿福」と同じ定義で考えられ、

無宿善の機
=「浄土教を信受せざる機
=「この教にあふといへども念持せざる人
=「18願の法に遇っていながら信じない人

と言えます。18願の法を信じる因縁が熟していないから、蓮如上人のような方にお遇いして法をお聞きしていながらそのお心にそぐわないのでしょう。そういう人を「無宿善の機」と言われているのです。

これしかしながら今月聖人の御正忌の報恩たるべし。しからざらん輩においては、報恩謝徳のこころざしなきに似たるものか。これによりて、このごろ真宗の念仏者と号するなかに、まことに心底より当流の安心決定なきあひだ、あるいは名聞、あるいはひとなみに報謝をいたすよしの風情これあり。もつてのほかしかるべからざる次第なり。そのゆゑは、すでに万里の遠路をしのぎ莫大の辛労をいたして上洛の輩、いたづらに名聞ひとなみの心中に住すること口惜しき次第にあらずや。すこぶる不足の所存といひつべし。ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。しかりといへども、無二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば、いかでか聖人の御本意に達せざらんものをや。

ではそういった「無宿善の機」も含め、門徒の方々に蓮如上人は

宿善の薄い者はそのままでは信心獲得は有り得ないから宿善を求めよ、宿善を厚くせよ

だとかいう教えを説き与えているかと言えば勿論そんな「珍らしき法」はありません。また、

獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正をせよ

ということも、そういう趣旨のことも教えられていません。蓮如上人はこの後、「無二の懺悔をいたし、一心の正念におもむかば」どうして聖人の御本意に達しないだろうかと仰っています。今まで名聞のため、あるいは人並みの報謝をしていればいいだろうといった考えは間違っていたと深く悔い改め、そして自力の心をひるがえして真実の信心で念仏しなさいというのです。


この「一心の正念におもむかば」で思い出されるのが、二河白道の譬喩です。親鸞聖人は『愚禿鈔』にて

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
(中略)
「一心」の言は、真実の信心なり。
「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。


と教えられています。何度も書いていますが、旅人は西岸上の人の喚び声を東の岸にいて白道に一歩も踏み出さず、白道を進むのを躊躇している時に聞きます。そして、この喚び声を聞いて白道に一歩踏み出した時には既に「真実の信心」であります。「白道」を「煩悩と戦って求道していく道」だとする定義も間違っていれば、聞法や破邪顕正をすることで「白道」を進んでいくという教えも間違いです。加えて、

・「一心」=「真実の信心」
・「正念」=「選択摂取の本願」「第一希有の行」「金剛不壊の心」
・「直」=「方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰する」
・「来」=「報土に還来せしめんと欲して」


です。どこにも東の岸で善を修するような内容は書かれていません。当然ながら、「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」という珍説などあるはずがないのです。


この後、4帖目8通全文を読んでみましても、宿善について

宿善の薄い者はそのままでは信心獲得は有り得ないから宿善を求めよ、宿善を厚くせよ
獲信の因縁(宿善)として聞法や破邪顕正をせよ

といった親鸞会の邪義は存在しません。それどころか、「信心決定」ということについては

一 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

とお示しです。「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓われた本願が成就したすがたが「いまの南無阿弥陀仏」であり、これこそ「これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり」と仰り、この「南無阿弥陀仏の六字のすがた」が「当流の信心決定すといふ体」であるというのです。

衆生(そなた)を仏に成さねば私(弥陀)も仏に成らない

という本願が成就し、正覚が既に成就したすがたが「南無阿弥陀仏」ということは、それは

衆生(そなた)を間違いなく仏にするぞ!

という力強い、噓偽りのない真実の喚び声であります。この本願招喚の勅命に「南無」と仰せのままに順えば、「阿弥陀仏」が「万善万行恒沙の功徳」を授けてお助け下さるという道理であります。

宿善を求めよ」? 「宿善を厚くせよ」? 一体どこに聞法や善をやったら我々の薄い宿善が厚くなるとか、厚くなるからやりなさいと書いてありますか?

他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

と蓮如上人は仰せです。「ただ」ですから、「この(南無阿弥陀仏の)六字のこころ」以外に「他力の信心」は無いということです。ならば、私達のすることはこの「南無阿弥陀仏の六字のすがた」を疑い無く聞いて念仏するよりありません。私が「聴聞」という行を重ねて重ねて行った先に救いがあるのではありません。私がこれから、将来に向かって何かしていって、救われるべき地点まで到達したら救われるのではありません。既に、ここにいる、この私に届いている救いの御名を、この場で、只今お聞かせ頂き、お救いにあずかるのを「聴聞」というのです。考え方、ベクトルが親鸞会の皆さんは逆なのです。

阿弥陀仏 ←←←←←← 私

ではありません。

阿弥陀仏 →→→→→→ 私

というベクトルです。私としては「なにのやうもなく」、何の造作もなく、只今、この場で、「われたすくべき」という阿弥陀仏の勅命を受けるのみです。会員の皆さんは、

宿善を求めよ、厚くせよという教え
獲信の因縁(宿善)として善を修せよという教え
光に向かう教え
三願転入の教え

といった親鸞会のデタラメ創作教義を皆ことごとく打ち捨てて、一心の正念におもむいて、すなわち「助けるぞ」の弥陀の仰せを仰せのままに受けて念仏して頂きたいと思います。そして、聖人の御本意に達する身となって下さい。
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万善万行恒沙の功徳

こんにちは、Abcです。

>この私に届いている救いの御名を、この場で、只今お聞かせ頂き、お救いにあずかるのを「聴聞」というのです。考え方、ベクトルが親鸞会の皆さんは逆なのです。

>阿弥陀仏 ←←←←←← 私

>ではありません。

>阿弥陀仏 →→→→→→ 私

誠に仰るとおりです、今回はこのベクトルに対して
議論してゆきたいと考えております。

「 阿弥陀仏 ←←← 私 」については少なくとも浄土教にはありません。
言葉にしますと「光に向かって進ませていただきましょう」ですが、
「光りに向かってすすむ」と言うことは、
「自らの力ですすむ」 すなわち 自力の求道にほかなりません。

次に「 阿弥陀仏 →→→ 私 」ですが、

法然が懇ろに申されている「義なきを義とす」 (代表として「選択集」)
親鸞が言われている「本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、
     善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。」
 (末灯抄 非行非善・光明名号因縁の事)
覚如がそれを受けて「名号執持すること、さらに自力にあらず」
 (執持抄 光明名号因縁の事)
蓮如は「弥陀に限りて、「われひとり助けん」という超世の大願を起こして」
 (御文 2帖目8通 本師本仏)

とありますように「南無阿弥陀仏」という大願は、
われら、迷える衆生のために弥陀が作られ、弥陀が「受け取れ!」と申されていることにほかなりません。ですから私たち衆生の身からしましたら「 ただ念仏をし、ただ弥陀より名号執持す 」すなわち「 なにの計らいもなく、弥陀から六字を受け取るだけ 」なのです。

弥陀の光明に「智慧光」とありますが、そのほかに「無碍光」「清浄光」「超日月光」ともあります。
「智慧光」「清浄光」は、濁世がわれらを「清浄」する「智慧」と読めます。
「無碍光」(「尽十方無碍光」とも)は「すべてのものは弥陀にとって障りとならず」すなわち、「どのような迷いの衆生も障りとはならない」ということです。
  ※ただ、蓮如が申されている「無宿善」では、「衆生の側に混乱が生じるので布教する側に対して『不用意に布教してはならない』」と諭されているのです。
  弥陀からすると「宿善」「無宿善」どちらとも、「救う根機」であることは変わらないのです。
「超日月光」とは、「日月を超えてのおはたらき(光明)」また、「超世の悲願(大願)」ともいわれます。弥陀が仏とならしめられたのは今から随分と前のことではありますが、この「迷いの衆生を助けるぞ!」というお力おはたらきは今なおございますので、親鸞は和讃にて「超世の悲願 ききしより」と申されているのです。
(御文では、2帖目4通に「超世の本願」についての文があります。)


末筆とはなりますが、「蓮如の目線」からみますと、
「この三国の祖師等、念仏一行を専らに勧め」 (大意)
「まず聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもて本とせられ候。
    そのゆへは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、
    不可思議の願力として仏のかたり往生を治定せしめたまふなり。」
  (帖外御文) 
「一流安心の体といふこと 南無阿弥陀仏の六字の相なり」 (御文4帖目14通)

とあるのです。この蓮如の書物から鑑みても、「南無阿弥陀仏」「信心」「念仏」は同義と考察することが可能です。

なもあみだ なもあみだ

Abc

No title

どもです。

>阿弥陀仏 ←←←←←← 私

>ではありません。

>阿弥陀仏 →→→→→→ 私

>というベクトルです。

高森親鸞会では「浄土真宗の大綱」ということが判ってないんですね。だから断章取義に陥り、重箱の隅をつつくしかなくなるのでしょう。

聴聞(求道)の論理と、本願力による救済の論理は違うのですが、これをぐちゃぐちゃにしてしまうから、会員は、

 宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求められねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求むるものである。(二一二頁)。
http://wikidharma.org/59fc1dace48c0

という奇妙な解釈を受け容れるようになってしまうのでした。

「樽いっぱいのワインにスプーン一杯の汚水を注ぐと、樽いっぱいの汚水になる。」という言葉がありますが、高森親鸞会では真実のご法義に雑毒の善を混ぜてしまうから、全体が偽物になってしまうのでした。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

コメント返信

Abc様

阿弥陀仏 ←←← 私

というのは、浄土真宗にはありませんね。有るとしたら19願・20願の法を修めて往生を願う場合です。

会員の皆さんは、仰る「自力の求道」のようなことをしており、そしてその実態はほぼ親鸞会の組織拡大活動です。また阿弥陀仏に救われるには善知識の仰せに無条件服従しなければならないと思い込んでいますから、これまた実態は

高森会長 ←←← 会員

というのが的を射たベクトルでしょう。


高森会長や親鸞会は「信心」を強調しますが、「信心」といっても「南無阿弥陀仏」「念仏」と関係があるとは思えない説明ばかりです。南無阿弥陀仏の六字のこころを示さずに、自力の求道もどきをさせて、会員が信心を獲られる方がおかしいですね。



林遊@なんまんだぶ様

>「樽いっぱいのワインにスプーン一杯の汚水を注ぐと、樽いっぱいの汚水になる。」という言葉がありますが、高森親鸞会では真実のご法義に雑毒の善を混ぜてしまうから、全体が偽物になってしまうのでした。

いやいや林遊さん、親鸞会の場合はこの例で示すなら

「樽いっぱいの汚水にスプーン一杯のワインを注」いでいると言うべきでしょう(笑)

樽の中は邪義(汚水)だらけで、スプーン一杯ほどの真実のご法義(ワイン)を混ぜ、樽のラベルに「浄土真宗」(有名なブランド銘柄)と書いてあるだけの偽物です。「人生の目的、生きる意味に乾ききった心は泥水でもすすらずにいられない」とはこのことです。

林遊さんの「ワインの譬え」を受けて

こんにちわ、Abcです。

先のコメントにて、林遊さんが、
>>「樽いっぱいのワインにスプーン一杯の汚水を注ぐと、樽いっぱいの汚水になる。」という言葉がありますが、高森親鸞会では真実のご法義に雑毒の善を混ぜてしまうから、全体が偽物になってしまうのでした。 (林遊さん)

と言われ

これを受けて、淳心房さんが、

いやいや林遊さん、親鸞会の場合はこの例で示すなら

>「樽いっぱいの汚水にスプーン一杯のワインを注」いでいると言うべきでしょう(笑) (淳心房さん)

といわれました。私としても「言いえて、妙だな」とついつい笑ってしまいました。

ワインのたとえでしたら、
新しいぶどう酒は新しい皮袋へ」というキリストでのたとえがあります。
この譬えを用いて議論いたしますと
新しいぶどう酒」という浄土教(浄土宗 系)は、
古い皮袋」という聖道教の器では、保つことができないということです。

いまいち理解できない方へ、もう少し踏み込んで説明いたしましょう。

譬えを実際に行うと、「古い皮袋は、新しいぶどう酒の発酵に耐えることができなく破裂してしまいます」。
これと同じように「聖道教の概念の上で、浄土教を論じると議論が破綻してしまう」ということです。
これをされているのが高森さんで、「不可思議の願力」という「新しいぶどう酒」を「因果の道理」という「古い皮袋」に必死に入れよう入れようとしているのです。
それを講師たちは、「(破綻するのは火を見るより明らかだが、)なにごともなにごとも会長の行うようにすべし」であるから、会員たちの前でこれまた必死に講じているのです。しかし、前述の通りでありますから、当の講師たちの無安心ぶりが露呈するわけです。

これを見て会員たちは次に記する
「カエザルのものはカエザルに、神のものは神に」 になぞらえ、
「会長のものは会長に、仏のものは仏に」 となっていただきたいものです。

なもあみだ なもあみだ

Abc

門余釈

どもです。

酒の袋を間違えちゃいかんですねと呑兵衛の林遊は思ふ(笑

御開山は「化巻」の門余釈で、

 「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。P.394

とされておられるのですが、「門余」の解釈をリンクしておきます。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E9%96%80%E4%BD%99

コメント返信

Abc様
林遊@なんまんだぶ様

なるほどです。
酒袋の例えでしたら、泥水が沢山入っている袋に「浄土真宗」のラベルを張り、「因果の道理」と「不可思議の願力」を混ぜて更に味付けしたものと言うのが適当かなと考えます。本物を飲んだことがない人はこれを本物だと誤解するが、本物を知っている人は口に入れるとあまりの味の違いに吐き出してしまうという代物みたいな・・・。他の酒はみんなニセモノ、これ以外飲めるものは無いと教えられて、その通りと信じ込んで飲んでいるのが会員という感じがします。

汝一心 正念直来 我能護

ふと思い出したのですが、『愚禿鈔』の、

 また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉

の原文である『観経疏』では、

 また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん〉

となっていて、『愚禿鈔』では「我能く護らん」とあって「我」の語がないのでした。

この意を先達は「我」のところには自分の名前を入れて味わうのだ、と言ってたそうです。
林遊は莫迦ですから、このお示しに随い、

汝一心正念にして直ちに来れ、我能く《林遊》を護らん、と時々暗誦してたりします。ありがたいことです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2013/01/29/%e6%b1%9d%e4%b8%80%e5%bf%83%e6%ad%a3%e5%bf%b5%e3%81%ab%e3%81%97%e3%81%a6%e7%9b%b4%e3%81%a1%e3%81%ab%e6%9d%a5%e3%82%8c/

Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 『愚禿鈔』では「我能く護らん」とあって「我」の語がないのでした。

『「汝」の語がない』の誤記?ですかね。
いえいえ、本当の莫迦は先達の言う通りにせず、自分とは無関係なこととして聞き流してしまうと思います。私もこれから、

汝一心正念にして直ちに来れ、我能く《淳心房》を護らん、と阿弥陀仏の仰せを頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

ところで、どうして正念を「第一希有の行」と仰っているのかがよく分からなかったのですが、リンク先を読みまして目から鱗でした。ありがとうございます。

>御開山は正念を、「第一希有の行」とお示しなのは、なんまんだぶを称えて本願の大道を歩んで来いということである。「第一希有の行」と菩薩や声聞や縁覚まして凡夫の修す行ではなく、第十七願の諸仏の行である南無阿弥陀仏を行じるから希有の行と仰せなのである。これが大行なのである。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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