救われないのは「聞法不足」と会員のせいにし、何十年と聞いて活動しても救われないような教えを説く高森顕徹会長
『飛雲』嘘体験至上主義の与太話を60数年し続けてきた高森顕徹会長
にあるように、日曜日はまたまたいつもの演題
大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか
で高森顕徹会長の話がありました。現在は『歎異抄をひらく』の映画への移行期であることが誰の目にも明らかで、今回は第一条と第九条を出していました。今後は、親鸞会は映画『歎異抄をひらく』が公開になればそれ一色になり、『なぜ生きる2』同様に映画『なぜ生きる』もほとんど見向きもされなくなるでしょう。
第一条については、大悲の願船に乗せられるとは阿弥陀仏の本願(お約束)によって絶対の幸福の身になることであり、阿弥陀仏はどのような者を絶対の幸福に助けるかということから
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。
とつなげています。ただ話したのは主に下線部のみで、「死ぬまで罪悪深重で煩悩しかない者、この私を(絶対の幸福の身に)助ける」とか何とか言っていたようです。ここで問題だったのが
罪悪深重の私であったと判るまで聞く。そう思えないのは聞法不足。聞法不足だから判らない。
などと話していた点です。おそらく会員の頭では、
「罪悪深重の私であったと判」ったのが機の深信。機の深信が立たなければ法の深信も立たず救われない
という理解でしょうから、これをまともに聞けば、「罪悪深重の私であったと判」るためにますます高森会長の話を聞き、因果の道理を聞き、廃悪修善という名の「組織拡大活動」に身を沈める方向へと向かってしまうことでしょう。そんな活動をいくらやったところで二種深信とは無関係な徒事とは知らずに。それが高森会長らの目的なのですが、それにしても何十年と聴聞している講師部員や幹部会員も多くある中で
聞法不足だから判らない。
とは何とも無慈悲な話です。救われないのは「聞法不足」と会員のせいにし、何十年と聞いて活動しても救われないような教えを説いておいて「平生業成」とか「不体失往生」などとはどの口が言っているのでしょうか。
親鸞会教義が染み付いている会員には理解不可能でしょうが、本願に救われるには
「念仏にまさるべき善なき」「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき」
という念仏一つ、またそのような念仏一つで助けるという本願に疑い無い
「信心を要とす」
です。「聞法不足」などというのは救われない条件ではありません。法然聖人は
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。(『選択本願念仏集』難易義)
と仰り、多く聞法した者を助けるという本願ならば、聞法の少ない者は往生の望みを絶たねばならず、しかも多聞の者は少なく少聞の者は甚だ多いと教えられています。親鸞聖人は
修行の久近を論ぜず(「信文類」大信嘆徳(四不十四非))
と仰って、修行期間の長い短い、親鸞会で言えば聞法歴活動歴の長い短いが問われるのではないと教えられています。日本の、それこそ何十年と聞いている会員の皆さんが「聞法不足」なら、昨日今日聞き始めた人はどうなってしまうのでしょうか。今まさに臨終という人が聞いたところで「聞法不足」です。到底救われっこありません。ところがなぜか学徒になって2年目の、通訳を通して聞いているブラジルの会員さんなどは救われたことになっています。このことは会員の間では、親鸞会七不思議(笑)の一つに数えられているでしょう。
会員の皆さんは、高森教については「聞法不足」ではありませんが、浄土真宗の教えについては「聞法不足」です。今すぐに高森教を捨て離れ、「南無阿弥陀仏」(必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい)という如来の勅命をそのまま聞き受けて念仏して下さい。彼の仏願に順ずるが故に、仏の本願によるが故に、本願が成就してはたらいて下さっている故に、本願の仰せを疑い無く、そのまま聞き受けて念仏すれば必ず往生を得させて頂けます。往生の安心についてはこれだけです。
さて、大悲の願船に乗るとガラリと変わるという根拠に先日も
与韋提等獲三忍
を用いていましたが、これは詳しくはこちらの記事をご覧頂くとします。当ブログでは、今回高森会長が
0段の煩悩具足の凡夫が51段の身となる
と宣ったことについて触れます。これは本願成就文の
即得往生 住不退転
の説明から出てきたことですが、正定聚の位に入ったことを正定聚の位に入ったことが実感として知らされると勘違いした高森会長の珍説です。正確には伊藤康善師からのパクリなのですが、親鸞聖人は「さとりの52位」に配当して正定聚の位を「51段の身となる」などとは説明されていません。即得往生について聖人は
「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。 (一念多念証文)
と解釈され、正定聚の左訓に「往生すべき身と定まるなり」と施しておられます。信心獲得のその時に必ず次生往生してさとりを開く身と定まるということで、「51段の身となる」わけではないのです。「51段の身となる」なら、51段の位に達したと判らないはずはありませんから当然自覚はあるでしょうが、それなら七高僧方がどなたも現生正定聚を仰らず、死後に正定聚に入るとしか教えられていないのはどうしてでしょうか。
親鸞会理論でいくと、死後に「51段の身となる」と教えられたのが七高僧方ということになります。現生で「51段の身とな」った自覚の無い七高僧方は異安心になりますが、親鸞聖人はそうは仰っていません。つまり現生で正定聚の位に入るが、それは正定聚の位に入ったことが実感として知らされるとか、「51段の身となる」ということではないということです。あくまで往生すべき身と定まったのを正定聚の位につき定まると言われているのです。このように述べますと、反論として
『正信偈』に「成等覚証大涅槃」とあり、「等覚」=「51段」ではないのか!
とか何とか言われそうですが、親鸞聖人はそうは解釈されていません。このお言葉は『大無量寿経』の異訳である『無量壽如來會』の11願
もし我、成仏せんに、国中有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せざれば、菩提を取らじ。
から出ていると思われますが、先ほど申し上げたように七高僧方は「等正覚を成」ることは死後だと仰せられています。親鸞聖人はこれを現生のことだとされましたが、「等正覚を成」ると言っても51段の位をさとるわけではありません。『尊号真像銘文』正信偈の文には
「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位とひとしとなり。
と、「等覚」=「正定聚の位」の意味で教えられています。「弥勒の位とひとし」と言われるのも、次の生で仏に成る弥勒菩薩と同様に、念仏の衆生は必ず次の生で仏に成ることが確定しているからです。その点で「ひとし」なのであって、弥勒菩薩と等しいさとりを開くのでも、智慧や徳が具わるのでもありません。第一、51段の位を現生でさとるのなら、煩悩が少しも変わらないというのは有り得ない話です。
高森会長の説は、『歎異抄』で言えば第十五条の
煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと
という邪義に近いものがあります。さすがにこの世での成仏は否定していますが、高森会長の説明からは51段の位をさとるかのような印象しか受けません。一段違えば人間と虫けらほど違うと言い、信心獲得した人は51段の高みにいるように教えます。高森会長や講師部員、また熱心な高森教徒の傲慢な態度はここが由来かと思われます。遥か高みから虫けらを見るように一般世間や各真宗宗派、また退会者を見下し蔑んでいるのは、「高森先生は51段の位に達した御方」という痛い勘違いから来ているのでしょう。
対して、阿弥陀仏はごそごそと蠢く虫の類にも「必ず往生させる」と深い慈悲を注いでおられます。言動を近くで見ている方は、「高森先生は51段の位に達した御方」なのかどうかはよくお判りでしょう。また、見ていなくても、飛雲さんからの公開法論の申し込みに6年間も応じないこと一つ取ってもその真偽は明らかです。
会員の皆さんは、阿弥陀仏の御心とはおよそ縁の無い高森顕徹会長、また親鸞会に見切りをつけ、早く浄土真宗に帰依して、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。
【参照】
『WikiArc』正定聚
にあるように、日曜日はまたまたいつもの演題
大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか
で高森顕徹会長の話がありました。現在は『歎異抄をひらく』の映画への移行期であることが誰の目にも明らかで、今回は第一条と第九条を出していました。今後は、親鸞会は映画『歎異抄をひらく』が公開になればそれ一色になり、『なぜ生きる2』同様に映画『なぜ生きる』もほとんど見向きもされなくなるでしょう。
第一条については、大悲の願船に乗せられるとは阿弥陀仏の本願(お約束)によって絶対の幸福の身になることであり、阿弥陀仏はどのような者を絶対の幸福に助けるかということから
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。
とつなげています。ただ話したのは主に下線部のみで、「死ぬまで罪悪深重で煩悩しかない者、この私を(絶対の幸福の身に)助ける」とか何とか言っていたようです。ここで問題だったのが
罪悪深重の私であったと判るまで聞く。そう思えないのは聞法不足。聞法不足だから判らない。
などと話していた点です。おそらく会員の頭では、
「罪悪深重の私であったと判」ったのが機の深信。機の深信が立たなければ法の深信も立たず救われない
という理解でしょうから、これをまともに聞けば、「罪悪深重の私であったと判」るためにますます高森会長の話を聞き、因果の道理を聞き、廃悪修善という名の「組織拡大活動」に身を沈める方向へと向かってしまうことでしょう。そんな活動をいくらやったところで二種深信とは無関係な徒事とは知らずに。それが高森会長らの目的なのですが、それにしても何十年と聴聞している講師部員や幹部会員も多くある中で
聞法不足だから判らない。
とは何とも無慈悲な話です。救われないのは「聞法不足」と会員のせいにし、何十年と聞いて活動しても救われないような教えを説いておいて「平生業成」とか「不体失往生」などとはどの口が言っているのでしょうか。
親鸞会教義が染み付いている会員には理解不可能でしょうが、本願に救われるには
「念仏にまさるべき善なき」「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき」
という念仏一つ、またそのような念仏一つで助けるという本願に疑い無い
「信心を要とす」
です。「聞法不足」などというのは救われない条件ではありません。法然聖人は
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。(『選択本願念仏集』難易義)
と仰り、多く聞法した者を助けるという本願ならば、聞法の少ない者は往生の望みを絶たねばならず、しかも多聞の者は少なく少聞の者は甚だ多いと教えられています。親鸞聖人は
修行の久近を論ぜず(「信文類」大信嘆徳(四不十四非))
と仰って、修行期間の長い短い、親鸞会で言えば聞法歴活動歴の長い短いが問われるのではないと教えられています。日本の、それこそ何十年と聞いている会員の皆さんが「聞法不足」なら、昨日今日聞き始めた人はどうなってしまうのでしょうか。今まさに臨終という人が聞いたところで「聞法不足」です。到底救われっこありません。ところがなぜか学徒になって2年目の、通訳を通して聞いているブラジルの会員さんなどは救われたことになっています。このことは会員の間では、親鸞会七不思議(笑)の一つに数えられているでしょう。
会員の皆さんは、高森教については「聞法不足」ではありませんが、浄土真宗の教えについては「聞法不足」です。今すぐに高森教を捨て離れ、「南無阿弥陀仏」(必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい)という如来の勅命をそのまま聞き受けて念仏して下さい。彼の仏願に順ずるが故に、仏の本願によるが故に、本願が成就してはたらいて下さっている故に、本願の仰せを疑い無く、そのまま聞き受けて念仏すれば必ず往生を得させて頂けます。往生の安心についてはこれだけです。
さて、大悲の願船に乗るとガラリと変わるという根拠に先日も
与韋提等獲三忍
を用いていましたが、これは詳しくはこちらの記事をご覧頂くとします。当ブログでは、今回高森会長が
0段の煩悩具足の凡夫が51段の身となる
と宣ったことについて触れます。これは本願成就文の
即得往生 住不退転
の説明から出てきたことですが、正定聚の位に入ったことを正定聚の位に入ったことが実感として知らされると勘違いした高森会長の珍説です。正確には伊藤康善師からのパクリなのですが、親鸞聖人は「さとりの52位」に配当して正定聚の位を「51段の身となる」などとは説明されていません。即得往生について聖人は
「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。 (一念多念証文)
と解釈され、正定聚の左訓に「往生すべき身と定まるなり」と施しておられます。信心獲得のその時に必ず次生往生してさとりを開く身と定まるということで、「51段の身となる」わけではないのです。「51段の身となる」なら、51段の位に達したと判らないはずはありませんから当然自覚はあるでしょうが、それなら七高僧方がどなたも現生正定聚を仰らず、死後に正定聚に入るとしか教えられていないのはどうしてでしょうか。
親鸞会理論でいくと、死後に「51段の身となる」と教えられたのが七高僧方ということになります。現生で「51段の身とな」った自覚の無い七高僧方は異安心になりますが、親鸞聖人はそうは仰っていません。つまり現生で正定聚の位に入るが、それは正定聚の位に入ったことが実感として知らされるとか、「51段の身となる」ということではないということです。あくまで往生すべき身と定まったのを正定聚の位につき定まると言われているのです。このように述べますと、反論として
『正信偈』に「成等覚証大涅槃」とあり、「等覚」=「51段」ではないのか!
とか何とか言われそうですが、親鸞聖人はそうは解釈されていません。このお言葉は『大無量寿経』の異訳である『無量壽如來會』の11願
もし我、成仏せんに、国中有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せざれば、菩提を取らじ。
から出ていると思われますが、先ほど申し上げたように七高僧方は「等正覚を成」ることは死後だと仰せられています。親鸞聖人はこれを現生のことだとされましたが、「等正覚を成」ると言っても51段の位をさとるわけではありません。『尊号真像銘文』正信偈の文には
「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位とひとしとなり。
と、「等覚」=「正定聚の位」の意味で教えられています。「弥勒の位とひとし」と言われるのも、次の生で仏に成る弥勒菩薩と同様に、念仏の衆生は必ず次の生で仏に成ることが確定しているからです。その点で「ひとし」なのであって、弥勒菩薩と等しいさとりを開くのでも、智慧や徳が具わるのでもありません。第一、51段の位を現生でさとるのなら、煩悩が少しも変わらないというのは有り得ない話です。
高森会長の説は、『歎異抄』で言えば第十五条の
煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと
という邪義に近いものがあります。さすがにこの世での成仏は否定していますが、高森会長の説明からは51段の位をさとるかのような印象しか受けません。一段違えば人間と虫けらほど違うと言い、信心獲得した人は51段の高みにいるように教えます。高森会長や講師部員、また熱心な高森教徒の傲慢な態度はここが由来かと思われます。遥か高みから虫けらを見るように一般世間や各真宗宗派、また退会者を見下し蔑んでいるのは、「高森先生は51段の位に達した御方」という痛い勘違いから来ているのでしょう。
対して、阿弥陀仏はごそごそと蠢く虫の類にも「必ず往生させる」と深い慈悲を注いでおられます。言動を近くで見ている方は、「高森先生は51段の位に達した御方」なのかどうかはよくお判りでしょう。また、見ていなくても、飛雲さんからの公開法論の申し込みに6年間も応じないこと一つ取ってもその真偽は明らかです。
会員の皆さんは、阿弥陀仏の御心とはおよそ縁の無い高森顕徹会長、また親鸞会に見切りをつけ、早く浄土真宗に帰依して、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。
【参照】
『WikiArc』正定聚
スポンサーサイト