FC2ブログ

阿弥陀さまの救いを求めてお念仏してる方が後生地獄なわけないじゃん

昨日、R1000さんからコメントを頂いたので、それに改めて答えてみたいと思います。

確かにR1000さんの仰るように、親鸞会辞めた後も「俺の後生は地獄なんだ」と苦しまれている方は多いと思います。退会した方は、それぞれ事情があって退会したことと思いますが、あさ川進さんとか一部の人を除き、ほとんどの未信の退会者に依然として残る問題が

俺の後生はどうなるのか。俺の人生このままでいいのか。

ということでしょう。退会しても、死ななくなったわけでもないし、後生の問題が解決できたわけでもない。特に、親鸞会一本でやってきた人なんか、今後の人生をどうしたらよいのか迷うでしょう。親鸞会の活動や無理難題から解放されて、その点はよいのですが、老病死の問題、後生の問題はどうしたって付き纏うわけです。

それで、奇特な方なんか一度辞めた後でもう一度親鸞会に舞い戻ってしまうこともあります。親鸞会では

真実の杭は一度刺さったら抜けない

等とこのことを言っていますが、必堕無間の呪縛の何が「真実の杭」だと恐ろしく思います。


ここからは、主に未信の退会者の皆さんに向けて書きます。R1000さんも仰っていますが、

阿弥陀さまの救いを求めてお念仏してる方が後生地獄なわけないじゃん」。

勿論あれですよ。「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を求めて、浄土を願わない人は別です。

しかし、「浄土に往生したい」、「迷いの世界を離れて二度と迷わない身になりたい」と18願の救い、阿弥陀さまの救いを求めて念仏するなら、その方が本願をふたごころなく深く信じて称えているなら報土往生、本願に疑いが雑じって浅く信じて称えているようなら化土往生すると教えられているのが親鸞聖人です。

 尋ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。
 この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。
末灯鈔12通

最後の一文には馴染みのある方もあるでしょうが、親鸞聖人は本願に疑いが雑じっていても「名号をとなふ」者は「辺地に生るべし」と仰っています。「自力念仏の者は必堕無間」と言っている親鸞会とは全然違います。


念仏は自力心で称えていようが「多善根・多功徳・多福徳因縁」です。それは「化身土文類」三経融会問答

『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。

とある通りです。これは『阿弥陀経』の顕説についてですので、第20願について言われているところです。

念仏自体は「多善根・多功徳・多福徳因縁」ですが、それを称える者に本願を疑い無く信じる「利他の一心」が欠け、「自利の一心」で称えているために「難思議往生」ではなく「難思往生」、化土往生するというのです。

親鸞聖人は上のお手紙でもそうですが、特に『正像末和讃』誡疑讃には仏智疑惑の自力心、化土往生を厳しく誡め、専ら報土往生を勧められています。ただ、「自力念仏の者は必堕無間」という思想はありません。

なぜそんな思想になるかというと、念仏を諸善より功徳の少ないもの、あるいは無功徳のものと見ているからです。念仏が「多善根・多功徳・多福徳因縁」なら諸善は「少善根・少功徳・少福徳因縁」でしょうが、高森顕徹会長や親鸞会は念仏を諸善より下、あるいは「無善根・無功徳・無福徳因縁」のものだと見ているのでしょう。だからこそ、そのような「念仏誹謗」の考え、主張が発生してくるのです。


化土往生の思想は、高森顕徹会長が今まさに映画を作ろうとしている『歎異抄』に色濃いですが、それは

『親鸞会教義の誤り』一切衆生は必堕無間なのか11(化土往生について)

等をご覧になられたらよいと思います。退会者の皆さんは、「念仏誹謗」の親鸞会とさよならできたのですから、まずはそれを喜ぶと共にいたずらに後生は地獄だと暗く沈まないで下さい。

それでも、自力心の者はあるいは往生できると思い、あるいは往生できないと思う、そうした不定の心が離れないものですから、心からの安心はできないと思います。そのような方は、この際その安心できない心を放っておかずに、お聴聞し、お念仏を申して、如来回向の行信を受けて下さい。称えるという「私の行為」に目を向けず、称えられる「なんまんだぶつ」におまかせするならば、すぐに18願です。

聴聞することも、「助けるぞ」という如来の呼び声を聞くこと。念仏することも、「まかせよ」という大悲招喚の勅命を聞くことです。「助けるぞ」を聞くのが即ち信です。往生の行信を念仏にこめて回向して下さるのですから、こちらとしては計らい無く如来回向の御名を受け容れて「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏申すのみです。どうか、そのように本願を信じ念仏を申して、今度の一大事の往生をよくよく遂げて頂きたいと思います。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

Abcです

おはようございます、Abcです。
前コメントでは熱くなりすぎました。申し訳ございません。

>「阿弥陀さまの救いを求めてお念仏してる方が後生地獄なわけないじゃん」。
(R1000さん)

私もこの意見に同意いたします。『和讃』(浄土和讃)には、

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

とございます。「さまざまな世界の『なんまんだぶ』する衆生」をみられて
 摂め取られることを、「阿弥陀さま」と名づけ奉る  というものであります。

この『和讃』の次にある『和讃』

恒沙塵数の如来は 万行の少善きらひつつ
 名号不思議の信心を ひとしくひとへにすすめしむ

とあります、こちらは林遊さんが「称えることは諸仏がすすめられたことでありました」といわれた箇所であります。林遊さん、ありがとうございます。

無数にまします如来は 様々な少ない善行を嫌いつつ
 名号不思議の信心(「名号」をつのりとすること)を 等しく偏えに(「偏えに」 は、「専らに」と同意語です。)勧められた  というものであります。

ですから、淳心房さんがいわれている
>念仏は自力心で称えていようが「多善根・多功徳・多福徳因縁」です。
(淳心房さん)

であります。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Abc様

> 前コメントでは熱くなりすぎました。申し訳ございません。

いえいえ。さすがの林遊さんでも、WikiArcで扱っていない、高田派由来の書物については知らないこともあるかと思います。「御書」で調べたら日蓮の書いたものがヒットしてしまい、所在が不明でしたので、そういうものに関しては今後、誰の書いた何という書物なのか出拠を明確にした方がよいと思います。


さて、コメントありがとうございます。誰が称えようが、称えられる「南無阿弥陀仏」自体は自力も他力も無く、また功徳が多くなったり少なくなったりすることはありませんね。凡夫が称えようと、仏の位に属する性質を失わないという素晴らしい大行が称名念仏なのでした。

その南無阿弥陀仏を称える人の心、信心が自力か他力かということが大問題なわけで、弥陀をつのりとしない自力の行者は報土往生の大益、大利を失い、化土にとどまるわけです。報土往生できないから必堕無間とは、親鸞会の思想は幼稚そのものです。

決して生死を離れられない、極端に言えば地獄行きの者を仏に成すというのですから、まさに念仏は多善根・多功徳・多福徳因縁です。それを称えるという行為に目を向けず、「我にまかせよ、必ず助けるぞ」という呼び声として称え聞き、ひとえに往生を弥陀にまかせて頂きたいものです。なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

No title

速い。。。( ゚Д゚)

大変、勉強になりました。
お聖教を開くいいご縁にもなりましたし、今日から行巻を読み始めました。
難しい!(憤怒)と、放り出した過去があるのですが「本当、すごい。淳心房さん、早く言ってよ~」と引き込まれ始めていますw

ほんと、有難うございました。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>「御書」で調べたら日蓮の書いたものがヒットしてしまい、所在が不明でしたので、そういうものに関しては今後、誰の書いた何という書物なのか出拠を明確にした方がよいと思います。

わかりました。「御書」を使う際は、著者をしるします。

>称えられる「南無阿弥陀仏」自体は自力も他力も無く、また功徳が多くなったり少なくなったりすることはありませんね。

称えられる「南無阿弥陀仏」自体は「阿弥陀さまにおまかせします」ですので、「他力」を文字にされたものであります。そのため「名号」には、「自力」では無いことは明らかであります。

 「されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。」(蓮如上人 御文 3帖4通 『大聖世尊の章』)

と記されている通りであります。

>その南無阿弥陀仏を称える人の心、信心が自力か他力かということが大問題なわけで、弥陀をつのりとしない自力の行者は報土往生の大益、大利を失い、化土にとどまるわけです。報土往生できないから必堕無間とは、親鸞会の思想は幼稚そのものです。

さようでございます。問題となるのは「称える人の心」が問題なのです。

>自力の行者は報土往生の大益、大利を失い、化土にとどまるわけです

これを覚如上人は、
 「いはんやもとより自力の称名は、臨終の所期おもひのごとくならん定、辺地の往生なり。いかにいはんや過去の業縁のがれがたきによりて、これらの障難にあはん機、涯分の所存も達せんことかたきがなかにかたし。そのうへは、また懈慢・辺地の往生だにもかなふべからず。これみな本願にそむくがゆゑなり。」
(覚如上人 口伝抄 信のうへの称名の事)

と言われています。

また『歎異抄』には、
 「わがこころに往生の業をはげみて申すところの念仏をも自行になすなり。 このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢・疑城胎宮にも往生して、果遂の願(第二十願)のゆゑに、つひに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなはち、誓願不思議のゆゑなれば、ただひとつなるべし。」(伝・唯円房『歎異抄』第11)

とあり、彼らはこのことから「三願転入」などと言い出すのですが、「真宗」は
「念仏成仏・専修念仏・偏帰安養勧一切(『正信偈』より)」なのですから
「阿弥陀さまにおまかせして、自力を捨てていただく宗教」ともいえましょう。

なもあみだ なもあみだ
Abc

阿弥陀様の目的

ども、林遊@なんまんだぶです。

深川倫雄和上は、よく今が目的、と仰ってました。
すでに、阿弥陀さまの目的の中に居るから、判らないことも苦にならず、必堕無間などという脅しにも無縁なのでした。
https://goo.gl/38EshV

また、

 浮き沈む われを幾代か 待ちませし
  心ながきは 阿弥陀 釈迦牟尼 (与謝野 礼巌)
https://goo.gl/SrNuaE

という句を引いて、私を大切にするのではない、曠劫以来わたくしを大切にして下さってきた阿弥陀さまを大切にするように、ともお示しでしたです。
ありがたいことです。

なお、Abcさんの示された『御書』は当該のコメントでも、デジタルコレクションへのリンクを張っておきましたが再掲。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/820634/106

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


コメント返信

R1000様

こちらこそ、お聖教を拝読してお念仏する機会に恵まれたことに感謝します。

行文類は、阿弥陀仏が与えて下さる名号が、私達の口から称えられるお念仏という形でこの濁世に実際に活動しはたらいていることが経、論、釈の上で明らかにされています。これを言葉にすることが難しいのですが、何とも有難い。読んでは考えて、煮詰まって、なんまんだぶして、また読んでは考えてとやっていると、広大な御恩徳が偲ばれます。なんまんだぶ、なんまんだぶ。



Abc様

挙げて頂いた御文だけ読んでも、南無阿弥陀仏の教え、念仏の教えが浄土真宗であるのに、それが分からず、絶対の幸福なるものに幻惑されて善もどきの善に狂奔している方々は実にお気の毒です。

化土往生、六道輪廻は親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人みな一貫して教えられています。それをことごとく否定して「一切衆生必堕無間」と唱える輩は、言葉は浄土真宗の語を使っていても信心は浄土真宗とは似ても似つかぬ外道の信心です。早く外道の親玉のような人物から離れられるようにと綴ってゆきたいと思います。


林遊@なんまんだぶ様

> すでに、阿弥陀さまの目的の中に居るから、判らないことも苦にならず、必堕無間などという脅しにも無縁なのでした。
> 私を大切にするのではない、曠劫以来わたくしを大切にして下さってきた阿弥陀さまを大切にするように

有難いお言葉です。これは、私中心の価値観から、阿弥陀さま中心の価値観への転換ですね。こう思いとれたなら安心なのですが、依然そのようには受け取れない方々も多いと伺えます。中々分かって頂くのは難しい方には難しい・・・もはや余計なことは言わずに、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏称えることを勧めた方がよいかも分かりません。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード