自力諸善(雑行)を勧めていながら「他力の念仏になりなさい」と話す高森顕徹会長

『飛雲』高森顕徹会長の総括?がこの程度の噴飯話

に挙がっていますが、5月12日、13日は親鸞会の降誕会がありました。

今回は『歎異抄をひらく』の10周年記念と絡んで『歎異抄』の言葉を用いて話がありましたが、ところがと言うか、やはりと言うか、親鸞聖人の教えは聞くことができず、結果的には「絶対の幸福」という創価学会の信心を話して終了した模様です。


1日目は60余年説いてきた「絶対の幸福」が『歎異抄』第7章の「無碍の一道」だと話し、

・碍=煩悩
・無碍=煩悩があってもさわりにならなくなる
・一道=幸福


だとか言って、総括すると

「絶対の幸福」=「煩悩があってもさわりにならない幸福」

といった説明でした。しかし、後の方では

「絶対の幸福」=「死んだらどうなるかがハッキリする」

だと言い、『正信偈』の「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して

・煩悩熾盛、罪悪深重のまま「絶対の幸福」になること
・「闇」は、人生の目的の分からない心、生きる目的の分からない心、死んだらどうなるか分からない心


という説明をし、結局太陽(日光)の話は有ったのか無かったのか、頂いた情報からは分からず終いでした。


2日目は、「念仏者は」について涙の例え話をして念仏する心を説明し、

・お礼の心で称えるのが他力の念仏
・他力の念仏になりなさい


とか話していたようです。この2日間の内容をまとめて言えば、

・煩悩があってもさわりにならない幸福になれますよ

と往還二種の回向を現世利益に貶めた話を説き、

・死んだらどうなるかハッキリしますよ

と親鸞聖人が教えられてもいない我々の上での後生ハッキリ話を説き、

・他力の念仏になりなさい

というものの、どうしたら他力の念仏になるのかよく分からない話をしていた、というものです。

飛雲さんの仰る通り、『歎異抄』を出したのだから念仏と信心について『歎異抄』の言葉で説明せよと言いたいですが、浄土真宗に無知な高森顕徹会長には無理な話なのでした。


さて、「無碍の一道」を「絶対の幸福」だとする邪義は『飛雲』をご覧頂くとして、当ブログでは別の面をツッコんでみたいと思います。まずは『正信偈』の「」についてです。これは直前に「無明闇」とあるように「無明の闇」です。ただし、「無明の闇」とは高森会長が説くような

人生の目的の分からない心、生きる目的の分からない心、死んだらどうなるか分からない心

とか言った心ではありません。また迷いの根元である痴無明でもありません。これは疑無明、つまり

本願疑惑、仏智疑惑、自力疑心

のことです。だから阿弥陀仏の本願が分からなくては話になりません。本願のことを

絶対の幸福にしてみせるという御約束
後生ハッキリしてみせるという御約束

だなんかと信じ込んで聞いていても、それとは全く異なるのですから、その本願に対する疑いが晴れないのは当たり前のことです。会員の皆さんの「無明の闇」が晴れない理由の一つはここにあります。

では親鸞聖人が教えられる阿弥陀仏の本願とは何かと言えば、いつも出しますが

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

ということで、名号を称える者を極楽へ迎えようという誓いです。名号には我々の「無明の闇」を破り、往生の志願を満たして下さるはたらきがある。そうしたはたらきのある名号を、我々に聞かせ与えて下さる誓いであるとそのまま受け容れて称えよということをここでは仰っているのです。これを『歎異抄』第一条では

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

と説かれ、『歎異抄』第二条では

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

と教えられています。「ただ念仏する者を往生させるぞ」という本願を信じて称える、そのまま本願におまかせして称える、その称えようと思うまさにその時に摂取不捨の利益にあずかり、往生が定まるのだというのです。ここで行である「ただ念仏」とはいつも申し上げている通り「念仏一行」ということです。そして信心は

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり

という信心、また

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

という信心で、要は本願におまかせしたこと、如来回向の「念仏一行」で往生すると心が定まったことです。

ところが高森顕徹会長は、「念仏一行」どころか、(教義上では)助業を勧め、また自力諸善という雑行を勧めています。自力諸善(雑行)を勧めていながら

他力の念仏になりなさい

と話すとは、一体どの口が言っているのでしょうか。「念仏一行」はおろか、念仏よりも

「高森会長の話を聞くこと」
「親鸞会に献金すること」
「親鸞会に人を誘うこと」
「会長や上司の指示に無条件で従うこと」


などの「高森の行」を強烈に推し勧めて、聞く者が「ただ念仏」と心が定まるわけがないのです。これでは、聞く者の本願疑惑、仏智疑惑、自力疑心が晴れるどころか、反って深まるだけです。会員の皆さんの「無明の闇」が晴れない理由の二つ目は、こうした

・本願疑惑、仏智疑惑、自力疑心を増長させる闇の教えを受けているから
・「念仏一行」とはおよそかけ離れた行の実践を勧められているから


ということにあります。

また今回も、高森会長は

煩悩があるままで、煩悩がさわりとならない幸福になれる

という説明を「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して繰り返していましたが、ここで親鸞聖人は、煩悩は往生のさわりとはならない、往生のさまたげとはならない、煩悩によって一度定まった往生が取り消しとはならないことを言われています。煩悩が幸福のさわりとはならない、幸福のさまたげとはならない、煩悩によって幸福が壊されないことを言われたのではありません。『尊号真像銘文』には、

「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇」といふは、日月の、雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

とありまして、貪愛・瞋憎の雲や霧に信心は覆われていても、往生のさまたげにはならないと知りなさいと教えられています。我々が煩悩のために煩い悩み苦しむことは信前も信後も変わらないのです。それを、

救われたら煩悩があってもさわりとならない、さまたげにならない、煩悩によって壊されない幸福になれる

と現世利益を夢見て、そんな幸福を獲させる本願だと誤解して追い求めていても救われるわけがありません。会員の皆さんの「無明の闇」が晴れない理由の三つ目は、「絶対の幸福」という現世利益に幻惑されて往生を願っていないからです。願っているとしても、「絶対の幸福」のおまけのように思っているからです。


こんな高森会長の与太話を真剣に聞き続けても、獲られたとして「創価学会の信心」です。教えが間違っているのですから、親鸞聖人の教えられる「真実の教行信証」が分かるはずもなければ、大悲回向の行信を獲て如来広大の恩徳を知ることができるはずもありません。今回も信心獲得はかなわなかったという会員さんは、これを機会に自分の聞いている教えが正しい浄土真宗なのか検証するご縁にして頂きたいと思います。



【参照】
『聖典セミナー』「歎異抄」第一条
『聖典セミナー』「歎異抄」第二条
称名破満の釈義
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

No title

久しぶりに聞きに来ないかと講演会に誘われましたが、行きたくないと拒否しました。
このエントリーを読んで、行かなくて良かったと、心から思いました。
誘ってくれた○○さん、あなたは40年以上会員をされているとのことですが、いまだに信心決定できないのは、親鸞聖人の教えと違う内容を聞き続けているからですよ。
今度あったら直に言ってみます。

Re: 橋本様

行かなくて正解でしたね。近年は特に真実味が無く、邪義だらけです。


聞く耳は持たないかも知れませんが、言ってみて下さい。もし親鸞聖人の教えとどう違うか聞かれたら、

飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?
https://sinrankaix.exblog.jp/

等を紹介して差し上げたらよろしいかと思います。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>「絶対の幸福」=「煩悩があってもさわりにならない幸福」
>といった説明でした。しかし、後の方では
>「絶対の幸福」=「死んだらどうなるかがハッキリする」

今回もこのような調子でしたか、私を含め色々な方が
「ハッキリするような教え」ではないと記されていますのに
これは「高森教」確定ですね。

さて、議題は『歎異抄』でございますのでその中からセレクトしましょう。

※訳はWikiArcさんを参照されてください。
第5条
ただ自力すてていそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いづれの業苦にしづめりとも、神通方便をもつて、まづ有縁を度すべきなり

第7条 (無碍の一道の条)
諸善もおよぶことなきゆゑなり

第8条
ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なり

第9条
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。


この第9条に「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬ (乃至)天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり」と煩悩の所為にて「ハッキリしない」と記されています。 このことから、最初に高森さんがあげられた

「絶対の幸福」=「煩悩があってもさわりにならない幸福」=「死んだらどうなるかがハッキリする」
というものは、
「絶対の幸福」=「煩悩があってもさわりにならない幸福」≠「死んだらどうなるかがハッキリする」
であることが解るかと思います。

今回は『歎異抄』内での話しでしたので多少文が乱雑になっているかと思いますがなにとぞご容赦ください。

Abc

Re: Abc様

Abcさんや淳心房を浄土に迎えて仏に成すというのは阿弥陀さまの方ではハッキリしておられるが、我々は煩悩に遮られて目の当たり見たてまつることができない。つまり我々の側では阿弥陀仏も浄土もハッキリしない、後生はハッキリしないのです。浄土の様子が目の当たり分からなくては後生ハッキリとは言えませんからね。しかし大悲はものうきことなくて常に我々を照らし摂めたまうので、要は親様の方でハッキリしておれば我々はただ親様におまかせする以外ないし、それでもはや安心なわけです。なもあみだ、なもあみだ。

挙げて頂いた歎異抄の言葉が「我々の側で後生ハッキリしない根拠になるか」は分かりませんが、とにかく念仏よりも高森の行に執心していては自力他力以前、真宗以前の話です。後生ハッキリも何もありません。また親鸞聖人や唯円房の嘆き、またそこからの歓喜、本願のたのもしさは到底分からないでしょう。

淳心房さんの返信を受けて

こんばんわ、Abcです。

>挙げて頂いた歎異抄の言葉が「我々の側で後生ハッキリしない根拠になるか」は分かりませんが、とにかく念仏よりも高森の行に執心していては自力他力以前、真宗以前の話です。

私の側でも正直「我々の側で後生ハッキリしない根拠になる」という確証になるかどうかは、わかりませんが この「真宗」は「本願力回向」でありますから、「衆生の側からはハッキリしなくても、親様(阿弥陀さま)にてハッキリしている」ならばそれ以上私たちは論ずるべきではないのかと思います。

これを記している時に「お手紙の文言」が浮かびましたので、併せて記しておきます。

『末灯鈔 自然法爾の事』
 「「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。(乃至)

義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたま ひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。(乃至)

この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。

この文言より「自然」というのは「親様(阿弥陀さま)の御計らい」であり、
私たち衆生の計らい」を交えることは「疑情」に他ならないから「私たち衆生の計らい」は交えてはならない と私は味わいました。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Abc様

> この「真宗」は「本願力回向」でありますから、「衆生の側からはハッキリしなくても、親様(阿弥陀さま)にてハッキリしている」ならばそれ以上私たちは論ずるべきではないのかと思います。

間違いないですね。

念仏成仏の「真宗」に対して高森の行にて絶対の幸福とやらを掴もうとしている、「本願力回向」に対して自力回向、自力修行の真似事の真似事をしているのが会員の偽らざるすがたです。ベクトルも間違っていればなすべき行いも目的も間違っている、これで親鸞聖人と同じ信心になろうというのですからメチャクチャです。

往生には念仏一行となり、その上で信心が自力か他力かが問題になるのですが、19願の門前に押し留められた会員には理解不能かも知れません。早く高森の教行信証を離れて真実の教行信証に帰して頂きたいものです。

戦後の真宗

高森顕徹氏は、戦後の思想混乱期に跋扈した日蓮思想を浄土真宗に取りれて「必堕無間」というタームを利用して民衆の信心を煽ろうとしてのでした。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T2690_.84.0251b23.html

御開山の説かれた正意安心とは異なるのであって、かっては高森氏も、『会報』に、

 一体、どこに十九願相応の修行している道俗が真宗に見あたるか。どこに二十願相応の念仏行をやっているものがいようか。
 真宗の道俗はさもいと易く「あれはまだ十九願だ」「あれは二十願の人だ」といっているが願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相当した行がともなわない人達ばかりだから本当の十九願の行者、二十願の行者は真宗の道俗にはないといってもよいのだ。

と、云っているのだが、この「行」の理解を決定的に間違っているのであった(笑
たぶん、七祖聖教、とくに、法然聖人の『選択本願念仏集』を読んでいないから、近代の自覚としての「信」と御開山が示して下さった「信」を同じだと妄想したのであろう。

ともあれ、御開山は念仏弾圧の嵐の中にいる門徒に、お手紙で『法事讃』の

 五濁増時多疑謗
 道俗相嫌不用聞
 見有修行起瞋毒
 方便破壊競生怨
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%A6%AA%E9%B8%9E%E8%81%96%E4%BA%BA%E5%BE%A1%E6%B6%88%E6%81%AF_(%E4%B8%8B)#P--787

ということを示して下さったのだが、信心という妄想に狂う高森会の幹部や会員には意味がわからないだろう。あなた達が莫迦にし愚弄してきた口に〔なんまんだぶ〕と称えて聞く愚昧な門徒こそが阿弥陀仏の正客なのでした。

五濁増時多疑謗
道俗相嫌不用聞
見有修行起瞋毒
方便破壊競生怨

と、高森会の信心に固執することが、すなわち、

 かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教(本願の教え)を毀滅して永く沈淪す。
 大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず。

の、疑謗正法なのですが、まっ果遂の願があるから、もう一回りしてくるこっちゃ(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re: 林遊@なんまんだぶ様

高森顕徹会長には浄土真宗とか、親鸞聖人の本当の教え等というのは建前だけ、表面上言っているだけであって、「打倒本願寺」などの私利私欲を満たすこと以外頭にありません。挙げて頂いた

> 五濁増時多疑謗
> 道俗相嫌不用聞
> 見有修行起瞋毒
> 方便破壊競生怨

の御文を和讃にしたとされる

「如来の遺教を疑謗し
 方便破壊せんものは
 弓削の守屋と思うべし
 親しみ近づくことなかれ」

というお言葉に関しても、

仏教の方便を破壊するものへの激しい怒りが記されている。
「如来の遺教を疑謗し、方便破壊せんもの」とは、釈迦一代の教えを疑謗し、仏教を破壊する者のことである。
「弓削の守屋と思うべし、親しみ近づくことなかれ」とは、それらの者は聖徳太子を疑謗破滅した仏敵、物部守屋と思って間違いない、決して近づいてはならない、との教誨である。
釈迦一代の教えを疑謗することが、なぜ仏教の方便を破壊することになるのだろうか。

などと頓珍漢な解釈をして権仮方便である19願を勧めることを正当化しています。

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2012/11/01/040953

高森の邪義を真に受けて執心し様々な情報に触れていながらもこれを改めない人は、残念ながらもう1周してくるしかないのかな・・・

「名号度生」

ども、林遊@なんまんだぶです。

高森親鸞会では「名体不二」とか「名号度生」ということを知らないのですかね。

「名体不二」
https://goo.gl/idKQyt

「名号度生」
https://goo.gl/1M1zSB

南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)は、「教」であり「法」であり「行」なのです。
ですから「行巻」では乗船譬喩が説かれ、この教法を行じることを「誓願一仏乗」と示されるのでした。
そして、この行法を「念仏成仏」と、受け容れることを「信」というので、もの凄く判り易いのですが、信心に惑うてぐちゃぐちゃやると訳が判らなくのでしょうね。

稲城選恵和上は、行と信を水と波に譬えて、水(名号)があるから波(信)が立つのであり、水のない波はありえない。水があるから波が起こるのであって水(行)のない単独の波(信)というものはあり得ないのであると、信巻には出体釈がないことを示して下さっていました。
「他力の信の特色」
https://goo.gl/mKTjv7

この行じられている行(なんまんだぶ)が、如実であるか否かを論じているのが行から信を開いた「信巻」でしたです。
「曇鸞讃」で、

(52)
決定の信をえざるゆゑ
 信心不淳とのべたまふ
 如実修行相応は
 信心ひとつにさだめたり

と、「如実修行相応」と示しておられるとおりでした。
御開山は、第二十願の「不果遂者」を、

 すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。

と、第二十願は第十八願に入らしめる願であったと讃嘆しておられますが、昔の布教使は、阿弥陀様の御信心が判らんかったら分からんでもいい、必ず果たし遂げる第二十願があるから、とにかく念仏しろと言っていたものでした。これをまた「果遂の願があるからもう一回りして来い」とも言っていたものです。

と、いうわけで「三生果遂」を論じていた、源信僧都の師である慈恵大師良源の『極楽浄土九品往生義』からの抜き書きをリンクしておきます。これはこれでありがたいことです。

https://goo.gl/jZqccs

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


Re: 林遊@なんまんだぶ様

「名体不二」は学生部会でそれっぽいことを言われた時もありますが、「名号度生」などとは絶対に説かないです。

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。

の言葉は学生部会などではよく聞いた覚えがあります。K講師長なんかよく話していましたね。ただこのような聖典の言葉を用いる時と、高森会長の言葉を用いる時とがあって、それをごっちゃにして説いてくるので何も分からない素人は「これこそ浄土真宗」などと信じてしまうのでした。

とにかく真実の教行信証に方便と邪偽を混ぜ込んでくるので、会員は騙されて体よく利用されてしまうのです。全て嘘なら騙される人も少ないでしょうが、そこが会のいやらしいところです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード