その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

一 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。『御一代記聞書』(88)

【現代語訳】
ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。

このお言葉は一見、信前の人に対して言われているように思われますが、信後の人にも言われているのではないかと私は思います。特にこの淳心房に対して言われているお言葉だと思わざるを得ません。


恥ずかしい話ですが、私の日々の生活は仕事、子育て、家事にほとんどの時間、体力、気力を使い、仏法に充てる時間、体力、気力はほとんどないという状態です。愛憎の煩悩にまみれた生活の只中にいると、とにかく目の前のこと、生きることに精一杯で、有難いという気持ちも、御恩を思い報いようという気持ちもどこへやら・・・。

貪愛の心は常に善心を汚し、瞋憎の心は常に法財を焼いてしまいます。御恩を思いそれに報いようどころか、余裕がない時なんかは子供達にさえきつく当たってしまうこともしばしばです(*_*; すまぬ・・・。

聴聞にも行けない。お同行と会うこともできない。そんな毎日ですが、そういう私がどうすれば如来広大の恩徳を有難く頂戴しつつ、至徳に報謝する人生を生きられるのか。私のような者には無理なのではなかろうか。

この私の問いに、蓮如上人はお答え下さっているのではと思うのです。そうだ、有難く思う気持ち、御恩を思う気持ちが籠から水が出ていくように無くなってしまうのであれば、籠を水につければいいんだ。

聴聞するといっても、聞くべきは南無阿弥陀仏しかないじゃないか。とすれば、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏申すことがすなわち聴聞じゃないか。御恩報謝じゃないか。

このように気づいてからは、私はなるべくお念仏を申すようにしています。通勤中自転車をこいでいる時、車の中も、風呂の中も、何かの待ち時間も、思い出してはお念仏しています。

すると、たちまち煩悩いっぱいの私の空間が大悲招喚の勅命を聞き受ける聞法道場となり、有難い気持ち、仏様の御恩を思う気持ちも起こり、本願を多くの人に聞いてもらいたいという気持ちも起こってまいります。勿論、そのような時ばかりではなく、逆境の最中なんかは念仏していても実に味気ないですがね・・・(^-^;

天親菩薩は浄土往生の行を五念門で教えられていますが、これは念仏におさまるんだなということをいよいよ知らせて頂きます。お念仏申すところに阿弥陀仏を礼拝したくなる気持ちが起きます。お念仏申すことがそのまま阿弥陀仏を讃嘆しています。浄土に参ってさとりを完成したいという気持ち、阿弥陀仏や浄土を思う気持ち、人にも本願を聞いてもらいたいという気持ちも、お念仏申すところに起きてきます。念仏が「自利利他双行」とはよく言ったものです。これみな本願力のご回向によるものと有難く頂戴し、もっぱらこの行に仕え、ただこの信を崇めるよりないとよくよく知らされます。


やはり、念仏も称えないのに有難い気持ちが起きないのは当たり前すぎるほど当たり前なのでした。今までを反省すると共に、改めてお念仏申す人生を生きたいと思います。

こうしてブログで記事を書くことも、真宗の言葉に触れ、お聴聞しお念仏する有難いご縁です。

日々、反省。懺悔。そしてお念仏。お念仏が中心の生活を。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『安心問答』「その籠を水につけよ」と蓮如上人がいわれた意味は?(頂いた質問)
『立徳寺』籠を水につけよ
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その籠を水につけよ

ども林遊@なんまんだぶです。

その籠を水につけよ、の語に触発されてブログを記しました。
で、そこから梯實圓和上の言葉を転載しておきます。


 年を取ると、物忘れがひどくなってきます。仏法を聞いてもすぐに忘れてしまって、聞いているときはなるほどと納得していたのに、後で思い出そうとしても思い出せないというようなわびしい状態になってきます。
そんな悩みを蓮如上人に訴えた人がいました。「私の心は、まるで籠に水を入れるように、いくらおみのりを聞かせていただいても、すぐに忘れてしまって法悦までも消えて、聞かぬ前の状態になってしまうのが情けのうございます」と悲しむ門徒に、上人は「その籠を水につけよ、我が身をば法にひてておくべし」といわれたということです。
仏法についての知識を蓄えようとばかり努めるのは、学習ではあっても、まことの聞法ではありません。肝心のことを聞き落としているからです。私が老耄して、たとえ如来さまを忘れてしまうようなことがあったとしても、私を決して忘れてくださらぬ阿弥陀如来さまのましますことを聞いていないからです。
如来の救いを記憶しようとすることは、如来を自分の心の中に取り込もうとしているのであって、目の粗い籠に水をためようとしているようなものです。まことの聞法は、その籠を水につけておくように、自分が如来の大悲に包まれていることを聞いて喜び、如来の大悲にわが身を任せることなのです。忘れることを悲しむよりも、また聞くことを楽しむのです。今年も楽しく法縁に遇わせていただきましょう。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2018/06/10/%e3%81%9d%e3%81%ae%e7%b1%a0%e3%82%92%e6%b0%b4%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%91%e3%82%88/


Re: 林遊@なんまんだぶ様

> 私を決して忘れてくださらぬ阿弥陀如来さまのまします
> まことの聞法は、その籠を水につけておくように、自分が如来の大悲に包まれていることを聞いて喜び、如来の大悲にわが身を任せることなのです。

有難いお言葉です。あまり聞法の機縁に恵まれない私ですが、聴聞するときも、お念仏するときも、このことを心掛けたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「念仏を称えていても、踊躍歓喜の心が無い」という唯円のお言葉は、念仏を称えていなければ踊躍歓喜の心が無いのは当たり前、と受け留めることができます。10日ほど前に参加した座談会で、念仏についてお同行と語り合いましたが日頃の自分を反省して、籠を水につけるようにと、時間を決めて念仏するようにしました。

念仏を称えていると
念仏に出遇えていなかったら一体どれほどの空しさを抱えて今を生きていただろうと、南無阿弥陀仏の有り難さが身に染みます。

同じく念仏申すお同行がいることも大変有難く思っています。

Re: 愚愚流様

> 「念仏を称えていても、踊躍歓喜の心が無い」という唯円のお言葉は、念仏を称えていなければ踊躍歓喜の心が無いのは当たり前、と受け留めることができます。

以前愚愚流さんから頂いた本に書いてありましたね。私もこれに賛成です。
真宗宗歌にも「六字のみなをとなえつつ 世のなりわいにいそしまん」とあります。お念仏申す大切さが知らされます。


> 念仏に出遇えていなかったら一体どれほどの空しさを抱えて今を生きていただろうと、南無阿弥陀仏の有り難さが身に染みます。
> 同じく念仏申すお同行がいることも大変有難く思っています。

今もそうですし、その後の人生、また人生が終わってからも、空しく過ぎるところでした。如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳、有名無名の私達に法を伝持相承して下された方々の御恩、今縁のあるお同行方の御恩、全ておかげさまであります。愚愚流さんがこのようにコメントを下さったのも有難いご縁です。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

Abcです (現世利益について)

こんばんわ、Abcです。

>蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになった

この後に、淳心房さんもいわれている
>聴聞するといっても、聞くべきは南無阿弥陀仏しかないじゃないか。とすれば、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏申すことがすなわち聴聞じゃないか。御恩報謝じゃないか。

となるわけですね、ありがたいことです。

さて、私は少し「現世利益」について記したいと思います。

「現世利益」というのは、「現世 + 利益」と言うことですから「今生きているここで利益を得る」事を指します。 ただ、「現世利益」というカテゴリの中には、「自力の現世利益」と「他力の現世利益」がございます。

箇条書きにしますと以下のようになります。
現世利益 (※)
 →自力の現世利益 (1)
 →他力の現世利益 (2)

(※):「現世利益」とは「今生きているここで利益を得る」事を指します。

(1):「自力の現世利益」と言うのは古くはバラモン教より始まり、高座部仏教、天台宗、律宗、真言密教、法華宗、仏心宗(禅宗)と時代と場所によって様々なとかれ方をしております。「聖道仏教」とも呼ばれ「六波羅蜜(六度万行)」を規範とされております。(真言密教の中に「護摩行」という修行がございますが、「この修行を糧に求道とするのだ」という観点から浄土教からは「自力無効」や「さらに叶ふべからず」ともいわれます。)

(2):「他力の現世利益」というのは、「大乗仏教(マハ・ヤーナ)」と呼ばれ、古くは「ナマス・アミダーユス・ブッダ」と「ナマス・アミダーバ・ブッダ」が信仰されていたとされます。意味としまして「限りなきいのちに礼し奉る」、「限りなき智慧に礼し奉る」と言う意味でございます。
 この「ナマス(~に帰依する)」の音写が「南無」であり、「帰依する」の意味より「帰命」となり、
 「アミダーバ」「アミダーユス」の「アミダー」の音写が「阿弥陀」であります。なお「限りなきいのち」といたしまして「無量寿」(13願)が、「限りなき智慧」といたしまして「智慧光」(12願)がございます。

源空や親鸞がいわれているように「今は末法であり、五濁の衆生はただ弥陀にまかせてのみ、仏と成らせていただけるのだ」といわれています。
これは自らの行い(上述しました「修行」)にて仏となるわけではありませんから「本願力回向」、阿弥陀仏の自然によりて信心をいただく「自然法爾」といわれます。(「本願力回向」「自然法爾」のほかに「安心決定」「執持名号」「平生業成」などがあります)

以下に示します『和讃』、

本師龍樹菩薩の
 をしへをつたへきかんひと
 本願こころにかけしめて
 つねに弥陀を称すべし

不退のくらゐすみやかに
 えんとおもはんひとはみな
 恭敬の心に執持して
 弥陀の名号称すべし

の2首を示しましたが、「本願こころにかけしめて = 恭敬の心に執持して」は「本願(念仏、名号)をつのりとして」という意味であり、「つねに弥陀を称すべし = 弥陀の名号称すべし」は弥陀名号(南無阿弥陀仏 帰命無碍光如来)を称えなさいという意味であり、「念仏しなさい」とも読み解くことが出来ます。
 この2文をつなげますと、「本願(念仏、名号)をつのりとして、念仏しなさい」ということになります。親鸞が「世の中のすべてがうそ・いつわりであっても、「念仏」だけは真であった」と著書を通して言われています。

 時代は下りて、蓮如上人は、「仏のかたより往生は治定せしめ給ふ」とも言われております。「自力無効」に関しましては覚如上人『口伝抄』4や5に詳しく記されております。

 むすび
 今回も長々と記させていただきましたが、今回言いたかったこと(私がコメントを通して常にいいたいこと)は、「本願(念仏、名号)をつのりとして、念仏しなさい」ということです。蓮如上人の言葉を借りますと「なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」(『御文』5帖目 22通 より)です。

なもあみだ なもあみだ
Abc

称我名字と願じつつ

いつも有り難うございます。高僧和讃を思いだしました。 「縦令一生造悪の 衆生引接のためにて 称我名字と願じつつ 若不生者とちかいたり」どうか我が名を称えてくれよと願われているのですね。称名念仏ですね。

コメント返信

Abc様

ありがとうございます。親鸞聖人や蓮如上人は現生正定聚を現益、滅度を当益とされています。その現当二益を得るには仰る通り

> 「本願(念仏、名号)をつのりとして、念仏しなさい」
> 「なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」

以外ありません。この穢土にてはや利益の一部分を味わわせて頂けたことは何よりの喜びでございますね。なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・


チュウビ様

ありがとうございます。勿論、不断聴聞し、法友と語らい、お念仏を申して常に仏様中心の生活をさせて頂くに越したことはありません。しかし煩悩の只中におり、仏法と縁の少ない私にも阿弥陀さまは格別のお慈悲をかけて「淳心房を迎え取るぞ」と仰せであり、お念仏申すことこそ御恩報謝ぞと教えられておりましたことを、この度書かせて頂きました。

更にお返事

有り難うございます。私にとってはこちらで淳心房さんのブログを読むこと、林遊さん、Abcさんのコメントを読むことが、籠を水につけよの御声ですね。有り難いですね。ちなみに、親鸞会の講師には、あんなネットをみてまうけにして、楽な道に流されているだけだ!楽に逃げてはいけない!と言われたものです(笑)この講師は厳しくないと求道した気がしないのでしょうね(笑)

Re:チュウビさん

こんばんわ、Abcです。

チュウビさんのコメントはご無沙汰でしたので、うれしさのあまり文をしたためております。

「読者にわかりやすく」と心がけているがゆえに文章が幼稚になってはいると思いますがその点はご了承ください。

また、ご不明な点などがございましたら仰ってください。

今後ともよろしくお願いします。
Abc

Re: チュウビ様

> 楽な道に流されているだけだ!楽に逃げてはいけない!と言われたものです(笑)

そんならその講師部員は難行道へ行かれたらどうですかね。

難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。(『正信偈』龍樹讃)

と楽しき易行の水道である念仏を指し示されたのが親鸞聖人なんですが・・・高森教徒には理解不能でしょう。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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