【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(3)

浄土真宗で「」とは本願のはたらきです。第17願から、諸仏によって南無阿弥陀仏の名号が説かれ、それを私達が聞いて信受し、与えられるままに称える。念仏は私が称えてはいますが私の行とは言いません。それは「名号を聞かせる」という本願のはたらきにより称えさせられている、如来の行です。如来が称えさせる如来の念仏だから、私達の口より出ずるお念仏はただの「」ではなく「大行」と言われるのです。

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

親鸞聖人はただ「無碍光如来の名なり」とは仰らずに「無碍光如来の名を称するなり」、称名が「大行」だと仰っています。そうした称名の位で「大行」を語られていることに注意を払わねばならないと思います。

単に「無碍光如来の名」ではなく、これを「称する」ことをもって「大行」とせられたのには理由があるはずです。私はその理由の一つを、「名号が実際にはたらいていることを示すため」だと見ています。本願の名号やそのはたらき、また名号を領受した信心というのは色も形もないので愚鈍な私達には分かりません。名号が実際に生きてはたらいているかどうかは、我々の称名に現れて初めて形を取り、認識にのぼるものになります。本願の救いは絵に描いた餅ではないし、名号は衆生の周りを空転するものでもない。実際に私達を摂取して仏にするんだぞ。実際に我々の心に飛び込んできて信心となり、称名となるんだぞ。こういうことを示すために、名号の位ではなく、称名の位で「大行」を説き示されたのではないかと思うのです。

やはり、本願のはたらき、他力回向の行といっても、それが実際にはたらいて、回向せられて、我々の三業の上に現れてこないとね。そうでなければ本願の救いは絵空事であり、桃源郷のようになってしまいます。単に「お前を仏にするぞ」という本願が成就しただけではなく、それが現実にお前の身の上にはたらいて実際に仏に成るんだぞ、その証拠は今お前の口から出ている南無阿弥陀仏だ、とこういうことを私達に伝えたかったのではなかろうか。

またAbcさんも仰っていましたが、『教行証文類』は叡山の学僧に向けて書かれた面もあります。行のない仏教などありませんから、称名が諸善に超え勝れた浄土真実の行業であることを示すためであるのは勿論です。


「行文類」では大行釈の後、『大経』やその異訳経、また『悲華経』の御文を並べて、この通りどのお経を開いても諸仏が阿弥陀仏の名号を褒め讃えていなさるぞと明らかにされています。お経の御文では讃えられる名号の位で語られていますが、やがて論釈の文になってくると、今度は衆生の称名として教えられています。

諸仏が讃えられる名号を我々が聞き受けて信心となり、やがてそれが我々の称名となってくる。我々の行ではない、善ではないと言っても、やはりお念仏として三業に現れてこないと「行」になりません。名号はただ讃えられるのみではなく、衆生の中に入ってきて信心となり、称名とならなければなりません。

衆生が名号のいわれを信受したのが信心で、これが報土の因。ならその上の称名念仏は何かというと、信心を報土の正因とした上は称名は報恩と言わざるを得ない。これで一貫して教えられたのが蓮如上人ですね。

称名が報恩であるのは、私達が南無阿弥陀仏を聞いて感動し、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏することが周りにも伝わって本願を弘めてゆくことになるからです。本願を聞かせたい、弘めたい、全ての衆生を平等に救い摂り、さとりの領域に導きたいというのが阿弥陀仏の願いだからです。私達にはこの度迷いの世を離れ、さとらせて頂く身となった感謝、謝念の気持ちもありますから、「御恩報謝=お礼」は間違いとキッパリ片付けることには私は反対です。ただ、「私の称える私の行い」と捉えられやすいのも事実なので、「御恩報謝=お礼」はあまり適切な表現ではない位が穏当ではないかと思います。


ここでちょっと脇道に逸れますが言わせて下さい。以下は私の個人的意見ですので参考程度に。

こうした信心正因称名報恩説。これに勿論異論を唱えることも、これを説くことを否定するつもりもありません。ただ私は時代背景とかが現代とはちょっと合わないんじゃないかと思う。往生を願ってもいない、念仏一行ともなっていない人にいきなり信心正因称名報恩を説いても理解不能なんじゃないかと考えます。

蓮如上人時代は「一向宗」と言われたように、専修念仏が当たり前、念仏一行を称えて往生を願うというのが、現代と比べて民衆の間で相当盛んだったんじゃないか。その専修念仏、念仏一行を称える信心を蓮如上人は詳しく説き開かれたのではないかと思うんです。それに対して現代は、当然地域によって違うでしょうが、自分の周りなんかは念仏の声は無きに等しいです。価値観が多用して、無宗教が当たり前の時代です。そんな中で往生、浄土を願う人なんているのかと思ってしまいます。それぞれが色んな考えを持っていて、それが許される時代。話を聞きに来る人にも、様々な考え、利害、打算があることでしょう。

そういう人を相手に、いきなり信心といっても観念的なものと捉えられやすいのではないか。または親鸞会の「絶対の幸福」のように、幻想的な幸福を思い浮かべる人が多いのではないか。そして、称名を無用排斥して、とにかく信心を獲たい、信心を獲たいと信心乞食になる人が多くなるのではないかと思うのです。私は今一度、念仏一行を称えて往生せよと教えられた法然聖人に立ち返り、往生を願い、念仏一行となった上で親鸞聖人、蓮如上人の教えを受けねばならないのではないかと考えます。

まず往生、浄土を願わない人が信仰の道に入れるか。また、行は間違っているが信心は正しい、そんなことがあり得るか。往生、浄土ではなく、この世の幸福、安心、満足を目的にしているようでは、「浄土に迎える」という本願の仰せは頂けないでしょう。次に、信心の対象は行です。行は、如来が選択回向せられる南無阿弥陀仏以外にありません。お念仏一つになって浄土を願っている人でも、自力回向の考え、信心では如来のおこころにかなっていません。まして如来選択回向のお念仏の他、例えば助業や雑行、そんなものにもこころをかけ、それで何とかお浄土参りさせてもらおうなんて人が真実信心であるわけがないのです。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

速やかに迷いの世界を離れようと思ったらこうせよ、と法然聖人は仰せです。こんな判り易い教えがあるでしょうか。ここからですよ、往生極楽の道は。私が救われる道はお念仏の他に無いとお念仏一本になった上で、そのお念仏する心、信心が問題になるのです。今自分が称えているお念仏が他力にまかせて「仏の本願」にかなった念仏なのか、それとも計らいを雑えて「仏の本願」にかなっていない自力の念仏なのか。

「信心を頂いて浄土に参ろう」という方が真宗には多いようですが、その信心は念仏の信心ですよ。念仏をどう信ずるかです。念仏以外の余行を雑じえておって、心をかけておって、信心が獲られるわけがないんだ。まず迷いの世界を離れようという気で、次にそれには如来回向のお念仏以外にないと念仏一行になった上で、その念仏の信を聞かせて頂かなければなりません。私はそう思います。

今称えている南無阿弥陀仏のこころは、「助けるぞ」という阿弥陀仏の勅命なんだ。その「助けるぞ」を聞くのがすなわち信心なんだぞ。何かものを貰うように信心というものを頂くんじゃないんだ。「助けるぞ」を聞くばかりなんだ。「助けるぞ」の勅命にそのままおまかせするばかりなんだ。信心といっても、この南無阿弥陀仏の六字のこころ以外には無いぞと、こう教えられた方が蓮如上人です。


どうも信心正因称名報恩だから、いくら念仏称えても救われるには無意味、信心さえあれば念仏は要らないと考え、ありもしない信心を追い求める人。また、聞いていればそのうち信心が頂けてお浄土参りできるだろうなどと考えて聞いている人が多いような気がしてなりません。これでは、「念仏を称えて参ろう」が「信心を頂いて参ろう」「聴聞して参ろう」に変化したのみです。

迷いを離れて仏に成り、如来広大の恩徳に報いる道は選択回向のお念仏以外にはないと念仏一行に帰した上で、この口より称えられる念仏は「助けるぞ」という阿弥陀仏の大悲招喚の勅命なんだと、南無阿弥陀仏の六字のこころを領受して頂きたいものです。
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真偽検証

ども林遊@なんまんだぶです。

梯和上は、『法然教学の研究』のはしがきで、

「江戸時代以来、鎮西派や西山派はもちろんのこと、真宗においても法然教学の研究は盛んになされてきたが宗派の壁にさえぎられて、法然の実像は、必ずしも明らかに理解されてこなかったようである。そして又、法然と親鸞の関係も必ずしも正確に把握されていなかった嫌いがある。その理由は覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したことと、『西方指南抄』や醍醐本『法然聖人伝記』『三部経大意』などをみずに法然教学を理解したために、両者の教学が大きくへだたってしまったのである。しかし虚心に法然を法然の立場で理解し、親鸞をその聖教をとおして理解するならば、親鸞は忠実な法然の継承者であり、まさに法然から出て法然に還った人であるとさえいえるのである。」

と云われてました。
御開山は晩年に関東から訪ねて来た門徒に対して、

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然聖人)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
https://goo.gl/2xUMHV

と、云われたと『歎異抄』の著者は記していますが、浄土真宗は念仏(なんまんだぶ)して阿弥陀仏の浄土へ往生するご法義でした。この、なんまんだぶをわたくしの

「ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候」
https://goo.gl/e29LZW

として「うけさだめて」受け容れられたのがご開山でした。
そもそも、現代人には「恩」という思想は理解しにくい概念になっています。
https://goo.gl/o4v1ox

そこで高森会のように、高森顕徹のありもしない恩を骨頂して会員のモチベーションを煽る教団が出てきたりするわけです(笑
その意味においてブログ名に「真偽検証」とあるように「仮」にすら及ばない、衆生の欲望の煩悩を煽る「偽」なる教団が高森会なのでした。本願力回向の浄土真宗のご法義からいえば、高森会は、浄土真宗の名を利用して、救われたいという煩悩を煽る邪義なのですが、これが判らんので困ったものです。
https://goo.gl/i1efUj

ともあれ、このご法義の先輩方は、いろんな補助線を引いて『教行証文類』の解釈の道を示されましたが、御開山は往生成仏の道として、

 謹按往相廻向 有大行有大信。
 大行者 則称無礙光如来名。
https://goo.gl/qGTsdu

と、大行は大信であり、大信は大行であると示さていますから、大行には阿弥陀仏の大信を含んでいるのでした。この大行・大信は一体として読むべきですね。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

淳心房 様
小生の通う大谷派のお寺では、定期的に座談会が開かれます。この間は、念仏がテーマとなりご住職、門徒、一般の人が思い思いに自分の日常を語り合いました。信心の話になると観念的になることもありますが念仏が問題になると必ず信心が問われます。

別の先生は、現代は念仏を称える人が少ないので、念仏が強調されるほうがいいのではというご意見を聞きました。やはり念仏を称えないと観念に陥る危険性があると思います。
人によっては、念仏を称えないのが大谷派の伝統である、と言う人もいますが、決してそうではないと思います。

昨年、出版された新井俊一さんの親鸞「西方指南抄」(現代語訳)を読みました。
法然聖人のご説法、お手紙などを親鸞聖人か編纂されたものですが、浄土宗の方が語録にまとめられたものと、親鸞聖人が編纂されたものとの違いがわかるようになっておりとても分かりやすい内容です。
法然聖人がどのようなご説法をされ、また親鸞聖人がどのように受け止めておられたのか、がよくわかります。
あらためて法然聖人はすごいお方だと思いました。念仏して救われてほしいとの阿弥陀様のお心、そのものでした。
この教えを親鸞聖人が聞かれて、救いに遇われたのかと思うと、本当に感慨深いです。

林遊@なんまんだぶ 様

→本願力回向の浄土真宗のご法義からいえば、高森会は、浄土真宗の名を利用して、救われたいという煩悩を煽る邪義なのですが、これが判らんので困ったものです。

→仰る通りだと思います。ひどい団体です。ただ会を通してでしか親鸞聖人の教えに出遇える人がいないのも確かで、なぜこんな嘘に騙される人、被害者がいるのか。分かっている人が声を大にしていかなければならないとも思います。

御恩報謝はお礼なのか

お世話様です。考えさせられる内容ですね。有難う御座います。お礼というと相手があり、利害打算が働いたうえでしてしまうような気がします。よく上の人に言われたのは、お礼状を書け。お礼としてお金を幾ら以上包む。お礼奉公をして当然。やる私も嫌だけど報復を恐れて利害打算でやりますよ。と煩悩で考えてまごころから出来ないですね。では利害打算の入る私に御恩報謝はどうなのかと言うと、阿弥陀様は念仏称えなさいと言われる。ただ念仏してだと思います。

Abcです

sub title : Abcが考える「念仏はお礼なのか」について

こんばんわ、Abcです。本願寺派と大谷派の見解が記されておりますので、
私は「高田派の見解」としまして記してゆきたいと思います。

高田派では「お念仏の中に生かされる生活」として日々念仏と共に日暮しをしております。私は「念仏」を「阿弥陀さまがいるぞ」と言うことを私と私の近くにいる方(正しく言いますと私の声の届くところにおられる方)に聞かせていただくこと と受け取っております。

 親鸞は、ねんごろに「われも信じ、ひとにも教え聞かしむるばかりなり」といわれております。「何を聞かせるのか」はもちろん「念仏」であります。

ここで『和讃』と「私なりの和讃の解説」を行いたいと思います。

南無阿弥陀仏を称うれば この世の利益きわもなし
 流転輪廻の罪きえて 定業中夭のぞこりぬ  (浄土和讃)

「南無阿弥陀仏」を称えたならば この世の利益には限りがない
 流転輪廻を行わなければならない罪は消えて 寿命半ばで果てなければならないということも除かれる。 (のぞこりぬ → 除かれる)


龍樹大士世にいでて 難行易行のみちおしえ
 流転輪廻のわれらをば 弘誓のふねにのせたまう (浄土高僧和讃)

龍樹大士がこの世にお生まれになられて 難行(聖道)と易行(浄土)のみち(門)を教えられ
 流転輪廻を繰り返す私たちは、阿弥陀さまのふね(易行道 誓願一乗)に乗せていただく(と勧められた)

弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜん人はみな
 寝てもさめても隔てなく 南無阿弥陀仏をとなうべし (正像末法和讃)

「摂取不捨の利益」とも言われる誓願を 深く信じる人はみな
 「行住座臥へだてなく」とも言われるように、「南無阿弥陀仏」と称えなさい

とあります。ここに「阿弥陀さまのふねに乗せていただく(と勧められた)」、「南無阿弥陀仏を称うべし」と記されております。
 この『和讃』は『三帖和讃』であり親鸞が記されたものでありますから、この和讃につきましては「真宗を修するもの」ならば、一度は読まれたことがあるかと思います。

>人によっては、念仏を称えないのが大谷派の伝統である、と言う人もいますが、決してそうではないと思います。(愚愚流さんのコメントより)

そのように味わられている方がおられるのでしたら、悲しい限りです。
親鸞が「帰命せよ」「称うべし」と勧められている事を『和讃』を通して味わっていただきたい限りであります。

なもあみだ なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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