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【ツッコミ】驚くべき「無碍の一道」(親鸞会発行『顕正新聞』平成30年6月1日号論説)

親鸞会発行『顕正新聞』平成30年6月1日号の論説では、

驚くべき「無碍の一道」

という見出しで、降誕会で高森顕徹会長が話した内容が書かれています。一読して分かる事は、

・「無碍の一道」の説明が間違っており、親鸞聖人の教えは書かれていない
・「絶対の幸福」をメインに、浄土往生を後付けしたような教えが書かれている
・浄土往生のたねである行(念仏)と信(信心)については一切書かれていない


などです。「無碍の一道」については、

「無碍」とは、「煩悩がなくなる」ことではなく、「煩悩がさわりにならない」ことである。「一道」は絶対の世界をいう。
「無碍の一道」とは、煩悩も罪悪も、何ものも壊すことのできぬ、永遠に続く幸福なのである。


と説明し、全く聖教に合わない独自の高森教を説いています。これに

・必ず浄土へ往ける大安心に生かされる
・往生一定の身になる


などと真宗らしい話を付け加えて、現当二益を説いているつもりのようです。そして傑作なのが、

どんな者を、どのように救うと弥陀は誓われているのか。その阿弥陀仏の本願を、疑心晴れるまで、真剣に聞かせていただこう。

で終わっていることです。論説では、浄土へ往くたねである行と信は一切書かれていません。それについては次の、話すかどうかも判らないデタラメ「二河白道の譬え」を聞けとでも言うのでしょうか。こんな教えを聞いていて本願に救われるとか、疑心が晴れるとか、そんなことが起きるわけがないでしょう。


さて、区切って親鸞会の邪義を明らかにしていきたいと思いますが、まず「無碍の一道」とは

念仏者は無碍の一道なり。『歎異抄第七条』

から来ています。『飛雲』高森顕徹会長の総括?がこの程度の噴飯話などをお読み頂ければお判りかと思いますが、これは本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

だったのではないかという学説があります。いずれにしても、「念仏」という「真実行」、あるいは「念仏者」という「真実行を修する者」について言われているお言葉であって、助正間雑、雑行、悪業悪行という「高森の行」、あるいは「高森の行者」について言われているお言葉でないことは明白です。

念仏一行どころか助業や雑行、更には悪業悪行を勧められ、念仏よりそれらの方が「より光に向かって進む」などと重視して修め、「絶対の幸福」という現世利益を追い求めている念仏軽視の団体の信者には、速やかに迷いを離れさとりの境地に至る「念仏成仏」の教えは理解不能でしょう。

仏教の目的は「成仏」です。この世でさとるか、来世浄土に往生してさとるかの違いはあれども、目指すところの「成仏」、これは聖道門、浄土門共通です。それを「念仏者は、どんな幸せになれるのか」とこの世の幸福、現世利益を大々的に打ち出しているのは、「ナンミョーホーレンゲーキョーと唱えたらこういうご利益がある」と教えているパクリ元のとある団体などと五十歩百歩です。

次に「無碍」ですが、これも本願のはたらきについてであって、我々の幸福について言われているお言葉ではありません。何ものもさわりにならない、私達の深い煩悩悪業さえ妨げにならない、私達を摂取して間違いなく浄土往生させ、仏果を得させるという本願力の不可思議を讃えてこれを「無碍」と仰っているのです。それを

天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなき

と言われているので、煩悩があるままで、さわりにならない幸福を言われたのではありません。またここでは罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなき念仏」の功徳について言われており、「高森の行」によるご利益を言われているのでもありません。

私達が迷っているのは、深い煩悩悪業があるからです。それは諸仏が見捨てるほどどうしようもないものです。そんな煩悩悪業さえ救いの障害とならない、問題としないので、そのお力を讃えて「帰命尽十方無碍光如来」と阿弥陀如来の御徳、念仏の功徳を称讃するのです。誰が、何について「煩悩がさわりにならない」のか。この点について高森顕徹会長は実に頓珍漢です。


では、どうしたら私達の煩悩悪業さえ救いの障害とならない、問題としない阿弥陀如来の救いに遇えるのか。何と高森会長はこんな大事な点について全く説いていません。次回説くのかどうかは知りませんが、親鸞会のデタラメ「二河白道の譬え」ではこれについて、阿弥陀仏の喚び声が聞こえるところまで、白道を煩悩と闘って進んでいけ、求道していけと教えます。そのために、「助正間雑、雑行、悪業悪行」という「高森の行」を修めて行けというのです。

一方、本当の「二河白道の譬え」では、旅人は此岸で、白道に一歩踏み出す手前で

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

という喚び声を聞きます。

「西の岸の上に人ありて喚ばふ」といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

ですから、このお言葉が18願意を表していることは言うまでもありません。その18願を白道に踏み出す前に聞くのですから、高森会長が言うように「阿弥陀仏の喚び声が聞こえるところまで、白道を煩悩と闘って進んで」ゆく必要はありません。まして求道と称して「高森の行」を修める必要など更々ないのです。

それどころか、親鸞聖人はこれを解釈されて

「一心」の言は、真実の信心なり。
「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。
『愚禿鈔』

と仰り、「方便仮門を捨てて、真実の信心で念仏せよ」と教えられています。「方便仮門」に会員を押しとどめ、念仏以外の行をやらせて直ちに18願を聞くのを妨げている高森会長とは真逆です。

その18願についても、「念仏する者を極楽へ迎えよう」ではなく

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

などと「創価学会の信心」を獲させるものとしてデタラメな本願を教えているのですから、いくら聞いたところで本願に対する疑心が無くならないのは当たり前の当たり前の話です。


念仏一行という真実の行と、「念仏する者を極楽へ迎えよう」という誓いを疑い無く聞き受けた真実の信によって私達は浄土往生します。その真実の行真実の信を、南無阿弥陀仏の名号にこめて我々に回施して下さるので、私達はただ南無阿弥陀仏の六字のこころ、「助けるぞ」の仰せを聞き受けお念仏申すのみです。

浄土往生のたねは、この真実の行信です。肝心な浄土往生のたねを一切説かず、聞く者を「念仏者」にする気がない者の話をいくら聞いていても、無碍の一道を往くことはできません。会員の皆さんは親鸞聖人のお言葉に順って速やかに邪義の法門を離れて真実の教行信証に帰依し、「念仏者」となって如来広大の恩徳を知らされて頂きたいと思います。
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Abcです (『正信念仏偈』について)

こんばんわ、Abcです。
先エントリーでは、返信ありがとうございます。私がふと思い出したのは
「本願寺なぜ答えぬ」のチラシなどに書かれていたものです。
(あの あいあい傘みたいなアレです。)

さて、
>それは諸仏が見捨てるほどどうしようもないものです。そんな煩悩悪業さえ救いの障害とならない、問題としないので、そのお力を讃えて「帰命尽十方無碍光如来」と阿弥陀如来の御徳、念仏の功徳を称讃するのです。(淳心房さんのコメント)

でありますが、おっしゃる通り諸仏はみな「私ではなんとも...」といわれ、
「阿弥陀さまにお任せしなさい」と勧められました。

これは、『正信念仏偈』の中、
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
に当たり、 (本願では17願)

その次にて
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
といわれ、 (本願では18願)

その次にある
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
は、「この願(18願)のために 法蔵菩薩(阿弥陀さま)は五劫のあいだ思惟せられた」とあります。(その次からは「その五劫のあいだ思惟されて お持ちになられたお力(光明)」が「超日月光」まで記されています。

以上のことが『正信念仏偈』の「法蔵菩薩が誓われた段」であります。

【今回のまとめ】 (パッと読みたい方はこちらだけでも問題ありません)
 親鸞は『正信念仏偈』の「法蔵菩薩が誓われた段」にて

覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 (17願)
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓 (18願)
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方 (18願を立てるために阿弥陀さまは五劫のあいだ思惟せられた)
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 (「照塵刹」まで記しましたが、「阿弥陀さまの光明」は「超日月光」までです。) (その五劫のあいだ思惟されて お持ちになられたお力(光明))

です。 「この解釈ではないのでは...?」と思われたらご指摘していただけると幸いです。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Abcです (『正信念仏偈』について 2)

連投申し訳ございません、Abcです。

番外編として前に誰かが「文章の最初と最後の一文を読んだら内容がわかる」見たいな事を言われていたので、『正信念仏偈』にて行ってみたいとおもいます。

最初: 帰命無量寿如来 南無不可思議光
最後: 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

最初(書下文) 無量寿仏に帰命し、不可思議光に南無す(一字 したてまつる)
最後(書下文) 道俗時衆共に同心にて(一字 なりて)、唯斯の高僧(の)説を信ず可し(一字 きものなり)

※「一文といいながら二文あるではないか」といわれる方に補足として付け加えておきますと「六十行已にをはりぬ、一百二十句なり」と最後に記されておりますから私はここで言われる「最初の行」と「最後の行」を記しました。

あくまで番外編です、ご容赦ください。

Abc

法然聖人における回心の構造

ども林遊@なんまんだぶです。

昔からそうなのですが、高森親鸞会では「行行相対」とか「唯信独達」という言葉だけを使って御開山と法然聖人を判ったつもりになっていましたです。
言葉は知っているのですが、その言葉の背景を学んでないからワケの判らない信心ごっこになるのでした。
ましてや「絶対の幸福」という餌に向かうことは、まさに煩悩を掻き立てる行為であってすでに仏道ではありませんでした。

ともあれ、浄土宗を開顕された法然聖人の回心を学ぶことは、真の救いとはいかなるものであるかの考察に資するかもです。
ちなみに、御開山は浄土真宗を開かれたのは法然聖人であるとされています。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

「法然聖人における回心の構造」
https://goo.gl/Lj2p4J


コメント返信

Abc様

『正信念仏偈』にはこのような非常に有難い内容が教えられているのですが、親鸞会では「宿善が厚くなる行」「信仰が進む行」との位置づけであり、意味については随分とデタラメなことを教えられています。最初の二行からして「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞー!」という叫びであり、「絶対の幸福」に救われたと言っていますね。

斯の高僧の説を学び、親鸞聖人の教えをきちんと知って、『正信偈』を読んで頂きたいものです。



林遊@なんまんだぶ様

法然聖人における回心の構造は大変有難く拝読させて頂きました。ありがとうございます。

> 昔からそうなのですが、高森親鸞会では「行行相対」とか「唯信独達」という言葉だけを使って御開山と法然聖人を判ったつもりになっていましたです。

間違いないですね。会員にも判るように言うと、

・法然聖人が念仏と諸善を行行相対して念仏一行を専修することを教えられた。
・その念仏一行を専修する行者を親鸞聖人は自力と他力に分けた。
・念仏一つで助かるとは、「念仏一つで助かる」と信ずる信心一つで助かるということ。
・それを「唯信独達」(唯信ずるのみで救われる)と言われている。

ということです。行行相対した上での唯信独達です。高森の行に狂っている人は行行相対すらできていません。まず念仏一行を専修するようになってからでないと、親鸞聖人の明らかにされた唯信独達の法門は理解しがたいかと思います。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

ご返信ありがとうございます。機会がございましたらまたちょくちょく『正信念仏偈』について記させていただきたく思います。

さて、
>どんな者を、どのように救うと弥陀は誓われているのか。その阿弥陀仏の本願を、疑心晴れるまで、真剣に聞かせていただこう。

でありますが、こちらも例にもよって「疑心晴れるまで、真剣に聞かせていただこう。(キリッ」です。ここで私なりに回答を行っておきたいと思います。

どんな者を、 :煩悩具足の我らごとき凡夫、

どのように救うと弥陀は誓われているか。 :
「わが名号を称えよ」と誓われている
※源空聖人は、「自力による念仏」、「他力による念仏」どうこうなしに「念仏をとなえよ」と言われています。
 それを踏まえた上で親鸞は「自力称名:20願 如来の本願を浅く信じて」と
「他力称名:18願 如来の本願を深く信じて」ということを顕著にされました。

 『正信念仏偈』より
「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」
正行を専らとするか雑行の傍らとして行う(執心)かで、「浅い」か「深い」かを判かち、 報土(真佛土)、化土(化身土)のニ土を正に弁立せしめ給う。

と記されている通りであります。(またしれっと『正信念仏偈』を入れてしまいました。申し訳ございません。)

その阿弥陀仏の本願を、疑心晴れるまで、真剣に聞かせていただこう。 :

「決以疑情為所止」(『正信念仏偈』より)とはありますが、私の側にて「疑心が晴れたぞ!!」とハッキリスッキリ体験があるのではありません。これは、会員が「おつとめ」として読まれている

超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは
 有漏の穢身は変わらねど こころは浄土を遊ぶなり

や、

『正信念仏偈』のなか、
「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」
 日光(他力回向)にわたし(たち)の煩悩からくる雲霧が覆ったとしても
 【雲霧(煩悩)の下】(煩悩の中にて)闇が無く明るきこと譬るが如し

であります。

今一度記しておきますと「私たちの側にてハッキリ・スッキリすること」は「ない」です。ですからはやく「ハッキリ・スッキリ体験をせよ!!」といわれている高森の下を離れていただきたく思います。

なもあみだ なもあみだ
Abc

他力の念仏

ども林遊@なんまんだぶです。

Abcさん。

>※源空聖人は、「自力による念仏」、「他力による念仏」どうこうなしに「念仏をとなえよ」と言われています。

法然聖人は、「念仏往生要義抄」で、

問ていはく、称名念仏申す人はみな往生すべしや。

答ていはく、他力の念仏は往生すべし、自力の念仏は、またく往生すべからず。
https://goo.gl/A8JkHd

と、念仏に他力と自力を分けておられますね。
ただ、鎮西浄土宗の派祖である弁長上人は、

 問ふ。有る人の云く。數遍はこれ自力なり、自力は難行道なり。難行道は陸路の步行なり。その身を苦しむといえども、往生においては全く以て遂ぐべからざるなり。一念はこれ他力なり、他力はこれ易行道なり。易行道は乘船水路なり。その身を安樂にして往生において速にこれを得と、この義いかん。

 答ふ。この事、極たる僻ごとなり。その故は、他力とは全く他力を馮み、一分も自力無しと云ふ事、道理しからず。
自力の善根無しといえども 他力に依て往生を得ると云はば、一切の凡夫の輩、今に穢土に留まらず、みな悉く淨土に往生すべし。また一念の他力、數遍の自力とは何なる人師の釋なるや。
善導の釈の中に自力の他力の義あれども、自力他力の釈無し。一念は他力数編は自力の釈こころ得がたし。

また善導の釈の中に、水陸のたとえをもって難易二道と云えること、その釈いまだ見えず。
ただ曇鸞・道綽の二師、水陸をもって難易二道にたとふ。

また自力他力の釈をなすといえども、それまた一念をもって易行道となし、数偏をもって難行道となすという釈まったく作さざりしなり。

と、自力VS他力という思想には批判的ではありました。
「参照:法然聖人の他力思想」
https://goo.gl/yNy4y2

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Re:林遊さん

こんばんわ、Abcです。

>法然聖人は、「念仏往生要義抄」で、

>問ていはく、称名念仏申す人はみな往生すべしや。
>答ていはく、他力の念仏は往生すべし、自力の念仏は、またく往生すべからず。
https://goo.gl/A8JkHd

>と、念仏に他力と自力を分けておられますね。

ご指摘ありがとうございます。上の文面では仰るとおり、「自力の念仏は、またく往生すべからず」であります。

私が論拠といたしましたものは
法然聖人『十二箇条問答』
 「浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。」

法然聖人『念仏往生義』
 「念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、こころざしの験なるべし。 「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒に暮れなん事、後悔先に立つべからず。」

などであり、「自力の念仏をもせぬものは、嘆くことも無い」と言われています。

 ただ、私がこのように色々な書物を引っ張ってきてはおりますが、
どどのつまりとしては、林遊さんの言われている「自力の念仏は、またく往生すべからず」であります。

これのほかの根拠といたしましては、
法然聖人『選択本願念仏集』
 「また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。」
と 「定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。」と言うことは共通認識だと思いますし、法然聖人の常の仰せでもあります。

この度はご指摘ありがとうございます。

なもあみだ なもあみだ
Abc
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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