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親鸞会批判者は楽を勧めていると、「選択易行の至極」、「易行の水道、楽しきこと」である念仏一行を教えられた親鸞聖人を誹謗している親鸞会

チュウビさんのコメントを読んで、そういえば近藤智史元講師も似たようなことを親鸞会から言われていたことを思い出しました。

あいつは楽を勧めている

かつて近藤元講師はこう非難されたそうです。これは何も彼に限らず、私のような親鸞会批判者に対して漏れなく言われている言葉とみて間違いないと思います。


・(17願を含めた)18願一つ聞けばよい、我々に19願・20願は不要
・往生には念仏一つ、獲信の因縁(宿善)としての善の勧めは無い


親鸞会批判者はこのように、教えを基に親鸞会教義を根底からゆさぶります。親鸞会は縦と横の線で言えば縦の線(一念)に到達するまでに横の線の道を進めと言い、縦の線に至るまでの過程を求道と呼んでいます。そんな横の線に該当する教えなど真宗にはないと完全否定する批判者によって、教義に疑問を抱いた会員が離反するのをどうやって食い止めるか。彼らなりの説得の仕方が先に紹介した文言なのでしょう。

多くの会員は、創作「二河白道の譬え」を真に受けて

・煩悩と闘って白道(横の線の道)を進む
・白道を進めば進むほど水火の波が激しくなってくる


と思い込んでいると思います。苦しくなければ求道ではないという認識でいるのでしょう。しかし、高森会長の説く「二河白道の譬え」は本当の譬えとは全く異なるデタラメ創作教義です。本当の「二河白道の譬え」には、我々が信心獲得するまでにそういう道程を経る、あるいは経なければならないとするは教説はありません。

苦しくなければ求道ではないというのは、どちらかと言えば聖道門、難行道のことでしょう。高いさとりほど相応の修行を要しますから、上を目指せば目指すほど苦しくなっていくことと思います。

難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。『正信偈』龍樹章

それに対して浄土真宗は浄土門、易行道です。「難行の陸路」はとても我々末代不善の凡夫には歩めないと明らかにされ、「易行の水道」である「念仏一行」を真実行として勧められるのが真宗です。修しがたき難行道を捨てて修しやすき易行道に帰せよというのです。つまり、修しがたき諸善を捨てて修しやすき念仏一行に帰せよということです。苦しくなければ求道ではないと苦しみを求め求道をしたいなら、真宗ではなくて聖道門、難行道へ行けばよいでしょう。


浄土真宗は浄土門、易行道であり、その中でも横超他力の教えです。

横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。「化身土文類」横超釈

横超他力とは、阿弥陀仏の本願(18願)を信じて自力の心を離れることです。それは「すでに真実行のなかに顕しをはんぬ」と言われているように、「行文類」に説かれる如来回向の「念仏一行」によって往生すると疑い無く信じて称えることです。横超他力の教えは、同じ浄土門でも横出に分類される19願20願や、『観無量寿経』顕説である定散二善の教えではありません。

親鸞会教義は、横超他力の教えに横出の教えをドッキングしたような珍しい教えであり、一念で救われると言いながらその一念に到達するまでに果てしない時間を要する教えです。信心といってもそれは行を修する際の心のことですから、行が横出の教えである雑行では真実信心になど成り得ません。まして、雑行とも呼べない悪業悪行をやっていても真実信心とは無縁であります。そんな雑多な行いをしている者は、まずそれらを捨てて「念仏一行」になってから真実信心とか一念という語を語るべきでしょう。


ところで親鸞会では一念という語を多用していますが、信の一念を強調するせいですっかり行の一念が陰に隠れてしまっています。

おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。「行文類」行一念釈

行の一念とは、称名の数の最少単位である一声のところで、阿弥陀仏が選択された易行の称名に込められている究極の意義を顕そうとする教説だというのです。「易行の至極」とは、これ以上の易行はない、これ以上楽な方法はないということです。

親鸞聖人は『大無量寿経』流通分の弥勒付属の一念は行の一念であると解釈されています。名号を聞いて歓喜踊躍し、わずか一回念仏すれば大利を得るという。たった一声の念仏で往生が決まってしまうというのです。ここでは、このように浄土往生への最高に楽な方法を示されています。どうしてたった一声念仏しただけで往生が決まってしまうのか。

名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。『選択集』三選の文

阿弥陀仏の本願がそうであるからだと法然聖人はお示しです。本当のところはその本願を疑い無く信受した時(信の一念)に往生は決定するのだけれども、「行文類」では本願を信受した初一声の称名で往生が決定すると念仏の数にことよせて、行の一念、「選択易行の至極」を明らかにされています。聖道門、難行道の諸行の法に対して、浄土門、易行道、中でも横超他力である本願(18願)の法を初一声の称名について顕わされたのが行の一念です。

「行文類」ではその後、『大経』の

まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり。

について次のような解釈が施されています。

大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。

大利」とは「小利」に対する語であり、「無上」とは「有上」に対する語です。「大利無上」とは、本願一乗の法のもつ真実の利益であり、真実行である念仏一行の利益です。「小利有上」とは、真実に引き入れるためにしばらく説き与えられた、八万四千の自力聖道門の利益であり、諸善の利益です。

諸善という「八万四千の仮門」からは、「小利有上」の利益しか得られません。「大利無上」は念仏一行による利益です。「大利無上」を得るために諸善をせよという教えがある訳がないのは勿論です。

更に聖人は、「散善義」の「専心専念」を解釈されて

「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。

と教えられています。「一行」とは当然ながら「真実行」である念仏一行です。

専念」=「一行」=「二行なきこと

ですから、念仏一行の他に諸善という「八万四千の仮門」の行を修めていたら「一行」になりません。親鸞会の教えは、念仏「一行」の行者になるためにまず諸善をやれというようなものです。そんな「珍らしき法」に従っている者が「一行」の行者になれないなんてそんなのは当たり前の当たり前の話です。「一行」の行者になるには「一行」以外の行を捨てる他ありません。


親鸞聖人は、善知識方によって示された「往生には念仏一つ」という教えの要を明らかにされた方です。

末代の我々は諸善によっては助からない、阿弥陀仏が誓われた通り念仏一行を称えて救われなさい

これは間違いないんです。往生を願うなら諸善を捨てて念仏一行を称える。浄土真宗ならば当然のことです。信前だろうと信後だろうと、念仏一行を勧めるのは同じです。信後は念仏一行だが、信前は諸善をやれなんてそんなふざけた教えであるはずがないんですよ。諸善を修めている限りはいつまでも「二行なきこと」にはなれません。真宗の人ならば、往生には念仏一行。これは信前の人も信後の人も共通です。

その、念仏一行を称える際の信心に注目され、これを非常に重視された方が親鸞聖人です。口は同じく念仏一行を称えていても、念仏を自分の善根のように思ったり、念仏による功徳を積んで往生しようと祈願請求の意で称えるのは「自力」であってそれは化土にしか往けない。「他力」とは、そういう「自力」の計らいを離れて、阿弥陀仏の方からの一方的なお助けであることをそのまま受け容れ、「南無阿弥陀仏」のはたらきにまかせたことをいうのです。

だから助正間雑、雑行、悪業悪行をやって念仏一行を捨てている者なんかが分かる教えではないんですよ。『歎異抄』の作者が嘆いているのは、「一室の行者のなか」に辺地に宿をとる「自力」の念仏者がいることです。「一室の行者」でない、「一行」以外の余行を修めている者は「自力」とか「他力」を論ずる以前の問題です。


親鸞会批判者は楽を勧めていると、「選択易行の至極」、「易行の水道、楽しきこと」である念仏一行を教えられた親鸞聖人を誹謗しているのが親鸞会です。どうしても苦しみを求める人は別として、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、直ちに善もどきの善という「邪偽」の教え、また諸善という「八万四千の仮門」を捨てて念仏一行に帰し、「大利無上」の利益を獲得して頂きたいと思います。



【参照】
『安心論題』行一念義
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No title

高森の教えを信ずる者は邪見憍慢の者です。

先日、お聞きしたお話しです。

聴聞しなさい、聴聞しなさいってことは、もう 私を仏にする仏が、生まれて、はたらいていると言うことを聞きなさいってことです。
そしたら、私が 何かして、お浄土に参ろうとか、何かして仏になろうということに、用事がなくなる、でしょ。どうですか。それを聴聞というんです。
で、阿弥陀さまが、なぜその18願をお建てくださったか、と言ったら、如来の作願をたずぬれば、苦悩の有情を捨てずして。苦悩の有情、苦しんておる有情を捨てずして、って言うのは、
これは私の話しかだから、おわかりですよ。
有情の苦悩って、何ですか?
逆さまに言ったら。
苦悩の有情を捨てずして、ってことは、私の、有情の、苦悩でしょ。
これは、私の話しですよ。
私の一番の、最大の苦悩は 何ですか。死なにゃあならん、ってことじゃないですか。
これ以上の苦悩あるの?生きてる者の最大の苦悩は、お前もう、生きておれんよ、と言われることなんだよ。
死ぬってことを知っているって、ことと、死ぬってことが、現実に、なることは、違いますよ。
死ぬってことを知ってるってことは、ご飯が美味しく食べられるってことです。
死ぬということが、現実になったら、どんな美味しいものを 出されても、喉を通らないですもの。
その時が、必ず来るんですよ。
それを 阿弥陀さまは、もう見抜いて、それを救う仏になるよっていうのです。
死ぬという人間の救いは、何かって言ったら、生まれるっていう話しです。
違いますか?
死んでおしまいだっていうから、死にたくないんでしょ。死ぬということは、生まれるということだよ。死ぬということは、人間が、終わるということだよ。人間が終わるということは、仏が始まるということだよ。
それを成仏といい、往生といい、大涅槃といい、悟りというんだよ。
あんたの人生の最後には 往生が、誓われてあってあなたの人生の最後には、成仏が約束されてあって、あなたの死んで行く先は、お浄土は、もう定めてあるんだから、安心して生きて行きなさいよ、という話しが、如来の作願をたずぬれば 、苦悩の有情を捨てずして 回向を首としたまえてと、いうことは、アンタの力は、借りんよ。阿弥陀のはたらきで、仏にするんだよ。
阿弥陀のはたらきで、浄土に生まれされるんだよ。だから、回向を首としたまえて、大悲心をば成就せり と。
大悲心の中身は、コイツの死んで行くという苦しみを 自分の苦しみと引き受けて、その解決は、もう南無阿弥陀仏と、仕上がっておるんだよと、いうことを 私に安心を告げてくださっているのが、南無阿弥陀仏。だから、南無阿弥陀仏のいわれを聞かなければ、死んでく問題は、解決しないんですよ。
今のほとんどの日本人は、南無阿弥陀仏を聞かないで生きているから、死ぬということをびっくりしちゃうんだけど、私は 死ぬということを全然 びっくりせんね。お寺の住職やってますとね、人間死ぬのが当たり前だと思うんです。だって、ついこの間まで元気だった同行が、もういないんだから。
えっ?何で死んだの?。生まれたからだからよ。
何々さん死んだってよ。何で死んだの?
生まれからよ。
病気になったから死ぬんじゃないんですよ。
生まれたから、死ぬんだよ。
生まれなきゃ死なないんだよ。
だけど、そんなこと言われたって、もう 生まれちゃったんだから、手遅れでしょう。
生まる前に戻れないでしょう。
そしたら、後は、堕ちる飛行機に乗っとるんやと、ここの和上がいつも言っとった。
もう、堕ちること決まっている飛行機に乗っとんやから、コイツが生きていることの問題は、堕ちるということです。
生きてることの大問題は死ぬってことですよ。
だから、死ぬのイヤでしょ。
それを、我々の 、有情の苦悩って言うんです。
死にたくない。死にたくない。
これが、私の苦悩ですよ。それを もう先取りして、如来の作願をたずぬればまで、苦悩の有情を捨てずして、回向を首としたまえて、大悲心を成就。大悲心の成就を 南無阿弥陀仏というです。大悲の内容が四十八願なんです。それを縮めたら、第18願に収まるんです。一人も漏らさずに仏にすると、これを大悲という。
それが成就した姿が、南無阿弥陀仏です。
だから、南無阿弥陀仏って、いったい何かと聞くと、私の死んでく問題が、解決するから、死んでく問題が解決した上で暮らしなさいっていうんです。
死んでく問題を後回しに、してくと、最後困るよっていうんです。
昔はねぇ、まだご法義聞く人があったから、入院してから、住職呼んでくれっていうんです。
なんで?ったら、オレはポヤポヤ聞いとったから 、死んでくって 目の前にしたら、とても死んで行かれんから、住職ちょっと来て、申し訳ないが このワシに 説教してくれ って言うんです。これを臨終法話って言うんです。
終わりに臨んだ時の法話だ。自分がもう死んでくって、わかった時の法話ですよ。自分が死んでくって わかった時の法話に、命がけで説教を聴聞しろよって 、答えになってないやろ。
オレが死んでく、どうしたらええんや?ってことの、答えは、もう心配ないよ。アンタを仏にする阿弥陀は はたらいているんだから、そのまま死んでお行き。死ぬんじゃないよ。生まれるんだよ。お浄土へ生まれさせて頂くんだよ。なんまんだぶつと、お礼を言いましょうよ。
臨終法話は、これしろ、あれしろなんて もう間に合わんのよ。だって 断崖絶壁だから。明日はないんたから。明日がない人間に、これをやったら 救われるなんて。

No title

高森会は求道と称して悪業ばかり積み重ねていますから、高森学徒の求道が苦しいのは当然なのですが、不満を抱く学徒を納得させるために「苦しくなければ求道ではない」という珍説を捻り出したのでしょう。

聖道門も含め、仏道全体が苦を捨て楽に至る教えなのですから、聖道門であっても修行が進めば苦しみが減るのは当然だと思います(「難しい」と苦は異なる)。
仏法では楽果を受ける行為を善と定義しています。

弟子に苦しみを与え、苦しみを求めさせる高森会長はまさに邪教の親玉、鬼そのものです。

楽して得られるものは貧と恥^^;

『念仏一行ですよ。』というと。そんな簡単なことで人生の目的を達成できるか!一生や二生の問題ではない!多生の問題やぞ〜!苦しいなか求めて行くのが求道だ!火の河と水の河に責め立てられて晴れて三定死があるんやぞ〜。楽して得られるものは貧と恥のみやぞ〜!お前は求道姿勢がなってない指摘や〜。念仏称えたただけで救われるか〜!信心決定というハッキリした体験をしたんか〜! と、会の中の人には、誰と話ししても最終的にこんな感じ言ってきます。つい最近も二人ほど言われしまいましたよ。はいはいなら、根拠は?と聞くと、俺の言うことが根拠=親鸞聖人(本当は高森やけどね)、間違ったことは決して言ってはいないという自負があるそうです。腹を切るそうです。あんたあんな高森の真似せんでもええのにな。高森帰命の団体ですか?馬鹿にすんな!高森先生は親鸞聖人の御心そのまま伝えている!謗法罪だ!と。 高森に心酔してるか、してないかが辞める辞めないの違い目なんでしょうかね。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

毎度毎度、長々とかくのもアレなので今回は端的に記します。ただ端的ですので「体言止めになっている」やら「説明がなっていない」等などございましょうが、どうかお許しを。

・「真宗」とは

「真宗」とは「浄土真宗」を指す言葉であり、「阿弥陀さまにお任せする」という趣旨の「南無阿弥陀仏」「帰命尽十方無碍光如来」を本尊とはするが、この本尊は「方便法身尊号」つまり、「眼や手、耳でしか得たものしか信じられない」という私たちのために、阿弥陀さまが仮に(方便)法のすがた(法身)として顕された名号(尊号)なのです。
 また、「絵像・木像」では諸説ありますが、手のひらをこちらに向けられているお姿を「おそれなくてもよい(われに任せよ)」という「不畏のすがた」とされます。(「名号」でいう、「南無」であり「帰命」です。)
 一方、手のひらを上に向けられているお姿は、「名号」では「阿弥陀仏」、「尽十方無碍光如来」であり、「摂取不捨の利益」とされます。 これを親鸞は『和讃』にて、

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

と説かれており、「摂取してすてざれないお力」を「阿弥陀となづけたてまつる」といわれております。

どうかこの文言を読まれているあなたが、阿弥陀さまの救いにあわれんと願いて、念仏を称えられることを。

なもあみだ なもあみだ
Abc

コメント返信

雑草様

間違いないです。


RC様

お話を紹介して頂きありがとうございます。読みまして、
「救われるために聴聞するんじゃない。私を救う法を聴聞するんだ。」
という感想を持ちました。
また、明日が無い人間に話すべきことが私が聞くべきことだとも思いました。親鸞会の教えは何十年も活動し続けられる前提の教えなので、今臨終という人は助かりません。ということは、無常迅速の機である我々は助かりません。お互い、そんな珍しい教えから離れ、本願のはたらきにおまかせできた仏恩に報謝する人生を歩みたいものですね。


名無し様

その「苦しくなければ求道ではない」という珍説を、創作「二河白道の譬え」であたかも仏説のように唱えているわけですね。こんなデタラメ創作教義を説いて会員を騙す高森会長は、仰る通り鬼です。


チュウビ様

「高森の信」が厚い人は今は無宿善の者ですから、そういう人にむやみに法を説いてはならないかも・・・。念仏称えた者を助けると阿弥陀さまが本願に誓われているのに、それを否定、誹謗している人は、残念ながらもう一遍回ってくるしかないかもですね。


Abc様

名号にしても、絵像・木像にしても、そのこころを善知識からよくお聞きすることが大切ですね。名号だからよい、絵像・木像はダメだと形にこだわって、それに込められている阿弥陀さまのおこころを無視している、そんな者の話を聞いていても信心獲得して往生することはできません。
ここをご覧の皆さんには、「南無阿弥陀仏(必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい)」という如来招喚の勅命にそのまままかせてお念仏して頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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