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「二河白道の譬え」は回避し、「絶対の幸福」を連呼するも結局説明になっていない高森顕徹会長

7月8日(日)は高森顕徹会長の座談会があったそうですが、またも「二河白道の譬え」は回避です。今回は

「弥陀の本願」と「大悲の願船」の関係について

だったとのことですが、今更会員はこのようなことを聞きたいでしょうかね? それよりも、

どうしたら大船に乗せて頂くことが出来るのか

ということを分かりやすく徹底するために善導大師が説かれたという「二河白道の譬え」を聞きたいという会員の方が多いんじゃないかと思います。おそらく、最近の『飛雲』で徹底的に譬え話自体の誤りと何を譬えたものかの誤りを暴かれていますから、更なる批判を恐れて出すに出せないといったところでしょう。


さて、今回は高森会長の話を聞いていれば当然ですが

「絶対の幸福」がわからないという質問も多い

ことを紹介していました。長年聞いている人ならお判りでしょうが、高森会長は結局「相対の幸福」ではないと話しているに過ぎません。それで「絶対の幸福」がどんなものか分かる人の方がおかしいです。今回も例に漏れず「相対の幸福」の話ばかりで、「絶対の幸福」については

「相対の幸福」しか知らない私たちは分からない。世を超えている。

と煙に巻いていました。「相対の幸福」については

全て死んで行く時に崩れてしまう幸福。比べて初めて感じる幸福。煩悩を満たす幸せ。

等と説明していましたが、それなら「絶対の幸福」は

死んで行く時も崩れない幸福。比べなくても感じる幸福。煩悩を満たす幸せではない。

ということかと想像するよりありません。訳の分からない幻想的な楽で人々を釣って組織拡大に利用するのみで、高森会長には親鸞聖人の教えを正しく伝えて往還二種の回向を獲させる気など更々無いことが伺えます。


そう言えば、今回高森会長は演題の質問について

「弥陀の本願」と「大悲の願船」の関係は「イコール」

だとか宣っていました。今までは「弥陀の本願」が設計図、それに基づいて出来上がったのが「大悲の願船」だということでしたが、念仏する者を浄土に迎えるという本願も、本願が成就したすがたである南無阿弥陀仏の六字も全く説く気が無いのですから、もはや高森会長には本願も願船も一緒、とにかく騙し続けられればそれでいいのでしょう。こんな邪偽の善知識を未だに盲信している会員が哀れでなりません。

もちろん無関係ではないけれども、本願と願船はイコールではありません。念仏する者を浄土に迎えるという本願が成就して南無阿弥陀仏の船が仕上がった、という関係です。私達は、名号のいわれを聞いて信心歓喜乃至一念し、正定聚の位に定まるわけですから、名号のいわれを聞かないことには救われません。

阿弥陀仏はかつて法蔵菩薩であった時、迷いの世界で苦しみ悩んでいる全ての衆生を平等に救い摂りたいと願いを発されました。この世にはまことのやすらぎも楽しみもなく、私達は永遠に流転して苦悩は絶えることがありません。そこで法蔵菩薩は諸仏に超え勝れた浄土を建立し、衆生を迷界より出離させ、浄土へ迎えて救うと誓われたのです。そして不可思議兆載永劫において菩薩の行を行ぜられてついに阿弥陀仏と成られ、今や円融無碍不可思議不可称不可説の至徳である南無阿弥陀仏を恵み与えて衆生を救いつつあります。

南無阿弥陀仏とは必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさいという阿弥陀仏の真実なる仰せなのです。そのいわれを聞き受けたのが信心、本願のはたらきがそのまま出てくるのが念仏。こうした往相回向の念仏を「大行」とされ、その「大行」による利益が

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

という「行文類」のお言葉です。これは真実信心による念仏生活の楽しさ、専ら念仏一行に仕えただ本願力回向の信心を崇める有難さを仰ったのであって、「絶対の幸福」だとかいう南無阿弥陀仏と何の関係があるのか分からない、説明を聞いても全く訳の分からない幻想的な幸福を教えられたものではありません。


阿弥陀仏の目的は衆生を出離、往生、成仏させることです。この世は火宅無常の世界であり、すべて空事、たわごと、まことあることなしです。そんな世界に生きる我々をこの世で絶対に崩れない変わらない幸福にする云々という目的の本願ではないのです。そんなにこの世の幸福にこだわるのなら、聖道門に行ってこの世での成仏を目指すべきです。そんな気概のない人も、親鸞会にいるより別の宗教に行ったり自己啓発セミナー等に通ったりした方がよほどマシでしょう。

本願はこの世の幸福をどうこうするというものではありませんし、この世の幸福は必ず崩れます。後生に対する心構えさえ、誰しも想像上の死と眼前に迫った死は異なりますから、眼前の死の恐怖を前に今まで聞いてきたことなど吹っ飛んでしまうかもしれません。しかし、臨終の様子がどうであれ、平生本願力をたのんで念仏する者は必ずその本願力によって往生させて頂くことが決定しているのです。私の心が問題じゃないんです。いまの南無阿弥陀仏が往生の定まりたる証拠で、私はまるまる南無阿弥陀仏におまかせするよりないんです。

幻想的な幸福に憧れ、ありもしない信心を求めて勧められるまま勧誘や献金や服従の行を繰り返しても、会員が思っているような本願ではありませんから往相の回向である「大行」、「大信」は獲られず報土往生はかないません。まして「白道」が「聞法心」だとかいうデタラメ「二河白道の譬え」を本物と思っていてはね。今回その話が無かったのは反って良かったかも知れません。

会員の皆さんには、この世の幸福云々を超えた、迷いの世界からの出離を目指した上で、阿弥陀仏の浄土に往生して仏に成るのが真宗の目的であるとわきまえて、それにはただ必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさいという本願招喚の勅命を聞き受けて念仏するのみであることを知って頂きたいと思います。
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Abcです

こんばんわ、Abcです。

念仏する者を浄土に迎えるという本願が成就して南無阿弥陀仏の船が仕上がった、という関係です。(淳心房さん)

さようです。ここで「南無阿弥陀仏の船」についてすこしお話します。
親鸞は、「南無阿弥陀仏の船」を様々な呼ばれ方にて呼ばれています。この箇所には記しませんが、「摂取不捨の利益」なども「別名」といえましょう。

『浄土和讃』巻頭

無量光 真実明 無辺光 平等覚 無碍光
難思議 無対光 畢竟依 光炎王 大応供
清浄光 歓喜光 大安慰 智慧光 不断光
難思光 無称光 超日月光 無等等 広大会
大心海 無上尊 平等力 大心力 無称仏
婆伽婆 講堂 清浄大摂受 不可思議尊 道場樹
真無量 清浄楽 本願功徳聚 清浄勲 功徳蔵
無極尊 南無-不可思議光[以上略抄なり。]

 こちらに列挙されている光明功徳の最後に「南無 不可思議光」とあるがこれは著者(親鸞)が「各々を奉るが、別称を明らかにする」と言う意味合いで「南無」は省かれている。したがって、代表される「南無阿弥陀仏(六字)」、「南無不可思議光如来(九字)」、「帰命尽十方無碍光如来(十字)」のほかにも、
「南無超日月光仏」や「帰命大心海如来」も名号として存在すると思われる。

 現に、『和讃』(『浄土和讃』)において

光明月日に勝過して 超日月光となづけたり
 釈迦嘆じてなほつきず 無等等を帰命せよ

十方衆生のためにとて 如来の法蔵あつめてぞ
 本願弘誓に帰せしむる 大心海を帰命せよ

とあるとおりである。

では、なぜ真宗内において「六字(南無阿弥陀仏)」が多用されるようになったのか。
 1つに「様々な名号を並べて、門徒が混乱せぬように「六字」を用いた」
 2つに「仏名を「阿弥陀仏」にすることによって、(ミダの本来の意である)「はかりない」ことを縁として、「どのような功徳が」と言う事柄から上述のことを説明された」

と言うことが考えられる。別の『和讃』には、

南無阿弥陀仏をとなふれば 炎魔法王尊敬す
 五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり

とあり、「南無阿弥陀仏をとなふれば」とあるように、「名号を称える」すなわち「称名念仏」がそこにあったことは紛れもない事実であり、この『和讃』からもうかがい知ることが出来る。

 おわりに

今回の文章は、少々文体が堅くなっておりますが、「南無阿弥陀仏」と言う名号の大まかな説明はしたつもりでいます。門徒のみなさまには「南無阿弥陀仏」という文字にこだわるのではなく「阿弥陀さまにお任せする」という「その名号がもつ味わい」を味わられていただきたくおもいます。そのことが味わられたならば、『正信念仏偈』内の、「各々の名号」もまた味わられることと思います。

なもあみだ なもあみだ
Abc

有漏善

ども林遊@なんまんだぶです。

そもそも「絶対の幸福」を求めるという煩悩まみれの「有漏」の善をもって、浄土へ往生しようということが、高森顕徹氏が仏教の綱格を理解してない証拠なのですね。で、wikiarcに追記してみました(笑
https://goo.gl/wSZ1H2

そもそも衆生の力では阿弥陀仏の報土へ往生することは不可能であるから、本願力によって「大行」と「大信」をわたしくに回向して林遊のようなアホな門徒を浄土へ往生せしめ、仏陀のさとりを開かせようというのが、御開山が説かれた浄土真宗というご法義でした。いわゆる本願力回向のご法義でした。

若い時には「何故生きる」とか、「人生のテーマ」について無知であることから、宗教にのめりこむのですが、これを餌にして組織の拡大を図ったのがいわゆる伝統仏教の枠の外に新しい精神世界があると鼓舞してきたのが「新宗教」の闘争の歴史でした。──本願寺派への座り込み事件など──
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180707-00056456-gendaibiz-bus_all&p=3

面白いことにオウム真理教と親鸞会の会員に共通するのは、我は真実を求めている求道者であり、世俗の人は取るに足らない烏合の衆であるという選民思想でした。親鸞会脱会者者を「聞法の敗残者」と呼ぶ意から、彼ら親鸞会の会員の選民思想が窺えます。
実は、法然・親鸞両聖人が示して下さった阿弥陀仏のご法義は、この「聞法の敗残者」をこそ救うというご法義なのでした。

そんなこんなでAbcさんの投稿は、淳心房さんのブログの趣旨を拡散しているだけなのだと思ふのだが、これも上から目線という舞台用語で脱会者からは非難されるのだろうな。どうでもいいけど(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


コメント返信

Abc様

阿弥陀仏の様々な徳を褒め讃えて沢山の別名がありますが、確かにあまり多くのお名前があり、別名の本尊もあると「違う仏なのか」と思ってしまいますね。

南無阿弥陀仏の文字、発音ではなく、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことが大切です。有縁の方々には、御文の意味や、何か珍しいことを聞くのではなく、「助けるぞ」の仰せとして聞き受けて頂きたいと思います。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・



林遊@なんまんだぶ様

> 面白いことにオウム真理教と親鸞会の会員に共通するのは、我は真実を求めている求道者であり、世俗の人は取るに足らない烏合の衆であるという選民思想でした。親鸞会脱会者を「聞法の敗残者」と呼ぶ意から、彼ら親鸞会の会員の選民思想が窺えます。

テロ事件を起こしていないだけで、実は勧誘方法、選民思想など、両者に共通するものは多いです。

私は彼らにとって「聞法の敗残者」であってよかったです。おかげさまで本願力回向の他力易行の法に遇わせて頂けました。

まぁどのような縁でこの本願の法に遇うかは分かりませんので、教えを示して下さるコメントは歓迎です。私は現状真宗学に精通しているとは言い難いです。ブログを書き、お聖教に触れ、様々な文献を調べつつ学んでいるという状況です。Abcさんや林遊さんのような教義に明るい方々にコメントを頂くのは有難いことであり、また勉強になり、励みになります。とにかく本願力回向の行信、一方的な阿弥陀さまの救い、他の誰でもなくこの私を救う法、という点を軸にこれからも書いていきたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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