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親鸞会会員の誤解ー「等正覚にいたる」ことと「等正覚をさとる」ことは違う

今回は園児さんからのコメント、及びそれに関連する皆さまからのコメントを読んで、この際ハッキリさせないとあかんと思うことがあったので取り上げます。

親鸞会会員の誤解として多いものの一つに、

・信心獲得すると、51段目の等覚になる(等覚のさとりの境地に出る)
・高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる


という誤解があります。これは随分と後を引く問題のようで、この前ある退会者の方とのメールでも、

この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。『御文章』5帖目6通

とある「等正覚」と、この記事を扱った時に出てきた「等覚」の関係を聞かれました。園児さん、またこの退会者の方に限らず、親鸞会出身者は混乱する内容だと思います。私もかつてそうでした。


まず、「正定聚」や「等正覚」、「等覚」についての言葉の意味はこちら。
↓↓↓
「正定聚」「等正覚」、「等覚」

浄土(真実報土)に往生することが正しく定まり、必ずさとりを開いて仏になることが決定しているともがらをいう。第十八願の信心の行者のこと。

Ⅳ 真実信心を得たものは、仏因円満していて、必ず仏と成るから、現生の正定聚の位を「弥勒に同じ」といい、また「等正覚」ともいう。

親鸞聖人が仰る「正定聚」や「等正覚」、「等覚」はおおよそこのような意味です。それをまた「すなはち往生す」「不退転に住す」「等正覚を成る」「阿毘跋致にいたる」「阿惟越致にいたる」「即時入必定」(一念多念証文)等々、様々な言い方で教えられます。信心決定したその時、本願を信受したその時、私達は次生浄土に往生することが決定しますから、今生でもう「正定聚の数に入る「証文類」)」、「正定聚の位に住す末灯鈔1通)」と言えるのだというのです。

親鸞聖人は、七高僧までと違った意味で「正定聚」や「等正覚」、「等覚」の語を使っておられます。両者の一番大きな違いは、死後に正定聚に入るとしか解釈しようのない七高僧方の釈を、親鸞聖人は読み替えによって現生に正定聚に入ると教えられた点でしょう。「現生正定聚」を明確に打ち出されたのは、親鸞聖人が初めてです。

このことから判るのは、

「現生に正定聚に入る」ことと、「現生に正定聚に入ったことが実感として知らされる」ことは違う

ということです。もし、「現生に正定聚に入ったことが実感として知らされる」ことをもって真実信心としますと、七高僧方は異安心ということになります。ということは、

「現生に正定聚に入る」が、「現生に正定聚に入ったことが実感として知らされる」のではない

ということです。林遊さんのコメントにあるように「ご信心の徳」から真実信心の行人は「正定聚の位に住す」と親鸞聖人は仰いました。これが私達にとってはたまらず有難いことなのですが、それを私達が偉くなるように思ったり、浄土の菩薩や弥勒菩薩に等しい智慧や徳が身に具わるように考えたりするのは間違いです。私達はご信心に恵まれても、それによって特別な智慧や徳が得られるわけではありません。「凡夫の浅智」、煩悩具足の浅ましい身の上は変わりません。あくまで阿弥陀仏より賜った「ご信心の徳」を「正定聚」や「等正覚」、「等覚」などの語で表現されているのです。


我々の側からではない、言わば仏様方からの誉め言葉を、意図的にか、無知ゆえかは知りませんが、とにかく私達の身の上にものすごい変化が起きる、「ガラリと変わる」と誤解させているのが高森会長です。

『正信偈』には「成等覚証大涅槃」とあるからこの世で51段目の等覚になるのだろう。また、

(24)如来二種の回向を
 ふかく信ずるひとはみな
 等正覚にいたるゆゑ
 憶念の心はたえぬなり

(25)弥陀智願の回向の
 信楽まことにうるひとは
 摂取不捨の利益ゆゑ
 等正覚にいたるなり

(26)五十六億七千万
 弥勒菩薩はとしをへん
 まことの信心うるひとは
 このたびさとりをひらくべし

(27)念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし

(28)真実信心うるゆゑに
 すなはち定聚にいりぬれば
 補処の弥勒におなじくて
 無上覚をさとるなり
(以上、『正像末和讃』

補処の弥勒菩薩とおなじということは、信心決定するとズバッと高とびして51段の等覚の位をさとるのだろう。

覚りは1段違っても人間と虫けらほどの違いがあるという。高森先生は51段目の覚りになっておられるのだから、その御心が我々に判る筈がない。私達はひたすら会長先生の御跡を慕い、何事も何事も先生のご指示に無条件に従ってゆく事によってのみ無碍の大道に雄飛し、絶対の幸福に救い摂られるのだ。

高森会長の篤信者の胸の内を想像すると、まぁこんなもんでしょう。非常に短絡的というか、親鸞聖人の教えに暗いというか、誤解も甚だしいです。まず『正信偈』の文については

「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位とひとしとなり。『尊号真像銘文』

とあるように「成等覚」正定聚の位です。それは弥勒の位とひとしだというのですが、では何が弥勒とひとしいのか。智慧か。才覚か。徳か。人格か。そうではありません。『正像末和讃』にあるように

このたびさとりをひらく
大般涅槃をさとる
無上覚をさとる

ことがひとしいのです。それが、この世で弥勒と同格? 「よぉ弥勒」だって? 「ご信心の徳」からはそう言えるかも知れませんが、それこそ「お前が言うな!」と言われてしまうことの一つでしょう。煩悩具足の我が身を知る度に、恥ずかしくて弥勒菩薩と同格なんてとてもとても・・・。もし私達が「51段目の覚りになる」ならそのように申しても構わないでしょうが、この世では何のさとりも開けないのですから。それに、もしこの世で51段をさとるのなら、親鸞聖人は

等正覚をさとる等正覚をひらく

と仰っていなければなりません。ところが聖人はそうは仰らず、

等正覚にいたる

と教えられています。「等正覚にいたる」ことと「等正覚をさとる」ことは違うのです。親鸞聖人は正定聚と覚りとを明確に分けておられます。その違うことを同じように説き、自分は全人類とは一線も二線も画した特別な存在であるかのように思わせているのが高森会長です。

親鸞聖人はさとりの52位に配当して「正定聚」や「等正覚」、「等覚」を教えてはおられませんし、第一、横超の教えは速やかに仏の位をさとるものですから、堅出の教えのように段階的なことは言いません。過去に一回だけ、私は高森会長が「私達はこの中(さとりの52位の中)に入らない」と言っていたのを聞いたことがありますが、これは珍しく正しいです。

ただそれ以外はさとりの52位の図を書き、信心決定すると下50段を一気に飛び越えて51段の位に入るような話ばかりでした。その時高森会長が何を思って「私達はこの中(さとりの52位の中)に入らない」と言ったのか。そのミココロは知りませんが、私達は信心決定しても51段目の位はさとれません。「ただの浅ましい凡夫です」と一生なんまんだぶ、なんまんだぶとやっていくだけです。


等正覚にいたる」ことと「等正覚をさとる」ことを混同しているから、会員が高森会長を無二の善知識として崇め奉ったり、世間一般の人々や特に退会者に対してあれだけ傲慢な態度を取れたりするのだと考えられます。また、「信一念の瞬間は、必ず、ハッキリと自覚できるものだ」という彼らの主張も、こうした誤解から来ているのかも知れません。これを機に、会員始め親鸞会出身者に根強いであろう誤解が解けたらと思います。



【参照】
『飛雲』信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心
『飛雲』どちらが異安心か?
『飛雲』浄土を願う心もなく、念仏誹謗宗の信心を目指す高森顕徹会長と愉快な仲間達
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Abcです

こんにちは、Abcです。
今回も、読ませていただいて心に思ったことを書き連ねようと思います。

>ただそれ以外はさとりの52位の図を書き、信心決定すると下50段を一気に飛び越えて51段の位に入るような話ばかりでした。

高森さんの説明の中では、そのような説明ばかりでした。
この「さとりの山道」は全て「自力」にあたります。

親鸞は、『正像末和讃』にて、
(99)
蛇蝎奸詐のこころにて 自力修善はかなふまじ
 如来の回向をたのまでは 無慚無愧にてはてぞせん

と言われています。この「蛇蝎奸詐のこころ」というのは、
「無慚無愧のこの身」(97)、「小慈小悲もなき身」(98)、「五濁増のしるし」(100)ともいわれ、どれも「清らかではないこころ」という意味です。

この「清らかではないこころ」で「さとりの山道を登ろうとすることは至難のワザでありますから、法然や親鸞は「登るな」ともいわれました。
 それは、『正像末和讃』にも
(16)
自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず
 常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき

として著されています。この和讃は「自力聖道の菩提心では、どのようにしたら(いかでか)発起できるのだろうか(発起せしむべき)」という具合です。
 なお、別の『和讃』、
「苦海をいかでかわたるべき」も「自力ではどのように渡るというのだろうか」という同じようなニュアンスです。

>私達は信心決定しても51段目の位はさとれません。「ただの浅ましい凡夫です」と一生なんまんだぶ、なんまんだぶとやっていくだけです。

誠に仰るとおりで、『和讃』には、
(83)
仏智不思議の誓願を 聖徳皇のめぐみにて
 正定聚に帰入して 補処の弥勒のごとくなり

とございます。こちらは、今回淳心房さんが記していただきました、
「正定聚に帰入して 補処の弥勒のごとくなり」であります。

また、『正信偈』に
「偏帰安養勧一切」(偏えに、「安養(阿弥陀さま)に帰せよ」と一切に勧めしめ、)
とありますように、「なんまんだぶ なんまんだぶ」と「ただ念仏」を
ただただ一切衆生に伝えるばかりなのであります。

高森さんのように、「念仏ないから」と念仏を捨てるように言われている方のことも、『和讃』には、

(12)
九十五種世をけがす 唯仏一道きよくます
 菩提に出到してのみぞ 火宅の利益は自然なる

(14)
菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす
 頓教毀滅のしるしには 生死の大海きはもなし

と言われています。みなみなお念仏を称え、お浄土の旅をともにする「なかま」となられていただいたい 常々そのように考えております。

なもあみだ なもあみだ
Abc

Re: Abc様

あの「さとりの52位の図」と高森会長の説明が正しいとしても、一気に飛び越えさせるのは念仏のはたらきです。正確には「ただ念仏一つで往生する」という信心のはたらきですが、その「ただ念仏」を否定して諸善や善もどきの善を勧めているのですから、どの道横超の教えは会員には理解不能と思われます。

会員の皆さん及び退会者の方々には、「縦と横の線の図」と同様、「さとりの52位の図」もきれいさっぱり忘れて頂いて、ただただ「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」という本願招喚の勅命を計らい無く聞き受けてお念仏を申し、この度の浄土往生を遂げて頂きたいと思います。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

聖道門の五十二位説

ども、林遊@なんまんだぶです。

浄土真宗のご法義を、目的へ到る手段(プロセス:過程)として捉えるから高森親鸞会脳になってしまうのかな。

とりあえず、wikiarcの「等正覚」の項目で使用している菩薩の五十二位説の階位の画像に以下の注意書きを付しておきました。

 御開山は、一般にいわれる三定聚説を、真仮分判の名目として転用して用いられ、「第十八願」の機を正定聚、「第十九願」の機を邪定聚、「第二十願」の機を不定聚に配当された。聖道門では、不退転(正定聚)の階位を菩薩の修道階梯の種々に配当するのだが、御開山の用いられる三定聚説は「願海真仮論」によるのであって聖道門の五十二位説と混同してはならない。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%AD%89%E6%AD%A3%E8%A6%9A

つまり真仮を論ずる「願海真仮論」が先であって、それを聖道門の五十二位説を応用して説明しただけでした。これを逆にして、聖道門の五十二位説から浄土真宗の正定聚を考察するから訳が判らなくなるのでしょう。
浄土真宗では、通仏教の用語を使っても、その意味は違うのですが、高森顕徹氏は味噌も糞も一緒(優劣の区別をしないこと)にしてしまったのでしょう。譬えが悪いか(笑

浄土真宗では「二双四重」の教判によって「横超」をいいますが、高森顕徹氏は、いったい真宗学の何を学んできたのやらです。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BA%8C%E5%8F%8C%E5%9B%9B%E9%87%8D

高森顕徹氏は、教文類の、

 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

という回向(本願力回向)の意味を全く解っていなかったのでしょう。ですから会員の信心欲しさを利用して金集め、人集め、忠誠心要求という名聞利養を謀ってきたのでしょう。(ツッコミ防止:謀の字を使ったのは意図的です)

ともあれ浄土真宗の「横超」の救済という意味を、竹の性質に喩えた話は子供の頃からよく聞かされたものです。
https://goo.gl/hmj7zw

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ




Re: 林遊@なんまんだぶ様

注意書きを加えて下さりありがとうございます。

種々に指摘されている通り、高森顕徹会長は『教行証文類』もまともに読んでおりません。親鸞会の教義体系は、伊藤康善師や大沼法竜師の著書を中心に、都合の良い文献を教義に加え込んだだけです。そして目的は会員の往生・獲信とは別のところにありますから、あれほどのデタラメ創作教義に仕上がったのでしょう。

通仏教と真宗とで、字は同じでも意味する内容が異なるというのは会員のほとんどが知らないことだと思います。高森会長もよく分かっていないでしょう。私もまだまだ知らないことだらけですので、過去記事やこれ以降の記事でも、何か変なところがありましたら「こう直したらいい」等ご指導頂ければと思います。私の願いは、このブログを縁に一人でも多くの会員が親鸞会教義の誤りに気付き、親鸞会を離れると共にその方が真実の行信を獲て頂くことです(願わくは会員に限らず、全ての人ですが)。よろしくお願いいたします<(_ _)>

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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