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現在の苦しみを「神の試練」と言われて納得している他宗教の信者と同程度の信心の親鸞会会員

この前、最近の親鸞会発行『顕正新聞』や「教学試験だより」を見る機会がありました。「教学試験だより」には大導師試験合格者の中に見知った名前がチラホラ・・・。あーあ、まだ在籍して頑張っちゃってるんだなぁとため息が(-_-;) 高森教の短冊教学を覚えた位で真宗の学者より教学力があるように勘違いして喜んでいる会員は実に滑稽です。

さて、何とか学会の真似をして全国に会館を建てまくっている親鸞会ですが、『顕正新聞』10月15日号にはその中の神奈川横浜会館落慶関連の記事が1面、2面、4面、5面と4ページに亘って書かれています。

4面には、「建立までの道」と題して会館が建てられるまでの経緯が書かれています。その中に、

如来の試練に違いない

という見出しで

今にして思えば、建立までの紆余曲折は、私たちの本気度を如来に試されていたのだと思います。

という文章があり、親鸞会会員の信心をよく表していると思いました。何かと求道上で苦難や障壁がまつわりついてくるのが親鸞会会員の常ですが、彼らはそれを「如来の試練」「本気度を如来に試されていた」という言葉で表現しています。これは他宗教で説かれる、現在の苦しみをいわゆる「神の試練」だと言われるのを聞いて納得している信者と同程度の信心であることは疑う余地がありません。


こうなってしまうのも、高森会長の創作「二河白道の譬え」を本物と信じ込んでいるところが大きいと思います。

白道は、私達の求道心、聞法心

だとして「煩悩と闘って求道せよ」、これが高森会長の教えです。

この創作「二河白道の譬え」は、苦しい会員の心情をよく表しています。これは、

白道を進めば進むほど、群賊悪獣悪知識がその道を進むなと妨害をしてくる
白道を進めば進むほど、火の河水の河の勢いが増してくる
白道を進んでいくというのはとても難しい

ことを表現し、「高森先生の仰る通りだ」と思わせる恰好の譬え話なんですね。

外からは富山へ行ったり親鸞会の教えにのめり込んだりすることに対する、家族の反対あり、寺の反対あり。主に退会者からの教義批判あり。また高森会長の出身母体である浄土真宗華光会の存在あり。それでいて、内からは欲や怒りの煩悩ありで、それらのために会員は求道聞法を妨げられて、思うように白道を進めない、信心獲得できないと思い込んでいます。

また、白道を進めば進むほど外からの非難、水火の波は大きくなると説かれるものですから、白道を進んだつもりになっている会員は「高森先生の仰る通りだ」と感じてますます高森会長に心酔してしまうのです。いくら説得しても言葉が通じないのは、こうした創作「二河白道の譬え」を信じ込んでいるところが大きいと思われます。


ところがこの譬え話、善導大師が作られた本物の「二河白道の譬え」とは全く別物です。まず譬え話自体が異なっており、譬えで表されている内容も違います。中でも決定的に違うのは「白道」です。

「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。

親鸞聖人は、「二河白道の譬え」で善導大師が自ら解説されたこのお言葉を

〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。

と読み替えられ、

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。「信文類」

ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。『浄土文類聚鈔』

「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。『愚禿鈔』下巻

「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。(同)

と解釈されて、「白道」とは信前の、私達の求道心、聞法心といった自ら起こす自力の信心ではなく、信後の、本願力回向による真実の信心、他力の信心であることを明らかにされています。

たとえ善導大師が行者の起こす、つまりは自力の「清浄願往生の心」だと教えられていたとしても、親鸞聖人は本願力によって生じる「如来回向の信心」の意であるとされたのです。ちなみに、善導大師にしても「かの願力の道に乗じて」と仰っているのですから白道は他力の意にも受け取れます。いずれにせよ、親鸞聖人の教えにおいて、「白道」には自力の意味は全くありません。他力の意味しかないのです。


蓮如上人は、たとえ理由が分からなくても親鸞聖人がなさった通りにするのだと、

一 前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。『御一代記聞書』(159)

蓮如上人に対して、ある人がご開山聖人ご在世のころのことについて、「これはどういうわけがあってのことでしょうか」とお尋ねしたところ、上人は、「それはわたしも知らない。どんなことであれ、たとえ、わけを知らないことであって、わたしはご開山聖人がなさった通りにするのである」と仰せになりました。

と仰せられています。親鸞会の会員なら耳タコでしょう。このお言葉を基に、木像本尊の本願寺は間違いだと散々批判していることは承知のはずです。では、肝心の親鸞聖人の教えについてはどうでしょうか。

親鸞聖人は「白道」を他力で教えられているが、善導大師は自力で教えられていて、善導大師の教えられ方でワシは話をしているのだ

高森会長は以前こんな大ボケ珍答をしていたようですが(※)、ではどうして親鸞聖人の教えられ方で教えないのでしょうか。それで浄土真宗を説いていると言えるでしょうか。親鸞聖人の教えを親鸞聖人の教えられ方で教えることは、「なにごともなにごとも」の中に入らないのでしょうか。


こんな自力求道の教えを叩き込まれるから、会員は他力の信心どころか、他宗教の信者の信心と同類の自力の信心に住する羽目になってしまうのです。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。


譬え話の中で、釈尊と阿弥陀仏はこのように仰せられています。二尊は、別に我々を試すようなことは何一つされていません。それどころか、「直ちにこの道を行きなさい」「直ちにこの道を来なさい」とお勧めです。我々を救いたい、救いたい、浄土に迎えて仏にしたいと願われているのが御二方のお心です。その御二方の発遣と招喚とを東の岸で聞き受けて白道へ踏み出すのですから、我々には自力の命がけの求道など不要です。それでは報土往生はできないから直ちに捨てて、如来大願の他力に帰すべきであると親鸞聖人は仰せです。

そのお勧めと真反対の、別の道に誘い入れて会員さん方の獲信・往生の妨害をしているのが高森会長です。親鸞聖人の教え通りに法を説かないことこそ、高森会長が群賊悪獣悪知識の親玉である何よりの証拠です。

親鸞会の説く救いにあずかるには、何十年と命があって、健康で、活動し続けられることが必須です。しかし、一生涯懸命に活動したとしても、ベクトルが違う上に教えが根本から違いますから信心獲得、報土往生はかないません。会員はあと何年生きて、あと何年元気に活動し続けられるつもりなのでしょうか。またそんな教えにいつまで付き合うつもりなのでしょうか。いつまでも命があると思って、求道もどきの求道をして、白道を進んだつもりになって喜んでいるのが己の情けない姿だという実態に早く気付いてもらいたいものです。


【参照】
『WikiArc』清浄願往生の心
『飛雲』麻原教祖を未だに信じているアレフの信者より幼稚な高森顕徹会長信者
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』親鸞会での「群賊悪獣悪知識」の意味が変わってきた件(2018年11月26日(日)アニメ映画解説より)
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林遊@なんまんだぶです。

なるほど、高森親鸞会では『観経疏』の「回向発願心釈」にある「群賊・悪獣」を、真実信を求める者を邪魔するものとして捉えているのでしょうね。この論理展開は他者による非難によって、いよいよ我の信心は確かであることを確認できるのだという創価学会の法難という思想から導入した論理です。
青年高森顕徹氏は、戦後勃興してきた新興仏教に対しての敵愾心があり、その為に当時教線を拡大していた創価学会の日蓮教義を学んだ形跡があったりします。
「必堕無間」や「絶対の幸福」というタームは、創価学会のタームのパクリでした。その延長線上で、他からの非難によって益々自己の信仰を固めるという、いわゆる、シュラッダー、プラサーダ、アディムクティ、バクティのバクティという熱烈な信仰こそが浄土真宗に於ける信だと錯覚したのでした。
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%93%E3%81%86

しかし、御開山が示された浄土真宗の信とは、梵語のプラサーダ(Prasada)の意で、先輩方は、「信」は澄浄(ちょうじょう)の義とされ、阿弥陀如来の本願を疑いなく、はからいなく受け容れることを浄土真宗の「信」といわれたのでした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BF%A1

ある意味では、脱会者の方々の林遊批判は、判らないのでもないのですが一方的に高森親鸞会でのルサンチマンを向けられても、それは御開山の示された浄土を真実とする「往生成仏」のご法義と違うのだと言うしか手がないですね。
https://www.weblio.jp/content/%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3

稲城選恵和上は、信にはものがらが無いということを説いていましたが、わたくしの上に、これで往生浄土は間違いないという確信は、実は阿弥陀如来の信を拒絶しているのだと言われてました。
http://wikidharma.org/5bfff91c81619

ある意味では、信心正因や信心獲得という名目を誤解しているのが高森親鸞会の方々なのですが、それは淳心房さんが言うように「一生涯懸命に活動したとしても、ベクトルが違う上に教えが根本から違いますから信心獲得、報土往生はかないません」でした。
無茶苦茶な譬喩ですが、「天使にラブ・ソング」の主語を阿弥陀仏に変更して、彼/彼女から、love you,と言われたら、歓喜しかないのだろうか。ちなみに英語の大文字のIは神の指します。
https://www.youtube.com/watch?v=J5-TlK9DrWc&list=RDJ5-TlK9DrWc&start_radio=1

それは、キリスト教の確信と違い、本願文の「若不生者 不取正覚」とは究極の慈悲の発動であった。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

Abcです

こんばんわ、Abcです。

>そのお勧めと真反対の、別の道に誘い入れて会員さん方の獲信・往生の妨害をしているのが高森会長です。(淳心房さん)

>青年高森顕徹氏は、戦後勃興してきた新興仏教に対しての敵愾心があり、その為に当時教線を拡大していた創価学会の日蓮教義を学んだ形跡があったりします。(乃至)御開山が示された浄土真宗の信とは、阿弥陀如来の本願を疑いなく、はからいなく受け容れることを浄土真宗の「信」といわれたのでした。(林遊さん)

左様であります、「真宗」とは「義なきを義とす」でありますから、このエントリー内「煩悩と闘って求道せよ」という「戦う」と言うこと自体「自力」なのですから、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、」になぞらえるならば高森さんが提唱されている事柄は「諸行往生(万行諸善、六度万行)の教え」であります。

 ところで、西の反対は東ですが、高森さんは東に向かわれているのでしょうか。
というのも「西方浄土」とはご存知のとおり「弥陀如来の浄土(自然の浄土)」でありますが、東は「浄瑠璃(瑠璃浄土 薬師如来の浄土)」とされております。

 そのように考えますと「阿弥陀様におまかせしないで医学(もしくは自己免疫力)で生きながらえたい」としますと確かに「医学だのみ」でありますし「病院だのみ」であります。

 まさしくこのとおりにすべきならば、本尊は「薬師如来」でなければ成りませんし、本堂の名も「薬師堂」でありますし、そのようにしたならばいよいよ「一向専念弥陀如来」ではなくなり「真宗」でもなくなります。わたしが言いたいのは、口では「西へ行きなさい」という法義を称えてはいるが、歩みは「東に歩を進めている」という矛盾であります。

 今一度記しますが、真宗の法義は、「義なきをもって義とす」であり、「正定之因唯信心 (乃至) 唯能常称如来号」(『正信念仏偈』より)という「唯信心 唯称如来号(唯念仏)」であります。これ以外の、「私たちの本気度を如来に試されていた」という「試練」というものを提唱するのならば、それはいよいよ「真宗」ではないのでしょう。

[参照書籍 『執持鈔』]
(2)往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。

(3)善人なればとておのれがなすところの善をもつてかの阿弥陀仏の報土へ生るること、かなふべからずとなり。悪人またいふにや及ぶ。おのれが悪業のちから、三悪・四趣の生をひくよりほか、あに報土の生因たらんや。しかれば善業も要にたたず、悪業もさまたげとならず。善人の往生するも、弥陀如来の別願、超世の大慈大悲にあらずはかなひがたし

(4)しかれば名号執持すること、さらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。これによりて光明の縁にきざされて名号の因をうといふなり。かるがゆゑに宗師[善導大師の御ことなり]「以光明名号 摂化十方 但使信心求念」(礼讃 六五九)とのたまへり。「但使信心求念」といふは、光明と名号と父母のごとくにて、子をそだてはぐくむべしといへども、子となりて出でくべきたねなきには、父・母となづくべきものなし。子のあるとき、それがために父といひ母といふ号あり。それがごとくに、光明を母にたとへ、名号を父にたとへて、光明の母・名号の父といふことも、報土にまさしく生るべき信心のたねなくは、あるべからず

(5)そもそも南無は帰命帰命のこころは往生のためなれば、またこれ発願なり。このこころあまねく万行万善をして浄土の業因となせば、また回向の義あり。この能帰の心、所帰の仏智に相応するとき、かの仏の因位の万行・果地の万徳、ことごとくに名号のなかに摂在して、十方衆生の往生の行体となれば、「阿弥陀仏即是其行」(玄義分 三二五)と釈したまへり。また殺生罪をつくるとき、地獄の定業を結ぶも、臨終にかさねてつくらざれども、平生の業にひかれて地獄にかならずおつべし。念仏もまたかくのごとし。本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし。

[釈宗昭五十七]是を記す
Abc是を抄出す。また下線及び太字を行う。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

No title

ここまで的外れな人物は、高森氏並みと言える。既成教団と親鸞会という強者への憎悪を僧侶と退会者に向けて、すでに僧侶からは総スカン。嫌われていても受け入れてくれる優しい退会者に甘えて言いたい放題。
高森氏と同類の厚顔無恥な人物には、何を言っても、
自分が正しい、批判する方が間違いだ!
で終わり。

No title

林●さんの説明だと、善導大師法然聖人と親鸞聖人とは白道の信心が自力と他力と違うってことですか?
だったら、善導大師法然聖人と親鸞聖人とは信心が違うんだ。
違うのに、法然聖人のお言葉を得意の絶頂で示して退会者に博学を見せびらかすって意味あるの?
退会者は親鸞聖人の教えが知りたいのであって、親鸞聖人とは異なる信心と教えなんか知りたくなんだよ。
単なる構ってちゃんなんだね、かわいそうに。

Abcです

ルサンチマンさん 及び 異教義さん へ

こんばんわ、Abcです。
お初にお目にかかります、殊に異教義さんは「善導大師の教え」と「親鸞聖人の教え」の関連性についてお聞きになられたいのでしょうか。 若し、この文に眼を通されているならば、お手数かとは思いますがご返信の程よろしくお願いします。

なもあみだ なもあみだ
Abc

No title

「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」

これは19願なのですか?

「決定して」「一心に」「疑怯退心を生ぜず」「二尊の意に信順して」「かの願力の道に乗じて」

これは19願の信心ですか?
雑行の心ですか?

Re:名無しさん

こんばんわ、Abcです。

>「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ」

これは19願なのですか?

いいえ、これは18願の意です。

「なんぢ一心正念にしてただちに来れ。」は「世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来」の箇所にあたります。「やうもなく弥陀如来にたのみ申して候」ともいわれたりされます。

「われよくなんぢを護らん。」は「願生安楽国」に相当します。そもそも阿弥陀様は、「生死の苦海」に沈んでいく私たちを救う為に願を建立されたのですからこの箇所は「安楽国に往生する」という箇所に当たります。

最後に「すべて水火の難に堕することを畏れざれ」でありますが、現代語では「すべての水火の難に堕ちることを畏れるな」です。つまり、この箇所からも「自らの計らいを雑えるな」とも読めましょう。「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」であります。

---

「決定して」:「どの願に決定」するかが重要でありますが、「真宗」では「18願に決定する」であります

「一心に疑怯退心を生ぜず」:「一心に思い、疑い(怯え遮る)心をおこさず」ですね。「一心に専ら正念す」という言い換えもございます。

「二尊の意に信順して」:「釈迦・弥陀ニ尊の召しにあひて」ともいわれるところであります。この箇所にも「信頼」とあるとおり、「おまかせする」ということが要であると見受けられるかと思います。

「かの願力の道に乗じて」:「悲願の一乗帰命せよ」といわれる「悲願」に乗ずることであります。この箇所にある「道」というのは「白道」であり「念仏道」であり「一無碍道」であります。「18願に乗ずる」のでありますから19願ではございません

大変拙い説明とはなりますが、どうかご容赦ください。

帰命尽十方無碍光如来

「帰命」というは「南無」なり、釈迦・弥陀ニ尊の召しに相かなうことなり。
「尽十方無碍光如来」というは「阿弥陀仏」の別号なり、これ発願回向の義ともいえり。これ正しく他力回向なり。

Abc、

No title

Abcさんの説明通りなら、二河白道の譬えに19願の意、雑行の心はないと言えますが、法然聖人はそんなことも知らなかったと林遊さんは思っているのでしょうか?
違うでしょうね。
そんなことも知らない人がいたから、それは偽の白道だよと法然聖人が諭されたのでしょう。そんなことも知らない人の考え方を示したら、「法然聖人が仰っているから法然聖人の主張だ!」と親鸞会と同じ思考をしているのではないですか?
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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