「こんなことはできない」と行ずることを断念した人になおも実地にやらせる、これを虐待と言う
今週から仕事も通常モードだと思っていたら、年末年始にかけて受注された商品が一気に押し寄せています。せき止められていたダムの水が一気に放出されたようで、正直物量は年末並みかそれ以上です。年明けに注文して下さいねなんて申しておりましたが、ナメてましたね(;^ω^) 時期に限らずどうか、どうしても欲しい商品、どうしても通販でないと手に入らない商品以外は極力注文を控えて下さいと言うべきでした。
今から明日の午前中が怖ぇよ。まぁ焦って事故を起こすと配達どころではないので、いつも通り安全を第一に、落ち着いて、確実に配っていきたいと思います。
それにしても、当ブログにも年末より愚かなコメント群が押し寄せています。「真仮の門戸を知らず」とか、「通りでお聖教正しく読めない訳だ!」「仏教にあらず!」などと言う割に、聖教に基づいて正しい解釈を示してこないところが笑いものです。また、教義とは関係ないところをツッコんできて、具体的に淳心房の教義理解のここが間違いと指摘できないところが、親鸞会の無知ぶりを物語っています。
親鸞会も随分とレベルが下がったものです。飛雲さんに手も足も出ないものだから、標的を当ブログに変更したのでしょうかね? 正直のところ、高森会長始め息子や幹部会員、末端会員に至るまで如何に因果の道理、廃悪修善とは真逆の行動をしているかは今まで沢山、沢山聞き及んでいます。ただ、当ブログでは教義の誤りを明らかにするのが目的なので別段取り扱わないだけです。知りたい方は『さよなら親鸞会』等で明らかにされているのでそちらをご参照下さい。
退会者が間違いで、親鸞会の教義が正しいのであれば、聖教に基づいて正しい解釈をして退会者の誤りを暴けはよいのです。親鸞会の教義の誤りを扱っているにも関わらず、そこをツッコめない時点で勝負はついています。まぁ上の高森顕徹会長が公開法論から逃げに逃げ回っているので下ができないのは当然でしょうね。
↓↓↓
『飛雲』退会者からの非難に怯え、更なる退会者続出にも指を咥えて見ているだけの親鸞会
さて。今日の話はここからです。
5歳の次女はよく、まぁ次女だけではありませんけれども、できもしないことを「できる!」と超強気に言います。この間も、食パンを半分食べた後に「チキンラーメンが食べたい」と言ってきて、私や妻は「食べ切れないからやめときなさい」と勧めました。ところがなおも「全部食べられる!」と言い張るので、三女に少し分けてあげるという条件付きで食べさせることにしたのです。結果は案の定で、次女は半分も食べられずに終わりました。その後、よほど悔しかったのでしょう。泣きながら「全部食べられるって言ってない!」などと喚いていました(笑)
親鸞会では、私達は善ができると自惚れているから、実地にやってみなければできるかどうか分からず自力が廃らないと説き、因果の道理や十九願なんかを根拠に善(という名の組織拡大活動)を勧めています。
確かに、本人が「できる!」「やってみせる!」とカンカンに信じて疑ってないなら、できるものかどうか実地にやらせて分からせるという方法もありでしょう。ですが、行の内容を聞いて「こんなことはできない」と行ずることを断念した人になおも実地にやらせて分からせる必要があるでしょうか?
先ほどの例で言うと、もし娘が食べ切れないと思って食べることを断念したら、私はわざわざチキンラーメンの封を開けてお湯を注ぎ、食べさせようとはしませんでした。それをもし、
「いや、お前は腹底では食べ切れると思ってるんだから食べてみなさい」
と勧めたらどうでしょうか? そして、途中でお腹いっぱいになってもう無理となった娘になおも
「それではお前の自惚れ心は廃らないからもっと食べなさい」
と勧めたらどうでしょうか? もはやこれでは親の愛とか慈悲とかではなく、虐待です。
十九願の修行は、菩提心、すなわち四弘誓願を発し、心から浄土へ生まれたいと願って生涯様々な善根功徳を修めるというものです。果たして私達に、阿弥陀仏が聖衆を伴って迎えに来て下さり、浄土へ生まれる価値がある善根功徳を修めることができるのか。
他の方々はともかく、淳心房に限って言いますと、とてもできません。心は五欲を始めとする欲望が沸き起こり、怒り腹立ち、そねみねたむ心ばかり。常に三毒の煩悩が付き纏い、心から相手の幸せを願うことはおろか、自利利他円満して一切衆生をことごとく救い尽くそうなどという崇高な菩提心はとても起こせません。
加えてたまたま良いことをしても、それは浄土願生の心でしたものでは無いし、良いことをしたということを忘れることも難しいです。忘れないとそれが驕慢心の元になると先日お聞きしまして、いよいよ廃悪修善ということは、この五濁悪世の世で一般の社会生活を営みながらでは到底不可能であると知らされます。
宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分 三〇〇)といへり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義 四二七)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同 四三三)といへり。(「化身土文類」門余釈)
【現代語訳】
善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
親鸞聖人も仰せのように、我々には十九願の修行、『観経』顕説の定散二善はできないというのです。そりゃあそうですわ。法然聖人でさえ、
又云、『玄義』に云く、「釈迦の要門は定散二善なり。定者(は)息慮凝心なり、散者(は)廃悪修善なりと。弘願者如大経説、一切善悪凡夫得生」といへり。予(よが)ごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り。(『西方指南抄』)
と仰るんですから、私には無理に決まっています。十九願の修行、定散二善とはどのようなものかを聞けば、それを如実に実践するということが如何に不可能なことかは分かります。いくら努力をしても如実に実践することは不可能であり、それでは浄土に生まれることはできませんから、息慮凝心の定善、廃悪修善の散善、十九願の修行というものを親鸞聖人は一言もやれと仰っておりません。ですから私達もやる必要はありません。
会員の皆さんも、薄々気付いているんじゃないでしょうか? 自分には十九願の修行も、定散二善もできないということに。自分の心というものをよく見つめれば分かるはずですよ。悪ばっかり見えて、善心なんて無いようなものじゃないですか。それが分かった人は、今から十九願の修行をしようなんかとやらなくていいんです。直ちに十八願を聞いて、私の上にはたらいている南無阿弥陀仏の大慈悲心に気付かせて頂けばいいんです。
それを、我々は心の底では自惚れて「できる」と思っているんだからなんかと言って執拗に善を勧める理由は、明らかに会員の獲信・往生とは別のところにあります。「できる!」「やってみせる!」と会員の皆さんが心からそう思っているならそりゃあやってみたらいいですけど、どうですか?
自分にはそんな心を起こしてそんな行をするなんてできないと思っている人になおも
「いや、お前は腹底ではできると思ってるんだからやってみなさい」
「それではお前の自惚れ心は廃らないからもっとやりなさい」
と執拗に勧めることは、先ほどの例で紹介したように虐待に他なりません。こうした虐待に加えて彼らがやっていることは指摘、指摘、指摘でしょう? 通りで会員の中には精神的にまいってしまう人が少なくないわけです。
「唯一絶対にして真実の宗教」などと謳っている割に、その真実の教えとやらによって救われている人が皆無同然である理由を、会員の皆さんは今こそよく考えてみるべきでしょう。また、自分がその教えを実践できるのか、自分はその教えによって今助かるのか、こういったこともよく思いを巡らせてみましょう。
今から明日の午前中が怖ぇよ。まぁ焦って事故を起こすと配達どころではないので、いつも通り安全を第一に、落ち着いて、確実に配っていきたいと思います。
それにしても、当ブログにも年末より愚かなコメント群が押し寄せています。「真仮の門戸を知らず」とか、「通りでお聖教正しく読めない訳だ!」「仏教にあらず!」などと言う割に、聖教に基づいて正しい解釈を示してこないところが笑いものです。また、教義とは関係ないところをツッコんできて、具体的に淳心房の教義理解のここが間違いと指摘できないところが、親鸞会の無知ぶりを物語っています。
親鸞会も随分とレベルが下がったものです。飛雲さんに手も足も出ないものだから、標的を当ブログに変更したのでしょうかね? 正直のところ、高森会長始め息子や幹部会員、末端会員に至るまで如何に因果の道理、廃悪修善とは真逆の行動をしているかは今まで沢山、沢山聞き及んでいます。ただ、当ブログでは教義の誤りを明らかにするのが目的なので別段取り扱わないだけです。知りたい方は『さよなら親鸞会』等で明らかにされているのでそちらをご参照下さい。
退会者が間違いで、親鸞会の教義が正しいのであれば、聖教に基づいて正しい解釈をして退会者の誤りを暴けはよいのです。親鸞会の教義の誤りを扱っているにも関わらず、そこをツッコめない時点で勝負はついています。まぁ上の高森顕徹会長が公開法論から逃げに逃げ回っているので下ができないのは当然でしょうね。
↓↓↓
『飛雲』退会者からの非難に怯え、更なる退会者続出にも指を咥えて見ているだけの親鸞会
さて。今日の話はここからです。
5歳の次女はよく、まぁ次女だけではありませんけれども、できもしないことを「できる!」と超強気に言います。この間も、食パンを半分食べた後に「チキンラーメンが食べたい」と言ってきて、私や妻は「食べ切れないからやめときなさい」と勧めました。ところがなおも「全部食べられる!」と言い張るので、三女に少し分けてあげるという条件付きで食べさせることにしたのです。結果は案の定で、次女は半分も食べられずに終わりました。その後、よほど悔しかったのでしょう。泣きながら「全部食べられるって言ってない!」などと喚いていました(笑)
親鸞会では、私達は善ができると自惚れているから、実地にやってみなければできるかどうか分からず自力が廃らないと説き、因果の道理や十九願なんかを根拠に善(という名の組織拡大活動)を勧めています。
確かに、本人が「できる!」「やってみせる!」とカンカンに信じて疑ってないなら、できるものかどうか実地にやらせて分からせるという方法もありでしょう。ですが、行の内容を聞いて「こんなことはできない」と行ずることを断念した人になおも実地にやらせて分からせる必要があるでしょうか?
先ほどの例で言うと、もし娘が食べ切れないと思って食べることを断念したら、私はわざわざチキンラーメンの封を開けてお湯を注ぎ、食べさせようとはしませんでした。それをもし、
「いや、お前は腹底では食べ切れると思ってるんだから食べてみなさい」
と勧めたらどうでしょうか? そして、途中でお腹いっぱいになってもう無理となった娘になおも
「それではお前の自惚れ心は廃らないからもっと食べなさい」
と勧めたらどうでしょうか? もはやこれでは親の愛とか慈悲とかではなく、虐待です。
十九願の修行は、菩提心、すなわち四弘誓願を発し、心から浄土へ生まれたいと願って生涯様々な善根功徳を修めるというものです。果たして私達に、阿弥陀仏が聖衆を伴って迎えに来て下さり、浄土へ生まれる価値がある善根功徳を修めることができるのか。
他の方々はともかく、淳心房に限って言いますと、とてもできません。心は五欲を始めとする欲望が沸き起こり、怒り腹立ち、そねみねたむ心ばかり。常に三毒の煩悩が付き纏い、心から相手の幸せを願うことはおろか、自利利他円満して一切衆生をことごとく救い尽くそうなどという崇高な菩提心はとても起こせません。
加えてたまたま良いことをしても、それは浄土願生の心でしたものでは無いし、良いことをしたということを忘れることも難しいです。忘れないとそれが驕慢心の元になると先日お聞きしまして、いよいよ廃悪修善ということは、この五濁悪世の世で一般の社会生活を営みながらでは到底不可能であると知らされます。
宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分 三〇〇)といへり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義 四二七)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同 四三三)といへり。(「化身土文類」門余釈)
【現代語訳】
善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。
親鸞聖人も仰せのように、我々には十九願の修行、『観経』顕説の定散二善はできないというのです。そりゃあそうですわ。法然聖人でさえ、
又云、『玄義』に云く、「釈迦の要門は定散二善なり。定者(は)息慮凝心なり、散者(は)廃悪修善なりと。弘願者如大経説、一切善悪凡夫得生」といへり。予(よが)ごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り。(『西方指南抄』)
と仰るんですから、私には無理に決まっています。十九願の修行、定散二善とはどのようなものかを聞けば、それを如実に実践するということが如何に不可能なことかは分かります。いくら努力をしても如実に実践することは不可能であり、それでは浄土に生まれることはできませんから、息慮凝心の定善、廃悪修善の散善、十九願の修行というものを親鸞聖人は一言もやれと仰っておりません。ですから私達もやる必要はありません。
会員の皆さんも、薄々気付いているんじゃないでしょうか? 自分には十九願の修行も、定散二善もできないということに。自分の心というものをよく見つめれば分かるはずですよ。悪ばっかり見えて、善心なんて無いようなものじゃないですか。それが分かった人は、今から十九願の修行をしようなんかとやらなくていいんです。直ちに十八願を聞いて、私の上にはたらいている南無阿弥陀仏の大慈悲心に気付かせて頂けばいいんです。
それを、我々は心の底では自惚れて「できる」と思っているんだからなんかと言って執拗に善を勧める理由は、明らかに会員の獲信・往生とは別のところにあります。「できる!」「やってみせる!」と会員の皆さんが心からそう思っているならそりゃあやってみたらいいですけど、どうですか?
自分にはそんな心を起こしてそんな行をするなんてできないと思っている人になおも
「いや、お前は腹底ではできると思ってるんだからやってみなさい」
「それではお前の自惚れ心は廃らないからもっとやりなさい」
と執拗に勧めることは、先ほどの例で紹介したように虐待に他なりません。こうした虐待に加えて彼らがやっていることは指摘、指摘、指摘でしょう? 通りで会員の中には精神的にまいってしまう人が少なくないわけです。
「唯一絶対にして真実の宗教」などと謳っている割に、その真実の教えとやらによって救われている人が皆無同然である理由を、会員の皆さんは今こそよく考えてみるべきでしょう。また、自分がその教えを実践できるのか、自分はその教えによって今助かるのか、こういったこともよく思いを巡らせてみましょう。
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