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高森顕徹会長の与太話を「火の中かき分けて聞いた」らしい現役カルト信者

どうやら現役カルト信者は高森顕徹会長の与太話を「火の中かき分けて聞いた」らしいです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
どこまでも高森教の現役カルト信者だね。なんちゃって獲信者なんて所詮そんなもんだ。悔しければ反論してみなよ。聖教に基づいてね♪ 高森教での知った覚えたをいくら語ってもこちとら何も響かない。
2019-03-04(07:40) : 淳心房



もどき房
響かないのは当然
火の中かき分けて聞いた、という事が無いから♪
2019-03-04(08:22) : 元会員

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恐らく、(彼ができる限りの)自力の命がけの聞法をしたということでしょうが、もしそれで救われるなら同行にも勧めるはずです。しかしなぜか彼は「元会員」となり、高森顕徹会長の講演の日はモンハンで遊んでいる有り様です。この事実一つ取っても、彼の創作話であることが知られます。

第一、現役カルト信者ができる程度の「火の中かき分けて聞いた」という行為で信心獲得できるなら、彼より熱心な講師部員や会員は沢山いますので、皆さん信心獲得しているはずです。家賃滞納とか色々な痛手の中、《平生業成》を目指してた方もありますが、親鸞会内はそのように様々な事情を抱えた中で、日々懸命に活動し、高森会長の講演に一縷の望みをかけて聞きに行っている人ばかりかと思います。その中、自分は助かったからなのか知りませんが「元会員」となって遊んでいるような輩は、コメントにもあるように「信後に聞く気が無くなるところは高森会長に楯突く気満々」というわけでしょう。


さて、現役カルト信者がそんなことを言うのも、高森会長の「とにかく命がけでワシの話を聞け」の影響下にあるからに違いありません。しかし、これも間違っています。親鸞聖人は「とにかく命がけでワシの話を聞け」などと同行に勧めてはいません。以下、

『飛雲』自力の聞しか知らない高森顕徹会長と会員の関係は、善鸞と善鸞の言うことを信じて親鸞聖人の元に行く気のない同行

より引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
高森会長が命がけで聞けと言っている根拠として挙げているのが『歎異抄』第2条や『浄土和讃』の

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり


などですが、異安心で聖教を読んだことのない高森会長に、親鸞聖人がどのような御心でこれを仰ったのか判る筈もないでしょう。
間違いを指摘しないと、良い気になっていつまでも言い続けますので、正しい意味を教えて差し上げます。

この和讃の元になった根拠が、『教行信証』行巻にいくつか引かれています。

まずは『平等覚経』から

かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして大利を得ん。
われらが類この徳を得ん。もろもろのこの刹に好きところを獲ん。
無量覚その決を授けん。
《われ前世に本願あり。一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとくわが国に来生せん。
わが願ずるところみな具足せん。もろもろの国より来生せんもの、
みなことごとくこの間に来到して、一生に不退転を得ん》と。
すみやかに疾く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
(中略)
たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば、
かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし〉


(現代語訳)

釈尊は、<このような人々は、仏の名号を聞いて心楽しく安らかに大きな利益を得るであろう。わたしたちもこの功徳をいただいて、それぞれこのようなよい国を得よう。無量清浄仏は衆生の成仏を予言して、≪わたしは前世に本願をたてた。どのような人も、わたしの法を聞けば、ことごとくわたしの国に生れるであろう。わたしの願うところはみな満たされるであろう。多くの国々から生れてくるものは、みなことごとくこの国に至ることができるのである。すなわち、来世をまたずに不退転の位を得るのである≫とお述べになった。阿弥陀仏の安楽国に、速やかに往くことができる。
(中略)
たとえ世界中に火が満ちみちていても、その中を通り過ぎて法を聞くことができるなら、必ず仏となって、すべての迷いを超えるであろう>と仰せになった


次に『安楽集』に引用されている曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』から

もし阿弥陀の徳号を聞きて歓喜讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとす。たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かばまた退せず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる

(現代語訳)

もし阿弥陀仏の功徳の名号を聞き、喜びたたえて信じれば、わずか一声念仏するだけで大きな利益を得て、功徳の宝を身にそなえることができる。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき阿弥陀仏の名号を聞くがよい。仏の名号を聞けば、不退転の位に至る。だから心をこめて礼拝したてまつる

更には『往生礼讃』より

弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。
(現代語訳)

阿弥陀仏の智慧の誓願は、海のようであり、限りなく深く果てしなく広い。名号を聞いて往生を欣えば、みなことごとく阿弥陀仏の国に至る。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき、仏の名号を聞け。名号を聞いて喜びたたえるなら、みな間違いなくその国に往生することができる。

とあります。
古文も現代文も読みこなす力のない高森会長と愉快な仲間達には上記の御言葉を理解することは無理でしょうから、簡単な説明だけすると、親鸞聖人はこれらを行巻に引かれていて、化土巻には引かれていないということがポイントです。行巻は真実の行、化土巻は方便の行と信について書かれてあることは高森会長でも知っている基礎の基礎です。

つまり、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」聞くことは、真実の行なのです。言い換えると他力の行です。

要するに、自力で命がけで聞けと親鸞聖人が仰ったのではないということです。

それと関東の同行が命がけで親鸞聖人の元まで来たのは、教え自体に対する疑問が出てきたからです。念仏では救われないのでは、念仏以外の行をしなければならないのでは、という根本的な疑問を解消するために京都まで来たのであって、親鸞聖人の御説法を聞きに命がけで来たのではないのです。

親鸞会の会員に置き換えるなら、高森会長と本願寺や退会者とは言っていることが全く違うのだから、それを確かめようと親鸞聖人の元に来る=親鸞聖人の御著書を読むことになる筈です。ところがそれをしていないのは、善鸞や他宗の僧侶の言うことを真に受けて確かめようとしないのと同じです。
親鸞聖人の仰ったことと違っていても良い、善鸞の言うことを信じます、と言っているのが現在の親鸞会会員の心です。

そんな会員に、関東の同行の心など、到底理解できないでしょう。土蔵秘事に類する高森会で搾取されながら満足するしかない会員は哀れと言うより言いようがありません。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

親鸞聖人が他力の行として仰ったことを自力の命がけの行と錯覚し、それを実行したつもりになり、信心獲得したつもりになっているのが現役カルト信者です。それはなんちゃって二種深信と、創作『二河白道の譬え』の思い込みによる妄想の「弥陀の呼び声」を聞いた体験談により分かることですが、それについては今回は省略します。いつまでも高森教に染まって脱出する気のない信者は哀れ哀れです。
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やっとわかりました。

淳心房様

たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり

長年の疑問がまた一つ解決できたように思います。

親鸞会から吹き込まれた教義から持った「みてらん火をもすぎゆきて」のイメージは
「修験道の火渡の修行」
「聴聞開場が火事で燃えていても、姿勢一つ崩さず聴聞を続ける姿」
でした。どちらもバリバリの自力の行です。
よくよく考えたら、全世界が火の海になっているわけで、すぎゆくためには数mのたき火の火を裸足でチョロチョロ走る修行とは比べられない世界で、走っても走っても火の海の中にいるわけです。

今一度、「大千世界の火」とはなにかと考えてみましたが、これは実際の火ではなく、燃え盛る私の「煩悩の火」ではないかと思いました。どこまでいっても「煩悩の火」のまっただかにいる煩悩具足の私。聖道の修行で、火を消そうとしたり、走り抜けようとしても何しろ大千世界に広がっているので、力およばずとても太刀打ちできない。

ご和讃の元になった曇鸞大師の「讃阿弥陀仏偈」では
「たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。」
と「ただちに」という言葉が書かれていますから、阿弥陀仏の力、他力以外にはないと思いました。私の力では絶対に大千世界に満ちた火を過ぎることなどできないのですから。

「大千世界が火の海でも、真剣に、気合を入れて、ひたすら走れ」というのが、親鸞会の教義であると思います。もちろん、この「走れ」は会の活動をしろということ。「自力を捨てて、すべて阿弥陀仏におまかせしろ」という教えと逆行していると思いました。

以上ですが、元会員様のコメントは、いりません。

恥ずかしながら、退会ドコロか…

拙ブログは《2019/3/5のひとりごと》のページに、
リンクを貼っていただけたのですが…

私など、家賃滞納(1か月分かと思ってたのが、実は3か月分だった)などで
親鸞会を退会ドコロか、入会するにも先立つモノがなかった状態でして、
《高森さんの講演に一縷の望みをかける》すらままならなかったです
(ソレ以外にも、引っ越し強制とか、色々と…)。

…なんか私は、そーいった災難とか受けやすい《業》みたいで、
昔も今も、信前信後でも、相も変わらずです。

…今、思いかえしますに…
《絶対の幸福》にならなければ《必堕無間》とか…
親鸞会に入ってなくて良かったとは思います。

コメント返信

園児様

私達が自力成仏を目指すなら、それこそ「大千世界にみてらん火をもすぎゆ」かねばなりません。それは堅固な菩提心を保ち、永劫の修行を重ねて歩む難行道です。ところが我々には菩提心を発すどころか、まことに浄土を願う心すらありませんから、とても歩める道ではありません。だから、『大経』や『平等覚経』、『讃阿弥陀仏偈』や『往生礼讃』、またお示しの

たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり

の御和讃にある「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきく」というのは他力の行を顕すのだと示して下さったわけですね。

なお、ここからは味わいになりますが、本来私が越えていかねばならない大千世界にみてらん火を、阿弥陀さまが越えて来至して下さったのかと思われます。これと、二河白道の譬えを合わせて考えますに、園児さんの

燃え盛る私の「煩悩の火」

を言われているのはまこと理にかなっているなと思いました。東の岸まで願力の白道が至り届き、煩悩の火を越えて南無阿弥陀仏という本願招喚の勅命が私に至り来て下さった。そのおかげで、私は死ぬまで煩悩具足であり続けながらも、願力の白道を一歩一歩歩ませて頂く必定の菩薩とならせて頂けたわけです。だから、「仏の御名を聞く」他力の行、すなわち念仏とは「大千世界にみてらん火をすぎる」に相当する価値がある、まさに浄土往生の正しき行業と言えるのではないかと推察されます。

有難くて、なんまんだぶ、なんまんだぶとしか言い様がありません。



まあち様

「ひとりごと」引用させて頂きました。
私はまあち様ほど経済的に困ったことはありませんでしたが、それでも安月給の中富山まで通うのは肉体的にも精神的にもしんどかったです。特に《絶対の幸福》にならなければ《必堕無間》という不安は事あるごとにつきまとい、辛かったですね。本当に、入会せずに済んで良かったと思います。私にはまあちさんのそういった状況が転じて本願を信じ念仏するご縁と成って下さったのではないかと思われますね。

信心が有ろうが無かろうが、全てが上手くいくわけではありませんからね・・・。経済的に困ることもあるし、怪我や病気にだってなるし、煩悩は変わらないし、法をお聞かせ頂かなかったら何か変化があったかなと言っていいくらい、生活していく分には変化がありません。そのような私が正定聚とはまことに法の徳であって有難いことです。

Abcです

こんばんわ、Abcです。

『和讃』には、

たとひ 大千世界 に みてらん火 をも すぎゆきて
仏の御名 を きくひとは ながく不退に かなふなり

 ↓ [漢字表記]

縦ひ 大千世界 に 見照らん火 をも 過ぎ行きて
仏の御名 を 聞く人は 永く不退に 叶ふなり

 ↓ [古文 → 現代語]

 もし、 大千世界(娑婆世界) にあって、 照らしつづける火 (ご指摘の通り、[煩悩の火]です) を 傍において、(かたわらにして、)
 南無阿弥陀仏の名号 を 聞かせていただいたならば、現生においては不退の位(正定聚)に居し(こ・し)、当生においては弥勒とともに居すのである。

です。ここに今記しました、「かたわらにして」に関連させますと、

『選択集』
 「正行を修せん欲はば二業のなかに、なほ助業傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。」

の「かたわらにして」と同じであります。

 おわりに
今回は、文献の引用にて終始いたしましたが、この『和讃』が言われていることは、以上のことであります。どうぞ、御一読ください。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

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Abc様へ

Abc様 詳しい解説ありがとうございました。

……………………………………………………………………
たとひ 大千世界 に みてらん火 をも すぎゆきて
仏の御名 を きくひとは ながく不退に かなふなり

 ↓ [漢字表記]

縦ひ 大千世界 に 見照らん火 をも 過ぎ行きて
仏の御名 を 聞く人は 永く不退に 叶ふなり
……………………………………………………………………

「みてらん火」を「満てらん火」「充てらん火」とした表現は見たことがありますが、「見照らん火」と書けることは知りませんでした。
私は大経にあります「設有大火充満三千大千世界、要当過此聞是経法」から「満てらん火」であると思っておりました。しかし、「見照らん火」の方がはるかに私に迫ってくるように思います。ご和讃の世界が広がりました。ありがとうございます。

「すぎゆきて」は「過ぎ行きて」なんですね。
さらに意味は「かたわらにして」 となるのですね。私はずっと「火の中を突破しなさい」というイメージを持っていましたが、むしろ「火の横を通りすぎなさい」という方が近いのでしょうか。ずいぶんと意味合いが違うように思います。

なぜ、私が「火の中を突破しなさい」というイメージを持っていたかの理由は今はよく分かります。
親鸞会ではこのご和讃を解説するときに蓮如上人の歌として
「火の中を わけても法は 聞くべきに 雨風雪は ものの数かは」
が添えられて説明されます。しかし、この歌が蓮如上人の歌でないことを下記サイトで知りました。
http://kondoutomofumi.blog121.fc2.com/blog-entry-241.html
作者は花園天皇ということです。花園天皇のお味わいを云々するつもりはありませんが、蓮如上人の名前を出し、真宗の教義として出してくることで肝心なご和讃の理解を遠ざけるものだと思います。

また、色々と教えていただければ幸いです。

花園天皇

補足ですが、花園天皇は臨済宗妙心寺派の妙心寺を作った天皇です。妙心寺といえば有名な方と言えば山田無文老師がおられました。

チュウビ様

補足ありがとうございました。ウィキペディアで関連をちょっと調べたら、京都にある花園大学は臨済宗妙心寺が設立した大学なんですね。西本願寺に対しての龍谷大学や東本願寺に対しての大谷大学と同じような関係みたいです。花園天皇のお名前にあやかっての花園大学なんですね。他宗や京都のことはなかなか分からないのですが、勉強になりました。花園天皇、花園大学…ともにきれいな名前です。

No title

ども、林遊@なんまんだぶです。

高森親鸞会の方は、仏教における譬喩と現実を混同するのかな?
大千世界という表現から譬喩ということが判るのだが。

「譬喩」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E8%AD%AC%E5%96%A9

(31)
 たとひ大千世界に
  みてらん火をもすぎゆきて
  仏の御名をきくひとは
  ながく不退にかなふなり

このご和讃は園児さんが示しているように、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』を和讃されたものです。出拠は『無量寿経』の流通分p.81の文からですが、御開山は『教行証文類』では引文されておられません。
しかし、「阿弥陀を聞けば、また退かず」の文が『讃阿弥陀仏偈』にあることから、なんまんだぶを聞けば不退転(正定聚)であるという意を示す語として和讃されたのでしょう。
http://wikidharma.org/5c825150657b1

ですから、このご和讃の主題は、聞名不退転を示すためでした。

其仏本願力 聞名欲往生
その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、
皆悉到彼国 自致不退転
みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。

の文を、行巻(p.142)で引文され、信巻(p.250)では前段を引文されておられました。
御開山にとっては、なんまんだぶと称え、なんまんだぶと聞くことが大事な意味を持っていたのでした。
それは、法然聖人の示された

 ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。 かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。 

「可聞可称」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%8F%AF%E8%81%9E%E5%8F%AF%E7%A7%B0

という「口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし」という可聞可称の名号法のご法義であるからでした。
御開山は、この声を「本願招喚の勅命」と言われたのであって、観念的な心に描く「呼び声」ではなかったのでした。その意味で、御開山は天台の観念的な宗教から法然聖人の提唱された実践的な凡夫の宗教に転向されたのでした。
その凡夫のための宗義こそ、大乗仏教の精緻であることを論証するために、『論註』の教学を採用し、聖道経典である『華厳経』や『涅槃経』を引文し、浄土で仏に成ることが真実であることを顕すために『顕浄土真実教行証文類』を著されたのでした。
その意味では、『顕浄土真実教行証文類』は、無茶苦茶難しい書物でした。
梯和上は、「教行証文類のこころ」という講義の中で、

 つまりね、一生かかって読んでもね、わからんほどの書物に遇えたから、自分の生きてきた人生に意味があった、というようなことを感じさせる書物なんですね。解ってもたら、なんじゃい、この程度のもんかいというようなもんです。本当はそんなものです。そうじゃなくて、一生かかっても解らない、しかし解らないからなんにも解らないんじゃないんですよ。その触れたところ、触れたところで、ぴたーっと光るようなものに出合いますからね。全体像はつかめません。これははっきり言いまして、私は『教行証文類』の全体像はよお掴めません。これが掴めたらわしゃあ御開山より偉ぉなるんじゃけど、そうはいかん。それは掴めません。けれどね、随所、随所に光る言葉がね、それが私たちの人生を照らして下さる。そういう意味で、『教行証文類』。まあ何ですわ、毎日こぉ、拝読さして頂いて、楽しんでいるわけでございます。
http://wikidharma.org/5c825c9bee043

と、仰ってましたが、教学を論ずるならば、高森親鸞会の妄想に付き合うより、より正確に御開山の意図を窺がうような学びをした方がよいですね、知らんけど。

ともあれ高森親鸞会では、短冊教学(浄土真宗の古参の門徒は高森氏の教義を、短冊教義と揶揄していた)は、聖教上の出拠が定かではないのですが、高森顕徹氏が世俗の説教本や談義本から自分の意に合うものだけを抽出したのであって、正統な真宗教義から見れば噴飯物だったりします。
ともあれ、自動車工学の教授は、理論を論ずることは出来るのでしょうが、ウチの家内は自動車工学には全く無縁で、エンジンについても全く知らないなのですが、自由に車を運転しています。
同じように、全く教学(理論)を知らなくても、なんまんだぶを称える生き方は、念仏成仏これ真宗と御開山が言いなさったと、愚直になんまんだぶを称えて往生成仏を期してきたのが幾千万の我らの同行・同朋でした。選民思想の高森親鸞会の方は、これが判らんのです。

 たとひ大千世界に
  みてらん火をもすぎゆきて
  仏の御名をきくひとは
  ながく不退にかなふなり

なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたいこっちゃなあ




論ずる以前の問題だと思います

林遊様 詳しいご教説ありがとうございました。

>高森親鸞会の方は、仏教における譬喩と現実を混同するのかな?
>大千世界という表現から譬喩ということが判るのだが。

親鸞会では釈尊の説かれた比喩を都合のよいように利用しています。「〇〇経にはこう説かれる」という形で書かれますが、実際の経典をみてみると全く違っていることも多々あります。有名なものは親鸞会の「無常の虎」と『仏説譬喩経』の「黒白二鼠の譬え」が全く異なっていることがあります。
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/post-bc8c.html

他にも「四馬の譬え」「四人の妻」などがあります。「四馬の譬え」はグーグルなどで
検索:「四馬の譬え」
検索:「四馬の譬え 親鸞会」
それぞれ検索すると譬えの内容が違っていることが誰の目にも明らかにわかります。

「四人の妻」については
検索:「四人の妻」
とすると仏教に限らず多くの説話がヒットします。しかし
検索:「四人の妻 親鸞会」
としても出てきません。代わりに
検索:「三人の妻 親鸞会」
とすると山のように親鸞会関連サイトがヒットします。つまりは親鸞会では本来の「四人の妻」である話から一人を除いて「三人の妻」として話をしているのです。なんという改ざんぶりでしょうか。
(このことに気付かせていただいたのはユーチューブにアップされている下記のご法話でした。ありがとうこざいます。
https://www.youtube.com/watch?v=19DMmAsPKGU)

釈尊の渾身の教えを勝手に改ざんして、流布することは仏弟子としてはあってはならないことと思います。改ざんしていては釈尊の真意が伝わるはずはありません。また、会長の改ざん話をコピー&ペーストして自分のブログなどに誇らしげに書いている会員も同罪と思います。林遊様が「仏教における譬喩と現実を混同するのかな?」とお考えの以前のように思います。

園児様へ

>このことに気付かせていただいたのはユーチューブにアップされている
下記のご法話でした。ありがとうこざいます。

久保光雲先生(浄土真宗本願寺派)の御法話
《仏教講座 四人の妻》ですね。

お金持ちの王様が、遠くへ長い旅に出る=死ぬ時、
《肉体》を象徴する第一夫人も、
《お金》を象徴する第二夫人も、
《家族・友人》を象徴する第三夫人もついていかず、
《業(カルマ)》を象徴する第四夫人ダケがついてゆく…
ですか。

早速、《三人の妻 親鸞会》で検索しますと…
《業(カルマ)》の象徴である第四夫人ダケがついていく
トコロが端折られておりますね。
《業(カルマ)ダケは死んでもつきまとう》こそが、
一番大事なトコロなのに…?

…《四馬の譬え》にしましても、親鸞会では
《四頭の馬に優劣をつけてる》よーで。
本来は、四頭の馬の優劣ではなくして
《苦しみに気付くことこそ大事》なのに…?

最後に…
久保光雲先生の御法話は、本当にわかりやすいです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

まあち様

>早速、《三人の妻 親鸞会》で検索しますと…
>《業(カルマ)》の象徴である第四夫人ダケがついていく
>トコロが端折られておりますね。
>《業(カルマ)ダケは死んでもつきまとう》こそが、
>一番大事なトコロなのに…?

まったくその通りです。「三人の妻」の話であれば仏教の話ではなく、単なる道徳の話になってしまいます。四人目の妻の話が出てきてはじめて、業の話や三世の話につながり仏教の話となります。親鸞会の人間はそういった事を確認せずに盲目的に理解して、もっともらしく人に伝えていきます。思考停止と言われても反論できないはずです。

かく言う私も久保光雲先生のご法話を拝見していて「四人の妻」と出てきて、「あれ?四人?三人じゃないの?」とビックリして調べて知りました。
「親鸞会の譬えはあやしい」と今ではすべて疑ってかかっています。

親鸞会の教え知らない、まあち様は幸せです。私には残念ながら余分な染みが一杯あります。今後も染み抜きをかねて報告させていただきます。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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