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浄土門では常識の「願生心」「欣慕浄土」が何のことだかサッパリ分からない高森教徒

浄土門で「願生心」「欣慕浄土」というのは当然のことですが、これがサッパリ分からないのが高森教徒です。以前、火星人がTENさんのブログで「願生心」についてまともに答えられなかったのも、ルパンさんが

「浄土を欣慕せしむるなり。」の意味がよく分かりません

と聞いてきたのも、更には現役カルト信者が弥陀の呼び声「そのまま来い」とは「どこへ」来いということかについて渋々「弥陀の浄土」と答えていることも、その理由は浄土門では常識の「願生心」「欣慕浄土」について全くの無知であるからだと思われます。


親鸞聖人は「化身土文類」にて聖道門の意義

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

【現代語訳】
総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

について述べられた後、浄土門の意義についても次のように教えられています。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。

【現代語訳】
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。

この世界で聖者となってさとるか、浄土に往生してさとるかの違いはありますが、どちらにしても目的は

究極のさとりである仏陀のさとり、さとりの必然である一切衆生の救済

であることが判ります。仏教の目的はあくまでも成仏、その道として難行道(聖道門)と易行道(浄土門)の二種の勝法があるというのです。その内、聖道門は難劣であり、末法の世においては行証久しく廃れた時機不相応の法であるから捨てて、勝易であり、末法・法滅の時でも衰退することのない時機相応の法である阿弥陀仏の本願によって往生し、さとりを得なさいと教えられたのが親鸞聖人でした。

ですから、親鸞聖人の教えを聞いた人の心に当然起きてくるのが「願生心」であり「欣慕浄土」の心なのです。この世は醜いなぁ、まさに五濁悪世だなぁと思うと同時に、自分はもっと浅ましい、もっと醜いと気がつくにつけ、そんな世の中、そんな自分を厭い捨てて、清らかな浄土、そしてこの上ないさとりを求める気持ちが起きてまいります。それが「願生心」であり「欣慕浄土」の心なのです。浄土門の常識、基本中の基本です。


ところが親鸞会では、この常識、基本中の基本に触れることはほとんどありません。親鸞会では人生の目的は永遠に変わらない、崩れない幸福というところから「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を教え、信心決定というのはその「絶対の幸福」とやらになったというハッキリスッキリ体験であるといい、「絶対の幸福」とやらになった人の必然の未来として浄土往生する、というように、現世の利益を強調しているからです。

時折、「仏教を聞く目的は後生の一大事の解決」などと言ったりしますが、それは死後の地獄脅しで会員の尻を叩いて組織拡大活動に向かわせるためです。会員の目的は、死後の浄土往生も有難いが、何よりも現在只今の苦悩を取り除いて「絶対の幸福」になりたい、ハッキリしたい、安心したい、満足したい、求めているものを得たい、というこの世の幸福にあり、浄土往生は「絶対の幸福」の必然として得られるオマケ的な意味合いしか無いのではないでしょうか。

このように、目的が浄土往生ではなく「絶対の幸福」にあるとすれば、「願生心」「欣慕浄土」の心が分からないというのは当たり前の当たり前の話です。浄土に生まれたいと願う心も、浄土を慕い欣う心も無いわけですから、ピントコーンのは当然です。それをさも知ったつもりの体で話をしようとしているのですから、ちょっとツッコまれるとろくな返答ができんというわけです。


法然聖人、親鸞聖人は、阿弥陀仏の19願は諸行の人、つまり聖道門でこの世界でさとろうとしている人を浄土門に導き入れるための方便願であるとみられています。ですから、すでに親鸞聖人の教えによって18願が真実の願であると知らされ、18願の行信を頂いて浄土往生しようという人には、還って廃捨すべき権仮方便の法門なのです。実際、19願は二双四重の教判で言えば横出にあたる浄土門内の自力の教えで、定善や散善といった三福・九品の行を修め、さとりまで長い時を費やす漸教であって、臨終の来迎がないと往生できず、来迎があったとしても方便化土へしか往生できない権仮方便の法門であると教えられています。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

【現代語訳】
雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

浄土門の意義について述べられた後、聖人は浄土門内の自力の教えについてこう仰せです。このような位置づけである19願を親鸞聖人が勧めておられるわけがないでしょう。親鸞会の人間は、高森教で得た知識を振りかざして、聖教に根拠の無い珍説をばらまいているだけの高森教徒であると判ります。


速やかに迷いの世界を離れようと思うならどうしたらいいのか、法然聖人は次のように仰せです。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

【現代語訳】
そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

上は「行文類」三選の文引文のお言葉ですが、『選択本願念仏集』でも同様に言われています。

聖道門を閣きて、もろもろの雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもつぱらにすべし

これが法然聖人のお答えです。親鸞会が勧める19願は自力雑行の教えですが、それは

もろもろの雑行を抛ちて

速やかに迷いの世界を離れようと思うなら雑行を投げ捨てよ、放り捨てよと仰っています。この「三選の文」を真実行を顕す「行文類」に引文されている時点で、親鸞聖人が19願を勧めているなどあり得ないと判ります。

そして親鸞聖人は、上の「三選の文」を引文された後、阿弥陀仏の名を称する称名念仏は、自分の計らいによって称えているものではなくて、本願力によって与えられ、称えさせられている他力回施の大行であるとして

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

と仰せられています。雑行を勧めている時点で、それは「念仏成仏」の否定です。「念仏成仏」を否定しておいて親鸞会の教えが正しいなど、それは高森教の中でのみ通じることであって、そんなものは真宗内では一切通じない独自の珍説であります。


それで、何度も何度も

親鸞聖人が19願を勧めている根拠は何ですか?

と聞き、昨日は

次で根拠を示さない場合は、コメントを拒否する設定にします。きちんと返答して下さい。

と通告したにも関わらず、ルパンさんの本日のコメントには根拠は無く、相変わらずの自説の披露のみでした。よって、通告通りルパンさんからのコメントは拒否する設定にしましたので皆様にご報告致します。

ルパンさんは、もし根拠が見つかりましたら

singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

までご連絡下さい。拒否設定を解除して、議論をやり直します。なおメールでも自説の披露に留まり、根拠を示さない場合は返信もしませんし拒否設定も解除しません。以上、よろしくお願いします。



【追記】
ルパンさんはコメントの中で

親鸞会では、宿善を求めよと何度も何度も耳が痛い程に言います。厚くする方法が1.聴聞2.勤行3.六度万行です。この行為は一向専念無量寿仏を自力一杯に行う行為であり、自力念仏に等しい行為だと認識しています。この道が即ち三願転入の道だと言いたいのです。

と言っていますが、そんな教えは親鸞聖人にはありません。蓮如上人の教えられる「宿善」も、薄い宿善を厚くせよという意味で教えられている箇所は一箇所もありません。ですから、蓮如上人の『御文章』を根拠として

親鸞聖人は19願を勧められている

とは言えないのです。残念でしたね。なお「宿善」については

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(1)

から12回に分けて記事を書いていますので、まだご覧になっていない方は参照して下さい。高森教徒が思いつきそうなことは、すでに飛雲さんか誰かの手によって破られていることを知るべきです。
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お疲れ様でした。

根拠は一年たっても出せず、充電期間に学んだと思ったけど充電できてなかったようですね。
火星人ルパンさんの問題にしているところは、いつも自分の心、こころがけでした。雑毒の善の連呼や善人さまの言い方や親鸞会の組織悪を問題とせず、あくまでその人その人の受けとめ方、こころがけ、で冷静になれ、自分のこころをみろと言ってました。
 親鸞会は、雑行を良い行いだけど、私のこころがけが悪いので毒が雑じってるから良くないのだ。と解釈してます。つまりはこころがけが良くなれば、正行に変換可能という理屈でヤラせてます。親鸞聖人がどう解釈されたかを全くみてない珍解釈ですね。真宗ではなくて高森教ですね。

Re: チュウビ様

親鸞会の会員は基本的に学びません。学ぶと真宗が高森教とあまりにかけ離れているからです。

ちなみに、悪いこころがけがすたれば御恩報謝になるとは言っていますね。証空上人の開会の理論かよと思ってしまいます。とにかく、一向に進歩の無い親鸞会の会員でした。

Re:淳心房さん

お疲れ様です、Abcです。

彼は結局、何が言いたかったのかがわかりませんでしたが、「五濁悪世」とは、ここまで念仏誹謗を作り上げるのですね。

>1.聴聞2.勤行3.六度万行です。(ルパンさん)

・聴聞
「聴」は「聴即許」であり、「許されて聴く」という意味です。
「許されて18願を、自力の上で聴く」ということでありますから、「20願」の謂れであります。 「多向兼念 無量寿仏」とも言えるのではないでしょうか。
(蓮如上人では、「ふたごころにて聴く」とも言えましょう)

「聞」は「聞即信」であり、「信じて聞く」という意味です。
「18願を信じて、他力の御はからいにて聞かせていただく」ということでありますから、「頓教」、「真宗」、「専修」の「18願」であるいわれです。
そのため「一向専念 無量寿仏」ともいわれますし、「なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理」(『御文』2帖)とも言われます。
(この「たのみ」というのが「聞く」のいわれです。)

・勧行

蓮如上人は『夏御文』にて、

蓮如上人『夏御文』
 「それ聖教をよみ候ふことも、他力の信心をとらしめんがためにこそよみ候ふことにて候ふに、さらにそのいはれをききわけ候ひて、わがあさきをも直され候はんことこそ仏法の本意にてはあるべきに、毎日に聖教があるとては、しるもしらぬもよられ候ふことは、所詮もなきことにて候ふ。今日よりしては、あひかまへてそのいはれをききわけられ候ひて、もとの信心のわろきことをも人にたづねられ候ひて直され候はでは、かなふべからず候ふ。その分をよくよくこころえられ候ひて聴聞候はば、自行化他のため、しかるべきことにて候ふ。そのとほりをあらましただいま申しはんべるべく候ふ。御耳をすまして御きき候へ。

それ安心と申すは、いかなる罪のふかき人も、もろもろの雑行すてて一心に弥陀如来をたのみ今度のわれら後生たすけたまへと申すをこそ、安心を決定したる念仏の行者とは申すなり。」

ともいわれており、「安心のいわれ」の前に、「そもそもの勧行のありかた」を語られております。

・六度万行

上2つは、「雑行」「雑修」であったとしても、まだ「浄土門の行い」でしたが、最後にしれっと「六波羅蜜」を入れてくる辺り、なかなかとお見受けいたします。

『大経 讃仏偈』には、

 「願我作仏 斉聖法王 過度生死 靡不解脱 布施調意 戒忍精進 如是三昧 智慧為上

 「願はくは、われ仏とならんに、聖法王に斉しく、生死を過度して、解脱せざることなからしめん。
布施・調意・戒・忍・精進、かくのごときの三昧、智慧上れたりとせん。」

と言われており、「一心(もっぱらのこころ)」の言い換えとして親鸞は

『浄土文類聚鈔』
 「しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(乃至)大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ衆生なり。」

と、いわれており、この中にて「願作仏心」という語句がございます。

釈尊はたとえようもない修業をなされて「入聖得果」なされました、対して私たちは「称名はすなはちこれ念仏なり。」ともいわれるように「信じさせていただいて、仏陀のさとりを渡して(度(ど)して)いただく」のでありますから、「あら、こころえやすの安心や」なのであります。

釈尊は、「私(釈尊)と同じ修業を行いなさい」とは言われておりません、阿難尊者や浄飯王、イダイケ夫人などには「念仏」をお勧めされております。

源空(法然)聖人『選択集』
 「釈尊定散の諸行付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。

 同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と」

とも言われております。

ですから、私はこの文(上から「蓮如上人の書物」 「親鸞の書物」 「源空聖人の書物」 また 『浄土三部経』)をもって「真宗」といたします。

なもあみだ、なもあみだ
Abc

Re: Abc様

高森教のような邪義に毒された「五濁悪世」の世の人々は、ここまで念仏誹謗を作り上げるということですね。

親鸞会では、全て「私から」「仏の救いに向かって」進むという方向で教えが説かれ、行が勧められています。宿善が厚くなる3つの方法も、「私から」「仏の救いに向かって」進むという方向で語られています。これが本願力回向の法義に真っ向から反するわけですが、そうとは知らずにデタラメ創作教義を真実だと信じているのが親鸞会会員です。

独自の方便観を持ってそれを疑わない会員は、方法論に迷って真実の行信を獲ることは極めて困難でしょう。早く邪義を捨て離れて、浄土真宗を聞かれるように願うばかりです。

なもあみだ、なもあみだ、なもあみだ・・・

法鏡?

法鏡については前スレのコメント欄にも書き、チュウビ様も少し触れていましたが、親鸞会では「三枚の鏡」や「法鏡」の話がもっともらしく出て来ます。しかし親鸞会の説く法鏡の話は仏説と言えない創作物語だと思います。

法鏡は「法の鏡の法門」として涅槃経に出てきます。釈尊の弟子の死後を案じた阿難尊者が釈尊に質問したところ
一、ブッダに対する清らかな信仰
二、法に対する清らかな信仰
三、教団に対する清らかな信仰
四、戒律を守る
をたもてば「死後はわかるであろう」とお説きになった話です。
(https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn16/dn16c09.htm)

上の話からわかるように涅槃経の「法の鏡」の鏡は
「 仏教を学べば学ぶほど、自分自身の本当の姿を知らされます。」
と親鸞会の教えるような「自分の姿を写す」といった鏡としては出てきません。
「汝らに法鏡を授けるであろう」
という文も涅槃経には出てきません。強いて言えば「我今復為汝等説法鏡経」が該当します。原文の「説く」が「授ける」に変わってしまっています。「親鸞会的」法鏡であれば「授ける」の方が都合がよいので「授ける」としたのだと思います。

一方、善導大師は『観経疏』序分義に
「経教はこれを喩うるに鏡の如し。」
と残されていて、こちらはまだ意味が近いかと思います。それならば涅槃経の話とせずに善導大師の話として出せば良い話です。親鸞会は善導大師のお言葉を意図的に改変したか、例によって誰かの著書や布教本からのパクリによってこの話を作ったのだと思います。
かのルパン様は
「法鏡に映る自分の姿を諦観していく事です。」
と書かれていましたが、これを涅槃経の教え、釈尊の教えと考えているなら大間違いと思います。ルパン様は仏説に無い、親鸞会が独自に説いている法鏡に一体なにを見たのでしょうか?

凡夫往生の手鏡?

鏡つながりでもう一つ。

蓮如上人御一代記聞書に
「一 御文はこれ凡夫往生の鏡なり。御文のうへに法門あるべきやうに思ふ人あり。大きなる誤りなりと[云々]」
とあります。これに関連して親鸞会では御文章と鏡との関連を
「親鸞聖人の教えを仮名交じりでかみ砕いて書かれた『御文章』は「凡夫往生の手鏡」といわれます。私たちが助かるに大切な要(かなめ)はすべて書いてあるから、手鏡のように常に手元に置いて読みなさいよ、ということです。」
などとしています。だれもが
「蓮如上人はご自身の書かれた『御文章』を手鏡と称したのだ」
と結びつけて理解すると思います。しかし、これには大いに疑問があります。

【検証1】蓮如上人の時代には庶民に「鏡」「手鏡」は普及していない。
鏡の歴史を調べると日本の鏡は中国から入った銅鏡ですが、はじめは姿見という目的ではなく神事などに使われる大変に貴重なもので、持っていたのは一部の貴族階級でした。
蓮如上人のいらっしゃった室町時代の中期でも庶民が金属製の鏡を持つ習慣はなく、水に姿を映す「水鏡」が一般でした。柄がついた鏡(今で云う手鏡)が出てきたのは蓮如上人の死後です。鏡が庶民の間で普及したのは蓮如上人が亡くなって100年以上経った江戸時代に入ってからです。

【検証2】手鑑
誤字ではありません。手鑑は「代表的な古人の筆跡を集めて帖に仕立てたもの。古筆の鑑定用・保存用に作られた。」のだそうです。蓮如上人が「てかがみ」と聞いて、真っ先に浮かんだは姿見の鏡ではなくこの字と意味だと思います。鑑は「あの人は仏法者の鑑だ」というように「手本」とか「模範」の意味も持ちます。さらに語源的には「鏡」と「鑑」は同じで、昔は姿見の鏡の意味でも手本(模範)の意味でも「鑑」の字と「鏡」の字の両方を使っていたようです。

はじめに紹介した蓮如上人御一代記聞書の文章の現代語訳に次のような物がありました。
「蓮如上人の御文章は、凡夫が浄土に往生する道を明らかに映しだす鏡である。
この御文章の他に浄土真宗のみ教えがあるように思う人がいるが、それは大きな誤りである。」

「鏡」を「手本(模範)」置き換えると
「蓮如上人の御文章は、凡夫が浄土に往生する手本(模範)である。
この御文章の他に浄土真宗のみ教えがあるように思う人がいるが、それは大きな誤りである。」
この方が意味がすんなりと通るように思います。姿見としての鏡の普及から考えてもこちらの方が妥当性が高いのではないかと思います。

いずれにしても「手鏡のように常に手元に置いて読みなさいよ」という意味は出てこないので、創作だと思います。

Re: 園児様

よくお調べになっています。詳しくは知りませんが、これも恐らく誰かからのパクリでしょうね。

法鏡、三枚の鏡、凡夫往生の鏡については調べたことがなかったので参考になりました。ありがとうございました。

それほど手間はかかりません(笑)

淳心房様
>よくお調べになっています。
それが…、大した手間がかかっていません(笑)
「原典」と「時代考証」を念頭におけば30分もしないぐらいでネットからでもこのぐらいの情報は得られます。それぐらい高森親鸞会の教えは間違いだらけで、いい加減なチョロい物だと思います。

さらに問題はそのような教えを数十年にわたって講師や一般信者が調べも、正しもせずに鵜呑みしてコピー&ペーストのようにそのまま人に話したり、ブログに書いて拡散していることです。高森会長が「病原菌」とすれば、講師は信者は病原菌を運ぶ媒体となるネズミや蚊のような存在だと言えます。

また何か気づきましたら、この場をお借りして報告させていただきます。

Re: 園児様

> 間違いだらけで、いい加減なチョロい物

を何年、何十年と信じ続けてきたのですから、我々もどうかしていましたね(笑)

人は一番最初に得た情報を正しいと信じるらしいですから、親鸞会で得た情報はよほど変だと思わない限り調べないかも知れません。せっかくお調べ頂いたことなので、何かの機会で紹介させて頂きたいと思います。その時はどうぞよろしくお願いします。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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