【考察】選択本願の行信について(11)
行と信と聞くと二つあるようですが、この二つは密接不離な関係にあります。
仏教では行を修する際の心を非常に重要視します。「仏教では心を重視する」とは親鸞会でもよく言っていますが、親鸞会のそれとは違います。これについては
『飛雲』心を重視する仏教、心を軽視する高森会長
を参照して下さい。「仏教で心を重視するのは、心で造る罪を重視しているということではなく、体で造る罪のその時の心を重視するということ」とありますが、同様に、体で造る善のその時の心を仏教では重視します。
なお信心とは異なりますが、仏道を志す者が最初に発さなければならない心として菩提心があります。それは仏に成ろうと願う自利の心と、一切衆生を済度しようと願う利他の心のことです。これは、仏道の出発点であるばかりでなく、仏道の終始を一貫している心です。
菩提心を発さなければ、いくら修行に明け暮れたところで仏果をさとる因にはなりません。それゆえ、聖道門では勿論のこと、浄土経典でも菩提心に関することが説かれています。聖道門であれ、浄土門であれ、この土でさとるか、浄土に往生してさとるかの違いはあれども、成仏し、衆生を済度することが究極の目的であることは変わらないからです。『無量寿経』三輩段には、上、中、下の三輩に通じて発菩提心が往生の因として説かれており、それによって曇鸞大師は
このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。(『浄土論註』)
と教えられています。更に、それに続く文には、
もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。
と仰って、無上菩提心を発さず、ただ極楽浄土が楽しい世界であることを聞いて楽をするために浄土に往生したいと願っても、それは決してできないことであると釘を刺されています。
さて、信心が重要である証拠に、『観無量寿経』には、
もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。
と説かれています。これを承けて善導大師は『往生礼讃』に
この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。
と教えられています。浄土願生者は至誠心、深心、回向発願心の三心を欠け目なく具えたならば必ず往生できる、もしこの三心の内一心でも欠けたならば浄土には往生できないというのです。この御文は「化身土文類」にも引かれています。
それゆえ、ただ経典に説かれている通りの行に取り組むのではなく、その際にこうした三種類の心を発しているかどうかという行者の信心が問われるのです。善導大師によれば、三心は上品上生にのみ説かれていますが、それは広く世、戒、行の三福を修める九品に通じ、そして定善にも通じている心であるというのです(※)。勿論、本願の念仏とも組み合っていることは言うまでもありません。いずれにせよ、浄土往生できるかどうかについては、この三心が起こせるかどうかにかかっているといっても過言ではないということです。
ところが、特に第一の至誠心は、善導大師の釈によれば三業と信心の内外不調を厳しく誡め、たとえ外相には賢善精進のすがたを現じていても、内心に煩悩が燃え盛っているようでは至誠心とは言えないというような心で、とても煩悩具足の凡夫が起こせるような代物ではありません。たとえ外相には立派な振舞いをしていても、内心に欲や怒り、愚痴といった煩悩の虚仮を懐いているようでは至誠心とは言えないというのです。これでは往生に必要な三心を欠け目なく具えることができませんから、往生できないということになります。法然聖人や親鸞聖人が善導大師の至誠心釈をめぐって悪戦苦闘されたのは、そのためでした。
これがやがて、こうした三心は決して自分で起こせるような心ではなく、如来が成就された真実心を回向され、それを計らいをまじえずに受け容れた時、はじめて私達にも浄土にふさわしい真実心(至誠心)が具わるのだと明らかにされていくわけですが、今私が問題にしたいのは別の点です。
至誠心、深心、回向発願心という観経の三心にしろ、至心、信楽、欲生我国という大経の三信にしろ、それらは行と組み合っている信心であるということです。言い換えれば、信心はそれ単体で有るというのではなく、行と組み合って成立しているもの、行無しには成り立たないものだということです。
『観無量寿経』では、世福、戒福、行福という行と、それによって浄土に往生したいという願生の信心が説かれていますし、十八願には「至心信楽欲生我国」という信心と「乃至十念」という行が誓われています。
これは菩提心についても同様のことが言えます。十九願には
発菩提心 修諸功徳
とあり、内に自利利他の菩提心を発して、そして実践すべき行(諸の功徳)を説かれています。
仏教では教、行、証と言われ、仏陀の説かれた教説通りに様々な善を行じて迷いを離れ、さとりを開く教えですが、行者の仏道修行を根本から支えているのが菩提心であり、信心です。菩提心を発し、自力成仏の因果を信じる心を発さずにいくら諸善万行を修めようと、また三心を発して修めた善で往生したいと発願回向しないと、それは煩悩に穢れた有漏善であって、天上界まではいけても三界を出離する因にはなりません。
菩提心、信心は、行とは切り離せない関係にあるのです。菩提心、信心を抜きの行は仏教の行とは言えませんし、たとえ菩提心、信心を発したとしても(発すだけでもすごいことですが)、行を修めて仏と成るべき因徳を積まなければ智慧を極めて生死を離れ、仏陀のさとりまで到達することはできません。
尤も、本願の念仏は、それによって功徳を積んでさとりに近づいていくという行でも、往生をより確実にしようという行でもありません。本願においてただ一つ往生の行として誓われ、これを頂いてわずか一声称える者の身に無上の功徳を具足し、速やかに仏因円満する超世稀有の大行であり、内に開き発っている信心は、その本体は如来の大悲心であり、往生成仏の正因であるような願力回向の大信であり、同時に横超の大菩提心でもあります。自力の菩提心、信心とは構造を全く異にしますが、大行と大信は一つの南無阿弥陀仏が口に現れたすがたであり、心に領受されたすがたです。行と信を切り離すことが出来ないという点では共通しています。
それゆえ、親鸞聖人は至る所で行と信をセットにして顕されています。例えば、
・もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
・たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(総序)
・往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
・真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。
・往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。
・釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。
・誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。(行文類)
・もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。
・宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。
・この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。(信文類)
等と言われている通りです。しかし、最もそれが顕著なのは高田の覚信房に宛てた御消息「信行一念章」
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。
でしょう。覚信房はおそらく『教行証文類』を伝授されており、その中の「行の一念」「信の一念」の関係について聖人に質問をしたのだと思います。これについては長くなりましたので記事を改めて見ていきたいと思います。
仏教では行を修する際の心を非常に重要視します。「仏教では心を重視する」とは親鸞会でもよく言っていますが、親鸞会のそれとは違います。これについては
『飛雲』心を重視する仏教、心を軽視する高森会長
を参照して下さい。「仏教で心を重視するのは、心で造る罪を重視しているということではなく、体で造る罪のその時の心を重視するということ」とありますが、同様に、体で造る善のその時の心を仏教では重視します。
なお信心とは異なりますが、仏道を志す者が最初に発さなければならない心として菩提心があります。それは仏に成ろうと願う自利の心と、一切衆生を済度しようと願う利他の心のことです。これは、仏道の出発点であるばかりでなく、仏道の終始を一貫している心です。
菩提心を発さなければ、いくら修行に明け暮れたところで仏果をさとる因にはなりません。それゆえ、聖道門では勿論のこと、浄土経典でも菩提心に関することが説かれています。聖道門であれ、浄土門であれ、この土でさとるか、浄土に往生してさとるかの違いはあれども、成仏し、衆生を済度することが究極の目的であることは変わらないからです。『無量寿経』三輩段には、上、中、下の三輩に通じて発菩提心が往生の因として説かれており、それによって曇鸞大師は
このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり。(『浄土論註』)
と教えられています。更に、それに続く文には、
もし人、無上菩提心を発さずして、ただかの国土の楽を受くること間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ずることを願ずるは、またまさに往生を得ざるべし。
と仰って、無上菩提心を発さず、ただ極楽浄土が楽しい世界であることを聞いて楽をするために浄土に往生したいと願っても、それは決してできないことであると釘を刺されています。
さて、信心が重要である証拠に、『観無量寿経』には、
もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。
と説かれています。これを承けて善導大師は『往生礼讃』に
この三心を具すれば、かならず生ずることを得。もし一心も少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。
と教えられています。浄土願生者は至誠心、深心、回向発願心の三心を欠け目なく具えたならば必ず往生できる、もしこの三心の内一心でも欠けたならば浄土には往生できないというのです。この御文は「化身土文類」にも引かれています。
それゆえ、ただ経典に説かれている通りの行に取り組むのではなく、その際にこうした三種類の心を発しているかどうかという行者の信心が問われるのです。善導大師によれば、三心は上品上生にのみ説かれていますが、それは広く世、戒、行の三福を修める九品に通じ、そして定善にも通じている心であるというのです(※)。勿論、本願の念仏とも組み合っていることは言うまでもありません。いずれにせよ、浄土往生できるかどうかについては、この三心が起こせるかどうかにかかっているといっても過言ではないということです。
ところが、特に第一の至誠心は、善導大師の釈によれば三業と信心の内外不調を厳しく誡め、たとえ外相には賢善精進のすがたを現じていても、内心に煩悩が燃え盛っているようでは至誠心とは言えないというような心で、とても煩悩具足の凡夫が起こせるような代物ではありません。たとえ外相には立派な振舞いをしていても、内心に欲や怒り、愚痴といった煩悩の虚仮を懐いているようでは至誠心とは言えないというのです。これでは往生に必要な三心を欠け目なく具えることができませんから、往生できないということになります。法然聖人や親鸞聖人が善導大師の至誠心釈をめぐって悪戦苦闘されたのは、そのためでした。
これがやがて、こうした三心は決して自分で起こせるような心ではなく、如来が成就された真実心を回向され、それを計らいをまじえずに受け容れた時、はじめて私達にも浄土にふさわしい真実心(至誠心)が具わるのだと明らかにされていくわけですが、今私が問題にしたいのは別の点です。
至誠心、深心、回向発願心という観経の三心にしろ、至心、信楽、欲生我国という大経の三信にしろ、それらは行と組み合っている信心であるということです。言い換えれば、信心はそれ単体で有るというのではなく、行と組み合って成立しているもの、行無しには成り立たないものだということです。
『観無量寿経』では、世福、戒福、行福という行と、それによって浄土に往生したいという願生の信心が説かれていますし、十八願には「至心信楽欲生我国」という信心と「乃至十念」という行が誓われています。
これは菩提心についても同様のことが言えます。十九願には
発菩提心 修諸功徳
とあり、内に自利利他の菩提心を発して、そして実践すべき行(諸の功徳)を説かれています。
仏教では教、行、証と言われ、仏陀の説かれた教説通りに様々な善を行じて迷いを離れ、さとりを開く教えですが、行者の仏道修行を根本から支えているのが菩提心であり、信心です。菩提心を発し、自力成仏の因果を信じる心を発さずにいくら諸善万行を修めようと、また三心を発して修めた善で往生したいと発願回向しないと、それは煩悩に穢れた有漏善であって、天上界まではいけても三界を出離する因にはなりません。
菩提心、信心は、行とは切り離せない関係にあるのです。菩提心、信心を抜きの行は仏教の行とは言えませんし、たとえ菩提心、信心を発したとしても(発すだけでもすごいことですが)、行を修めて仏と成るべき因徳を積まなければ智慧を極めて生死を離れ、仏陀のさとりまで到達することはできません。
尤も、本願の念仏は、それによって功徳を積んでさとりに近づいていくという行でも、往生をより確実にしようという行でもありません。本願においてただ一つ往生の行として誓われ、これを頂いてわずか一声称える者の身に無上の功徳を具足し、速やかに仏因円満する超世稀有の大行であり、内に開き発っている信心は、その本体は如来の大悲心であり、往生成仏の正因であるような願力回向の大信であり、同時に横超の大菩提心でもあります。自力の菩提心、信心とは構造を全く異にしますが、大行と大信は一つの南無阿弥陀仏が口に現れたすがたであり、心に領受されたすがたです。行と信を切り離すことが出来ないという点では共通しています。
それゆえ、親鸞聖人は至る所で行と信をセットにして顕されています。例えば、
・もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
・たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(総序)
・往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
・真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。
・往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。
・釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。
・誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。(行文類)
・もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。
・宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。
・この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。(信文類)
等と言われている通りです。しかし、最もそれが顕著なのは高田の覚信房に宛てた御消息「信行一念章」
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。
でしょう。覚信房はおそらく『教行証文類』を伝授されており、その中の「行の一念」「信の一念」の関係について聖人に質問をしたのだと思います。これについては長くなりましたので記事を改めて見ていきたいと思います。
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