真実の宗教は、絶対者の生命が相対者に全与されて、相対の私が絶対化されるものである
『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用
七 および声ばかりなり
四
平生とは、いつでも、どこでも、この「よび声」の聞えたのが聞である。名号のいわれを聞いて信ずるのではない。それなら聞いた功をみとめることになる。こんな高大ないわれならまかすという聞き方ではない。それなら聞き耳を立てて聞くことになる。
逃げておる私をお助け下さる法である。その呼び声の聞えたのがお助けにあづかったのである。お助けに助けられたのである。忘れてよい。おぼえる必要はない。しかし眠っていれば聞えない。
真実の宗教は、絶対者の生命が相対者に全与されて、相対の私が絶対化されるものである。「超世無上に摂取し、選択五劫思惟して、光明寿命の誓願を、大悲の本としたまへり」(正像末和讃)と仰せられるのは、このこころである。
(p.66)
七 および声ばかりなり
四
平生とは、いつでも、どこでも、この「よび声」の聞えたのが聞である。名号のいわれを聞いて信ずるのではない。それなら聞いた功をみとめることになる。こんな高大ないわれならまかすという聞き方ではない。それなら聞き耳を立てて聞くことになる。
逃げておる私をお助け下さる法である。その呼び声の聞えたのがお助けにあづかったのである。お助けに助けられたのである。忘れてよい。おぼえる必要はない。しかし眠っていれば聞えない。
真実の宗教は、絶対者の生命が相対者に全与されて、相対の私が絶対化されるものである。「超世無上に摂取し、選択五劫思惟して、光明寿命の誓願を、大悲の本としたまへり」(正像末和讃)と仰せられるのは、このこころである。
(p.66)
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