自己にばかり目を向けさせ、本願を聞かせる気が全く無い高森顕徹会長

『飛雲』無碍の一道と絶対の幸福の違い

にも少し紹介されていますが、5月13日、14日の親鸞会降誕会では『白骨の章』を通して話がなされたようです。大方の予想通り、無常をとり詰める話だったようですが、

・『白骨の章』に書いてあることが「そうだ!」とハッキリ知らされて初めて大悲の願船に乗せて頂ける
・真実の自己がハッキリ知らされないと、大悲の願船には乗せて頂けない
・(真実の自己が)ハッキリ知らされるところまで、仏法を聞くことが肝要


などと話をしていたそうです。『飛雲』にある通り、根も葉もない空事たわごとです。こうやって自己にばかり目を向けさせ、真実なる誓願、唯一のまことの法である念仏を教えないのが高森顕徹会長のやり方で、いくら自己を見つめようとも本願、名号を聞かないことには本願の救いには遇えません。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

このように浄土真宗の「信心」とは、「本願の名号」「本願」「如来の御ちかひ」を聞いて疑う心の無いことであり、「本願」を「きく」ということが、とりもなおさず「信心」であるというのです。この信心、本願を信じるというのは、本願を自分の計らいや先入観を入れずにそのまま聞いているということに他ならないので、よく「聞即信」と言われます。本願を聞くのがすなわち信心ということです。ですから「仏法を聞く」と高森会長は言っていますが、人間の浮生なる相、人や先としか思ってない自分、永遠に死なないと思っている自分というものをいくら聞いて無常観や自分に対する認識を深めたところで、「本願」を聞かなければ親鸞聖人の教えを聞いたことにはならんのです。

無常を切々と訴えている『白骨の章』ですが、蓮如上人が仰りたいことは

阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり

であります。じゃあ阿弥陀仏を深くたのむということはどういうことかというと、

阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる
(中略)
南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。
(2帖目9通)

とあるようにまず念仏以外の諸善万行は雑行と名づけてこれを嫌い、往生行として念仏一行を専ら修することだと仰せです。そして阿弥陀仏をどのように信じて極楽往生を遂げるのかというと、

なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふ(同)

私の方から、布施とか持戒とか多聞といった何かしなければならない行は無く、そのままでは地獄しか行き場のないようなあさましい私を、かたじけなくも阿弥陀仏一人「お前を助けるぞ」という誓願を起こされたということを聞くのみです。要は、「お前を助けるぞ」という阿弥陀仏の勅命をそのまま聞き受けるのみです。先ほど紹介したように、本願を聞くということがすなわち信心、信じるということですから、そのような誓願を聞くのが信じることであり、それが一念帰命の信心であり、それは自分で起こす信心ではなく仏智より他力の信心を与えられたのです。

私の方に「あれせい」「これせい」「これをせなんだら助けんぞ」という条件は何もなく、これだけのことですから、実にこころえやすの他力の信心なんですよ。あまりにも簡単なので、小賢しい知恵に長けた人は「そんなうまい話があるかい」と逆に疑ってしまうのです。ただ、私という者を本当に見つめたなら、こうした本願に依るしか助かる術はないでしょう。私達は死ぬまで「人や先」の話しか聞かないんですから、「我や先」なんだとハッキリ分かった時にはもう臨終ですよ。それにそんな人が「ハッキリ知らされるところまで、仏法を聞く」だとかそんな悠長に構えていられますか? 罪悪に関しても、毎日毎日借金みたいなもんで、日々造りと造る悪業は膨らむ一方ですから、私なんかが一つや二つの善行を成したところでとても相殺できません。無常は待ったないし、罪悪は深い、それを自分ではどうしようもないのなら、そんな者を無条件で救う本願に身も心もゆだねておまかせするしかないじゃないですか? 会員の皆さんはそれなりに自己を見つめているとは思いますが、その見つめ方があまりに甘いから親鸞会にとどまって助からない話を延々聞いているのだと言わざるを得ません。もっと見つめていたら「親鸞会の教えで自分は助かるか?」と必ず疑問に思うはずですよ。

そして本願を聞くというのは本願の名号、すなわち南無阿弥陀仏のおこころを聞くということです。

「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。(3帖目六通)

ですから、蓮如上人は度々六字釈を施されて懇ろに他力の信心を明かされるわけです。

それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり。
かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。あら、こころえやすの他力の信心や、あら、行じやすの名号や。しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり。また南無阿弥陀仏といふはいかなるこころぞといへば、「南無」といふ二字は、すなはち極楽へ往生せんとねがひて弥陀をふかくたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」といふは、かくのごとくたのみたてまつる衆生をあはれみましまして、無始曠劫よりこのかたのおそろしき罪とがの身なれども、弥陀如来の光明の縁にあふによりて、ことごとく無明業障のふかき罪とがたちまちに消滅するによりて、すでに正定聚の数に住す。
かるがゆゑに凡身をすてて仏身を証するといへるこころを、すなはち阿弥陀如来とは申すなり。されば「阿弥陀」といふ三字をば、をさめ・たすけ・すくふとよめるいはれあるがゆゑなり。
(2帖目15通)

今回紹介するのはこれだけにしておきますが、蓮如上人の六字釈は『御文章』に沢山書かれているので、時間を見つけてぜひお読み下さい。

最後に、無常観や罪悪観をとり詰めて、真実の自己がハッキリしなければ救われないなどとは決して仰っていないことを示したいと思います。

・それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて(3帖目1通)
・一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて、わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて(5帖目4通)

このように、度々「自分の罪の深いことはうち置きなさい、うち捨てなさい」と仰せられています。自分の罪の深さに気をかけているのは自分が主体になっている姿で、それを蓮如上人は「そういった考えは捨ててただ阿弥陀仏におまかせせよ」と正されているのです。そうして自分主体、自分ファーストだった考え、見方がひるがえされて、如来主体、如来ファースト、「阿弥陀仏が本願を信じさせ、念仏を称えさせ、仏に成さしめる」と聞くのが浄土真宗の聴聞であります。ここでは罪悪を述べられていますが、無常に関しても同じ事です。自分に目を向けるのではなく、ありのままの自分を救う本願に目を向けて、本願を聞かなければ徒事です。

タイトルにしましたが、「自己にばかり目を向けさせ、本願を聞かせる気が全く無い高森顕徹会長」ですから、本当に阿弥陀仏に救われたい、仏恩報謝をしたいというのであれば一刻も早く親鸞会からはさよならし、仏の本願、南無阿弥陀仏を聞いて他力の信心を決定し、仏恩報尽の念仏を称えて頂くことをお勧めします。
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No title

高森会長はひどい人だな。
仏とも法ともわからない人に無常観、罪悪観の話しをするのはまだ理解できるが、何十年と聴聞していてまだ信心決定していない人にはつらすぎるぞ。

>橋本様

無常観、罪悪観の話を全くするなとは言いませんが、それで終始してしまっているのが親鸞会です。何せ、

”無常と罪悪にせめ立てられて、仏法は聞きなさいよ”
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-1fd3.html
無常と罪悪にせめ立てられてマインドコントロールされた高森会会員)

ということですから。それで、究極の無常観、究極の罪悪観が信心決定だと思い込んでいるのかも知れません。

いつまでも入口のような話でせき止められ、救いとは別方向へ誘導されて、無関係な組織拡大のために働かされている、しかもそれが自身の信心決定のためになると信じて疑わない会員の皆さんは本当に哀れです。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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