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高森顕徹会長の記念講演(降誕会)の内容を勝手に予想してみました

明日、明後日に行われる予定の高森顕徹会長の記念講演(降誕会)の演題は、

「真宗の極致」について ―これが「なぜ生きる」の答えです―

だそうです。案内チラシを見てみると、100万部突破だとか30万部だとか著書の発行部数を強調し、リンク先の記事に書かれているように

公式サイトでは「親鸞聖人のご生誕をお祝いして」とありますが、会員でない人に向けてのチラシには「親鸞聖人」も「降誕会」もありません。かろうじて書いてあるのが会場名の「浄土真宗親鸞会館」のみです。

という体たらくです。今回も土日合わせて正味せいぜい3時間程度の講演で、まともな真宗教義を話すつもりはないでしょうが、せっかくなので私なりに「高森顕徹先生記念講演」とやらの内容を勝手に予想してみました。


まず、演題の出拠としておそらく、

いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とする『改邪鈔』

の部分のみは出してくるでしょう。次に、「人生の目的」「なぜ生きる」と絡めて、「その答えが浄土真宗に説かれている、それは苦しみ悩みの絶えない人生の海を明るく楽しく渡す大船に乗ることだ」、などと話すでしょうね。総序の文乗大悲願船の文、「生死の苦海ほとりなし」の御和讃は出てくる可能性が高いです。話の流れで「絶対の幸福」だとかいう創価学会の信心も出てくるかもしれません。

もつぱら自力をすてて他力に帰する」についてきちんと説明はせず、せいぜい「他力」を阿弥陀仏の本願力だと説明して、阿弥陀仏のお力で大船に乗せて頂くと話す程度でしょう。それには「聞く一つ」だと蓮如上人の言葉か何かを出し、次も来て下さい的なことをほのめかして終わりか、といったところだと思われます。


会員の皆さんは、おそらく5万円ほどのお布施を納めて今回も富山に集まることでしょう。しかし高森会長の目的は、皆さんや皆さんの勧誘の成果で集まった方々に信心獲得してもらうことではなく、次も来てもらうこと、会員となって組織拡大に貢献してもらうことです。「三願転入の教え」を説いて、19願の「修諸功徳」や『観経』の定散二善、七仏通戒偈等を根拠に「雑行」を勧めているのは、「自力」を勧めている何よりの証拠です。

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。「信文類」横超釈

【現代語訳】
また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。「化身土文類」正助雑釈

【現代語訳】
雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

雑行」を勧めるということは、イコール「横出」の教えを勧める、「漸教」を勧める、自力方便の教えを勧める、方便化土を勧めるということです。こんな教えは浄土真宗にはありません。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。『末灯鈔』2通

とあるように「余の善根」を勧め、「自力」を勧めているのが親鸞会ですから、

いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とする『改邪鈔』

というお言葉とは完全に真逆です。ちなみに自力をすてるために自力一杯励めなどと教えられた釈尊、七高僧のお言葉は勿論、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉はありません。浄土真宗の上にない「珍らしき法」を説いて会員や有縁の大衆を騙し続けているのが高森顕徹会長です。

今回、せっかくの土日を苦労して、お金をかけて富山へ聞きに行ったところで、わが往生のためには何の役にも立たない話を聞かされるだけです。毎度毎度それに付き合う会員の皆さんは、哀れ哀れです。


さて、記事の冒頭に示した『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』の記事には、当ブログでコメント拒否設定中のルパン氏が執拗に書き込みを続けています。私が彼のコメントを拒否する設定にしたのは

親鸞聖人が19願を勧められた根拠

を提示せず、それでいて的外れな根拠ばかり出して、後は高森教に自分の味わいを加えただけの邪義を延々垂れ流すだけだったからです。妄想のお花畑の中で何か呼び声らしきものを聞いたとしても、それは自分の妄想が自分にささやきかけただけの自己暗示であって、真実信心とは別物です。

そんなものを頑なに信じてこちらの話を聞こうとしない、親鸞聖人のお言葉を受け容れようとしない人をいくら相手にしても時間の無駄ですから、当ブログではコメントを拒否する設定にしたまでです。悔し紛れに宮田先生のブログのコメント欄で暴れ回っているようですが、相手にしてもらいたいならせめて

親鸞聖人が19願を勧められた根拠

くらいきちんと提示すべきです。もしそのような根拠があったら提示して下さい。尤も、過去のmixiの法論において親鸞会側が一箇所も根拠として提示できたものはありませんでしたので無理でしょうけど・・・。彼の妄想話に付き合って差し上げている優しい退会者の皆さんは、本当にお疲れ様です。
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アラシが目的で、「便所の落書き」のような書き込みを繰り返して慚愧あることない現役カルト信者

かつて親鸞会では、ネットでの会への批判は「便所の落書き」だと揶揄していました。しかし今や立場は逆転し、批判サイトに「便所の落書き」のような書き込みをしてくるのが親鸞会の不良信者です。

こちらの質問に答えられず、自分で「そんなサイト、イラン、スパムしてくだはれ」と宣言した現役カルト信者ですが、先日より秘密コメントでなおもしつこくアラシコメントを寄せてきました。それで現在、非公開コメントを受けつけない設定にしています。私と個人的にやり取りしたい方がいらっしゃいましたら、

singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

までメールを下さるようお願いします。

ちなみに、このブログの対機は主に親鸞会の教義や組織に疑問を持った会員や、退会しても未だに会の呪縛を引きずっている方です。そういう方に、親鸞会教義の誤りと、正しい浄土真宗の教義を知って頂き、本願を信じ念仏を申して浄土往生の本懐を遂げて頂きたいと思って書いています。


現役バリバリの会員は当面は対象外です。第一、熱心な現役会員は上司からの指示を守って批判サイトを見ることもしないでしょう。会からの一方的な情報を鵜呑みにし、高森会長や会を絶対視してこちらの話を聞かないのが彼らです。本来は彼らにも読んでもらいたいですが、現状ではとても当ブログの内容は受け入れ難いでしょう。それに反って謗法のくちびるをめぐらすだけですから、当面は対象外としています。

ところが、時折いるんですよね。「批判サイトを読むことは謗法罪だ」と教えられていても読んで、冒頭申し上げたように「便所の落書き」のようなアラシコメントをしてくる輩が。講師部員、もとい高森会長の指示を聞いてるんだか聞いてないんだか、よく判りません。彼らの言う「破邪顕正」のつもりかも知れませんが、正しいことを知りもしない、間違っていることに気づきもしないで書き込んでくる辺りが実に愚かです。

参考までに、今までに現役カルト信者から寄せられた「便所の落書き」は以下のようなものです。

●雑行をすてよ!御文章にたくさんあんねか~

親鸞会館で雑行勧めてないよ!

善いことは勧めているけど!


●親鸞会館に有る書籍に雑行勧めてる所有るか探してみ~


●イコールって(笑)

雑行の本質知らんがけ?


●地獄脅しでないよ♪

無常脅しだよ♪

一瞬先は闇、もどき坊やも私もね♪(私は光に向かって進んでいるけどね!)


●誰の人も速く後生の一大事を心にかけて・・・

蓮如会長の地獄脅しww


●自力の命懸けの求道ww

何聞いてんの???ダラ♪

おまんらの言葉遊びじゃぼけ!

わしゃ今まで1度も聞いた事ないわ!


●Abcそなた善をしないとな?
よい結果帰ってこないよ(笑)


●万善自力・・・

よろずの善を後生助かろうとして弥陀にお供えする気持ちでするのを自力と嫌われ棄てよと教えておられるところ

善をするなと言う事ではない


●自力を離れず他力に入ってないAbcさんが、そのような御文だされても・・・(笑)

念仏はご恩返し・・・

世間ではご恩返しは善いことでは?(笑)


●もどき坊やAbc(浄土真宗)の教えに善の勧め!ある?ない?


謗法のくちびるをめぐらしていることがよくお判りでしょう。気付いていないのは本人ばかりです。


ところで、現役カルト信者は「雑行」の意味すら判っていないようなので解説しておきます。まず意味は

正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりをひらくことをめざす聖道門の行である諸善万行を、往生行として転用したものであるから、このようにいう。     (浄土真宗辞典)


です。善導大師は

この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。「化身土文類」引文

【現代語訳】
この正定業と助業以外のすべての行は、みな雑行という。

と教えられ、親鸞聖人は

正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
(中略)
それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
正助雑釈雑行釈

【現代語訳】
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。
(中略)
さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。


と仰せられています。つまり19願の「諸功徳」、『観経』顕説の定散二善、「七仏通戒偈」の「衆善」等は、往生行としてはことごとく雑行と名づくというのです。そういった雑行を修めて往生を願っても末代の我々は助からないから、選択本願の行である念仏一行を専修せよと教えられたのが法然聖人、親鸞聖人です。だから聖道諸宗に仏教ではない邪教であると攻撃され、浄土宗は法難に遭って死刑に処せられる方まであったのです。

こうした往生行としての善、いわゆる雑行と、倫理道徳上の善の区別がついていないのが現役カルト信者です。倫理道徳上の善は本来往生行ではありませんから、浄土を願って発願回向しなければ雑行にはなりません。往生を願って、往生に役立てようとするから雑行と嫌われ捨てよと言われるのです。逆に言えば、往生を願わず、往生とは無関係だとわきまえて行えば雑行ではありません。

ところが、親鸞会ではそうではありません。彼らの目的は獲信であり、往生のはずです。そのために宿善を厚くせよといい、宿善を厚くするための聴聞や破邪顕正、また財施等の六度万行を勧めています。三願転入の教えにしても同様で、獲信・往生のために19願の「諸功徳」や定散二善を勧めています。これらは、獲信を願い、獲信に役立てようとしている雑行に他なりません。それでは化土へしか往けないから速やかにこれを捨てて、本願を疑いなく信受して選択回向せられる本願の念仏一行を専修しなさいと教えられたのが親鸞聖人でした。

ですから、親鸞会では教義上雑行を勧めていることになります。ただ、実態は組織拡大活動という悪業悪行を中心とする「高森の行」ですから雑行にも入らないということは再三述べている通りです。


アラシが目的で、「便所の落書き」のような書き込みを繰り返して慚愧あることない現役カルト信者は、どこまでも哀れ哀れです。あのような書き込みをすることが「善」だと思っているところが輪をかけて哀れです。

彼に付き合って、コメントを機会に親鸞会の邪義を明らかにしていってもいいのですが、過去の法論ですでに決着がついているものばかりですし、それもいささか飽きました。また、私が現在書こうとしている記事が書けなくなってしまうので、相手をするにもほどほどにしておきます。

相手にしてほしかったら、現役カルト信者は、的外れのアラシコメントをしていないで

「弥陀の呼び声」について
1.弥陀の呼び声の「そのまま来い」とは「どこへ」来いということか?
2.弥陀の呼び声の「そのまま来い」の「そのまま」とは「どのまま」か?
3.二河白道の譬えで言えば、どこで弥陀の呼び声を聞くのか?
a.東の岸にいる時
b.白道を中間ほどまで進んでから
4.声なき声、片手で打つとは?(二河白道の譬えで言えばどれに当たる?)


の残りの質問に早く答えて下さい。1は渋々「弥陀の浄土」と答え、2は「五逆、謗法、闡提のまま」と愚かな回答をしましたが、残りはまだです。高森教の邪義は結構ですから、聖教に基づいて答えて下さい。

五逆、謗法、闡提の意味も分からず、「そのまま」=「十悪・五逆・ぼうぼう・せんだい・のまま」救うという間違った弥陀の呼び声を聞いている、自称「五逆謗法の者」の現役カルト信者

案の定、「元会員」「gugyaku」「文章長いから読んでません」という名で書き込みしていた人物からのコメントが来ています。固定端末からではないのでホストを拒否するだけでは防ぎ切れないですね。これからは、来たら引用して公開したいと思います。稚拙な書き込みで単なるアラシですが、それにしても、これだけ書いてくるということはよほど当ブログが気に入ったと見えます(笑)


さて、寄せられた秘密コメントの中で、現役カルト信者は「弥陀の呼び声」について面白いことを言っています。

> そのまま来い
>
> 十悪・五逆・ぼうぼう・せんだい・のまま


私が質問している

1.弥陀の呼び声の「そのまま来い」とは「どこへ」来いということか?
2.弥陀の呼び声の「そのまま来い」の「そのまま」とは「どのまま」か?
3.二河白道の譬えで言えば、どこで弥陀の呼び声を聞くのか?
a.東の岸にいる時
b.白道を中間ほどまで進んでから
4.声なき声、片手で打つとは?(二河白道の譬えで言えばどれに当たる?)


の第二問目にようやく答えた形になりますが、高森教に毒されている現役カルト信者の彼は五逆、謗法、闡提の意味もまともに知らないようです。

五逆罪については、『飛雲』五逆罪の定義についても当然知らない高森会長を、
謗法罪については、『飛雲』謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長を、
闡提については、『飛雲』謗法・闡提は「仏土に願生する」心がないから絶対に往生できないという釈尊・善知識方を完全否定する高森顕徹会長と愉快な仲間達を、それぞれ参照して下さい。


五逆罪の親殺しとはあくまで”故意に”ですから、極めて限定された人しか造らない罪です。一般の人が造る罪ではないといえます。そんな五逆罪の者でも救われることを示されたのが『涅槃経』の阿闍世の救いですが、阿闍世のような五逆罪を造っている人は極めて稀です。自分が「五逆罪の悪人だ」と内観して反省することは大いに構いません。しかし善知識方は「心で親を殺すのは五逆罪だ」などという珍しいことはただの一言も仰っていませんので、高森教の常識はここでは通じません。

また、阿闍世は父王を殺してしまったことを深く慚愧し、心因性の重い皮膚病を患って、そこから耆婆に導かれてお釈迦様の話を聞くようになりましたが、もし五逆罪を造っても当然のように考えていたら釈尊の話を聞いて救われるということは無かったかもしれません。会員のように「十方衆生は逆謗闡提の一機」と聞くことに慣れており、勧められるままに組織拡大活動をしていったらいつか信心獲得できる、「絶対の幸福」になれると妄想している人は慚愧あることないため、また方向違いのため、本願を聞き受けることは難しいと思われます。


謗法罪の者と闡提の者は、そのままで救われるということはあり得ません。第一、正法を誹謗して慚愧あることない人、世俗的な快楽を追求するのみで正法を信ぜず、さとりを求める心がない者は仏法を聞こうとも思わないでしょう。阿弥陀仏や浄土など虚構にすぎないと否定し、浄土を願生する思いなどない者のことを謗法とか、闡提の者というのです。これも五逆罪の者と同様に限定された一部の人であって、「十方衆生は逆謗闡提の一機」などというのは高森教や、せいぜいその流れを汲む団体でしか通じない珍説に過ぎません。


それと、現役カルト信者に限らず会員の多くは、私たちが固定不変な無間業をもっている、十方衆生は五逆、謗法、闡提という「定相」があるというように信じていると思いますが、このような考え方こそ「有無の見」という外道の考えで誤りです。釈尊は空の理論で固定不変な業など無いと教えられ、十方衆生に五逆、謗法、闡提という「定相」なども無いと説かれています。ですから、謗法の者が謗法でなくなったり、謗法でない者が謗法になったりする、闡提が闡提でなくなったり、闡提でない者が闡提になったりするのです。

これでいきますと、「絶対の幸福」という世俗的な快楽を追求するのみで、高森会長の珍しい教えを本物と信じて親鸞聖人の仰せを信ぜず、往生浄土、さとりを求める心がない、自力の願生心すらない会員は闡提の者と言えます。元々闡提でなかった者が、悪知識の授ける教えによって闡提の者になってしまったのです。

また、高森教の念仏抜きの妄想信心を勧める教えによって、会員は念仏は信後のオマケ、信心の後についてくるもの、信後報謝に限る、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、等の異安心に陥り、果ては

自力念仏の者は必堕無間

と念仏を誹謗しています。信心獲得していない一切の人々の後生は必堕無間と、地獄必定の一大事を強調する高森会長の話を信じ、それを人にも話して念仏誹謗していますから、会員は謗法の者と言えます。元々謗法でなかった者が、悪知識の授ける教えによって謗法の者になってしまったという典型例です。

こうした謗法、闡提の者は、先ほども書いた通りそのままで救われるということはあり得ません。謗法、闡提の者は、その心を慚愧し、翻して、謗法、闡提の者でなくなってからでないと救われないのです。そのことを

謗法闡提回心皆往『法事讃』

と善導大師は仰っているわけですが、『教学聖典』にあることをただ覚えただけで

信心獲得すれば、どんな極悪人も弥陀の浄土に往ける

と、謗法、闡提のままで救われるように勘違いしている会員が多いようで困ったものです。以下、引用。

闡提の者は浄土を願うことがないので、往生することはあり得ないのです。

闡提の者も謗法の者も、闡提でなくなる、謗法でなくなって、「断じをはりて還りて生ず」の状態になって、「仏土に願生する」心がおきて初めて、往生できる機になる訳です。

簡単な話なのですが、「仏土に願生する」心のない人が「仏土に願生する」心の無いままで救われる理屈が通る筈がありません。

ですから善導大師は『法事讃』で

謗法・闡提、回心すればみな往く

と仰って、それを親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれているのです。
回心」には自力から他力に帰すことのほかに『愚禿鈔』の

漸教回心の機は、自力なり。

のように、心を翻すという自力の意味も普通にあります。ですから、「謗法・闡提、回心すればみな往く」は、謗法・闡提の心を翻して謗法・闡提で無くなり、その上で自力から他力に帰したという「回心」です。(


ですから、高森教に迷っている人は急いでそのような邪偽の教えを授ける人の手を離れて、珍しい教えを信じていたことをありのままに懺悔して、人に語り表すべきです。そして、諸善を捨てて選択本願の念仏を本願招喚の勅命と聞き受けて、一心一向の念仏の行者とならせて頂くべきなのです。

それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。この秘事をなほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその秘事をいはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの秘事をありのままに懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。『御文章』2帖目14通

これは秘事法門に迷っていた人に注意喚起されているお言葉ですが、二千畳秘事法門に迷っている人も同様です。最近こそ二千畳秘事法門は批判の嵐に対応してきておりますが、死後の地獄脅しと無常、罪悪で会員をせめたて、念仏を軽視・誹謗し、雑行(組織拡大活動)を勧め、会長及び上司への無条件服従を促す教義は依然健在です。そんな教えは浄土の要門どころか障門でしかありませんから、速やかに厭い捨てるべきです。


謗法、闡提の者は、釈迦弥陀二尊の勅命を聞いても、その通り信順することはありません。第一、釈迦弥陀の勅命を聞こうともしないのが謗法、闡提ですから、そんな者は仰せの通りに順うはずもなく、当然白道を進んでいくこともありません。東の岸で群賊、悪獣、悪知識とダンスして喜ぶばかりです。

五逆、謗法、闡提の意味も分からず、「そのまま」=「十悪・五逆・ぼうぼう・せんだい・のまま」救うという間違った弥陀の呼び声を聞いている、自称「五逆謗法の者」の現役カルト信者は、哀れ哀れです。

【お知らせ】ルパンさんと元会員さんのコメントを拒否する設定にしました

毎度毎度のことですが、親鸞会の会員とはまともな議論になりません。根拠は高森会長の珍説であり、それに自分の考えを混ぜた独自の教えであって、聖教を根拠に親鸞会教義が正しい浄土真宗であると証明できないのです。加えて、いくらこちらが根拠を並べて親鸞会教義の誤りを示しても一向に聞く耳を持たず、高森教義の垂れ流しを延々繰り返すのみです。

ルパンさんには親鸞聖人が19願を勧められた根拠を求め、元会員さんには自分で言い出した「弥陀の呼び声」について質問していましたが、両者ともまともに答える気がありませんでした。ルパンさんは度重なる忠告にも関わらず根拠を示さず、元会員さんは自ら申し出てきましたので、両者をコメント拒否設定にしました。
(ちなみに「元会員」なる人物は、スマホやマイパソコン等の固定回線ではなく、複数のインターネット回線からの書き込みのため、コメントが承認される可能性があります。ネットカフェや漫画喫茶等からの書き込みかと思われます。スマホでポチポチとかも大ウソです。なお、似た回線から「gugyaku」、「文章長いから読んでません」と名乗る人物からの書き込みがあり、これらは全て同一人物と考えられます)

お二人には、もし、今後まともに答える気になったらメールを頂きたいと思います。コメント拒否設定を解除し、議論を再開します。ただし、相変わらず高森教義の垂れ流しで聖教の根拠を示さない場合は、メールを頂いても返信もしませんしコメント拒否設定も解除しませんので悪しからず。


さて、親鸞聖人は真実報土に往生する真実の行信と、それに対して方便化土にとどまる方便の行信のあることを『正信偈』の偈前に教えられています。

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

ここから、真実の教・行・信・証・真仏・真土が明らかに知られます。

真実の教 - 『大無量寿経』
真実の行 - 念仏一行 諸仏称名の願(第十七願)
真実の信 - 信楽一心 至心信楽の願(第十八願)
真実の証 - 難思議往生
真実の仏 - 報仏(不可思議光如来)
真実の土 - 報土(無量光明土)


阿弥陀仏の選択本願(第十八願)の行信因果を五願六法に開き、真実の教・行を第十七願、真実の信を第十八願、真実の証を第十一願、真実の仏と浄土を第十二願・第十三願のそれぞれ五願に配当して開示されています。『教行証文類』前五巻の内容は、この短い偈前の文におさまると見ることができます。

こうした真実の行信に対して、方便の行信があることを、聖人は「化身土文類」にて顕かにされています。ここで誤解してはならないのが、「化身土文類」は真実の行信を獲る手段、方法論として説かれたのではないということです。「化身土文類」には、真実の行信を直ちに受け容れない者を暫く仮に導くために設けられた権仮方便の教説であるということを述べている一面と、速やかに方便の行信を捨て離れよと、方便の行信を顕かにすることで真実の行信を反顕して勧めている一面があるのです。

それはあたかも、白であることを強調するために敢えて黒を持ち出して比較するという説き方であると言っていいでしょう。それを捻じ曲げて、黒が必要不可欠であるかのように説いているのが親鸞会です。黒が不要である証拠には、『教行証文類』の要約である『浄土文類聚鈔』には「化身土文類」に相当する文がありませんし、親鸞会の強調する三願転入もありません。他の親鸞聖人のお書きになられた書物のどこを読んでも、19願を勧められたお言葉もなければ、三願転入に該当する御文もありません。つまり、親鸞会流「三願転入の教え」は、高森顕徹会長が組織拡大活動の源泉である「善の勧め」を従来の「宿善」よりも強力に推し進めるためのデタラメ創作教義に過ぎなかったということです。

『教行証文類』は、仏の側から仏の救済をあらわしている約仏の書なので、自己を主体として読もうとすると途端に解らなくなります。善巧方便、権仮方便とは仏の巧みな衆生救済の手段であって、私達衆生が軽々しく扱うことのできないものなのです。ですから、善知識方は方便と仰る場合は仏が衆生を方便されるということで、あくまで仏の手段だということで用いられています。例えば、

顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。「化身土文類」隠顕釈

釈迦は要門ひらきつつ
 定散諸機をこしらへて
 正雑二行方便し
 ひとへに専修をすすめしむ


釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまひけり
『高僧和讃』善導讃

蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。『御一代記聞書』(176)

等とあるように、仏の手段という意味で使われています。最後の「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便」という使われ方は異例で、弥陀、釈迦の他に「善知識」も含まれた形です。この「善知識」がどのような方を意味するのかは定かではありませんが、狭義では諸仏や菩薩、広義でも七高僧や親鸞聖人といった、浄土真宗の祖師方のことと見るのが妥当でしょう。ともあれ「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便」によって真実の信を獲るのであって、「弥陀・釈迦・善知識の権仮方便」によって真実の信を獲るのではありません。善巧方便、権仮方便ということについては、記事下の参照にリンクを貼っておきますのでそちらをご覧下さい。方便とは私達のような凡夫が駆使することができるような代物でないことだけは確かです。


方便だからやりなさい、といって親鸞会が勧めている19願や定散二善は「権仮方便」で、方便化土へ往生する道であって、真実報土へ往生する道ではありません。真実の行信によって真実報土へ往生する、方便の行信によって方便化土へ往生するのであって、方便の行信によって真実の行信を獲るとか、真実報土へ往生すると教えられた箇所は一箇所もありません。

方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。「化身土文類」三経通顕(真仮分判)

このように19願の行信を顕かにされた後、これは方便化土の業因であって、阿弥陀仏の光明はこのような雑行を修める者を照らし摂めることはないと結論づけ、19願は真実18願を受け容れない者に仮に説かれた教え、浄土を願ったことのない聖道門の修行者に浄土を慕い願わせるための教えであったと言われています。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。「化身土文類」雑行釈

あくまで「仏が」「衆生を」導く手段が方便であって、これを『教行証文類』もまともに読んだことがない、親鸞聖人の仰せとことごとく反することばかり説いて、『仏敵』が根本聖典であるという善知識様が使うことができると信じていること自体が噴飯物なのです。今回の記事は会員には難しかったかも知れませんが、

「方便だからやりなさい」と19願を勧めることは、親鸞聖人の仰せにない

ということが判って頂けたらそれで十分です。方便の行信に迷って、真実報土へ往生できないということがないように、会員の皆さんには親鸞会教義についてきちんと真偽検証して頂きたく思います。



【参照】
『WikiArc』トーク:方便
『21世紀の浄土真宗を考える会』善巧方便と権仮方便
『当ブログ』善巧方便と権仮方便について

浄土門では常識の「願生心」「欣慕浄土」が何のことだかサッパリ分からない高森教徒

浄土門で「願生心」「欣慕浄土」というのは当然のことですが、これがサッパリ分からないのが高森教徒です。以前、火星人がTENさんのブログで「願生心」についてまともに答えられなかったのも、ルパンさんが

「浄土を欣慕せしむるなり。」の意味がよく分かりません

と聞いてきたのも、更には現役カルト信者が弥陀の呼び声「そのまま来い」とは「どこへ」来いということかについて渋々「弥陀の浄土」と答えていることも、その理由は浄土門では常識の「願生心」「欣慕浄土」について全くの無知であるからだと思われます。


親鸞聖人は「化身土文類」にて聖道門の意義

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

【現代語訳】
総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

について述べられた後、浄土門の意義についても次のように教えられています。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。

【現代語訳】
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。

この世界で聖者となってさとるか、浄土に往生してさとるかの違いはありますが、どちらにしても目的は

究極のさとりである仏陀のさとり、さとりの必然である一切衆生の救済

であることが判ります。仏教の目的はあくまでも成仏、その道として難行道(聖道門)と易行道(浄土門)の二種の勝法があるというのです。その内、聖道門は難劣であり、末法の世においては行証久しく廃れた時機不相応の法であるから捨てて、勝易であり、末法・法滅の時でも衰退することのない時機相応の法である阿弥陀仏の本願によって往生し、さとりを得なさいと教えられたのが親鸞聖人でした。

ですから、親鸞聖人の教えを聞いた人の心に当然起きてくるのが「願生心」であり「欣慕浄土」の心なのです。この世は醜いなぁ、まさに五濁悪世だなぁと思うと同時に、自分はもっと浅ましい、もっと醜いと気がつくにつけ、そんな世の中、そんな自分を厭い捨てて、清らかな浄土、そしてこの上ないさとりを求める気持ちが起きてまいります。それが「願生心」であり「欣慕浄土」の心なのです。浄土門の常識、基本中の基本です。


ところが親鸞会では、この常識、基本中の基本に触れることはほとんどありません。親鸞会では人生の目的は永遠に変わらない、崩れない幸福というところから「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を教え、信心決定というのはその「絶対の幸福」とやらになったというハッキリスッキリ体験であるといい、「絶対の幸福」とやらになった人の必然の未来として浄土往生する、というように、現世の利益を強調しているからです。

時折、「仏教を聞く目的は後生の一大事の解決」などと言ったりしますが、それは死後の地獄脅しで会員の尻を叩いて組織拡大活動に向かわせるためです。会員の目的は、死後の浄土往生も有難いが、何よりも現在只今の苦悩を取り除いて「絶対の幸福」になりたい、ハッキリしたい、安心したい、満足したい、求めているものを得たい、というこの世の幸福にあり、浄土往生は「絶対の幸福」の必然として得られるオマケ的な意味合いしか無いのではないでしょうか。

このように、目的が浄土往生ではなく「絶対の幸福」にあるとすれば、「願生心」「欣慕浄土」の心が分からないというのは当たり前の当たり前の話です。浄土に生まれたいと願う心も、浄土を慕い欣う心も無いわけですから、ピントコーンのは当然です。それをさも知ったつもりの体で話をしようとしているのですから、ちょっとツッコまれるとろくな返答ができんというわけです。


法然聖人、親鸞聖人は、阿弥陀仏の19願は諸行の人、つまり聖道門でこの世界でさとろうとしている人を浄土門に導き入れるための方便願であるとみられています。ですから、すでに親鸞聖人の教えによって18願が真実の願であると知らされ、18願の行信を頂いて浄土往生しようという人には、還って廃捨すべき権仮方便の法門なのです。実際、19願は二双四重の教判で言えば横出にあたる浄土門内の自力の教えで、定善や散善といった三福・九品の行を修め、さとりまで長い時を費やす漸教であって、臨終の来迎がないと往生できず、来迎があったとしても方便化土へしか往生できない権仮方便の法門であると教えられています。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

【現代語訳】
雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

浄土門の意義について述べられた後、聖人は浄土門内の自力の教えについてこう仰せです。このような位置づけである19願を親鸞聖人が勧めておられるわけがないでしょう。親鸞会の人間は、高森教で得た知識を振りかざして、聖教に根拠の無い珍説をばらまいているだけの高森教徒であると判ります。


速やかに迷いの世界を離れようと思うならどうしたらいいのか、法然聖人は次のように仰せです。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

【現代語訳】
そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

上は「行文類」三選の文引文のお言葉ですが、『選択本願念仏集』でも同様に言われています。

聖道門を閣きて、もろもろの雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもつぱらにすべし

これが法然聖人のお答えです。親鸞会が勧める19願は自力雑行の教えですが、それは

もろもろの雑行を抛ちて

速やかに迷いの世界を離れようと思うなら雑行を投げ捨てよ、放り捨てよと仰っています。この「三選の文」を真実行を顕す「行文類」に引文されている時点で、親鸞聖人が19願を勧めているなどあり得ないと判ります。

そして親鸞聖人は、上の「三選の文」を引文された後、阿弥陀仏の名を称する称名念仏は、自分の計らいによって称えているものではなくて、本願力によって与えられ、称えさせられている他力回施の大行であるとして

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

と仰せられています。雑行を勧めている時点で、それは「念仏成仏」の否定です。「念仏成仏」を否定しておいて親鸞会の教えが正しいなど、それは高森教の中でのみ通じることであって、そんなものは真宗内では一切通じない独自の珍説であります。


それで、何度も何度も

親鸞聖人が19願を勧めている根拠は何ですか?

と聞き、昨日は

次で根拠を示さない場合は、コメントを拒否する設定にします。きちんと返答して下さい。

と通告したにも関わらず、ルパンさんの本日のコメントには根拠は無く、相変わらずの自説の披露のみでした。よって、通告通りルパンさんからのコメントは拒否する設定にしましたので皆様にご報告致します。

ルパンさんは、もし根拠が見つかりましたら

singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

までご連絡下さい。拒否設定を解除して、議論をやり直します。なおメールでも自説の披露に留まり、根拠を示さない場合は返信もしませんし拒否設定も解除しません。以上、よろしくお願いします。



【追記】
ルパンさんはコメントの中で

親鸞会では、宿善を求めよと何度も何度も耳が痛い程に言います。厚くする方法が1.聴聞2.勤行3.六度万行です。この行為は一向専念無量寿仏を自力一杯に行う行為であり、自力念仏に等しい行為だと認識しています。この道が即ち三願転入の道だと言いたいのです。

と言っていますが、そんな教えは親鸞聖人にはありません。蓮如上人の教えられる「宿善」も、薄い宿善を厚くせよという意味で教えられている箇所は一箇所もありません。ですから、蓮如上人の『御文章』を根拠として

親鸞聖人は19願を勧められている

とは言えないのです。残念でしたね。なお「宿善」については

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(1)

から12回に分けて記事を書いていますので、まだご覧になっていない方は参照して下さい。高森教徒が思いつきそうなことは、すでに飛雲さんか誰かの手によって破られていることを知るべきです。

なんちゃって二種深信と創作『二河白道の譬え』を信じている現役カルト信者

親鸞会が起死回生のつもりで出してくる伝家の宝刀が二種深信ですが、間違った理解のためにことごとく自滅しています。地獄一定と極楽一定という、二つのことが同時にハッキリ知らされる、摩訶不思議な信心のように誤解していますが、そうではありません。以下、『飛雲』バックナンバー(2017年1月)より。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
二種深信については、親鸞会でも引用されるのが、『教行信証』信巻にだけある

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。


です。
ところが善導大師は他の表現でも二種深信を仰っていて、それは『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。


前者が一か所で、後者が二か所で紹介されているから、単純に後者の方が重要という話ではありませんが、少なくとも、親鸞聖人は後者の二種深信を重要視されていたので、それを知らない高森会長は、『教行信証』を全く読んだことがないとここでも判明します。

内容については、前者よりも後者の方が、より明確になっています。
簡単にまとめると

機の深信は、自分が今までやってきた程度の善では出離できない、と信知すること。
法の深信は、阿弥陀仏の本願は念仏で必ず往生できる、と信知すること。


こういうことです。もっと簡潔に言うと、

善では出離できない、念仏によってのみ出離し往生できる、と信知する

これが真実の信心だと言うことです。

高森会長の説明とは大いに異なっていることがお判りでしょうか。要するに、念仏1つで助かる、と深信したのが二種深信だということです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

対して、現役カルト信者のコメント

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
何処へも大事だけど、そのままとはどのままか、もっと大事でない?

何処へ
法の深信・・・弥陀の浄土
機の深信・・・地獄一定

往相回向、還相回向
2019-03-05(08:48) : 元会員

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

「弥陀の呼び声」を聞いたらしい彼はこんなことを書いていますが、二種深信にも二河白道の譬えにも昏いことが分かります。「地獄一定」と知らされるのではなく、「自分が今までやってきた程度の善では出離できない」と信知するのが機の深信です。また、「念仏1つで助かる」と信知するのが法の深信ですが、雑行を勧めている者が法の深信が立ったとは片腹痛いというものです。

それと彼の書き方では「弥陀の呼び声」は機の深信からすると「地獄一定だぞ」という恐怖の言葉のようです。そんな人々を恐怖に陥れるようなことを仰る阿弥陀さまではありません。「弥陀の呼び声」については、

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
さて、西岸上の人の喚び声、

なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ

につきまして、親鸞聖人も解説なされています。
その中で「一心に正念にしてただちに来れ」について見てみますと、『愚禿鈔』には、

「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。


とあります。

前々回と前回に問題にした18願文の「若不生者」に当たる「直ちに来れ」について、
遠回りである聖道門や19願・20願を捨てて、近道である18願に帰し、「報土に還来せしめんと欲してなり」と教えられています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

とあります。ここから、「弥陀の呼び声」とは

一心に正念にしてただちに来れ
=「信楽の心(真実の信心)で念仏して浄土に生まれさせる

ということであると分かります。「お前は地獄一定の者だぞ」なんていう恐ろしい呼び声でないことは明白です。「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」という招喚の勅命です。

この招喚の勅命を聞き受けて「念仏称えれば極楽浄土に往ける」ことに疑いないのが法の深信です。ところで法の深信とは「いつ死んでも極楽参り間違いなし」などとハッキリするのではないことに注意です。私の方からは地獄に堕ちるとも、極楽へ参るとも、知る智慧がありません。あくまでも、阿弥陀仏の仰せに対して疑いないこと、浄土へ生まれさせると仰られているからその通りとまかせていることです。

いつ死んでも浄土往生間違いなし」ではなく、浄土往生の道は「他力」「仏力」だと深く信じたこと

飛雲さんの別記事で言うと、法の深信とはこういうことです。

また、「弥陀の呼び声」を聞くのは東の岸で白道に踏み出す前です。そこで方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するのです。これが「ただちに来れ」の呼び声を聞いた念仏の行者のすがたです。雑行に励みながら白道を進んでいくのではありません。雑行を捨てて願力の白道に乗るのです。雑行を勧めているところが二種深信にも二河白道の譬えにも昏く、「弥陀の呼び声」を聞いていないと自ら告白しているようなものです。


現役カルト信者は、「どこへ」来いということ一つでも長いこと時間を要し、渋々「弥陀の浄土」と答えています。即答できない時点で「弥陀の呼び声」を聞いたなんて口から出まかせであると分かります。機の深信は高森教の理解そのものであり、念仏一行どころか例の漫画雑誌をもってきて雑行を勧めている有様ですから、法の深信といっても嘘っぱちです。加えて「ただちに来れ」の呼び声も聞いていないことが分かります。このように聖教から照らせば、高森教の信心など嘘っぱちの偽物であることがすぐにバレてしまうのです。

そして、「そのまま来い」の「そのまま」とは「どのまま」か、説明もしていませんし、声なき声、片手で打つなどは親鸞会で聞いてきたことをそのまま言っただけです。当然、ろくな説明もできていません。「どこで」呼び声を聞くのかも聞こうと思いましたが、逃亡してしまいました。全くもって高森教の妄想信心、酷いものです。

起死回生のつもりで出した根拠で自らの首を絞めている、愉快な仲間達が親鸞会です。摩訶不思議な体験、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めて邪義を信じ続ける会員は、哀れ哀れです。

【お知らせ】アニメ映画「歎異抄をひらく」5月公開 及び 【考察】「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきく」について

なんとかの科学の真似をしたアニメ映画の第二弾は5月24日に公開だそうです。

アニメ映画「歎異抄をひらく」5月公開、親鸞役に石坂浩二、唯円役に増田俊樹

石坂浩二氏、増田俊樹氏など、中々有名どころを起用しています。が、果たして中身はどうなるやら・・・


ところで、親鸞聖人は「行文類」大行釈の証文として『平等覚経』、『讃阿弥陀仏偈』(『安楽集』)、『往生礼讃』を引文されています。

・たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば、かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし

・たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。

・たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。


これらのお言葉を真実の行、他力の行を示す文証だと教えられたのが親鸞聖人ということです。親鸞聖人は、『讃阿弥陀仏偈』の御文(出拠は『大無量寿経』弥勒付属の文)を承けて

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり
讃阿弥陀仏偈と浄土和讃

と讃詠されていますが、上記のことが理解できればこれは親鸞会で言う自力の命がけの求道を勧めたお言葉でないことは明白だとお判り頂けると思います。

対して、高森会長はこれらの御文を「とにかく命がけでワシの話を聞け」という自力の命がけの求道を勧めたお言葉として利用しています。聞いている会員もすっかりその気になって、「火中突破の聞法を」とか言っています。苦しい中を求め抜いた人にこそ信心獲得の栄冠が与えられるのだと思い込み、富山まで足を運ぶこと、高森会長の与太話をド真剣に聞くことを中心に、推進される様々な活動に精を出しているのが親鸞会の会員です。高森会長の話の間、正座を崩さずに足の痛みに耐えているのもそのためでしょう。

そうやってこちらから阿弥陀仏の救いを掴みにかかっているのが愉快な仲間達ですが、方向違いも甚だしいです。そして、肝心の「仏の御名」を聞かせてもらえず、やっていることが外道の因果の道理に基づいた組織拡大活動ではとてもとても・・・。今後、『歎異抄』第二章を引き合いに出して自力の命がけの求道を映像化したものが公表されるかも知れませんが、もしそうなったらとんだ噴飯物だと笑い飛ばしてあげましょう。



話は変わって、この記事のコメント欄での皆さんのご意見を伺っていて、

大千世界にみてらん火をもすぎゆきて仏の御名をきく

とはどういうことかを淳心房なりに考察してみました。以下は淳心房の味わいとご判断下さい。

『大無量寿経』では流通分に至って、釈尊が弥勒菩薩に念仏を付属されています。

仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。

このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。ゆゑはいかん。多く菩薩ありてこの経を聞かんと欲すれども、得ることあたはざればなり。もし衆生ありてこの経を聞くものは、無上道においてつひに退転せず。このゆゑにまさに専心に信受し、持誦し、説行すべし」と。


【現代語訳】
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
「無量寿仏の名を聞いて喜びに満ちあふれ、わずか一回でも念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである。

だから弥勒よ、たとえ世界中が火の海になったとしてもひるまずに進み、この教えを聞いて信じ喜び、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい。なぜならこの教えは、多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、なかなか聞くことができないものだからである。もしこの教えを聞いたなら、この上ないさとりを開くまで決して後もどりすることはないであろう。だからそなたたちはひたすらこの教えを信じ、心にたもち続けて口にとなえ、教えのままに修行するがよい」


親鸞聖人はこの弥勒付属の「乃至一念」は行の一念だと解釈され、本願をまことと受け容れて念仏したその一回の念仏で無上大利を得ると、選択易行の至極を顕開されています。念仏は、これを頂いて称える者の身に速やかに往生成仏の因を満足せしめるはたらきがあります。ですから、念仏の行者は早ければ今日にも、遅くとも100年内には命終われば大般涅槃を超証し、悲智円満のさとりの身とならせて頂けるわけです。

釈尊は弥勒にそのようないわれのある念仏を付属された後、

このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし

と説かれています。当来の世に、釈尊に次いでこの世界に仏として出現する弥勒に、三千大千世界が火の海になってもひるまずに進み、私の教えを保って修行していきなさいというのです。自力で成仏を目指す求道者は三千大千世界に充満する火をも越えてゆかねば成仏できないということでしょう。

では翻って私達のことを考えた場合、私達には大千世界に充満する火をも越えてゆくことができるでしょうか。例えば、燃え盛る火焔の中を、水をバシャバシャーっとかぶって50mほど全力疾走して駆け抜けるということでさえ、私はひるんでしまうでしょう。全身やけどで済めばよい、命を落とすかも知れない、極めて危険な行為です。それが50mどころじゃない、大千世界に亘って火の海なんです。とても、どころか、絶対にできません。

『大無量寿経』や『平等覚経』にしても、曇鸞大師や善導大師、また親鸞聖人の釈にしても、当面は私達が大千世界に充満する火をも越えていきなさい、越えて聞きなさいと勧めているように見えます。しかし上述の通り、特に末法を生きる我々のような煩悩具足の凡夫にとっては、そんなことはとてもできないし、やろうという気すら起きません。林遊さんがコメントにて大千世界という表現は「譬喩」だと教えて下さいましたが、三祇百大劫もの間修行しなければ仏に成れないと教えられることを踏まえると、ただの譬喩では片付けられない気がします。それを私達はどのように解釈すればよいのでしょうか。


私には、これは私達が大千世界にみてらん火をもすぎゆくのではなくて、私達に代わって阿弥陀仏が大千世界にみてらん火をもすぎゆきて、南無阿弥陀仏と成って私達の元まで至り届いて下さったのではないかと思われます。法蔵菩薩が五劫の間思惟し、永劫が間修行して名号を成就された、その間、乃至一念一刹那も清浄の真心を失わず、回向を首としてご修行されたというのは、とりもなおさず阿弥陀仏が大千世界にみてらん火をもすぎゆかれたということではなかろうか。

そのようにして成就された名号であれば、私達を往生成仏させるだけのはたらきがあることも十分頷けますし、そのような仏の御名を聞く、すなわち念仏するということが至極無碍の大行であるということもすんなり受け容れられます。一声の念仏で無上の功徳が具足するというのも、三千大千世界に充満する火を越えるに相当する価値がある、この上ない素晴らしい行だと知れば納得なのです。

念仏が本願力回向の大行で、往生成仏の業因であるといういわれを踏まえるならば、念仏は阿弥陀仏が大千世界にみてらん火をもすぎゆきて成就され、今、ここにいる私まで来至して下さった本願招喚の勅命であり、それを頂いて念仏するということは、三千大千世界に充満する火を越えさせて頂くことになるのではなかろうかと思うのです。聖人は本願の念仏を

選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行

と讃えられ、第一希有の行とも教えられていますが、私は先に挙げた和讃から自力成仏の難しさと、念仏成仏の偉大さを教えて頂いたように思います。なお、繰り返しますがこれは淳心房の味わいなので、ご参考程度に思って頂ければと思います。また、上の和讃を扱っている記事を下に載せておきますので参照して下さい。


なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・凡夫の小賢しい詮索や先入観を離れて、ただ本願のはたらきにまかせてなんまんだぶつ。これより他に往生のみちはありません。



【参照】
『用管窺天記』たとひ大千世界に
『畢竟依を帰命せよ』みてらん火をもすぎゆきて

高森顕徹会長の与太話を「火の中かき分けて聞いた」らしい現役カルト信者

どうやら現役カルト信者は高森顕徹会長の与太話を「火の中かき分けて聞いた」らしいです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
どこまでも高森教の現役カルト信者だね。なんちゃって獲信者なんて所詮そんなもんだ。悔しければ反論してみなよ。聖教に基づいてね♪ 高森教での知った覚えたをいくら語ってもこちとら何も響かない。
2019-03-04(07:40) : 淳心房



もどき房
響かないのは当然
火の中かき分けて聞いた、という事が無いから♪
2019-03-04(08:22) : 元会員

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

恐らく、(彼ができる限りの)自力の命がけの聞法をしたということでしょうが、もしそれで救われるなら同行にも勧めるはずです。しかしなぜか彼は「元会員」となり、高森顕徹会長の講演の日はモンハンで遊んでいる有り様です。この事実一つ取っても、彼の創作話であることが知られます。

第一、現役カルト信者ができる程度の「火の中かき分けて聞いた」という行為で信心獲得できるなら、彼より熱心な講師部員や会員は沢山いますので、皆さん信心獲得しているはずです。家賃滞納とか色々な痛手の中、《平生業成》を目指してた方もありますが、親鸞会内はそのように様々な事情を抱えた中で、日々懸命に活動し、高森会長の講演に一縷の望みをかけて聞きに行っている人ばかりかと思います。その中、自分は助かったからなのか知りませんが「元会員」となって遊んでいるような輩は、コメントにもあるように「信後に聞く気が無くなるところは高森会長に楯突く気満々」というわけでしょう。


さて、現役カルト信者がそんなことを言うのも、高森会長の「とにかく命がけでワシの話を聞け」の影響下にあるからに違いありません。しかし、これも間違っています。親鸞聖人は「とにかく命がけでワシの話を聞け」などと同行に勧めてはいません。以下、

『飛雲』自力の聞しか知らない高森顕徹会長と会員の関係は、善鸞と善鸞の言うことを信じて親鸞聖人の元に行く気のない同行

より引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
高森会長が命がけで聞けと言っている根拠として挙げているのが『歎異抄』第2条や『浄土和讃』の

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり


などですが、異安心で聖教を読んだことのない高森会長に、親鸞聖人がどのような御心でこれを仰ったのか判る筈もないでしょう。
間違いを指摘しないと、良い気になっていつまでも言い続けますので、正しい意味を教えて差し上げます。

この和讃の元になった根拠が、『教行信証』行巻にいくつか引かれています。

まずは『平等覚経』から

かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして大利を得ん。
われらが類この徳を得ん。もろもろのこの刹に好きところを獲ん。
無量覚その決を授けん。
《われ前世に本願あり。一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとくわが国に来生せん。
わが願ずるところみな具足せん。もろもろの国より来生せんもの、
みなことごとくこの間に来到して、一生に不退転を得ん》と。
すみやかに疾く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
(中略)
たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば、
かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし〉


(現代語訳)

釈尊は、<このような人々は、仏の名号を聞いて心楽しく安らかに大きな利益を得るであろう。わたしたちもこの功徳をいただいて、それぞれこのようなよい国を得よう。無量清浄仏は衆生の成仏を予言して、≪わたしは前世に本願をたてた。どのような人も、わたしの法を聞けば、ことごとくわたしの国に生れるであろう。わたしの願うところはみな満たされるであろう。多くの国々から生れてくるものは、みなことごとくこの国に至ることができるのである。すなわち、来世をまたずに不退転の位を得るのである≫とお述べになった。阿弥陀仏の安楽国に、速やかに往くことができる。
(中略)
たとえ世界中に火が満ちみちていても、その中を通り過ぎて法を聞くことができるなら、必ず仏となって、すべての迷いを超えるであろう>と仰せになった


次に『安楽集』に引用されている曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』から

もし阿弥陀の徳号を聞きて歓喜讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとす。たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かばまた退せず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる

(現代語訳)

もし阿弥陀仏の功徳の名号を聞き、喜びたたえて信じれば、わずか一声念仏するだけで大きな利益を得て、功徳の宝を身にそなえることができる。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき阿弥陀仏の名号を聞くがよい。仏の名号を聞けば、不退転の位に至る。だから心をこめて礼拝したてまつる

更には『往生礼讃』より

弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。
(現代語訳)

阿弥陀仏の智慧の誓願は、海のようであり、限りなく深く果てしなく広い。名号を聞いて往生を欣えば、みなことごとく阿弥陀仏の国に至る。たとえ三千大千世界に火が満ちみちていても、その中をひるまずに進んでいき、仏の名号を聞け。名号を聞いて喜びたたえるなら、みな間違いなくその国に往生することができる。

とあります。
古文も現代文も読みこなす力のない高森会長と愉快な仲間達には上記の御言葉を理解することは無理でしょうから、簡単な説明だけすると、親鸞聖人はこれらを行巻に引かれていて、化土巻には引かれていないということがポイントです。行巻は真実の行、化土巻は方便の行と信について書かれてあることは高森会長でも知っている基礎の基礎です。

つまり、「たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」聞くことは、真実の行なのです。言い換えると他力の行です。

要するに、自力で命がけで聞けと親鸞聖人が仰ったのではないということです。

それと関東の同行が命がけで親鸞聖人の元まで来たのは、教え自体に対する疑問が出てきたからです。念仏では救われないのでは、念仏以外の行をしなければならないのでは、という根本的な疑問を解消するために京都まで来たのであって、親鸞聖人の御説法を聞きに命がけで来たのではないのです。

親鸞会の会員に置き換えるなら、高森会長と本願寺や退会者とは言っていることが全く違うのだから、それを確かめようと親鸞聖人の元に来る=親鸞聖人の御著書を読むことになる筈です。ところがそれをしていないのは、善鸞や他宗の僧侶の言うことを真に受けて確かめようとしないのと同じです。
親鸞聖人の仰ったことと違っていても良い、善鸞の言うことを信じます、と言っているのが現在の親鸞会会員の心です。

そんな会員に、関東の同行の心など、到底理解できないでしょう。土蔵秘事に類する高森会で搾取されながら満足するしかない会員は哀れと言うより言いようがありません。

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親鸞聖人が他力の行として仰ったことを自力の命がけの行と錯覚し、それを実行したつもりになり、信心獲得したつもりになっているのが現役カルト信者です。それはなんちゃって二種深信と、創作『二河白道の譬え』の思い込みによる妄想の「弥陀の呼び声」を聞いた体験談により分かることですが、それについては今回は省略します。いつまでも高森教に染まって脱出する気のない信者は哀れ哀れです。

『教行証文類』(教行信証)の題号からして理解していない高森顕徹会長(2)

前の記事で、高森顕徹会長は『教行証文類』の題号すら理解していないこと、浄土真宗の目的からして違っていることを示しました。度重なる外部からの批判に対し、浄土往生が目的だと言うには言うようにはなりましたが、言葉だけで実態は違います。

念仏者は、どんな幸せになれるのか

去年この記事にて、こんな面白い見出しで北日本新聞に、6月10日(日)の高森顕徹会長の講演行事の案内を載せていたことを紹介しました。しかも一面全て使ってです。信心決定の暁には「絶対の幸福」だとかいうものすごい幸福感が獲られ、その幸福感が死ぬまでずっと続くかのように思わせ、そうした現世利益を餌に人々を組織拡大要員として釣っているというのが実態ですから、こんなものは浄土真宗でも何でもありません。なので私は事あるごとに宗名(団体名)を改めるべきだと発言しています。

●宗名(教法または団体名)

親鸞聖人 浄土真宗
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高森会長 浄土真宗親鸞会(実態は浄土真宗でも親鸞聖人の教えでもないので、改めた方がよい)


と比較するのはそのためです。「高森教」とでも名乗るようにすれば、私は批判の手をすぐにでも止めるつもりですが、そうはしないでしょうね・・・。


ところで、高森会長は浄土ばかりでなく、『顕浄土真実教行証文類』の中の真実教真実行真実証についてもまるで間違っていることは多々述べているし、他のサイトでも種々に指摘されている通りです。親鸞聖人は、浄土(真実報土)に往生する真実の教と、真実の行(信を含む)と、真実の証を顕かにされましたが、この全てが親鸞会は間違っています。

まず真実の教に関してですが、今は所依の経、所依の著作ということで話をしますと

●真実の教(所依の経、所依の著作)

親鸞聖人 浄土三部経(真実教は『大無量寿経』。『観無量寿経』と『阿弥陀経』は隠顕の義がある)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 映画『なぜ生きる』や『教学聖典』、『なぜ生きる』、『歎異抄をひらく』といった高森会長の著作物
(経でも何でもない、会の創作物。経典や聖教は言葉を利用しているのみ。最近の高森会長の講演が、映画『なぜ生きる』やそのシナリオブックの解説にとどまっていることがそれを物語っている)


という違いがあります。これについては、

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』高森顕徹会長の講演DVDを見て、「法話」から「映画解説」になった理由が分かった件

等の記事をご覧頂ければ括弧の中の意味するところがよくお判りになると思います。『大無量寿経』が真実の教だと話してはいても、経の宗致である如来の本願は間違いだらけであり、経の体である仏の名号についてもそのこころが正しく説かれることはありませんので所詮口先だけです。

その証拠は、証果を開く(目的を果たす)ための真実の行(推進される行い、活動)の違いです。

●真実の行(推進される行い、活動)

親鸞聖人 念仏一行
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 邪義を聞く、朝晩のおつとめ、献金、勧誘、会長及び上司への無条件服従
(ワシの話を聞け。助業もせよ。雑行もせよ。ワシの指示に無条件で従え。ということで、念仏一行の否定)
(朝晩のおつとめは、会では光に向かう手段、横の道を進む手段という位置づけのため聴聞ではなく助業)


念仏一行に対して念仏一行の否定ですから真逆です。これだけ違うのに「浄土真宗」「親鸞」の名を団体名にしていることが噴飯物なのです。真実の教から真実の行が明らかになり、真実の証を得るというのに、教えが高森の教ではそこからは高森の行しか明らかにならず、それでは得られたとしても高森の証くらいです。

●真実の証(高森の証)

親鸞聖人 報土往生(現生では正定聚)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 絶対の幸福(になると死後に報土往生)


尤も、高森教でいう「絶対の幸福」とやらになったといっても、真実の行信とは全く異なるので真実の証果は開けません。所詮この世の幸福に目がくらんだ、あるいは苦悩の中で何かを聞いたり掴んだりした妄想の信心、暗示の信心であって、体験する/したとしても真宗とは異なるニセモノの信仰体験です。現役カルト信者とか、異星人の教祖様のコメントをご覧になれば、自称獲信者の信心は真宗の教えとは全く異なる信心だということがお判り頂けると思います。


更に教えの中身、中でも教判に関しては

●教判

親鸞聖人 聖浄二門判と頓漸二教判の組み合わせによる二双四重の教判
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 聖浄二門判と「三願転入の教え」という、横超の法門に横出の法門をドッキングしたような珍教判
(「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲るために邪義を聞く、献金、勧誘、会長及び上司への無条件服従といった悪業悪行中心の「高森の行」をせよと勧める邪偽の教判)


という違いがありますし、教えの相承の系譜としては

●師資相承

親鸞聖人 龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信僧都、法然聖人の七高僧
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高森会長 伊藤康善師、大沼法竜師、戸田城聖会長(『会報』『顕正』『光に向かって』『こんなことが知りたい』等の著作物の内容は勿論パクリ、「絶対の幸福」等の言葉はパクリからの造語)


という違いが見られます。これについては随分昔に考察したので、下の参照をご覧下さい。


ともあれ、教えに関しては、浄土真宗と高森教とでは共通点を見つけ出す方が難しいくらい違います。言葉は真宗のものなので紛らわしいし、合っているのではないかと思う人もあるかも知れませんが、実態は全く異なります。私の指摘をその通りだと思うか、揚げ足取りだと思うかは、その人の学識や経験、高森信心が篤いか薄いか等によって違いがありましょうが、教義や組織についておかしいと思う点があるという方は、放っておかずにきちんと調べることをお勧めします。その上で会は間違っているのか、正しいのか、退会するのか、留まって求めるのか、あるいは別の選択肢を選ぶか・・・最後は自分で判断するのです。

自分は、この先親鸞会の教えについていけるのか。何よりも今宵の後生に、親鸞会の教えで救われるのか。会員の皆さんは、こういう点を軸に冷静に考え、判断して頂きたいものです。



【参照】
『教行証文類』の概要(2)ー立教開宗ということ

『教行証文類』(教行信証)の題号からして理解していない高森顕徹会長

高森顕徹会長は、『教行証文類』(教行信証)の題号からして理解していません。本日はまず、『教行証文類』の題号の持つ意味を『聖典セミナー 教行信証 教行の巻』を通して見ていきます。

【本文】
 顕浄土真実教行証文類 序

【現代語訳】
 浄土の真実なる教行証を顕す文類の序

【講讃】

   『顕浄土真実教行証文類』という題号

 『顕浄土真実教行証文類』という題は、「浄土の真実なる教行証を顕す文類」と読み、「序」とは、この書に顕される法義の肝要をあらかじめ叙述し、この書を著す意趣を述べる文章ということです。「信文類」のはじめには、「信文類」を顕す意趣を述べる特別の序文が置かれていて、それを「別序」といいます。いまここでは、『顕浄土真実教行証文類』の全体に関わる序文ですので、これを「総序」といいます。

 さて『顕浄土真実教行証文類』という題には、これから顕すこの書物の内容のすべてが顕し尽くされています。「浄土」とは往生浄土宗の略で、浄土に往生して、そこでさとりを完成することを目指す法門(教法)を意味しています。そのような往生浄土宗(浄土宗)のなかでも、とくに阿弥陀仏の本意にかなった「真実」の「教」と「行」(信を含む)と「証」が何であるかということを顕示するために、それらについて釈尊や祖師方が説き示された経、論、釈のなかから、それに該当する「文」章をそれぞれの項目ごとに分「類」して集めた書であるということを表す書名です。それゆえ「浄土の真実なる教行証を顕す文類」と名づけられたわけです。

 ただし内容を見ると、真実の教・行・証のほかに「信文類」が明かされており、さらに「真仏土文類」、「方便化身土文類」が顕されています。それらがこの題号に包括されるのかどうかということについて、存覚上人の『六要鈔』をはじめ、先哲は共通してこの書に示されている教・行・信・証・真仏土・化身土の六巻全体を包括する題号であるといわれています。それというのも、「信文類」で顕されている「真実の信心」は、もともと真実行と一具(一組)になっているもので、決して切り離すことのできないものでした。ですから真実行といえば、そこには必ず真実信心が具わっているのです。そのことを知らせ、その信心の徳を詳しく知らせるために、行から信を別開して「信文類」を著されたわけです。ですから教・行・証というままが、教・行・信・証であったわけです。

 また真仏土は、証果を開く場所ですから「証文類」に収まりますし、「方便化身土文類」は、未熟な機のために自らの修行能力をたのんで阿弥陀仏の本願力をたのまず、そのために真実の報土に往生することができず、方便化土にとどまって真実の利益を失うものを育て導くために仮に設けられた方便の法義を明かすのですから、「真仏土文類」に収まる法義です。こうして『顕浄土真実教行証文類』といわれた題号のなかに、「信文類」はもちろん、「真仏土文類」も「方便化身土文類」も、すべてが包括されているといわれています。

 そういうわけで、この書物の大部分は、経典や祖師方の聖教からの引用文で構成されていて、処々に親鸞聖人の深い領解が述べられているという体裁がとられています。まさに「文類」という言葉が表すとおりです。しかし気をつけておかねばならないことは、それは決して他人の文章の寄せ集めではなかったということです。
(p.28~p.31)

このことから、浄土真宗の目的は往生浄土、浄土に往生して、そこでさとりを完成することを目指すことだと判ります。だから『顕浄土真実教行証文類』と名称されているのです。仏教の目的はさとりの完成、すなわち成仏であることは聖道門も浄土門も変わりません。この土でさとるか、浄土に往生してさとるかの違いはありますが、目指すところの究極は成仏です。


それに対して、高森会長は「獲信が唯一の目的である仏教」(『本願寺なぜ答えぬ』p.139)といい、獲信(信心決定)のことを「絶対の幸福」だとか言って、「親鸞学徒信条」には

一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます。

と謳っています。そして信条の続きに出てくる、真実の宗教であるという阿弥陀仏の御本願とは、

 真実の他力信心を獲得するということは、阿弥陀仏の絶対の救いにあずかるということです。即ち阿弥陀仏の絶対の願力によって助かったことをいいます。
 阿弥陀仏は、その本願(約束)に「われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける」と誓っていられます。勿論、死後ではありませんから、これを平生業成というのです。現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、という御約束です。こんな素晴しい誓願は、二つとありませんから、親鸞聖人は、『正信偈』に、「無上殊勝の願を建立せられた、希有の大弘誓を超発せり」とも仰言っているのです。
 その約束通りに我々が絶対の幸福に助かった時を、他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです。
(『こんなことが知りたい①』p.32~p.33)

とあるように、

われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける
現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう

という御約束だというのです。このように現世利益で釣って人間の欲望を煽り、人々の関心を惹きつけるのが親鸞会のやり方です。そして、やがて外道の因果の道理を説いて必堕無間という地獄の恐怖を植え付けて、逃れる道は無碍の一道だとか言って組織拡大活動という悪業悪行に誘導してゆく。まさしく、親鸞聖人が仰る邪偽の宗教そのものです。このように教えが目的としているものが違っていますから、

●浄土真宗の目的とは

親鸞聖人 浄土に往生して、さとりを完成すること
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 この世で絶対の幸福になること


という相違点を確認することができます。親鸞会でも近年、浄土往生が目的などと言うには言うようになりましたが、あくまでも「絶対の幸福」に主眼が置かれています。「絶対の幸福」に救い摂られなければ、浄土往生も無いというのです。ですから会員は今日も「この世で絶対の幸福になること」という「高森の証」を目指して様々な「高森の行」に勤しむのでしょう。浄土往生とは何の関係もない行いとは知らずにね・・・


絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、摩訶不思議なハッキリスッキリ体験を求めている人は本願に救われることはありません。会員の皆さんは、まずその目的違いを改め、浄土を願うようにするべきだと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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