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「信」→他力の信心、疑いをまじえずに受け容れること

これまで「ふかく」や「あさく」、「たのむ」「たすけたまへ」などの語を見てきましたが、今日は「」の語について見ていきたいと思います。これも、親鸞聖人が使われる「」、「信ずる」ということと、現代の我々が使う「」、「信ずる」では意味が全く違うからです。

まず現代の我々が使う「」、「信ずる」とは、例えば「明日は晴れると信じる」「君の言うことを信じよう」「○○神(●●仏)を信ずる」などのように、不確定な未来、証明できない事柄、特定の神仏に対して使います。そこには、当然ながら我が計らいをまじえ、もしかしたら違っているかもしれないという疑いが入っています。そして、その疑いを押さえつけて、あるいは払拭する意味で「信じる」と言っているのです。

しかし親鸞聖人が使われる「」、「信ずる」は、その対象が本願や名号、念仏であれば「他力の信心」を表し、善知識方の教説であれば「疑いをまじえずに受け容れること」を意味しています。前者は、例えば

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。「総序」

弥陀の本願信ずべし
 本願信ずるひとはみな
 摂取不捨の利益にて
 無上覚をばさとるなり


五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり
『正像末和讃』

などです。後者については

五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。正信偈

道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。正信偈

などが該当するでしょう。尤も、明確にスパスパ分けられない箇所もあるでしょうが、現代で使われている意味とは全く異なります。

これらの「」、「信ずる」を現代の感覚で捉えると、途端に浄土真宗とは異なる教えとなってしまいます。


親鸞聖人は「信文類」において

信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり

と言われ、「」には真実という意味があることを教えておられます。しかし、同じ真実でも「」の場合は、人偏に「言」という字が書いてあるように、特にその言葉に「うそ・いつわり」が無いことを「」と言われています。噓も偽りも無い、裏表の無い言葉、これが「」という文字にこもっている意味です。

ところが、我々が使う言葉には悲しいことに噓や偽り、裏表、裏切りがつきものです。それゆえ、「信じる」といったらその裏には「違うかも知れない」という「疑い」があります。その「疑い」を押さえつけて「信じる」より他に仕方がないのです。「」の持つ、噓も偽りも無い、裏表の無い言葉という意味が文字通り適用できるのは、これは人間の言葉には無理です。我執・煩悩を完全に浄化した如来の言葉だけです。

如来の言葉には噓や偽りはありません。七高僧方や親鸞聖人が示された教えは、仏陀の教説です。そのような噓も偽りもない仏陀や善知識方の教えの言葉を聞いた時、それを疑うことは、まことに失礼なことです。まことの言葉は、疑いをまじえずに、仰せの通りに聞き受けるべきですから、「」には「疑いをまじえない」という意味が自ずから具わっているのです。

それに対して「何と無批判な」「それでは進歩も何もあったもんじゃない」と仰る方があるかも知れません。確かにこの世のことであれば、なぜそうなるのか疑問を持ち、とことん追求するという姿勢も大事でしょう。ただ、仏教、浄土真宗で扱っているのは我々の生と死の問題です。そして、生死の迷いを超えていこうというのです。

自分で道を開けるという人、教えを乞うのが嫌な人は自分で追求すればよいでしょうが、私には生きることも、死ぬことも、何一つも見定めることはできません。ですから、「死ぬことはお浄土に生まれることだよ」と仰って下さる阿弥陀さまの真実のお言葉、それを信じよと勧めて下さる釈尊や七高僧、親鸞聖人方の言葉を「」ずる他には何もないのです。

この信心は自分で作り上げたものではなく、阿弥陀さまが与えて下さった本願の信心、他力の信心です。疑いを押さえつけて信じ込むこととは全く違います。疑いを押さえつけるのではなく、疑いが無いのです。さも、燦燦と降り注ぐ太陽の光を仰ぎ見て今の天気に疑いない如く、今、ここにいる、この私に届いている、「助けるぞ」の如来のお言葉に疑いない、これが信心です。


なお、親鸞聖人には勿論、自力の信心を意味する「」の使われ方もあります。

罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。「化身土文類」真門釈

などです。仏教で「罪福を信ずる」、因果の道理を信ずることは非常に大事なことであり、真宗といえどもこれを軽んずることは許されませんが、因果の道理をもって善悪平等の救いを誓われた本願をとらえようとすることは自力と言われ、この自力心がある内は本願力に帰することができません。

この「」という言葉一つ取っても世俗と仏教、また真宗とで随分と違うので、難しいものです。
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「たのむ」=「たすけたまへ」=「たすけたまへとたのむ」=たのみにする、おまかせする、信順する

前回の続きです。

『御文章』は浄土真宗の門徒に大変親しまれている、「凡夫往生の鏡」とも言われる大事な聖典です。かな交じりで漢文を読み解くような難しさはなく、平易な文章で浄土真宗の安心の一義を教えられています。浄土真宗から『御文章』を取ったら何も残らないと言った人もある位、特に本願寺派、真宗大谷派にとっては重要な書物です。

ただ、今から五百年前に書かれたものであり、特に安心を表す重要な言葉が現代の我々の感覚とは違う用い方をされています。誰でも読める平易な文章である反面、安心の一義をよくわきまえた方から教えて頂かないと非常に誤解が多かろうと思われます。

その重要な言葉が、タイトルでも示した「たのむ」とか「たすけたまへ」、あるいは「たすけたまへとたのむ」等です。これが、普段我々が使う言葉の意味とは真逆の意味で用いられているので注意しなければならんのです。

普段我々が「たのむ」といったら「用事をたのむ」「たのむから許してくれ」というように「お願いする」「請う」という意味で用いています。昔は「たのむ」に「お願いする」「請う」という意味は無かったそうですが、いつの間にやらそのような意味が追加され、それが今では主流になってしまったようです。

なお、名無しさんのコメントによれば現代語でも普通に「期待する、あてにする、ゆだねる」という意味で使うことはあるそうですが、私の周囲では中々お耳にかかりません。地域性や年代の違いでしょうか。

このような、「お願いする」「請う」といったいわゆる祈願請求の意で「たのむ」の語を捉えると、永久に浄土真宗の信心とはかけ離れることになるので注意しなければなりません。ここをお読みの皆様にはそのような心配は無用かとは思いますが、一応述べさせて頂きます。蓮如上人が使われる「弥陀をたのむ」とは、われらがごとき末代不善の凡夫を「我ひとり助けん」と仰せの本願を聞いて、その本願の仰せに我がなまじいの計らいや疑いをまじえずに

たのみにする、おまかせする、信順する

といった意味であり、

どうか阿弥陀さま一つ私の後生何とか助けて下さい、お願いします

といった、凡夫の側から救いを請い求める意味はありません。

阿弥陀仏の「我ひとり助けん」という願いは既に南無阿弥陀仏と成就して、今現に我々に届いています。我々が「助かりたい」と願うより先に既に届いている「助けるぞ」の先手の法に対して計らいをまじえずに受け容れ、おまかせし、仰せの通りに順うというのが「弥陀をたのむ」ということです。


さて、「たのむ」だけならまだよいのですが、問題は「たすけたまへ」が絡んできた場合です。『御文章』にはしばしば「たすけたまへとたのむ」とあります。現代の感覚で言ったら間違いなく「お助け下さいとお願いする」という意味になってしまいます。特に

ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば・・・2帖目13通

等を拝読した時です。こうした御文の誤解から三業帰命等の異説が発生したのだろうかとも思われます。

どうやら、蓮如上人はゆかりのあった浄土宗(一条流)が用いていた「たすけたまへ」の語を、語はそのままで、意味を許諾(こだく)という意味で転用されたらしいです。許諾とは

他人の要求や希望などを聞き入れて、それを許すこと。承諾すること。

というほどの意味ですが、ここでは阿弥陀仏の願いを聞き入れて、仰せの通りに受け容れることです。

先ほども書いた通り、私達が「後生助かりたい」と思う以前に、阿弥陀仏は既に私達の「後生助ける」と願いを発し、今やその願成就して、南無阿弥陀仏の念仏と成って届いて下さっています。南無阿弥陀仏の声は

我にまかせよ、必ず浄土に迎えて仏にする

という仏勅であり、その仏勅をそのまま聞き入れて、それでは仰せの通り「たすけたまへ」ということです。ですから、「たのむ」と「たすけたまへ」は同義であることが分かります。またこのことから、「たすけたまへとたのむ」とは、例えば「二度と再び」というように同じ意味の語を重ねている言葉なのだということも分かります。


阿弥陀仏は衆生往生の行として称名念仏の一行を選択し、「我が名を称えよ」と与えて下さっています。念仏とは、阿弥陀仏のお願いなんですね。「お願いだから我が名を称えて浄土に生まれてきておくれ」というのが念仏に込められた阿弥陀さまのお心です。

だからお念仏申すとは、阿弥陀さまのお心を聞いて、その通りに順うことを言うのです。念仏を自分の功徳だと思って称え、それを当てにして往生しようというのは、阿弥陀さまのお心、本願のお心を聞いていないのです。

蓮如上人の当時は浄土の教えは相当広まっていて、浄土宗や時宗が大変盛んでした。浄土を願ってお念仏を申される方々が相当あったんでしょう。しかし、その信心は必ずしも正しくなかったのです。ただ称えていればいいとか、念仏はお助け下さい阿弥陀様という凡夫の祈りだと思っている人が多かったわけです。そういう人々に、念仏のこころ、念仏の信心を「たのむ」「たすけたまへ」という言葉で明らかにされ、浄土真宗を再興されたのが蓮如上人でした。それで『御一代記聞書』には

一 聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。

と言われています。


なお、一条流の「たすけたまへ」の意味とか、蓮如上人は最初は「たすけたまへ」を否定的な意味で使われていたことについては、長くなりますのでここでは割愛させて頂きます。



【参照】
安心論題/タノム・タスケタマヘ
『本願力』梯實圓和上  『攻めの蓮如上人』

「ふかく」=「他力」、「あさく」=「自力」

いや~、日本語って、非常に難しいですね。色々な国の言葉が混じり合っているだけでなく、親鸞聖人や蓮如上人の時代のいわゆる古文漢文と我々が日常用いている現代文とでは同じ言葉でも意味が違うのですから。

特にセンター試験で古文漢文30点だった自分には、聖典と向き合うのは厳しい厳しい。先哲の解説をもとに、読み誤りのないように注意して拝読したいものです。


さて、昔と今とで意味が違う用語の中でも、「あさく」「ふかく」とか、「たすけたまへ」「たのむ」等は誤解が多いのではなかろうかと感じます。

まず前者の「あさく」「ふかく」ですが、漢字で当てれば「」「」です。これは現代の感覚では相対の世界での浅い、深いという意味に捉えがちです。井戸が浅い、深いとか、信じる度合いが浅い、深いとか。

しかしそうではなく、信心について「あさく」「」と言ったら自力を、「ふかく」「」と言ったら他力を表します。

これについては二種深信がまさにそうです。

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
「散善義」

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。『往生礼讃』

決定して深く・・・と信ず」「信知」とありますが、これは現代の感覚で深く信じ込むこととは違います。『正信偈』にも源信讃

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。

とあります。専修になり極まった念仏の行者の信心は他力なるが故にふかく、雑行雑修を捨てやらぬ機の信心は自力なるが故にあさいということです。

念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。『末灯鈔』12通

のお言葉など典型例です。「ふかく信じて」とは他力の信心、真実の信心であり、自力で信じ込もう信じ込もうとすることとは全く異なります。本願力にまかせたてまつる信心は他力なるが故に「ふかく」と表され、逆にどんなに強く深く信じ込んでいようとそれが自力であれば「あさく」の範疇になります。

一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて5帖目4通

等の『御文章』のお言葉もそうです。「ふかく心に疑なく信じて」とあるから、現代の感覚では疑わないように深く強く信じ込むことのように思いがちですが、どんなにそうだそうだと強く深く信じ込もうとそれは自力の信心の範疇であり、「ふかく心に疑なく信じて」という他力の信心、真実の信心ではありません。5帖目4通では後に

仏にまかせまゐらせて

とあるように、これは自力を離れて阿弥陀仏におまかせした他力の信心を意味しています。久しく聖典を拝読している方には敢えて尋ねたり注意したりする必要も無い常識ですが、自力雑行の捨てやらぬ親鸞会の会員や退会して間もない方、それほど聖典を勉強していない方は知らないことかもしれません。


『御文章』ではこの「ふかく」に加えて「たすけたまへ」「たのむ」「たすけたまへとふかくたのみ」等とあり、現代の感覚では更に誤解しやすくなっています。こちらについては記事を改めてみてみたいと思います。

機の深信と罪悪観を混同している親鸞会会員

親鸞会では「因果の道理」→「真実の自己」→「後生の一大事」の順に説くのが恒例になっています。高森会長は10月の報恩講では「因果の道理」を話し、先日は「真実の自己」について話しましたから、次に話す機会があるとすれば、今度は「後生の一大事」について話すのではないかと考えられます。尤も、そのように考えている会員も少なくないかもしれません。

この順で話を聞くことにより、後生に驚きが立ち、それが聞法の出発点であるかのように親鸞会では説きます。このワンパターンに尽きるといっても過言ではありません。

・因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても分からない。
・因果の道理の結論は廃悪修善。
・ド真剣に廃悪修善を実践しなければ真実の自己(善のできない自分)は分からない。
・真実の自己が分からなければ後生に驚きが立たない。
・後生に驚きが立っていない者は横の線の軌道にも乗っていない。


このように毎度毎度言われるものですから、会員は、まずは横の線の軌道に乗ろうとして因果の道理を聞き、廃悪修善(という名の組織拡大活動)に努め、自己を見つめ、後生の一大事に驚き立とうとしています。人によっては何十年とこれをループしています。横の線の軌道に乗る、これが獲信の条件だと思っているのです。言葉を換えれば、往生の条件だと思っているのです。

もっと言えば、因果の道理が強く知らされる、悪しかできない自分が強く知らされる、後生に驚きが立つ、こういったことも獲信・往生の条件だと思っているのです。

自己を見つめ、後生に驚き立ち、求めて求めて、一つの善もできない極悪人の姿を如来の御前に投げ出す経験をする。それが機の深信であり、その時に「そのまま救う」の阿弥陀仏の直の喚び声が五臓六腑を貫き、私一人がための弥陀のご本願でありましたと知らされる。それが法の深信である。このように、救済の予定概念を描き出して、そこへ自分を当てはめようとしているのが親鸞会の会員です。


これは昔から言われているように、機の深信と罪悪観を混同しているところから生じる誤りです。もはや言い尽くされているので今さら私の出る幕はありませんが、よく理解できていない方、最近退会した方のために以下、参考文献のリンクをしておきます。

『WikiArc』二種深信

『安心問答』なぜ生きるの本にある「機の深信」は罪悪観と混同しているのか?について(S会会員さんのコメント)

『苦笑の独り言』 「二種深信」と「罪悪観」との混同

この辺りをよく読んで頂けたら、機の深信と罪悪観の違い、親鸞会はこれを混同して説いていることがお判り頂けるのではないかと思います。今は、『苦笑の独り言』に出ている稲城選恵和上の言葉を載せておきます。

 高森氏の問題となる根底は二種深信の解釈の誤解より生ずるものである。特に機の深信と罪悪観との混同である、既述の如く、「弥陀の五劫思惟の願が我一人のためであったということは地獄の釜底でなければ体験できない」とあり、「助かる望みが断ち切られで無間のどん底にたたきおとされた時、阿弥陀仏の招喚の勅命が聞こえる」といい、「地獄へ堕ち切った処まで行かなくては助けられた味合いは判りません」とあり、「地獄一定住み家と堕ちきらせて頂き、その時はじめて魂に御六字の光がとどいて下さる」とある。いずれも自らが絶対に「救われない存在」であるという自覚を前提にしなければ阿弥陀仏の救いは成立しない。このような罪悪観を救いの前提とし条件とする人は、必ず求道、三定死、信決定、体験、大歓喜等と入信の順序が定式化している。信一念の覚不を強調せざるを得ない理由も、二種深信の誤解より生ずるのである。まず求道の前提として、地獄におちるという恐怖心をあおる事から始まるわけである。


 宗祖の生涯かけて最も問題にされているのは十八願と二十願の真仮の廃立にある。それは既述の如く、『教行信証』一部六巻のみならず、和讃をはじめ、他の著作の上にもみられるのである。二十願も「聞我名号」と願文にあり、本願の成就丈にも「聞其名号」とある。双方ともに名号を所聞の体とし、所信の体とするのである。しかるに二十願は折角名号法を聞きながら信罪福心の自力疑心にとらわれているから真実の法にあうことが出来ないのである。それ故、浄土真宗で最も問題となるのは自力疑心である。蓮師の宗名の御文章にもあるように、浄土真宗の「真」の一字を加えたことは自力疑心を認めるか否かにあるといわれる。自力心を認める限り、真宗とはいわれないのである。この自力心はみずからによっては征服することは不可能である。他力の法によってのみ否定されるのである。しかも自らが求めるに先行して既に与えられている名号法を聞信するから自力心を否定されざるを得ないのである。
 この順序が逆になり、自らが先行すると、折角、生涯をかけて開法しても永遠に本願にあうことは出来ない。真剣な聞法者ほど、この順序が逆になっている場合が多いのである。ここに聞法に苦労しなければならないのである。聞くこと以外に本願に遇う道は開かれていないが、聞いて信じなければならぬと己の側に力をいれるほど、逆に救いから遠ざかるのである。かつての妙好人の跡をみると明らかである。それは否定媒介としては重要な意味をもっているが、救いには直接しないのである。ここに聞法の厳しさがあるのである。


 親鸞会の立場は折角聞法に力をいれながら、順序が逆になるから、信心獲不に力が入り、信罪福心の虜となっているのである。


親鸞会のことをズバリ言い当てられています。このようなことに囚われて自分ばかり見つめ、どのような自分であっても必ず救う本願の仰せを聞かないから、会員は信心も安心もないまま無駄な月日を送っているのです。しかし、そのような本願であることを聞かせてはもらえないので、そのまま親鸞会にいても救いはありません。

正直、会員がやっている程度の活動で真実の自己が分かって救われるというなら、親鸞聖人は比叡山での20年の仏道修行でそれ以上の自己が分かって救われているはずです。ましてサークル活動の延長のような求道ごっこをし、救済の予定概念を描いてそこを通ろうといくら努力しても、それと本願の救いとは無関係です。

本願の救いには、親鸞会で聞いてきたことは全て捨て置き、勧められてきた雑行も捨てて念仏の一行に帰し、称え聞こえる南無阿弥陀仏のそのわけは「我にまかせよ、必ず救う」「助けるぞ」の仰せであると受け容れて、ひとえに後生を阿弥陀さまにおまかせ致すのみです。この如来の仰せ、本願の勅命を疑いをまじえずに受け容れたことを信心といい、これを開けば機法二種一具の深信と言われるのです。

親鸞会では二種深信は同時に立つと言いますが、機の深信が立つことが法の深信の立つ条件のように言われています。さらに機の深信と罪悪観の混同によって、機法二種は全く引き離されています。そして、堕ちる機ばかりが問題にされて助けたもう法が説かれませんから、全く救いが無いのです。

機の深信が立つことが法の深信が立つ条件ではありません。いくら機を追いかけようとも、それでは絶望のみで救いはありません。救われたいなら、救うと仰せられる法を仰ぐことです。


なお、この問題に関連しては当ブログでも

罪悪観と機の深信を混同し、親鸞聖人のお言葉を自分の都合に合わせて改変している現役カルト信者

に書いていますので、リンク先等含め合わせて参照して下さい。

第十九願について全く無知であり、第十九願とは無縁な高森顕徹会長と親鸞会会員

前回の続きです。

親鸞会の会員は「観経安心」以前の問題の人達です。

親鸞聖人は『観経』顕説である定散二善、九品往生は弥陀の十九願意を顕された教説と見ておられますが、そもそも弥陀の十九願とはどのような願か、十九願の行者とはどのような行者か、親鸞会の会員は無知です。そもそも高森会長が全く分かっておらず、十九願を利用しているに過ぎないので仕方ありませんが、今一度、少しばかり十九願について見てみます。

設我得仏 十方衆生
発菩提心 修諸功徳
至心発願 欲生我国
臨寿終時 仮令不与
大衆囲繞 現其人前者 不取正覚

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。


これが十九願です。会員の多くは御文自体は知っていると思いますが、意味が分かっていません。

まず「発菩提心」ですが、これは単に「よーしやるぞ」とやる気をおこす、奮発心をおこす、ということではありません。「発菩提心」とは、自利(智慧)と利他(慈悲)を完成して仏になろうと誓う心をおこすことを言います。

すべての仏や菩薩は、仏道修行を始めるときに総願と別願とをおこします。総願というのは、すべての菩薩に共通している誓願のことですから、通願ともいいます。菩薩が修行を始めるときにまずおこすのが菩提心ですが、その内容は願作仏心(仏になろうと願う自利の心)と度衆生心(衆生を済度しようと願う利他の心)であり、さらにそれを広げれば四弘誓願として表されているような誓願を総願といいます。

ですから

菩提心を発して」=「四弘誓願を発して

ということです。四弘誓願の内容を見たら菩提心がどのようなものかが判るのです。四弘誓願とは、

衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれども、度せんと誓願す)
煩悩無辺誓願断(煩悩は無辺(尽)なれども、断ぜんと誓願す)
法門無尽誓願知(法門は無尽(量)なれども、知らんと誓願す)
無上菩提誓願証(無上なる菩提を証せんと誓願す)


という四つの誓いを言います。

救うべき衆生は数限りなくいるが、ことごとく救い尽くそう。煩悩は際限なくわき起こってくるが、残らず断ち切っていこう。学ぶべき真理に尽きることはないが、ことごとく知り尽くしていこう。さとりの智慧は無上であるが、完全にさとり極めていこう。これが四弘誓願の内容であり、このような心をおこすことを「発菩提心」と言うのです。

四弘誓願では衆生無辺誓願度と利他が先で、その利他の実現のために煩悩無辺誓願断以下の自利の完成を誓われています。自分の幸せは後回しなんですね。これを分かり易く言いますと、

私はどんな苦難も引き受けますから、どうぞ貴方がたは幸せになって下さい

という誓いであると判ります。何という気高く尊い心でしょうか。

私達は、愛する者の幸せのため、あるいは御恩ある方への報謝のためならどんな苦労も厭わないと思うこともありますが、やはりこれ以上はできないという限界があります。ある程度以上のことをすると、恩着せ心や慢心などの醜い心が生じてきてしまうものです。また、嫌いな者や怠け者のために自分が代わってその人の苦労を引き受けようなどとは思わないでしょう。しかし仏や仏を目指す菩薩とはそうではないのです。

菩薩の心とは、一切衆生の苦難を我が苦難と引き受け、一切衆生を利益して幸せにし、それを我が幸せと感じることができる心です。「絶対の幸福」になりたいなどという我利我利の心、貪欲の心とは根本的に異なるのです。親鸞会と「発菩提心」とは無縁の関係です。


次に「修諸功徳」とは、諸々の善根功徳を修めるということです。菩提心を発した菩薩が仏と成るためになすべき修行内容を「諸功徳」と言われています。その修行内容は数え切れないほど多いので「諸善万行」と言われますが、これをまとめて説かれているのが「六度万行」とか、「六波羅蜜」と言われる六種の行業です。それを『観無量寿経』では「定散二善」で示されています。

このようなことですから、仏教で言う「諸功徳」「諸善万行」「六度万行」「六波羅蜜」「定散二善」とは、本来私がこの世を幸せに生きるためにする行いではないことが判ります。さとりを求め、さとりの完成のために行ずるのが菩薩行であり、成仏の因なのです。それをまた「廃悪修善」ともいうわけですが、さて、お釈迦様が

幸せになりたければ「廃悪修善」をしなさい

と一生涯教えられたとうそぶき、さらに「絶対の幸福」という欲望を満たすために善をせよと教える高森教は一体何教でしょうか。少なくとも仏教、浄土真宗でないことは明らかです。更に、主にやれと勧めている善は度々申し上げているようにとても善とは言い難い親鸞会の組織拡大活動ですから、親鸞会と「修諸功徳」も本来の意味でやはり無縁の関係です。


それから「至心発願欲生我国」ですが、これは心から阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと願いを発すということです。この世では仏道修行を妨げる悪縁があまりにも多く、お釈迦様在世当時は勿論ですが、特に現在は、お釈迦様の時代から遠く隔てた末法の時代であって、この土でさとりを開くことは甚だ困難です。私達のような煩悩にまつわられてこれをどうしようもできない凡夫は迷いを離れることは不可能です。

それで阿弥陀仏は、全く悪縁の無い清浄の国土を完成し、そこへ衆生を往生させて救おうと思い立たれ、本願を発されたのです。ですから、衆生を相手に誓われた第十八願、第十九願、第二十願のいずれも「欲生我国」と誓われ、浄土願生の心をおこせと言われています。

第十九願では「欲生我国」の前に「至心発願」と言われています。「諸功徳」は本来この土でさとりを開く行であって、浄土往生の行ではありません。それで、本来往生行でない諸善万行を往生行にするには、この善をもって浄土に往生したいと願いを発す必要があるのです。しかも阿弥陀仏の浄土は煩悩を離れたさとりの境界ですから、いい加減な気持ち、また浄土で楽をしたいというような気持ちであってはなりません。ですから、まことの心で、本心から浄土に生まれたいと願いを発せというのです。

対して親鸞会の会員は浄土往生というよりは「絶対の幸福」という欲望を満たすのが目的でしょう。また浄土を願っているにしても、果たしてそれは一切衆生の救済に生き抜こうという仏道の完成のためでしょうか? ですから、親鸞会と「至心発願欲生我国」もやはり無縁の関係です。


ところで、そうやって菩提心を発し、心から浄土に生まれたいと願いを発して様々な功徳を積んだ行者を臨終に迎えに行くと誓われているのが「臨寿終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚」です。ただ、親鸞会はそれ以前の「発菩提心」「修諸功徳」「至心発願欲生我国」とは無縁であり、しかも会員は臨終の来迎は望んでいない、考えていないでしょうから、やはり親鸞会とこの御文も無縁の関係です。


このようなことですから、親鸞会と第十九願は無縁の関係であることが判ると思います。そんな親鸞会の会員が、19願の道程を通れという親鸞会流「三願転入の教え」を実践しているはずもありません。かつて

君たちは十九願の入り口にも入っていない

などと高森会長が講師部員に向かって発言したそうですが、ある意味で当たっているのです。そもそも道を歩んでいないのですから辿り着くということもなく、しかもその道は報土へ通じていないのですから、会員が信心も安心もないのは当たり前の当たり前のことなのです。会員の皆さんはいい加減に気づくべきです。


なお、前回は「観経安心」について

(1)第十九願の至心発願の誓いによって、万善諸行の自善を回向して浄土に往生しようと願い求める信心

と定義してみましたが、あるいは

(2)第十八願の救いを求めながらも、諸善をまじえ、その功徳によって獲信、往生しようと願い求める信心

と言えるかも知れません。尤も、いずれにしても、親鸞会の会員は「観経安心」以前の問題の人達ですが。

もっともっと哀れな親鸞会会員

消費増税前の駆け込み需要がヤバいです(´-ω-`) たかだか2%の増税くらいでこれだけ荷物が集中するとは、多くの国民の底知れぬ欲望を垣間見る思いです。尤も、そうなるのは分かり切ったことですから、会社も人員を集中する段取りをすればよいものを、そうせずにいつもの戦力で回そうとしているのですから阿保です。毎度、無能な上の連中と国民の深い欲望に振り回される物流業界の末端人員は哀れです、私を含めて。


ところで、二千畳で一般講師も話をするようになったことは以前紹介しましたが、始まったのは今年の7月13日かららしいです。日程表を見せて頂きましたが、午前と午後で話があり、違う講師部員がそれぞれの演題で話をしているようです。講師の中には大学時代にお世話になった先輩の名前もありました。なつかしいと思ったと同時に、未だに高森教を真実の宗教と妄想誤解して不浄説法しているのかとため息が漏れました。

ご存知の方がほとんどでしょうが、話をする講師部員達は高森会長曰く

十九願の入り口にも入っていない

者達です。高森会長から聞いていてもダメなのに、そんな未信の講師達の話を聞いて信心獲得なんてできるんですかね? 「絶対の幸福」だとかいう欲望に狂って真実の報土を願わず、逆に高森一族の深い欲望に振り回され、エセ真宗の未信の講師による不浄説法を聞き続ける会員はもっともっと哀れです。

二千畳で一般講師も話をするようになった親鸞会

6月23日以降ずっと登壇していない高森顕徹会長率いる親鸞会ですが、内部では少し方針転換がありました。

頂いた情報によりますと、親鸞会では8月から二千畳で一般講師も話をするようになったそうです。平日も開館し、一般講師が話をしているとか。昨日は、高森光晴氏やその他名の通った講師部員が話をしたそうです。私が会員だった頃は考えられないことです。


二千畳の大講堂や同朋の里、その他周辺施設が建てられたのも、全ては会員一人一人が高森会長の講演を聞いて人生の目的を果たそうとするためでした。しかし、当の高森顕徹会長が加齢や疲労等のために講演中止が続き、その結果会員が富山へ来ないようでは、せっかく建てたハコモノは負の遺産として重くのしかかり、やがて風化していくのみです。

そういった点では、今回のこうした試みは意義があるでしょう。しかし、それは宮田先生が指摘しているように

真実を説き切れない人の話を聞いても救われます

と公言したも同じことです。高森会長は以前、講師部員を前に

君たちは19願の入り口にも入っていない

と言い放ったと聞きます。その後10年以上が経過したと思いますが、何せ

・20年や30年で獲られる信心なら「億劫にも獲難し」と言われるはずがない(これが獲信か、7P)

・雑行、雑修、自力の心を知るには30年40年かかるだろう。(教学講義)

・信心獲得は100年や200年求めて獲られるような、ちっぽけなものでなく、多生永劫、求めてようやく獲られるもの、ということが明らかです。ーーー
 我々も魂のリハビリをしているようなもので、信心獲得までには肉体のリハビリどころでない、多生永劫という長いリハビリの時間を要するのだ、と教えて頂きました。(昨年来た友人の手紙・会員暦30年以上)

(以上、『私の白道』5より)

というような教えですから、未だに「光に向かって進ませて頂きます」と頑張っている方々ばかりでしょう。一番高森会長に近く、一番光に向かって進んでいるはずの講師部員でさえこうですから、特専部員や幹部会員は勿論、一般会員などは19願の入り口どころか、横の線の軌道にも乗っていないでしょう。こんな体たらくで今宵の後生どうなるんだと自身に真剣に問うている人はもはや親鸞会にはいないのでしょうか。

また会員の方は、今までは「真実を説き切られる唯一無二の善知識・高森顕徹先生の講演」という思いで自身も参詣し、人も誘っていたのが、これからは「真実を説き切れない人の話を聞いても救われます」ということで活動していくようになるでしょう。皆さんもうすうす勘付いているはずです。信心を獲ている者は皆無だと。


親鸞会の今後も気になりますが、私はやはり会員の皆さんの後生、とりわけかつて一緒に活動していた仲間達の後生が気になります。親鸞会の活動に生涯精を出したとしても、それは獲信・往生とは無関係です。

往生には、選択本願の念仏を専ら称え、称え聞こえる南無阿弥陀仏は「助けるぞ」「我にまかせよ」「必ず浄土に迎えるぞ」と招喚したもう弥陀の勅命であると聞き受けて、仰せのままに後生おまかせするのみです。こうした弥陀の勅命、本願の仰せを疑いをまじえずに受け容れたのが信心です。

こうした往生の信心は、20年、30年求めなければ獲られないようなものではありません。南無阿弥陀仏を聞き受けた一念に定まります。今日聞いて今日救われる教え、ですから平生業成というのです。平生と言っても、今日死んでしまえば平生とは今日までです。ですから、平生とは今のことです。

今、本願の救いにあずかり、決定往生の身となる。これが親鸞聖人の教えです。対して親鸞会の教えはどうですか? 最初はそんなことを言っていても、いざ求めていったら全然話が違うじゃないですか。後生の一大事を強調して、簡単に解決できる問題ではないと言われてしまうでしょう。表向きと、入会して奥座敷に入っていった時で、全然違う教えを説いているのが親鸞会じゃないですか。

19願の善、諸善万行、定散二善、これらは「雑行」であり、「雑行」を修めて浄土往生しようという者を阿弥陀仏の光明は摂取して下さいません。浄土を願って如実の行を励む者さえそうなんですから、まして善という名の献金、勧誘、無条件服従等の活動をやって、しかも「絶対の幸福」なんていうこの世の欲望を満たそうとしている者が阿弥陀仏の本願に摂取されるはずがありません。


今まで費やしてきたことを思えば、親鸞会にしがみつく、高森会長を頑なに信じる気持ちはよく分かりますが、ダメなものはダメなんです。最終的には

悔いが残らない方を自分で選べ

と言うよりありませんが、本当に、会員の皆さん一人一人が悔いなき選択をし、今度の一大事の往生をし損なうことがないようにと願っています。

「二千畳 ギネス世界記録に挑戦」だってさ

そろそろ今年の報恩講シーズンも近づいてきましたが、親鸞会では未だ報恩講の案内が公式にありません。休みがちな高森会長の体調を考えると、二日間の日程を組んで発表することは難しいのかも知れないです。

代わりにと言っては何ですが、親鸞会では知名度を上げるためか、こんなことをやると発表しています。
↓↓↓
二千畳 ギネス世界記録に挑戦(9月23日)

S価学会の真似をして全国に会館を建てて、幸福のなんたらの真似をして映画を作って、今度はギネス記録に挑戦だってさ。名目上は

親鸞聖人の教えには「なぜ生きる」の答えがある、二千畳に行けば、いつでも聞かせてもらえるんだ、ということを、ギネス世界記録認定を縁に1人でも多くの人に知っていただく第一歩としたいと思います。

と語っている増本総館長ですが、実態は高森会長の

なりふり構わぬ親鸞会知名度アップの第一歩

といったところでしょう。


教義の破綻は10年以上前から明確化していましたが、どうやら高森会長のワンマン素人経営によって組織的にも限界を迎えつつあるようです。やがて必ず滅びる会館の大きさを誇示するよりも、ただ一つの真実である南無阿弥陀仏を伝えるべきだと思いますが、高森会長にはそれができません。

できることはせいぜい「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、創価学会の信心を弘めるくらいです。それでは、たとえ多くの人が集まって威勢よくしていても真実信心を獲て報土往生する者はいないわけで、そんなものは一宗の繫昌とは言いません。

一 一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば、「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。『御一代記聞書』121

【現代語訳】
一宗の繁昌というのは、人が多く集まり、勢いが盛んなことではない。
たとえ一人であっても、まことの信心を得ることが、一宗の繁昌なのである。
だから、『報恩講私記』に、「念仏のみ教えの繁昌は、親鸞聖人のみ教えを受けた人々の信心の力によって成就する」とお示しくださっているのである。


尤も、親鸞会自体が「専修正行」ではなく「兼修雑行」の団体なので、はなから繫昌も何もないわけですがね。

親鸞聖人には「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という発想はありません

南無阿弥陀仏のいわれを説いたということは、「アンタのはからいは要らん」ていう説教なんです。
だから これを根拠に私、言っているんです。
「阿弥陀さまは 念仏しろと言っていないよ」って。


2019年8月のとある会でのA先生の発言です。未だにこのような主張を繰り返しています。発言を撤回などしていないし、するつもりも更々ないことは明白です。


親鸞聖人の教えは信心正因だといっても、それは念仏と無関係の信心ではありません。念仏往生という万人共通の救いの道を、我々一人一人の上で適示するならば、念仏往生の法を疑いなく受け容れた信心が肝要である。念仏という行から信心を別開し、本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れた信心を報土の因とする。親鸞聖人が往生(成仏)の正因だと言われた信心とは、念仏往生の本願についての信心だったのです。

信心について教えられた御文としては、善導大師の二種深信の文が有名です。

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

阿弥陀仏の本願は名号を称することわずか十声、一声の者に至るまで必ず往生させるということに疑いない、というのが真実の信心であるというのです。ですから信心の内容は、称名正定業ということです。親鸞聖人は、この『往生礼讃』のお言葉を『集諸経礼懺儀』からという形で二回引文されています。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

親鸞聖人もこのように理解されているのです。『教行証文類』において。

これが『御消息』ではもっと判り易く

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

と教えられています。親鸞聖人においても「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」ことは明白です。


仏教といえば教・行・証です。教えを聞いて、教えの通り行じて、証、さとりを開く。

その行が、念仏です。念仏という行によって、浄土往生という証を得る。これが浄土の教えです。

ただし、仏教の場合は、行をする際の心を非常に重視します。例えば聖道門では、四弘誓願で表されるような崇高な菩提心を発して行を修めなければ、本当の意味で行を修めたということにはならないです。たとえ形の上では賢善なふるまいをしていても、内に煩悩が燃え盛っているようでは如実の行とは言えないのです。つまり、内外不相応の状態でいくら修行に励んでもさとりは開けないということです。

それは浄土門も同じで、問題は信心です。身体は同じように阿弥陀仏一仏を合掌礼拝して、口では同じように阿弥陀仏一仏の名を称えて往生を願ってはいても、信心が異なる者は同じ浄土へは参れないというのです。

法然聖人の仰せには、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候ふらんとおぼえ候ふ。

【現代語訳】
そこで法然上人に、詳しい事情をお話ししたところ、「この源空の信心も如来からいただいた信心です。善信房の信心も如来よりいただかれた信心です。だからまったく同じ信心なのです。別の信心をいただいておられる人は、この源空が往生する浄土には、まさか往生なさることはありますまい」と法然上人が仰せになったということでありました。ですから今でも、同じ念仏の道を歩む人々の間で、親鸞聖人のご信心と異なっておられることもあるのだろうと思われます。

今は『歎異抄』から抜き出しましたが、『御伝鈔』にも同様のことが書かれています。

ここでポイントは、「一向専修のひとびとのなかに」、信心が異なる者があったという点です。

同じ念仏の道を歩む人々の間で、親鸞聖人のご信心と異なっておられる」方々があったという点です。

行は同じく念仏一行を修める方々の中で、信心が同じか異なるか、つまり信心が自力か他力かを問題にされていたのです。親鸞聖人が問題にされたのは、念仏一行を修める際の信心だったのです。念仏を称えることは当然の事としたうえで、念仏を称える際の信心を問題にされたのです。

善導大師のお言葉で言えば、念仏一行を修めるのは前提とした上で

弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし

という信心が定まっているかどうかを問題にされていたのです。親鸞聖人のお言葉で言えば、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へん

という本願をふかく信じて称えるか、信心あさくして称えるか、ということを問題にされていたのです。勿論、

ふかく信じて・・・他力の信心、真実の信心
信心あさく・・・自力の信心、定散心

です。「ふかく信じて」は自分の心で深く信じ込む、いわゆる自力の信心の延長ではありません。

決して念仏を称えよと仰っていないとか、念仏を称えよと仰っていない本願がどうこうという問題ではなかったわけです。あくまで

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

本願であると見た上で、親鸞聖人は真実の信心で念仏を称えるのが他力念仏の行者で報土往生し、定散心で念仏を称えるのが自力念仏の行者で化土にとどまると峻別されたわけです。


親鸞聖人には阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていないという発想はありません。このような説は、蓮如上人の信因称報説に立って親鸞教学を理解しようとして理解しそこなったところから出てくる誤りでしょう。

親鸞聖人の教えは、善導大師、法然聖人の念仏往生説を正当に継承した上での信心正因の教えです。これを、高森会長のような真宗に無知な素人ならともかく、真宗教義を正確に学んでいるはずの本派の布教使が間違えているのです。いい加減にこのような間違った説を振れ回ることは止めて頂きたいと願うばかりです。

善知識だのみの異義について

本日は高森顕徹会長の講演が予定されていましたが、例によって急遽取り止めとなったようです。また邪義を明らかにするチャンスだったのに、拍子抜けです。壇上で死ぬのは本望とか何とか言っていましたが、本当は自宅か病院のベッドで死にたいのでしょう。

いつも直前で中止ですから迷惑な話ですよね? それに、中止となったらなったで息子なり何なり代理を立てて説法すればいいのに。しかし息子は毎度毎度、譬えまで同じ話しかしないし、講師長の誰かが話すにしても上手く説いたら息子の面目を潰して批判の対象になりかねないし、何とも難しい所です。ともかく言えることは、それぞれがそれぞれの思惑で動いており、会員の往生・獲信を目的とし、立ち上がる者は親鸞会上層部には一人もいないということです。

会員も会員で、「高森先生でなければ本当の親鸞聖人の教えは説き切れない」「高森先生から聞かなければ救われない」などと信じていることでしょう。一人の知識を絶対視して「誰が何と言おうと高森先生が正しい」と信じ、会での活動は勿論、生活の至るところまで会長や上司、会の方針に従おうとする。逆に、そうしなければ後生は助からないと思う。そのような善知識だのみの異義に陥っていますから手に負えません。


さて、今日は善知識だのみの異義について、今一度安心論題/五重義相より伺います。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
「善知識だのみ」は、知識掃命ともいわれます。これは阿弥陀仏に帰命するといっても、現に法を説いてくださる善知識がなけれぱ何にもならないのだから、善知識だけをたのみにすればよいのだ、と善知識に帰命すべきことを主張するものであります。

たしかに、阿弥陀如来のおこころは、生きた人間を通して私どもに伝えられるのであって、私に直接するのは善知識であります。ですから、救いの法を説いてくださる善知識を尊重し敬慕するのは当然でありましょう。しかし、阿弥陀如来をそっちのけにして、善知識を帰命(信)の対象とするならぱ、それは本末転倒といわねばなりません。

そこで、蓮師は善知識だのみの誤りを指摘せられ、善知識は「弥陀に帰命せよ」と勧める使いであって、あくまで帰命すべきは阿弥陀如来である旨を述べられ、更にこれを明らかにするために、五重の義を立てられたのです。

これによって、宿善開発して善知識にあい、その善知識の勧めによって弥陀に帰命する信心を得て、往生決定の身となる旨を示され、「帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきことを、大きなる誤りなり」と誠められています。

思うに、善知識が真の正しい善知識であれば、このような善知識だのみは生じないでありましょうし、たとい一部にそういう誤った見解が生じても、善知識がその誤をただしてくださるでありましょう。

しかし、偽り邪な善知識の場合が問題であります。現実には「帰するところの弥陀をすてて」とまではいかないにしても、人々を説得し心服させる才能にたけた者が指導者となり、指導される人々はその人を阿弥陀仏と同等に生き仏として無条件に帰依尊崇するということになれば、どのような事態になるか。実に危険きわまりないものといわねばなりません。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

最後の一段は、これこそ親鸞会そのものと言っていい内容です。ちなみに、谷口春子さんの手紙をまとめた『絶対の幸福』という本には、高森会長のことを

「尊き善知識会長先生」(p.33)
「偉大なる善知識会長先生」(p.36)
「生き仏様会長先生」(p.54)
「阿弥陀仏の御化身であらせられる尊き会長先生」(p.56)


などと言葉を尽くして誉め讃えています。これが発刊された意図は、高森会長に従って真剣に親鸞聖人の教えを聞き開けば絶対の幸福になれると会員に希望を抱かせることと、高森会長が生き仏のように尊い善知識であると会員に思い込ませることにあったと言えましょう。

「自分は善知識だのみではない」。こう思っている人が実は善知識だのみというケースが少なくないです。例えば、高森会長の説く二河白道の譬えは本来の譬え話と随分変わっていますが、それを「私達に分かり易くするために敢えて譬え話を変えてお話下さった」などと忖度しているとしたら、それは完全に黒でしょう。

親鸞聖人が白道を(自力の)求道心、信心と解釈された箇所は一箇所もありません。その他、親鸞聖人が19願を勧められた根拠も、親鸞聖人が「獲信の因縁(宿善)として善を修せよ」と諸善を勧められた根拠も一箇所もありません。親鸞聖人が一切衆生必堕無間と教えられた根拠も一箇所もありません。

聖教に根拠が無くても、聖教と真反対だと指摘されても、「高森先生に間違いがあるはずがない」と思い込む。非難してくる人の主張を聖教の上でろくに確かめもせずに間違いと決めつける。意識無意識に関わらず、高森会長の主張を擁護しようという立場で物事を考える。こんなのは典型的な善知識だのみです。某所では

・お聖教に書かれていることよりも、特定の先生の言うことを盲目的に受けいれてしまう
・その先生が説く内容にお聖教に反していることがあったとしても、その批判に対して思考停止してしまう


という書き込みがなされていましたが、親鸞会ではなくても同様の知識帰命的な方は少なからずいるようです。


ところで、話が上手い、人徳がある、カリスマ性がある等の勝れた資質をもつ宗教者が教位に立つと、聞く人は教えよりも教えを説く人が表に立ってしまって、依るべき法が見えなくなってしまうことがあります。

『WikiArc』トーク:人惑を受けず

にはそういう現象の危険性について書かれているので参照して下さい。私達が依るべきなのは教え、法であって、教えを説く人ではありません。教えを聞かせて下さる先生を尊敬し、大事に思う気持ちは大切ですが、どんな先生も完璧ではありません。間違うことだってあります。だって人間だもの。

間違えないことも大事ですが、間違えたら素直に認めて改めることはもっと大事です。そうやって我々は自分の理解能力が取るに足らないものであることを思い知らされ、いよいよ念仏のみぞまことと信知させされ、たのむべきは弥陀如来であり安養の浄土であるといよいよ明確に知らされていくのだと思います。

阿弥陀仏や釈尊、また七高僧方や親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人といった歴代の善知識方のお心を教えを基に推し量ることは大事でありますが、目の前の知識の心を必要以上に推し量って何でも善意に解釈するのは如何かと思います。特に聖教に真っ向から反する説に関しては如何を通り越して危険です。

聖教に無い説を説いて、それは違うでしょうと指摘を受けても間違いを認めない。根拠にならない根拠を挙げてあくまで自説を正当化する。それでいて、間違いだと批判する者を正法誹謗だと逆批判する。そのような人は、念仏者としてまことに不適当と言わざるを得ません。たとえ教え全体としては全く違っていても、正しい部分が多くても、それではその人の根本的な性格は高森顕徹会長と同じです。私も気をつけたいところです。

親鸞会は勿論、それ以外の団体や集まりでもそういう危険性がありますから注意が必要です。最後にこのことを述べて、当記事は終わりたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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