親鸞会会員の誤解―高森会長は51段目の位にいる(1)

親鸞会では、高森会長を権威づけし、会員を服従させるのに

高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる

と会員に思い込ませています。

高森先生は阿弥陀仏の御心が分かり、自分達に正しく説いて下さる唯一の御方

であると推量、忖度させるには、我々とは次元が違う境地にいると思わせる必要があります。

親鸞会ではさとりの52位の話をし、1段でも違えばその境界は人間と虫けらほど違うと言います。我々は1段のさとりも開いていない凡夫で、仏覚は52段目の最高位。そして信心獲得すると51段高とびしてあと1段で仏という等覚の位に到達するように教えられています。さとりの52位を図で示し、一番下から上に向かって曲線を引いて、信一念で一気に51段の位まで飛び越えるように印象付けています。あまり上手ではありませんが、下の絵を参照して下さい。



信一念で51段高とびして、既に等覚のさとりを開いて一生補処の位にいる弥勒菩薩と肩を並べるという話は高森会長のオリジナルかと言えば、当然そんなはずは無く、伊藤康善師からのパクリです。伊藤康善著『安心調べ』には

そんなあっさりした話で生死の大問題が解決する人があれば、吾等は求道に苦労することもない。仏勅をすなおに信ぜられるほど、我等はお目出度い人間にできていない。そこには深酷な体験の苦しみがなくてはならぬ。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説く者も愛想をつかし、求める者も愛想をつかし、求道に精も根も尽き果てて、悲泣悶絶のどん底から、湧き上がる精神的大飛躍の境地がなければならぬ。廻向信は決して、おぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つこころである。
この信は仏階52段の中、下50段を超えて41品の無明を断ずる等覚不退に類同せられる。……、真に手の舞い足の踏むところを知らぬ大歓喜である。至心信楽己を忘るというも愚かなり、大千世界を踏む破って、恒沙の諸仏に怒号叱咤することのできる豪快な自覚が生まれてくるのである。この体験がなくては何を言っても駄目な話だ。
(P255~P256)

とあります。これが高森顕徹著『会報第二集』では

そんなあっさりした話で生死の大問題が解決するものか、十劫の昔の話を素直に信ぜられる程我らはお目出度い人間に出来ていないのだ。そこには、生死の断頭台上に生首をつき出す苦しみがある。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても尚心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説くものも愛想をつかし、求める者も愛想をつかし求道に精も根もつき果てて悲叫悶絶のどん底から湧き上がる精神的大飛躍の境地がある。一念は断じておぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つ心である、この一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられるものであり、真に手の舞、足の踏むところを知らぬ大歓喜があるから慶喜一念という。至心信楽己を忘れるというも愚なり、大千世界を踏み破って恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚が生まれるのだ。この一念の体験がなくては何をいっても駄目なのだ。(P94)

とあります。所詮はこれが「一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられ」たと宣っている「無二の善知識」の本当の姿です。会員の皆さんは、いい加減気づきましょう。



【参照】
『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(2)
スポンサーサイト

大沼師や伊藤師だけでは飽き足らず、批判者が挙げた根拠も使って法を捻じ曲げる高森顕徹会長

『飛雲』教えを徹底的に捻じ曲げて、会員を騙すこと以外考えていない外道の親玉高森顕徹会長

に既に挙がっていますが、日曜日の高森会長の話は酷い内容でした。相変わらず「若不生者」の「」はすべての人を「信楽」の身にすることだと説いていたようですが、こんなものは可愛いと思えるほどに今回高森会長から発せられたことはトンデモ邪義です。

本題の前に、これも可愛いもんですがツッコミを一つ。「どうすれば大船に乗れるのかがこの本願だけでは分からない」として本願成就文を挙げたのに、

其の名号を聞くとは、阿弥陀仏の本願を聞くこと

と説明をしていたことも紹介しておきます。おいおい、本願だけでは分からないって言ってるのに、「本願を聞くこと」とはどういうことだよ・・・(-_-;) その後、

本願の何を聞くのか、それは本願の生起本末を聞くこと

と教えたそうですが、成就文を見てもそれは分かりません。「仏願の生起・本末」を聞くというのはあくまで親鸞聖人のご解釈であります。まぁこれは良しとしても、親鸞会では邪義を織り交ぜた「生起」の話ばかりで、肝心の「本末」は間違って教えられています。

『親鸞会公式ホームページ』「聴聞」とは何をどう聞くのか

にて「親鸞聖人が「本末」の「末」で表されているのは、その十九、二十願であり、「方便の願」ともいう。」と明記していますから、「仏願の生起・本末」の「」が18願、「」が19願・20願というのは親鸞会の公式見解です。これは間違いです。「仏願の生起・本末」の内容に19願・20願は入りません。まかり間違っても、18願の世界に入るためには19願から始めねばならないといったは教えは浄土真宗にはありません。それは高森教であって親鸞聖人の教えとは異なります。このように教えが間違っていますから、それをまともに信じている会員の皆さんが親鸞聖人の教えられる信心を獲得できないのは当たり前です。

ちなみに過去において高森顕徹会長は「仏願の生起・本末」を18願の内容のみで説明していました。これも時代とともに変わる教えの一つです。

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』「仏願の生起本末」の本とは18願、末とは19願と20願のこと???(学生大会より)

に書かれていますので参照して下さい。


さて、本題に入ります。本願成就文を挙げ、「親鸞聖人や蓮如上人が木像や絵像を本尊とせず、名号を本尊とされた根拠も成就文である」ということまでは従来通りでした。問題は、

木像や絵像は「人」、名号は「法」

だと言い、人はやがて滅ぶが法は三世十方を貫くとしてお釈迦様が臨終

法に依りて人に依らざれ

と説かれたのだと話した点です。何を根拠にこんなことを言っているのか、まことにもって「珍らしき法」であると同時に、こんな邪義の正当化にお釈迦様のお言葉を利用するとは言語道断です。阿弥陀仏を誹謗する外道の親玉としか言いようがありません。

親鸞会では独自の「方便」論を展開しているので分かりづらいかも知れません(方便については下記参照)が、本来色も形も無い、我々の認識を超えた真如法性を私達に知らしめようと形を表し、すがたを示しているのが「方便法身」である阿弥陀仏です。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。(唯信鈔文意)

この「方便法身」を「報身」とも言うのです。『教学聖典』にもあるので会員の皆さんも言葉だけはご存じかと思いますが、阿弥陀仏の木像も絵像もこうした「方便法身」「報身」であり、真宗門徒ならば敬い拝すべき対象なのです。その木像や絵像を「」だとか言ってやがて滅ぶものだとの放言、謗法罪もいいところでしょう。

次に「法に依りて人に依らざるべし」(大智度論)のお言葉ですが、「」「」についての定義がまるで間違っています。このお言葉は、釈尊の説かれた教え、すなわち「」に従うのであって、教えを説く「」に従うのではないということを言われたものです。「阿弥陀仏の木像や絵像を本尊とするのではなく、名号のみを本尊とせよ」という根拠にならないのは当たり前の当たり前のことです。

『飛雲』朝令暮改の人に随ふべからず

にもありますが、親鸞聖人の教え、「」に従うのであって、こんな邪義を堂々と唱え、朝令暮改の無理難題を押し付けるような「」に従ってはならないということです。また、上の『大智度論』のお言葉は親鸞会では一度も目にも耳にもしなかった言葉です。批判ブログでは

『親鸞会教義の誤り』善知識には無条件服従しなければならないのか 3

や『飛雲』でしかお目にかかったことがありませんが、批判者が挙げた根拠も使って法を捻じ曲げるのは最早高森会長の常套手段となっています。有名な例では、

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。 (一念多念証文)

が挙げられると思います。この文をもって、要門、仮門、定善散善の教えは真実を直ちに受け入れない衆生を導くためにしばし仮に設けられた方便の教説であることを批判者が示したところ、高森会長が逆に19願を勧める根拠として利用したというものです。大沼師や伊藤師だけでは飽き足らず、批判者からもパクるとはさすが盗用、剽窃の名人ですね。


会員の皆さんのほとんどはこうした邪義を聞いていても、疑問に思う人はいないでしょう。それどころか、「こんな意味があったのか!」などと感動している人さえあるかと思います。深いマインドコントロール下にある人は難しいかも知れませんが、阿弥陀仏を誹謗し、他人の著書や文章を剽窃、盗用して多くの人を騙す「」が高森会長であることに早く気づいて、親鸞聖人が教えられる「」に従って頂きたいものです。


【参照】
『WikiArc』15 方便・隠顕

「高森顕徹会長の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない」のが親鸞会の会員

テストとかメンタルテストと聞いて思い出されるのが、『光に向かって123のこころのタネ』第101話

正直を試される

という話です。文中に「甲斐守も阿波守も、主君の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない」とありますが、

高森顕徹会長の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない

のが親鸞会の会員です。そうすることが出世の肝要といち早く気づいて会長や息子に取り入り迎合した者達の一握りが幹部となり、支配する側になります。逆に迎合できない者、意見する者は責められ、叩かれ、果ては除名されます。「ものを言え」と言いながら、実際にものを言うとその正直さが仇となる、酷い団体です。

清森義行氏の除名の真相(1)
投稿:ある特専部員の除名の真相(前編)

などを読めば、自分達の意に迎合しない者達をどうするのが親鸞会なのかお判りでしょう。

会の中では、高森会長が「これは黒豆だ」と言えば、たとえ這っていても「這っても黒豆なんだ」と言わねばなりません。そしてそれを聞いている者も、疑問を持ちながらも「這う黒豆なんだ」と思い込む、思うようにする。これが親鸞会の会員です。そのようにマインドコントロールされている、しかもそれがマインドコントロールされているとは思わない、実に哀れな方々です。どうしてそうなってしまうのか。無常と罪悪にせめ立てられて、正常な思考能力を失い、見捨てられたら助かる術が無いと思い込んでいるからです。無常と罪悪をやたらと強調してくるのは、正常な思考判断能力を奪い、組織拡大要員として効率よく利用・搾取するためでしょう。間違っても「私達一人一人の後生を案じて・・・」などと夢見ていないことです。


何事も高森顕徹会長の言葉を鵜呑みにし、正しいと信じ込んでしまうのが親鸞会の会員ですが、信心決定を体験としか思えないのも間違った教えのせいです。信心決定とは、本願の名号のいわれを聞いて疑い無いこと、南無阿弥陀仏のすがたを心得ることであって、地獄に堕ちてそこから救われるといったような摩訶不思議な神秘的体験のことではありません。

・「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文)
・「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。「名」は御なと申すなり、如来のちかひの名号なり。「念我」と申すは、ちかひの御なを憶念せよとなり、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはせり。憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり。(唯信鈔文意)
・信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章)


私から阿弥陀仏へ、「助けて下さい」という祈願請求する思い、すなわち自力の心が廃り、「まかせてくれよ」というお言葉通りに往生をおまかせしたこと、本願のお言葉をそのまま受け容れたことを信心決定とか、信心獲得というのです。それは過去、何月何日の何時頃の体験ということではなく、また本願を聞き受けた信一念に限定されるものでもありません。現在只今のことです。

入信までの過程は一人一人異なります。どんな話が自分に刺さったか。どのように心境が変化していったか。いつ、何をしている時に獲信したか。自分が何歳の時か。聴聞している時か。おつとめの最中か。仕事をしている時か。寝て起きた時か。一人の時か。大勢の人がいる時か。獲信の瞬間にどんな体験をしたか。信一念をハッキリ覚えているか・・・。こういったことは、その表現方法も含めて人それぞれです。

「お坊さまの一言一言が、私の腹にピシッピシッとこたえました」
「もうこれ以上堕ちるところがないというところまで堕ちてゆきました」
「その地獄の底で生きた阿弥陀仏とお値いすることができました」

とか、こんなのは個人の体験であって万人に通ずるものではありません。一人一人業が違いますから、同じになりっこないのです。この人にこたえたという説教が私にこたえるかは分かりません。堕ちるとか地獄といっても、私が想像している地獄と、皆さんが想像している地獄はきっと違うでしょう。冷たく昏い世界なのか、紅蓮の炎に包まれたような世界なのか、恐ろしい怪物や毒虫等がうじゃうじゃいる世界なのか。はたまた全く別の世界なのか。一人一人異なるでしょうし、そしていずれも、きっと私が死んで実際に堕ちる地獄とは違うのです。阿弥陀仏とお値いするといっても、それはその人が思い描いた阿弥陀さまです。本物の阿弥陀さまは色も形もありません。音もにおいもありません。仏像や絵像のような姿をしておられるのかは分かりません。こういった体験談は、阿弥陀仏に救われるということがあるという励みにはなっても、それ以上参考にはなりません。詳細に聞いて真似たから獲信できるとか、そういったものではないのです。

それと、信心決定を信一念に限定するのでは過去の体験、心境をたのむことになってしまいます。一念の覚、不覚も必ず問題になります。一念の時を覚えていなければ救われていないという邪義も出てくるでしょう。こんなのは問題ではありません。過去にどんな体験をしたかとか、一念の時を覚えているかどうかが問題なのではなく、現在「助けるぞ」の仰せを仰せのままに受け容れているかどうかが問題なのです。

ところが高森顕徹会長は信心決定ということについてどう教えているでしょうか?

現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、というお約束です。
(『こんなことが知りたい①』p.32)

とか現世利益をちらつかせてカモを釣り、

********************
 では、どうしたら自力が廃るのか。これは説明を聞いて判るものでもなければ、自ら捨てようと思って廃るものでもありません。先ず、自ら善知識を求めて真剣に聞法しなければなりません。そして、払っても払っても、後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく自力の心に悲泣悶絶、求道聞法の絶壁に行きづまり、曠劫流転の逆謗の屍を如来の前に投げ出す体験を通らなければ廃りません。(『こんなことが知りたい①』p.110~p.111)

 信じたのも知ったのも、学問も修養もすべて間に合わず、堕ちるも助かるも判らぬ心一つが業に引かされて、地獄は一定すみかぞかしと、無間のドン底に叩き堕とされた時(機の深信)、
自力無功と他力不思議とは同時に働き、信心歓喜、歓喜踊躍とおどり上がり、阿弥陀さまこうまでして下さらなければ聞かない、しぶとい私でございました。(法の深信)
 どうしてこの御恩に報いようかと泣くより外にないのです。
(『こんなことが知りたい③』p.128~p.129)
********************

などと、一度は地獄のずんどこに突き堕とされて、そこからこの上ない喜びの身に救われるような体験を信心決定と思わせ、アニメにまでして「一念の体験」とやらを強調しています。こうした高森会長の教え、アニメを真実だと思っている間は、そういった体験をしなければ信心決定ではないと思う他ないでしょう。ところが七高僧方も、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、こんな体験が信心決定だとか、捨自帰他の際には必ずこのような体験をするなどとは一言も仰ってはいないのです。

「笑わば笑え、そしらば謗れ。真実の信心は三業で判断できないのだから」と自分が救われている体験があるがゆえに悠然と構え・・・

こんなことを言っているのは、邪義を真に受けて、正しい親鸞聖人の教えを知らない証拠です。コメントも頂いていますが、まさに体験至上主義です。会員の皆様には、マインドコントロールから解き放たれ、信心決定を摩訶不思議な体験という観念は捨てて、南無阿弥陀仏のおこころを素直に頂いてもらいたいと願うばかりです。



ちなみに一万年堂出版発行の書物については大沼法竜師からの盗用が数多く散見されます。まだ確認できてはいませんが、当エントリーで紹介した話も大沼師からの盗用である可能性が高いです。

【参照】
大沼法龍師の言葉
信心決定とは

多くの会員が考えているであろう、全人類の階級ピラミッド

十方衆生の中には善人もいれば悪人もいます。善人の中でも高いさとりを開いている聖者もあれば、悪人の中でも五逆、謗法、闡提等の重罪人もあります。要は、上から下まで十方衆生には無限の階層があるということです。そして、自分より上等の人を見ては自分を反省し、向上しようという心が起きてくるのです。

ところが親鸞会にはそれがありません。「十方衆生に善人は一人もいない」「全人類は逆謗の屍」「善人とは、悪しか造れぬ己の実態がわからず、「善人」と自惚れている者のこと」と独自の解釈をして、善人の存在を認めません。このことから、親鸞会会員は自分達より上がいないんだと錯覚します。それでいて、「全人類の中で、真実を知らされているのは自分達だけだ」と勘違いをしていますから、真実を知らされている分、真実を知らされていない人よりも上だとの認識があるのです。

また、「高森先生以外に今日、正しい親鸞聖人の教えを説かれる方はいない」とこれまたすごい勘違いをし、本願寺はじめ真宗十派は全て異安心、退会者は聞法の敗残者という意識が強いです。一般の人々、僧侶、退会者をいずれも「自分達より下だ」と見下す傾向にあります。論戦になりますと、こうした排他的見方が一層強くなります。「自分達以外に正しい親鸞聖人の教えを知っている者はいない」「他は全て異安心」とお山の大将を気取り、井の中の蛙でいるのですから、家族や友人、僧侶や退会者の言うことが素直に聞けるわけがありません。


ここで、自分が会員だった頃を振り返って、親鸞会会員は全人類をどういう階層で見ているのか考えてみました。その上下関係はおおよそ以下のような感じです。


                           /\
                         高森先生
                       /       \
                     /           \
              講師部幹部(M布教局長、K講師長、W弘宣部長等)
                  /                 \
                /        講師部員       \
              /          特専部員         \
            /            親友部員           \
          /              幹部会員             \
        /             学階や燈が高い会員           \
      /       聞法歴が長い会員、法友通信等に載るような会員   \
    /                                             \
  /                      一般会員                     \
/                                                     \
                         
                         幽霊会員
                    一般の人々、僧侶、退会者



あくまで一般会員としての感覚で主観も多分に混じっていますが、当たらずとも遠からずと思います。

教えは大沼法竜師と伊藤康善師のパクり損ない、それにS価の思想が加わったデタラメ創作教義であり、人格はこんな感じな人がトップなのですから、こんな組織の人間は哀れというよりありません。


親鸞会という団体、組織、風土から離れて真宗界を見てみますと、自分は如何に閉鎖された環境にいたか、そこでしか通じない観念を持っていたかが知らされ恥ずかしい限りです。現代でも正しい親鸞聖人の教えを説く方は沢山あり、浄土真宗の信心を伝達相続されています。著書も数多く、勿論ピンキリですが、親鸞聖人の教えを聖教に基づいて忠実に示している書物も多くあります。最近ではYouTubeなどで法話も聞くことができ、どの先生から聞くべきかがすぐ調べられるという点も含めて大変便利になりました。

親鸞会に在籍していた時、上からの情報を鵜呑みにして本願寺の僧侶の方々は「真宗の信心に昏き者達」と思っていました。しかし実際は、全てとは言いませんが、素晴らしい方々が沢山おられます。在家の方でも林遊さんのようなとんでもなく詳しい方もおられます。退会者でも飛雲さんや宮田さん、いつもの元会員さん、他有名無名の方々、真宗の信心と教義に詳しい方は数多くおられます。退会して色々学ぶ内、上に示したピラミッドは私の中で完全に粉砕されました。

親鸞会では、入れ込み様によっては、極端な例ですが一昨日までコメントをしてきたような人物、そこまでいかなくてもそれに近い思想を持つ人物に、いわゆる親鸞会的人間にされてしまいます。私は運良く途中で教義の誤り等に気づくことができましたが、未だに正しいと信じて求めている人が多くあると思うにつけ暗澹たる気持ちになります。かつての仲間達も多くが未だに信じているのかと、時折り案じられます。皆さん一刻も早く間違った教義、閉鎖的排他的環境から脱して、広く深い海のような阿弥陀仏の大いなる慈悲の誓願を疑い無く聞いて頂きたいと思います。

こちらからの質問にはまともに答えず、逃亡するしかできない親鸞会会員

恐らくこれが、親鸞会会員と思しき人物の最後の書き込みでしょう。

********************
淳心房さん。

>後ではなく、次のコメントで必ず私の信心を二種深信以外の要素で判定したのか答えて下さい。必ずです。こちらからの質問には返事がありませんし、議論になりません。次で明確な返答が無ければ今後あなたのコメントには応答しません。

「私の信心を二種深信以外の要素で判定したのか」
でお怒りのようですね。

では、お答えしましょう。
三業で信心を判定できないのは当たりまえ。
私はあなたの信心を判定したのではありません。
「あなたの月間アーカイブ件数が減っていることは真実信心でない証拠」といったことに対するあなたの反応を見たのです。つまりテストしたのです。
もし三業で信心を判定できないとあなたが本当に知らされているなら、必死に反論することはないでしょう。「笑わば笑え、そしらば謗れ。真実の信心は三業で判断できないのだから」と自分が救われている体験があるがゆえに悠然と構え、自分のアーカイブ件数が減っていることを反省や懺悔する余裕が少しはあったでしょう。月間アーカイブ件数が減っていることが何ですか。そんなことにいちいち反論しなくて良いでしょう。三業で信心は判定できないのですから。
しかし、あなたは違いました。必死に親鸞会を攻撃しました。攻撃しなくては安心できないからでしょう。
あなたは私のテストに落ちました。
でも、安心してください。テストに落ちたからといって私はあなたの信心を判定はしませんので。淳心房さんご自身が判断することです。

信後絶対でない言葉として教学に「疑いがなくなったから大丈夫」など100がありますが、これを信心を判定していると聞いていたら大間違いです。これについては最初にこの教学設問の意義が話されていますが、当時の講師の人から伝え聞いていないのですね。

そもそも高森先生70年のご教導を、あなたのようにわずか10年か20年聞いた内容だけで判断するのは断章主義なのです。釈迦45年の説法を法華経だけで判断するようなものです。
あなたが親鸞会について云々するのは100年は早いですね。
いや言い過ぎでした。50年は早いですね。
あなたが親鸞会の教えを深く知るには50年かかるでしょう。
ですから50年後にまたこのサイトでお会いしましよう。
淳心房さんは私より少しだけ人生の先輩のようですね。50年後に脳梗塞になってパソコン操作できないとか認知症になってぼけないように。もちろんこの世を去らないように心身共に健康でいてください。老少不定なので、私が先にこの世を去るかもしれませんが、私も心身共に健康でいたく思います。
では2067年の4月18日、またこのサイトでお目にかかりましょう。

********************

やり取りが始まったのが3月21日。それからツッコミが入り、こう答えるまでに何日かかっているのでしょう。しかもこれは「弁明」ではなく「負け犬の遠吠え」にしか聞こえないのは私だけでしょうか?

ところで「テスト」と聞いて思い出されるのがT社法論です。

『㈱チューリップ企画と田中一憲の法論』2008年1月26日 チューリップ企画 → 田中氏

このやり取りも酷いものでした。話をはぐらかして議論が展開せず、さすがの田中氏側も呆れて論戦を放棄すると、T社側が一方的に勝利宣言です。まだご覧になっていない人、親鸞会の議論の進め方をよく知らない人は読んでみるといいかも知れません。

高森先生70年のご教導とか言っていますが、大沼法竜師や伊藤康善師の著作を剽窃し、S価の組織拡大法を真似てきただけですから大した厚みも内容もありません。そして説いている内容が聖教とは真逆なことばかりですので、偽装浄土真宗、偽装親鸞聖人の教えだと言っているのです。悔しければ退会者側の質問に聖教をもって答えればいいだけのことです。それが高森会長からしてできないということは、

「親鸞会の教え」=「高森先生70年のご教導」=「偽装浄土真宗、偽装親鸞聖人の教え」

だと認めているようなものです。


こうやって明らかに議論では劣勢なのに上から目線で物を言う態度にはほとほと呆れてしまいます。プライドだけはいっちょ前に高く、自分の非を認めようとはしない。ちょっと親鸞会の「教学」なるものをやっている人はこういう傾向の人が多いです。それも高森会長から間違った教えを延々聞かされてきたからでしょう。

親鸞会では、善人は一人もいない、全人類は「逆謗の屍」、「一つの善もできない極悪人」だと説いています。また、親鸞会会員の多くは「全人類の中で自分達だけが真実を知らされている」と思い込んでいます。自分達より上がいないことに加えて、「自分達は真実を知らされている」というアドバンテージがある分、全人類よりは上だという認識が少なからずあるのです。そして親鸞会以外の人間に対して、真実を知らないくせに何を言うか、少なくとも真実を知らされていない者達よりは上だ、という妙なプライドがあるのです。

自分達以外、正しい親鸞聖人の教えを聞いている者は今日いないという痛々しい誤解が、コメントしてくる彼ばかりでなく多くの会員にあるということです。これでは高森会長や親鸞会の人間以外の他の言葉は聞けないでしょうし、撥ね付けてしまうのも頷けます。

こうした間違った教えが染み付くことにより、人間的にもおかしくなってしまうのです。彼は親鸞会的人間の典型例でしょう。現在、大学や社会人サークルなどで声をかけられ、話を聞いている人もあるかも知れませんが、どうか気をつけて頂きたいものです。


今回も親鸞会側は都合の悪い質問には答えず、負け犬の遠吠えめいたことだけ発言して撤退していきました。正しい親鸞聖人の教えを聖教に基づいて示しもせずに。今は無理でしょうが、コメントの彼にも教義の誤りが分かる日が来ればいいと思います。

たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて聞けと親鸞聖人が仰っているその内容は、因果の道理でも19願・20願でもありません

親鸞会の論戦のやり方はワンパターンです。T社法論から、いやそれ以前から変わっていません。返答に窮する質問には、質問で返して答えず、相手が呆れて論戦を放棄すると勝手に勝利宣言します。間違ったことを言っても間違ってましたと認めません。法論以前の、日本語の問題でつまづいている親鸞会に相変わらず親鸞会会員と思しき人物が書き込んできていますが、読者の皆さんは呆れていることでしょう。本当に高森顕徹会長はじめ親鸞会会員は、手のかかるやんちゃ坊主です。

> 淳心房さんも含めて、皆さんは信心を三業で判定できるという立場なのか、できないという立場なのか、どちらですか。それをハッキリさせないと議論にならないでしょ。

とか何とか言っていますが、元から議論になっていません。次のコメントで「1.淳心房や退会者の信心を三業で判定した弁明」をしなければ、それ以降は彼がこちらの質問に答えない限り応答しません。また、以下の質問への回答も要求します。

2.三大諍論で高森会長は信心を判定しているが、それは三業で判定していることではないのか言いなさい。
3.淳心房が書いていることを「おかしな教義」と言っているが、具体的にどこがどのようにおかしくて、正しい教義はどうなのか、聖教に基づいて示しなさい?




さて、親鸞聖人が本願成就文を釈されたお言葉は『信文類』の他にもあります。『一念多念証文』

『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「 諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。
「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。


では、「聞其名号」とは本願の名号を聞くことであり、「聞く」とは本願を聞いて疑いの心が無いことを言うのである。またそのように疑い無く本願を「聞く」というのがすなわち信心であるというのです。

本願の名号とは17願が成就して仕上がった、十方の諸仏が褒め称える南無阿弥陀仏の名号のことであり、その名号を衆生に信じさせ、称えさせて、必ず往生させようと誓われたのが本願であります。ですから、親鸞聖人が聞きなさいと仰るその内容は南無阿弥陀仏の名号のいわれ、南無阿弥陀仏のおこころであり、名号を我々に回向して救わんとされている如来の願力なのです。そうして南無阿弥陀仏の名号、仏の御名を聞く人は紛れもなく浄土に往生すべき位に定まるので、たとえこの宇宙が火の海となってもそこをかいくぐって聞きなさいと、

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり
(浄土和讃)

と仰せられてあります。

因果の道理でも、19願や20願でもなく、仏の御名、南無阿弥陀仏のおこころを聞きなさいというのです。これを親鸞会ではどのように話しているでしょうか? 仏の御名をきくひとはを、

仏教を聞く人は

とか適当なことを言い、

仏教の根幹は因果の道理。因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても分かるものではない。

仏の御名とは無関係な話へ誘導し、

18願の世界に転入するには、19願・20願の道程を通らなければならない

と邪義を吹き込んで会員を組織拡大要員として利用・搾取している有り様です。無常と罪悪で会員を煽りせめたて、後生助かりたかったらたとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて聞けと、都合の良い部分だけ聖教の言葉を利用しています。

たとひ大千世界にみてらん火をもすぎゆきて聞けと親鸞聖人が仰っているその内容は、因果の道理でも19願・20願でもありません。「其名号」「本願の名号」「本願」です。それを「仏願の生起・本末」と言い換えられているのですから、「仏願の生起・本末」の内容に19願や20願が入るはずがないでしょう。

会員の皆さんは、親鸞聖人が聞けと仰せられる内容とは全く異なることを聞かされています。これでは信心決定も信心獲得もあるはずがありません。一刻も早く邪義からはさよならし、南無阿弥陀仏のおこころを疑い無く聞いて信心獲得下さい。

『「仏願の生起・本末」の本は18願、末は19願・20願』だとかいう珍説が出てくる自体、『大無量寿経』も『教行証文類』もまともに読んだことが無い何よりの証拠

コメントを読みまして、未だ真宗をろくに学んだこともない高森顕徹会長を絶対視し、「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」とマインドコントロールされている会員さんがいるのだな、そしてその方に何とか邪義を邪義と分かってもらいたいと動いている人がいるのだなと改めて知らされました。それで私なりに、経典や聖教と、邪義の違いを明確化せんと書いたものを以下に紹介します。


しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

ところで『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。

『信文類』のこのお言葉は、『大無量寿経』下巻

聞其名号 信心歓喜 乃至一念

のお言葉、すなわち本願成就文、18願成就文を親鸞聖人が釈されたものです。18願成就文の解釈をなされているのに、その中に19願や20願が出てくるというのはおかしなことです。ちなみに、19願成就文は『無量寿経』の三輩の往生を説く文であり、また『観無量寿経』の定善・散善、九品の往生を説く文であるとして

この願(第十九願)成就の文は、すなはち三輩の文これなり、『観経』の定散九品の文これなり。(化身土文類)

と教えられています。『大無量寿経』では18願成就文の後に三輩の文が続きます。何が言いたいかというと、親鸞聖人は19願は19願で18願とは別に解釈されている、しかも『信巻』とは別の『化土巻』に教えられているということです。

さて、「聞其名号」の「其(その)」とは18願成就文の直前にあるお言葉、17願成就文を承けて「其名号」と説かれています。『大無量寿経』では17願に誓われた通りの、諸仏が褒め讃える名号が成就し、それからあらゆる衆生がその名号(17願成就の名号)を聞いて信心歓喜すると続いています。当然ながら「其名号」と17願は関係がありますが、19願や20願は関係ありません。

では、「その名号を聞いて」とあるがここでの「聞く」とはどういうことなのか。それは「仏願の生起・本末」を聞いて疑いの心が無いことだと先の御文では仰せられています。このことから、

其名号」=「仏願の生起・本末

であることが分かります。ですから、「仏願の生起・本末」の内容に19願や20願は出てきようがないのです。この理由については後でも説明します。

ところで、「仏願の生起・本末」とは、阿弥陀仏が本願を起こされた顛末、一部始終ということです。どうして本願が起こされたのか、そのわけと、本願が起こされてどうなったのか。その全てということです。これについて親鸞聖人は機無・円成・回施で教えられています。『信文類』至心釈では、

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。

とあります。迷いを離れられない衆生(機無)のために発願修行して名号を成就され(円成)、名号を回向して我々を救おうとなされている(回施)ということです。そして、阿弥陀仏が誓われ成就された名号が我々に届いて、間違いなく我々をお救い下さるということに疑いが無いのを「」というのです。

この「」は、疑いの心が無いことを指しています。ということは、疑いの心が有る聞き方があるということです。それが第二十願を聞いている時の聞き方です。第二十願

聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心回向 欲生我国

の「聞」は如来の諸智を疑惑して信じていません。それでいて罪福を信じ、念仏を自分の善根として称えて浄土に生まれたいと願っている状態です。これを『大無量寿経』智慧段には

仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。」

と説かれています。こうした疑いの心が有る第二十願の「聞」は、疑いの心が無い本願成就文の「」とは区別されています。すなわち、20願が「仏願の生起・本末」に入っているならば「疑心あることなし」とはならないわけです。本願を疑っているのは19願を聞いている時も同じですから、「仏願の生起・本末」の内容の中に19願や20願は入りようがないのです。

「仏願の生起・本末」の本は18願、末は19願・20願

だとかいう珍説が出てくる自体、『大無量寿経』も『教行証文類』もまともに読んだことが無い何よりの証拠なのです。ですから、こんな珍説を本にまで堂々と書く高森顕徹会長を唯一無二の善知識と思い込み、高森会長の言葉しか信じずに他を排斥する会員はマインドコントロールされていると言っているのです。


以上、参考になるかどうかは分かりませんが書いてみました。勿論言い方等もありますが、未だ騙されマインドコントロールされている会員の皆さんの心に届いてほしいと願っています。



【追記】
機無・円成・回施について林遊@なんまんだぶさんが、『WikiArc』機無・円成・回施・成一にて解説して下さっています。ぜひそちらも参照して下さい。

【お知らせ】平成29年、親鸞会の降誕会について

今年、平成29年の親鸞会の降誕会は

5月13日(土)、14日(日)

に行われるそうです。演題が、

蓮如上人
白骨の章


だそうです。これは私の予想ですが、演題から行事の中で偽装大ヒットのアニメ映画『なぜ生きる』が一部あるいは全て上映され、説法では無常と罪悪を強調した話がなされるでしょう。


親鸞会でなされる話は、全てと言っていいほどが仏願の生起・本末で言うところの生起の部分です。本末の話は無いと言って過言ではありません。正しく説かれていないからです。生起についても正しいかと言われればそうではありませんが、特に本末については邪義だらけです。会員の皆さんが何十年聞いても

仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし

とならないわけは、仏願の生起・本末について正しく聞いていないからです。

仏願の生起・本末というのは、仏願の生起仏願の本仏願の末というように分けて見ることができます。仏願の生起とは阿弥陀仏が本願を発されたわけということで、これはひとえに生死の苦海に沈み、迷界を果てしなく彷徨い、そこから抜け出すことができずに苦しみ続ける私たち衆生のことです。この世もわずか50年乃至100年で生を終え、それまで造ってきた悪業によって未来またしても苦界に沈みゆく私たちがいたから本願が起こされ、阿弥陀仏は仏と成られたのでした。ちょうど母は母一人では存在せず、子によって母が、母によって子が存在するが如く、苦しみ悩む私がいたから阿弥陀さまがおられるのです。そして阿弥陀さまによって私が救われてゆく。互いに影響し合っているわけですね。こういうことを知った上で

乃木坂46 『インフルエンサー』

を聞くと、単なる恋愛とは違う見方、聞き方ができるかも知れません。

さて、次に仏願の本ですが、これは阿弥陀仏(法蔵菩薩)が発願し修行されたことです。五劫もの間思惟し、更に兆載永劫に亘って御修行されたのも、迷界を出離できない私たちを救うためでした。五年や十年ではありません。五劫です。それだけ私たちの迷いが深いということです。私のような者を助けるためには願を発すだけで阿弥陀さまほどの方が五劫もの間思惟されねばならなかったのです。そして御修行の間はほんの少しの間も清らかでまことでなかったことは無かった。私たちとは真逆ですね。しかもそれを兆載永劫に亘って継続なされた。これすなわち私一人を助けるためだった。ですから親鸞聖人つねの仰せが

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄)

だったというのもよく思い知らされてきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

そして仏願の末が、五劫思惟、永劫の修行を経て十劫のいにしえに本願が成就し、私にはたらいているということです。決して迷いの世界を出離できない私のために、南無阿弥陀仏と成ってこの私に届いているのです。時間も空間も関係なく、いつでもどこでも私にはたらきかけています。私の口から声となって現れて下さる仏様が、南無阿弥陀仏という仏様です。この南無阿弥陀仏によって、五種八難の道を超え、五道・六道という悪趣に赴くべき身である私がもう二度と迷界には戻らず、浄土往生し仏に成らせて頂くのです。これが分かったら「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称えたくなるでしょう。単なる呪いでも呪文でもない、私を本当に救う法。それが南無阿弥陀仏、なんまんだぶです。

こうした仏願の生起仏願の本仏願の末を聞いて疑いないのが真宗の「」です。要は南無阿弥陀仏の法、「助けるぞ」を聞くのです。そして「助けるぞ」を聞くのが即ち信です。信心といっても南無阿弥陀仏、「助けるぞ」の仰せをそのまま聞き受けることの他にはありません。無常や罪悪についてずーっと聞いていてもダメ、因果の道理や19願・20願の話を聞いていてもダメ、18願すなわち南無阿弥陀仏の六字のこころをよく聞かないことには信心決定も信心獲得もないのです。このような道理が分からず、無常と罪悪にせめたてられて、深い苦悶に堕ちていったところを救われるみたいに想像し、それが信心決定だなどと思い込んでいる内は、信心も安心も分かるわけがありません。


会員の皆さんの多くはもう十分すぎるほど仏願の生起の部分の話は聞いていますから、あとは仏願の本末をしっかりと正しく聞くべきです。これは親鸞会では正しく説かれず、邪義に誘導されてしまいますから、早く正しく聞いて信心獲得しようというなら親鸞会以外で聞くべきです。最初は親鸞会節が頭を席巻していて中々よその話が入って来ないというような方もあるかと思いますが、それも徐々に慣れて来るでしょう。降誕会で高いお布施を払い、眠気をこらえて聴聞するくらいなら、そのお金と時間を別のことに使うべきです。関東であれば築地本願寺の説法を聞きに行くとか、書物を購入して読むとか、YouTubeで法話を探して聞くとか・・・。決して親鸞会以外に真実は説かれていないなどと真に受けないことです。

もう阪神大震災からは22年、東日本大震災からは6年、熊本の震災からも明日で1年です。どんどん時間は過ぎていきます。親鸞会に一生費やして後悔無いか、会員の皆さんはよく考えて頂きたいと思います。

無常と罪悪にせめたてられたものでなければ、信心決定できない? 違います。

『飛雲』無常と罪悪にせめ立てられてマインドコントロールされた高森会会員

に載っている『顕正新聞』年頭所感の話ですが、この元ネタは『こんなことが知りたい④』などにあります。

(24)どんな気持ちで聴聞すればよいのか

の問答の中にありますので抜き出してみます。

********************
(前略)私達は一匹の蚊ほどにも後生を一大事だと思ってはいません。
 一匹の蚊が攻撃してきても気になって邪魔で眠れないのに、後生が苦になって眠れなかったということがないのです。
 他人の後生ではあるまいに、なぜ必ずぶち当たらねばならぬ己の一大事に、こんなに鈍感で真剣に求め切らないのでしょうか。
 その原因は二つあります。
 まだまだ死なないと無常を遠くに眺めていることと、地獄へ堕ちるような悪いことはやっていないと己の罪悪に気がつかないからです。
 道綽禅師は『安楽集』に次のような喩えを説いておられます。
「たとえば、人有りて空曠のはるかなる処に於て怨賊、刀を抜き勇をふるいて直に来りて殺さんと欲するにあい、此人ただちに走りてみるに一河を度すべし。 未だ河に到らざるに即ちこの念を作さく。
 我河岸に至らば衣を脱ぎて渡るとせんや、衣を着けて浮んとせんや、若し衣を脱ぎて渡らんには唯ひまなきを恐る。若し、衣をつけて浮かんには、また首領全くし難きを畏る。そのとき但一心に河を渡る方便をなすありて、余の心想間雑することなきが如し。
 行者またしかなり。阿弥陀仏を念ずる時また彼人の渡るを念うて念々相次ぎ余の心想間雑することなきが如くせよ」
 後ろから剣を抜いて追いかけて来るとは無常の風の激しさを喩え、前をみれば渦巻く怒涛で一歩もゆかれない。こんな人間が居眠りなんかしておれようか。アメ玉なめていられようか。
 この人の気持ちで仏法は聞かなければなりませんよと教えられたものです。
 衣を脱ごうとすれば帯が堅くて脱ぐことが出来ないとは、にっちもさっちも動きのとれない罪悪に苦しんでいることを、喩えてあります。
 そのまま飛び込めば溺れ死ぬことは明らかですから地団駄ふまずにおれません。
 このように無常と罪悪にせめたてられたものでなければ、信心決定できないことを教えられたものです。
(p.131~p.133)
********************

読んだことのある会員さんは多いでしょう。最後の行の、

無常と罪悪にせめたてられたものでなければ、信心決定できない

に着目です。ここから、真面目な会員さんは、無常と罪悪をより強く知らされようと自分を追い詰めていきます。話の中でも、より無常と罪悪を強く感じさせるような話を好んで聞くようになるでしょう。

また、無常と罪悪を強く知らされ後生驚き立つには、因果の道理だ、廃悪修善だ、真実の自己だと。そうやって後生に驚き立ってド真剣に求道しなければ信心決定できないんだと、熱心に活動している人も未だあるかと思います。

そして、『こんなことが知りたい③』(26)二種深信とは、どんなことかにある、

********************
 信じたのも知ったのも、学問も修養もすべて間に合わず、堕ちるも助かるも判らぬ心一つが業に引かされて、地獄は一定すみかぞかしと、無間のドン底に叩き堕とされた時(機の深信)、
自力無功と他力不思議とは同時に働き、信心歓喜、歓喜踊躍とおどり上がり、阿弥陀さまこうまでして下さらなければ聞かない、しぶとい私でございました。(法の深信)
 どうしてこの御恩に報いようかと泣くより外にないのです。
(p.128~p.129)
********************

のような、地獄の底まで堕ちてそこから浮かび上がるような体験を信心決定と思い込んで、そんな体験をしたい、しよう、そうすれば救われると求めているのではないかと思います。アニメ『世界の光親鸞聖人』シリーズの、聖人や韋提希のような体験を。まさに体験至上主義です。そして高森会長は、善導大師や親鸞聖人が仰ったこともない上記のような体験を二種深信と説明しているのですから異安心です。

仏法を聞くきっかけとして無常観や罪悪観が大事だということはあっても、

無常と罪悪にせめたてられたものでなければ、信心決定できない

邪義です。信心決定とは、南無阿弥陀仏のすがたを心得たこと、我にまかせよ必ず救うという如来の仰せを疑い無く聞き受けたことですから、いくら無常と罪悪で己をせめたてたとしても南無阿弥陀仏を聞かないことには信心決定はできません。

無常と罪悪とで会員をせめたて追い詰め、それを原動力として組織拡大を図り、私利私欲を満たさんとする高森顕徹会長、親鸞会の言動を決して見過ごすことはできません。会員の皆さんは、一刻も早く邪義だらけの教えから離れ、正しい教えを聞いて信心決定し、報土往生を遂げる身となって頂きたいと思います。

「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していことに他ならない

昨日も高森顕徹会長の話があったようで、内容としては

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」
とはどう変わるのでしょうか?


という質問に答えるものだったそうです。この問答は

身も心も喜びに満ち溢れた「歓喜」ではなく、二心なき本願力回向の「信心」が清浄報土の真因
本願に疑い晴れても、何もかもハッキリするわけではない

等で書いたように1月2月にもありました。今回は『愚禿鈔』のお言葉

本願を信受するは、前念命終なり。[「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。文]
即得往生は、後念即生なり。[「即の時必定に入る」(易行品 一六)と。文
また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品・意)と。文]


を出し、「(浄土真宗の)信心は、信(まこと)の心、仏心を阿弥陀仏から受けること。それは今までの命の臨終になる。肉体の臨終より心の臨終を急げ」ということで、

「某[親鸞]閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と[云々]。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。(『外邪鈔』)

を引いて話をしたそうです。


確かに本願を信受する前と後とでは変わるところはあります。ただし、

幸せな人生にガラリと変わったのが信心獲得なのか?

といったらそれは違います。あくまでも本願の仰せをそのまま聞き受けた、本願力回向の救いをそのまま受け容れたのが信心獲得であり、人生がどう変わったかとは無関係です。

信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる

などというのは、逆に言えば

苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わらなければ信心獲得ではない

ということです。これは二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していることに他なりません。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わったとか変わらないとかというのは、我々の心境、意業の変化だからです。最近ちょくちょくコメントをされる名無しさんと同じ主張です。高森会長も言うことがその場その場でコロコロ変わるので当てにならないことがよく分かります。

ところで、

信心を獲得したその時に正定聚の数に入る

とは教えられますが、「正定聚の数に入った」という自覚が起こるわけではありません。「正定聚の数に入った」という明らかな自覚があれば、七高僧のどなたも仰っていないというのはあり得ないのですが、これは親鸞聖人において初めてなされた解釈です。ですから、

現生で十種の利益を獲る

と教えられていますが、「現生で十種の利益を獲たことが実感として知らされる」ということではないということです。勿論救いの法をお聞かせ頂いて「あぁ、有難いな」と喜ぶ心はあっても、我々の心は変わり通しのため、何か面白くないこと、嫌なことがあったりすればそんな心はどこへやら・・・。逆に、悲しいことにまことの心、変わらない心はちっとも無いと知らされます。仏心を阿弥陀仏から受けるとあっても、我々の心が仏心になるのではありませんし、少しは清らかな心になるとかもありません。あくまで南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)の勅命を疑い無くお聞きしたのであって、

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」

といったような、信心を獲得したその時から我々の心が、幸せな状態にガラリと変化するというものではないことを知るべきです。そして、そんな悲しいあさましい心しか持たない身の上でも、本願を信じ念仏する者を決して見捨てず、間違いなく浄土に往生させると固く誓われた本願の仰せをそのままお受けするだけだということを知って頂きたいと思います。


私たちの人生が苦しみならば、それは私たちが蒔いた種です。ここに因果の道理を持って来なければなりません。お金が無いならば、仕事や人間関係に恵まれないならば、怪我や病気に苦しんでいるならば、その他苦境の原因は全て過去のいずれかに私が蒔いた種が現在苦果として現れているのです。そうやって苦しんでいる現状も、苦しむ心も、信心を獲得したその時に全て解決するかと言ったら全くそんなことはありません。お金が無い現状も、お金が欲しい心もそのままです。物事に恵まれない現状も、恵まれたいと求める心もそのままです。怪我や病気の状態も、それにより苦しむ心もそのままです。こんなものは死ぬまで変わりません。

このような浅ましい者を、このように浅ましい身の上のままで、往生成仏させるというのが大いなる慈悲の心によって起こされた阿弥陀仏の本願です。この本願に救われるにあたって因果の道理を持って来てはいけません。この本願は因果の道理を超えています。本願の救いにあたって、

・因果の道理を深信しなければならない
・廃悪修善に努めなければならない
・19願の善を精一杯やらなければならない


などといったことは一切ありません。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変化するなどと現世利益をちらつかせて聞く者を釣り、本願の救いに因果の道理を絡めて救いとは別方向に誘導し、組織拡大に利用し搾取するのが親鸞会のやり方で、こんな親鸞聖人の名を語った偽装浄土真宗、偽装親鸞聖人の教えは本当に許せません。「幸せな人生にガラリと変わった」などということは他宗教の信仰体験でもしばしば語られることなので、もしこんな体験を求めるなら別に親鸞会でなくともよいのです。


親鸞聖人や覚如上人のお言葉を用いていても、本とすべき「仏法の信心」が親鸞会では正しく説かれていません。それでは何十年聞いていてもその信心を獲得できないのは当たり前のことです。会員の皆さんには、ガラリと変わるというような心境の変化や、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を求めるのではなく、南無阿弥陀仏の六字のすがたをよく聞いて信心獲得し、往生を願って頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード