念仏往生? 一念義? 多念義? いや、邪義です。

親鸞聖人は第十八願の教法を「念仏往生」と度々仰っています。

浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。(一念多念証文)

この『一念多念証文』とは、一念とは一念義のこと、多念とは多念義のことです。一念義とは、浄土往生は信心ひとつで決定する、またはひと声の称名で決定するとし、その後の称名を軽視する説です。これに対して多念義とは、浄土往生は一生涯数多くの念仏を称え、臨終来迎をまって往生が決定するとする説であります。親鸞聖人在世の頃、法然門下の諸流派がこの一念多念をめぐって互いに論争したことを受け、専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義であることを明らかにされたのがこの書物です。

これを踏まえて考えてみますと、親鸞会の教えは一念義に近いものがあります。「信心正因 称名報恩」が行き過ぎて信心を強調するあまり念仏がおろそかになり、「念仏は信後報謝に限る」とか、「信前も信後も念仏はお礼」と言って、選択本願の大行である念仏を軽視しています。また、高森顕徹会長の

本願寺は、念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助けと説いている

という本願寺批判の言葉等から、会員は「信前の念仏は信心獲得するのに無意味」との異安心に陥っているとも考えられます。念仏は、

一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。

と教えられる通り、彼の仏願、阿弥陀仏の本願に順ずる行為であるから、正しく往生が決定する行業であります。阿弥陀仏が本願において、一切の諸行を廃して唯一選び択られたのが念仏ですから、そのいわれを信じて念仏する者は必ず浄土往生の証果を得るというのです。「順彼仏願故」の意味が分からず、また信一念とそれまでとを分ける教えによって「一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者」が只今のことだと受け容れられないことから、会員は念仏を「正定之業」だなどとは到底思えなくなっていると推測されます。まぁ「信心正因」と言われてはいても肝心の「信心」の内容が間違っているので、実際のところは一念義とは程遠いものがありますが・・・。

一方で、親鸞会では独特の「光に向かう教え」「宿善を厚くする教え」「三願転入の教え」「信一念とそれまでとを分ける教え」によって、会員は只今の救いを只今の救いと捉えられなくなっています。親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」だと言ってはいますが、「一念の救い」にあずかるまでにはやれ因果の道理だとか、やれ廃悪修善だとか、やれ後生に驚き立たねばならんとか、やれ19願から始めなければならないとか、いくつもいくつも関門を設けています。

会員は求めるほどにそれだけ「一念の救い」に近づいているかと思いきや、結局因果の道理も心から分かっていないと間接的に教えられてまたスタート地点に逆戻りということを繰り返しているかと思われます。そんなことを何年と繰り返していれば、「死ぬまでに助かれば万々歳だ」としか思えなくなるのは道理でしょう。加えて、後生の一大事、一生参学の大事と繰り返されるほどに、助かるには一生涯に一回でも多く高森顕徹会長の話を聞き、活動を続けてようやく「一念の救い」にあずかれるかどうかだという理解に至るのは容易に想像できます。そうなりますと、そういった意味で親鸞会は多念義にも通ずるところがあります。ただやっていることが念仏相続ではなく邪義を聞き続けることと、善もどきの善の相続では多念義とも違いますが・・・。

詮ずる所、タイトルにも示した通り親鸞会教義は、念仏往生? 一念義? 多念義? いや、邪義です。浄土真宗を知り、浄土往生を遂げたい方は早く見切りをつけて離れることをお勧めします。


【参照】
『WikiArc』一念多念
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「正雑の分別」ができていない者が、「一向一心」になることも、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す」こともあるわけがない

日曜日の高森顕徹会長は相変わらず「絶対の幸福」「ガラリと変わる」を連呼し、真宗もどきの話をしていたようです。真宗の皮をかぶるためにお聖教の言葉を出しているのみで、浄土往生の正しい教えも行も教えられませんから、それをまともに聞いて正しい信心を獲、報土往生・成仏の証果を得るなど奇跡です。

今回は「お疲れのため」だそうで、いつもの説法ではなく座談会形式での話だったそうですが、あのような高齢でも高森顕徹会長が話をしなければならない、会員は高森顕徹会長の話を求めて聞きに来ている、ということを考えるに、つくづく親鸞会というのは高森顕徹会長という「」に依っている集団なのだなと感じます。それが将来どのような結果につながるかは、推して知るべしでしょう。


さて、『顕正新聞』9月1日号「論説」へのツッコミ記事を書いていて思ったことがあります。会員の皆さんが救われないのは、もちろん間違った教えを正しいと信じているから、正しい教えを全く知らないからなのですが、これは言葉を代えると

「正雑の分別」ができていないから

と言えるのではということです(それ以前に、倫理道徳上の善悪の分別もできているか疑問ですが・・・)。

「正雑の分別」くらいできている!

と会員の皆さんは思うかも知れませんが、できていません。その証拠に、横の道を進んで信心決定に近づこうという目的でお布施をし、人を誘う活動をし、上司の無理難題にも「畏まりたる」と表面上つくろっていませんか? 「正雑の分別」ができていたら、こんなことはしないんです。たとえ親鸞会の活動が仏教の善に含まれるとしても、それらは「雑行」もしくは「正行と雑行の兼行」だからです。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
(化身土文類)

【現代語訳】
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。


まぁ実態を言えば、浄土に往生してさとりを開こうというのではなく「絶対の幸福」「ガラリと変わる」だとかいう「夢・幻のような現世の喜び」を追い求めており、勤行など一部の行為を除いて他は一新興宗教の組織拡大、私利私欲を満たすための活動ですから、親鸞会は「浄土門」でもなければ活動のほとんどは「雑行(諸善)」でもありません。一部経典や真宗用語を使っているだけの「新興宗教」すなわち「外道」であり、主たる活動の多くは「善もどきの善」「行もどきの行」つまり「悪行(諸悪)」です。こんな教えをまともに信じて親鸞聖人と同じ信心になれる方があり得ないというものです。


ところで、『御文章』1帖目1通に、蓮如上人は

うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな

という古歌を引いています。この意味について上人は、

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。


と続けて教えられています。信前の「むかし」と、信心獲得の「こよひ」とで、違う点がいくつかあります。

むかし」・・・「雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつる
こよひ」・・・「正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す

その一つが、「正雑の分別」があるかないかだというのです。「雑行・正行の分別」もない会員が信心決定していないというのは至極尤もな話なのです。

また、信前の「雑行・正行の分別」もなかった「むかし」であっても蓮如上人は「念仏だにも申せば、往生するとばかりおも」っていたと仰っています。親鸞会の大好きな「諸善」いわゆる「雑行」をやっていたという記述もなければ、「諸善」「雑行」をやれば往生すると思っていたとも言われていません。信前にして既に往生行として「念仏一行」であったことが伺えます。信前も信後も関係なく、浄土真宗は往生行として「念仏一行」。これは当たり前の当たり前のことなのです。「正雑の分別をききわけ」るとは捨自帰他のことですが、それにはまず何が正行で何が雑行かを分別し、往生行は「念仏一行」となっていなければ話になりません。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
(「行文類」大行釈)

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(「行文類」経文結釈)

その当たり前のことが教えられず、教義だけ見ても「雑行」もしくは「正行と雑行の兼行」を勧めているから

「正雑の分別」ができていない

と言っているのです。「正雑の分別」を聞き、浄土真実の行は「念仏一行」となって、それから念仏する心が自力か他力かということが問題になるわけで、「念仏一行」どころか念仏を軽視し、「雑行(という名の悪行)」をやりまくっている者は、高森顕徹会長の言葉で言えば「コンマ以下」なのです。

正雑の分別」ができていない者が、「一向一心」になることも、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す」こともあるわけがありません。会員の皆さんは、まず正しい教えを聞いて「正雑の分別」をし、「念仏一行」になるところから始めてはいかがでしょうか。なお、私が勧めているのはあくまで「一向一心」の他力の念仏ですから、そこのところはお間違いなく。

追記 親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

の記事に林遊@なんまんだぶ様からコメントを頂きました。

********************
聴聞という語について御開山は『平等覚経』の引文、

 宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。(行文類p.145)

の聴聞の左訓に

 ゆるされてきく、信じてきく

と、されておられますです。聴にはゆるすという訓もありますから、このように左訓されたのでしょう。

********************

記事を書いていた当時はこの左訓がすっかり頭に無かったもので、この記事で取り上げたいと思います。

親鸞聖人は、「行文類」大行釈の引文としてお示しの御文を述べておられます。→『平等覚経』
それともう一ヶ所、「化身土文類」善本釈でも引いておられます。→『平等覚経』

そして、この左訓を挙げて、多くの方がそれぞれ解説されています。

不自由な耳に聞こえる声 (聴と聞について)
若院のコラム(24) 聴聞とは
真宗の味わい 聴聞
かりもんの実践的!真宗法座論 ゆるされて聴く

他にもありますので、お時間ある方は調べてみて下さい。

ただ、どういう感じで親鸞聖人が左訓として施されているのか、原文が手元に無いので

「聴聞」=「聴(ゆる)されて聞(き)く」=「信じて聞く」

ということなのか、それとも

      「聴」ーゆるされてきく
「聴聞」<
      「聞」ーしんじてきく


ということなのかが分かりません。祖師は「聞」を「信」で表されていますので、漢和辞典等の意味を含めますと一見後者とも考えられますが、この場合は本願成就文の「聞其名号」の「」であって、この「」が『平等覚経』の「聴聞」の「」と同じであるかは不明です。また、「聴」を「ゆる」すと訓んだ場合、「先方の望みをきき入れる」という意味があるそうで、そうなると一概に後者とも言い切れなくなるのです。

聴すとは - Weblio辞書
聴すとは - コトバンク

等をご覧頂ければ分かるように、「聴(ゆる)す」には「願い・申し出などをききいれて、願いどおりにさせる」という意味があります。「き」くと読んだ場合と、「ゆる」すと読んだ場合で意味が変わるので、そうなると「ゆるされてきく」と「しんじてきく」は同じ意味ではないかとも取れるのです。それでこの左訓を挙げて、「聴」と「聞」を明確に分けて解説されているものもあれば、分けずに解説されているものもあります。「ゆるされてきく」とはどういうことなのか。また「しんじてきく」とはどういうことなのか。2つは同じ意味なのか違う意味なのか。これについて親鸞聖人のお言葉、ご解説があれば良いのですが、残念ながら無いので明確に分かりません。淳心房としましては、真宗では「聞」も「聴聞」も共に本願の名号を疑いなく聞くことを仰っているのだと拝察しますが、何しろ親鸞聖人が仰せになっていないことなので断定はできないです。


なお、今問題にしているのは『平等覚経』の「聴聞」ではなく、蓮如上人の『御一代記聞書』(193)

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。

の「ただ仏法は聴聞にきはまる」の「聴聞」です。これについて高森顕徹会長が

・「聴」という聞き方と、「聞」という聞き方がある
・「聴」とはこのような聞き方である


と珍しい教えを説いています。会員の皆さんは聞いても聞いても「聞」と聞けない現実と、上の蓮如上人のお言葉から「雨だれが石に何十年と落ち続けてようやく穴が開く」と思考して、

・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

としか考えられなくなっているので、そうした親鸞会会員の誤解を説かんとしています。


いずれにせよ、縦と横の線の図で言う「横の道」を求道の道程に当てはめ、「聴」により横の道を進んで縦の線の「聞」に至るという高森教の説は誤りです。更には「横の道」を二河白道の譬喩で言う「白道」に当てはめ、「聞」に至るまでのプロセスの意味で「聴」を定義づけ、勧めています。このデタラメ創作教義については

飛雲 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

にて暴かれていますのでご覧下さい。

何せ教えが正しくても、それを聞き重ねて信心を頂こうというのも悪い自力の心がけだと言われます。ですから、いくら高森教の邪義を真剣に「聴」き続け、重ねたところで、教えが間違っているので当然ながら本願を疑いなく「聞」くことはできません。私達は今、南無阿弥陀仏の勅命、「助けるぞよ」の仰せを仰せのままに「聞」き、仰せのままに「聴聞」し、受けて念仏するのみです。「聴」というプロセスを経なければ「聞」ときけないなどと思わずに、そんな邪説は速攻ふり捨てて、直ちに本願招喚の勅命に順って頂きたいと思います。

【考察】「晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました」というブラジルの会員さんの手紙を『顕正新聞』1面に掲載した意図について

親鸞会発行『顕正新聞』平成29年9月1日号には、1面表紙に

「晴れて大悲の願船に」
ブラジルから届いた歓喜の手紙


と題して、あるブラジルの会員さんが高森顕徹会長に宛てた手紙の内容が掲載されています。そのブラジルの会員さんが、映画『なぜ生きる』を見て、「大悲の願船に乗せていただけた」というのです。このことは既に

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』親鸞会の今後がわかる「ブラジルから届いた歓喜の手紙」(顕正新聞平成29年9月1日号)

に書かれている通りです。新聞に依りますと、この方は学徒となって2年目の、30代のデザイナーだそうです。いつも通訳を通して高森顕徹会長の話を聞き、映画『なぜ生きる』を見ているようで、現在は直接日本語で聞きたいと、独学で「ひらがな」の勉強中とのことです。そんな方がよく、漢字・仏語をふんだんに使ったお礼状を書けたなと不思議でならないです。しかも文法も読んだ限りは間違いなく、親鸞会独特の言い回し(「・・・せずにおれません」とか)まで見られます。


さて、このブラジルの会員さんの信心が真実信心なのかどうかは定かではありませんが、以下、真実信心と仮定して話を進めていきます。

私は会員であった時、高森顕徹会長から直接聞かせて頂かねばならないと教えられ、遠方の法話も参詣していました。途中から富山のみの法話となりましたが、年に何十回も富山へ足を運び、意味の分かる日本語で、直接聞いていました。また勧誘活動もそれなりにし、少なくない額を献金してきました。それを何年も続けていましたが、救われる気配はおろか、横の道を一歩も進めていないのではないかと不安な日々でした。これが私のような者はダメだけれども、私よりはるかに頑張っている講師部員や先輩会員は救われているというなら話は分かるんです。しかし、支部長始め誰も

”我、十方に叫ぶ この世でいちばんの幸福者、否、大宇宙一の最高の幸福者と”
(他に難しい漢字が沢山使われているのに、なぜか「いちばん」がひらがな・・・)

とブラジルの会員さんが言っているような喜びを表現している人はいませんでした。それが今回、日本語が分からず通訳を通して聞いている方で、ほとんど直接高森顕徹会長から聞いたことがないであろう、現在「ひらがな」を勉強中の、学徒2年目の方が救われたというのです。


まず、救われたということ、体験談を『顕正新聞』1面に持ってくるということについて考えてみますと、ここから多くの日本の会員が救われない現実を不満、不安、不足に思っていることが伺えます。というのも、親鸞会は体験談が語られる浄土真宗華光会(親鸞会内では名前は出しません)や他宗教を非難し、教えが正しいということを謳っていた団体だからです。

ところが会員達には、正しい教えを正確に説かれる高森先生から直接教えを聞き、教えを実行せんと活動しているのに、一向に救われないという現実が頑としてあるのです。これが自分も周りも、支部長でさえ救われてないと知ると、「本当に教えは正しいのか」「本当にこの道間違いないのか」という疑問が出てきて当然です。それを払拭せんがために、『顕正新聞』『顕真』等には数年に一度くらいで、救われたという人の体験談が載せられてきました。今回も、教義の誤りを徹底的に暴かれ、それを見た会員が退会するという流れに歯止めをかけるため、「親鸞会で救われるんですよ」「高森先生に間違いありません」とアピールする狙いで体験談を1面トップに持ってきたのかと考えられます。

次に、紹介したような方が救われたことから、

・高森顕徹会長から直接話を聞かなくても救われる
・『教学聖典』を丸暗記して大導師試験や講師試験に合格しなくても救われる
・親鸞会の宿善論や、「三願転入の教え」が説かれていないアニメを見て救われる
・沢山の人を勧誘したり、多額の献金をしたり、会長や上司の指示に無条件服従しなくても救われる


ということが分かります。私のやってきたことは何だったのかと、茫然自失する会員さんも少なくないでしょう。

親鸞会の映画『なぜ生きる』を見たら救われるとは言い難いですが、

高森顕徹会長から(直接でも間接でも)話を聞かなくても救われる
難しい教義体系を知らなくても救われる
宿善を求め、厚くしようとしなくても救われる
19願を実践しなくても救われる
勧誘、献金、会長や上司の指示に無条件服従しなくても救われる

はその通りです。浄土真宗は本願力回向の法であり、既に回向されて届いている本願力にそのままおまかせするのみで往生が定まるという教えです。本願は既に成就して南無阿弥陀仏と成り、「重誓名称聞十方」と重ねてお誓い下された通り私の元まで届いています。私が南無阿弥陀仏のお慈悲に既に包まれていると言ってもいいでしょう。それを凡夫の我々の側で疑い撥ね付けるから生死輪転の家に還来するのであり、本願力を疑いなく信じた信心を以てすみやかに寂静無為の楽に入るのです。

南無阿弥陀仏、すなわち「助けるぞ」という先手の法に対し、私の手は無くそのまま受け容れおまかせするのみです。往生の分かれ目は本願を信じるか疑うかであり、救われているか否かの違いも本願を信じるか疑うかの違いのみです。ですから、今本願を聞き受ければ今往生が定まる、今助かるのです。何年、何十年と聴き続け、活動し続けなければならない教えではないのです。

「どう聞けば」も「どう信じたら」もありません。「助けるぞ」と仰っているのだから、その仰せを仰せのままに受けるだけです。高森教の大好きな無条件服従です。高森教では高森顕徹会長や上司という「」には無条件に従えと言われるものの、阿弥陀仏の仰せ、南無阿弥陀仏という「」に無条件に従えとは教えられません。教えられても、「そこまでは」とか何とか言って「」へ無条件服従させているのが実態です。


このブラジルの会員さんは、親鸞会の邪義をあまり聞く機会が無かったおかげで、阿弥陀仏のお慈悲をそのまま受け容れられた方なのかも知れません。ただ、それにしては念仏に関する記述が全く無く、先ほど申し上げたように「ひらがな」を勉強中の人が書いた文章とは思えないので正直疑問です。何らかの救いに遇って喜んでいる人は、華光会や他宗教でも沢山見られます。すごい表現で喜びを語っている人もあります。ただ、浄土真宗の救いは「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(歎異抄)であって、喜びの大小ではなく本願の信疑が問題です。会員の皆さんは、所詮は皆さんを繋ぎ止めるには体験談を出すしかない体験至上主義の親鸞会とはさよならし、本当の浄土真宗を信じ念仏して頂きたいと思います。

時代と共に変わる教え(5)ー親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ~!

昨日の記事の追記です。

私が会員だった頃は、「正信偈」冒頭の二行

帰命無量寿如来
南無不可思議光


の話が随分長くなされていて、その都度高森顕徹会長(アシスタント)が

親鸞、阿弥陀仏に救われたぞ~!
親鸞、阿弥陀仏に助けられたぞ~!


と解説していました。これと、先日

阿弥陀仏によって救われるのではない

と説いていたこととの整合性はどうなるのかなと、ふと思いました。

親鸞会側としては様々な言い訳をするでしょうが、何にせよ阿弥陀仏を「人」扱いし、阿弥陀仏の木像や絵像を「人」だとか言ってやがて滅びるものだとの妄言を平気で吐く悪知識に従っていても獲信・報土往生はのぞめません。会員の皆さんはこの程度のことは脳内変換して「何と言おうと高森先生が正しい」という思考に至ってしまうのかも知れませんが、このような小さなことでも教義の誤りに気付くきっかけになってほしいと思います。

阿弥陀仏を「人」扱いする、浄土真宗・親鸞聖人の教えに無知な高森顕徹会長

日曜日の講師部講義では、またも高森顕徹会長の数少ないレパートリーの中、

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」


というセリフを通しての話があったようです。今回頂いた情報からは、相対の幸福や無常について長々と話すということはなく、正信偈や信文類、本願成就文等を出して話をしていたようですが、相変わらず

正信偈に「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」と説かれ、全ての人が「絶対の幸福」という一つの味となる。絶対の幸福を「大船に乗せる」と仰っている。

などと話をし、「絶対の幸福」というワードは外しませんでした。繰り返しになりますが、阿弥陀仏の本願は、あくまで「念仏を称える者を浄土往生させる」という本願であって、「親鸞会の活動をする者を絶対の幸福にする」という本願ではありません。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる(末灯鈔12通)

この世を絶対の幸福だとかいう幸せに生きたいと現世利益を願って本願を聞いても、そのような本願ではありませんから望みはかないません。浄土真宗は往生浄土、成仏を目的とするものであって、訳の分からない幻想的な楽が目的ではないのです。もしこの世での変わらない安心、満足、喜びの境地とやらを求めるなら、この世での成仏を目指すべきでしょう。

ところで、高森会長が出した「正信偈」のお言葉を、親鸞聖人はこのように解説されています。

「凡聖逆謗斉回入」といふは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・闡提、みな回心して真実信心海に帰入しぬれば、衆水の海に入りてひとつ味はひとなるがごとしとたとへたるなり。これを「如衆水入海一味」といふなり。(尊号真像銘文)

【現代語訳】
「凡聖逆謗斉廻入」 というのは、小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・一闡提などのさまざまなものが、自力の心をあらためて真実信心の海に入れば、みな等しく救われることを、どの川の水も海に入ると一つの味になるようなものであるとたとえているのであります。そして、このことを 「如衆水入海一味」 というのであります。

十方衆生には無限の階層があり、ここでは聖人は小聖・凡夫・五逆・謗法・無戒・一闡提と六種類に分類されています。詳しい意味については

『お坊さんのつぶやき部屋』凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

等を参照頂くとして、ここから

・すべての人は、五逆罪、謗法罪を造っている
・十方衆生は逆謗の一機


という高森教のような思想は浄土真宗にはないことが分かります。私は逆謗の屍だと反省することは結構ですが、それよりもどんな罪を犯している者をも救う本願を聞いてお救いにあずかるのが大事です。必堕無間の恐怖で聞く者を縛り付け、そこから逃れようという方向性で法を語るようなことは親鸞聖人のお言葉からは見られません。


ところで、今回高森顕徹会長は

阿弥陀仏によって救われるのではない、阿弥陀仏の本願によって救われる。他の宗教と根本的に異なる点がここにある。だから「本願寺」であり、「阿弥陀寺」ではない。仏や菩薩(人)によって救われるのではなく、教え(法)によって救われる

などと話していたようですが、阿弥陀仏を「」扱いするという信じられない発言をしています。実に浄土真宗に無知な高森会長らしい話です。阿弥陀仏は人ではなく、色も形もない真如を理解できない我らに、認識できるように表現された「方便法身」の仏様です。真理そのままでは私達の認識に乗らないため、すがた・かたちを現して私達に知らしめるために説かれたのが法蔵菩薩であり無碍のちかひすなわち本願であり阿弥陀仏です。

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。(一念多念証文)

【現代語訳】
この一実真如の大宝海からすがたをあらわし、 法蔵菩薩と名乗られて、 何ものにもさまたげられることなく衆生を救う尊い誓願をおこされた。 その誓願を因として阿弥陀仏となられたのであるから、 阿弥陀仏のことを報身如来というのである。 この如来を、 世親菩薩は尽十方無礙光仏とお名づけ申しあげられたのである。 この如来を南無不可思議光仏ともいう。 そして、 この如来を方便法身というのである。 方便というのは、 すがたをあらわし、 み名を示して、 衆生にお知らせくださることをいうのである。 すなわちそれが阿弥陀仏なのである。

ですので、「阿弥陀仏によって救われる」と申しても、「阿弥陀仏の本願によって救われる」と申しても差し支えありません。まぁ正確には、本願が成就して仕上がった「南無阿弥陀仏の名号願力によって救われる」のですがね。それで、本願はどのように仕上がったかと言えば、序盤でも申し上げたように

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる(末灯鈔12通)

であり、こうした本願を二心なく受け容れて念仏するのが本願のお心にかなった行為なのです。それに対して、阿弥陀仏の善巧方便だとかいい、それが「絶対の幸福」とやらに近づく手段なんかと思って要りもしないハコモノ建設のためにお布施に尽力しているのは、本願のお心に背く行為です。

絶対の幸福」とかいう現世利益を目的とするなら他の宗教・多くの新興宗教と変わりませんし、阿弥陀仏を「」扱いするようでは真理をないがしろにしていると言われても仕方がないでしょう。このような外道の悪知識からは一刻も早く離れることをお勧めします。


【参照】
『飛雲』教えを徹底的に捻じ曲げて、会員を騙すこと以外考えていない外道の親玉高森顕徹会長

謗法罪の定義をよく知りましょう

昨日の甲子園大会決勝戦では、埼玉の花咲徳栄が広島の広陵を14-4で下し、夏の大会で埼玉県勢初優勝を果たしました。詳しくは

『毎日新聞』花咲徳栄が優勝 埼玉県勢として初

等を参照下さい。私は生まれも育ちも埼玉ではありませんが、Nack5ばかり聞いているのでつい埼玉を応援してしまいます。プロ野球でも、野球中継がラジオで報道されると、なぜか顔も知らない埼玉西武ライオンズの浅村選手を応援している自分がいます。ラジオの影響力おそろしい・・・。

花咲徳栄のエース清水選手は、大会前に広陵の中村選手相手に「逃げないでいきたい」と真っ向勝負を宣言していました。結果としては中村選手には3安打されてしまいましたが、堂々とした戦いぶりだったと思います。


それに対して親鸞会・高森顕徹会長からは、度重なる教義批判に堂々とした姿勢を見ることはできません。

飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~

からの公開法論申し込みから5年以上経過しているにも関わらず、一向に応じる気配がありません。また、

さよなら親鸞会

のコメント欄は随分荒らされています。こんな場所で小競り合いを繰り返しても何の解決にもなりません。ネット対策員による書き込みなのかと思われますが、少しは清水選手の堂々さを見習ってもらいたいものです。


当ブログにも謗法罪について、別段取り上げなくてもよい問題をしつこく答えよとのコメントが度々来ています。

ある行為が謗法罪に該当するかどうかは、謗法罪の定義を踏まえた上で各自で判断すればよいことです。何も仏教で言われる罪に限らず、法律で罰せられる罪でも、どういうことをしたら法律に抵触するかは、その法律をよく読んで各自で判断するしかないでしょう。そして、抵触するか分からないグレーゾーンは専門家に聞くか、あるいは抵触するかも知れないと思って行為を自重するでしょう。

ある行為が罪と言われるのには、罪を罪だと認識させて、その行為をさせないようにするのが目的です。私達は、釈尊や親鸞聖人が教えられた謗法罪の定義を受けて、そのような恐ろしい罪を犯さないようにすればよいだけです。ただそれだけのことを、これだけしつこく聞いてくるということは、

・全人類は逆謗の屍である
・五逆罪、謗法罪を造っていない者は一人もいない


という高森教の主張を通さんがためだと推測されますが、読者の皆さんはどうお考えでしょうか?

今一度、謗法罪の定義を示します。

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。


(現代語訳)
 問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
 答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。


もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定する」ですから、一瞬の気の迷いがこの中に入るのかどうか、ご自身で考えてみられたらよいでしょう。だから、謗法罪の定義をよく学びましょうと何度も言い、その根拠まで示しているのです。それが分からずに、

法謗罪についての定義では議論していません。OHE様の定義が間違っているとも、正しいとも問題にしていないのです。

などと宣っているのですから、正直話になりません。コメント欄にあるように、これでは「日本語の能力が小学生並みなので」と言われても致し方ないのかなと思います。純粋に浄土真宗、親鸞聖人の教えを知りたいという気があるなら、まずは言葉の定義をよく知って、相手の主張を理解できる国語力を身につけて頂きたいと思います。

明日ありと 思うが故の 活動か 献金勧誘 服従の日々

親鸞会の教えは、いつもの縦と横の線の図



が象徴しているように、進んでいるだかどうかも分からない横の道を進んで行って、有るだか無いだか分からない、今生で辿り着けるかどうかも分からない縦の線を目指すという教えです。

時に横の道をオリジナル「二河白道の譬え」の「白道」に、縦の線を「三定死」からの獲信に当てはめたりしています。横の道を進むのを「信仰が進む」と表現したりもします。縦の線に近づくにつれて薄かった宿善が厚くなって、縦の線で宿善開発と教えられたりもします。最近では宿善に代わって「三願転入の教え」が強調され、横の道を19願・20願で表現しています。横の道を進む方法として、聴聞や勤行、六度万行を勧められますが、ここで言う聴聞とは高森顕徹会長や講師部員の話を聞くことであり、ここで言う六度万行とは主に親鸞会に布施したり、親鸞会に人を誘ったり、会長や上司の指示に無条件服従することなどです。親切や親孝行なども言われますが、これら世俗的な善はあくまでサブ的要素です。

簡単には横の道を進めず、また縦の線には到達できないようで、会員は来る日も来る日も活動の日々です。聞き始めた頃は「この一座で聞き抜かねば・・・」と思っていたのが、いくら聞いても因果の道理もまともに理解・実践できていない、真実の自己も相変わらずハッキリしない、後生の一大事に驚いて夜も眠れないということもないものですから、聴聞を重ね活動を重ねて死ぬまでに間に合えば本望だ位に捉えざるを得ない状態に陥っているのではないかと推測されます。

親鸞会の、横の道を進んで行く教え。これは、明日ありと思う心がなければ到底できません。よく話をすることですが、もう自分には今日一日しか人生無いとしましょう。ではその24時間の中で、一体どれだけの善をどのような気持ちでやれば「信仰」とやらが進んで縦の線まで進み、獲信できるというのでしょうか。何年、人によっては何十年と求めてダメだったことが、たった一日で何とかなるものでしょうか。もし何とかなるなら、今までにとっくに何とかしていたはずです。

これでお分かりのように、親鸞会で求めてゆくには、死ぬまでに十分時間があることが大前提です。また十分活動できる健康な体、次々やってくる募財に十分献金できるほどの金銭、日々の苦難や朝令暮改の無理難題、上司の執拗な指摘などにめげないメンタル、気力等々、そういったものが充実していることも大前提です。それらが十分に無い人は獲信・往生の望みを絶たねばなりません。

明日ありと 思うが故の 活動か 献金勧誘 服従の日々

教えに疑問を抱かず、救われない現状に焦りも不安も覚えず、誰が何と言おうと高森先生が正しいと信じている会員が活動している大前提と、活動の内容を歌ってみました。深く高森教にのめり込んでいる人は今はどうしようもありませんが、教義や組織のやり方に疑問を持った方は今からでも決して遅くありません、よく教えの真偽を検証してみて下さい。

弥陀の本願は「念仏を称える者を浄土往生させる」という本願であって、「親鸞会の活動をする者を絶対の幸福にする」という本願ではありません

前回、高森会長が「自力」についてトンデモ発言をしたことについての追記です。高森会長は

自力とは絶対の幸福が分からない心。その他は自力と言わない。

と話したそうですが、阿弥陀仏の本願は私達を「絶対の幸福にする」という本願ではないので、これは高森教に浄土真宗を当てはめんとする「珍らしき法」です。親鸞会は「本願寺、本願を知らず」と非難していますが、

浄土真宗親鸞会こそ本願を知らず、浄土真宗に非ず、親鸞聖人の教えを知らず

であります。更には、前回は出しませんでしたが

絶対の幸福のわからない心が無くなるその根拠をあげよう

と言って高森会長が挙げた根拠が『改邪鈔』19段

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」ともならひはんべれ。

だったそうです。「えっ?」と思う人も多いでしょう。なぜこれが「絶対の幸福のわからない心が無くなる根拠」なのか全くもって分かりませんよね? このお言葉にあるように、

生死流転の本源をつなぐ自力の迷情

すなわち生死流転を際限なく重ねて迷いの世界から出られない迷いの心を「自力」というのです。それは、阿弥陀仏が本願をお建て下さり、五劫永劫の願行が既に成就して私にはたらいているのにこれを疑って信じない、おまかせしない心ですから、「本願を疑う心」です。その本願とは、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる(『末灯鈔』12通)

とあるように「念仏を称える者を浄土往生させる」という本願であって、「親鸞会の活動をする者を絶対の幸福にする」という本願ではありませんから、自力が廃って他力に帰したとしても「絶対の幸福が分からない心」などは無くなりません。

ところでどんなのを自力と言うのか具体例を挙げますと、念仏を自分の善根だと思って称え、称えた功徳によって助かろうというのを自力と言います。また、念仏以外の諸善にも手出しして、これこれこういう良い事をしていますからどうか阿弥陀様お助け下さいとやっているのも自力です。当然ですが、地元会館やシネマ学院建立にお布施をしたり、名前だけ会員を獲得したり、その他諸々の推進される活動に参加して獲信に近づこう、横の道を縦の線まで進もうと努力することをみんな自力というのです。まぁ、求めるものが浄土往生ではなく絶対の幸福という現世利益、努力するものがらが如説の善行ではなく善もどきの善では自力にもならないのですが、細かなことは目をつぶりましょう。

真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。「廃」といふは、捨なりと釈す。聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道を捨てよとなり。
「立」といふは、すなはち、弥陀他力の信をもつて凡夫の信とし、弥陀他力の行をもつて凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもつて凡夫報土に往生する正業として、この穢界を捨ててかの浄刹に往生せよとしつらひたまふをもつて真宗とす。
(『改邪鈔』18段)

とあるように弥陀他力の信、すなわち本願力回向の信心をもって凡夫の信とし、弥陀他力の行、すなわち念仏一行をもって凡夫の行とし、弥陀他力の作業、すなわち本願の独用(ひとりばたらき)で凡夫が報土に往生するのです。浄土往生の因も果も、全て阿弥陀仏が恵み与えて下さるもので、私達凡夫としては、そうした本願を計らいなく受け容れて念仏し、ひとえに往生を阿弥陀様におまかせするのみです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。(信文類)

【現代語訳】
このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。

覚如上人は親鸞聖人のこのお言葉を先のように言い換えられているといえましょう。

なお高森顕徹会長は、聖典には触れずに「この娑婆生死の~」の御文が書かれた模造紙を持ってきて説明したとのことです。聖典には先ほど挙げた御文しかり高森会長にとって都合の悪い御文が数多くあるので、映画やシナリオブックを聖典化してごまかすしかないのでしょう。『改邪鈔』19段には最後の方に

なにをもつてかほしいままに自由の妄説をのべて、みだりに祖師一流の口伝と称するや。自失誤他のとが、仏祖の知見にそむくものか。おそるべし、あやぶむべし。

とありますが、この言葉は、高森顕徹会長に対して言われているように聞こえてなりません。

生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題(『なもあみだぶのつぶやき部屋』3-12.明信仏智 より)

『なもあみだぶのつぶやき部屋』3-12.明信仏智

を読んでいて「その通りだなぁ」と思ったことがあるので紹介します。全文は上リンク先を参照頂くとして、当ブログでは該当箇所を抜き出します。


1.信前に間違った他力の信心のイメージを強く持っていると、如来の願心を聞き受けたとしても「これが他力の信心なのだろうか」と混乱する
********************
A君 つまりね、実際に信を頂く、という経験は、信を頂くまでに思い浮かべていたイメージとはまったく違うものなんだ。予想外も予想外。だから、信前に抱いていた誤ったイメージが強ければ強いほど、実際の経験とそのイメージとのギャップは大きくなる。そうすると、人は、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだね。

B君 あぁ、分かった。つまり、人の認識のありかたに関わる問題なんだ。

A君 そうなんだね。人は言葉の概念をもって物などを認識しているが、人はそのような認識のあり方をしている。机という概念をもってるから、いま見ている物が机か、それ以外かを判断している。ところが、既存の概念をもたないものに遭遇すると、それが何であるのか理解できないんだね。例えば、こんな記事を読んだことがある。大都会のビル群を空中から撮影した写真をビルという物を知らないアフリカ奥地の原住民に見て貰ったところ、そもそも写真だということが理解できなかった。そして、写っている物がビルだと理解することができず、四角い形のものが整然と並んでいるので、きれいな花壇だと認識したという話しだった。他力の信というものに関しては、信前において、概念化して信をとらえていたとしても、それは大間違いだ。つまり、信前においては誤った理解をし、誤ったイメージしか持つことができない。そうした人が如来のまことの願心を聞いて聞き受けたとしても、それが他力信だと直ちに判断することはできないんだ。信について誤ったイメージを強く持っている人ほど心の中でのギャップは大きくなる。だから、これが他力の信なのだろうかと混乱するんだ。因みに、信後においても信を言葉で表現し、概念化することができたとしても、その概念化された信は実際の信とは違ったものになってしまう。

********************

親鸞会では、他力の信心についてとにかく誤ったイメージを会員に植え付けています。例えば、

・信の一念はハッキリと自覚できる。ハッキリした自覚がないのは他力の信心ではない。
・他人に確かめずとも他力の信心を獲たことが火に触れたよりもハッキリ分かる。
・51段高とびして弥勒と肩を並べる身になったということが実感として知らされる。
・現生十種の利益を獲たことが実感として知らされる。
・地獄しか行き場のない自己の姿(逆謗の屍)が知らされる。
・曠劫流転してきた過去も明らかになり、未来永劫の後生の一大事も知らされる。
・自力無功、必堕無間の苦しい体験をし、同時に如来の喚び声が五臓六腑を貫いて救われる。
・いつ死んでも極楽参り間違いなし、極楽へ必ず往けると疑い晴れる。
・「人間に生まれてよかった」「よくぞ人間に生まれたものぞ」という生命の大歓喜が起きる。
・誰の命も平等に尊い、「人命は地球より重い」ということが実感として知らされる。
・親鸞聖人のように、どんな苦難をも生き抜く強く逞しい人生が開かれる。
・最高無上の、最悪の死に直面しても変わらない安心、満足、喜びの境地に出る。
・苦しみがやって来ても煩悩即菩提ですぐさま喜びに転じ変わる。
・経典やお聖教がすらすら読めるようになる。意味が理解できるようになる。
・親鸞聖人や高森先生のように、伝えずにおれない叫ばずにおれない身になる。
・深信因果させられ、阿頼耶識に納まっている業がどんなものか分かるようになる。


とまぁ挙げればキリがありませんが、私は高森会長の話しぶりや著書などから「このようになったのが他力の信心だ」というイメージを抱いて、そういう身になりたいと思って聞いていました。しかし実際に本願の仰せを聞き受けてみても思い描いていたような事は実現せず、当時はA君が言うように随分と混乱したものです。その後、お聖教やその解説を学んでいく内に、浄土真宗の教義についても信心についても念仏についても、ものすごい間違ったイメージを持っていたことが知らされていきました。


2.信心を獲ても、「この信が間違っていたらどうしようか」などと思うこともある
********************
A君 もう少し、先のことをいうよ。信を得た人は、この信が間違っていたらどうしょうか、などとは思わないと思うかい?

Cさん いいえ。そう思うことはあると思うわ。私は、そう思ったもの。

B君 じゃ、どうして、今は、間違っていないと思うようになったの。

Cさん 間違っていないと思ったわけじゃないのよ。間違っているかどうか、そんなことを詮索する必要はないと分かったのよ。

A君 そうだね。ここが大事な所なんだ。Cさん、説明してよ。

Cさん つまりね、信心が間違っていたとしても、自分ではどうしようもないってことに気づいたのね。信心が間違っていて、また何かを得ようとして聞いてゆくとしても、私の生き死にの問題は私が解決できる問題じゃないってことが分かったの。生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題なの。浄土往生は決定されていると聞いたので、私は、それでもういいのって分かったの。だから、今さら、どうしようもないのね。

********************

本当にCさんの言う通りで、生死の問題は私の力が及ぶものではありません。何もかも阿弥陀仏におまかせしたのを他力の信心というのであって、何もかもハッキリするというものではないのです。極楽の様相を見たわけではありませんから、信後も相変わらず死ねばどのような世界に行くのか、私の側からは分かりません。もしかしたら地獄へ堕ちるかも知れません。でも、地獄だとしても元々の自分の罪業からしたら地獄なのですから仕方がないです。ただかたじけなくも、そのような私を阿弥陀様は哀れに思召して、「我を一心にたのまん衆生を必ず救うべし」とお誓い下さっているので、そのお言葉をそのまま受け容れて念仏致しているのみです。今更私がジタバタしたって、どうにかなる問題じゃないんです。だから阿弥陀様におまかせなんです。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)

往生の一大事は自分が何とかできるレベルの問題ではないと自らの手を離れ、我が行く先を阿弥陀様におまかせしたのを自力を捨てて他力に帰した信心発得の行者というのです。韋提希のように極楽世界を見たのなら「そのような世界へ往くのだな」とハッキリするのかも知れませんが、そうではないのですから「極楽参り間違いなし」とハッキリなどしません。そうしたハッキリしないことをハッキリすると説く高森会長は、浄土真宗に非ざる異安心なのです。

「ジタバタしたって、どうにかなるお前じゃないぞ」「お前は決して迷いを離れられん者だぞ」と見抜かれて本願を発され、「まかせておくれ。お前を必ず浄土に連れて行って仏に成すぞ」と真実の言葉で仰せられるその勅命を聞いたなら、もはや私の「どうしたら」「こうしたら」なんて思いは邪魔者だと自力が廃るのです。そして、後は如来の仰せをひたすら仰いで念仏申すのみです。「生き死にの問題は如来の問題であって、如来が解決される問題」ですから、私の手出しは無用です。口出し無用です。その手出し、口出し無用のものに手を出し、口を挟むのを自力の計らいというのです。手を出し、口を挟んで生死の問題が解決できるならば大いにやればいいですが、それが邪魔で如来の仰せを素直に聞けませんから「捨てよ」と言われるのです。


浄土真宗とはこうした教えだということを知らず、まんまと会長が説くスーパー信心を本物だと誤解して、それを獲たいと利用されていた自分は本当に愚か者でした。幸いにも途中で間違った教えを間違った教えと受け止め、正しい教えを求め、そして出遇うことができて本当に良かったです。自分の言葉に耳を貸す者などほとんどいなかったかつての仲間達を思うと、よく自分は今まで正しいと信じ求めてきたものを間違った教えと受け止めることができたなと不思議に思います。まことに「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」であります。

自分が正しいという判断を下し、何年何十年と求めてきたものを間違いであったと認めるということは実に苦しいことです。それは、何年何十年という時間だけでなく、それに費やしたお金や労力が全て無駄だったって認めることです。また活動に割くために切り捨てたいくつもの輝きはもはや取り戻せないものばかりですから、本当にこれ以上の地獄はないですよ。そして、今いる場所、共に求めてきた仲間から離れて新たに正しい教えを探そうとするのは、随分と勇気の要ることです。大概は不安に負けてしまうでしょう。ですから、中々離れようとしない会員が少なくないというのも分からなくはありません。

しかし、それで今死ぬとなって満足して死んでいけますか? 今の救いを求め続けた苦しみの人生で終わり、死ねば自らの業に報いた世界にゆくのですよ? 満足だという人はどうしようもありませんが、一向に救われない現状や組織のやり方に疑問を持っている方は、ぜひとも一度立ち止まって徹底的に調べて頂きたいものです。1、2ヵ月かかったって、何十年という時間からすればたかだか数%です。モヤモヤしながら求めるよりも、よほど良いと思います。「このまま皆と活動していけば、たとえ今生ダメだとしても遠生の結縁にはなるだろう」などと既にあきらめムードの方もあるかも知れませんが、阿弥陀様は決して諦めていません。どうか親鸞会だけが全てだと思わずに、もっと広く探し求める気持ちを持って頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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