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もっともっと哀れな親鸞会会員

消費増税前の駆け込み需要がヤバいです(´-ω-`) たかだか2%の増税くらいでこれだけ荷物が集中するとは、多くの国民の底知れぬ欲望を垣間見る思いです。尤も、そうなるのは分かり切ったことですから、会社も人員を集中する段取りをすればよいものを、そうせずにいつもの戦力で回そうとしているのですから阿保です。毎度、無能な上の連中と国民の深い欲望に振り回される物流業界の末端人員は哀れです、私を含めて。


ところで、二千畳で一般講師も話をするようになったことは以前紹介しましたが、始まったのは今年の7月13日かららしいです。日程表を見せて頂きましたが、午前と午後で話があり、違う講師部員がそれぞれの演題で話をしているようです。講師の中には大学時代にお世話になった先輩の名前もありました。なつかしいと思ったと同時に、未だに高森教を真実の宗教と妄想誤解して不浄説法しているのかとため息が漏れました。

ご存知の方がほとんどでしょうが、話をする講師部員達は高森会長曰く

十九願の入り口にも入っていない

者達です。高森会長から聞いていてもダメなのに、そんな未信の講師達の話を聞いて信心獲得なんてできるんですかね? 「絶対の幸福」だとかいう欲望に狂って真実の報土を願わず、逆に高森一族の深い欲望に振り回され、エセ真宗の未信の講師による不浄説法を聞き続ける会員はもっともっと哀れです。
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二千畳で一般講師も話をするようになった親鸞会

6月23日以降ずっと登壇していない高森顕徹会長率いる親鸞会ですが、内部では少し方針転換がありました。

頂いた情報によりますと、親鸞会では8月から二千畳で一般講師も話をするようになったそうです。平日も開館し、一般講師が話をしているとか。昨日は、高森光晴氏やその他名の通った講師部員が話をしたそうです。私が会員だった頃は考えられないことです。


二千畳の大講堂や同朋の里、その他周辺施設が建てられたのも、全ては会員一人一人が高森会長の講演を聞いて人生の目的を果たそうとするためでした。しかし、当の高森顕徹会長が加齢や疲労等のために講演中止が続き、その結果会員が富山へ来ないようでは、せっかく建てたハコモノは負の遺産として重くのしかかり、やがて風化していくのみです。

そういった点では、今回のこうした試みは意義があるでしょう。しかし、それは宮田先生が指摘しているように

真実を説き切れない人の話を聞いても救われます

と公言したも同じことです。高森会長は以前、講師部員を前に

君たちは19願の入り口にも入っていない

と言い放ったと聞きます。その後10年以上が経過したと思いますが、何せ

・20年や30年で獲られる信心なら「億劫にも獲難し」と言われるはずがない(これが獲信か、7P)

・雑行、雑修、自力の心を知るには30年40年かかるだろう。(教学講義)

・信心獲得は100年や200年求めて獲られるような、ちっぽけなものでなく、多生永劫、求めてようやく獲られるもの、ということが明らかです。ーーー
 我々も魂のリハビリをしているようなもので、信心獲得までには肉体のリハビリどころでない、多生永劫という長いリハビリの時間を要するのだ、と教えて頂きました。(昨年来た友人の手紙・会員暦30年以上)

(以上、『私の白道』5より)

というような教えですから、未だに「光に向かって進ませて頂きます」と頑張っている方々ばかりでしょう。一番高森会長に近く、一番光に向かって進んでいるはずの講師部員でさえこうですから、特専部員や幹部会員は勿論、一般会員などは19願の入り口どころか、横の線の軌道にも乗っていないでしょう。こんな体たらくで今宵の後生どうなるんだと自身に真剣に問うている人はもはや親鸞会にはいないのでしょうか。

また会員の方は、今までは「真実を説き切られる唯一無二の善知識・高森顕徹先生の講演」という思いで自身も参詣し、人も誘っていたのが、これからは「真実を説き切れない人の話を聞いても救われます」ということで活動していくようになるでしょう。皆さんもうすうす勘付いているはずです。信心を獲ている者は皆無だと。


親鸞会の今後も気になりますが、私はやはり会員の皆さんの後生、とりわけかつて一緒に活動していた仲間達の後生が気になります。親鸞会の活動に生涯精を出したとしても、それは獲信・往生とは無関係です。

往生には、選択本願の念仏を専ら称え、称え聞こえる南無阿弥陀仏は「助けるぞ」「我にまかせよ」「必ず浄土に迎えるぞ」と招喚したもう弥陀の勅命であると聞き受けて、仰せのままに後生おまかせするのみです。こうした弥陀の勅命、本願の仰せを疑いをまじえずに受け容れたのが信心です。

こうした往生の信心は、20年、30年求めなければ獲られないようなものではありません。南無阿弥陀仏を聞き受けた一念に定まります。今日聞いて今日救われる教え、ですから平生業成というのです。平生と言っても、今日死んでしまえば平生とは今日までです。ですから、平生とは今のことです。

今、本願の救いにあずかり、決定往生の身となる。これが親鸞聖人の教えです。対して親鸞会の教えはどうですか? 最初はそんなことを言っていても、いざ求めていったら全然話が違うじゃないですか。後生の一大事を強調して、簡単に解決できる問題ではないと言われてしまうでしょう。表向きと、入会して奥座敷に入っていった時で、全然違う教えを説いているのが親鸞会じゃないですか。

19願の善、諸善万行、定散二善、これらは「雑行」であり、「雑行」を修めて浄土往生しようという者を阿弥陀仏の光明は摂取して下さいません。浄土を願って如実の行を励む者さえそうなんですから、まして善という名の献金、勧誘、無条件服従等の活動をやって、しかも「絶対の幸福」なんていうこの世の欲望を満たそうとしている者が阿弥陀仏の本願に摂取されるはずがありません。


今まで費やしてきたことを思えば、親鸞会にしがみつく、高森会長を頑なに信じる気持ちはよく分かりますが、ダメなものはダメなんです。最終的には

悔いが残らない方を自分で選べ

と言うよりありませんが、本当に、会員の皆さん一人一人が悔いなき選択をし、今度の一大事の往生をし損なうことがないようにと願っています。

「二千畳 ギネス世界記録に挑戦」だってさ

そろそろ今年の報恩講シーズンも近づいてきましたが、親鸞会では未だ報恩講の案内が公式にありません。休みがちな高森会長の体調を考えると、二日間の日程を組んで発表することは難しいのかも知れないです。

代わりにと言っては何ですが、親鸞会では知名度を上げるためか、こんなことをやると発表しています。
↓↓↓
二千畳 ギネス世界記録に挑戦(9月23日)

S価学会の真似をして全国に会館を建てて、幸福のなんたらの真似をして映画を作って、今度はギネス記録に挑戦だってさ。名目上は

親鸞聖人の教えには「なぜ生きる」の答えがある、二千畳に行けば、いつでも聞かせてもらえるんだ、ということを、ギネス世界記録認定を縁に1人でも多くの人に知っていただく第一歩としたいと思います。

と語っている増本総館長ですが、実態は高森会長の

なりふり構わぬ親鸞会知名度アップの第一歩

といったところでしょう。


教義の破綻は10年以上前から明確化していましたが、どうやら高森会長のワンマン素人経営によって組織的にも限界を迎えつつあるようです。やがて必ず滅びる会館の大きさを誇示するよりも、ただ一つの真実である南無阿弥陀仏を伝えるべきだと思いますが、高森会長にはそれができません。

できることはせいぜい「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、創価学会の信心を弘めるくらいです。それでは、たとえ多くの人が集まって威勢よくしていても真実信心を獲て報土往生する者はいないわけで、そんなものは一宗の繫昌とは言いません。

一 一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば、「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。『御一代記聞書』121

【現代語訳】
一宗の繁昌というのは、人が多く集まり、勢いが盛んなことではない。
たとえ一人であっても、まことの信心を得ることが、一宗の繁昌なのである。
だから、『報恩講私記』に、「念仏のみ教えの繁昌は、親鸞聖人のみ教えを受けた人々の信心の力によって成就する」とお示しくださっているのである。


尤も、親鸞会自体が「専修正行」ではなく「兼修雑行」の団体なので、はなから繫昌も何もないわけですがね。

親鸞聖人には「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という発想はありません

南無阿弥陀仏のいわれを説いたということは、「アンタのはからいは要らん」ていう説教なんです。
だから これを根拠に私、言っているんです。
「阿弥陀さまは 念仏しろと言っていないよ」って。


2019年8月のとある会でのA先生の発言です。未だにこのような主張を繰り返しています。発言を撤回などしていないし、するつもりも更々ないことは明白です。


親鸞聖人の教えは信心正因だといっても、それは念仏と無関係の信心ではありません。念仏往生という万人共通の救いの道を、我々一人一人の上で適示するならば、念仏往生の法を疑いなく受け容れた信心が肝要である。念仏という行から信心を別開し、本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れた信心を報土の因とする。親鸞聖人が往生(成仏)の正因だと言われた信心とは、念仏往生の本願についての信心だったのです。

信心について教えられた御文としては、善導大師の二種深信の文が有名です。

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

阿弥陀仏の本願は名号を称することわずか十声、一声の者に至るまで必ず往生させるということに疑いない、というのが真実の信心であるというのです。ですから信心の内容は、称名正定業ということです。親鸞聖人は、この『往生礼讃』のお言葉を『集諸経礼懺儀』からという形で二回引文されています。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

親鸞聖人もこのように理解されているのです。『教行証文類』において。

これが『御消息』ではもっと判り易く

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。

と教えられています。親鸞聖人においても「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」ことは明白です。


仏教といえば教・行・証です。教えを聞いて、教えの通り行じて、証、さとりを開く。

その行が、念仏です。念仏という行によって、浄土往生という証を得る。これが浄土の教えです。

ただし、仏教の場合は、行をする際の心を非常に重視します。例えば聖道門では、四弘誓願で表されるような崇高な菩提心を発して行を修めなければ、本当の意味で行を修めたということにはならないです。たとえ形の上では賢善なふるまいをしていても、内に煩悩が燃え盛っているようでは如実の行とは言えないのです。つまり、内外不相応の状態でいくら修行に励んでもさとりは開けないということです。

それは浄土門も同じで、問題は信心です。身体は同じように阿弥陀仏一仏を合掌礼拝して、口では同じように阿弥陀仏一仏の名を称えて往生を願ってはいても、信心が異なる者は同じ浄土へは参れないというのです。

法然聖人の仰せには、「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。されば、ただ一つなり。別の信心にておはしまさんひとは、源空がまゐらんずる浄土へは、よもまゐらせたまひ候はじ」と仰せ候ひしかば、当時の一向専修のひとびとのなかにも、親鸞の御信心に一つならぬ御ことも候ふらんとおぼえ候ふ。

【現代語訳】
そこで法然上人に、詳しい事情をお話ししたところ、「この源空の信心も如来からいただいた信心です。善信房の信心も如来よりいただかれた信心です。だからまったく同じ信心なのです。別の信心をいただいておられる人は、この源空が往生する浄土には、まさか往生なさることはありますまい」と法然上人が仰せになったということでありました。ですから今でも、同じ念仏の道を歩む人々の間で、親鸞聖人のご信心と異なっておられることもあるのだろうと思われます。

今は『歎異抄』から抜き出しましたが、『御伝鈔』にも同様のことが書かれています。

ここでポイントは、「一向専修のひとびとのなかに」、信心が異なる者があったという点です。

同じ念仏の道を歩む人々の間で、親鸞聖人のご信心と異なっておられる」方々があったという点です。

行は同じく念仏一行を修める方々の中で、信心が同じか異なるか、つまり信心が自力か他力かを問題にされていたのです。親鸞聖人が問題にされたのは、念仏一行を修める際の信心だったのです。念仏を称えることは当然の事としたうえで、念仏を称える際の信心を問題にされたのです。

善導大師のお言葉で言えば、念仏一行を修めるのは前提とした上で

弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし

という信心が定まっているかどうかを問題にされていたのです。親鸞聖人のお言葉で言えば、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へん

という本願をふかく信じて称えるか、信心あさくして称えるか、ということを問題にされていたのです。勿論、

ふかく信じて・・・他力の信心、真実の信心
信心あさく・・・自力の信心、定散心

です。「ふかく信じて」は自分の心で深く信じ込む、いわゆる自力の信心の延長ではありません。

決して念仏を称えよと仰っていないとか、念仏を称えよと仰っていない本願がどうこうという問題ではなかったわけです。あくまで

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

本願であると見た上で、親鸞聖人は真実の信心で念仏を称えるのが他力念仏の行者で報土往生し、定散心で念仏を称えるのが自力念仏の行者で化土にとどまると峻別されたわけです。


親鸞聖人には阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていないという発想はありません。このような説は、蓮如上人の信因称報説に立って親鸞教学を理解しようとして理解しそこなったところから出てくる誤りでしょう。

親鸞聖人の教えは、善導大師、法然聖人の念仏往生説を正当に継承した上での信心正因の教えです。これを、高森会長のような真宗に無知な素人ならともかく、真宗教義を正確に学んでいるはずの本派の布教使が間違えているのです。いい加減にこのような間違った説を振れ回ることは止めて頂きたいと願うばかりです。

善知識だのみの異義について

本日は高森顕徹会長の講演が予定されていましたが、例によって急遽取り止めとなったようです。また邪義を明らかにするチャンスだったのに、拍子抜けです。壇上で死ぬのは本望とか何とか言っていましたが、本当は自宅か病院のベッドで死にたいのでしょう。

いつも直前で中止ですから迷惑な話ですよね? それに、中止となったらなったで息子なり何なり代理を立てて説法すればいいのに。しかし息子は毎度毎度、譬えまで同じ話しかしないし、講師長の誰かが話すにしても上手く説いたら息子の面目を潰して批判の対象になりかねないし、何とも難しい所です。ともかく言えることは、それぞれがそれぞれの思惑で動いており、会員の往生・獲信を目的とし、立ち上がる者は親鸞会上層部には一人もいないということです。

会員も会員で、「高森先生でなければ本当の親鸞聖人の教えは説き切れない」「高森先生から聞かなければ救われない」などと信じていることでしょう。一人の知識を絶対視して「誰が何と言おうと高森先生が正しい」と信じ、会での活動は勿論、生活の至るところまで会長や上司、会の方針に従おうとする。逆に、そうしなければ後生は助からないと思う。そのような善知識だのみの異義に陥っていますから手に負えません。


さて、今日は善知識だのみの異義について、今一度安心論題/五重義相より伺います。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
「善知識だのみ」は、知識掃命ともいわれます。これは阿弥陀仏に帰命するといっても、現に法を説いてくださる善知識がなけれぱ何にもならないのだから、善知識だけをたのみにすればよいのだ、と善知識に帰命すべきことを主張するものであります。

たしかに、阿弥陀如来のおこころは、生きた人間を通して私どもに伝えられるのであって、私に直接するのは善知識であります。ですから、救いの法を説いてくださる善知識を尊重し敬慕するのは当然でありましょう。しかし、阿弥陀如来をそっちのけにして、善知識を帰命(信)の対象とするならぱ、それは本末転倒といわねばなりません。

そこで、蓮師は善知識だのみの誤りを指摘せられ、善知識は「弥陀に帰命せよ」と勧める使いであって、あくまで帰命すべきは阿弥陀如来である旨を述べられ、更にこれを明らかにするために、五重の義を立てられたのです。

これによって、宿善開発して善知識にあい、その善知識の勧めによって弥陀に帰命する信心を得て、往生決定の身となる旨を示され、「帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきことを、大きなる誤りなり」と誠められています。

思うに、善知識が真の正しい善知識であれば、このような善知識だのみは生じないでありましょうし、たとい一部にそういう誤った見解が生じても、善知識がその誤をただしてくださるでありましょう。

しかし、偽り邪な善知識の場合が問題であります。現実には「帰するところの弥陀をすてて」とまではいかないにしても、人々を説得し心服させる才能にたけた者が指導者となり、指導される人々はその人を阿弥陀仏と同等に生き仏として無条件に帰依尊崇するということになれば、どのような事態になるか。実に危険きわまりないものといわねばなりません。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

最後の一段は、これこそ親鸞会そのものと言っていい内容です。ちなみに、谷口春子さんの手紙をまとめた『絶対の幸福』という本には、高森会長のことを

「尊き善知識会長先生」(p.33)
「偉大なる善知識会長先生」(p.36)
「生き仏様会長先生」(p.54)
「阿弥陀仏の御化身であらせられる尊き会長先生」(p.56)


などと言葉を尽くして誉め讃えています。これが発刊された意図は、高森会長に従って真剣に親鸞聖人の教えを聞き開けば絶対の幸福になれると会員に希望を抱かせることと、高森会長が生き仏のように尊い善知識であると会員に思い込ませることにあったと言えましょう。

「自分は善知識だのみではない」。こう思っている人が実は善知識だのみというケースが少なくないです。例えば、高森会長の説く二河白道の譬えは本来の譬え話と随分変わっていますが、それを「私達に分かり易くするために敢えて譬え話を変えてお話下さった」などと忖度しているとしたら、それは完全に黒でしょう。

親鸞聖人が白道を(自力の)求道心、信心と解釈された箇所は一箇所もありません。その他、親鸞聖人が19願を勧められた根拠も、親鸞聖人が「獲信の因縁(宿善)として善を修せよ」と諸善を勧められた根拠も一箇所もありません。親鸞聖人が一切衆生必堕無間と教えられた根拠も一箇所もありません。

聖教に根拠が無くても、聖教と真反対だと指摘されても、「高森先生に間違いがあるはずがない」と思い込む。非難してくる人の主張を聖教の上でろくに確かめもせずに間違いと決めつける。意識無意識に関わらず、高森会長の主張を擁護しようという立場で物事を考える。こんなのは典型的な善知識だのみです。某所では

・お聖教に書かれていることよりも、特定の先生の言うことを盲目的に受けいれてしまう
・その先生が説く内容にお聖教に反していることがあったとしても、その批判に対して思考停止してしまう


という書き込みがなされていましたが、親鸞会ではなくても同様の知識帰命的な方は少なからずいるようです。


ところで、話が上手い、人徳がある、カリスマ性がある等の勝れた資質をもつ宗教者が教位に立つと、聞く人は教えよりも教えを説く人が表に立ってしまって、依るべき法が見えなくなってしまうことがあります。

『WikiArc』トーク:人惑を受けず

にはそういう現象の危険性について書かれているので参照して下さい。私達が依るべきなのは教え、法であって、教えを説く人ではありません。教えを聞かせて下さる先生を尊敬し、大事に思う気持ちは大切ですが、どんな先生も完璧ではありません。間違うことだってあります。だって人間だもの。

間違えないことも大事ですが、間違えたら素直に認めて改めることはもっと大事です。そうやって我々は自分の理解能力が取るに足らないものであることを思い知らされ、いよいよ念仏のみぞまことと信知させされ、たのむべきは弥陀如来であり安養の浄土であるといよいよ明確に知らされていくのだと思います。

阿弥陀仏や釈尊、また七高僧方や親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人といった歴代の善知識方のお心を教えを基に推し量ることは大事でありますが、目の前の知識の心を必要以上に推し量って何でも善意に解釈するのは如何かと思います。特に聖教に真っ向から反する説に関しては如何を通り越して危険です。

聖教に無い説を説いて、それは違うでしょうと指摘を受けても間違いを認めない。根拠にならない根拠を挙げてあくまで自説を正当化する。それでいて、間違いだと批判する者を正法誹謗だと逆批判する。そのような人は、念仏者としてまことに不適当と言わざるを得ません。たとえ教え全体としては全く違っていても、正しい部分が多くても、それではその人の根本的な性格は高森顕徹会長と同じです。私も気をつけたいところです。

親鸞会は勿論、それ以外の団体や集まりでもそういう危険性がありますから注意が必要です。最後にこのことを述べて、当記事は終わりたいと思います。

十劫安心には陥っていないとしても、善知識だのみの異義にはしっかり陥っている親鸞会会員

この前の記事にて、十劫安心と善知識だのみの異義について触れました。親鸞会会員は、聞き求めなければ助からないという信心の方が多かろうと思いますので、十劫安心には陥っていないでしょう。ところが一方で、善知識だのみの異義にはしっかり陥っています。

まず、高森会長の跡を慕って布教に人生を賭けようと志した、親鸞会の代表であるような講師部員からして、

・会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
・上司の指示は会長先生の命と心得ます。


などという文言の入った『親鸞会講師部聖則』なるものを朝晩唱和しています。また講師部員は2008年末に、高森会長によって発案されたと思われる「講師部退部時には会に1000万円を支払う」とする誓約書にサインして/させられています。

ところが、実際そのような裕福な講師部員はありませんし、退部したらたいてい生活していくのも厳しいものがあるでしょう。就職するにしても、前職が「浄土真宗親鸞会講師」なんて書けませんものね・・・。また、まともに親鸞会の活動をやっていたら1000万円の捻出なんて無理です。今は記録が削除されてしまって視聴できませんが、実際、講師長の一人は誓約書の説明の時に「1000万円を支払える者はいませんから、1000万円とは『命』ということです」などと発言していたと記憶しています。つまり、表面上は顕わではありませんが、この契約書は事実「一生かかって高森会長・親鸞会に尽くせ」と命じているも同然の誓約書なのです。

次に、講師部員と同程度(社会的地位や財産でいえば上)の立場の特専部員は、医療法人、真生会富山病院(射水市)が破産したり、債務返済が滞った場合には、「自分の全財産を贈与する」という内容の「贈与契約書」なるものにサインして/させられています。ある元特専部員によると、事あるごとに『地獄に落ちることに比べれば、こんなことは朝飯前だろう』などと言われ、会の命令や方針に従うようあおられていたそうです。

それから、会の事務や清掃、広報誌作成、関連出版社「一万年堂出版」での勤務のほか、別の関連会社が経営する弁当・飲食店などでの勤務を行う親友部員の中には、時間外の作業は自主的なお布施であって時間外手当の対象ではないとする「確認書」にサインした/させられた人があります。

まだあります。私が会員だった頃は、教学講義に参加する際に

「活動に対する不満や批判的言動は絶対に致しません」
「本会を誹謗中傷する者があった場合は、上司に直ちに報告致します」
「誹謗する者を知りながら黙認した場合には、どんな処罰でも受けます」


という内容の教学講義受講契約書なるもの()にサインしなければなりませんでした。当時教学講義に参加する人というのは親鸞会の中でも特に活動に熱心な会員でしたから、活動的な会員のほとんどはこの契約書にサインしていたことになります。私は途中からいつもの通過儀礼と無意識にサインしていましたが、最初の頃はなんか嫌だなぁと感じていたことを覚えています。

その他、高森会長のことを「この方こそまことの方やぁ!」と称讃する親鸞会の黎明期のビデオなどを見せられたり、事あるごとに講師部員から高森会長の苦労や賛美の言葉を聞かされたりしました。降誕会や報恩講の後の弁論大会では、決まって「高森先生ありがとうございましたー!」なんて叫んでいる弁士ばかりで、会員はそれを聞いて喜んでいるというありさまでした。

思えば、高森会長と直接言葉を交わしたことすらない会員がほとんどという状況で、自分も周囲も全て過去の映像や談話、新聞や様々な会員の賛美などから造られた虚像の善知識高森先生を頭に描いていたのでした。今日、本当の親鸞聖人のみ教えを説くことのできるのは高森先生ただお一人、高森先生から離れたら絶対に助からない、本気でそう思い込んでいたのです。現役会員の多くは、未だそういう思考の方が多いと伺えます。だから、上に紹介したような誓約書や契約書、確認書に、時には疑問を抱きつつもサインができるのでしょう。このような思考は完全にカルト教義の思考であり、まさに善知識だのみの異義そのものです。


このようなありさまですから、親鸞会の中でも熱心に活動している会員のほとんどは善知識だのみに陥っていることが見て取れます。自分と阿弥陀仏の間に、高森顕徹という人物が厳然と立ちはだかって、阿弥陀さまが見えなくなるという現象が起こっているのです。

勝れた宗教者ほどそういう現象に陥りやすいことを知っていますから、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も注意を促されています。しかし、高森顕徹会長は自分の指示に無条件に従うように教え、自分が講師部員を始め会員の前面に立って、何事も自分がいなければ成立しないかのように振る舞っています。また、会は一方的な情報を流して、会以外に会員が流れないように、離反者が出ないように、常に予防線を張っています。

善知識方は自分や組織に人を縛り付けるようなことをしたでしょうか。こんな点まで善知識方とは正反対です。なお、親鸞会以外でも、特定の先生(要は本人)の追っかけをするのがよいと勧めている人もいます。会員にせよ、それ以外の人にせよ、教えを受ける人々の中には高森会長や特定の先生を間違いないと絶対視して、外からの批判を聞く気が無い方が見受けられます。特に会員はそれが顕著です。

特に親鸞会の方々には一刻も早く邪な善知識から離れて頂くと共に、退会した方も親鸞会と縁の無い方にも、一人の知識を絶対視して、明らかに聖教に反するような説に安住することがないようお願いしたいものです。

今の救いが未来の救いに、他力の救いが自力の救いになっている親鸞会教義

高森教での「宿善」とは、決まって「宿世の善根」、過去世にやってきた善い行いという意味です。

今回も、仏教を一言でいうと「廃悪修善」、悪いことをやめて善いことをしなさいという教えだと言い、過去世の善根に厚薄があるから早く救われる人と遅く救われる人があるのだと説明していました。

ここから高森教の邪義が発生します。宿善の薄い者は、今生において宿善を求め、宿善を厚くするように努めなければ信心獲得は有り得ないというのです。『白道燃ゆ』には、

宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。(p.203)

とあります。ここでいう「宿善開発の時節到来」とは、「信心獲得」のことを指していると思われます。そこから、短絡的な思考の持ち主である高森会長は、「宿善開発」といったら「信心獲得」のことだと思い込んで説明したのでしょう。しかし、以前にも説明したように、一口に「宿善」といっても多くの意味があるのです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
・聖道門の「宿善」の定義と、浄土門の「宿善」の定義は異なる。

聖道門の「宿善」の定義 ・・・ ①宿世の善根(『浄土十疑論』)
浄土門の「宿善」の定義 ・・・ ②前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと(源信僧都)


・覚如上人以降は、更に「宿善」の意味が変わってくる

覚如上人、存覚上人、蓮如上人 
       ・・・ ③善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁(『改邪鈔』、『浄土見聞集』、『御文章』)
蓮如上人 ・・・ ④信心獲得すること、如来のお育てのはたらき(『御一代記聞書』)
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

お聖教には一口に「宿善」と言っても、聖道門で言うところの「宿善」と、浄土門で言うところの「宿善」とが入り混じって説かれています。言葉は同じでも意味するところが異なる場合があるので、簡単に理解することは難しいのです。ただ、どうひねくり出しても、高森顕徹会長が主張するような

⑤これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

という意味の「宿善」はありません。まして、信心獲得のために

宿善を求めよ、厚くせよ

という教えもなければ、宿善が厚くなる方法に3つあって、それらを実践して宿善を厚くしていきなさいという教えも当然ながら浄土真宗には存在しません。


そのような存在しない教えを捏造して勧める理由は、当然ながら会員の信心獲得以外にあります。もし理由が会員の信心獲得にあるのなら、教えを捏造する必要がないからです。それは、打倒本願寺組織拡大といった高森会長の私利私欲を満たすことにあります。

今回高森会長は、

宿善を厚くするための一番の方法が、「聞法善」

などと教えていました。これは、

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


の勧めです。高森会長絶対の信心を植え付け、強固なものとし、組織拡大を効率よく進める根本となりますし、「仏法は聴聞に極まることなり」の語とも当てはまりますので、宿善を厚くする第一の方法として教えられます。

その次に宿善を厚くするための方法として「朝晩のお勤め」が勧められます。これは

・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること

の勧めです。意外に思うかも知れませんが、以前親鸞会では「讃嘆供養正行」の解説の際に

人を誘うことも讃嘆供養正行になる

などと説明していました。勧誘活動を重視する高森会長は、巧みに正行も人集めの行にすり替えるのです。

それから第三が「親切など」の善です。いわゆる六度万行を大沼師流に世俗化したものです。これは、第二の「朝晩のお勤め」を勧める理由に加えて、

・親鸞会に財施すること

の勧めです。六度万行の第一は「布施」であり、その内「法施」と「財施」が強力に勧められるからです。講演では「親切など」と体のいい話をしていましたが、その裏では会員に親鸞会への勧誘、献金が勧められていることは想像に難くありません。


これらは、そのほとんどが心も行為も間違いです。第一の親鸞会の聞法は、一つには高森会長の邪義を聞くことですから間違いです。二つには、「聞法善」という善を積み重ねて信心獲得しよう、横の線を進んで縦の線に近づこうという自力回向の思考ですから間違いです。

第二の「朝晩のお勤め」は、これは行為自体はよいのですが、同じく五正行という善を積み重ねて信心獲得しよう、横の線を進んで縦の線に近づこうという自力回向の思考のですから間違いです。

第三の「親切など」は、一つにはこれを往生のために修めることは雑行と嫌われ、捨てよと言われる行ですから間違いです。二つには、同様に「親切など」の善を積み重ねて信心獲得しよう、横の線を進んで縦の線に近づこうという自力回向の思考のですから間違いです。


親鸞会で勧められることは聖教に基づかない「珍らしき法」ですから、何十年求めている講師部員も幹部会員も救われていないのは至極当然のことです。まぁ、こうした「宿善を求めよ、厚くせよ」という教え自体が、今救われるという一念の救い、阿弥陀仏の方からの一方的な救いであることを否定し、救いを未来、向こうに眺めて、そこまで自力で求めていくという教えですから、今救われる人は結果としていないのです。

会員の皆さんは、今の救いが未来の救いに、他力の救いが自力の救いになっていることに気づき、早く親鸞会教義の誤りを知って邪義を離れ、本願を信じ念仏を申して浄土往生の本懐を遂げる身となってもらいたいと思います。

時代と共に変わる教え(6)ー虎の説法から鼠の説法、そして猫の説法へ

先月5月24日より、親鸞会の映画第二弾が公開されています。私はまだ観ていませんが、

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』映画『歎異抄をひらく』を観て

にはいつもの元会員さんが映画の感想を書かれています。また、

『映画-Movie Walker』「歎異抄をひらく」の映画の感想・評価・レビュー(残念に思った人)

では親鸞会の映画だと見抜いた方の感想が書かれていますので、それぞれ参照して下さい。


それにしても気になったのは、いつもの元会員さんの記事の、

1つ意外だった点は、少年時代の唯円とその友人達に、親鸞聖人が本尊を渡されるシーンで、
聖人のお弟子が
「念仏は尊いものだから、よく称えなさい」
と、称名念仏を勧めていたことでした。


という点です。時代は変わったが、それと共に親鸞会の教えも変わったなと思いました。というのも

『親鸞会教義の誤り』宿善とは5
『用管窺天記』常に虎の説法

等にもありますが、かつて高森会長は大沼法竜師の著作を盗作してこのように書いていたからです。

    常に虎の説法

 信前の人に、称名念仏をはげみなさい、そうすれば早く助かると勧めなさるのは、二十願のすすめで浄土宗の教えである。即ち『浄土和讃』に、
  定散自力の称名は
  果遂のちかひに帰してこそ
  おしえざれども自然に
  真如の門に転入する。
と説かれているように、一声でも念仏称えた者は一度は晴れて満足の明信仏智の第十八願の世界まで転入させずにはおかぬというのが二十願で果遂の誓というのだが、この果遂について一生の果遂、二生の果遂等があり、自力念仏の人が此の世で他力に入るのは一生の果遂であり、次生で他力に入るのは二生の果遂である。このように無窮に果遂を味うことが出来るが一度は他力の信に入らねば報土の往生は絶対に出来ないのだ。
 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

(『顕正』p.122~p.127)


かつては信心正因称名報恩の元に「常に虎の説法をせよ」と第十八願の法門を教えていた昭和の高森会長ですが、親鸞会結成35周年(平成5年)辺りから突如として「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」等と言い出し、第十九願の法門を勧めるようになりました。そして、令和に入って高森会長はアニメの親鸞聖人のお弟子に

「念仏は尊いものだから、よく称えなさい」

と言わせています。親鸞聖人の生涯の思いが

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかし

であるとするなら、ここでは親鸞聖人は信心決定のために念仏を勧めていたことが判ります。それもどうやら、話の前後から、阿弥陀仏が本願においてただ一つ選択し回向されている往生の正定業であるから勧められているというわけでもなく、かと言って信心決定の上の報謝の称名として勧められているわけでもなさそうです。映画では諸善万行(雑行)を勧められてはいないようですので、これは第二十願の勧めと言えるでしょう。


時代は昭和から平成へ、そして令和と変化しましたが、それに伴って高森会長の話も変化しました。どう変化したかと言えば、タイトルに示したように

虎の説法から鼠の説法、そして猫の説法へ

です。これは『親鸞会教義の誤り』に倣い、第十八願の法門を説くことを「虎の説法」、第十九願の法門を説くことを「鼠の説法」、第二十願の法門を説くことを「猫の説法」と名づけたものです。こんな一世紀と経たない内にコロコロ変わってしまう教えが、三世十方を貫く教えなわけがないでしょう。

ちなみに先ほどは第二十願の勧めと言いましたが、これは「与えて言えば」の話です。映画には「絶対の幸福」という幻想的な楽、現世利益が強調されていたそうですから、「奪って言えば」本願と無関係な高森教の勧めです。浄土往生を付け足して浄土真宗に見せかけているだけで、実態は浄土真宗とはかけ離れた邪偽の宗教の勧めに過ぎません。

親鸞会と無関係な一般の方には、この映画は親鸞会へ導入するだけの映画に過ぎないことを注意して頂くと共に、会員の皆さんは、せっかく高額な財施をしても真宗の肝要も歎異抄の真意も何も無い映画を造っただけの親鸞会、高森会長に見切りをつける機縁として頂きたいと思います。

因果の道理を信じよと言いながら少しも信じていない高森顕徹会長と愉快な仲間達

親鸞会では因果の道理、因果の道理とうるさい割に、流転輪廻の因果についてはまるで無知です。苦しみの根源は「死んだらどうなるか判らぬ心」などと言い、この心が流転輪廻の因であるように騙っています。

昨日の記事でも述べた通り、仏教では衆生の流転輪廻の因果を詳しく教えられています。昨日は『往生要集』を引いて紹介しましたが、飛雲さんの記事にあるように曇鸞大師も親鸞聖人も教えられています。生老病死、流転輪廻という苦果の因、つまり苦しみの根源は煩悩にあるわけです。

ただ、後の述べるように、その煩悩を障りなく救う阿弥陀仏の本願力が成就していながら、それを疑って受け容れないために我々は生死にとどまると教えられます。だからその本願を疑う心、すなわち疑情が流転輪廻の因と説かれるという一面もあるのです。

因果の道理は宇宙の真理、因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても判るものではない

などと言っていますが、そうやって話している本人達がまったく因果を理解していないことが伺えます。


一方、「死んだらどうなるか判らぬ心」を問題にしながら後生は「一切衆生必堕無間」だとか教え、助かる道は親鸞会に入って高森先生から親鸞聖人の教えを真剣に聞き、信心決定するしかないと入会を勧めています。尤も、現在は勧め方は昔に比べて和らいだと思われますが、それにしても、人それぞれ業が異なるのに、一緒くたに「必堕無間」とは暴論にも程があります。

一切衆生必堕無間」の根拠は、全ての人が五逆・謗法・闡提であるからだというのですが、そのような教説はどこにもありません。『御文章』2帖目2通

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

の一文を断章取義し、殊更に強調してそのように言っているだけです。そのことは繰り返し述べて来ましたし、他ブログでも数多くのエントリーで取り扱われています。所詮、因果の道理は死後の恐怖心を煽り、善の勧めに利用しているだけで、因果の道理を信じよと言いながら少しも信じていないことはこれだけでも明らかです。


流転輪廻の因は、貪瞋痴に代表される108の煩悩です。これによって迷いの世界を限りなく輪廻して苦悩から離れられないと教えるのが仏教です。ですから、この根本無明である煩悩を断ち切って解脱を得る、成仏して涅槃の境地に至る、そして仏の大悲心の必然として衆生済度することが仏教の目的なわけです。聖道門といっても浄土門といっても、その方法に違いがあるだけで、究極の目的は同じです。

この世の幸不幸は当面の問題とされていません。我々に日々やってくる様々な果報は、今までの善悪の業の報いであって表面上の結果に過ぎないからです。私達はつい目先の幸不幸に一喜一憂し、浮かんだり沈んだりしていますが、この世を明るく楽しく幸福に生きることが目的なのではありません。この世の幸福云々を超えた出離、成仏、衆生済度を目的とする教え、それが仏教なのです。

親鸞会では「難度海」を「苦しみ悩みの絶えない人生の海」だとか、その人生の海を明るく楽しく渡す大船が「難思の弘誓」(阿弥陀仏の本願)だとかと、随分と仏教、真宗を矮小化したことを言いますが、彼らが言うところの苦しみや幸福などはハナから問題にしていないのです。勿論、そのように教えることが仏教、真宗を聞くきっかけにはなるかも知れませんが、それに終始するばかりでは仏教が目指す崇高な目的も判らないでしょうし、阿弥陀仏の本願が如何に素晴らしいかも理解できないでしょう。


それで、仏教徒はこの根本無明である煩悩を断ち切ってさとりを得、仏陀の境地に安住して自在に自利利他すべく、古来より戒定慧の三学を修めてきました。かつては、浄土仏教といっても修行環境のよい浄土で修行を完遂しようとして往生を目指すというもので、基本的には仏の加被力を受けながらも自力で断惑し、証果を得るという聖道門の補助的手段としての浄土教に過ぎませんでした。

ところが私達は果てしない過去から今日に至るまで、煩悩が激しく燃え盛っていてそれを断ち切ることはおろか、減らすことすらできません。また、真実清浄なる浄土に往生するにふさわしい真実清浄なる心も、仏様の仰せをまことと受け容れる心も、真実清浄なる回向心も持ち合わせていませんし、これからも自力ではそのような心を起こすことができません。それで阿弥陀仏はその体が真実心であるような信楽を与えて救おうと、私達に恵み与えることを第一として全ての功徳が円かに具わって衆生の煩悩を障りなく救いたもう、思い計ることも、讃え尽くすことも、説き尽くすこともできない至徳(その体は本願の名号)を成就されました。

これが私達にとってはこの上なく有難いことです。何せ、私達の煩悩を問題とせずに救うというのです。それが尽十方無碍光如来という名のりなのです。煩悩を何とかせい、悪業を何とかせい、浄土にふさわしい善業を修めてこい、ということなら、とりわけ淳心房のような煩悩が駄々洩れてそれを如何ともできずにいる者は救いの対象外です。ようこのような本願をお建てになり、その本願成就して私まで届いて下さったものでございます、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

このように、十方衆生の煩悩を障りなく救いたもう本願力は成就して、すでに私達まで届いているのですが、当の本人がそれを疑ってまことと受け容れない限りは救いが成立しません。本願を疑って受け容れない者には、それは無いのと同じだからです。本願は成就して寸分の狂いもなくはたらいているのに、その本願を疑う心があるから救いにあずかることができないのです。それで結果として生死にとどまるとして、『正信偈』には

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。


と教えられています。これと同様のことが『高僧和讃』

(109)真の知識にあふことは
    かたきがなかになほかたし
    流転輪廻のきはなきは
    疑情のさはりにしくぞなき


にありますが、流転輪廻の際なきは「疑情」のためであると讃詠されているのはそのためです。しかし、だからといってこの「疑情」が「死んだらどうなるか判らぬ心」などとはどこにも教えられていません。

本願を疑っているから後生が暗い

などというのは高森会長のこじつけ解釈であり、そんな説明はどこにもありません。その証拠に、「疑情」が無くなったら後生が明るくなる、我々の側でハッキリ判るようになるとは教えられていません。


六道輪廻やそれにまつわる因果については仏説として説かれているのですから、それをまことと受け容れることが仏法者としてあるべきですがたであり、いたずらに「死んだらどうなるか判らぬ心」にこだわってそれを問題にしているというのは仏様に対してまことに失礼なことです。と言いますか、仏教徒以前の問題でしょう。

いや、因果の道理を信じるどころか、それを撥無する「一切衆生必堕無間」という脅しの教義を説き、それを信じているのですから、高森会長と愉快な仲間達は謗法罪の連中でした。であれば教義通り「必堕無間」は当然の報いです。会員の皆さんは一刻も早くこのような邪義から離れ、今までの愚行を深く懺悔して、本願他力の教えに帰入して下さい。

高森顕徹会長の記念講演(降誕会)の内容を勝手に予想してみました

明日、明後日に行われる予定の高森顕徹会長の記念講演(降誕会)の演題は、

「真宗の極致」について ―これが「なぜ生きる」の答えです―

だそうです。案内チラシを見てみると、100万部突破だとか30万部だとか著書の発行部数を強調し、リンク先の記事に書かれているように

公式サイトでは「親鸞聖人のご生誕をお祝いして」とありますが、会員でない人に向けてのチラシには「親鸞聖人」も「降誕会」もありません。かろうじて書いてあるのが会場名の「浄土真宗親鸞会館」のみです。

という体たらくです。今回も土日合わせて正味せいぜい3時間程度の講演で、まともな真宗教義を話すつもりはないでしょうが、せっかくなので私なりに「高森顕徹先生記念講演」とやらの内容を勝手に予想してみました。


まず、演題の出拠としておそらく、

いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とする『改邪鈔』

の部分のみは出してくるでしょう。次に、「人生の目的」「なぜ生きる」と絡めて、「その答えが浄土真宗に説かれている、それは苦しみ悩みの絶えない人生の海を明るく楽しく渡す大船に乗ることだ」、などと話すでしょうね。総序の文乗大悲願船の文、「生死の苦海ほとりなし」の御和讃は出てくる可能性が高いです。話の流れで「絶対の幸福」だとかいう創価学会の信心も出てくるかもしれません。

もつぱら自力をすてて他力に帰する」についてきちんと説明はせず、せいぜい「他力」を阿弥陀仏の本願力だと説明して、阿弥陀仏のお力で大船に乗せて頂くと話す程度でしょう。それには「聞く一つ」だと蓮如上人の言葉か何かを出し、次も来て下さい的なことをほのめかして終わりか、といったところだと思われます。


会員の皆さんは、おそらく5万円ほどのお布施を納めて今回も富山に集まることでしょう。しかし高森会長の目的は、皆さんや皆さんの勧誘の成果で集まった方々に信心獲得してもらうことではなく、次も来てもらうこと、会員となって組織拡大に貢献してもらうことです。「三願転入の教え」を説いて、19願の「修諸功徳」や『観経』の定散二善、七仏通戒偈等を根拠に「雑行」を勧めているのは、「自力」を勧めている何よりの証拠です。

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。「信文類」横超釈

【現代語訳】
また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。「化身土文類」正助雑釈

【現代語訳】
雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

雑行」を勧めるということは、イコール「横出」の教えを勧める、「漸教」を勧める、自力方便の教えを勧める、方便化土を勧めるということです。こんな教えは浄土真宗にはありません。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。『末灯鈔』2通

とあるように「余の善根」を勧め、「自力」を勧めているのが親鸞会ですから、

いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とする『改邪鈔』

というお言葉とは完全に真逆です。ちなみに自力をすてるために自力一杯励めなどと教えられた釈尊、七高僧のお言葉は勿論、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉はありません。浄土真宗の上にない「珍らしき法」を説いて会員や有縁の大衆を騙し続けているのが高森顕徹会長です。

今回、せっかくの土日を苦労して、お金をかけて富山へ聞きに行ったところで、わが往生のためには何の役にも立たない話を聞かされるだけです。毎度毎度それに付き合う会員の皆さんは、哀れ哀れです。


さて、記事の冒頭に示した『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』の記事には、当ブログでコメント拒否設定中のルパン氏が執拗に書き込みを続けています。私が彼のコメントを拒否する設定にしたのは

親鸞聖人が19願を勧められた根拠

を提示せず、それでいて的外れな根拠ばかり出して、後は高森教に自分の味わいを加えただけの邪義を延々垂れ流すだけだったからです。妄想のお花畑の中で何か呼び声らしきものを聞いたとしても、それは自分の妄想が自分にささやきかけただけの自己暗示であって、真実信心とは別物です。

そんなものを頑なに信じてこちらの話を聞こうとしない、親鸞聖人のお言葉を受け容れようとしない人をいくら相手にしても時間の無駄ですから、当ブログではコメントを拒否する設定にしたまでです。悔し紛れに宮田先生のブログのコメント欄で暴れ回っているようですが、相手にしてもらいたいならせめて

親鸞聖人が19願を勧められた根拠

くらいきちんと提示すべきです。もしそのような根拠があったら提示して下さい。尤も、過去のmixiの法論において親鸞会側が一箇所も根拠として提示できたものはありませんでしたので無理でしょうけど・・・。彼の妄想話に付き合って差し上げている優しい退会者の皆さんは、本当にお疲れ様です。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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