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善を悪のように言って避けさせ、一方で一部の者の私利私欲を満たすためだけの悪業悪行を善のように言ってやらせる親鸞会

親鸞会の教義は本当にいい加減であり、矛盾だらけです。

雑行を五雑行と諸善万行に分けるという独自の説もそうです。本当は、雑行に五雑行と諸善万行とがあるのではなく、布施・持戒等の無量の行を雑行と言い、その中の一例を五種の正行に対して五種の雑行で説明された、というだけです。

次に雑行は、すなはち文(同)に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。

第一に読誦雑行といふは、上の『観経』等の往生浄土の経を除きてのほかの大小乗顕密の諸経において受持し読誦するをことごとく読誦雑行と名づく。
第二に観察雑行といふは、上の極楽の依正を除きてのほかの大小、顕密、事理の観行をみなことごとく観察雑行と名づく。
第三に礼拝雑行といふは、上の弥陀を礼拝するを除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において礼拝恭敬するをことごとく礼拝雑行と名づく。
第四に称名雑行といふは、上の弥陀の名号を称するを除きてのほかの自余の一切の仏・菩薩等およびもろもろの世天等の名号を称するをことごとく称名雑行と名づく。
第五に讃歎供養雑行といふは、上の弥陀仏を除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において讃歎供養するをことごとく讃歎供養雑行と名づく。

このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。
『選択集』五雑行

ですから、読誦雑行、観察雑行、礼拝雑行、称名雑行、讃歎供養雑行、これらは諸善なんです。雑行と名づけられていますが、悪じゃないんです。善なんです。善い行いなんです。

親鸞会では、五雑行は悪のように言い触らして、会員に徹底的に避けさせます。阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神に仕えてはならないとし、初詣に神社に参ってはならないとか、浄土真宗以外の墓に参ってはならないとも学生時代に聞いてきました。

善をしなければならないなら、積極的に神社仏閣に参って仕えるべきだし、たとえ他宗の墓であっても墓参りは父母孝養の一つですからこれも積極的に行ってしかるべきですが、高森教は根本から間違っているのでそうしません。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。「化身土文類」雑行釈

で往生の因ではないからやってはならないというなら、

顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。三経隠顕問答 隠顕釈

同じく、定散二善、世戒行の三幅は報土の真因ではないからやってはならないということになります。親鸞会教義は完全に矛盾・破綻しています。


また、信後の諸善は御恩報謝になるというなら、信後はますます諸神・菩薩・諸仏に仕えてしかるべきでしょう。これらの本懐は念仏一行を勧めて往生を願わせることにあるのですから、その報恩感謝の気持ちを込めて観察し、礼拝し、称名し、讃嘆供養すべきです。繰り返しますが、雑行とついていますが五種の雑行は悪ではなく、間違いなく善です。ところが、そういう善行は全くしないのが親鸞会です。

それでいて諸仏・菩薩・諸神を軽んじています。これらでは助かる力が無いから仕えるな、すがるな、たのむな、あて力にするな、と言うばかりで、おかげさまで本願を信じ念仏する身にさせて頂きましたと会員に感謝の気持ちを持たせることすらしないのです。尤も、会員が本願を信じ念仏する身になっていないので仕方ありませんが、信後の諸善が御恩報謝なら、同じく信後の五雑行も御恩報謝です。


善、善とうるさい割に同じく善である五雑行は悪の如く扱い、主に善と言って勧めているのは

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
・親鸞会に財施すること
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


等の善もどきの善、悪業悪行、「高森の行」であるのが親鸞会です。また、高森顕徹会長を始め一部の幹部や講師部員は、とても廃悪修善を実践しているとは言い難いものがあります。教義面に絞っても、

・「親鸞会教義の誤り」への反論を依頼した特専部員を除名する。
・反論もしないのに、「これが親鸞聖人の正しい教えだ」と主張し、間違った教えを弘め続ける。「誤りを犯さないことを誇りとするよりも 誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」ではなかったのか。
・大沼氏や伊藤氏から盗作しておきながら、あたかも自分が書いたものであるかのように振る舞う。
・意図的な断章をした御文を教学聖典に用い、会員に親鸞会ドグマを浸透させる。
・根拠が存在しなかったり、根拠が間違った御文を教学聖典に掲載し続ける。
・法論すれば相手の主張を歪曲し、相手があきれて論戦放棄すると、勝手に勝利宣言。
・過去の法論では頑なに自説を曲げなかったのに、後になってしれっとそれまでの主張を修正してくる。若不生者の「生」の解釈が典型例。㈱チューリップ企画と田中一憲の法論はまさに勝他のための議論。
『飛雲』との公開法論に応じないまま8年以上経過。


等々、教えを説く者としての誠実さはカケラもありません。とにかく善がしたくない、善をするのが嫌なようです。教義面でこの有様であり、そんな教えを説いているのが高森顕徹会長ですからその下は推して知るべしです。不倫疑惑、セクハラ、万引き、偽装勧誘、偽装ベストセラー、詐欺サイトの運営、挙げればキリがありません。とにかくやり放題。親鸞聖人の教えを悪人製造の教えにしているのは他ならぬ親鸞会です。これでは獲信・往生は勿論、善果も来るはずがありません。たとえ一旦善果に恵まれたとしても、その後の果報は自分が受けねばなりません。

善を悪のように言って避けさせ、一方で一部の者の私利私欲を満たすためだけの悪業悪行を善のように言ってやらせる親鸞会は、本当に許し難いです。
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西山浄土宗の開会のような理論で善を勧めるが、実態は倫理道徳の善すらまともにやっているとは言い難い高森顕徹会長と愉快な仲間達

法然聖人が説かれた浄土の教えは、それぞれお弟子方に引き継がれ、その後様々に分派してゆきます。現在では大きく分ければ浄土宗、浄土真宗、時宗ですが、浄土宗と呼ばれる宗派でも、

日本において浄土宗の家々をたてて西山・鎮西・九品・長楽寺とて、そのほかあまたにわかれたり。2帖目15通

と蓮如上人の時代には数多に分かれ、その浄土宗から西山派証空上人の孫弟子に当たる一遍上人が時宗を立てて分派しています。浄土真宗も法然聖人の弟子である親鸞聖人を開祖として分派していますが、更に門徒集団によっても性格が異なり、今では真宗十派と呼ばれるように様々に枝分かれしています。

浄土を願い、念仏を称えて往生するという大筋のところではどの宗派も同じですが、細かく見ていくと教義は浄土宗、浄土真宗、時宗では所々異なり、更に浄土宗、浄土真宗、時宗の各派内でも、共通する所もあれば違う所もあるといった状況です。

今は浄土真宗を一つとして扱っていきますが、この浄土真宗と非常に似ている宗派が西山浄土宗です。例えば鎮西浄土宗では全分他力を否定しますが、西山派では真宗と同様に全分他力を説きます。また、『御文章』に度々出てくる機法一体の語は証空上人が出処とされ()、更に称名報恩義もあります。

ただただ念佛を称えるのではなく、往生できることを信じ、それに感謝してお念仏を称えるのです。
このように安心が得られたからには、歓喜と報恩の心が自然に沸き起こって日々の生活に念仏が喜ばれ、口に称えるばかりではなく、動作の中に、言葉の中に、心の中にも念佛が実践されて、生活全体が念佛の現れとなります。
『瑞林山 長善寺』浄土宗西山禅林寺派の教えより)


本当にパッと見、素人目ではどこが違うのか分からない位、両者はよく似ています。

そのような西山派と真宗ですが、教義的違いの一つに定散諸善と念仏の関係が挙げられます。親鸞聖人は定散諸善と念仏を廃立の関係で見られていますが、証空上人は開会の関係でこれを見られています。→開会

西山義によれば、三心具足の上には三業起行の諸善は正行であり、念仏に開会されて、往生の因となると教えられています。自力の執心さえなくなれば諸行即念仏と開会され、定散諸善はそのまま他力念仏の一法に帰するというのです。

観門(定散二善の十六観門)領解以前には諸行は雑行と捨てられたが、弘願に帰すれは諸行は悉く念仏に帰し往生の因となる、弘願に帰すれば諸行は悉く善の体として念仏に開会されて往生の因となり、往生を得る、というのが証空上人における諸行と念仏の領解のようです。


さてこれ以上詳しいことは他に譲りますが、親鸞会はこうした西山浄土宗の回し者かと思わせるのが、信後の諸善の位置づけについてです。親鸞会では、

「雑行」も「諸善」も、その行体は変わりませんが、
「往生の役に立てようとする自力の心でやる諸善」は「雑行」と嫌われ「捨てよ」
と言われます。

その自力の心が、他力の心に切り替えられて、広大な仏恩に感泣し動かされる諸善は、報恩行となるのでしょう。

同じ諸善が、自力の信心でやるか、他力の信心かで、雑行ともなり報恩行ともなるのではありませんか。
『親鸞会.NET』「雑行を捨てよ」の真意(8)より)


「自力の心」さえ廃れば、「諸善」は「雑行」とも言われず、捨て物でもなく、「御恩報謝の行」となり、身を粉に骨砕きてもの、恩徳讃の活動になるのだ。
(『顕真』2011年6月号 『飛雲』『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り24より)


等とあるように、信前は心がけが悪いから諸善は雑行と嫌われ捨てよと言われるが、信後は御恩報謝の行となると教えています。自力が廃る以前は諸善は雑行と捨てられたが、自力の心さえ無くなれば諸善は御恩報謝と開会する、とでも言わんばかりの主張です。以前に林遊さんが

お前らは西山派の「開廃会」の論理かよ

ツッコミを下さいましたが、親鸞聖人においては開会の理論はありません。信前の諸善は勿論、信後の諸善は御恩報謝の行だからやりなさいと諸善を勧められた根拠はありません。親鸞聖人においては

念仏1つ、獲信に善は不要

この通りであり、造悪に対する誡めはありますが、善をせよ、廃悪修善に励めとの勧めはありません。あるのは真実信心で念仏せよとの勧めのみです。


なお、浄土真宗では自力の心の無い、世俗の善は勧められています。蓮如上人は、

外には仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし3帖目11通

まづほかには王法を本とし、諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、また諸宗・諸法を謗ぜず、国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、かぎりある年貢所当をつぶさに沙汰をいたし、そのほか仁義をもつて本とし3帖目13通

と、生活規範として儒教に説く五種の倫理徳目を守り、その国その国の支配者・統治者が定めた法律を第一とせよという言い方で門徒衆を教導しています。往生・獲信とは無関係に倫理道徳の善を勧め、国の法を守りなさい、諸神・諸仏・菩薩を軽しめることがないように、諸宗・諸法を誹謗しないように、守護・地頭に向かってはぞんざいな振舞をせず、年貢をきちんと納めなさい、というのです。

その一方で、仏教で説かれる諸善は勧められていません。「諸善」「諸行」「万行」「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「廃悪修善」などという名目で善を勧められていないです。仏教で説かれる諸善は、聖道門では成仏を、浄土門では往生を目指して修める修行徳目であり、浄土往生を目指してやる善は「雑行」であるからです。そう、仏教で説かれる諸善は浄土真宗では「雑行」なのです。ですから、

親鸞会がもし本気で善を勧めたいのであれば、蓮如上人と同様に、儒教の善(仁・義・礼・智・信)を勧めるでしょう。


親鸞聖人、蓮如上人の教えられた通りに話をするつもりが少しでもあるならば、

・三願転入の教え
・宿善論
・善をしなければ信仰が進まない
・微塵の善もできないものと知らされるまで善に励まなければならない


などの「自力の心」を捨てて、法律を守り、親兄弟子供を喜ばせ、職場や学校の関係者から好かれるような言動をしなさい、ボランティアに積極的に参加しましょう、と言えばいいのです。


親鸞会は仮にも親鸞聖人の教えと言うならば飛雲さんが言われている通りにすべきです。しかし、

これらは言葉では勧めていても、実際には”後生の一大事のためには、世間事を犠牲にしてでも”と倫理道徳の善を反故にする”悪の勧め”となっているのです。


盗作・浄財の私的流用・不倫・万引き・惨敗法論の捏造改竄等を平気で行っている


これが偽らざる親鸞会の本当の姿です。親鸞会で言う「善」とは、ほぼ「親鸞会に都合がよいこと」という意味なので、実態は多くが「組織拡大のための悪業悪行」です。西山浄土宗の開会のような理論で善を勧めるが、実態は倫理道徳の善すらまともにやっているとは言い難い、というのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。こんな体たらくで本願寺や退会者に楯突いているのですから、お笑いを通り越して失笑ものです。

多くのブログを荒らし続け、詐欺サイトを運営している(いた)異星の教祖も同様です。信前は宿善を厚くするために善をせよ、信後は御恩報謝のために善をせよと善の勧めまつりですが、やっていることがいることなのでちっとも説得力がありません。彼には、まず法律を遵守し、倫理道徳に反したことを止めるところから始めることを勧めます。しかし、日本語が分からないし、改める気も毛頭無いので、いくら言っても暖簾に腕押しでしょうが。

ちなみにルパン火星人金星人からのメールはありません。飛雲さんなど、他の方々へも同じでしょう。それでいて脱会ブログ等に陰口を叩いているありさまです。まるで学校裏サイトで気に入らない先生や生徒の悪口を書き連ねている中学生のようで、いい大人があさましいにも程があります。言葉の上では善を勧めていても、実際やっていることは悪ばかりです。本当に、あさましあさまし。



【参照】
『WikiArc』開廃会
『同』定散二善と念仏
『同』法然聖人の他力思想
証空の念仏観 ―念仏開会について―

一代八万の教益に漏るる所の障重根鈍の機を摂するは、念仏の一行なり

親鸞聖人は念仏の法と八万四千の法門について真実と方便の関係で語られています。親鸞会では方便について、我々が真実を体得(18願の救いにあずかること)するのに絶対必要だと教え、19願を方便願と教えられたのをいいことにしきりと善の勧めをしています。しかし、

『飛雲』『なぜ生きる2』の出版から7年ー7

に言われているように、

仏教各宗では通常他宗を非難する時に、あの経は方便だから真実のこの経を信ずればよい、と言って、自分の宗の正統性を主張し、方便≒不要という意味で使われます。


というのが現実です。例えば平安時代に起こった天台宗と法相宗による三一権実論争ではどちらが真実でどちらが方便かを諍っていますが、ここではおおよそ法の優劣を表す意味で「一乗が真実で三乗は方便だ、いや三乗が真実で一乗は方便だ」というように使われています。方便だから用いるということはしていませんし、また重んじるということもしていません。

天台宗では、釈迦一代の教えを三蔵、通、別、円の四教、華厳、阿含、方等、般若、法華涅槃の五時で表します。四教の中では円教が真実であり、五時の内、ただ第五時の法華をもって諸仏出世の本懐とし、これを円頓・円融の妙法と名づけます。法華以前の華厳、阿含、方等、般若の四味はみな、未熟の機を調育して、法華一実の機ならしめんがための方便であるというのです。ですから、三教四味の方便をさしおきます。

五時の中に、以前の四味はみな法華一実の機を調熟せんがための方便なりといひて、只一大円教のみ衆生出離の直道なりと談ずるをこの宗の大綱とするなり、しかれば、三教四味の方便をば、しばらくこれをさしおく。(『歩船鈔』浄土真宗聖典全書四 p.765)

方便だから用いるということはしていません。用いるどころか、さしおき、用いないのです。

真実と方便については、親鸞聖人もこれらと同様です。聖人は弥陀の本願を説かれた『大無量寿経』が釈尊出世の本懐であり真実の経、それ以外は、弥陀の本願まで導くための方便の経であるというような教え方をされています。方便の教えだからやらなければならない、やらなければ真実に入れないとは教えられていません。

第一方便の教えだからやらなければならないなら、親鸞聖人の上では聖道門も方便の位置づけですから聖道門の教えを学び、修行するところから始めなければならないでしょう。しかし親鸞会では、なぜか「聖道門は方便の教え」という時の方便は「通らなくていい」「やらなくていい」という意味で使い、「19願は方便願」という時の方便は「通らなければならない」「やらなければならない」という意味で使っています。完全に理論が破綻しており、矛盾撞着も甚だしいです。


ところで、法の優劣を競おうと真実、方便の語を用いますと、どうしても三一権実論争のように仏法者らしからぬ論争、諍論が起きてしまいます。存覚上人はそうした無用な諍いを避けるため、

これすなはち釈尊出世して八万四千の法門を説きたまふことは、三乗・五乗をして同く一実眞如の理性を覚せしめんがためなり。(『歩船鈔』浄土真宗聖典全書四 p.786)

と仰って、どの教えも一実真如の理性をさとるという目的に変わりは無く、おのおの機に相応した教えによって修行すれば解脱を得ることができるのだと教えられています。その上で、

しかるに根性利なる者は皆益を得しかども、鈍根無智の者は開悟し難きが故に、彼の劣機のために浄土の門を開て、仏の願力に乗じて浄土に生じ、浄土にして無生の悟りを得べしと示すなり。

修行能力に勝れた者は解脱を蒙るが、修行能力に乏しい鈍根無智の劣機はさとりを得ることができないので、そのような者のために釈尊は淨土門を開いて、仏願力に乗じて浄土に往生し、浄土でさとりを得る道を示されたのだというのです。では、浄土門の行とは何かといえば、

浄土門の意をもって云ふ時は、凡夫の身において聖道三乗の行を修せば証を取りがたき故に、その一代八万の教益に漏るる所の障重根鈍の機を摂するは、念仏の一行なりと見れば、この門本意なりと見るなり。

というように、「念仏の一行」です。勧められているのは定散の諸善ではなく、「念仏の一行」です。

三経の所説、みな念仏を先とし、往生の正因、ひとへに専修を本とす。その専修といふは、心を諸教の出離に係けず、念を念仏の一行に立して、只深く本願を信じ、一心に名号を称して、一念も疑心を交へざるなり。

信心が自力か他力かという問題はありますが、親鸞聖人の教えにおける行は「念仏の一行」なのです。それをわきまえずに諸善(実態は組織拡大のための悪業悪行)を勧める親鸞会やルパン君は浄土真宗とは似ても似つかない高森教、火星教です。


尤もルパン君は、高森会長に背いて諸善は雑行ではないなどとも言いふらすようになっており、高森教とも随分と乖離しております()。

この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。散善義

おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。「化身土文類」雑行釈

上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく『愚禿鈔』

というように、諸善=万行=諸行=雑行であり、その雑行は

「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。『尊号真像銘文』

なげすてさしおくべし」です。これは信前も信後も変わりません。信前は宿善になるからやれ、信後は御恩報謝だからやれなんてどこにも教えられていません。火星教はいい加減なことばかり、そらごとたわごとばかりでまことあることなしです。

しまいには諸善と雑行が違う根拠は一切経だとか、まるでこうへい氏を彷彿とさせる無知丸出しの主張をしています。高森教の成れの果てがこれだとは、あさましあさまし。

方便について独自の定義を加え、善の勧めを混ぜて親鸞聖人の教えを捻じ曲げ続ける高森会長とルパン火星人金星人

現代は時代が時代ですから、念仏する人を捕まえて暴力をふるったり、寺院や家屋を破却したり、聖教を没収して焼き払ったり、墓を暴いて遺骨を川へ捨てようとしたり、国家権力をもって念仏を禁制にしたり、念仏者を死刑・流刑に遭わせたりするようなことはないでしょう。

ところが、法然聖人・親鸞聖人の時代から覚如上人・存覚上人の時代も、蓮如上人の時代も、聖道諸宗による浄土宗及び念仏者への弾圧はひどいものでした。上述したことが平気で行われていたのです。

『選択本願念仏集』は、法然聖人在世当時は上足のお弟子にしか書写を許されなかった、言うなれば同士内の書物でした。それが、法然聖人入滅後に公開出版されてしまいます。そこから『選択集』を取り上げての教義的な批判がなされていったのです。

教義の中でとりわけ誤解されたのは、廃立についてです。特に、聖道門をさしおいて、雑行(諸善)をなげすてよと教えるところが、聖道諸宗からは謗法にしか思えなかったわけです。布施や持戒、忍辱や精進、禅定や智慧といった六度万行(六波羅蜜)、仏像を造り、塔寺を建てること、読経など、功徳があるとされ、善行であると認識されていたこれらの諸善万行をことごとく雑行と呼んで土くれのように捨てしめることは、仏教の破壊、謗法であるとしか取られなかったのでした。このような廃立と謗法の混同が、浄土宗攻撃の元にあったのです。

法然聖人の『選択集』の教えは、とにかくハッキリしています。何せ釈尊があらゆる経に説かれている諸善を捨てて、称名念仏一行を専らにせよというのです。それを聞いた彼らは、

・釈迦一代の善の勧めは無駄であったと言うのか
・どうして様々な勝行を投げ捨てて最も浅劣な称名念仏一行と言うのか
・何のために釈尊は諸善万行を説いて勧められたのか


浄土宗の教義についてこう思ったでしょう。親鸞会やルパン君は聖道諸宗と一部似た思想ですね。


それで、法然聖人は分かりやすく廃立で教えて下さったのですが、親鸞聖人は度重なる聖道諸宗からの非難に、念仏とそれ以外の釈迦一代の教え(八万四千の法門)の関係について、廃立の色を薄め、真実と方便という位置づけで教えられたのです。

例えば、『選択集』では

問ひていはく、もししからば、なんがゆゑぞただちに本願の念仏の行を説かず、煩はしく本願にあらざる定散諸善を説くや。
答へていはく、本願念仏の行は、『双巻経』(大経)のなかに委しくすでにこれを説く。ゆゑにかさねて説かざるのみ。
また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。(中略)ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。


定散二善が説かれた理由について、念仏の功徳利益が他の諸善に超過して勝れていることを顕すためである、定散二善は廃するために説き、念仏は立てるために説いたのだという廃立の説き方です。

ただこれだと念仏者同士ならいいですが、無宿善の機(浄土の法門を聞くのに縁が熟していない人)、特に聖道の教えを信じている人にとっては教法を誹謗しているようにしか受け取れません。

そのように受け取る者を想定しているのでしょう。であるから親鸞聖人は、

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

と教えられているのです。釈迦一代の教えは無駄なものでも無益なものでもなく、本願一乗の法、念仏の教えに導くための方便の教説であったというのです。「化身土文類」に、19願、20願、聖道門は真実18願の他力念仏往生の法門に導き入れるための方便の教説であると位置づけられているのも同様です。謗法と受け取られることを避け、かつ念仏の法の真実なることが示されています。


さて、親鸞聖人入滅後も、真宗は法華宗徒との問答等、聖道門との諍いが続いていきます。存覚上人は

一代の諸教まちまちにわかれて、諸宗の所談各別なり。別なりといへども帰するところの極理は一致なり。いづれも生死をはなれて涅槃を証し、まどひをひるがへしてさとりをうべきがゆへなり。求那蹴摩三蔵の遺文の偈をみるに、「諸論をのをの異端なれども、修行するに理ふたつなし。偏執すれは是非あり、達するものは異諍なし」といへり。まことに智解ありて、仏法の大意に通達せむ人、偏執あるべからず。しかれども機根万差なるがゆへに仏教また万別なり。各々有縁の教によりて修行せばすみやかに解脱をうべきなり。そのなかに四家の大乗といふは、法相・三論・華厳・天台なり。このほかに真言・倶舎・成実・律宗をくはへて八宗とす。また仏心宗をくはへて九宗とす。また浄土宗をくはへて十宗といふへし。これ日本に流布せる宗なり。これらの諸宗みな一仏の所説よりいでて、ことごとく元上菩提にいたるべき門なり。(歩船鈔)

と、釈迦一代の諸教にいずれも利益のあることを明記し、その上で聖道の諸教は像末・法滅の衆生には時機不相応の教えであって、本願念仏の教えこそ末代下根の我々が救われる教えであると結論しています。ここでも、謗法と取られることを極力避けながら、なおかつ念仏の教えのみが時機相応の法であり真実であることを訴えるという巧みな説き方がなされています。

それを承けて蓮如上人も、

当流のなかにおいて、諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。いづれも釈迦一代の説教なれば、如説に修行せばその益あるべし。さりながら末代われらごときの在家止住の身は、聖道諸宗の教におよばねば、それをわがたのまず信ぜぬばかりなり。2帖目3通

それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。3帖目2通

と、聖道諸宗の教えは法そのものは仏説だから殊勝であり利益のあることを認めつつ、末代の我らには相応しない教えだからたのまぬ信ぜぬばかりであり、弥陀如来の他力真実信心、弥陀如来の他力本願を説いて「もろもろの雑行をすてて専修専念一向一心に弥陀に帰命する」ことを勧められています。


親鸞聖人も、覚如上人も、存覚上人も、蓮如上人も、往生には念仏一つで、諸善の勧めはありません。念仏と諸善について、廃立の色を薄めて真実と方便の関係で教えられたとは言え、諸善をやらなければ助からない、助かるところまで進めない、ということではないのです。それを方便について独自の定義を加えて、さもやらなければならないように教えているのが高森会長と愉快な仲間達です。

既に浄土を願い、報土往生を目指している我々に、方便の教説を聞いて実践せよと教えられているわけではありません。親鸞聖人の勧めはあくまで

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

とあるように18願の法門であり、「ただ弥陀を称せよ」ということのみです。

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない


この通りです。善の勧めを主張するなら、親鸞聖人が獲信・往生のために善を勧められた根拠を出すことです。どれだけ理屈をこねても根拠が無ければ真宗ではなく、高森教、火星教です。尤も、親鸞聖人の教えをかくの如く捻じ曲げ、法論から逃げ続け、約束の一つも果たせず、片や盗作、片や詐欺と倫理道徳の善も行わない輩がいくら善、善と叫ぼうが塵ほどの説得力もありませんがね。



【参照】
『用管窺天記』従仮入真
存覚撰「歩船紗』における聖道門理解

念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり

本日は主に存覚上人『持名鈔』を中心に書いていきます。

先日紹介したように、仏教は八万四千の法門と呼ばれ、実に多くの教えがあります。

仏道においてさまざまの門あり。いはゆる顕教・密教、大乗・小乗、権教・実教、経家・論家、その部八宗・九宗にわかれ、その義千差万別なり。

それらはいずれも釈迦一代の仏説ですから、如説に修行すれば生死を出離し、成仏得道することはさらさら疑いないことです。

いづれも釈迦一仏の説なれば、利益みな甚深なり。説のごとく行ぜばともに生死を出づべし、教のごとく修せばことごとく菩提を得べし。

では、どうして釈尊は八万四千の法門とも言われる多くの教えを説かれたのでしょうか。

薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。

それは医者が病人の病に応じて薬を与えるように、その人その人に相応した法を与えられたからです。仏教が対機説法、応病与薬と言われるのはそのためです。では、如来はどのような人を相手に、どのような法を与えられたのでしょうか。

上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。

『勅修御伝』
口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすすめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。

このように、仏道を修める能力のすぐれた上根、善人には諸行、つまり諸善を授け、仏道修行の能力・素質が乏しい下根、悪人には念仏を勧められました。善人と悪人で与えられた法、勧められる行が違うので、善人に勧められたものは善人のための教えであり、悪人に勧められたものは私のための教えであると見よ、というのです。

特に、今時は釈尊を遠く離れた末法の世であり、機は下根になっていますから、聖道の修行を成就して仏果を得ることは甚だ難しいことです。

ただし、時末法におよび、機下根になりて、かの諸行においては、その行成就して仏果をえんことはなはだ難し。いはゆる釈尊の滅後において、正像末の三時あり。そのうち正法千年のあひだは教・行・証の三つともに具足しき、像法千年のあひだは教行ありといへども証果のひとなし、末法万年のあひだは教のみありて行証はなし。今の世はすなはち末法のはじめなれば、ただ諸宗の教門はあれども、まことに行をたて証をうるひとはまれなるべし。されば智慧をみがきて煩悩を断ぜんこともかなひがたく、こころをしづめて禅定を修せんこともありがたし。

聖道の諸教は釈尊在世及び正法のための法であり、像法、末法、法滅の時とその人々のためのものではありません。すでにそれは時代に合わず、人々の資質に背くものです。

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。「化身土文類」聖浄二道判

では、末世に生きる我々下根の機は、どのようにして生死を出離したらよいのでしょうか。

ここに念仏往生の一門は末代相応の要法、決定往生の正因なり。

念仏往生の法門は末代の我々に相応した要法であり、この一門は決定往生の正因であるというのです。その念仏往生の法門について、また二つの教えがあります。

この門にとりて、また専修・雑修の二門あり。

専修の門とは、

専修といふは、ただ弥陀一仏の悲願に帰し、ひとすぢに称名念仏の一行をつとめて他事をまじへざるなり。

ただ弥陀一仏の大悲願力にまかせ、ひとすじに称名念仏の一行をつとめて他の行をまじえないことです。それに対して雑修の門とは、

雑修といふは、おなじく念仏を申せども、かねて他の仏・菩薩をも念じ、また余の一切の行業をもくはふるなり。

専修の者と同じように念仏を申すけれども、兼ねて阿弥陀仏以外の仏や菩薩を念じ、また称名念仏以外の一切の諸善を修めることです。このうち、どちらが決定往生の業かと言うと、

このふたつのなかには、専修をもつて決定往生の業とす。

専修が決定往生の業だというのです。なぜなら、

そのゆゑは弥陀の本願の行なるがゆゑに、釈尊付属の法なるがゆゑに、諸仏証誠の行なるがゆゑなり。

称名念仏の一行は弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった往生の行であるからです。

おほよそ阿弥陀如来は三世の諸仏の本師なれば、久遠実成の古仏にてましませども、衆生の往生を決定せんがために、しばらく法蔵比丘となのりて、その正覚を成じたまへり。かの五劫思惟のむかし、凡夫往生のたねをえらび定められしとき、布施・持戒・忍辱・精進等のもろもろのわづらはしき行をばえらびすてて、称名念仏の一行をもつてその本願としたまひき。「念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ」と誓ひたまひしに、その願すでに成就して、成仏よりこのかたいまに十劫なり。 如来の正覚すでに成じたまへり、衆生の往生なんぞ疑はんや。これによりて釈尊はこの法をえらびて阿難に付属し、諸仏は舌をのべてこれを証誠したまへり。かるがゆゑに一向に名号を称するひとは、二尊の御こころにかなひ、諸仏の本意に順ずるがゆゑに往生決定なり。

阿弥陀仏は法蔵菩薩であられた時、凡夫往生のたねを、親鸞会の大好きな六度万行を「布施・持戒・忍辱・精進等のもろもろのわづらはしき行」と選び捨てて、称名念仏の一行を本願の行と選び取られました。存覚上人は本願を「念仏の行者もし往生せずは、われも正覚を取らじ」という誓いであると言われ、その願すでに成就して、如来の正覚はもう成っておられる、どうして衆生の往生を疑うだろうか、というのです。これによって釈尊は念仏の法を選んで阿難に付属し、諸仏は念仏の法を証誠しておられます。このようなことですから、一向に名号を称する者は、釈迦弥陀二尊の御心にかない、諸仏の本意に順うから往生決定である、と教えられています。

諸行はしからず。弥陀選択の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらざるがゆゑなり。

それに対して諸行、諸善はそうではありません。諸善は弥陀の本願ではなく、釈尊が付属されなかった教え、諸仏の証誠がない法だからです。


親鸞会の教えはひいき目に見て「余の一切の行業をもくはふる雑修の門、実態は組織拡大のための悪業悪行を勧める新興宗教です。諸善さえ弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなわないのですから、悪業悪行は言うまでもありません。会員に獲信者が皆無同然と言っていいほどいないのは当然です。

悪人に善を勧めることは、肛門に目薬と同じことです。足を骨折している人の手にテーピング、ギブスを施すようなもの、頭痛の患者に整腸薬を施すようなものです。

譬えを換えると、足が萎えて歩行が困難な人に遠き道を歩いて行け、泳ぎが苦手な人に日本から海を泳いでアメリカまで行け、と言っているようなものです。歩いて(泳いで)行かなくても、車や電車、船や飛行機という手段であれば、目的地まで着くことができます。どうしても歩いて(泳いで)行きたい人を止めはしませんが、目的地まで着くのに無理に歩いたり泳いだりする必要はありません。

親鸞会は、病気に合わない治療法を施すやぶ医者のようです。また、歩いて(泳いで)目的地までたどり着けない自分であると知るために歩け(泳げ)、そうしなければ車や電車(船や飛行機)に乗ることはできない、と無理に歩行や水泳を勧める頓珍漢のようです。

ただねがふべきは西方の浄土、行ずべきは念仏の一行なり。

善知識はこのように教えています。あとはこの念仏往生の法門を信ずるか、高森教を信ずるか、です。




【参照】
『飛雲』高森顕徹流詭弁「極重の悪人に善を勧められているのは、善のできない者と知らせるため」

真仮廃立について、何が廃で何が立か、『なぜ生きる』『なぜ生きる2』を何度も読めば自ずと分かると言って明言を避け、真実報土の往生を勧める気がない高森顕徹会長

1月3日の親鸞会初聞法会は予想通りビデオ法話でした。情報によりますと、2018年1月3日の初聞法会の講演記録を配信したようです。内容の一部については

『「無条件の救いだったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く』のだと救いに条件を付け、ありもしない道程を設けてそこを通そうとする高森顕徹会長

にて紹介していますので参照して下さい。

最近は、地方ごとに施主を決めてビデオ法話を開催するというのがブームのようです。例えば昨年では11月8日は関西京都滋賀の会員が、12月6日は真生会富山病院他が、12月20日は関東の会員が、今回は中国四国九州沖縄の会員が施主といった具合です。ただのビデオ配信に、どうして施主を設ける必要があるのか分かりません。施主は2000畳で聴聞できるとしても生の高森会長の講演を聞けるわけではないのに、です。より高額なお布施を要求するという以外に設ける意味が見出せない制度です。


ところで、初聞法会の前々日、元旦には高森会長が講師部員向けにzoomで話をしたそうです。元旦に行事を予定していた支部もあったようですが、急遽取り止めになったのはそういう事情だそうです。

zoomで話すことができる位なら、初聞法会も本人がライブで講演できたのではないかと私も思います。立って話をするのが難しいなら、座談会形式にして座って話をすればできるはずです。それをそうしないのは、現状では高森会長が何をしゃべりだすか分からないから、それ位に高森会長がおかしくなってしまっているからではないかと私は踏んでいます。

その証拠になるか分かりませんが、zoomでは高森会長は

真仮廃立について、何が廃で何が立か、『なぜ生きる』『なぜ生きる2』を何度も読めば自ずと分かる

などと言っていたそうです。なんじゃそりゃ、という内容です。

『なぜ生きる2』は手元に無いので分かりませんが、『なぜ生きる』では

真・・・なぜ生きる=人生の目的
仮・・・どう生きる=生きる手段(生きがいや趣味、目標)
(p.348参照)

と書かれています。では、生きる手段を廃して人生の目的を立てるというのかと言えば違います。

如来広大の恩徳に生かされ、生命の大歓喜を得た一念に、”人身受け難し、今すでに受く”の「人生の目的」が知らされる。同時に、生きがいや趣味、目標は、この「目的」を果たす「手段」であった、とハッキリするのである。(p.348)

とありますから、生きる手段は廃するのではなく、人生の目的を果たすまで必要な手段であるから決して捨ててはならない、どころかどうしても必要なもの、ということになります。

おおよそ『なぜ生きる2』にしても、

真・・・18願
仮・・・19願、20願


ということになるでしょうが、19願、20願は廃するのではなく、18願の世界へ転入するまで必要な方便であるから決して捨ててはならない、どころかどうしても必要なもの、ということになります。結局、何が廃で何が立か、全く分かりません。こうして高森会長の話を聞いてみると、

高森先生は正しい、それを理解できない自分は間違い

という間違った観念、思い込み無くして受け入れがたい内容であることが分かります。


そこで、教に昏くして真仮の門戸を知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達に何が廃で何が立かを教えてあげます。それは親鸞聖人の書かれた『顕浄土真実教行証文類』を読めば分かります。

『顕浄土真実教行証文類』はその題号の通り、浄土に往生する真実の教行証を明らかにした書物です。と同時に、そこには方便の教行証があるということです。まず真実、真については、

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。
「行文類」偈前序説

と示されている通りです。難思議往生は必至滅度の願(第十一願)、報仏・報土は光明無量の願(第十二願)・寿命無量の願(第十三願)ですから真とは真実五願のことです。これは第十八願の念仏往生の法義の内容を開示したものですから、すなわち第十八願のことです。

次に方便、仮については、

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。「化身土文類」総釈

とあって、その後に第十九願、第二十願が示されています。また、その後に

まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。「化身土文類」聖浄二道判

とも示されていますから、聖道門も方便、仮に含まれることが分かります。そのことは、

真の仏弟子(散善義 四五七)といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。
(中略)
仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
「信文類」真仏弟子釈

によっても明らかです。ですから、

真・・・18願
仮・・・19願、20願


は言葉だけで言えば正解です。それで、何が廃で何が立かと言えば、

廃・・・19願、20願
立・・・18願


ということです。すなわち、

定散二善を廃して念仏一行を立てよ、自力定散心を廃して他力真実信心を立てよ

ということです。ところが親鸞会教義では、19願、20願は18願の世界に転入するまで必要不可欠なものであるとして、特に19願の修諸功徳の行、定散二善を廃せよとは絶対に言いません。このため、何が廃で何が立か、会員はチンプンカンプンです。せいぜい、縦の線の一念では廃するが、横の線の道を進む上では廃してはならない、という理解でしょう。「真仮を知らざる」とはまさにこのことです。これで会員が獲信も往生もあったものではありません。


(20願を含めて)19願は方便、仮であり、その行信による果は辺地・胎生・懈慢界の往生です。それは

『三経往生文類』観経往生
観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。

『末灯鈔』1通
浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。

などによっても明らかです。親鸞聖人の上には、19願を実践せよ、定散二善を修めよ、などという根拠は一つもありません。19願の実践、定散二善を勧めるということは、会員に方便化土の往生を勧めるのと同じです。高森会長には、真実報土の往生を勧める気がこれっぽっちもありません。

方便だからやらなければならないとマインドコントロールされている会員の皆さんは、哀れ哀れです。

謹賀新年(2021年)

この度も何とかこうして新年の挨拶をすることができました。本年も宜しくお願い致します。


昨年は色々あって目標に掲げたことをあまり達成できませんでした。ブログ関係はぼろぼろだったし、子供達にご法義を聞かせることも難しかったです。でも、正信偈は拝読しているし、お念仏を称え聞いているので、全く何もできなかったわけではありませんでした。

それと去年は、少しずつ浄土真宗聖典全書の相伝編を拝読していました。読み進めていく内に、色々と見えてきたことがあります。やはり、概ね以前から自分が読んでいた通りでした。

浄土真宗は念仏往生の法義の真髄を明らかにされた教えであること、往生のために念仏が勧められてきたこと、真宗と他宗の違いが信心正因称名報恩であること、信心正因の信心は本願の信心・念仏の信心であること、称名報恩は信後の称名は報恩と心得て一生涯相続せよということ等々、色々分かってきました。全く収穫の無い年では無かったです。


浄土真宗では少しでも念仏を強調すると、あたかも称名正因の異義であるように疑われ、決めつけられてしまいます。今でこそ異安心扱いする人は少ないですが、どうやら七里恒順和上も村田静照和上も、ご在世当時はそうだったようです。いわゆる信因称報派が主流だからでしょうか。

しかし、往生のために諸善を勧めるのは間違いですが、往生のために念仏を勧めないのもまた親鸞聖人の仰せに違えます。このことを弁えずに信心ばかりを強調し、称名は往生の因ではないだとか、称名を報謝とのみ解釈することは、『教行証文類』を始めとした多くの親鸞聖人の著作に反すると言わざるを得ません。

ただ、蓮如上人の『御文章』では信前は表立って念仏の勧めは無く、名号六字のいわれをよく知ることを勧められており、信後の称名は報恩ということで一貫しています。この教え方の違いはどうしてなのか、疑問に思う方も少なくないと思います。

まだまだ知識が不足してますが、これからも勉強を進めて、それを基に今年は念仏の教えがどのように伝わってきたか、教え方がどのように変化してきたか、なぜ変化したかなどを考察していきたいと思っています。


それと共に、親鸞会教義の誤りも事あるごとに書いていきたいと思います。高森会長が壇上に立たなくなり、衰退の一途を辿る親鸞会ですが、これだけ高森会長の正体や教義の誤りが晒されても未だ多くの会員が邪義に染まっています。そういう人達に少しでも親鸞会の邪義を知って頂き、そして本願を信じ念仏を申して報土往生の一大事を遂げられるよう、その些細なきっかけにでもなればと思って綴っていく予定です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

かの二大士の重願、ただ一仏名を専念するにたれり

親鸞会では、『御伝鈔』第三段 六角夢想の御文の一部はよく知られています。というのも、この段の最初は六角堂の救世観音の夢告についてであり、中盤には

そもそもまた大師聖人[源空]もし流刑に処せられたまはずは、われまた配所におもむかんや。もしわれ配所におもむかずんば、なにによりてか辺鄙の群類を化せん。これなほ師教の恩致なり。

の文があり、最後の方には

今の行者、錯りて脇士に事ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし

のお言葉があります。夢告の内容は『こんなことが知りたい③』p.91~p.95に、挙げた二つの御文は『教学聖典』にそれぞれ載っているからです。


ところが、断章取義により覚如上人が何を伝えんとされているのか知っている会員は少ないでしょう。

ここでは、聖徳太子は観音菩薩の垂迹、法然聖人は勢至菩薩の化身であることを示し、これら観音勢至のお導きに順ってこの親鸞は阿弥陀仏の本願を弘めているのである、ということを聖人が仰ったと伝えられています。

儲君(聖徳太子)もし厚恩を施したまはずは、凡愚いかでか弘誓にあふことを得ん。救世菩薩はすなはち儲君の本地なれば、垂迹興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。

大師聖人すなはち勢至の化身、太子また観音の垂迹なり。このゆゑにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の本願をひろむるにあり。真宗これによりて興じ、念仏これによりてさかんなり。


そして、この二菩薩の願いは、ただ南無阿弥陀仏の名号を専念するということ一つであり、我々は誤って脇士である観音勢至に仕えるようなことがあってはならない、直ちに本仏である阿弥陀仏を仰ぐべきである、と教えられているのです。

かの二大士の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。今の行者、錯りて脇士に事ふることなかれ、ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし

このような教説の背景には、観音勢至が何か特別な力をもって我々にご利益を与えて下さるだろうなどというような愚かな考えを抱いて、それらを信仰するような人々があったからであろうと思われます。

観音菩薩は阿弥陀仏の慈悲を、勢至菩薩は阿弥陀仏の智慧を表す菩薩ですから、この二菩薩の勧めは、私達に本仏である阿弥陀仏の名号を専念させること、つまり称名念仏に尽きるということが分かります。すなわち、阿弥陀仏、その慈悲と智慧を表す観音勢至、更にその垂迹である聖徳太子、法然聖人の勧めは称名念仏の一行であり、それを親鸞聖人は私の考えを差し挟まず、全く聖衆方の教誨通りこれを教え勧めているのであると覚如上人が仰っているのです。


このような大切な教えを示さず、ただ阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神に仕えるのは雑行だと言うばかりで、布施や持戒等の無量の諸善も往生行としては雑行であることを示さない高森会長・親鸞会には、会員に往生・獲信させる気が無いのです。

雑行は、すなはち文(同)に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。
(中略)
このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし。
『選択集』二行章 五雑行

親鸞会の大好きな布施も雑行です。後生の一大事の解決のためと言って財施や布教を勧めることは雑行を勧めることに他なりません。だから会員は雑行(実態は雑行でもない悪業悪行)まみれです。建前は雑行を捨てよと教えていても、こんな体たらくで雑行が廃るはずがありません。

善導大師は、始めは専修正行を捨てて雑行を修める者は百人の内希に一人二人、千人の内希に五人三人が浄土に往くと教えられています。

もし専を捨てて雑業を修せんと欲するものは、百の時に希に一二を得、千の時に希に五三を得。

しかし後には、雑行の者は千人の内一人も浄土に往生できない、というのです。

雑を修して心を至さざるものは、千がなかに一もなし。

ですから法然聖人は、二行章を締めくくるにあたって次のように仰っています。

わたくしにいはく、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量せよ。

阿弥陀仏はただ称名念仏の一行を往生の行として本願を発されているのですから、それに背いて雑行(実態は悪業悪行)を修めているのは阿弥陀仏の本願に背くばかりでなく、脇士の観音勢至の重願にも違し、法然親鸞両聖人の教勧にも反しているのです。


尤も、親鸞会も最近は少し教義を修正してきており、

念仏を称えるな、とか、称えなくてもよい、といことではない

というようなことを新聞や顕真に書いていますが、相変わらず雑行の勧めを止めませんから、親鸞会はひいき目に見て正行雑行兼行です。専修正行、専修念仏ではありません。こんな団体が浄土真宗の宗名を冠するにふさわしいのかどうか、そんな教えを聞いていて救われるのかどうか、

行者よくこれを思量せよ。

のお言葉の通り、会員の皆さんはよくよく考えて下さい。

佛法の聽聞耳にふれしいはれによりて、朝夕のひまには和讚・聖教にこゝろをかけ、そのいはれを人にもくはしくあひたづね、つゐに信心決定の身となりて

蓮如上人は家庭苦の多い方でした。六歳の時に実母と生別し、その後継母の如円に育てられましたが、

然ば、御母儀の一段なさけなくあたりまいらせられけるとぞ傳うけたまはる。實子の圓光院應玄を御執事御寵愛にて、是を御住持にと、連々内證に思食たりし間、萬事蓮如上人の御方をばひつめまいらせられける。朝夕の事も萬御不辨に限なかりけり。(『蓮如上人仰條々連々聞書』(86)、『浄土真宗聖典全書第五巻』ではp.800)

とあるように如円は実子の応玄を可愛がり、実子でない蓮如上人にはひときわ薄情に接したようです。かくして継母いじめに遭うばかりでなく、当時の本願寺は困窮を極め、

召仕はるゝ人は一人もなし。御衣裳は紙子布子、白御子袖は只一、それも裏は紙にて、袖口計を絹の不思議なるうすきしけ絹にてさせられてぞめされける。又はこぶくめなんど云物ならでは御所持もなし。御息は皆所々へ里やしなひにておはしけり。
(中略)
御汁御一人の分まいりたりしに、湯水を入のべて、一度入れ共足らざれば、又入々ありければ、只水の如くなるを、御汁としてきこしめす、言語道斷のあさましき物をきこしめす。加樣のしたてなる人、今の世にいづくにかあるべき。
(同、『浄土真宗聖典全書第五巻』ではp.801)

とあるように、衣食も困り果て、子供を他所へ喝喰や養子に出さねばならないほどでした。

また、本願寺八代目の留守職継承を巡っては先の如円が応玄を擁立するなど対立がみられます。叔父の如乗の主張により留守職は蓮如上人に継承されますが、その就任裁定に対して、応玄と如円は怒りの余り本願寺財物を持ち出したと伝えられています。

それだけではなく、最初の内室如了は蓮如上人四十一歳の時に入寂、第二室の蓮祐尼(如了の妹)は文明二年(1470年)に入寂、第三室の如勝尼は文明十年(1478年)に三十一歳で命終、第四室の宗如は文明十六年(1484年、あるいは文明十八年(1486年)とも)に命終しています。このようにご内室を四人も亡くされ、長男の順如、長女の如慶、次女の見玉、五女の妙意、八女の了忍は蓮如上人在世中に若く幼くして亡くなっています。

ご自身にこのようなことがあり、また世情は1461年に中世最大の飢饉といわれる寛正の大飢饉があり、四帖目九通にあるような疫病の流行、1477年には応仁の乱、延暦寺衆徒の大谷本願寺破却事件や寛正の法難と、飢饉、疫病、戦乱、法難に荒れ果てたご時世でした。


ここではとても書き切れませんが、こうした時代背景、ご家庭の事情などにより、御文章には親鸞聖人の著作と違って無常を訴える内容が多く見られます。そして、亡き人を縁として無上菩提の信心を獲得して往生極楽を遂げるよう勧められています。この記事では次女の見玉尼が往生したことをしたためた御文を紹介しましたが、文明十年九月十七日の蓮如上人の御文には、第三夫人の如勝尼が往生したことが書かれています。

それ人間を觀ずるに、有爲无常はたれの人かのがるべき、ただ一生は夢幻のごとし。まことに人間は壽命は、老はまづ死しわかきはのちに死せば、順次の道理にあひかなふべきに、老少不定のさかひなれば、ただあだなるは人間の生なり。

(中略)

しかるに彼如勝禪尼の由來をたづぬるに、天下一亂について牢人の身なりけるが、辭の緣にひかれて不思議に先世の約束もありけるか、かりそめながらこの五、六年の間、京・田舎隨逐せしめ、なにとなくなじみしたしみてまた年月のつもりにや、佛法の聽聞耳にふれしいはれによりて、朝夕のひまには和讚・聖教にこゝろをかけ、そのいはれを人にもくはしくあひたづね、つゐに信心決定の身となりて、あまさへ人の不信なることをなげき、ことには老母のありけるを、なにとしてもわが信心のごとくなさばやなんど、をりをり物語しけり。

(中略)

さればこれにつけても女人の身は、いまこのあへなさあはれさをまことに善知識とおもひなして、不信心の人々はすみやかに无常菩提の信心をとりて、一佛淨土の來緣をむすばんとおもはん人々は、今世・後世の往生極樂の得分ともなりはんべるべきものなり。穴賢、穴賢。南无阿彌陀佛、南无阿彌陀佛。
   于時文明十年九月十七日
(『浄土真宗聖典全書第五巻』p.375~p.377)

普通は、誰か身内が亡くなればそれを嘆き悲しんで、その後に葬式を済ませ、四十九日法要や年忌法要を営んで亡者を偲ぶのが常ですが、蓮如上人は

いまこのあへなさあはれさをまことに善知識とおもひなして

と、無上菩提をさとる良き因縁にしなさいと教えられています。これこそ、嘆き悲しみを嘆き悲しみのままで終わらせない、ありし人の死を決して無駄にしない、最上の教導であると思います。

いつまで生きておれると思っているのか。いつまで死を他人事だと思っているのか。ただ毎日をいたずらに明かし暮らして今生を空しく終わるようでは、人間に生まれた所詮がないではないか。今生こそ、流転輪廻の絆を断ち切って真実報土の往生を遂げ、真如法性のさとりを得て永遠に迷いを離れなさい。このようなお達しなのではないかと思います。

先日、私の義弟の奥さんが急死しました。年齢は私とさほど変わりません。三年前に結婚式に呼ばれ、「夫婦力を合わせて、明るい家庭を築いて下さい」と祝福したのに、早や逝ってしまいました。上人のお言葉が胸に突き刺さります。


親鸞会会員の皆さんは、いつまで生きているつもりなのか知りませんが、因果の道理を深信せよ、真実の自己を知れ、後生の一大事に驚け、そのために廃悪修善せよ、献金せよ、勧誘せよ、本会・上司の指示に無条件で従え、という真宗とは似ても似つかない教義をいくら盲信しても詮無いことです。

真実浄土の往生の行は称名念仏一行であり、その信心は「必ず浄土に迎えて仏にするから、安心して我にまかせよ」という阿弥陀仏の仰せを計らいをまじえずに受け容れたことです。この法はすでに成就して私に回向されていますから、今この法を聞いて、今報土の真因決定するのです。親鸞会の教えは、例するに遠き道を自分の力で尋ね進んで行くという類のものですから、自力の教えの範疇です。しかも、今助かりません。今助からないということは、永遠に助からない、死ぬまで求道ということです。

高森会長が表に出てこなくなって久しいです。もうじき映像のみの存在となるでしょう。そうしますとまた色々なごたごたがあり、それに巻き込まれるであろうことは想像に難くありません。今こそ会員の皆さんは、平生業成のはずなのに一向に助からないことにもっと疑問を持って、教えの真偽を検証して下さい。そして、親鸞会の邪義を捨てて真宗念仏の行者となり、真実信心を獲て往生極楽を遂げる身となって頂きたいと思います。



【余談】
この御文にも、如勝という個人名を挙げて「○○は信心決定した」という内容が書かれています。

つゐに信心決定の身となりて

親鸞会のうそっこは、決定的です。

【参照及び参考文献】
『WikiDharma』如勝
『Wikipedia』蓮如
稲城選恵『浄土真宗の再興』p.60~67

かの比丘尼見玉房は、不思議の宿緣にひかれて、ちかごろは當流の信心のこゝろをえたり

随分前の話ですが、親鸞会では機相・信相に関する独自のプリントを配って、

善知識方は「○○は信心獲得していた」「△△は信心決定していると思う」など、個人名を挙げて「信・不信」を仰ってはいない。だから我々も他人の「信・不信」を言うべきではない。

という旨の話をしていました。なぜこんな話をしたかというと、高森会長の出身母体である浄土真宗華光会を暗に非難するためです。当時親鸞会では疑問をもって華光会等に流れていく会員が続出したため、現会員の囲い込みを謀ったのでしょう。またこれは私の憶測ですが、相次ぐ講師部員の離反等から親鸞会を高森会長を中心とする組織に再度まとめ上げる必要に迫られたから、親鸞会では信心決定したと喜ぶ人が皆無同然だから、という理由も考えられます。

これについては既に

『飛雲』私は『末灯鈔』を読んだことがありません、と高森会長が告白

に指摘されているように

『善知識方は「○○は信心獲得していた」「△△は信心決定していると思う」など、個人名を挙げて「信・不信」を仰ってはいない』というのは誤り

であり、それどころかこの件は逆に高森会長の聖教に対する無知を晒す結果になりました。


『飛雲』に挙がっている根拠でもう十分なのですが、最近『帖外御文』を読んでいて興味深い内容を発見しましたのでここに紹介しておきます。少々長いですが、引用します。なお、原文は改行無しですが、ここでは読みやすさを考えて所々行を空けています。

靜に惟ば、其、人の性は名によるとまふしはんべるも、まことにさぞとおもひしられたり。しかれば今度往生せし亡者の名を見玉といへるは、玉をみるとよむなり。さればいかなる玉ぞといへば、眞如法性の妙理、如意寶珠をみるといへるこゝろなり。

これによりてかの比丘尼見玉房は、もとは禪宗の渇食なりしが、なかごろは淨華院の門徒となるといへども、不思議の宿緣にひかれて、ちかごろは當流の信心のこゝろをえたり。

そのいはれは、去ぬる文明第二 十二月五日に伯母にてありしもの死去せしを、ふかくなげきおもふところに、うちつづき、またあくるおなじき文明第三 二月六日にあねにてありしものおなじく臨終す。ひとかたならぬなげきによりて、その身もやまひつきてやすからぬ體なり。つゐにそのなげきのつもりにや、やまひとなりけるが、それよりして違例の氣なをりえずして、當年五月十日より病の床にふして、首尾九十四日にあたりて往生す。されば病中のあひだにをいてまふすことは、年來淨華院流の安心のかたをふりすてゝ、當流の安心決定せしむるよしをまふしいだしてよろこぶことかぎりなし。

ことに臨終より一日ばかりさきには、なをなを安心決定せしむねをまふし、また看病人の數日のほねをりなんどをねんごろにまふし、そのほか平生におもひしことどもをことごとくまふしいだして、つゐに八月十四日の辰のをはりに、頭北面西にふして往生をとげにけり。されば看病人もまたたれやのひとまでも、さりともおもひしいろのみえつるに、かぎりあるいのちなれば、ちからなくて无常の風にさそはれて、加樣にむなしくなりぬれば、いまさらのやうにおもひて、いかなるひとまでも感淚をもよほさぬひとなかりけり。まことにもてこの亡者は宿善開發の機ともいひつべし。かゝる不思議の彌陀如來の本願の強緣にあひたてまつりしゆへにや、この北國地にくだりて往生をとげしいはれによりて、數萬人のとぶらひをえたるは、ただごとともおぼへはんべらざりしことなり。

それについて、こゝにあるひとの不思議の夢想を八月十五日の荼毗の夜あかつきがたに感ぜしことあり。そのゆめにいはく、所詮葬送の庭にをいてむなしきけぶりとなりし白骨のなかより三本の靑蓮華出生す。その花のなかより一寸ばかりの金ほとけひかりをはなちていづとみる。さていくほどもなくして蝶となりてうせにけるとみるほどに、やがて夢さめおはりぬ。これすなはち見玉といへる名の眞如法性の玉をあらはせるすがたなり。蝶となりてうせぬとみゆるは、そのたましゐ蝶となりて、法性のそら極樂世界涅槃のみやこへまひりぬるといへるこゝろなりと、不審もなくしられたり。

これによりて當山に葬所をかの亡者往生せしによりてひらけしことも不思議なり。ことに荼毗のまへには雨ふりつれども、そのときはそらはれて月もさやけくして、紫雲たなびき月輪にうつりて五色なりと、ひとあまねくこれをみる。まことにこの亡者にをいて往生極樂をとげし一定の瑞相をひとにしからしむるかとおぼへはんべるものなり。しかればこの比丘尼見玉、このたびの往生をもてみなみなまことに善知識とおもひて、一切の男女にいたるまで一念歸命の信心を決定して、佛恩報盡のためには念佛まふしたまはば、かならずしも一佛淨土の來緣となるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

   文明五 八月廿二日書之


かの比丘尼見玉房」とは、蓮如上人の次女にあたる方です。稲城選恵著『開かれた信心と閉じられた信心』によると、当時の本願寺は、京都を中心に全国的に勢力があった浄土宗一条流の浄華院(清浄華院)と関係があったそうです。蓮如上人の最初の内室如円尼は伊勢貞親の伊勢家の出身といわれ、この伊勢家の菩提寺が浄華院であり、見玉尼等は特にこの寺院で得度しているとのことです。

この御文の中に

不思議の宿緣にひかれて、ちかごろは當流の信心のこゝろをえたり
年來淨華院流の安心のかたをふりすてゝ、當流の安心決定せしむるよしをまふしいだしてよろこぶことかぎりなし
ことに臨終より一日ばかりさきには、なをなを安心決定せしむねをまふし
まことにもてこの亡者は宿善開發の機ともいひつべし


等々、「見玉房は信心決定した」ということが書かれています。それだけでなく、

當年五月十日より病の床にふして、首尾九十四日にあたりて往生す

と具体的に年月日時を出して、見玉房はその病中に信心決定したことを告白しているというのです。

これまで批判ブログに挙がってきた根拠は「往生」という表現であったり、あるいは『御一代記聞書』(72)

一 蓮如上人仰せられ候ふ。堺の日向屋は三十万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。大和の了妙は帷一つをも着かね候へども、このたび仏に成るべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。

『御伝鈔』熊野霊告

平太郎なにがしといふ庶民あり。聖人の訓を信じて、もつぱらふたごころなかりき。

にある「仏に成る」「ふたごころなかりき」という表現でした。『御伝鈔』のお言葉はかつて二千畳で会員の質問として取り上げられ、その時高森会長は

親鸞聖人に対して『ふたごころなかりき』とも取れる

などと説明して逃げていた記憶があります。しかし、この御文では「當流の信心のこゝろをえたり」「當流の安心決定せしむるよし」「安心決定せしむね」とありますから決定的です。

このように高森会長のその場その場の詭弁、言い逃れなど、聖教に照らせばことごとく間違いであることが分かります。会員の皆さんには、これを通して親鸞会教義などいかにいい加減でデタラメなのかを知って頂き、早く親鸞会の邪義をふりすてて当流の信心のこころをえ、この度の往生極楽を遂げて頂きたいと思います。



【補足】
この問題に関しては拙ブログ

【ツッコミ】善知識方の語られなかったこと

でも取り上げています。また、『飛雲』で飛雲さんのコメントにあるように、私も

親鸞会の言っている
「個人名を挙げて「信・不信」を仰ったという記録はどこにも見当たらない」
のおかしさを指摘しただけです。それ以上の意味はありません


という立場です。信心は善知識が認定するものではありません。信心とは、本願を疑いなく受け容れたことです。この点をご了承頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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