「1億円の融資」から推測される、高森顕徹会長の深い欲望

親鸞会では「難度海を度する大船」「大悲の願船」という言葉を頻繁に使用し、アニメでも実写化して見せています。それはさながら鰹節を削ったようなボートだと揶揄されていることはご存じかと思います。

アニメ映画『なぜ生きる』を見た聴衆(会員?)が

「私も(大船に)乗せてもらえるのかしら?」

と声にしているそうですが、これは阿弥陀仏の本願に対する疑いの声なのだそうです。しかし、初めて見たような人ならともかく、何十年と聞いている人に対しても疑いを除かせないようにしているとは、高森会長の罪の深さが知らされます。本願を信じ念仏すれば仏に成る、煎じ詰めればこれだけの話を、やれ宿善を求めよ、やれ六度万行だ、やれ廃悪修善だ、やれ19願だ、やれ三願転入だとどれだけ真宗と無関係な教義を説いて会員の獲信・往生を妨げているのでしょうか? 本願に対する疑いの例え話として、先日の講師部講義では

ある銀行が「すべての日本人に対して1億円融資します」と広告を出した。「銀行は私に貸してくれるだろうか?」と思うのは、その広告を知らないか、その広告を疑っているから

と説明したそうですが、「融資」というのが面白いですね。実に高森顕徹会長らしい例えです。

融資」とは当然「借金」のことですが、そう言えば入会の際に下付される親鸞会版の携帯用正御本尊は「贈与」ではなく「貸与」です。一時的には与えるが、後で取り返す気まんまんというわけです。親鸞聖人の教えは「本願力回向」、一方的に与える教えなのですが、高森顕徹会長は「回向」「回施」「布施」という言葉の意味すら知らないのでしょう。入会金5万円と引き換えに安物のコラージュ本尊を貸し与え、形だけでも仏凡一体にしてやったんだから有難く思えとでも言いたいのでしょうか。そして私のものになったのではありませんから、家族に引き継がせることもできません。親鸞聖人は

ときに祖師の仰せにいはく、「本尊・聖教は衆生利益の方便なり、わたくしに凡夫自専すべきにあらず。いかでかたやすく世間の財宝なんどのやうにせめかへしたてまつるべきや。釈親鸞といふ自名のりたるを、〈法師にくければ袈裟さへ〉の風情に、いかなる山野にもすぐさぬ聖教をすてたてまつるべきにや。たとひしかりといふとも親鸞まつたくいたむところにあらず、すべからくよろこぶべきにたれり。そのゆゑはかの聖教をすてたてまつるところの有情蠢々の類にいたるまで、かれにすくはれたてまつりて苦海の沈没をまぬかるべし。ゆめゆめこの義あるべからざることなり」と仰せごとありけり。(外邪鈔)

と、離れてゆく弟子に与えた本尊・聖教を取り返そうとしなかったのに、これが

なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ(御一代記聞書159)

と根拠も出して説いている者の姿なのでしょうか。形だけでも仏凡一体にしてやったんだから(貸与)、その恩を感じて、これから本当の仏凡一体の身になりたければ高森先生への報恩(返済)をしなさいとでも言いたげです。以前に高森会長は「二千畳は無上甚深の功徳の宝を取引をするところ」とか宣ってたらしいですから、無上甚深の功徳の宝と引き換えに金銭、財産、労働力を捧げよということなのでしょう。それでいて無上甚深の功徳の宝は正しく説き与えず、捧げ物だけ頂くという、高森顕徹会長の深い欲望が感じられます。


無上甚深の功徳の宝である南無阿弥陀仏は、そのいわれをよくお聞きすることで私と一つになると教えられます。果てしなく迷いを重ね、しかもそれを自分ではどうすることも出来ない私を哀れに思召して、「我一人助けん」と五劫永劫の願行を成就され、なんまんだぶとなって既に私の元へ届いているその名号を、計らいや先入観を交えたり、我が胸に持ち替えたりせずにそのまま聞き受け念仏のみです。念仏とは私の口で「なんまんだぶ」と称える行為だとしか思えないかもしれませんが、念仏とは阿弥陀仏より回向せられる選択本願の大行でありますから、正しく往生が決定する行業なのであります。阿弥陀仏が「なんまんだぶ」せよと仰っている、その仏願に順ずるから称名を正定業というのです。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔12)

「名号を称える者を極楽へ迎える」という本願の誓いを深く信じて念仏するのが、阿弥陀仏のお心にかなうことなのです。救いを匂わせ、現世利益をちらつかせて聞く者を釣り、己の深い欲望の実現に会員を利用するだけして信心を獲させない高森顕徹会長のやり方は実に卑怯で許されるものではありません。

さてさて開山聖人(親鸞)の御流を申しみだすことのあさましさよ、にくさよと仰せられ候ひて、御歯をくひしめられて、さて切りきざみてもあくかよあくかよと仰せられ候ふと[云々]。仏法を申しみだすものをば、一段あさましきぞ(御一代記聞書241)

蓮如上人のこのお言葉は、高森顕徹会長の言動に対して言われているように思えてなりません。会員の皆様には、どうかこのような開山聖人の御流を申しみだすあさましい新興宗教の会長から離れて、本願念仏の教えに帰依して頂きたいと思います。
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「信楽」とは信心であって幸福感ではない

日曜日の講師部講義で高森会長が面白いことを話していたことは

『飛雲』「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

にある通りです。相も変わらずアニメ映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉

「聞く一つで、大船に乗せる」ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです

について話をしたらしく、阿弥陀仏は「十方衆生を相手に信楽の身にしてみせる」と、何とかの一つ覚えで18願を話していたようですが、今回は

信楽は「絶対の幸福」

と説明したそうです。『飛雲』”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”から見る絶対の幸福にある通りで、最近の親鸞会はやたらと絶対の幸福を強調しています。変わらない幸福になれると、幻想的な楽をちらつかせて新規会員を獲得する気なのでしょうが、阿弥陀仏の本願がどのようなものが全く分かっていないところから生じる妄言です

まず「信楽」ということについてですが、本願の三心の一つで、仏願の生起本末を聞いて疑いない心です。これは自分で起こす信心ではなく、阿弥陀仏より回向せられる信心ですから「本願力回向の信心」と言われます。要は他力の信心、真実の信心であって、幸福感ではないことに注意して下さい。『教行証文類』では

信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。(信文類)

「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。

とあります。往生が決定した喜びに満ち溢れた心であることは確かですが、あくまで本願力にお遇いできた、遇い難い教えに遇えた、間違いなく仏に成ることが定まったことへの「慶喜」です。親や伴侶、子供と死別しても、また交通事故を起こして人をひき殺してしまっても喜んでいるとかいう「狂喜」ではありません。そして大事なのは「疑蓋無雑」、本願に対して疑いが雑じることがないという点です。ですから『尊号真像銘文』では

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。

と「疑蓋無雑」の点に絞って教えられています。本願が真実であることを、二心なく深く信じて疑いないことが「信楽」であるというのです。なので、世俗的な幸福を「相対の幸福」と呼び、「相対の幸福」と比較しての「絶対の幸福」「変わらない幸福」というのとは違うのです。おそらく会員の皆さんが「絶対の幸福」「変わらない幸福」と聞いて思い浮かべるのは、今まで味わった最高の幸福感以上の幸福感がずっと続くというようなことだと思われますが、先ほど申し上げたように「信楽」とは信心であって幸福感ではないのです。

生きていれば良い事もあれば悪い事もあります。「生まれてよかった」と喜べる時もあれば「死んだ方がマシだ」と深く沈む時もあります。我々の身口意の三業でやること言うこと思うこと、その全ては煩悩であり、煩悩は信前信後通じて変わらないのですから、幸福感は有ったり無かったり、大きくなったり萎んだり、常に一定ではありません。そんなもの、信前も信後も一緒です。幸福感は我々の心が感じるもの、すなわち煩悩であり、心はコロコロ変わり通しなのですから、一定のままずっと続くわけがないのです。

ただ、幸福感に満ち溢れている時でも、逆に何もかもが辛く嫌になって自殺したい気持ちでいっぱいの時でも、本願を疑う心は無いというのが「信楽」です。凡夫自力の心とは一線を画しています。

このようなことですから、世の無常や自己の罪悪を観じ、迷いを離れて永生の楽果を得たいというのであれば、「絶対の幸福」「変わらない幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めるのはやめることです。「絶対の幸福」「変わらない幸福」などというのは、蓮如上人のお言葉で言えば「五十年百年のうちのたのしみ」「栄耀栄華」の範疇を出ません。

ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべき(1帖目11通)

であります。そして、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽することです。

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。(中略)
他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。 (中略)
本願の念仏を信楽するありさまをあらはせるには、「行住座臥を簡ばず、時処諸縁をきらはず」(意)と仰せられたり。
(親鸞聖人御消息)

19願も20願も、廃悪修善の実践も、宿善を求めることも要りません。ただ本願の念仏、南無阿弥陀仏を信楽するのみです。それは、小賢しい凡夫の計らいを交えずに、ただ願力にまかせることです。

往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにても候はず。めでたき智者もはからふべきことにも候はず。大小の聖人だにも、ともかくもはからはで、ただ願力にまかせてこそおはしますことにて候へ。ましておのおののやうにおはしますひとびとは、ただこのちかひありときき、南無阿弥陀仏にあひまゐらせたまふこそ、ありがたくめでたく候ふ御果報にては候ふなれ。とかくはからはせたまふこと、ゆめゆめ候ふべからず。(親鸞聖人御消息)

南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)の仰せをそのまま聞き受け、仰せの通りにただ願力にまかせて往生を丸投げしてしまうのです。いかにも他人まかせのように聞こえますがその通りです。後生、往生ほどの一大事、自分の力で何とかなりますか? 何とかなれるという人は聖道門に行って自力修行によって迷いを離れるでしょう。しかし、龍樹菩薩や天親菩薩といった像法の時の智人も念仏の法に帰依しているというのですから、我が身の程を思えば尚更念仏の法しかないでしょう。

幻想的な楽、現世利益をちらつかせて、会員から多くのお布施を出させ、新規会員を多く獲得するのが「よき講師部員」。また少しでも多くお布施し、会員獲得に尽力すればその分だけ横の道を進めるだろう、やらないよりはやった方がいいだろうと思っているのが「会員」。そうではないでしょうか? 多少違いはありますが、

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もつてのほか相違す。そのゆゑは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、これを信心のひとといへり。これおほきなるあやまりなり。また弟子は坊主にものをだにもおほくまゐらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことは疑なし。なげきてもなほあまりあり、かなしみてもなほふかくかなしむべし。(1帖目11通)

の坊主と門徒の関係は、親鸞会と会員の図式と非常によく似ています。要るのかどうかよく分からないハコモノをまた建てることに疑問を持った方は、この際教えの真偽をよく検証してみましょう。

会員の皆さん、「シネマ学院」なる映画館は本当に必要ですか?

『飛雲』「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

にも少し触れられていますが、現在親鸞会では同朋の里に映画館を建設中で、

シネマ学院

とか命名したそうです。今年9月に竣工予定とのことです。


別に映画館なんか建てなくても、正本堂のスクリーンか何かに映して見りゃいいじゃんとか思いますが・・・

アニメ映画『なぜ生きる』は各地の公共施設で上映会が行われ、公共施設の上映がない所は1台4000万円のアニメバスで上映をしているそうで、今更親鸞会内だけの映画館が必要とは私も思えません。去年親鸞会版の吉崎御坊(リフォーム)を建てたと思ったら今度は専用映画館です。これにまた何億円とかかるのでしょう?

会員の皆さん、「シネマ学院」なる映画館は本当に必要ですか?

親鸞会会員の誤解―親鸞会でしか真実は説かれていない(3)

前回の続きです。「高森会長が話す人間のはかなさ、この世の無常などの話が正しいとしても、それが親鸞会教義全体が正しいという証拠になるか?」という問いを皆さんに投げかけていました。

中には薄々勘付いている会員さんもあるかと思いますが、答えは「証拠にはなりません」。

無常の話はあくまで無常の話であって、浄土真宗の教義体系とは別ものです。高森会長は無常などの世の真実を話した上で、時折り根拠を混ぜてもっともらしく教えを説くので、浄土真宗に疎い素人は騙されてしまうというわけです。

聖教の内容は読み誤りやすい。自己流に解釈するな。意味が判らなければ聞きなさい

という上からの指示も実に巧妙です。これによって会員は聖教の内容を自分で考えることをしなくなり、疑問に思うことがあっても質問したら大概丸め込まれてしまいます。その結果、親鸞会の邪義を存分に刷り込まれることになります。このように真実を一部取り入れた邪義を説いているため、その一部分の真実に惹かれて「正しい」と思ってしまうと、教義全体が正しいように錯覚、誤解、早合点してしまうのです。

この「一部分の真実」というのが、前回挙げた人間のはかなさ、命の短さ、この世の無常についてです。また『なぜ生きる』第一部にあるような、この世の幸せは続かないとか、欲を満たす喜び、仕事の喜び、愛する人との出会い、その他どのような趣味・生き甲斐・目標達成の喜びも、一時幸せでも続かないしキリがない、やがて老や病や死のために必ず崩れ去るといった話もそうです。他に、罪悪や煩悩に関しても正しい部分があります。こうした機の部分に関しては、邪義もあるものの概ね親鸞会で言われる通りと言っていいでしょう。

ところが、私達が阿弥陀仏に救われることに関して、すなわち救いの法という肝心かなめの部分については、勿論正しい解釈をしている所もありますが大部分は邪義だらけです。主要な教義に絞って見ましても、

・全ての人は死ねば必ず無間地獄に堕ちる
・全ての人は生まれながらにして五逆罪、謗法罪を造っている
・世の中に善人は一人もいない、全ての人は悪人である
・善をしなければ絶対に獲信できない
・白道は自力の求道心、信心
・19願の実践は必要
・定散二善や六度万行の実践は必要
・宿善の薄い者が、そのままで信心獲得はあり得ない
・宿善を積め、求めよ、厚くせよ
・獲信すると、逆謗の屍と必ず知らされる
・獲信すると、浄土往生することが火に触ったよりもハッキリする
・善知識に無条件服従せよ
・因果の道理を深信しなければならない
・三願転入しなければ蟻一匹救われない
・全ての人は19願から始めなければならない
・「聞く一つ」とは、聞いたこと(廃悪修善)を実践することを含む
・縦と横の線と人の図
・活動することで横の道を進み、縦の線に近づいていく


とまぁ実に沢山の誤りがあります。これに細部を合わせたらそれこそキリがありません。

親鸞会の教えは、一部分は正しいが教義全体で言えば邪義であります。ですから、人間のはかなさやこの世の無常といった機の部分はよく分かっても、救いの法の部分は矛盾点だらけでサッパリ分からないでしょう?

例えば現在只今助かると言われながら、相当求めても一向に横の道を進んだ気がせず、このままで助かるのか不安に思っている方はありますか? 極難信だからとか、方便が必要だとか、後生の一大事は人生賭けての最大事だとか色々理由をつけて救いを先延ばしにし、終いには臨終までに間に合えば万々歳、今生助からなくても遠生の結縁になればいいなどと考えている方はいないでしょうか? これは「現在只今助かる」は正しいのですが、高森会長が説く「横の道」が浄土真宗に存在しない、でっち上げの架空の道であるためです。

高森会長の教えに疑問を抱かず、諾々と従っている人は、『白骨の章』の話で言えば

・死は他人事であり、自分事と全く思っていない
・「人や先、人や先」としか思っていない
・明日死ぬとは全く思っていない
・いつかは死なねばならないとは思うが、腹底は永遠に死なないと思っている


人そのものです。「我や先」だと思えたら、今日明日にも死なねばならないと考えたら、白骨の章に書いてあることが「そうだ!」と分かったら、延々と信仰とやらを進めていってその先に救いが有るだか無いだか、有るとしてもそこまで自分が到達できるのかハッキリしない教えで満足できますか? 自分の命が今日一日しかないとしたら、その24時間の間にどれだけの善をして信仰が進んで助かるというのでしょうか? まして現在只今助かりますか? 答えは自ずとハッキリしてきます。親鸞会の教えで私は助からないと。それで私も、この人だけは辞めないだろうと思っていた先輩の退会をきっかけとして親鸞会から脱した一人です。

退会した当初は、それこそとくよしみねさんのこの記事にあるような気持ちでしたが、本願力にお遇いすることができて本当に良かったです。必堕無間の呪縛からも解放され、後生は阿弥陀さまにおまかせして安心です。

親鸞聖人の教えに矛盾はありません。現在、ここにいる、このままの私を「助けるぞ」と仰せられる阿弥陀さまの誓いをそのまま受け容れるだけです。私を助ける手筈は阿弥陀さまが五劫永劫の願行を成就し整えられており、既に十劫の昔から招喚しておられます。それは「なんまんだぶ」となって私の元へ届いていますから、私としてはこの誓いの御名を素直にお聞きするのみです。確かに自力で他力を掴もうとかかっている内は分からないことも当然ありますが、大丈夫です。煩悩に穢れた私の言葉は不真実ですが、「我にまかせよ、必ず救う」と阿弥陀さまが真実の言葉で仰せられているのですから大丈夫です。必ず助かります。この際親鸞会の教義や組織、度重なる朝令暮改の無理難題に疑問を持っている方は、邪義だらけの高森教から脱して本物の浄土真宗を聞き、真実なる誓願を信楽して念仏して頂きたいと思います。

自己にばかり目を向けさせ、本願を聞かせる気が全く無い高森顕徹会長

『飛雲』無碍の一道と絶対の幸福の違い

にも少し紹介されていますが、5月13日、14日の親鸞会降誕会では『白骨の章』を通して話がなされたようです。大方の予想通り、無常をとり詰める話だったようですが、

・『白骨の章』に書いてあることが「そうだ!」とハッキリ知らされて初めて大悲の願船に乗せて頂ける
・真実の自己がハッキリ知らされないと、大悲の願船には乗せて頂けない
・(真実の自己が)ハッキリ知らされるところまで、仏法を聞くことが肝要


などと話をしていたそうです。『飛雲』にある通り、根も葉もない空事たわごとです。こうやって自己にばかり目を向けさせ、真実なる誓願、唯一のまことの法である念仏を教えないのが高森顕徹会長のやり方で、いくら自己を見つめようとも本願、名号を聞かないことには本願の救いには遇えません。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

このように浄土真宗の「信心」とは、「本願の名号」「本願」「如来の御ちかひ」を聞いて疑う心の無いことであり、「本願」を「きく」ということが、とりもなおさず「信心」であるというのです。この信心、本願を信じるというのは、本願を自分の計らいや先入観を入れずにそのまま聞いているということに他ならないので、よく「聞即信」と言われます。本願を聞くのがすなわち信心ということです。ですから「仏法を聞く」と高森会長は言っていますが、人間の浮生なる相、人や先としか思ってない自分、永遠に死なないと思っている自分というものをいくら聞いて無常観や自分に対する認識を深めたところで、「本願」を聞かなければ親鸞聖人の教えを聞いたことにはならんのです。

無常を切々と訴えている『白骨の章』ですが、蓮如上人が仰りたいことは

阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり

であります。じゃあ阿弥陀仏を深くたのむということはどういうことかというと、

阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる
(中略)
南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。
(2帖目9通)

とあるようにまず念仏以外の諸善万行は雑行と名づけてこれを嫌い、往生行として念仏一行を専ら修することだと仰せです。そして阿弥陀仏をどのように信じて極楽往生を遂げるのかというと、

なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふ(同)

私の方から、布施とか持戒とか多聞といった何かしなければならない行は無く、そのままでは地獄しか行き場のないようなあさましい私を、かたじけなくも阿弥陀仏一人「お前を助けるぞ」という誓願を起こされたということを聞くのみです。要は、「お前を助けるぞ」という阿弥陀仏の勅命をそのまま聞き受けるのみです。先ほど紹介したように、本願を聞くということがすなわち信心、信じるということですから、そのような誓願を聞くのが信じることであり、それが一念帰命の信心であり、それは自分で起こす信心ではなく仏智より他力の信心を与えられたのです。

私の方に「あれせい」「これせい」「これをせなんだら助けんぞ」という条件は何もなく、これだけのことですから、実にこころえやすの他力の信心なんですよ。あまりにも簡単なので、小賢しい知恵に長けた人は「そんなうまい話があるかい」と逆に疑ってしまうのです。ただ、私という者を本当に見つめたなら、こうした本願に依るしか助かる術はないでしょう。私達は死ぬまで「人や先」の話しか聞かないんですから、「我や先」なんだとハッキリ分かった時にはもう臨終ですよ。それにそんな人が「ハッキリ知らされるところまで、仏法を聞く」だとかそんな悠長に構えていられますか? 罪悪に関しても、毎日毎日借金みたいなもんで、日々造りと造る悪業は膨らむ一方ですから、私なんかが一つや二つの善行を成したところでとても相殺できません。無常は待ったないし、罪悪は深い、それを自分ではどうしようもないのなら、そんな者を無条件で救う本願に身も心もゆだねておまかせするしかないじゃないですか? 会員の皆さんはそれなりに自己を見つめているとは思いますが、その見つめ方があまりに甘いから親鸞会にとどまって助からない話を延々聞いているのだと言わざるを得ません。もっと見つめていたら「親鸞会の教えで自分は助かるか?」と必ず疑問に思うはずですよ。

そして本願を聞くというのは本願の名号、すなわち南無阿弥陀仏のおこころを聞くということです。

「その名号をきく」といふは、ただおほやうにきくにあらず、善知識にあひて、南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。(3帖目六通)

ですから、蓮如上人は度々六字釈を施されて懇ろに他力の信心を明かされるわけです。

それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり。
かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。あら、こころえやすの他力の信心や、あら、行じやすの名号や。しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり。また南無阿弥陀仏といふはいかなるこころぞといへば、「南無」といふ二字は、すなはち極楽へ往生せんとねがひて弥陀をふかくたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」といふは、かくのごとくたのみたてまつる衆生をあはれみましまして、無始曠劫よりこのかたのおそろしき罪とがの身なれども、弥陀如来の光明の縁にあふによりて、ことごとく無明業障のふかき罪とがたちまちに消滅するによりて、すでに正定聚の数に住す。
かるがゆゑに凡身をすてて仏身を証するといへるこころを、すなはち阿弥陀如来とは申すなり。されば「阿弥陀」といふ三字をば、をさめ・たすけ・すくふとよめるいはれあるがゆゑなり。
(2帖目15通)

今回紹介するのはこれだけにしておきますが、蓮如上人の六字釈は『御文章』に沢山書かれているので、時間を見つけてぜひお読み下さい。

最後に、無常観や罪悪観をとり詰めて、真実の自己がハッキリしなければ救われないなどとは決して仰っていないことを示したいと思います。

・それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて(3帖目1通)
・一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて、わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて(5帖目4通)

このように、度々「自分の罪の深いことはうち置きなさい、うち捨てなさい」と仰せられています。自分の罪の深さに気をかけているのは自分が主体になっている姿で、それを蓮如上人は「そういった考えは捨ててただ阿弥陀仏におまかせせよ」と正されているのです。そうして自分主体、自分ファーストだった考え、見方がひるがえされて、如来主体、如来ファースト、「阿弥陀仏が本願を信じさせ、念仏を称えさせ、仏に成さしめる」と聞くのが浄土真宗の聴聞であります。ここでは罪悪を述べられていますが、無常に関しても同じ事です。自分に目を向けるのではなく、ありのままの自分を救う本願に目を向けて、本願を聞かなければ徒事です。

タイトルにしましたが、「自己にばかり目を向けさせ、本願を聞かせる気が全く無い高森顕徹会長」ですから、本当に阿弥陀仏に救われたい、仏恩報謝をしたいというのであれば一刻も早く親鸞会からはさよならし、仏の本願、南無阿弥陀仏を聞いて他力の信心を決定し、仏恩報尽の念仏を称えて頂くことをお勧めします。

「二河白道の譬え」と「長者窮子の譬え」における、経典や聖教と高森顕徹会長との主張の相違点

これまで高森顕徹会長が「二河白道の譬え」や「長者窮子の譬え」の内容を改変して、己の教義に都合が良いように利用していることを書いてきました。「二河白道の譬え」に関しては、

・信前は煩悩と闘って横の道を進んで行く。進めば進むほど苦しくなる。
・加えて周囲の反対も強くなり、中々この道を進めない。
・諦めて戻っても東の岸には幸せは無いし、幸せになりたければこの道を進むしかない。
・白道の中間ほどで三定死の苦しい体験をし、そこで弥陀の喚び声が聞こえる。
・信心決定とは信前信後の水際立つ、ハッキリとした極めて鮮明な体験。
・信後は水火二河は光明の広海に、白道は無碍の大道に変わる。


等の邪義を正当化し、「必ずこのような道程を通っていき、信後はこのようになる」という先入観を植え付けるために利用しています。私は繰り返し親鸞会流「二河白道の譬え」を聞く内に、

「楽に横の道を進めるわけではない」
「苦しくなければ求道ではない」
「横の道を進もうとすれば必ず自分の内か外の群賊悪獣が聞法求道を妨げてくる」
「『東の岸には本当の幸せはない』と真実を説く高森先生だから、仰ることは全て真実だろう」
「信心決定の前には、必ず三定死の苦しい体験をする」
「その行者に、西岸上の人の喚び声が五臓六腑を貫く」
「信心決定はハッキリとした、極めて鮮明な体験」
「信後は無碍の一道、絶対の幸福、大安心大満足、煩悩即菩提の素晴らしい人生にガラリと変わる」

などの観念が出来ていきました。この中「群賊悪獣」ということについては、ちょっと昔の内容ですが

「浄土真宗親鸞会 被害」家族の会 掲示板 過去ログ(7)

などを読んで「なるほど」と思う部分がかなりありました。高森会長の話はある部分は真実なので、親や周囲の反対を受けると「高森先生の仰る通りだ」と逆に信じ込んでしまう人もあります。私もその一人でした。

また「長者窮子の譬え」に関しては、

・阿弥陀仏は私達を助けるためにどうしても善巧方便が必要だった。それが19願、20願である。
・宿善薄い私達が救われるには一朝一夕ではいかない。宿善薄いままで信心獲得はあり得ない。
・人々に真実(親鸞会の話)を伝えるためであれば、何を言っても構わない。
・私達も掃除夫となって、窮子(新規会員)を何としてでも長者様(高森会長)の元に連れて来よう。
・窮子(新規会員)がやって来るようにデパート(会館)を建てよう。


といった創作教義を吹き込み、会長や組織の思惑を実現するために利用しています。「長者窮子の譬え」を、私は同期の女の子から、初めて顕正活動(勧誘)をする前に聞かされました。先輩方が掃除夫となって窮子(私)に声をかけて真実を伝えてくれたように、今度は私達が掃除夫となって窮子に声をかけて真実を伝えよう、高森先生の元にお連れしようみたいな、思い返せば活動の意義・動機付けのような話でした。そして、長者は阿弥陀仏だと聞きましたが、所々で何となく高森会長にすり替えて考えるようになりました。

そう言えば過去において高森会長は、「給料を倍にしてやる」というのは宿善のことだと説いていたと講師部員が話していました。書いている今思い出しましたが、本当ならトンデモ邪義ですね。何十年も前から高森会長の話を聞いていて、記憶があるという方はぜひ情報をお願いします。


この際ですので、「二河白道の譬え」や「長者窮子の譬え」における、経典や聖教と高森顕徹会長との主張の相違点をここに記しておきたいと思います。


【「二河白道の譬え」について】

1、何を譬えたものか

親鸞聖人  信後の、信心を護り、考えの異なる人々の非難を防ぐこと
―――――――――――――――――――――――――――――
高森会長  信前の、阿弥陀仏に救われるまでの心の道のり

2、白道とは

親鸞聖人  他力信心
―――――――――――――――
高森会長  (自力の)求道心、信心

3、三定死の心境になるのはいつか?

親鸞聖人  白道の手前で、群賊悪獣がまさに迫って来る時
――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長  白道の中間ほどで、水火の波が高くてもうこれ以上進めなくなった時

4、西岸上の人の喚び声が聞こえるのはいつか?

親鸞聖人  白道の手前で、東岸の人の勧めを聞いた時
―――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長  白道の中間ほどで、どちらかの河に堕ちて死ぬしかないとなった時

5、東岸の人の勧める声と、西岸上の人の喚び声が聞こえるのは同時か異なるか

親鸞聖人  同時
――――――――
高森会長  異なる

6、群賊、悪獣らの態度

親鸞聖人  最初は殺しにかかって来て、白道を進むと戻れと説得してくる
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長  白道を進むと最初は戻れと説得してきて、次第に「殺すぞ」と脅迫に変わる

7、西岸上の人の喚び声が聞こえた後、水火二河や白道は変化するか?

親鸞聖人  変わらない
――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長  水火二河は光明の広海に、白道は無碍の大道に変化する

8、信心決定とは信前信後の水際立つ、ハッキリとした極めて鮮明な体験なのか?

親鸞聖人  そのような記述は無い
―――――――――――――――
高森会長  そうである



【「長者窮子の譬え」について】

1、誰が説いたものか

法華経   慧命須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目腱連ら四大声聞
―――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長  お釈迦様

2、何を譬えたものか

法華経   四大声聞を長い間見守ってきた釈尊の慈悲と方便の姿
―――――――――――――――――――――――――――――
高森会長  私達を救うための阿弥陀仏の深い御心と、大変なご苦労

3、長者とは

法華経   釈尊(如来)
――――――――――
高森会長  阿弥陀仏

4、全財産とは

法華経   仏のさとり
――――――――――――
高森会長  南無阿弥陀仏

5、窮子はどうして長者と離れ離れになったのか?

法華経   幼い頃に父を捨てて逃げ出した
――――――――――――――――――――――
高森会長  幼い頃に祭り見物の人混みではぐれた

6、長者は窮子を探し出すためにデパートのようなものを建てたか?

法華経   そのような記述は無い
――――――――――――――――――――――――
高森会長  町一番の一等地に巨大なデパートを建てた

7、長者は遣いの者に、「何を言ってもいいから窮子を連れて来い」と命じたか?

法華経   そのような記述は無い
―――――――――――――――
高森会長  命じた

8、窮子の仕事について

法華経   糞掃除。20年間ずっと糞の掃除をしていた
――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長  掃除夫。次第に出世して、デパートの支配人にまでなった



このように、譬え話も、何を譬えたのかも、誰が説いたのかも、経典や聖教の内容とは著しく違いがあることがお分かり頂けると思います。こんなデタラメ創作教義を説く人を無二の善知識と崇めている親鸞会は、他の新興宗教と同類項です。いや、自分達だけは違うと思い込んでいますからそれ以下かも知れません。

明日明後日は親鸞会の降誕会が行われる予定ですが、アニメ映画『なぜ生きる』の上映と、無常をとり詰める話があり、そして弁論大会で「これからも光に向かって進ませて頂きましょう」となってまたいつものように終わることと思います。信心決定は常におあずけ、いつまでも光に向かう教えで、皆さんは満足ですか? 会員の皆さんには、どうか頭から高森会長の話を正しいと信じ込むことは止めて、経典や聖教に直に向き合って教えの真偽を検証して頂きたいものです。

自分の教義に都合が良いように、経典や聖教の内容を勝手に改変して慚愧あることない高森顕徹会長 ― 長者窮子の譬えについて(2)

親鸞会では、月々の親鸞会館での法話案内はおろか、降誕会や報恩講といった大きな行事の案内すら公式には発表されません。「平成29年 親鸞会 降誕会」でググると当ブログがトップに来るという有り様です。
「本当の親鸞聖人の教えを、一人でも多くの人に・・・」などと言いながら、一般大衆を前に堂々と法を説くことはできないのでしょう。つくづく二千畳秘事だなぁと感じます。対して本願寺では、ホームページにて降誕会の日程や様々な法話案内を載せています。今年平成29年の親鸞聖人降誕会は、本願寺派では5月20日(土)、21日(日)に勤修されるようです。法話の日程や布教使については、

『浄土真宗本願寺派』各地の行事

に載っています。ご縁がある方は調べて参詣されたら良いかと思います。


さて、「長者窮子の譬え」は『法華経』に説かれている話だけに、浄土真宗系ではあまりヒットしません。日蓮宗系か創価学会系がほとんどで、真宗系では親鸞会と上田さんのサイト位です。上田さんのサイトでは、

『浄土真宗講義』教行信証8 正信偈 十二光

に出てきます。こちらの方がまだ原典に忠実な譬え話となっています。

『浄土真宗|LOG』長者窮子の譬喩

にもありますが、こちらは本からの抜粋のみです。『教行証文類』には『法華経』からの引文は無いこともあり、真宗ではほとんど取り扱われていません。親鸞聖人も扱っておられないのですから知らなくてもいい内容なのですが、それを高森会長が度々話すのには理由があります。自分の教義を正当化し、会員を組織拡大に利用するためです。

・信心獲得するまでは時間がかかる
・方便だからやらなければならない
・自分達も掃除夫となって窮子(新人)を誘って来よう
・真実を伝えるためなら、何を言っても構わない
・窮子を見つけるのにデパート(会館)を建てよう


親鸞会の譬え話からは、このようなことが読み取れます。親鸞会は創価学会の組織拡大法を真似て勢力を伸ばしてきたと言われていますから、「長者窮子の譬え」もそっち系から拝借してきた可能性は大いにあります。


今回は譬え話の内容を詳しく見ていきます。まず親鸞会の譬え話では、窮子は祭り見物の際に長者とはぐれて、後に人さらいにあって長い間親子は離れ離れになっていたとありますが、「信解品」では

譬えば人あって年既に幼稚にして父を捨てて逃逝し、久しく他国に住して、或は十・二十より五十歳に至る。年既に長大して、加復窮困し、四方に馳騁して以て衣食を求め、漸漸に遊行して本国に遇い向いぬ。

とあり、幼い頃に父を捨てて逃げ出したと説かれています。

次に、親鸞会の譬え話では、長者は町一番の一等地に巨大なデパートを建てて窮子を見つけようとしたとありますが、原典にはデパートか何かの建設物を建てたという記述はありません。また高森会長は、窮子は乞食仲間からデパートの噂を聞いて長者のいる町に来たと話していましたが、『法華経』によると放浪を重ねて知らず知らずのうちに偶然にも長者のいる町に辿り着いたようです。

それから、親鸞会の譬え話では、長者は掃除夫に窮子を連れて来るよう命じ、窮子は掃除夫としてデパートで働くことになったとありますが、原典では長者の屋敷かどこかで、糞を掃除する仕事に就いたようです。勿論、連れて来る際に「何を言ってもいいから」などという記述はありません。長者は見た目も貧相な二人の者を遣わせますが、「ここに働くところがある。給料を倍にしてお前に与えよう」と誘えと言い、何の仕事かと聞かれたら「お前を雇うのは糞を掃除させるためだ。私達二人もまたお前と一緒に働く」と言えと命じています。

爾の時に長者、将に其の子を誘引せんと欲して、方便を設けて、密かに二人の形色憔悴して威徳なき者を遣わす。汝彼に詣いて徐く窮子に語るべし、「此に作処あり、倍して汝に直を与えん。」窮子若し許さば、将い来りて作さしめよ。若し何の所作をか欲すと言わば、便ち之に語るべし、「汝を雇うことは糞を除わしめんとなり。我等二人亦汝と共に作さん」と。時に二りの使人即ち窮子を求むるに、既已に之を得て具に上の事を陳ぶ。爾の時に窮子先ず其の価を取って、尋いで与に糞を除う。

ところで、長者は窮子の汚くみすぼらしい姿を見て哀れに思います。それで豪華で立派な衣服や装飾品を脱いで、見た目もみすぼらしい窮子と同じような姿に扮して窮子に近づきます。一方高森会長の話では、長者が卑しい姿に扮する等の説明は聞いたことがありません。

又他日を以て窓牖の中より遥かに子の身を見れば、羸痩憔悴し、糞土塵坌汚穢不浄なり。即ち瓔珞・細軟の上服・厳飾の具を脱いで、更に麁弊垢膩の衣を著、塵土に身を坌し、右の手に除糞の器を執持して、畏るる所あるに状れり。諸の作人に語らく、汝等勤作して懈息すること得ること勿れと。方便を以ての故に其の子に近づくことを得つ。

また、給料を上げる等の話はありますが、窮子が次第に出世してやがてデパートの支配人になる等の話は無く、20年ほど相変わらず糞を掃除する仕事のままです。

後に復告げて言わく、咄や男子、汝常に此にして作せ、復余に去ること勿れ。当に汝に価を加うべし。諸の所須ある・器・米麪・塩酢の属あり、自ら疑い難ることなかれ。亦老弊の使人あり、須いば相給わん。好く自ら意を安くせよ。我汝が父の如し。復憂慮することなかれ。所以は何ん、我年老大にして汝小壮なり。汝常に作さん時欺怠・瞋恨・怨言あることなかれ。都て汝が此の諸悪有らんを、余の作人の如くに見じ。今より已後、所生の子の如くせん。即時に長者、更に与に字を作って、之を名けて兒とす。爾の時に窮子此の遇を欣ぶと雖も、猶故自ら客作の賎人と謂えり。是れに由るが故に、二十年の中に於て常に糞を除わしむ。

長者は窮子に待遇を良くして他所へ行かないように諭します。「我汝が父の如し」と、「自分の事を父親だと思ってくれ」とまで仰っているのですね。とても暖かい、釈尊の慈悲を感じることができます。対して高森会長はどうでしょうか? 直接話ができる機会はほとんどありませんし、向こうから会員に近づいてくるということもありません。「私には時間が無いんです。どうしたら信心決定できますか?」という真剣な問いにも答えません。本願寺はじめ真宗十派は全て異安心で、親鸞会でしか真実は説かれていないと思い込ませ、また無常と罪悪で聞く者をせめ立て、必堕無間の呪縛をかけて他所へ行かないようにしています。親友部員には残業代を支払わない確認書を書かせるなど、ひどい待遇を強いています。うちの会社よりブラックです。自らの命令に無条件で従わせ、気に入らぬ者は除名処分にして会から追い出しています。釈尊とは真逆ですね。

さて窮子は長者の待遇を喜んだものの、自らは所詮雇われ者の卑しい身だと思い込んで中々心を開きません。そのため、20年もの間常に糞の掃除をさせたというのです。すぐにも全財産を譲り渡したいがそのままでは無理なので、しばらく窮子の意に随ってこれを導かれたわけですね。この、心の溝、わだかまりがあるという点では『法華経』と親鸞会の話は同じです。ただし、既に親鸞聖人の教えを正しいと思っている私達が、阿弥陀仏に救われるのにこのように長期間を要するということではありません。それに、私達も掃除夫となって新たな窮子を誘って来なければ救われないということでもないのです。

阿弥陀仏が私達を助けるためにご苦労されていることは間違いありませんが、何十年と親鸞会で聞法・求道・活動しなければ救われないということではありません。親鸞会ではこうした随他意の法門、真宗で言えば19願・20願の法門を持って来て、これを通らねば18願へは入れないと会員の獲信・往生を阻害しているのですが、私達のように「自分はとても仏道修行できる器ではなく、18願でなければ助かるような者ではない」と思っている者にはそうした随他意の法門は不要です。その証拠に、親鸞聖人は19願・20願の法門は誡めこそされ、勧められてはいません。聖人のお勧めは専ら18願のみです。逆に方便とか、随他意ということを誤解させ、祖師の勧められていないことを勧めて獲信・往生から遠ざけているのが高森会長なのです。


全国あちこちに月に何回も使わないような会館をぼこぼこ建て、その建設費・維持費を会員からむしり取るばかりで、真実信心を獲させようという気が全くないのが高森顕徹会長です。そんな会長の私利私欲を満たすために、『法華経』の「長者窮子の譬え」までが利用されています。譬えを私達に当てはめるならば、私達は長者の遣わせた者ではなく、窮子自身です。そして、最早機は熟して、長者の「私とお前は親子だよ」というお言葉を聞き受けるだけなのです。どうか親鸞会の邪義に迷うことなく、南無阿弥陀仏のおこころをよく聞いて信心獲得し、報土往生を遂げる身となって頂きたいと思います。

自分の教義に都合が良いように、経典や聖教の内容を勝手に改変して慚愧あることない高森顕徹会長 ― 長者窮子の譬えについて

経典や聖教の一部を断章取義するのは朝飯前で、高森会長は自分の教義に都合が良いように、経典や聖教の内容を勝手に改変しています。既に多くのブログで間違いが指摘されている「二河白道の譬え」では、

・旅人は白道を一歩進んでは一歩戻り、三歩進んでは二歩下がるといった風で遅々として進まない
・進んで行くと周囲の群賊・悪獣・悪知識が「行くな」と反対し、次第に「殺すぞ」と脅迫してくる
・白道を進むのを諦めて戻ろうとすると、尊い人だけが「こちらの岸に本当の幸せはなかっただろう」と説き、「本当の幸せになりたかったら西へ向かってひたすら進め」と白道を行くことを勧めている


などといい、中々横の道を進めない様や、親鸞会への入れ込み様によって周囲の反対が増すこと、その中で高森会長や親鸞会の人間だけが「進め」と説いていることを、まるで善導大師が予見して仰っているかのように説いてきます。これを聞いて会員は、言われる通りだなぁと納得してしまうのです。


高森会長が利用している譬え話は何もこれだけではなく、「長者窮子の譬え」もそうです。長者が掃除夫に

口では何を言ってもいいから、お前の舌一つであの者(窮子)をここへ連れて来なさい

と命令する様は、高森会長の

「ワシの法話に誘って来い」
「親鸞会に入会させなさい」


という意思が見え隠れしています。また、「口では何を言ってもいいから」というところから、大学や社会人サークルでの偽装勧誘、正体を隠した勧誘も正当化されているのではないかと思います。

宗教のサークルですか?

の問いに、

違います

と答えるのがマニュアル化されていたりと、勧誘対象者にウソをついてもいい、仕方ないという考えが正当化、常習化されています。中には、こう聞かれたり、こう答えたりすることにヒヤリとしたり、後ろめたさを感じている(いた)方も少なくないのではないかと思います。講師部員や先輩が言うのには、「(勧誘対象者が考えているような)宗教ではない」ということなのですが、親鸞会とは、周囲の意見も聞かずに「誰が何と言おうと高森先生が正しい」と信じ込んでいる人の集まりなのですから、勧誘対象者が考えているような宗教そのものです。

この時期、例年ですと親鸞会の新勧合宿が行われている頃ですが、大学生で興味を持って聞き始めた方がいましたら注意して頂きたいものです。社会人サークルの方も同じです。親鸞会かどうか見極めるには、当ブログ

こんな話に注意!

のカテゴリにまとめてある内容をご覧下さい。また一万年堂出版『光に向かって100の花束』『なぜ生きる』等を出して話をしてきたら親鸞会である可能性が高いです。


大分話が逸れ、長くなりましたので今回は「長者窮子の譬え」について、誰が何の目的で説いた話なのかを紹介します。親鸞会製作の動画では

これは、私達を救うための阿弥陀仏の深い御心と、大変なご苦労を教えるためにお釈迦さまが作られた譬え話です

とありますが、目的も、作った人物も違います。譬え話が説かれている『法華経』信解品を読んでみますと、

爾の時に慧命須菩提・摩訶迦旃延・摩訶迦葉・摩訶目腱連、仏に従いたてまつりて聞ける所の未曾有の法と、世尊の舎利弗に阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたもうとに希有の心を発し、歓喜踊躍して、即ち座より起って衣服を整え、偏に右の肩を袒にし右の膝を地に著け、一心に合掌し曲躬恭敬し、尊顔を瞻仰して仏に白して言さく、我等僧の首に居し、年竝に朽邁せり。自ら已に涅槃を得て堪忍する所なしと謂うて、復阿耨多羅三藐三菩提を進求せず。世尊往昔の説法既に久し。我時に座に在って身体疲懈し、但空・無相・無作を念じて、菩薩の法の遊戲神通し、仏国土を浄め、衆生を成就するに於て心喜楽せざりき。所以は何ん、世尊、我等をして三界を出で、涅槃の証を得せしめたまえり。又今我等年已に朽邁して、仏の菩薩を教化したもう阿耨多羅三藐三菩提に於て、一念好楽の心を生ぜざりき。我等今仏前に於て声聞に阿耨多羅三藐三菩提の記を授けたもうを聞いて、心甚だ歓喜し未曾有なることを得たり。謂わざりき、於今忽然に希有の法を聞くことを得んとは。深く自ら慶幸す、大善利を獲たりと。無量の珍宝、求めざるに自ら得たり。世尊、我等今者楽わくは譬喩を説いて、以て斯の義を明さん。譬えば・・・

とあって、それから「長者窮子の譬え」が説かれます。

信解品の前の譬喩品にて、釈尊は未来世における舎利弗の成仏を予言しています。お前は無量無辺不可思議劫の後に華光如来という仏になるだろうと。慧命須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目腱連らの四大声聞は、こうした自己の悟りのみを求める修行者である声聞が成仏できることを聞いて歓喜します。自分達はとても成仏などできない、仏のさとりとは縁遠い存在だと考えていたのです。それを釈尊が舎利弗を通して声聞でも成仏できることを説いたので、彼らは大いに喜んで、釈尊にそれまでお聞きした教義を譬え話で申し上げたというわけです。つまりは彼らの領解ということです。

無量の珍宝、求めざるに自ら得たり

とある「無量の珍宝」とは、仏のさとりであり、釈尊が仏のさとりを得て惜しみなく与えて下された深遠無量の教えのことです。ですから「長者窮子の譬え」とは、

慧命須菩提、摩訶迦旃延、摩訶迦葉、摩訶目腱連ら四大声聞が釈尊に自分達の領解を申し上げたもの。自分達には関係ないと思っていた仏のさとりを得られるのだと喜び、この『法華経』を説くまで小乗の教えを説いて長い間じっと見守ってきた釈尊の慈悲と方便の姿を譬えた話

だということです。譬え話の後、四大声聞は

・世尊大富長者は則ち是れ如来なり。我等は皆仏子に似たり。
・今此の経の中に唯一乗を説きたもう。(中略)今法王の大宝、自然にして至れり。仏子の得べき所の如き者は皆已に之を得たり。


と申し上げていることからも分かるように、

長者 → 釈尊(如来)
全財産 → 仏のさとり、法華一乗の教え


だということが分かるでしょう。原典を読む限り、長者が阿弥陀仏、全財産が南無阿弥陀仏だというのは無理な気がします。個人的にどう味わおうと構いませんが、誰が何の目的で説いたのかを誤りなく伝えなければ”珍らしき法”になってしまいますよ、無二の善知識様。



【参照】
『法華経』信解品
『法華経』信解品 現代語訳

大沼師や伊藤師だけでは飽き足らず、批判者が挙げた根拠も使って法を捻じ曲げる高森顕徹会長

『飛雲』教えを徹底的に捻じ曲げて、会員を騙すこと以外考えていない外道の親玉高森顕徹会長

に既に挙がっていますが、日曜日の高森会長の話は酷い内容でした。相変わらず「若不生者」の「」はすべての人を「信楽」の身にすることだと説いていたようですが、こんなものは可愛いと思えるほどに今回高森会長から発せられたことはトンデモ邪義です。

本題の前に、これも可愛いもんですがツッコミを一つ。「どうすれば大船に乗れるのかがこの本願だけでは分からない」として本願成就文を挙げたのに、

其の名号を聞くとは、阿弥陀仏の本願を聞くこと

と説明をしていたことも紹介しておきます。おいおい、本願だけでは分からないって言ってるのに、「本願を聞くこと」とはどういうことだよ・・・(-_-;) その後、

本願の何を聞くのか、それは本願の生起本末を聞くこと

と教えたそうですが、成就文を見てもそれは分かりません。「仏願の生起・本末」を聞くというのはあくまで親鸞聖人のご解釈であります。まぁこれは良しとしても、親鸞会では邪義を織り交ぜた「生起」の話ばかりで、肝心の「本末」は間違って教えられています。

『親鸞会公式ホームページ』「聴聞」とは何をどう聞くのか

にて「親鸞聖人が「本末」の「末」で表されているのは、その十九、二十願であり、「方便の願」ともいう。」と明記していますから、「仏願の生起・本末」の「」が18願、「」が19願・20願というのは親鸞会の公式見解です。これは間違いです。「仏願の生起・本末」の内容に19願・20願は入りません。まかり間違っても、18願の世界に入るためには19願から始めねばならないといったは教えは浄土真宗にはありません。それは高森教であって親鸞聖人の教えとは異なります。このように教えが間違っていますから、それをまともに信じている会員の皆さんが親鸞聖人の教えられる信心を獲得できないのは当たり前です。

ちなみに過去において高森顕徹会長は「仏願の生起・本末」を18願の内容のみで説明していました。これも時代とともに変わる教えの一つです。

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』「仏願の生起本末」の本とは18願、末とは19願と20願のこと???(学生大会より)

に書かれていますので参照して下さい。


さて、本題に入ります。本願成就文を挙げ、「親鸞聖人や蓮如上人が木像や絵像を本尊とせず、名号を本尊とされた根拠も成就文である」ということまでは従来通りでした。問題は、

木像や絵像は「人」、名号は「法」

だと言い、人はやがて滅ぶが法は三世十方を貫くとしてお釈迦様が臨終

法に依りて人に依らざれ

と説かれたのだと話した点です。何を根拠にこんなことを言っているのか、まことにもって「珍らしき法」であると同時に、こんな邪義の正当化にお釈迦様のお言葉を利用するとは言語道断です。阿弥陀仏を誹謗する外道の親玉としか言いようがありません。

親鸞会では独自の「方便」論を展開しているので分かりづらいかも知れません(方便については下記参照)が、本来色も形も無い、我々の認識を超えた真如法性を私達に知らしめようと形を表し、すがたを示しているのが「方便法身」である阿弥陀仏です。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。(唯信鈔文意)

この「方便法身」を「報身」とも言うのです。『教学聖典』にもあるので会員の皆さんも言葉だけはご存じかと思いますが、阿弥陀仏の木像も絵像もこうした「方便法身」「報身」であり、真宗門徒ならば敬い拝すべき対象なのです。その木像や絵像を「」だとか言ってやがて滅ぶものだとの放言、謗法罪もいいところでしょう。

次に「法に依りて人に依らざるべし」(大智度論)のお言葉ですが、「」「」についての定義がまるで間違っています。このお言葉は、釈尊の説かれた教え、すなわち「」に従うのであって、教えを説く「」に従うのではないということを言われたものです。「阿弥陀仏の木像や絵像を本尊とするのではなく、名号のみを本尊とせよ」という根拠にならないのは当たり前の当たり前のことです。

『飛雲』朝令暮改の人に随ふべからず

にもありますが、親鸞聖人の教え、「」に従うのであって、こんな邪義を堂々と唱え、朝令暮改の無理難題を押し付けるような「」に従ってはならないということです。また、上の『大智度論』のお言葉は親鸞会では一度も目にも耳にもしなかった言葉です。批判ブログでは

『親鸞会教義の誤り』善知識には無条件服従しなければならないのか 3

や『飛雲』でしかお目にかかったことがありませんが、批判者が挙げた根拠も使って法を捻じ曲げるのは最早高森会長の常套手段となっています。有名な例では、

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。 (一念多念証文)

が挙げられると思います。この文をもって、要門、仮門、定善散善の教えは真実を直ちに受け入れない衆生を導くためにしばし仮に設けられた方便の教説であることを批判者が示したところ、高森会長が逆に19願を勧める根拠として利用したというものです。大沼師や伊藤師だけでは飽き足らず、批判者からもパクるとはさすが盗用、剽窃の名人ですね。


会員の皆さんのほとんどはこうした邪義を聞いていても、疑問に思う人はいないでしょう。それどころか、「こんな意味があったのか!」などと感動している人さえあるかと思います。深いマインドコントロール下にある人は難しいかも知れませんが、阿弥陀仏を誹謗し、他人の著書や文章を剽窃、盗用して多くの人を騙す「」が高森会長であることに早く気づいて、親鸞聖人が教えられる「」に従って頂きたいものです。


【参照】
『WikiArc』15 方便・隠顕

「高森顕徹会長の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない」のが親鸞会の会員

テストとかメンタルテストと聞いて思い出されるのが、『光に向かって123のこころのタネ』第101話

正直を試される

という話です。文中に「甲斐守も阿波守も、主君の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない」とありますが、

高森顕徹会長の意に迎合するだけのオベッカ者にすぎない

のが親鸞会の会員です。そうすることが出世の肝要といち早く気づいて会長や息子に取り入り迎合した者達の一握りが幹部となり、支配する側になります。逆に迎合できない者、意見する者は責められ、叩かれ、果ては除名されます。「ものを言え」と言いながら、実際にものを言うとその正直さが仇となる、酷い団体です。

清森義行氏の除名の真相(1)
投稿:ある特専部員の除名の真相(前編)

などを読めば、自分達の意に迎合しない者達をどうするのが親鸞会なのかお判りでしょう。

会の中では、高森会長が「これは黒豆だ」と言えば、たとえ這っていても「這っても黒豆なんだ」と言わねばなりません。そしてそれを聞いている者も、疑問を持ちながらも「這う黒豆なんだ」と思い込む、思うようにする。これが親鸞会の会員です。そのようにマインドコントロールされている、しかもそれがマインドコントロールされているとは思わない、実に哀れな方々です。どうしてそうなってしまうのか。無常と罪悪にせめ立てられて、正常な思考能力を失い、見捨てられたら助かる術が無いと思い込んでいるからです。無常と罪悪をやたらと強調してくるのは、正常な思考判断能力を奪い、組織拡大要員として効率よく利用・搾取するためでしょう。間違っても「私達一人一人の後生を案じて・・・」などと夢見ていないことです。


何事も高森顕徹会長の言葉を鵜呑みにし、正しいと信じ込んでしまうのが親鸞会の会員ですが、信心決定を体験としか思えないのも間違った教えのせいです。信心決定とは、本願の名号のいわれを聞いて疑い無いこと、南無阿弥陀仏のすがたを心得ることであって、地獄に堕ちてそこから救われるといったような摩訶不思議な神秘的体験のことではありません。

・「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。(一念多念証文)
・「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。「名」は御なと申すなり、如来のちかひの名号なり。「念我」と申すは、ちかひの御なを憶念せよとなり、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはせり。憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり。(唯信鈔文意)
・信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。(御文章)


私から阿弥陀仏へ、「助けて下さい」という祈願請求する思い、すなわち自力の心が廃り、「まかせてくれよ」というお言葉通りに往生をおまかせしたこと、本願のお言葉をそのまま受け容れたことを信心決定とか、信心獲得というのです。それは過去、何月何日の何時頃の体験ということではなく、また本願を聞き受けた信一念に限定されるものでもありません。現在只今のことです。

入信までの過程は一人一人異なります。どんな話が自分に刺さったか。どのように心境が変化していったか。いつ、何をしている時に獲信したか。自分が何歳の時か。聴聞している時か。おつとめの最中か。仕事をしている時か。寝て起きた時か。一人の時か。大勢の人がいる時か。獲信の瞬間にどんな体験をしたか。信一念をハッキリ覚えているか・・・。こういったことは、その表現方法も含めて人それぞれです。

「お坊さまの一言一言が、私の腹にピシッピシッとこたえました」
「もうこれ以上堕ちるところがないというところまで堕ちてゆきました」
「その地獄の底で生きた阿弥陀仏とお値いすることができました」

とか、こんなのは個人の体験であって万人に通ずるものではありません。一人一人業が違いますから、同じになりっこないのです。この人にこたえたという説教が私にこたえるかは分かりません。堕ちるとか地獄といっても、私が想像している地獄と、皆さんが想像している地獄はきっと違うでしょう。冷たく昏い世界なのか、紅蓮の炎に包まれたような世界なのか、恐ろしい怪物や毒虫等がうじゃうじゃいる世界なのか。はたまた全く別の世界なのか。一人一人異なるでしょうし、そしていずれも、きっと私が死んで実際に堕ちる地獄とは違うのです。阿弥陀仏とお値いするといっても、それはその人が思い描いた阿弥陀さまです。本物の阿弥陀さまは色も形もありません。音もにおいもありません。仏像や絵像のような姿をしておられるのかは分かりません。こういった体験談は、阿弥陀仏に救われるということがあるという励みにはなっても、それ以上参考にはなりません。詳細に聞いて真似たから獲信できるとか、そういったものではないのです。

それと、信心決定を信一念に限定するのでは過去の体験、心境をたのむことになってしまいます。一念の覚、不覚も必ず問題になります。一念の時を覚えていなければ救われていないという邪義も出てくるでしょう。こんなのは問題ではありません。過去にどんな体験をしたかとか、一念の時を覚えているかどうかが問題なのではなく、現在「助けるぞ」の仰せを仰せのままに受け容れているかどうかが問題なのです。

ところが高森顕徹会長は信心決定ということについてどう教えているでしょうか?

現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、というお約束です。
(『こんなことが知りたい①』p.32)

とか現世利益をちらつかせてカモを釣り、

********************
 では、どうしたら自力が廃るのか。これは説明を聞いて判るものでもなければ、自ら捨てようと思って廃るものでもありません。先ず、自ら善知識を求めて真剣に聞法しなければなりません。そして、払っても払っても、後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく自力の心に悲泣悶絶、求道聞法の絶壁に行きづまり、曠劫流転の逆謗の屍を如来の前に投げ出す体験を通らなければ廃りません。(『こんなことが知りたい①』p.110~p.111)

 信じたのも知ったのも、学問も修養もすべて間に合わず、堕ちるも助かるも判らぬ心一つが業に引かされて、地獄は一定すみかぞかしと、無間のドン底に叩き堕とされた時(機の深信)、
自力無功と他力不思議とは同時に働き、信心歓喜、歓喜踊躍とおどり上がり、阿弥陀さまこうまでして下さらなければ聞かない、しぶとい私でございました。(法の深信)
 どうしてこの御恩に報いようかと泣くより外にないのです。
(『こんなことが知りたい③』p.128~p.129)
********************

などと、一度は地獄のずんどこに突き堕とされて、そこからこの上ない喜びの身に救われるような体験を信心決定と思わせ、アニメにまでして「一念の体験」とやらを強調しています。こうした高森会長の教え、アニメを真実だと思っている間は、そういった体験をしなければ信心決定ではないと思う他ないでしょう。ところが七高僧方も、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、こんな体験が信心決定だとか、捨自帰他の際には必ずこのような体験をするなどとは一言も仰ってはいないのです。

「笑わば笑え、そしらば謗れ。真実の信心は三業で判断できないのだから」と自分が救われている体験があるがゆえに悠然と構え・・・

こんなことを言っているのは、邪義を真に受けて、正しい親鸞聖人の教えを知らない証拠です。コメントも頂いていますが、まさに体験至上主義です。会員の皆様には、マインドコントロールから解き放たれ、信心決定を摩訶不思議な体験という観念は捨てて、南無阿弥陀仏のおこころを素直に頂いてもらいたいと願うばかりです。



ちなみに一万年堂出版発行の書物については大沼法竜師からの盗用が数多く散見されます。まだ確認できてはいませんが、当エントリーで紹介した話も大沼師からの盗用である可能性が高いです。

【参照】
大沼法龍師の言葉
信心決定とは
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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