自分の創作教義、創作アニメに浄土真宗の言葉を当てはめているような説明ばかりの高森顕徹会長

『飛雲』自力の迷情とは後生どこへ行くかわからない心とか言っているお笑い悪知識

にあるように、最近の高森顕徹会長の話は同じような内容でしかも中身は浄土真宗ではありません。

映画『なぜ生きる』の蓮如上人のセリフに関する質問
「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか。」


に答えるという形で日曜日も座談会があったものの、内容も、出てくる根拠もこれまでとほとんど同じでした。

本願を信受するは、前念命終なり。すなはち正定聚の数に入る。
即得往生は、後念即生なり。即の時必定に入る。また「必定の菩薩と名づくるなり」
愚禿鈔【28】)

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやぶれずといへども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、「自力をすてて他力に帰する」ともなづけ、また「即得往生」ともならひはんべれ。改邪鈔【19】)

「某[親鸞]閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と[云々]。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。改邪鈔【16】)

他にも出てきたでしょうが、主だったものはこの3つ。

弥陀の願船に乗せて頂くと、絶対の幸福にガラリと変わる
比較することない幸福にガラリと変わる、物凄く変わる
それを親鸞聖人は「信受本願前念命終・・・」と教えられている
絶対の幸福まことだった、絶対の幸福になった

と、創価学会用語をパクって浄土真宗の信心を騙り、

一念で心の臨終を迎えるのが「仏法の信心」
この一念(共発金剛心の一念)にお釈迦様の一切経が収まる
「ガラリ」は「一念」を言われたもの
「ガラリ」に一切経が収まる

などと言って、自分の創作教義、創作アニメに浄土真宗の言葉を当てはめているような説明ばかりでした。

そして、最後の方にちょろっと本願成就文に結び付けたような話をし、

其の名号を聞く一念で(絶対の幸福に)なれる
そこまで進ませていただきましょう


というような感じで終了したそうです。ここで縁があった方に伺いますが、「聞其名号」の説明はありましたか? 序盤の方では、

今日一念で本願を信受できる

とか何とか言っていたらしいですが、聞いた人はどうですか? 本願を信受できましたか? 結局

続けてワシの話を聞け

ということで終了でしょう? こんなことばっかり繰り返して一体何の意味がありますか? 信受すべき本願とは何か、本願を信受するとはどういうことか、この説明が無い、あるいはデタラメでは本願を信受しようがないでしょう。会員の皆さんはいい加減に気が付くべきですよ。そうしなかったら、夢幻の人生、あっという間に終わってしまいます。これでは、世の人々の営みに親鸞会の組織拡大活動を足しただけの人生で終わってしまいますよ? それで本当に後悔ないですか?


まず、本願とはどのようなことかと言えば、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通
「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」『御文章』3帖目2通
「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」『御文章』4帖目8通
「十方衆生、願行成就して往生せば、われも仏に成らん、衆生往生せずは、われ正覚を取らじ」『安心決定鈔』【2】

等と教えられています。つまり、

念仏を称える者を極楽に迎えて仏にしよう。もし出来なければ私は阿弥陀という仏に成らない。

ということです。

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

だとかいう、たわけた誓いではないのです。この世の我々の幸福感をどうこうするとかいう低次元のことを論じているのではありません。無始曠劫より流転してきた、さとりとは無関係な私達を救ってこの上ないさとりを得させよう、仏にしようという遥か高次元の話をしているのです。そして、この願成就したすがたが南無阿弥陀仏ですから、南無阿弥陀仏念仏と無関係な本願など有り得ないのです。では、高森会長の本願の説明に南無阿弥陀仏念仏は出てきますか? 南無阿弥陀仏と無関係なことばかり説いていて、聞く者が本願を信受できる方が無理がありますわ。

次に本願を「信受」するということですが、これは教えを信じ領受するという意で、仏の救いに対して疑いなく信じることです。親鸞聖人が「疑蓋雑はることなし」「ふかく信じて」等と仰っているものです。これは凡夫が自分で起こす信心ではありません。如来より回向せられる大信心ですから、

「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「信文類」経釈文自釈

と示されています。真宗では、本願を「信じ」るというのは本願を疑い無く「聞く」ことの他には無いということで、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。一念多念証文

と仰せです。ですから、本願を「信じ」るというのを平たく言えば、

「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という本願を疑い無く、我が胸に持ち替えずにそのまま聞き受けて

ということです。如来の仰せに対して我が考えを差し挟まず、仰せが届いたそのままが「信心」ということです。如来の仰せを素直に聞いて、そのまま受け容れたすがたが「信心」ということです。そのまま受け容れたら、

名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる

という本願なのですから、必ず「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と念仏称えるのは当然のことです。また、受け容れる前であっても、「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という本願をお聞きしたなら往生には念仏一行となるのも当然のことです。これに念仏以外の余行を交えていたら、お前何を聞いてるんだという話になるでしょう? 阿弥陀仏は

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。『選択本願念仏集』難易義

称名念仏一行を本願の行として選び択り、あまねく一切衆生を浄土に往生させようという本願をお建てになったのですから、疑い無く信じる前であってもそうした本願であることを聞いたなら、称名念仏一行となるのは当たり前のことです。ですから、高森会長の話を聞くことや財施や破邪顕正などが獲信の因縁(宿善)になるとして、これらを修めて助かろうとしている者が阿弥陀仏の本願を知らないというのは明白な事実です。更に目指しているところが往生ではなく

「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、夢・幻のようなこの世の幸せ

では方向違い、見当違いもいいところです。浄土真宗とは無関係の異教徒がやることです。

さて、それで「本願を信受」するとは本願が成就したすがたである南無阿弥陀仏を信受するということです。私達の往生は南無阿弥陀仏の名号によるしかないと、往生には念仏一行と定まり、我が手を離れて阿弥陀仏に100%往生をおまかせした、託したということです。その時に自力の計らい、前念が命終わり、同時に正定聚の数に入ると明らかにされたのが『愚禿鈔』のお言葉です。

同じく念仏一行でも、称えた念仏に功徳があると思って、それを積み重ねて助かろうという自力の念仏一行ではありません。阿弥陀仏に全ておまかせした他力の念仏一行です。私が「助かりたい」と思う遥か以前から、「まかせよ、助ける」と願われ、差し向けられている救いの御名が、私の口を通して顕現しているのが「なんまんだぶ、なんまんだぶ」というお念仏なのです。

われとなえわれ聞くなれど南無阿弥陀仏
 つれてゆくぞの親のよび声(原口針水和上)


とは、そのようなお心をうたわれたものでしょう。「助かりたい」という自力の臭みは全くなく、「まかせよ、助ける」の仰せに「お順いいたします、おまかせいたします」と信順した他力の念仏一行です。

余談ですが、自力の念仏一行さえ報土には参れません。念仏と雑行の兼行なんて論外です。まして念仏と雑行の兼行まがいのことをやっている会員の皆さんが「本願を信受」できないのは至極尤もな話なのです。


このように、往生には念仏一行と本願の仰せを疑い無く信じて念仏を称えるのがまこと本願のお心にかなった念仏の行者だということを、親鸞聖人は

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

とお示しなのであります。それに対して、往生には念仏一行どころか、

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

等と念仏一行を否定しているのは何宗の者なのでしょうか? 少なくとも浄土真宗でないことは明らかです。

こんな偽の創作教義、創作アニメを浄土真宗だとして信じて聞いている人はまことにお気の毒です。早く、このような邪義を言う悪知識の手から離れて本物の浄土真宗を聞き、「念仏する者を極楽へ迎えよう」という本願をそのまま受け容れて念仏して頂きたいと思います。



【追記】
林遊@なんまんだぶ様より、「前念命終」と「共発金剛心」についてリンクを貼って頂いたので追記します。

前念命終
共発金剛心
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存在しない「宿善を厚くする教え」を説き、説かねばならない「南無阿弥陀仏の六の字のこころ」を説かないのが、高森顕徹会長が会員の後生などどうでもよいと思っている何よりの証拠

今年の6月に、東名高速道路でワゴン車が大型トラックに追突され、夫婦が死亡した事故がありましたが、ワゴン車の進路を塞いで停止させ、追突事故を引き起こしたなどとして犯人が逮捕されたようです。

妨害行為、走行車260台から裏付け 東名夫婦死亡事故

視界がどうしても悪い夜間に、時速100キロ、場合によってはそれ以上出している車がバンバン走り抜けていく高速道路の、しかも路肩ではなく追い越し車線に無理やり停車させたというのですから、殺人罪だと私は思います。後続車が追突するであろうことは容易に想像できたはずです。可哀想に、お子さんが二人いらしたようですが、両親をいっぺんに亡くしてしまって、その悲しみ、憤りは如何ばかりかと不憫でなりません。

私も、高速道路の追い越し車線で事故が起きて間もなく、あわや前方の事故車両に追突というところで緊急回避した経験、また、高速ではなく一般の道路ですが、同じようにいちゃもんをつけてきた車に進路を妨害されて停止させられ、殴られた経験がありますから、黙っておれずに記事に起こしました。

どうしても運転をしているとこのような局面に出くわすことがあります。勿論、悪いのは逆上して進路を妨害して停車させ、いちゃもんをつけてくるこのようなクズです。もし読者の方がこんなクズに出くわし、停車させられたら、窓は閉めてドアロックし、すぐに110番通報して助けを呼びましょう。高速道路だったら、できたら路肩に止まって下さい。もし走行車線に停車させられたら、すぐに車から降りて中央分離帯へ逃げましょう。車両付近に留まらず、できるだけ離れましょう。そしてやはり110番通報して助けを呼んで下さい。相手のナンバー、車種、色、(大抵は男ですが)性別、見た目の年代、身長、体格、その他様々な情報を入手して伝えるのも大事です。


さて、お子さんの証言によると、事故当時ワゴン車に乗っていた一家は、事故が起きる直前にパーキングエリアに寄ったそうです。その時、この夫婦はまさかこの直後に自分達が死んでいかねばならないとは思っていなかったでしょう。まさに死の縁無量です。いつ何時、どのような形で死んでいかねばならないか分かりません。しかもそれが今日や明日にも迫っているかも知れないのです。このように書いている淳心房も、今は死ぬつもりはありませんが、さるべき業縁がやってきてこの世の終わりとなるかも分かりません。しかし、今はそのように思っていますが、時が過ぎれば元通り、生きることに安心し切ってすぐに死を忘れてしまいます。

ですから、今日聞いて今日助かる教え、今晩聞いて今晩助かる教えでなければ、親鸞会でいつも使う言葉で言うなら「一念の救い」でなければ我ら無常迅速の機は助かりません。では、親鸞会で説く「一念の救い」とやらは本当に「一念の救い」なのでしょうか?

親鸞会で「一念」というと大概「時剋の一念」のことで、「アッともスッとも言う間もない極めて短い時間」だと説明されます。それを、黒板の絵では縦の線で表しているということなんですが、この「一念」に到達するまでものすごく時間がかかるのが親鸞会の教えです。「一念」に至るまでの道程を横の線で表しているということなんですが、その横の線を今回の報恩講で出てきた「宿善」という言葉を使って表現すれば、

熱心な聞法、五正行の実践、六度万行の実践をして薄い宿善が次第に厚くなり、やがて開発する道程

ということです。これ、1日や2日、1ヶ月や2ヶ月、1年や2年で縦の線まで到達できますかね? もしこれが到達できるのであれば、『私の白道』3で紹介されている方の嘆きなどは無かったでしょう。

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30年近く求められ、聴聞も県で一番位回数が多く、アメリカ、ブラジルだろうと高森先生の御法話には一座も欠かされたことが無く、支部の御法話、会合も全日程参加でアニメ頒布にも、実に真面目に回われました。

財施額も常に県でも上位、高森先生との高額財施者の親睦会、会食会は常連でした。副支部長として生活の全てを親鸞会の活動にかけられ、本会からも、貴方は会員の模範だと、何度も表彰状を受けた方でした。

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こんな人でさえダメなんですよ? そして病床で、やって来た嶋田さんに

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こんなになって聴聞に行けんようになったー、どうしょうー。宿善積めんようになったー。困ったー弱ったー
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と仰ったということなんですよ? 現在、この方より親鸞会の活動に熱心な方はどれだけあるでしょう? 自分だったら絶対この人のようには活動できないです。この方がダメで、一体誰なら「一念の救い」まで到達できるんですか? また、

『あなたの白道』嶋田久義元講師の奥様の手記
『あなたの白道』とくよしみねさんの手記
『あなたの白道』RCさんの手記

にあるようなお三方も相当に活動されていた方々と見受けますが、これらの方々でさえダメなんです。

ですから、求めても求めても、安心も満足もない、「一念の救い」とやらに到達する気配が全くない会員さんばかりでしょう。この現実を皆さんはどう捉えているでしょうか? 恐らく、次のように考えていると思います。

救われるのは「一念」だが、そこまでは時間がかかる

と。これって「一念の救い」ですか? 違うでしょう。結局、「一念の救い」どころか、「一生求め続けても獲られるかどうかという救い」になっています。一番活動しているはずの講師部員でさえ会員に無信心ぶりを見抜かれているのですから、一般会員など到底信心を獲られませんわね。

なぜこのようなことになるかと言うと、親鸞聖人の教えに「宿善を厚くする教え」というものは存在しないからです。そして、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を教えられず、それとは無関係な活動に従事させられていたからです。だから、聞いても聞いても、求めても求めても、信心も安心もなく、「聴聞せよ」「破邪顕正せよ」「もっと性根を入れて求めよ」の連呼で、死ねば必堕無間と後生を人質に取られて活動せざるを得ない状態に陥って、心からの喜びも満足もなく求めているというのが実態と思います。

この私を浄土へ迎え取り、仏にするという本願は成就して南無阿弥陀仏と成り、既に私に届いています。私は、只今、この場で、この私一人目がけて喚びかけられている「南無(我をたのめ、我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず助けるぞ)」の六字のこころをそのまま頂いてお念仏申すのみです。なんまんだぶ、なんまんだぶと称えて御覧なさい。「何としてもお前を助けるぞ」という阿弥陀仏の喚び声が私の口から出てきます。浄土真宗はこのなんまんだぶを聞く一つなんです。だから老少善悪の人を選ばず、なんまんだぶと深く信じて念仏する者は浄土に往生するのです。今聞いて今救われる教え、それが浄土真宗なのです。

その浄土真宗を、己の私利私欲のために利用しているのが高森顕徹会長です。会員の後生のことなど、どうでもよいのでしょう。存在しない「宿善を厚くする教え」を説き、説かねばならない「南無阿弥陀仏の六の字のこころ」を説かないのが何よりの証拠です。形だけは毎回蓮如上人の御遺言を説法の前に読んでいますが、会員の皆さん、これに騙されてはダメです。どうか高森顕徹会長の実態に早く気が付いて、邪義を唱える人の手から離れ、本物の真宗に遇って本願を信じ念仏して頂きたいと切に願います。

「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説くどころか、ここへ来て未だ「宿善」を厚くする行いがどうだと邪義を唱え続ける高森顕徹会長

頂いた情報からは、やはり高森顕徹会長は今年の親鸞会報恩講にて

南無阿弥陀仏の六つの字のこころ

を懇ろに教えるといったことはなかったようです。2日目はまず、アニメ映画『なぜ生きる』と絡めて、

信心決定とは「難度海を度する大船」に乗せて頂くこと。すると無明の闇が無くなる。

と話し、「無明の闇」=「後生暗い心」だとして、

無明の闇を破れると、後生がハッキリする

という邪義を繰り返したとのことです。呆れてしまいます・・・。


信後であっても後生が我々の上でハッキリするものではないことは、

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。
『執持鈔』

より明らかです。『私の方から、浄土へ参るとも、また地獄へ行くとも、決めてはならない。法然聖人の「源空が生まれるところへ行くのだと思って下さい」という仰せを確かに承った上は、たとえ地獄であっても法然聖人のいらっしゃるところへ参るのだと思うのである』というのです。信心決定したとて浄土の様相を見たわけではありませんから、相変わらず死んだらどうなるか分かりません。当然ですね。親鸞会の言葉で言えば「後生暗い心」のままです。そのまま、死後どうなるかまで含めて、すべて「如来の御ちかひ」におまかせしたのを「他力に帰したる信心発得の行者」というのであって、私の自覚の上で「極楽参り間違いなしとハッキリするわけではありません。私達の側としては、「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という本願を深く信じて念仏申すのみです。このように、死後、どこへお連れ下さるかを阿弥陀仏におまかせしたのを「信心決定」というのであって、「後生がハッキリする」だとかいう説は浄土真宗に無い珍しき法です。


今回、このことでもガッカリしたのですが、もっとガッカリしたことがあります。それは、

どうすれば「信心決定」できるのか

ということで蓮如上人の「まことに宿善まかせ」の言葉を出し、

「宿善」を厚くする行いについて、一番は聞法

だと話したということです。ここへ来て未だ「宿善」を厚くする行いがどうだと邪義を唱え続ける姿勢に、

あぁ、高森顕徹という人物には、一貫して会員の皆さんに「信心決定してもらいたい」などという気持ちは更々無いのだな

と再認識させられました。会員の皆さんはこのような教えを聞き、

・重ねて重ねて聴聞した先に決勝点がある
・重ねて聴聞すれば信心決定できる


という間違った観念をより一層強固にしたことでしょうが、「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」といった教えは浄土真宗に無いデタラメ創作教義です。簡単に言えば、親鸞聖人の教えを信じて聞ける「宿善の機」と、信じるどころか反って謗るような「無宿善の機」を分別し、「宿善の機」に法を説けというのが蓮如上人の御教示であります。どこにも、宿善を厚くする手段としての聞法、おつとめ、諸善の勧めはありません。宿善については、最近

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(1)

でも触れましたが、今回の報恩講で高森会長がまたしても「宿善」を厚くする行い云々と抜かすとは正直思ってもいませんでした。この親鸞会の邪義については、上のエントリーのリンク先に詳しく詳しく書かれていますので、まだ知らない方はぜひともお読み頂きたいと思います。また、当ブログでも今後重ねて宿善について触れていきたいと思います。


浄土真宗では、本願が成就して南無阿弥陀仏と成り、「我をたのめ、我にまかせよ、必ず浄土に迎えるぞ」とお喚びづくめであるということをそのままお聞きし念仏しなさいということを教えられています。南無阿弥陀仏、要は「そなたを助けるぞ」を、素直に、そのまま、聞き受けた、受け容れたのです。これが

南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理

であり、

南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり

なのです。この「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」をお聞きするのを「聞法」とか「聴聞」というのです。宿善を厚くして、信心決定に近づく行為を「聞法」「聴聞」というのではないのです。

おつとめにしても、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を正信偈や和讃、御文章を通してお聞きする行為であって、「聴聞」と同じです。五正行の実践だとかいう宿善を厚くする行為ではありません。

念仏以外の諸善は往生のためには「雑行」と言われ、「もろもろの雑行をなげすてて」と説かれている行為ですから勧め自体がありません。六度万行の実践だとか言ってお布施(献金)、破邪顕正(勧誘)、また会長や上司への無条件服従を親鸞会では勧めていますが、たとえ如実の善だとしてもそれらは「なげすてて」と言われる「もろもろの雑行」です。そんな「もろもろの雑行」をやりまくっている者が「一心に弥陀に帰命」することもなければ、「不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ」こともありません。正定聚の位に入ることもなければ、御恩報尽の念仏を称えるということもないことを、会員の皆さんはよくよく知るべきです。

今回の報恩講で、高森顕徹会長は会員の皆さんに信心決定してもらおうなどという気持ちは更々ないことが改めてハッキリしました。会員の皆さん、これ以上無駄な犠牲を出さぬよう、後悔をせぬよう、一刻も早くトンデモ邪義を唱え続ける悪知識から離れて下さい。そして、本物の真宗に遇い、南無阿弥陀仏の六字のこころをそのまま聞いて念仏し、浄土往生の本懐を遂げて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

批判を恐れて当たり障りのない話しかしない高森顕徹会長

今年の親鸞会報恩講では、高森顕徹会長は説法形式ではなく座談会形式で話をしたそうです。内容は

「蓮如上人の御遺言」

であると説明し、高森顕徹会長がいつも「形だけ」読んでいる

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。(『御文章』4帖目15通)

についてでした。

親鸞聖人、蓮如上人は生きている間に、皆が信心決定してほしいと、そのこと一つ教えていかれた

と話して「信心」の説明をしていった高森会長ですが、結局はいつもと同じく、

「鰯の頭も信心から」の信心とは違う。阿弥陀仏より賜る「まことの心」だ。

という以上の説明はなかったようです。批判を恐れて当たり障りのない話しかしなかったことが伺えます。これでは、会員の皆さんは、頭に染み付いている

・光に向かう教え
・信一念とそれまでとを分ける教え
・宿善を厚くする教え
・三願転入の教え


によって阿弥陀仏より「まことの心」を賜る一念の決勝点までより真剣に聴聞し、活動しようとなるだけですし、新しく縁のあった人は「どうしたらまことの心を賜ることができるのか?」と疑問に思い、そこから死ぬまで求道の教えへと誘導されるだけです。


ところで、高森顕徹会長が「信心」の説明に用いた根拠は『御文章』1帖目15通

信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。

か覚如上人の『最要鈔』

この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるゝなり。

でしょうが、そのいずれにも出てくるのが「本願成就文」です。成就文の、

聞其名号 信心歓喜

の「信心」について覚如上人、蓮如上人が解説されているお言葉であることが分かります。ですから『御文章』には

『経』(大経・下)には、「聞其名号信心歓喜」と説けり。「その名号を聞く」といへるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実にきくにあらず、善知識にあひてそのをしへをうけて、この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。
これを『経』に「信心歓喜」と説かれたり。これによりて、南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。


とあり、『最要鈔』には、

聞其名号という聞は、善知識にあふて如来の陀力をもて往生治定する道理をきゝさだむる聞なり。
おなじ「経」(大経巻下)に「其仏本願力・聞名欲往生」ともみえたり。
またこの「経」の流通にも「其有得聞・彼仏名号」とらあり。
宗師の御釋にも「弥陀智願海・深広無涯底・聞名欲往生・皆悉到彼国」とらいへり。
また祖師鸞聖人の御釋にも「本願の生起本末をきくべし」とみえたり。
経釋すでに聞をもて詮要とせられたり。
よくきくところにて往生の心行獲得する條顕然なり。しるべし。


と教えられています。「其の名号を聞いて信心歓喜せん」ですから、「其の名号」たる「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」を聞かなければ「信心」もへったくれもないわけです。では親鸞会の報恩講に縁があった方にお聞きしますが、今回高森顕徹会長は「其の名号」たる「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」を説いたでしょうか? 世間で言われる「鰯の頭も信心から」の信心については長々と説明しても、「信心」の体である「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」については何の説明もないといってもいい位説明しないのが高森顕徹会長です。

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
(『御文章』5帖目11通)

今回の報恩講でもお勤めの際に読まれたかも知れませんが、私達が聞かねばならないのはここなのです。会員さんはこの蓮如上人のお言葉が耳には聞こえていても、頭には全く入っていないと見えます。

南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。

ですよ? だから蓮如上人は御文章に重ねて六字釈を施されているのです。これを説かなければ、聞く者が「信心決定」も何もあったものではないことがお分かり頂けると思います。

ではなぜその「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を説かないのか。考えられる理由は2つです。

1、高森顕徹会長が「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を知らない。
2、知ってはいるが、聞く人に「信心決定」させるつもりがない。


いずれにしても、高森顕徹会長の目的は会員の獲信・往生とは別にあると見て間違いありません。だから、

高森顕徹会長がいつも「形だけ」読んでいる

と冒頭申し上げたわけです。


会員の皆さん、今回の報恩講で、目的の「信心決定」は果たせましたか?

「決定」というハッキリとする瞬間、受け取る前と受け取った後と分ける線がある

だとか、「信心決定」によって「難思の弘誓は難度海を度する大船」の大船に乗せて頂けるだとか説いていたようですが、肝心要が抜け落ち、このような邪義を唱え、大船に乗れば

私達の苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります

だとかアニメの蓮如上人に言わせて現世利益を夢見させている高森顕徹会長の話をまともに聞いている限り、浄土真宗の「信心決定」もなければ「念仏の行者」となることもないことを知るべきです。

ブログ「あなたの白道」(嶋田久義元講師)の案内                               及び 成就文から念仏も死後のことも取り去ってニセモノの本願を説く高森顕徹会長

『私の白道』で知られる嶋田久義元講師が新たなブログを書かれていますので以下に紹介します。

『あなたの白道』

当ブログのリンク先(右下)にも追加しています。関心のある方はどうぞご覧下さい。



さて、前回の続きです。まずは聖人のお言葉を今一度挙げます。

『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。

「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。

また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。
一念多念証文


今回は「乃至一念」からでありますが、それについては、

「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。 「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。

とお示しです。「乃至」とは、数が多いとか少ないとか、時間が長いとか短いとか、次第の前とか後とか、そういったもののすべてが包摂されている言葉だというのです。この「乃至」からは、念仏は百遍でも十遍でも一遍でも、あるいは一遍も無くてただ本願の名号を聞くだけでも往生が可能であるように成就されているのが本願名号の救いであるということと、信一念より命終わるまで念仏の行者は一生涯に亘って念仏を相続していくということの、二つの方向が含まれていることが伺えます。

一念」については、『一念多念証文』では「信心をうるときのきはまりをあらはすことば」であるとされ、信心がおこる時の極限を顕した言葉であるといわれています。いわゆる「信の一念」、「信楽開発の時剋の極促を顕」されたお言葉ですが、では本願成就文の「一念」には「信の一念」の時剋釈のみで「行の一念」、すなわち念仏は無いのかと言ったら「称名の一念」の意味があると存覚上人は仰せです。詳しくは

『飛雲』念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

をご覧下さい。本願を「念仏往生の願」と言われるからには、その「念仏往生の願」成就の文には当然念仏があるのです。その当然あるはずの念仏を成就文から除いて、訳の分からない「信心」を教えているのが高森顕徹会長です。恥ずかしいことに高森会長は『教学聖典(3)』にて

問 阿弥陀如来の本願でハッキリせぬ四つのことが、釈尊の『本願成就文』でどのようにハッキリするかを示せ。
答 (中略)
  ○信心が正因か念仏が正因か判らぬ ― 念仏がないから信心一つ

という珍回答を載せています。はぁ? 「念仏がない」だぁ? こうして念仏が除かれ、訳の分からない「信心」が独り歩きして、「地獄一定と極楽一定が同時にハッキリしたことだ」とか、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽が獲られたことのように誤解している会員の皆さんがほとんどかと思われますが、飛雲さんの言葉を借りれば「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」が信心です。念仏と離れた「信心」は浄土真宗の信心ではありません。「信心正因」「信心為本」「唯信独達」とは言っていても、肝心の「信心」が何なのか全くもって知らないのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。


次に、先日の講師部講義でチラッと出てきた「至心回向」についてですが、親鸞聖人は

「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。

と仰せです。阿弥陀如来が、真実の御心をもって、「本願の名号」すなわち南無阿弥陀仏を十方衆生に与えて下されるというのです。高森会長は「何を」与えて下されると言ったのか、或いは「何を」の部分は話をしなかったのか、頂いた情報のみからは分かりかねますが、南無阿弥陀仏を頂くのです。それが心に頂かれたのを「信心」といい、口に出れば「念仏」といいます。「信心」も「念仏」も体は同じ、南無阿弥陀仏の名号であります。であるから、往生のみちは「ただ念仏して」と言われるのです。これに「信心」という言葉を付け加えるなら、「ただ『念仏一つで助かる』という信心で念仏して」となります。もう一度言いますが、念仏と離れた「信心」は浄土真宗の信心ではありません。


それから「願生彼国」にも触れておきましょう。これについては、

「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。

とお示しです。かつて本願文の「若不生者」についての法論がなされていたおよそ9年前、教学講義にて「若不生者」の「」は「「信楽」に生まれさせることだ」とこだわる高森顕徹会長はこのように明言しました。

成就文には死後のことは説かれていないから、本願文に死後のことが説かれているはずがない

と。じゃあ「本願の報土へ生れ」るのはいつですか? 当然死後です。死後の「本願の報土へ生れんとねがへ」と仰せです。現生では必ず「本願の報土へ生れ」る位に定まり、臨終一念の夕べに「本願の報土へ生れ」るのです。ちゃんと「死後の往生を願え」と死後のことが説かれているじゃないですか。成就文に死後のことが説かれているから、本願文にも当然死後の往生が説かれています。それを親鸞聖人は

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)

と仰っているのです。そもそも「往生」の語源は法然聖人の「捨此往彼 蓮華化生」(『往生要集大綱』)の語に由来し、その往と生で「往生」ですから、「生きているときの往生」などと言ったりはしないのです。「即得往生」の語は、「正定聚の位につき定ま」ったことをいうので、これを「生きているときの往生」などとは言いません。「不体失往生」にしても、平生に必ず往生すべき位に定まったことを「体失せずして往生す」と言われているのです。別に「生きているときの往生」と「死んでからの往生」と二つの「往生」があるのではありません。

生きているときの往生」=「不体失往生
死んでからの往生」=「体失往生

と親鸞会では捉えているでしょうが全く違います。『口伝鈔』一 体失・不体失の往生の事をよくお読み下さい。往生はあくまで死んでからです。その往生すべき位に定まるのが平生か臨終かというのが体失・不体失往生の諍論です。書かれているお二方の主張は以下の通りです。

親鸞聖人 ― 往生が平生に定まる ― 念仏往生の機 ― 18願 ― 不体失往生
証空上人 ― 往生が臨終に定まる ― 諸行往生の機 ― 19願 ― 体失往生


生きているときの往生」などというのは語義からの逸脱であり、高森顕徹会長の無知も甚だしいです。


このように成就文から念仏も死後のことも取り去ってしまうから、会員は念仏を軽視して信心のオマケのように思い、浄土往生ではなく「夢・幻のような現世の幸せ」を願ってしまうのでしょう。死後の浄土も結構だが、それよりも今のこの苦しみを何とかしてもらいたい、「絶対の幸福になりたい」「幸せな人生にガラリと変わりたい」が本音ではありませんか? そしてそのために推進される活動な活動に励んでいるのはありませんか? そんなだから、阿弥陀仏が遠く感じられてしまうのです。阿弥陀仏のねらいは私を浄土往生させることにあり、そのために本願を信じさせ、念仏を称えさせようとしているのです。試しに浄土往生を願って、様々な活動を止めて念仏一行を称えてごらんなさい。今まで遠かった阿弥陀仏が、近く感じられませんか?

親鸞聖人は念仏と諸善を様々に比較されていますが、その中で

親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。


と教えられています。親鸞会の活動が諸善の中に入るとしても、それは雑行であり、阿弥陀仏から疎遠であり遠く離れた行であって、そんな雑行を修める者を阿弥陀仏の光明は摂め取っては下さいません。浄土真実の行である念仏一行を、本願を疑い無く聞き受けて称える者を、阿弥陀仏は必ず摂め取って決してお捨てにならないのです。会員の皆さんには、早く念仏と死後のことが抜けたニセモノの成就文、及び念仏の抜け落ちた訳の分からない信心を獲させるニセモノの本願を説く邪義と決別して本願を計らい無く聞き受け、本願の名号を専ら修めて往生を願う念仏の行者となって頂きたいものです。

以上、簡単ではありますが、成就文を介して本願のお心を伺いました。あらゆる人々が、諸仏が褒め称える南無阿弥陀仏の名号を聞いて、信じ喜ぶ心がおこるとき、それは阿弥陀如来が真実の心をもってお与えになったものであるから、本願の報土に生まれたいと願うその時に往生が定まり、正定聚不退転の位に住する。これが本願の救いだと明らかにされたのが釈尊であり親鸞聖人です。私達はこうした浄土真宗を計らいなく聞いて念仏申すのみです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。


【参照】及び【参考文献】
一念多念証文(現代語訳)
『WikiArc』トーク;一念多念証文
親鸞聖人における現生正定聚の意義

批判に応じて話のスタイルを変えるも、本人が真宗に無知なために意味不明な説明で終わっている高森顕徹会長

日曜日の講師部講義では、またも片手に余るレパートリーの中、

映画『なぜ生きる』の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
の「大船に乗せる」について


だったそうです。私は又聞きなのでどうか知りませんが、今回はお約束の内容は

至心信楽 欲生我国(至心に信楽して我が国に生まれたいと欲う心)

だとし、その説明に「絶対の幸福」という文言は使わなかったようです。『飛雲』などで様々に批判され、それに応じて説法の内容をコロコロと変えるのが高森顕徹会長ですので、今回はそうしたのかも知れません。

それで、「至心信楽 欲生我国(至心に信楽して我が国に生まれたいと欲う心)」とはどのような身になるのかという説明に本願成就文を出し、

信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転

がそれに当たり、阿弥陀仏がまことの心で差し向けて下される、与えて下される、乗せて下される、それが「至心回向」だと話したというのです。それにより「信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」の身に死んでからではなく、生きている今なれる、それを親鸞聖人は「不体失往生」と明らかにされた、ということなんですが・・・。しかし、この説明では

至心信楽 欲生我国(至心に信楽して我が国に生まれたいと欲う心)とはどのような身になるのか

の答えになっていません。読者の皆様はこれで分かりますか? 結局、批判に応じて話のスタイルを変えるも、本人が真宗に無知なために意味不明な説明で終わっていることが伺えます。こんな説明になっていない話を聞かされ、普段は因果の道理に縛られて活動の延長線上に救いを眺めている会員の皆さんが、「至心回向」が分かる方がおかしいというものです。


まず、細かい事ですが。「どのような身」とか言っておりますが、「至心信楽 欲生我国」は信心です。「本願の三心」と言われるでしょう? なので、「どのような心か」、「どのような信心か」と言わなくてはなりません。私達の身体が変化するわけではないのです。超サイヤ人のように見た目が変化する、或いは見た目は変化しないが言動がガラリと変わるというのであれば別ですが、そうでない以上「どのような身」という表現は適切ではありません。

さて、本題です。普通は、本願文の説明をするのであれば『教行証文類』や『尊号真像銘文』を出すでしょう。せっかく親鸞聖人がこのようにご解説されているのにそれを用いないで、よく親鸞学徒だとか言えるものだと感心してしまいます。今回は『尊号真像銘文』より伺いたいと思います。

「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。
「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。
「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。
尊号真像銘文

最初に、「至心」とは「真実」であり、「如来の御ちかひの真実なる」を至心というのだと言われています。阿弥陀仏の本願が噓偽り無く、また外見ばかり立派で中身が伴わないということもない、まことの誓願であることを「至心」と言われています。対して私達は、「煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。」と仰せのように、元来まことの心、清らかな心を持ち合わせておりません。そのような私達に「至心」を起こせ、真実心を起こせと言われても無理です。ない袖は振れません。そこで、これは後に

御ちかひの至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。

とあるように「御ちかひの至心信楽」、成就文で言えば「至心回向」すなわち阿弥陀仏より恵み与えて下される「至心」であって「凡夫自力のこころ」ではない、「凡夫自力のこころ」で起こす信心ではないということが分かります。

次に、「信楽」ということについて聖人は

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。

と仰っています。阿弥陀仏の本願が真実であること、つまり私達を必ずお救い下さる、浄土往生の証果を得させるということを二心なく深く信じて疑いない心ということです。それから改めて、

この「至心信楽」は、すなはち十方の衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまへる御ちかひの至心信楽なり

と仰っています。至心信楽というのは、十方衆生に「私の真実なる誓願を疑い無く信じなさい」という阿弥陀仏の仰せ、お勧めなのだというのです。「真実なる誓願」とは、つまり「浄土往生させるぞ」、ごく簡単に言えば「助けるぞ」ということですから、「浄土往生させるぞ」「助けるぞ」の仰せを疑い無く聞きなさい、疑い無く信じなさいということです。この「疑い無く信じる」というのも私達の心で疑わないように深く信じ込むということではなく、「御ちかひの至心信楽」、すなわち阿弥陀仏より賜る信心であります。

そして最後の「欲生我国」については、

「欲生我国」といふは、他力の至心信楽のこころをもつて安楽浄土に生れんとおもへとなり。

と仰っています。こちらも先ほどまでと同様、私達の「凡夫自力のこころ」でもって阿弥陀仏の浄土に生まれたいと思うのではありません。「他力の至心信楽のこころをもつて」安楽浄土に生まれると思いなさいということです。つまりは「浄土に生まれさせるぞ」という阿弥陀仏の仰せをそのまま受け容れて「浄土に生まれられる」と思いなさいということです。

問答形式にすると、このようなことです。

Q.「至心信楽 欲生我国(至心に信楽して我が国に生まれたいと欲う心)とはどのような心か?
A.阿弥陀仏の本願が噓偽りない真実であることを二心なく深く信じて、阿弥陀仏が仰せの通り「安楽浄土に生まれる」と思う心

ただ、親鸞会の会員の皆さんはちょっと理解不能かも知れません。皆さんは「絶対の幸福」だとか「幸せな人生にガラリと変わる」と叩き込まれていますので、そんな身にしてみせるというのが阿弥陀仏の本願だと信じている内は本願の仰せを疑い無く聞くことは難しいでしょう。阿弥陀仏の本願とは、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』第12通

と仰せのように、「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という誓いです。この世で「絶対の幸福にしてみせる」とか、「苦しみの人生を、幸せな人生にガラリと変えてみせる」という誓いではないのです。この世を明るく楽しく、大安心大満足で生きようと願うなら、阿弥陀仏の本願以外の方法で、自力修行で成仏を目指すなり、自己啓発セミナーに通うなり何なりでお願いします。

また、そんなだから「どのような身」と聞いてすんなり受け入れられるのですし、「お釈迦様が45年もかかって説かれた教えが簡単に分かるわけがない」との先入観と今までの経験から、理解できない我々が悪いと思考処理しているものと思われます。ハッキリ言いましょう。高森顕徹会長の話が間違っている上に意味不明だから理解できないのです

私達は、「念仏を称える者を極楽へ迎えよう」という阿弥陀仏の真実なる誓願を二心なく深く信じて念仏するのみです。この誓願は既に成就して南無阿弥陀仏と仕上がっておりますから、この名号がわたしに今現にはたらいていると聞いたなら私の計らいは無用なのであり、名号願力にまかせて往生を願うばかりなのです。こうした名号のいわれを「」くのが「信心」すなわち「至心信楽 欲生我国」であります。「与えて下される」と聞くと、今まで無かった何かが心に入ってくるように思いますが、名号のいわれを聞くままが信心ですから、そういった心の変化を追い求めるのではなく、ただ「浄土往生させるぞ」という本願をそのまま聞いて頂きたいと思います。

成就文を出したまではよかったですが、今回はいつも話す「聞其名号」が無かったですね。まぁ出しても本願の説明が間違っているので何ですけど・・・。

念仏往生? 一念義? 多念義? いや、邪義です。

親鸞聖人は第十八願の教法を「念仏往生」と度々仰っています。

浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。(一念多念証文)

この『一念多念証文』とは、一念とは一念義のこと、多念とは多念義のことです。一念義とは、浄土往生は信心ひとつで決定する、またはひと声の称名で決定するとし、その後の称名を軽視する説です。これに対して多念義とは、浄土往生は一生涯数多くの念仏を称え、臨終来迎をまって往生が決定するとする説であります。親鸞聖人在世の頃、法然門下の諸流派がこの一念多念をめぐって互いに論争したことを受け、専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義であることを明らかにされたのがこの書物です。

これを踏まえて考えてみますと、親鸞会の教えは一念義に近いものがあります。「信心正因 称名報恩」が行き過ぎて信心を強調するあまり念仏がおろそかになり、「念仏は信後報謝に限る」とか、「信前も信後も念仏はお礼」と言って、選択本願の大行である念仏を軽視しています。また、高森顕徹会長の

本願寺は、念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助けと説いている

という本願寺批判の言葉等から、会員は「信前の念仏は信心獲得するのに無意味」との異安心に陥っているとも考えられます。念仏は、

一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業、順彼仏願故。

と教えられる通り、彼の仏願、阿弥陀仏の本願に順ずる行為であるから、正しく往生が決定する行業であります。阿弥陀仏が本願において、一切の諸行を廃して唯一選び択られたのが念仏ですから、そのいわれを信じて念仏する者は必ず浄土往生の証果を得るというのです。「順彼仏願故」の意味が分からず、また信一念とそれまでとを分ける教えによって「一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者」が只今のことだと受け容れられないことから、会員は念仏を「正定之業」だなどとは到底思えなくなっていると推測されます。まぁ「信心正因」と言われてはいても肝心の「信心」の内容が間違っているので、実際のところは一念義とは程遠いものがありますが・・・。

一方で、親鸞会では独特の「光に向かう教え」「宿善を厚くする教え」「三願転入の教え」「信一念とそれまでとを分ける教え」によって、会員は只今の救いを只今の救いと捉えられなくなっています。親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」だと言ってはいますが、「一念の救い」にあずかるまでにはやれ因果の道理だとか、やれ廃悪修善だとか、やれ後生に驚き立たねばならんとか、やれ19願から始めなければならないとか、いくつもいくつも関門を設けています。

会員は求めるほどにそれだけ「一念の救い」に近づいているかと思いきや、結局因果の道理も心から分かっていないと間接的に教えられてまたスタート地点に逆戻りということを繰り返しているかと思われます。そんなことを何年と繰り返していれば、「死ぬまでに助かれば万々歳だ」としか思えなくなるのは道理でしょう。加えて、後生の一大事、一生参学の大事と繰り返されるほどに、助かるには一生涯に一回でも多く高森顕徹会長の話を聞き、活動を続けてようやく「一念の救い」にあずかれるかどうかだという理解に至るのは容易に想像できます。そうなりますと、そういった意味で親鸞会は多念義にも通ずるところがあります。ただやっていることが念仏相続ではなく邪義を聞き続けることと、善もどきの善の相続では多念義とも違いますが・・・。

詮ずる所、タイトルにも示した通り親鸞会教義は、念仏往生? 一念義? 多念義? いや、邪義です。浄土真宗を知り、浄土往生を遂げたい方は早く見切りをつけて離れることをお勧めします。


【参照】
『WikiArc』一念多念

「正雑の分別」ができていない者が、「一向一心」になることも、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す」こともあるわけがない

日曜日の高森顕徹会長は相変わらず「絶対の幸福」「ガラリと変わる」を連呼し、真宗もどきの話をしていたようです。真宗の皮をかぶるためにお聖教の言葉を出しているのみで、浄土往生の正しい教えも行も教えられませんから、それをまともに聞いて正しい信心を獲、報土往生・成仏の証果を得るなど奇跡です。

今回は「お疲れのため」だそうで、いつもの説法ではなく座談会形式での話だったそうですが、あのような高齢でも高森顕徹会長が話をしなければならない、会員は高森顕徹会長の話を求めて聞きに来ている、ということを考えるに、つくづく親鸞会というのは高森顕徹会長という「」に依っている集団なのだなと感じます。それが将来どのような結果につながるかは、推して知るべしでしょう。


さて、『顕正新聞』9月1日号「論説」へのツッコミ記事を書いていて思ったことがあります。会員の皆さんが救われないのは、もちろん間違った教えを正しいと信じているから、正しい教えを全く知らないからなのですが、これは言葉を代えると

「正雑の分別」ができていないから

と言えるのではということです(それ以前に、倫理道徳上の善悪の分別もできているか疑問ですが・・・)。

「正雑の分別」くらいできている!

と会員の皆さんは思うかも知れませんが、できていません。その証拠に、横の道を進んで信心決定に近づこうという目的でお布施をし、人を誘う活動をし、上司の無理難題にも「畏まりたる」と表面上つくろっていませんか? 「正雑の分別」ができていたら、こんなことはしないんです。たとえ親鸞会の活動が仏教の善に含まれるとしても、それらは「雑行」もしくは「正行と雑行の兼行」だからです。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
(化身土文類)

【現代語訳】
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。


まぁ実態を言えば、浄土に往生してさとりを開こうというのではなく「絶対の幸福」「ガラリと変わる」だとかいう「夢・幻のような現世の喜び」を追い求めており、勤行など一部の行為を除いて他は一新興宗教の組織拡大、私利私欲を満たすための活動ですから、親鸞会は「浄土門」でもなければ活動のほとんどは「雑行(諸善)」でもありません。一部経典や真宗用語を使っているだけの「新興宗教」すなわち「外道」であり、主たる活動の多くは「善もどきの善」「行もどきの行」つまり「悪行(諸悪)」です。こんな教えをまともに信じて親鸞聖人と同じ信心になれる方があり得ないというものです。


ところで、『御文章』1帖目1通に、蓮如上人は

うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな

という古歌を引いています。この意味について上人は、

「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おほきに各別なり。かるがゆゑに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。


と続けて教えられています。信前の「むかし」と、信心獲得の「こよひ」とで、違う点がいくつかあります。

むかし」・・・「雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもひつる
こよひ」・・・「正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す

その一つが、「正雑の分別」があるかないかだというのです。「雑行・正行の分別」もない会員が信心決定していないというのは至極尤もな話なのです。

また、信前の「雑行・正行の分別」もなかった「むかし」であっても蓮如上人は「念仏だにも申せば、往生するとばかりおも」っていたと仰っています。親鸞会の大好きな「諸善」いわゆる「雑行」をやっていたという記述もなければ、「諸善」「雑行」をやれば往生すると思っていたとも言われていません。信前にして既に往生行として「念仏一行」であったことが伺えます。信前も信後も関係なく、浄土真宗は往生行として「念仏一行」。これは当たり前の当たり前のことなのです。「正雑の分別をききわけ」るとは捨自帰他のことですが、それにはまず何が正行で何が雑行かを分別し、往生行は「念仏一行」となっていなければ話になりません。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
(「行文類」大行釈)

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。(「行文類」経文結釈)

その当たり前のことが教えられず、教義だけ見ても「雑行」もしくは「正行と雑行の兼行」を勧めているから

「正雑の分別」ができていない

と言っているのです。「正雑の分別」を聞き、浄土真実の行は「念仏一行」となって、それから念仏する心が自力か他力かということが問題になるわけで、「念仏一行」どころか念仏を軽視し、「雑行(という名の悪行)」をやりまくっている者は、高森顕徹会長の言葉で言えば「コンマ以下」なのです。

正雑の分別」ができていない者が、「一向一心」になることも、「信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申す」こともあるわけがありません。会員の皆さんは、まず正しい教えを聞いて「正雑の分別」をし、「念仏一行」になるところから始めてはいかがでしょうか。なお、私が勧めているのはあくまで「一向一心」の他力の念仏ですから、そこのところはお間違いなく。

追記 親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

親鸞会会員の誤解―「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある(1)

の記事に林遊@なんまんだぶ様からコメントを頂きました。

********************
聴聞という語について御開山は『平等覚経』の引文、

 宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。(行文類p.145)

の聴聞の左訓に

 ゆるされてきく、信じてきく

と、されておられますです。聴にはゆるすという訓もありますから、このように左訓されたのでしょう。

********************

記事を書いていた当時はこの左訓がすっかり頭に無かったもので、この記事で取り上げたいと思います。

親鸞聖人は、「行文類」大行釈の引文としてお示しの御文を述べておられます。→『平等覚経』
それともう一ヶ所、「化身土文類」善本釈でも引いておられます。→『平等覚経』

そして、この左訓を挙げて、多くの方がそれぞれ解説されています。

不自由な耳に聞こえる声 (聴と聞について)
若院のコラム(24) 聴聞とは
真宗の味わい 聴聞
かりもんの実践的!真宗法座論 ゆるされて聴く

他にもありますので、お時間ある方は調べてみて下さい。

ただ、どういう感じで親鸞聖人が左訓として施されているのか、原文が手元に無いので

「聴聞」=「聴(ゆる)されて聞(き)く」=「信じて聞く」

ということなのか、それとも

      「聴」ーゆるされてきく
「聴聞」<
      「聞」ーしんじてきく


ということなのかが分かりません。祖師は「聞」を「信」で表されていますので、漢和辞典等の意味を含めますと一見後者とも考えられますが、この場合は本願成就文の「聞其名号」の「」であって、この「」が『平等覚経』の「聴聞」の「」と同じであるかは不明です。また、「聴」を「ゆる」すと訓んだ場合、「先方の望みをきき入れる」という意味があるそうで、そうなると一概に後者とも言い切れなくなるのです。

聴すとは - Weblio辞書
聴すとは - コトバンク

等をご覧頂ければ分かるように、「聴(ゆる)す」には「願い・申し出などをききいれて、願いどおりにさせる」という意味があります。「き」くと読んだ場合と、「ゆる」すと読んだ場合で意味が変わるので、そうなると「ゆるされてきく」と「しんじてきく」は同じ意味ではないかとも取れるのです。それでこの左訓を挙げて、「聴」と「聞」を明確に分けて解説されているものもあれば、分けずに解説されているものもあります。「ゆるされてきく」とはどういうことなのか。また「しんじてきく」とはどういうことなのか。2つは同じ意味なのか違う意味なのか。これについて親鸞聖人のお言葉、ご解説があれば良いのですが、残念ながら無いので明確に分かりません。淳心房としましては、真宗では「聞」も「聴聞」も共に本願の名号を疑いなく聞くことを仰っているのだと拝察しますが、何しろ親鸞聖人が仰せになっていないことなので断定はできないです。


なお、今問題にしているのは『平等覚経』の「聴聞」ではなく、蓮如上人の『御一代記聞書』(193)

一 「至りてかたきは石なり、至りてやはらかなるは水なり、水よく石を穿つ、心源もし徹しなば菩提の覚道なにごとか成ぜざらん」といへる古き詞あり。いかに不信なりとも、聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり。ただ仏法は聴聞にきはまることなりと[云々]。

の「ただ仏法は聴聞にきはまる」の「聴聞」です。これについて高森顕徹会長が

・「聴」という聞き方と、「聞」という聞き方がある
・「聴」とはこのような聞き方である


と珍しい教えを説いています。会員の皆さんは聞いても聞いても「聞」と聞けない現実と、上の蓮如上人のお言葉から「雨だれが石に何十年と落ち続けてようやく穴が開く」と思考して、

・「聴」を重ね、「聴」の先に「聞」がある

としか考えられなくなっているので、そうした親鸞会会員の誤解を説かんとしています。


いずれにせよ、縦と横の線の図で言う「横の道」を求道の道程に当てはめ、「聴」により横の道を進んで縦の線の「聞」に至るという高森教の説は誤りです。更には「横の道」を二河白道の譬喩で言う「白道」に当てはめ、「聞」に至るまでのプロセスの意味で「聴」を定義づけ、勧めています。このデタラメ創作教義については

飛雲 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り8

にて暴かれていますのでご覧下さい。

何せ教えが正しくても、それを聞き重ねて信心を頂こうというのも悪い自力の心がけだと言われます。ですから、いくら高森教の邪義を真剣に「聴」き続け、重ねたところで、教えが間違っているので当然ながら本願を疑いなく「聞」くことはできません。私達は今、南無阿弥陀仏の勅命、「助けるぞよ」の仰せを仰せのままに「聞」き、仰せのままに「聴聞」し、受けて念仏するのみです。「聴」というプロセスを経なければ「聞」ときけないなどと思わずに、そんな邪説は速攻ふり捨てて、直ちに本願招喚の勅命に順って頂きたいと思います。

【考察】「晴れて大悲の願船に乗せていただくことができました」というブラジルの会員さんの手紙を『顕正新聞』1面に掲載した意図について

親鸞会発行『顕正新聞』平成29年9月1日号には、1面表紙に

「晴れて大悲の願船に」
ブラジルから届いた歓喜の手紙


と題して、あるブラジルの会員さんが高森顕徹会長に宛てた手紙の内容が掲載されています。そのブラジルの会員さんが、映画『なぜ生きる』を見て、「大悲の願船に乗せていただけた」というのです。このことは既に

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』親鸞会の今後がわかる「ブラジルから届いた歓喜の手紙」(顕正新聞平成29年9月1日号)

に書かれている通りです。新聞に依りますと、この方は学徒となって2年目の、30代のデザイナーだそうです。いつも通訳を通して高森顕徹会長の話を聞き、映画『なぜ生きる』を見ているようで、現在は直接日本語で聞きたいと、独学で「ひらがな」の勉強中とのことです。そんな方がよく、漢字・仏語をふんだんに使ったお礼状を書けたなと不思議でならないです。しかも文法も読んだ限りは間違いなく、親鸞会独特の言い回し(「・・・せずにおれません」とか)まで見られます。


さて、このブラジルの会員さんの信心が真実信心なのかどうかは定かではありませんが、以下、真実信心と仮定して話を進めていきます。

私は会員であった時、高森顕徹会長から直接聞かせて頂かねばならないと教えられ、遠方の法話も参詣していました。途中から富山のみの法話となりましたが、年に何十回も富山へ足を運び、意味の分かる日本語で、直接聞いていました。また勧誘活動もそれなりにし、少なくない額を献金してきました。それを何年も続けていましたが、救われる気配はおろか、横の道を一歩も進めていないのではないかと不安な日々でした。これが私のような者はダメだけれども、私よりはるかに頑張っている講師部員や先輩会員は救われているというなら話は分かるんです。しかし、支部長始め誰も

”我、十方に叫ぶ この世でいちばんの幸福者、否、大宇宙一の最高の幸福者と”
(他に難しい漢字が沢山使われているのに、なぜか「いちばん」がひらがな・・・)

とブラジルの会員さんが言っているような喜びを表現している人はいませんでした。それが今回、日本語が分からず通訳を通して聞いている方で、ほとんど直接高森顕徹会長から聞いたことがないであろう、現在「ひらがな」を勉強中の、学徒2年目の方が救われたというのです。


まず、救われたということ、体験談を『顕正新聞』1面に持ってくるということについて考えてみますと、ここから多くの日本の会員が救われない現実を不満、不安、不足に思っていることが伺えます。というのも、親鸞会は体験談が語られる浄土真宗華光会(親鸞会内では名前は出しません)や他宗教を非難し、教えが正しいということを謳っていた団体だからです。

ところが会員達には、正しい教えを正確に説かれる高森先生から直接教えを聞き、教えを実行せんと活動しているのに、一向に救われないという現実が頑としてあるのです。これが自分も周りも、支部長でさえ救われてないと知ると、「本当に教えは正しいのか」「本当にこの道間違いないのか」という疑問が出てきて当然です。それを払拭せんがために、『顕正新聞』『顕真』等には数年に一度くらいで、救われたという人の体験談が載せられてきました。今回も、教義の誤りを徹底的に暴かれ、それを見た会員が退会するという流れに歯止めをかけるため、「親鸞会で救われるんですよ」「高森先生に間違いありません」とアピールする狙いで体験談を1面トップに持ってきたのかと考えられます。

次に、紹介したような方が救われたことから、

・高森顕徹会長から直接話を聞かなくても救われる
・『教学聖典』を丸暗記して大導師試験や講師試験に合格しなくても救われる
・親鸞会の宿善論や、「三願転入の教え」が説かれていないアニメを見て救われる
・沢山の人を勧誘したり、多額の献金をしたり、会長や上司の指示に無条件服従しなくても救われる


ということが分かります。私のやってきたことは何だったのかと、茫然自失する会員さんも少なくないでしょう。

親鸞会の映画『なぜ生きる』を見たら救われるとは言い難いですが、

高森顕徹会長から(直接でも間接でも)話を聞かなくても救われる
難しい教義体系を知らなくても救われる
宿善を求め、厚くしようとしなくても救われる
19願を実践しなくても救われる
勧誘、献金、会長や上司の指示に無条件服従しなくても救われる

はその通りです。浄土真宗は本願力回向の法であり、既に回向されて届いている本願力にそのままおまかせするのみで往生が定まるという教えです。本願は既に成就して南無阿弥陀仏と成り、「重誓名称聞十方」と重ねてお誓い下された通り私の元まで届いています。私が南無阿弥陀仏のお慈悲に既に包まれていると言ってもいいでしょう。それを凡夫の我々の側で疑い撥ね付けるから生死輪転の家に還来するのであり、本願力を疑いなく信じた信心を以てすみやかに寂静無為の楽に入るのです。

南無阿弥陀仏、すなわち「助けるぞ」という先手の法に対し、私の手は無くそのまま受け容れおまかせするのみです。往生の分かれ目は本願を信じるか疑うかであり、救われているか否かの違いも本願を信じるか疑うかの違いのみです。ですから、今本願を聞き受ければ今往生が定まる、今助かるのです。何年、何十年と聴き続け、活動し続けなければならない教えではないのです。

「どう聞けば」も「どう信じたら」もありません。「助けるぞ」と仰っているのだから、その仰せを仰せのままに受けるだけです。高森教の大好きな無条件服従です。高森教では高森顕徹会長や上司という「」には無条件に従えと言われるものの、阿弥陀仏の仰せ、南無阿弥陀仏という「」に無条件に従えとは教えられません。教えられても、「そこまでは」とか何とか言って「」へ無条件服従させているのが実態です。


このブラジルの会員さんは、親鸞会の邪義をあまり聞く機会が無かったおかげで、阿弥陀仏のお慈悲をそのまま受け容れられた方なのかも知れません。ただ、それにしては念仏に関する記述が全く無く、先ほど申し上げたように「ひらがな」を勉強中の人が書いた文章とは思えないので正直疑問です。何らかの救いに遇って喜んでいる人は、華光会や他宗教でも沢山見られます。すごい表現で喜びを語っている人もあります。ただ、浄土真宗の救いは「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(歎異抄)であって、喜びの大小ではなく本願の信疑が問題です。会員の皆さんは、所詮は皆さんを繋ぎ止めるには体験談を出すしかない体験至上主義の親鸞会とはさよならし、本当の浄土真宗を信じ念仏して頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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