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善知識だのみの異義について

本日は高森顕徹会長の講演が予定されていましたが、例によって急遽取り止めとなったようです。また邪義を明らかにするチャンスだったのに、拍子抜けです。壇上で死ぬのは本望とか何とか言っていましたが、本当は自宅か病院のベッドで死にたいのでしょう。

いつも直前で中止ですから迷惑な話ですよね? それに、中止となったらなったで息子なり何なり代理を立てて説法すればいいのに。しかし息子は毎度毎度、譬えまで同じ話しかしないし、講師長の誰かが話すにしても上手く説いたら息子の面目を潰して批判の対象になりかねないし、何とも難しい所です。ともかく言えることは、それぞれがそれぞれの思惑で動いており、会員の往生・獲信を目的とし、立ち上がる者は親鸞会上層部には一人もいないということです。

会員も会員で、「高森先生でなければ本当の親鸞聖人の教えは説き切れない」「高森先生から聞かなければ救われない」などと信じていることでしょう。一人の知識を絶対視して「誰が何と言おうと高森先生が正しい」と信じ、会での活動は勿論、生活の至るところまで会長や上司、会の方針に従おうとする。逆に、そうしなければ後生は助からないと思う。そのような善知識だのみの異義に陥っていますから手に負えません。


さて、今日は善知識だのみの異義について、今一度安心論題/五重義相より伺います。

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「善知識だのみ」は、知識掃命ともいわれます。これは阿弥陀仏に帰命するといっても、現に法を説いてくださる善知識がなけれぱ何にもならないのだから、善知識だけをたのみにすればよいのだ、と善知識に帰命すべきことを主張するものであります。

たしかに、阿弥陀如来のおこころは、生きた人間を通して私どもに伝えられるのであって、私に直接するのは善知識であります。ですから、救いの法を説いてくださる善知識を尊重し敬慕するのは当然でありましょう。しかし、阿弥陀如来をそっちのけにして、善知識を帰命(信)の対象とするならぱ、それは本末転倒といわねばなりません。

そこで、蓮師は善知識だのみの誤りを指摘せられ、善知識は「弥陀に帰命せよ」と勧める使いであって、あくまで帰命すべきは阿弥陀如来である旨を述べられ、更にこれを明らかにするために、五重の義を立てられたのです。

これによって、宿善開発して善知識にあい、その善知識の勧めによって弥陀に帰命する信心を得て、往生決定の身となる旨を示され、「帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきことを、大きなる誤りなり」と誠められています。

思うに、善知識が真の正しい善知識であれば、このような善知識だのみは生じないでありましょうし、たとい一部にそういう誤った見解が生じても、善知識がその誤をただしてくださるでありましょう。

しかし、偽り邪な善知識の場合が問題であります。現実には「帰するところの弥陀をすてて」とまではいかないにしても、人々を説得し心服させる才能にたけた者が指導者となり、指導される人々はその人を阿弥陀仏と同等に生き仏として無条件に帰依尊崇するということになれば、どのような事態になるか。実に危険きわまりないものといわねばなりません。

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最後の一段は、これこそ親鸞会そのものと言っていい内容です。ちなみに、谷口春子さんの手紙をまとめた『絶対の幸福』という本には、高森会長のことを

「尊き善知識会長先生」(p.33)
「偉大なる善知識会長先生」(p.36)
「生き仏様会長先生」(p.54)
「阿弥陀仏の御化身であらせられる尊き会長先生」(p.56)


などと言葉を尽くして誉め讃えています。これが発刊された意図は、高森会長に従って真剣に親鸞聖人の教えを聞き開けば絶対の幸福になれると会員に希望を抱かせることと、高森会長が生き仏のように尊い善知識であると会員に思い込ませることにあったと言えましょう。

「自分は善知識だのみではない」。こう思っている人が実は善知識だのみというケースが少なくないです。例えば、高森会長の説く二河白道の譬えは本来の譬え話と随分変わっていますが、それを「私達に分かり易くするために敢えて譬え話を変えてお話下さった」などと忖度しているとしたら、それは完全に黒でしょう。

親鸞聖人が白道を(自力の)求道心、信心と解釈された箇所は一箇所もありません。その他、親鸞聖人が19願を勧められた根拠も、親鸞聖人が「獲信の因縁(宿善)として善を修せよ」と諸善を勧められた根拠も一箇所もありません。親鸞聖人が一切衆生必堕無間と教えられた根拠も一箇所もありません。

聖教に根拠が無くても、聖教と真反対だと指摘されても、「高森先生に間違いがあるはずがない」と思い込む。非難してくる人の主張を聖教の上でろくに確かめもせずに間違いと決めつける。意識無意識に関わらず、高森会長の主張を擁護しようという立場で物事を考える。こんなのは典型的な善知識だのみです。某所では

・お聖教に書かれていることよりも、特定の先生の言うことを盲目的に受けいれてしまう
・その先生が説く内容にお聖教に反していることがあったとしても、その批判に対して思考停止してしまう


という書き込みがなされていましたが、親鸞会ではなくても同様の知識帰命的な方は少なからずいるようです。


ところで、話が上手い、人徳がある、カリスマ性がある等の勝れた資質をもつ宗教者が教位に立つと、聞く人は教えよりも教えを説く人が表に立ってしまって、依るべき法が見えなくなってしまうことがあります。

『WikiArc』トーク:人惑を受けず

にはそういう現象の危険性について書かれているので参照して下さい。私達が依るべきなのは教え、法であって、教えを説く人ではありません。教えを聞かせて下さる先生を尊敬し、大事に思う気持ちは大切ですが、どんな先生も完璧ではありません。間違うことだってあります。だって人間だもの。

間違えないことも大事ですが、間違えたら素直に認めて改めることはもっと大事です。そうやって我々は自分の理解能力が取るに足らないものであることを思い知らされ、いよいよ念仏のみぞまことと信知させされ、たのむべきは弥陀如来であり安養の浄土であるといよいよ明確に知らされていくのだと思います。

阿弥陀仏や釈尊、また七高僧方や親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人といった歴代の善知識方のお心を教えを基に推し量ることは大事でありますが、目の前の知識の心を必要以上に推し量って何でも善意に解釈するのは如何かと思います。特に聖教に真っ向から反する説に関しては如何を通り越して危険です。

聖教に無い説を説いて、それは違うでしょうと指摘を受けても間違いを認めない。根拠にならない根拠を挙げてあくまで自説を正当化する。それでいて、間違いだと批判する者を正法誹謗だと逆批判する。そのような人は、念仏者としてまことに不適当と言わざるを得ません。たとえ教え全体としては全く違っていても、正しい部分が多くても、それではその人の根本的な性格は高森顕徹会長と同じです。私も気をつけたいところです。

親鸞会は勿論、それ以外の団体や集まりでもそういう危険性がありますから注意が必要です。最後にこのことを述べて、当記事は終わりたいと思います。
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十劫安心には陥っていないとしても、善知識だのみの異義にはしっかり陥っている親鸞会会員

この前の記事にて、十劫安心と善知識だのみの異義について触れました。親鸞会会員は、聞き求めなければ助からないという信心の方が多かろうと思いますので、十劫安心には陥っていないでしょう。ところが一方で、善知識だのみの異義にはしっかり陥っています。

まず、高森会長の跡を慕って布教に人生を賭けようと志した、親鸞会の代表であるような講師部員からして、

・会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
・上司の指示は会長先生の命と心得ます。


などという文言の入った『親鸞会講師部聖則』なるものを朝晩唱和しています。また講師部員は2008年末に、高森会長によって発案されたと思われる「講師部退部時には会に1000万円を支払う」とする誓約書にサインして/させられています。

ところが、実際そのような裕福な講師部員はありませんし、退部したらたいてい生活していくのも厳しいものがあるでしょう。就職するにしても、前職が「浄土真宗親鸞会講師」なんて書けませんものね・・・。また、まともに親鸞会の活動をやっていたら1000万円の捻出なんて無理です。今は記録が削除されてしまって視聴できませんが、実際、講師長の一人は誓約書の説明の時に「1000万円を支払える者はいませんから、1000万円とは『命』ということです」などと発言していたと記憶しています。つまり、表面上は顕わではありませんが、この契約書は事実「一生かかって高森会長・親鸞会に尽くせ」と命じているも同然の誓約書なのです。

次に、講師部員と同程度(社会的地位や財産でいえば上)の立場の特専部員は、医療法人、真生会富山病院(射水市)が破産したり、債務返済が滞った場合には、「自分の全財産を贈与する」という内容の「贈与契約書」なるものにサインして/させられています。ある元特専部員によると、事あるごとに『地獄に落ちることに比べれば、こんなことは朝飯前だろう』などと言われ、会の命令や方針に従うようあおられていたそうです。

それから、会の事務や清掃、広報誌作成、関連出版社「一万年堂出版」での勤務のほか、別の関連会社が経営する弁当・飲食店などでの勤務を行う親友部員の中には、時間外の作業は自主的なお布施であって時間外手当の対象ではないとする「確認書」にサインした/させられた人があります。

まだあります。私が会員だった頃は、教学講義に参加する際に

「活動に対する不満や批判的言動は絶対に致しません」
「本会を誹謗中傷する者があった場合は、上司に直ちに報告致します」
「誹謗する者を知りながら黙認した場合には、どんな処罰でも受けます」


という内容の教学講義受講契約書なるもの()にサインしなければなりませんでした。当時教学講義に参加する人というのは親鸞会の中でも特に活動に熱心な会員でしたから、活動的な会員のほとんどはこの契約書にサインしていたことになります。私は途中からいつもの通過儀礼と無意識にサインしていましたが、最初の頃はなんか嫌だなぁと感じていたことを覚えています。

その他、高森会長のことを「この方こそまことの方やぁ!」と称讃する親鸞会の黎明期のビデオなどを見せられたり、事あるごとに講師部員から高森会長の苦労や賛美の言葉を聞かされたりしました。降誕会や報恩講の後の弁論大会では、決まって「高森先生ありがとうございましたー!」なんて叫んでいる弁士ばかりで、会員はそれを聞いて喜んでいるというありさまでした。

思えば、高森会長と直接言葉を交わしたことすらない会員がほとんどという状況で、自分も周囲も全て過去の映像や談話、新聞や様々な会員の賛美などから造られた虚像の善知識高森先生を頭に描いていたのでした。今日、本当の親鸞聖人のみ教えを説くことのできるのは高森先生ただお一人、高森先生から離れたら絶対に助からない、本気でそう思い込んでいたのです。現役会員の多くは、未だそういう思考の方が多いと伺えます。だから、上に紹介したような誓約書や契約書、確認書に、時には疑問を抱きつつもサインができるのでしょう。このような思考は完全にカルト教義の思考であり、まさに善知識だのみの異義そのものです。


このようなありさまですから、親鸞会の中でも熱心に活動している会員のほとんどは善知識だのみに陥っていることが見て取れます。自分と阿弥陀仏の間に、高森顕徹という人物が厳然と立ちはだかって、阿弥陀さまが見えなくなるという現象が起こっているのです。

勝れた宗教者ほどそういう現象に陥りやすいことを知っていますから、釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も注意を促されています。しかし、高森顕徹会長は自分の指示に無条件に従うように教え、自分が講師部員を始め会員の前面に立って、何事も自分がいなければ成立しないかのように振る舞っています。また、会は一方的な情報を流して、会以外に会員が流れないように、離反者が出ないように、常に予防線を張っています。

善知識方は自分や組織に人を縛り付けるようなことをしたでしょうか。こんな点まで善知識方とは正反対です。なお、親鸞会以外でも、特定の先生(要は本人)の追っかけをするのがよいと勧めている人もいます。会員にせよ、それ以外の人にせよ、教えを受ける人々の中には高森会長や特定の先生を間違いないと絶対視して、外からの批判を聞く気が無い方が見受けられます。特に会員はそれが顕著です。

特に親鸞会の方々には一刻も早く邪な善知識から離れて頂くと共に、退会した方も親鸞会と縁の無い方にも、一人の知識を絶対視して、明らかに聖教に反するような説に安住することがないようお願いしたいものです。

今の救いが未来の救いに、他力の救いが自力の救いになっている親鸞会教義

高森教での「宿善」とは、決まって「宿世の善根」、過去世にやってきた善い行いという意味です。

今回も、仏教を一言でいうと「廃悪修善」、悪いことをやめて善いことをしなさいという教えだと言い、過去世の善根に厚薄があるから早く救われる人と遅く救われる人があるのだと説明していました。

ここから高森教の邪義が発生します。宿善の薄い者は、今生において宿善を求め、宿善を厚くするように努めなければ信心獲得は有り得ないというのです。『白道燃ゆ』には、

宿善というのは過去世の仏縁のことであるが、過去に仏縁浅きものは現在において真剣に宿善を求めねばならない。でなければ宿善開発の時節到来ということはあり得ない。されば宿善は待つに非ず、求めるものである。(p.203)

とあります。ここでいう「宿善開発の時節到来」とは、「信心獲得」のことを指していると思われます。そこから、短絡的な思考の持ち主である高森会長は、「宿善開発」といったら「信心獲得」のことだと思い込んで説明したのでしょう。しかし、以前にも説明したように、一口に「宿善」といっても多くの意味があるのです。

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・聖道門の「宿善」の定義と、浄土門の「宿善」の定義は異なる。

聖道門の「宿善」の定義 ・・・ ①宿世の善根(『浄土十疑論』)
浄土門の「宿善」の定義 ・・・ ②前世に浄土を欣い求めて、阿弥陀仏を念じていたこと(源信僧都)


・覚如上人以降は、更に「宿善」の意味が変わってくる

覚如上人、存覚上人、蓮如上人 
       ・・・ ③善知識に遇う因縁、18願の法を信じる因縁(『改邪鈔』、『浄土見聞集』、『御文章』)
蓮如上人 ・・・ ④信心獲得すること、如来のお育てのはたらき(『御一代記聞書』)
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お聖教には一口に「宿善」と言っても、聖道門で言うところの「宿善」と、浄土門で言うところの「宿善」とが入り混じって説かれています。言葉は同じでも意味するところが異なる場合があるので、簡単に理解することは難しいのです。ただ、どうひねくり出しても、高森顕徹会長が主張するような

⑤これから信心獲得しようとする者が、未来の救いに遇うために修めていく善根功徳

という意味の「宿善」はありません。まして、信心獲得のために

宿善を求めよ、厚くせよ

という教えもなければ、宿善が厚くなる方法に3つあって、それらを実践して宿善を厚くしていきなさいという教えも当然ながら浄土真宗には存在しません。


そのような存在しない教えを捏造して勧める理由は、当然ながら会員の信心獲得以外にあります。もし理由が会員の信心獲得にあるのなら、教えを捏造する必要がないからです。それは、打倒本願寺組織拡大といった高森会長の私利私欲を満たすことにあります。

今回高森会長は、

宿善を厚くするための一番の方法が、「聞法善」

などと教えていました。これは、

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


の勧めです。高森会長絶対の信心を植え付け、強固なものとし、組織拡大を効率よく進める根本となりますし、「仏法は聴聞に極まることなり」の語とも当てはまりますので、宿善を厚くする第一の方法として教えられます。

その次に宿善を厚くするための方法として「朝晩のお勤め」が勧められます。これは

・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること

の勧めです。意外に思うかも知れませんが、以前親鸞会では「讃嘆供養正行」の解説の際に

人を誘うことも讃嘆供養正行になる

などと説明していました。勧誘活動を重視する高森会長は、巧みに正行も人集めの行にすり替えるのです。

それから第三が「親切など」の善です。いわゆる六度万行を大沼師流に世俗化したものです。これは、第二の「朝晩のお勤め」を勧める理由に加えて、

・親鸞会に財施すること

の勧めです。六度万行の第一は「布施」であり、その内「法施」と「財施」が強力に勧められるからです。講演では「親切など」と体のいい話をしていましたが、その裏では会員に親鸞会への勧誘、献金が勧められていることは想像に難くありません。


これらは、そのほとんどが心も行為も間違いです。第一の親鸞会の聞法は、一つには高森会長の邪義を聞くことですから間違いです。二つには、「聞法善」という善を積み重ねて信心獲得しよう、横の線を進んで縦の線に近づこうという自力回向の思考ですから間違いです。

第二の「朝晩のお勤め」は、これは行為自体はよいのですが、同じく五正行という善を積み重ねて信心獲得しよう、横の線を進んで縦の線に近づこうという自力回向の思考のですから間違いです。

第三の「親切など」は、一つにはこれを往生のために修めることは雑行と嫌われ、捨てよと言われる行ですから間違いです。二つには、同様に「親切など」の善を積み重ねて信心獲得しよう、横の線を進んで縦の線に近づこうという自力回向の思考のですから間違いです。


親鸞会で勧められることは聖教に基づかない「珍らしき法」ですから、何十年求めている講師部員も幹部会員も救われていないのは至極当然のことです。まぁ、こうした「宿善を求めよ、厚くせよ」という教え自体が、今救われるという一念の救い、阿弥陀仏の方からの一方的な救いであることを否定し、救いを未来、向こうに眺めて、そこまで自力で求めていくという教えですから、今救われる人は結果としていないのです。

会員の皆さんは、今の救いが未来の救いに、他力の救いが自力の救いになっていることに気づき、早く親鸞会教義の誤りを知って邪義を離れ、本願を信じ念仏を申して浄土往生の本懐を遂げる身となってもらいたいと思います。

時代と共に変わる教え(6)ー虎の説法から鼠の説法、そして猫の説法へ

先月5月24日より、親鸞会の映画第二弾が公開されています。私はまだ観ていませんが、

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』映画『歎異抄をひらく』を観て

にはいつもの元会員さんが映画の感想を書かれています。また、

『映画-Movie Walker』「歎異抄をひらく」の映画の感想・評価・レビュー(残念に思った人)

では親鸞会の映画だと見抜いた方の感想が書かれていますので、それぞれ参照して下さい。


それにしても気になったのは、いつもの元会員さんの記事の、

1つ意外だった点は、少年時代の唯円とその友人達に、親鸞聖人が本尊を渡されるシーンで、
聖人のお弟子が
「念仏は尊いものだから、よく称えなさい」
と、称名念仏を勧めていたことでした。


という点です。時代は変わったが、それと共に親鸞会の教えも変わったなと思いました。というのも

『親鸞会教義の誤り』宿善とは5
『用管窺天記』常に虎の説法

等にもありますが、かつて高森会長は大沼法竜師の著作を盗作してこのように書いていたからです。

    常に虎の説法

 信前の人に、称名念仏をはげみなさい、そうすれば早く助かると勧めなさるのは、二十願のすすめで浄土宗の教えである。即ち『浄土和讃』に、
  定散自力の称名は
  果遂のちかひに帰してこそ
  おしえざれども自然に
  真如の門に転入する。
と説かれているように、一声でも念仏称えた者は一度は晴れて満足の明信仏智の第十八願の世界まで転入させずにはおかぬというのが二十願で果遂の誓というのだが、この果遂について一生の果遂、二生の果遂等があり、自力念仏の人が此の世で他力に入るのは一生の果遂であり、次生で他力に入るのは二生の果遂である。このように無窮に果遂を味うことが出来るが一度は他力の信に入らねば報土の往生は絶対に出来ないのだ。
 然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って十八願の願意である、信心正因、称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、始終一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。
 勿論、機には未熟の者もあるから、いくら信心正因、称名報恩、信心が往生の正因であり称える念仏は報謝だから、早く信心決定して報謝の念仏称える身になって下さいと勧めても、直にその通りになれない人もあろうけれども、それは機の過失であって法門は常に信因称報の仏意を説き示さなければならない。
 喩えば、虎の手本をみて虎を描こうと思っても、どうしても最初の間は虎ではなく猫の絵になってしまうが、たゆまず屈せずアキラメず虎の手本を見て描いているうちに本当の虎の絵がかけるようになるように、手本は如何に信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或は定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。
 或る画家が弟子に虎を描かす為に虎の手本を渡した。ところが弟子のかいたものは、どうみても虎ではなく、猫の絵であった。画家は再三描かせてみたが、やはり猫しか書けなかった。そこで師匠は虎をかゝせることをあきらめて猫の手本をわたした。その弟子は一生猫より描くことが出来なくなったという。
 未熟な人に合せて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて信心を得る方法には称名せよなどと教えればあたかも猫の手本を与えて虎をかく方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなければならないのである。

(『顕正』p.122~p.127)


かつては信心正因称名報恩の元に「常に虎の説法をせよ」と第十八願の法門を教えていた昭和の高森会長ですが、親鸞会結成35周年(平成5年)辺りから突如として「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」等と言い出し、第十九願の法門を勧めるようになりました。そして、令和に入って高森会長はアニメの親鸞聖人のお弟子に

「念仏は尊いものだから、よく称えなさい」

と言わせています。親鸞聖人の生涯の思いが

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかし

であるとするなら、ここでは親鸞聖人は信心決定のために念仏を勧めていたことが判ります。それもどうやら、話の前後から、阿弥陀仏が本願においてただ一つ選択し回向されている往生の正定業であるから勧められているというわけでもなく、かと言って信心決定の上の報謝の称名として勧められているわけでもなさそうです。映画では諸善万行(雑行)を勧められてはいないようですので、これは第二十願の勧めと言えるでしょう。


時代は昭和から平成へ、そして令和と変化しましたが、それに伴って高森会長の話も変化しました。どう変化したかと言えば、タイトルに示したように

虎の説法から鼠の説法、そして猫の説法へ

です。これは『親鸞会教義の誤り』に倣い、第十八願の法門を説くことを「虎の説法」、第十九願の法門を説くことを「鼠の説法」、第二十願の法門を説くことを「猫の説法」と名づけたものです。こんな一世紀と経たない内にコロコロ変わってしまう教えが、三世十方を貫く教えなわけがないでしょう。

ちなみに先ほどは第二十願の勧めと言いましたが、これは「与えて言えば」の話です。映画には「絶対の幸福」という幻想的な楽、現世利益が強調されていたそうですから、「奪って言えば」本願と無関係な高森教の勧めです。浄土往生を付け足して浄土真宗に見せかけているだけで、実態は浄土真宗とはかけ離れた邪偽の宗教の勧めに過ぎません。

親鸞会と無関係な一般の方には、この映画は親鸞会へ導入するだけの映画に過ぎないことを注意して頂くと共に、会員の皆さんは、せっかく高額な財施をしても真宗の肝要も歎異抄の真意も何も無い映画を造っただけの親鸞会、高森会長に見切りをつける機縁として頂きたいと思います。

因果の道理を信じよと言いながら少しも信じていない高森顕徹会長と愉快な仲間達

親鸞会では因果の道理、因果の道理とうるさい割に、流転輪廻の因果についてはまるで無知です。苦しみの根源は「死んだらどうなるか判らぬ心」などと言い、この心が流転輪廻の因であるように騙っています。

昨日の記事でも述べた通り、仏教では衆生の流転輪廻の因果を詳しく教えられています。昨日は『往生要集』を引いて紹介しましたが、飛雲さんの記事にあるように曇鸞大師も親鸞聖人も教えられています。生老病死、流転輪廻という苦果の因、つまり苦しみの根源は煩悩にあるわけです。

ただ、後の述べるように、その煩悩を障りなく救う阿弥陀仏の本願力が成就していながら、それを疑って受け容れないために我々は生死にとどまると教えられます。だからその本願を疑う心、すなわち疑情が流転輪廻の因と説かれるという一面もあるのです。

因果の道理は宇宙の真理、因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても判るものではない

などと言っていますが、そうやって話している本人達がまったく因果を理解していないことが伺えます。


一方、「死んだらどうなるか判らぬ心」を問題にしながら後生は「一切衆生必堕無間」だとか教え、助かる道は親鸞会に入って高森先生から親鸞聖人の教えを真剣に聞き、信心決定するしかないと入会を勧めています。尤も、現在は勧め方は昔に比べて和らいだと思われますが、それにしても、人それぞれ業が異なるのに、一緒くたに「必堕無間」とは暴論にも程があります。

一切衆生必堕無間」の根拠は、全ての人が五逆・謗法・闡提であるからだというのですが、そのような教説はどこにもありません。『御文章』2帖目2通

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

の一文を断章取義し、殊更に強調してそのように言っているだけです。そのことは繰り返し述べて来ましたし、他ブログでも数多くのエントリーで取り扱われています。所詮、因果の道理は死後の恐怖心を煽り、善の勧めに利用しているだけで、因果の道理を信じよと言いながら少しも信じていないことはこれだけでも明らかです。


流転輪廻の因は、貪瞋痴に代表される108の煩悩です。これによって迷いの世界を限りなく輪廻して苦悩から離れられないと教えるのが仏教です。ですから、この根本無明である煩悩を断ち切って解脱を得る、成仏して涅槃の境地に至る、そして仏の大悲心の必然として衆生済度することが仏教の目的なわけです。聖道門といっても浄土門といっても、その方法に違いがあるだけで、究極の目的は同じです。

この世の幸不幸は当面の問題とされていません。我々に日々やってくる様々な果報は、今までの善悪の業の報いであって表面上の結果に過ぎないからです。私達はつい目先の幸不幸に一喜一憂し、浮かんだり沈んだりしていますが、この世を明るく楽しく幸福に生きることが目的なのではありません。この世の幸福云々を超えた出離、成仏、衆生済度を目的とする教え、それが仏教なのです。

親鸞会では「難度海」を「苦しみ悩みの絶えない人生の海」だとか、その人生の海を明るく楽しく渡す大船が「難思の弘誓」(阿弥陀仏の本願)だとかと、随分と仏教、真宗を矮小化したことを言いますが、彼らが言うところの苦しみや幸福などはハナから問題にしていないのです。勿論、そのように教えることが仏教、真宗を聞くきっかけにはなるかも知れませんが、それに終始するばかりでは仏教が目指す崇高な目的も判らないでしょうし、阿弥陀仏の本願が如何に素晴らしいかも理解できないでしょう。


それで、仏教徒はこの根本無明である煩悩を断ち切ってさとりを得、仏陀の境地に安住して自在に自利利他すべく、古来より戒定慧の三学を修めてきました。かつては、浄土仏教といっても修行環境のよい浄土で修行を完遂しようとして往生を目指すというもので、基本的には仏の加被力を受けながらも自力で断惑し、証果を得るという聖道門の補助的手段としての浄土教に過ぎませんでした。

ところが私達は果てしない過去から今日に至るまで、煩悩が激しく燃え盛っていてそれを断ち切ることはおろか、減らすことすらできません。また、真実清浄なる浄土に往生するにふさわしい真実清浄なる心も、仏様の仰せをまことと受け容れる心も、真実清浄なる回向心も持ち合わせていませんし、これからも自力ではそのような心を起こすことができません。それで阿弥陀仏はその体が真実心であるような信楽を与えて救おうと、私達に恵み与えることを第一として全ての功徳が円かに具わって衆生の煩悩を障りなく救いたもう、思い計ることも、讃え尽くすことも、説き尽くすこともできない至徳(その体は本願の名号)を成就されました。

これが私達にとってはこの上なく有難いことです。何せ、私達の煩悩を問題とせずに救うというのです。それが尽十方無碍光如来という名のりなのです。煩悩を何とかせい、悪業を何とかせい、浄土にふさわしい善業を修めてこい、ということなら、とりわけ淳心房のような煩悩が駄々洩れてそれを如何ともできずにいる者は救いの対象外です。ようこのような本願をお建てになり、その本願成就して私まで届いて下さったものでございます、なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

このように、十方衆生の煩悩を障りなく救いたもう本願力は成就して、すでに私達まで届いているのですが、当の本人がそれを疑ってまことと受け容れない限りは救いが成立しません。本願を疑って受け容れない者には、それは無いのと同じだからです。本願は成就して寸分の狂いもなくはたらいているのに、その本願を疑う心があるから救いにあずかることができないのです。それで結果として生死にとどまるとして、『正信偈』には

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。


と教えられています。これと同様のことが『高僧和讃』

(109)真の知識にあふことは
    かたきがなかになほかたし
    流転輪廻のきはなきは
    疑情のさはりにしくぞなき


にありますが、流転輪廻の際なきは「疑情」のためであると讃詠されているのはそのためです。しかし、だからといってこの「疑情」が「死んだらどうなるか判らぬ心」などとはどこにも教えられていません。

本願を疑っているから後生が暗い

などというのは高森会長のこじつけ解釈であり、そんな説明はどこにもありません。その証拠に、「疑情」が無くなったら後生が明るくなる、我々の側でハッキリ判るようになるとは教えられていません。


六道輪廻やそれにまつわる因果については仏説として説かれているのですから、それをまことと受け容れることが仏法者としてあるべきですがたであり、いたずらに「死んだらどうなるか判らぬ心」にこだわってそれを問題にしているというのは仏様に対してまことに失礼なことです。と言いますか、仏教徒以前の問題でしょう。

いや、因果の道理を信じるどころか、それを撥無する「一切衆生必堕無間」という脅しの教義を説き、それを信じているのですから、高森会長と愉快な仲間達は謗法罪の連中でした。であれば教義通り「必堕無間」は当然の報いです。会員の皆さんは一刻も早くこのような邪義から離れ、今までの愚行を深く懺悔して、本願他力の教えに帰入して下さい。

高森顕徹会長の記念講演(降誕会)の内容を勝手に予想してみました

明日、明後日に行われる予定の高森顕徹会長の記念講演(降誕会)の演題は、

「真宗の極致」について ―これが「なぜ生きる」の答えです―

だそうです。案内チラシを見てみると、100万部突破だとか30万部だとか著書の発行部数を強調し、リンク先の記事に書かれているように

公式サイトでは「親鸞聖人のご生誕をお祝いして」とありますが、会員でない人に向けてのチラシには「親鸞聖人」も「降誕会」もありません。かろうじて書いてあるのが会場名の「浄土真宗親鸞会館」のみです。

という体たらくです。今回も土日合わせて正味せいぜい3時間程度の講演で、まともな真宗教義を話すつもりはないでしょうが、せっかくなので私なりに「高森顕徹先生記念講演」とやらの内容を勝手に予想してみました。


まず、演題の出拠としておそらく、

いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とする『改邪鈔』

の部分のみは出してくるでしょう。次に、「人生の目的」「なぜ生きる」と絡めて、「その答えが浄土真宗に説かれている、それは苦しみ悩みの絶えない人生の海を明るく楽しく渡す大船に乗ることだ」、などと話すでしょうね。総序の文乗大悲願船の文、「生死の苦海ほとりなし」の御和讃は出てくる可能性が高いです。話の流れで「絶対の幸福」だとかいう創価学会の信心も出てくるかもしれません。

もつぱら自力をすてて他力に帰する」についてきちんと説明はせず、せいぜい「他力」を阿弥陀仏の本願力だと説明して、阿弥陀仏のお力で大船に乗せて頂くと話す程度でしょう。それには「聞く一つ」だと蓮如上人の言葉か何かを出し、次も来て下さい的なことをほのめかして終わりか、といったところだと思われます。


会員の皆さんは、おそらく5万円ほどのお布施を納めて今回も富山に集まることでしょう。しかし高森会長の目的は、皆さんや皆さんの勧誘の成果で集まった方々に信心獲得してもらうことではなく、次も来てもらうこと、会員となって組織拡大に貢献してもらうことです。「三願転入の教え」を説いて、19願の「修諸功徳」や『観経』の定散二善、七仏通戒偈等を根拠に「雑行」を勧めているのは、「自力」を勧めている何よりの証拠です。

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。「信文類」横超釈

【現代語訳】
また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。「化身土文類」正助雑釈

【現代語訳】
雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

雑行」を勧めるということは、イコール「横出」の教えを勧める、「漸教」を勧める、自力方便の教えを勧める、方便化土を勧めるということです。こんな教えは浄土真宗にはありません。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。『末灯鈔』2通

とあるように「余の善根」を勧め、「自力」を勧めているのが親鸞会ですから、

いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とする『改邪鈔』

というお言葉とは完全に真逆です。ちなみに自力をすてるために自力一杯励めなどと教えられた釈尊、七高僧のお言葉は勿論、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお言葉はありません。浄土真宗の上にない「珍らしき法」を説いて会員や有縁の大衆を騙し続けているのが高森顕徹会長です。

今回、せっかくの土日を苦労して、お金をかけて富山へ聞きに行ったところで、わが往生のためには何の役にも立たない話を聞かされるだけです。毎度毎度それに付き合う会員の皆さんは、哀れ哀れです。


さて、記事の冒頭に示した『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』の記事には、当ブログでコメント拒否設定中のルパン氏が執拗に書き込みを続けています。私が彼のコメントを拒否する設定にしたのは

親鸞聖人が19願を勧められた根拠

を提示せず、それでいて的外れな根拠ばかり出して、後は高森教に自分の味わいを加えただけの邪義を延々垂れ流すだけだったからです。妄想のお花畑の中で何か呼び声らしきものを聞いたとしても、それは自分の妄想が自分にささやきかけただけの自己暗示であって、真実信心とは別物です。

そんなものを頑なに信じてこちらの話を聞こうとしない、親鸞聖人のお言葉を受け容れようとしない人をいくら相手にしても時間の無駄ですから、当ブログではコメントを拒否する設定にしたまでです。悔し紛れに宮田先生のブログのコメント欄で暴れ回っているようですが、相手にしてもらいたいならせめて

親鸞聖人が19願を勧められた根拠

くらいきちんと提示すべきです。もしそのような根拠があったら提示して下さい。尤も、過去のmixiの法論において親鸞会側が一箇所も根拠として提示できたものはありませんでしたので無理でしょうけど・・・。彼の妄想話に付き合って差し上げている優しい退会者の皆さんは、本当にお疲れ様です。

アラシが目的で、「便所の落書き」のような書き込みを繰り返して慚愧あることない現役カルト信者

かつて親鸞会では、ネットでの会への批判は「便所の落書き」だと揶揄していました。しかし今や立場は逆転し、批判サイトに「便所の落書き」のような書き込みをしてくるのが親鸞会の不良信者です。

こちらの質問に答えられず、自分で「そんなサイト、イラン、スパムしてくだはれ」と宣言した現役カルト信者ですが、先日より秘密コメントでなおもしつこくアラシコメントを寄せてきました。それで現在、非公開コメントを受けつけない設定にしています。私と個人的にやり取りしたい方がいらっしゃいましたら、

singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

までメールを下さるようお願いします。

ちなみに、このブログの対機は主に親鸞会の教義や組織に疑問を持った会員や、退会しても未だに会の呪縛を引きずっている方です。そういう方に、親鸞会教義の誤りと、正しい浄土真宗の教義を知って頂き、本願を信じ念仏を申して浄土往生の本懐を遂げて頂きたいと思って書いています。


現役バリバリの会員は当面は対象外です。第一、熱心な現役会員は上司からの指示を守って批判サイトを見ることもしないでしょう。会からの一方的な情報を鵜呑みにし、高森会長や会を絶対視してこちらの話を聞かないのが彼らです。本来は彼らにも読んでもらいたいですが、現状ではとても当ブログの内容は受け入れ難いでしょう。それに反って謗法のくちびるをめぐらすだけですから、当面は対象外としています。

ところが、時折いるんですよね。「批判サイトを読むことは謗法罪だ」と教えられていても読んで、冒頭申し上げたように「便所の落書き」のようなアラシコメントをしてくる輩が。講師部員、もとい高森会長の指示を聞いてるんだか聞いてないんだか、よく判りません。彼らの言う「破邪顕正」のつもりかも知れませんが、正しいことを知りもしない、間違っていることに気づきもしないで書き込んでくる辺りが実に愚かです。

参考までに、今までに現役カルト信者から寄せられた「便所の落書き」は以下のようなものです。

●雑行をすてよ!御文章にたくさんあんねか~

親鸞会館で雑行勧めてないよ!

善いことは勧めているけど!


●親鸞会館に有る書籍に雑行勧めてる所有るか探してみ~


●イコールって(笑)

雑行の本質知らんがけ?


●地獄脅しでないよ♪

無常脅しだよ♪

一瞬先は闇、もどき坊やも私もね♪(私は光に向かって進んでいるけどね!)


●誰の人も速く後生の一大事を心にかけて・・・

蓮如会長の地獄脅しww


●自力の命懸けの求道ww

何聞いてんの???ダラ♪

おまんらの言葉遊びじゃぼけ!

わしゃ今まで1度も聞いた事ないわ!


●Abcそなた善をしないとな?
よい結果帰ってこないよ(笑)


●万善自力・・・

よろずの善を後生助かろうとして弥陀にお供えする気持ちでするのを自力と嫌われ棄てよと教えておられるところ

善をするなと言う事ではない


●自力を離れず他力に入ってないAbcさんが、そのような御文だされても・・・(笑)

念仏はご恩返し・・・

世間ではご恩返しは善いことでは?(笑)


●もどき坊やAbc(浄土真宗)の教えに善の勧め!ある?ない?


謗法のくちびるをめぐらしていることがよくお判りでしょう。気付いていないのは本人ばかりです。


ところで、現役カルト信者は「雑行」の意味すら判っていないようなので解説しておきます。まず意味は

正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりをひらくことをめざす聖道門の行である諸善万行を、往生行として転用したものであるから、このようにいう。     (浄土真宗辞典)


です。善導大師は

この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。「化身土文類」引文

【現代語訳】
この正定業と助業以外のすべての行は、みな雑行という。

と教えられ、親鸞聖人は

正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
(中略)
それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
正助雑釈雑行釈

【現代語訳】
正とは、読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五正行である。助とは、称名以外の読誦・観察・礼拝・讃嘆・供養の五種である。雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。
(中略)
さて、雑行と雑修とは同じような言葉であるが、意味は違っている。雑という言葉には、すべての行をおさめてしまうのである。五種の正行に対しては、五種の雑行がある。この雑という言葉は、人間や神々に生れる行や菩薩の行などがさまざまにまじっているという意味で雑というのである。これはもとより阿弥陀仏の浄土に往生する因ではなく、浄土を願う心をおこし、これらの行を浄土往生のための善としなければならないから、浄土往生の行としては雑行というのである。


と仰せられています。つまり19願の「諸功徳」、『観経』顕説の定散二善、「七仏通戒偈」の「衆善」等は、往生行としてはことごとく雑行と名づくというのです。そういった雑行を修めて往生を願っても末代の我々は助からないから、選択本願の行である念仏一行を専修せよと教えられたのが法然聖人、親鸞聖人です。だから聖道諸宗に仏教ではない邪教であると攻撃され、浄土宗は法難に遭って死刑に処せられる方まであったのです。

こうした往生行としての善、いわゆる雑行と、倫理道徳上の善の区別がついていないのが現役カルト信者です。倫理道徳上の善は本来往生行ではありませんから、浄土を願って発願回向しなければ雑行にはなりません。往生を願って、往生に役立てようとするから雑行と嫌われ捨てよと言われるのです。逆に言えば、往生を願わず、往生とは無関係だとわきまえて行えば雑行ではありません。

ところが、親鸞会ではそうではありません。彼らの目的は獲信であり、往生のはずです。そのために宿善を厚くせよといい、宿善を厚くするための聴聞や破邪顕正、また財施等の六度万行を勧めています。三願転入の教えにしても同様で、獲信・往生のために19願の「諸功徳」や定散二善を勧めています。これらは、獲信を願い、獲信に役立てようとしている雑行に他なりません。それでは化土へしか往けないから速やかにこれを捨てて、本願を疑いなく信受して選択回向せられる本願の念仏一行を専修しなさいと教えられたのが親鸞聖人でした。

ですから、親鸞会では教義上雑行を勧めていることになります。ただ、実態は組織拡大活動という悪業悪行を中心とする「高森の行」ですから雑行にも入らないということは再三述べている通りです。


アラシが目的で、「便所の落書き」のような書き込みを繰り返して慚愧あることない現役カルト信者は、どこまでも哀れ哀れです。あのような書き込みをすることが「善」だと思っているところが輪をかけて哀れです。

彼に付き合って、コメントを機会に親鸞会の邪義を明らかにしていってもいいのですが、過去の法論ですでに決着がついているものばかりですし、それもいささか飽きました。また、私が現在書こうとしている記事が書けなくなってしまうので、相手をするにもほどほどにしておきます。

相手にしてほしかったら、現役カルト信者は、的外れのアラシコメントをしていないで

「弥陀の呼び声」について
1.弥陀の呼び声の「そのまま来い」とは「どこへ」来いということか?
2.弥陀の呼び声の「そのまま来い」の「そのまま」とは「どのまま」か?
3.二河白道の譬えで言えば、どこで弥陀の呼び声を聞くのか?
a.東の岸にいる時
b.白道を中間ほどまで進んでから
4.声なき声、片手で打つとは?(二河白道の譬えで言えばどれに当たる?)


の残りの質問に早く答えて下さい。1は渋々「弥陀の浄土」と答え、2は「五逆、謗法、闡提のまま」と愚かな回答をしましたが、残りはまだです。高森教の邪義は結構ですから、聖教に基づいて答えて下さい。

五逆、謗法、闡提の意味も分からず、「そのまま」=「十悪・五逆・ぼうぼう・せんだい・のまま」救うという間違った弥陀の呼び声を聞いている、自称「五逆謗法の者」の現役カルト信者

案の定、「元会員」「gugyaku」「文章長いから読んでません」という名で書き込みしていた人物からのコメントが来ています。固定端末からではないのでホストを拒否するだけでは防ぎ切れないですね。これからは、来たら引用して公開したいと思います。稚拙な書き込みで単なるアラシですが、それにしても、これだけ書いてくるということはよほど当ブログが気に入ったと見えます(笑)


さて、寄せられた秘密コメントの中で、現役カルト信者は「弥陀の呼び声」について面白いことを言っています。

> そのまま来い
>
> 十悪・五逆・ぼうぼう・せんだい・のまま


私が質問している

1.弥陀の呼び声の「そのまま来い」とは「どこへ」来いということか?
2.弥陀の呼び声の「そのまま来い」の「そのまま」とは「どのまま」か?
3.二河白道の譬えで言えば、どこで弥陀の呼び声を聞くのか?
a.東の岸にいる時
b.白道を中間ほどまで進んでから
4.声なき声、片手で打つとは?(二河白道の譬えで言えばどれに当たる?)


の第二問目にようやく答えた形になりますが、高森教に毒されている現役カルト信者の彼は五逆、謗法、闡提の意味もまともに知らないようです。

五逆罪については、『飛雲』五逆罪の定義についても当然知らない高森会長を、
謗法罪については、『飛雲』謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長を、
闡提については、『飛雲』謗法・闡提は「仏土に願生する」心がないから絶対に往生できないという釈尊・善知識方を完全否定する高森顕徹会長と愉快な仲間達を、それぞれ参照して下さい。


五逆罪の親殺しとはあくまで”故意に”ですから、極めて限定された人しか造らない罪です。一般の人が造る罪ではないといえます。そんな五逆罪の者でも救われることを示されたのが『涅槃経』の阿闍世の救いですが、阿闍世のような五逆罪を造っている人は極めて稀です。自分が「五逆罪の悪人だ」と内観して反省することは大いに構いません。しかし善知識方は「心で親を殺すのは五逆罪だ」などという珍しいことはただの一言も仰っていませんので、高森教の常識はここでは通じません。

また、阿闍世は父王を殺してしまったことを深く慚愧し、心因性の重い皮膚病を患って、そこから耆婆に導かれてお釈迦様の話を聞くようになりましたが、もし五逆罪を造っても当然のように考えていたら釈尊の話を聞いて救われるということは無かったかもしれません。会員のように「十方衆生は逆謗闡提の一機」と聞くことに慣れており、勧められるままに組織拡大活動をしていったらいつか信心獲得できる、「絶対の幸福」になれると妄想している人は慚愧あることないため、また方向違いのため、本願を聞き受けることは難しいと思われます。


謗法罪の者と闡提の者は、そのままで救われるということはあり得ません。第一、正法を誹謗して慚愧あることない人、世俗的な快楽を追求するのみで正法を信ぜず、さとりを求める心がない者は仏法を聞こうとも思わないでしょう。阿弥陀仏や浄土など虚構にすぎないと否定し、浄土を願生する思いなどない者のことを謗法とか、闡提の者というのです。これも五逆罪の者と同様に限定された一部の人であって、「十方衆生は逆謗闡提の一機」などというのは高森教や、せいぜいその流れを汲む団体でしか通じない珍説に過ぎません。


それと、現役カルト信者に限らず会員の多くは、私たちが固定不変な無間業をもっている、十方衆生は五逆、謗法、闡提という「定相」があるというように信じていると思いますが、このような考え方こそ「有無の見」という外道の考えで誤りです。釈尊は空の理論で固定不変な業など無いと教えられ、十方衆生に五逆、謗法、闡提という「定相」なども無いと説かれています。ですから、謗法の者が謗法でなくなったり、謗法でない者が謗法になったりする、闡提が闡提でなくなったり、闡提でない者が闡提になったりするのです。

これでいきますと、「絶対の幸福」という世俗的な快楽を追求するのみで、高森会長の珍しい教えを本物と信じて親鸞聖人の仰せを信ぜず、往生浄土、さとりを求める心がない、自力の願生心すらない会員は闡提の者と言えます。元々闡提でなかった者が、悪知識の授ける教えによって闡提の者になってしまったのです。

また、高森教の念仏抜きの妄想信心を勧める教えによって、会員は念仏は信後のオマケ、信心の後についてくるもの、信後報謝に限る、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、等の異安心に陥り、果ては

自力念仏の者は必堕無間

と念仏を誹謗しています。信心獲得していない一切の人々の後生は必堕無間と、地獄必定の一大事を強調する高森会長の話を信じ、それを人にも話して念仏誹謗していますから、会員は謗法の者と言えます。元々謗法でなかった者が、悪知識の授ける教えによって謗法の者になってしまったという典型例です。

こうした謗法、闡提の者は、先ほども書いた通りそのままで救われるということはあり得ません。謗法、闡提の者は、その心を慚愧し、翻して、謗法、闡提の者でなくなってからでないと救われないのです。そのことを

謗法闡提回心皆往『法事讃』

と善導大師は仰っているわけですが、『教学聖典』にあることをただ覚えただけで

信心獲得すれば、どんな極悪人も弥陀の浄土に往ける

と、謗法、闡提のままで救われるように勘違いしている会員が多いようで困ったものです。以下、引用。

闡提の者は浄土を願うことがないので、往生することはあり得ないのです。

闡提の者も謗法の者も、闡提でなくなる、謗法でなくなって、「断じをはりて還りて生ず」の状態になって、「仏土に願生する」心がおきて初めて、往生できる機になる訳です。

簡単な話なのですが、「仏土に願生する」心のない人が「仏土に願生する」心の無いままで救われる理屈が通る筈がありません。

ですから善導大師は『法事讃』で

謗法・闡提、回心すればみな往く

と仰って、それを親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれているのです。
回心」には自力から他力に帰すことのほかに『愚禿鈔』の

漸教回心の機は、自力なり。

のように、心を翻すという自力の意味も普通にあります。ですから、「謗法・闡提、回心すればみな往く」は、謗法・闡提の心を翻して謗法・闡提で無くなり、その上で自力から他力に帰したという「回心」です。(


ですから、高森教に迷っている人は急いでそのような邪偽の教えを授ける人の手を離れて、珍しい教えを信じていたことをありのままに懺悔して、人に語り表すべきです。そして、諸善を捨てて選択本願の念仏を本願招喚の勅命と聞き受けて、一心一向の念仏の行者とならせて頂くべきなのです。

それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。この秘事をなほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその秘事をいはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの秘事をありのままに懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。『御文章』2帖目14通

これは秘事法門に迷っていた人に注意喚起されているお言葉ですが、二千畳秘事法門に迷っている人も同様です。最近こそ二千畳秘事法門は批判の嵐に対応してきておりますが、死後の地獄脅しと無常、罪悪で会員をせめたて、念仏を軽視・誹謗し、雑行(組織拡大活動)を勧め、会長及び上司への無条件服従を促す教義は依然健在です。そんな教えは浄土の要門どころか障門でしかありませんから、速やかに厭い捨てるべきです。


謗法、闡提の者は、釈迦弥陀二尊の勅命を聞いても、その通り信順することはありません。第一、釈迦弥陀の勅命を聞こうともしないのが謗法、闡提ですから、そんな者は仰せの通りに順うはずもなく、当然白道を進んでいくこともありません。東の岸で群賊、悪獣、悪知識とダンスして喜ぶばかりです。

五逆、謗法、闡提の意味も分からず、「そのまま」=「十悪・五逆・ぼうぼう・せんだい・のまま」救うという間違った弥陀の呼び声を聞いている、自称「五逆謗法の者」の現役カルト信者は、哀れ哀れです。

【お知らせ】ルパンさんと元会員さんのコメントを拒否する設定にしました

毎度毎度のことですが、親鸞会の会員とはまともな議論になりません。根拠は高森会長の珍説であり、それに自分の考えを混ぜた独自の教えであって、聖教を根拠に親鸞会教義が正しい浄土真宗であると証明できないのです。加えて、いくらこちらが根拠を並べて親鸞会教義の誤りを示しても一向に聞く耳を持たず、高森教義の垂れ流しを延々繰り返すのみです。

ルパンさんには親鸞聖人が19願を勧められた根拠を求め、元会員さんには自分で言い出した「弥陀の呼び声」について質問していましたが、両者ともまともに答える気がありませんでした。ルパンさんは度重なる忠告にも関わらず根拠を示さず、元会員さんは自ら申し出てきましたので、両者をコメント拒否設定にしました。
(ちなみに「元会員」なる人物は、スマホやマイパソコン等の固定回線ではなく、複数のインターネット回線からの書き込みのため、コメントが承認される可能性があります。ネットカフェや漫画喫茶等からの書き込みかと思われます。スマホでポチポチとかも大ウソです。なお、似た回線から「gugyaku」、「文章長いから読んでません」と名乗る人物からの書き込みがあり、これらは全て同一人物と考えられます)

お二人には、もし、今後まともに答える気になったらメールを頂きたいと思います。コメント拒否設定を解除し、議論を再開します。ただし、相変わらず高森教義の垂れ流しで聖教の根拠を示さない場合は、メールを頂いても返信もしませんしコメント拒否設定も解除しませんので悪しからず。


さて、親鸞聖人は真実報土に往生する真実の行信と、それに対して方便化土にとどまる方便の行信のあることを『正信偈』の偈前に教えられています。

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

ここから、真実の教・行・信・証・真仏・真土が明らかに知られます。

真実の教 - 『大無量寿経』
真実の行 - 念仏一行 諸仏称名の願(第十七願)
真実の信 - 信楽一心 至心信楽の願(第十八願)
真実の証 - 難思議往生
真実の仏 - 報仏(不可思議光如来)
真実の土 - 報土(無量光明土)


阿弥陀仏の選択本願(第十八願)の行信因果を五願六法に開き、真実の教・行を第十七願、真実の信を第十八願、真実の証を第十一願、真実の仏と浄土を第十二願・第十三願のそれぞれ五願に配当して開示されています。『教行証文類』前五巻の内容は、この短い偈前の文におさまると見ることができます。

こうした真実の行信に対して、方便の行信があることを、聖人は「化身土文類」にて顕かにされています。ここで誤解してはならないのが、「化身土文類」は真実の行信を獲る手段、方法論として説かれたのではないということです。「化身土文類」には、真実の行信を直ちに受け容れない者を暫く仮に導くために設けられた権仮方便の教説であるということを述べている一面と、速やかに方便の行信を捨て離れよと、方便の行信を顕かにすることで真実の行信を反顕して勧めている一面があるのです。

それはあたかも、白であることを強調するために敢えて黒を持ち出して比較するという説き方であると言っていいでしょう。それを捻じ曲げて、黒が必要不可欠であるかのように説いているのが親鸞会です。黒が不要である証拠には、『教行証文類』の要約である『浄土文類聚鈔』には「化身土文類」に相当する文がありませんし、親鸞会の強調する三願転入もありません。他の親鸞聖人のお書きになられた書物のどこを読んでも、19願を勧められたお言葉もなければ、三願転入に該当する御文もありません。つまり、親鸞会流「三願転入の教え」は、高森顕徹会長が組織拡大活動の源泉である「善の勧め」を従来の「宿善」よりも強力に推し進めるためのデタラメ創作教義に過ぎなかったということです。

『教行証文類』は、仏の側から仏の救済をあらわしている約仏の書なので、自己を主体として読もうとすると途端に解らなくなります。善巧方便、権仮方便とは仏の巧みな衆生救済の手段であって、私達衆生が軽々しく扱うことのできないものなのです。ですから、善知識方は方便と仰る場合は仏が衆生を方便されるということで、あくまで仏の手段だということで用いられています。例えば、

顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。「化身土文類」隠顕釈

釈迦は要門ひらきつつ
 定散諸機をこしらへて
 正雑二行方便し
 ひとへに専修をすすめしむ


釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまひけり
『高僧和讃』善導讃

蓮如上人仰せられ候ふ。方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふと[云々]。『御一代記聞書』(176)

等とあるように、仏の手段という意味で使われています。最後の「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便」という使われ方は異例で、弥陀、釈迦の他に「善知識」も含まれた形です。この「善知識」がどのような方を意味するのかは定かではありませんが、狭義では諸仏や菩薩、広義でも七高僧や親鸞聖人といった、浄土真宗の祖師方のことと見るのが妥当でしょう。ともあれ「弥陀・釈迦・善知識の善巧方便」によって真実の信を獲るのであって、「弥陀・釈迦・善知識の権仮方便」によって真実の信を獲るのではありません。善巧方便、権仮方便ということについては、記事下の参照にリンクを貼っておきますのでそちらをご覧下さい。方便とは私達のような凡夫が駆使することができるような代物でないことだけは確かです。


方便だからやりなさい、といって親鸞会が勧めている19願や定散二善は「権仮方便」で、方便化土へ往生する道であって、真実報土へ往生する道ではありません。真実の行信によって真実報土へ往生する、方便の行信によって方便化土へ往生するのであって、方便の行信によって真実の行信を獲るとか、真実報土へ往生すると教えられた箇所は一箇所もありません。

方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。「化身土文類」三経通顕(真仮分判)

このように19願の行信を顕かにされた後、これは方便化土の業因であって、阿弥陀仏の光明はこのような雑行を修める者を照らし摂めることはないと結論づけ、19願は真実18願を受け容れない者に仮に説かれた教え、浄土を願ったことのない聖道門の修行者に浄土を慕い願わせるための教えであったと言われています。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。「化身土文類」雑行釈

あくまで「仏が」「衆生を」導く手段が方便であって、これを『教行証文類』もまともに読んだことがない、親鸞聖人の仰せとことごとく反することばかり説いて、『仏敵』が根本聖典であるという善知識様が使うことができると信じていること自体が噴飯物なのです。今回の記事は会員には難しかったかも知れませんが、

「方便だからやりなさい」と19願を勧めることは、親鸞聖人の仰せにない

ということが判って頂けたらそれで十分です。方便の行信に迷って、真実報土へ往生できないということがないように、会員の皆さんには親鸞会教義についてきちんと真偽検証して頂きたく思います。



【参照】
『WikiArc』トーク:方便
『21世紀の浄土真宗を考える会』善巧方便と権仮方便
『当ブログ』善巧方便と権仮方便について

浄土門では常識の「願生心」「欣慕浄土」が何のことだかサッパリ分からない高森教徒

浄土門で「願生心」「欣慕浄土」というのは当然のことですが、これがサッパリ分からないのが高森教徒です。以前、火星人がTENさんのブログで「願生心」についてまともに答えられなかったのも、ルパンさんが

「浄土を欣慕せしむるなり。」の意味がよく分かりません

と聞いてきたのも、更には現役カルト信者が弥陀の呼び声「そのまま来い」とは「どこへ」来いということかについて渋々「弥陀の浄土」と答えていることも、その理由は浄土門では常識の「願生心」「欣慕浄土」について全くの無知であるからだと思われます。


親鸞聖人は「化身土文類」にて聖道門の意義

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。

【現代語訳】
総じて釈尊が説かれた教えの中で、この世界で聖者となってさとりを得るのを聖道門といい、難行道という。この聖道門の中に、大乗と小乗、漸教と頓教、一乗と二乗と三乗、権教と実教、顕教と密教、竪出と竪超がある。これらはすべて自力の教えであり、衆生を真実に導くための、仮の手だてとして説かれた教えである。

について述べられた後、浄土門の意義についても次のように教えられています。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。

【現代語訳】
浄土に往生してさとりを開くのを浄土門といい、易行道という。この浄土門の中に、横出と横超、方便と真実、漸教と頓教、そして助正と雑行、雑修と専修がある。

この世界で聖者となってさとるか、浄土に往生してさとるかの違いはありますが、どちらにしても目的は

究極のさとりである仏陀のさとり、さとりの必然である一切衆生の救済

であることが判ります。仏教の目的はあくまでも成仏、その道として難行道(聖道門)と易行道(浄土門)の二種の勝法があるというのです。その内、聖道門は難劣であり、末法の世においては行証久しく廃れた時機不相応の法であるから捨てて、勝易であり、末法・法滅の時でも衰退することのない時機相応の法である阿弥陀仏の本願によって往生し、さとりを得なさいと教えられたのが親鸞聖人でした。

ですから、親鸞聖人の教えを聞いた人の心に当然起きてくるのが「願生心」であり「欣慕浄土」の心なのです。この世は醜いなぁ、まさに五濁悪世だなぁと思うと同時に、自分はもっと浅ましい、もっと醜いと気がつくにつけ、そんな世の中、そんな自分を厭い捨てて、清らかな浄土、そしてこの上ないさとりを求める気持ちが起きてまいります。それが「願生心」であり「欣慕浄土」の心なのです。浄土門の常識、基本中の基本です。


ところが親鸞会では、この常識、基本中の基本に触れることはほとんどありません。親鸞会では人生の目的は永遠に変わらない、崩れない幸福というところから「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を教え、信心決定というのはその「絶対の幸福」とやらになったというハッキリスッキリ体験であるといい、「絶対の幸福」とやらになった人の必然の未来として浄土往生する、というように、現世の利益を強調しているからです。

時折、「仏教を聞く目的は後生の一大事の解決」などと言ったりしますが、それは死後の地獄脅しで会員の尻を叩いて組織拡大活動に向かわせるためです。会員の目的は、死後の浄土往生も有難いが、何よりも現在只今の苦悩を取り除いて「絶対の幸福」になりたい、ハッキリしたい、安心したい、満足したい、求めているものを得たい、というこの世の幸福にあり、浄土往生は「絶対の幸福」の必然として得られるオマケ的な意味合いしか無いのではないでしょうか。

このように、目的が浄土往生ではなく「絶対の幸福」にあるとすれば、「願生心」「欣慕浄土」の心が分からないというのは当たり前の当たり前の話です。浄土に生まれたいと願う心も、浄土を慕い欣う心も無いわけですから、ピントコーンのは当然です。それをさも知ったつもりの体で話をしようとしているのですから、ちょっとツッコまれるとろくな返答ができんというわけです。


法然聖人、親鸞聖人は、阿弥陀仏の19願は諸行の人、つまり聖道門でこの世界でさとろうとしている人を浄土門に導き入れるための方便願であるとみられています。ですから、すでに親鸞聖人の教えによって18願が真実の願であると知らされ、18願の行信を頂いて浄土往生しようという人には、還って廃捨すべき権仮方便の法門なのです。実際、19願は二双四重の教判で言えば横出にあたる浄土門内の自力の教えで、定善や散善といった三福・九品の行を修め、さとりまで長い時を費やす漸教であって、臨終の来迎がないと往生できず、来迎があったとしても方便化土へしか往生できない権仮方便の法門であると教えられています。

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

【現代語訳】
雑行とは、正・助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善・散善や世福・戒福・行福の善を修め、三輩・九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

浄土門の意義について述べられた後、聖人は浄土門内の自力の教えについてこう仰せです。このような位置づけである19願を親鸞聖人が勧めておられるわけがないでしょう。親鸞会の人間は、高森教で得た知識を振りかざして、聖教に根拠の無い珍説をばらまいているだけの高森教徒であると判ります。


速やかに迷いの世界を離れようと思うならどうしたらいいのか、法然聖人は次のように仰せです。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

【現代語訳】
そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

上は「行文類」三選の文引文のお言葉ですが、『選択本願念仏集』でも同様に言われています。

聖道門を閣きて、もろもろの雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもつぱらにすべし

これが法然聖人のお答えです。親鸞会が勧める19願は自力雑行の教えですが、それは

もろもろの雑行を抛ちて

速やかに迷いの世界を離れようと思うなら雑行を投げ捨てよ、放り捨てよと仰っています。この「三選の文」を真実行を顕す「行文類」に引文されている時点で、親鸞聖人が19願を勧めているなどあり得ないと判ります。

そして親鸞聖人は、上の「三選の文」を引文された後、阿弥陀仏の名を称する称名念仏は、自分の計らいによって称えているものではなくて、本願力によって与えられ、称えさせられている他力回施の大行であるとして

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

と仰せられています。雑行を勧めている時点で、それは「念仏成仏」の否定です。「念仏成仏」を否定しておいて親鸞会の教えが正しいなど、それは高森教の中でのみ通じることであって、そんなものは真宗内では一切通じない独自の珍説であります。


それで、何度も何度も

親鸞聖人が19願を勧めている根拠は何ですか?

と聞き、昨日は

次で根拠を示さない場合は、コメントを拒否する設定にします。きちんと返答して下さい。

と通告したにも関わらず、ルパンさんの本日のコメントには根拠は無く、相変わらずの自説の披露のみでした。よって、通告通りルパンさんからのコメントは拒否する設定にしましたので皆様にご報告致します。

ルパンさんは、もし根拠が見つかりましたら

singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

までご連絡下さい。拒否設定を解除して、議論をやり直します。なおメールでも自説の披露に留まり、根拠を示さない場合は返信もしませんし拒否設定も解除しません。以上、よろしくお願いします。



【追記】
ルパンさんはコメントの中で

親鸞会では、宿善を求めよと何度も何度も耳が痛い程に言います。厚くする方法が1.聴聞2.勤行3.六度万行です。この行為は一向専念無量寿仏を自力一杯に行う行為であり、自力念仏に等しい行為だと認識しています。この道が即ち三願転入の道だと言いたいのです。

と言っていますが、そんな教えは親鸞聖人にはありません。蓮如上人の教えられる「宿善」も、薄い宿善を厚くせよという意味で教えられている箇所は一箇所もありません。ですから、蓮如上人の『御文章』を根拠として

親鸞聖人は19願を勧められている

とは言えないのです。残念でしたね。なお「宿善」については

親鸞会会員の誤解―活動しなければ救われない(1)

から12回に分けて記事を書いていますので、まだご覧になっていない方は参照して下さい。高森教徒が思いつきそうなことは、すでに飛雲さんか誰かの手によって破られていることを知るべきです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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