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「浄土真宗」「親鸞」会と名乗りながら、「浄土真宗」の話も「親鸞」聖人の教えも無い高森顕徹会長

昨日は延期に延期を重ねてようやく高森顕徹会長がお出まししました。体調が戻らないなら後継者育成のためにも代理の者を立てて話をさせればいいものを、とことん知識帰命の親鸞会です。さて、話の内容ですが

『飛雲』トルストイよりも仏教を知らない高森顕徹会長

に挙がっているようにそれはそれは酷いものでした。「浄土真宗」「親鸞」会と名乗りながら、「浄土真宗」の話も「親鸞」聖人の教えも無い、一日かけて自分が書いたシナリオの解説をしただけという、わざわざ富山まで行ってお布施を納めてまで聞く価値が無い内容でした。あれを聞いて満足しているとしたら、会員の思考停止ぶりはお隣の国民よりはるかに深刻です。


『Wikipedia』親鸞によれば、親鸞聖人は75歳の頃に『教行証文類』を一応完成なされ、弟子に書写を許されています。それから80歳代後半に至るまで、

・宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。
・建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。
・建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。
・建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)[注釈 37]を撰述する。
・建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。
・康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。
・康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。
・正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。


と、数々の御聖教を撰述し、浄土の教えを書き残されています。その間にも『教行証文類』を推敲され続けていかれたことは皆さんご承知の通りです。そこに書かれている内容は、要約すれば「如来二種の回向」であり、「真実の教行信証」でした。中でも私達が助かるタネは「真実の行信」であるとして

・もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
・真実の行信を獲れば、(乃至)仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。
・「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。


と、往相回向の大行、つまり本願の念仏と、往相回向の大信、つまり本願力回向の信心を勧められたのです。


蓮如上人も、記録で確かな限り84歳の頃まで『御文章』を書かれ、門徒の方々を勧化していかれました。

あはれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざしをはこぶばかりなり。
(中略)
これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人(親鸞)の御本意にたりぬべきものか。
(中略)
あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
  明応七年十一月二十一日よりはじめてこれをよみて人々に信をとらすべきものなり。
『御文章』4帖目15通

蓮如上人は、報恩講のうちに信心決定して往生極楽の本意を遂げよと仰せられていますが、それはどのような内容だったのかと言えば、それまで多くの『御文章』が示すように他力信心の体である

南無阿弥陀仏の六つの字のこころ『御文章』5帖目11通
南無阿弥陀仏の六字のすがた『御文章』5帖目13通

でした。信心決定すると言っても、信心の体である「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を聞き受ける以外に無いというのです。六字釈を施して書かれている御文も多いですが、施さずに書かれている御文も内容は同じ「南無阿弥陀仏の六字のすがた」です。これを説かなければ聞く人が信心決定するも何もないからです。


ところが高森顕徹会長が訴えてきたことはどんなことだったでしょう。

まず目的ですが、目指すところは「必堕無間」という「地獄必定の一大事」の解決、そして「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽であって、「往生極楽の本意」は「絶対の幸福」の必然だからなのか、オマケ程度の扱いです。果たして浄土往生、往生極楽を目的に親鸞会で聞いているという方はどれだけあるでしょうか。

次に目的を果たすには、「信心決定」するにはどうすればよいかについては、過去は「まことに宿善まかせ」に着目させて宿善薄い者は信心決定できないかのように説いてきました。そして親鸞会流『宿善論』を展開させ「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」といっては

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
・親鸞会に財施すること
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


を中心とする「高森の行」を勧めてきました。結成35周年大会以降は突如として「三願転入の教え」を出して、親鸞会流『宿善論』に代わって(あるいは平行する形で)同じく「高森の行」を勧めてきました。その間、外からの批判に応じて従来の教義を出したり引っ込めたり、修正したり元に戻したりしていますが、会内ではほとんど変化がありません。そして、昔はどうか知りませんが、私が在籍していた頃から今日に至るまで、高森会長が

南無阿弥陀仏の六つの字のこころ
南無阿弥陀仏の六字のすがた

を正しく説いている姿は見たことがありません。


既に絶版の「会報」にパクった六字釈が出ている程度で、70年以上の親鸞会の歴史の中で、信心の体である

南無阿弥陀仏の六つの字のこころ
南無阿弥陀仏の六字のすがた

が話されることはほとんどなかったのです。そして今回は、念仏は勿論、浄土は勿論、本願すら出てこなかったようです。真宗教義でもない、もうほとんどの会員は耳タコの話、親鸞会への導入部分の話を繰り返して一日を終えたというものです。90歳を迎えてもこれですから、一生涯浄土真宗の肝要どころか、要点すら説く気は無いのでしょう。会員の皆さんは、こんな教えを聞いていて今宵の後生に間に合うのか、信心決定して往生極楽の本意を遂げられるのか、真剣に考えてみるべきです。
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どんな人、布教使、先生でも、良いところと悪いところとがある

あさ川進さんのこの記事で、また随分と議論が続いています。私もあちらのコメント欄にある「A師」のとある発言に異義を唱えた身なので、念仏往生さんや本願成就さん始め皆さんの気持ちもよく分かります。

A師、ここではA先生と呼びましょうか、ただA先生は教義の枠組みについての理解や話し方が一部独特なのであって、高森顕徹会長のように私利私欲を満たしたりする目的で法を説いているのではないと思います。私は、信じてもらえるか分かりませんが、今でも本願成就の上で南無阿弥陀仏のはたらきを説かれること、そのおはたらきに遇うのは今なんだということを説かれるという点では、素晴らしい先生だと思っています。

お天道様を見たら傘は要らない

以前にこんな記事を書きましたが、自力他力の水際をしっかり説かれるという点では素晴らしい先生です。ですから、これは私見ですが、先生の信心は間違っていないと見えます。また、RCさんにおいても南無阿弥陀仏の六字を「我にまかせよ」の仰せだと受けておられることから、同じく信心は間違っていないと思います。単に、教義理解の相違であるというのが私の見方です。けどRCさんはともかく、行信論を学んだはずの先生があのようなことを仰るのは理解に苦しむ・・・


やはりどんな人、布教使、先生でも、良いところと悪いところとがあるのが常です。これは仕方ありません。

法蔵菩薩の因位のとき、世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。「行文類」弥陀章

とあるように、諸仏の浄土や、その国土の人々にも善悪があるというのですから。私達からしたら、諸仏の浄土や国土の人々のどこが悪いんだ、そのような国に往生させて頂けるだけでも流転輪廻の業苦と比べたら計り知れない利益じゃないかとしか思えないでしょう。しかし、法蔵菩薩からご覧になったら、良いところと悪いところがあったというのです。そして悪いところを選び捨て、良いところを選び択って48願を建立されたというのです。

親が子を殺し、子が親を殺す。この地球のどこにも欲望が関係していない処は無く、一時の瞋り憎しみで人生を棒に振るような取り返しのつかないことをし、正しい物の道理を知らずに邪な考えに陥っている人々ばかりなのが世の実相です。まさに五濁悪世さながらの醜い、あさましい世の中です。中でも自分はもっと醜い、もっとあさましい。自己中心的な想念を離れられず、何でも自分の都合中心で物事を判断し、愛憎の心を離れて自他一如の仏様の領域に出るなんて勿論、それを断ち切るために菩提心を発して諸善を修し、心身を浄化することもできません。そんな心さえ起こりません。

こんな仏道の死骸さながらの私が、地獄免れてどこかの諸仏の浄土にでも往生させて頂けるとしたら、これは考えられない果報です。その国の人々も、さぞや立派な方々に違いない。きっと考え方からして今の私からはどうひっくり返ってもひねり出せないような素晴らしい考えをもっておられることでしょう。そんな素晴らしい国土、素晴らしい人々の中でも法蔵菩薩からご覧になれば善悪があるというのですから、この娑婆世界、穢土に生きる我々に良いところと悪いところがあるのは当然すぎるほど当然の話です。


ここではその是非は扱いませんが、A先生の話の特徴としてはあちらのコメント欄にあるように

念仏往生ー観無量寿経ー法然聖人の教えー歎異抄
平生業成ー大無量寿経ー親鸞聖人の教えー御文章


と、法然聖人(まで)の教えと親鸞聖人(以降)の教えを区別するところが一つあります。法然聖人は善導大師の文を読まれて回心された。それは『観無量寿経疏』であり、『観無量寿経』の教え。『観無量寿経』は方便の経。『観無量寿経』の対機は聖道門の僧侶。法然聖人は『観無量寿経』の立場から、聖道門の僧侶に、諸善を積んでさとるという教行証に対して、念仏してさとるという教行証と、行行相対して教えられた、というのです。

親鸞聖人は『大無量寿経』の立場。『大無量寿経』は真実の経。『大無量寿経』の対機は還相の菩薩。

みな普賢大士の徳に遵へり。『大無量寿経』八相化儀

とあり、還相の菩薩に真実そのものを説かれた。親鸞聖人はその『大無量寿経』に立って教えられた。と、このように法然聖人(まで)の教えと親鸞聖人(以降)の浄土真宗の教えを明確に区別しています。そして『歎異抄』と『御文章』を対比し、

・『歎異抄』は法然聖人の教え、念仏して往生するという念仏往生の教え
・『御文章』は親鸞聖人の教え、本願が成就してはたらいているからまかせよという平生業成の教え


このように区別化した教えを聞いて信じているから、親鸞聖人の『唯信鈔文意』や『尊号真像銘文』、『御消息』等のお言葉は念仏往生を言われたものだと思って素直に聞き入れないのであろうと考えられます。その他、

・親鸞聖人は関東の同行に法然聖人の教えを説かれた
・『教行証文類』の五願開示の教説は、本願成就文を五願に開かれた
・本願のはたらきを「行」と言う


等の説を提唱しているのがA先生です。まぁ皆さん色々とツッコミどころがあると思いますが、心ある方はここではそれを心にしまっておいて下さい。なお、これは今まで聞いてきたA先生の話の一部を私なりにまとめたものですから、間違いがありましたらどう修正したらよいか教えて下さい。A先生の正しい教えに直します。


何もA先生に限らず、その先生独自の視点から独自の説を展開する方はいらっしゃると思います。ですから、聞いた話ですが、勧学の先生でも時々「あれっ?」と思う話をすることがあるそうです。それが「あれっ?」で済むような内容なら構わないのですが、それで済まないことを仰る先生もあります。

この前は本願文の解釈に関する重大な問題であり、お聖教と照らしてどう見ても教説に反する、根拠として挙げられた御文も根拠になっていない、これを容認していては、聖教に根拠を求めず高森顕徹会長の主張を鵜呑みにする会員を説得するに当たって示しがつかないと判断したので記事にしました。

ただ、話の内容の中でその通りだと納得せざるを得ない話、有難い話もあるのです。なので、聞くべき点、学ぶべき点は聞いて学んで、「あれっ?」と思う点があれば質問し、それでも納得いかなければ聖教に直接尋ねてみる、あるいは別の先生に尋ねてみるというのが良いと思います。「この先生だから絶対に間違いない」ということはまず有り得ません。特に親鸞会の出身者は自身の経験を通して深く学んだはずです。

揺るぎない法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人のような善知識がおられたらいいのですが、それを期待するのは贅沢です。幸い、善知識方は教えを書き残して下さいましたので、その御文を学び、その御文に親しい註釈を探すべきです。そして最後は、自分が聞いた内容を受け容れるかどうかを判断するのです。自分の人生ですからね。確かに、往生の信心は如来が定めて下さいますが、教えや聖教の解釈をめぐっては、様々な先生がそれぞれの視点で註釈されていることですから、疑問に思うことはとことん追求すべきと思います。


どんな人、布教使、先生でも、良いところと悪いところとがあります。あの高森顕徹会長にさえ、私は良いところはあると思ってるんです。それは、「なぜ生きる」「人生の目的」は何かと世に問いかけている点です。

現代の日本人の多くは他国と比べたら平和で豊かな生活を享受し、人生80年、100年が当たり前です。しかし、自殺者は未だ年間2万人以上で、苦しい世相を反映しています。それに医療等の進歩により平均寿命は延びましたが死ななくなったわけではありません。相変わらず生きることの意味も死ぬことの意味も知らず、ただ毎日を平和に無事に過ごしていければ幸せだと思い、やがて必ずやってくる死の大問題を自分のこととして捉える機会はほとんどないでしょう。やがて必ず死んでいくのに、「なぜ生きる」のか。「人生の目的」は何なのか。

これは大事な問題です。そして、その答えがあり、それが親鸞聖人の教えにあるというのです。だから、教義云々は別として本願寺に比べて親鸞会は若い人が多く聞きに来ているのだと思われます。親鸞会の勧誘行為は決して褒められたものではありませんが、ここまではそう間違ったものでもありません。

だから、こんなことを言うと皆さんに怒られてしまうかも知れませんが、半年から1年位かけて「なぜ生きる」かを考える大切さ、「人生の目的」とか我が身の死について親鸞会で勉強したらいいんじゃないかと思います。それで、「なぜ生きる」かを考える大切さが判った人には、今度は本願寺なり、退会者なりがバトンタッチして正しい浄土真宗を説いて本願を信じ念仏して頂く。そして、生きることも死ぬことも共に有難いことであり、生きてゆく先は安養の浄土、この世は如来の真実に遇わせて頂く道場であり、そこでその人その人が御恩報謝の日暮らしをさせて頂く場所であると聞き受ける人が増えていけば、もう少し世知辛い世の中でなくなるんじゃないかと思ったりします。

親鸞会の良いところと言ったらそれくらいで、あとは正しいところを見つけるのが難しいくらい真宗教義については間違いだらけですから、「なぜ生きる」かを考える大切さが判った時点で速やかにさよならして頂くのがよろしいかと存じます。そんな風に役割分担していければいいなぁ。まるで夢のような話ですがね。


本当は、話がどれも有難く、安心して聞かせて頂けるという先生が沢山おられたらいいんですが・・・私はまだそのような知識にはお遇いできていません。そのような先生に遇っておられる方は、実に幸せ者だと思います。ともかく、ただでさえ真実の割合が0に近いのに、年々その少ない真実の割合が更に減っていく高森顕徹会長からいくら聞いても徒事ですから、会員の皆様には速やかに退会して頂いて、正しい真宗を聞いて本願を信じ念仏して正定聚の数に入り、今度の報土往生を遂ぐべき身となって頂きたいと思います。

「雑行」の意味も、三願で「十方衆生」の意味が違うことも当然知らない現役カルト信者

現役カルト信者は過去に繰り返されてきた数々の法論も知らず、とにかく書けばいいんだというつもりで当ブログに短文のコメントを連発しています。しかも私や他の皆さんが回答すると何事も無かったかのように次々に話題を変えては書きこんできます。こちらの主張を理解する気が無く、あくまで邪義の垂れ流しですからアラシ目的であることは明らかです。ただそれが反って親鸞会の教義に対する無知ぶりと、親鸞会の邪義とを改めて世に知らしめる結果となっています。そうなっていることも判っているのかどうか、とにかく毎回ご苦労様です。


さて、親鸞会の会員は「雑行」の言葉の意味も知らないので再度レクチャーします。意味は

正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くことをめざす聖道門の行である諸善万行を往生行として転用したものであるから、このようにいう。化土の業因であるとされている。

ということです。「雑行」の定義は善導大師に依ります。今は「化身土文類」の引文を紹介します。

次に行について信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるものは、これを正行と名づく。なにものかこれや。一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。一心にかの国の二報荘厳を専注し思想し観察し憶念する。もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼する。

もし口に称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称せよ。もし讃嘆供養せばすなはち一心にもつぱら讃嘆供養する。これを名づけて正とす。またこの正のなかについて、また二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問はず、念々に捨てざるものは、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼誦等によるは、すなはち名づけて助業とす。

この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修するは、心つねに親近し、憶念断えず、名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずるは、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づくるなり。
「化身土文類」深心釈

です。「雑行」=「五正行以外の全ての諸善」です。「雑行」の中に「五雑行」と「諸善万行」があって、「五雑行」は直ちに捨てなければならないが「諸善万行」はやらねば信仰が進まないといった教えはありません。そんな頓珍漢な教えを説いているのは世界広しと言えども高森顕徹会長と愉快な仲間達くらいでしょう。

ですから、「五雑行」はやっていないけれども「諸善万行」をやって信心決定を目指しているなんていう人は「雑行」をやっている人です。報土往生、また報土の因である他力の信心を獲ようとするならば、共に捨てなければならない雑多な行、本来は往生行でない行が「雑行」です。

雑行」は以前も申し上げたように行体ですから自分の意思で捨てることができます。ちょうど「五雑行」を自分の意思で捨てることができるのと同じことです。「五雑行」は捨てられるのにその他の「諸善万行」が捨てられないというのは訳が分かりません。尤も、親切や親孝行などの世俗的な善は往生を願わなければ「雑行」にはなりませんから、往生とは無関係と弁えてすべきです。浄土を願うかどうか、往生の因である信心を獲ようと思うかどうか、そこが「雑行」になるかどうかの分かれ目です。その他挨拶や礼儀など、私達は日常生活で様々な倫理道徳上の善を心がけていますが、往生と無関係と弁えてやればそれらは「雑行」にはなりません。

この「雑行」と「雑修(助業)」を捨てて「念仏一行」を専修して往生を願うのが20願です。20願は信前ですから、信前に「雑行」を捨てるのです。「雑行」は心ではなく行体、行いですから自分で選んで捨てることができるのです。当たり前すぎて今更説明するのも阿呆くさいです。またそうでなければ親鸞会流『三願転入の教え』も否定することになることはこの記事にて書きました。


上述したように本来は往生行でない「諸善万行」を往生行に転用したものが「雑行」であり、それを勧めているのが19願です。「雑行」が捨てものならば、当然19願も捨てものです。「雑行」の勧めがなければ、19願の勧めもないことは当然です。それが判らず、愚かな現役カルト信者はこのように書き込んできました。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
三願転入

18・・・十方衆生
19・・・十方衆生
20・・・十方衆生

19,20をおろそかにする者は十方衆生を知らない
2019-02-11(07:22) : 元会員

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

過去に既に破られていますが、今はAbcさんのコメントより引用させて頂きます。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
私が親鸞会にいた時に聞いたことがある説明ですね。

以下に『飛雲』より引用いたします。

『飛雲』超選民思想の高森教と合致する19願
「結論だけ言うと、『大無量寿経』19願の「十方衆生」は、

『平等覚経』では、「諸佛國人民、有作菩薩道者」

『大阿弥陀経』では、「八方上下無央數佛國諸天人民、若善男子善女人有作菩薩道」

に当たります。
共に「菩薩道を作す」者のことです。

もう一度言いますと、『大無量寿経』19願の「十方衆生」を異訳経で見ると、「菩薩道を作す」者となっていますので、聖道門で修行している、修行していた人のことを意味します。」
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2018/11/post-db97.html

『飛雲』再開した三願転入の妄想話
「結論だけ簡潔に述べますと、

親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がない (中略)

親鸞聖人が20願を勧められたお言葉についてです。それは高森会長も認めるところですが、肝心要の19願を勧められたお言葉がないのです。親鸞聖人は「濁世の道俗」に20願を勧められているから、三願転入はすべての人の道程だ、という理屈です。

20願は果遂の誓いですから、20願から18願という道程は親鸞聖人も仰っています。(中略)

19願を勧められた親鸞聖人のお言葉はなく、20願は勧められた親鸞聖人のお言葉はある

この事実が、三願転入は、すべての人の道程とならないことを証明する最大の根拠になります。」
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-c785.html

このようにございます。上記の抜き出した箇所にて更にまとめるならば、
「『大無量寿経』19願の「十方衆生」を異訳経で見ると、「菩薩道を作す」者となり、20願は果遂の誓いですから、20願から18願という道程は親鸞聖人も仰っていますが、「19願を勧められた親鸞聖人のお言葉はなく、20願は勧められた親鸞聖人のお言葉はある」ことより 三願転入はすべての人の道程とならない」となります。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

要は、19願と18願では対機が違うということです。それが異訳経を通して鮮明になるということです。元々19願に誓われている「発菩提心」さえ如実にできないのが私達でした。そんな私達に19願を勧められているはずがないのは当然すぎるほど当然なのでした。会員が19願の内容に無知で、それ故あまりに軽く考えていることは

「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)
「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(2)

等に書きましたのでこちらも参照下さい。


「19願を実践していける」と考えるところがそもそも我が身知らずです。「汝自身を知れ」は他ならぬ親鸞会会員に向けられている言葉でしょう。ですから親鸞聖人も次のように仰っています。

濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。「化身土文類」決勧

親鸞会会員は、自分が19願を実践していける人物なのか、よく思いを巡らせてみるべきです。



【参照】
『WikiArc』雑行

文章の読解力も無く、高森顕徹会長の主張を歪曲する親鸞会の理想論者

29週連続上映を記録した偽装大ヒットアニメ映画「なぜ生きる」シリーズの第2弾として、現在制作が進められている映画『歎異抄をひらく』は、今年の5月に公開予定だそうです。

劇場版アニメーション 歎異抄をひらく TANNISHO

また会員を総動員して連続上映記録を稼ごうという魂胆が見え見えですが、はてさてどんな内容になるやら…


さて、本日は理想論者のコメントの後段について扱っていきます。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
『顕正』75頁に

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
信楽開発の一念は時剋の極促であるから私達の分秒にかかるものでは絶対にありませんから実時が判る筈がないのだ。その判るはずのない獲信の実時に記憶がなければならないなどと私が語る道理がないではないか。獲信の実時は判る必要もなければ、記憶出来るはずもない。しかし、獲信の一念の実時は判る必要も判る筈もないけれども、仏智満入した明かな不退転の大自覚まで、凡夫に判らないもののように思っている人が多いから、そんな馬鹿げたものではないぞ、金剛の真心が徹底すればツユチリほどの疑いもない明かな自覚があるぞ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

そして、上の記事に『顕正』の99頁が挙げられていますが、この段は「真宗の極意」という題で、95頁から書かれています。その最初の部分を挙げます。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
超世不共の唯心独達の法門が徹底して、この明信仏智、破闇満願の妙境にとび出さされた初起の一念を信の一念と名づけるから、実時に用事がある筈はなく晴れたか晴れないか、安心できたか出来ないかが問題であり晴れた一念の味が大切なのだ。これを蓮如上人は『御文章』に「もろもろの聖教をよみ、物を知りたりというとも一念の信心の謂れを知らざる人は徒事なりと知るべし」とか、「これを知らざるをもって他門とし、これを知れるをもって真宗のしるしとす。」とまで仰有っている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

つまり、一念の瞬間というものは、分秒にかかるものではないので、私たちには分別できません。私たちが認識できるのは、せいぜい10分の1秒程度でしょう。その私たちが時剋の極促と言われる瞬間を正確に認識できるという主張の方がおかしいです。とはいっても、救われて1秒もあれば認識できるでしょう。その程度の分別は人間にもあります。

『顕正』99頁では、それを「明かな自覚」と表現しているだけです。
なぜなら、一念の信心は相続するからです。私たちがとても認識できない一念の瞬間にこだわる必要は全くありません。「晴れた一念の味が大切」なのであり、それが問題なのです。

祖師は、教行信証の信巻において、本願の三心を一心(信心)とし、その信心に時剋の一念と信相の一念があることを明らかにされました。

なぜなら、別序にある通り、「定散の自心に迷うて金剛の真信に昏し」と嘆かれ、信を明らかにされたのです。それが、ハッキリしなくても良いというならば、なぜ聖人は書かれたのでしょう。聖人の御苦労が無駄になってしまいます。そんなことを言えば、聖人が悲しまれるでしょう。

(紫色の字は高森顕徹著『顕正』からの引用、茶色の字は名無しさんの文章です)
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

詭弁論者で理想論者の名無しさんはおかしなことを言っています。高森会長は『顕正』の中で、

・信楽開発の一念は時剋の極促であるから私達の分秒にかかるものでは絶対にありませんから実時が判る筈がない

とは言っていますが、一方で

・仏智満入した明かな不退転の大自覚まで、凡夫に判らないもののように思っている人が多いから、そんな馬鹿げたものではないぞ、金剛の真心が徹底すればツユチリほどの疑いもない明かな自覚があるぞ

・晴れたか晴れないか、安心できたか出来ないかが問題であり晴れた一念の味が大切なのだ


とも言っています。実時が判る筈はないが、仏智満入した明かな不退転の大自覚ツユチリほどの疑いもない明かな自覚があるぞ、晴れた一念の味が大切なのだと断言しています。対して理想論者。

・一念の瞬間というものは、分秒にかかるものではないので、私たちには分別できません
・私たちがとても認識できない一念の瞬間にこだわる必要は全くありません
・私たちが時剋の極促と言われる瞬間を正確に認識できるという主張の方がおかしい


高森顕徹会長の主張と理想論者の主張が異なっていることが判ります。高森会長は時剋の極促と言われる信楽開発の一念、その一念の瞬間の実時は判らないとは言っていますが、「晴れた一念の味が大切」と、一念の味は判ると書いています。判らないのなら大切も何もないからです。

今は「明信仏智、破闇満願の妙境にとび出さされた初起の一念を信の一念と名づける」と時剋釈の上で論じているのですから、この「一念の味」とは信後相続の味ではなく「初起の一念」の味を指していることは言うまでもありません。それを信相釈で論じようとする理想論者の理論には、かなり無理があります。高森会長の理論を理想論者の言葉で直せば

・一念の瞬間というものは、分秒にかかるものではないが、私たちには自覚がある(分別できる)
・実時に用事はないが、晴れた(初起の)一念の味が大切(一念の瞬間にこだわる必要がある)
・私たちが時剋の極促と言われる瞬間を正確に認識できる


ということです。これは私がくどいほど書いている

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


と合致しています。そのように信一念の瞬間にこだわっている高森会長の説を、どうやら理想論者は本願寺の理屈に合わせて曲げて解釈しているようです。どおりで、

「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張している高森顕徹会長の教えを信じているのですか? 信じていないのですか?

の問いに明確に答えられないわけです。『顕正』のレクチャーをしなければならないほど読解力が無い彼は、

「救われた時の自覚」の「救われた時」というのは、第二念後以降のことです

などと珍しい教えを更に珍しい教えにしています。これではもはや理想論者教でしょう。まだ高森会長が生きている今、

「救われた時の自覚」の「救われた時」とはいつのことですか? 信一念のことですか? 第二念後以降のことですか?

と聞いてみたら良いと思います。また、これに関する会員の理解も調べておいた方が良いですよ。恐らく会員は、信一念の瞬間はハッキリと自覚できる、と皆さん答えるでしょう。そういう教えを聞いてきたからです。


高森会長の主張を曲げてまで当ブログへの書き込み、ご苦労様です。高森会長の主張は勿論ですが、それを擁護する貴方の主張にも大分無理があるんです。ですから、

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
>とはいっても、救われて1秒もあれば認識できるでしょう。その程度の分別は人間にもあります。

これが間違いだと言っているのですが、何を言っているのやら。

この根拠を出しましょう、あなたの理屈などどうでも良い。
2019-02-12(02:24) : 元カルト

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

とツッコまれています。理想論者はなぜか「元カルト」さんの質問には答えませんが、これはどうしてでしょうか。過去にやり取りをして、痛い思いをしたのだろうかと考えてしまいます。

私は高森顕徹会長や講師部員、先輩達からただの一言も

・一念の瞬間というものは、分秒にかかるものではないので、私たちには分別できません
・私たちがとても認識できない一念の瞬間にこだわる必要は全くありません
・私たちが時剋の極促と言われる瞬間を正確に認識できるという主張の方がおかしい
「救われた時の自覚」の「救われた時」というのは、第二念後以降のことです
・(時剋の極促と言われる瞬間を)救われて1秒もあれば認識できる


こんな主張を聞いたことがありません。あくまでも

獲信の瞬間は、火に触ったよりもハッキリした自覚がある

というように、信一念の瞬間はハッキリ自覚(覚知)できると聞いてきました。

繰り返しになりますが、これでは理想論者の主張であって高森会長の主張ではありません。高森顕徹会長の主張を歪曲するとは、理想論者は親鸞会にとって何者なのでしょうか。彼は今後親鸞会から分派して新たな団体を設立するつもりかも知れませんが、私が批判しているのはあくまで高森顕徹会長の主張であって理想論者の主張ではないので、曲がった高森顕徹会長の主張を更に捻じ曲げた理想論者教をここで披露することはご遠慮願います。ブログなりホームページなり何なり立ち上げてそっちで理想論者教を繰り広げて下さい。


それでも、邪義満載の高森教を擁護して自信満々に

根拠が挙げられないからだと言っていますがそれも「捏造」です。
私は根拠が挙げられないとは申していません。


と仰るなら、高森顕徹会長の主張をきちんと認めた上で

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ

(時剋の極促と言われる瞬間を)救われて1秒もあれば認識できる


聖教の根拠を示しましょう。聖教ですよ、聖教。何度も言わせないで下さい。コメント中間の質問は答える価値も無いので省きます。どうしても答えてほしいなら聖教の根拠を示し、それが私や読者の皆さんの賛同を得られてからです。貴方の理屈は要らないので、聖教の根拠をお願いします。



【追記】
尤も、高森会長に質問したところで、自身の記録によれば

はからずも夏休み数日前に、増井君をはじめ数名の求道者諸兄の御指導を受け、半信半疑、なお私の心は悶えました。親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。

という信心ですから、信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できるはおろか、救われて1秒もあれば認識できるという信心でもないことは明らかです。以下の飛雲さんの仰る通りであります。

↓↓↓

今まで70年間、高森会長は往生一定がハッキリするとは言ってきましたが、具体的なことは何も説明してきませんでした。
具体的にどうハッキリするのか誰も聞いたことがありません。

その理由は、高森会長は何もハッキリしていないからです。

会員は現実を直視して、高森会長の信心を疑うべきです。

『教行証文類』や『御文章』で親鸞聖人や蓮如上人が何を示そうとしてその文を引かれたのか、その目的を理解しようともせずに揚げ足取りに走る親鸞会の理想論者

まず、理想論者の名無しさんから明確な返答が得られないので、当エントリーでも確認しておきます。

「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張している高森顕徹会長の教えを信じているのですか? 信じていないのですか?

これに明確な返答をお願いします。また「捏造だ」何だと言われるのを未然に防ぐためです。返答が無い場合、「信じている」という前提の下で話を進めますのでそのつもりでいて下さい。


さて、この記事の続きです。今回は理想論者の質問に答えていきます。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
外道の言葉で外道を誡めているのであって、外道の言葉で仏教の真実性を証明しているのではないということです。
一方、理想論者は「異安心」と非難している本願寺の著作物の言葉で親鸞会教義の正当性を証明しようとしています。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ということは、
              破邪           顕正
外道の言葉の使用   〇(外道に対して)  ×
ということだと思います。

また、儒教の言葉を使って、その他外道の者を誡めているということでしょうか。

すると、教行信証に天台の言葉である『止観』が引用されていますが、これは良いのでしょうか。

すると、教行信証に嘉祥の『観経疏』が引用されていますが、これは良いのでしょうか。

すると、蓮如上人が以下に外典を引用していますがこれは良いのでしょうか。

「しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。」(御文章)

(緑の字は淳心房、茶色の字は名無しさんのコメントです)
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

今日はとりあえずここまでにします。まずは前回も言いましたが、私は理想論者が高森会長の主張の正当性を示す根拠を聖教から示さず、それでいてボロクソに非難している本願寺の著作物に見出している点を批判しています。外道の言葉にしろ何にしろ、良いも悪いも、何を示すために引くのかという目的が大事です。

何を目的に親鸞聖人は『論語』を引かれたのか、それを知ることが重要です。聖人は『論語』の言葉で仏教の正しさを主張したのではありません。仏教の正しさを証明できるのは仏陀の言葉や、それを註釈した仏教徒の言葉のみです。そもそも外道の人が仏教を正しいと思ったら、今まで信じていた教えを捨てて仏教に帰するはずですからね。聖人は儒教が正しい教えだなどとは仰っていません。それは引文の直後に

洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし

と仰って、朝廷に仕えている儒学者を批判していることからも判ると思います。

以前も書きましたが、「化身土文類」末にはあらゆる宗教現象を真・仮・偽に分けた中、偽の宗教への教誡が書かれています。その内容は、主として鬼神に仕えることへの教誡です。その最後に、これから挙げる『論語』からの引文があります。ところが、その引文の仕方が特異で、普通では有り得ない読み方をされています。

季路問事鬼神。子曰。未能事人。焉能事鬼。

元々漢文ではこのように書いてあり、普通の読み下しと現代語訳は以下の通りです。

季路、鬼神に事うることを問う。子曰わく、未だ人に事うること能わず、焉んぞ能く鬼に事えん。

【現代語訳】
季路が鬼神に仕える道を先師にたずねた。先師がこたえられた。「まだ人に仕える道もわからないで、どうして鬼神に仕える道がわかろう」『論語』先進第十一 11 季路問事鬼神章参照)

元々は、鬼神に仕えることを誡める言葉でも何でもなかったんです。それを聖人が

季路問はく、〈鬼神に事へんか〉と。子のいはく、〈事ふることあたはず。人いづくんぞよく鬼神に事へんや〉

と常識外れの読み方をされ、外道(鬼神に仕えること)を誡める言葉に直されたんです。

国語の授業で親鸞聖人のような訓点を施したら×でしょう。儒学者に聖人の訓点の仕方を見せたら古文の常識も無いと鼻で笑われてしまうかも知れません。しかし、物の正しい道理を知らせ、弥陀の本願に帰せしめんがために敢えてこのような読み方をされたのでしょうね。親鸞聖人は、『論語』でも鬼神に仕えてはならないと教えられている、まして仏教では鬼神に仕えてはならないのは当たり前のことだと、仏教を際立たせる意味で訓点を変えた『論語』を引かれたと推察します。それは、

外道・梵士・尼乾志に
 こころはかはらぬものとして
 如来の法衣をつねにきて
 一切鬼神をあがむめり
『正像末和讃』悲歎述懐

等の言葉からも判るように、仏教徒でありながら鬼神に仕えるという外道に陥っていた者が親鸞聖人の周りに相当いたからに違いありません。


次に天台大師智顗の『止観』

『止観』(摩訶止観)の魔事境にいはく、「二つに魔の発相を明かさば、管属に通じて、みな称して魔とす。細しく枝異を尋ぬれば、三種を出でず。一つには慢悵鬼、二つには時媚鬼、三つには魔羅鬼なり。三種の発相、各々不同なり」と。

は、仏教の立場から外道を誡めたものです。また、嘉祥大師吉蔵の『観経疏』

三論の祖師、嘉祥のいはく(観経義疏)、「問ふ。〈念仏三昧はなにによりてか、よくかくのごとき多罪を滅することを得るや〉と。解していはく、〈仏に無量の功徳います。仏の無量の功徳を念ずるがゆゑに、無量の罪を滅することを得しむ〉」と。{以上}

は、選択本願念仏という行法の真実性を証明するために、広く聖道諸師の文を引かれたその一文です。これは、三論の祖師、嘉祥大師も念仏三昧をこのように仰っているんだから間違いない真実の仏法なんだと証明された御文です。『教行証文類』は、対外的には聖道諸宗の浄土宗および『選択本願念仏集』への論難に的確に回答するという意味をもっていました。聖道諸宗には三論宗の方々もいますから、そういう方々に選択本願の念仏が真実の仏法だと示すには非常に効果がある引文ではないかと伺えます。その他、律宗や法相宗、禅宗の方々の文までも幅広く引かれていますが、そのような意図があったのでしょう。


最後に蓮如上人のお言葉ですが、先の『論語』と同じような理論です。

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。これによりて、その阿弥陀如来をば、なにとたのみ、なにと信じて、かの極楽往生をとぐべきぞなれば、なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。

このうへにはただねてもおきてもへだてなく念仏をとなへて、大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
『御文章』2帖目9通

目的は、「阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころ」を明らかにすることです。その中で、「一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころ」を、人間においても主人は一人ではないかということで司馬遷の『史記』(意)を記されるのです。

忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず

と書いてあるそうだが、世の中でも真心こめて仕える臣下は決して主人を変えず、貞節を守る女性は二人の夫に仕えるようなことはしないではないか。まして往生という一大事を助けて頂こうというのに、三世諸仏の師匠である阿弥陀仏一仏をたのみたてまつるのは当然ではないか、というのです。

このようなわけで、仏教以外の書物にもこのように教えられている、まして真宗では阿弥陀仏一仏をたのんで余の善や他の仏にこころをかけないのは当たり前のことだと、蓮如上人は浄土真宗の宗義を際立たせる意味で『史記』(意)を引かれたと見えます。


ところで、『御文章』2帖目9通を読めばお分かりのように、親鸞聖人、蓮如上人の教えは「阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる」です。対して高森会長の主張は

阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をせよ

です。聖道諸宗が法然聖人を非難したのと同じような論理、同じような根拠をもって本願寺や退会者を非難し、往生のためには役に立たない雑行を「善の勧め」だと言って会員にやらせています。その実態は既に指摘しているように、善とも呼べない親鸞会の組織拡大活動、いわゆる「高森の行」を中心に、世俗的な親切や親孝行、言行一致等の善を加えただけです。現在理想論者の名無しさんとは

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という高森会長の説で議論していますが、聖教を示せば示すだけその前後に書かれているお言葉から親鸞会教義の誤りが明確になっていきます。これまた、有難いことです。今回はこれで終わります。



【参照】
『故事ことわざ辞典』忠臣は二君に仕えず
『Wikipedia』司馬遷

「私は根拠が挙げられないとは申していません」と言っておきながら、聖教の根拠を一つも示さない親鸞会の理想論者

詭弁論者で理想論者の名無しさんが更にコメントしています。全文は長いのでリンク先を参照下さい。

取り急ぎ、高森顕徹著『顕正』を引用して親鸞会教義と自身の正当性を主張していますので、

「信一念の瞬間が必ずハッキリと自覚できる」と主張している高森顕徹会長の教えを信じているのですか? 信じていないのですか?

については「高森顕徹会長の教えを信じている」という立場だと受け取ります。もし違っていたら次のコメントで必ず訂正して下さい。それと、名無しでコメントされる方は他にもいらっしゃいます。主張や文面からおよそ区別はつきますが、確実ではありません。適当にハンドルネームを決めてコメントして頂きたいと思います。


今回は随分と質問攻めなコメントです。そもそも理想論者の名無しさんは、親鸞聖人に対して文句を言っているようです。「親鸞が集めた文の中で、この文は適当ではないと思われたら、外してもらって構わない」と聖人は仰っています。

浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。

【現代語訳】
浄土を願うともがらよ、たとえこれに取捨を加えることがあっても、真実の法を示されたこれらの文を謗るようなことがあってはならない。

「これらの文」とは、親鸞聖人が選択本願念仏の教えの真実性を証明するために集められた経論釈のお言葉のことです。その中で気に入らないとか、適当でないと思われた御文があったら、貴方の『真宗聖典』からその御文を外されたらよいでしょう。親鸞聖人もそうして「取捨を加」えてよいと仰っています。


元々は、名無しさんが親鸞会の説の正当性を主張するために本願寺の人が書いたものを根拠に挙げたことに端を発しています。高森会長は、ご存知の通り本願寺をボロクソに非難しています。『こんなことが知りたい②』には

なぜ、親鸞会は本願寺を非難攻撃するのか

という題で問(42)、(43)、(44)、(45)と大幅に紙面を割いて書かれています。名号本尊にせずに木像本尊としていること、現生の救いを説かずに死後の華降る極楽のみを教えていること、信心正因を説かずに称名念仏に力を入れていること、法を説かずに葬式仏教・法事仏教に成り下がっていることを指摘し、問(47)では

なぜ、自ら本願寺をとび出したのか

と題して次のように述べています。

 若い世代や心ある現代人に見捨てられた現今の本願寺は沈没寸前の老朽船です。それどころか親鸞聖人や蓮如上人の御教えをネジ曲げ、真実の仏法を破壊している本願寺の老船は速やかに爆沈すべきです。(p.181)

普段はここまで激しくないにしても、富山の親鸞会館では法話の度に

「世界の光」と仰がれる親鸞聖人の教えを、浄土真宗と言いますが、今日の浄土真宗は、葬式仏教、法事仏教と言われて久しく、衰退の一途を辿っています。
 この現状を嘆かれ、何とかして本当の親鸞聖人の教えを、明らかにしなければならないと親鸞会を結成されたのが、高森顕徹先生です。
『公式ホームページ』7 ■会長:高森顕徹先生の紹介

などという案内を繰り返しています。現会員・元会員問わず皆さん、こんなことを何回聞きましたか? そのように目の敵にして、「速やかに爆沈すべき」ことを願っている高森会長の主張の根拠を、「速やかに爆沈すべき」本願寺の著作物に見出して、それが高森会長が正しいという根拠になりますかと私は問うているのです。

私は、自説の根拠を聖教だけでなく、本願寺の著作物や、飛雲さんや山も山さん等の書かれたものに求めることはあります。それは、文章を読んで聖教に則している、筋の通った論理を展開していると判断しているからです。もし聖教に則していない、筋が通っていないと判断したら、それは用いません。

一方、私が高森顕徹会長の著作物を引くのは、それで真宗教義やその正しさを示すためではなく、高森会長の主張が如何に親鸞聖人の仰せに反しているかを示すためです。「ワシはそんなことは言っていない」という高森会長の迷言を封じるには、自身が書いたものを示すよりないからです。私は、真宗教義やその正しさを示すために高森会長の著作物を用いることはありません。高森会長の教えは間違った親鸞聖人の教えだと判断しているからです。文を引く一つ取っても、その目的が大事なのです。理想論者は揚げ足取りに走るあまりに、肝心のそれが見えていないと伺えます。

ですから、親鸞会が教義の正当性を主張するのにその根拠を本願寺の著作物に求めることはできません。求めるのであれば本願寺、少なくとも長明寺さんの説かれる教義の正当性を認めてからにして下さい。認めないのであれば、聖教の中に根拠を見出し、それを示して下さい。彼は

私は根拠が挙げられないとは申していません。

と書いていますが、肝心のその根拠が全く示されていません。示せないのは無い証拠です。

なお彼の質問には、長くなりましたので一旦ここで記事は終了とし、次回以降に答えたいと思います。それと、高森会長が主張するようなことを本願寺派始め浄土真宗の布教使は本当に言っているのかの検証は読者の皆様一人一人におまかせすることとし、ここでは割愛させて頂きます。

「雑行をすてて、とは雑行、雑修、自力の心を振り捨てた事!」だとか喚いて、高森顕徹会長の主張する親鸞会流『三願転入の教え』を完全否定していることに全く気づかない現役カルト信者

現役カルト信者は本当に話題提供に活躍してくれています。ここまで来ると、「もっと親鸞会教義の誤りを示せ」と促して下さる還相の菩薩様のようにも思えてきます(笑)

それはさておき、彼はまたこんなことを言っています。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
雑行、雑修、自力の心を振り捨てて

御文章よくよく読まれ(笑
どうせ正顕できんと思うけどww


蓮如上人の御同行に雑行棄てて無い方々がおられたか


けんにんかのとりのれき
雑行をすてて、とは雑行、雑修、自力の心を振り捨てた事!
即、本願の船にのり、他力の信心を得る。

それ以外無い
2019-02-10(10:28) : 元会員

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

どうやら「信前に雑行は捨てられない」「信一念まで雑行はある」という異安心に陥っているようです。そして、これが親鸞会流『三願転入の教え』を完全否定していることに全く気づかないようなので教えてあげます。

以下、『飛雲』十劫安心の体験談しか自慢できない親鸞会より。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
 『三経往生文類』の20願をみておきます。

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

(現代語訳)

「弥陀経往生」 というのは、 植諸徳本の願 (第二十願) によって 「不果遂者」 と誓われた真門に入り、 あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。 ところが、 自力で修める行にとらわれている人は、 阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、 如来の名号を自分の善根とし、 その功徳を自ら回向して、 必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。 本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。 それは深く重い罪であり、 浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じこめられて、 五百年の間、 自由に振舞うことができず、 仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、 お仕えすることもできないと如来は説いておられる。 それでも、 如来の名号を称えるから、 胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。 あらゆる功徳をそなえた名号によるから 「難思往生」 というのである。 不可思議の本願を疑う罪によって 「難思議往生」 とはいわないと知らなければならない。

ここで判ることは、「善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく」とあるように、諸善を捨てて念仏1つを選ぶのが20願です。したがって、19願を捨てなければ20願に入れないのです。言葉を変えると雑行と雑修(助業)を捨てなければ念仏1つにはなりません。
信前に雑行を捨てることができるのか、という愚かな質問の答えはここにあります。もちろん、自分自身の意思で捨てるのです。阿弥陀仏によらなければ19願、雑行、助業を捨てることができないなどというのも、迷信、邪義、異安心です。

三願転入の文を読めば明らかです。
論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて」、19願を離れたのですから、阿弥陀仏によりてではありません。もし、阿弥陀仏のお力によって19願を捨てることができたと言うのであれば、外道を捨てるのも、聖道門を捨てるのも阿弥陀仏のお力によると言うべきです。そうなると親鸞会は十劫安心と同じです。十劫の昔から、助かることになっているから時間が解決してくれる、と言う話です。
敢えていうならば、阿弥陀仏のお育てによって自らの意思で外道・聖道門・19願を捨てることができた、でしょう。
いずれにしましても、自分の意思で外道を捨て、聖道門を捨て、19願を捨て、雑行を捨て、助業を捨てるのです。

要するに、19願はいつでも捨てることができますし、雑行もいつでも捨てることができますので、屁理屈を捏ねずに、今すぐ19願、雑行を捨ててください。
自力を捨てて他力に帰すにはどうすれば、という悩みは19願、雑行を捨てて念仏1つになってからの話です。自力一杯求めていれば、いつか自力が廃る、などという十劫安心に陥って、その体験談を自慢しているのが親鸞会です。
親鸞会は自力他力以前の問題なのです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

20願の行者は、「雑行と雑修(助業)を捨てて念仏1つ」となった行者です。その20願は信前ですから、信前に「雑行」が捨てられないのでは行者は20願を通らずに信心獲得することになります。これは

高森顕徹会長の主張する親鸞会流『三願転入の教え』の完全否定

です。こんなことも判らない愚かな現役カルト信者だということが分かります。

では、領解文『御文章』5帖目15通等に言われている

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて
もろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて

は何かと言いますと、これは「自力心」の別名です。「自力心」があるから「もろもろの雑行雑修」に心をかけるのです。その「もろもろの雑行雑修」の元である「自力心」をふりすてて、ということです。「もろもろの雑行雑修」は行体、つまりものがらです。ものがらは自分で捨てることができます。「自力心」はものがらではなく迷いの因です。これは自分で捨てることができません。他力に帰す、信心獲得するまである心です。

その「自力心」は自分でふりすてるのではなく、

一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのむ
一心にふかく弥陀に帰する


ところに阿弥陀仏のお力によって捨てさせられるわけですから、私達にとっては何よりも「助けるぞ」の弥陀の勅命を聞いて、仰せの通りに後生をまかせることが大事なのです。これを「唯信」、つまり信心と言います。

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。このゆゑに「唯信鈔」といふなり。また「唯信」はこれこの他力の信心のほかに余のことならはずとなり、すなはち本弘誓願なるがゆゑなればなり。『唯信鈔文意』

とある通りです。これと奇妙奇天烈で摩訶不思議な体験とは訳が違います。


あと、領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味については

『飛雲』会員との問答(後生の一大事について)

に書かれていますのでそこから引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
ちなみに領解文の「御たすけ候へとたのみ」の意味は、本願寺出版社の教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』巻末註には、

衆生が阿弥陀如来に向かっておたすけを請求する意ではなく、許諾(先方の言い分を許し承諾する)の義で、「必ずたすける」という本願招喚の勅命を領納して、仰せの通りに信順している信相をあらわす。

とあります。すべて阿弥陀仏から回向してくださる訳ですので、こちらからお願いするものはありません。
従って、「御たすけ候へとたのみ」を「地獄に堕ちるのを助けてください、お願いします」、と解釈するのは自力を捨てて他力に帰すという捨自帰他が判っていないからです。お願いするのは自力です。どれだけお願いしても、自力は自力です。

親鸞会でも捨自帰他という言葉は使いますが、実際は自力と他力が逆になっています。何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向しているのが親鸞会の教義です。

阿弥陀仏の救いとは、どんなものか全く判っていない証拠です。どう見ても異安心集団ですね。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

聞邪義、献金、勧誘、無条件服従等のいわゆる「高森の行」にいそしみ、

何でも自分で準備して、「これだけ揃えましたので、助けて下さい」と自力回向している

親鸞会会員の実態を捉えて余りありません。そうやって、気が付かなければ死ぬまで騙され続ける会員。他力の信は獲られず、「絶対の幸福」とやらも獲られず、残るのは我が身に積もる罪悪と後生への恐怖のみです。どこまでも、哀れ哀れです。

【お知らせ】高森顕徹会長の講演延期 及び 「建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」を解釈された存覚上人の言葉も知らない現役カルト信者

本日に予定されていた高森顕徹会長の講演がまたまた延期です。今回は親鸞会公式ホームページ

【平成31年2月】親鸞会館 二千畳の行事日程

に載っています。歳が歳ですし、よほど体調が思わしくないのでしょうか? しかし、予定を変更に変更するのも困りものです。何回もの変更は、世間的に見ても恐縮物ですし信用が落ちることです。それならば、代理の人を立てるなり、他に方法がありそうですが、最後まで高森顕徹会長一辺倒の親鸞会のようです。


さて、数々のコメントの中に埋もれて昨日まで気付きませんでしたが現役カルト信者がまたまた愚かなコメントをしていました。それは、この記事にある

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
とわの闇より救われし

けんにんかのとりのれき云々
2019-02-07(07:05) : 元会員

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

です。どうも「後序」にあるお言葉

しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。

をもって

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


としたいそうですが、残念でした。これも的外れです。

この御文については存覚上人が『六要鈔』に解説されています。今は

『飛雲』雑行の意味さえ知らない高森顕徹会長

より該当箇所を引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
親鸞会は、雑行の意味についても知りません。
蓮如上人は

雑行をすてて、後生たすけたまえと一心に弥陀をたのめ

と『御文章』に何度も書き記しておられますが、

蓮如上人が「雑行をすてて」と仰っていることは、他力に帰すと同時なのだ、という勝手な解釈をしています。

蓮如上人の教学を語る上で、存覚上人を抜きにすることはできません。

『御一代記聞書』158に

前々住上人(蓮如)、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。
こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。


とあります。
蓮如上人は、存覚上人のことを釈尊の化身、勢至菩薩の化身とも敬っておられ、その著書も最大限の敬意を表して、そのまま受け入れられたのです。

では親鸞聖人が仰った有名な御言葉

建仁辛の酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。

を存覚上人はどのように解釈なされているのか。
『六要鈔』では、

「建仁」等とは、元年辛酉、大祖聖人六十九歳、鈔主聖人二十九歳。始めて門下に入りて即ち宗旨を伝う。

とあります。
雑行を棄てて」=「(法然上人の)門下に入りて」
です。
法然上人の門下に入ったことと、他力に帰したこととは同時ではありません。

蓮如上人にこのことを尋ねてみるとどう答えられるでしょうか。

名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なり

でしょう。

高森顕徹会長以下、講師部員はこんなことさえ知らないのです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

残念ながら、「後序」の文をもって高森顕徹会長の説の証明はなりません。それに「建仁辛酉の暦」と言っても1年間ありますから。尤も、『御伝鈔』には

建仁第一の暦春のころ

とあって少し詳しくなっていますが、それでも「春のころ」ですからね。なお、

たちどころに他力摂生の旨趣を受得しとあるから信の一念はハッキリするんだ

と主張するかも知れませんが、『御伝鈔』は覚如上人の書かれたものであり、あくまでも伝聞であって親鸞聖人ご自身の体験談ではありません。

他人の体験は、自覚できない

『飛雲』親鸞会で切れ者と思われる人物でも、実は大したことないという実例を通しての国語の授業です

にあるように、親鸞会きっての切れ者W氏がそれを証明して下さっています。その御文をもって

救われた一念、信心獲得の瞬間は、必ず、ハッキリするものだ
信一念の瞬間は、必ず、我々の上でハッキリと自覚できるものだ


という根拠には成り得ないのでした。

現役カルト信者の思いつきそうなことは、既に過去に破られているのです。そうとも知らずに、また私によって飛雲さんの記事がサルベージされ、皆さんに読まれます。それによって、親鸞会教義の誤りに気付く人がまた増えるでしょう。実に喜ばしいことです。

浄土真宗の布教使たる者、親鸞聖人の教え、親鸞聖人のお言葉に忠実であれ

驚き、呆れられてしまったようですが、それはこちらのセリフです。

・聖教に反する間違ったことを教えている
・間違っていることに気づかない(または認めない)
・聖教の御文をえり好みして、自説に合わない御文はことごとく無視
・浄土真宗の僧侶が一生涯かけて学ぶべき『教行証文類』の「行文類」のお言葉を間違って解釈している


これを、コメント欄を見ればわかるようにけっこうな上のお立場の方がやってるんですから。

これでは、親鸞会教義、高森顕徹会長の主張の誤りを示す私としては、会員に対して示しがつかんのですよ。本願寺派の僧侶がこんなことをやっていて、それを容認していたら、高森会長の主張は聖教に反する邪義だといくら言っても説得力が無いじゃないですか。高森会長がやっていることを本願寺の僧侶が同様にやっていたら、高森会長のことを認めているも同然です。

会員が聖教に反する邪義を信じていても、それは当然だとなってしまいます。また、退会した会員に浄土真宗の話を紹介するといった場合に、その布教使の先生を自信を持って勧められなくなってしまいます。


問題点はいくつかありますが、差し当たりかの先生には

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

という主張を撤回すると共に、二度と人に言わないで頂きたいです。

直接聞いたんですが、阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていますと話す僧侶に対して、かの先生は「どこにそんなことを仰ってるんだ」と尋ねることがあるそうなんです。尋ねられた僧侶からしたら、先生はけっこうなお立場ですから違うとも何とも言えなかったんじゃないですかね。それで今まで来たけれども、私はそんな立場とかを気にするタイプの人間ではなかった。それでこの度問題が明るみに出たのだと思います。

未来の僧侶になる人を育成する立場の方があのような主張をしていたら、未来の僧侶の領解が不安で仕方ない。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」と平気で説く人ばかりになったら大変ですわ。


どんな人にだって間違いはあります。完璧な人間なんて一人もいないのですから。親鸞聖人でさえそうだったんです。だから教えが必要なのです。曲がった方向へ進んでも、教えがあればまた元の方向に戻れるんです。教えとは、親鸞聖人が書き残された数々の御聖教です。それは『教行証文類』のみではありません。

•浄土文類聚鈔
•愚禿鈔_(上)
•愚禿鈔_(下)
•入出二門偈
•浄土和讃
•高僧和讃
•正像末和讃
•三経往生文類
•尊号真像銘文
•一念多念証文
•唯信鈔文意
•如来二種回向文
•弥陀如来名号徳
•親鸞聖人御消息


皆々、大切な御聖教です。そこに書いてあったら、しかも1箇所や2箇所でなく、多くの御聖教で同じことを言っていたら、間違いなくそれは親鸞聖人が正しいと信じて皆さんに教えておられた「親鸞聖人の教え」です。確かにその元は「法然聖人の教え」かも知れない。しかし、それは親鸞聖人の血となり肉となって、それを書き残して下されたのですからやはり「親鸞聖人の教え」なわけです。

自分の説に都合の良い御文は採るが、都合の悪い御文は選び捨てるというのはどうかと思います。そこはきちんと「親鸞聖人の教え」として認めましょうよ。その上で、信心正因、「南無阿弥陀仏」に込められた阿弥陀仏のお心を開いていけばいいじゃないですか。

・阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない


これで本当に合ってますか? 淳心房は聖教を読む限り、

・阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている
・「念仏を称えよ」は仏の本願。念仏のこころは「我にまかせよ」


としか受け取れないです。どちらが正しいですか? あるいはどちらも正しくないですか? 判断の基準は聖人のお書き下されたものです。よく読まれて、よくお考えになって頂きたいです。


自説を述べるのは構いませんが、せめて聖教に基づいた自説にして頂きたい。後は、阿弥陀仏のお心を中心として教えを理解して頂きたい。お釈迦様や諸仏、善知識方が口を揃えて勧められることは、その裏には必ず阿弥陀仏の勧めがあってなされていることなんだということを今一度ご確認頂きたい。

阿弥陀仏は本願において念仏と信心とを両方お誓いなのですから、両方勧められているのです。念仏は信じさせる法の側、信心は法を受ける機の側であって、受ける機の側からしたら信心正因なのであって、法の側からしたら名号業因なのです。しかしややこしいでしょ? 

親鸞聖人の「行」の捉え方は一様でなく、難しいんです。難しいと、聞く人は訳が分からん。しかも昔は今と違って文字も知らない、きちんとした学問教育がなされなかった人が多い時代です。だから蓮如上人は分かり易く皆さんに伝えるために相当骨を折られたと思いますよ。その結果、上人は法を受ける機の側に立って一貫して信心正因称名報恩で人々を勧化なされたのでしょう。

しかしその蓮如上人でさえ、

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

こんなことは一言も仰っていません。せめて、

阿弥陀仏の仰せられけるやうは、念仏せよといふにあらず、ただ我をたのめとこそ仰せられたり

みたいなことが書かれていたら私も認めざるを得ません。しかしどこかに書いてありますか? ご存知の方は教えて下さい。今までの関連記事を全て削除し、厳重にお詫びして訂正いたします。


とにかく、私が言いたいのは、タイトルに示したように

浄土真宗の布教使たる者、親鸞聖人の教え、親鸞聖人のお言葉に忠実であれ

です。何を偉そうにと思われるかも知れませんが、邪教に迷って、本職ではなく、仕事と家事の合間に勉強している私に教義の捉え違いを指摘されてしまってどうするのですか? 親鸞聖人の教え、親鸞聖人のお言葉に忠実であったら、あのような解釈は出てこないのです。

どうか、親鸞聖人の教えを伝える人はそうであってほしい。私もそうでありたい。だから私が聖教に反する教えを言ったら皆さん指摘してほしい。ここは間違っている、その根拠はこのお言葉で、こう言うのが正しいと、ぜひ教えて下さい。幸い、当ブログを御覧の皆さんは私より学識も経験も上の方々ばかりですからたのもしいです。それで間違いが分かって、皆さんが正しい親鸞聖人の教えを受けて下さるなら、プライドを捨て、今までの自分に恥じて訂正していきます。そうやってより深く教えを学んでいきたいと思っています。

私なんかに言われるまでもなく、全ての先生方がそうであってほしいものです。プライドが邪魔をして、淳心房の言葉なんか聞けないかな・・・。まだまだ言いたいことは沢山あり、この問題についての考察もしていきたい所ですが、諸事情によりひとまずこの記事をもってブログでの追及は終わりとします。

行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり

「念仏を称える」というと、どうも自力の念仏に捉えるように思う方があるようですが、真宗で言われる念仏は、「念仏している」という行いに功を認めるような自力の念仏でないのは当然のことです。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。
「行文類」大行釈

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。「行文類」決釈

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。「信文類」総決

念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。『歎異抄』第8条

ですから、「念仏を勧める」⇒「自力を勧める」、「念仏を称える」⇒「本願のはたらきに念仏を称えるという私の行いを足す」ように勘違いされては困ります。

よく「信心を頂く」というのは聞くことがあると思いますが、同様に「行」も阿弥陀仏より頂くのです。なので

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。総序

しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。「行文類」行信利益

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。「行文類」偈前序説

等とあるように「行信を獲る」という表現をされています。本来は「教文類」にあるように「真実の教行信証」を回向されるのですが、「」は往生成仏の証果で、助かった結果です。今問題なのは、助かるタネ、つまり「行信」なんです。その内、信心正因称名報恩を説く人はどうも信心を独り立ちさせて行を説かない、あるいは行を本願のはたらきとか法体名号の上でのみ語る、または信後の「必具名号」というような「信心についてくるもの」という意味合いで説かれるようなんですが、これは果たして宗祖の解釈と合致するものなのでしょうか。

私はそうは思いません。もしそうなら、

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」破闇満願

と称名で大行を語られるはずがないからです。法の徳から言えば、称名は間違いなく私達を往生成仏させる、正しく往生が決定する行業、「正定業」なのです。念仏が諸善に超え勝れ、速やかに往生成仏の果を満足させる「最勝真妙の正業」であることを経論釈にとどまらず、広く聖道諸師の文までも集められて証明せられたのがこの「行文類」です。

また、順番としては「教 行 信 証」ではなく「教 信 行 証」となるはずです。教えを聞いて信心を獲て、報謝の念仏(行)をしてさとる、こうなりますわね。しかし説かれ方は「教 行 信 証」です。本来は行の中に摂めてあった信を別開したので、行と関係ない信もなければ信と関係ない行もありません。真実の行には必ず真実の信が伴っているし、真実の信には必ず真実の行が伴っている。行と信と二つあるように聞こえますが、これは不離不二の関係です。これを表しているのが、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

の御文であり、末灯鈔(11)真蹟「信行一念章」

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。

のお言葉です。ここでは、「行」を

本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり

と表され、「信」を

この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念

と仰っています。「行」は「ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせん」ですから「念仏」であり、「信」は「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」という「御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを」信というのです。念仏は私の上に現れていますが、私の行いではなく、本願のはたらきの活動相です。その活動相としての念仏をも「行」というのです。

第17願が成就し、諸仏讃嘆の名号が「南無阿弥陀仏」となって我々に届いている。我々の上に念仏となって届いているのです。なんまんだぶ、なんまんだぶと称えてみて下さい。私の口を通して諸仏讃嘆の名号が聞こえます。その「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」という「御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを」信といい、これは第18願に誓われた信楽です。

ここで、念仏を言われる際にも「本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて」、信心を言われる際にも「この御ちかひをききて」とあるように、本願を「ききて」の念仏、信心というところが大切です。本願を離れた私の念仏、私の信心と思うところに誤りが発生する元があるのでしょう。

この「念仏」には、「念仏を称える」という私の行為に功を認めるような、また「念仏を称える」ことを条件に救って頂こうというような自力の計らいは一切雑じりません。「我が名を称える者を必ず浄土に迎えるぞ」と聞き受けて疑いがないからです。これを、本願に誓われた念仏と受け取らずに、私の行い、私の善のように思い、それを積み重ねて往生しようとするから「自力の称念きらはるる」なのです。

嫌い退けられるのは「自力」であって「称念」そのものではありません。「仏願の生起本末」を知らずに、何の分別もなく南無阿弥陀仏とばかり称えれば助かるように思う無信単称、また自力心がいけないのであって、念仏そのものは本願の行なんですから、「仏願の生起本末」を聞き受けて弥陀回向の法を怠りなく申すべきなのであります。


上の末灯鈔(11)真蹟「信行一念章」にも示されているように、本願は「本願の名号をひとこゑとなへて往生す」という「御ちかひ」であると聖人は仰せられています。これも法然聖人の教えだとはねるようならば、ではどれが親鸞聖人の教えで、どれが法然聖人の教えなのか明確に線引きして頂きたいものです。

そういえばかの先生は以前、「称」は「秤」の意味だと説明されていましたが、その根拠は

「及称名号」といふは、「及」はおよぶといふ、およぶといふはかねたるこころなり、「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。『一念多念証文』 『礼讃』深信釈の文意

でしょう。これも、前段の

「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。

は用いるのに、後段の

名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり

という善導大師の文意は『観無量寿経』の立場だと言ってはねるのでしょうね。聖人のお言葉をえり好みして、これは親鸞聖人の教え、これは法然聖人の教え、これは平生業成の立場、これは念仏往生の立場、これは『大無量寿経』の立場、これは『観無量寿経』の立場と、自分の説に合わせて都合よく断章取義していく姿勢は誰かさんを彷彿とさせます。邪義を説いたり私利私欲を満たしたりしてはいませんが、浄土真宗の先生ならばどの聖人のお言葉も尊く受け止めていくべきだと思います。

なお私としては、念仏往生の正しい領解、親鸞流の領解を後の人が平生業成と言われたので、両者は対立するものでも何でもない、一つだという見解ですが、これは別の機会に譲ります。



【参照】
安心論題/正定業義
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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