いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らない

親鸞会では、獲信したら「さとりの52位」の中、51段高とびして正定聚不退転の明らかな大自覚が起きる、現生で十種の幸せに生かされると言い、仏智満入、仏智全領して相当の事が知らされるかのように説いています。それを聞いて会員は、信心決定すると仏智を体得して相当のことが判ると考えているに違いありません。

よく「さとりの52位」を示し、これを山登りに例えて、登れば登るほど見える範囲が広がってゆき頂上では360度見渡せるというような話が会内でなされます。会員は信心決定の暁には頂上付近から相当の範囲を見渡せるように、51段の高みから今まで分からなかった多くのことがハッキリ分かる、見えるようになると信じ込んでいる節がありますが、残念ながらそうはなりません。獲信しても等覚のさとりを開くわけでも、等覚に等しい智慧を獲るわけでもありません。七高僧方は死後に正定聚に入るとしか仰っていないので、獲信しても冒頭述べたようなことにはなりません。

信心決定しても、智慧のない凡夫は変わりません。それを示されたのが、

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。執持鈔

のお言葉です。「往生という後生の一大事」、「仏智の不思議」は「補処の弥勒菩薩」でさえ判らないのですから、まして況や「凡夫の浅智」で判るわけがないのです。その判らないことを「凡夫の浅智」で判るなんて考えるのは、今生で仏のさとりを開ける、今生で極楽に往生できる、という一益法門の異安心です。

親鸞会は体験談を否定しつつ最後は「一念の体験」にしがみつく「体験至上主義」の集団ですが、もし「念仏」が「まことに浄土に生るるたね」だと体験として知ることができたなら、それは弥勒菩薩を超えて、阿弥陀仏の五劫思惟に智慧が及んだということでしょう。少なくとも「念仏」の果報が現れる死後の世界、浄土に往ったことがあるか、浄土の様相が今現に見えるかしていなくては「体験として知った」とは言えないはずです。

親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も、極楽が判った、地獄が見えた、とは全く仰っていませんし、判る筈もないのです。もし極楽、地獄が判る、見えるということならば、その人は最低でも定善は容易くできることでしょう。しかし、そのような智慧は親鸞聖人でも体得されていませんでした。ですから、

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。『歎異抄』第二条

の「総じてもつて存知せざるなり」はその文字通り

知らない

です。いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らないのです。実際のところ、阿弥陀仏の救済の仕組みは阿弥陀仏でなければ判りません。であるから「仏智の不思議」なのです。我々が判る程度の事なら不思議でも何でもありません。ですからここでは、

親鸞は念仏が本当に浄土に生まれるたねか、逆に地獄に堕ちる行いなのかは知らない、判らないが、ただよきひと法然聖人より受けし教えを信じて念仏するほかには何もありません

と言われているのです。そうした親鸞聖人の信心が、この直前の

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

というお言葉に端的に表れています。無有出離之縁の煩悩具足の凡夫が「ただ念仏」して「浄土に生るる」というのは弥勒菩薩でも到底思慮の及ばない「仏智の不思議」です。そんなことを知りすぎた知らんだと言う人がいたら、その人は仏のさとりを開いた仏陀か、知ったかぶりして覚者を演じる悪知識かのどちらかです。


私は「念仏よりほかに往生のみち」は無いとの法然・親鸞聖人の教えをそのまま受け止め、お念仏を申し浄土を願って生きておりますが、それは本願を信じて念仏すれば仏に成るという理屈、道理がハッキリ理解できてのことではなりません。何にも分からないが、分からんまんま、よきひとの仰せの通り「なんまんだぶ」と念仏を申して本願のはたらきに身も心もおまかせしているだけです。何しろ、サークル活動の延長のような親鸞会の活動も満足に出来ず根を上げてしまう機根最劣の凡夫ですから、このような者は「念仏」以外に手立てがないという善知識方の仰せを聞き受けて信ずることの他に何にもありません。

『歎異抄』は、これほど信心のありのままを顕した書物は無いと言えるとても有難いお聖教ですが、念仏も信心も無い「創価学会の信心」の者が扱えば非常に危険な書物です。これ以上珍説を世間に晒して恥をかき、多くの会員を更に迷わせる前に止めておけばいいものを、幸福のなんとかの真似をしてまた映画を出すそうですから呆れてしまいます。その映画製作に関してまた財施が募られていると思いますが、どれだけ財施したところでそういった活動は「大悲の願船」に乗るには「一切要らない(※)」そうですから、会員の皆さんはよく考えた方がよろしいかと思います。

我々が獲信・往生するには「念仏一つ」、それ以外の行は「一切要らない」捨てものです。その「一切要らない」捨てものを事実上「絶対必要」だと教えるのが高森教です。会員の皆さんはそのような偽の教えを捨て離れ、また「このようにしていかなければ信心決定できないだろう」とか「信心決定したらこうなるはずだ」という高森教で得た概念も捨てて、ただよき人の仰せの通り本願をふたごころなく深く信じて念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』そろそろ勉強しておかないと、と思いながらまだ何も始めてない高森会長

【追記】
梯 實圓和上「歎異抄二条のこころ」を林遊さんが紹介して下さいましたので、記事上にも載せておきます。
関心のある方はぜひ聴聞されたらよいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず

ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず。『教行証文類』後序

皆のコメントを見ていて思った。俺も一退会者として、退会者の皆の気持ちはよく分かる。俺だって、いつまでも過去の事を言われ続けてくどいと思ってる。ムカつくよ。腹立たしいさ。でもね、侮蔑に怒りや憎しみの心、報復の心や勝他の心でもって返すというのもまた違うと思うんだ。

俺らは親鸞会に騙されて一時そこに身を寄せて、これこそ真実の仏法だと信じて聞き求め、その布教活動もしてきた。でも、そんな者をも阿弥陀さまは決して見捨て給わず、本願力を回向して真実の行信を与え、真証の証へ導いて下さっているじゃないか。その如来大悲の恩徳を憶おうよ。ただ仏恩の深きことを念おう。

アングリマーラの話を紹介して下さった方もあるが、俺らは石を投げられたわけでもなければ、棒でめった打ちされたわけでもなし。お釈迦様はアングリマーラに「耐えなさい」と教えられている。なら俺らも耐えて、それを越えていこう。仏恩の深きことを念うて、至徳を報謝する念仏者としての人生を生きていこう。

それに、外部の者同士でやり合っていても何も得るものがない。ここは親鸞会教義の誤りと正しい浄土真宗を明らかにする場であって、こんなことをしていても親鸞会が喜ぶだけだと思うんだ。だから、気持ちは分かるけどもうこの辺で止めよう。それでも気持ちがおさまらなければ、ここを介さず直接やり取りしたらいいと思う。

俺らは、親鸞会に染まっていた頃、退会当初とはもう違うんだ。本願を信じ念仏を称えて、必ず仏になるべき人々の仲間になったんだ。嘲りや侮辱を受けても、念仏者としてそこを越えてゆこう。如来より賜った白道を一歩一歩進んでゆこう。時に水火の波に足元が見えなくなる時もあるけれど、口で言うほど容易いことじゃないけれど、お前が言うなって言う人もあるかも知れないけど、教えの光を受けて、お念仏申す人生を生きて行こう。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

浄土真宗は、浄土往生の教行信証を教えられたもので、「絶対の幸福」だとかいう現世利益の教行信証を教えられたのではありません

浄土真宗は「二種の回向」があると教えられています。その内、「往相の回向」について「真実の教行信証」があるとして、その内容を詳しく開かれたのが『教行証文類』でした。『教行証文類』は、正確には

『顕浄土真実教行証文類』

であり、「浄土往生に関する真実の教、行、証を顕かにした文献を集めたお聖教」だと言えましょう。親鸞聖人在世当時は、聖道門からの厳しい宗教弾圧があり、また法然門下の中からも様々な説を唱える者が出てくる有様でした。そこで聖人は聖道門の教行証に対して浄土門の教行証を示し、念仏往生の教えが法然独自の教えではなく真実の仏教であることを明らかにすると共に、本願力回向について、念仏は凡夫自力の行ではなく如来回向の行であること、また本願力を疑い無く受け容れた信心が肝要であることを「行文類」、そこから別に開いた「信文類」によってお示しになられたのでした。

その「真実の教行信証」を簡単にまとめますと、

真実の教:『大無量寿経』
それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。

真実の行:無碍光如来の名を称する(称名念仏)
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。

真実の信:至心・信楽・欲生
阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし
疑蓋間雑なき
回向利益他の真実心
利他真実の信心
回向心(大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向)
本願力回向の信心

真実の証:利他円満の妙位、無上涅槃の極果(仏のさとり)
つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。)


です。教・行・信・証ともに「本願力の回向」であり、真実の教として示された『大無量寿経』の体である「仏の名号」、南無阿弥陀仏を称えるという真実の行によって真実の証を得る。これが「浄土真宗」であります。

行が凡夫自力の行ではなく如来回向の行ならば、当然信心も如来回向の真実信でありますから、行と信は一つであって切り離すことはできません。一応、分けて説かれてあるため、行と信を別々に考えたり、信を重んじて行を軽視したりされがちですが、そうではありません。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」、すなわち「必ず助けるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という真実の仰せを疑い無く聞き受けたのが真実の信、その信心を具えて称える「南無阿弥陀仏」が真実の行とこういうことですから、信の無い行も無ければ、行の無い信というものも有りません。

しかしながら、現実には信の無い行というのがあるもので、何の分別もなく「南無阿弥陀仏」と称えれば往生できるかのように思っている人が今も昔もいるのです。であるから、親鸞聖人は別して「信文類」をお書きになって、本願を疑い無く聞き受けた信心が大事だぞとご教示になり、蓮如上人も「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を確と心得て念仏しなさいとお示し下されたのであります。

こうした「浄土真宗」の教えを我々の側から言うと

本願を信じ念仏を申さば仏に成る『歎異抄』第十二条

となるのであり、それを仏の側から正確に言えば、本願力の独用(ひとりばたらき)によって本願を信じさせ、念仏と称えさせ、往生成仏させるという教えなのであります。ここで教・行・信・証の関係を言えば、「往生成仏」という真実の証が目的、それには真実の信を具えた「念仏一行」という真実の行、本願力回向の真実の行信が手段、それは真実の教によって裏付けられ示されたものであるという関係です。


こうした「浄土真宗」に対して、親鸞会の教えは随分違っています。まず、「証」は一応は「往生成仏」ですが、会員の目的というか、魅力に感じ目指しているもの、実態としての「証」は、高森顕徹会長が示す「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、現世利益でしょう。親鸞学徒聖則に

一、親鸞学徒は信心獲得することを本と致します。

とあり、会では「信心獲得」=「絶対の幸福」という等式で教えられるからです。

往生成仏」もけっこうなことだが、それよりも今が苦しいんだ。今のこの苦しみを救うてもらいたい。只今、永遠に変わらない崩れない、最高無上の幸せになりたい。「生まれてきてよかった」という生命の大歓喜を獲たい。「絶対の幸福」になれば、苦しい事が起こっても煩悩即菩提ですぐさま喜びに転じ変わるのだろう。すべての苦労が報われる、流した涙の一滴一滴が真珠の玉となって戻ってくる、そんな世界に早く出たい。

会員の皆さんの本音とはこういうことではないでしょうか? そういう身になったことを「信心獲得」だと信じて、それを追い求めて高森会長の話を聞き、活動しているのが実態であると思います。

往生成仏」の証果は死んでからであり、「信心獲得」すれば必ず付いてくるのだから、今「信心獲得」して「絶対の幸福」になるのが大事である。そうすればこの世から未来永遠に変わらない幸せに救い摂られるのだと、「往生成仏」を「絶対の幸福」の副産物のように捉えてはいないでしょうか? あくまで後生の一大事の解決が目的だといくら聞いても、それは雲を掴むような話であり、それよりも「よくぞ人間に生まれたものぞ!」という生命の大歓喜だとか、「絶対の幸福」に魅力を感じていませんか? とにかく安心したい、満足したい、ハッキリしたい、求めているものを獲たいと、現世利益を求めて活動してはいないでしょうか?

それは結局、私達の「欲望」です。そんなものを叶えるための阿弥陀仏の本願ではありません。そんなものを追い求めている人は決して救われないことを会員の皆さんはよく知るべきです。

次に「行」ですが、浄土真実の行は何度も書いている通り「念仏一行」です。ところが、親鸞会ではどうしたら「絶対の幸福」になれるかと言うと、その方法として

高森顕徹会長の話を真剣に聞くこと
朝晩のおつとめをキチンとすること
親鸞会に人を勧誘すること(「破邪顕正」とか「法施」と言っている)
親鸞会に献金すること(「財施」「御報謝」「お布施」等と言っている)
高森会長や上司の指示に無条件で従うこと
六度万行を実践すること

などを勧めています。ですが、高森会長は「念仏一行」とは言いませんし、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」も説いておりません。だから親鸞会での聴聞は蓮如上人の仰る「聴聞」ではありませんし、親鸞会で教えられる念仏が浄土真実の行だとは絶対に言えません。おつとめも、「五正行の実践」などと言ってこちらから獲信に近づく手段と捉えていますから、「本願力の回向」にまるで反しています。その他の活動は、如実の善だとしても「雑行」であり、実態は「雑行」にもならない「一新興宗教の組織拡大活動」、要は「悪業悪行」がほとんどです。これが親鸞会の「行」です。

それから、彼らが最も重要視している「信」は「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」などというまるで訳の分からないものです。それを「絶対矛盾的自己同一」だと西田幾多郎氏の語で説明したり、またその不思議な境地が「信楽」であり「絶対の幸福」だと言ったりしています。「信」と「証」が一部同じです。一応、信心を「阿弥陀仏からたまわる信心」と説明する場合もありますが、その際念仏の説明は出てきません。「絶対の幸福」になるには、人生の目的が達成できるのは「ひとえに弥陀よりたまわる信心」によるというような説明です。で、そこまでは上に述べた「行」をやっていけというのです。

これら親鸞会の「行」「信」「証」はどこから出ているかと言うと、「高森教」という「教」からです。それは大沼法竜師、伊藤康善師らの著書を剽窃し、そこへ創価学会の組織拡大法や思想を混ぜた、浄土真宗の語を使いながら全く浄土真宗でないトンデモ邪義、デタラメ創作教義です。『こんなことが知りたい』シリーズや『本願寺なぜ答えぬ』、『なぜ生きる』、『なぜ生きる2』などは「高森教」という「教」のテキストです。そして「高森教」の集大成がアニメ映画『なぜ生きる』であると言っていいでしょう。ですから、肝心な部分の根拠は全て高森会長の言葉や理論であって、経典や聖教ではありません。


このように、親鸞会の「教」も「行」も「信」も「証」も、すべてみな高森会長のミココロから現れたものであります。この「高森の教行信証」を開く際に浄土真宗を体よく利用しているだけです。「教」も「行」も「信」も「証」も全て「真宗の教行信証」と異なっていながら、それで親鸞聖人と同じ信心が獲られるという方がおかしいんですよ。また、会員がやっている「行」のほとんどは「悪業悪行」であり、「信」は「誰が何と言おうと高森先生が正しいという信心」ですから、そんな行信ではこの世の幸せさえ訪れないことは言うまでもありませんわね。

浄土真宗は、浄土往生の教行信証を教えられたもので、「絶対の幸福」だとかいう現世利益の教行信証を教えられたのではありません。こうした「高森の教行信証」に騙されて人生を棒に振る人が一人でも少なくなることと共に、「真宗の教行信証」によって念仏の行者となって下さる方が一人でも多く現れることを願っています。


【参照】
『WikiArc』教行証

念仏は行者のために非行・非善なり

『あなたの白道』お知らせ
『あさ川進の、宗教と私』【投稿文】嶋田さんが お浄土に旅立たれました。

を既に読まれた方も多いかと思いますが、1月9日に嶋田久義元講師が往生されたそうです。南無阿弥陀仏。私はそれほど嶋田元講師とご縁はありませんでしたが、お書き下された

『私の白道』

を読んだことが退会するきっかけの一つに、そしてやがて「南無阿弥陀仏」の六字のこころを知らされ、本願を信じ念仏する身になるきっかけになったことは間違いありません。それにしても、近藤智史元講師といい、梯實圓和上といい、増井悟朗先生といい、私を導いて下された方々がこうも早く往生されてしまうとは・・・。

嶋田元講師の意思を継ぐではないですけど、ご縁があった一人として、親鸞会教義の誤りと、南無阿弥陀仏の六字のこころをこれからも綴っていきたいです。



さて、親鸞聖人は念仏を「大行」と仰せられています。念仏とは口に「南無阿弥陀仏」と称することですが、これは3歳の子供でも「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と簡単に称えることができる極めて容易い行です。念仏よりも布施をしたり、戒律を守ったりする方がよほど難しく、また勝れた行に思えますが、どうして親鸞聖人は念仏を「大行」だと言われたのでしょうか。それについては、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。
「行文類」大行釈

と、このように仰せです。ごく簡単に言うと、念仏は「往相の回向」であるからだというのです。念仏は阿弥陀仏が私達に施し与えて下さる阿弥陀仏の行だから「大行」というのだということです。念仏は私が称える私の行かと思っているかも知れないがそうではない。阿弥陀仏が称えさせている阿弥陀仏の行なんだ。阿弥陀仏の、「どうか私の名を称えてくれ」という願いが私に届いたすがたが、私の口から出ている「なんまんだぶ」なんだ。「そなたを間違いなく極楽へ連れてゆくぞ」の大悲がはたらいているすがたが、私の口を通して現れ出ている「なんまんだぶ」なんだと、こういうことです。

それでは、「往相の回向」である念仏はどういうもので、どういうはたらきがあるのかというのがそれ以降のお言葉です。念仏には阿弥陀仏が完成されたすべての善根功徳がおさまっています(もろもろの善法を摂し)。また、念仏はあらゆる功徳の根本としての徳を具えています(もろもろの徳本を具せり)。また、念仏は極めて速やかに往生成仏の因徳として行者の身に具わります(極速円満す)。また、念仏は仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実から現れたものです(真如一実の功徳宝海)。このようなことですから、称名念仏を「大行」と名付けるのだというのです。

この「大行」である念仏は、第17願より出てきた本願力回向の行です。第17願は諸仏が「称我名」、この阿弥陀の名を称讃し、称揚し、咨嗟する、つまり褒め称えるということですが、そうでなければ仏に成らないという願です。そのような阿弥陀仏の御名である「南無阿弥陀仏」を称えるというのは、十方のあらゆる諸仏が称讃し、称揚するのと徳を同じくする行であるというのです。であるから、称名は衆生の無明の闇、自力疑心を打ち破り、往生成仏の志願を満たして下さる「最勝真妙の正業」なのだということを、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」破闇満願

と仰せられてあります。称名という行為自体は極めて簡単でありながら、最も勝れた、真実にして妙なる正定の行業であるというのです。そして、正定業とはすなわち念仏であり、念仏はすなわち南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏はすなわち正念、つまり信心であると結ばれています。元々

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

と、最初に「大行」と「大信」を一緒に教えられていることから分かるように、行と信は二つであって一つ、一つであって二つという不離の関係でした。それを分けて説けば、「大行」は「行文類」となり、「大信」は「信文類」となったのです。分けて説かれてあるけれども、念仏と信心と別々にあるんじゃないんだ。「南無阿弥陀仏」の他に信心も念仏も無いんだと、こういうことです。「南無阿弥陀仏」が心に届いた、映ったのが信心、それが口に出れば念仏で、体は一つです。この「南無阿弥陀仏」は、「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という本願招喚の勅命でありますから、こうした本願の勅命を疑い無く信受して仰せの通り往生をおまかせしたのが信心、勅命を口に称えて仰ぎ聞いているのが念仏と、こういう言い方もできましょう。


念仏は私の口から出るものでありますが、実はそれは阿弥陀仏より回向された行であって、我が計らいの心をもって称える私の行ではありません。ですから『歎異抄』第八条には

念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば非善といふ。ひとへに他力にして自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと[云云]。

と教えられています。これが、Abcさんがコメントを下さった「不回向の行」、また「自然法爾」の念仏ということです。浄土真宗はこのように阿弥陀仏が与えて下さった「南無阿弥陀仏」を称えるという行、「南無阿弥陀仏」におまかせして自力を離れた信によって、往生成仏という証を得る教えなのです。

私達が往生成仏という証を得る、もとい本願の行信を獲るに当たって、因果の道理を深く信じる必要もなければ、真実の自己とやらを知らされる必要もありません。後生に驚き立つ必要もなければ、地獄の釜底に堕ちるとか言う体験をする必要もありません。信仰とやらを進める必要もなければ、念仏以外の善に手出しして信仰が進む資糧を積む必要もありません。宿善を厚くする必要もなければ、煩悩と闘って求道する必要もありません。光とやらに向かう必要もなければ、横の線の道とやらを進む必要もありません。真実の教行信証は、阿弥陀仏が大悲の心をもって私達にお与えになる利益であって、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならないからです。このことを、

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。「信文類」

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。「証文類」

と聖人は仰せです。私達はただ、本願を仰いでそのままお順い、おまかせし、念仏申すだけです。逆に、念仏の他に我々がやるべきことがあるように考え、上に列記したようなことが必要だと思って、それらをやって救いを求めようというのを「仏智疑惑」「疑情」「無明の闇」というのです。


こうした「真実の教行信証」を知らず、「善をしなければ信仰は進みません」とかいう邪義にだまされて行に迷い信に惑っているのが今も残って活動している親鸞会の会員です。念仏を勧めると「称名正因の異安心だ!」とアレルギーの如く拒絶反応を示し、ありもしない信心を追い求め、ありもしない道程を通ろうとしているのが彼らのすがたです。しかし、念仏は元々阿弥陀仏が選んで「称えてくれ」と与えて下さったのであり、諸仏の勧めは勿論、親鸞聖人も当然勧められているわけで、念仏よりも活動に重きを置いているのは「教に昏くして真仮の門戸を知ら」ないのです。

そのようなことでは本願の行信を獲て念仏成仏などとは縁遠い世界を彷徨うことになりますから、会員の皆さんはどうか「真実の教行信証」を知って本願の御名を計らい無く聞き受けて頂きたいと思います。そして、阿弥陀仏の願いにかなった念仏の行者となって下さい。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。



【参考文献】
『安心問答』称名念仏は「私の行」ではなくて「阿弥陀仏の行」である・・・ということは、未信の人の称名念仏は「阿弥陀仏のお育て」であると理解すればよろしいですか?(もかなさんのコメント)
『WikiArc』称名破満の釈義

会費の前納分は、取り戻すことができるお金

ラジオで頻繁に流れてくるCMの一つに「過払い金診断」があります。平成19年以前にキャッシングを利用していた人が対象となるようで、最後の返済時から10年経っていなければ時効前で払い過ぎたお金を取り戻せるというのです。中には100万円以上戻るケースもあるそうで、そうなったらでかいですね。私はキャッシングを利用した経験がないので分かりませんけど、該当する方は診断料は無料だそうなので、ダメもとで一度電話するのもいいかも知れません。


さて、この前親鸞会を退会したという方から、

「会費の前納分を取り戻せる」

という情報を頂きました。かく言う私も前納分を取り戻した口ですが、会費の前納分は、取り戻すことができるお金なんです。会員の皆さんの中には、支部長や上司からの勧めもあって何ヶ月も前納されている方も少なくないと思います。私も3ヶ月分位前納しているのが当たり前でした、もう既に納めてしまったのだから取り戻すことはできないだろうと思ったり、「前納分を返して下さい」なんて言いずらかったりするかも知れません。しかし、会費の前納分とは、「将来、会員として活動する際の、払い過ぎているお金」と言えます。例えば、現在からすると2018年1月以降はまだ会員として活動していないし、新聞等も貰っていないので、2017年12月に退会した人は2018年1月以降の前納分を取り戻すことができます。そう、

会費の前納分は、本来手元にあるべきお金、取り戻すことができるあなたのお金なんです!

なんか言い方が過払い金のCMみたいですが、実際そうなんです。だから、退会時に会費の前納分がある方は、少しだけ勇気を出して「会費の前納分を返して下さい」と支部長に言ってみましょう。もしダメだと言われたり、渋ったりしたら、

「弁護士に相談します」

などと言えばよいでしょう。それでも返す意思が見られない場合、知り合いに弁護士がいればその人に、いなければ弁護士や法律の専門家を調べて相談することを勧めます。おそらく、実際に相談するに至らなくても返してくれるでしょう。私は法律の専門家ではないので詳しくは知りませんが、

さよなら親鸞会

のぶるうのさんなどに相談してみたら良いのではないかと思います。また、どこに相談したらよいかご存知の方は、コメント等でお知らせ頂ければ幸いです。

親鸞会は、本当の親鸞聖人の教えを伝える気のない、一新興宗教です。そんな団体への会費の前納分を取り戻さないのは本当にもったいないので、該当する方は一人で悩んでいないで、周囲に相談して頂きたいです。

阿弥陀仏の先手の勅命を受けての「もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる」

度々書いていますが、私は蓮如上人ほど判り易く、懇切丁寧に「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を示していかれた方は他におられないのではないかと『御文章』を拝読させて頂く度に思います。

蓮如上人も親鸞聖人同様、善導大師の六字釈を度々引用されています。例えば、

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。

善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。

さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
『御文章』5帖目11通

ここにも、「善導のいはく、「南無といふは・・・」とありますね。「信心の体」である「其名号」、すなわち「南無阿弥陀仏」の六つの字のこころをよく知る、そのまま頂戴するのが「信心決定」ですから、私達が聞かなければならないのは「因果の道理」でもなければ「廃悪修善」でもありません。「定散二善」でもなければ「十九願」でも「三願転入」でもありません。「宿善を求めよ、厚くせよ」でもありません。ただ「南無阿弥陀仏の六字のこころ」一つです。

この「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を受けるのに、何かしら役に立つのであれば聞く必要があるかとは思いますが、『御文章』のどっかにそういった親鸞会で執拗に説かれることが書かれているでしょうか? 書かれていないのであれば、蓮如上人がそれらは「要らない」「必要ない」と判断されたのです。高森顕徹会長がその「要らない」「必要ない」と判断されたものを執拗に説き、逆に「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説き与えないということは、高森顕徹という人物は蓮如上人以上の方か、あるいはしたたかな悪知識であるかのどちらかであります。マインドコントロールの良く効いた会員以外の方は、もうお分かりですね。


この「5帖目11通」で蓮如上人は、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」について、まず

「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。

と仰せです。これは前回、阿弥陀仏が主体で私は客体と書いたように、阿弥陀仏を主体にして読むべきです。でないと、自力で「もろもろの雑行をすて」、「疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる」かのように勘違いをしてしまいます。はじめに阿弥陀仏が、

もろもろの雑行をすてて、安心してこの弥陀に全てまかせなさい

と「我に帰せよの命」で喚んでおられる、これが先にあって、

それでは仰せの通りにおまかせいたします

と私が帰順する、これが後です。親鸞聖人が「南無」の二字を

本願招喚の勅命」「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心

と示して下されたように、阿弥陀如来がすでに願を発して私が往生するための行業をお与え下さる、そのために絶え間なく私を喚んでおられるというのが「南無」でした。ですからまず、

もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に我(阿弥陀仏)をたのめ

という弥陀の先手の勅命があるのです。それを私が聞き受けて、それに対して私が

もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる

のであります。私が自力で、自分の意思で、能動的にするのとは違うのです。ここを間違うと、後の

さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは・・・

には永久に辿り着きません。かつて親鸞会にいた頃の自分がまさにそうで、降誕会や報恩講、また『御文章』の繰り読みで何度この部分を読んでも訳が分からなかったのは、そうした先手の法を受けての私の帰順、私の領解であることを知らなかったからです。それも全ては、

因果の道理」「廃悪修善」「定散二善」「十九願」「三願転入」「宿善を求めよ、厚くせよ

こんな浄土真宗とはおよそ縁遠い話ばかり聞かされて、自力で精一杯限界まで求めて行った先の救いであるかのような邪義を植え付けられていたからでした。また、

もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる

とは「念仏一行」であることも知らされず、逆に「すてて」と繰り返し言われている「もろもろの雑行」をそれとは知らずに勧められていたからでした。この記事でも示したように、全くパチモンの、名前だけ「善の勧め」を謳う親鸞会ですが、勧めているのが如実の善だとしても、往生に関して五正行以外の善は全て雑行です。親鸞会ではいわゆる「五雑行」さえしなければいいと勘違いをしている人を多く見受けられますが、「定散二善」にしても「六度万行」にしても「もろもろの雑行」ですから。阿弥陀仏がその本願において選び捨てられた「もろもろの雑行」を拾わせやらせる教えを授けて、聞く者が阿弥陀仏の仰せ通りになるわけがないでしょう。

なんまんだぶを称えて来い

と阿弥陀仏が仰せなんですから、それに従わなきゃ。だから浄土真宗は「念仏一行」が当たり前なんですよ。その上で、信心が自力か他力かというのが問題になるわけで、「念仏一行」どころか「もろもろの雑行(もどき)」をやりまくっている者が信心も安心も無いというのは当然すぎるほど当然な話なのです。阿弥陀仏の仰せを全く聞かないで、偽の善知識の言葉に騙されているんだから、これで法然聖人や親鸞聖人と同じお浄土に参れるという方がおかしいです。

阿弥陀仏の仰せを受けて「念仏一行」となった人が問題となるのがその称え心、いわゆる「信心」です。「信心」が「自力」か「他力」かで、報土へ参るかどうかが別れます。称えた念仏に功徳があるように思い、念仏を積み重ねてお浄土へ参ろうとか、念仏だけでは不足に思って念仏以外の諸善を往生の足しにしようと修めているのは「自力」であって、これでは報土往生はかないません。

こうした「自力」に対して、後生という大事はとても私の手に合わない問題だと私の手を離れ、「必ず助けるから、安心してまかせなさい」という南無阿弥陀仏の勅命をそのまま受け、そのまま順って念仏するのが「他力」です。「助けるぞよ」を素直に受けて称える念仏には、「これだけ称えておりますからどうか・・・」などという自力の臭みはありません。「どうなろうとあなた様のなされるままにお順いします」と、完全に、すっかり阿弥陀さまにおまかせした、ゆだねた状態です。

阿弥陀さまは、後生の問題を私が心配する以前に心配して下さり、私が何とかしようとする以前に既に何とかする手筈を整えて下さっています。この親様が私に喚びかけている救いの御言葉が「南無阿弥陀仏」であり、その御言葉を我が胸に持ち替えずにそのまま聞き受けたのが「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を受けたのです。あとは、命の続く限りなんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏申す人生を生きてゆくのです。辛いこと、苦しいことは今までもあったでしょうし、これからもあるでしょうが、そんな人生がそのまま浄土への旅となったのです。

後生に関して私などがやる如何なる行為も無力です。煩悩具足の悪人がたかだか数十年努力したって、法蔵菩薩の不可思議兆載永劫のご修行に及ぶどころかかすりもしませんよ。第一、後生が苦になって何も手に付かないとか、何晩も眠れないほど心配だなんてことが今までにありましたか? 「必堕無間」と聞いて一時は驚いても、やがてその驚きも失せ、この世の事の方が大事と思って後生の事など気にかからなくなるものです。私達の神経は、ちょっとしたことで傷ついてしまう繊細な、か弱い面もありますが、実は根っこは案外図太いんです。それで真剣に後生の解決をしようと求め出しても、その真剣は相続しないし、煩悩の錆によってなまくらとなってしまいます。それに対して阿弥陀さまは果てしない長期間、少しも真実清浄の心身を乱さず、ひたすら私の往生のためにご修行下されたのです。とてもとても、私の真剣なんて阿弥陀さまの真剣に比ぶべくもありません。私の真剣なんかが後生の一体何に役立つでしょうか? だから、下らない私の真剣など打ち捨てて、阿弥陀さまの真剣を受ければいいんです。阿弥陀さまの真剣に自力の迷情を切られちゃえばいいんです。


さて、このように本願の仰せを聞き受けて、阿弥陀仏の仰せの通り後生おまかせした者を、造作も無く助けるというのが次の「阿弥陀仏」のこころです。

「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。

南無」と帰命する衆生を「阿弥陀仏」のたすけたまふ道理です。1帖目15通にはこれを、「南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理」と示されてあります。

中には「どうまかせたらよいのか」と聞いてくる方もありますが、これも自力でまかせるのではありません。「まかせてくれ」という他力を聞いて、「こんな邪魔なものは要らないな」と自力の計らいが廃るのです。他力を聞くところに自力が廃るわけで、兎にも角にも本願の仰せ、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を聞かないことには「信心決定」も何もあったものではないのです。

されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。

南無阿弥陀仏(必ず助けるから、安心してまかせなさい)」という勅命をそのまま聞き受け、仰せの通りに後生をおまかせした者を本願の誓い通り浄土に迎えて仏にする。これが「南無阿弥陀仏の六字のこころ」であると心得た、こうしたことに疑いが無いことを、「信心をとる」と言うのだからです。


ところが、この肝心の「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を親鸞会では教えられるでしょうか?

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』高森会長の話を必死に取り繕う顕正新聞論説(平成29年12月15日号を読んで)

にある「論説」を読みましたが、親鸞会では「聞け」ということを強調するばかりで、本願の何を聞くのかがサッパリ分かりません。「聞其名号 信心歓喜」ですから、「其名号」である「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を聞かなければならないのです。それがどうですか? 「南無阿弥陀仏の六字のこころ」が説かれていますか? 全く説かれないでしょう? 「ド真剣に聞け」と言われても、「ド真剣に何を聞くのか」が完全に抜け落ちているのです。それで会員は、高森会長の話の内容を正確に覚えていることを本とし、ただ勧められる活動を「救いに近づく行為」と勘違いしてやっているだけという有様なのです。会員が無信心、無安心なのはこのためです。

会員の皆さんに今一度お聞きしますが、皆さんが親鸞会に入会した目的は何ですか? 「信心決定」ではなかったですか? それには「信心決定の体」である「南無阿弥陀仏の六字のいはれ」をよくお聞きする以外にはないのです。

南無阿弥陀仏の六字のいはれをよくこころえわけたるをもつて、信心決定の体とす。3帖目7通

とある通りです。それを会員の皆さんは一体何を聞いてるんですか? 何をやっとるんですか? 全くもって「南無阿弥陀仏の六字のいはれ」とは無関係なことばかり聞き、無関係な活動ばかりやっているじゃないですか? それで「信心決定」できる方がおかしいんですよ。

もし当初の目的を目指しているなら、「南無阿弥陀仏の六字のいはれ」が説かれない団体に身を置くべきではありません。会員の皆さんには、「信心決定」とは無関係な話、活動だらけの団体から一刻も早く離れ、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を聞き受けて念仏して頂きたいと思います。

親鸞聖人が語られる教えの主体は「阿弥陀仏」であり、私は客体

今回はこの記事の続きというか、書いていて思ったことです。親鸞聖人や蓮如上人が「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説明される際は、元の善導大師の六字釈が度々引用されています。

善導大師は、当時中国で摂論宗の人たちが唱えていた「念仏別時意説」に対して、

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。
「玄義分」

と願行具足の六字釈を打ち出されています。南無は帰命という「願」であり、阿弥陀仏とは第十八願の乃至十念という阿弥陀仏が選択された「行」である。このように南無という「願」と阿弥陀仏の選択した「行」が具足しているから、南無阿弥陀仏と称えることは、必得往生、必ず安楽仏土へ往生する行業であるというのです。

親鸞会でもこうした願行具足論は、「善導独明仏正意」の説明の時に「古今楷定の六字釈」として時々出てきます。まぁ「天台」、「浄影」、「嘉祥」というのは宗派や寺の名前で、当時の代表的な3人の学者とは

 ・ 涅槃宗の浄影寺 慧遠(じょうようじ えおん)…(523〜592)
 ・ 天台宗の智顗(ちぎ)       …………(538〜597)
 ・ 三論宗の嘉祥寺 吉蔵(かじょうじ きちぞう)…(549〜623)

『みんな、西に向かう命の旅人』善導大師の発揮「古今楷定」について参照)

らであり、「念仏別時意説」はこれら3人ではなく摂論宗の一派が主張した説(※)とのことで間違っています。ちなみに高森会長が伊藤康善師や大沼法竜師の著作を剽窃した『会報』の内容が

『苦笑の独り言』やさしい浄土真宗の教え §9 南無阿弥陀仏(1) 本願招喚の勅命

に紹介されています。ただ、そのように説明していても、廃観立称して「願行具足の南無阿弥陀仏を称えよ」と念仏一行を勧めるということはありません。逆に「定散二善」を己の「善の勧め」の根拠に利用し、「雑行」もどきの悪行を積極的に勧めているのはいつも書いている通りです。


さて、先の善導大師の六字釈を承けて、宗祖聖人はそこへ新たな解釈を加えられています。善導は帰命などの意味を衆生の上で解釈されていますが、宗祖は三義をすべて仏の上で語られているというのです。それを『安心論題』(16)六字釈義より伺いますと、

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 まず「帰命」については、善導は「命に帰す」という意味で、釈迦の発遣(往けよの勧め)と弥陀の招喚(来いよのよび声)を聞いて、これに信順することとされますが、宗祖は「帰せよの命」という意味で、本願招喚の勅命とされます。これは帰命の釈としては破格で、宗義を顕わされる宗祖独特の解釈であります。

 この宗祖の解釈によれば、帰ってこいよ、この弥陀をたのみにせよ、願力摂取のふところにやすらいでくれよ、と私に向かってはたらきかけ、喚びづめによんでくださっているのが南無阿弥陀仏であると、仰せられるのです。

 「発願回向」とは、善導にあっては私が浄土に心を向けて往生を願うことでありますが、宗祖は阿弥陀仏が往生させたいと先に願いをおこされて、衆生往生の行を与えてくださるお慈悲の心であると仰せられます。

 「即是其行」というのは、善導にあって衆生の上に往生浄土の行がそなわることでありますが、宗祖は如来成就の名号そのものが衆生を真実報土に往生させて仏果を開かせてくださる行体であるとされます。その名号が私の心に至り届いて(信)、私の口に出てくださるのが選択本願の念仏であると、顕わされるのであります。

 「即是其行」は与えてくださる行徳で如来の智慧、「発願廻向」は与えてやりたいの願いで如来の慈悲、この悲智二徳をもって現に私にはたらきかけ、よびかけて、衆生を救済しつつあるすがたを示されるのが「帰命」であります。

 与えたいという願いはあっても、与える財産がなければ与えることはできません。また山ほど財産があっても、与えたいという願いがなければ何にもなりません。阿弥陀仏は与えずにおかぬの大悲心と、与えるところの功徳とを円に成就して、どうか受け取ってくれよと私によびかけていてくださる。それが南無阿弥陀仏であると仰せられるのです。

 また「必得往生」についても善導は次の生にまちがいなく往生できると示されるのですが、宗祖は名号は悲智円具の法なるが故に、これを聞信すると同時に正定聚不退の身にならせていただくのである、と顕わされるのであります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

とあります。私を「必ず浄土へ迎えて仏にする」という願いも、その願いを実現するための行も全て阿弥陀仏の方で用意して下さり、それを私に与えて下さる。私はただその本願力にまかせ、乗じるだけで往生成仏せしめられる、というのです。親鸞聖人が語られる教えの主体は「阿弥陀仏」であり、私は客体であります。

「必ず助けるから、安心してまかせなさい」という救いの名乗り、帰せよの命令が「南無阿弥陀仏」であり、私が「南無阿弥陀仏」を仰せのままに聞き、称えるということは、阿弥陀仏が選び取って下された浄土往生の正しき行業でありますから、これこそまさに阿弥陀仏の願いにかなった行為なのです。阿弥陀仏の願いを仰せのままに受け容れ、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称え、浄土を目指して生きてゆく、こうしたお念仏申す人生を歩みなさいと教えられたのが親鸞聖人でした。

『みんな、西に向かう命の旅人』「南無阿弥陀佛」と「往生」について

等にも、こうした本願力回向の教えが説かれています。若いお坊さんも頑張っておられますね。

本願寺は「念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助け」と説いている

と本願寺の僧侶を一緒くたにして的外れな非難を未だに繰り返している高森教の人々は、広く浄土真宗の話を聞いた方がよいです。


私達は「必ず助けるから、安心して私にまかせなさい」という本願招喚の勅命をそのまま聞き、そのまま受け容れ、「それでは仰せの通りにおまかせします」と後生・往生を阿弥陀仏のなされるままにゆだねるのみです。私に救いを告げる名乗りが「名号」、それを仰せのままに受け容れたのが「信心」、それが口に出たのが「念仏」であり、これらの体はみな同じく「南無阿弥陀仏」です。

「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」(行文類)

まことに法然聖人、親鸞聖人が教えていかれた通りで、浄土真宗はこれ以外ありません。「絶対の幸福」だとか、「地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする」だとかいった幻想的な楽や訳の分からない信心を教えて聞く者の興味をそそり、組織拡大要員として利用するのみで「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を正確に説き与えないような人物は、

仮の善知識、偽の善知識、邪の善知識、虚の善知識、非の善知識、悪の善知識、悪性人

以外の何者でもありません。「宿善」のあらん人は一刻も早く偽の浄土真宗を説く人の手から離れ、授けられるところの邪義をありのままに人に語り伝えて、そのような邪義に迷う方が一人でも少なくなるように努めてもらいたいものです。そして、如来のお助け、「助けるぞよ」をそのまま受けて念仏して頂きたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

結婚式10日前にドタキャンした会員達。理由は「元会員の○○が出席するから」

昨日、義弟の結婚式に出席してきました。当日の深夜に出発してその日の内に帰ってくるというプラン、しかも運転だったので大変でしたが、まぁ一昔前は富山との往復で似たようなことをやってたな(笑)


ところで「結婚式」で思い出されたのが、以前、元親鸞会会員の友人から聞いた話です。

友人は自分の結婚式に来てもらおうと、現会員の友人達と元会員の友人達にそれぞれ招待状を送りました。奥さんと共に着々と準備を進める中、参加人数も把握し、いよいよ式まで約10日。しかしそこで夫妻に思わぬことが起きました。奥さんの友人(親鸞会会員)が、突如式の出席を辞退したというのです。

その日は、彼と奥さんとその会員の3人で会っていたといいます。そこで、式に「元会員の○○さんが来る」ということを話したところ、結婚式には出ないと言い出したそうです。奥さんは勿論、彼も説得しましたが、会員の彼女は「親鸞学徒として、そこは譲れない」と言って夫妻の頼みを断りました。その後奥さんは号泣してしまったそうです。それを聞いて、私も胸が痛みました。

また、彼女にはスピーチも頼んでいたとか。最初から来ないというならまだしも、10日前になってスピーチの約束までしていたのに、会いたくない奴がいるからということでドタキャンです。約束を反故にする行為であり、友人に対する裏切り行為であり、責任放棄もいいところです。「お前子供かよ?」と言いたくなってしまいます。なぜ友人の晴れ舞台を、会員だとか元会員だとかということを抜きにして、素直に祝ってやれないのか。友人の彼も久々に憤慨し、やるせない気持ちになったそうです。

更には、彼女だけではなく、他に式に来る予定になっていた数名の会員もこぞって参加を辞退したとのこと。突然、何人も式直前でドタキャンされたら本当に困りますよね? 友人を困らせ泣かせ、信用を失うような行動を自ら取って、何が親鸞学徒だ、何が仏法者だと思ってしまいます。


さて、会員達のこの言動は、彼らが朝晩唱和していることから考えてもおかしいです。親鸞会では朝晩の勤行の際、『親鸞学徒聖則』を唱和しますが、その中には

一 親鸞学徒は、破邪顕正することを使命といたします。

という文言があります。当然彼らも毎朝毎晩唱和しているはずです。元会員が邪ならば、その邪と会って法論し、邪を破って真実を顕かにすることが使命であるはずなのに、その使命を放棄しているのです。これはつまり、朝晩ウソをつき続けているということです。

ウソって、善ですか? 悪ですか?
友を悲しませることは、善ですか? 悪ですか?
六度万行の中の持戒とは、言行一致、約束を守るという意味だと親鸞会で教えられました。でも彼女の言動は、とても言行一致している、約束を守っているとは言えません。『光に向かって100の花束』に出てくるナピールは、富豪との約束より少女と先に交わした約束を優先し、守りました。それに対して会員の彼らはどうでしょうか?
朝晩ウソをつき続けて、友人を泣かせて、何が「善の勧め」なのか。親鸞会の「善の勧め」の破綻、そしてマインドコントロールの恐ろしさを、こういうところからも垣間見ることができます。


会員の皆さんは、所詮は「善の勧め」だとか聞こえのいいことを言っておいて、実は「高森教に都合の良いことの勧め」だということに気付いて頂きたいと思います。

 たとえ自分に不利益なことでも、誓ったことは、必ずはたすのが信用の基である。
 はたせぬ約束は、はじめからしないこと。相手に迷惑をかけるだけでなく、己をも傷つける。


高森センセイ、もとい大沼法竜師からパクった言葉を、ドタキャンした会員の皆さんに送りたいと思います。

何の意味がある?

今日は釈尊成道の日と言われています。私も今年が35歳なので、ちょうどお釈迦様がさとりを完成し仏陀と成られた年なのですが、相変わらず仕事や家事、子育てに追われ、欲と怒りと愚痴にまみれ、さとりに近づく気配すらありません。今週は例のセールで物量が膨らみ、しかも冷やかし半分で頼んでいるせいで荷物が落ちず、半狂乱となっております(苦笑)。当然と言えば当然ですが、もう少し何とかならんもんかなぁと思います。

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。(信文類)

まことにこの通りです。せめて事故だけは気をつけねば・・・。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。


さて、私の仕事は主に配達で、不定休のシフト制です。自分が休みの日は代走と言って別の人間が私の担当エリアを回ります。私が現在の職場で働き始めた当初はそれが上手く機能していて、代走の人も相当レベルが高かったので安心して休めていました。それが今では深刻な人員不足のため、へぼい人でも代走が回ってくれればいい方で、下手すると代走の人員配置がありません。すると、周辺のエリアの人間がカバーするわけですが、当然彼らは自分の仕事もあるわけで大した量はできず、多くはそのまま持ち越しで次の日に未配達分の山が出来てしまいます。最近は客側もweb上で荷物の持出状況が分かるため(これ非常に厄介)、たまに未配達に関して文句をつけてくる人もあります。いつもより膨らんだ量を持っているのに、もしそんな客につかまったらアウトです。

ところで、子供の行事等で連休を取る時がありますが、私が連休の場合は代走が私の担当エリアを連続して回ります。その休み明けによく、ちゃんと回った形跡があるのに何日も不在のまま残っている荷物が散見されます。荷物に無頓着でどうしようもない客もありますが、中には私が回れば1回で配達完了という人の荷物が残っている場合があります。私は過去の経験からその人が大体どの位の時間に在宅しているかが読めるので、その時間に伺って荷物を渡します。しかし代走の人にはそれができないため、居ない時間に何度も行っては不在票を書いて持ち帰る羽目になるのです。

こうした、然るべき時間に行けば渡せるのに、受取人が居ない時に何回も通って何枚も不在票を入れるという行為。代走の人には自分が休みの日にせっかく回ってもらっているところ本当に申し訳ないが、本音を言わせてもらいますと無意味です。特に、私は違いますけど、歩合でやってる人なんかは配達完了しないと金になりません。仕事の目的は受取人に荷物を渡すことであって、ただ足を通わせることではありません。いつまでも渡せずにいるなら、その努力に何の意味がありますか? 

時には、受取人が転居していて空室の住所へ何回も通って何枚も不在票を入れる羽目になる時もあります。これなんか本当に無意味です。先ほどの例では受取人が真面目できちんと連絡を入れてくれるという場合が考えられますが、受取人が転居していては連絡は来ません。偶然オーナーがやって来て不在票を発見し、律儀に連絡をくれない限りは、何度通おうがなしのつぶてです。もう一度言いますが、仕事の目的は受取人に荷物を渡すことであって不在票を書いて投函して帰ることではありません。いつまでも渡せずにいるなら、その努力に何の意味がありますか?


このように考えを巡らしますと、私達のやる行為・努力は浄土往生に関してやはり無意味です。浄土往生の因も果も、全て本願力に依るものです。私がやる様々な行為・努力は無関係です。それを関係がある、意味があると思って、あるいは聴聞を励み、あるいは念仏を励み、あるいは悪を慎み善に励む。このように我々凡夫の側で何とかしようと方法論を模索し実践する、これを自力というのです。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(末灯鈔2通)

一念多念のあらそひをなすひとをば、異学・別解のひとと申すなり。異学といふは、聖道・外道におもむきて、余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり、これは外道なり、これらはひとへに自力をたのむものなり。
別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆゑに別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなはち自力をはげむひとなり。自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。
(一念多念証文【16】)

阿弥陀仏以外の仏の名を称えたり、念仏以外の諸善を修めたりして浄土に往生しようとすること、念仏を称えてはいるが他力をたのまず、我が身、我が心をたのみ、我が力で励んだ様々な善根をあて力にして本願力におまかせしないこと、これらを自力だと教えられています。

高森教なんかは、余の仏号を称念すること、聖道・外道におもむくこと、余仏を念ずること、吉日良辰をえらぶこと、占相祭祀をこのむことは自力だから捨てよとハッキリ言いますが、一方で余の善根を修行すること、助業をこのむこと、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむことも自力だから捨てよとは言いません。実に中途半端です。組織拡大、会員倍増に都合の良いことは「心がけが悪いから、悪い心がけを捨てよ」と言い、行為・努力自体はさせています。聞く方も聞く方で、行為・努力を続ける限りは心がけも廃らないこと位分かりませんかね? 余の善根を修行することは報土往生に関しては心も行為も間違いですから、報土往生が目的ならば直ぐに捨てて念仏一行を一心に称えることです。

「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。(唯信鈔文意)

「総不論照摂余雑業行者」といふは、「総」はみなといふなり、「不論」はいはずといふこころなり。「照摂」はてらしをさむと、「余の雑業」といふはもろもろの善業なり、雑行を修し雑修をこのむものをば、すべてみなてらしをさむといはずと、まもらずとのたまへるなり。これすなはち本願の行者にあらざるゆゑに、摂取の利益にあづからざるなりとしるべしとなり。(一念多念証文【8】)

『経』(大経・下)に「無諸邪聚及不定聚」といふは、「無」はなしといふ、「諸」はよろづのことといふことばなり。「邪聚」といふは、雑行雑修・万善諸行のひと、報土にはなければなりといふなり。「及」はおよぶといふ、「不定聚」は自力の念仏、疑惑の念仏の人は、報土になしといふなり。正定聚の人のみ真実報土に生るればなり。(一念多念証文【11】)

親鸞会で勧められる献金・勧誘・無条件服従等の活動がもろもろの善業万善諸行の中に入らないことは言うまでもありませんが、入るとしても、それでは報土往生できない、もとい信心決定できないことが分かります。親鸞会の活動は、全て信心決定に近づく行為として推進されるものですから、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむ自力の人々の集まりが親鸞会と言えるでしょう。本願力をこちらから掴もうとする限りは何回聴聞しても、何人入会させても、何万円献金しても浄土へは参れない、もとい信心決定できないことを会員の皆さんはよく知るべきです。

真剣な聞法求道をしなければ自力が廃らないと説く団体は親鸞会以外にもありますが、自力が廃るのはあくまで他力によってです。100%他力によってです。真剣な聞法求道というのが自力が廃る、信心を獲るのに少しでも役に立つならやればいいですが、信心を獲ることには何の関係もないでしょう? 信心を獲るにはただ他力を聞いて、他力にまかせるしかないのですから。

救われたいのに、救いとは無関係なことに努力して、その努力に何の意味がありますか? 意味がないことに意味を持たせようとするのが人間の悲しい性ですが、獲信・往生に人間の努力などハッキリ言って無意味です。念仏より他に「往生のみち」はありません。我々に悠久の時間があれば、また我々がさとりを求めていけるほどの善人・聖者ならば回り道もいいでしょう。しかし命というのは実に足が早いものです。今年2017年も残りわずかでしょう? 「もう数える位で僕らは消え失せて(※)」しまうかも知れません。速やかに生死を離れようと思ったら、正定業である念仏を一心に称えて往生を願い、ひとえに阿弥陀仏に後生をおまかせするしかありません。徒に後悔をのこすことが無いよう、皆人が本願を信じ念仏して報土往生を遂げて頂きたいと思います。


(※)L'Arc~en~Ciel『Driver's High』の歌詞を参照

「阿弥陀仏の本願を聞きなさい」=「阿弥陀仏の本願を信じなさい」ということも分からない高森顕徹会長

早いものでもう12月です。5日(火)には越前鯖江会館が落慶するようですが、会館を建てるだけ建てても高森顕徹会長はそこでろくに話をせず、建物の維持・管理という重荷を支部長や会員に押し付けているだけです。高森会長の説く訳の分からない信心、驚天動地の体験に憧れ、一縷の望みを捨て切れないでいる会員さんも少なくないと思いますが、浄土真宗に非ざる偽の親鸞聖人の教えをいくら聞いていても親鸞聖人と一味の信心にはなれません。信心決定して報土往生を遂げたければ親鸞会など即刻離れ、「本願力回向の信心」を教える知識から「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を聞きましょう。



さて、高森会長は先日、本願成就文を出して

阿弥陀仏の本願を聞きなさい。

と「聞く」ことを強調し、

阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていない。

と発言しています。これだけでも高森会長が「」と「」の関係について無知であることが知られます。


親鸞会でも「聞即信」とはよく言われる言葉ですが、会員の多くは誤解していると思われます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
真剣に、間断なく高森会長の話を「」き続け、また推進される破邪顕正(勧誘)や財施(献金)、会長及び上司への無条件服従等をやり続けていった先の、阿弥陀仏のジカの喚び声が心のドン底に響き亘る聞き方を「」と言う。「」と聞こえたその時、その処で信心歓喜と大安心し、絶対の幸福にさせて頂けるということ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

『こんなことが知りたい②』の問(40)には「聞即信とは、どういうことか」という質問があり、これに対する高森会長の答えと親鸞会での活動とを合わせて考えますと、おそらくはこんな理解になるかと思います。真剣必死の聞法求道の果てに遂に求道の絶壁に行き詰まり、そこで地獄一定の苦しい体験をし、同時に「ただで救うぞ」の弥陀の喚び声が五臓六腑を貫く、極楽一定と救われる、みたいな。しかし、これは大間違いです。


聞即信」とは、浄土真宗における聞と信との関係のことで、聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はないということです。親鸞聖人は、第十八願成就文に、

その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)

とある中の「」と「」の関係について、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(信文類)

と教えられています。阿弥陀仏が本願を発されたいわれを聞いて疑い無いことが「」だというのです。それは計らいの雑じった自力の聞き方、称えた念仏の功徳によって往生しようとする聞き方といった、いわゆる「不如実の聞」ではありません。己の計らいを雑じえることなく、法のあるがままをお聞かせ頂く聞き方、阿弥陀仏に全ておまかせした「如実の聞」です。そして、そのように本願を疑い無く聞くことがとりもなおさず「信心」であるということで、

信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

と示されています。真宗の信心は自分で起こすものではなく、自力で深く信じ込むものでもなく、仏力より起さしめられる信心、阿弥陀仏の方より恵み与えられる信心であるというのです。我が計らいを雑じえず、また聞いたことを我が胸に持ち替えたりせず、如来の方より聞こえたそのままが信心だということです。

それをまた聖人は、

聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一多多念証文)

ともお示しです。「本願の名号」である「南無阿弥陀仏の六字」のこころ、平たく言えば「助けるぞよ」を「」くのが「」心であるというのです。このことから、本願を「」くとは本願を「」じるというのとイコールであることが分かります。ですから、

「阿弥陀仏の本願を聞きなさい」=「阿弥陀仏の本願を信じなさい」

ということで、この二つは同じことなのです。如来の仰せ、お助けを仰せのままに聞かせて頂く以外、信心も安心もないのです。高森会長が「」と「」の関係について無知であると言ったのはそういうことです。


では肝心の「南無阿弥陀仏の六字」のこころとはどのようなことかと言えば、

 しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
 発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
 即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。
 必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
 『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。
「行文類」親鸞聖人の六字釈

【現代語訳】
 そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「悦(えつ)」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「税(さい)」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。説(せつ)の字には、悦(えつ)と税(さい)の二つの読み方がありますが、説(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。
 「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。
 「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。
 「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることを顕しています。
 『無量寿経』には「即得往生」と説かれ、その心を釈して『十住毘婆沙論』には、「即時人必定」といわれています。「即」の字は、阿弥陀仏の本願力を疑いなく聞くことによって、真実報土に往生するまことの因が決定する時の極まりを明らかに示された言葉です。「必」の字は、「明らかに定まる」ということであり、本願力によって自ずから然らしめたまうという道理を表しており、迷いの境界と分かれて、さとりを極めるべき正定聚の位につけしめられたことを表しており、金剛のように堅固な信心を得ているすがたを表しています。


と示されています。「南無」について善導大師は「帰命」と「発願回向」の二つのこころを教えられていますが、これらについて親鸞聖人は

・「帰命」=「本願招喚の勅命
・「発願回向」=「如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心

と釈されています。「助けるぞ」「我にまかせよ」と衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せであり、阿弥陀仏が、衆生の「助かりたい」という願いに先立って、久遠のむかしに衆生を「助けよう」という大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心であるというのです。

また、「阿弥陀仏」とは「即是其行」であると大師は仰せですが、聖人はこれを

即是其行」=「選択本願

と釈され、如来が衆生に先立って願いを発し、この私目がけて差し向けられたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しているのだと教えられています。

こうした阿弥陀仏の「願力を聞くによりて報土の真因決定する」、すなわち「信心決定」するわけです。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を「」いたそのままが「信心」であり、阿弥陀仏の「願力を聞く」ことの他に「信心」は無いというのはそういうことです。「聞即信」といわれる所以であります。私の力とか、真剣さとか、努力などの、いわゆる「自力の求道」と「報土の真因決定」、つまり「信心決定」とは無関係です。


その関係ない「自力の求道」と「信心決定」とを結びつけ、「自力の求道」をしていった先に「信心決定」があるかのように説いているのが高森顕徹会長です。たとえやっていることが如実の善だとしても、そうやって何とか助かろうと「自力の求道」に励んでいる内は「信心決定」できません。なぜなら、阿弥陀仏は本願力を回向して「信心」を与えて助けようと仰っているのに、それを受け容れないからです。要は本願の仰せを「」いていないのです。それどころか、阿弥陀仏のお力だけでは足りないと言わんばかりに自力の活動を積み重ねているのですから、本願の仰せを撥ね付けているのです。本願を「」くのが「信心」なのですから、会員が「信心決定」できないのは当然ですね。

真剣に、ド真剣にと親鸞会では言いますが、第一我々の真剣さが我々の後生の一体何に役立つでしょうか? そんな私の真剣など打ち捨てて、阿弥陀仏がド真剣になって私を助けようとされている、その阿弥陀仏の真剣を受けなきゃなりません。阿弥陀仏の真剣は、南無阿弥陀仏と成って私に回向されていますから、私は何の計らいもなく、「我にまかせよ、助ける」の勅命をそのまま受けるだけです。

こうした本願招喚の勅命に計らいを差し挟み、「活動しなければ救われない」などと誤解して、獲信・往生と無関係な活動に勤しんでいるのが親鸞会の会員です。これが、如実の善行を積んでいるなら化土へ参れるかも分かりませんが、やっていることが単なる一新興宗教の組織拡大活動ですから、その結果は・・・。会員の皆さんが信心も安心も無いのは、

高森顕徹会長の話に親鸞聖人の教えが無いから。

この一言につきます。早く「高森教」とはさよならして「浄土真宗」に帰して頂きたいものです。


【参照】
『WikiArc』聞即信
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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