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謹賀新年(2020年)

今年もよろしくお願いいたします<(_ _)>

今回は今年の抱負というか、やろうと思っていることを書こうと思います(順不同)。

・高森顕徹会長、親鸞会の教義の誤りを紹介する
今年も頂いた情報をもとに、高森会長がどんな話をしたか、どこが問題か、間違っているか、親鸞聖人はどう教えられているかといったことを書きたいと思います。

・子供達を連れてご法義を聴聞する
少しでも子供達に仏縁をと思って、とりあえずついてきてもらうだけでももらおうと思います。一人最低でも一回はお参りしたいものです。

・「【考察】念仏の勧めについて」の続きを書く
まだ親鸞聖人、覚如上人、存覚上人、蓮如上人についての考察を終えていませんので、しかるべき勉強をした後に書きたいと思います。

・安全運転
事故や違反がなく仕事をして生活を送れるということがベースですから、心がけていきたいと思います。

・落ちた体力を戻す
トレーニングをさぼっていたら体力が落ちてしまいました。休みの日はランニング、筋トレを適度に行って、このまま坂を転げ落ちるように体力が無くなってしまうことは防ぎたいと思います。

・子供と一緒にいる時間を増やす
苦行にならない範囲でですが、まだ子供達が小さい内に一緒に遊んだり、話をしたり、食事をしたり、そういう時間をもっと増やしていきたいと思います。

・感謝の言葉を伝える
実家の家族、妻、近所の方々、学校や保育園の先生など、お世話になっている方々に感謝の言葉をきちんと言い表して伝えたいと思います。

・なんまんだぶする
普段、中々聴聞に出歩けない私にとっては、称名が唯一と言っていいご法義との接点です。林遊さんとまではいきませんが、心がけてなんまんだぶしていきたいと思います。


思いつくまま書いてみました。やれるかどうか分からないものもありますが、やれる事はやっていきたいです。

この命の限り本願を仰ぎお念仏を申して、時にはつらいこと、くじけてしまうこともあるでしょうが、多くの御同行、御同朋に導かれながら浄土への旅を続けたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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法然聖人と親鸞聖人との間で、ものすごい断絶を感じる

前回、紅楳先生のご縁で出された『唯信鈔文意』のお言葉を紹介しました。御文そのものについては、前回の記事やお手持ちの聖典を参照して下さい。今回は聴聞録を元にその内容について少し触れたいと思います。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
法然聖人は43歳の時、善導大師の「散善義」の文

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

によって救われ、その後念仏一行の浄土宗を開かれました。

法然聖人は善導大師の教えを一歩進められ、念仏は誰もが行ずることのできる易行であると共に、他のどのような行よりも勝れた最勝の行であると、勝易の二徳を具えた本願の行であると教えられました。

ところが法然聖人の没後、『選択集』を読んだ明恵上人高弁が『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』を著して法然教学を徹底的に批判します。その項目は多岐にわたりますが、その中の一つが「念声是一」釈への批判でした。

善導大師が本願文の「乃至十念」の「十念」を「十声」と読み替えられたのは『観経』下下品の文と合わせられたからです。ところが明恵上人はこれに噛みついたわけです。高弁は『摧邪輪荘厳記』で、

此義甚不可也。念者是心所、聲者是色、心色既異何爲一體乎
(この義、はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色なり、心と色、すでに異なる、何ぞ一体となすや)


と、念と声が一緒だなどという主張は心法と色法と混乱すること甚だしいと論難しています。

それに対する親鸞聖人のお答えは、

念も声も信心が大事だとした

とのことです。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

ここからは私の正直なところの感想、及び考察です。

途中までは理論的に分かり易かったお話が、親鸞聖人のお答え以降一転してよく分からない話になりました。これでは『唯信鈔文意』の意味とも離れるし、また明恵上人の論難への的確な応答にもなっていません。後程これについて質問したのですが、時間切れで消化不良の内容となりました。この講釈なら、明恵上人の論難の話は出さずに、法然聖人の「念声是一」釈を親鸞聖人はそのまま承けて

念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

と仰ったのだと示した方がすんなりいき、また聞く方もすんなりと理解できたのではないかと感じます。

後に調べ、下のリンク先の文章を読んで「なるほど、先生のお考えはこうなのだな」と理解しましたが・・・。


どうやら先生が親鸞聖人の教えを解釈する上で、その大前提となっているのが信心正因称名報恩説のようです。その時のお話にも信前行後という言葉が出て来たり、名号→信心→念仏という説明がなされたりしました。

確かに信心正因称名報恩説はけっこうな学説です。ただ、これが教えを理解する中心としてドグマ化している先生の話を聞くと、その内容によっては私は法然聖人と親鸞聖人との間で、ものすごい断絶を感じるのです。

A先生のお話の時もそうでした。法然聖人のところでは、勝易の二徳とか、念仏往生とか、諸善に対して念仏等としっかり言われるんです。ところが、親鸞聖人の話になったら、それらのことはまるで無かったかのように、話が信心正因称名報恩、念仏は信後の報謝になるのです。法然聖人と言えば念仏、親鸞聖人と言えば信心、念仏は信後の報謝。大胆に表現すると、聞く私としてはそのような印象を受けます。

確かに教団内に生き、教義を伝える者としては、法然聖人の教え、浄土宗との教えの違いを示し、親鸞聖人の独自性を訴えることが大事なのかも知れません。ところが、親鸞聖人は法然聖人の教えこそ浄土真宗であるとして、法然聖人の教えの真実性を生涯訴えられた方でした。

実は信心正因も、平生業成も既に法然聖人の上で言われていることであり、行の根拠を第十七願に見い出されたことも法然聖人や兄弟子の聖覚法印の示唆によるのです。

称名報恩にしても、『選択集』四修章に源信僧都も引用された『西方要決』の文

このゆゑに精勤して倦まずして、まさに仏恩を念ずべし。報じ尽すを期となして、心つねに計り念ふべし。

を引用されています。また、『西方指南抄』中末 三機分別には

一念も疑心なくして、決定心をえてのうへに、一声に不足なしとおもへども、仏恩を報ぜむとおもひて、精進に念仏のせらるるなり。

と教えられています。その他、『浄土宗大辞典』念仏と報恩には

実際に念仏申すという生活の実地体験においては、その念仏の味わいとも言える身意柔軟や善心が生じることや信心歓喜などの境地を得て、求めずしておのずから仏の恩に対する報恩感謝の思いが生起するものである。


と言われていますし、真宗ばかりでなく浄土宗西山派も報恩感謝の称名念仏を力説しているようです。このように見れば、法然聖人の上においても仏恩報謝の念仏というのは言われていたことが伺えます。


話を聞いていて法然聖人と親鸞聖人との間でものすごい断絶を感じてしまうのは、恐らく

①法然聖人 → 親鸞聖人 → 覚如・蓮如上人
②法然聖人 | 親鸞聖人 ← 覚如・蓮如上人

という二つの見方の違いから生じるものと思われます。

私は①、法然聖人から親鸞聖人への伝承という形で親鸞教学を理解し、そして覚如上人、蓮如上人へという流れで真宗を捉えています。また当時の時代背景なども考慮に入れながら、それぞれの立場での教化の仕方があったのだと捉えています。信因称報説はそうした過程の中で覚如上人によって提唱され、蓮如上人によって更に展開された説だと理解しています。

これでいきますと、親鸞聖人というのは実に法然聖人の良き継承者なのだということがつくづく知らされます。また後に、念仏の教えが広まると共に次第にその信心や称名相続の意義等が問題となり、他宗との比較化のため、同じ真宗でも本願寺を中心とする教団形成のため、覚如上人は信因称報説を旗印とされたということ、そして蓮如上人によってそれが果たされていったということも十分首肯できるのです。

ところが、全て②、覚如上人・蓮如上人の信因称報説に立って親鸞教学を理解する方の話を聞くと、その内容によっては①で理解している私のような者は法然聖人と親鸞聖人との間に断絶を感じてしまうのでしょう。

信因称報説。私はこれを否定するものではありませんが、これに則って話をするのなら、法然聖人と親鸞聖人との違いなどには触れずに、『御文章』によって当流安心の一義を示すことに集中した方がよいと思いました。

近年は『歎異抄』の普及により真宗において『御文章』離れが進んでいるという話もありまして、その比較のために法然聖人と親鸞聖人とを対比する話をせざるを得ないのかも知れませんが、前者は念仏往生、念仏成仏の三法門を前面に打ち出した聖典として、後者は「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という念仏の信心、念仏の安心を別に開いて平易に詳しく説き顕された聖典として、共に大切に拝読させて頂いたらいいんじゃないでしょうか。実際に、蓮如上人は大変よく『歎異抄』を読まれていたようですから。


以上、上から目線と言われても仕方ありませんが率直な感想でした。なお、私には紅楳先生や先生の主催する会を批判しよう、扱き下ろそうなどという意思は無いことを念のため申し添えておきます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』念声是一
『一念多念文意講讃』第十六講 第十七願文の文意
親鸞の念仏思想の特性 ー特に法然との相異についてー 紅楳英顕

『唯信鈔文意』と『唯信鈔』のお言葉

12月14日(土)、紅楳英顕先生主催の「親鸞聖人の教えを聞く会」のご縁に娘と遇わせて頂きました。話をしたいと思っていた方も来られていましたが、こちらは娘の相手をしなければならず、あちらはあちらでお連れさんがあり、また、終了後すぐ帰られてしまったのでほとんどお話はできませんでした・・・。

ところで、その時のご縁は『唯信鈔文意』の最後の文

【11】
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

この文どものこころは、おもふほどは申さず、よからんひとにたづぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。

南無阿弥陀仏

ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。

[康元二歳正月二十七日 愚禿親鸞八十五歳これを書写す。]


についての解説でした。

これは、聖覚法印の『唯信鈔』のお言葉

【12】
つぎに本願の文にいはく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といへり。いまこの十念といふにつきて、人疑をなしていはく、「『法華』の〈一念随喜〉といふは、ふかく非権非実の理に達するなり。いま十念といへるも、なにのゆゑか十返の名号とこころえん」と。

この疑を釈せば、『観無量寿経』の下品下生の人の相を説くにいはく、「五逆・十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わづかに十返の名号をとなへて、すなはち浄土に生る」といへり。これさらにしづかに観じ、ふかく念ずるにあらず、ただ口に名号を称するなり。「汝若不能念」といへり、これふかくおもはざるむねをあらはすなり。「応称無量寿仏」と説けり、ただあさく仏号をとなふべしとすすむるなり。「具足十念称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中 除八十億劫生死之罪」といへり。十念といへるは、ただ称名の十返なり。本願の文これになずらへてしりぬべし。 善導和尚はふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)といへり。十声といへるは口称の義をあらはさんとなり。


を親鸞聖人が釈されたお言葉の一部です。親鸞聖人はこれを

【8】
 「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。

【9】
 「非権非実」(唯信鈔)といふは、法華宗のをしへなり。浄土真宗のこころにあらず、聖道家のこころなり。かの宗のひとにたづぬべし。

【10】
 「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

【11】
 「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。


の四つの段に分けて解説しておられます。

この中、【9】の「非権非実」は置いておくとして、重要なのは【8】【10】【11】の親鸞聖人のお言葉でしょう。

なお、聖覚法印の【12】のお言葉の一部と、親鸞聖人の【10】【11】のお言葉は

『飛雲』「称名を本願と誓ひたまへる」が「諸善を本願と誓ひたまへる」とすり替わる高森顕徹会長の邪義

等で扱われています。現代語訳は

唯信鈔文意(現代語版)

など参照して下さい。


今回は御文の引用のみで相当長くなってしまったので、お話の中身については割愛させて頂きます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

これは、称名を本願の行と誓われ、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」「とこゑまでの衆生みな往生す」という本願に随順、信順しているところの称名です。そこには、既に我が往生を定めて下さっていることに対する報恩、感謝の意もありますが、これは称える私の心持ちのことです。報恩、感謝のみが称名、念仏の全てではないと思います。

「信」→他力の信心、疑いをまじえずに受け容れること

これまで「ふかく」や「あさく」、「たのむ」「たすけたまへ」などの語を見てきましたが、今日は「」の語について見ていきたいと思います。これも、親鸞聖人が使われる「」、「信ずる」ということと、現代の我々が使う「」、「信ずる」では意味が全く違うからです。

まず現代の我々が使う「」、「信ずる」とは、例えば「明日は晴れると信じる」「君の言うことを信じよう」「○○神(●●仏)を信ずる」などのように、不確定な未来、証明できない事柄、特定の神仏に対して使います。そこには、当然ながら我が計らいをまじえ、もしかしたら違っているかもしれないという疑いが入っています。そして、その疑いを押さえつけて、あるいは払拭する意味で「信じる」と言っているのです。

しかし親鸞聖人が使われる「」、「信ずる」は、その対象が本願や名号、念仏であれば「他力の信心」を表し、善知識方の教説であれば「疑いをまじえずに受け容れること」を意味しています。前者は、例えば

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。「総序」

弥陀の本願信ずべし
 本願信ずるひとはみな
 摂取不捨の利益にて
 無上覚をばさとるなり


五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり
『正像末和讃』

などです。後者については

五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。正信偈

道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。正信偈

などが該当するでしょう。尤も、明確にスパスパ分けられない箇所もあるでしょうが、現代で使われている意味とは全く異なります。

これらの「」、「信ずる」を現代の感覚で捉えると、途端に浄土真宗とは異なる教えとなってしまいます。


親鸞聖人は「信文類」において

信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり

と言われ、「」には真実という意味があることを教えておられます。しかし、同じ真実でも「」の場合は、人偏に「言」という字が書いてあるように、特にその言葉に「うそ・いつわり」が無いことを「」と言われています。噓も偽りも無い、裏表の無い言葉、これが「」という文字にこもっている意味です。

ところが、我々が使う言葉には悲しいことに噓や偽り、裏表、裏切りがつきものです。それゆえ、「信じる」といったらその裏には「違うかも知れない」という「疑い」があります。その「疑い」を押さえつけて「信じる」より他に仕方がないのです。「」の持つ、噓も偽りも無い、裏表の無い言葉という意味が文字通り適用できるのは、これは人間の言葉には無理です。我執・煩悩を完全に浄化した如来の言葉だけです。

如来の言葉には噓や偽りはありません。七高僧方や親鸞聖人が示された教えは、仏陀の教説です。そのような噓も偽りもない仏陀や善知識方の教えの言葉を聞いた時、それを疑うことは、まことに失礼なことです。まことの言葉は、疑いをまじえずに、仰せの通りに聞き受けるべきですから、「」には「疑いをまじえない」という意味が自ずから具わっているのです。

それに対して「何と無批判な」「それでは進歩も何もあったもんじゃない」と仰る方があるかも知れません。確かにこの世のことであれば、なぜそうなるのか疑問を持ち、とことん追求するという姿勢も大事でしょう。ただ、仏教、浄土真宗で扱っているのは我々の生と死の問題です。そして、生死の迷いを超えていこうというのです。

自分で道を開けるという人、教えを乞うのが嫌な人は自分で追求すればよいでしょうが、私には生きることも、死ぬことも、何一つも見定めることはできません。ですから、「死ぬことはお浄土に生まれることだよ」と仰って下さる阿弥陀さまの真実のお言葉、それを信じよと勧めて下さる釈尊や七高僧、親鸞聖人方の言葉を「」ずる他には何もないのです。

この信心は自分で作り上げたものではなく、阿弥陀さまが与えて下さった本願の信心、他力の信心です。疑いを押さえつけて信じ込むこととは全く違います。疑いを押さえつけるのではなく、疑いが無いのです。さも、燦燦と降り注ぐ太陽の光を仰ぎ見て今の天気に疑いない如く、今、ここにいる、この私に届いている、「助けるぞ」の如来のお言葉に疑いない、これが信心です。


なお、親鸞聖人には勿論、自力の信心を意味する「」の使われ方もあります。

罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。「化身土文類」真門釈

などです。仏教で「罪福を信ずる」、因果の道理を信ずることは非常に大事なことであり、真宗といえどもこれを軽んずることは許されませんが、因果の道理をもって善悪平等の救いを誓われた本願をとらえようとすることは自力と言われ、この自力心がある内は本願力に帰することができません。

この「」という言葉一つ取っても世俗と仏教、また真宗とで随分と違うので、難しいものです。

「たのむ」=「たすけたまへ」=「たすけたまへとたのむ」=たのみにする、おまかせする、信順する

前回の続きです。

『御文章』は浄土真宗の門徒に大変親しまれている、「凡夫往生の鏡」とも言われる大事な聖典です。かな交じりで漢文を読み解くような難しさはなく、平易な文章で浄土真宗の安心の一義を教えられています。浄土真宗から『御文章』を取ったら何も残らないと言った人もある位、特に本願寺派、真宗大谷派にとっては重要な書物です。

ただ、今から五百年前に書かれたものであり、特に安心を表す重要な言葉が現代の我々の感覚とは違う用い方をされています。誰でも読める平易な文章である反面、安心の一義をよくわきまえた方から教えて頂かないと非常に誤解が多かろうと思われます。

その重要な言葉が、タイトルでも示した「たのむ」とか「たすけたまへ」、あるいは「たすけたまへとたのむ」等です。これが、普段我々が使う言葉の意味とは真逆の意味で用いられているので注意しなければならんのです。

普段我々が「たのむ」といったら「用事をたのむ」「たのむから許してくれ」というように「お願いする」「請う」という意味で用いています。昔は「たのむ」に「お願いする」「請う」という意味は無かったそうですが、いつの間にやらそのような意味が追加され、それが今では主流になってしまったようです。

なお、名無しさんのコメントによれば現代語でも普通に「期待する、あてにする、ゆだねる」という意味で使うことはあるそうですが、私の周囲では中々お耳にかかりません。地域性や年代の違いでしょうか。

このような、「お願いする」「請う」といったいわゆる祈願請求の意で「たのむ」の語を捉えると、永久に浄土真宗の信心とはかけ離れることになるので注意しなければなりません。ここをお読みの皆様にはそのような心配は無用かとは思いますが、一応述べさせて頂きます。蓮如上人が使われる「弥陀をたのむ」とは、われらがごとき末代不善の凡夫を「我ひとり助けん」と仰せの本願を聞いて、その本願の仰せに我がなまじいの計らいや疑いをまじえずに

たのみにする、おまかせする、信順する

といった意味であり、

どうか阿弥陀さま一つ私の後生何とか助けて下さい、お願いします

といった、凡夫の側から救いを請い求める意味はありません。

阿弥陀仏の「我ひとり助けん」という願いは既に南無阿弥陀仏と成就して、今現に我々に届いています。我々が「助かりたい」と願うより先に既に届いている「助けるぞ」の先手の法に対して計らいをまじえずに受け容れ、おまかせし、仰せの通りに順うというのが「弥陀をたのむ」ということです。


さて、「たのむ」だけならまだよいのですが、問題は「たすけたまへ」が絡んできた場合です。『御文章』にはしばしば「たすけたまへとたのむ」とあります。現代の感覚で言ったら間違いなく「お助け下さいとお願いする」という意味になってしまいます。特に

ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば・・・2帖目13通

等を拝読した時です。こうした御文の誤解から三業帰命等の異説が発生したのだろうかとも思われます。

どうやら、蓮如上人はゆかりのあった浄土宗(一条流)が用いていた「たすけたまへ」の語を、語はそのままで、意味を許諾(こだく)という意味で転用されたらしいです。許諾とは

他人の要求や希望などを聞き入れて、それを許すこと。承諾すること。

というほどの意味ですが、ここでは阿弥陀仏の願いを聞き入れて、仰せの通りに受け容れることです。

先ほども書いた通り、私達が「後生助かりたい」と思う以前に、阿弥陀仏は既に私達の「後生助ける」と願いを発し、今やその願成就して、南無阿弥陀仏の念仏と成って届いて下さっています。南無阿弥陀仏の声は

我にまかせよ、必ず浄土に迎えて仏にする

という仏勅であり、その仏勅をそのまま聞き入れて、それでは仰せの通り「たすけたまへ」ということです。ですから、「たのむ」と「たすけたまへ」は同義であることが分かります。またこのことから、「たすけたまへとたのむ」とは、例えば「二度と再び」というように同じ意味の語を重ねている言葉なのだということも分かります。


阿弥陀仏は衆生往生の行として称名念仏の一行を選択し、「我が名を称えよ」と与えて下さっています。念仏とは、阿弥陀仏のお願いなんですね。「お願いだから我が名を称えて浄土に生まれてきておくれ」というのが念仏に込められた阿弥陀さまのお心です。

だからお念仏申すとは、阿弥陀さまのお心を聞いて、その通りに順うことを言うのです。念仏を自分の功徳だと思って称え、それを当てにして往生しようというのは、阿弥陀さまのお心、本願のお心を聞いていないのです。

蓮如上人の当時は浄土の教えは相当広まっていて、浄土宗や時宗が大変盛んでした。浄土を願ってお念仏を申される方々が相当あったんでしょう。しかし、その信心は必ずしも正しくなかったのです。ただ称えていればいいとか、念仏はお助け下さい阿弥陀様という凡夫の祈りだと思っている人が多かったわけです。そういう人々に、念仏のこころ、念仏の信心を「たのむ」「たすけたまへ」という言葉で明らかにされ、浄土真宗を再興されたのが蓮如上人でした。それで『御一代記聞書』には

一 聖人(親鸞)の御流はたのむ一念のところ肝要なり。ゆゑに、たのむといふことをば代々あそばしおかれ候へども、くはしくなにとたのめといふことをしらざりき。しかれば、前々住上人の御代に、御文を御作り候ひて、「雑行をすてて、後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」と、あきらかにしらせられ候ふ。しかれば、御再興の上人にてましますものなり。

と言われています。


なお、一条流の「たすけたまへ」の意味とか、蓮如上人は最初は「たすけたまへ」を否定的な意味で使われていたことについては、長くなりますのでここでは割愛させて頂きます。



【参照】
安心論題/タノム・タスケタマヘ
『本願力』梯實圓和上  『攻めの蓮如上人』

「ふかく」=「他力」、「あさく」=「自力」

いや~、日本語って、非常に難しいですね。色々な国の言葉が混じり合っているだけでなく、親鸞聖人や蓮如上人の時代のいわゆる古文漢文と我々が日常用いている現代文とでは同じ言葉でも意味が違うのですから。

特にセンター試験で古文漢文30点だった自分には、聖典と向き合うのは厳しい厳しい。先哲の解説をもとに、読み誤りのないように注意して拝読したいものです。


さて、昔と今とで意味が違う用語の中でも、「あさく」「ふかく」とか、「たすけたまへ」「たのむ」等は誤解が多いのではなかろうかと感じます。

まず前者の「あさく」「ふかく」ですが、漢字で当てれば「」「」です。これは現代の感覚では相対の世界での浅い、深いという意味に捉えがちです。井戸が浅い、深いとか、信じる度合いが浅い、深いとか。

しかしそうではなく、信心について「あさく」「」と言ったら自力を、「ふかく」「」と言ったら他力を表します。

これについては二種深信がまさにそうです。

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
「散善義」

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。『往生礼讃』

決定して深く・・・と信ず」「信知」とありますが、これは現代の感覚で深く信じ込むこととは違います。『正信偈』にも源信讃

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。

とあります。専修になり極まった念仏の行者の信心は他力なるが故にふかく、雑行雑修を捨てやらぬ機の信心は自力なるが故にあさいということです。

念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。『末灯鈔』12通

のお言葉など典型例です。「ふかく信じて」とは他力の信心、真実の信心であり、自力で信じ込もう信じ込もうとすることとは全く異なります。本願力にまかせたてまつる信心は他力なるが故に「ふかく」と表され、逆にどんなに強く深く信じ込んでいようとそれが自力であれば「あさく」の範疇になります。

一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて5帖目4通

等の『御文章』のお言葉もそうです。「ふかく心に疑なく信じて」とあるから、現代の感覚では疑わないように深く強く信じ込むことのように思いがちですが、どんなにそうだそうだと強く深く信じ込もうとそれは自力の信心の範疇であり、「ふかく心に疑なく信じて」という他力の信心、真実の信心ではありません。5帖目4通では後に

仏にまかせまゐらせて

とあるように、これは自力を離れて阿弥陀仏におまかせした他力の信心を意味しています。久しく聖典を拝読している方には敢えて尋ねたり注意したりする必要も無い常識ですが、自力雑行の捨てやらぬ親鸞会の会員や退会して間もない方、それほど聖典を勉強していない方は知らないことかもしれません。


『御文章』ではこの「ふかく」に加えて「たすけたまへ」「たのむ」「たすけたまへとふかくたのみ」等とあり、現代の感覚では更に誤解しやすくなっています。こちらについては記事を改めてみてみたいと思います。

機の深信と罪悪観を混同している親鸞会会員

親鸞会では「因果の道理」→「真実の自己」→「後生の一大事」の順に説くのが恒例になっています。高森会長は10月の報恩講では「因果の道理」を話し、先日は「真実の自己」について話しましたから、次に話す機会があるとすれば、今度は「後生の一大事」について話すのではないかと考えられます。尤も、そのように考えている会員も少なくないかもしれません。

この順で話を聞くことにより、後生に驚きが立ち、それが聞法の出発点であるかのように親鸞会では説きます。このワンパターンに尽きるといっても過言ではありません。

・因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても分からない。
・因果の道理の結論は廃悪修善。
・ド真剣に廃悪修善を実践しなければ真実の自己(善のできない自分)は分からない。
・真実の自己が分からなければ後生に驚きが立たない。
・後生に驚きが立っていない者は横の線の軌道にも乗っていない。


このように毎度毎度言われるものですから、会員は、まずは横の線の軌道に乗ろうとして因果の道理を聞き、廃悪修善(という名の組織拡大活動)に努め、自己を見つめ、後生の一大事に驚き立とうとしています。人によっては何十年とこれをループしています。横の線の軌道に乗る、これが獲信の条件だと思っているのです。言葉を換えれば、往生の条件だと思っているのです。

もっと言えば、因果の道理が強く知らされる、悪しかできない自分が強く知らされる、後生に驚きが立つ、こういったことも獲信・往生の条件だと思っているのです。

自己を見つめ、後生に驚き立ち、求めて求めて、一つの善もできない極悪人の姿を如来の御前に投げ出す経験をする。それが機の深信であり、その時に「そのまま救う」の阿弥陀仏の直の喚び声が五臓六腑を貫き、私一人がための弥陀のご本願でありましたと知らされる。それが法の深信である。このように、救済の予定概念を描き出して、そこへ自分を当てはめようとしているのが親鸞会の会員です。


これは昔から言われているように、機の深信と罪悪観を混同しているところから生じる誤りです。もはや言い尽くされているので今さら私の出る幕はありませんが、よく理解できていない方、最近退会した方のために以下、参考文献のリンクをしておきます。

『WikiArc』二種深信

『安心問答』なぜ生きるの本にある「機の深信」は罪悪観と混同しているのか?について(S会会員さんのコメント)

『苦笑の独り言』 「二種深信」と「罪悪観」との混同

この辺りをよく読んで頂けたら、機の深信と罪悪観の違い、親鸞会はこれを混同して説いていることがお判り頂けるのではないかと思います。今は、『苦笑の独り言』に出ている稲城選恵和上の言葉を載せておきます。

 高森氏の問題となる根底は二種深信の解釈の誤解より生ずるものである。特に機の深信と罪悪観との混同である、既述の如く、「弥陀の五劫思惟の願が我一人のためであったということは地獄の釜底でなければ体験できない」とあり、「助かる望みが断ち切られで無間のどん底にたたきおとされた時、阿弥陀仏の招喚の勅命が聞こえる」といい、「地獄へ堕ち切った処まで行かなくては助けられた味合いは判りません」とあり、「地獄一定住み家と堕ちきらせて頂き、その時はじめて魂に御六字の光がとどいて下さる」とある。いずれも自らが絶対に「救われない存在」であるという自覚を前提にしなければ阿弥陀仏の救いは成立しない。このような罪悪観を救いの前提とし条件とする人は、必ず求道、三定死、信決定、体験、大歓喜等と入信の順序が定式化している。信一念の覚不を強調せざるを得ない理由も、二種深信の誤解より生ずるのである。まず求道の前提として、地獄におちるという恐怖心をあおる事から始まるわけである。


 宗祖の生涯かけて最も問題にされているのは十八願と二十願の真仮の廃立にある。それは既述の如く、『教行信証』一部六巻のみならず、和讃をはじめ、他の著作の上にもみられるのである。二十願も「聞我名号」と願文にあり、本願の成就丈にも「聞其名号」とある。双方ともに名号を所聞の体とし、所信の体とするのである。しかるに二十願は折角名号法を聞きながら信罪福心の自力疑心にとらわれているから真実の法にあうことが出来ないのである。それ故、浄土真宗で最も問題となるのは自力疑心である。蓮師の宗名の御文章にもあるように、浄土真宗の「真」の一字を加えたことは自力疑心を認めるか否かにあるといわれる。自力心を認める限り、真宗とはいわれないのである。この自力心はみずからによっては征服することは不可能である。他力の法によってのみ否定されるのである。しかも自らが求めるに先行して既に与えられている名号法を聞信するから自力心を否定されざるを得ないのである。
 この順序が逆になり、自らが先行すると、折角、生涯をかけて開法しても永遠に本願にあうことは出来ない。真剣な聞法者ほど、この順序が逆になっている場合が多いのである。ここに聞法に苦労しなければならないのである。聞くこと以外に本願に遇う道は開かれていないが、聞いて信じなければならぬと己の側に力をいれるほど、逆に救いから遠ざかるのである。かつての妙好人の跡をみると明らかである。それは否定媒介としては重要な意味をもっているが、救いには直接しないのである。ここに聞法の厳しさがあるのである。


 親鸞会の立場は折角聞法に力をいれながら、順序が逆になるから、信心獲不に力が入り、信罪福心の虜となっているのである。


親鸞会のことをズバリ言い当てられています。このようなことに囚われて自分ばかり見つめ、どのような自分であっても必ず救う本願の仰せを聞かないから、会員は信心も安心もないまま無駄な月日を送っているのです。しかし、そのような本願であることを聞かせてはもらえないので、そのまま親鸞会にいても救いはありません。

正直、会員がやっている程度の活動で真実の自己が分かって救われるというなら、親鸞聖人は比叡山での20年の仏道修行でそれ以上の自己が分かって救われているはずです。ましてサークル活動の延長のような求道ごっこをし、救済の予定概念を描いてそこを通ろうといくら努力しても、それと本願の救いとは無関係です。

本願の救いには、親鸞会で聞いてきたことは全て捨て置き、勧められてきた雑行も捨てて念仏の一行に帰し、称え聞こえる南無阿弥陀仏のそのわけは「我にまかせよ、必ず救う」「助けるぞ」の仰せであると受け容れて、ひとえに後生を阿弥陀さまにおまかせ致すのみです。この如来の仰せ、本願の勅命を疑いをまじえずに受け容れたことを信心といい、これを開けば機法二種一具の深信と言われるのです。

親鸞会では二種深信は同時に立つと言いますが、機の深信が立つことが法の深信の立つ条件のように言われています。さらに機の深信と罪悪観の混同によって、機法二種は全く引き離されています。そして、堕ちる機ばかりが問題にされて助けたもう法が説かれませんから、全く救いが無いのです。

機の深信が立つことが法の深信が立つ条件ではありません。いくら機を追いかけようとも、それでは絶望のみで救いはありません。救われたいなら、救うと仰せられる法を仰ぐことです。


なお、この問題に関連しては当ブログでも

罪悪観と機の深信を混同し、親鸞聖人のお言葉を自分の都合に合わせて改変している現役カルト信者

に書いていますので、リンク先等含め合わせて参照して下さい。

第十九願について全く無知であり、第十九願とは無縁な高森顕徹会長と親鸞会会員

前回の続きです。

親鸞会の会員は「観経安心」以前の問題の人達です。

親鸞聖人は『観経』顕説である定散二善、九品往生は弥陀の十九願意を顕された教説と見ておられますが、そもそも弥陀の十九願とはどのような願か、十九願の行者とはどのような行者か、親鸞会の会員は無知です。そもそも高森会長が全く分かっておらず、十九願を利用しているに過ぎないので仕方ありませんが、今一度、少しばかり十九願について見てみます。

設我得仏 十方衆生
発菩提心 修諸功徳
至心発願 欲生我国
臨寿終時 仮令不与
大衆囲繞 現其人前者 不取正覚

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。


これが十九願です。会員の多くは御文自体は知っていると思いますが、意味が分かっていません。

まず「発菩提心」ですが、これは単に「よーしやるぞ」とやる気をおこす、奮発心をおこす、ということではありません。「発菩提心」とは、自利(智慧)と利他(慈悲)を完成して仏になろうと誓う心をおこすことを言います。

すべての仏や菩薩は、仏道修行を始めるときに総願と別願とをおこします。総願というのは、すべての菩薩に共通している誓願のことですから、通願ともいいます。菩薩が修行を始めるときにまずおこすのが菩提心ですが、その内容は願作仏心(仏になろうと願う自利の心)と度衆生心(衆生を済度しようと願う利他の心)であり、さらにそれを広げれば四弘誓願として表されているような誓願を総願といいます。

ですから

菩提心を発して」=「四弘誓願を発して

ということです。四弘誓願の内容を見たら菩提心がどのようなものかが判るのです。四弘誓願とは、

衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれども、度せんと誓願す)
煩悩無辺誓願断(煩悩は無辺(尽)なれども、断ぜんと誓願す)
法門無尽誓願知(法門は無尽(量)なれども、知らんと誓願す)
無上菩提誓願証(無上なる菩提を証せんと誓願す)


という四つの誓いを言います。

救うべき衆生は数限りなくいるが、ことごとく救い尽くそう。煩悩は際限なくわき起こってくるが、残らず断ち切っていこう。学ぶべき真理に尽きることはないが、ことごとく知り尽くしていこう。さとりの智慧は無上であるが、完全にさとり極めていこう。これが四弘誓願の内容であり、このような心をおこすことを「発菩提心」と言うのです。

四弘誓願では衆生無辺誓願度と利他が先で、その利他の実現のために煩悩無辺誓願断以下の自利の完成を誓われています。自分の幸せは後回しなんですね。これを分かり易く言いますと、

私はどんな苦難も引き受けますから、どうぞ貴方がたは幸せになって下さい

という誓いであると判ります。何という気高く尊い心でしょうか。

私達は、愛する者の幸せのため、あるいは御恩ある方への報謝のためならどんな苦労も厭わないと思うこともありますが、やはりこれ以上はできないという限界があります。ある程度以上のことをすると、恩着せ心や慢心などの醜い心が生じてきてしまうものです。また、嫌いな者や怠け者のために自分が代わってその人の苦労を引き受けようなどとは思わないでしょう。しかし仏や仏を目指す菩薩とはそうではないのです。

菩薩の心とは、一切衆生の苦難を我が苦難と引き受け、一切衆生を利益して幸せにし、それを我が幸せと感じることができる心です。「絶対の幸福」になりたいなどという我利我利の心、貪欲の心とは根本的に異なるのです。親鸞会と「発菩提心」とは無縁の関係です。


次に「修諸功徳」とは、諸々の善根功徳を修めるということです。菩提心を発した菩薩が仏と成るためになすべき修行内容を「諸功徳」と言われています。その修行内容は数え切れないほど多いので「諸善万行」と言われますが、これをまとめて説かれているのが「六度万行」とか、「六波羅蜜」と言われる六種の行業です。それを『観無量寿経』では「定散二善」で示されています。

このようなことですから、仏教で言う「諸功徳」「諸善万行」「六度万行」「六波羅蜜」「定散二善」とは、本来私がこの世を幸せに生きるためにする行いではないことが判ります。さとりを求め、さとりの完成のために行ずるのが菩薩行であり、成仏の因なのです。それをまた「廃悪修善」ともいうわけですが、さて、お釈迦様が

幸せになりたければ「廃悪修善」をしなさい

と一生涯教えられたとうそぶき、さらに「絶対の幸福」という欲望を満たすために善をせよと教える高森教は一体何教でしょうか。少なくとも仏教、浄土真宗でないことは明らかです。更に、主にやれと勧めている善は度々申し上げているようにとても善とは言い難い親鸞会の組織拡大活動ですから、親鸞会と「修諸功徳」も本来の意味でやはり無縁の関係です。


それから「至心発願欲生我国」ですが、これは心から阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと願いを発すということです。この世では仏道修行を妨げる悪縁があまりにも多く、お釈迦様在世当時は勿論ですが、特に現在は、お釈迦様の時代から遠く隔てた末法の時代であって、この土でさとりを開くことは甚だ困難です。私達のような煩悩にまつわられてこれをどうしようもできない凡夫は迷いを離れることは不可能です。

それで阿弥陀仏は、全く悪縁の無い清浄の国土を完成し、そこへ衆生を往生させて救おうと思い立たれ、本願を発されたのです。ですから、衆生を相手に誓われた第十八願、第十九願、第二十願のいずれも「欲生我国」と誓われ、浄土願生の心をおこせと言われています。

第十九願では「欲生我国」の前に「至心発願」と言われています。「諸功徳」は本来この土でさとりを開く行であって、浄土往生の行ではありません。それで、本来往生行でない諸善万行を往生行にするには、この善をもって浄土に往生したいと願いを発す必要があるのです。しかも阿弥陀仏の浄土は煩悩を離れたさとりの境界ですから、いい加減な気持ち、また浄土で楽をしたいというような気持ちであってはなりません。ですから、まことの心で、本心から浄土に生まれたいと願いを発せというのです。

対して親鸞会の会員は浄土往生というよりは「絶対の幸福」という欲望を満たすのが目的でしょう。また浄土を願っているにしても、果たしてそれは一切衆生の救済に生き抜こうという仏道の完成のためでしょうか? ですから、親鸞会と「至心発願欲生我国」もやはり無縁の関係です。


ところで、そうやって菩提心を発し、心から浄土に生まれたいと願いを発して様々な功徳を積んだ行者を臨終に迎えに行くと誓われているのが「臨寿終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚」です。ただ、親鸞会はそれ以前の「発菩提心」「修諸功徳」「至心発願欲生我国」とは無縁であり、しかも会員は臨終の来迎は望んでいない、考えていないでしょうから、やはり親鸞会とこの御文も無縁の関係です。


このようなことですから、親鸞会と第十九願は無縁の関係であることが判ると思います。そんな親鸞会の会員が、19願の道程を通れという親鸞会流「三願転入の教え」を実践しているはずもありません。かつて

君たちは十九願の入り口にも入っていない

などと高森会長が講師部員に向かって発言したそうですが、ある意味で当たっているのです。そもそも道を歩んでいないのですから辿り着くということもなく、しかもその道は報土へ通じていないのですから、会員が信心も安心もないのは当たり前の当たり前のことなのです。会員の皆さんはいい加減に気づくべきです。


なお、前回は「観経安心」について

(1)第十九願の至心発願の誓いによって、万善諸行の自善を回向して浄土に往生しようと願い求める信心

と定義してみましたが、あるいは

(2)第十八願の救いを求めながらも、諸善をまじえ、その功徳によって獲信、往生しようと願い求める信心

と言えるかも知れません。尤も、いずれにしても、親鸞会の会員は「観経安心」以前の問題の人達ですが。

もっともっと哀れな親鸞会会員

消費増税前の駆け込み需要がヤバいです(´-ω-`) たかだか2%の増税くらいでこれだけ荷物が集中するとは、多くの国民の底知れぬ欲望を垣間見る思いです。尤も、そうなるのは分かり切ったことですから、会社も人員を集中する段取りをすればよいものを、そうせずにいつもの戦力で回そうとしているのですから阿保です。毎度、無能な上の連中と国民の深い欲望に振り回される物流業界の末端人員は哀れです、私を含めて。


ところで、二千畳で一般講師も話をするようになったことは以前紹介しましたが、始まったのは今年の7月13日かららしいです。日程表を見せて頂きましたが、午前と午後で話があり、違う講師部員がそれぞれの演題で話をしているようです。講師の中には大学時代にお世話になった先輩の名前もありました。なつかしいと思ったと同時に、未だに高森教を真実の宗教と妄想誤解して不浄説法しているのかとため息が漏れました。

ご存知の方がほとんどでしょうが、話をする講師部員達は高森会長曰く

十九願の入り口にも入っていない

者達です。高森会長から聞いていてもダメなのに、そんな未信の講師達の話を聞いて信心獲得なんてできるんですかね? 「絶対の幸福」だとかいう欲望に狂って真実の報土を願わず、逆に高森一族の深い欲望に振り回され、エセ真宗の未信の講師による不浄説法を聞き続ける会員はもっともっと哀れです。

二千畳で一般講師も話をするようになった親鸞会

6月23日以降ずっと登壇していない高森顕徹会長率いる親鸞会ですが、内部では少し方針転換がありました。

頂いた情報によりますと、親鸞会では8月から二千畳で一般講師も話をするようになったそうです。平日も開館し、一般講師が話をしているとか。昨日は、高森光晴氏やその他名の通った講師部員が話をしたそうです。私が会員だった頃は考えられないことです。


二千畳の大講堂や同朋の里、その他周辺施設が建てられたのも、全ては会員一人一人が高森会長の講演を聞いて人生の目的を果たそうとするためでした。しかし、当の高森顕徹会長が加齢や疲労等のために講演中止が続き、その結果会員が富山へ来ないようでは、せっかく建てたハコモノは負の遺産として重くのしかかり、やがて風化していくのみです。

そういった点では、今回のこうした試みは意義があるでしょう。しかし、それは宮田先生が指摘しているように

真実を説き切れない人の話を聞いても救われます

と公言したも同じことです。高森会長は以前、講師部員を前に

君たちは19願の入り口にも入っていない

と言い放ったと聞きます。その後10年以上が経過したと思いますが、何せ

・20年や30年で獲られる信心なら「億劫にも獲難し」と言われるはずがない(これが獲信か、7P)

・雑行、雑修、自力の心を知るには30年40年かかるだろう。(教学講義)

・信心獲得は100年や200年求めて獲られるような、ちっぽけなものでなく、多生永劫、求めてようやく獲られるもの、ということが明らかです。ーーー
 我々も魂のリハビリをしているようなもので、信心獲得までには肉体のリハビリどころでない、多生永劫という長いリハビリの時間を要するのだ、と教えて頂きました。(昨年来た友人の手紙・会員暦30年以上)

(以上、『私の白道』5より)

というような教えですから、未だに「光に向かって進ませて頂きます」と頑張っている方々ばかりでしょう。一番高森会長に近く、一番光に向かって進んでいるはずの講師部員でさえこうですから、特専部員や幹部会員は勿論、一般会員などは19願の入り口どころか、横の線の軌道にも乗っていないでしょう。こんな体たらくで今宵の後生どうなるんだと自身に真剣に問うている人はもはや親鸞会にはいないのでしょうか。

また会員の方は、今までは「真実を説き切られる唯一無二の善知識・高森顕徹先生の講演」という思いで自身も参詣し、人も誘っていたのが、これからは「真実を説き切れない人の話を聞いても救われます」ということで活動していくようになるでしょう。皆さんもうすうす勘付いているはずです。信心を獲ている者は皆無だと。


親鸞会の今後も気になりますが、私はやはり会員の皆さんの後生、とりわけかつて一緒に活動していた仲間達の後生が気になります。親鸞会の活動に生涯精を出したとしても、それは獲信・往生とは無関係です。

往生には、選択本願の念仏を専ら称え、称え聞こえる南無阿弥陀仏は「助けるぞ」「我にまかせよ」「必ず浄土に迎えるぞ」と招喚したもう弥陀の勅命であると聞き受けて、仰せのままに後生おまかせするのみです。こうした弥陀の勅命、本願の仰せを疑いをまじえずに受け容れたのが信心です。

こうした往生の信心は、20年、30年求めなければ獲られないようなものではありません。南無阿弥陀仏を聞き受けた一念に定まります。今日聞いて今日救われる教え、ですから平生業成というのです。平生と言っても、今日死んでしまえば平生とは今日までです。ですから、平生とは今のことです。

今、本願の救いにあずかり、決定往生の身となる。これが親鸞聖人の教えです。対して親鸞会の教えはどうですか? 最初はそんなことを言っていても、いざ求めていったら全然話が違うじゃないですか。後生の一大事を強調して、簡単に解決できる問題ではないと言われてしまうでしょう。表向きと、入会して奥座敷に入っていった時で、全然違う教えを説いているのが親鸞会じゃないですか。

19願の善、諸善万行、定散二善、これらは「雑行」であり、「雑行」を修めて浄土往生しようという者を阿弥陀仏の光明は摂取して下さいません。浄土を願って如実の行を励む者さえそうなんですから、まして善という名の献金、勧誘、無条件服従等の活動をやって、しかも「絶対の幸福」なんていうこの世の欲望を満たそうとしている者が阿弥陀仏の本願に摂取されるはずがありません。


今まで費やしてきたことを思えば、親鸞会にしがみつく、高森会長を頑なに信じる気持ちはよく分かりますが、ダメなものはダメなんです。最終的には

悔いが残らない方を自分で選べ

と言うよりありませんが、本当に、会員の皆さん一人一人が悔いなき選択をし、今度の一大事の往生をし損なうことがないようにと願っています。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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