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またまたBlu-ray&DVD販売の親鸞会

今度、映画『歎異抄をひらく』がBlu-rayとDVDで出るそうです。

『Amazon.co.jp』「歎異抄をひらく」完全版(Blu-ray/DVD各1枚組)

親鸞会では新たに製作物が出る度に募財をしていますから、今回も

高森先生が命がけでご製作下されたものです。精一杯御報謝させて頂きましょう

なんてな感じでやっているのでしょう。

会員の皆さん、そうやっていくら御布施、御報謝と称して献金しようとも、それと皆さんの往生・獲信とは無関係です。それどころか、往生・獲信に何らかのプラスになるだろうと思ってやる献金や勧誘などの親鸞会の活動は良く言って雑行です。悪くというか、事実を言えば、エセ浄土真宗を繫昌させるだけの高森の行悪業悪行です。そんなことばっかりに余念がなく、それでいて本願の念仏一行を専修しない/させないんですから、これで信心決定とか、後生の一大事の解決なんて言っていることの方がおかしいです。


そういえば頂いた情報によりますと、先日日曜日の行事では、会員はウェブサイト上から課金で法礼を納めていたようです。それ以前からそういうシステムで御布施を集金できていたのか、詳しいことは分かりませんが、今や法礼までが電子マネーとは時代は変わったものです。

一方、地元講師も公共施設で講座が出来なくてグループラインで法話をあげています。その法礼はラインペイで払うことが出来るらしいです。

そうやって取るものは取るものの、肝心要の教えが間違っていては、聞く側がどんなに真剣に聴聞し、献金や勧誘に努めようとも、親鸞聖人と同じ信心は獲られません。今生もまた空しく過ぎようとしているのに、それに気づかずに騙され続ける会員は、本当に哀れ哀れです。
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【推察】親鸞聖人が聞かれた法然聖人の御説法

前回の記事にて、アニメ『世界の光 親鸞聖人』第一部が部分的に削除されたことを紹介しました。削除されたのは法然聖人の御説法ですが、臨終の人に見せるには相応しくないのはさることながら、内容が法然聖人の教えから外れに外れています。今にして思えば、よくもあんな酷い内容を法然聖人の御説法と受け止めていたと我ながら情けなくなってしまいます。

それで今回は、法然聖人の教えを基に、親鸞聖人が聞かれた法然聖人の御説法とはどのようなものであったかを推察しました。今回削除された、無常と罪悪でせめたてて、地獄脅しをするニセの法然聖人よりは、よほど本物に近いであろうと思われます。ただ以下のセリフであったなら、間違いなく親鸞会教義と異なりますから、絶対に高森会長は採用しないことでしょう。

なお、状況としては法然聖人が親鸞聖人一人に対して話しかけられていると思って下さい。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
親鸞よ、この生死火宅の世界を離れて仏のさとりに至るのに、二種類の勝れた教法がある。一つには聖道門、二つには往生浄土門である。

その内、聖道門は今の時は仏果をさとりがたい。 なぜなら、一つには大聖世尊を去ること遥かであるからであり、 二つには教理が深く、 衆生の理解する力がとぼしいからである。

それに対して往生浄土門は、善悪賢愚の隔てなく、全ての人が阿弥陀仏の本願力に乗託して浄土に往生し、さとりに至ることができる教えである。だから親鸞よ、すみやかに迷いの世界を出ようと思うなら、まず聖道門をさしおいて浄土門に入りなさい。


親鸞よ、浄土門には二種類の行がある。一つには正行、二つには雑行である。

正行とは、 専ら往生経 (浄土三部経) に説かれてある弥陀行によって行ずることをいうのである。 一心に専ら浄土三部経を読誦する読誦正行。一心に専らかの浄土や仏および聖衆たちを心にかけ、 よく観察し、 つねに念う観察正行。一心に専ら阿弥陀仏を礼拝する礼拝正行。一心に専ら弥陀の名号を称える称名正行。一心に専ら弥陀を讃嘆し供養する讃嘆供養正行。これらを正行というのである。

正行にまた二種類ある。一つには、一心に専ら阿弥陀仏の名号を称えて行住坐臥、時節の長短をいわず相続して捨てないのを正定の業という。 かの阿弥陀仏の本願に順うからである。もし礼拝や読誦などによれば、これを助業という。

この正助の二行を除いて、布施や持戒などの他の色々な善根は、ことごとく雑行と名づける。

その内、雑行を修める者は往生を得がたい。なぜなら、阿弥陀仏の三業と雑行を修める衆生の三業とはいつも互いに離れているからであり、阿弥陀仏と雑行を修める衆生ははなはだ遠いからであり、雑行を修める者は阿弥陀仏を憶念することが常に間断するからであり、雑行は浄土を願生して往生のためにふり向けなければ往生の因とならないからであり、雑行は純粋の極楽往生の行ではなく、人・天および三乗の因に通じ、また十方の浄土にも通ずる行だからである。

それに対して正助二行を修める者は心がいつも阿弥陀仏に親近し、憶念して断えない。阿弥陀仏にはなはだ近い。阿弥陀仏を憶念することが間断しない。たとい特別に往生の因にふり向けようとしなくても、おのずから往生の業と成る。正助二行を修めるのは純粋の極楽往生の行である。

親鸞よ、そういうわけであるから、西方浄土を願うならば、よろしく雑行を捨てて正行を修むべきである。

生涯念仏を相続する者は、十人は十人ながら往生し、百人は百人ながら往生する。なぜならば、外部からのさまざまの妨げがなくて正しい信心に安住するからであり、弥陀の本願にかなうからであり、釈迦仏の教えに違たがわないからであり。諸仏の言葉にしたがうからである。

もし念仏を専修することを捨てて自力の雑行を修める者は、百人の中で希に一・二の人が往生を得、千人の中で希に五・三の人が往生を得るにとどまる。なぜかといえば、つまり、いろいろな他の縁に乱されて信心を失うからであり、阿弥陀仏の本願に相応しないからであり、釈迦仏の教えに違うからであり、諸仏の教えに順じないからであり、浄土に念をかけることが相続しないからであり、如来を想う心がとだえるからであり、回向願生の心が真実でないからであり、貪欲・瞋恚や邪見などの煩悩がまじわって隔てるからであり、慚愧・懺悔の心がないからである。また相続してかの仏恩を念報しないからであり、心に軽慢を生じて、行を修めても常に名聞・利養を伴うからであり、我執に覆われて同行善知識に親しみ近づかないからであり、このんで雑縁に近づいて自分および他人の往生の正行をさまたげるからである。

だから親鸞よ、浄土門に入ろうと思うならば、正雑二行の中で、まず雑行を捨てて選んで正行に帰せよ。


親鸞よ、阿弥陀如来は、布施や持戒などの余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となされている。第十八の願には、一切の諸行を選び捨てて、ただひとえに念仏一行を選び取って往生の本願とされているのである。なぜそのようになされたか、仏の思召しは測り難くて、 たやすく解釈することはできない。しかし今、試みに二義をもってこれを解釈すれば、一つには勝劣の義、二つには難易の義である。

初めに勝劣とは、念仏は勝れ、他の行は劣っている。そのわけはどうかというに、名号はよろずの徳の帰するところである。ゆえに弥陀一仏の持っておられる四智・三身・十力・四無所畏などの内に一切の証得せられた徳と、相好・光明・説法利生 (法を説いて衆生を利益する) などの外に働く一切の功徳とが、みなことごとく阿弥陀仏の名号の中に摂まっている。ゆえに名号の功徳が最も勝れているのである。ほかの行はそうではなくておのおの一部分の功徳だけである。そこで劣っているとするのである。仏の名号は、ほかのすべての功徳に勝れている。ゆえに劣を捨て勝を取って本願とせられたのであろう。

次に難易の義とは、念仏は修め易く、諸行は修め難い。諸善や観仏の行は殊勝であるけれども、修行を成就できるのは資質の極めて優れた善人に限られる。障り重く、罪深くしか生きられない私達のような者にはこれを修めることが難しく、成就することができない。それに対して念仏は、ただ男でも女でも、身分の高い者でも低い者でも、行住座臥の区別なく、時・処や色々の場合を論ぜず、これを修めるのに難しくなく、そして臨終までも往生を願い求めるのに、その便宜を得ることは、念仏に及ぶものはない。

故に知られる。念仏は易いからすべての根機に通じ、諸行は難しいからいろいろの根機に通じないのである。そういうわけであるから、阿弥陀仏はすべての衆生を平等に往生させるために、難しいのを捨て、易いのを取って本願とせられたのであろう。

もし、仏像を造り塔を建てることをもって本願とせられたならば、貧しく乏しい人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが富貴の者は少なく、貧賎の者ははなはだ多い。もし、智慧才能のあることをもって本願とせられたならば、愚かで智慧のない者はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが智慧ある者は少なく、愚かな者ははなはだ多い。もし、 多聞をもって本願とせられたならば、少聞少見の人たちはきっと往生の望みを絶つであろう。ところが多聞多見の者は少なく、少聞の者ははなはだ多い。もし、戒律を持つことをもって本願とせられたならば、戒を破り戒を受けない人はきっと往生の望みを絶つであろう。ところが戒を持つ者は少なく、戒を破る者ははなはだ多い。そのほかの諸行はこれに準じて知るべきである。ゆえに、上に述べた諸行などをもって本願とせられたならば、往生できる者は少なく、往生できない者は多いであろうということが知られる。

そういうわけであるから、阿弥陀仏は法蔵比丘の昔、平等の大悲に催されて、あまねくすべての衆生を摂めるために、仏像を造り塔を建てるなどの諸行をもって往生の本願とせられず、ただ称名念仏の一行をもってその本願とせられたのである。法蔵は他の一切の行を選び捨て、称名念仏の一行を衆生往生の行として選び択られたのである。称名念仏の一行こそが、阿弥陀仏の本願に順ずる往生の正定業なのである。

だから親鸞よ、正行を修めようと思うならば、正助二業の中で、なお助業をかたわらにして選んで正定の業をもっぱらに修めよ。称名する者はかならず往生を得る。阿弥陀仏の本願にもとづくからである。


親鸞よ、煩悩が少ないとか多いとか、罪障が軽いとか重いとかを問題とせず、口にただ南無阿弥陀仏と申し、称えられる南無阿弥陀仏の一声一声を聞いて「必ず往生できる」と思いとりなさい。ただ念仏して阿弥陀仏に救われ、往生させていただきなさい。

そうして「必ず往生できる」と定まった心を深心と名づける。その信心を具足したならば、必ず往生することができる。親鸞よ、信心は行者にとって最も要とするところである。生死の家にとどまるのは本願を疑うからであり、 涅槃の城に入るのは本願を信ずるが故であると知るべきである。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・


親鸞会では、未だに諸善(雑行、実態は組織拡大のための悪業悪行)を勧めて法然聖人・親鸞聖人の教えに反しています。そして称名念仏の一行の勧めもせず、念仏(南無阿弥陀仏)のこころも説きません。これで信心決定して報土往生する人が出てくることの方がおかしいです。会員の皆さんには、早く親鸞会教義の誤りに気付いて親鸞会を捨て離れ、正しい真宗教義に基づいて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参考文献】
選択本願念仏集
選択集(現代語訳)
『用管窺天記』こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし
『歎異抄』第二条

【補足】
林遊さんのコメントにあるように、法然門下になる前の親鸞聖人は「範宴」というお名前でした。しかし、「範宴」とは誰の事かと思われる方があるかも知れませんので、記事の中では法然聖人の呼びかけは「親鸞よ」としています。なお親鸞聖人のお名前の遍歴については

『Wikipedia』親鸞

等を参照して下さい。

アニメ『世界の光 親鸞聖人』の最重要場面と言えるシーンを会員に告知することもなく、最初から無かったものとして丸々削除する高森顕徹会長

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』学徒タブレットのアニメ世界の光親鸞聖人第一部の改変、DVDはなぜか品切れで購入できず。「お聖教」に対する親鸞会の態度を考える。

を読まれた方も多いと思いますが、高森会長がまたやってくれました。今度は、アニメ『世界の光 親鸞聖人』の最重要場面と言えるシーンを会員に告知することもなく、最初から無かったものとして丸々削除したのです。

削除したのは、親鸞会経験者なら誰しも観たであろう第一部の、法然上人と親鸞聖人が1対1で対面し、命がけで求める親鸞聖人に法然上人がこれまた痛烈な説法をするシーンです。セリフに関しては上のリンク先を参照して下さい。当ブログでは以降、その描写を「そのシーン」と呼びます。


私はかつて会員だった頃、特に思い入れを持って削除された「そのシーン」よく観ていました。というのは、臨終で余命幾ばくもない人にどうしたらよいかという質問に、高森会長が「そのシーン」を見せなさいと答えたというようなことを学生部会で聞いていたからです。つまり、

親鸞会会員:どうしたら救われますか?
高森会長:アニメ第一部の「そのシーン」を見せなさい。


これが高森会長の答えだったからです。それで私は、アニメ第一部をどうかしてド真剣に聴聞したら信心決定できるのだと思って、真剣に、そしてセリフを暗記する位によく観ていました。

そのような、アニメ全体としても最重要場面であり、教えの肝要であるようなシーンを批判を受けたからということでまるで無かったもののように削除する高森会長からは、聞く者の後生を思う気持ちが全く感じられません。一体、過去にどんなことを思って「そのシーン」を見せよと話していたのでしょうか。後に批判を受けて削除する程度のものを臨終の人に見せよと説くその無神経さには本当に腹が立ちます。


ところで「そのシーン」は、無常と罪悪でせめたて、「地獄へ真っ逆さまだ」などと恐怖を煽り立てる機責めのような話であり、非常に批判を浴びています。加えて、法然上人の説法には阿弥陀仏の救いを告げる言葉らしきものが見当たりません。自力は自分では捨てられないし、「捨てようとする心も捨てよ」と言われてもどうしようもありません。これを臨終の人に見せるのは合わないのではないかと思います。

また、「そのシーン」は法然上人と親鸞聖人が1対1で対面しています。これと、話が機責めのような内容であることを合わせると、ここから土蔵秘事的なものが連想されます。

更に、親鸞聖人の獲信シーンの後に法然上人が「よく聞き抜かれた、親鸞どの」と仰っていることから合わせると、善知識が信心を認める土蔵秘事的色合いが更に濃くなります(ここも削除されています)。

他にも、『歎異抄』にある親鸞聖人のお言葉をもじって二種深信を表現し、親鸞聖人が「ハッ!」と顔を上げるシーンがあります。これも、「獲信の瞬間は、必ず、ハッキリ自覚できる」という一念覚知系の邪義であり、涙が止めどもなく溢れ出て歓喜したのが救われたことであり、また信心であるかのような誤解を与えます。

このように、「そのシーン」を含めてその後も、アニメ第一部は問題だらけであることが分かります。


それにしても、「そして・・・・・・やがて」からいきなり親鸞聖人の獲信シーンに飛ぶとはどういうことでしょうか。どんな話を聞いたら獲信できるかは詳しく表せないということでしょうか。あるいは、どんな話かは言えないが、とにかく親鸞会で聴聞し続ければ、「そして・・・・・・やがて」獲信の時が来るということでしょうか。

前者であれば、高森会長は阿弥陀仏の救いを説けないということを示しています。会員の皆さんが親鸞会に入会したのも活動し続けているのも阿弥陀仏の救いに遇うためだとするなら、阿弥陀仏の救いを説けない者のところへ留まったり、そこであくせく活動することは意味がありません。

後者であれば、高森会長の説く教えは「そして・・・・・・やがて」救われる時が来るというものであることを示しています。これは、今は救われないということの裏返しであり、彼らが親鸞聖人の教えの一枚看板だと言っている「平生業成の完全否定です。


問題部分を削除しようとしまいと、親鸞会のアニメが間違いもの、まがいものであることは変わりません。会員の皆さんにはこれを機会に教義や組織、また高森会長に疑問を持ち、親鸞会にとどまって活動することが自分の人生にとって本当に意味があるものなのかをよく考えて頂きたいばかりです。



【後書】
山も山さんのコメントを受けて記事内容を修正しました。

「選択本願の行」、この一語だけでも「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」は自明の理

善導大師は願行具足の南無阿弥陀仏であることを示すために六字釈を施されましたが、親鸞聖人は往生の行も信も名号六字に具足して回向して下さるものであることを示すため、称名は凡夫が自分の恣意的計らいによって称え、その功徳を積んで浄土に往生しようという自力の行ではなく、まったく本願力によって回向された他力の行であることを示すために六字釈をお書き下されたと言えます。それは「行文類」決釈

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

や「信文類」総決

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。

などの御文によって知られましょう。往生の行である称名、念仏は「阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところ」です。阿弥陀仏ご自身が「どうか我が名を称えて浄土に生まれてきておくれ」と仰って私達に恵み与えて下さっている行、それが称名、念仏なのです。


ですから浄土真宗の先達は如来より賜るお念仏を大切に称えてきたのですが、いつの間にやら念仏は信後のお礼に成り下がり、まるで信心に隷属するもの、信心のオマケのように捉えられている節があります。

称名は選択本願の行です。阿弥陀仏が本願においてこれ一つと選び択られ、どうか我が名を称えて浄土に生まれてきておくれと与えて下さっている行です。「選択本願の行」、この一語だけでも

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

は自明の理です。


阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」、これは誰も否定していません。私も否定していません。問題なのは

念仏を称えよではない

この部分です。このように発言した主の意図を巡って喧々諤々議論がなされていますが、この部分が間違いであることは確定しています。それでも先生の心をあれこれ忖度したいなら好きにすればいいですが、それでは高森先生のミココロをあれこれ忖度して、聖教に反することでも「高森先生に間違いない」と頑なに信じ続ける親鸞会会員と頭の中はそれほど変わらんでしょう。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

『教行証文類』撰述の動機を考えても、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」は当たり前

親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類』を執筆された理由の一つに、法然聖人の教えが真実の仏法であることを証明するためだという理由が挙げられます。

法然聖人が回心されたのが承安三年(1175年)と言われ、この年が浄土宗の立教開宗の年となっています。それからわずか30数年後の承元元年(1207年)、浄土宗は、聖道諸宗と結託した朝廷によって念仏停止の判定を受け、死罪4人、流罪8人(実際には7人)という、かつてない法難に見舞われました。

それからわずか20年後の嘉禄三年(1227年)には、今度は嘉禄の法難と呼ばれる専修念仏弾圧事件が起きています。その時、比叡山は法然聖人の墓を暴いて遺骨を賀茂川に捨てようとし(未遂)、『選択本願念仏集』の版木を根本中堂で焼き払ったのです。既に出版されていた『選択集』はことごとく没収されて、初版本は残っていないそうです。そうまでして、徹底的に浄土宗を壊滅させようとしたのです。

このようにして、生まれたばかりの浄土宗は、地上から抹殺されようとしていました。せっかく私達末代不善の凡夫、十悪五逆の罪人をも救う本願念仏の道が、よりにもよって仏教徒の手によって閉ざされようとしている。きっと親鸞聖人はこの事実を深く悲しまれたことでしょう。そして、遺弟としての使命感と、報恩の思いをもって、法然聖人の教えこそすべての人の救われる真実の仏法であると証明すべく筆を執られたことと思います。


浄土宗への非難は、解脱坊貞慶上人が書いたとされる『興福寺奏状』や比叡山延暦寺からの『延暦寺奏状』、また明恵上人高弁の『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』などに記されている如く、専修念仏への批判が主だっています。その中『興福寺奏状』の第七「念仏を誤る失」では、なぜ口称念仏を最上の行というのかという非難が寄せられています。『聖典セミナー 教行信証 教行の巻』ではそのことを

「念仏を誤る失」というのは、法然聖人は口称念仏を最上の行のようにいうが、それは誤りであるというのです。同じ念仏といっても、念ぜられる仏に、仏名もあれば仏体もある。その仏体にも報身や応身といった姿形のある事仏もあれば、色もなく形もない法身という理仏もある。この法身真如こそ仏のさとりの本体であるから最高とし、仏名を最下とする。また仏を念ずる相にも、口に仏名を称える口称もあれば、心に仏を念ずる心念もある。その心念にも仏徳に想いをかける繋念と、禅定(深い精神統一)を修して報身仏や法身仏を観念していく定心念仏とがあり、その定心のなかにも、まだ煩悩がまじわっているような有漏定もあれば、煩悩妄念の消滅した無漏定もある。こうしたなかで、口称念仏は最も浅劣な行であり、無漏の定心念仏が最も深く勝れた行であるということは、仏教の常識ではないか。それなのに法然は、阿弥陀仏は第十八願において、「乃至十念せよ」と称名念仏を往生行と定められているから、称名以外の行をする必要はないという。しかし阿弥陀仏の本願が、どうして勝行をさしおいて、劣行のみを往生行と定められることがあろうか。下下の悪人がわずかに称えた十声の念仏を、まるで阿弥陀仏の本意であるかのように主張し、上上の善人が修行している勝れた諸善を捨てさせることは、近くは善導の釈義に背き、遠くは『観無量寿経』などの諸経の説に反する邪説であると、痛烈に非難しています。


と解説されています。また『摧邪輪荘厳記』には、法然聖人の念声是一釈を批判して

この義、はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色なり、心と色、すでに異なる、何ぞ一体となすや。

と書かれています。明恵上人は、なぜ乃至「十念」の「念」が称名であり得るのかと問うているのです。一口に念仏といっても様々に種類があり、称名念仏に限るわけではないことは聖道諸宗からしたら常識でした。しかも魏訳の『大経』には名号を称えるということは出ていないため、ますます疑難が湧き起こったことでしょう。

これについて鎮西派の派祖弁長上人は、本願成就文に聞其名号といわれているから、名号に対応する本願の十念は称名であると言われているそうです。それに対して親鸞聖人は、「聞其名号」の出てくる元である第十七願に着眼して、諸仏が勧められている事柄の中に称名があるとみて、その「咨嗟称我名」から称名という語を導き出したのでした。称名を阿弥陀仏の願位において確認されたわけです。

随分と複雑な操作が行われているようですが、

なぜ諸善を廃して専修念仏一行なのか
なぜ念仏を称名のみに限るのか


このような聖道諸宗の批難に「称名念仏こそ真実の行」だと証明することが、法然聖人の教えの真実性を証明する為に必要不可欠だったのでした。様々な文を集め、称名こそ浄土真実の行、選択本願の行であると判じ、その真実なることを経論釈の上で証明して下さったのが「行文類」であります。まさに法然聖人の

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

の仰せに対して、

ただ念仏のみぞまことにておはします

と応答されたのが親鸞聖人であったと言えましょう。


そうやって親鸞聖人が明らかにして下さった浄土真実の行、選択本願の行である称名、念仏を、よりにもよって阿弥陀仏が「称えよと仰っていない」とは何事か。きはめたる荒涼のこととはこのことです。

念仏を往生の行として選択されたのは阿弥陀仏です。その念仏を私達に回向されているのも阿弥陀仏です。だから念仏を「選択本願の行」といい、行者の方からは「不回向の行」というのです。知らないのでしょうか。

しかもその主張の根拠が「行文類」の親鸞聖人の六字釈とは・・・呆れて物が言えません。しかし実際には、

帰命は本願招喚の勅命なり

を無理やり解釈したものであり、この部分の断章取義に加えて念仏と信心を二項対立的なものと捉えたところから来る誤謬でした。「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」なんて言う者は、上のような歴史も、今では考えられない批難中傷迫害の中で親鸞聖人がご苦労して下さったことも知らないのでしょう。

このように、『教行証文類』撰述の動機を考えても、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている」は当たり前です。この逆の主張をする者、それを擁護する者は、聖典だけでなく、歴史にも昏いと言わざるを得ません。



【参照】
『WikiArc』トーク:一念多念証文 第十六講第十七願文の文意

信心と念仏は二項対立的なものではない

去年の年末から某ブログで過去の講義録を挙げてA先生の主張の正当性を訴えられており、コメント欄が大変賑わっておりました(今もかな?)。私が争点としていたのは

「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という主張を裏付ける聖教の根拠が有るか無いか

でした。その根拠が有ればA先生の主張は尤もであり、淳心房は間違いでしたということになります。反対に、根拠が無ければA先生の主張は浄土真宗の教えに無いということになります。


これについては最初から結論は出ていたのですが、弁護団の介入や、論点のすり替えなどによって遅々として議論は進みませんでした。詭弁を用いてA先生の主張を正当化しようと抵抗してきましたが、それはその方の理屈であって聖教の根拠ではありません。また出してきた根拠もA先生の主張を裏付けるものとは言えませんでした。最後通告しても根拠を挙げるどころか別の点にツッコミを入れてくるのみでしたので、これはもはや

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「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という主張は聖教上に根拠の無い珍説邪説
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ということで決着です。

もしA先生の主張を正しいと信じている方の中でこの決着に納得がいかず、聖教の根拠が存在するという方はコメントして下さい。当ブログで改めて議論を再開します。ただし、争点は

「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」という主張を裏付ける聖教の根拠が有るか無いか

ですので、これと無関係な発言についてはお断りです。


ここでA先生とその外護者の最大の誤りは、信心と念仏を二項対立的なものとして捉えている点でしょう。

念仏と諸善に関して、法然聖人はこれを廃立の関係で見ておられます。速やかに迷いの世界を離れ、浄土に往生しようというのなら、本来非往生行であって、難行であり劣行である諸善は雑行であるとしてこれを廃し、本願において選び択られた称名念仏一行を往生行として修せよと教えられています。

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。『選択集』難易義

はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。三選の文

親鸞聖人はこうした法然聖人の教えを承けて、一乗海釈には念仏諸善比挍対論として、念仏と諸善を47通りに亘って比較し、念仏が諸善に対していかに勝れた行法であるかを教えられています。原文や現代語訳などは『飛雲』世間的な発想しかできない無知な高森顕徹会長等を参照して下さい。

ですから、親鸞聖人の教えについて、念仏に対して諸善ということは言えます。つまり、

阿弥陀仏の仰せは「念仏を称えよ」であって「諸善を修めよ」ではない

ということは言えます。しかし、信心に対して念仏ということは言えません。つまり、阿弥陀仏が信心を命じた言葉が南無帰命の言であり、それを「我にまかせよ」と表現するとするなら、

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

とは言えないです。なぜなら念仏は行法、信心は行法を修める際の心であって、念仏と諸善のように行法と行法の関係ではないからです。もし「念仏を称えよ」ではないなら、本願文は

至心信楽 欲生我国 若不生者 不取正覚

でいいはずで、「乃至十念」の称名は要らんことになってしまいます。これでは「阿弥陀仏は要らんことを本願に誓われたのか」ということになってしまいます。

もし「●●であって✖✖ではない」と表現したいなら、

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「『お助け下さい』と祈願請求せよ」ではない

などの表現が適切でしょう。南無阿弥陀仏と称名することは「我にまかせよ」という仏勅に随順した他力の称名であり、それは凡夫の側から「お助け下さい」という自力心をまじえた自力の称名ではない。このような、「他力信心の称名に対して自力信心の称名ではない」ということであれば通じます。それを、信心の比較対象として念仏という行法を出してくるから訳が分からなくなり、結果として

・阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

などという珍説邪説が飛び出すのです。こんなことは高森教でもまず言いません。(ただし、ニュアンス的にはこれに近いことは説いたことがあります。※1※2参照)


つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

と、行文類の始めにはこれから述べる大行ばかりか、後に詳説される大信をも同時に出されています。行と信は別々の二つの事柄ではなく、本願の名号をふたごころなく一心に(信)修する(行)という不離の関係にあるのです。これを『御消息』には

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。
信行一念章

と仰せられてあります。行は本願の名号を称すること、信は本願を疑うこころの少しもないことであり、信と行と聞くと二つの別々の事柄のように思うけれども、念仏を一声称えて往生するという本願に疑いないことをいうのだから、行を離れた信も、信を離れた行も無い、行と信もみな「如来の御ちかひ」だというのです。

親鸞聖人の教えにあっても、やはり

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

です。もしこれに異を唱える人は、然るべき根拠を提示してから言いましょう。でなくば、たとえ信心は過去と違っていたとしても、基本的な考え方は高森教時代と同じままです。

謹賀新年(2020年)

今年もよろしくお願いいたします<(_ _)>

今回は今年の抱負というか、やろうと思っていることを書こうと思います(順不同)。

・高森顕徹会長、親鸞会の教義の誤りを紹介する
今年も頂いた情報をもとに、高森会長がどんな話をしたか、どこが問題か、間違っているか、親鸞聖人はどう教えられているかといったことを書きたいと思います。

・子供達を連れてご法義を聴聞する
少しでも子供達に仏縁をと思って、とりあえずついてきてもらうだけでももらおうと思います。一人最低でも一回はお参りしたいものです。

・「【考察】念仏の勧めについて」の続きを書く
まだ親鸞聖人、覚如上人、存覚上人、蓮如上人についての考察を終えていませんので、しかるべき勉強をした後に書きたいと思います。

・安全運転
事故や違反がなく仕事をして生活を送れるということがベースですから、心がけていきたいと思います。

・落ちた体力を戻す
トレーニングをさぼっていたら体力が落ちてしまいました。休みの日はランニング、筋トレを適度に行って、このまま坂を転げ落ちるように体力が無くなってしまうことは防ぎたいと思います。

・子供と一緒にいる時間を増やす
苦行にならない範囲でですが、まだ子供達が小さい内に一緒に遊んだり、話をしたり、食事をしたり、そういう時間をもっと増やしていきたいと思います。

・感謝の言葉を伝える
実家の家族、妻、近所の方々、学校や保育園の先生など、お世話になっている方々に感謝の言葉をきちんと言い表して伝えたいと思います。

・なんまんだぶする
普段、中々聴聞に出歩けない私にとっては、称名が唯一と言っていいご法義との接点です。林遊さんとまではいきませんが、心がけてなんまんだぶしていきたいと思います。


思いつくまま書いてみました。やれるかどうか分からないものもありますが、やれる事はやっていきたいです。

この命の限り本願を仰ぎお念仏を申して、時にはつらいこと、くじけてしまうこともあるでしょうが、多くの御同行、御同朋に導かれながら浄土への旅を続けたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

法然聖人と親鸞聖人との間で、ものすごい断絶を感じる

前回、紅楳先生のご縁で出された『唯信鈔文意』のお言葉を紹介しました。御文そのものについては、前回の記事やお手持ちの聖典を参照して下さい。今回は聴聞録を元にその内容について少し触れたいと思います。


~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
法然聖人は43歳の時、善導大師の「散善義」の文

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

によって救われ、その後念仏一行の浄土宗を開かれました。

法然聖人は善導大師の教えを一歩進められ、念仏は誰もが行ずることのできる易行であると共に、他のどのような行よりも勝れた最勝の行であると、勝易の二徳を具えた本願の行であると教えられました。

ところが法然聖人の没後、『選択集』を読んだ明恵上人高弁が『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』を著して法然教学を徹底的に批判します。その項目は多岐にわたりますが、その中の一つが「念声是一」釈への批判でした。

善導大師が本願文の「乃至十念」の「十念」を「十声」と読み替えられたのは『観経』下下品の文と合わせられたからです。ところが明恵上人はこれに噛みついたわけです。高弁は『摧邪輪荘厳記』で、

此義甚不可也。念者是心所、聲者是色、心色既異何爲一體乎
(この義、はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色なり、心と色、すでに異なる、何ぞ一体となすや)


と、念と声が一緒だなどという主張は心法と色法と混乱すること甚だしいと論難しています。

それに対する親鸞聖人のお答えは、

念も声も信心が大事だとした

とのことです。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

ここからは私の正直なところの感想、及び考察です。

途中までは理論的に分かり易かったお話が、親鸞聖人のお答え以降一転してよく分からない話になりました。これでは『唯信鈔文意』の意味とも離れるし、また明恵上人の論難への的確な応答にもなっていません。後程これについて質問したのですが、時間切れで消化不良の内容となりました。この講釈なら、明恵上人の論難の話は出さずに、法然聖人の「念声是一」釈を親鸞聖人はそのまま承けて

念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

と仰ったのだと示した方がすんなりいき、また聞く方もすんなりと理解できたのではないかと感じます。

後に調べ、下のリンク先の文章を読んで「なるほど、先生のお考えはこうなのだな」と理解しましたが・・・。


どうやら先生が親鸞聖人の教えを解釈する上で、その大前提となっているのが信心正因称名報恩説のようです。その時のお話にも信前行後という言葉が出て来たり、名号→信心→念仏という説明がなされたりしました。

確かに信心正因称名報恩説はけっこうな学説です。ただ、これが教えを理解する中心としてドグマ化している先生の話を聞くと、その内容によっては私は法然聖人と親鸞聖人との間で、ものすごい断絶を感じるのです。

A先生のお話の時もそうでした。法然聖人のところでは、勝易の二徳とか、念仏往生とか、諸善に対して念仏等としっかり言われるんです。ところが、親鸞聖人の話になったら、それらのことはまるで無かったかのように、話が信心正因称名報恩、念仏は信後の報謝になるのです。法然聖人と言えば念仏、親鸞聖人と言えば信心、念仏は信後の報謝。大胆に表現すると、聞く私としてはそのような印象を受けます。

確かに教団内に生き、教義を伝える者としては、法然聖人の教え、浄土宗との教えの違いを示し、親鸞聖人の独自性を訴えることが大事なのかも知れません。ところが、親鸞聖人は法然聖人の教えこそ浄土真宗であるとして、法然聖人の教えの真実性を生涯訴えられた方でした。

実は信心正因も、平生業成も既に法然聖人の上で言われていることであり、行の根拠を第十七願に見い出されたことも法然聖人や兄弟子の聖覚法印の示唆によるのです。

称名報恩にしても、『選択集』四修章に源信僧都も引用された『西方要決』の文

このゆゑに精勤して倦まずして、まさに仏恩を念ずべし。報じ尽すを期となして、心つねに計り念ふべし。

を引用されています。また、『西方指南抄』中末 三機分別には

一念も疑心なくして、決定心をえてのうへに、一声に不足なしとおもへども、仏恩を報ぜむとおもひて、精進に念仏のせらるるなり。

と教えられています。その他、『浄土宗大辞典』念仏と報恩には

実際に念仏申すという生活の実地体験においては、その念仏の味わいとも言える身意柔軟や善心が生じることや信心歓喜などの境地を得て、求めずしておのずから仏の恩に対する報恩感謝の思いが生起するものである。


と言われていますし、真宗ばかりでなく浄土宗西山派も報恩感謝の称名念仏を力説しているようです。このように見れば、法然聖人の上においても仏恩報謝の念仏というのは言われていたことが伺えます。


話を聞いていて法然聖人と親鸞聖人との間でものすごい断絶を感じてしまうのは、恐らく

①法然聖人 → 親鸞聖人 → 覚如・蓮如上人
②法然聖人 | 親鸞聖人 ← 覚如・蓮如上人

という二つの見方の違いから生じるものと思われます。

私は①、法然聖人から親鸞聖人への伝承という形で親鸞教学を理解し、そして覚如上人、蓮如上人へという流れで真宗を捉えています。また当時の時代背景なども考慮に入れながら、それぞれの立場での教化の仕方があったのだと捉えています。信因称報説はそうした過程の中で覚如上人によって提唱され、蓮如上人によって更に展開された説だと理解しています。

これでいきますと、親鸞聖人というのは実に法然聖人の良き継承者なのだということがつくづく知らされます。また後に、念仏の教えが広まると共に次第にその信心や称名相続の意義等が問題となり、他宗との比較化のため、同じ真宗でも本願寺を中心とする教団形成のため、覚如上人は信因称報説を旗印とされたということ、そして蓮如上人によってそれが果たされていったということも十分首肯できるのです。

ところが、全て②、覚如上人・蓮如上人の信因称報説に立って親鸞教学を理解する方の話を聞くと、その内容によっては①で理解している私のような者は法然聖人と親鸞聖人との間に断絶を感じてしまうのでしょう。

信因称報説。私はこれを否定するものではありませんが、これに則って話をするのなら、法然聖人と親鸞聖人との違いなどには触れずに、『御文章』によって当流安心の一義を示すことに集中した方がよいと思いました。

近年は『歎異抄』の普及により真宗において『御文章』離れが進んでいるという話もありまして、その比較のために法然聖人と親鸞聖人とを対比する話をせざるを得ないのかも知れませんが、前者は念仏往生、念仏成仏の三法門を前面に打ち出した聖典として、後者は「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という念仏の信心、念仏の安心を別に開いて平易に詳しく説き顕された聖典として、共に大切に拝読させて頂いたらいいんじゃないでしょうか。実際に、蓮如上人は大変よく『歎異抄』を読まれていたようですから。


以上、上から目線と言われても仕方ありませんが率直な感想でした。なお、私には紅楳先生や先生の主催する会を批判しよう、扱き下ろそうなどという意思は無いことを念のため申し添えておきます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』念声是一
『一念多念文意講讃』第十六講 第十七願文の文意
親鸞の念仏思想の特性 ー特に法然との相異についてー 紅楳英顕

『唯信鈔文意』と『唯信鈔』のお言葉

12月14日(土)、紅楳英顕先生主催の「親鸞聖人の教えを聞く会」のご縁に娘と遇わせて頂きました。話をしたいと思っていた方も来られていましたが、こちらは娘の相手をしなければならず、あちらはあちらでお連れさんがあり、また、終了後すぐ帰られてしまったのでほとんどお話はできませんでした・・・。

ところで、その時のご縁は『唯信鈔文意』の最後の文

【11】
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

この文どものこころは、おもふほどは申さず、よからんひとにたづぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。

南無阿弥陀仏

ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。

[康元二歳正月二十七日 愚禿親鸞八十五歳これを書写す。]


についての解説でした。

これは、聖覚法印の『唯信鈔』のお言葉

【12】
つぎに本願の文にいはく、「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といへり。いまこの十念といふにつきて、人疑をなしていはく、「『法華』の〈一念随喜〉といふは、ふかく非権非実の理に達するなり。いま十念といへるも、なにのゆゑか十返の名号とこころえん」と。

この疑を釈せば、『観無量寿経』の下品下生の人の相を説くにいはく、「五逆・十悪をつくり、もろもろの不善を具せるもの、臨終のときにいたりて、はじめて善知識のすすめによりて、わづかに十返の名号をとなへて、すなはち浄土に生る」といへり。これさらにしづかに観じ、ふかく念ずるにあらず、ただ口に名号を称するなり。「汝若不能念」といへり、これふかくおもはざるむねをあらはすなり。「応称無量寿仏」と説けり、ただあさく仏号をとなふべしとすすむるなり。「具足十念称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中 除八十億劫生死之罪」といへり。十念といへるは、ただ称名の十返なり。本願の文これになずらへてしりぬべし。 善導和尚はふかくこのむねをさとりて、本願の文をのべたまふに、「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)といへり。十声といへるは口称の義をあらはさんとなり。


を親鸞聖人が釈されたお言葉の一部です。親鸞聖人はこれを

【8】
 「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。

【9】
 「非権非実」(唯信鈔)といふは、法華宗のをしへなり。浄土真宗のこころにあらず、聖道家のこころなり。かの宗のひとにたづぬべし。

【10】
 「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。

【11】
 「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。


の四つの段に分けて解説しておられます。

この中、【9】の「非権非実」は置いておくとして、重要なのは【8】【10】【11】の親鸞聖人のお言葉でしょう。

なお、聖覚法印の【12】のお言葉の一部と、親鸞聖人の【10】【11】のお言葉は

『飛雲』「称名を本願と誓ひたまへる」が「諸善を本願と誓ひたまへる」とすり替わる高森顕徹会長の邪義

等で扱われています。現代語訳は

唯信鈔文意(現代語版)

など参照して下さい。


今回は御文の引用のみで相当長くなってしまったので、お話の中身については割愛させて頂きます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

これは、称名を本願の行と誓われ、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」「とこゑまでの衆生みな往生す」という本願に随順、信順しているところの称名です。そこには、既に我が往生を定めて下さっていることに対する報恩、感謝の意もありますが、これは称える私の心持ちのことです。報恩、感謝のみが称名、念仏の全てではないと思います。

「信」→他力の信心、疑いをまじえずに受け容れること

これまで「ふかく」や「あさく」、「たのむ」「たすけたまへ」などの語を見てきましたが、今日は「」の語について見ていきたいと思います。これも、親鸞聖人が使われる「」、「信ずる」ということと、現代の我々が使う「」、「信ずる」では意味が全く違うからです。

まず現代の我々が使う「」、「信ずる」とは、例えば「明日は晴れると信じる」「君の言うことを信じよう」「○○神(●●仏)を信ずる」などのように、不確定な未来、証明できない事柄、特定の神仏に対して使います。そこには、当然ながら我が計らいをまじえ、もしかしたら違っているかもしれないという疑いが入っています。そして、その疑いを押さえつけて、あるいは払拭する意味で「信じる」と言っているのです。

しかし親鸞聖人が使われる「」、「信ずる」は、その対象が本願や名号、念仏であれば「他力の信心」を表し、善知識方の教説であれば「疑いをまじえずに受け容れること」を意味しています。前者は、例えば

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。「総序」

弥陀の本願信ずべし
 本願信ずるひとはみな
 摂取不捨の利益にて
 無上覚をばさとるなり


五濁悪世の有情の
 選択本願信ずれば
 不可称不可説不可思議の
 功徳は行者の身にみてり
『正像末和讃』

などです。後者については

五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。正信偈

道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。正信偈

などが該当するでしょう。尤も、明確にスパスパ分けられない箇所もあるでしょうが、現代で使われている意味とは全く異なります。

これらの「」、「信ずる」を現代の感覚で捉えると、途端に浄土真宗とは異なる教えとなってしまいます。


親鸞聖人は「信文類」において

信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり

と言われ、「」には真実という意味があることを教えておられます。しかし、同じ真実でも「」の場合は、人偏に「言」という字が書いてあるように、特にその言葉に「うそ・いつわり」が無いことを「」と言われています。噓も偽りも無い、裏表の無い言葉、これが「」という文字にこもっている意味です。

ところが、我々が使う言葉には悲しいことに噓や偽り、裏表、裏切りがつきものです。それゆえ、「信じる」といったらその裏には「違うかも知れない」という「疑い」があります。その「疑い」を押さえつけて「信じる」より他に仕方がないのです。「」の持つ、噓も偽りも無い、裏表の無い言葉という意味が文字通り適用できるのは、これは人間の言葉には無理です。我執・煩悩を完全に浄化した如来の言葉だけです。

如来の言葉には噓や偽りはありません。七高僧方や親鸞聖人が示された教えは、仏陀の教説です。そのような噓も偽りもない仏陀や善知識方の教えの言葉を聞いた時、それを疑うことは、まことに失礼なことです。まことの言葉は、疑いをまじえずに、仰せの通りに聞き受けるべきですから、「」には「疑いをまじえない」という意味が自ずから具わっているのです。

それに対して「何と無批判な」「それでは進歩も何もあったもんじゃない」と仰る方があるかも知れません。確かにこの世のことであれば、なぜそうなるのか疑問を持ち、とことん追求するという姿勢も大事でしょう。ただ、仏教、浄土真宗で扱っているのは我々の生と死の問題です。そして、生死の迷いを超えていこうというのです。

自分で道を開けるという人、教えを乞うのが嫌な人は自分で追求すればよいでしょうが、私には生きることも、死ぬことも、何一つも見定めることはできません。ですから、「死ぬことはお浄土に生まれることだよ」と仰って下さる阿弥陀さまの真実のお言葉、それを信じよと勧めて下さる釈尊や七高僧、親鸞聖人方の言葉を「」ずる他には何もないのです。

この信心は自分で作り上げたものではなく、阿弥陀さまが与えて下さった本願の信心、他力の信心です。疑いを押さえつけて信じ込むこととは全く違います。疑いを押さえつけるのではなく、疑いが無いのです。さも、燦燦と降り注ぐ太陽の光を仰ぎ見て今の天気に疑いない如く、今、ここにいる、この私に届いている、「助けるぞ」の如来のお言葉に疑いない、これが信心です。


なお、親鸞聖人には勿論、自力の信心を意味する「」の使われ方もあります。

罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。「化身土文類」真門釈

などです。仏教で「罪福を信ずる」、因果の道理を信ずることは非常に大事なことであり、真宗といえどもこれを軽んずることは許されませんが、因果の道理をもって善悪平等の救いを誓われた本願をとらえようとすることは自力と言われ、この自力心がある内は本願力に帰することができません。

この「」という言葉一つ取っても世俗と仏教、また真宗とで随分と違うので、難しいものです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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