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【検証】親鸞聖人の六字釈は、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」根拠と成り得るのか

本日は、昨日の「埼玉恵日会」のお話についての記事に関して書きます。阿部信幾先生が根拠として提示した親鸞聖人の六字釈が、本当に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

根拠と成り得るのか検証します。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。

この内の、「帰命は本願招喚の勅命なり」を出して先生は、

・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

と主張しています。しかし、「我にまかせよ」はそうだとしても、それがどうして「念仏を称えよ」ではないになるのでしょうか? この六字釈を全て読んでも、どこにも「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」に該当することを親鸞聖人は仰せられていません。それで疑問だったのですが、ようやくそれが解けました。

この「帰命は本願招喚の勅命なり」とは、『聖典セミナー 教行信証[教行の巻](梯實圓)』に

 こうして一般には、南無阿弥陀仏とは私が阿弥陀仏に帰命するという、私から阿弥陀仏へという方向で受け取られていたものを、一転して阿弥陀仏のほうから私のほうへと一方的にはたらきかけ、私を呼び覚まして救っていかれるという阿弥陀仏のはたらきに転換し、これによって本願力回向の宗義を明確にしていかれたわけです。とくに本来は「命に帰する」と読み、衆生の信心を表す言葉であった帰命を、「帰せよの命」であると言い切り、阿弥陀仏が大悲をこめて衆生に救いを呼びかける本願招喚の勅命であると言い切られたことは、親鸞聖人の宗教全体を特徴づける意味をもっていました。(p.243)

とあるように、私から阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏から私という方向の転換を意味していたのです。つまり、

・帰命は「帰せよの命」であって「衆生(私)から命に帰す」ではない

ことを言いたかったのです。ですから、先の言葉

・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

これは「 」と「 」の対応が間違っています。正しくは、「我にまかせよ」に対応する語は「念仏を称えよ」ではなく、「衆生(私)から命に帰す」の自力回向だったのです。

・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「衆生(私)から命に帰す」ではない

これが正しい対応になります。「行文類」の六字釈は、名号のいわれを阿弥陀仏の側から明らかにし、仏の名を称えるということが本来どのような意義をもっているかということを根本的にあらわすためにされたもの、つまり「念仏のこころ」を明らかにされた釈であり、「念仏を称えよ」ではないことを仰ったものではないのです。

そのことは次の、「南無」のもう一つの意味である「発願回向」の釈を見るとより分かり易くなります。

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり

と仰せられ、私が浄土に往生したいと願う遥か以前に阿弥陀仏が「必ず往生させる」と願いを発して、衆生に往生の行、すなわち念仏を回施して下さるという他力回施が「発願回向」の心だと仰せられています。ここでも私から阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏から私という方向の転換を表していて、念仏は他力回向の行だと仰ったものであって、「念仏を称えよ」ではないことを仰ったものではありません。

それから、「阿弥陀仏」の意味である「即是其行」については、

即是其行といふは、すなはち選択本願これなり

と仰っています。この説明も先の『聖典セミナー』より引用します。

阿弥陀仏という仏名が、ただの仏名ではなくて、往生の行でありうるのは、法蔵菩薩が平等の大悲心にもよおされて、一切の衆生を善悪・賢愚の隔てなく救いうる行法として選択された選択本願があるからです。すなわち自力の諸善万行を難劣の故をもって選び捨て、最勝にしてしかも至易の徳をもつ名号を選び取り、「我が名を称えんものを必ず救う」と選定された選択本願の行であるから、仏名が往生行となるのです。こうして称名は、阿弥陀仏の救済意志の顕現であるような選択行であるから衆生がことさらに回向しなくても自然に往生の行となる不回向の行であるといわれたのです。それを親鸞聖人は、念仏が不回向の行であるのは、阿弥陀仏が大悲をこめて選択して私たちに回向された大行であるからと展開されたのです。それをここでは、「即是其行といふは、すなはち選択本願これなり」といわれたのです。(p.242~p.243)

私が「南無阿弥陀仏」と称えたから往生の行になるのではなくて、阿弥陀仏が往生の行として選択本願に定めて下されているから称名することが正しく浄土往生の行業になるというのです。ここも同様に私から阿弥陀仏ではなく、阿弥陀仏から私という方向の転換を表しているのであって、「念仏を称えよ」ではないことを仰ったものではないのです。


その後「行文類」では、『五会法事讃』を始め聖道諸師の文までも幅広く引文され、源信僧都、法然聖人の御文を引かれています。膨大な『教行証文類』の中、法然聖人の『選択本願念仏集』を引かれているのは不思議とここだけです。親鸞聖人は『選択集』の法義の真実性を証明するために『教行証文類』を書かれましたが、この「行文類」だけに『選択集』を引文されたのは、とくに選択本願念仏という行法の真実性の証明が重要だったからです。称名は仏の本願の行であるから必ず往生することができる。その証明として、宗義を表す『選択集』の題号と、『選択集』の意を集約された「三選の文」を引文されたのです。これは先哲が指摘するように『選択集』全文を引用されたという意味を持っています。

そして「行文類」は有名な決釈へと続きます。すなわち

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

と言われたものがそれです。選択本願の念仏は凡聖自力の行ではなく、阿弥陀仏が大悲をこめて恵み与えて下さる本願力回向の行であり、行者の方から回向を用いない不回向の行であると結ばれたのでした。

親鸞聖人の六字釈は、念仏が本願力回向の行法であることを証明するという意味で、この決釈と対応しています。この決釈に導きたかったがために、善導大師の六字釈を出された後で、今一度ご自身で釈を施されたのでしょう。繰り返しますが、親鸞聖人の六字釈は名号のいわれを阿弥陀仏の側から明らかにし、仏の名を称えるということが本来どのような意義をもっているかということを根本的にあらわされたものです。念仏は他力回向の行であって自力回向の行ではないぞと、「念仏のこころ」を明らかにするための釈でこそあれ、決して「念仏を称えよ」ではないなどという仏意と真反対なことを明らかにするための釈ではなかったのです。


そもそも「行文類」とは、念仏が諸善に超え勝れ、速やかに往生成仏の果を満足させる「最勝真妙の正業」であることを経論釈にとどまらず、広く聖道諸師の文までも集められて証明せられた文類ですから、その中に

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

根拠など存在するはずがないのです。よって

親鸞聖人の六字釈は、「阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」根拠と成り得ない

これが検証結果です。それを無理やり

・阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

とこじつけて仏意を捻じ曲げる先生は、一体何宗の布教使なのでしょうか。

悪意は無いのかもしれませんが、無いのだとしたら余計たちが悪いです。知らずにこんな恐ろしいことを周囲に発言しているのですから。先生には、早く誤りに気付いてこのような教説を撤回されることを切に願います。
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「こんなことはできない」と行ずることを断念した人になおも実地にやらせる、これを虐待と言う

今週から仕事も通常モードだと思っていたら、年末年始にかけて受注された商品が一気に押し寄せています。せき止められていたダムの水が一気に放出されたようで、正直物量は年末並みかそれ以上です。年明けに注文して下さいねなんて申しておりましたが、ナメてましたね(;^ω^) 時期に限らずどうか、どうしても欲しい商品、どうしても通販でないと手に入らない商品以外は極力注文を控えて下さいと言うべきでした。

今から明日の午前中が怖ぇよ。まぁ焦って事故を起こすと配達どころではないので、いつも通り安全を第一に、落ち着いて、確実に配っていきたいと思います。

それにしても、当ブログにも年末より愚かなコメント群が押し寄せています。「真仮の門戸を知らず」とか、「通りでお聖教正しく読めない訳だ!」「仏教にあらず!」などと言う割に、聖教に基づいて正しい解釈を示してこないところが笑いものです。また、教義とは関係ないところをツッコんできて、具体的に淳心房の教義理解のここが間違いと指摘できないところが、親鸞会の無知ぶりを物語っています。

親鸞会も随分とレベルが下がったものです。飛雲さんに手も足も出ないものだから、標的を当ブログに変更したのでしょうかね? 正直のところ、高森会長始め息子や幹部会員、末端会員に至るまで如何に因果の道理、廃悪修善とは真逆の行動をしているかは今まで沢山、沢山聞き及んでいます。ただ、当ブログでは教義の誤りを明らかにするのが目的なので別段取り扱わないだけです。知りたい方は『さよなら親鸞会』等で明らかにされているのでそちらをご参照下さい。

退会者が間違いで、親鸞会の教義が正しいのであれば、聖教に基づいて正しい解釈をして退会者の誤りを暴けはよいのです。親鸞会の教義の誤りを扱っているにも関わらず、そこをツッコめない時点で勝負はついています。まぁ上の高森顕徹会長が公開法論から逃げに逃げ回っているので下ができないのは当然でしょうね。

↓↓↓

『飛雲』退会者からの非難に怯え、更なる退会者続出にも指を咥えて見ているだけの親鸞会



さて。今日の話はここからです。

5歳の次女はよく、まぁ次女だけではありませんけれども、できもしないことを「できる!」と超強気に言います。この間も、食パンを半分食べた後に「チキンラーメンが食べたい」と言ってきて、私や妻は「食べ切れないからやめときなさい」と勧めました。ところがなおも「全部食べられる!」と言い張るので、三女に少し分けてあげるという条件付きで食べさせることにしたのです。結果は案の定で、次女は半分も食べられずに終わりました。その後、よほど悔しかったのでしょう。泣きながら「全部食べられるって言ってない!」などと喚いていました(笑)

親鸞会では、私達は善ができると自惚れているから、実地にやってみなければできるかどうか分からず自力が廃らないと説き、因果の道理や十九願なんかを根拠に善(という名の組織拡大活動)を勧めています。

確かに、本人が「できる!」「やってみせる!」とカンカンに信じて疑ってないなら、できるものかどうか実地にやらせて分からせるという方法もありでしょう。ですが、行の内容を聞いて「こんなことはできない」と行ずることを断念した人になおも実地にやらせて分からせる必要があるでしょうか?

先ほどの例で言うと、もし娘が食べ切れないと思って食べることを断念したら、私はわざわざチキンラーメンの封を開けてお湯を注ぎ、食べさせようとはしませんでした。それをもし、

「いや、お前は腹底では食べ切れると思ってるんだから食べてみなさい」

と勧めたらどうでしょうか? そして、途中でお腹いっぱいになってもう無理となった娘になおも

「それではお前の自惚れ心は廃らないからもっと食べなさい」

と勧めたらどうでしょうか? もはやこれでは親の愛とか慈悲とかではなく、虐待です。


十九願の修行は、菩提心、すなわち四弘誓願を発し、心から浄土へ生まれたいと願って生涯様々な善根功徳を修めるというものです。果たして私達に、阿弥陀仏が聖衆を伴って迎えに来て下さり、浄土へ生まれる価値がある善根功徳を修めることができるのか。

他の方々はともかく、淳心房に限って言いますと、とてもできません。心は五欲を始めとする欲望が沸き起こり、怒り腹立ち、そねみねたむ心ばかり。常に三毒の煩悩が付き纏い、心から相手の幸せを願うことはおろか、自利利他円満して一切衆生をことごとく救い尽くそうなどという崇高な菩提心はとても起こせません。

加えてたまたま良いことをしても、それは浄土願生の心でしたものでは無いし、良いことをしたということを忘れることも難しいです。忘れないとそれが驕慢心の元になると先日お聞きしまして、いよいよ廃悪修善ということは、この五濁悪世の世で一般の社会生活を営みながらでは到底不可能であると知らされます。

宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分 三〇〇)といへり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義 四二七)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同 四三三)といへり。「化身土文類」門余釈

【現代語訳】
善導大師の説かれた『観経疏』によれば、「衆生の心にしたがって釈尊はすぐれた行をお説きになった。その教えは八万四千を超えている。漸教も頓教もそれぞれ衆生の資質にかなったものであり、縁にしたがってその行を修めればみな迷いを離れることができる」(玄義分)といわれている。しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。

親鸞聖人も仰せのように、我々には十九願の修行、『観経』顕説の定散二善はできないというのです。そりゃあそうですわ。法然聖人でさえ、

又云、『玄義』に云く、「釈迦の要門は定散二善なり。定者(は)息慮凝心なり、散者(は)廃悪修善なりと。弘願者如大経説、一切善悪凡夫得生」といへり。予(よが)ごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り。『西方指南抄』

と仰るんですから、私には無理に決まっています。十九願の修行、定散二善とはどのようなものかを聞けば、それを如実に実践するということが如何に不可能なことかは分かります。いくら努力をしても如実に実践することは不可能であり、それでは浄土に生まれることはできませんから、息慮凝心の定善、廃悪修善の散善、十九願の修行というものを親鸞聖人は一言もやれと仰っておりません。ですから私達もやる必要はありません。

会員の皆さんも、薄々気付いているんじゃないでしょうか? 自分には十九願の修行も、定散二善もできないということに。自分の心というものをよく見つめれば分かるはずですよ。悪ばっかり見えて、善心なんて無いようなものじゃないですか。それが分かった人は、今から十九願の修行をしようなんかとやらなくていいんです。直ちに十八願を聞いて、私の上にはたらいている南無阿弥陀仏の大慈悲心に気付かせて頂けばいいんです。

それを、我々は心の底では自惚れて「できる」と思っているんだからなんかと言って執拗に善を勧める理由は、明らかに会員の獲信・往生とは別のところにあります。「できる!」「やってみせる!」と会員の皆さんが心からそう思っているならそりゃあやってみたらいいですけど、どうですか?

自分にはそんな心を起こしてそんな行をするなんてできないと思っている人になおも

「いや、お前は腹底ではできると思ってるんだからやってみなさい」
「それではお前の自惚れ心は廃らないからもっとやりなさい」

と執拗に勧めることは、先ほどの例で紹介したように虐待に他なりません。こうした虐待に加えて彼らがやっていることは指摘、指摘、指摘でしょう? 通りで会員の中には精神的にまいってしまう人が少なくないわけです。

「唯一絶対にして真実の宗教」などと謳っている割に、その真実の教えとやらによって救われている人が皆無同然である理由を、会員の皆さんは今こそよく考えてみるべきでしょう。また、自分がその教えを実践できるのか、自分はその教えによって今助かるのか、こういったこともよく思いを巡らせてみましょう。

親鸞聖人を「群賊」呼ばわりする謗法の徒が高森顕徹会長

親鸞会発行『顕正新聞』平成30年3月15日号6面に以下の文章が載っています。

●親鸞会と群賊の違い

親鸞会と群賊の大きな違いの一つは、
親鸞聖人の教えは三願転入であると説く。
三願転入の教えは「なぜ生きる2」にも
詳述されている。
それに対して、群賊たちは、三願転入は
不要として説かない。


久しぶりに「三願転入の教え」という言葉が出てきた気がします。「一切衆生必堕無間」といい「宿善」といい、「若不生者の「生」について」といい、親鸞会では外部からの批判を恐れて、それまで大上段に構え自信満々で唱えてきた説を引っ込めて、ほとぼりが冷めた頃にまた復活させるということを繰り返しています。尤も、今回は飛雲さんが今では、会の中で話題にさえしない駄作だと煽ったのが要因かも知れません。


それにしても親鸞会は「親鸞聖人の教えは三願転入である」とこれまた大ウソをついています。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。教文類

浄土宗のなかに真あり、仮あり。真といふは選択本願なり、仮といふは定散二善なり。選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり。(末灯鈔1通

浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり一念多念証文

真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。唯信鈔文意【3】

等とあるように、親鸞聖人の教えは阿弥陀仏の本願を説く無量寿経の教えであり、往還二種の回向であり、往相の回向について真実の教行信証であり、選択本願すなわち第十八願であり、念仏往生であり、信心往生の教えであります。親鸞聖人の書き残されたもののどこかに、

・つつしんで浄土真宗を案ずるに、三願転入あり。
・浄土真宗のならひには、三願転入と申すなり


のような文言が一箇所でもあれば親鸞会の主張にも筋が通るのですが、御存じのようにそんなお言葉は存在しません。では何を根拠に言っているのかと言えば、言わずと知れた大沼法竜師です。

大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ

他人の著書をパクりまくって自説のように振舞っている、これが偽らざる無二の善知識様の正体です。


さて、親鸞聖人はある処では本師源空法然聖人の教えを「浄土真宗」だと仰っています。

智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ
『高僧和讃』源空讃

元々「浄土真宗」とは教団の名前ではなく「浄土往生を説く真実の教え」という意味でした。親鸞聖人としては、法然聖人の明かされた選択本願念仏の教えをそのままわれも信じ人にも教え聞かしむるばかりなりという思いだったのでしょう。では法然聖人の教えに「三願転入」があるかと言えば、これまた全くありません。

そもそも親鸞会流「三願転入の教え」とは、

・弥陀は十九願を建てて善を勧め、釈迦が一代、廃悪修善を説かれたのは、知った分かったの観念の遊戯ではなく、実地にやらせるためであったと、聖人は仰せになっている。
・ゆえに弥陀の十九願は、善を捨てさせるためのものではなく、実行させるための本願であることは明らかである。
『なぜ生きる2』のトンデモ邪義10『なぜ生きる2』のトンデモ邪義11より)

とあるように阿弥陀仏の第19願の善を実地にやること、つまり19願の『修諸功徳』の勧め、及び『観無量寿経』顕説である19願意の定散二善の勧めが大前提としてあります。ところが法然聖人はこうした十九願、定散二善は実行させるためではなく、捨てさせるために説かれたのだと仰せです。

・諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。(『選択集』傍正

・また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。(『選択集』観仏三昧と念仏三昧の一経両宗


こうした『選択本願念仏集』を一度でも読んでいたら、「三願転入の教え」云々とは絶対に言えないし、ましてそれを本に書いて世に出版するなど有り得ない話です。高森会長が七祖聖教を読む者を罰するのも道理です。

法然聖人のお言葉が親鸞会にとって水爆級であることはこの記事にも書いていますが、『選択集』にはそれほど諸行諸善を廃して念仏一行を立てよという一貫した教えが説かれていました。それ故、聖道門から『摧邪輪』という書物や『延暦寺奏状』『興福寺奏状』という朝廷への直訴状まで出されて厳しく批判されねばならなかったのです。その中でどのような批判がなされていたのかと言えば、例えば

********************
『延暦寺奏状』にこうあります。

しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。
ここをもって、「諸悪莫作 諸善奉行」むしろ七仏通戒の誠に非ずや。
『なぜ生きる2』のトンデモ邪義9
********************
承元の法難の直接の切っ掛けとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、18願だけでいいというのはおかしいと言っているのです。
また法然上人が亡くなられた後、明恵高弁が『摧邪輪』を著して、

しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出して、19願は本願ではないのかといっています。
『なぜ生きる2』のトンデモ邪義20
********************

とあるように「七仏通戒の誠に非ずや」「ただ一種を以て本願と号せんや」「是れ本願にあらずや」などというものでした。まさに高森会長ら親鸞会側の主張そのものです。かつて聖道諸宗が法然聖人・親鸞聖人を攻撃したのと同じ理屈、同じ根拠で、現在親鸞会が本願寺や退会者を攻撃しているのが判るでしょう。


「三願転入」は七高僧方の仰っていないことであり、親鸞聖人も「化身土文類」にただ一箇所述べられているのみ、覚如上人や蓮如上人は言及されていません。また親鸞聖人はお手紙にて、ご自身の『教行証文類』ではなく、『唯信鈔』、『後世物語聞書』、『自力他力事』等を読むように同行に教えられています(※)。それらの書物の中にも当然「三願転入」は説かれていません。ということは、「三願転入」は我々が18願の救いにあずかるために不要だということです。必要なら親鸞聖人が至る所に書かれているはずですし、また「三願転入」が書かれていない兄弟子達の書物を同行に勧めるのも疑問です。第一、親鸞聖人の教えを正確に伝えられ、聖人と一味の安心だと親鸞会でも言っている覚如上人や蓮如上人が言及されないわけがないではありませんか。

以上より、獲信・往生のために「三願転入は不要」なのでした。会員の皆さんは、親鸞聖人を「群賊」呼ばわりする謗法の徒が高森顕徹会長であることに早く気付いて親鸞会に見切りをつけましょう。



【参照】
『WikiArc』浄土真宗

成就文から念仏を抜き去り、更に信心も抜いてしまう高森顕徹会長

前回、高森顕徹会長が話の中で

其の名号を聞くとは、本願を聞く一つ。信ずる一つではない。

と発言したと紹介しました。高森会長は「」と「」の関係も全く知らないようで、これで「浄土真宗」「親鸞」会という団体の会長なのかとため息をつかずにはいられません。早くこの看板を下ろした方が身の為です。

真宗では「聞即信」と言われるように、本願を疑い無く聞くことが、取りも直さず信心です。聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はありません。この「聞即信」も親鸞会のような、

高森会長の話を真剣に「聴」き続け、おつとめ、財施、破邪顕正等の活動をし続けていった先についに求道の絶壁に行き詰まり、助かる望みが断ち切られて「地獄は一定すみかぞかし」と無間のドン底に叩き堕とされた時、間髪入れずに阿弥陀仏のジカの呼び声が聞こえ(聞)、その一念(即)に信心決定(信)する

などということではありません。会員の皆さんはこのような摩訶不思議な体験を「聞即信の一念」だと思い、それを縦の線になぞらえて、そこまで進もうと横の線の道を行こうとしていると思いますが、そうやってこちらから阿弥陀仏の救いを掴みにかかっているのを自力と言うのです。

自力疑心」=「無明の闇

ですから、こうした親鸞会の「横の線の道を進む教え」は「無明の闇の教え」と言えましょう。これで「浄土真宗」とか「親鸞聖人の教え」とか、果ては「信心決定」とか「阿弥陀仏の救い」と言われても困ってしまうのですよ。


さて、本願を聞くことがそのまま信心でありますから、

本願を聞く」=「本願を信ずる

で、この二つはイコールです。この「信ずる」というのは言うまでもないと思いますが、当然自力の信ではなく「本願力回向の信心」です。

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「信文類」

お前は決して迷いの世界を出られん者だぞ。そのお前一人を助けようと阿弥陀仏が五劫永劫の願行を成就して本願をお建て下されたのだ。今や本願は南無阿弥陀仏と成って私にはたらいているぞ。「必ず助けるぞ」という呼び声と成って絶えず私を喚んでいるぞ。往生のためにはただ南無阿弥陀仏に身も心もまかせて念仏しなさいよ、という「仏願の生起本末」を疑い無く聞くことがそのまま信心です。「煩悩具足」の自分のすがたばかり聞いていたのでは救いはありません。「煩悩具足」の自分を助ける本願を、その本願が成就したすがたである「南無阿弥陀仏」の六字のこころを聞かないことには救われるも何も無いのです。


こうした「本願を聞く」ことがイコール「本願を信ずる」ということなのですが、

本願を聞く一つ。信ずる一つではない。

ということは、本願を聞くだけで信心は無いということなのでしょうか? 信心の無い宗教など存在しないはずですが、成就文から念仏を抜き去り、更に信心も抜いてしまうとはさすが「高森教」です。そういえば、

一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます。
一、われら親鸞学徒は、阿弥陀仏の御本願を聞信すれば、一念往生、現生不退、絶対の幸福を獲ると教え給うた親鸞聖人のみ教えを信じます。


などと「親鸞学徒信条」に謳ってありますが、「浄土真宗親鸞会」の会員(親鸞学徒)とは上記のようなことを「信ずる」人達ではなかったのでしょうか? この中の

真実の宗教を信ずる

とは、「真実の宗教」⇒「仏教」⇒「大無量寿経」⇒「阿弥陀仏の御本願」ですから

阿弥陀仏の御本願を信ずる

ということではないのでしょうか? また、

阿弥陀仏の御本願を聞けば

ではなく、わざわざ

阿弥陀仏の御本願を聞信すれば

と言っているのも、間違っていても「聞即信」であると知っていたからだと伺います。しかし今はそれすら無かったものとして、「信ずる」ではなく「聞く」一つだと主張するつもりなのでしょうか?

高森センセイ、どうかされたんじゃないですか? 頭変になられたんじゃないですか?

成就文から念仏を抜き、信心を抜く、高森会長の「無明の闇の教え」を「本願」だとして「聞く一つ」といくら聞き続けていっても、親鸞聖人の教えられる「真実の教行信証」は分かりませんし、「本願力回向の信心」を獲て報土往生することはできません。会員の皆さんには、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、現世利益に惑わされずに、そんな教えを早く捨てて本当の浄土真宗を聞き、本願を信じ念仏されるよう強くお勧めします。



【参照】
『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』なぜ親鸞会の話を聞いてみようと思うのかを考えてみる。

【考察】高森顕徹会長の話の進め方

毎回のテレビ座談会がそうかは知りませんが、この前のテレビ座談会では高森会長は1日合わせて1分無い位しか会員の前に姿を見せなかったそうです。法話が始まる最初と最後、別室で医師や講師部員と座している姿が5~10秒程度映るだけだそうで、この演出は「会長先生は大変お疲れの中、私達の後生を案じてこのようにテレビ座談会のご縁を設けて下さっている」等と会員に思わせるのが目的なのかと考えてしまいます。

さて、高森会長は昔からそうですが、最初はゆっくり簡単な話をして、途中から急に仏教用語をバンバン出し、時間が無いから詳しく話せないとか、次に命があったら話しますなどと言って終わる話をよくします。今回も例に漏れず、最初は相対の幸福の話をゆっくり長々と説明し、途中から「信受本願 前念命終」(愚禿鈔)、「この娑婆生死の~」(改邪鈔)等の根拠を挙げて、結局説明途中で時間切れという形で終わったようです。本日はそうした高森顕徹会長の話の進め方について考察したいと思います。


1、最初はゆっくり簡単な話
無常、相対の幸福といった、いつも聞く話を具体例を挙げてゆっくり丁寧に、くどい位説明します。会員は、「無常を無常とも思わない私のために話してくださっているんだ」「相対の幸福が分からなければ絶対の幸福はもう分からない」等と思い込んで聞いているのではないかと思います。

2、途中から急に仏教用語をバンバン出す
会員としては「今日こそは真剣に聞くぞ」と臨むものの、1のいつもの話に多少なりとも気を抜いてしまうことでしょう。そこへ(会員にとって)高速で高レベルな内容に切り替えられると、「うわ~、何を言っているのか分からない」「やっぱり会長先生はスゴイ」「自分は真剣に聞いていなかった」「次こそは・・・」等と戸惑ってしまうのではないでしょうか?

3、時間が無いから詳しく話せないとか、次に命があったら話しますなどと言って終わる
今でこそ「前半で長々といつもの話はせずに、さっさと親鸞聖人のお言葉の解説に入ればいいのに」と思いますが、「七千余巻の一切経の内容をぎゅっと絞って話されているのだから3~4時間で話し切るのは不可能だ」「先生も次の命は無いかも知れないと思われている。もっと無常を見つめなければならない」「次も必ず参詣して真剣に聞かなければ・・・」と会員に思わせる作戦なのかなと考えられます。

大体いつもこんな感じです。会員は「今日こそは・・・」と思って参詣したのに、やはりというか、今回も信心獲得はならず、あるいは「今日もダメだった」と落胆し、あるいは「次こそは・・・」と誓って帰途に就く。これもいつも通りです。私は会員時代、毎回、毎年これでした。尤も今残っている会員でこのような志で臨んでいる人はどれだけあるかと思われます。


ここから推測されるのは、高森会長が話をする目的は「会員の信心獲得」ではなく、「次も来てもらうこと」だということです。最初のゆっくり分かりやすい話で油断した脳は、途中からの高速で仏教用語を交えた話を理解するのが難しくなります。そして前半で費やした分時間は押しますから、経典や聖教の言葉の説明はどうしたって短くなります。ケツの時間は決まっているので、午後4時で問答無用でタイムアウト。続きは次回、命があったらということになります。で、次行くとまた序盤はいつもの話。中盤から終盤にかけて急にペースアップして内容も難しくなり、途中で終わる。たまに完結したように思う回もあるが、やはり説明を聞いただけで肝心の信心は獲られない。目的は信心獲得、それには「聴聞に極まる」だから次も来るしかない。このように、次、次と期待を持たせて「次も来てもらうこと」を目的に話をしているように思えてなりません。「極難信だ」とかいうのはその理由付けに他なりません。

また、「自分はスゴイ人物なんだと思わせること」も目的かと思われます。分かりやすい話から真宗の淵源に至る話まで、とにかく幅のある話ができる、スゴイ仏教の先生なんだと思わせることで、先の目的もかない、また「先生、先生」と付き従う者も現れてくるでしょう。


浄土真宗は、突き詰めれば

他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。(歎異抄第12条)

とあるように「本願を信じ念仏を称えたら仏に成る」という教え以外にありません。阿弥陀仏が私達を救うと本願を発し、それが既に成就して私にはたらいていること、私はひとえにそのおはたらきによって本願を信じ念仏を申して仏に成るのだというのが親鸞聖人の教えです。それを私の計らい、余計な詮索や先入観を交えずにそのまま聞き受けるのが聴聞です。

こうした本願他力の法を説かず、いつも聞く者を煙に巻いて逃げるような話をする目的は、会員の獲信・往生の他にある、これだけは間違いありません。「絶対の幸福」だとか、「人生がガラリと変わる」だとか、現世利益を強調し、「(縦の線を指して)ここで絶対の幸福になる。そこまで求めよ」と自力回向のような話をする親鸞会は、断じて浄土真宗ではありません。会員の皆さんには、いつもの栓の抜けた風呂のような話で満足せずに、今聞いているような話で自分は後生助かるのか真剣に考えて頂きたいと思います。

親鸞会に、教義批判に対して公開法論する気が全くないことが判明して3年9ヶ月

今や親鸞会教義は徹底的に批判され、高森顕徹会長の理論は完全に破たんしています。インターネットが普及し、昔は組織批判や人物批判が多かったのが、今では教義批判に特化したサイトも数多くあります。そこに書かれていることは、会の中で

「便所の落書きと同じだ」
「あんなものを見ると目が腐る」
「陰でコソコソと書いているに過ぎない」


などと貶められるような内容ではありません。決して自分勝手な解釈ではなく、経典や聖教に基づき、善知識方のお言葉を根拠として書かれているのです。会員の皆さん、それを見せないように講師部員や先輩が誘導しているのは、ハッキリ言えばあなたの後生を思っての親切心からではありません。あなたがやめることによる組織拡大要員の減少を防ぐためです。
もしあなたや、あなたに批判サイトを見るなと言ってくる人が本気で後生の一大事を解決したいと思っているなら、まずは一番大事な教義が正しいのかどうかをもっと確かめるべきです。高森顕徹会長の話にも出てくるように、方角が間違っていたら目的地にはいつまでたっても辿り着きません。もしあなたが親鸞会の話の一部を真実だと思い、それをもって親鸞会教義全体が正しいと思い込んでいるのだとしたら・・・? 自分に限って「そんなはずはない!」と思いたいでしょうが、現実はそんなに甘くはないのです。
おそらく会員の皆さんが、親鸞会が正しいと思うその内容は、人間の実相の部分だと思います。『なぜ生きる』で言えば、第一部に書かれているような内容です。具体的に言えば、幸せは続かないとか、必ず崩れ去るとか、老いや病や死の問題とか、あるいは欲や怒りや愚痴といった煩悩などの話です。もし、そういった人間の実相の部分が正しいと思うことをもって、親鸞会教義全体が正しいと思っているのだとしたら、それは早合点というものです。
新興宗教の勧誘方法は実に巧みです。親鸞会の場合は、多くの人が共感できる話から、徐々に仏教の言葉や譬え話を混ぜていき、ある程度のところで親鸞聖人の教えであると打ち出します。所々聖教の言葉を用いて話を展開していくので、古文に疎い素人はいかにも本物の浄土真宗の教えのように思ってしまいます。そうやっている内に、親鸞会教義全体が正しいと思い、また周囲の人間関係も確立して、思考は完全に親鸞会的人間へと変貌してしまうのです。

ただ、近年は親鸞会の滅茶苦茶な方針転換や、度重なる訳の分からない募財(例:再度のアニメ制作、入会基準の緩和)などもあって、「さすがにこれはおかしい」と気付く方が多いようでその点では有難いと思います。そんな方には、

飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~
親鸞会を脱会した人(したい人)へ
親鸞会邪義を破る
親鸞会教義の誤り
元会員から見た浄土真宗親鸞会

などをよく読まれたらよいと思います。また、私が退会する際、

私の白道
さよなら親鸞会

も大変読ませて頂き、親鸞会では内部ではこのようなことがあったのか、組織的におかしい根本はデタラメ創作教義にあったのかと参考になったものなので、合わせてピックアップしておきます。


なお、「高森先生は名前を出して堂々と話をしている。それに対してネット批判者は匿名でコソコソと悪口を連ねているばかりだ」なんかと言っている割に、親鸞会は教義批判に対して公開法論する気が全くありません。

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

の記事をご覧下さい。もう現時点で3年9ヶ月ほど経っていますが、飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~にはまだ法論開始の記事も載りません。新たな歎異抄解説書は出続けておりますので親鸞会の発表はですが、親鸞会が公開法論する気が全くないというのは本当です。この事実だけでも、会員の皆さんが会に留まり、活動する意味があるのか考えるには十分な材料かと思います。本当に親鸞会で後生の一大事を解決できるのか、会員の皆さんにはよくよくお考え頂きたいと思います。

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点(おまけ)

【まとめ】を挙げといて何ですが、まだあったので記事にしておきます。

当ブログでも散々取り上げてきました(親鸞聖人は「一切衆生必堕無間」などと教えられていません等参照)が、親鸞会教義の一つ「一切衆生必堕無間」は経典にもお聖教にもない言葉です。2005年位でしたか、そのことを当時のK学友部長に質問したら、『観無量寿経』に応堕地獄と説かれていて、一切衆生必堕無間と同じ意味だと返答がありました。
当時はそれで納得してしまいましたが、まるで的外れな回答であったと振り返って思います。まず、「応堕地獄」とは『観無量寿経』下品中生に説かれている言葉です。以下に漢文、読み下し文、現代語訳を紹介します。


仏告阿難及韋提希 下品中生者 或有衆生 毀犯五戒八戒 及具足戒。
如此愚人 偸僧祇物 盗現前僧物 不浄説法 無有慙愧 以諸悪業 而自荘厳。
如此罪人 以悪業故 応堕地獄。命欲終時 地獄衆火 一時倶至。
遇 善知識以大慈悲 為説阿弥陀仏十力威徳 広説彼仏光明神力 亦讃 戒・定・慧・解脱・解脱知見。
此人聞已 除八十億劫 生死之罪。地獄猛火 化為清涼風 吹諸天華。
華上 皆有 化仏・菩薩 迎接此人。
如一念頃 即得往生。
七宝池中蓮華之内 経於六劫 蓮華乃敷。当華敷時 観世音大勢至 以梵音声 安慰彼人 為説大乗甚深経典。
聞此法已 応時即発無上道心。
是名下品中生者。



仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品中生といふは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯せん。かくのごときの愚人は、僧祇物を偸み、現前僧物を盗み、不浄説法して、慚愧あることなく、もろもろの悪業をもつてみづから荘厳す。かくのごときの罪人は悪業をもつてのゆゑに地獄に堕すべし。命終らんとするとき、地獄の衆火、一時にともに至る。善知識の、大慈悲をもつて、ために阿弥陀仏の十力威徳を説き、広くかの仏の光明神力を説き、また戒・定・慧・解脱・解脱知見を讃ずるに遇はん。この人、聞きをはりて八十億劫の生死の罪を除く。地獄の猛火、化して清涼の風となり、もろもろの天華を吹く。華の上にみな化仏・菩薩ましまして、この人を迎接す。一念のあひだのごとくに、すなはち往生を得。七宝の池のなかの蓮華のうちにして六劫を経て蓮華すなはち敷けん。華の敷くるときに当りて観世音・大勢至、梵音声をもつてかの人を安慰し、ために大乗甚深の経典を説きたまふ。 この法を聞きをはりて、時に応じてすなはち無上道心を発す。これを下品中生のものと名づく」と。


釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。 「次に下品中生について説こう。五戒や八斎戒や具足戒などを犯し破っているものがいる。このような愚かな人は、教団の共有物を奪い、僧侶に施されたものをも盗み、さらに私利私欲のために教えを説いて少しも恥じることがなく、いろいろな悪い行いを重ねてそれを誇ってさえいる。このような罪深い人は、その犯した悪事のために地獄に落ちることになる。この人がその命を終えようとするとき、地獄の猛火がいっせいにその人の前に押し寄せてくる。そこで、善知識にめぐりあい、哀れみの心からその人のために阿弥陀仏の持つ力のすぐれた徳と、光明の持つさまざまな不可思議な力を説き、またその戒・定・慧・解脱・解脱知見のすぐれた徳をほめたたえるのを聞く、その人はこれを聞いて、ただちに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれ、地獄の猛火はたちまちさわやかな風に変って、多くの美しい花を吹き散らす。花の上にはみな化身の仏と菩薩がおいでになって、その人をお迎えになる。するとたちまち極楽世界に生まれることができ、七つの宝でできた池の中にある蓮の花に包まれて、六劫を経て後にはじめてその花が開くのである。その花が開くとき、観世音・大勢至の二菩薩が清らかな声でその人を心安らかにし、大乗の奥深い教えをお説きになる。そこでその教えを聞いてただちにこの上ないさとりを求める心を起すのである。これを下品中生のものと名づける」


現代語訳を読めばお分かりのように、相手を限定して「このような罪深い人は、その犯した悪事のために地獄に落ちることになる。」と仰っています。親鸞会のいつもの断章取義です。親鸞会の提示する根拠は、たいていが前後を読めばそれが親鸞会の主張する根拠とならない事が分かってしまいますが、今回もその例に漏れません。


11、「応堕地獄」について

下品中生の無善破戒の機に対して言われている
-----------------------
必堕無間と同じ意味で、全人類に対して言われている


私利私欲のために教えを説いて少しも恥じることがなく、いろいろな悪い行いを重ねてそれを誇ってさえいるような者がその犯した悪事のために地獄へ堕ちるのであり、全人類がそうではないことは言うまでもありません。ところで、そんな者とは一体誰の事を言っているでしょうか? この現代語訳は実に絶妙すぎて、拍手喝采、スタンディングオベーションものです。私にはあの親子と、それについていく確信犯的取り巻き連中が思い浮かびますが、皆さんはいかがでしょうか?

まぁそれはさておき、このようなことですから、親鸞会教義を真に受けていたずらに後生は地獄、後生は地獄と恐れることはありません。聞く者に地獄の恐怖を叩き込み、更には献金や勧誘活動に駆り立て、上司に無条件服従させるような教えなど、断じて親鸞聖人の教えではありません。ただそれでも後生に恐怖を感じてしまうという方は、「必ず助ける」との阿弥陀仏の仰せを、素直に受け容れ念仏して下さい。只今、ここにいる、このままの私めがけて、いつでもどこでも阿弥陀仏は喚びかけ続けられています。それを自分の側で小賢しい詮索をして、疑い計らい、耳を塞いでいるから、仰せを仰せのままに受容できないのです。因果の道理も、廃悪修善も、19願も、宿善も、縦横の線も、親鸞会で聞いてきた「助かるにはこうしなさい」系なことはみんな要りません。それらはみんな邪魔なので、親鸞会で積み上げたものはぶっ壊して、身につけたものは取っ払って、ただただ「助けるぞ」の仰せを聞くのみです。大丈夫です、必ず助かります。私が言うから大丈夫なのではなくて、阿弥陀仏が「必ず助けるぞ」と仰せなので大丈夫です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

【まとめ】『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点

これまでの『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点のまとめです。
親鸞会教義とは、高森会長の話、『なぜ生きる』やアニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』の内容としています。
上段の青字が『観無量寿経』に説かれている事、及び『観無量寿経』を解釈された善知識方の仰せです。
下段の赤字が親鸞会教義です。


1、頻婆娑羅王について

八戒を授けられ、その後、阿那含という小乗仏教のさとりを獲た。
-------------------------------------
因果の道理を説き示されたとあり、八戒を授けられたとか、さとりを獲たとの記述はない。


2、即便微笑の箇所について

釈尊の口から光明が輝き出て、頻婆娑羅王を照らし、その後王は阿那含という小乗仏教のさとりを獲た。
----------―--------------------------------
頻婆娑羅王についての記述はなく、弥陀の浄土に生まれる方途(定善と散善)の話に移行する。


3、釈尊の教導について

対機説法。成仏を目的とし、それぞれの機に応じて最も相応しい教えを説かれた。
-------------------------------------
全ての人を横の線の軌道に乗せるために、仏教の根幹である因果の道理を説かれた。


4、なぜ定善は説かれたのか

韋提希が釈尊入滅後の衆生を心配して、衆生が自分の力で浄土を見る方法を尋ねたため。
---------------------------------------
韋提希に実行させ、善のできない自分を知らせるため。


5、定善十三観の順番について

日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観というようにステップアップしていく。
----------------------------------------
日想観ができなかったら水想観、水想観ができなかったら地想観というように簡単になっていく。


6、韋提希が獲信する直前について

「善ができないことが知らされて深い苦悶に堕ちる」というようなことは、『観無量寿経』のどこにも説かれていない。
---------------------------------------------
善ができないことが知らされて深い苦悶に堕ちる


7、善導大師の至誠心釈の一部「外に賢善精進の相を現じ・・・」について

真実の信心、他力の信心を顕わされた
------------------------------
親鸞聖人の言い方ではそうだが、善導大師は19願のことを仰っている


8、善導大師の回向発願心釈の一部「二河白道の譬喩」について

真実の信心、他力の信心を守護する譬え
--------------------
信心獲得するまでの求道の道程を示した譬え


9、『観無量寿経』に説かれる10種類の機について

定善のできる定善の機から、散善のできる散善の機、そして下品下生の逆悪の機まで10通りの機を説かれた
---------------------------------------------
最初から言っても受け付けないから10通りの機を説いたが、実際は全人類は逆謗の一機しかない


10、下品下生の悪人に対して何を勧められているか

念仏一つ。善の勧めはない。
-------------
善を勧められている。

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点6

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長6

には、下品下生の往生について書かれています。五逆罪を犯した極重の悪人が、平生に善をすることもなく、仏法を聞いたこともないのに、臨終になって初めて善知識に遇って、念仏の教えを聞き、念仏を称えようとするも臨終の苦しみのために、心の籠った念仏を称えることさえもできずに、口だけの10回の念仏で往生を遂げた、と説かれています。

この下品下生の往生を知れば判るように、阿弥陀仏に救われるために我々が善をやるやらないは全く関係ないのです。往生・獲信に関して善は不要、念仏一つで助かるというのが親鸞聖人の教えです。なのに、阿弥陀仏に救われるためにいかにも善が必要であるかのように説いているのが高森会長です。生活のためにやる善と、往生に関しての善をごちゃ混ぜにして、「やらねば善果は来ませんよ」などと、さも獲信までの求道の過程に善が必要不可欠であるかのように教えています。そんな教えを聞いている親鸞会会員は、「救いの一念には善が不要でも、一念に至るまでには善をしなければそこまで辿り着けない」などと考えて仏智を疑っているのですから、そらいつまで経っても晴れたも曇ったも分からず、助かるわけがありませんわ。

さて、前回の話で、高森会長は我々は逆謗の一機だと言っていると書きました。逆謗の機とは、『観無量寿経』の10種類の機で言えば下品下生、その中でも最低の極悪人です。では、善知識はこの下品下生の悪人に対して何を勧められているでしょうか?
『観無量寿経』には、定善の機に定善を勧め、上品上生・上品中生・上品下生に行福を勧め、中品上生・中品中生に戒福を勧め、中品下生に世福を勧め、下品上生・下品中生・下品下生に念仏を勧められたことが教えられています。くどいですが、下三品には善の勧めはなく、念仏一つです。勿論下品下生には念仏一つ、善の勧めなどかけらもありません。

それに対して高森会長はどうでしょうか? 18願での救いにあずかるまでの道程に善が要るとか、19願を必ず通るとか、宿善が厚くならねば信楽開発の時節到来はあり得ないとか、善のできないものと知らされるまで善をしなければならないとか、兎にも角にも善の勧めです。逆に、念仏を表立って勧める説法というのは私は聞いたことがありません。全人類が逆謗の一機しかないというのであれば、一切の諸善を棄てて、念仏一行を選択するしかないのですが、それを悪人に善を勧められたという頓珍漢なことを言っているのが高森顕徹会長です。親鸞会がどう頓珍漢か、お分かり頂けたでしょうか?


10、下品下生の悪人に対して何を勧められているか

念仏一つ。善の勧めはない。
-------------
善を勧められている。


マインドコントロール下にある会員さんは、親鸞会批判ブログで善の勧めを否定されているのを知ると、あたかも批判ブロガー達は生活上でも善いことをしないで悪にほこっているかのように思うかも知れませんが、それは違います。あくまでも、往生・獲信に関して善の勧めはない、と主張しています。程度の差こそあれ、誰しも倫理・道徳上の善はしていることでしょう。ただそれは我々の往生・獲信については無関係だと弁えているのです。しかし親鸞会の場合は、光(会員の皆さんが思っている「光」とは獲信のことでしょう)に向かう手段として善を勧められていますので、批判サイトはそうした光に向かう教えを邪義だと申しているのです。
それに、生活上でも善いことをしないで悪にほこっているのは他ならぬ高森会長と親鸞会上層部です(【考察】「光に向かって進ませて頂きます」というフレーズについて(3)等参照)。何より、いつでも公開法論に応じると豪語しておきながら飛雲との法論に逃げ続け、約束の一つもまともに果たせない親鸞会の姿が、「善の勧め」はウソであることを証明しています。

以上、飛雲を参考に『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点についての検証を終わります。

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点5

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長4

には、『観無量寿経』に説かれる10種類の機が挙げられています。

確かに『飛雲』にあるように、私が退会した2008年の教学講義でも、『観無量寿経』には10種類の機が説かれていると高森会長は説明していました。ただ、なぜ釈尊が10種類の機を説かれたかというところが問題です。過去の聴聞録によると、阿弥陀仏は全ての人を逆謗の一機しかないと見抜いているが、最初からそう言っても受けつけないから10通りの人がいますよとお釈迦様が教えられたのだというのです。高森理論では、『観無量寿経』では10通りの人がいると説いたは説いたが、実際は逆謗の機という1通りしかいないのだということです。
これが根本的に間違っています。実際は最高の善を具えた仏陀から、最低の悪人まで無限の階層がある中、『観無量寿経』ではお釈迦様が10種類の機に分類して教えられたのです。高森理論とは真逆です。よく仏教のことを八万四千の法門と言われますが、なぜそんなに多くの教えになったかというと、お釈迦様がそれぞれ異なる機に対してそれぞれ絶妙な教えを説き与えてゆかれたからでした。頻婆娑羅王には八戒(聖道門)を授けられ、韋提希には浄土門を説かれたのも、法を受け取る機が異なるからです。それぞれの機に対して最も相応しい法を説く、八万四千の法門は釈尊の巧みな対機説法の結果生まれたのです。全人類が逆謗の一機しかないというなら、そもそも悪を廃して善を修め、悪人から善人、聖者、そして究極的には最高のさとりを開いた仏陀を目指すという聖道門は存在しませんし、聖道門によってある程度まででもさとりを開く人も存在しません。逆謗の機には無理です。自力で龍樹菩薩や無著菩薩が初地までさとったとか、天台大師が五品弟子位までさとったというのは嘘かということになってしまいます。

そもそも親鸞会が「全人類は逆謗の一機しかない」と言っている根拠は18願の「唯除五逆誹謗正法」ですが、これが、どうして阿弥陀仏が全ての人を逆謗の一機しかないと見抜いていることになるのか、会員の皆さんはここから疑問を持たねばなりません。「ただ五逆と誹謗正法とを除く」ですから、当然そのような重罪を犯している人もあれば、犯してない人もあることは当たり前のことです。例えば公衆浴場では、よく「刺青をしている人はお断り」と書かれていますが、刺青をしている人としていない人がいるのでこのような断りがあるわけです。全人類が刺青をしていたら誰も公衆浴場には入れませんし、このような断りをする意味がありません。同じように、全人類が五逆罪と謗法罪を犯しているなら、全人類が18願から除かれることになりますし、第一わざわざ本願文で「除く」とつける意味がありません。阿弥陀仏は十方衆生とは言いながら十方衆生とは無関係な願を建てたということになりますよ? まぁ高森信心にどっぷりの状態ではどうしようもありませんが、朝晩のおつとめでも、

・一切善悪凡夫人
・矜哀定散与逆悪


と読んでいるはずです。世の中に善人と悪人がいるから一切善悪の凡夫人と言われているのであり、定善の機・散善の機という善機の他に逆悪の機という悪機がいるから定散と逆悪とを矜哀してと仰っているのです。特に学友部上がりの皆さんは、その明晰な頭脳を無駄にしないで頂きたいです。大切なことは、ちゃんと自分で考えなきゃ駄目クル!
アニメ名言ライブラリー より。お時間ある方はスマイルプリキュア! 第32話をご覧下さい(笑))

定善の機・散善の機というのは世の中に全く存在しないのではありません。「この定かならずすなはち得やすし」と仰った善導大師、そのお弟子の懐感禅師、また後善導と呼ばれた法照禅師は、定善ができた方と言われていますし、智覚禅師が上品上生の善人であったことは法然、親鸞両聖人が言われていることです。全人類が下品下生の逆謗の一機だというなら、善導大師、法然、親鸞両聖人が嘘を仰ったということになりますが、このように善知識方の仰ることを公然と否定する高森会長らのような者なら逆謗と言われても仕方ありません。
また、高森会長は全人類が逆謗の一機だとしながらもその逆謗の機に対して頓珍漢な教えを説き与えていますが、どう頓珍漢なのかということは次回に譲りたいと思います。


9、『観無量寿経』に説かれる10種類の機について

定善のできる定善の機から、散善のできる散善の機、そして下品下生の逆悪の機まで10通りの機を説かれた
---------------------------------------------
最初から言っても受け付けないから10通りの機を説いたが、実際は全人類は逆謗の一機しかない
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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