【考察】「人命は地球よりも重い」「生命の尊厳」「どんなに苦しくとも人生の目的を果たすまでは生き抜きなさいよ」などと聞いて人にも教えている親鸞会会員が自殺する理由
・『飛雲』三願転入に対する親鸞会の妄想9
・『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』逃げ場は親鸞会の外にあります。幹部の自死を通して思ったこと。
に紹介されているように、最近親鸞会の幹部が自殺したそうです。aさんのコメントによると、その方はIT関係の責任者だった特専部員であり、高森会長のお気に入りだったそうです。
親鸞会では人生の目的を達成すると
・人間に生まれてよかったという喜びの心
・よくぞ人間に生まれたものぞという生命の大歓喜
が獲られると説きますが、その幹部は、親鸞会の説く人生の目的は達成できなかったということでしょう。幸せな人が自殺するとは考えられませんから。辛かった、苦しみの人生だったということです。
親鸞会では、どんなに苦しくとも人生の目的を果たすまでは生き抜きなさいよと説きます。その目的とは後生の一大事の解決であるというのです。親鸞会の話によると、
人間は死ねば必ず無間地獄に堕ち、八万劫という長い間苦しみを受け続ける。
それを後生の一大事といい、その解決には親鸞聖人の教えを聞いて信心決定するしかない。
とのことで、今日その親鸞聖人の教えを正確に説けるのは高森先生しかおられないと言っています。
ところが、そういう教えを聞いているはずの、しかも幹部が自殺したのです。彼らは、人命は地球よりも重いとか、生命の尊厳などという言葉を使って人命の尊さを謳っていますが、その方はそれを理解していなかった、理解できなかった、としか言いようのない出来事です。所詮はこれらの言葉は、残念ながら勧誘用の謳い文句でしかなかったということです。
なお、親鸞会会員の自殺は珍しいことではありません。なぜそうなってしまうのでしょうか。
それには人それぞれ、いくつもの理由が考えられますが、やはり自分の考える一番は
今生で信心決定することができないのではないかという絶望感
です。親鸞会では、一番活動しているはずの講師部員を始めとして、何十年と会に尽くしてきた幹部会員も、勿論一般会員も、誰一人と言ってもいいほど信心決定したと喜んでいる人はいません。たまーに顕正新聞や顕真等で信心決定したという人が紹介されますが、その人が二千畳で紹介されたり、その人の体験や、どうしたら信心決定できるのかということが語られたりすることはありません。
そんな中で、自分が今生で信心決定して後生の一大事を解決できるだろうかという不安は、真剣に求めている人には必ず起こります。逆にそういう不安が起こらない人というのは目的がズレている人です。あるいは、この先自分は何十年と生きて求めることができると考えている、無常に鈍い吞気な人です。
信心決定しさえすれば後生の問題は解決なのですが、ところがこの信心決定ということが、親鸞会では非常に難しいこととして認識されています。いわく、信心決定するまでに通らなければならない道程があるというのです。それはおおよそ次の通りです。
1、仏教の根幹である因果の道理を深く信じる。因果の道理の結論は廃悪修善。
2、真剣に悪を慎み善に努めてゆくと、悪しかできない己の姿が見えてくる。
3、悪しかできないならば、因果の道理に順じて後生は一大事だと知らされる。
4、そうして後生の一大事に驚き立った者に、阿弥陀仏は十九願にて善を勧められている。
5、十九願に誓われているように真剣に善に努めてゆくと、善では助からない己が知らされ念仏に目が行く。
6、そのような人に阿弥陀仏は二十願にて万善万行の総体である念仏を勧められている。
7、二十願に誓われているように念仏に努めるが、念仏も称えられない、一つの善のできない極悪人と切り捨てられる。
8、そこで、極悪人をそのまま救い摂ると誓われた十八願の世界に転入する。
因果の道理を深く信じ、その結論である廃悪修善を努め、悪しか出来ない自己の姿が知らされ、悪因悪果で後生は一大事と己の後生に驚き立つ。上のチャートで言うと4までクリアしてようやく、黒板の縦と横の線で言えば黒板の右端に乗るようです。
これだけでも無理だというのに、そこから19願の実践という名の善の実践です。次に20願の実践です。そして最後に、善をすれば善のできないことが知らされて、機の深信が立ち、同時に法の深信が立つ、その体験が信心決定である、というのです。
ちなみに高森会長説によると、お釈迦様は当時の人々を横の線の軌道(黒板の右端)に乗せるのに45年かかったというのです。とすると高森会長が、会員歴が30年、40年、それ以上の人達を前に相も変わらず因果の道理を話しているというのも尤もな話です。高森会長に言わせれば、一番彼に付き随っている講師部員ですら19願の入口にも立っていないというのですから、そんな体たらくで今生救いに間に合う人などいるのでしょうか? 自分は間に合うのでしょうか?
今死んだら必堕無間です。しかし、死ぬまで求めても信心決定できずに死んだら同じく必堕無間です。結果は変わりません。そう考えた時、会の活動が過酷なほど次のような思いがよぎるでしょう。
頑張って死ぬまで求めても信心決定できずに無間地獄に堕ちるなら、今死んだ方がマシだ
と。こうなるともう絶望感しかありません。それで私は、会に在籍していた頃は毎日のように死にたいと考えていました。
そもそも親鸞会では、会員が信心決定することはほとんどありえません。なぜなら、信心決定するとは南無阿弥陀仏の六字のこころを正しく知って受け容れることだからです。そのために上のチャートのような道程を通る必要は無いし、通らなければならないとは全く教えられてはいません。
その、肝心の南無阿弥陀仏の六字のこころを親鸞会では全く教えないし、教えられていない邪義ばかり吹き込まれるので、そんな教えをまとも信じて信心決定できる道理がないのです。
蓮如上人は、信心決定するということについて次のように教えられています。
それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。(5帖目11通)
念仏を何の分別もなくただ称えていては報土往生は不定です。蓮如上人は、称えられる南無阿弥陀仏の名号に着目し、南無の二字ははもろもろの雑行をすてて、後生を阿弥陀仏にまかせるというこころであり、そのように弥陀におまかせした者を、造作もなく助けたもうのが阿弥陀仏の四字のこころであるぞと、六字のいわれを聞いてその通り受け容れたのが信心を取る、信心決定するということであるとお示しです。こればかり教えられたのが蓮如上人であると言っても過言ではありません。
そういうことを全く教えずに、やれ因果の道理だの、真実の自己だの、善の勧めだのと、往生に無関係なことばかり教えていて、聞く者が信心決定するわけがありません。会員の皆さんは、今こそ自分がいかに信心決定とは無関係の教えを聞かされ踊らされているかをよく知って親鸞会と決別し、すみやかに南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き受けて決定往生の身となって下さい。
・『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』逃げ場は親鸞会の外にあります。幹部の自死を通して思ったこと。
に紹介されているように、最近親鸞会の幹部が自殺したそうです。aさんのコメントによると、その方はIT関係の責任者だった特専部員であり、高森会長のお気に入りだったそうです。
親鸞会では人生の目的を達成すると
・人間に生まれてよかったという喜びの心
・よくぞ人間に生まれたものぞという生命の大歓喜
が獲られると説きますが、その幹部は、親鸞会の説く人生の目的は達成できなかったということでしょう。幸せな人が自殺するとは考えられませんから。辛かった、苦しみの人生だったということです。
親鸞会では、どんなに苦しくとも人生の目的を果たすまでは生き抜きなさいよと説きます。その目的とは後生の一大事の解決であるというのです。親鸞会の話によると、
人間は死ねば必ず無間地獄に堕ち、八万劫という長い間苦しみを受け続ける。
それを後生の一大事といい、その解決には親鸞聖人の教えを聞いて信心決定するしかない。
とのことで、今日その親鸞聖人の教えを正確に説けるのは高森先生しかおられないと言っています。
ところが、そういう教えを聞いているはずの、しかも幹部が自殺したのです。彼らは、人命は地球よりも重いとか、生命の尊厳などという言葉を使って人命の尊さを謳っていますが、その方はそれを理解していなかった、理解できなかった、としか言いようのない出来事です。所詮はこれらの言葉は、残念ながら勧誘用の謳い文句でしかなかったということです。
なお、親鸞会会員の自殺は珍しいことではありません。なぜそうなってしまうのでしょうか。
それには人それぞれ、いくつもの理由が考えられますが、やはり自分の考える一番は
今生で信心決定することができないのではないかという絶望感
です。親鸞会では、一番活動しているはずの講師部員を始めとして、何十年と会に尽くしてきた幹部会員も、勿論一般会員も、誰一人と言ってもいいほど信心決定したと喜んでいる人はいません。たまーに顕正新聞や顕真等で信心決定したという人が紹介されますが、その人が二千畳で紹介されたり、その人の体験や、どうしたら信心決定できるのかということが語られたりすることはありません。
そんな中で、自分が今生で信心決定して後生の一大事を解決できるだろうかという不安は、真剣に求めている人には必ず起こります。逆にそういう不安が起こらない人というのは目的がズレている人です。あるいは、この先自分は何十年と生きて求めることができると考えている、無常に鈍い吞気な人です。
信心決定しさえすれば後生の問題は解決なのですが、ところがこの信心決定ということが、親鸞会では非常に難しいこととして認識されています。いわく、信心決定するまでに通らなければならない道程があるというのです。それはおおよそ次の通りです。
1、仏教の根幹である因果の道理を深く信じる。因果の道理の結論は廃悪修善。
2、真剣に悪を慎み善に努めてゆくと、悪しかできない己の姿が見えてくる。
3、悪しかできないならば、因果の道理に順じて後生は一大事だと知らされる。
4、そうして後生の一大事に驚き立った者に、阿弥陀仏は十九願にて善を勧められている。
5、十九願に誓われているように真剣に善に努めてゆくと、善では助からない己が知らされ念仏に目が行く。
6、そのような人に阿弥陀仏は二十願にて万善万行の総体である念仏を勧められている。
7、二十願に誓われているように念仏に努めるが、念仏も称えられない、一つの善のできない極悪人と切り捨てられる。
8、そこで、極悪人をそのまま救い摂ると誓われた十八願の世界に転入する。
因果の道理を深く信じ、その結論である廃悪修善を努め、悪しか出来ない自己の姿が知らされ、悪因悪果で後生は一大事と己の後生に驚き立つ。上のチャートで言うと4までクリアしてようやく、黒板の縦と横の線で言えば黒板の右端に乗るようです。
これだけでも無理だというのに、そこから19願の実践という名の善の実践です。次に20願の実践です。そして最後に、善をすれば善のできないことが知らされて、機の深信が立ち、同時に法の深信が立つ、その体験が信心決定である、というのです。
ちなみに高森会長説によると、お釈迦様は当時の人々を横の線の軌道(黒板の右端)に乗せるのに45年かかったというのです。とすると高森会長が、会員歴が30年、40年、それ以上の人達を前に相も変わらず因果の道理を話しているというのも尤もな話です。高森会長に言わせれば、一番彼に付き随っている講師部員ですら19願の入口にも立っていないというのですから、そんな体たらくで今生救いに間に合う人などいるのでしょうか? 自分は間に合うのでしょうか?
今死んだら必堕無間です。しかし、死ぬまで求めても信心決定できずに死んだら同じく必堕無間です。結果は変わりません。そう考えた時、会の活動が過酷なほど次のような思いがよぎるでしょう。
頑張って死ぬまで求めても信心決定できずに無間地獄に堕ちるなら、今死んだ方がマシだ
と。こうなるともう絶望感しかありません。それで私は、会に在籍していた頃は毎日のように死にたいと考えていました。
そもそも親鸞会では、会員が信心決定することはほとんどありえません。なぜなら、信心決定するとは南無阿弥陀仏の六字のこころを正しく知って受け容れることだからです。そのために上のチャートのような道程を通る必要は無いし、通らなければならないとは全く教えられてはいません。
その、肝心の南無阿弥陀仏の六字のこころを親鸞会では全く教えないし、教えられていない邪義ばかり吹き込まれるので、そんな教えをまとも信じて信心決定できる道理がないのです。
蓮如上人は、信心決定するということについて次のように教えられています。
それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。(5帖目11通)
念仏を何の分別もなくただ称えていては報土往生は不定です。蓮如上人は、称えられる南無阿弥陀仏の名号に着目し、南無の二字ははもろもろの雑行をすてて、後生を阿弥陀仏にまかせるというこころであり、そのように弥陀におまかせした者を、造作もなく助けたもうのが阿弥陀仏の四字のこころであるぞと、六字のいわれを聞いてその通り受け容れたのが信心を取る、信心決定するということであるとお示しです。こればかり教えられたのが蓮如上人であると言っても過言ではありません。
そういうことを全く教えずに、やれ因果の道理だの、真実の自己だの、善の勧めだのと、往生に無関係なことばかり教えていて、聞く者が信心決定するわけがありません。会員の皆さんは、今こそ自分がいかに信心決定とは無関係の教えを聞かされ踊らされているかをよく知って親鸞会と決別し、すみやかに南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き受けて決定往生の身となって下さい。
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