【考察】高森顕徹会長の話の進め方

毎回のテレビ座談会がそうかは知りませんが、この前のテレビ座談会では高森会長は1日合わせて1分無い位しか会員の前に姿を見せなかったそうです。法話が始まる最初と最後、別室で医師や講師部員と座している姿が5~10秒程度映るだけだそうで、この演出は「会長先生は大変お疲れの中、私達の後生を案じてこのようにテレビ座談会のご縁を設けて下さっている」等と会員に思わせるのが目的なのかと考えてしまいます。

さて、高森会長は昔からそうですが、最初はゆっくり簡単な話をして、途中から急に仏教用語をバンバン出し、時間が無いから詳しく話せないとか、次に命があったら話しますなどと言って終わる話をよくします。今回も例に漏れず、最初は相対の幸福の話をゆっくり長々と説明し、途中から「信受本願 前念命終」(愚禿鈔)、「この娑婆生死の~」(改邪鈔)等の根拠を挙げて、結局説明途中で時間切れという形で終わったようです。本日はそうした高森顕徹会長の話の進め方について考察したいと思います。


1、最初はゆっくり簡単な話
無常、相対の幸福といった、いつも聞く話を具体例を挙げてゆっくり丁寧に、くどい位説明します。会員は、「無常を無常とも思わない私のために話してくださっているんだ」「相対の幸福が分からなければ絶対の幸福はもう分からない」等と思い込んで聞いているのではないかと思います。

2、途中から急に仏教用語をバンバン出す
会員としては「今日こそは真剣に聞くぞ」と臨むものの、1のいつもの話に多少なりとも気を抜いてしまうことでしょう。そこへ(会員にとって)高速で高レベルな内容に切り替えられると、「うわ~、何を言っているのか分からない」「やっぱり会長先生はスゴイ」「自分は真剣に聞いていなかった」「次こそは・・・」等と戸惑ってしまうのではないでしょうか?

3、時間が無いから詳しく話せないとか、次に命があったら話しますなどと言って終わる
今でこそ「前半で長々といつもの話はせずに、さっさと親鸞聖人のお言葉の解説に入ればいいのに」と思いますが、「七千余巻の一切経の内容をぎゅっと絞って話されているのだから3~4時間で話し切るのは不可能だ」「先生も次の命は無いかも知れないと思われている。もっと無常を見つめなければならない」「次も必ず参詣して真剣に聞かなければ・・・」と会員に思わせる作戦なのかなと考えられます。

大体いつもこんな感じです。会員は「今日こそは・・・」と思って参詣したのに、やはりというか、今回も信心獲得はならず、あるいは「今日もダメだった」と落胆し、あるいは「次こそは・・・」と誓って帰途に就く。これもいつも通りです。私は会員時代、毎回、毎年これでした。尤も今残っている会員でこのような志で臨んでいる人はどれだけあるかと思われます。


ここから推測されるのは、高森会長が話をする目的は「会員の信心獲得」ではなく、「次も来てもらうこと」だということです。最初のゆっくり分かりやすい話で油断した脳は、途中からの高速で仏教用語を交えた話を理解するのが難しくなります。そして前半で費やした分時間は押しますから、経典や聖教の言葉の説明はどうしたって短くなります。ケツの時間は決まっているので、午後4時で問答無用でタイムアウト。続きは次回、命があったらということになります。で、次行くとまた序盤はいつもの話。中盤から終盤にかけて急にペースアップして内容も難しくなり、途中で終わる。たまに完結したように思う回もあるが、やはり説明を聞いただけで肝心の信心は獲られない。目的は信心獲得、それには「聴聞に極まる」だから次も来るしかない。このように、次、次と期待を持たせて「次も来てもらうこと」を目的に話をしているように思えてなりません。「極難信だ」とかいうのはその理由付けに他なりません。

また、「自分はスゴイ人物なんだと思わせること」も目的かと思われます。分かりやすい話から真宗の淵源に至る話まで、とにかく幅のある話ができる、スゴイ仏教の先生なんだと思わせることで、先の目的もかない、また「先生、先生」と付き従う者も現れてくるでしょう。


浄土真宗は、突き詰めれば

他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。(歎異抄第12条)

とあるように「本願を信じ念仏を称えたら仏に成る」という教え以外にありません。阿弥陀仏が私達を救うと本願を発し、それが既に成就して私にはたらいていること、私はひとえにそのおはたらきによって本願を信じ念仏を申して仏に成るのだというのが親鸞聖人の教えです。それを私の計らい、余計な詮索や先入観を交えずにそのまま聞き受けるのが聴聞です。

こうした本願他力の法を説かず、いつも聞く者を煙に巻いて逃げるような話をする目的は、会員の獲信・往生の他にある、これだけは間違いありません。「絶対の幸福」だとか、「人生がガラリと変わる」だとか、現世利益を強調し、「(縦の線を指して)ここで絶対の幸福になる。そこまで求めよ」と自力回向のような話をする親鸞会は、断じて浄土真宗ではありません。会員の皆さんには、いつもの栓の抜けた風呂のような話で満足せずに、今聞いているような話で自分は後生助かるのか真剣に考えて頂きたいと思います。
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親鸞会に、教義批判に対して公開法論する気が全くないことが判明して3年9ヶ月

今や親鸞会教義は徹底的に批判され、高森顕徹会長の理論は完全に破たんしています。インターネットが普及し、昔は組織批判や人物批判が多かったのが、今では教義批判に特化したサイトも数多くあります。そこに書かれていることは、会の中で

「便所の落書きと同じだ」
「あんなものを見ると目が腐る」
「陰でコソコソと書いているに過ぎない」


などと貶められるような内容ではありません。決して自分勝手な解釈ではなく、経典や聖教に基づき、善知識方のお言葉を根拠として書かれているのです。会員の皆さん、それを見せないように講師部員や先輩が誘導しているのは、ハッキリ言えばあなたの後生を思っての親切心からではありません。あなたがやめることによる組織拡大要員の減少を防ぐためです。
もしあなたや、あなたに批判サイトを見るなと言ってくる人が本気で後生の一大事を解決したいと思っているなら、まずは一番大事な教義が正しいのかどうかをもっと確かめるべきです。高森顕徹会長の話にも出てくるように、方角が間違っていたら目的地にはいつまでたっても辿り着きません。もしあなたが親鸞会の話の一部を真実だと思い、それをもって親鸞会教義全体が正しいと思い込んでいるのだとしたら・・・? 自分に限って「そんなはずはない!」と思いたいでしょうが、現実はそんなに甘くはないのです。
おそらく会員の皆さんが、親鸞会が正しいと思うその内容は、人間の実相の部分だと思います。『なぜ生きる』で言えば、第一部に書かれているような内容です。具体的に言えば、幸せは続かないとか、必ず崩れ去るとか、老いや病や死の問題とか、あるいは欲や怒りや愚痴といった煩悩などの話です。もし、そういった人間の実相の部分が正しいと思うことをもって、親鸞会教義全体が正しいと思っているのだとしたら、それは早合点というものです。
新興宗教の勧誘方法は実に巧みです。親鸞会の場合は、多くの人が共感できる話から、徐々に仏教の言葉や譬え話を混ぜていき、ある程度のところで親鸞聖人の教えであると打ち出します。所々聖教の言葉を用いて話を展開していくので、古文に疎い素人はいかにも本物の浄土真宗の教えのように思ってしまいます。そうやっている内に、親鸞会教義全体が正しいと思い、また周囲の人間関係も確立して、思考は完全に親鸞会的人間へと変貌してしまうのです。

ただ、近年は親鸞会の滅茶苦茶な方針転換や、度重なる訳の分からない募財(例:再度のアニメ制作、入会基準の緩和)などもあって、「さすがにこれはおかしい」と気付く方が多いようでその点では有難いと思います。そんな方には、

飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~
親鸞会を脱会した人(したい人)へ
親鸞会邪義を破る
親鸞会教義の誤り
元会員から見た浄土真宗親鸞会

などをよく読まれたらよいと思います。また、私が退会する際、

私の白道
さよなら親鸞会

も大変読ませて頂き、親鸞会では内部ではこのようなことがあったのか、組織的におかしい根本はデタラメ創作教義にあったのかと参考になったものなので、合わせてピックアップしておきます。


なお、「高森先生は名前を出して堂々と話をしている。それに対してネット批判者は匿名でコソコソと悪口を連ねているばかりだ」なんかと言っている割に、親鸞会は教義批判に対して公開法論する気が全くありません。

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

の記事をご覧下さい。もう現時点で3年9ヶ月ほど経っていますが、飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~にはまだ法論開始の記事も載りません。新たな歎異抄解説書は出続けておりますので親鸞会の発表はですが、親鸞会が公開法論する気が全くないというのは本当です。この事実だけでも、会員の皆さんが会に留まり、活動する意味があるのか考えるには十分な材料かと思います。本当に親鸞会で後生の一大事を解決できるのか、会員の皆さんにはよくよくお考え頂きたいと思います。

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点(おまけ)

【まとめ】を挙げといて何ですが、まだあったので記事にしておきます。

当ブログでも散々取り上げてきました(親鸞聖人は「一切衆生必堕無間」などと教えられていません等参照)が、親鸞会教義の一つ「一切衆生必堕無間」は経典にもお聖教にもない言葉です。2005年位でしたか、そのことを当時のK学友部長に質問したら、『観無量寿経』に応堕地獄と説かれていて、一切衆生必堕無間と同じ意味だと返答がありました。
当時はそれで納得してしまいましたが、まるで的外れな回答であったと振り返って思います。まず、「応堕地獄」とは『観無量寿経』下品中生に説かれている言葉です。以下に漢文、読み下し文、現代語訳を紹介します。


仏告阿難及韋提希 下品中生者 或有衆生 毀犯五戒八戒 及具足戒。
如此愚人 偸僧祇物 盗現前僧物 不浄説法 無有慙愧 以諸悪業 而自荘厳。
如此罪人 以悪業故 応堕地獄。命欲終時 地獄衆火 一時倶至。
遇 善知識以大慈悲 為説阿弥陀仏十力威徳 広説彼仏光明神力 亦讃 戒・定・慧・解脱・解脱知見。
此人聞已 除八十億劫 生死之罪。地獄猛火 化為清涼風 吹諸天華。
華上 皆有 化仏・菩薩 迎接此人。
如一念頃 即得往生。
七宝池中蓮華之内 経於六劫 蓮華乃敷。当華敷時 観世音大勢至 以梵音声 安慰彼人 為説大乗甚深経典。
聞此法已 応時即発無上道心。
是名下品中生者。



仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品中生といふは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯せん。かくのごときの愚人は、僧祇物を偸み、現前僧物を盗み、不浄説法して、慚愧あることなく、もろもろの悪業をもつてみづから荘厳す。かくのごときの罪人は悪業をもつてのゆゑに地獄に堕すべし。命終らんとするとき、地獄の衆火、一時にともに至る。善知識の、大慈悲をもつて、ために阿弥陀仏の十力威徳を説き、広くかの仏の光明神力を説き、また戒・定・慧・解脱・解脱知見を讃ずるに遇はん。この人、聞きをはりて八十億劫の生死の罪を除く。地獄の猛火、化して清涼の風となり、もろもろの天華を吹く。華の上にみな化仏・菩薩ましまして、この人を迎接す。一念のあひだのごとくに、すなはち往生を得。七宝の池のなかの蓮華のうちにして六劫を経て蓮華すなはち敷けん。華の敷くるときに当りて観世音・大勢至、梵音声をもつてかの人を安慰し、ために大乗甚深の経典を説きたまふ。 この法を聞きをはりて、時に応じてすなはち無上道心を発す。これを下品中生のものと名づく」と。


釈尊はまた阿難と韋提希に仰せになった。 「次に下品中生について説こう。五戒や八斎戒や具足戒などを犯し破っているものがいる。このような愚かな人は、教団の共有物を奪い、僧侶に施されたものをも盗み、さらに私利私欲のために教えを説いて少しも恥じることがなく、いろいろな悪い行いを重ねてそれを誇ってさえいる。このような罪深い人は、その犯した悪事のために地獄に落ちることになる。この人がその命を終えようとするとき、地獄の猛火がいっせいにその人の前に押し寄せてくる。そこで、善知識にめぐりあい、哀れみの心からその人のために阿弥陀仏の持つ力のすぐれた徳と、光明の持つさまざまな不可思議な力を説き、またその戒・定・慧・解脱・解脱知見のすぐれた徳をほめたたえるのを聞く、その人はこれを聞いて、ただちに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれ、地獄の猛火はたちまちさわやかな風に変って、多くの美しい花を吹き散らす。花の上にはみな化身の仏と菩薩がおいでになって、その人をお迎えになる。するとたちまち極楽世界に生まれることができ、七つの宝でできた池の中にある蓮の花に包まれて、六劫を経て後にはじめてその花が開くのである。その花が開くとき、観世音・大勢至の二菩薩が清らかな声でその人を心安らかにし、大乗の奥深い教えをお説きになる。そこでその教えを聞いてただちにこの上ないさとりを求める心を起すのである。これを下品中生のものと名づける」


現代語訳を読めばお分かりのように、相手を限定して「このような罪深い人は、その犯した悪事のために地獄に落ちることになる。」と仰っています。親鸞会のいつもの断章取義です。親鸞会の提示する根拠は、たいていが前後を読めばそれが親鸞会の主張する根拠とならない事が分かってしまいますが、今回もその例に漏れません。


11、「応堕地獄」について

下品中生の無善破戒の機に対して言われている
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必堕無間と同じ意味で、全人類に対して言われている


私利私欲のために教えを説いて少しも恥じることがなく、いろいろな悪い行いを重ねてそれを誇ってさえいるような者がその犯した悪事のために地獄へ堕ちるのであり、全人類がそうではないことは言うまでもありません。ところで、そんな者とは一体誰の事を言っているでしょうか? この現代語訳は実に絶妙すぎて、拍手喝采、スタンディングオベーションものです。私にはあの親子と、それについていく確信犯的取り巻き連中が思い浮かびますが、皆さんはいかがでしょうか?

まぁそれはさておき、このようなことですから、親鸞会教義を真に受けていたずらに後生は地獄、後生は地獄と恐れることはありません。聞く者に地獄の恐怖を叩き込み、更には献金や勧誘活動に駆り立て、上司に無条件服従させるような教えなど、断じて親鸞聖人の教えではありません。ただそれでも後生に恐怖を感じてしまうという方は、「必ず助ける」との阿弥陀仏の仰せを、素直に受け容れ念仏して下さい。只今、ここにいる、このままの私めがけて、いつでもどこでも阿弥陀仏は喚びかけ続けられています。それを自分の側で小賢しい詮索をして、疑い計らい、耳を塞いでいるから、仰せを仰せのままに受容できないのです。因果の道理も、廃悪修善も、19願も、宿善も、縦横の線も、親鸞会で聞いてきた「助かるにはこうしなさい」系なことはみんな要りません。それらはみんな邪魔なので、親鸞会で積み上げたものはぶっ壊して、身につけたものは取っ払って、ただただ「助けるぞ」の仰せを聞くのみです。大丈夫です、必ず助かります。私が言うから大丈夫なのではなくて、阿弥陀仏が「必ず助けるぞ」と仰せなので大丈夫です。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

【まとめ】『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点

これまでの『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点のまとめです。
親鸞会教義とは、高森会長の話、『なぜ生きる』やアニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』の内容としています。
上段の青字が『観無量寿経』に説かれている事、及び『観無量寿経』を解釈された善知識方の仰せです。
下段の赤字が親鸞会教義です。


1、頻婆娑羅王について

八戒を授けられ、その後、阿那含という小乗仏教のさとりを獲た。
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因果の道理を説き示されたとあり、八戒を授けられたとか、さとりを獲たとの記述はない。


2、即便微笑の箇所について

釈尊の口から光明が輝き出て、頻婆娑羅王を照らし、その後王は阿那含という小乗仏教のさとりを獲た。
----------―--------------------------------
頻婆娑羅王についての記述はなく、弥陀の浄土に生まれる方途(定善と散善)の話に移行する。


3、釈尊の教導について

対機説法。成仏を目的とし、それぞれの機に応じて最も相応しい教えを説かれた。
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全ての人を横の線の軌道に乗せるために、仏教の根幹である因果の道理を説かれた。


4、なぜ定善は説かれたのか

韋提希が釈尊入滅後の衆生を心配して、衆生が自分の力で浄土を見る方法を尋ねたため。
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韋提希に実行させ、善のできない自分を知らせるため。


5、定善十三観の順番について

日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観というようにステップアップしていく。
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日想観ができなかったら水想観、水想観ができなかったら地想観というように簡単になっていく。


6、韋提希が獲信する直前について

「善ができないことが知らされて深い苦悶に堕ちる」というようなことは、『観無量寿経』のどこにも説かれていない。
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善ができないことが知らされて深い苦悶に堕ちる


7、善導大師の至誠心釈の一部「外に賢善精進の相を現じ・・・」について

真実の信心、他力の信心を顕わされた
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親鸞聖人の言い方ではそうだが、善導大師は19願のことを仰っている


8、善導大師の回向発願心釈の一部「二河白道の譬喩」について

真実の信心、他力の信心を守護する譬え
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信心獲得するまでの求道の道程を示した譬え


9、『観無量寿経』に説かれる10種類の機について

定善のできる定善の機から、散善のできる散善の機、そして下品下生の逆悪の機まで10通りの機を説かれた
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最初から言っても受け付けないから10通りの機を説いたが、実際は全人類は逆謗の一機しかない


10、下品下生の悪人に対して何を勧められているか

念仏一つ。善の勧めはない。
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善を勧められている。

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点6

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長6

には、下品下生の往生について書かれています。五逆罪を犯した極重の悪人が、平生に善をすることもなく、仏法を聞いたこともないのに、臨終になって初めて善知識に遇って、念仏の教えを聞き、念仏を称えようとするも臨終の苦しみのために、心の籠った念仏を称えることさえもできずに、口だけの10回の念仏で往生を遂げた、と説かれています。

この下品下生の往生を知れば判るように、阿弥陀仏に救われるために我々が善をやるやらないは全く関係ないのです。往生・獲信に関して善は不要、念仏一つで助かるというのが親鸞聖人の教えです。なのに、阿弥陀仏に救われるためにいかにも善が必要であるかのように説いているのが高森会長です。生活のためにやる善と、往生に関しての善をごちゃ混ぜにして、「やらねば善果は来ませんよ」などと、さも獲信までの求道の過程に善が必要不可欠であるかのように教えています。そんな教えを聞いている親鸞会会員は、「救いの一念には善が不要でも、一念に至るまでには善をしなければそこまで辿り着けない」などと考えて仏智を疑っているのですから、そらいつまで経っても晴れたも曇ったも分からず、助かるわけがありませんわ。

さて、前回の話で、高森会長は我々は逆謗の一機だと言っていると書きました。逆謗の機とは、『観無量寿経』の10種類の機で言えば下品下生、その中でも最低の極悪人です。では、善知識はこの下品下生の悪人に対して何を勧められているでしょうか?
『観無量寿経』には、定善の機に定善を勧め、上品上生・上品中生・上品下生に行福を勧め、中品上生・中品中生に戒福を勧め、中品下生に世福を勧め、下品上生・下品中生・下品下生に念仏を勧められたことが教えられています。くどいですが、下三品には善の勧めはなく、念仏一つです。勿論下品下生には念仏一つ、善の勧めなどかけらもありません。

それに対して高森会長はどうでしょうか? 18願での救いにあずかるまでの道程に善が要るとか、19願を必ず通るとか、宿善が厚くならねば信楽開発の時節到来はあり得ないとか、善のできないものと知らされるまで善をしなければならないとか、兎にも角にも善の勧めです。逆に、念仏を表立って勧める説法というのは私は聞いたことがありません。全人類が逆謗の一機しかないというのであれば、一切の諸善を棄てて、念仏一行を選択するしかないのですが、それを悪人に善を勧められたという頓珍漢なことを言っているのが高森顕徹会長です。親鸞会がどう頓珍漢か、お分かり頂けたでしょうか?


10、下品下生の悪人に対して何を勧められているか

念仏一つ。善の勧めはない。
-------------
善を勧められている。


マインドコントロール下にある会員さんは、親鸞会批判ブログで善の勧めを否定されているのを知ると、あたかも批判ブロガー達は生活上でも善いことをしないで悪にほこっているかのように思うかも知れませんが、それは違います。あくまでも、往生・獲信に関して善の勧めはない、と主張しています。程度の差こそあれ、誰しも倫理・道徳上の善はしていることでしょう。ただそれは我々の往生・獲信については無関係だと弁えているのです。しかし親鸞会の場合は、光(会員の皆さんが思っている「光」とは獲信のことでしょう)に向かう手段として善を勧められていますので、批判サイトはそうした光に向かう教えを邪義だと申しているのです。
それに、生活上でも善いことをしないで悪にほこっているのは他ならぬ高森会長と親鸞会上層部です(【考察】「光に向かって進ませて頂きます」というフレーズについて(3)等参照)。何より、いつでも公開法論に応じると豪語しておきながら飛雲との法論に逃げ続け、約束の一つもまともに果たせない親鸞会の姿が、「善の勧め」はウソであることを証明しています。

以上、飛雲を参考に『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点についての検証を終わります。

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点5

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長4

には、『観無量寿経』に説かれる10種類の機が挙げられています。

確かに『飛雲』にあるように、私が退会した2008年の教学講義でも、『観無量寿経』には10種類の機が説かれていると高森会長は説明していました。ただ、なぜ釈尊が10種類の機を説かれたかというところが問題です。過去の聴聞録によると、阿弥陀仏は全ての人を逆謗の一機しかないと見抜いているが、最初からそう言っても受けつけないから10通りの人がいますよとお釈迦様が教えられたのだというのです。高森理論では、『観無量寿経』では10通りの人がいると説いたは説いたが、実際は逆謗の機という1通りしかいないのだということです。
これが根本的に間違っています。実際は最高の善を具えた仏陀から、最低の悪人まで無限の階層がある中、『観無量寿経』ではお釈迦様が10種類の機に分類して教えられたのです。高森理論とは真逆です。よく仏教のことを八万四千の法門と言われますが、なぜそんなに多くの教えになったかというと、お釈迦様がそれぞれ異なる機に対してそれぞれ絶妙な教えを説き与えてゆかれたからでした。頻婆娑羅王には八戒(聖道門)を授けられ、韋提希には浄土門を説かれたのも、法を受け取る機が異なるからです。それぞれの機に対して最も相応しい法を説く、八万四千の法門は釈尊の巧みな対機説法の結果生まれたのです。全人類が逆謗の一機しかないというなら、そもそも悪を廃して善を修め、悪人から善人、聖者、そして究極的には最高のさとりを開いた仏陀を目指すという聖道門は存在しませんし、聖道門によってある程度まででもさとりを開く人も存在しません。逆謗の機には無理です。自力で龍樹菩薩や無著菩薩が初地までさとったとか、天台大師が五品弟子位までさとったというのは嘘かということになってしまいます。

そもそも親鸞会が「全人類は逆謗の一機しかない」と言っている根拠は18願の「唯除五逆誹謗正法」ですが、これが、どうして阿弥陀仏が全ての人を逆謗の一機しかないと見抜いていることになるのか、会員の皆さんはここから疑問を持たねばなりません。「ただ五逆と誹謗正法とを除く」ですから、当然そのような重罪を犯している人もあれば、犯してない人もあることは当たり前のことです。例えば公衆浴場では、よく「刺青をしている人はお断り」と書かれていますが、刺青をしている人としていない人がいるのでこのような断りがあるわけです。全人類が刺青をしていたら誰も公衆浴場には入れませんし、このような断りをする意味がありません。同じように、全人類が五逆罪と謗法罪を犯しているなら、全人類が18願から除かれることになりますし、第一わざわざ本願文で「除く」とつける意味がありません。阿弥陀仏は十方衆生とは言いながら十方衆生とは無関係な願を建てたということになりますよ? まぁ高森信心にどっぷりの状態ではどうしようもありませんが、朝晩のおつとめでも、

・一切善悪凡夫人
・矜哀定散与逆悪


と読んでいるはずです。世の中に善人と悪人がいるから一切善悪の凡夫人と言われているのであり、定善の機・散善の機という善機の他に逆悪の機という悪機がいるから定散と逆悪とを矜哀してと仰っているのです。特に学友部上がりの皆さんは、その明晰な頭脳を無駄にしないで頂きたいです。大切なことは、ちゃんと自分で考えなきゃ駄目クル!
アニメ名言ライブラリー より。お時間ある方はスマイルプリキュア! 第32話をご覧下さい(笑))

定善の機・散善の機というのは世の中に全く存在しないのではありません。「この定かならずすなはち得やすし」と仰った善導大師、そのお弟子の懐感禅師、また後善導と呼ばれた法照禅師は、定善ができた方と言われていますし、智覚禅師が上品上生の善人であったことは法然、親鸞両聖人が言われていることです。全人類が下品下生の逆謗の一機だというなら、善導大師、法然、親鸞両聖人が嘘を仰ったということになりますが、このように善知識方の仰ることを公然と否定する高森会長らのような者なら逆謗と言われても仕方ありません。
また、高森会長は全人類が逆謗の一機だとしながらもその逆謗の機に対して頓珍漢な教えを説き与えていますが、どう頓珍漢なのかということは次回に譲りたいと思います。


9、『観無量寿経』に説かれる10種類の機について

定善のできる定善の機から、散善のできる散善の機、そして下品下生の逆悪の機まで10通りの機を説かれた
---------------------------------------------
最初から言っても受け付けないから10通りの機を説いたが、実際は全人類は逆謗の一機しかない

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点4

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長3

では、『観無量寿経』上品上生で説かれた三心(至誠心、深心、回向発願心)の解釈の一部である

1、外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。(至誠心)
2、二種深信(深心)
3、二河白道の譬喩(回向発願心)

について、親鸞聖人は『教行証文類』の何巻に引文され、何を示されたものなのかが解説されています。

親鸞会では、さすがに2を信前の求道の過程として用いることはありませんが、1と3についてはとことん利用してきます。1については、阿弥陀仏に救われるためにはこうしなさいと三業の善を勧められた根拠として、また或いは、19願の説明で、『まことの心で善をするとはどういうことかをもう一つ分かりやすく言うとこういう事だ』と説明する時の根拠として用いています。これもひどいですが、3に至ってはオリジナル二河白道の譬喩を創作し、「信心獲得するまでの求道の道程を示すため」などと説明して架空の求道物語をでっち上げている始末です。

まず、1の文については当ブログでは、
  Q&A(4)ー外に賢善精進の相を現じて(1)
  Q&A(5)ー外に賢善精進の相を現じて(2)
を参照して下さい。また、元会員から見た浄土真宗親鸞会
  『観経疏』の「不得外現~」の御文を親鸞聖人は「要門」の法義とは見られていません
も参考になります。

次に3については、
  【5.白道とは】について
の記事とその中のリンク先を参照して下さい。

1も3も、共に真実の教・行・信・証を示された『教行証文類』の中、真実の信心、他力の信心を顕された『信文類』の最初のお言葉、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。 この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。 なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。

の根拠として出てくる以上、弥陀に救われるにはこうしなさいと三業の善を勧められたとか、ド真剣に善をしなさいとか、19願に関連しているとか、信心獲得するまでの求道の道程を示したものだとかの根拠であるわけがないのです。当然ながら上の『信文類』のお言葉の根拠としては『大無量寿経』からは18願のみで、19願は出てきません。

親鸞会は何が何でも「善のすすめ」を守りたいため、そして会員に「信前の求道」をさせたいため、前後をぶった切ってごく一部のお言葉を根拠として利用してきます。高森会長の話しか聞いていなく、また活動で忙しい会員は、そのお言葉が本来何を示されたものなのか知ることもなく、考えることもなく、知ろうともせずに諾々と高森会長の解釈に従っています。脳内が高森信心に支配された状態では、「高森先生に間違いがあるはずがない」と盲信し、ニセの浄土真宗を本物と勘違いして往生・獲信とは無関係な活動に貴重な人生を費やしてしまうのです。あたかも中身があるように見せて、実際は見せかけだけで中身が空っぽだったり腐ったりしているもののことを虚仮と言いますが、親鸞会ほど虚仮なものはないでしょう。「虚仮を懐くことを得ざれ」とは、「早く親鸞会という虚仮な団体から脱しなさい」という意味だと思えてしまうのは私だけではないと思います。いい加減、「浄土真宗」、「親鸞」の名を団体名から外してもらいたいものです。


7、善導大師の至誠心釈の一部「外に賢善精進の相を現じ・・・」について

真実の信心、他力の信心を顕わされた
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親鸞聖人の言い方ではそうだが、善導大師は19願のことを仰っている


8、善導大師の回向発願心釈の一部「二河白道の譬喩」について

真実の信心、他力の信心を守護する譬え
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信心獲得するまでの求道の道程を示した譬え

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点3

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点2

の最後に書きましたが、定善十三観とは極楽の世界と無量寿仏、観世音菩薩、大勢至菩薩の御姿を思い浮かべる観法です。簡単に言えば、

1、日想観-無量寿仏のおられる西方
2、水想観-澄み渡る水
3、地想観-極楽の大地
4、宝樹観-極楽の宝の樹々
5、宝池観-極楽の池の水
6、宝楼観-極楽の楼閣
7、華座観-無量寿仏が座っている蓮の台座
8、像観-無量寿仏の像
9、真身観-無量寿仏の真の御姿と光明
10、観世音菩薩観-観世音菩薩の御姿
11、大勢至菩薩観-大勢至菩薩の御姿
12、普観-自分が極楽へ往生するさま
13、雑想観-阿弥陀仏・観音・勢至の三尊が種々に変現するようす

を順々に思い描いてゆくことです。詳しくは『観無量寿経』を読んで頂ければよいのですが、難解な方には現代語 観無量寿経だけでも読んで頂きたいと思います。間違っても日想観ができなかったら水想観、水想観ができなかったら地想観、という行ではないことはお分かり頂けると思います。ちなみに私は会員時代、教学講義などでしきりに定散二善をやれと言われていましたが、定善がどのようなものか、それぞれの観法についてアニメに出てくる程度の説明しかなく、ただ富山へ参詣すること、高森会長の話を聞くこと、親鸞会に人を誘うこと、次々やってくる募財にお金を出すことばかり勧められていました。やれと言われるものがらについて何の説明もないことに何の疑問も抱かなかった当時の自分は本当に愚かであったと感じます。

さて、『なぜ生きる』やアニメ『王舎城の悲劇』では、第一日想観から第六宝楼観まで全て試してできなかった韋提希が深い苦悶に堕ちてゆき、第七華座観を説かれる直前に無量寿仏の御姿を拝見し、そこで信心決定したという話があります。この無量寿仏の御姿を拝見し、信心決定したということは、親鸞会で教えられている通りで、この部分は正しいです。
しかし、韋提希は前にも述べたように定善をしていませんので、定善ができなかったことによって「地獄しか行き場のない私でした」と深い苦悶に堕ちたりもしていません。親鸞会の説く二種深信の内、機の深信が「一つの善もできない極悪人と知らされること」なので、それに倣って話をしているようですが、これは全く親鸞会の創作話です。それに『観無量寿経』はこれでは終わりません。弥陀三尊を拝見した韋提希はその後次のように言います。

「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」
「世尊、わたしは今世尊のお力によって、無量寿仏と観世音・大勢至の二菩薩を拝ませていただくことができましたが、世尊が世を去られた後の世の人々は、どうすれば無量寿仏とその菩薩がたを見たてまつることができるでしょうか」

この後、韋提希の要請に応える形で第七華座観以降が説かれます。親鸞会の話ではここでハッピーエンドのような感じで終わっていますが、定善の話はまだまだ続き、その後散善の話も残っているのです。親鸞会の言っていることが正しいなら、もう善については終了でもいいようなものですが、この後も善の話は続くのです。何しろ高森会長の根拠は大沼師ですから仕方ありませんね。このようなことですから、阿弥陀仏に救われる瞬間をアニメの韋提希になぞらえ、一つの善もできない極悪人でしたと知らされ絶望して、それから阿弥陀仏の喚び声が五臓六腑を貫くみたいに思っている人は、今すぐその間違った思い込みを捨てて頂きたいと思います。

6、韋提希が獲信する直前について

「善ができないことが知らされて深い苦悶に堕ちる」というようなことは、『観無量寿経』のどこにも説かれていない。
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善ができないことが知らされて深い苦悶に堕ちる

親鸞会の説くところは勿論正しい箇所もありますが、肝心な部分についてはことごとくデタラメですのでご注意下さい。



※コメントにて指摘を頂き、不適切な箇所は訂正いたしました。失礼しました。

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点2

高森会長の話では、釈尊は、全ての人をいつもの縦と横の線で言うところの横の線の軌道に乗せるために45年間因果の道理を教えられた、そして『観無量寿経』で今までの全ての教えを定散二善でまとめられた、とありますがそうではありません。

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長1

にあるように、具体的には善ができる頻婆娑羅王には八戒、いわゆる聖道門の教えを、悪人である韋提希には浄土門の教えを説かれたのです。それぞれ機が違い、できる行が違うので、それぞれの機に相応しい教えを説く、これが対機説法です。いつも、いつも、初めて聞きに来た人に対しても、何十年聞いている人に対しても善因善果、悪因悪果、自因自果…ではないのです。親鸞会では対機説法という言葉は出てきても、その正しい意味がまるで理解できていないことが判ります。
それと、あの横の線の軌道が「全人類の救われるたった一本の道」というのは親鸞会独自の妄想ですので、「釈尊は全ての人を19願→20願→18願へと進めるために教えを説かれた」というのも間違いです。仏教の目指すところは成仏であり、その方法としては廃悪修善の厳しい行を積んでこの世で仏のさとりを目指していく聖道門の教えもあれば、この世での成仏を諦めて次の生で浄土へ往生してさとりを開くという浄土門の教えもあります。おおまかに聖道門、浄土門と言いましても、その教えは各宗派異なるように数多分かれております。如説に修行すれば証果が獲られますから、聖道門の教えも、浄土門内の自力の教えも無意味ではありません。ただそれらは自分には相応しないと思う人は、ひとえに本願を信じ念仏を申して後生を阿弥陀仏におまかせする、という親鸞聖人の教えを信奉するというだけです。聖道門の教え、浄土門内の自力の教えは縦の線に至る単なる通過点として釈尊が説かれたのではないということを知って頂きたいと思います。


3、釈尊の教導について

対機説法。成仏を目的とし、それぞれの機に応じて最も相応しい教えを説かれた。
-------------------------------------
全ての人を横の線の軌道に乗せるために、仏教の根幹である因果の道理を説かれた。



次に、「釈尊が韋提希に定善を説いて実行させ、できない自分を知らせようとした」という珍説についてです。

『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長2

を参照しますと、定善が説かれた経緯については、釈尊のお力によって浄土を見ることのできた韋提希が、釈尊入滅後の衆生を心配して、衆生が自分の力で浄土を見る方法を釈尊に尋ねたというのです。しかもその前には、釈尊は韋提希の能力では浄土を見ることのできないことを宣告されているのですから、既に釈尊のお力によって浄土を見ている韋提希は定善をする必要はないし、やろうとも思っていません。ですから、『観無量寿経』には韋提希が定善を実行してみてできたのかできなかったのか、という記述は一切ありません。「お釈迦さま、私、できません…」などとアニメの韋提希に言わせているのは、単なる高森会長の妄想ということがお判り頂けるでしょう。


4、なぜ定善は説かれたのか

韋提希が釈尊入滅後の衆生を心配して、衆生が自分の力で浄土を見る方法を尋ねたため。
---------------------------------------
韋提希に実行させ、善のできない自分を知らせるため。


それから、『なぜ生きる』やアニメ『王舎城の悲劇』の、韋提希に定善をやらせるシーンについてです。これが如何にデタラメであるかはリンク先を読んで頂ければよくお分かりかと思います。その部分を以下に引用します。

********************
定善十三観は、日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観というようにステップアップしていくものです。日想観ができなかったら水想観、水想観ができなかったら地想観ではありません。
実際『観無量寿経』には

この想成ずるとき、一々にこれを観じて、きはめて了々ならしめよ。
地想成じをはりなば、次に宝樹を観ぜよ。


等とあります。もし韋提希が日想観を実践しようとしてできなかったとするのなら、水想観は韋提希とは完全に無関係に説かれたことになります。

********************

算数で言えば、足し算ができたら引き算、そして掛け算、割り算と四則演算を、それから分数・小数計算、方程式、関数などとステップアップしていくようなものです。徐々に簡単なものになっていくというものではありません。ところが親鸞会の教えだと、足し算ができなかったら引き算を、引き算ができなかったら掛け算をと言っているようなものです。こんな頓珍漢な教えを聞いているから、何十年と聞いているベテラン会員でも未だ因果の道理で止まっているのです。


5、定善十三観の順番について

日想観ができたら水想観、水想観ができたら地想観というようにステップアップしていく。
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日想観ができなかったら水想観、水想観ができなかったら地想観というように簡単になっていく。


ここまでだけでも、如何に『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点が沢山あるかが分かります。これを書いていて、よくもあのようなデタラメ創作教義を唯一絶対にして真実の宗教だなどと信じていたなと恥ずかしくなります。では、今回はこれまでとして、続きはまた今度にしたいと思います。

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点1

『飛雲』 『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長

のシリーズに、実際に『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点が分かりやすく書かれています。当ブログでもそれを基に相違点の比較を行っていきたいと思います。

まず『観無量寿経』を一度も読んだことのない高森顕徹会長1には、頻婆娑羅王は自身の要請に応じて八戒を授けられ、その後王は亡くなるが、その際に阿那含という小乗仏教のさとりを獲たとあります。
一方親鸞会教義では、『なぜ生きる』を読んでも、アニメ『王舎城の悲劇』を見ても、”まかぬタネは生えぬ、刈り取らねばならぬ一切のものは自分のまいたものばかり”と因果の道理を諄々と説き示したとしかありません。また、獄中で死んでいく時も阿那含という小乗仏教のさとりを獲たとの記述や表現はありません。

ところで、頻婆娑羅王が阿那含をさとったのはいつかと言うと、親鸞会でも有名な、釈尊が微笑した時です。親鸞会で用いている『真宗聖典』では129ページです。

そのとき世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。
すると釈尊はにこやかにほほえまれ、五色の光がその口から輝き出て、その一つ一つが頻婆娑羅王の頭を照らした。そのとき頻婆娑羅王は、王宮の奥深く閉じこめられていたけれども、少ししもさまたげられることなく心の目で遠く釈尊を仰ぎ見て、頭を地につけて礼拝した。すると心がおのずから開かれて、二度とこの迷いの世界に帰ることのない位に至ることができたのである。

即便微笑の所だけ線が引っ張ってある人が多いでしょう。親鸞会お決まりの断章取義で、一部分は根拠を挙げて解説するが、都合の悪い部分は一切触れないため、頻婆娑羅王が小乗のさとりを獲たことなど知らず、失意の内に獄中で息絶え、後生は因果の道理に順じて無間地獄へ堕在したと思っている会員さんは多いと思います。『なぜ生きる』やアニメ『王舎城の悲劇』の内容しか知らなければ無理ありませんが…。
なお、『会報』第二集119ページには「この微笑より放った光明が別牢に幽閉せられていた頻婆娑羅王の心を照らした為に遂に心眼が開けたと説かれている」とありますが、この部分を知って覚えている方は少ないでしょう。ただ、この『会報』は大沼法竜師からの剽窃によるものであり、最早絶版となっていて手に入らない方もあると思うので、『なぜ生きる』とアニメ『王舎城の悲劇』に書かれ描かれていることを親鸞会教義として話を進めていきます。この点ご了承下さい。

以上短いですが、今回のまとめです。


『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点

1、頻婆娑羅王について

八戒を授けられ、その後、阿那含という小乗仏教のさとりを獲た。
-------------------------------------
因果の道理を説き示されたとあり、八戒を授けられたとか、さとりを獲たとの記述はない。

2、即便微笑の箇所について

釈尊の口から光明が輝き出て、頻婆娑羅王を照らし、その後王は阿那含という小乗仏教のさとりを獲た。
----------―--------------------------------
頻婆娑羅王についての記述はなく、弥陀の浄土に生まれる方途(定善と散善)の話に移行する。



※私は平成21年10月末に退会しましたが、その後発行された親鸞会の書籍を読んでおりません。例えば『なぜ生きる2』などに挙げた相違点について何か記述があればコメント等で教えて下さい。適宜訂正していきます。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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