FC2ブログ

『往生要集』を読んでいて思ったこと

『往生要集』には六道という迷いの世界を厭い離れて清らかな浄土を欣い求めるべきことが書かれています。その中、地獄の中でも最底辺の無間地獄がいかに苦しい処であるかは

阿鼻地獄の人は、大焦熱地獄の罪人を見ること、他化自在天処を見るがごとし。阿鼻

という文からも伺えます。焦熱地獄の十倍の苦を受ける大焦熱地獄の罪人を、欲界の最上位である他化自在天の人だと思うというのですから、いかに苦しみの激しい地獄であるかが伝わってきます。等活地獄でさえ耐えがたい苦痛であろうに、大焦熱地獄や阿鼻地獄の苦しみは想像も及びません。

一方で、天上界は五戒を保ち十善業を修めたことによって得られる楽なる果報ですが、やがてその果報が尽きて転落する時がやってきます。その時の苦しみは、地獄の苦よりも激しいと説かれています。

三界安きこと無し、猶火宅の如し

と『法華経』(譬喩品)には説かれているそうですが、そのように聞いて、私達は、いよいよ安きことなき穢土を厭い離れて、浄土を欣い求めるべきでしょう。


ところで、三悪道に堕する因は貪瞋痴の煩悩とそこから生ずる様々な悪業です。地獄界、餓鬼界、畜生界という三悪道に堕する衆生は十方の土の如くいると言われ、それに対して人間に生まれるものは爪の上の土ほどしかいないというのです。

われらいまだかつて道を修せざるがゆゑに、いたづらに無辺劫を歴たり。 いまもし勤修せずは、未来もまたしかるべし。 かくのごとく無量生死のなかには、人身を得ることはなはだ難し。 たとひ人身を得たれども、もろもろの根を具することまた難し。 たとひ諸根を具すれども、仏教に遇ふことまた難し。 たとひ仏教に遇ふとも、信心をなすことまた難し。 ゆゑに『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「人趣に生るるものは爪の上の土のごとし。 三途に堕つるものは十方の土のごとし」と。『往生要集』総結厭相

他の方はどうか分かりませんが、淳心房が日々やっている三業の所修は、間違いなく貪瞋痴の三毒に代表される煩悩に穢れた行為ばかりです。因果通途の義に従えば、畜生界はおろか、餓鬼界はおろか、地獄界に堕ちて当然の業しか造っていないといっても過言ではありません。その私が現在、三悪道を離れて人間界の生存を受けているというのは大変有難いことです。というか、有り得ないことです。

人間に生まれるには五戒を保ってきたと言われますが、私にできるのはせいぜい不飲酒戒くらいで、不殺生、不妄語などは到底できそうにありません。お酒好きな方は不飲酒戒も不可能でしょう。阿弥陀仏の本願力によって五戒を保たされて生まれてきたという話を聞いたことがありますが、さもあらんと頷かざるを得ません。

これを思えば、この私が、三悪道の苦しみを免れて人間として生かされている、こうして息をして生きているということ自体が不思議であり、有難いことです。それを、他人や過去と比べて自分の不幸を呪い、あれがほしい、これがかなったらと願い求めているのは強欲です、不与取です。それで幸せになれる訳がない。

私達はついこの身の幸を当然と思い、苦しい時などは人間に生まれたことを後悔したりしている有り様です。苦境に立たされていたり、うつ病などの精神病を患っていたりすると難しいですが、人間として生まれ、様々な恵みにより生かされている身の幸を、しっかりと感じて生きていかなければならないと思いました。


櫻井鎔俊和上の『教行信証を読む』には次のように書かれています。

(前略)人間も天人も阿弥陀仏の光明にあうと、三垢(むさぼりの心、怒りの心、愚痴の心)が消え、身も心もやわらかくなり、喜びの心がおこり、善心が生ずる。いいこといっぱいで、命を終えてのちみな解脱をこうむる(人天遇光の利益)。

 次に、「三悪道(地獄・餓鬼・畜生)で、阿弥陀如来の光明に遇うた者は休息を得る」、三悪道が休みになる、とこう書いてあるんです。地獄にも休みがあるのかというと、休みがあるどころか、おおありだ。どういうのが休みかというと、われわれが人間に出てきたというのが、地獄の休みなんだ。ちょっと一分間ほど休みがあって(笑)、ちょっとごめんこうむって、地獄から今人間に生まれてきた。これがまぁ、人間百年くらいがちょうどそれにあたる。というのは、このことが源信和尚の『往生要集』に八大地獄を明かしてある。その中の等活地獄のところに「人間の五十年を以て四天王天の一日一夜と為。其の寿五百歳なり。四天王天の寿を以て此の地獄の一日一夜と為て、其の寿五百歳なり」(『浄土真宗聖典七祖篇』、八九三頁)とある。だから、一分間お暇をいただいて、三途苦難(地獄・餓鬼・畜生道の苦しみ)の中から逃れて、人間世界へ出てきたというのが、「みな休息を得て」(聖典二九頁)という言葉です。そういう解釈をしないと、お経に味がない。      (p.193~p.194)


私も、そのように感じられます。その一分間のお休みの間に、その楽を享受するのみで終わらず、五道・六道という悪趣(迷いの世界)へ再び舞い戻って苦しみに沈むというようなことがないようにしなければ、人間に生まれてきた所詮がありません。

幸い、浄土真宗には悪業煩悩を自らの手でどうすることもできない我ら凡夫を、悪業煩悩を問題とせずに救う阿弥陀仏の本願力ましますことが説かれています。本願力は南無阿弥陀仏と成就して既に与えられていますから、私達はそのいわれを計らいをまじえずに聞き受けて、仰せの通り必ず浄土に生まれられると思い定めてお念仏申すばかりです。

どうか皆人がこの本願をまことと受け容れて、お念仏されるように願っています。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
スポンサーサイト

お念仏いかがでしょう

先日、妻から勧められて

珈琲いかがでしょう(コナリミサト (著) )

という漫画を読みました。上下二巻なので長編でもなく、すぐに一読できました。

最初はたかだか漫画だと甘く見ていました(コナリミサト先生ゴメンナサイ)が、最終話での次の会話を読んで深いことを言ってるなぁと感動しました。

みやび「珈琲って平等ってこと歌いたくて」
グリス「平等?」
みやび「男の人も女の人も 若い人もそうでない人も 
     明るい人も暗い人も いい人も究極言ったら悪人も
     珈琲飲んでるその瞬間は 「珈琲飲んでる人」ってことで平等じゃないですか」
グリス「平等かなぁ?」
みやび「平等ですよ 珈琲から見たら」(赤字は淳心房の強調)


一体どんなシチュエーションの会話なんだ? みやびって誰だ? グリスって誰だ? と興味を持った方はぜひご一読下さい。こち亀とかワンピースとかではないのですぐに読めると思います(笑)


さて、この会話を本願力回向という観点から伺うと、次のようなことを読み取ることができます。

一つには、念仏は一切衆生に平等に与えられている往生の行だということです。男の人も女の人も、若い人もそうでない人も、明るい人も暗い人も、いい人も究極言ったら悪人も、分け隔てがありません。

二つには、(本願を信じ)念仏する人は、男の人も女の人も、若い人もそうでない人も、明るい人も暗い人も、いい人も究極言ったら悪人も、一声一声が無上の徳をもった本願の名号を称え、計らいをまじえずに仏にまかせている人という点で平等です。また、「正定聚の位に定まり、必ず真実報土に往生する人」「如来の眷属」という点で平等です。

三つには、念仏は称える人の能力や善悪の違いを問題にしないということです。弥陀の本願は、男の人も女の人も、若い人もそうでない人も、明るい人も暗い人も、いい人も究極言ったら悪人も選びません。賢い人も愚かな人も、高貴な身分の人も卑しい状態に身をやつしている人も、若くて元気な人もたとえ臨終間際の人でさえ、本願の救いに漏れている人は一人もありません。念仏は誰もが歩める最高にして唯一の「往生のみち」です。

四つには、「阿弥陀仏から見たら」私達は平等です。『日本国憲法』憲法第14条には

1.すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(


とありますが、私達は生まれながらにして不平等です。両親も違えば性別も違えば、貧富、賢愚、美醜、強弱、住居、思考、性格、年齢、才能、能力・・・挙げればキリがありませんが、人の数だけそれらは違います。日本国内でも違うのですから、まして世界で見たら億差兆別、平等とは言葉だけの美辞麗句とさえ思えます。

しかし、阿弥陀仏だけが、すべての不平等を超えて、怨親平等の世界があることを知らせ、実際に自他一如のさとりを与えて下さいます。真如一実の功徳宝海と言われる、浄土より届いた真実の言葉が「南無阿弥陀仏」という念仏です。本当にさとり得るのは浄土に往生した後ですが、本願の念仏を頂いてこれを称える者は仏願に信順していますから、わずかではありますがそういう世界の存在を知らせて頂けていると思います。


箇条書きにしたものの、かぶる部分もあると思いますが、このように念仏の持つ意味を探ってみました。珈琲とは違って色も形も無い、匂いも味もない真如法性の世界なので、私がいくら言葉を尽くしてもサッパリ分かって頂けないであろうことが歯がゆいです。まぁ要らんこと考えず、要は

お念仏いかがでしょう

ということです(笑) 念仏は、これを頂いて称える者の身に速やかに往生成仏の因を満足せしめる、至易にして最勝の本願の行です。尽十方無碍光如来の名の如く、本願力のはたらいていない処はありません。

そして、珈琲は所定の場所に飲みに行くか、自分で淹れるか、どちらにせよ造作が要ることですが、お念仏はいつでもどこでも、この口一つ動かせば称えられます。一声に一秒もかかりません。お金も要りません。難しい教義を知る必要もありません。心が静まっていようと散り乱れていようと構いません。

ただ、念仏に込められた「助けるぞ」「我にまかせよ」の如来の大悲心を聞き受ける信心が肝要です。念仏は、私達の欲望をかなえてもらおうなどと如来様を利用する道具でも、称えた対価として往生させてもらえるという取引条件でもありません。念仏とは、

「どうぞ南無阿弥陀仏と申して浄土に生まれてきてくれよ」
「必ず浄土に迎えるから、安心してまかなさい」

という如来様の願いです。願いが「南無阿弥陀仏」という仰せとなって届いているのです。ですから念仏を申すとは、私達の側から言えば、如来様の願いを私達の口で称え聞いて、我らが今度の一大事の後生を疑いなく安心してまかせることなのです。

それは死んでからでは間に合いません。今、ここで、如来様の仰せを計らいをまじえずに聞き受け、後生おまかせすることが大事です。今、ここが、本願の念仏を称える道場、如来様の仰せを聞き受ける道場です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「もう大人になっちゃったパパはどうしたらいい?」「お浄土へ生まれたらいいじゃん」

毎年12月に、娘の通う保育園ではクリスマス会という名のお遊戯会があります。去年もありまして、先日お遊戯会の模様を録画したDVDが完成して入手したようでした。

うちの保育園では年少、年中、年長の各クラスごとに一つの劇をやるのですが、その中で年長さんのクラスは「ピーターパン」の劇をやっていました。ピーターパンはご存知のように、年を取らない永遠の少年です。子供の頃はもっと大きくなりたいなどと思っていた時もありましたが、体力的にもピークを過ぎて徐々に衰えを感じつつある今日この頃。年を取らない永遠の少年とは実にうらやましいと思いました。

さて、劇中にウェンディが「心だけは自由よ。子供のままでもいられるわ」とピーターパンに語っていましたが、しかしね・・・。親となり、社会生活を営んでいく上では子供のままではいられません。大人としての考え方を持って、きちんと物事を分別して生きていかねばなりません。時には子供の頃のように自分のしたいことを思う存分やってもいいとは思いますが、やはり程度や加減をわきまえないと、とんでもない事態にもなりかねません。

「心だけは自由」だと言われても、その心も大人として成長していかなくてはならない現実があります。それで、劇のこのセリフを次女に話し、

「もう大人になっちゃったパパはどうしたらいい?」

と聞いてみました。するとすかさず娘。

「お浄土へ生まれたらいいじゃん」

きっと娘は深く考えずに言ったのだと思いますが、この発言には驚きでした。次女は時々予想外の発言をして家族を楽しませてくれるのですが、この言葉には考察してみると実に深い意味が込められています。


本願を信じ念仏する真実信心の行人は、摂取不捨の故に正定聚の位に定まります。正定聚の位に住するが故に、必ず滅度に至ります。そしてこの上ないさとりを開き、阿弥陀仏と同じ無量寿、無量光の仏陀と成って、あらゆる人々を救い続ける大悲還相の活動をさせて頂くというのです。

ありとあらゆる囚われを離れ、自在無碍の活動をするのは滅度に至って後です。往生は本願を疑いなく聞き受けたその時に定まりますが、この世にいる限りは煩悩具足の凡夫としてあり続けるため、様々な囚われや執着を離れ切ることはできません。そして火宅無常の世界であるために、どうしても「どうにもならない」ことが起こります。生きてゆくのも、老いてゆくのも、病気になるのも、愛するものと別離するのも、厭い憎むものと会うのも、求めるものが得られないのも、五陰(五蘊)のそれぞれに執着して苦しみから離れられないのも、そして一番はこの肉体が死んでゆくのも、私達が人間である限りは「どうにもならない」ことです。

子供のままでいたいと思ってもかないませんし、「心だけは自由」だと言われても先ほど申し上げた通りです。また、その心は煩悩に穢れており、そのために苦しみから逃れることはできません。当来の世には無上涅槃のさとりを開かせて頂く念仏の衆生とて、それは変わらないのです。後生についての心配は阿弥陀さまに取り上げられてしまっていますが、生きていくことへの心配や悩みは尽きることがありません。

正定聚の位に住し、真の仏弟子と讃えられる身となったにも関わらず、それをよろこぶ心はおろそかであり、急いで浄土へ参りたいと思う気持ちもありません。連続する逆境やうつ病などによる心身の苦しみからこの世を厭い早く死にたいと思ったとしても、それは早くさとりを完成して自在無碍の大悲還相の活動を願ってのことではありません。あくまで現在の苦悩から逃避したいという我欲からです。その証拠には、苦しみが軽くなればあまり死にたいとは思わなくなります。心がこの肉体、この世界から離れていこうとしないのです。少しでも病気にかかると、死ぬのではないだろうかと心細く思われ、安養の浄土に心ひかれないのもそのためです。

『歎異抄』第九章には、それは煩悩が盛んであるからとして次のように仰せられています。

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。 

ですから、本当の意味で一切の苦悩や囚われから解放されるのは浄土に往生した暁です。

「お浄土へ生まれたらいいじゃん」

子供が何となく言った一言ですが、実はこれこそが真実の救いであり、浄土の慈悲なのです。

浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。『歎異抄』第四章

素晴らしいぞ、さすが我が娘! なんつって(笑) でもこのように言ってのける次女は只者でないかも・・・。


ただし、別に死に急ぐことを勧めているわけではないので誤解なさらぬよう。『歎異抄』第九章にも

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。

と仰せられてあります。縁のある間は娑婆におり、この世の縁尽きたら浄土へ往生するのです。生きる意味と方向を如来さまから教えて頂き、生きることも死ぬことも共に有難いことだと言えるのが、浄土への旅を生きる念仏者であると私は思います。

決定往生の身となった念仏者にとって生きることは浄土への旅です。今でこそ旅は楽しむものになりましたが、そう楽なものではないのです。「可愛い子には旅をさせよ」というのは、可愛い子には楽をさせよではありませんね。晴れの日もあれば雨の日もある、風の日、雪の日、時には嵐や台風の日もあり、思うようにならないのが旅です。突然の怪我や病気、不意な出来事との遭遇、時には死んでしまいたくなる位辛い事だってやってきますよ。私は、今は有難いことに割合順調な旅路ですけど、この先谷底へ滑落するやも知れません。運転中に子供が急に飛び出してきて・・・なんてことになったら、考えただけでも恐ろしいですが、いつそうなってもおかしくないのがこの火宅無常の世界です。

また、人生とは如来に遇わせて頂き、物事の真実なるすがたを知らせて頂く道場であるとも教えて頂きます。道場とは心と体を鍛える場所です。楽をしていても心身は強くはなりません。鍛錬を重ね、時に拳や蹴りを食らい、投げ飛ばされて何くそと悔しい思いもし、その内に段々と相手を制する力が身についてくるのが道場です。もしこの世から永遠に変わらない崩れない幸せとやらになれるなら、それはもう仏陀の境地、さとりの世界であって即身成仏、一益法門です。

楽しく順調な時も、苦しい逆境の時も、常に「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」の如来の仰せ、すなわち南無阿弥陀仏を信じ申して、浄土を期として報謝の人生を生きるのが、まこと本願のおこころにかなった念仏の行者であると思います。その生き様はそれぞれ異なり、やること、できることも違いましょうが、中心にあるのは私や私の煩悩妄念ではなく如来であり如来の仰せだというのは共通でありましょう。

そしてこの世の縁尽きたらかの土、真実報土へ往生するのです。しかしそれで終わりではありません。迷いの生が終わり、そこからは永遠のさとりの世界です。またそこが還相回向の出発点です。この世では煩悩具足の凡夫であり続けるため、私がどう頑張ってもサッパリ駄目です。自在性がないから言うことにも説得力に欠けるし、私の力では誰も助けてあげられない。それが、今生ではどうにもできなかった人達を、今度は責任を持って救ってゆく。そういうことができる身にさせて頂くのです。私の力でなるのではなく、還相までもが阿弥陀さまの御回向です。

相変わらず煩悩妄念は絶えず、常に如来に背き続ける愚かな悪性は変わりませんが、真の仏弟子と讃えられる信心の徳を与えられ、念仏の行者とならせて頂いた身の幸は何にも代えがたいものがあります。立派なことはできませんけれども、如来二種の回向、真実の教行信証を深く学び、選択本願の念仏と願力回向の信心を少しでも伝えられたら、そして同心に本願を信じ念仏を申すお同行が一人でも多く現れてくれたらと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

花粉と南無阿弥陀仏

目の痒み、くしゃみ、鼻水・・・これだから春はイヤだ(>_<)!

現在、絶賛花粉アレルギー中です。薬の影響なのか、春眠暁を覚えずだからなのか、とにかく眠いです。そして、薬のおかげでくしゃみや鼻水はある程度何とかなっておりますが、目の痒みは深刻です。朝、アルガードを点眼すればこれもある程度抑えられますが、花粉の飛散量が多い日は途中から痒くなってきてしまい、掻くと目に悪い上に止まらないしで辛抱するのが辛いです。段々と暖かくなり、花が咲くいい季節ではあるのですが、これだから春はイヤなんです。


ところで、私の周囲の人達は私と同様に花粉の影響下にあるはずなんですが、同じようにアレルギーで苦しんでいる人もあれば、「花粉? 何それ?」とでも言わんばかりのヘッチャラな人もあるわけです。これを見るに、花粉は私と周囲の人達を分け隔てしないが、体質の問題でアレルギーを発症する人としない人がいるのだなということが判ります。

これを南無阿弥陀仏で考えてみますと、私も周囲の人達も同じ南無阿弥陀仏の影響下にあるはずなんですが、已に本願を信じてお念仏している人、今お念仏する人、当にお念仏申す人と三世の不同があります。またお念仏を有難いと思う方もあれば、逆に「念仏? 何それ? 題目とどう違うの?」と言わんばかりの無関心な方もあります。南無阿弥陀仏は善悪、賢愚、男女、老少等で人を分け隔てしないが、機の側で縁が已に熟した人、今熟する人、当に熟する人があるために、受ける機の側で違いがあるのだろうなと思いました。

一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日 陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。 御一代記聞書(307)

【現代語訳】
蓮如上人は、「万物を生み出す力に、陽の気と陰の気とがある。陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を受ける日陰の花はおそく咲くのである。これと同じように、宿善が開けることについても、おそいはやいがある。だから、すでに往生したもの、今往生するもの、これから往生するものという違いがある。弥陀の光明に照らされて、宿善がはやくひらける人もいれば、おそく開ける人もいる。いずれにせよ、信心を得たものも、得ていないものも、ともに心から仏法を聴聞しなければならない」と仰せになりました。
そして、すでに往生した、今往生する、これから往生するという違いがあることについて、上人は、「昨日、宿善が開けて信心を得た人もいれば、今日、宿善が開けて信心を得る人もいる。また、明日、宿善が開けて信心を得る人もいる」と仰せになりました。


蓮如上人は、このように仏の大悲心は平等でありながら、これを受ける機に遅速があり、往生にも三世の不同があることを説明しておられます。


なお、上の蓮如上人のお言葉は、 

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。『安心決定鈔』【2】

われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。念仏といふはこのことわりを念じ、行といふはこのうれしさを礼拝恭敬するゆゑに、仏の正覚と衆生の行とが一体にしてはなれぬなり。したしといふもなほおろかなり、ちかしといふもなほとほし。一体のうちにおいて能念・所念を体のうちに論ずるなりとしるべし。 『安心決定鈔』【9】

等のお言葉が元になっています。宿善に厚薄があって、宿善薄い人は厚い人にならねば信心決定できないとか、宿善厚くなる行為として聴聞や破邪顕正をせよとか、そんな教義ではないことは『安心決定鈔』を読んで頂ければ明らかです。これについて詳しくは

『飛雲』弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり

等に書かれていますのでご参照下さい。とにかく、私達は信心を得ている得ていないに関わらず、また宿善が厚いとか薄いとかそんなことは問題とせず、蓮如上人の「ともに心から仏法を聴聞しなければならない」と仰せの通り聴聞し、本願を仰ぎ有難いことだ有難いことだとお念仏申すことが大事です。

加えて、聴聞するといっても、仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞くのであって、因果の道理から廃悪修善を実践せよという教えを聞くのでも、煩悩と闘って求道せよという教えを聞くのでも、19願の実践を勧める教えを聞くのでもありません。そのような教えを聞いていても獲信・往生にはプラスにならないどころか、逆に邪義にハマって真実のご法義を受けられなくなってしまいますから、速やかに離れるべきです。


それにしても、本願のはたらき、南無阿弥陀仏のはたらきは有難いんですが、花粉のはたらきは要らんです。花粉がはたらくのは勘弁してもらいたいもんですが、こればかりは今の日本ではどうにもなりません・・・。

Love is...

この前、ラジオで久々に河村隆一「Love is...」が流れてきました。自分が中学の頃、河村さんにハマって、CDを買って歌いまくった歌の一曲です。

You are my only
You are my treasure.
I'd give you my whole thing, even if you don't want.
Love is my only
Love is my treasure.
Please close to me more and don't leave me alone.


(淳心房意訳)
君は僕の全てだ。君は僕の宝物だ。僕の全てを君にあげる、たとえ君が望まなくても。
愛は僕の全てだ。愛は僕の宝物だ。どうかもっと僕の近くに来て、そして、僕から離れないでくれ。
(「my only」は、「僕にとってかけがえのない存在」、「僕にとって唯一無二の存在」と訳すのが妥当でしょうが、「君無しでは生きていけない」「君への想いの無い僕は僕ではない」という意味ですから「僕の全て」としました)

このような書き出しで始まる「Love is...」。歌詞全文を読めば、愛する異性への想いを歌ったものであることは明らかです。私も当時は好きな女の子のことを思い浮かべて歌っていました。結果は玉砕でしたが・・・(;^ω^)


ただ、上に挙げた歌詞だけに着目した場合、「You」と「I」、また「Love」を読み替えることによって様々な解釈が生まれるでしょう。

例えば「You」を子供、「I」を親とした場合。愛する我が子への想いを歌った歌へと変わるでしょう。特に幼い子供を持つお母さんなんかは、勿論全ての親がそうではありませんけれども、子供は自分の血肉を分けた分身であり、かけがえのない宝物だと愛し、文字通り自分の全てを子供に与える位の気持ちで育てていらっしゃるんじゃないかと尊く拝します。

夜泣きやぐずり、思うように食事をしなかったり言うことをきかなかったり、日々のイライラやストレスはそれはそれは親になった者、育てた経験のある者じゃなければ絶対に分からないものがあると思います。愛だの何だのと、きれいごとばかりではありません。時にはストレスから何も分からない子供に暴言・暴力をすることだってあるかも知れません。そんな悪戦苦闘の中でも、捨てずに育てていくのは、社会的責任というのもありますけど、やはり底には子供を愛する心、宝物だと大切にする心があるからだと思います。


さて、ここからは淳心房お得意の読み替えです(笑) 「You」を私、「I」を阿弥陀仏、「Love」はそのままでもいいですが、如来の大悲の結晶である至徳の名号、南無阿弥陀仏にしましょうか。すると、これは皆さんお気づきの通り、本願力回向と、この私一人を救うという阿弥陀さまの大慈悲心を表した歌になります。

You are my only
You are my treasure.
I'd give you my whole thing, even if you don't want.


阿弥陀さまは、この私を「かけがえのない独り子だ」だと、全てをかけてお前を救うてやると仰っている。たとえ私がそれを望まなくても。私が「迷いの世界を離れたい」「清らかなさとりの世界に往生したい」と願う遥か以前に、阿弥陀さまは私を救うてやりたいと願いを発されました。その願いが届いて、今私達は法に遇わせて頂いているわけです。「お前を必ず助けるぞ」「どうか気づいてくれ」とこういうわけですね。

Love is my only
Love is my treasure.
Please close to me more and don't leave me alone.


阿弥陀さまは生仏一如、自他一如のさとりの御方ですから、私達のように自分と他人を画然と分け隔てなさいません。南無阿弥陀仏の名号はひとえにこの私に与えることを第一として成就されましたので、阿弥陀さまの「treasure」はそのまま私の「treasure」となって下さるわけです。有難い。

阿弥陀さまは五劫の思惟、不可思議兆載永劫のご修行を経て、南無阿弥陀仏という功徳の宝を成就された。それは他でもない、抱えきれない罪業を抱えて流転を重ね、この度またも流転しようとしているこの私に与えて救うてやるためだ。ご自身が南無阿弥陀仏という声の仏と成って私に飛び込んで下さり、私をもう離さんで下さる、とこういうことでございます。

「どうか私の言うことを計らい無く聞き受けて、私の名を称えておくれ。もっと私の側に来て、そして、私から離れないでくれよ」

このように聞き受けたからには、もはや小賢しい詮索や先入観は要りません。私の考えや計らいなんかどうでもいい。本願のはたらきにまかせてただなんまんだぶつ。何とも有難くたのもしい本願力に嬉しくかたじけなく、お念仏申す他ありません。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


相変わらず自己中心的な想念に支配され、三毒の煩悩に煩わされ悩まされっぱなしではありますが、如来の回向が届いたからにはそれが影響して、皆さんにもこの本願念仏の法に遇って頂きたいという、本来私が持ち合わせもしない気持ちが起こってまいります。ところで阿闍世は獲信後、あんなに地獄を恐れていたのに

〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉「信文類」阿闍世、菩提心を起こす

【現代語訳】
<世尊、もしわたしが、間違いなく衆生のさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは、常に無間地獄にあって、はかり知れない長い間、あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはいたしません>

と釈尊に対して決意を述べておられます。阿闍世と言えば我欲のために父王を殺し、母を牢獄に閉じ込めるという悪逆をはたらいた人物だということは皆さんご存知だと思います。その後、心因性の重い皮膚病を患って瀕死の床についていたのを、釈尊の弟子であり、勝れた医者であり、大臣でもあった異母兄弟の耆婆に導かれて釈尊を訪ね、回心して救われたのです。無根の信を獲て後の決意が上の言葉です。

この病は治ることはない、自分はもう助からない、無間地獄へ堕ちるよりないと自分で自分をあきらめてしまっていた阿闍世が救われたのは、「われは阿闍世のために涅槃に入らず」という如来の大悲心に気づいたからでした。それについて、『聖典セミナー「教行信証」信の巻』より少々引用します。

 自分自身の罪を決して許せなかった阿闍世が、その罪深き自身を受け容れることができるようになったのは、「われは阿闍世のために涅槃に入らず」という仏陀の大悲心に包まれている自身であることに気づいたからです。如来が決して見捨てないと仰せられている自分を、自分が見捨ててはならないと気づいたのです。そのとき自分を包摂して、身と心の病を癒し、さとりの領域へと導きたまう仏陀の教化にしたがって生きることがまことの生き方であるという、まったく新しい生きることの意味と方向が定まったのです。それが阿闍世に恵まれた救いだったのです。(p.440~p.441)

これを私達に置き換えて考えてみますと、阿弥陀さまが私を救うことを決してあきらめていないのに、私の方で勝手に「もう俺の人生なんてダメなんだ」「いいことなんてないんだ」「どうせ信心決定なんて無理」とあきらめてはならんということです。南無阿弥陀仏という本願醍醐の妙薬は、どんな悪逆の者も回心させ往生成仏せしめる起死回生のはたらきがありますから、助からない者は一人もありません。六度万行や定善、散善をしてこいというなら無理だけれども、この如来の大悲心を聞き受けるだけですから只今救われます。だから、

あきらめんなお前!
だからこそ、Never give up!

先に救いに遇うた者として、俺は敢えて修造先生の言葉を借りてこう言います。

それにしても上の阿闍世の言葉、これこそ真の勇者です。私にはちょっとそこまで思われませんが、子供達や有縁の方々が本願を信じお念仏してくれるならどのような苦労も苦労と思わないぞという気持ちにさせられます。これも皆、真実の行信を賜った利益です。と、このように本願力回向の仏意を読み取ることができます。


本当に素晴らしい歌を作って下さったと、河村さんには感謝しかありません。肺腺がんを患われたようですが、先日、術後初のステージ復帰を遂げられて嬉しく思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

主語や目的語を変えたり、多少歌詞を変えたりすることで本願力回向、如来の大悲を味わえる歌は沢山あると思います。皆さんがお気づきになった歌があれば、ぜひ紹介して頂ければと思います。



【参照】
『うたまっぷ』Love is... 河村隆一
河村隆一 「Love is...」

嶋田さんの遺された数々のお言葉達こそ、嶋田さんの還相回向のご活躍そのものではなかろうか

二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。「証文類」還相回向

【現代語訳】
二つに、還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれることである。

如来二種の回向のうち、親鸞聖人は還相回向についてこのような書き出しで教えておられます。

還相とは「還来穢国の相状という意。往生成仏の証果を開いた者が、再び穢土に還り来て、他の衆生を教化して仏道に向かわせるすがた。」とのことです。往相回向の利益によって真実報土へ往生し、この上ないさとりを開いた者が、そのさとりの必然として展開される、娑婆世界へ還来しての衆生済度の活動のことです。

その根拠として聖人はまず天親菩薩の『浄土論』より

『浄土論』(四二)にいはく、「出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく」と。{以上}

というお言葉と、続いて曇鸞大師の『浄土論註』より

『論註』(下 一〇七)にいはく、「還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を度せんがためなり。このゆゑに、〈回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり」と。

というお言葉を引文されています。

還相というのは、浄土に生れた後、自利の智慧と利他の慈悲を成就することができ、迷いの世界に還ってきてすべての衆生を導き、みなともにさとりに向かわせることである」というのです。浄土へ生まれた者の、その後の衆生利益、衆生済度の活動ということです。

その後、様々な御文が示されますが、要は

浄土に往生してさとりを極めたものが、証果の必然として無縁の大悲を起こして衆生済度のため菩薩となり、あるいは、他方世界にあって釈尊のような仏陀のすがたを示現して説法し教化していく」(

という、浄土に往生した者の、種々の利他の活動相が顕されています。そして最後には

しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。「証文類」総結

と締めくくり、自利も利他も共に阿弥陀仏の本願力の回向によって恵み与えられるのだと教えられています。


以上、還相回向は浄土往生し、成仏した者の、その後の衆生済度の活動だということはわきまえております。ここからは、その上での淳心房の勝手な味わいです。

では今まで浄土へお還りになった善知識方や御同行方の、数々の書き残されたお言葉や伝えられている言動は一体何だろうか。実はこれこそ、善知識方や御同行方の還相回向の活動そのものではなかろうか。私にはどうもそのように思えてならないのです。

だってこんなにも有難い。こんなにも沢山の、後の世の人々に影響を与えている。その人達はもうこの世を去ってしまっているが、今なおもこの世にとどまって私達に教えを説き続けている。そのおかげによって淳心房は、如来興世の正意、阿弥陀仏の本願を知り、本願成就の南無阿弥陀仏に遇わせて頂くことができた。ですから、これは善知識方や御同行方の還相回向の活動と言っていいのではなかろうかと思うのです。

昨日の記事で言えば、『私の白道』『あなたの白道』に記された嶋田さんの数々の書き残されたお言葉です。嶋田さんの遺された数々のお言葉達こそ、嶋田さんの還相回向のご活躍そのものではなかろうか。

勿論、以前はそんなことは考えませんでした。しかし嶋田さんが往生し、この世を去られて、改めて私の過去のお育てを振り返ってみるに、あの時嶋田さんが『私の白道』を著して下さらなかったら、私は親鸞会の教義の誤りに気付かなかったかも知れない。未だに「平生業成」の看板を掲げた「死ぬまで求道」の教えに迷っていたかも知れない。であれば、私は今の私とは全く別の運命を辿っていた。親鸞会の教義にも自分の無力さにも絶望し、自ら死を選んでいたっておかしくはない。そう考えると、実はあれこそが嶋田さんが淳心房一人を助けんがための還相回向のおはたらきではなかったかと思えてくるのです。

今は嶋田さんに限って話をしていますが、嶋田さんだけではありません。釈尊、七高僧方、親鸞聖人、蓮如上人、その他有名無名の知識方、同行方、数え切れない沢山の方々の書き残されたお言葉が、今もなおこの世にとどまって、私に教えを説き続けている。その徳音によって、今私になんまんだぶが届いた。そうであれば、みな淳心房一人を済度せんがための還相回向のご活躍であったと言っていいのではなかろうか。

近藤元講師にしてもそうです。梯實圓和上にしてもそうです。皆々、淳心房一人に如来二種の回向を教えて、またこの尊い教えを弘めてくれよと言い残して還られた菩薩方ではなかろうかと思えてくるのです。


少し、いや大分、教義に外れたことを申し上げました。以前から思っていたのですが、嶋田さんの一周忌を機に述べさせて頂きました。同心される方、異論・反論のある方、様々おられましょうが、当記事で私の書いたことに納得頂かなくて結構でございます。私はこのように味わっている、それだけです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

嶋田久義元講師のご往生より早や1年

『あなたの白道』一周忌

の記事をご覧になった方も多いと思いますが、嶋田久義元講師のご往生より早や1年です。

直接のご縁としては華光会館で一度見かけて少々話をさせて頂いた程度なのですが、ブログ

『私の白道』

が私に与えた影響は非常に大きいです。このブログによって、親鸞会教義の誤りと高森会長や幹部講師らの実態を知らされ、また本願に救われた世界があるんだ、実際に私も救われるんだと勇気づけられました。この場を借りて、嶋田元講師に深く感謝の意を表したいと思います。本当にありがとうございました。おかげさまで淳心房、本願を信じお念仏を申して、浄土を期として願力の白道を歩む念仏行者とさせて頂きました。

現在は還相のご活躍をされていると思いつつ、私も一人でも多くの方に親鸞会教義の誤りと、正しい浄土真宗の教義・安心を知って頂きたくブログを続けていきたいと思います。嶋田元講師、どうぞ仏の大慈大悲をもって未だ迷っている有縁の方々を導いて頂きたいです。


さて、嶋田元講師はブログを読まれれば判ると思いますが、中央仏教学院の通信教育で勉学に励まれ、寺の僧侶として南無阿弥陀仏の六字のこころをお取次ぎする人生を歩もうとされる半ばで病魔に襲われました。

どれほど、今日を生きて法を伝えたかったであろうかと、その無念を思うとつい涙ぐんでしまいます。

朝3時に起きて 新聞配達をして 6時から昼3時まで豆腐屋で製造の仕事をして、夕方 5時30分から 葬儀社の駐車場の係りを 2時間してと1日 10時間は働きました 。第6章 ②

還暦を過ぎてこのような生活をし、合間に勉学されていたというのですからものすごい根性です。対して自分の不甲斐なさ、根性のなさに我ながら情けなくなります。あれは先週の金曜日、何とかその日に来た大量の荷物を片付けて、疲労困憊の中で会社に戻ろうと車を走らせていたそんな折、

『radico.jp』タイムフリー HOT69(1月18日まで。ただ無料で聴けるのは主に関東地域限定かも知れません)

の、開始3分ちょっとで流れる

BRAVE feat. Toshl(X JAPAN)

という曲が耳に入り、その中の

俺が死にてぇと思った今日は
奴が死ぬ程生きたかった明日
我に返り蹴飛ばすヴァース
奮い立つ


の部分に、「そうだ、今日という日は嶋田さんが死ぬほど生きたかった、生きて法を伝えたかった明日なんだ」と勇気をもらいました。またその後の、闇を打ち消すように力強く響くToshiさんのハイトーンボイスに、俺も現状に負けずに立ち向かってゆこうと元気づけられました。

よく、仕事が忙しすぎて家と会社の往復しかしてないなという時は、今日という日は何の意味があったのかな、いたずらに費やしてしまっただけなのかなと思ってしまうのですよ。最近は「死にてぇ」までは思いませんけど、やはり生きることの意味と死ぬことの意味をよく考えます。

私は仕事に1日の半分以上の時間を取られます。命の半分は、お金という対価の代わりに会社に捧げているようなものです。仕事で既にクタクタ、それでいて妻も小さい子供達もいるので、思うように法話を聞きに行ったり、勉強したりという時間が中々持てません。非常に厳しい中ですが、少しは嶋田さんのそういった生きざまを見習って、ブログの題に掲げた通りのことが実行できるように努めていきたいと思ったのでした。


未だ読まれたことの無い方は、親鸞会の実態を知る上で

『私の白道』
『あなたの白道』

を一読されることをお勧めします。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『歌ねっと』AK-69 BRAVE feat. Toshl(X JAPAN) 歌詞

謹賀新年(2019年)

2019年が始まりました。今年もボチボチ書いていくつもりです。よろしくお願いします<(_ _)>


さて、最近私が特に思わされるのは、「御恩」ということについてです。

私が阿弥陀仏の本願念仏の教えを聞くようになり、本願力回向の行信を獲て本願を信じ念仏する身になったのは、私の力ではありません。全て阿弥陀仏の大慈大悲のお心によってそうならしめられたのです。

そうであるように、私がこの世に生まれてきたのも、こうして不自由なく暮らせていけるのも、私の力ではありません。父母あり、先祖あり、周囲のお世話になった方々あり、私の血となり肉となるために犠牲になった多くの動植物あり、地球あり、太陽あり、空気あり、水あり、火あり、風あり、土あり、その他挙げればキリがないほど実にさまざまなものの「おかげさま」によってです。その御恩を思い、感謝して生きてゆけるならば、これは幸せなことだと思います。

ただ、特に私なんかはこうした仏教の教え、お念仏の教え、御恩の教え、「おかげさま」の教えを1回2回聞いた位で、それ以降聞かなくてもそのような思いを持ち続けて仏祖や周囲に感謝し、幸せに生きてゆけるほど賢善な者ではありません。。往生の信心は即座に定まっても、相変わらず煩悩具足は変わらないし、周囲の環境も変わるわけではありません。だから教えを聞き続けなくちゃなりません。

1回2回聞いてその教えをずっと心に保ち、身に保てるほど俺はできた人間じゃないです。体の栄養失調も困りますが、教えの栄養失調ほど困ることはありません。私みたいな者は、普通に生活していたら、すぐに煩悩で有難さが曇ってしまいます。愛欲と憎悪ですぐに三悪道まっしぐらです。

聴聞は信前だけ大事で、信後はしなくていいということではありません。むしろ信後の方が大切ではないかと今は思います。相変わらず仏様とは正反対の方を向いて苦悩に沈むのが大好きな愚悪な自分を知らせて頂き、今こうして生きている一瞬一瞬にもその自分を摂め取って捨てない大慈大悲の阿弥陀さまましますこと、このお念仏の教えを私まで届けて下された多くの方々のこと、多くのもののおかげで生かされていることを知らせて頂く。そして懺悔と感謝を繰り返し、常にお念仏を申して浄土へ向かって生きて行く。こうでなけりゃいかんなと最近つくづく思います。


ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。総序

ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。信文類

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。化身土文類

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これによりて、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭ふ。ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず。もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。後序

(59)如来大悲の恩徳は
   身を粉にしても報ずべし
   師主知識の恩徳も
   ほねをくだきても謝すべし
正像末和讃

親鸞聖人は、挙げればキリがないほど、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳の深いことを念うて、それをお慶びになっています。そして、ひたすらその報謝の活動に挺身されました。

私も、親鸞聖人とはとても比較にならないお粗末なことしかできませんが、他力の信心を通して知らされた世界と、親鸞会教義の誤りを紹介していくこと、家族に阿弥陀仏の徳の尊さを伝え、お念仏を喜び申していくことで、私なりの御恩報謝をつとめていきたいと抱負を述べまして、新年のご挨拶としたく思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

仏法をあるじとし、世間を客人とせよ

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

俺はこの世に仕事するために生まれたんじゃない。食うて糞して寝て起きて死ぬばかり、そんなことのために生きてるんでもない。この人生、ひとえにお念仏申すための人生です。

何のために生まれてきたのか。本願を信じ念仏を申して二度と迷わない身となる。これが第一の目的で、自分がそういう身となったならば今度はその喜びと共に有縁の方々に本願をお伝えする。これが第二の目的です。そして浄土に参った暁にはこの上ない悟りを開いて一切衆生を思うが如く利益する。これが第三の目的です。

迷いを離れ、往生成仏する万人共通の道。本願を伝え、御恩に報いる道。一切衆生を救うてゆく道。それが「念仏」であり、先の三つの目的は往相回向の「念仏」によって達せられますから、この人生はお念仏申すための人生だというのが淳心房の領解です。ですから、当然お念仏申すことが人生の中心になければならない・・・はずです。


ところが、現実としては生活が中心になっています。仕事の合間にお念仏、移動の間にお念仏、家事や育児の間にお念仏、ブログを書いている間にお念仏・・・。お念仏が出てくるのは有難いことだけれども、これでは仕事や生活が主人で、お念仏は客人、脇役となっている感が否めません。迷いの深い自分は、気が付くとお念仏と生活の立ち位置が逆転しています。

仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。
仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなりと[云々]。
『御一代記聞書』(157)

「仏法を主とし、世間のことを客人としなさい」という言葉がある。
仏法を深く信じた上は、世間のことはときに応じて行うべきものである。


蓮如上人はこのように仰せられたとあります。主人が誰なのか、客人が誰なのかすら分からなくなってしまう。そんなことは普通はあり得ない話ですが、そのあり得ないことが自分にあり得ている。何と恥ずかしいと思うと共に、やはり法を聞き続け、お念仏を相続してゆく重要性を痛感します。それでいくと、

仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」と、『和讃』(浄土和讃・三一)にあそばされ候ふ。
『御一代記聞書』(155)

「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。仏法においては、明日ということがあってはならない」と、蓮如上人は仰せになりました。このことは『浄土和讃』にも

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
たとえ世界中に火が満ちているとしても、ひるまず進み、仏の御名を聞き信じる人は、往生成仏すべき身に定まるのである。

と示されています。


のお言葉も、当面は厳しく聞法姿勢、聞法精神を正しているお言葉ですが、上に示した主人と客人を間違えぬようにとの御指南であるとも私には受け取れます。


本願を信じられました。お念仏称えました。それでおしまい・・・ではさみしい。信後も如来のお育てにあずかり、自身が相応の念仏者に育てられてゆくと共に、多くのお仲間と共にお浄土参りを果たしたい。

六字のみ名を となえつつ
世の生業(なりわい)に いそしまん
海の内外(うちと)の へだてなく
み仏(おや)の徳の とうとさを
わがはらからに 伝えつつ
浄土(みくに)の旅を ともにせん


真宗宗歌でも「六字のみ名をとなえつつ」世の生業にいそしまんと、六字の御名を称えることが先です。宗歌に触れる度、主客が逆転している浅ましい自分だと気付かされ懺悔すると共に、仏法が主人であることを再確認し、この宗歌の通りに生きていきたいと思います。

まぁ現在の自分の仕事は宅配関連で、はたを楽にするというよりはどうも欲望の増長をしている感が否めなく、また理不尽なことも多くて「おかげさまで生活させてもらえるのだ」という心を保ち続けるのは自分には極めて困難ですがね(;^ω^) 世の生業も御恩報謝と達観できるようになるには先は長そうです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
仏法を主とし(真宗の味わい)
真宗宗歌

ねんぶつとは、なんまんだむです

娘の宿題の一つに、日記のようなものがあります。この前、特に書くことがなかったのか、娘が突然

「念仏について書こう」

と言い出しました。しかもその書き出しが

ねんぶつ
ねんぶつとは、南無阿弥陀仏です。

(漢字は私が書きました。娘は更に、横に「なんまんだむ」と振り仮名を振っています)

ですから二度ビックリ。「なんまんだぶととなえることです」とか書くと思ったけど、確かにこれで間違いない。

念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。「行文類」経文結釈「破闇満願」

しかも南無阿弥陀仏を赤鉛筆で横線引いて「大じ!」と書いている。間違いない。これ以上大事なことは無い。

すげーな我が娘。しかし宿題でこんなこと書いていいのか?


まぁせっかくだからと様子を見ていると、どうもその後、「念仏を称えると極楽浄土に往ける」と書きそうだったのでちょっと手助けを。これでも間違いではなんですけどね・・・どうせなら正確な教えを書いてもらいたい。ただ、あまり長ったらしいと娘も書く気をなくしてしまうだろうな。少し考えた結果、

阿弥陀仏はその昔、全ての人を平等にすくうにはどうすればいいか考えて、わが名をとなえる者を往生させるとちかいを立てました。今はそのちかいがかんせいし、ちかいをうたがいなくしんじてとなえるものはかならずじょう土に生まれます。

習っていない漢字もあるので、このように書いてもらいました。ほとんど手伝っちゃった感がありますが、念仏について書くことは恐らくこれが最初で最後だと思ったので、まぁいっか。あと、先生としたらいきなりこんなことを子供が書いてきたらビックリすると思ったので、一応

パパはこういうのをべんきょうしているそうです。

と書き足してもらいました。オウム真理教の一件以降、日本では宗教偏見が多いのでどう思われるかおおよそ察しはつきますが、読むだけ読んでもらいましょうというつもりで・・・。


ちなみに後日。先生のコメントは赤ペンで

むずかしいのにすごいなあ・・・

というものでした。非常にまともなコメントですね(^-^;

どうも極楽とか浄土というと遊園地のちょっといいのを向こうに思い描いているような娘ですが、往生のみちは弥陀選択回向のお念仏以外には無いと計らいなく信じて称えるようになってもらいたいものです。


なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード