FC2ブログ

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

この前、ようやく本物の人気アニメ映画『君の名は。』をブルーレイで見ました。私が言うのも何ですが、確かに完成度の高いアニメ映画でした。まず作画がとても美しい。現実では有り得ない独特の世界、面白いところ、シリアスなところ、萌え~なところ、考えさせられるところ、様々なものが込められていて、とても楽しく見ることができました。1、2回見た程度ではちょっと理解できない、作者の思いを汲み取れない部分もあると感じています。機会があればもう1回借りて見たいところです。それにしても大きくなった四葉たんカワユス・・・(*´ω`*)

・・・さて、話の中で、ヒロイン宮水三葉のおばあちゃん、宮水一葉の言葉が心に残りました。本当は耳で聞いた言葉を抜き出すつもりでしたが、返却まで時間が無かったのと忙しかったのとでできませんでした。幸い現在は様々な情報がweb上に上がっていますので、そこからお借りしたいと思います。

一葉「三葉、四葉、むすびって知っとるか?」

・・・

「この言葉には深ーい意味がある」

「糸を繋げることもむすび」

「人を繋げることもむすび」

「時間が流れることもむすび。全部神様の力や」

・・・

「わしらのつくる組紐もせやから、神様の技。時間の流れそのものを表しとる」

「縒り集まってかたちを作り、捻れて、絡まって、時には戻って、途切れて、また繋がり...」

「それがむすび。それが時間」


念のため申しておきます。宮水家は代々神社の家系なので「神様」というワードが度々出てきますが、親鸞会の方は一々反応しないで下さいね。阿弥陀仏以外の諸神に仕えるのは「雑行」と徹底されているので、会員の皆さんはいわゆる「五種の雑行」はしていないと思います。しかし、「五種の雑行」さえしなければ良いだろうという考えは大間違いです。皆さんが信心獲得に良かれと思ってやっている聴聞、献金、勧誘、会長や上司への無条件服従等の活動だってみな漏れず「雑行」の範疇ですから。まぁ正確には親鸞会の主な活動など「雑行」とは程遠い「悪行」です。しかも往生・成仏ではなく、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、現世利益が目的では「雑行」とも呼べない、善もどきの善、新興宗教の活動なのですが、細かいところは目をつぶりましょう。

話を戻します。おばあちゃんは「むすび」という言葉を使って、人を繋げること、時間が流れることを「むずび」と言っています。この「むすび」とは異なりましょうが、私達も様々な「縁」によってむすばれています。この世に生まれたのも、現在を生きているのも、誰かと出会ったのも、様々な因縁が絡んで起きたことに他なりません。

そして、私達が現在阿弥陀仏の本願を知り、本願を信じ念仏するようになったのも全て「弘誓の強縁」によってです。親鸞聖人はそのことを、

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(総序)

【現代語訳】
ああ、このような力強い本願力には、いくたび生を重ねても値(あ)いたてまつることは難く、清らかな真実の信心は、無量劫を経ても、獲る機会はなかった。思いがけなくも、いま行信を獲、本願を信じ、念仏をもうす身になったものは、遠い過去世からの阿弥陀仏のお育てのご縁に思いを致して慶べ。

と仰っています。遥か遠い昔からの阿弥陀仏のお育てのご縁によって、現在私は本願を信じ念仏する身となったというのです。また、そのような尊い本願を伝えて下されたお釈迦様を始めとし、インド、中国、日本の高僧方を挙げて、そのご恩を喜ばれると共に本願念仏の法を懇ろに示しておられます。『正信偈』には具体的に7人の高僧方のお名前と、それらの方々の教えが説かれていますが、その裏にはもっともっと多くの、有名無名の方々がこの教法の伝持相承に携わっておられたのです。その内の誰か一人が欠けても、親鸞聖人まで、私達までは届かなかったかも知れません。

ここから、「おかげさまで」ということ、様々な方々の「ご恩」ということを知らされます。法に関しては勿論ですが、私がここまで生かされてきたことも、両親や家族、友人、近所の方々、学校の先生、その他数限りない、様々な有情非情の「おかげさまで」「ご恩」によってです。

如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 ほねをくだきても謝すべし
(正像末和讃)

親鸞聖人はこのように「如来大悲の恩徳」「師主知識の恩徳」を喜び、その報謝を誓っておられます。

私などはとても親鸞聖人や蓮如上人のようにはいきませんが、私のやり方で「弘誓の強縁」ましますことをお伝えしたいと、この映画を見、「むすび」→「縁」と思いを巡らしている間にふとそのようなことを考えました。

比較するのも失礼ですが、浄土真宗まがいの新興宗教が作ったアニメ映画などよりよほどお勧めです(笑)



【参考文献】
【君の名は。】一葉おばあちゃんの重要セリフと考察(※ネタバレ注意)
スポンサーサイト

お釈迦様の手の内でいい気になっている孫悟空と一緒だなぁ

先日、父母や妹家族を含めた家族旅行へ行きました。遊園地へ行って、美味しいごはんを食べて、普段見ない景色を見て、楽しい時間はあっという間でした。子供達も楽しかったようで、よい旅でした。

昔自分が子供だった時とは違い、父はもう70を過ぎています。もう自分で運転して旅行というのは嫌みたいだったので、今度は自分がレンタカーを借り、実家へ父母を迎えに行きました。

行先は自分が子供の頃によく行っていた場所で、当時は私は車の助手席に乗り、父は運転席でした。それが今は父を助手席に乗せて自分が運転している。子供だった私が親となり、父母を乗せて子供を乗せて、かつて自分が子供の頃遊んだ場所にいる。何だか感慨深いものがありました。


旅費を出してもらうので、せめて運転は自分がやって少しでも親孝行ができたらなぁなどと旅行前までは考えていたのですが、今まで父母が自分にしてくれたことを思うと相当に考えが甘かったです。お釈迦様の手の内でいい気になっている孫悟空と一緒だなぁと思わされました。

一体自分は親の恩に対して何ができているだろうか。学生時代はよく反発して親を悲しませた。「何でこんな子に育ったんだろう」と失望したこともあっただろう。それでも自分のことを色々気遣ってくれ、優しく温かく接してくれる。自分の無力さと、親の有難さに胸が熱くなり、こみ上げてくるものがありました。

今は感謝の気持ちを伝えることしかできないが、今度は自分が旅費を出して父母を旅行に招待したい。そしてやがては阿弥陀仏の本願を伝えて、共に本願を信じ念仏を申す御同行となりたい。旅行が終わって、このように思ったのでした。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【追記】
旅行が終わって仕事に出てみたら、炎天下に捌ききれないほど大量の荷物を運ぶはめに・・・。旅行の楽しさもどこへやらです。どうやらこの願いを叶えるには道は長そうだ・・・(*_*;

南無阿弥陀仏に出遇えてよかった

真実の教というも南無阿弥陀仏。

真実の行というも南無阿弥陀仏。

真実の信というも南無阿弥陀仏。

真実の証というも南無阿弥陀仏。

真実の仏というも南無阿弥陀仏。

真実の土というも南無阿弥陀仏。

往相回向というも南無阿弥陀仏。

還相回向というも南無阿弥陀仏。


全てが阿弥陀仏の大悲回向の賜物でないものはありません。
南無阿弥陀仏に出遇えてよかった。苦悩に喘ぐ人生は変わりませんが、この世に生まれ、生きてきた甲斐がありました。そして、この南無阿弥陀仏一つで死んでいけます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

『僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ』は阿弥陀さまのセリフだった

幸せだなァ 僕は君といる時が一番幸せなんだ
僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ
(『君といつまでも(加山雄三)』より)

よくラジオで若大将のこの曲がリクエストされます。この前もこの曲が流れていて、それを聞いてふと

幸せだなァ 僕はお念仏称えている時が一番幸せなんだ
僕は死ぬまで君(お念仏)を離さないぞ いいだろ


という歌詞が思い浮かびました。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


いや、そうじゃないな。この表現は正しくない。特に二行目。離れない、離さないとこちらでいくら思っていても、すぐ離れてしまう、離してしまうのが悲しい俺の実態だ。そんな俺を死ぬまで離さないのは阿弥陀さまだった。

誠なるかな、摂取不捨の真言。阿弥陀さまが「摂め取って捨てない」と真実の言葉で仰せだから、それが俺に届いてこの口からなんまんだぶが出てくるんだった。離さないのは阿弥陀さまだった。そうか、

僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ

は阿弥陀さまのセリフだったんだな。

勿論でございます! ありがとうございます! こんな俺をすいません!

摂取不捨の真言に涙が流れます。そのおかげで、幸せだなァと思わせてもらえる時がある。有難いことです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

一 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。『御一代記聞書』(88)

【現代語訳】
ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。

このお言葉は一見、信前の人に対して言われているように思われますが、信後の人にも言われているのではないかと私は思います。特にこの淳心房に対して言われているお言葉だと思わざるを得ません。


恥ずかしい話ですが、私の日々の生活は仕事、子育て、家事にほとんどの時間、体力、気力を使い、仏法に充てる時間、体力、気力はほとんどないという状態です。愛憎の煩悩にまみれた生活の只中にいると、とにかく目の前のこと、生きることに精一杯で、有難いという気持ちも、御恩を思い報いようという気持ちもどこへやら・・・。

貪愛の心は常に善心を汚し、瞋憎の心は常に法財を焼いてしまいます。御恩を思いそれに報いようどころか、余裕がない時なんかは子供達にさえきつく当たってしまうこともしばしばです(*_*; すまぬ・・・。

聴聞にも行けない。お同行と会うこともできない。そんな毎日ですが、そういう私がどうすれば如来広大の恩徳を有難く頂戴しつつ、至徳に報謝する人生を生きられるのか。私のような者には無理なのではなかろうか。

この私の問いに、蓮如上人はお答え下さっているのではと思うのです。そうだ、有難く思う気持ち、御恩を思う気持ちが籠から水が出ていくように無くなってしまうのであれば、籠を水につければいいんだ。

聴聞するといっても、聞くべきは南無阿弥陀仏しかないじゃないか。とすれば、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏申すことがすなわち聴聞じゃないか。御恩報謝じゃないか。

このように気づいてからは、私はなるべくお念仏を申すようにしています。通勤中自転車をこいでいる時、車の中も、風呂の中も、何かの待ち時間も、思い出してはお念仏しています。

すると、たちまち煩悩いっぱいの私の空間が大悲招喚の勅命を聞き受ける聞法道場となり、有難い気持ち、仏様の御恩を思う気持ちも起こり、本願を多くの人に聞いてもらいたいという気持ちも起こってまいります。勿論、そのような時ばかりではなく、逆境の最中なんかは念仏していても実に味気ないですがね・・・(^-^;

天親菩薩は浄土往生の行を五念門で教えられていますが、これは念仏におさまるんだなということをいよいよ知らせて頂きます。お念仏申すところに阿弥陀仏を礼拝したくなる気持ちが起きます。お念仏申すことがそのまま阿弥陀仏を讃嘆しています。浄土に参ってさとりを完成したいという気持ち、阿弥陀仏や浄土を思う気持ち、人にも本願を聞いてもらいたいという気持ちも、お念仏申すところに起きてきます。念仏が「自利利他双行」とはよく言ったものです。これみな本願力のご回向によるものと有難く頂戴し、もっぱらこの行に仕え、ただこの信を崇めるよりないとよくよく知らされます。


やはり、念仏も称えないのに有難い気持ちが起きないのは当たり前すぎるほど当たり前なのでした。今までを反省すると共に、改めてお念仏申す人生を生きたいと思います。

こうしてブログで記事を書くことも、真宗の言葉に触れ、お聴聞しお念仏する有難いご縁です。

日々、反省。懺悔。そしてお念仏。お念仏が中心の生活を。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『安心問答』「その籠を水につけよ」と蓮如上人がいわれた意味は?(頂いた質問)
『立徳寺』籠を水につけよ

子供達は私になんまんだぶを勧めにやってきた化身

「私が念仏称える」という行為によって助かるのではなく、称えられる念仏、南無阿弥陀仏によって救われる。称えられるなんまんだぶに我々の無明を破り、志願を満たすはたらきがあるのです。

子供達のかわいらしい口から称えられるのも南無阿弥陀仏。私の穢い口から称えられるのも南無阿弥陀仏。誰の口から称えられても、称えられる南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏で一緒です。南無阿弥陀仏自体には、自力も他力もありません。それを我が計らいの心をもって、「私が称える私の念仏」ととらえ、私の念仏に功徳があるように思ってこれを称えて浄土に往生しようとするのを自力と言われます。

その人を助ける助けないは阿弥陀さまのお仕事、阿弥陀さまのお計らいであって私が知る所ではありません。なのに最近まで、子供達のお念仏を「どうせ信を獲ていないだろうから自力念仏だろう」と勝手に思ってしまっていました。それこそ計らいではないかと反省させられました。本当に子供達を通して知らされることが多いです。子は親の鏡とはよく言ったものです。

やはり、共に念仏して阿弥陀仏の名を褒め讃えつつ、どういう思いで念仏しているか聞いてみないといけないなと思いました。そこで、念仏を取引材料にする気持ちや祈願請求の気持ちが見られたら「そうではないよ」と話し、「お念仏はお前達を浄土に迎えるはたらきだから。そのはたらきにおまかせするんだよ」と本願力回向の法を伝えなければなと思いました。

また、決して念仏すること自体を否定したり、止めたりしてはならないのだなと思いました。せっかく阿弥陀さまが子供達に称えさせて下さっているのに、私が止めちゃいかんですよね。

大人でも難しいのに、子供には・・・と思われますが、それも計らい。全ては阿弥陀さまのお計らいなのだから、こちらで先入観を持たずに、子供にも受け止められるように話そうと思いました。


ところでこの前、突然次女が

「私は阿弥陀さまの子なの?」

と聞いてきたのでまたまた驚き。

「そうだよ。お前たちは阿弥陀さまの子だ」

と、次女と傍にいた三女に言いました。その時、子供達は私になんまんだぶを勧めにやってきた化身なのではないかと思われたのでした。時に感情的に叱りつけてしまったりして反省することしきりですが、この仏の子達が何とか一人前になってくれるまでは傍で共にありたいと思いました。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

称えてくれてありがとう、聞かせてくれてありがとう

私に褒めてもらいたいからか、次女と三女が急に「なむなむ」と称え出すので驚かされます。普段、仏法の「ぶ」の字もないような今の暮らしの中で、家の中にお念仏の声が響き渡るのは不思議の中の不思議です。

最近までお念仏を聞かせたいから、称えてほしいから車の中でも寝る時でも、思いついたら「なむなむ」と称えていたんですが、今日ふとこのようなことに気づきました。

この子達を通して阿弥陀さまが自分にお念仏を聞かせて下さっているのか!?

と。今までは自分の真似をして「なむなむ」と可愛らしく称える姿に

「よく称えてくれた。称えてくれてありがとう」

という気持ちで一緒に称えていたのですが、今日からは

「よく聞かせてくれた。聞かせてくれてありがとう」

という気持ちで子供達のお念仏を聞きつつ、一緒にお念仏しようと思ったのでした。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

なんのために生まれて なにをして生きるのか

先日、4歳の次女と1歳の三女を連れて横浜アンパンマンこどもミュージアム&モールに行ってきました。

久々に満員電車に乗りましたね(;^ω^) あんな風に毎日通勤していたころが懐かしい・・・。まぁ二度とあの頃には戻りたくはありませんが・・・

平日に行ったのですがそれでも中々の盛況ぶりで、土日に行ったら混雑しすぎて何にも遊べないのではないかと思ったほどでした。GWとかすごいことになりそうですね。

さて、そこで人形劇やらミニコンサートを見てきたのですが、その中で流れてきた歌の一つが

アンパンマンのマーチ

でした。しかし、歌は二番の

なにが君のしあわせ なにをしてよろこぶ
わからないままおわる そんなのはいやだ!


から始まり、一番は聞けませんでした。歌が二番から始まるというのはずっと昔に親鸞会の学生部会で聞いていましたが、本当なんだなと思ったのでした。ちなみに一番の歌詞は皆さんよくご存知でしょうが

なんのために生まれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!


というものです。今や日本中の子供達の誰もが一度は通ると言ってもいいアンパンマン。そのアンパンマンのマーチには、実はこんなに難しくて深いことが問われているのですが、果たしてこの問いにハッキリ「これだ!」と即答できる大人がどのくらいいるでしょうか? もしこの問いに答えを持ち合わせていないとしたら、それでは残念ながら薄っぺらい人生だと言わざるを得ません。

この記事でも書きましたが、何のために生まれてきたのか、生きる意味とその方向性、そして死んでいく意味についてよく考えもしないで、ただ毎日を生きるだけの生き方では、私はそれは動物と一緒だと思います。それで動物とは違う、人としての一生を生きたと言えるのかと思うのです。


この問いに対して、私は親鸞聖人から二つのことを教えて頂きました。これを一言で言えば

お念仏申すため

です。広げて言いますと、二つに分かれます。一つは

阿弥陀仏の本願を信じてお念仏を申し、浄土に往生・成仏して迷いから離れるため

です。二度と迷わない身になるということですが、とても聖道の修行に堪えられない私はひとえに本願の独用(ひとりばたらき)によって浄土往生するほかありません。それともう一つは、

如来二種の回向を縁のある方々にお伝えし、仏恩を報ずるため

です。法を聞いて喜び、なんまんだぶなんまんだぶとお念仏申すままが人にも伝わってゆき、それがまた仏恩を報謝することにもなる。このようなことですから、つづめて言えば先の

お念仏申すため

というのが「なんのために生まれて なにをして生きるのか」に対する私なりの回答です。


この答えに対して同調する人もあれば否定する人、または無関心な人と色々あるでしょう。私は有縁の方々に本願を信じてお念仏して頂きたいと思っていますが、否定する人や聞く気のない人に対して強制するつもりはありません。今の私には仏様の如く法を示す自在性がありませんので中々人を納得させることができませんが、それでも何とかと思ってこのように綴っています。

僅か50年乃至100年で終わってしまう人生、「なんのために生まれて なにをして生きるのか」。まだ考えたことも無い方には、この記事がそれを考えて頂くきっかけに、親鸞聖人の教えを聞いて浄土に参りたいと思う方には、本願を信じ念仏するきっかけになって頂ければ幸いです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『週刊みんなの法話』何の為に生まれて 何をして生きるのか
『法話ライブラリー』親鸞聖人の求道に思う -宗祖750回御遠忌を前に-
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』 『親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?ー本願寺 いない』と歪曲する親鸞会
『うたまっぷ』アンパンマンのマーチ

どう答えればよいか困ってしまった質問

以前、安心問答にてどう答えればよいか困ってしまった質問がありました。

当時、「みそみそ」さんという方が阿弥陀仏の救いについて悩んでおられたようだったので、何とかその方が本願を信じ念仏するきっかけになればという思いで以下のように書き込みました。

********************
自力では無理だから弥陀をたのむしかありません。「南無阿弥陀仏」(必ず助けるから安心してまかせなさい)という勅命をそのまま受け容れるよりありません。では弥陀をたのむとはどういうことかというと、ただ念仏するよりないのです。

・極重の悪人はただ仏を称すべし。(正信偈)
・なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに(行文類)
・親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第二条)


信心決定したい、弥陀に救われたい、そのお気持ちは結構なことですが、善知識方はこのように仰せです。ただ南無阿弥陀仏のすがたを心得て念仏するより他に信心も安心も無いのです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称える一声一声が、みそみそさんを必ず助けるぞよとの阿弥陀仏の喚び声であります。どうかただ念仏して弥陀に助けられて頂きたく思います。なんまんだぶつ、なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・
淳心房のコメント
********************

そうしたところ、みそみそさんからの返答は

********************
淳心房さま
では本当に念仏を唱えるだけで助かるのですか?
みそみそさんのコメント
********************

というものでした。これを受けて、とにかく答え方に困ってしまいましたね。私が「そうです」と答えてもみそみそさんに響くか分からない。第一、私自身が「必ず助けるぞよとの阿弥陀仏の喚び声」をただ聞き受けて念仏しているだけ、善知識方の教え・仰せをただ信じて念仏しているだけだ。自己の上で阿弥陀仏や浄土をハッキリ確かめたわけでもないので「そうです」と言うわけにもいくまい。かと言って「知らん、阿弥陀さまに聞いてくれ」と突っ撥ねるのもどうだろうか。読者の皆さんだったら、こういった質問を受けた場合どうお返事しますか?

色々思案しましたが、結局は以下のようにお答えしました。

********************
私が助けるわけではないので、私には教えを示すことしかできません。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(末灯鈔12通)

阿弥陀仏の本願は、念仏を称える者を極楽へ迎える、平たく言えば「助けるぞ」という本願ですから、その誓いをそのまま受け容れて仰せの通り念仏申すだけです。私の中に信心を探していてもそんなものはありゃしません。あるのは煩悩妄念のみです。親鸞聖人が示して下された教えを通して阿弥陀仏の勅命を受けて下さい。なんまんだぶなんまんだぶ・・・
淳心房のコメント
********************

以前にも思いましたが、親鸞会教義の誤りを示すことはそんなに難しいことではありません。正しい教えを示して聞く方が信心を獲て念仏される身になることに比べたら。これを通して、

自信教人信 難中転更難往生礼讃

のお言葉が思い浮かんだのでした。まぁ私のやっていることなど大悲を伝える中に入らないかも知れないし、善導大師のような方が仰る「難しい」とは比較にならないほど浅い「難しい」の捉え方なのかも知れませんが。


すべては阿弥陀仏の本願力によって皆さんが本願を信じ念仏して仏に成るのですが、それは分かっていても「どうしたら皆さんに誤りなく、正しく伝わって本願を信じ念仏して頂けるのか」と悩まずにはいられません。結局その方が法を聞かれるかどうかは阿弥陀さまのお計らいであって私の力の及ぶところではないのですが、何とか聞いて頂きたいという気持ちは消えません。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』自信教人信

親鸞聖人や蓮如上人の「知らん」は、高森会長の「知らん」とは全く異なります

問ひていはく、華厳・天台・真言・禅門・三論・法相の諸師、おのおの浄土法門の章疏を造る。なんぞかれらの師によらずして、ただ善導一師を用ゐるや。

答へていはく、かれらの諸師おのおのみな浄土の章疏を造るといへども、浄土をもつて宗となさず、ただ聖道をもつてその宗となす。ゆゑにかれらの諸師によらず。善導和尚は偏に浄土をもつて宗となして、聖道をもつて宗となさず。ゆゑに偏に善導一師に依る。
『選択本願念仏集』偏依善導

法然聖人は、この後も様々な問答を設けて、「この法然はひとえに善導一師による」と仰っています。


その法然聖人から教えを受け、『選択集』の書写を許された親鸞聖人は

『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。『教行証文類』後序

【現代語訳】
『選択集』は、関白九条兼実公の求めによって著されたものである。浄土真実の教えのかなめ、他力念仏の深い思召しがこの中におさめられていて、拝読するものは容易にその道理に達することができる。まことに、たぐいまれなすぐれたご文であり、この上なく奥深い教えが説かれた尊い書物である。

と師の御制作を絶賛なされ、また『選択集』や法然聖人のご絵像を書写させて頂いたことは「念仏の道を歩んできたことによる恵みであり、往生が定まっていることのしるし」であるとまで仰っています。

しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。

こうした親鸞聖人が法然聖人から受けた教えの結論が

正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。『選択本願念仏集』三選の文

であり、また法然聖人が親鸞聖人にお書きになったお言葉の一つが

「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」

でした。それを『歎異抄』第二条では

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

と仰っています。念仏は本当に浄土に生まれる因なのか、逆に地獄に堕ちる行いなのか、まったく知るところではなく、ひとえによきひと法然聖人の「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という仰せをそのまま頂いて信ずるほかに何も無い、というのです。私としてはこの『歎異抄』第二条のお言葉から、もちろん仰ってはおられませんけれども、「この親鸞はひとえに法然一師による」というお心がうかがわれます。


このような、師匠に随順するすがたは蓮如上人も同じで、

一 前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。『御一代記聞書』159

とある通りです。私としてはこのお言葉を読むと、先ほどと同様にもちろん仰ってはおられませんが、「この蓮如はひとえに親鸞一師による」というお心が味わわれます。

当然ではありますが、法然聖人も親鸞聖人も蓮如上人も、善導大師という人、法然聖人という人、親鸞聖人という人に依っていらしたのではなく、これらの方々のお説きになられた「専修念仏」の法に依っていらしたのだと拝されます。蓮如上人の『御一代記聞書』のお言葉を用いて巧みに知識帰命、知識への絶対無条件服従へとつなげる輩がありますので念のため。


親鸞聖人や蓮如上人のような方々といえども、さとりを開いたわけではないのですから、当然知らないこともあるのです。それを知ったかぶりせず、知らないものは知らないとお答えになるところに、お二人の仏法に対して真っ直ぐで正直な姿勢がうかがわれます。中々、教える立場の者が「知らない」などとは言えません。そして、お二人には「俺についてこい」という姿勢も見られません。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。

このように『歎異抄』では仮定形で、「弥陀の本願、釈尊の説教、善導の御釈、法然の仰せがまことならば、この親鸞が申すことも空しくないのではないでしょうか。私の信心は今申し上げた通りです。これから、念仏して往生させていただくという教えを信じようとも、また念仏を捨てようとも、皆さん一人一人のお考え次第です」と命懸けで京都までやってきた関東の同行達に仰っています。

関東の同行としては、親鸞聖人の口から念仏は決定往生の業であるとハッキリ言ってほしかった、そしてそれを聞いて安心したかったと考えられます。ところが、そのように人の言葉を信じることが虚構のはじまりであるとよく知っていらした聖人は、「俺の言うことを信じて安心するんじゃない。阿弥陀さまの仰せに安心するのだ」と仰りたかったのではなかろうかとうかがわれます。

親鸞聖人としては、浄土真宗の祖師方の教えをそのまま相承し、そのまま人に教え聞かせるばかりであるというお考えだったのでしょう。蓮如上人も、そのような親鸞聖人のすがたをそのまま体現され、「何事も、たとえ知らないことでも、私は御開山のなされた通りにするのである」と仰っています。まぁそのような祖師や蓮師であるから私達はついていきたくなるかも知れません。


「知らん」は「知らん」でも、親鸞聖人や蓮如上人の「知らん」は、高森会長の「知らん」とは全く異なります。私達も、何も判らなくても、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」というよきひとの仰せをそのまま受け、ふたごころなく深く信じてただお念仏申すばかりです。「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」という本願招喚の勅命をそのまま聞き受けてお念仏申すばかりです。

それで助かるか助からないかは私の知るところではありません。助けるか、助けないかは阿弥陀さまがお決めになること、阿弥陀さまのなされることであって、オレの仕事ではない。オレの仕事は、ただこの六字の取次ぎをするばかり。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
梯 實圓和上「歎異抄二条のこころ」
『用管窺天記』歎異抄の仮定法
『同』善知識帰命の過ち
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード