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勅命を仰せのままに受け容れて、疑いがないのが信心

信心決定、信心獲得とは、「絶対の幸福」とかいうワードが連想させるような、心が常にものすごい幸福感でいっぱいになる体験とは違います。

信心とは本願の信心のことで、それは本願の仰せを疑いをまじえずに受け容れたことです。本願の御言葉は南無阿弥陀仏の六字に結晶し、称え聞こえる南無阿弥陀仏のそのわけは

われをたのめ、われにまかせよ、必ず浄土に迎えるから安心しなさい

と喚んでおられる阿弥陀仏の勅命です。その勅命を仰せのままに受け容れて、疑いがないのが信心です。

この信心は、本願の通りに「必ず浄土に生まれられる」と慶ぶ心となって現れてきます。「欲生我国」の心です。

ですから慶ぶ心は当然あります。ただそれは、往生の慶び、必ず往生できることに定まった慶び、遇うべき法に遇わせて頂いた慶び、聞くべき法を聞かせて頂いた慶びです。欲望を満たした時や、願いがかなった時に感じるような幸福感ではありません。幸福というよりは、安心といった方が近いかも知れません。

また慶びの感じ方もそれぞれではないかと思います。人それぞれ、生き方も感性も、立場も状況も様々です。同じ法を頂き、同じく摂取不捨の利益にあずかって決定往生の身となっても、慶び方、慶びの感じ方はその人その人違うでしょう。淳心房で言えば、法を頂き、お念仏申すところに、有難いなぁ、うれしいなぁ、かたじけないなぁとしみじみ味わわれてくる、静かな慶び、尽きせぬ慶びです。

法に触れていない時は、その慶びは表に出てきません。どんなに煩悩が逆巻いても捨てられる、往生取り消しとはならないので何とも言えない安心感ですが、いつもいつも慶んでいられるというわけにもいきません。悪業の報いでしょうが、つらいこと、苦しいこと、悲しいことは様々起こってまいります。それを受ければやはりつらいし、苦しいし、悲しいです。全然へっちゃらになるというわけにはいきません。

なので、信心決定したら幸せ一杯の生活、光明輝く生活をさせてもらえる、一切の苦労が報われて流した涙の一滴一滴が真珠の玉となって戻ってくるなどと期待しているとしたら、その考えは改めた方がよいでしょう。これは、往生成仏という米を求めるべきところが、現世利益という藁を求めてしまっています。米を取れば自然に藁はついてきますが、藁を求めても米はついてきません。「絶対の幸福」という現世利益を求めて仏法を聞くことは本末転倒です。


慶ばれるとか、慶ばれぬという心配は要りません。慶ばれるから往生一定、慶ばれぬから往生不定、ではありません。我が心を見て法を仰がぬようではなりません。

「ほんとうに、疑いなく、浄土に生まれられると思って、念仏せよ、必ず救う」

こうした本願に身も心もすっかりまかせて、ただ念仏申すのみです。

そして、信を獲た後もよく聴聞させて頂き、聞かせて頂いたことを思い出してはお念仏申すことです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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少しずつ変化すること

変化すること、しないこと

の記事の続きです。


自分の能力、健康状態、経済状態、人間関係、仕事、その他周囲の環境は、本願に遇わせて頂いたからといって変わるものではありません。そういうものをよくする、改善するという誓いではないからです。

また、自分の煩悩も変わりません。欲や怒り、ねたみそねみの心、人やものを疑う心、うぬぼれ心などは、臨終の一念に至るまでとどまりも消えも絶えもしません。

では、そういったものは全く変わらないか、よくならないかと言ったら、そうではないと申しておきます。それは、本願を受け容れ、教えをたしなむことによって自分の心が少しずつ変化していくからです。

法をたしなみ、お念仏をたしなんでいくことでまず自分の中に変革が起きます。人生の諸問題は、それによって少しずつ変化、改善していく、されていくものだと思います。勿論、変化に相当に時間がかかるもの、どう頑張っても変化しないものだってあるでしょう。変わるのは自分の内部、自分の心です。

煩悩については、これは心のブレーキがかかると言いますか、今までは煩悩のままに従っていたのが、如来さまが主体となることによって、こういうことをしていいんだろうか、やめた方がいいんじゃないかという考えに少しずつ変わっていきます。無くなりはしませんし、悪いことをしてしまうことはしてしまうのですが、それにブレーキがかかったり、悪いことをしたと懺悔する心が起きてきたりします。

それは数で言ったら小数点第一位か第二位か、あるいはもっと小さい位かという微小な変化かも知れません。でも、その微小な変化が大事なんです。物事を100か0かで捉えようとする人には理解不能かも知れません。また変化とは言わないかも知れません。しかし、人間とは機械人形や粘土細工じゃないんですから、逆にすぐにガラッと変化するということの方がおかしいです。

こういうことを梯和上はモーターボートと巨大タンカーの譬えで教えて下さいます。モーターボートは舵を切れば割合すぐに方向転換が可能です。一方、巨大タンカーは舵を切っても方向転換に時間がかかります。しかし、時間はかかっても舵を切ったなら方向転換していきます。そのように我々は巨大タンカーのようなもので、教えを1回2回聞いた位であぁ分かったと行動がいきなり様変わりするような、そのような存在ではありません。

逆に、教えを何回聞いても直らない、直そうとしない、まるで子供のような存在です。うちの末娘は食事中に立つなと何回言っても立ち上がりますが、そんなもんです。しかし、注意し続けていけばやがて直ってゆくでしょう。そのように、教えをたしなみ続けていけば、その1回1回で見れば変化したんだかしないんだか、よく分からないようなものであっても、そういう人は必ず変化していくものです。教えをたしなまない人は別です。


本願の仰せを疑いを交えずに受け容れ、お念仏申して浄土を目指す行者を、今生は摂取不捨の利益にあずけしめ、後生は浄土に迎え取るというのが現当二益の救いです。阿弥陀仏のねらいは私を浄土往生させることです。摂取不捨の利益は、決定往生の身になった行者についてくるものです。尤も、それを「絶対の幸福」などと教えられ、そのような幻想的な楽、現世利益を獲ることが目的になっている/いた人にとっては、浄土往生の大益と共に無関係なものかも知れません。

人によっては、阿弥陀さまが自分の願いを都合よく叶えてくれる神様になっています。阿弥陀さまの願いを聞き、それを受け容れて、阿弥陀さまの願い通りの身になるというのが浄土真宗を聞くということのはずなのに、阿弥陀さまの願いはそっちのけで、逆に自分の願いを阿弥陀さまに聞かそうとしているのです。

私達は自分の願いを押し付けずに、ひたすら阿弥陀さまの願いを聞き、仰せのままに受けてお念仏し、往生を一定と思い取らせて頂くべきなのです。

そして、法を受けて、教えをたしなんでいって、少しずつ様々な御恩や恵みの中で自分は生かされていることを知らされてくる。それを、あぁ、有難いことだな、かたじけないことだなと感じられてくる。そうしたことによって、少しでも阿弥陀さまをはじめ様々な御恩や恵みに報いさせて頂こうと思う心が起きてくる。

そうした心の変化が少しずつですが起きてきて、実際の行動が変わってくる。中にはガラッと変わる人もあるかも知れません。ほとんど変わらないという人もあるでしょう。私などは申し訳ありませんが、10年経ってようやく少し変化してきたかなという程度です。


往生の信心は即座に定まりますが、このように、教えを受け、教えをたしなむことによって少しずつ変化することもあります。そういうこともあるということを知って頂きたいと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

変化すること、しないこと

よく私は、自分のことを「本願を信じ念仏を申す身になった」と言います。本願の救いという言葉は使いますが、あまり「救われた」とは言いません。それは、阿弥陀仏に「救われた」「救われる」という言葉のイメージが、本願に遇わせて頂くということとかけ離れているように感じるからです。それは私が親鸞会を通して浄土真宗に遇わせて頂いたからなのかもしれません。

私事ですが、自分は阿弥陀仏に「救われる」とは、心が常に幸福感いっぱいで、大きな喜びに満たされ、何物もそれを壊すことはできず、どんな苦しみや困難も乗り越えて行けるようになることだと、そんな風に想像していました。「救われる」という言葉に対するイメージは各々違うでしょうが、特に親鸞会の退会者の方は私に近いイメージを持っているのではないかと思います。これはきっと、「絶対の幸福」という言葉による弊害でしょう。

阿弥陀仏に「救われる」ということに過大な期待をして、人生の諸問題まで全て解決、または大幅に改善するように勘違いをされるかも知れないため、私は本願のはたらきに対して「救われた」とはあまり言わないのです。


本願に遇わせて頂いた後も、目の前の現実は変化しません。自分の能力、健康状態、経済状態、人間関係、仕事、その他周囲の環境は変化がありません。病気を抱えている人は抱えているまま、借金がある人は借金があるまま、人間関係もそのまま、自分の能力や今抱えている仕事もそのままです。末期のがん患者だったのが健康体に変わるとか、借金が貯金に転じるとか、激務だった仕事が軽くなるとか、今まで厭い憎んでいた人が大好きな人に変化するとか、そういうことはあり得ません。

また、煩悩具足の身であることも変わりません。相変わらず欲望、怒り腹立ち、ねたみそねみ、人やものを疑う心、うぬぼれ心などは次々起こってきます。気に入らないことが起こったり、嫌味の一言でも言われたりしたら腹は立ちますし、自分より幸せそうな人の環境をうらやんだり、ねたんだりする心は変わりません。

急に人間の中身が入れ替わって、身体ですることも、口に言うことも、心に思うことも全て清らかで正しい行いに変化するとか。親不孝ばかりしていた者がいきなり孝行な子供に変わるとか。ケチで舌出すのも嫌な人が、広く人々のために施すようになるとか。とか!?

そんな人はあっても稀ではないかと思います。


変わるのは、本願力に摂取されて必ず往生成仏すべき身に定まった点です。十方衆生をみな漏らさずに往生させるというのが本願の誓いであり、平生に本願を聞信する一念に、臨終を待つことなく往生は決定してしまいます。煩悩を抱え、迷いの世界から離れられない者が、煩悩を断じないままで涅槃を得る身となる。そのことを親鸞聖人は正定聚の位に入ると教えられました。

一方、煩悩は変化がありません。自分の生活や周囲の環境も変わりません。なので、ぶっちゃけ往生の問題以外は全て残されています。阿弥陀仏の本願はそういった問題を何とかするとか、少しでも良い状態にするとか、そういった誓いではないため、現世を生きていく問題は自分で立ち向かい、自分で解決していくしかありません。当たり前と言えば当たり前の話なのですが、信心決定しさえすれば全て解決みたく思っていた人からすれば、びっくりする位何も変わらない現実に戸惑うこともあろうと思います。私もその一人でした。

それはちょうど、医者の仕事は病気を治すことであって、生活や環境、人間関係を改善することではないようなものです。この場合、医者は病気を治すことが仕事で受け持ちです。その医者に、自分の人生の全てを面倒見てもらおうというのは酷な話です。

また、治そうとする病気によって薬が違うようなものです。心臓の薬は心臓の病に、肝臓の薬は肝臓の病に効果がありますが、心臓の薬でもって肝臓の病を治すことはできません。本願醍醐の妙薬は無明業障の病には効能があります。しかし、肉体的精神的な病、人間関係の病、仕事上の病、その他様々な生きていく上での病にも効能があるかといったらそうは教えられていません。


変化することもあればしないこともあります。また、少しずつ変化していくということもあります。それについては別記事で書きたいと思います。なお、当記事では本願力に遇わせて頂くことを「救われる」という語で表現されている方を否定しているわけではありません。念のため。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

鬼とは他でもない私

長女の紹介で

鬼滅の刃

を見出した私。ついついハマってしまいました(笑)


以下、ネタバレ注意です。

一応、知らない方のために話のあらすじを紹介します。

大正時代の日本が舞台。ある日鬼によって家族を惨殺され、妹の禰豆子を鬼に変えられてしまった主人公・炭治郎が鬼狩りを専門とする部隊・鬼殺隊に入隊し、その仲間とともに人々を守りながら家族の仇討ち、そして鬼にされてしまった禰豆子を人間に戻す方法を探していく物語である。(


人を襲う鬼を滅すべく刀を振るう、政府非公認組織「鬼殺隊」。鬼は元々は人であり、鬼に襲われた時に、傷口から「鬼の血」が体内に入り込むことで鬼化してしまうとのこと。鬼化したら親だろうが兄弟だろうが関係なく人を襲い、食らい続けます。

「鬼滅の刃」は鬼殺隊vs鬼の戦闘がメインとして描かれていますが、ストーリーの特徴の一つとして、今際の際に鬼が人間だった頃の過去が回想されます。鬼はほとんどがつらく悲しい過去を背負っており、人間だった頃の苦しみ悩み、悲しみ嘆き、怒り憎しみが鬼化しているようにも思えます。鬼が元々人間だったこと、またその過去を思うと、単なる勧善懲悪では片付けられない物語です。


こういう話を通して思い知らされるのが、鬼というのは他なる者から鬼にさせられるのではなく、人自身が鬼であるということです。余裕のある時、物事の運びが順調な時、自分の意にそぐう時は本性は隠せます。ところが切羽詰まった時、追い詰められた時、あるいは自分の意に反した時には、隠し切れない鬼の本性が出てしまうということです。

最近、新型コロナウイルス関連であちこちに影響が出ていますが、その中で目に止まったのが

『Yahoo!ニュース』「コロナよりも怖いのは人間だった」。ドラッグストアの店員が語る恐怖の体験

の記事です。取材を受けた店員さんは、

今まで笑顔だったお客様が、全員鬼に見えます。


と語っています。きっかけは新型コロナウイルスですが、それを縁として、普段優しかったお客さん達が品薄のマスクを狙って血眼になっている、その豹変ぶりを的確に言い表していると思えます。

上の記事ではありませんが、中にはマスクを巡って暴力沙汰まで起きているようです。鬼の血がなくても、本性が鬼ですから、縁さえ来たら誰がいつ鬼化するか分かりません。

私もマスクが欲しい一人です。この時期は花粉症がとにかく辛くて、マスクでガードしないと日常生活が送れません。その私のマスクの在庫ももう残り僅かです。ちょっと嫌だし汚いですが、3~4日同じマスクを使用してどうしても耐えられなくなったら変えているという状況です。その私の前に、一箱のマスクがあったらどうだろうか。周りには何十人といて皆そのマスクを狙っているとしたら。我先にマスクを手にするに違いありません。小説「蜘蛛の糸」のカンダッタを私は少しも笑えません。莫迦にできません。それが淳心房の本性です。



特に私なんかは人間の程度が低いですから、すぐに鬼の本性が出てしまいます。お念仏していても、こういう心はちっとも直りません。申し訳ないことです。でも、申し訳ないと言っていながら、誰かに「そんなの口先だけだろ」とかツッコまれたら多分俺は腹が立ちます。本心はちっとも申し訳ないと思っていないことでしょう。諸仏が見限るわけです。鬼とは他でもない私です。その中で、よくぞ阿弥陀さまはこんな奴を助けようと願い立ち、見捨てずににお救い下さったものです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

早かった、あっという間に駆け抜けた2019年

気がつけば2019年も今日で最後です。早かった、あっという間に駆け抜けた、私にとってはそんな年でした。

振り返ると色々なことがありました。連続した台風の雨風によって東日本で相当な被害が出たこと、煽り運転で男女が逮捕されたこと、首里城炎上・・・、詳しくは

2019年日本の10大ニュース

等をご覧下さい。忘れていることも多いです。そういえばこんなこともあったなと参考になりました。


ところで、最近何年か、私は年末を休んで年始に仕事をするというシフトにしています。12月は相当消耗するもので・・・というわけで、休みは今日までで、明日からは仕事です(^-^;

それで一昨日、休みを利用して実家に帰ってきました。いつもながら母は手厚いもてなしで、毎度毎度、食事や風呂、寝具の用意は勿論、沢山のお土産も持たせてくれました。祖父にもお米とお餅を用意してもらい、父にはガソリン代を出してもらいました。37歳になった今でも世話になりっぱなしで、本当に申し訳なく、また有難く、かたじけない限りです。御恩の真っ只中にいることが感じられて、目頭が熱くなります。よくぞこの家に生まれることができた、こんな自分勝手な俺をよくここまで育ててくれたと感謝の念に堪えません。

しかし、祖母は数年前に他界しました。祖父は加齢と腰痛のため、動きも遅く弱弱しくなっています。父は腰が悪く、現在入院中です。母はまだシャキッとして元気ですが、しわも白髪も増えて、心なしか小さくなったように感じます。やはり衰えを隠せません。

無常は刻一刻と迫っています。自分も含めて、実家の家族も、いつまでも今の状態であり続けることはできません。自分が先か、家族の誰かが先か、必ず別れていかねばならない、そのような宿命を抱えています。それを思うと胸が締め付けられるようにせつない気持ちになります。

実家は某宗の檀家で、神棚と仏壇が併存してあり、特にこれといった信仰心も無い家庭です。勿論浄土真宗のことも知りません。

何とか阿弥陀仏の本願を伝え、本願を信じお念仏を申して浄土に生まれ往く人生を共に生きたいとは思うものの、中々伝えることはできていません。今はまだ、感謝の言葉を伝えるだけで精一杯です。もっと教えについて流れるように話せたらとか思いますが、口下手な私はそうはいきません。

今まで苦労をかけ続け、それでいて親の願いに逆らい、不孝なことばかりして自分勝手に生きてきた私。このままで終わりたくない。終わらせるわけにはいかない。共に良き善友となって浄土の旅を共にしたい。

残念なこと、無力なことに、その具体的な方法は何も思いつかないままですが、何とか本願念仏の教えを知ってもらいたいばかりです。



このような拙い私が書いているこのブログですが、おかげさまで10年続けることができました。

生死の迷いを離れ、往生極楽の一大事を遂げるには、ただ南無阿弥陀仏と申し、称え聞こえる南無阿弥陀仏は「助けるぞ」「我にまかせよ」の如来の勅命、如来の喚び声であると聞き受けて、後生の不安も、往生の心配も、全て我が手を離してこの南無阿弥陀仏にすっかりおまかせいたすのみです。後は命の限り南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申して、我が往生をはや定めて下された大悲弘誓の御恩を報じたてまつるのみです。

私が言いたいことはこれに尽きます。これからも、書ける限りはこのことを訴えていきたいと思います。

ここからは最近新しく親鸞会を退会された方々へ向けてです。当ブログの閲覧者は親鸞会の退会者が多いと見受けられますが、私は退会者の皆さんに親鸞会教義の誤りだけ知ってそれで終わりにしてもらいたくありません。せっかく浄土真宗、親鸞聖人と縁があったのですから、真実信心の行人となって浄土へ生まれ往く人生を共に生きたいと願っています。当ブログはそのきっかけ、その一助ともなれば有難いです。

なお、教義の誤りについては

飛雲 ~親鸞会の邪義を通して~
親鸞会を脱会した人(したい人)へ
親鸞会教義の誤り

等を、浄土真宗の教えに関する法話の場所日程、また質疑応答などについては

浄土真宗の法話案内
安心問答

等をご覧下さい。

では読んで下さった皆様、今年もありがとうございました。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

退会して10年を振り返る ー みなみな法を聞かせてくれる善知識

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。
「総序」

【現代語訳】
 煩悩に汚れた穢土を厭い、清らかな涅槃の浄土を願いながら、自力のはからいをまじえて本願を疑うから、歩むべき行道に迷い、まことの信心の何たるかを知らずに惑い続け、心は迷妄に閉ざされて暗く、さとらねばならない大切な事柄についてはあまりにも無知であり、しかも身に具えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ浄土往生を勧めたまう釈迦如来の発遣を仰ぎ信じ、最も勝れたさとりへの道である本願に帰依して、如来よりたまわったこの行にひたすら奉え、ひとえにこの信心を崇めなさい。

 ああ、このような力強い本願力には、いくたび生を重ねても値(あ)いたてまつることは難く、清らかな真実の信心は、無量劫を経ても、獲る機会はなかった。思いがけなくも、いま行信を獲、本願を信じ、念仏をもうす身になったものは、遠い過去世からの阿弥陀仏のお育てのご縁に思いを致して慶べ。もしまた、このたびも疑いの綱に覆い隠されて本願の法をいただかないようなことがあれば、ふたたびまた永劫の迷いを続けねばなりません。

 誠なる仰せではありませんか、私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。


なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

この御文(ああ、弘誓の強縁~)は親鸞会の会員であった頃から特に心惹かれていたお言葉でしたが、本願に遇い得た尽きせぬ慶びを感動的に表現されており、ついつい声に出して拝読してしまいます。

この世のことは無常であり、私もいつ何時この世の縁尽きて命終わるか分かりません。もし本願力に遇うことなくして今生も空しく過ぎていたなら、人間に生まれた所詮もなく、またしても永劫の迷いを重ねていたに違いありません。「まこと」と呼べるような確かなものは世にはありません。あるのは、やがて必ず変化し崩れてしまう、無くなってしまうもの。本当の意味で当てにすることのできないそらごと、たわごとばかりです。

その中で、世を超えて二つと無い、私を摂め取って決して捨てないと仰せられる阿弥陀仏の本願の御言葉のみがまことであった。ただ阿弥陀仏の本願念仏のみがまことであったと聖人は仰り、この真実の教えを疑ったりためらったりせずに、仰せのままに聞き、仰せのままに受け容れよと勧められています。


早いもので、もう親鸞会を退会して10年の歳月が流れました。先に退会した先輩と、紹介してくれた

『さよなら親鸞会』
『私の白道』
『親鸞会教義の誤り』

等のブログによって親鸞会が教義的にも組織的にもおかしな団体であることを知らされ、別段不眠症でもない私が夜もろくに眠れないほどのショックを受けたことは今となってはよい思い出です。

当初まず衝撃的だったのは、高森会長が大沼法竜師や伊藤康善師といった他人の著書を盗用、剽窃(他人の著作から,部分的に文章,語句,筋,思想などを盗み,自作の中に自分のものとして用いること)していたことと、高森会長がかつて浄土真宗華光会に所属していたこと、高森会長には伊藤康善師や増井悟朗師といった師友や、沢山の華光の法友がいたことでした。

高森会長は18歳にして、師も無く『教行証文類』を読み解いて信心決定した、そしてやがて徹信会、親鸞会を創設し、会報をはじめ多くの書物を著したと聞かされてきた私としては、これで高森会長、親鸞会に対する信用、信頼が一気に揺らぎました。

また、まともな会計報告が無いことや、息子の不倫疑惑事件の顛末を知って更に動揺しました。そして極めつけは高森会長の説く教義が親鸞聖人の仰せとは全く異なることでした。宿善を求めよも、三願転入せよも、善の勧めも、私達が真実報土に往生するには全く要らない、どころか妨げでしかない教えだったのです。

ショックでしたね。それまでにも世の中の事はそらごと、たわごと、まことは無いなぁとつくづく感じていた所に、親鸞会までそらごと、たわごとの一つだったとは・・・。騙されていたことに対する怒りやら、そんな教えを信じてしまった自分への失望やら、様々な思いが交錯し、苦しかったのを覚えています。


だからといって、当時はどうしたら私が信心決定して後生助かるかどうかまでは分かりませんでした。ただ、間違った教えを説いて聞く者を騙していると分かったからにはもうそこには居られません。貸与されている親鸞会の本尊を返却し、先輩と共に本当の親鸞聖人の教えを求めることにしました。それが10年前の話です。

『21世紀の浄土真宗を考える会』
『安心問答』

などのブログを読み漁ったり、高森会長のルーツである華光会へ行ったり、紆余曲折を経ましたが、どうにも安心できません。しまいには、自分には助かりたいと本心から願う心も無いんだなと気づき、「こりゃあダメだ」と茫然とするしかなかったです。近藤元講師から直接話を伺う機会もありましたが、言っていることは分かっても、「こりゃあダメだ」という気持ちはどうにも拭えませんでした。


それから間もなくですね。

阿弥陀仏の仰せ、南無阿弥陀仏とは「助けるぞ」の仰せであり、「助けるぞ」を聞くのがすなわち信だ

こう教わった意味が分かったのは。阿弥陀仏は助けるぞと仰っているんだから、なまじいの私の計らいは要らなかった。仰せを仰せのままに聞いて、阿弥陀仏にまかせる以外に無いじゃないか。私には生も死も、何一つ見極める智慧も力もない。だからこそ阿弥陀仏の計らいにまかせるしかないじゃないか。

ただ阿弥陀仏がお連れ下さるところに往かせて頂こう。そこがたとえ地獄だとしても、元々地獄行きの業しか持たないのだから当然だし、阿弥陀さまと共に堕ちるのだから心配ない。かたじけなくも阿弥陀さまは浄土へ連れていくと仰っているんだから、その通り浄土へ生まれると思いとらせて頂くのみである。

信心獲得とか、信心を獲ると聞いていたので、私はてっきり阿弥陀仏から何かをしっかりと頂く体験をするのだと思い込んでいました。しかしそんなことではなく、南無阿弥陀仏、「助けるぞ」の勅命の他に信心があるわけではない、「助けるぞ」の仰せを仰せのままに受け容れたのが信心だと分からせて頂きました。

それから、阿弥陀仏のことを尽十方無碍光如来と呼ばれるいわれもよく分からせて頂きました。十方に尽くすとは、要は私がいる今、ここに阿弥陀仏のお力が届いているということ。無碍とは、私の煩悩をさわりとせずに往生する身に救い摂って下さること。光如来とは、そのように今、ここにいる私にはたらいて、私の煩悩妄念を突き破って至り届き、往生成仏させて下さる不可思議なお力をもつのが阿弥陀仏という仏さまだということ。

私が後生助かりたいと思う前から先手を打って後生助けると願いを発し、南無阿弥陀仏という仏と成って私に至り届いていた。それを知らずに「絶対の幸福」になりたいだ何だと自分の願い、欲望ばかり押し付け、阿弥陀さまの願いをちっとも聞かなかった自分の愚かさを知らされました。同時に、そのような自分を決して見放さずに摂取して捨てないという本願のたのもしさに、ただ安心し、ただお念仏申すばかりです。


思えば、私が本願を聞くことができたのは私の力ではなく、全くもって阿弥陀さまを始めとして、多くの有名無名の高僧知識方、法の伝持に携わった同行方、その他私が今まで生きるために支えとなり力となってくれた数え切れない多くの有情非情のおかげでした。この世の全てといってもいいです。そして、私にとってはですが、私に親鸞聖人の教えましますことを紹介してくれた高森会長や親鸞会の皆さんもその中の一部です。

親鸞聖人は『浄土和讃』観経讃に、

弥陀・釈迦方便して 阿難・目連・富楼那・韋提
 達多・闍王・頻婆娑羅 耆婆・月光・行雨等

大聖おのおのもろともに 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり


と教えておられます。『観経』の登場人物は還相の菩薩方と味わっておられたのでしょう。相変わらず親鸞会は邪義を説き続けて許すことのできない存在ですが、私個人にとっては私が本願力に遇う縁となった存在でもあります。順縁だけでなく逆縁も、みなみな私に法を聞かせてくれる善知識です。

高森先生、講師部員の皆さん、お世話になった先輩や同輩や後輩の皆さん、本当にありがとうございました。この御恩は忘れません。ただし、邪義を説いて人々を騙し続けていることは今も昔も変わりませんから、そこはきちっと線引きをして、私は今後も邪義を邪義と明らかにしていくつもりです。それが、如来聖人への私なりの御恩報謝であり、またそれが、高森先生や皆さんから受けた御恩に報謝する道でもあると信じています。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

阿弥陀仏や諸仏、諸菩薩、諸神は念仏者の「何を」「何から」護って下さるのか

『安心問答』「阿弥陀仏に救われると、「この世の利益きわもなし」というご和讃と合わせると、大変な幸福感に包まれるように思っていました。しかし、そうでもないという人の話を聞くと実際のところはどうなんだろうと思います。」(頂いた質問)(レンタルなんもしない人について)

にて宮田先生は、「レンタルなんもしない人」を取り上げて阿弥陀仏の救いと似ている点を教えられています。

1、助けた相手に負い目を感じさせない救い
2、常に側にいるという救い。
3、評価をしないという救い。


といった点が似ているというのです。私も読んでいてなるほどなと思いました。また、最近の時事ネタを用いて話をされる点は流石であると尊敬します。

ただ一方で、現益で善知識方が多く語られている「護る」ということに関しては、「レンタルなんもしない人」はどうなんだろうとも思いました。というのは、「レンタルなんもしない人」は文字通り本当になんもしないからです。傍にはいるけれど、護ってくれるわけではありません。しかし、阿弥陀仏や諸仏、諸菩薩、諸神は念仏の行者を静観しているわけではなく、夜昼常に、よろこびよろこび護って下さると教えられています。

その点、私のイメージ的には「レンタルなんもしない人」というよりはクリアクリーンの「ネクスマン」が近いです。

『YouTube』花王 クリアクリーンネクスデント 「家族の歯を守りつづける! ネクスマン」篇 CM 遠藤憲一


そもそも、護る、護るというけれど、阿弥陀仏や諸仏、諸菩薩、諸神は念仏者の「何を」「何から」護って下さるのでしょうか。まず「何を」に関して言えば、「真実信心」を護って下さいます。

無碍光仏のひかりには
 無数の阿弥陀ましまして
 化仏おのおのことごとく
 真実信心をまもるなり
『浄土和讃』現世利益讃

次に「何から」に関しては、「よろづの悪鬼」から護って下さいます。

南無阿弥陀仏をとなふれば
 四天大王もろともに
 よるひるつねにまもりつつ
 よろづの悪鬼をちかづけず


よろづの悪鬼」とは、要は仏のさとりを妨げる悪魔のことです。仏道を妨げ、そこから退転させ、迷いの世界にとどめさせるもののことで、自分の外は勿論、内にも存在します。真宗で言うなら、念仏の教えや念仏の行者を非難攻撃し、浄土往生を妨げるもののことだと言えましょう。

阿弥陀仏や諸仏、諸菩薩、諸神は、そういった「よろづの悪鬼」から念仏の行者の信心を守護して下さいます。こうした行者の信心を守護することを教えられた譬えが「二河白道の譬え」です。譬えの中では、群賊や悪獣が行者を殺そうと襲い掛かり、また白道を進む行者を喚んで東の岸に引き戻そうとしています。また、

この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。「散善義」回向発願心

と教えられています。阿弥陀仏や諸仏方は、これらの群賊・悪獣や、一切の異見・異学・別解・別行の人等から行者の信心を守護し、確実に浄土往生させて下さるというのです。


それで先ほど挙げたクリアクリーンのCMを見て頂きたいのですが、ネクスマンのセリフを

群賊・悪獣から守る!
一切の異見・異学・別解・別行の人等から守る!

に変えてみて下さい。私達が昼も夜も、寝ている時も「護り続ける」阿弥陀仏や諸仏方の御恩が私には偲ばれてきて有難く感じられます。同感して下さる方がいたら幸いです。

なお、別に宮田先生の教えられ方を批判しようとかそんな意図はありません。あくまでも「私はこう思う」という私の味わいなので、そのように受け取って頂きたいです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『蓮光寺』仏のすがたとこころ
『WikiArc』二河の譬喩

現益を得ると説かれていることと幸福感との関係について

前回の続きです。

浄土真宗の教えは現当二益の教えだと言われます。

問うていはく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。
答へていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。
『御文章』1帖目4通

蓮如上人は端的に、真実信心の行人がこの世で正定聚の位に定まることを現益、行者がこの世の命終わって浄土往生することを当益と教えられています。

念仏の行者が現当二益を得ることは既に道綽禅師の『安楽集』や善導大師の『往生礼讃』等に教えられていることで、親鸞聖人も礼讃の文を「行文類」に引いて、現当二益の念仏であることを証明されています。

道綽禅師は始益、終益という言葉を使っていますが、法然聖人は現益、当益という言葉で教えられています。

おほよそ五種の嘉誉を流し、二尊(観音・勢至)の影護を蒙る、これはこれ現益なり。また浄土に往生して、乃至、仏になる、これはこれ当益なり。『選択集』約対章

なお法然聖人は現当二益を念仏の利益として教えられていますが、親鸞聖人は「行文類」には行信の利益とし、「信文類」には端的に信心による利益として教えられています。現益としては現生十種の益現世利益和讃などが有名かと思います。


そこで問題なのが、タイトルに示している「現益を得ると説かれていることと幸福感との関係について」です。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。

とか

獲信見敬大慶喜

あるいは

南無阿弥陀仏をとなふれば
 この世の利益きはもなし
 流転輪廻のつみきえて
 定業中夭のぞこりぬ


などと説かれているのを聞きますと、『安心問答』の質問者のように「大変な幸福感に包まれるように」想像してしまいます。私もそうでした。逆に、大きな幸福感を具さないようでは真実信心とは言えないと思っていました。

これについては、

『飛雲』信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心
『同』どちらが異安心か?
『同』学術論文である『教行信証』を体験記と見做す体験至上主義の高森顕徹会長

等に分かり易く書かれています。要は

現生十種の益を獲ると親鸞聖人が解釈されたこと



現生十種の益を獲たことが実感として判ること

との違いです。上リンク先では「入正定聚の益」を例に教えられていますが、冥衆護持の益諸仏護念の益心光常護の益などもそうです。阿弥陀仏を始め、諸仏や菩薩方、神々のお姿を私達は見たてまつることができません。光明やそのはたらきも、教えの言葉を通して知る以外に知る智慧がありません。

このようなことですから、現益を得ると説かれていることと幸福感との関係についても、必ずしも一致するわけではありません。本願を疑いなく信受し、阿弥陀仏に往生をおまかせした安心感や、遇うべきものに遇い、聞くべきものを聞き得た満足感はありますが、それでこの世を喜び一杯で暮らしていけるのではないのです。

つらいものはつらい、痛いものは痛い、憎いものは憎い。相変わらず煩悩悪業の身で、有っても無くても満足ということを知らない自性は変わりませんから、煩悩を燃やして煩い悩む、理不尽な出来事に遭って嘆き悲しみ、怒り憎しむことは信後だろうと当然あります。

法話を聞いたり、法語を読んだりしてああうれしい、なんまんだぶ、なんまんだぶとやっていても、次の瞬間に憎い相手の面を見たらどうでしょうか。喜びはどこへやら、こんちくしょう、嫌な奴に会うてしもうたとなるでしょう。まして嫌味や悪口を言われて御覧なさい。顔には出さなくても心はどうにもなりません。

こんな心をどうにかしてやる、煩悩をどうにかしてやる、またどうにかしたら助けるという本願ではないのです。どうにかできる人はいいですが、淳心房はとてもではないけれども、どうにかできません。悪心を起こしてはならないと思う次から悪心を起こし、広く温かい心でいようと思う次から狭く冷たい心が出てまいります。

こうした我々の心を変えて助けるという本願ではありませんので、本願を聞き得た後も、我々の心が幸福感で満たされるということは稀であり、ましてその喜びがずっと続くということはありません。


じゃあ何か変わるものはないかといったら、本願を信じて喜ぶ者は、法にたしなんでいくことで、徐々にですが今起こっている出来事に対する見方、意味が変わってくると思います。例えば目の前のごはん一つにも、おかげさまで今日も命を保たせてもらっているなぁ、私が生きるために多くの命を頂いているのだなぁ、ということが分かってくるのです。それ以前は食べるのが当たり前、食べねば生きていけんじゃないか、食物連鎖の関係からして上の者が下の者を食べるのは当然と感謝も懺悔も無かった者が、少しずつですが物の見方、考え方が変わってくるのです。

あの時私はこう思った、こんなことを言った、こんなことをやったが、果たしてそれでよかったか、仏さまが見ていたらどう思うかと、仏さまを中心とする物の考え方というものが徐々にできてくるのです。勿論、人間は粘土細工ではありませんから急にそういう風にはなりません。そういう人はあっても稀ではないかと思います。あと法をたしなまない者は以前のままです。これは私の実感からそう言えると申しておきます。しかし、法をたしなみ、お念仏をたしなむ者は少しずつですがそういう変革がなされてゆくと思います。

そうして法に育てられ、お念仏に育てられて、少しずつではあるけれども確実に私の中に変革が起こってまいります。その中で、徐々に御恩ということ、様々な人や物の恵みによって生かされているということを知って、法の有難さ、慶びというものが知らされてくるものであると思います。往生の信心は聞其名号信心歓喜の一念に定まっても、その瞬間から何もかも変わる、相当のことが知らされるというわけではありません。

このような念仏者の変革については、林遊さんが紹介して下さった

金魚掬いの救いと磁石のはたらき

等をご覧頂ければと思います。変革の仕方も、その進行の程度も人それぞれであり、一概に言えることではありませんが、「やうやうすこしづつ」変わってゆくものであると申しておきます。そうした中で、時には苦かったり、渋く思うようなことがありつつ、生きることも有難いことであり、死ぬこともまた有難いことであるというような心の境地というものが開かれてゆくのではないかと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『Mr.Children』HERO

信心を獲るということと、この世の幸福感の関係について

この前、

『安心問答』「阿弥陀仏に救われると、「この世の利益きわもなし」というご和讃と合わせると、大変な幸福感に包まれるように思っていました。しかし、そうでもないという人の話を聞くと実際のところはどうなんだろうと思います。」(頂いた質問)(レンタルなんもしない人について)

を読みました。私もかつては信心を獲るということと、この世の幸福感について随分と疑問を抱いていました。親鸞会では、阿弥陀仏に救われると「絶対の幸福」になるだとか、それはたとえ死が来ても崩れない最高無上の幸福だとか聞いていましたし、他力の信心を顕す「広大難思の慶心」については

広かったぞー! 大きかったぞー! 想像を絶する大きな慶びの心が起きたぞー!

などと説明を受けていましたから、救われた暁にはさぞ素晴らしい世界に出られるのだろうと想像していたものです。毎日、生活の瞬間、瞬間が「生まれてきてよかったー!」「生きてきてよかったー!」という生命の歓喜に溢れ、質問した方の言葉にもあるように「大変な幸福感に包まれるように」思っていました。


ところが、実際は本願の仰せを信受させて頂いた以外は何も変わらないと言っても差し支えないほど何も変わらないので、当初は想像していたこととのギャップに戸惑いました。

確かに後生、往生の心配は阿弥陀仏によってすっかり取り払われ、いつどのように命終わっても我が往く先は安養の浄土であると慶ぶことを許されてはいます。

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。『末灯鈔』1通

されば聖人の仰せには、「来迎は諸行往生にあり、真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。『御文章』1帖目4通

とあるように、只今本願の仰せを疑い無く信受している念仏の行者は、この世は摂取不捨の利益にあずけしめられ、この世の命が尽きると同時に本願の実報土である滅度に至るという無上の功徳を与えられています。

ところが、申し訳ないことにそのように慶ぶ心は実におろそかで、本願や念仏、浄土よりも関心は世事ばかり。順境には感謝しても、逆境に見舞われると怒り憎しみ、言い訳や繰り言は絶えず起こってまいります。自分の中には仏法らしいものはなく、あるのはひたすら煩悩悪業のみです。摂取不捨の利益にあずかり、真の仏弟子と讃えられる身になり、間違いなく往生の大益を獲させて頂くというのに、何か気に入らないことがあると造作も無く心の底から不平不満が噴き上がってきます。そのような時にお念仏申しても実に味気ないものです。

とてもではないが、会員時代に想像していた「絶対の幸福」なるものに自分はなっていません。私が本願を信じ念仏申す身にさせて頂いた当時は親鸞会で得た知識がほとんどで、親鸞会教義にかなり染まった状態でしたから、後生の心配はすっかり阿弥陀さまにおまかせして安心したものの、全くと言っていいほど変わらない現実に疑問を抱き、そして現実の苦しみに喘いでいました。


これについては先ほどの安心問答に宮田先生がその答えをお書きになられています。以下引用。

これは、阿弥陀仏の救いについての誤解からくるものです。阿弥陀仏の救いとは生死を繰り返す私をそこから出て離れさせ浄土に往生させ、仏にするというものです。その意味では、病気や人間関係の解決をする仏さまではありません。


この通りです。私は阿弥陀さまの願いを聞かずに、阿弥陀さまに私の願いを聞かそうとしていた。阿弥陀さまは、自分の願いを満たしてくれる仏さまではなかった。「絶対の幸福」とは、言ってみれば私の願い、私の欲望です。であれば、そうなれないのは当然です。本願に私を「絶対の幸福」にするとは誓っていません。

本当に(至心)、疑いなく(信楽)、我が国に生まれることができると思って(欲生我国)、わずか十遍ほどでも我が名を称える者を(乃至十念)、もし我が浄土に生まれさせることができなければ(若不生者)、私はさとりを得た者とは言えません(不取正覚)。

こう誓われているのに、俺は本願に何を求めていたのか。何が不足でもっと幸福感が増してもよさそうなものだ、もっと不幸な思いをしなくなってもよさそうなものだと思っておったのか。自分がみじめなのは自分の今までの業の報いではないか。今までの業が悪すぎたから現在苦果に喘いでいるのではないか。

存覚上人は『持名鈔』にこのように仰っています。

ただし、今生をまもりたまふことは、もとより仏の本意にあらず。かるがゆゑに、前業もしつよくは、これを転ぜぬこともおのづからあるべし。後生の善果を得しめんことは、もつぱら如来の本懐なり。かるがゆゑに、無間に堕すべき業なりとも、それをばかならず転ずべし。しかれば、たとひもし今生の利生はむなしきに似たることありとも、ゆめゆめ往生の大益をば疑ふべからず。いはんや現世にもその利益むなしかるまじきことは聖教の説なれば、仰いでこれを信ずべし。ただふかく信心をいたして一向に念仏を行ずべきなり。

今生を護るというのは仏さまの本意ではありません。ですから、過去の悪業が強ければ、これを転ずることができないということもあります。しかし後生の善果を得させることは如来の本懐であるから、無間地獄に堕する業であっても必ず転じて下さいます。だから、たとえ今生の利益が空しかろうとも決して往生の大益を疑ってはなりません。まして現世にもその利益が空しくないことは聖教に教えられている通りですから、仰いでこれを信じなさい。ただ本願の仰せをそのまま受け容れて一向に念仏を行じなさいというのです。


信心を獲るということと、この世の幸福感の関係については、必ずしも連動しません。信心を獲たから幸福感が増すとか、逆に幸福感が無いから信心を獲ていないとは言えません。本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れたのが信心を獲るということです。我が心の良し悪しで信を獲たかどうか決まるのではありません。反対に、我が心の良し悪しで阿弥陀仏の救いを計らうことを自力というのです。

ただ、南無阿弥陀仏という幸せに出遇わせて頂きながらこれを慶べないとしたら実にもったいないです。幸福を感じられないことについては相応の原因があるのでしょうが、とりわけ法の慶びは、法に触れてこそです。常に教えをたしなみ、嬉しいにつけ悲しいにつけ、お念仏を申してゆくことが肝心であると思います。

さて、これはこれとして、まだ疑問は残ります。それは、最初に挙げた『安心問答』への質問者のように、現益を得ると説かれていることと幸福感との関係です。これについては、長くなりましたので、記事を改めて書きたいと思います。

阿弥陀さまが選択されたのが称名念仏一行でよかった

消費増税前後の駆け込み需要のために物量が膨らみに膨らんで、先週から仕事づめで休憩時間も中々取れない状況が続いています。ホントお前らいい加減にしろよと言いたくなります。

帰ったらもうクタクタで、なんにもできないと言っていい位なんにもできないです。

しかし、お念仏を申すことなら通勤中でも、車を運転しながらでも、軒先でお客さんを待っているほんの少しの間にもできます。

もし造像起塔(仏像を造り、塔寺を建てること)や智慧高才、多聞多見(仏の教えを多く見聞して学問があること)や持戒持律(戒律を守って犯さないこと)、布施や忍辱、精進や禅定、発菩提心等を阿弥陀仏が往生の行と定めていたら、俺みたいな奴は絶対助からなかった。

以下、『選択本願念仏集』本願章より。

第十八の念仏往生の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは布施をもつて往生の行となす土あり。あるいは持戒をもつて往生の行となす土あり。あるいは忍辱をもつて往生の行となす土あり。あるいは精進をもつて往生の行となす土あり。あるいは禅定をもつて往生の行となす土あり。あるいは般若[第一義を信ずる等これなり。]をもつて往生の行となす土あり。あるいは菩提心をもつて往生の行となす土あり。あるいは六念をもつて往生の行となす土あり。あるいは持経をもつて往生の行となす土あり。あるいは持呪をもつて往生の行となす土あり。あるいは起立塔像、飯食沙門および孝養父母、奉事師長等の種々の行をもつておのおの往生の行となす国土等あり。あるいはもつぱらその国の仏の名を称して往生の行となす土あり。

かくのごとく一行をもつて一仏の土に配することは、これしばらく一往の義なり。再往これを論ぜば、その義不定なり。あるいは一仏の土のなかに、多行をもつて往生の行となす土あり。あるいは多仏の土のなかに、一行をもつて通じて往生の行となす土あり。かくのごとく往生の行、種々不同なり。

つぶさに述ぶべからず。すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。

(乃至)

答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。


阿弥陀さまが選択されたのが称名念仏一行でよかった。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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