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嶋田さんの遺された数々のお言葉達こそ、嶋田さんの還相回向のご活躍そのものではなかろうか

二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。「証文類」還相回向

【現代語訳】
二つに、還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれることである。

如来二種の回向のうち、親鸞聖人は還相回向についてこのような書き出しで教えておられます。

還相とは「還来穢国の相状という意。往生成仏の証果を開いた者が、再び穢土に還り来て、他の衆生を教化して仏道に向かわせるすがた。」とのことです。往相回向の利益によって真実報土へ往生し、この上ないさとりを開いた者が、そのさとりの必然として展開される、娑婆世界へ還来しての衆生済度の活動のことです。

その根拠として聖人はまず天親菩薩の『浄土論』より

『浄土論』(四二)にいはく、「出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく」と。{以上}

というお言葉と、続いて曇鸞大師の『浄土論註』より

『論註』(下 一〇七)にいはく、「還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を度せんがためなり。このゆゑに、〈回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり」と。

というお言葉を引文されています。

還相というのは、浄土に生れた後、自利の智慧と利他の慈悲を成就することができ、迷いの世界に還ってきてすべての衆生を導き、みなともにさとりに向かわせることである」というのです。浄土へ生まれた者の、その後の衆生利益、衆生済度の活動ということです。

その後、様々な御文が示されますが、要は

浄土に往生してさとりを極めたものが、証果の必然として無縁の大悲を起こして衆生済度のため菩薩となり、あるいは、他方世界にあって釈尊のような仏陀のすがたを示現して説法し教化していく」(

という、浄土に往生した者の、種々の利他の活動相が顕されています。そして最後には

しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。「証文類」総結

と締めくくり、自利も利他も共に阿弥陀仏の本願力の回向によって恵み与えられるのだと教えられています。


以上、還相回向は浄土往生し、成仏した者の、その後の衆生済度の活動だということはわきまえております。ここからは、その上での淳心房の勝手な味わいです。

では今まで浄土へお還りになった善知識方や御同行方の、数々の書き残されたお言葉や伝えられている言動は一体何だろうか。実はこれこそ、善知識方や御同行方の還相回向の活動そのものではなかろうか。私にはどうもそのように思えてならないのです。

だってこんなにも有難い。こんなにも沢山の、後の世の人々に影響を与えている。その人達はもうこの世を去ってしまっているが、今なおもこの世にとどまって私達に教えを説き続けている。そのおかげによって淳心房は、如来興世の正意、阿弥陀仏の本願を知り、本願成就の南無阿弥陀仏に遇わせて頂くことができた。ですから、これは善知識方や御同行方の還相回向の活動と言っていいのではなかろうかと思うのです。

昨日の記事で言えば、『私の白道』『あなたの白道』に記された嶋田さんの数々の書き残されたお言葉です。嶋田さんの遺された数々のお言葉達こそ、嶋田さんの還相回向のご活躍そのものではなかろうか。

勿論、以前はそんなことは考えませんでした。しかし嶋田さんが往生し、この世を去られて、改めて私の過去のお育てを振り返ってみるに、あの時嶋田さんが『私の白道』を著して下さらなかったら、私は親鸞会の教義の誤りに気付かなかったかも知れない。未だに「平生業成」の看板を掲げた「死ぬまで求道」の教えに迷っていたかも知れない。であれば、私は今の私とは全く別の運命を辿っていた。親鸞会の教義にも自分の無力さにも絶望し、自ら死を選んでいたっておかしくはない。そう考えると、実はあれこそが嶋田さんが淳心房一人を助けんがための還相回向のおはたらきではなかったかと思えてくるのです。

今は嶋田さんに限って話をしていますが、嶋田さんだけではありません。釈尊、七高僧方、親鸞聖人、蓮如上人、その他有名無名の知識方、同行方、数え切れない沢山の方々の書き残されたお言葉が、今もなおこの世にとどまって、私に教えを説き続けている。その徳音によって、今私になんまんだぶが届いた。そうであれば、みな淳心房一人を済度せんがための還相回向のご活躍であったと言っていいのではなかろうか。

近藤元講師にしてもそうです。梯實圓和上にしてもそうです。皆々、淳心房一人に如来二種の回向を教えて、またこの尊い教えを弘めてくれよと言い残して還られた菩薩方ではなかろうかと思えてくるのです。


少し、いや大分、教義に外れたことを申し上げました。以前から思っていたのですが、嶋田さんの一周忌を機に述べさせて頂きました。同心される方、異論・反論のある方、様々おられましょうが、当記事で私の書いたことに納得頂かなくて結構でございます。私はこのように味わっている、それだけです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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嶋田久義元講師のご往生より早や1年

『あなたの白道』一周忌

の記事をご覧になった方も多いと思いますが、嶋田久義元講師のご往生より早や1年です。

直接のご縁としては華光会館で一度見かけて少々話をさせて頂いた程度なのですが、ブログ

『私の白道』

が私に与えた影響は非常に大きいです。このブログによって、親鸞会教義の誤りと高森会長や幹部講師らの実態を知らされ、また本願に救われた世界があるんだ、実際に私も救われるんだと勇気づけられました。この場を借りて、嶋田元講師に深く感謝の意を表したいと思います。本当にありがとうございました。おかげさまで淳心房、本願を信じお念仏を申して、浄土を期として願力の白道を歩む念仏行者とさせて頂きました。

現在は還相のご活躍をされていると思いつつ、私も一人でも多くの方に親鸞会教義の誤りと、正しい浄土真宗の教義・安心を知って頂きたくブログを続けていきたいと思います。嶋田元講師、どうぞ仏の大慈大悲をもって未だ迷っている有縁の方々を導いて頂きたいです。


さて、嶋田元講師はブログを読まれれば判ると思いますが、中央仏教学院の通信教育で勉学に励まれ、寺の僧侶として南無阿弥陀仏の六字のこころをお取次ぎする人生を歩もうとされる半ばで病魔に襲われました。

どれほど、今日を生きて法を伝えたかったであろうかと、その無念を思うとつい涙ぐんでしまいます。

朝3時に起きて 新聞配達をして 6時から昼3時まで豆腐屋で製造の仕事をして、夕方 5時30分から 葬儀社の駐車場の係りを 2時間してと1日 10時間は働きました 。第6章 ②

還暦を過ぎてこのような生活をし、合間に勉学されていたというのですからものすごい根性です。対して自分の不甲斐なさ、根性のなさに我ながら情けなくなります。あれは先週の金曜日、何とかその日に来た大量の荷物を片付けて、疲労困憊の中で会社に戻ろうと車を走らせていたそんな折、

『radico.jp』タイムフリー HOT69(1月18日まで。ただ無料で聴けるのは主に関東地域限定かも知れません)

の、開始3分ちょっとで流れる

BRAVE feat. Toshl(X JAPAN)

という曲が耳に入り、その中の

俺が死にてぇと思った今日は
奴が死ぬ程生きたかった明日
我に返り蹴飛ばすヴァース
奮い立つ


の部分に、「そうだ、今日という日は嶋田さんが死ぬほど生きたかった、生きて法を伝えたかった明日なんだ」と勇気をもらいました。またその後の、闇を打ち消すように力強く響くToshiさんのハイトーンボイスに、俺も現状に負けずに立ち向かってゆこうと元気づけられました。

よく、仕事が忙しすぎて家と会社の往復しかしてないなという時は、今日という日は何の意味があったのかな、いたずらに費やしてしまっただけなのかなと思ってしまうのですよ。最近は「死にてぇ」までは思いませんけど、やはり生きることの意味と死ぬことの意味をよく考えます。

私は仕事に1日の半分以上の時間を取られます。命の半分は、お金という対価の代わりに会社に捧げているようなものです。仕事で既にクタクタ、それでいて妻も小さい子供達もいるので、思うように法話を聞きに行ったり、勉強したりという時間が中々持てません。非常に厳しい中ですが、少しは嶋田さんのそういった生きざまを見習って、ブログの題に掲げた通りのことが実行できるように努めていきたいと思ったのでした。


未だ読まれたことの無い方は、親鸞会の実態を知る上で

『私の白道』
『あなたの白道』

を一読されることをお勧めします。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『歌ねっと』AK-69 BRAVE feat. Toshl(X JAPAN) 歌詞

謹賀新年(2019年)

2019年が始まりました。今年もボチボチ書いていくつもりです。よろしくお願いします<(_ _)>


さて、最近私が特に思わされるのは、「御恩」ということについてです。

私が阿弥陀仏の本願念仏の教えを聞くようになり、本願力回向の行信を獲て本願を信じ念仏する身になったのは、私の力ではありません。全て阿弥陀仏の大慈大悲のお心によってそうならしめられたのです。

そうであるように、私がこの世に生まれてきたのも、こうして不自由なく暮らせていけるのも、私の力ではありません。父母あり、先祖あり、周囲のお世話になった方々あり、私の血となり肉となるために犠牲になった多くの動植物あり、地球あり、太陽あり、空気あり、水あり、火あり、風あり、土あり、その他挙げればキリがないほど実にさまざまなものの「おかげさま」によってです。その御恩を思い、感謝して生きてゆけるならば、これは幸せなことだと思います。

ただ、特に私なんかはこうした仏教の教え、お念仏の教え、御恩の教え、「おかげさま」の教えを1回2回聞いた位で、それ以降聞かなくてもそのような思いを持ち続けて仏祖や周囲に感謝し、幸せに生きてゆけるほど賢善な者ではありません。。往生の信心は即座に定まっても、相変わらず煩悩具足は変わらないし、周囲の環境も変わるわけではありません。だから教えを聞き続けなくちゃなりません。

1回2回聞いてその教えをずっと心に保ち、身に保てるほど俺はできた人間じゃないです。体の栄養失調も困りますが、教えの栄養失調ほど困ることはありません。私みたいな者は、普通に生活していたら、すぐに煩悩で有難さが曇ってしまいます。愛欲と憎悪ですぐに三悪道まっしぐらです。

聴聞は信前だけ大事で、信後はしなくていいということではありません。むしろ信後の方が大切ではないかと今は思います。相変わらず仏様とは正反対の方を向いて苦悩に沈むのが大好きな愚悪な自分を知らせて頂き、今こうして生きている一瞬一瞬にもその自分を摂め取って捨てない大慈大悲の阿弥陀さまましますこと、このお念仏の教えを私まで届けて下された多くの方々のこと、多くのもののおかげで生かされていることを知らせて頂く。そして懺悔と感謝を繰り返し、常にお念仏を申して浄土へ向かって生きて行く。こうでなけりゃいかんなと最近つくづく思います。


ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。総序

ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。信文類

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。化身土文類

慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これによりて、真宗の詮を鈔し、浄土の要を摭ふ。ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず。もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。後序

(59)如来大悲の恩徳は
   身を粉にしても報ずべし
   師主知識の恩徳も
   ほねをくだきても謝すべし
正像末和讃

親鸞聖人は、挙げればキリがないほど、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳の深いことを念うて、それをお慶びになっています。そして、ひたすらその報謝の活動に挺身されました。

私も、親鸞聖人とはとても比較にならないお粗末なことしかできませんが、他力の信心を通して知らされた世界と、親鸞会教義の誤りを紹介していくこと、家族に阿弥陀仏の徳の尊さを伝え、お念仏を喜び申していくことで、私なりの御恩報謝をつとめていきたいと抱負を述べまして、新年のご挨拶としたく思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

仏法をあるじとし、世間を客人とせよ

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

俺はこの世に仕事するために生まれたんじゃない。食うて糞して寝て起きて死ぬばかり、そんなことのために生きてるんでもない。この人生、ひとえにお念仏申すための人生です。

何のために生まれてきたのか。本願を信じ念仏を申して二度と迷わない身となる。これが第一の目的で、自分がそういう身となったならば今度はその喜びと共に有縁の方々に本願をお伝えする。これが第二の目的です。そして浄土に参った暁にはこの上ない悟りを開いて一切衆生を思うが如く利益する。これが第三の目的です。

迷いを離れ、往生成仏する万人共通の道。本願を伝え、御恩に報いる道。一切衆生を救うてゆく道。それが「念仏」であり、先の三つの目的は往相回向の「念仏」によって達せられますから、この人生はお念仏申すための人生だというのが淳心房の領解です。ですから、当然お念仏申すことが人生の中心になければならない・・・はずです。


ところが、現実としては生活が中心になっています。仕事の合間にお念仏、移動の間にお念仏、家事や育児の間にお念仏、ブログを書いている間にお念仏・・・。お念仏が出てくるのは有難いことだけれども、これでは仕事や生活が主人で、お念仏は客人、脇役となっている感が否めません。迷いの深い自分は、気が付くとお念仏と生活の立ち位置が逆転しています。

仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。
仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなりと[云々]。
『御一代記聞書』(157)

「仏法を主とし、世間のことを客人としなさい」という言葉がある。
仏法を深く信じた上は、世間のことはときに応じて行うべきものである。


蓮如上人はこのように仰せられたとあります。主人が誰なのか、客人が誰なのかすら分からなくなってしまう。そんなことは普通はあり得ない話ですが、そのあり得ないことが自分にあり得ている。何と恥ずかしいと思うと共に、やはり法を聞き続け、お念仏を相続してゆく重要性を痛感します。それでいくと、

仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」と、『和讃』(浄土和讃・三一)にあそばされ候ふ。
『御一代記聞書』(155)

「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。仏法においては、明日ということがあってはならない」と、蓮如上人は仰せになりました。このことは『浄土和讃』にも

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
たとえ世界中に火が満ちているとしても、ひるまず進み、仏の御名を聞き信じる人は、往生成仏すべき身に定まるのである。

と示されています。


のお言葉も、当面は厳しく聞法姿勢、聞法精神を正しているお言葉ですが、上に示した主人と客人を間違えぬようにとの御指南であるとも私には受け取れます。


本願を信じられました。お念仏称えました。それでおしまい・・・ではさみしい。信後も如来のお育てにあずかり、自身が相応の念仏者に育てられてゆくと共に、多くのお仲間と共にお浄土参りを果たしたい。

六字のみ名を となえつつ
世の生業(なりわい)に いそしまん
海の内外(うちと)の へだてなく
み仏(おや)の徳の とうとさを
わがはらからに 伝えつつ
浄土(みくに)の旅を ともにせん


真宗宗歌でも「六字のみ名をとなえつつ」世の生業にいそしまんと、六字の御名を称えることが先です。宗歌に触れる度、主客が逆転している浅ましい自分だと気付かされ懺悔すると共に、仏法が主人であることを再確認し、この宗歌の通りに生きていきたいと思います。

まぁ現在の自分の仕事は宅配関連で、はたを楽にするというよりはどうも欲望の増長をしている感が否めなく、また理不尽なことも多くて「おかげさまで生活させてもらえるのだ」という心を保ち続けるのは自分には極めて困難ですがね(;^ω^) 世の生業も御恩報謝と達観できるようになるには先は長そうです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
仏法を主とし(真宗の味わい)
真宗宗歌

ねんぶつとは、なんまんだむです

娘の宿題の一つに、日記のようなものがあります。この前、特に書くことがなかったのか、娘が突然

「念仏について書こう」

と言い出しました。しかもその書き出しが

ねんぶつ
ねんぶつとは、南無阿弥陀仏です。

(漢字は私が書きました。娘は更に、横に「なんまんだむ」と振り仮名を振っています)

ですから二度ビックリ。「なんまんだぶととなえることです」とか書くと思ったけど、確かにこれで間違いない。

念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。「行文類」経文結釈「破闇満願」

しかも南無阿弥陀仏を赤鉛筆で横線引いて「大じ!」と書いている。間違いない。これ以上大事なことは無い。

すげーな我が娘。しかし宿題でこんなこと書いていいのか?


まぁせっかくだからと様子を見ていると、どうもその後、「念仏を称えると極楽浄土に往ける」と書きそうだったのでちょっと手助けを。これでも間違いではなんですけどね・・・どうせなら正確な教えを書いてもらいたい。ただ、あまり長ったらしいと娘も書く気をなくしてしまうだろうな。少し考えた結果、

阿弥陀仏はその昔、全ての人を平等にすくうにはどうすればいいか考えて、わが名をとなえる者を往生させるとちかいを立てました。今はそのちかいがかんせいし、ちかいをうたがいなくしんじてとなえるものはかならずじょう土に生まれます。

習っていない漢字もあるので、このように書いてもらいました。ほとんど手伝っちゃった感がありますが、念仏について書くことは恐らくこれが最初で最後だと思ったので、まぁいっか。あと、先生としたらいきなりこんなことを子供が書いてきたらビックリすると思ったので、一応

パパはこういうのをべんきょうしているそうです。

と書き足してもらいました。オウム真理教の一件以降、日本では宗教偏見が多いのでどう思われるかおおよそ察しはつきますが、読むだけ読んでもらいましょうというつもりで・・・。


ちなみに後日。先生のコメントは赤ペンで

むずかしいのにすごいなあ・・・

というものでした。非常にまともなコメントですね(^-^;

どうも極楽とか浄土というと遊園地のちょっといいのを向こうに思い描いているような娘ですが、往生のみちは弥陀選択回向のお念仏以外には無いと計らいなく信じて称えるようになってもらいたいものです。


なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

知恩報徳の益

先日、敬老の日にちなんで実家の祖父、父母、妹家族を交えて食事会を開きました。最初はその予定はなかったのですが、母の提案で、自分が誘えば父も祖父も喜んでくれるとのことで開催しました。費用も全部自分の支払いで済ませる予定でしたが、なんやかんや母も一部出してくれたり、妹も気を遣って俺の子供達のためにと色々用意してくれたりで、最終的には出した額以上のものを頂いてしまった気がします。

帰省の度にお米をくれ、野菜や食料を買ってくれる。ガソリン代も出してくれる。食事を用意してくれる。また、お隣にあいさつに行けば子供のためにお小遣いをくれる。毎度毎度、こちらが何かしても、何倍にもなって返ってきてしまって申し訳ないやら有難いやら・・・。自分に孫ができたら、子供や孫のためにとて、両親のようなことはとてもしてやれないだろうと考えると、我が親ながらその偉大さに頭が下がります。

日々、色々とつらいこと、苦しいことはあるけれども、こうして何不自由なく暮らしていられるのも両親を始めとした家族、親戚、近所の方々・・・その他目に見えない、気付かない多くの人々のおかげです。お念仏を申すほどに、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳を感じるとともに、そういった自分を慈しみ育んでくれる多くの方々の御恩までも喜ばして頂ける。これまた幸せなことであります。

親鸞聖人は現生十種の益の第八に「知恩報徳の益」を挙げておられますが、それを最近しみじみと感じさせて頂きます。勿論、逆境の最中に御恩を感じて喜べるような私ではありませんが、お念仏を申していると御恩を思い、有難いと思う気持ち、それに少しでも報いたいと思う気持ちが増してくる。そのように感じます。

結局、父母や周りの皆さんのおかげさまで生かされている。それが私なのでした。愚鈍な自分は、こんな当たり前のことに気づくのに随分と長いことかかってしまいました。尤も、そういうことが知らされてきたからといって、急に人間の中身が入れ替わって孝行息子になるとか、何か特別なことができるようになったわけではありません。「だからどうした?」という話ですが、恩を知り、恩を感じるということは何と幸せなことだと思います。

やはり人間、色々な楽しみや喜び、幸せがあるけれども、御恩を感じ、御恩を思わせて頂くという幸せはいわゆる欲望を満たす幸せとは一線も二線も画した格別のものであると思います。特に、この恩知らずが恩を知らされるというのが不思議なもので、私なんかは浄土真宗の教えを聞かなければわかりませんでした。だから、誰かに教えられるわけでもなくこのことに気づける人というのはすごい人、立派な人です。

私は立派でもないし、将来立派になって「こんなお前ならもう大丈夫だ」と親に安心してもらえるような自分になれる自信はあまりありません。ただ、子供の頃から自分勝手に生きてきた分、これからは少しでもお世話になった/なっている方々の御恩に報いるようなことをしていきたい。決して、して下さったことを当然と受け流すことだけはしてはならないと思わされました。

少しでもこの気持ちが残っている内に、感謝の気持ちを伝えねばな。残酷にもこの世は無常の世界で、言いたいこと、伝えたいこと、伝えなければならないことを何一つ伝えられずに突然お別れするかもしれない。感謝も何も伝えられなかった、そんな後悔は残したくない。ただ、面と向かっては恥ずかしいし、メールでは軽い。・・・やっぱ手紙にするか(;^ω^) なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

久々に『約束の場所』(CHEMISTRY)を聴いて思ったこと

この前久々にラジオで『約束の場所』(CHEMISTRY)を聴きました。これが発売されたのは2006年ですから今から12年前。まだ私は現役の親鸞会会員でした。

当時は親鸞会の価値判断で生きていましたので、MVには載っていませんがこの歌の2番

途中でもし死んでしまっても ひたむきに夢と向き合えば
きっと同じ未来を描く 誰かが引き継いでくれる
『歌詞タイム』約束の場所より)

という歌詞はどうしても受け入れられなかったです。

いやいや、誰かが引き継いでくれたって、我が身は満足か? 人生の目的を果たせずに途中でもし死んでしまったらなんてそんな未来はいやだ。ひたむきに向き合っても、途中で死んでしまっては何にもならない。

この歌詞の「」を「人生の目的」、「絶対の幸福」と置き換えて聞いていたため、歌のメロディーは好きな方でしたがこの部分は好きにはなれませんでした。


現在は親鸞会を離れて9年。私の心境も大分変化しました。今はこの歌詞の「」を「衆生の志願」と置き換えて聴いています。「衆生の志願」というと、往生の志願だとみんな言うんですが、櫻井鎔俊和上は阿弥陀仏の本願を伝えたいというのも「衆生の志願」であると仰せられています。私もこの説に賛成です。
(こんなことを書いてると林遊さんあたりに怒られちゃうかな・・・まぁいっか)

願わくは、全ての人に阿弥陀仏の本願を聞いてもらいたい。そして皆人一同に浄土に往生し、迷いの世界を離れさとりの世界に参りたい。本願を仰ぎお念仏申すほどに、私はこのような気持ちになります。

みんなが幸せになってもらいたい。お念仏申してもらいたい。現実はとてもそうはいかないし、伝える手段も分からない。途方もない「」で、とても実現不可能に思えるけれども、念仏者なら程度の差こそあれ、このような気持ちが起こってくるのではないかと思います。ここは皆さんの意見を伺いたいところです。

それで、歌詞の「」を「阿弥陀仏の本願を伝えたい」と読むと、私の中では心地よく響くんですよね。私なんかがいくら伝えようとしても、仏様のように自在性がないから全くダメだ。でも、途中でもし死んでしまっても、ひたむきに夢と向き合えば、きっと同じ未来を描く誰かが引き継いでくれるのでは・・・、と素直に思えるのです。

また、サビの

夢は時間を裏切らない 時間も決して夢を裏切らない
その二つがちょうど交わる場所に心が望む未来がある
夢を携えて目指すその場所に 僕がつけた名前は「約束の場所」


という歌詞もとても素敵に聞こえます。


まだ子供も小さいし、色々心残りもありますから死ぬわけにはいきませんが、無常の世界ですからどうなるか分かりません。また、この先何十年とブログを続けていっても、果たしてどれだけの人に影響があるかと思うと、私の存在などチリみたいなもんでしょう。それでも、お念仏を申していると、伝える方法なんか全然分からないけれども、それでも伝えたい、幸せになってほしいという気持ちが起きてきます。

我が身可愛い、我が身第一、我が身の事しか考えない煩悩具足の私がこのようなことを思わして頂くのも、全く如来選択回向のお念仏のおかげです。現実は、目の前の悩んで泣いている会社の同僚にどうやって慰めたらよいやらも分からない、何の力も智慧もない私ですが、何とか何とかと思う気持ちは止みません。


ちなみにこれは経験則ですが、どうも信心を獲ても、その後法を聞かない、お念仏申さないようだと、法の喜びも、御恩を喜ぶ心も、伝えたいと思う気持ちも起き難いです。やはり有難い光が差してくるように、不断聴聞し、お念仏の生活をさせて頂くのが大事であるとつくづく思います。これは私の経験と考えですので、読者の皆様には一意見として捉えて頂ければと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

この前、ようやく本物の人気アニメ映画『君の名は。』をブルーレイで見ました。私が言うのも何ですが、確かに完成度の高いアニメ映画でした。まず作画がとても美しい。現実では有り得ない独特の世界、面白いところ、シリアスなところ、萌え~なところ、考えさせられるところ、様々なものが込められていて、とても楽しく見ることができました。1、2回見た程度ではちょっと理解できない、作者の思いを汲み取れない部分もあると感じています。機会があればもう1回借りて見たいところです。それにしても大きくなった四葉たんカワユス・・・(*´ω`*)

・・・さて、話の中で、ヒロイン宮水三葉のおばあちゃん、宮水一葉の言葉が心に残りました。本当は耳で聞いた言葉を抜き出すつもりでしたが、返却まで時間が無かったのと忙しかったのとでできませんでした。幸い現在は様々な情報がweb上に上がっていますので、そこからお借りしたいと思います。

一葉「三葉、四葉、むすびって知っとるか?」

・・・

「この言葉には深ーい意味がある」

「糸を繋げることもむすび」

「人を繋げることもむすび」

「時間が流れることもむすび。全部神様の力や」

・・・

「わしらのつくる組紐もせやから、神様の技。時間の流れそのものを表しとる」

「縒り集まってかたちを作り、捻れて、絡まって、時には戻って、途切れて、また繋がり...」

「それがむすび。それが時間」


念のため申しておきます。宮水家は代々神社の家系なので「神様」というワードが度々出てきますが、親鸞会の方は一々反応しないで下さいね。阿弥陀仏以外の諸神に仕えるのは「雑行」と徹底されているので、会員の皆さんはいわゆる「五種の雑行」はしていないと思います。しかし、「五種の雑行」さえしなければ良いだろうという考えは大間違いです。皆さんが信心獲得に良かれと思ってやっている聴聞、献金、勧誘、会長や上司への無条件服従等の活動だってみな漏れず「雑行」の範疇ですから。まぁ正確には親鸞会の主な活動など「雑行」とは程遠い「悪行」です。しかも往生・成仏ではなく、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、現世利益が目的では「雑行」とも呼べない、善もどきの善、新興宗教の活動なのですが、細かいところは目をつぶりましょう。

話を戻します。おばあちゃんは「むすび」という言葉を使って、人を繋げること、時間が流れることを「むずび」と言っています。この「むすび」とは異なりましょうが、私達も様々な「縁」によってむすばれています。この世に生まれたのも、現在を生きているのも、誰かと出会ったのも、様々な因縁が絡んで起きたことに他なりません。

そして、私達が現在阿弥陀仏の本願を知り、本願を信じ念仏するようになったのも全て「弘誓の強縁」によってです。親鸞聖人はそのことを、

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(総序)

【現代語訳】
ああ、このような力強い本願力には、いくたび生を重ねても値(あ)いたてまつることは難く、清らかな真実の信心は、無量劫を経ても、獲る機会はなかった。思いがけなくも、いま行信を獲、本願を信じ、念仏をもうす身になったものは、遠い過去世からの阿弥陀仏のお育てのご縁に思いを致して慶べ。

と仰っています。遥か遠い昔からの阿弥陀仏のお育てのご縁によって、現在私は本願を信じ念仏する身となったというのです。また、そのような尊い本願を伝えて下されたお釈迦様を始めとし、インド、中国、日本の高僧方を挙げて、そのご恩を喜ばれると共に本願念仏の法を懇ろに示しておられます。『正信偈』には具体的に7人の高僧方のお名前と、それらの方々の教えが説かれていますが、その裏にはもっともっと多くの、有名無名の方々がこの教法の伝持相承に携わっておられたのです。その内の誰か一人が欠けても、親鸞聖人まで、私達までは届かなかったかも知れません。

ここから、「おかげさまで」ということ、様々な方々の「ご恩」ということを知らされます。法に関しては勿論ですが、私がここまで生かされてきたことも、両親や家族、友人、近所の方々、学校の先生、その他数限りない、様々な有情非情の「おかげさまで」「ご恩」によってです。

如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 ほねをくだきても謝すべし
(正像末和讃)

親鸞聖人はこのように「如来大悲の恩徳」「師主知識の恩徳」を喜び、その報謝を誓っておられます。

私などはとても親鸞聖人や蓮如上人のようにはいきませんが、私のやり方で「弘誓の強縁」ましますことをお伝えしたいと、この映画を見、「むすび」→「縁」と思いを巡らしている間にふとそのようなことを考えました。

比較するのも失礼ですが、浄土真宗まがいの新興宗教が作ったアニメ映画などよりよほどお勧めです(笑)



【参考文献】
【君の名は。】一葉おばあちゃんの重要セリフと考察(※ネタバレ注意)

お釈迦様の手の内でいい気になっている孫悟空と一緒だなぁ

先日、父母や妹家族を含めた家族旅行へ行きました。遊園地へ行って、美味しいごはんを食べて、普段見ない景色を見て、楽しい時間はあっという間でした。子供達も楽しかったようで、よい旅でした。

昔自分が子供だった時とは違い、父はもう70を過ぎています。もう自分で運転して旅行というのは嫌みたいだったので、今度は自分がレンタカーを借り、実家へ父母を迎えに行きました。

行先は自分が子供の頃によく行っていた場所で、当時は私は車の助手席に乗り、父は運転席でした。それが今は父を助手席に乗せて自分が運転している。子供だった私が親となり、父母を乗せて子供を乗せて、かつて自分が子供の頃遊んだ場所にいる。何だか感慨深いものがありました。


旅費を出してもらうので、せめて運転は自分がやって少しでも親孝行ができたらなぁなどと旅行前までは考えていたのですが、今まで父母が自分にしてくれたことを思うと相当に考えが甘かったです。お釈迦様の手の内でいい気になっている孫悟空と一緒だなぁと思わされました。

一体自分は親の恩に対して何ができているだろうか。学生時代はよく反発して親を悲しませた。「何でこんな子に育ったんだろう」と失望したこともあっただろう。それでも自分のことを色々気遣ってくれ、優しく温かく接してくれる。自分の無力さと、親の有難さに胸が熱くなり、こみ上げてくるものがありました。

今は感謝の気持ちを伝えることしかできないが、今度は自分が旅費を出して父母を旅行に招待したい。そしてやがては阿弥陀仏の本願を伝えて、共に本願を信じ念仏を申す御同行となりたい。旅行が終わって、このように思ったのでした。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【追記】
旅行が終わって仕事に出てみたら、炎天下に捌ききれないほど大量の荷物を運ぶはめに・・・。旅行の楽しさもどこへやらです。どうやらこの願いを叶えるには道は長そうだ・・・(*_*;

南無阿弥陀仏に出遇えてよかった

真実の教というも南無阿弥陀仏。

真実の行というも南無阿弥陀仏。

真実の信というも南無阿弥陀仏。

真実の証というも南無阿弥陀仏。

真実の仏というも南無阿弥陀仏。

真実の土というも南無阿弥陀仏。

往相回向というも南無阿弥陀仏。

還相回向というも南無阿弥陀仏。


全てが阿弥陀仏の大悲回向の賜物でないものはありません。
南無阿弥陀仏に出遇えてよかった。苦悩に喘ぐ人生は変わりませんが、この世に生まれ、生きてきた甲斐がありました。そして、この南無阿弥陀仏一つで死んでいけます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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