親様の運転にまかせておけばよいのです

先日子供と夕食にラーメンを食べに行った帰り、よく行く日帰り温泉に行こうという事になって向かっている途中でした。すっかり暗くなり、周囲の様子がよく分からなかったため不安だったのか、子供(7)がこう言いました。

「お父さん、ホントにこの道で合ってるのかなぁ?」

私は言いました。

「大丈夫だから」

「本当にこっちで合ってるの?」そんな心配は無用。親は外が暗がりでも、ちゃんと目的地までの道順を覚えています。子供は道中の事はよく分からなくても、ただ車に乗って親の運転にまかせているだけで、目的地まで着いたというわけです。たとえ分かっていたって、慣れない夜道を七つの子供の足で数キロ離れた先まで進むのは困難でしょう。ここは素直に親の運転にまかせておけばよいのです。


私達が浄土に往くということもこれに似ています。本願に疑い晴れても、浄土の様相、浄土までの道順といったことは分かりません。私の子供のように不安に思うこともあるでしょう。しかし親様はちゃんと分かって、間違いなく私達を浄土までお連れ下さいます。道中の事はよく分からなくても、大悲の願船に乗じて親様の舵取りにまかせているだけで、浄土まで渡して下さるというわけです。たとえ分かっていたって、私の歩める道ではありません。私としてはただ親様の運転にまかせておけばよいのです。なんまんだぶ、なんまんだぶ。
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私が本願をお聞きするに当たって、「私のターン」というものはありません

私事ですが、自分は子供の頃から「ファイアーエムブレム」というゲームが大好きです。思春期から現在に至るまでその熱は冷めず、大の大人が3DSまで買って、バーチャルコンソールで昔のゲームを購入してまでプレイするという入れ込み様です。とは言ってもゲームボーイアドバンス以降のシリーズには手出しできておらず、「暗黒竜と光の剣」「外伝」「紋章の謎」「聖戦の系譜」「トラキア776」しか実際にプレイしたことはありませんが・・・。いつか3DSの「覚醒」「if」もやってみたいとは思いますが、物語も登場キャラも全く違いますし、子供と違ってドはまりしたら大変なので自重しています。

ファイアーエムブレム 新・紋章の謎 ~光と影の英雄~

は特にお気に入りで、もう最難関のルナティック´で5回はクリアしました。始めれば吟味地獄に陥ることは重々分かっていながら、ついつい何周もやってしまうという阿保な自分がいます。

さて、このゲームの特徴の一つに、自軍のターンと敵軍(同盟軍、中立軍)のターンがあることが挙げられます。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーでも、コマンド入力して各キャラの行動を決定するというのは同じですが、自分と敵の行動はお互い入り混じっています。対してファイアーエムブレムは、自軍のターンに各キャラを動かし、終了したらターンエンドして相手ターンに譲るというシステムです。自軍のターンにいきなり敵軍が動き出すことはありません(攻撃を仕掛ければ反撃はしてきます)。自軍のターン→敵軍のターン→自軍のターン・・・と繰り返す点は囲碁や将棋と似ていますが、同一ターン内に複数のキャラを動かせる点は異なります。基本的に一度動かしたキャラは次のターンまで動かせず、同じマスに重ねてキャラを配置できないため、順番や配置等で長考することもしばしば。難易度が上がるほど高い戦略性が求められます。


前置きが長くなりましたが、タイトルでも示した通り、私が本願をお聞きするに当たって、「私のターン」というものはありません。どういう事かというと、普通は「教・行・証」と言われるように教えがあって、教えの通り実行して、証(さとり)を得るというのが一般的な仏教です。世の中でも全てと言っていい位そうで、まず「このような結果が得られますよ」という教えがあって、実際にその結果を得るための方法を実践実行し、望みの結果を得る(得ない)という構図です。サプリメントなんかは実に巧い商品で、それが実際効果があるかは分かりませんが、体験談を前面に押し出し、科学的な理屈を連ねて巧みに消費者の購買意欲をそそっています。

つまりは、望む結果(証)を得るには、教えを行ずるという「私のターン」というものが必ずあるということです。「このようになりたい」という願いだけで、具体的な行動に出なければその願いは果たせないということです。時には「棚から牡丹餅」的な感じで、願ったり叶ったりということもあるでしょうが、それは今までの自分の業が花開いたということであって、何もなく結果が現れたということではありません。

これがいわゆる自業自得の道理というもので、私達が生きてゆくにはこの道理に従って善業を修め、悪業を造らないようにしていくのが大事なことです。何が善で何が悪かということは国や時代、価値観や求めるものなどによって異なりますが、行動無くして成果は無い、「私のターン」無くして望みの結果は得られないということです。当然ながら聖道門や浄土門内の自力の教えでもそうで、さとりや往生という証を得るには、教えに従って行を修めていくということが必要不可欠です。


ただこれを親鸞聖人の教え、第十八願の教法に適応しようとすることは「自力」と言われ、この自力ある限り十八願によって救われるということはありません。第十八願の教法は、阿弥陀さまが衆生を漏らさず救い摂りたいという願いの元、五劫の思惟、不可思議兆載永劫の御修行を経て南無阿弥陀仏の大功徳を成就され、それを与えて救おうというものです。「浄土往生したい」というのは私の願いではなく、「浄土往生させたい」という阿弥陀さまの願いです。そのための行も私が加わる隙は微塵もなく、私に代わって全て阿弥陀さまが修められました。その願行を与えられ、私が往生成仏するという証も、阿弥陀さまが願われ行ぜられた結果です。

私としては、その本願をただ仰せの通り聞き受ける(信じる)のみにて往生成仏が決定するという、何とも有難くたのもしく、かたじけないご本願です。その信すら私が起こすのではなく、向こう様が恵み与えて下さるのですから、私が報土往生することは易いという言葉も要らぬ易さです。既に私を救おうという願行は成就され、その行信も与えられ、証を得るだけなのですから、私が特別何かを行じなければならないということはないのです。強いて言えば本願の言葉、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き、そのまま信じ受け容れるのみです。

こうした第十八願の教法に自力を混ぜ込み、求道のプロセスなどと称して会員を利用・搾取しているのが親鸞会です。因果の道理や19願、宿善、三願転入といった概念を巧みに利用し、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽で聞く者を釣って、組織拡大要員として利用しているのです。私が薄い宿善を厚くし、私が19願・20願の行を実践して18願の世界まで到達するのだと、「私のターン」を設けて、献金・勧誘・無条件服従に都合よく従事させようというのが狙いです。私が本願に救われるに当たって「私のターン」というものはなく、先手の「阿弥陀さまのターン」で往生の一大事の勝負は決してしまうというのに、「私のターン」に執着させて本願を聞かせなくしています。獲信・往生とは無関係なことばかりやらせ、阿弥陀さまと私の仲を取り持つどころか、私を往生成仏させようという阿弥陀さまの願いを阻害しています。

親鸞会教義は親鸞聖人の教えとは向きが真逆ですから、それを正しいと信じている限りは本願に背き、本願の言葉を受け容れずにひたすら利用・搾取されるしかありません。「私が救いに向かって進んでいく」のではなく、「既に回向せられている本願の救いを受け容れる」のです。往生の問題は私がどうこうできるレベルの話ではないのです。それをどうにかしようとしている時点で既に自惚れの極みです。会員の皆さんには、早くそのような邪義は捨て去って、南無阿弥陀仏の六字のこころ、「我にまかせよ、必ず助けるぞ」の力強い本願の仰せに身も心もまかせて頂きたいと思うばかりです。

所詮は、組織からしたら私は歯車の一つでしかなく、代わりなどいくらでもいる

12月の最繫忙期に、突然何人かのベテランの同僚が来なくなり、残された我々には更なる負担がのしかかって本当に辛かったです。どうせ辞めるなら辞表を出して正当な手段で辞めてほしかったですが、彼らにはもはや四の五の言ってられない辛さ、やり切れなさ、不満うっぷんが溜まっていたのでしょう。悪いことをしたのは間違いないが、その気持ちだけは十二分に分かります。自分もこの前、前日分の未配達の荷物がゴロゴロある状態で、しかも隣のエリアを一部くっつけられるということをやらされました。1月だというのに年末に戻ったようです。上司や同僚に恵まれない職場環境は本当に辛いです。

さて、突然開いた穴を埋めるのは実に大変でした(現在も欠員状態で回している状態で大変です)が、それも日が経つにつれて会社は順応していきます。別にその人でなければダメというわけではなく、代わりなどいくらでもいることを改めて知らされました。

Mr.Children「くるみ」Music Video

に出てくる歌詞が思い出されます。

良かったことだけ思い出して
やけに年老いた気持ちになる
とは言え暮らしの中で
今 動き出そうとしている
歯車の一つにならなくてはなぁ


所詮は、組織からしたら私は歯車の一つでしかないのです。どれだけ会社、組織に尽くしてきた人でも、「その人でなければダメ」という人は極々わずか。一般社員の一人や二人、その人の抜けた穴を埋める手段はいくらでもあります。会社や組織、仕事に生きがいを見出す人もありますが、入れ込みも程々にしないと痛い目を見ることになるかも知れません。


親鸞会でも同じ事です。組織からしたら、別に自分じゃなくても、自分と同程度か、それより多くのお布施を出し、多くの人を勧誘する人がいれば、自分は居ても居なくてもどっちでもいいのです。上司にしても、不満や愚痴をぶつけてきて大した働きをしない人よりも、何も言わず黙々と成果を上げてくる人の方が好き(好都合)に決まっています。

高森先生は皆さん一人一人の後生を案じておられます。

などとよく言われますが、間違ったことばかり説いて真に会員に獲信・往生させようという気がないのですから、そんなのは口先だけだと見抜けます。因果の道理や廃悪修善、19願ばかり教えて肝心かなめの南無阿弥陀仏の六字のこころを正しく説かないようでは、会員はいつまでも自力疑惑の範疇を出ません。否、やっていることがまこと仏説にそぐう行ならまだしも、会への献金・勧誘、会長や上司への無条件服従といった善もどきの善では仏教にもなりません。

組織からしたら、自分は単なる構成員の一人、組織拡大要員の一人であることに気づいたら、高森信心のマインドコントロールからはほぼ脱したも同然です。後は教義の誤りと正しい親鸞聖人の教えを知れば、心身共にエセ真宗から解放されるでしょう。後生を人質に取られ、必堕無間の呪縛に怯える生活に、会員の皆さんはそろそろ終止符を打ちませんか?

届くのは決して当たり前ではない

こんなニュース

が最近世間を騒がせているようです。配達員はどんな心理状態だったのか分かりません。荷物を投げつける、蹴るのは勿論悪いことですが、気持ちは分からないでもありません。捌き切れない荷物に加えて、集荷、未着対応、クレーム対応、客のすっぽかし、その他諸々のアクシデントが降りかかって来たら、イライラは天にも昇る勢いです。所詮はこの仕事をやった者でなければ分からない苦しみ悩み怒り腹立ちでしょうが、荷物を頼む側はもう少し事情を理解して、最繫忙期の状況を察してもらいたいものです。

昨日も自分の持ち分だけで200はあり、隣の女の子の分は20ほど持つのが限界でした。昼飯の10分以外はノンストップでやり続けて、最後の配達が21時少し前。恐らく読者の皆様の大半は俺の動きに一日ついてこれないと思います。実にきつく、損な役回りです。せっかく人が定着したと思ってもすぐに辞めてしまいます。自分が今の会社に入った頃よりも確実に人は減り、一人一人の仕事量は確実に増えていると実感しています。それで給料は増えるかと言えばそんな事は無く、逆に会社は残業代を削減するために出勤時間を遅らせ、早くタイムカードを切るように指示をしてきます。これじゃ誰もやる気が出ないでしょう。給料が同等の仕事が他に見つかれば俺だってとっくに辞めてますよ。近年ようやく保育や介護の仕事に大分目が向けられるようになってきましたが、物流・宅配の仕事にも目が向けられるようになって欲しいものです。

さて、一般の人が欲しいものをポチしてから自分の元に届くまではおおよそ以下の手順を踏みます。

出荷人が依頼を受けた商品を確保

集荷依頼し、物流会社が荷物を集荷

荷物を事業所へ持ち帰る

荷物を仕分けて、発送先の車両に積み込む

中継センター等を経由して発送先の事業所へ到着

荷物を配達地域毎に仕分ける

受け人の地域の担当ドライバーが持ち出し・配達

これが通常の時期は正常に稼働し、荷物はほぼ指定日通りに届けることができます。しかし、最繫忙期である12月はそうはいきません。荷物の集荷が遅れ、仕分け・発送も遅れ、中継センターはパンク状態で大型トラックがそこへ到着しても荷物をすぐに降ろすことができません。更にそこから捌けた順に発送していくので、直近の事業所へ届くのは通常の1~2日遅れになってしまいます。そこからまた仕分けて、持ち出しし、配達に向かいます。道が混んでいるとか、そういった事情ではないのです。

中には、バーコードを読み取って機械が自動的に仕分けるハイテクセンターを持つ物流会社もありますが、そんな会社でもそのようなハイテクセンターはまだまだごく一部であり、ほとんどのセンターは手作業で一つ一つ仕分けています。仕分け一つでも実に沢山の人の手が加わっています。この手順の内、どこかが行き詰まれば荷物は自分の元まで来ません。12月はこのほぼ全ての行程が行き詰まっていると言っていいでしょう。日本人の多くは荷物が指定日に、時間通りに来るのが当たり前みたいに思っている節がありますが、決して当たり前のことではないのです。荷物一つ届くのも、実に多くの人の手、苦労があってのことだというのを知ってほしいと思います。


このようなことが知らされますと、この私に阿弥陀仏の本願、南無阿弥陀仏の六字のこころが届いたことにも実に多くの人の手、苦労があってのことなのだなというのがしみじみと感じられてきます。決して当たり前のことではなかった。釈尊はじめ七高僧方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人、その他有名無名の知識方や同行方、誰一人欠けてもこの私まで届かなかったかも知れない。あくまでも私個人の事ですが、高森顕徹会長や声をかけてくれた先輩がいなければ、今私は本願の仰せを聞き受けていなかったかも知れない。邪義だらけの親鸞会ですが、私に本願を伝えてくれたというただ一点においては感謝しています。だからこそ邪義を邪義と認め、今までの悪行を改悔懺悔して、正しい親鸞聖人の教えを説いてくれたらと思うのですが、残念ながらそうはならないでしょうから今まで通りこれからも批判してゆくしかありません。

拙いブログですが、今年も当ブログをきっかけに親鸞会教義の誤りに気づき、本願を信じ念仏するようになった方があったかも知れません。そういう方がたった一人でも構わないから現れてくれれば幸いと思い、綴っています。きっかけが何であれ、一人でも多くの方が南無阿弥陀仏に遇って頂きたい、そう願っています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説

隣のエリアを回っている女の子がまた泣いていました。どうやら、前日・前々日にそこを回っていた奴が力量のないドライバーで、そいつが未配をやらかした荷物を持って行ったところ、客が激怒してきたとのことです。彼女は悪くないのに、実にかわいそうなことです。自分も空いた時間を使ってヘルプに入っているのですが、またしても彼女の涙を見てしまいました。悪いのは未配こいたドライバーであり、このくそ忙しい時にお構いなしに注文しては指定日に荷物が来ないとブチ切れる客なのですが、何とも後味が悪いです。隣を回っている女の子一人助けられないとは、人間の慈悲は実に不完全であることをつくづく思い知らされます。


この不完全ということで思い出されたのが、「行文類」

埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。

です。普通は、諸善の説の方が道理にかなった法であるかのように思えます。釈尊も廃悪修善の道理に従って悪を廃し、善を修めて仏のさとりまで到達された方でありましょう。そして経典の大部分ではそれぞれの機に応じて善を勧められています。であるのに、その善は理を尽くさない不完全な法であると退け、念仏こそ道理を尽くして説かれた完全な法であるとは、聖道門の方々は勿論、一般の人々には到底理解し難いものがあるでしょう。

念仏の法は、阿弥陀仏がかつて法蔵菩薩であった時、普く一切衆生を平等に救おうと発願し、五劫の間思惟し、兆載永劫に亘って御修行を重ねられて完成なされた法門です。阿弥陀仏の五劫永劫の願行は、南無阿弥陀仏となって十方世界に響き渡り、届かない処はありません。私としては、只今、この場で、南無阿弥陀仏の六字のいわれ、すなわち「我にまかせよ、必ず助けるぞ」の仰せを、自分の計らいや詮索を交えずに、そのまま、素直にお聞きし、お受けするのみです。それで、私の往生の業事は成弁し、間違いなく仏に成る身と定まるのですから、まことに我が根機にかなった、何ともたのもしい、完全な法であると言わざるを得ません。

対して諸善の法は、自業自得の道理に従って、悪を廃し、仏に成るだけの善行を積んでいかなければなりません。言葉だけなら廃悪修善と簡単ですが、煩悩具足の人間が、世俗の世界に生きてある限り行を発し道を修することは極めて困難です。加えて仏に成るには三祇百大劫と言って気の遠くなる長期間の修行が必要なのですから、極めて優れた素質をもった者でなければ到達することはできない、非常に厳しい難行道です。龍樹菩薩や天親菩薩といった方々でさえ念仏の法に帰依されたというのに、末代不善の我々は誰一人助かりはしないでしょう。道理としてはよくても、行を修める我々の根機という点から見て、諸善の法は不完全であります。

このように思われた時、前も挙げましたが『歎異抄』第四条

一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。

慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。このように聖人は仰せになりました。

がその通りその通りと思われたのでした。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

とは言え、この世の慈悲、人間の慈悲もやはり必要です。今日も何とか彼女の助けになるべく駆けつけてやりたいです。本当に頑張っている真面目な子なのでこんな所で潰すわけにはいきません。今日も界王拳で行くぞー!!

引いて開けるドアを押していても、いつまでもドアの先へは行けません

クリスマスなんて大嫌いですが、クリスマスソングは好きです。

🎄Hurry Xmas 🎄 ~L'arc~en~ciel~

とか。熱唱するとテンションが上がります。カラオケ行きてぇ(笑)


さて、阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏の一方的はおはたらきによるものです。こちらの方で何かを加えたりすることはありません。私としては、一方的なお救いであることを聞き受けるのみです。「助けるぞ」の仰せに対し、「こうすれば」「こうしたら」とか余計な計らいを加えずに、その仰せのままに素直に後生おまかせするのです。「助けるぞ」を「助けるぞ」とそのまま聞くのが即ち信です。

これは如何にも簡単そうであり、既に本願招喚の勅命を疑いなく聞き受けた身としては簡単という言葉も要らぬほどのことです。しかし、今から信心決定しよう、信心獲得したい、阿弥陀仏に救われたいと求めておられる方にとっては、「それが難しい」と悩む方が多数なのではと思います。私も例に漏れず最後まで阿弥陀さまを苦しませた系ですから、その苦悩は十二分に経験しています。

未信の方は、聴聞という行や、念仏称えるという行、お勤めを欠かさずするという行、あるいは親切やよい心がけに努めるという行、その他人それぞれ思いつく行為や心がけを熱心に重ねることで、こちらから阿弥陀さまの救いをつかもう、救いに近づこうと方法論を模索しがちです。図にすると、

阿弥陀仏 ← 私

という形で、阿弥陀仏の一方的なはたらきかけを受け容れられず、逆にこちらからはたらきかけなければ阿弥陀さまは応じて下さらない、救いには遇えないと信じて方法論に走りがちです。特に親鸞会の会員は、本来浄土真宗に存在しない「横の線に該当する教え」「光に向かう教え」を叩き込まれていますから尚更こうした信心は強いでしょう。

・宿善の薄い私は、このままで助かるわけがない
・他力と無力を混同している信仰の幼稚園児ではいけない
・最初から他力の人はいないんだから、みんな自力で求めていくんだ
・他力になるまで他力を求め抜くんだ
・「ただじゃった~!」となるまで「ただ」を聞くんだ
・群賊・悪獣・悪知識の非難の中を煩悩と闘って進んでいくんだ


このように信じて高森会長や上司の朝令暮改の無理難題を必死にこなそうと頑張っている会員さんも少なくないと思いますが、残念ながら大変な思い違いであるため、どれだけ会で勧められる活動に励もうとそれによって阿弥陀仏に救われるということはありません。

『飛雲』真実の信心を教えられた親鸞聖人、他教の信心を教える高森顕徹会長より引用しますと、

報土往生の因は、100%阿弥陀仏が用意して下されたものなので、われらの方で何かすることは不要なのです。もっと言えば、報土往生のために何かしてはいけないのです。

ということです。尤も、会員は報土往生という死んでからの証果よりは、現世における絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている場合が多いので話にもならないんですけどね・・・

さて、このような思い違いを示す分かりやすい例えとしては、「引いて開けるドアを押しているようなもの」というのが適切でしょうか。引いて開けるドアをいくら押しても、いつまでもドアの先へは行けませんし、ドアを押している行為もそれに費やす時間も全くの無駄です。
それと似たようなもので、阿弥陀さまが私の心のドアを開けて浄土へと導こうとされているのを、「ドア位は私が開けねば」と頑張って押しているのが実は裏目に出ているという感じです。私はドアを開けようとするのをやめて、ただ阿弥陀さまの救いの御名をお聞きし念仏すればよいのです。そうすれば自然とドアは開いて、阿弥陀さまが私を浄土へお連れ下さるものを、私は阿弥陀さまの仰せを素直に聞こうとしません。自分の浅はかな考えで、何とかしてドアの外へ出たいとの思いが勝ってガチャガチャやっているのです。『もののけ姫』のアシタカのような者なら「押し通る!」の言葉通り押し通れるのかも知れません(笑)が、それは私には無理です。
このままの私をそのまま救おうとする阿弥陀さまと、このままの私で助かるわけがないと方法論に走る私。私は私で真剣にやっているのですが、私の行為が阿弥陀さまの救いを撥ね付ける方向にはたらいているので、これではいつまで経っても両者の溝は埋まりません。

こうした思い違いを思い違いと知らせて頂き、本願の仰せをそのままお受けするのが聴聞です。ただ、聴をひたすら重ねて、いつか聞と聞こえる時が来る、今生で来たらラッキーなんていうのは、「聴聞という行をしていかなければならない」という考え方で間違いです。勿論獲信の現在から「ひたすら聴聞を重ねてきたな」と振り返ることはあるでしょう。しかし、未信の人が「これからひたすら聴聞を重ねなければ助からない」と救いを先延ばしにするのは間違った心がけです。一体いつ助かるつもりでしょうか。只今、ここにいる、このままの私が救われるのです。この世は無常であり、今、この場のこの聴聞が最後になるかも知れないのに、にもかかわらず救いを先延ばしにするとは随分とのんきなものです。

阿弥陀仏の救いというのはてのひらを返すように容易いので、あれこれ計らうのをやめて「助けるぞ」をそのままお聞きした只今、この場で救われます。ただあまりに容易いため、逆に浅はかな私達は余計な詮索や先入観でもって「そんなわけあるかい」と疑って中々素直に聞き受けられません。だから「難信」であり「易往而無人」と言われるのですが、といって何十年も求道しなければ救われないというものではありません。親鸞会ではなぜ「難信」なのか間違って教えられているため、会員は法を聞くにしても長い求道を要してようやく救われるかのように余計な詮索や先入観をもって身構えてしまうのです。このような凡夫の浅はかな智慧を交えずに、そのまま助ける本願をそのままお聞きすれば、難信ではなくなります。心得やすの安心、取りやすの安心だと分かり、今まであれこれ計らっていた私は愚かだった、よく阿弥陀さまはこんな私を見放さず諦めずにいて下さったなとお念仏せずにいられなくなります。

そもそも、その信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて正行に帰するをもって本意とす。その正行に帰するというは、なにのようもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつることわりばかりなり。かように信ずる衆生を、あまねく光明のなかに摂取してすてたまわずして、一期のいのちつきぬれば、かならず浄土におくりたまうなり。この一念の安心ひとつにて浄土に往生することの、あら、ようもいらぬとりやすの安心や。されば安心という二字をばやすきこころとよめるは、このこころなり。さらになにの造作もなく、一心一向に如来をたのみまいらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、ゆきやすの浄土や。これによりて『大経』には、「易往而無人」とこれをとかれたり。この文のこころは、安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまいりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へはゆきやすくしてひとなしといえるは、この経文のこころなり。かくのごとくこころうるうえには、昼夜朝暮にとなうるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かえすがえす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(『御文章』2帖目7通)

この取りやすの安心、心得やすの安心を自力でつかもうとしているから、これ以上難しいことはないとなってしまうのです。何の造作も要らず、念仏以外の諸善を捨てて、「阿弥陀仏が唯一選び択られた念仏一つで助かる」と信ずる一つにて往生は定まります。そうなれば、昔はとんだ心得違いだったな、回り道だったな、そんな自分をよくもお救い下されたものだと過去の迷いも御恩喜ぶタネとなり、あながち無駄ではなかったと思えます。要は、

阿弥陀仏 → 私

という一方的なはたらきを何の造作も要らず受け容れられるかどうかです。本日只今にもそういう身になれる、いや、本願を信じさせ念仏称えさせると阿弥陀さまが仰せですから、逆らわず計らわず、阿弥陀さまの仰せを素直に受けて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

クリスマスなんて大嫌い!! いやマジで

どこもかしこもクリスマスムードで、ラジオでもクリスマスソングがよく流れてきます。

クリスマスなんて大嫌い!!なんちゃって クレイジーケンバンド

とか。この歌の場合は「なんちゃって」ですが、私は「いやマジで」です。それは私が仏教徒だからという理由ではありません。指定日通りに荷物が届かないとか、時間帯が守られないとかいう未着、クレームの嵐が一年の中で一番酷い時期だからです。運悪くクレイジーな客に当たってしまうと実に面倒です。クリスマスプレゼント関係が特にヤバいです。

でも、この時期は正直言って無理なんです。普段とは物量が全く違うため、営業所も中継センターもパンクしてしまい、荷物は延着延着で自分の元へやってきます。指定日の1日遅れ位だったらいい方ですよ。昨日(23日)も22日指定の荷物を何個配達しに行ったことか。それで切れられても困るんですよね。朝からちゃんと自分の元へ届いていて、自分の見落としで指定日通り、時間通り配達できなかったら俺に非がありますが、元々遅れてきたものをどうせいっちゅうの(-_-;) 昨日も、200個以上の荷物をやっとやっと終わらせて帰ってきましたが、事業所には23日指定の荷物がゴロゴロ転がっていました。もう知らねぇと思って帰ってきましたが(苦笑)

中にはパソコンやスマホで荷物の状況をチェックしている人もいるようですが、持ち出したものの捌き切れずに持ち帰ることなんてザラで、そうなったら「何で来ないんだ!」なんてイライラするだけですから、あんなの見ない方がいいですよ。この時期に、たかだか数百円の送料・手数料で間に合わそうとするのがそもそも浅はかだと思います。本当に必要なものは、もっと事前に自分で手配しなきゃ。これを俺らの怠慢だと思う人は、一偏俺の横に乗って俺の代わりに仕事してみたらいいです。特に今年は酷くて、何年も勤続のベテランが「やってられん」ということでしょうか、一人二人と欠勤しています。もうどうしようもないやと、俺も絶望しています。


さて、話を後生の一大事、往生の一大事に変えますが、荷物の山積よりももっともっとどうしようもない罪悪の山積を抱えている我々が、たまたま修めた善や、称えた念仏をあて力にし、それで助かろうとするのがそもそも浅はかです。特に親鸞会の会員の中には、善もどきの善をやった位で19願を行じたつもりになっているおめでたい人が少なからずいまして、つくづく我が身知らずだなと呆れ返ってしまいます。法蔵菩薩と同じ行が、我々にできるかっての。何百人でかかっても捌き切れない事業所中の荷物を一人で何とかするよりも難しいことだと思いますよ。

後生の一大事助かるには、自分の行為など何の役にも立ちません。そんなもの捨ててしまいなさい。そして、こんな自分の代わりに五劫永劫の願行を成就し、回向して下さっているところの南無阿弥陀仏におまかせしなさい。それより他に後生助かる道はないです。方法論を考えているなんて、我が身知らずもいいところです。まだ手をつけてない荷物が出てくる出てくる、どころの騒ぎではありません。普段は気にしていないが、よくよく振り返れば、自分でも気付かない罪悪がどんどん出てくるでしょう。とても抱え切れない、罪悪の山積が。

修めた善よりも、犯した悪業の方が何十倍、何百倍多いだろうということは自分でも自覚があります。しかし、自分でも気付かずに造っている悪業・罪悪が、きっと、もっともっとあるのです。そんな日々を積み重ねている、積み重ねなくては生きていけない私達が、普通に考えて後生をどうにかできるわけがないのです。阿弥陀さまに、なんまんだぶにおまかせし、後生を委ねるしかないのです。

今年もあと一週間です。今年が来年になるように、今生が後生になるのも、きっとあっという間でしょう。そのあっという間の人生、阿弥陀さまに後生おまかせせずに終わるようなことがないようにと思うばかりです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

自分が本当に欲しいもの

せっかく頼んだはいいものの、何回行っても不在にして連絡もよこさない客。再配達の依頼をかけといて指定の時間帯に待ってない客。後で帰って来て「もう1回来て下さい」と平気で電話してくる客。冗談抜きで殺意を覚えます。本当にこの時期に欲しいものなのか。ポチって満足しているだけではないのか。なら心の中だけに留めておけないのか。一体何のために荷物を注文しているのか。あくまで自分の都合中心でしか物事を考えず、業者は何でも言うことを聞くとでも思っているのか・・・様々な考えを巡らしてしまいます。

確かに人それぞれ、欲しいもの、手に入れたいものは沢山あると思います。今やパソコンやスマホの画面で簡単に自分の欲しいものを検索して注文できる時代ですから、それが安くて在庫があればついついポチっとしてしまう気持ちもよく分かります。しかし、受け取ることまで考えて注文しなければ浅はかだと言わざるを得ません。ポチして、荷物が届いて、開けて使ってようやく買った甲斐があるというものでしょう。それをせっかく届けに回っているのに、不在票を何度入れても反応して来ない、何日も過ぎてからようやく連絡してくる、指定の時間帯に待ってない、これでは荷物は要らないと取られても仕方ないと思います。

さて、この事を期に「自分が本当に欲しいもの」というのを改めて考えてみましたが、やはりそれは「さとり」です。金、好きな食べ物、健康、時間、若さ、体力、忍耐力、明晰な頭脳、身長、ルックスの良さ・・・その他欲しいものは沢山ありますが、やはりどれもこの世50年乃至100年の内のことです。たとえ手に入れたとしても、もうこれで満足ということはなく、限りない欲望は死ぬまで求め続けるでしょう。そういった世俗的な幸福ではなく、本当の安心・満足の境地、すなわち仏のさとりこそ私が本当に欲しいものです。

ところが、簡単に「さとり」と言っても、仏のさとりに至るまでは三祇百大劫もの間修行しなければなりません。荷物の山積は1ヶ月も頑張れば何とかなっていきますが、そんな気の遠くなる長期間厳しい修行に打ち込まねばならないというだけで既に戦意喪失してしまいます。加えて、罪悪の山積は聖者や善人ならいざ知らず、煩悩具足の悪人が世俗の世界に生きている限りはどうにもなりません。罪悪を善行で相殺できるとしても、修めた善行をはるかに凌駕する罪悪を積み重ねているのですから、相殺はおろかマイナスです。しかも、今日や明日にも無常が迫っているとしたら? 大宇宙に置き場のないほどの罪悪を前に、こんな私に一体何ができるというのでしょうか?

このように思いを巡らしますと、罪が深く極めて重い私は、この世でのさとりはあきらめて、死後に阿弥陀仏の浄土に往生してさとりの完成を目指すよりないと知らされます。かと言って、平生に修諸功徳の善に努め、臨終に阿弥陀仏の来迎を待つという19願の救いにはとてもあずかれそうもありません。また、称えた念仏の功徳によって往生しようという20願の救いすら同じくあずかれそうもありません。やはり、私の力は要らず、ただ如来の願力のみで往生成仏させる18願の救いでなければ、到底自分のようなものがさとりを完成することなどあり得ないでしょう。

「そんなうまい話があるかい」と思われる方もあるでしょうが、我が身の無常と罪悪を考えたならば、これ(18願の救い)でなければ自分には無理です。こんな者を見捨てずに助けるために、果てしない長期間に亘って願行を成就し回向して下さったのかと聞くにつけ、念仏申すしかありません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。本来地獄の他に行き場のない私ですが、「お前の後生はこの弥陀が引き受けた」と仰って下さいますので、もはや後生を案ずる必要はありません。案じたところでどうにかなる問題ではありませんし、私としては阿弥陀さまの仰せに対して心から信じおまかせするのみです。

こうした本願の救いがなければ、本当にこの人生、苦しむ為に生まれてきたようなものです。そして後生も苦しみでは、人間に生まれてきた甲斐がありません。この弥陀の本願がもっと多くの人に広まって、みんなが念仏を喜ぶ世界になったらいいなぁと思います。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

荷物の山積以上にどうしようもないのが、我々人間の罪悪の山積

朝から、とても捌き切れない荷物の山を見て絶望しながら仕事をしています。遅配を怒られようがクレームをもらおうが、とにかく事故だけは起こすまいと出勤途中に誓っているのですが、現場に出ると仕事に追われて忘れがちになってしまいます。何とか一日無事で終われたらいいと祈る毎日です。

会社も会社で、こんな捌き切れない量の荷物をどうして集荷してくるのか、毎年毎年意味不明です。それで遅れに遅れて大量のクレームをもらう位なら、初めから身の丈に合った物量を引き受ければいいものを、これでは社会の信用を失うだけです。本当に学ばない、ドブラックな会社です。

さて、荷物の山積もいかんともし難いものがありますが、それ以上にどうしようもないのが我々人間の罪悪の山積なのだろうなと思います。例年通りなら年内いっぱいはどうしようもありませんが、年が明けると一気に荷物は減って、そこで集中して片せば山積も元に戻ります。しかし、我々の罪悪の山積は積もる一方です。たまたま一つの善行を成しても、その何十倍何百倍の罪悪を日々造っているのではないでしょうか? 心で何を思い、口で何を言い、体で何をやっているか、それを逐一反省していきますと、事業所の荷物の山積どころではありません。そして罪悪の山積は今生に始まったことではなく、遠い遠い過去からの山積もと考えると、大宇宙に置き場もないというのも決してオーバーな表現ではないと思われます。

この罪悪の山積を相手に、煩悩具足の私がいくら善行を成そうと努力しても、努力している側から悪がこぼれ出てしまう有り様ですからこんなの無理です。貯金しようとしている側から無駄遣いしまくって赤字赤字みたいなもんで、この世でのさとりは勿論、要門の修行に堪えて臨終来迎にあずかることも夢のまた夢です。もはや念仏しか私が救われる道はありません。よくぞ念仏して成仏する法門を成就して下さったものだと、阿弥陀さまには本当に頭が上がりません。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。念仏の法に遇えて良かった。ホント良かった。

聖人(親鸞)のつねの仰せには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と御述懐候ひしことを、いままた案ずるに、善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず。 さればかたじけなく、わが御身にひきかけて、われらが身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずして迷へるを、おもひしらせんがためにて候ひけり。まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。

聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。
(『歎異抄』後序)

念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふ

12月は師走と言われるように、1年の中で一番忙しいです。物流に携わる仕事をしている私としては、毎年嫌だなぁと思いながらこの時期を迎えています。近年はネット通販が異常なまでに普及しているおかげで、お歳暮に加えてとんでもない数の荷物がやってきます。機会があればいっぺん、事業所の荷物の山をクレーム入れてくる人達に見せてやりたい位です。これを1つ1つ捌いていくのかと思うと絶望感が漂いますよ。しかも随分と遅れてやってくるため、配達はどうしたって後手後手に回ってしまいます。

配る側のこちらとしたって、謝罪しながら怒られながら回るなんてまっぴらですから、できるなら納期・時間帯に間に合わせたいと思ってやってるんです。でも物量は多いわ、遅れてくるわ、問い合わせはあるわ、急かしてくるわ、やっとやっと希望の時間帯に行ってもすっぽかされるわで、とてもじゃないけどそうもいかないのが現状です。そして、一昔前は給料も良くて人もそこそこいたのが、今は給料が減って人も減っているので、一人一人にかかる負担がパネェんですよ。ところがたのむ側はそんなこと知らないでしょうから、「どうなってんだ」「何日も配達に来ない」「再配達依頼したのに来ない」「何回かけても電話に出ない」と物凄い剣幕で迫ってくるわけです。こんなんですから働く側はイヤになって辞めていきますよ。で、ますます対応ができなくなる。クレームが増える。イヤになって辞める。ひどい悪循環です。

どんなにできる人でも神じゃないんだから、一日に取り扱える量には限界があります。それに加えて電話対応だクレーム対応だ何だと降りかかってきたら、更にできることが限られてくるのは当たり前です。それを遅いだ対応が悪いだなんだかんだと善人様は怒ってるんですが、その怒りは元々は「あれが欲しい」「これがこんなに安く売ってる」という己の欲望が因となって表れているのです。本当にそれがこの時期に必要なものなのかどうか、どうしても通販で買わなければならないものなのかどうか、よく考えて、遅れるのは覚悟で注文してもらいたいです。できるなら、たのむから頼んでくれるなと言いたいです。


さて、前置きが長くなりましたが、そんなこんなで自分も辛く大変ですが、自分の隣のエリアを回っている女の子が自分に輪をかけて大変です。まだ20歳だというのに、朝早くから夜遅くまで一生懸命やっている姿を見ると、心を動かされます。仕事を終えて、事業所で彼女の疲れ切った顔を見るのは正直辛いです。何とか助けてやりたいと思うのですが、てめぇのエリアが満足に回れてないのに他人のヘルプどころじゃないので、助けるにしても僅かな量しか持ってやれないのが現状です。頑張り屋の彼女の泣いている顔は見たくない、何とか助けになりたいとは思っても、思うままに助けてやれない人間の慈悲は不完全なものであることが知らされます。

これで思い起こされるのが、『歎異抄』第4条です。

一 慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。 しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。

慈悲について、聖道門と浄土門とでは違いがあります。聖道門の慈悲とは、すべてのものをあわれみ、いとおしみ、はぐくむことですが、しかし思いのままに救いとげることは、きわめて難しいことです。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して速やかに仏となり、その大いなる慈悲の心で、思いのままにすべてのものを救うことをいうのです。この世に生きている間は、どれほどかわいそうだ、気の毒だと思っても、思いのままに救うことはできないのだから、このような慈悲は完全なものではありません。ですから、ただ念仏することだけが本当に徹底した大いなる慈悲の心なのです。このように聖人は仰せになりました。

人間の慈悲の限界を知らされるにつけ、念仏申すのみぞ、末通る大慈悲心であると言われた聖人のお心が分かる気がします。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。あまりまとまっていませんが、今回はこの辺で。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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