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退会して10年を振り返る ー みなみな法を聞かせてくれる善知識

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。
「総序」

【現代語訳】
 煩悩に汚れた穢土を厭い、清らかな涅槃の浄土を願いながら、自力のはからいをまじえて本願を疑うから、歩むべき行道に迷い、まことの信心の何たるかを知らずに惑い続け、心は迷妄に閉ざされて暗く、さとらねばならない大切な事柄についてはあまりにも無知であり、しかも身に具えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ浄土往生を勧めたまう釈迦如来の発遣を仰ぎ信じ、最も勝れたさとりへの道である本願に帰依して、如来よりたまわったこの行にひたすら奉え、ひとえにこの信心を崇めなさい。

 ああ、このような力強い本願力には、いくたび生を重ねても値(あ)いたてまつることは難く、清らかな真実の信心は、無量劫を経ても、獲る機会はなかった。思いがけなくも、いま行信を獲、本願を信じ、念仏をもうす身になったものは、遠い過去世からの阿弥陀仏のお育てのご縁に思いを致して慶べ。もしまた、このたびも疑いの綱に覆い隠されて本願の法をいただかないようなことがあれば、ふたたびまた永劫の迷いを続けねばなりません。

 誠なる仰せではありませんか、私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。


なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

この御文(ああ、弘誓の強縁~)は親鸞会の会員であった頃から特に心惹かれていたお言葉でしたが、本願に遇い得た尽きせぬ慶びを感動的に表現されており、ついつい声に出して拝読してしまいます。

この世のことは無常であり、私もいつ何時この世の縁尽きて命終わるか分かりません。もし本願力に遇うことなくして今生も空しく過ぎていたなら、人間に生まれた所詮もなく、またしても永劫の迷いを重ねていたに違いありません。「まこと」と呼べるような確かなものは世にはありません。あるのは、やがて必ず変化し崩れてしまう、無くなってしまうもの。本当の意味で当てにすることのできないそらごと、たわごとばかりです。

その中で、世を超えて二つと無い、私を摂め取って決して捨てないと仰せられる阿弥陀仏の本願の御言葉のみがまことであった。ただ阿弥陀仏の本願念仏のみがまことであったと聖人は仰り、この真実の教えを疑ったりためらったりせずに、仰せのままに聞き、仰せのままに受け容れよと勧められています。


早いもので、もう親鸞会を退会して10年の歳月が流れました。先に退会した先輩と、紹介してくれた

『さよなら親鸞会』
『私の白道』
『親鸞会教義の誤り』

等のブログによって親鸞会が教義的にも組織的にもおかしな団体であることを知らされ、別段不眠症でもない私が夜もろくに眠れないほどのショックを受けたことは今となってはよい思い出です。

当初まず衝撃的だったのは、高森会長が大沼法竜師や伊藤康善師といった他人の著書を盗用、剽窃(他人の著作から,部分的に文章,語句,筋,思想などを盗み,自作の中に自分のものとして用いること)していたことと、高森会長がかつて浄土真宗華光会に所属していたこと、高森会長には伊藤康善師や増井悟朗師といった師友や、沢山の華光の法友がいたことでした。

高森会長は18歳にして、師も無く『教行証文類』を読み解いて信心決定した、そしてやがて徹信会、親鸞会を創設し、会報をはじめ多くの書物を著したと聞かされてきた私としては、これで高森会長、親鸞会に対する信用、信頼が一気に揺らぎました。

また、まともな会計報告が無いことや、息子の不倫疑惑事件の顛末を知って更に動揺しました。そして極めつけは高森会長の説く教義が親鸞聖人の仰せとは全く異なることでした。宿善を求めよも、三願転入せよも、善の勧めも、私達が真実報土に往生するには全く要らない、どころか妨げでしかない教えだったのです。

ショックでしたね。それまでにも世の中の事はそらごと、たわごと、まことは無いなぁとつくづく感じていた所に、親鸞会までそらごと、たわごとの一つだったとは・・・。騙されていたことに対する怒りやら、そんな教えを信じてしまった自分への失望やら、様々な思いが交錯し、苦しかったのを覚えています。


だからといって、当時はどうしたら私が信心決定して後生助かるかどうかまでは分かりませんでした。ただ、間違った教えを説いて聞く者を騙していると分かったからにはもうそこには居られません。貸与されている親鸞会の本尊を返却し、先輩と共に本当の親鸞聖人の教えを求めることにしました。それが10年前の話です。

『21世紀の浄土真宗を考える会』
『安心問答』

などのブログを読み漁ったり、高森会長のルーツである華光会へ行ったり、紆余曲折を経ましたが、どうにも安心できません。しまいには、自分には助かりたいと本心から願う心も無いんだなと気づき、「こりゃあダメだ」と茫然とするしかなかったです。近藤元講師から直接話を伺う機会もありましたが、言っていることは分かっても、「こりゃあダメだ」という気持ちはどうにも拭えませんでした。


それから間もなくですね。

阿弥陀仏の仰せ、南無阿弥陀仏とは「助けるぞ」の仰せであり、「助けるぞ」を聞くのがすなわち信だ

こう教わった意味が分かったのは。阿弥陀仏は助けるぞと仰っているんだから、なまじいの私の計らいは要らなかった。仰せを仰せのままに聞いて、阿弥陀仏にまかせる以外に無いじゃないか。私には生も死も、何一つ見極める智慧も力もない。だからこそ阿弥陀仏の計らいにまかせるしかないじゃないか。

ただ阿弥陀仏がお連れ下さるところに往かせて頂こう。そこがたとえ地獄だとしても、元々地獄行きの業しか持たないのだから当然だし、阿弥陀さまと共に堕ちるのだから心配ない。かたじけなくも阿弥陀さまは浄土へ連れていくと仰っているんだから、その通り浄土へ生まれると思いとらせて頂くのみである。

信心獲得とか、信心を獲ると聞いていたので、私はてっきり阿弥陀仏から何かをしっかりと頂く体験をするのだと思い込んでいました。しかしそんなことではなく、南無阿弥陀仏、「助けるぞ」の勅命の他に信心があるわけではない、「助けるぞ」の仰せを仰せのままに受け容れたのが信心だと分からせて頂きました。

それから、阿弥陀仏のことを尽十方無碍光如来と呼ばれるいわれもよく分からせて頂きました。十方に尽くすとは、要は私がいる今、ここに阿弥陀仏のお力が届いているということ。無碍とは、私の煩悩をさわりとせずに往生する身に救い摂って下さること。光如来とは、そのように今、ここにいる私にはたらいて、私の煩悩妄念を突き破って至り届き、往生成仏させて下さる不可思議なお力をもつのが阿弥陀仏という仏さまだということ。

私が後生助かりたいと思う前から先手を打って後生助けると願いを発し、南無阿弥陀仏という仏と成って私に至り届いていた。それを知らずに「絶対の幸福」になりたいだ何だと自分の願い、欲望ばかり押し付け、阿弥陀さまの願いをちっとも聞かなかった自分の愚かさを知らされました。同時に、そのような自分を決して見放さずに摂取して捨てないという本願のたのもしさに、ただ安心し、ただお念仏申すばかりです。


思えば、私が本願を聞くことができたのは私の力ではなく、全くもって阿弥陀さまを始めとして、多くの有名無名の高僧知識方、法の伝持に携わった同行方、その他私が今まで生きるために支えとなり力となってくれた数え切れない多くの有情非情のおかげでした。この世の全てといってもいいです。そして、私にとってはですが、私に親鸞聖人の教えましますことを紹介してくれた高森会長や親鸞会の皆さんもその中の一部です。

親鸞聖人は『浄土和讃』観経讃に、

弥陀・釈迦方便して 阿難・目連・富楼那・韋提
 達多・闍王・頻婆娑羅 耆婆・月光・行雨等

大聖おのおのもろともに 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に 方便引入せしめけり


と教えておられます。『観経』の登場人物は還相の菩薩方と味わっておられたのでしょう。相変わらず親鸞会は邪義を説き続けて許すことのできない存在ですが、私個人にとっては私が本願力に遇う縁となった存在でもあります。順縁だけでなく逆縁も、みなみな私に法を聞かせてくれる善知識です。

高森先生、講師部員の皆さん、お世話になった先輩や同輩や後輩の皆さん、本当にありがとうございました。この御恩は忘れません。ただし、邪義を説いて人々を騙し続けていることは今も昔も変わりませんから、そこはきちっと線引きをして、私は今後も邪義を邪義と明らかにしていくつもりです。それが、如来聖人への私なりの御恩報謝であり、またそれが、高森先生や皆さんから受けた御恩に報謝する道でもあると信じています。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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阿弥陀仏や諸仏、諸菩薩、諸神は念仏者の「何を」「何から」護って下さるのか

『安心問答』「阿弥陀仏に救われると、「この世の利益きわもなし」というご和讃と合わせると、大変な幸福感に包まれるように思っていました。しかし、そうでもないという人の話を聞くと実際のところはどうなんだろうと思います。」(頂いた質問)(レンタルなんもしない人について)

にて宮田先生は、「レンタルなんもしない人」を取り上げて阿弥陀仏の救いと似ている点を教えられています。

1、助けた相手に負い目を感じさせない救い
2、常に側にいるという救い。
3、評価をしないという救い。


といった点が似ているというのです。私も読んでいてなるほどなと思いました。また、最近の時事ネタを用いて話をされる点は流石であると尊敬します。

ただ一方で、現益で善知識方が多く語られている「護る」ということに関しては、「レンタルなんもしない人」はどうなんだろうとも思いました。というのは、「レンタルなんもしない人」は文字通り本当になんもしないからです。傍にはいるけれど、護ってくれるわけではありません。しかし、阿弥陀仏や諸仏、諸菩薩、諸神は念仏の行者を静観しているわけではなく、夜昼常に、よろこびよろこび護って下さると教えられています。

その点、私のイメージ的には「レンタルなんもしない人」というよりはクリアクリーンの「ネクスマン」が近いです。

『YouTube』花王 クリアクリーンネクスデント 「家族の歯を守りつづける! ネクスマン」篇 CM 遠藤憲一


そもそも、護る、護るというけれど、阿弥陀仏や諸仏、諸菩薩、諸神は念仏者の「何を」「何から」護って下さるのでしょうか。まず「何を」に関して言えば、「真実信心」を護って下さいます。

無碍光仏のひかりには
 無数の阿弥陀ましまして
 化仏おのおのことごとく
 真実信心をまもるなり
『浄土和讃』現世利益讃

次に「何から」に関しては、「よろづの悪鬼」から護って下さいます。

南無阿弥陀仏をとなふれば
 四天大王もろともに
 よるひるつねにまもりつつ
 よろづの悪鬼をちかづけず


よろづの悪鬼」とは、要は仏のさとりを妨げる悪魔のことです。仏道を妨げ、そこから退転させ、迷いの世界にとどめさせるもののことで、自分の外は勿論、内にも存在します。真宗で言うなら、念仏の教えや念仏の行者を非難攻撃し、浄土往生を妨げるもののことだと言えましょう。

阿弥陀仏や諸仏、諸菩薩、諸神は、そういった「よろづの悪鬼」から念仏の行者の信心を守護して下さいます。こうした行者の信心を守護することを教えられた譬えが「二河白道の譬え」です。譬えの中では、群賊や悪獣が行者を殺そうと襲い掛かり、また白道を進む行者を喚んで東の岸に引き戻そうとしています。また、

この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。「散善義」回向発願心

と教えられています。阿弥陀仏や諸仏方は、これらの群賊・悪獣や、一切の異見・異学・別解・別行の人等から行者の信心を守護し、確実に浄土往生させて下さるというのです。


それで先ほど挙げたクリアクリーンのCMを見て頂きたいのですが、ネクスマンのセリフを

群賊・悪獣から守る!
一切の異見・異学・別解・別行の人等から守る!

に変えてみて下さい。私達が昼も夜も、寝ている時も「護り続ける」阿弥陀仏や諸仏方の御恩が私には偲ばれてきて有難く感じられます。同感して下さる方がいたら幸いです。

なお、別に宮田先生の教えられ方を批判しようとかそんな意図はありません。あくまでも「私はこう思う」という私の味わいなので、そのように受け取って頂きたいです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『蓮光寺』仏のすがたとこころ
『WikiArc』二河の譬喩

現益を得ると説かれていることと幸福感との関係について

前回の続きです。

浄土真宗の教えは現当二益の教えだと言われます。

問うていはく、正定と滅度とは一益とこころうべきか、また二益とこころうべきや。
答へていはく、一念発起のかたは正定聚なり。これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。されば二益なりとおもふべきものなり。
『御文章』1帖目4通

蓮如上人は端的に、真実信心の行人がこの世で正定聚の位に定まることを現益、行者がこの世の命終わって浄土往生することを当益と教えられています。

念仏の行者が現当二益を得ることは既に道綽禅師の『安楽集』や善導大師の『往生礼讃』等に教えられていることで、親鸞聖人も礼讃の文を「行文類」に引いて、現当二益の念仏であることを証明されています。

道綽禅師は始益、終益という言葉を使っていますが、法然聖人は現益、当益という言葉で教えられています。

おほよそ五種の嘉誉を流し、二尊(観音・勢至)の影護を蒙る、これはこれ現益なり。また浄土に往生して、乃至、仏になる、これはこれ当益なり。『選択集』約対章

なお法然聖人は現当二益を念仏の利益として教えられていますが、親鸞聖人は「行文類」には行信の利益とし、「信文類」には端的に信心による利益として教えられています。現益としては現生十種の益現世利益和讃などが有名かと思います。


そこで問題なのが、タイトルに示している「現益を得ると説かれていることと幸福感との関係について」です。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。

とか

獲信見敬大慶喜

あるいは

南無阿弥陀仏をとなふれば
 この世の利益きはもなし
 流転輪廻のつみきえて
 定業中夭のぞこりぬ


などと説かれているのを聞きますと、『安心問答』の質問者のように「大変な幸福感に包まれるように」想像してしまいます。私もそうでした。逆に、大きな幸福感を具さないようでは真実信心とは言えないと思っていました。

これについては、

『飛雲』信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心
『同』どちらが異安心か?
『同』学術論文である『教行信証』を体験記と見做す体験至上主義の高森顕徹会長

等に分かり易く書かれています。要は

現生十種の益を獲ると親鸞聖人が解釈されたこと



現生十種の益を獲たことが実感として判ること

との違いです。上リンク先では「入正定聚の益」を例に教えられていますが、冥衆護持の益諸仏護念の益心光常護の益などもそうです。阿弥陀仏を始め、諸仏や菩薩方、神々のお姿を私達は見たてまつることができません。光明やそのはたらきも、教えの言葉を通して知る以外に知る智慧がありません。

このようなことですから、現益を得ると説かれていることと幸福感との関係についても、必ずしも一致するわけではありません。本願を疑いなく信受し、阿弥陀仏に往生をおまかせした安心感や、遇うべきものに遇い、聞くべきものを聞き得た満足感はありますが、それでこの世を喜び一杯で暮らしていけるのではないのです。

つらいものはつらい、痛いものは痛い、憎いものは憎い。相変わらず煩悩悪業の身で、有っても無くても満足ということを知らない自性は変わりませんから、煩悩を燃やして煩い悩む、理不尽な出来事に遭って嘆き悲しみ、怒り憎しむことは信後だろうと当然あります。

法話を聞いたり、法語を読んだりしてああうれしい、なんまんだぶ、なんまんだぶとやっていても、次の瞬間に憎い相手の面を見たらどうでしょうか。喜びはどこへやら、こんちくしょう、嫌な奴に会うてしもうたとなるでしょう。まして嫌味や悪口を言われて御覧なさい。顔には出さなくても心はどうにもなりません。

こんな心をどうにかしてやる、煩悩をどうにかしてやる、またどうにかしたら助けるという本願ではないのです。どうにかできる人はいいですが、淳心房はとてもではないけれども、どうにかできません。悪心を起こしてはならないと思う次から悪心を起こし、広く温かい心でいようと思う次から狭く冷たい心が出てまいります。

こうした我々の心を変えて助けるという本願ではありませんので、本願を聞き得た後も、我々の心が幸福感で満たされるということは稀であり、ましてその喜びがずっと続くということはありません。


じゃあ何か変わるものはないかといったら、本願を信じて喜ぶ者は、法にたしなんでいくことで、徐々にですが今起こっている出来事に対する見方、意味が変わってくると思います。例えば目の前のごはん一つにも、おかげさまで今日も命を保たせてもらっているなぁ、私が生きるために多くの命を頂いているのだなぁ、ということが分かってくるのです。それ以前は食べるのが当たり前、食べねば生きていけんじゃないか、食物連鎖の関係からして上の者が下の者を食べるのは当然と感謝も懺悔も無かった者が、少しずつですが物の見方、考え方が変わってくるのです。

あの時私はこう思った、こんなことを言った、こんなことをやったが、果たしてそれでよかったか、仏さまが見ていたらどう思うかと、仏さまを中心とする物の考え方というものが徐々にできてくるのです。勿論、人間は粘土細工ではありませんから急にそういう風にはなりません。そういう人はあっても稀ではないかと思います。あと法をたしなまない者は以前のままです。これは私の実感からそう言えると申しておきます。しかし、法をたしなみ、お念仏をたしなむ者は少しずつですがそういう変革がなされてゆくと思います。

そうして法に育てられ、お念仏に育てられて、少しずつではあるけれども確実に私の中に変革が起こってまいります。その中で、徐々に御恩ということ、様々な人や物の恵みによって生かされているということを知って、法の有難さ、慶びというものが知らされてくるものであると思います。往生の信心は聞其名号信心歓喜の一念に定まっても、その瞬間から何もかも変わる、相当のことが知らされるというわけではありません。

このような念仏者の変革については、林遊さんが紹介して下さった

金魚掬いの救いと磁石のはたらき

等をご覧頂ければと思います。変革の仕方も、その進行の程度も人それぞれであり、一概に言えることではありませんが、「やうやうすこしづつ」変わってゆくものであると申しておきます。そうした中で、時には苦かったり、渋く思うようなことがありつつ、生きることも有難いことであり、死ぬこともまた有難いことであるというような心の境地というものが開かれてゆくのではないかと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『Mr.Children』HERO

信心を獲るということと、この世の幸福感の関係について

この前、

『安心問答』「阿弥陀仏に救われると、「この世の利益きわもなし」というご和讃と合わせると、大変な幸福感に包まれるように思っていました。しかし、そうでもないという人の話を聞くと実際のところはどうなんだろうと思います。」(頂いた質問)(レンタルなんもしない人について)

を読みました。私もかつては信心を獲るということと、この世の幸福感について随分と疑問を抱いていました。親鸞会では、阿弥陀仏に救われると「絶対の幸福」になるだとか、それはたとえ死が来ても崩れない最高無上の幸福だとか聞いていましたし、他力の信心を顕す「広大難思の慶心」については

広かったぞー! 大きかったぞー! 想像を絶する大きな慶びの心が起きたぞー!

などと説明を受けていましたから、救われた暁にはさぞ素晴らしい世界に出られるのだろうと想像していたものです。毎日、生活の瞬間、瞬間が「生まれてきてよかったー!」「生きてきてよかったー!」という生命の歓喜に溢れ、質問した方の言葉にもあるように「大変な幸福感に包まれるように」思っていました。


ところが、実際は本願の仰せを信受させて頂いた以外は何も変わらないと言っても差し支えないほど何も変わらないので、当初は想像していたこととのギャップに戸惑いました。

確かに後生、往生の心配は阿弥陀仏によってすっかり取り払われ、いつどのように命終わっても我が往く先は安養の浄土であると慶ぶことを許されてはいます。

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。『末灯鈔』1通

されば聖人の仰せには、「来迎は諸行往生にあり、真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。『御文章』1帖目4通

とあるように、只今本願の仰せを疑い無く信受している念仏の行者は、この世は摂取不捨の利益にあずけしめられ、この世の命が尽きると同時に本願の実報土である滅度に至るという無上の功徳を与えられています。

ところが、申し訳ないことにそのように慶ぶ心は実におろそかで、本願や念仏、浄土よりも関心は世事ばかり。順境には感謝しても、逆境に見舞われると怒り憎しみ、言い訳や繰り言は絶えず起こってまいります。自分の中には仏法らしいものはなく、あるのはひたすら煩悩悪業のみです。摂取不捨の利益にあずかり、真の仏弟子と讃えられる身になり、間違いなく往生の大益を獲させて頂くというのに、何か気に入らないことがあると造作も無く心の底から不平不満が噴き上がってきます。そのような時にお念仏申しても実に味気ないものです。

とてもではないが、会員時代に想像していた「絶対の幸福」なるものに自分はなっていません。私が本願を信じ念仏申す身にさせて頂いた当時は親鸞会で得た知識がほとんどで、親鸞会教義にかなり染まった状態でしたから、後生の心配はすっかり阿弥陀さまにおまかせして安心したものの、全くと言っていいほど変わらない現実に疑問を抱き、そして現実の苦しみに喘いでいました。


これについては先ほどの安心問答に宮田先生がその答えをお書きになられています。以下引用。

これは、阿弥陀仏の救いについての誤解からくるものです。阿弥陀仏の救いとは生死を繰り返す私をそこから出て離れさせ浄土に往生させ、仏にするというものです。その意味では、病気や人間関係の解決をする仏さまではありません。


この通りです。私は阿弥陀さまの願いを聞かずに、阿弥陀さまに私の願いを聞かそうとしていた。阿弥陀さまは、自分の願いを満たしてくれる仏さまではなかった。「絶対の幸福」とは、言ってみれば私の願い、私の欲望です。であれば、そうなれないのは当然です。本願に私を「絶対の幸福」にするとは誓っていません。

本当に(至心)、疑いなく(信楽)、我が国に生まれることができると思って(欲生我国)、わずか十遍ほどでも我が名を称える者を(乃至十念)、もし我が浄土に生まれさせることができなければ(若不生者)、私はさとりを得た者とは言えません(不取正覚)。

こう誓われているのに、俺は本願に何を求めていたのか。何が不足でもっと幸福感が増してもよさそうなものだ、もっと不幸な思いをしなくなってもよさそうなものだと思っておったのか。自分がみじめなのは自分の今までの業の報いではないか。今までの業が悪すぎたから現在苦果に喘いでいるのではないか。

存覚上人は『持名鈔』にこのように仰っています。

ただし、今生をまもりたまふことは、もとより仏の本意にあらず。かるがゆゑに、前業もしつよくは、これを転ぜぬこともおのづからあるべし。後生の善果を得しめんことは、もつぱら如来の本懐なり。かるがゆゑに、無間に堕すべき業なりとも、それをばかならず転ずべし。しかれば、たとひもし今生の利生はむなしきに似たることありとも、ゆめゆめ往生の大益をば疑ふべからず。いはんや現世にもその利益むなしかるまじきことは聖教の説なれば、仰いでこれを信ずべし。ただふかく信心をいたして一向に念仏を行ずべきなり。

今生を護るというのは仏さまの本意ではありません。ですから、過去の悪業が強ければ、これを転ずることができないということもあります。しかし後生の善果を得させることは如来の本懐であるから、無間地獄に堕する業であっても必ず転じて下さいます。だから、たとえ今生の利益が空しかろうとも決して往生の大益を疑ってはなりません。まして現世にもその利益が空しくないことは聖教に教えられている通りですから、仰いでこれを信じなさい。ただ本願の仰せをそのまま受け容れて一向に念仏を行じなさいというのです。


信心を獲るということと、この世の幸福感の関係については、必ずしも連動しません。信心を獲たから幸福感が増すとか、逆に幸福感が無いから信心を獲ていないとは言えません。本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れたのが信心を獲るということです。我が心の良し悪しで信を獲たかどうか決まるのではありません。反対に、我が心の良し悪しで阿弥陀仏の救いを計らうことを自力というのです。

ただ、南無阿弥陀仏という幸せに出遇わせて頂きながらこれを慶べないとしたら実にもったいないです。幸福を感じられないことについては相応の原因があるのでしょうが、とりわけ法の慶びは、法に触れてこそです。常に教えをたしなみ、嬉しいにつけ悲しいにつけ、お念仏を申してゆくことが肝心であると思います。

さて、これはこれとして、まだ疑問は残ります。それは、最初に挙げた『安心問答』への質問者のように、現益を得ると説かれていることと幸福感との関係です。これについては、長くなりましたので、記事を改めて書きたいと思います。

阿弥陀さまが選択されたのが称名念仏一行でよかった

消費増税前後の駆け込み需要のために物量が膨らみに膨らんで、先週から仕事づめで休憩時間も中々取れない状況が続いています。ホントお前らいい加減にしろよと言いたくなります。

帰ったらもうクタクタで、なんにもできないと言っていい位なんにもできないです。

しかし、お念仏を申すことなら通勤中でも、車を運転しながらでも、軒先でお客さんを待っているほんの少しの間にもできます。

もし造像起塔(仏像を造り、塔寺を建てること)や智慧高才、多聞多見(仏の教えを多く見聞して学問があること)や持戒持律(戒律を守って犯さないこと)、布施や忍辱、精進や禅定、発菩提心等を阿弥陀仏が往生の行と定めていたら、俺みたいな奴は絶対助からなかった。

以下、『選択本願念仏集』本願章より。

第十八の念仏往生の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは布施をもつて往生の行となす土あり。あるいは持戒をもつて往生の行となす土あり。あるいは忍辱をもつて往生の行となす土あり。あるいは精進をもつて往生の行となす土あり。あるいは禅定をもつて往生の行となす土あり。あるいは般若[第一義を信ずる等これなり。]をもつて往生の行となす土あり。あるいは菩提心をもつて往生の行となす土あり。あるいは六念をもつて往生の行となす土あり。あるいは持経をもつて往生の行となす土あり。あるいは持呪をもつて往生の行となす土あり。あるいは起立塔像、飯食沙門および孝養父母、奉事師長等の種々の行をもつておのおの往生の行となす国土等あり。あるいはもつぱらその国の仏の名を称して往生の行となす土あり。

かくのごとく一行をもつて一仏の土に配することは、これしばらく一往の義なり。再往これを論ぜば、その義不定なり。あるいは一仏の土のなかに、多行をもつて往生の行となす土あり。あるいは多仏の土のなかに、一行をもつて通じて往生の行となす土あり。かくのごとく往生の行、種々不同なり。

つぶさに述ぶべからず。すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。

(乃至)

答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮せんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]

ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。

しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。


阿弥陀さまが選択されたのが称名念仏一行でよかった。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

『往生要集』を読んでいて思ったこと

『往生要集』には六道という迷いの世界を厭い離れて清らかな浄土を欣い求めるべきことが書かれています。その中、地獄の中でも最底辺の無間地獄がいかに苦しい処であるかは

阿鼻地獄の人は、大焦熱地獄の罪人を見ること、他化自在天処を見るがごとし。阿鼻

という文からも伺えます。焦熱地獄の十倍の苦を受ける大焦熱地獄の罪人を、欲界の最上位である他化自在天の人だと思うというのですから、いかに苦しみの激しい地獄であるかが伝わってきます。等活地獄でさえ耐えがたい苦痛であろうに、大焦熱地獄や阿鼻地獄の苦しみは想像も及びません。

一方で、天上界は五戒を保ち十善業を修めたことによって得られる楽なる果報ですが、やがてその果報が尽きて転落する時がやってきます。その時の苦しみは、地獄の苦よりも激しいと説かれています。

三界安きこと無し、猶火宅の如し

と『法華経』(譬喩品)には説かれているそうですが、そのように聞いて、私達は、いよいよ安きことなき穢土を厭い離れて、浄土を欣い求めるべきでしょう。


ところで、三悪道に堕する因は貪瞋痴の煩悩とそこから生ずる様々な悪業です。地獄界、餓鬼界、畜生界という三悪道に堕する衆生は十方の土の如くいると言われ、それに対して人間に生まれるものは爪の上の土ほどしかいないというのです。

われらいまだかつて道を修せざるがゆゑに、いたづらに無辺劫を歴たり。 いまもし勤修せずは、未来もまたしかるべし。 かくのごとく無量生死のなかには、人身を得ることはなはだ難し。 たとひ人身を得たれども、もろもろの根を具することまた難し。 たとひ諸根を具すれども、仏教に遇ふことまた難し。 たとひ仏教に遇ふとも、信心をなすことまた難し。 ゆゑに『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「人趣に生るるものは爪の上の土のごとし。 三途に堕つるものは十方の土のごとし」と。『往生要集』総結厭相

他の方はどうか分かりませんが、淳心房が日々やっている三業の所修は、間違いなく貪瞋痴の三毒に代表される煩悩に穢れた行為ばかりです。因果通途の義に従えば、畜生界はおろか、餓鬼界はおろか、地獄界に堕ちて当然の業しか造っていないといっても過言ではありません。その私が現在、三悪道を離れて人間界の生存を受けているというのは大変有難いことです。というか、有り得ないことです。

人間に生まれるには五戒を保ってきたと言われますが、私にできるのはせいぜい不飲酒戒くらいで、不殺生、不妄語などは到底できそうにありません。お酒好きな方は不飲酒戒も不可能でしょう。阿弥陀仏の本願力によって五戒を保たされて生まれてきたという話を聞いたことがありますが、さもあらんと頷かざるを得ません。

これを思えば、この私が、三悪道の苦しみを免れて人間として生かされている、こうして息をして生きているということ自体が不思議であり、有難いことです。それを、他人や過去と比べて自分の不幸を呪い、あれがほしい、これがかなったらと願い求めているのは強欲です、不与取です。それで幸せになれる訳がない。

私達はついこの身の幸を当然と思い、苦しい時などは人間に生まれたことを後悔したりしている有り様です。苦境に立たされていたり、うつ病などの精神病を患っていたりすると難しいですが、人間として生まれ、様々な恵みにより生かされている身の幸を、しっかりと感じて生きていかなければならないと思いました。


櫻井鎔俊和上の『教行信証を読む』には次のように書かれています。

(前略)人間も天人も阿弥陀仏の光明にあうと、三垢(むさぼりの心、怒りの心、愚痴の心)が消え、身も心もやわらかくなり、喜びの心がおこり、善心が生ずる。いいこといっぱいで、命を終えてのちみな解脱をこうむる(人天遇光の利益)。

 次に、「三悪道(地獄・餓鬼・畜生)で、阿弥陀如来の光明に遇うた者は休息を得る」、三悪道が休みになる、とこう書いてあるんです。地獄にも休みがあるのかというと、休みがあるどころか、おおありだ。どういうのが休みかというと、われわれが人間に出てきたというのが、地獄の休みなんだ。ちょっと一分間ほど休みがあって(笑)、ちょっとごめんこうむって、地獄から今人間に生まれてきた。これがまぁ、人間百年くらいがちょうどそれにあたる。というのは、このことが源信和尚の『往生要集』に八大地獄を明かしてある。その中の等活地獄のところに「人間の五十年を以て四天王天の一日一夜と為。其の寿五百歳なり。四天王天の寿を以て此の地獄の一日一夜と為て、其の寿五百歳なり」(『浄土真宗聖典七祖篇』、八九三頁)とある。だから、一分間お暇をいただいて、三途苦難(地獄・餓鬼・畜生道の苦しみ)の中から逃れて、人間世界へ出てきたというのが、「みな休息を得て」(聖典二九頁)という言葉です。そういう解釈をしないと、お経に味がない。      (p.193~p.194)


私も、そのように感じられます。その一分間のお休みの間に、その楽を享受するのみで終わらず、五道・六道という悪趣(迷いの世界)へ再び舞い戻って苦しみに沈むというようなことがないようにしなければ、人間に生まれてきた所詮がありません。

幸い、浄土真宗には悪業煩悩を自らの手でどうすることもできない我ら凡夫を、悪業煩悩を問題とせずに救う阿弥陀仏の本願力ましますことが説かれています。本願力は南無阿弥陀仏と成就して既に与えられていますから、私達はそのいわれを計らいをまじえずに聞き受けて、仰せの通り必ず浄土に生まれられると思い定めてお念仏申すばかりです。

どうか皆人がこの本願をまことと受け容れて、お念仏されるように願っています。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

お念仏いかがでしょう

先日、妻から勧められて

珈琲いかがでしょう(コナリミサト (著) )

という漫画を読みました。上下二巻なので長編でもなく、すぐに一読できました。

最初はたかだか漫画だと甘く見ていました(コナリミサト先生ゴメンナサイ)が、最終話での次の会話を読んで深いことを言ってるなぁと感動しました。

みやび「珈琲って平等ってこと歌いたくて」
グリス「平等?」
みやび「男の人も女の人も 若い人もそうでない人も 
     明るい人も暗い人も いい人も究極言ったら悪人も
     珈琲飲んでるその瞬間は 「珈琲飲んでる人」ってことで平等じゃないですか」
グリス「平等かなぁ?」
みやび「平等ですよ 珈琲から見たら」(赤字は淳心房の強調)


一体どんなシチュエーションの会話なんだ? みやびって誰だ? グリスって誰だ? と興味を持った方はぜひご一読下さい。こち亀とかワンピースとかではないのですぐに読めると思います(笑)


さて、この会話を本願力回向という観点から伺うと、次のようなことを読み取ることができます。

一つには、念仏は一切衆生に平等に与えられている往生の行だということです。男の人も女の人も、若い人もそうでない人も、明るい人も暗い人も、いい人も究極言ったら悪人も、分け隔てがありません。

二つには、(本願を信じ)念仏する人は、男の人も女の人も、若い人もそうでない人も、明るい人も暗い人も、いい人も究極言ったら悪人も、一声一声が無上の徳をもった本願の名号を称え、計らいをまじえずに仏にまかせている人という点で平等です。また、「正定聚の位に定まり、必ず真実報土に往生する人」「如来の眷属」という点で平等です。

三つには、念仏は称える人の能力や善悪の違いを問題にしないということです。弥陀の本願は、男の人も女の人も、若い人もそうでない人も、明るい人も暗い人も、いい人も究極言ったら悪人も選びません。賢い人も愚かな人も、高貴な身分の人も卑しい状態に身をやつしている人も、若くて元気な人もたとえ臨終間際の人でさえ、本願の救いに漏れている人は一人もありません。念仏は誰もが歩める最高にして唯一の「往生のみち」です。

四つには、「阿弥陀仏から見たら」私達は平等です。『日本国憲法』憲法第14条には

1.すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(


とありますが、私達は生まれながらにして不平等です。両親も違えば性別も違えば、貧富、賢愚、美醜、強弱、住居、思考、性格、年齢、才能、能力・・・挙げればキリがありませんが、人の数だけそれらは違います。日本国内でも違うのですから、まして世界で見たら億差兆別、平等とは言葉だけの美辞麗句とさえ思えます。

しかし、阿弥陀仏だけが、すべての不平等を超えて、怨親平等の世界があることを知らせ、実際に自他一如のさとりを与えて下さいます。真如一実の功徳宝海と言われる、浄土より届いた真実の言葉が「南無阿弥陀仏」という念仏です。本当にさとり得るのは浄土に往生した後ですが、本願の念仏を頂いてこれを称える者は仏願に信順していますから、わずかではありますがそういう世界の存在を知らせて頂けていると思います。


箇条書きにしたものの、かぶる部分もあると思いますが、このように念仏の持つ意味を探ってみました。珈琲とは違って色も形も無い、匂いも味もない真如法性の世界なので、私がいくら言葉を尽くしてもサッパリ分かって頂けないであろうことが歯がゆいです。まぁ要らんこと考えず、要は

お念仏いかがでしょう

ということです(笑) 念仏は、これを頂いて称える者の身に速やかに往生成仏の因を満足せしめる、至易にして最勝の本願の行です。尽十方無碍光如来の名の如く、本願力のはたらいていない処はありません。

そして、珈琲は所定の場所に飲みに行くか、自分で淹れるか、どちらにせよ造作が要ることですが、お念仏はいつでもどこでも、この口一つ動かせば称えられます。一声に一秒もかかりません。お金も要りません。難しい教義を知る必要もありません。心が静まっていようと散り乱れていようと構いません。

ただ、念仏に込められた「助けるぞ」「我にまかせよ」の如来の大悲心を聞き受ける信心が肝要です。念仏は、私達の欲望をかなえてもらおうなどと如来様を利用する道具でも、称えた対価として往生させてもらえるという取引条件でもありません。念仏とは、

「どうぞ南無阿弥陀仏と申して浄土に生まれてきてくれよ」
「必ず浄土に迎えるから、安心してまかなさい」

という如来様の願いです。願いが「南無阿弥陀仏」という仰せとなって届いているのです。ですから念仏を申すとは、私達の側から言えば、如来様の願いを私達の口で称え聞いて、我らが今度の一大事の後生を疑いなく安心してまかせることなのです。

それは死んでからでは間に合いません。今、ここで、如来様の仰せを計らいをまじえずに聞き受け、後生おまかせすることが大事です。今、ここが、本願の念仏を称える道場、如来様の仰せを聞き受ける道場です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「もう大人になっちゃったパパはどうしたらいい?」「お浄土へ生まれたらいいじゃん」

毎年12月に、娘の通う保育園ではクリスマス会という名のお遊戯会があります。去年もありまして、先日お遊戯会の模様を録画したDVDが完成して入手したようでした。

うちの保育園では年少、年中、年長の各クラスごとに一つの劇をやるのですが、その中で年長さんのクラスは「ピーターパン」の劇をやっていました。ピーターパンはご存知のように、年を取らない永遠の少年です。子供の頃はもっと大きくなりたいなどと思っていた時もありましたが、体力的にもピークを過ぎて徐々に衰えを感じつつある今日この頃。年を取らない永遠の少年とは実にうらやましいと思いました。

さて、劇中にウェンディが「心だけは自由よ。子供のままでもいられるわ」とピーターパンに語っていましたが、しかしね・・・。親となり、社会生活を営んでいく上では子供のままではいられません。大人としての考え方を持って、きちんと物事を分別して生きていかねばなりません。時には子供の頃のように自分のしたいことを思う存分やってもいいとは思いますが、やはり程度や加減をわきまえないと、とんでもない事態にもなりかねません。

「心だけは自由」だと言われても、その心も大人として成長していかなくてはならない現実があります。それで、劇のこのセリフを次女に話し、

「もう大人になっちゃったパパはどうしたらいい?」

と聞いてみました。するとすかさず娘。

「お浄土へ生まれたらいいじゃん」

きっと娘は深く考えずに言ったのだと思いますが、この発言には驚きでした。次女は時々予想外の発言をして家族を楽しませてくれるのですが、この言葉には考察してみると実に深い意味が込められています。


本願を信じ念仏する真実信心の行人は、摂取不捨の故に正定聚の位に定まります。正定聚の位に住するが故に、必ず滅度に至ります。そしてこの上ないさとりを開き、阿弥陀仏と同じ無量寿、無量光の仏陀と成って、あらゆる人々を救い続ける大悲還相の活動をさせて頂くというのです。

ありとあらゆる囚われを離れ、自在無碍の活動をするのは滅度に至って後です。往生は本願を疑いなく聞き受けたその時に定まりますが、この世にいる限りは煩悩具足の凡夫としてあり続けるため、様々な囚われや執着を離れ切ることはできません。そして火宅無常の世界であるために、どうしても「どうにもならない」ことが起こります。生きてゆくのも、老いてゆくのも、病気になるのも、愛するものと別離するのも、厭い憎むものと会うのも、求めるものが得られないのも、五陰(五蘊)のそれぞれに執着して苦しみから離れられないのも、そして一番はこの肉体が死んでゆくのも、私達が人間である限りは「どうにもならない」ことです。

子供のままでいたいと思ってもかないませんし、「心だけは自由」だと言われても先ほど申し上げた通りです。また、その心は煩悩に穢れており、そのために苦しみから逃れることはできません。当来の世には無上涅槃のさとりを開かせて頂く念仏の衆生とて、それは変わらないのです。後生についての心配は阿弥陀さまに取り上げられてしまっていますが、生きていくことへの心配や悩みは尽きることがありません。

正定聚の位に住し、真の仏弟子と讃えられる身となったにも関わらず、それをよろこぶ心はおろそかであり、急いで浄土へ参りたいと思う気持ちもありません。連続する逆境やうつ病などによる心身の苦しみからこの世を厭い早く死にたいと思ったとしても、それは早くさとりを完成して自在無碍の大悲還相の活動を願ってのことではありません。あくまで現在の苦悩から逃避したいという我欲からです。その証拠には、苦しみが軽くなればあまり死にたいとは思わなくなります。心がこの肉体、この世界から離れていこうとしないのです。少しでも病気にかかると、死ぬのではないだろうかと心細く思われ、安養の浄土に心ひかれないのもそのためです。

『歎異抄』第九章には、それは煩悩が盛んであるからとして次のように仰せられています。

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。 

ですから、本当の意味で一切の苦悩や囚われから解放されるのは浄土に往生した暁です。

「お浄土へ生まれたらいいじゃん」

子供が何となく言った一言ですが、実はこれこそが真実の救いであり、浄土の慈悲なのです。

浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。『歎異抄』第四章

素晴らしいぞ、さすが我が娘! なんつって(笑) でもこのように言ってのける次女は只者でないかも・・・。


ただし、別に死に急ぐことを勧めているわけではないので誤解なさらぬよう。『歎異抄』第九章にも

なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。

と仰せられてあります。縁のある間は娑婆におり、この世の縁尽きたら浄土へ往生するのです。生きる意味と方向を如来さまから教えて頂き、生きることも死ぬことも共に有難いことだと言えるのが、浄土への旅を生きる念仏者であると私は思います。

決定往生の身となった念仏者にとって生きることは浄土への旅です。今でこそ旅は楽しむものになりましたが、そう楽なものではないのです。「可愛い子には旅をさせよ」というのは、可愛い子には楽をさせよではありませんね。晴れの日もあれば雨の日もある、風の日、雪の日、時には嵐や台風の日もあり、思うようにならないのが旅です。突然の怪我や病気、不意な出来事との遭遇、時には死んでしまいたくなる位辛い事だってやってきますよ。私は、今は有難いことに割合順調な旅路ですけど、この先谷底へ滑落するやも知れません。運転中に子供が急に飛び出してきて・・・なんてことになったら、考えただけでも恐ろしいですが、いつそうなってもおかしくないのがこの火宅無常の世界です。

また、人生とは如来に遇わせて頂き、物事の真実なるすがたを知らせて頂く道場であるとも教えて頂きます。道場とは心と体を鍛える場所です。楽をしていても心身は強くはなりません。鍛錬を重ね、時に拳や蹴りを食らい、投げ飛ばされて何くそと悔しい思いもし、その内に段々と相手を制する力が身についてくるのが道場です。もしこの世から永遠に変わらない崩れない幸せとやらになれるなら、それはもう仏陀の境地、さとりの世界であって即身成仏、一益法門です。

楽しく順調な時も、苦しい逆境の時も、常に「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」の如来の仰せ、すなわち南無阿弥陀仏を信じ申して、浄土を期として報謝の人生を生きるのが、まこと本願のおこころにかなった念仏の行者であると思います。その生き様はそれぞれ異なり、やること、できることも違いましょうが、中心にあるのは私や私の煩悩妄念ではなく如来であり如来の仰せだというのは共通でありましょう。

そしてこの世の縁尽きたらかの土、真実報土へ往生するのです。しかしそれで終わりではありません。迷いの生が終わり、そこからは永遠のさとりの世界です。またそこが還相回向の出発点です。この世では煩悩具足の凡夫であり続けるため、私がどう頑張ってもサッパリ駄目です。自在性がないから言うことにも説得力に欠けるし、私の力では誰も助けてあげられない。それが、今生ではどうにもできなかった人達を、今度は責任を持って救ってゆく。そういうことができる身にさせて頂くのです。私の力でなるのではなく、還相までもが阿弥陀さまの御回向です。

相変わらず煩悩妄念は絶えず、常に如来に背き続ける愚かな悪性は変わりませんが、真の仏弟子と讃えられる信心の徳を与えられ、念仏の行者とならせて頂いた身の幸は何にも代えがたいものがあります。立派なことはできませんけれども、如来二種の回向、真実の教行信証を深く学び、選択本願の念仏と願力回向の信心を少しでも伝えられたら、そして同心に本願を信じ念仏を申すお同行が一人でも多く現れてくれたらと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

花粉と南無阿弥陀仏

目の痒み、くしゃみ、鼻水・・・これだから春はイヤだ(>_<)!

現在、絶賛花粉アレルギー中です。薬の影響なのか、春眠暁を覚えずだからなのか、とにかく眠いです。そして、薬のおかげでくしゃみや鼻水はある程度何とかなっておりますが、目の痒みは深刻です。朝、アルガードを点眼すればこれもある程度抑えられますが、花粉の飛散量が多い日は途中から痒くなってきてしまい、掻くと目に悪い上に止まらないしで辛抱するのが辛いです。段々と暖かくなり、花が咲くいい季節ではあるのですが、これだから春はイヤなんです。


ところで、私の周囲の人達は私と同様に花粉の影響下にあるはずなんですが、同じようにアレルギーで苦しんでいる人もあれば、「花粉? 何それ?」とでも言わんばかりのヘッチャラな人もあるわけです。これを見るに、花粉は私と周囲の人達を分け隔てしないが、体質の問題でアレルギーを発症する人としない人がいるのだなということが判ります。

これを南無阿弥陀仏で考えてみますと、私も周囲の人達も同じ南無阿弥陀仏の影響下にあるはずなんですが、已に本願を信じてお念仏している人、今お念仏する人、当にお念仏申す人と三世の不同があります。またお念仏を有難いと思う方もあれば、逆に「念仏? 何それ? 題目とどう違うの?」と言わんばかりの無関心な方もあります。南無阿弥陀仏は善悪、賢愚、男女、老少等で人を分け隔てしないが、機の側で縁が已に熟した人、今熟する人、当に熟する人があるために、受ける機の側で違いがあるのだろうなと思いました。

一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日 陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。 御一代記聞書(307)

【現代語訳】
蓮如上人は、「万物を生み出す力に、陽の気と陰の気とがある。陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を受ける日陰の花はおそく咲くのである。これと同じように、宿善が開けることについても、おそいはやいがある。だから、すでに往生したもの、今往生するもの、これから往生するものという違いがある。弥陀の光明に照らされて、宿善がはやくひらける人もいれば、おそく開ける人もいる。いずれにせよ、信心を得たものも、得ていないものも、ともに心から仏法を聴聞しなければならない」と仰せになりました。
そして、すでに往生した、今往生する、これから往生するという違いがあることについて、上人は、「昨日、宿善が開けて信心を得た人もいれば、今日、宿善が開けて信心を得る人もいる。また、明日、宿善が開けて信心を得る人もいる」と仰せになりました。


蓮如上人は、このように仏の大悲心は平等でありながら、これを受ける機に遅速があり、往生にも三世の不同があることを説明しておられます。


なお、上の蓮如上人のお言葉は、 

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。『安心決定鈔』【2】

われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。念仏といふはこのことわりを念じ、行といふはこのうれしさを礼拝恭敬するゆゑに、仏の正覚と衆生の行とが一体にしてはなれぬなり。したしといふもなほおろかなり、ちかしといふもなほとほし。一体のうちにおいて能念・所念を体のうちに論ずるなりとしるべし。 『安心決定鈔』【9】

等のお言葉が元になっています。宿善に厚薄があって、宿善薄い人は厚い人にならねば信心決定できないとか、宿善厚くなる行為として聴聞や破邪顕正をせよとか、そんな教義ではないことは『安心決定鈔』を読んで頂ければ明らかです。これについて詳しくは

『飛雲』弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、機よりいささかも添ふることはなきなり

等に書かれていますのでご参照下さい。とにかく、私達は信心を得ている得ていないに関わらず、また宿善が厚いとか薄いとかそんなことは問題とせず、蓮如上人の「ともに心から仏法を聴聞しなければならない」と仰せの通り聴聞し、本願を仰ぎ有難いことだ有難いことだとお念仏申すことが大事です。

加えて、聴聞するといっても、仏願の生起本末、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞くのであって、因果の道理から廃悪修善を実践せよという教えを聞くのでも、煩悩と闘って求道せよという教えを聞くのでも、19願の実践を勧める教えを聞くのでもありません。そのような教えを聞いていても獲信・往生にはプラスにならないどころか、逆に邪義にハマって真実のご法義を受けられなくなってしまいますから、速やかに離れるべきです。


それにしても、本願のはたらき、南無阿弥陀仏のはたらきは有難いんですが、花粉のはたらきは要らんです。花粉がはたらくのは勘弁してもらいたいもんですが、こればかりは今の日本ではどうにもなりません・・・。

Love is...

この前、ラジオで久々に河村隆一「Love is...」が流れてきました。自分が中学の頃、河村さんにハマって、CDを買って歌いまくった歌の一曲です。

You are my only
You are my treasure.
I'd give you my whole thing, even if you don't want.
Love is my only
Love is my treasure.
Please close to me more and don't leave me alone.


(淳心房意訳)
君は僕の全てだ。君は僕の宝物だ。僕の全てを君にあげる、たとえ君が望まなくても。
愛は僕の全てだ。愛は僕の宝物だ。どうかもっと僕の近くに来て、そして、僕から離れないでくれ。
(「my only」は、「僕にとってかけがえのない存在」、「僕にとって唯一無二の存在」と訳すのが妥当でしょうが、「君無しでは生きていけない」「君への想いの無い僕は僕ではない」という意味ですから「僕の全て」としました)

このような書き出しで始まる「Love is...」。歌詞全文を読めば、愛する異性への想いを歌ったものであることは明らかです。私も当時は好きな女の子のことを思い浮かべて歌っていました。結果は玉砕でしたが・・・(;^ω^)


ただ、上に挙げた歌詞だけに着目した場合、「You」と「I」、また「Love」を読み替えることによって様々な解釈が生まれるでしょう。

例えば「You」を子供、「I」を親とした場合。愛する我が子への想いを歌った歌へと変わるでしょう。特に幼い子供を持つお母さんなんかは、勿論全ての親がそうではありませんけれども、子供は自分の血肉を分けた分身であり、かけがえのない宝物だと愛し、文字通り自分の全てを子供に与える位の気持ちで育てていらっしゃるんじゃないかと尊く拝します。

夜泣きやぐずり、思うように食事をしなかったり言うことをきかなかったり、日々のイライラやストレスはそれはそれは親になった者、育てた経験のある者じゃなければ絶対に分からないものがあると思います。愛だの何だのと、きれいごとばかりではありません。時にはストレスから何も分からない子供に暴言・暴力をすることだってあるかも知れません。そんな悪戦苦闘の中でも、捨てずに育てていくのは、社会的責任というのもありますけど、やはり底には子供を愛する心、宝物だと大切にする心があるからだと思います。


さて、ここからは淳心房お得意の読み替えです(笑) 「You」を私、「I」を阿弥陀仏、「Love」はそのままでもいいですが、如来の大悲の結晶である至徳の名号、南無阿弥陀仏にしましょうか。すると、これは皆さんお気づきの通り、本願力回向と、この私一人を救うという阿弥陀さまの大慈悲心を表した歌になります。

You are my only
You are my treasure.
I'd give you my whole thing, even if you don't want.


阿弥陀さまは、この私を「かけがえのない独り子だ」だと、全てをかけてお前を救うてやると仰っている。たとえ私がそれを望まなくても。私が「迷いの世界を離れたい」「清らかなさとりの世界に往生したい」と願う遥か以前に、阿弥陀さまは私を救うてやりたいと願いを発されました。その願いが届いて、今私達は法に遇わせて頂いているわけです。「お前を必ず助けるぞ」「どうか気づいてくれ」とこういうわけですね。

Love is my only
Love is my treasure.
Please close to me more and don't leave me alone.


阿弥陀さまは生仏一如、自他一如のさとりの御方ですから、私達のように自分と他人を画然と分け隔てなさいません。南無阿弥陀仏の名号はひとえにこの私に与えることを第一として成就されましたので、阿弥陀さまの「treasure」はそのまま私の「treasure」となって下さるわけです。有難い。

阿弥陀さまは五劫の思惟、不可思議兆載永劫のご修行を経て、南無阿弥陀仏という功徳の宝を成就された。それは他でもない、抱えきれない罪業を抱えて流転を重ね、この度またも流転しようとしているこの私に与えて救うてやるためだ。ご自身が南無阿弥陀仏という声の仏と成って私に飛び込んで下さり、私をもう離さんで下さる、とこういうことでございます。

「どうか私の言うことを計らい無く聞き受けて、私の名を称えておくれ。もっと私の側に来て、そして、私から離れないでくれよ」

このように聞き受けたからには、もはや小賢しい詮索や先入観は要りません。私の考えや計らいなんかどうでもいい。本願のはたらきにまかせてただなんまんだぶつ。何とも有難くたのもしい本願力に嬉しくかたじけなく、お念仏申す他ありません。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


相変わらず自己中心的な想念に支配され、三毒の煩悩に煩わされ悩まされっぱなしではありますが、如来の回向が届いたからにはそれが影響して、皆さんにもこの本願念仏の法に遇って頂きたいという、本来私が持ち合わせもしない気持ちが起こってまいります。ところで阿闍世は獲信後、あんなに地獄を恐れていたのに

〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉「信文類」阿闍世、菩提心を起こす

【現代語訳】
<世尊、もしわたしが、間違いなく衆生のさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは、常に無間地獄にあって、はかり知れない長い間、あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはいたしません>

と釈尊に対して決意を述べておられます。阿闍世と言えば我欲のために父王を殺し、母を牢獄に閉じ込めるという悪逆をはたらいた人物だということは皆さんご存知だと思います。その後、心因性の重い皮膚病を患って瀕死の床についていたのを、釈尊の弟子であり、勝れた医者であり、大臣でもあった異母兄弟の耆婆に導かれて釈尊を訪ね、回心して救われたのです。無根の信を獲て後の決意が上の言葉です。

この病は治ることはない、自分はもう助からない、無間地獄へ堕ちるよりないと自分で自分をあきらめてしまっていた阿闍世が救われたのは、「われは阿闍世のために涅槃に入らず」という如来の大悲心に気づいたからでした。それについて、『聖典セミナー「教行信証」信の巻』より少々引用します。

 自分自身の罪を決して許せなかった阿闍世が、その罪深き自身を受け容れることができるようになったのは、「われは阿闍世のために涅槃に入らず」という仏陀の大悲心に包まれている自身であることに気づいたからです。如来が決して見捨てないと仰せられている自分を、自分が見捨ててはならないと気づいたのです。そのとき自分を包摂して、身と心の病を癒し、さとりの領域へと導きたまう仏陀の教化にしたがって生きることがまことの生き方であるという、まったく新しい生きることの意味と方向が定まったのです。それが阿闍世に恵まれた救いだったのです。(p.440~p.441)

これを私達に置き換えて考えてみますと、阿弥陀さまが私を救うことを決してあきらめていないのに、私の方で勝手に「もう俺の人生なんてダメなんだ」「いいことなんてないんだ」「どうせ信心決定なんて無理」とあきらめてはならんということです。南無阿弥陀仏という本願醍醐の妙薬は、どんな悪逆の者も回心させ往生成仏せしめる起死回生のはたらきがありますから、助からない者は一人もありません。六度万行や定善、散善をしてこいというなら無理だけれども、この如来の大悲心を聞き受けるだけですから只今救われます。だから、

あきらめんなお前!
だからこそ、Never give up!

先に救いに遇うた者として、俺は敢えて修造先生の言葉を借りてこう言います。

それにしても上の阿闍世の言葉、これこそ真の勇者です。私にはちょっとそこまで思われませんが、子供達や有縁の方々が本願を信じお念仏してくれるならどのような苦労も苦労と思わないぞという気持ちにさせられます。これも皆、真実の行信を賜った利益です。と、このように本願力回向の仏意を読み取ることができます。


本当に素晴らしい歌を作って下さったと、河村さんには感謝しかありません。肺腺がんを患われたようですが、先日、術後初のステージ復帰を遂げられて嬉しく思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

主語や目的語を変えたり、多少歌詞を変えたりすることで本願力回向、如来の大悲を味わえる歌は沢山あると思います。皆さんがお気づきになった歌があれば、ぜひ紹介して頂ければと思います。



【参照】
『うたまっぷ』Love is... 河村隆一
河村隆一 「Love is...」
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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