FC2ブログ

仏法をあるじとし、世間を客人とせよ

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

俺はこの世に仕事するために生まれたんじゃない。食うて糞して寝て起きて死ぬばかり、そんなことのために生きてるんでもない。この人生、ひとえにお念仏申すための人生です。

何のために生まれてきたのか。本願を信じ念仏を申して二度と迷わない身となる。これが第一の目的で、自分がそういう身となったならば今度はその喜びと共に有縁の方々に本願をお伝えする。これが第二の目的です。そして浄土に参った暁にはこの上ない悟りを開いて一切衆生を思うが如く利益する。これが第三の目的です。

迷いを離れ、往生成仏する万人共通の道。本願を伝え、御恩に報いる道。一切衆生を救うてゆく道。それが「念仏」であり、先の三つの目的は往相回向の「念仏」によって達せられますから、この人生はお念仏申すための人生だというのが淳心房の領解です。ですから、当然お念仏申すことが人生の中心になければならない・・・はずです。


ところが、現実としては生活が中心になっています。仕事の合間にお念仏、移動の間にお念仏、家事や育児の間にお念仏、ブログを書いている間にお念仏・・・。お念仏が出てくるのは有難いことだけれども、これでは仕事や生活が主人で、お念仏は客人、脇役となっている感が否めません。迷いの深い自分は、気が付くとお念仏と生活の立ち位置が逆転しています。

仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。
仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなりと[云々]。
『御一代記聞書』(157)

「仏法を主とし、世間のことを客人としなさい」という言葉がある。
仏法を深く信じた上は、世間のことはときに応じて行うべきものである。


蓮如上人はこのように仰せられたとあります。主人が誰なのか、客人が誰なのかすら分からなくなってしまう。そんなことは普通はあり得ない話ですが、そのあり得ないことが自分にあり得ている。何と恥ずかしいと思うと共に、やはり法を聞き続け、お念仏を相続してゆく重要性を痛感します。それでいくと、

仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」と、『和讃』(浄土和讃・三一)にあそばされ候ふ。
『御一代記聞書』(155)

「仏法は世間の用事を差しおいて聞きなさい。世間の用事を終え、ひまな時間をつくって仏法を聞こうと思うのは、とんでもないことである。仏法においては、明日ということがあってはならない」と、蓮如上人は仰せになりました。このことは『浄土和讃』にも

たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり
たとえ世界中に火が満ちているとしても、ひるまず進み、仏の御名を聞き信じる人は、往生成仏すべき身に定まるのである。

と示されています。


のお言葉も、当面は厳しく聞法姿勢、聞法精神を正しているお言葉ですが、上に示した主人と客人を間違えぬようにとの御指南であるとも私には受け取れます。


本願を信じられました。お念仏称えました。それでおしまい・・・ではさみしい。信後も如来のお育てにあずかり、自身が相応の念仏者に育てられてゆくと共に、多くのお仲間と共にお浄土参りを果たしたい。

六字のみ名を となえつつ
世の生業(なりわい)に いそしまん
海の内外(うちと)の へだてなく
み仏(おや)の徳の とうとさを
わがはらからに 伝えつつ
浄土(みくに)の旅を ともにせん


真宗宗歌でも「六字のみ名をとなえつつ」世の生業にいそしまんと、六字の御名を称えることが先です。宗歌に触れる度、主客が逆転している浅ましい自分だと気付かされ懺悔すると共に、仏法が主人であることを再確認し、この宗歌の通りに生きていきたいと思います。

まぁ現在の自分の仕事は宅配関連で、はたを楽にするというよりはどうも欲望の増長をしている感が否めなく、また理不尽なことも多くて「おかげさまで生活させてもらえるのだ」という心を保ち続けるのは自分には極めて困難ですがね(;^ω^) 世の生業も御恩報謝と達観できるようになるには先は長そうです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
仏法を主とし(真宗の味わい)
真宗宗歌
スポンサーサイト

ねんぶつとは、なんまんだむです

娘の宿題の一つに、日記のようなものがあります。この前、特に書くことがなかったのか、娘が突然

「念仏について書こう」

と言い出しました。しかもその書き出しが

ねんぶつ
ねんぶつとは、南無阿弥陀仏です。

(漢字は私が書きました。娘は更に、横に「なんまんだむ」と振り仮名を振っています)

ですから二度ビックリ。「なんまんだぶととなえることです」とか書くと思ったけど、確かにこれで間違いない。

念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。「行文類」経文結釈「破闇満願」

しかも南無阿弥陀仏を赤鉛筆で横線引いて「大じ!」と書いている。間違いない。これ以上大事なことは無い。

すげーな我が娘。しかし宿題でこんなこと書いていいのか?


まぁせっかくだからと様子を見ていると、どうもその後、「念仏を称えると極楽浄土に往ける」と書きそうだったのでちょっと手助けを。これでも間違いではなんですけどね・・・どうせなら正確な教えを書いてもらいたい。ただ、あまり長ったらしいと娘も書く気をなくしてしまうだろうな。少し考えた結果、

阿弥陀仏はその昔、全ての人を平等にすくうにはどうすればいいか考えて、わが名をとなえる者を往生させるとちかいを立てました。今はそのちかいがかんせいし、ちかいをうたがいなくしんじてとなえるものはかならずじょう土に生まれます。

習っていない漢字もあるので、このように書いてもらいました。ほとんど手伝っちゃった感がありますが、念仏について書くことは恐らくこれが最初で最後だと思ったので、まぁいっか。あと、先生としたらいきなりこんなことを子供が書いてきたらビックリすると思ったので、一応

パパはこういうのをべんきょうしているそうです。

と書き足してもらいました。オウム真理教の一件以降、日本では宗教偏見が多いのでどう思われるかおおよそ察しはつきますが、読むだけ読んでもらいましょうというつもりで・・・。


ちなみに後日。先生のコメントは赤ペンで

むずかしいのにすごいなあ・・・

というものでした。非常にまともなコメントですね(^-^;

どうも極楽とか浄土というと遊園地のちょっといいのを向こうに思い描いているような娘ですが、往生のみちは弥陀選択回向のお念仏以外には無いと計らいなく信じて称えるようになってもらいたいものです。


なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

知恩報徳の益

先日、敬老の日にちなんで実家の祖父、父母、妹家族を交えて食事会を開きました。最初はその予定はなかったのですが、母の提案で、自分が誘えば父も祖父も喜んでくれるとのことで開催しました。費用も全部自分の支払いで済ませる予定でしたが、なんやかんや母も一部出してくれたり、妹も気を遣って俺の子供達のためにと色々用意してくれたりで、最終的には出した額以上のものを頂いてしまった気がします。

帰省の度にお米をくれ、野菜や食料を買ってくれる。ガソリン代も出してくれる。食事を用意してくれる。また、お隣にあいさつに行けば子供のためにお小遣いをくれる。毎度毎度、こちらが何かしても、何倍にもなって返ってきてしまって申し訳ないやら有難いやら・・・。自分に孫ができたら、子供や孫のためにとて、両親のようなことはとてもしてやれないだろうと考えると、我が親ながらその偉大さに頭が下がります。

日々、色々とつらいこと、苦しいことはあるけれども、こうして何不自由なく暮らしていられるのも両親を始めとした家族、親戚、近所の方々・・・その他目に見えない、気付かない多くの人々のおかげです。お念仏を申すほどに、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳を感じるとともに、そういった自分を慈しみ育んでくれる多くの方々の御恩までも喜ばして頂ける。これまた幸せなことであります。

親鸞聖人は現生十種の益の第八に「知恩報徳の益」を挙げておられますが、それを最近しみじみと感じさせて頂きます。勿論、逆境の最中に御恩を感じて喜べるような私ではありませんが、お念仏を申していると御恩を思い、有難いと思う気持ち、それに少しでも報いたいと思う気持ちが増してくる。そのように感じます。

結局、父母や周りの皆さんのおかげさまで生かされている。それが私なのでした。愚鈍な自分は、こんな当たり前のことに気づくのに随分と長いことかかってしまいました。尤も、そういうことが知らされてきたからといって、急に人間の中身が入れ替わって孝行息子になるとか、何か特別なことができるようになったわけではありません。「だからどうした?」という話ですが、恩を知り、恩を感じるということは何と幸せなことだと思います。

やはり人間、色々な楽しみや喜び、幸せがあるけれども、御恩を感じ、御恩を思わせて頂くという幸せはいわゆる欲望を満たす幸せとは一線も二線も画した格別のものであると思います。特に、この恩知らずが恩を知らされるというのが不思議なもので、私なんかは浄土真宗の教えを聞かなければわかりませんでした。だから、誰かに教えられるわけでもなくこのことに気づける人というのはすごい人、立派な人です。

私は立派でもないし、将来立派になって「こんなお前ならもう大丈夫だ」と親に安心してもらえるような自分になれる自信はあまりありません。ただ、子供の頃から自分勝手に生きてきた分、これからは少しでもお世話になった/なっている方々の御恩に報いるようなことをしていきたい。決して、して下さったことを当然と受け流すことだけはしてはならないと思わされました。

少しでもこの気持ちが残っている内に、感謝の気持ちを伝えねばな。残酷にもこの世は無常の世界で、言いたいこと、伝えたいこと、伝えなければならないことを何一つ伝えられずに突然お別れするかもしれない。感謝も何も伝えられなかった、そんな後悔は残したくない。ただ、面と向かっては恥ずかしいし、メールでは軽い。・・・やっぱ手紙にするか(;^ω^) なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

久々に『約束の場所』(CHEMISTRY)を聴いて思ったこと

この前久々にラジオで『約束の場所』(CHEMISTRY)を聴きました。これが発売されたのは2006年ですから今から12年前。まだ私は現役の親鸞会会員でした。

当時は親鸞会の価値判断で生きていましたので、MVには載っていませんがこの歌の2番

途中でもし死んでしまっても ひたむきに夢と向き合えば
きっと同じ未来を描く 誰かが引き継いでくれる
『歌詞タイム』約束の場所より)

という歌詞はどうしても受け入れられなかったです。

いやいや、誰かが引き継いでくれたって、我が身は満足か? 人生の目的を果たせずに途中でもし死んでしまったらなんてそんな未来はいやだ。ひたむきに向き合っても、途中で死んでしまっては何にもならない。

この歌詞の「」を「人生の目的」、「絶対の幸福」と置き換えて聞いていたため、歌のメロディーは好きな方でしたがこの部分は好きにはなれませんでした。


現在は親鸞会を離れて9年。私の心境も大分変化しました。今はこの歌詞の「」を「衆生の志願」と置き換えて聴いています。「衆生の志願」というと、往生の志願だとみんな言うんですが、櫻井鎔俊和上は阿弥陀仏の本願を伝えたいというのも「衆生の志願」であると仰せられています。私もこの説に賛成です。
(こんなことを書いてると林遊さんあたりに怒られちゃうかな・・・まぁいっか)

願わくは、全ての人に阿弥陀仏の本願を聞いてもらいたい。そして皆人一同に浄土に往生し、迷いの世界を離れさとりの世界に参りたい。本願を仰ぎお念仏申すほどに、私はこのような気持ちになります。

みんなが幸せになってもらいたい。お念仏申してもらいたい。現実はとてもそうはいかないし、伝える手段も分からない。途方もない「」で、とても実現不可能に思えるけれども、念仏者なら程度の差こそあれ、このような気持ちが起こってくるのではないかと思います。ここは皆さんの意見を伺いたいところです。

それで、歌詞の「」を「阿弥陀仏の本願を伝えたい」と読むと、私の中では心地よく響くんですよね。私なんかがいくら伝えようとしても、仏様のように自在性がないから全くダメだ。でも、途中でもし死んでしまっても、ひたむきに夢と向き合えば、きっと同じ未来を描く誰かが引き継いでくれるのでは・・・、と素直に思えるのです。

また、サビの

夢は時間を裏切らない 時間も決して夢を裏切らない
その二つがちょうど交わる場所に心が望む未来がある
夢を携えて目指すその場所に 僕がつけた名前は「約束の場所」


という歌詞もとても素敵に聞こえます。


まだ子供も小さいし、色々心残りもありますから死ぬわけにはいきませんが、無常の世界ですからどうなるか分かりません。また、この先何十年とブログを続けていっても、果たしてどれだけの人に影響があるかと思うと、私の存在などチリみたいなもんでしょう。それでも、お念仏を申していると、伝える方法なんか全然分からないけれども、それでも伝えたい、幸せになってほしいという気持ちが起きてきます。

我が身可愛い、我が身第一、我が身の事しか考えない煩悩具足の私がこのようなことを思わして頂くのも、全く如来選択回向のお念仏のおかげです。現実は、目の前の悩んで泣いている会社の同僚にどうやって慰めたらよいやらも分からない、何の力も智慧もない私ですが、何とか何とかと思う気持ちは止みません。


ちなみにこれは経験則ですが、どうも信心を獲ても、その後法を聞かない、お念仏申さないようだと、法の喜びも、御恩を喜ぶ心も、伝えたいと思う気持ちも起き難いです。やはり有難い光が差してくるように、不断聴聞し、お念仏の生活をさせて頂くのが大事であるとつくづく思います。これは私の経験と考えですので、読者の皆様には一意見として捉えて頂ければと思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

この前、ようやく本物の人気アニメ映画『君の名は。』をブルーレイで見ました。私が言うのも何ですが、確かに完成度の高いアニメ映画でした。まず作画がとても美しい。現実では有り得ない独特の世界、面白いところ、シリアスなところ、萌え~なところ、考えさせられるところ、様々なものが込められていて、とても楽しく見ることができました。1、2回見た程度ではちょっと理解できない、作者の思いを汲み取れない部分もあると感じています。機会があればもう1回借りて見たいところです。それにしても大きくなった四葉たんカワユス・・・(*´ω`*)

・・・さて、話の中で、ヒロイン宮水三葉のおばあちゃん、宮水一葉の言葉が心に残りました。本当は耳で聞いた言葉を抜き出すつもりでしたが、返却まで時間が無かったのと忙しかったのとでできませんでした。幸い現在は様々な情報がweb上に上がっていますので、そこからお借りしたいと思います。

一葉「三葉、四葉、むすびって知っとるか?」

・・・

「この言葉には深ーい意味がある」

「糸を繋げることもむすび」

「人を繋げることもむすび」

「時間が流れることもむすび。全部神様の力や」

・・・

「わしらのつくる組紐もせやから、神様の技。時間の流れそのものを表しとる」

「縒り集まってかたちを作り、捻れて、絡まって、時には戻って、途切れて、また繋がり...」

「それがむすび。それが時間」


念のため申しておきます。宮水家は代々神社の家系なので「神様」というワードが度々出てきますが、親鸞会の方は一々反応しないで下さいね。阿弥陀仏以外の諸神に仕えるのは「雑行」と徹底されているので、会員の皆さんはいわゆる「五種の雑行」はしていないと思います。しかし、「五種の雑行」さえしなければ良いだろうという考えは大間違いです。皆さんが信心獲得に良かれと思ってやっている聴聞、献金、勧誘、会長や上司への無条件服従等の活動だってみな漏れず「雑行」の範疇ですから。まぁ正確には親鸞会の主な活動など「雑行」とは程遠い「悪行」です。しかも往生・成仏ではなく、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、現世利益が目的では「雑行」とも呼べない、善もどきの善、新興宗教の活動なのですが、細かいところは目をつぶりましょう。

話を戻します。おばあちゃんは「むすび」という言葉を使って、人を繋げること、時間が流れることを「むずび」と言っています。この「むすび」とは異なりましょうが、私達も様々な「縁」によってむすばれています。この世に生まれたのも、現在を生きているのも、誰かと出会ったのも、様々な因縁が絡んで起きたことに他なりません。

そして、私達が現在阿弥陀仏の本願を知り、本願を信じ念仏するようになったのも全て「弘誓の強縁」によってです。親鸞聖人はそのことを、

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。 たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(総序)

【現代語訳】
ああ、このような力強い本願力には、いくたび生を重ねても値(あ)いたてまつることは難く、清らかな真実の信心は、無量劫を経ても、獲る機会はなかった。思いがけなくも、いま行信を獲、本願を信じ、念仏をもうす身になったものは、遠い過去世からの阿弥陀仏のお育てのご縁に思いを致して慶べ。

と仰っています。遥か遠い昔からの阿弥陀仏のお育てのご縁によって、現在私は本願を信じ念仏する身となったというのです。また、そのような尊い本願を伝えて下されたお釈迦様を始めとし、インド、中国、日本の高僧方を挙げて、そのご恩を喜ばれると共に本願念仏の法を懇ろに示しておられます。『正信偈』には具体的に7人の高僧方のお名前と、それらの方々の教えが説かれていますが、その裏にはもっともっと多くの、有名無名の方々がこの教法の伝持相承に携わっておられたのです。その内の誰か一人が欠けても、親鸞聖人まで、私達までは届かなかったかも知れません。

ここから、「おかげさまで」ということ、様々な方々の「ご恩」ということを知らされます。法に関しては勿論ですが、私がここまで生かされてきたことも、両親や家族、友人、近所の方々、学校の先生、その他数限りない、様々な有情非情の「おかげさまで」「ご恩」によってです。

如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 ほねをくだきても謝すべし
(正像末和讃)

親鸞聖人はこのように「如来大悲の恩徳」「師主知識の恩徳」を喜び、その報謝を誓っておられます。

私などはとても親鸞聖人や蓮如上人のようにはいきませんが、私のやり方で「弘誓の強縁」ましますことをお伝えしたいと、この映画を見、「むすび」→「縁」と思いを巡らしている間にふとそのようなことを考えました。

比較するのも失礼ですが、浄土真宗まがいの新興宗教が作ったアニメ映画などよりよほどお勧めです(笑)



【参考文献】
【君の名は。】一葉おばあちゃんの重要セリフと考察(※ネタバレ注意)

お釈迦様の手の内でいい気になっている孫悟空と一緒だなぁ

先日、父母や妹家族を含めた家族旅行へ行きました。遊園地へ行って、美味しいごはんを食べて、普段見ない景色を見て、楽しい時間はあっという間でした。子供達も楽しかったようで、よい旅でした。

昔自分が子供だった時とは違い、父はもう70を過ぎています。もう自分で運転して旅行というのは嫌みたいだったので、今度は自分がレンタカーを借り、実家へ父母を迎えに行きました。

行先は自分が子供の頃によく行っていた場所で、当時は私は車の助手席に乗り、父は運転席でした。それが今は父を助手席に乗せて自分が運転している。子供だった私が親となり、父母を乗せて子供を乗せて、かつて自分が子供の頃遊んだ場所にいる。何だか感慨深いものがありました。


旅費を出してもらうので、せめて運転は自分がやって少しでも親孝行ができたらなぁなどと旅行前までは考えていたのですが、今まで父母が自分にしてくれたことを思うと相当に考えが甘かったです。お釈迦様の手の内でいい気になっている孫悟空と一緒だなぁと思わされました。

一体自分は親の恩に対して何ができているだろうか。学生時代はよく反発して親を悲しませた。「何でこんな子に育ったんだろう」と失望したこともあっただろう。それでも自分のことを色々気遣ってくれ、優しく温かく接してくれる。自分の無力さと、親の有難さに胸が熱くなり、こみ上げてくるものがありました。

今は感謝の気持ちを伝えることしかできないが、今度は自分が旅費を出して父母を旅行に招待したい。そしてやがては阿弥陀仏の本願を伝えて、共に本願を信じ念仏を申す御同行となりたい。旅行が終わって、このように思ったのでした。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【追記】
旅行が終わって仕事に出てみたら、炎天下に捌ききれないほど大量の荷物を運ぶはめに・・・。旅行の楽しさもどこへやらです。どうやらこの願いを叶えるには道は長そうだ・・・(*_*;

南無阿弥陀仏に出遇えてよかった

真実の教というも南無阿弥陀仏。

真実の行というも南無阿弥陀仏。

真実の信というも南無阿弥陀仏。

真実の証というも南無阿弥陀仏。

真実の仏というも南無阿弥陀仏。

真実の土というも南無阿弥陀仏。

往相回向というも南無阿弥陀仏。

還相回向というも南無阿弥陀仏。


全てが阿弥陀仏の大悲回向の賜物でないものはありません。
南無阿弥陀仏に出遇えてよかった。苦悩に喘ぐ人生は変わりませんが、この世に生まれ、生きてきた甲斐がありました。そして、この南無阿弥陀仏一つで死んでいけます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

『僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ』は阿弥陀さまのセリフだった

幸せだなァ 僕は君といる時が一番幸せなんだ
僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ
(『君といつまでも(加山雄三)』より)

よくラジオで若大将のこの曲がリクエストされます。この前もこの曲が流れていて、それを聞いてふと

幸せだなァ 僕はお念仏称えている時が一番幸せなんだ
僕は死ぬまで君(お念仏)を離さないぞ いいだろ


という歌詞が思い浮かびました。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


いや、そうじゃないな。この表現は正しくない。特に二行目。離れない、離さないとこちらでいくら思っていても、すぐ離れてしまう、離してしまうのが悲しい俺の実態だ。そんな俺を死ぬまで離さないのは阿弥陀さまだった。

誠なるかな、摂取不捨の真言。阿弥陀さまが「摂め取って捨てない」と真実の言葉で仰せだから、それが俺に届いてこの口からなんまんだぶが出てくるんだった。離さないのは阿弥陀さまだった。そうか、

僕は死ぬまで君を離さないぞ いいだろ

は阿弥陀さまのセリフだったんだな。

勿論でございます! ありがとうございます! こんな俺をすいません!

摂取不捨の真言に涙が流れます。そのおかげで、幸せだなァと思わせてもらえる時がある。有難いことです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

一 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。『御一代記聞書』(88)

【現代語訳】
ある人が思っている通りをそのままに打ち明けて、「わたしの心はまるで籠に水を入れるようなもので、ご法話を聞くお座敷では、ありがたい、尊いと思うのですが、その場を離れると、たちまちもとの心に戻ってしまいます」と申しあげたところ、蓮如上人は、「その籠を水の中につけなさい。わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と仰せになったということです。「何ごとも信心がないから悪いのである。よき師が悪いことだといわれるのは、他でもない。信心がないことを大きな誤りだといわれるのである」とも仰せになりました。

このお言葉は一見、信前の人に対して言われているように思われますが、信後の人にも言われているのではないかと私は思います。特にこの淳心房に対して言われているお言葉だと思わざるを得ません。


恥ずかしい話ですが、私の日々の生活は仕事、子育て、家事にほとんどの時間、体力、気力を使い、仏法に充てる時間、体力、気力はほとんどないという状態です。愛憎の煩悩にまみれた生活の只中にいると、とにかく目の前のこと、生きることに精一杯で、有難いという気持ちも、御恩を思い報いようという気持ちもどこへやら・・・。

貪愛の心は常に善心を汚し、瞋憎の心は常に法財を焼いてしまいます。御恩を思いそれに報いようどころか、余裕がない時なんかは子供達にさえきつく当たってしまうこともしばしばです(*_*; すまぬ・・・。

聴聞にも行けない。お同行と会うこともできない。そんな毎日ですが、そういう私がどうすれば如来広大の恩徳を有難く頂戴しつつ、至徳に報謝する人生を生きられるのか。私のような者には無理なのではなかろうか。

この私の問いに、蓮如上人はお答え下さっているのではと思うのです。そうだ、有難く思う気持ち、御恩を思う気持ちが籠から水が出ていくように無くなってしまうのであれば、籠を水につければいいんだ。

聴聞するといっても、聞くべきは南無阿弥陀仏しかないじゃないか。とすれば、なんまんだぶ、なんまんだぶとお念仏申すことがすなわち聴聞じゃないか。御恩報謝じゃないか。

このように気づいてからは、私はなるべくお念仏を申すようにしています。通勤中自転車をこいでいる時、車の中も、風呂の中も、何かの待ち時間も、思い出してはお念仏しています。

すると、たちまち煩悩いっぱいの私の空間が大悲招喚の勅命を聞き受ける聞法道場となり、有難い気持ち、仏様の御恩を思う気持ちも起こり、本願を多くの人に聞いてもらいたいという気持ちも起こってまいります。勿論、そのような時ばかりではなく、逆境の最中なんかは念仏していても実に味気ないですがね・・・(^-^;

天親菩薩は浄土往生の行を五念門で教えられていますが、これは念仏におさまるんだなということをいよいよ知らせて頂きます。お念仏申すところに阿弥陀仏を礼拝したくなる気持ちが起きます。お念仏申すことがそのまま阿弥陀仏を讃嘆しています。浄土に参ってさとりを完成したいという気持ち、阿弥陀仏や浄土を思う気持ち、人にも本願を聞いてもらいたいという気持ちも、お念仏申すところに起きてきます。念仏が「自利利他双行」とはよく言ったものです。これみな本願力のご回向によるものと有難く頂戴し、もっぱらこの行に仕え、ただこの信を崇めるよりないとよくよく知らされます。


やはり、念仏も称えないのに有難い気持ちが起きないのは当たり前すぎるほど当たり前なのでした。今までを反省すると共に、改めてお念仏申す人生を生きたいと思います。

こうしてブログで記事を書くことも、真宗の言葉に触れ、お聴聞しお念仏する有難いご縁です。

日々、反省。懺悔。そしてお念仏。お念仏が中心の生活を。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『安心問答』「その籠を水につけよ」と蓮如上人がいわれた意味は?(頂いた質問)
『立徳寺』籠を水につけよ

子供達は私になんまんだぶを勧めにやってきた化身

「私が念仏称える」という行為によって助かるのではなく、称えられる念仏、南無阿弥陀仏によって救われる。称えられるなんまんだぶに我々の無明を破り、志願を満たすはたらきがあるのです。

子供達のかわいらしい口から称えられるのも南無阿弥陀仏。私の穢い口から称えられるのも南無阿弥陀仏。誰の口から称えられても、称えられる南無阿弥陀仏は南無阿弥陀仏で一緒です。南無阿弥陀仏自体には、自力も他力もありません。それを我が計らいの心をもって、「私が称える私の念仏」ととらえ、私の念仏に功徳があるように思ってこれを称えて浄土に往生しようとするのを自力と言われます。

その人を助ける助けないは阿弥陀さまのお仕事、阿弥陀さまのお計らいであって私が知る所ではありません。なのに最近まで、子供達のお念仏を「どうせ信を獲ていないだろうから自力念仏だろう」と勝手に思ってしまっていました。それこそ計らいではないかと反省させられました。本当に子供達を通して知らされることが多いです。子は親の鏡とはよく言ったものです。

やはり、共に念仏して阿弥陀仏の名を褒め讃えつつ、どういう思いで念仏しているか聞いてみないといけないなと思いました。そこで、念仏を取引材料にする気持ちや祈願請求の気持ちが見られたら「そうではないよ」と話し、「お念仏はお前達を浄土に迎えるはたらきだから。そのはたらきにおまかせするんだよ」と本願力回向の法を伝えなければなと思いました。

また、決して念仏すること自体を否定したり、止めたりしてはならないのだなと思いました。せっかく阿弥陀さまが子供達に称えさせて下さっているのに、私が止めちゃいかんですよね。

大人でも難しいのに、子供には・・・と思われますが、それも計らい。全ては阿弥陀さまのお計らいなのだから、こちらで先入観を持たずに、子供にも受け止められるように話そうと思いました。


ところでこの前、突然次女が

「私は阿弥陀さまの子なの?」

と聞いてきたのでまたまた驚き。

「そうだよ。お前たちは阿弥陀さまの子だ」

と、次女と傍にいた三女に言いました。その時、子供達は私になんまんだぶを勧めにやってきた化身なのではないかと思われたのでした。時に感情的に叱りつけてしまったりして反省することしきりですが、この仏の子達が何とか一人前になってくれるまでは傍で共にありたいと思いました。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード