公園の水道が凍っていて・・・

今週は最強クラスの寒波が2つも日本上空にあるらしく、とにかく寒いです。東京は48年ぶりの寒さとなったそうです。日本海側を中心としてものすごい雪になっています。月曜日には関東でも大雪が降りましたが、その夜、奇しくも子供達は『アナと雪の女王』を見ていました。その中の、

国中が 雪と氷に包まれたの!

というセリフ通り、自分の住んでいる一帯が雪と氷に包まれてしまいました(苦笑)

木曜朝に、子供が公園に行きたいというので連れていくと、公園はまだ真っ白に近い状態でした。水飲み場の水道管は凍っていて水が出ませんでした。こんなにも冷えていたのかと思うと共に、水道設備が壊れていなくてもこうして凍ってしまえば水が出ないことがあるのだなと改めて知らされました。


お釈迦様によって説かれ、七高僧方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と脈々と受け継がれてきた阿弥陀仏の本願念仏の教えが私まで届き、現在こうして本願力をたのんでお念仏申させて頂いております。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。数え切れない有名無名の方々が「弥陀の法水」のパイプとなり、今私の口という蛇口からなんまんだぶが出てきております。有難いことです。

ところが、この教法伝持に際して、水道管の例えで言えば途中で混ぜ物を加えたり、パイプを詰まらせて飲めなくさせる人がいるのは今も昔も変わりません。古くは中国で摂論宗の一派が念仏別時意説を唱えたために当時念仏する人がいなくなってしまったなどということがありました。法然聖人の教えを誤解して、諸善も19願に誓われているのだから往生の正因となるなどと専修念仏の教えを乱す輩も現れました。善鸞も、三業惑乱の智洞も、本願念仏の教えを誤り、邪義を唱えた者達の一人です。

せっかく親鸞聖人のお名前を知り、本願念仏の教えが目の前にあっても、そこに邪義を混入されてしまえば「弥陀の法水」は飲めません。私も約8年の間、そうしたことで本願を信じ念仏することができませんでした。私のかつての仲間達も、未だ「弥陀の法水」でない、言わば泥水をすすらされてしまっていることと思います。今回、凍結した水道管を見て、私も微力なりとも教法伝持の一旦を担うと共に、泥水を精製して与える者達の邪義を暴かねばならないと改めて思いました。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
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真実の教行信証

前回、「浄土真宗」=「本願力の回向」であるということに触れました。

往相の回向について真実の教行信証あり(教文類)」
それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。(証文類)」

とお示しのように、「真実の教行信証」はすべて阿弥陀仏の方で用意し与えて下さるものです。私達の方で加えるものは何も無く、逆に何か加えようとするのは誤りです。私達はただその「本願力」が成就して今現にはたらいている、「回向」せられていることをお聞きし念仏する、言葉を変えると、私達に救いを告げる御名である「南無阿弥陀仏」の六字のこころを受けて「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏申すのみです。

私が「助かりたい」と思い、救いを求める遥か以前に「助けるぞ」と誓われ、本願力を成就して回向されているのです。本願力に摂取されるに当たり、「私の求道」など要りません。そんなもの、阿弥陀仏の「五劫思惟」、また一念一刹那も真実清浄の心身を乱さない「不可思議兆載永劫」のご修行と比べたら、どれだけド真剣に取り組んだところで遊びにもなりません。逆にそんなものにすがっていても本願力を撥ね付け、阿弥陀仏の御手を煩わすだけですから、早く打ち捨てて阿弥陀仏の真剣を受けるべきなのです。このことを、「自力を捨てて、一心に弥陀をたのめ」と言われています。

本願力が成就したすがたが「南無阿弥陀仏」の「名号」、「南無阿弥陀仏」を心に頂いたのが「信心」、そして「南無阿弥陀仏」が口に現れれば「念仏」です。ですから、「信心」といっても「南無阿弥陀仏」が届いたすがたに他なりません。「地獄の釜底に叩き堕とされ、そこから救われて大安心大満足」みたいな神秘的体験とは違うのです。「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」とか言った訳の分からない信心、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求める人は真宗の「信心」は分かりませんから、真宗の「信心」決定して報土往生を遂げたいと願う方はまず高森教を断捨離するところから始めましょう。


さて、本日は「真実の教行信証」とは何かを少しばかり伺いたいと思います。まず「真実の教」については

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。「教文類」

と教えられています。その『大無量寿経』の中でも最も大事なものは阿弥陀仏の本願であり、本願成就のすがたである仏の名号、南無阿弥陀仏が『大無量寿経』の本体であることを

ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。

と仰っています。ここは親鸞会でも似たようなことを教えていますが、「縦と横の線」などのオリジナル教義によってその後が悲惨なことになっています。そういえば以前、高森会長が三願転入(主に19願、『観無量寿経』の定散二善)を強調するあまり、「真実の教は『観無量寿経』なのではないか?」という疑問が会員から出てきたこともありました。

話を戻します。「真実の教」から開顕されるのが「真実の行」ですが、それについては、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
「行文類」

と教えられ、「真実の行」は「無碍光如来の名を称する」、念仏することだと仰っています。なぜ念仏を「大行」というのかと言えば、念仏は如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっているから「大行」であるというのです。それともう一つ、

しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。

とあるように第十七願で誓われたものであるからだというのです。煩悩具足の私の口で称えるのだけれども、それは諸仏が称讃し、称揚するのと徳を同じくする行である、だから「大行」なのだと仰せです。であるから、

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」

念仏によって「よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」というのです。このようなことですから、浄土真宗は「念仏一行」が当然なのです。「善をしなければ信仰は進みません」などという邪義は、浄土真宗をまともに学んでいれば出てきようがありません。

この「念仏」は「往相の回向を案ずるに、大行あり」ですから、阿弥陀仏より回向された行です。それは

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。「行文類」決釈

のお言葉によっても知られるでしょう。「自力の行」ではありません。称えた念仏に功徳があると思って、それを積み重ねて往生しようという行とは違うのです。しかし、同じく阿弥陀仏を合掌・礼拝し、念仏していても、その行だけ見ては自力の行か他力の行かが分かりません。自力の行か他力の行かによって報土に往けるかどうかが別れるのですから、念仏する際の称え心、信心は非常に重要な問題となってまいります。そこで親鸞聖人は「真実の信」を示すため、行から信を別に開いて、「信文類」を明らかにされたのでした。


その「真実の信」については、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。「信文類」

と仰っています。信心にしても「往相の回向を案ずるに、大信あり」ですから、行と同じで阿弥陀仏がお与えになるものです。凡夫が自力で起こす信心ではなく、阿弥陀仏より賜る浄らかなまことの信心であるから「大信」と言われています。

ところで、よく林遊さんがコメントを下さることですが、「信文類」については「教文類」「行文類」、また後に示す「証文類」と違って出体釈がありません。「教」は『大無量寿経』、「行」は称名、「証」は

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。「証文類」

とお示しように仏のさとりですが、「信」はものがらが無いのです。よく「信心獲得」とか「信心を頂く」と言われますが、「獲得」「頂く」と聞くと、獲得した、頂いた暁には何か確固とした、ハッキリした信念のようなもの、一種のさとりと言ってもいいかも知れません、そういうものが心にしっかりとすわる、定着するかのように思ってしまいます。ここで、体が無い、ものがらが無い、というのは、私達が現実に「物を貰う」ように「信心」という確固とした信念のようなものを頂くのではないということです。

矛盾するようですが、一応、「信」のものがらは有るには有ります。それが「行文類」で示されている「南無阿弥陀仏」の名号です。この六字を心に頂いたすがた、「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という本願招喚の勅命をそのまま聞き受けて、仰せの通り阿弥陀さまに後生おまかせしたすがたが「信」です。ですから、先ほど「行から信を別に開いて」と書いたように、「信」は「行」から出てきたんです。「信」単体というのはありません。南無阿弥陀仏」を離れた信心というものは無いんです。

南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり

と「行文類」で言われていたように、「南無阿弥陀仏」がすなわち「信心」です。それで蓮如上人は

信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。『御文章』5帖目13通

と仰せです。また、信心は「南無阿弥陀仏」を疑い無く聞き受けていることの他にはありませんから、祖師は

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。『一念多念証文』

ともお示しです。「念仏は信後報謝に限る」とか「念仏は信前も信後もお礼」などと軽視し、成就文から念仏を抜いてしまうような教えを真受けにしていては、真宗の「信心」はまず分かりません。更に、「善の勧め」なる教えを信じ込み、阿弥陀仏が選び捨てられた「諸善万行」をやっていかねば救いに遇えないと信じて「善もどきの善」に励んでいるのは、「行に迷ひ信に惑」っているすがたです。そして、

信心決定」=「絶対の幸福

として、「南無阿弥陀仏」と何の関係があるか分からないが、とにかくとてつもなく大きくて変わらない幸福感が心に満ち満ちたことを「信心」だと妄想しているのは、「金剛の真信に昏」いすがたです。「信心正因」だから、とにかく信心、信心と、念仏を抜きに信心を追い求める人を「信心乞食」と林遊さんは仰いますが、親鸞会の会員がまさにそうです。本願の仰せを聞き受けて「なんまんだぶ」する他に信心は無いことをよく知らなければならないと思います。


さて、このように「本願力の回向」、「念仏成仏」の教えを開かれたのが親鸞聖人であります。我々は阿弥陀仏の本願力によって往生の行信を与えられ、本願を信じ、念仏を申して、仏に成るのです。我々の方で用意するものは何もありません。往生の行信を獲るためにどこかまで進む必要もなければ、何か特別なことを知らされる必要もなければ、念仏以外の雑行に手出しする必要も毛頭ありません。逆にそれらを必要だと思う心を「自力」といい、「仏智疑惑」「疑情」「無明の闇」というのです。高森顕徹会長の教えは自力を助長させる教えであり、闇の教えであることがお分かりでしょう。

せっかくの阿弥陀さまの完璧な仕事を、私達の側でぶち壊すことはないのです。小賢しい智慧をはたらかせて我々の側で何か仕事があるように思い、すべて阿弥陀さまが完璧に仕上げて下さった仕事を台無しにしてはなりません。「お前を浄土に迎えて仏にする用意は整えたから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」と仰せられてありますから、私達は何の計らいも無く、阿弥陀さまの仰せに身も心もすっかりおまかせしてしまえばよいのです。これが、「如来の大悲回向の利益」を受けた念仏行者のすがたです。

高森教を信じている人、信じてきた人は特にですが、どうしてもオリジナル教義による先入観が強くて、何か自分の方でやらねばならないことがあるのではないかと考えがちです。闇の教えは中々根深いものです。私から阿弥陀仏に向かって救いを求めようという方向性で物事を捉えがちだと思いますが、真逆です。阿弥陀仏からすでに往生の行信を差し向けられているのですから、私としてはただ、「南無阿弥陀仏(助けるぞ)」の仰せを受けるのみです。どうか、「南無阿弥陀仏」の他に行も信も無いことを知って、本願の仰せを疑い無く信じ念仏して頂きたいと思います。

謹賀新年(2018年)

瞬く間に2017年も終わってしまいました。年を追うごとに時間の流れが加速している気がします。四方に同時に放たれた弓矢を一瞬で捕らえる男の足より命が終わるのは速いというお釈迦様の譬えはどうやら間違いないようです。残された命がどれだけあるかは分かりませんが、できるだけ無駄にせずに、そして心豊かに一日一日を生きていきたいと思います。今年もよろしくお願いします<(_ _)>



さて、本願を信じ念仏するようになってから、確かに宮田先生が仰るように私の中では「なぜ生きる」は大した問題ではなくなりました。

阿弥陀仏の救いは、「お前を浄土に往生させて、仏にする」ものです 。その身に救われたならば、「なぜ生きる」は大した問題ではなくなります。
映画「なぜ生きる」の感想(4)「なぜ生きる」は「親鸞聖人教え」と違うたった一つの理由より)

勿論、本願を信じ念仏を称え、浄土へ向かって生きる人生に転換された現在も様々な苦しみはあります。ただ親鸞会にいた頃は精神不安定だったこともあり、今よりずっと苦しみが深かったです。苦しみ痛みに弱く、おそらく他の人なら大した苦しみに思わないであろうことも大きな苦しみに感じてしまっていました。その中で毎週のように富山に通いながら仕事をしていくのは本当に辛かったです。毎朝、通勤途中に「俺は何のためにこんな苦しい中生きてるんだろう?」とか、「こんなに苦しくて、しかも後生の解決ができないのなら、いっそ今死んだ方がマシだ」とよく考えていました。それでも、

「(こんな苦しい人生)なぜ生きる?それは、阿弥陀仏に救われるためだ!」

という高森顕徹会長の教えに「そうだそうだ」と思い、何とか救われて永遠の幸福、絶対の幸福になり、一切の苦しみから解放されたいと一縷の望みを託して求めていました。ところが、いつの間にか「人生の目的」が

真の人生の目的を知ったとき、一切の苦しみ悩みも意味を持ち、それに向かって生きるとき、すべての努力は報われる(『なぜ生きる』p.365)

などと、苦しみに意味を与える方向で語られ、いつまでも後生の解決ができないことに対しては

人生の目的を知っただけでも大変なことだ

と慰めにならない慰めを言われ、

本当の人生の目的を達成したとき、一切の苦労は報われ、流した涙の一滴一滴が、真珠の玉となってその手に戻るのです。(『なぜ生きる』p.105)
阿弥陀仏に救われるための苦労ならば、全て意味があり、報われる。だから頑張れ!

とすり替わって、ますます組織拡大活動に駆り立てられるだけでした。


こうした高森顕徹会長、親鸞会の教えは、浄土真宗ではありません。後生助かるという事、私達が本願を信じ念仏を申して浄土に往生するという事は、私達の苦労や努力の成果ではないからです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。信文類

【現代語訳】
このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。

私がド真剣に聞いたから、苦しい求道に耐え抜いたから、どんな苦労や努力も惜しまなかったから往生の行信が獲られたのではありません。「すべて」阿弥陀仏が与えて下さったのです。これは、信後はそのことを知らされるが、信前は必死の求道聞法が必要だということでもありません。もし必要なら、「すべて」では無くなるからです。我々が本願を信じるのも、お念仏申すのも、浄土往生してこの上ないさとりを開くのも、「すべて」阿弥陀仏の回向によるものです。私としては計らいを捨ててこの道理を聞き、そのままお受けするのみです。

大体、私の真剣さとか、苦労、努力などが、後生の解決の一体何に役立ちますか? 何の役にも立たないでしょう? 私の行為が、信心を獲て浄土往生するのに何らかの役に立つと思っているのを「自力」というのです。そんな己のことなど打ち捨てて、阿弥陀さまがド真剣なはたらきぶりを聞かせて頂かなきゃなりません。こんな俺なんかを助けて浄土に迎え、最高のさとりを悟らせるためにどれほどのご苦労、ご辛労をされたのか。果てしない過去からどれだけ私の救いにかかりきりなのか。片時も休む間も無くはたらいて下さっておられる、その阿弥陀さまのド真剣を受けなきゃなりません。

ここの所を高森教では「高森先生のご苦労」「高森先生のご恩」とすり替えて組織拡大活動の促進剤としていますが、とんでもないことです。そんなものがあるとしても、それはあくまで

速やかに浄土往生して仏果を得る横超の直道を親鸞聖人が明らかにされた

点においてのみです。この、親鸞聖人の教えを知らせてくれた一点において、私は高森会長や親鸞会に感謝しています。ところが高森会長はその親鸞聖人の教えを正確に伝えず、己の私利私欲に会員を振り回しているだけですから、他は百害あって一利なしです。高森教を聞いて活動していても「阿弥陀仏のご辛労」に報いることにはなりません。あれをまともに聞いて信心獲得できる道理がないので、それを知らされた者として僅かでも「御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩」に報いるべく教義の誤りと浄土真宗の教えについて綴っています。

私は幸いにも阿弥陀さまの、真剣そのものの救済活動の只中にあることを知らされ、本願招喚の勅命を受けてお念仏申す身とさせて頂きましたが、今も気付かず組織拡大活動に勤しんでいたら、そしてその間にこの世の縁終わっていたらと思うとゾッとします。衆苦輪に繋縛せられて、またしても迷いを重ねる所だったのを、「間違わさぬぞ」「迷わせぬぞ」の仰せに迷いの絆を断ち切られたことは、慶びの中の慶びであります。私の人生、お念仏のこころを知り、お念仏申すための人生でした。


このように本願を信じ念仏申すようになってからは「なぜ生きる」だとか「人生の目的」は大した問題ではなくなりました。日々の生活の中で、勿論忙しいのもありますけど、本当にこういったことは考えなくなりました。相変わらず衆禍の波はやって来て、苦しみが深い時などは「何でこんなに苦しまないといけないんだ!」と苛立ったりもしますが、まぁこれは業の報いです。そう簡単に割り切れるものでもないですけど、受けてゆくより仕方ありません。

この世は業報の恐ろしさを知らされると同時に、永遠に迷いを断ち切って往生成仏させる本願力、また本願力に遇うための命でありすべてのものである、ということを分からせて頂く道場であるのかなと思ったりもします。今後どうなるかは分かりませんが、今日も命を恵まれた感謝、本願力に摂取され往生を一期として生かされているということを教えの光を受けて知らされつつ、命ある限り念仏を申して生きていきたいです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

ただ、この記事で取り上げた座間市の事件、小学生でも自死を選んでいる現実、高校の同級生が早くも一人欠けてしまったこと、祖母の死、祖父の体調不良などをきっかけに、子供であったり親兄弟、また縁のある人、生きる意味に悩んで苦しんでいる人に浄土真宗の法を伝えるといった場合には、「なぜ生きる」というか、生きる意味とその方向性、そして死んでゆく意味というのを自分の中で今一度しっかりと捉えておかねばならないと思いました。

別に周囲が悪いと言うつもりはないのですが、人生の何たるかについて教えてくれる人は、親も先生も、先輩も友人も、寺の坊主も含めて一人もありませんでした。どなたもどなたも、挨拶に礼儀、勉強に遊び、仕事に娯楽など、いわゆる「生き方」「どう生きる」ばかりで、それはそれで結構なことだけれども、肝心の「生きる」とはどういうことなのか、「生きる」ことにどんな意味があるのか、苦しいことがあってもなぜそこを耐えて生きていかなければならないのか、また「死ぬ」とはどういうことなのか、「死ぬ」ことにどんな意味があるのか、やがて必ず死んでゆくのに何のための人生なのか・・・、こういったことについては誰も教えてくれなかったです。誰か、こうした問題について明確に答えてくれる人はあったでしょうか? そして、あってもそれは自分が納得いくような答えだったでしょうか?

おそらく、満足する答えを教えてくれた人はほとんどいなかったのではないかと思います。このように生きることに無知であり、死ぬことにも無知であれば、決して自殺を選んでもおかしくはないし、「死にたい」「自殺したい」という声が世間に蔓延しているのも道理です。私自身もずーっと思っていたことです。

別にこのようなことを考えなくても生きてゆくことはできますが、それではハッキリ言って動物と一緒です。死ぬために生きているようなものです。毎日同じようなことを繰り返して、起きて糞して寝て食って、その内に子は親となり、また子が親となり、その間に趣味や娯楽で楽しくしていっても、我が身は年老いて、様々な病気にかかり、やがて必ず死んでゆくのです。死んでゆく時に、我が身に何が残るのか、有難い人生であったと満足して死んでゆけるのか、そして死ぬことも有難いことですと受け容れられるのか。

こう考えていきますと、生きる意味とその方向性、そして死んでゆく意味についてよく考えもしないで生きてゆくということは実に薄っぺらい人生だなとしみじみ思うのです。「生きる」「生きている」ということを当然と思っていたら、自分は今大変有難い状況にいるということは分かりません。「命がある」というのが当たり前なのですから、命を粗末にしてしまうのも当たり前となってしまいます。ところが私達は物心付いた頃から当たり前のようにこの世に存在しているわけで、教えてもらわなければ「命の大切さ」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」といったことはまず分かりません。

今回はこれまでと致しますが、これから、改めてこのようなことについて掘り下げていってみたいと思います。

今年一年ありがとうございました

今年も残すところあと2日です。近年はネットの普及で年末最後まで荷物が減らず大変ですが、今年は今までよりはずっとマシでした。今日で仕事納めなので何としても無事故で乗り切って、明日友人と美味い酒を酌み交わしたい、そして平和な正月を迎えたいものです。


今年はあさ川さんのブログでも紹介されている埼玉恵日会に行ってみたり、そこであさ川さん始め元会員の方々と知り合ったりしました。そこで聞いた阿部信幾先生の「おかげさまで」という話。最初は中々受け入れ難いものがありましたが、実際はその通りで、この体からして母親の一部を分け与えられたものですから何一つとして「おかげさまで」ないものは無かったのでした。

「なんまんだぶさせるぞ」のものすごい願力でこの世に生まれされられ、生かされ、願力の通りに本願を信じ念仏して浄土へ導かれている淳心房なのだなと思わされました。その「なんまんだぶ」を伝えて下されたお釈迦様始め高僧方、祖師聖人、蓮如上人、その他有名無名の教法伝持に携わった方々がいて下されたからこそ、今淳心房の元まで「なんまんだぶ」が届いたのだなと思うと、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳というものを少しなりとも知らせて頂きます。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

またそれには、私がここまで生きてこなければそうはなれなかったのですが、世界には餓死する子供、紛争に巻き込まれる子供、虐待やいじめによって死んでしまう子供、事件や事故に巻き込まれる子供もある中で、時に暖かく、時に厳しく育ててくれた両親、祖父母、学校の先生、近所の方々、友人、その他顔も名前も知らないような実に多くの方々の「おかげさまで」守られ生かされてきた命なのでした。

そして、私の血となり肉とするために食べてきたお米、肉、魚、野菜など、これらの食べ物や飲み物がなければまた今まで生きてくることはできませんでした。このようにどれ一つ取っても「おかげさまで」ないものなど無いことを知らせて頂くのですが、今まではつい当たり前のように捉えたり、苦しい時などは「何で生きなきゃいけないんだ」「生まれてこなければよかった」などと思ったりしてきました。もちろん一度聞いたからとて大転換するような私ではなく、これからも「おかげさまで」生かされ念仏させられている自分を見失う愚かさは簡単には変わらないでしょう。だからこそではないですけど、これからも法に触れて、御親の徳の尊さ、生きてるんじゃなく生かされている命であるということを聞いていきたいと思います。


それと、今年も当ブログをご覧になった方から色々とコメントやメールを頂きました。無事親鸞会を退会した方もおられて、うれしく思います。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説き与えずに、それとはおよそ無関係な組織拡大活動に駆り立てる親鸞会、またデタラメ創作教義を唱え続ける高森顕徹会長は本当に許せません。せっかくなんまんだぶするために生まれてきた命なのに、未だに迷っている方が多く見受けられます。親鸞会教義の誤りと、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を紹介すべく、これからも書いていきたいと思います。かつて共に活動した仲間達にも届いてほしいです。最低限、俺が死ぬか、会長が交代するまでは続けたいと思っていますんでよろしくです! なんまんだぶ、なんまんだぶ。

そんなこんなで、あまりまとまってはいませんが、今年一年ありがとうございました(^ω^)

生きる意味と死んでゆく意味

ご存知の方がほとんどでしょうが、神奈川県座間市で起きた9人連続殺人事件について、連日ニュースで報道されています。詳しくは、

座間9人連続殺人事件

や、そのリンク先をご覧下さい。

容疑者の男はTwitter上で3つのアカウントを使い分け、自殺願望のある女性を次々と誘い出しては殺害していたようです。この事件をきっかけにTwitterでは規制をかけるとか、またテレビでは討論にて「(加害者と)会わなければいいということをよく教えなければならない」といったようなことを話していたりとか、とにかく

このような殺人事件を防ぐにはどうしたらいいか

ばかりが問題になっていることが気にかかりました。


どうして被害女性達が容疑者の男と会ったかというと、少なからず自殺願望があったからです。容疑者の供述によれば『実際に会ってみると、本気では死ぬ気がない人たちだった』らしいですが、「死にたい」「自殺したい」と考えていたのも事実のようです。その理由や頻度、程度は人によって様々ですが、要は

・生きていくのがつらい
・将来に希望が見出せない
・自分は誰からも必要とされていないと感じる
・自分なんかが生きていても迷惑をかけるだけだ
・何のために生きていくのか、生きる意味が分からない
・今の苦しみに耐えて生きていかなくてはならない理由が分からない
・そうやって生きていっても最後は死んでいかねばならない
・ならば苦しみ続けて死ぬのも、今死ぬのも同じこと
・むしろ今死んだ方がこれからの苦しみが無い分マシ

などの思いがあったからでしょう。無かったら自殺サイトはまず見ないだろうし、「死にたい」「自殺したい」などと書き込まないと思います。まして今回の殺人事件の容疑者と接触するなど有り得ないです。

では、どうして被害女性達は周囲の身近な人ではなく、そういった自殺サイト等にアクセスし、面識の無いサイトの人達と交流していたのでしょうか。私として考えられる理由は、自殺を考えていないと思われる周囲の身近な人に相談してもどうせ分かってもらえない、何とかなるさ的なことを言われて終わり、または相手に心配をかけて迷惑だろう、周囲が異様に騒いで多くの人に知れ渡りもっと面倒なことになって疲れるだけだから、などが思い浮かびます。相談しても根本的な解決、自分の探し求めている答えを指し示してはくれないだろうというのが大きいと考えられます。少なくとも私はかつてこのように考えて、親や周囲へ相談するのを止めました。

ならば、自分と同じように自殺を考えている人と交流した方がよいだろう、少なくとも考えていない人よりはこの苦しみが分かってもらえるだろう、少しは楽になれるかもしれない、何か変われるかもしれないと書き込みを始めたのではないかと思われます。「死にたい」「自殺したい」というのは本当の気持ちでもあるが、そういった人達の多くはそのようにつぶやき、気持ちを吐露することで何とか生き続けているのだというのです。これは言われて「なるほどな」と思いました。ところが、そんな中で今回の被害女性達は容疑者と接触し、実際に死ぬつもりは無かったのだけれども殺害されるに至ったのでしょう。


このような事件が起きるたびに、社会では様々な対策を施しますが、どれも先ほど述べた

このような殺人事件を防ぐにはどうしたらいいか

という対策に終始しています。確かにこれも大事です。でも、親鸞会じゃないですけど、肝心の

なぜ自殺をしてはいけないのか
苦しくても生きる意味は何なのか

といった根本的な部分に踏み込んで、それをしっかり教えるということがなされないのです。被害女性達が悩んだのはこれでしょう? 生きていくとはどういうことなのか、死ぬとはどういうことなのか、そこにどんな意味があるのか。こんな大事なことを誰も教えてくれません。家庭でも学校でも職場でも、国会でも報道でも交流サイトでも、問題にするのは「生きる手段」「生き方」ばかりで、そうやって生きていくのは何のためという「生きる目的」「生きる意味」については完全に抜けていると言っていい位取り沙汰されません。色々間違ってはいましたが、私にこのことを教えてくれたのは高森会長や親鸞会の会員だけでした。

こうして火の粉ばかり問題にして、火の元は手付かずですから、日本の年間自殺者は30000人を切っても依然として20000人以上と多くの人が1年の内に自ら命を断っています。それも国の統計上ですから、実際の数字はその5倍とも10倍とも言われています。これに自殺願望がある人を足したら何百万人という数字になるでしょう。それだけ多くの人が苦しみ悩み、実際に死んでいるというのに、肝心の問題が野放し同然では解決できる道理がありません。

ところが、この「生きる目的」「生きる意味」については政治や経済、科学や医学、芸術やスポーツ、仕事や娯楽、趣味や生きがいといった分野では答えがありません。これらは、「生きる手段」「生き方」を論じているものだからです。「生きる目的」「生きる意味」について扱っているのは哲学や宗教です。当ブログは浄土真宗親鸞聖人の教えに帰依し、念仏者となった私淳心房が管理し綴っているものです。もしここまで読んで「なんだ宗教か」と思われた方、浄土真宗の教えに関心の無い方は静かにご退散下さい。




さて、続きを書きます。この人生の根本的な問題について、親鸞聖人は一つの答えを示されています。

この世は本願を信じ念仏を申して「必ず浄土に往生する方々の仲間入り」を果たす。そして命の限り念仏を申して、死ぬと同時に浄土に往生し一切の迷いを離れ、この上ないさとりを開く。

と。この世は、いつ何がどうなるとも分からない不安定な世界です。そこに、煩悩に目鼻をつけたような人間が暮らしていますから、何一つ取っても変わらないもの、確かなもの、いわゆる真実、「まこと」というものはありません。ということは、本当にたよりになるものがないということです。全てはいつか壊れるもの、変わるもの、私から離れてゆくもの、裏切るもので、「これだけは大丈夫」という本当に信じられるものが何もないということです。すべては空事であり、たわごとであり、「まこと」は無いと言われています。

そういった「まこと」と呼べるものが一つもない世の中で、安心して暮らしていける道理がありません。また、煩悩には際限がありませんから、これで満足といったこともないのです。そして私達は、刻一刻と死に向かって生きています。やがて、当たり前に見えていたものが見えなくなり、動いていた体が動かなくなり、愛する全ての人、物とさよならしていかねばなりません。死出の旅路に連れはありません。一緒に心中しても、その後は独り、独りです。「肉体の連れ」はいても「魂の連れ」がいないのです。その上に、その行先が真っ暗がり。死んだ後は有るのか無いのか、有るとしてもどんな世界なのか、どうなっているのかサッパリ分かりません。

たいていの人はこうした人間の浮生なるすがたを見ないか、見ても見ぬふりをして、ただ毎日を過ごしていることと思います。忙しい人なんかは見ている余裕がないですからね。ただ、そうやって人間のすがたを見ないで一生を過ごし、全てを置いてこの世を去り、何も分からない世界に飛び込んでゆくことに本当の安心や満足、幸福があるはずがありません。

そんな中で親鸞聖人は生きることだけではなく、死んでいくということにも意味があると教えて下さっています。それは、この迷いの世が迷いの世であることに気付いてそこから離れ、真の安らぎ、真の楽しみを得るためだと。そのために阿弥陀さまに願われ、この世に生まれた尊い命である。また、死ぬことはただ命が終わるのではなく、無に帰すということでもない。浄土に生まれるということだというのです。阿弥陀さまは、

お前は私の独り子だ。やっと探し出せた。お前を迎えるために浄土を建立したのだよ。お前が来てくれなかったらその甲斐がない。お前は決して独りじゃないんだよ。「誰もこの苦しみを分かってもらえまい」と思っているかも知れないが、私はよーく知っている。どうか我が名を聞いて称えておくれ。必ずお前を浄土へ連れてゆくから、どうか私にまかせておくれ。

と喚んでおられる、それが「南無阿弥陀仏」の六字のこころだというのです。「南無阿弥陀仏」と口に称える念仏は、単なるまじないでも気休めでも、あるいは助かりたいと祈願請求してのものでもない。「助けるからまかせてくれ」という大悲の喚び声であり、その大悲を受け容れた姿が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」という念仏なのです。そしてそのような念仏者は「必ず浄土に往生する方々」の仲間入りをし、死んだ暁には浄土に往生してこの上ないさとりを開き、真の安らぎ、真の楽しみを得るというのです。


この世にまことはありません。あるのは、「南無阿弥陀仏」という念仏のみです。このただ一つのまことを教えているのが浄土真宗です。関心がある方は、ネットや電話で法話日程を確認して参詣したり、書籍を読んだり、ネットでの法話を聞いたりしてみて頂きたいと思います。例えば、

『浄土真宗本願寺派』ご法話 生きる意味
『武庫之荘 寺院 浄土真宗本願寺派 真光寺』生きる意味と死ぬ意味

等、「生きる意味」についてはこのような記述があります。何とも走り書き感が否めませんが、この記事ではここまでとしたいと思います。

ただし「浄土真宗親鸞会」には気をつけて下さい。これは親鸞聖人の教えではないので、念のため。



【参考文献】
『Wikipedia』日本の自殺

宇宙から見たら塵のような地球、そのまた塵のような存在である私に南無阿弥陀仏が至り届いているという不思議

先日愛知県へ旅行に行ったことをこの記事で書きましたが、今回はラグーナビーチを歩きながら考えたもう一つのことを書きます。

その日の朝、私は長女と三女を連れて歩いていた(三女は抱っこの状態)のですが、やがて三女は寝てしまいました。長女は長い木か竹の棒を見つけて波打ち際でお絵かきを始めたので、三女の睡眠時間確保のために私はしばし別行動をとり、少し離れた海岸線の先へと向かいました。

普段のせわしない日常から離れ、ゆっくりと時間が流れているようでした。視界を遮るものはなく、沖に目をやれば水平線が見え、山に目をやれば広大な自然が広がっており、周囲に人間は私達家族を含めて5、6人しか見当たりません。何て広いんだ・・・。都会で生活していると、実にせせこましい所で毎日同じことの繰り返しで生きているため、すごく新鮮な気分でした。そして、この小さい体と頭で普段俺は一体何をやっているんだと思わされました。

こんな広い世界で、俺一人居ても居なくても何も変わらないし、一生の間でやることなど実にちっぽけなことだ。俺が死んで何十年、何百年と経ってしまえば、俺という人間がこの地球に存在していたことすら誰も知らなくなるだろう。道路には沢山のトラックが走っていて、俺もいつもは似たようなことをやっているが、遠くから見るとあんなちっぽけに見えるのか・・・。この広い海や山に比べたら、何て小さいんだ・・・。これが宇宙から見たならば地球なんて塵のような小ささで、星ごと一つ消滅したところで何の変化もないのではなかろうか。海や山と比べたってこんなにちっぽけだというのに、まして宇宙と比べてしまったら、俺は何て小さな存在なんだ・・・。

このように考えた時、藤村操の「巌頭之感」が頭をよぎりました。

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。


こう書き残して自殺した藤村操の心中は分からんでもありません。わずか50年乃至100年の人生、わずか五尺の躰でこの広い世界に挑戦しようというのですから、無謀もいいところです。一生の間で分かることなどホンのごく一部に過ぎず、ほとんど何も分からんまんま生き、ほとんど何も分からんまんま死んでいくのです。自分一人でできること、残るものなんて無いに等しいです。子供が海辺に書いた絵と同じで、自分が残した足跡は消えてしまいます。ならば今死ぬのも、この先苦労して、世界のほんのちょっとのことを勉強して理解して、ほんのちょっと人の役に立って、ほんのちょっと周りに迷惑をかけて、ほんのちょっとの足跡を残して死ぬのも、何も変わらないのではないか。どうせ俺という存在さえ遠くない将来にこの世から抹殺されてしまうのだ。そうならば、苦労しない分今死んだ方がマシではないか。

このように考えを巡らしますと、自殺者が絶えないというのも理解できます。実際私も思うようにならない現実にもがき苦しみ、人生苦を感じて自殺したいと思っていた口ですので。


ただ、今は自殺をしなくて良かったと思えます。つらかったけど、苦しかったけど、毎日死にたいと思っていたけど、南無阿弥陀仏が私に至り届いていると知ることができましたから。いつ何が起こるか分からない、あっという間に生きて死んでいくこの世界で、ただ一つのまことに遇えたことは喜びの中の喜びです。死に際しては何一つたよりにならず、死出の山路、三途の大河をただ一人逝かねばならないというのに。苦しみから苦しみの綱渡りで、死んでも我が業苦で責め立てられて安らぎなどないというのに。その私を浄土へ連れていって仏にするというのですから、南無阿弥陀仏にはいかなる淳心房も頭が下がります。

宇宙から見たら塵のような地球、そのまた塵のような存在である私に南無阿弥陀仏が至り届いているという不思議。名声聞十方と重ねて誓われた阿弥陀仏の本願はまことでした。その願成就して南無阿弥陀仏と成って私にはたらいていることを知らせて頂けました。噓偽りだらけ、無常のものしかないこの世の中で、「ただ念仏のみぞまこと」と仰った親鸞聖人のお言葉は本当だなぁ、南無阿弥陀仏しかまことにたよりになるものはないなぁと思わされます。この偉大なる選択本願念仏の御法によくぞ遇うことができました。そしてそれを信じ奉り念仏しているのは、不思議の中の不思議。本当に良かったです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

ただ「難度海を度する大船」の絵を眺めていただけだったあの頃

先日、家族旅行で愛知県のラグナシアというテーマパークへ行ってきました。前日はそこへ隣接している変なホテルに泊まったのですが、長女は随分気に入ったようでした(次女は受付のでかい恐竜にビビッてましたが・・・(;'∀'))。3歳~10歳位の小さい子供がいるご家庭にはお勧めです(^ω^)

朝食を終え、開園時間まで随分あったので、私は長女と三女を連れて近くの海岸へと向かったのですが、内海とは言え久々に見る海の大きさに、改めて人間の小ささを知らされました。

ふいに遠くの方へ眼をやると、大きなタンカーのような船が見えました。それが、かつて親鸞会で説法のたびによく目にしていた「難度海を度する大船」によく似ていたので懐かしく思われました。しかしあの頃は

難度海を度する大船があるぞ~!
早くこの船に乗れよ~!


といくら言われても、大船がどこにあるのかも分からず、ただ「難度海を度する大船」の絵を眺めていただけでした。私と「難度海を度する大船」の間には随分と距離があるように感じ、その距離感は聞き始めた当初から退会まで変わりませんでした。ただ黒板に書かれる大船の絵を眺めては、「早く乗せて頂きたい。どうすればあの船に乗れるのか・・・」ともがいていたことを思い出します。

このように、かつての私と同じくただ「難度海を度する大船」の絵を遠くに眺めているだけで、私と大船の距離感は聞き始めから現在に至るまで変化がないという会員さんはいませんか? いらっしゃるとしたら、どうしてだと思いますか? 親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」だということは耳タコと思いますが、これを高森顕徹会長は

人生の目的が現在に完成する

ことだとしています。ということは、

「難度海を度する大船」に現在乗せて頂ける

ということです。しかし現実としては、何年、何十年求めても一向に大船に乗ることができない。大船に近づいているのかも全く分からないし、もうすぐ乗れるかもしれないという兆しも全く無い。どうしてでしょうか?

それは、求める方向性というか、ベクトルが逆だからと言えると思います。皆さんは、かつての私同様、

「早く乗せて頂きたい。どうすれば・・・」

と考えて、そのために推進される様々な活動に取り組み、それによって横の道を進んで大船に近づいていると思っていると思います。逆に現在の活動と、大船に乗ることが無関係なら、今のようには一生懸命取り組まないと思います。私が救われるべき地点まで到達しなければと思い、破邪顕正(勧誘)や財施(献金)をすることでそこへ近づき、やがてたどり着けるかのように思っているでしょう? これが大間違いなんです。

浄土真宗の信心は「本願力回向の信心」と言われるように、「如来の加威力」によって一方的に恵み与えられる信心です。それを、こちらから掴みにかかっているんですから、素直にお受けできる道理がありません。こちらの掴もう、助かろう、何とかなろうという力みを捨てて、あちら(阿弥陀)様の仰せを受けないことには信心も安心もないのです。

また、信心、信心と言われるものの、肝心の信心の内容を間違って教えられていることも原因の一つと考えられます。他力の信心をとるといっても、それは「ただ南無阿弥陀仏」なのです。

さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(御文章3帖目2通)

「我をたのめ、必ず助けるぞ」の六字のこころを信受したのが「信心」、それが口に出たのが「念仏」ですから、蓮如上人の仰る「ただ南無阿弥陀仏」は

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第二条)

の「ただ念仏」と全く同じです。名号で語るか、念仏で語るかの違いのみで、南無阿弥陀仏の他に信心も安心もありません。ところが親鸞会では二種深信を誤解して、

地獄一定と極楽一定が同時にハッキリすることだ

などと訳の分からない説明をしています。また、映画『なぜ生きる』を盲信していると、

苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わったのが他力の信心だ

と思ってしまうでしょう。このように、南無阿弥陀仏、念仏と全く関係ない信心を教えられますから、そんな教えを聞く会員の皆さんが親鸞聖人の教えられる「信心」を獲られないのも道理です。


根機つたなしとて卑下すべからず、仏に下根をすくふ大悲あり。行業おろそかなりとて疑ふべからず、『経』(大経・下)に「乃至一念」の文あり。仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆゑに臨終にふたたび名号をとなへずとも、往生をとぐべきこと勿論なり。(執持鈔)

覚如上人も仰せのように、「本願の名号」が「正定業」であり、それは「弥陀の名願力を称念す」ること、「本願の名号を持念す」ること、つまり「ただ念仏して」です。で、念仏するその信心はというと、「本願あにあやまりあらんや」、本願を聞いて疑いない信心です。本願、また本願が成就したすがたである南無阿弥陀仏の名号を聞くことの他に信心はありません。その「本願の名号」と無関係な信心の説明を聞いていて、「本願の名号」を信受できる方がおかしいというものです。

一部『教学聖典』に出ているお言葉も混じっていますが、会員の皆さんはお聖教に取り組もうとしないので、覚如上人の仰る意味がまるで分かっていないと伺えます。まぁ私も当初はそうでした(今も知らないことだらけで勉強中ですけど・・・)から当然と言えば当然です。知らないなら知らないで知ったかぶりをせず、知らなかった自分を反省して覚えればいい話です。

このように平生本願の名号を聞き受け念仏すれば、その時往生の業事は成弁し、臨終に再び念仏を称えなくても往生を遂げるであろうことは勿論です。死の縁無量ですから、どのような死に方をするか分かりません。念仏を称える間もなく、あっという間に死んでしまうかもしれません。凶弾に倒れたり、溺れ死んだり、焼け死んだり、病気に苦しみ悶えて死んだり、あるいは寝ている間に死んだりして、臨終に念仏する余裕もないかも知れません。しかし、どのような臨終を迎えるにせよ、臨終の有様と往生は無関係であることをこの段では教えられているのです。そして最後のお言葉が、

本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし。

です。「本願を信じ念仏せよ」、これ以外に往生のみちは無いのです。逆にこれ以外の道を示してそこへ聞く者を誘導し、獲信・往生と無関係な組織拡大活動をやらせて私利私欲を満たしているのが高森顕徹会長です。

もし会員の皆さんが「難度海を度する大船」「大悲の願船」に乗せて頂きたいと願うなら、間違った教えを説く知識から離れて本物の真宗に遇い、本願を疑い無く聞き受けて念仏する他にありません。週末には親鸞会で報恩講が営まれますが、如来聖人のご恩に報いようとするならどうするべきか、よく考えて頂きたいと思います。

如来の本願をたよりとし、本願の仰せに安心する

私達凡夫の上には、「これで大丈夫」と安心することはありません。さりとて、「こんなことで大丈夫なのか」と不安になる必要もありません。私達はあくまで、如来の本願をたよりとし、本願の仰せに安心するのです。死んで極楽へお連れ下さるのか、はたまた地獄に堕ちるのかは、阿弥陀さまがお決めになることです。私としては、「我にまかせよ、必ず助けるぞ」との力強い真実の御言葉をそのまま信楽し念仏するのみです。たとえその教えが偽りで地獄へ堕ちるようなことがあっても、私の力でそれ(地獄行き)が変わるようなことはありませんし、師と共に堕ちるのですから孤独ではありません。

・たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。
そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
(執持鈔)

・たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 (歎異抄第二条)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

「信心」と言っても「本願の名号をきく」ことの他にはない、南無阿弥陀仏の他にはない、「我にまかせよ、必ず救う」という大悲招喚の勅命をただ聞き受けるのみ

本願文は、成就文を介することでより一層明らかになります。成就文について親鸞聖人は、

『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。

「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。

また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。
一念多念証文

とお示しです。今回はこの御文を通して浄土真宗を伺っていきたいと思います。


諸有衆生」は本願文の「十方衆生」と同じく「十方のよろづの衆生」と仰せです。ですが、これは他の誰でもない「この私」と受け取るべきでしょう。「この私」を除いて本願はありません。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

聞其名号」とは、本願成就文の直前、第十七願成就文で説かれている本願の名号を聞くということです。

十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。

全ての世界の数限りない仏方は、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできない勝れた功徳を褒め称えておいでだというのです。その勝れた功徳である本願の名号、南無阿弥陀仏を聞くのですが、これは本願を聞いて疑う心が無い、我が胸に持ち替えずにそのまま聞き受けていることを「本願の名号をきく」と言われています。そして、そのように疑い無く聞き受けていることを「信心」というのだと仰せです。このことは後の、

「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

の語でも知られるでしょう。ですから、「信心」と言っても「本願の名号をきく」ことの他にはない、南無阿弥陀仏の他にはない、「我にまかせよ、必ず救う」という大悲招喚の勅命をただ聞き受けるのみだということが分かると思います。またこの「信心」は、

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。(尊号真像銘文)

とあるように本願文の「信楽」と全く同じです。ただ、本願文では「どうしたら信楽の心になれるのか」「本願の何を聞くのか」が不明だったのが、成就文を介しますと

十方諸仏が褒め称える南無阿弥陀仏の名号を聞いて信心歓喜乃至一念する

ことが明らかになります。十七願で誓われた通りの名号が既に南無阿弥陀仏と仕上がって、私を救うとはたらいているぞと聞いたなら、私の「どうしたら」「こうしたら」といった計らいは無用であり、そのまま南無阿弥陀仏におまかせとなるのです。そのように疑い無く慮り無く彼の願力に乗じたのを本願文では「信楽」、成就文では「信心」とお示しなのであります。


ところで、高森会長は信心について

地獄一定と極楽一定の二つの心がハッキリしたことだ

などと訳の分からない説明をし、「ハッキリするまで求め抜け」と言っては「本願の名号をきく」こととは無関係の組織拡大活動を会員にやらせています。会員の皆さんは信一念とそれまでとを分ける教えによってそれで納得してしまっているのかも知れませんが、早く気付いて南無阿弥陀仏とは無関係の活動から脱しない限り「本願の名号をきく」ことはできません。教義上からしても雑行をやりまくっている者が真実信心を獲られる道理がないからです。その雑行以前の善もどきの善に執心してこれを修め、しかも「本願の報土」に生まれようというのではなく「絶対の幸福」「幸せな人生にガラリと変わる」といった「夢・幻のような現世の幸せ」を追い求めている者が真実信心を獲て念仏するなど夢のまた夢です。


さて、話を戻しますが、次に聖人は

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。

と仰っています。これも誤解しやすいところですが、問題は何を「歓喜」するのかです。

「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり

ここだけ読んで、とにかく身も心も喜びに満ち溢れるのだ、そうでなければ信心ではないと思う会員の皆さんがほとんどと思いますが、そうではありません。それは「うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころ」とあるように、必ず往生するであろうということです。「うべきこと」とは往生のこと、それを「えてんず」、きっと得るであろうと、かねてさきより喜ぶ心です。往生するという未来の果を今から待っている喜びということです。浄土往生が約束された喜びということです。

浄土往生が約束されたというのはどれほど素晴らしいことかをこの記事でも少し書きましたが、しかし私達の腐った性根は、法をお聞かせ頂いている時は往生すべき身と定まったことを喜んでおっても、ちょっとつまらないことがあればその喜びはどこへやら。法話を聞いた帰りに知らない人と肩がぶつかって、相手に罵声を浴びせられでもしたらどうですか? また、変わらず健康に留意し、事故や怪我や病気に気をつけて生きているのも死にたくないからです。死ねば安楽浄土ですよ? ところがそれがちっとも恋しくない、迷いの世であるこの苦悩の旧里がいいとしがみついているのが自分というやつです。そして、目先の五欲を満たすことに夢中というどうしようもないやつです。

このようなことですから、私達の心持ちで「喜びが多いから往生一定」と決まるのでもなければ、「喜びがちっともないから往生不定」と決まるのでもありません。我々のコロコロの心は何のあてにもなりません。われらが往生の定まりたる証拠はあくまで本願が成就して仕上がったいまの南無阿弥陀仏であります。

死ぬと同時に浄土往生というこの上ない証果が約束されてもちっとも喜ぶ心のない、そんな煩悩具足の凡夫と知り抜いて、そんな者を助けるという阿弥陀仏の仰せをお聞かせ頂く度に、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と思い知らされます。

本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし
(高僧和讃 天親讃)

本願力に遇えてよかったです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。(つづく)

大丈夫です。絶対後生助かります。

南無阿弥陀仏。字にすればたった六字であり、それを口に称えるという至って易しい行なのに、どうしてただそれだけのことで浄土往生という証が得られると言われるのでしょうか。その答えが善導大師の

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。『観経疏 散善義』称名正定業

であります。法然聖人は承安5年(1175年)43歳の時、様々な修行や学問、読経の末にこの御文に出会われ、ご自身は勿論、人々の救われる道は専修念仏によるしかないと感得し、それから比叡山を下りて東山吉水に移り住み、念仏の教えを弘めてゆかれました。それで浄土宗ではこの年が立教開宗の年であると言われています。法然聖人は善導大師のこの御文を『選択本願念仏集』にて引かれています。

阿弥陀仏はその本願において、念仏一行を本願の行として選び択られたことを次のように教えられています。

もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。難易義

もし仏像を造り、塔寺を建てる者を助けるという本願であれば、金持ちしか助かりません。もし賢く智慧すぐれた者を助けるという本願であれば、愚かで智慧の劣った者は助かりません。もし仏の教えを多く見聞して学問がある者を助けるという本願であれば、学問がない者は助かりません。もし戒律を守って犯さない者を助けるという本願であれば、戒律を守れない者は助かりません。それで阿弥陀仏は法蔵菩薩であった昔、様々な行を選んでは「これではダメだ」と捨て、また選んでは「これでもダメだ」と捨てて、そして最終的に我が名を称える者を助けようと余の一切の難行諸行を選び捨て、至って易くしかも最も勝れた行である称名念仏を本願の行として選び択り、本願をお建て下さったというのです。

念仏を称えるというのは至って簡単なことで、3歳の子供でも称えることができます。うちの末っ子はまだ1歳なのでちょっと難しいですが、4歳の次女であれば「なんまんだぶなんまんだぶ」と簡単に称えることができます。しかも念仏を称えるのはその行に心身共に集中しなければならないという制限はなく、立っていても座っていても臥していても、止まっている時も動いている時も、仕事や家事、子育てをしている合間にでも称えることができます。とても保ちやすい行です。

ただ、どうしてそれだけのことで浄土往生の証果を得られるのかということが問題でした。仏教では教があって、行があって、その行に応じた証(さとり)を得るというのが常識ですが、ただそれだけのことで十悪五逆の悪人でも浄土往生というのですから、到底考えられないことです。法然聖人も天台宗で学ばれていましたので、『観無量寿経』下品下生の往生はご存知だったかと思いますが、その理由が分からなかったのでしょう。

そして辿り着いたのが先の善導大師の御文です。そこには、本願の行である念仏を称えるということは、「彼の仏願に順ずるが故に」、だから往生できるのだと教えられています。だから、一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるは、これを正しく浄土往生が決定する行業、正定業と名づけるのだと言われています。私が称えるから往生するのではなく、阿弥陀仏が「称える者を往生させる」と誓われているから往生するのだというのです。


阿弥陀仏は、この淳心房を仏にせずば、我も正覚ならじと誓われ、今はその本願が成就して南無阿弥陀仏と成りましまして私にはたらいております。こうした本願が既に成就してはたらいて下さっているからこそ、私の計らいや様々な方法論は無用なのであり、この本願力に乗じて間違いなく往生を得るのであります。だから、こうした本願のいわれを信じて念仏すれば、皆人が必ず後生助かります。淳心房の言葉など何のあてにもなりませんが、阿弥陀仏が真実の御言葉で誓われ、そしてそれが成就されたことを釈尊をはじめ十方諸仏が証誠されていますから大丈夫です。安心して下さい。必ず後生助かります。ですから、安心して阿弥陀さまに後生まかせて下さい。阿弥陀仏は決してあなたを救うことをあきらめません。だからあなたもどうか「俺(私)みたいな者はどうせ・・・」とあきらめないで下さい。

その上での私の心の有り様は問題ではありません。喜びが有るとか無いとか、多いとか少ないとか、そういった私の心で往生が決定しているかどうかが決まるのではありません。私の心など次の瞬間には変化するもので、何のあてにもなりません。往生の定まりたる証拠はあくまで南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為本。まことに私に相応したありがたい教えです。なんまんだぶ、なんまんだぶ。
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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