せっかく目の前に届いていても、受け取る側が拒否していたら受け取ることはできません

もはや日本人の4人に1人は65歳以上という超高齢社会です。それでいて、この先はどうか知りませんが今の高齢者はそこそこ財力もありますから、テレビやラジオ、ネット等の通販のよいカモになっています。若い人達は在宅率が低く、中々連絡を入れてこない、連絡を入れてきてもすっぽかし率も高いのが問題ですが、高齢者は注文したことを忘れている、何を注文したか覚えていないことが多いというのが問題です。

何も高齢者に限らずですが、よく「中身は何ですか?」と聞いてくる人があります。これ実は困る質問なんです。記事欄や外装に明記してあれば答えられますが、書いてなければ答えられません。自分が梱包したわけではないので、配達員は何でも知っているだろうという思い込みは止めてもらいたいものです。中には「爆弾でも入っているんじゃない?」みたいなことを言われたこともありますが、アホかと思います。爆弾なら、もう輸送中の衝撃か何かでとっくに爆発してるわ。命狙われる悪い行いでもしてるんですかね? また代引きで中身が何なのか分からないから支払えないとか平気で言ってくる人もいますが、頼まないものが代引きで来るかよ? あんたの蒔かない種は生えないだよって感じです。

こちとら熱中症の危険も覚悟して、連日の真夏日・猛暑日の中をフラフラになりながら荷物を届けに回っているというのに、何を頼んだのか忘れているなんて言語道断です。せっかく目の前に届いていても、受け取る側が拒否していたら受け取ることはできません。また、そこまで届けようとしてきた配達員はじめ全ての関係者の苦労が水の泡です。自分で頼んだものくらい、メモって冷蔵庫などに貼るか、スマホなどに記録しておいてもらいたいものです。後で、やっぱり頼んだものだから受け取りたいとか平気で言ってくる人もありますが、本当に止めてもらいたいです。


同じように、阿弥陀仏は五劫永劫の願行を成就して南無阿弥陀仏となりましましたのに、これを受け取る側が拒否していたら受け取ることはできません。もう届いているのに、疑ったり計らったり、余計な詮索や先入観から方法論に走ったり、拒否しているつもりはなくてもそうやって撥ね付けていたらそれは拒否しているのと同じことです。そうやって自分の殻に閉じこもって本願を聞かないようでは、せっかくの阿弥陀仏の御身労も、釈尊や師主知識方の骨折りも、その他有名無名の仏法を伝えて下された方々の苦労も台無しです。

一体どれだけ多くの有情非情の「おかげさまで」こうして生きて弥陀の本願をお聞きし、念仏申しているのか分かりません。どうか余計な詮索や先入観を交えることなく、我が胸に持ち替えるでもなく、「助けるぞ」の仰せを仰せのままに聞き受け念仏して頂きたいものです。どっかのジジババよろしく受取拒否しないで受けて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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「私に間違いなく本願力が届いているかどうか、それを受け容れているかどうか」が大事

私は日常、荷物を渡す際にお客さんに伝票に押印やサインを求めます。中には印をどこに押せばいいかとか、印の向きとか、サインの場合は字のきれいさ等を気にする方あります。質問されれば「ここです」とか答えはしますが、別にどこに押してあろうが、逆を向いていようが、ミミズが這ったような字であろうが心配ありません。大事なのは、

本人に間違いなく荷物が届いているかどうか、本人が荷物を受け取ったかどうか

です。伝票の押印やサインはあくまで会社の都合、受け取る側にとっては重要ではありません。また伝票は本人宛てのものであっても、荷物が別人宛てであったら大変です。なので受け取る側は伝票ではなく、荷札の住所氏名で確認する必要があります。まぁ、それが合っていて中身が違っていたりしたら、それは配達する側の責任ではないので悪しからず・・・。



さて、煩悩にまみれ、深い罪業を抱えて、生死流転を際限なく繰り返して迷い苦しみ続ける私達を「むねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけ」がいまします。本願がすでに成就して阿弥陀と成っているということは、私を救う本願力が私にはたらいているということです。私はいま、ここで本願をお聞きし、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく心得て念仏するのみです。大事なのは、

私に間違いなく本願力が届いているかどうか、それを受け容れているかどうか

です。まぁ前者は、本願がすで成就しているのでよいのですが、問題は後者、我々の側がこれをそのまま、素直に受け容れているかどうかです。「そんなうまい話があるかい」「自分には関係ない」と否定するのは勿論、「そんな本願があるんだぁ、ふーん」と絵空事のように眺めていたり、「本願に救われるにはどう聞けばいいのか、どうすればいいのか」と方法論に迷ったりするのも、本願力がはたらいていながらこれを受け容れず、撥ね付けている姿です。

同じく念仏していても、南無阿弥陀仏のいわれを了せず、それでいて自分の善根と捉えて助かろうというのであればそれは「おぼつかなきこと」です。また、信心があってもお念仏しないのはその甲斐がないと仰せられています。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

信心の内容は南無阿弥陀仏のいわれであり、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」ということですから、信心と念仏は不離の関係であります。他力の信心とは、「ただ南無阿弥陀仏」です。最後に、御文章のお言葉より南無阿弥陀仏のいわれを伺いたいと思います。

ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。
(3帖目2通)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

この世に生まれ、生きていることは決して当たり前ではない

最近激しく暑いですね(;^ω^) 真夏日は当たり前、35℃以上の猛暑を観測する地点もチラホラという有様です。日本の場合は多湿というのもあってエジプトやインドとは質の違う暑さです。健康体の私でも相当こたえていますから、体の弱い方、子供や年配の方は特に気をつけて頂きたいものです。水と塩はセットで摂り、エアコン等を利用して熱中症対策をしましょう。よく電気代がかかるからとエアコンを使わない方がいますが、命あっての物種ですし、救急搬送されて治るまでの費用を考えたら安い安い(´・ω・`)

あまりに暑いので子供とプールに行ってきましたが・・・早速やらかしてくれました(~_~;) 夜中の2時に子供が声をかけてきたので何かと思ったら、大の方を漏らしていたのです・・・(;´Д`) 小ならたまにということはありましたが、大は小学校に上がってからは記憶になく、「マジかよ」と汗びっしょりになりながら始末に追われました。子供は後先考えず体力の限り遊んで食べるので、大人が行き過ぎをセーブしないといけませんね。子供のでさえ実に不快なのに、これが首吊った親族の処理をするとなると・・・気が狂っちゃいますよ(´;ω;`) この記事を読んでいる人の中にはいないとは思いますが、首を吊るのは止めましょう。いやマジで。


子供がいたらいたで、その世話や教育で苦労します。やらかしてくれた時はとてもそうは思えませんが、ただそれでも子供が存在して生きているというのは有難いことなのだと今思います。先日、友人のお子さんが死産だったという報告を受けました。まことに悲しいことです。この世に生まれ、生きていることは決して当たり前ではないことを思い知らされました。望まれた命であっても、中にはこの世に生まれてくることさえもできない子もいるということを知ると、やはり苦しい時であっても、こうして生きて念仏していられるのは実に多くの有情非情の「おかげさまで」なのだな、自分も沢山苦労や迷惑をかけてここまで大きくなって生きてきたんだな、そして今も多くの命を犠牲にして自分の命を保っているのだなと、今ここを生きているという有難さを感じなければならないなと思います。今、「生まれてきてくれてありがとう」と母親が赤ちゃんに言葉をかけるその意味が、ようやく少し分かった気がします。今、自分がこうして生きている意味を、多くの命で命を繋いでいる意味を、よくよく考えなければならないと思った出来事でした。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

どっちの人生を生きたいか

己の夢の実現、欲望の追求の人生

と、

おかげさまでと感謝する御恩報謝の人生

どっちの人生を生きたいか。




【参照】
『あさ川進の、宗教と私』【投稿文】念仏者の生き方

表の顔と裏の顔

豊田真由子エリート議員の暴行!暴言!音声が凄すぎる!外基地!裏どりで検証!
【ミヤネ屋】 宮根誠司 豊田真由子衆院議員の暴言音声に「こんな怖いチンピラいてない」(後編)

数日前にこのようなニュースが流れてきて驚きました。

「このハゲ――――――!」
「これ以上私の評判を下げるな!」
「お前が私の心を叩いている!」

表での上品で爽やかなイメージとは全く違う、裏の顔、本性を覗き見た、そんな印象です。

「壁に耳あり障子に目あり」で、どこで誰が見たり聞いたりしているかは分かりません。特に現代は、防犯カメラにスマホあり、ドライブレコーダーに小型音声録音機ありといった感じで、言動には本当に気を遣います。渦中の議員は、これまで100人以上の秘書が辞めたなんて情報もありましたから、今回こうした言動が明るみに出るまでにも同様の言動を繰り返していたと考えられます。よく今まで表面に現れなかったなと思います。

でも私達も、内相と外相、本音と建前、内面と外面を使い分けて生きているという点では同じです。これが世を渡る秘訣と言っていいでしょう。逆にこうしなければ生きていけないというのが現状ではないでしょうか。正直に、自分の心を偽らずに生きていけたらいいなと思う事もありますが、まぁそうなったら人類滅亡ですね。

内面と外相を使い分けて生きている私達ですが、仏教では外面よりも内面を重視されます。いくら表面をきれいに着飾り、立派な振る舞いをしていても、普段は見せることのない裏の顔、本性はどうでしょうか? 心の内に秘めている思いを、包み隠さずに人に言えるでしょうか? 恐ろしくてとてもそんな事はできませんね。よくブラック企業という言葉が使われますが、私の心はどんなブラック企業よりもブラックです。何とかしようと思っても「思わない」ということだけは不可能です。煩悩具足の凡夫が世俗の世界に生きている限り、この「黒い心」は何ともなりません。

こうした私を、今の私のままでお救い下さるのが南無阿弥陀仏です。まことに我が機に相応した、世に無い、世を超えた本願力です。よくこのような本願力にお遇いできたものです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。




以前はたまに、親鸞会の音声データがWeb上に出ては消され、出ては消されしていましたが、親鸞会も漏れなく内面と外相を使い分けています。ホームページなどの爽やかで誠実な印象、喜びの声とは裏腹に、

『ニコニコ動画』親鸞会が夜中に脱会者の家に押しかける

とか、表面下では言動がまるで異なります。きっと講師部員や幹部会員の中には、冒頭紹介した、暴行を受けて告発した秘書のような扱いを受けた方もいるのではないかと思います。

清森義行氏の除名の真相(3)

清森元講師などは氷山の一角でしょう。明るみに出ていないだけで、機責めのような叱責を受けたり、謗法罪だ必堕無間だと脅されたり、苦しい思いをされた方は沢山あると思われます。「仏教では心を重視する」とよく親鸞会では言っていますが、本当に心を重視し、仏様相手の求道をしているのかと疑問に思う事ばかりです。


教義内容にしても、表の顔と裏の顔があります。表では「平生業成」「現生不退」「不体失往生」「一念の救い」等の文言を並べ、現在只今救われる教えだと強調しておりますが、実際中で聞いてみると現在只今救われるなどということはなく、「善の勧め」なる教えに従って延々と活動していかなければなりません。「善」の中には世俗的な善もありますが、主として高森会長の話を聞くこと、献金、勧誘、会長及び上司への無条件服従などですから、これらが果たして「善」と呼べるのかどうか・・・。「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽をちらつかせて、会に都合の良い行動をさせているだけですから、こんな教えは高森教であって浄土真宗ではありません。いくら信じて従っていても、親鸞聖人の教えられた信心を獲得できないのはそのためです。

浄土真宗は救われる一念とそこまで至っていない現在を分けるでもなく、こちらから救いに向かって進んで行くでもなく、現在、只今、ここにいる私に既に届いている救いの御名を、只今この場で聞き受ける教えです。親鸞会の教えでは、私はいつまでも黒板の右端です。信心決定して安養の浄土へ参りたいと思うなら、高森教は捨て去って、浄土真宗を聞いて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

すがる

末っ子の三女がよく私にすがりついてきます。まだ伝い歩きができる程度で、一人での歩行はできないため、ハイハイでこちらに近づいてきては手を伸ばして私にすがりつき、抱っこを要求しているような感じです。トイレで用を足している時もやってくるため、「このタイミングで抱っこは厳しいよ~(´;ω;`)」ということも・・・

赤ちゃんのこうしたすがりつくという行為、しかし力が足りないため、赤ちゃんの手の力だけでは自分の体重を支え切れずに落ちてしまいます。また、にぎる箇所によっては赤ちゃんの力が邪魔をしてこちらも楽な姿勢で抱っこができないということもあります。自分にすがってくるのは嬉しいのですが、やはり親としては、赤ちゃんに力を抜いてもらって、素直にそのまま親にまかせてもらった方が楽に抱っこできます。それと、おむつ交換や着替え、食事など、子供が嫌がって勝手に動き回られると遅々として進みません。無理矢理やるとますます嫌がって、親が思う通りにできません。特に大の方は放っておきますと肌がかぶれてしまいますし、汚れたり濡れたりしたら着替えもマメにしないと体調を崩す原因にもなります。きちんと食事を摂るのも健康・成長のために必要なことなのですが、子供には智慧がないため分からないのでしょう。まぁ自我の表れとして成長を喜ぶ半面、これらもやはり、素直にそのまま親にまかせてもらった方が煩わしくなくて助かります。


この「すがる」ということで思い出されるのが、「御袖」「御袖すがり」の御文章です。

『蓮如上人の『御文』を読む』五帖目第十二通 御袖すがり

には現代語訳付きで載っていますのでご覧下さい。

いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして(2帖目8通)
阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。(4帖目3通)

ですから、諸神諸仏に心をかけず、自余の万善万行を差し置いて、専ら阿弥陀仏一仏のみに、念仏一行に依らねば我々が後生助かる道は他に二つも三つもありません。しかしながら、

ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして

とあるからとて「助けて下さい」とすがりかかっても、その両の手では自己の罪悪の重さを支え切れずに沈むのみです。また、念仏を自分の善根として捉え、これを称えた功徳によって後生助かろうとするのも悪い自力の企てであり、これでは報土往生はかないません。自力の心ですがっていても、我々には浮かぶ力は無いのであります。ではどうするのかというと、それが次の

後生をたすけたまへとたのみまうせば

です。これも甚だ誤解が生じやすいところですが、要は

われひとりたすけん
われたすくべき

という超世の大願を、小賢しい凡夫の浅知恵を差し挟まずにそのままお聞きし、仰せの通りにおまかせしてしまえばよいのです。阿弥陀仏の八万四千の光明の中に抱き取られて、身も心もすっかりゆだねてしまえばよいのです。これが、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」ということです。念仏は阿弥陀仏が五劫の間思惟し、永劫の間修行して成就された選択本願の大行ですから、念仏一行を往生行にするということは正しく阿弥陀仏のお心にかなった行業なのです。彼の仏願に順ずるから称名を正定業というのです。これを凡夫の方で持ち替えて、念仏を称えるという自分の行為、称えた行為による功徳で助かろうとするのであればそれは悪い自力の心であって助かりません。あくまで名号願力によって助けられるのであり、そのお力を疑い無く受け容れたのが信心、それが口に出たのが称名念仏であって、我々の力が加わる隙は微塵もないのであります。

阿弥陀仏は「助けるぞ」「我にまかせよ」と真実の言葉で仰せなのですから、こちらの下らない詮索や先入観は捨てて、お言葉の通りに助けられたらいいのです。おまかせしてしまえばよいのです。阿弥陀さまがお連れ下さるその先がたとえ地獄であろうと、我々の業からして元々地獄なのですから文句の言い様がないでしょう?

我々の往く先? そんなことは阿弥陀さまに聞いたら早う分かります。兎にも角にも、我々は本願におまかせするばかりです。これが自力を捨てて他力に帰するすがたであります。

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
(中略)
さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
(執持鈔)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。



【参照】
安心論題/正定業義

なんか締めが林遊さんみたいになっちゃいましたが、まぁいいでしょう(;^ω^)

この前、長女(7)が針の穴に糸を通そうと苦戦していました。

「パパやって~」

と渡されたので仕方なくやるものの、私も中々できません。その時、

「すぐ目の前の針の穴に糸を通すのですら簡単にはいかないというのに、ヒマラヤ山の頂上から垂らした糸が、ふもとの針の穴に通るわけがないんだ」

と思いました。しかしヒマラヤ山と言っても子供にはピンと来ませんので、私は

「阿弥陀さまの教えに遇えるのは、屋根の上から垂らした糸が下の針の穴に通るよりも難しいんだって」

と話しました。遇い難い法に遇えて本当に良かったです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。




ところで余談ですが、この「ヒマラヤ山の頂上から垂らした糸が、ふもとの針の穴に通る」のような譬え話、これは天台宗を開いた伝教大師の『願文』という著作に出てくる話だそうです。しかもその譬えの内容は、人間に生まれることの有難さを譬えたものとのことです。以下、『天台宗』優曇華(うどんげ)より。

伝教大師もまた『願文』で、「得難くして移り易きはそれ人身なり。・・・ここを以って、法皇牟尼は大海の針、妙高の線(いと)を仮(か)りて、人身の得難きを喩況し」と言い、人間として生をうけることの得難いことを、大海の中の一本の針を探すことや、須弥山(しゅみせん)の山頂から垂らした糸を山麓の針の穴に通すことに喩えています。

譬えの内容に仏法に出遇うことの有難さまで含めてもよいと思いますが、何にせよ親鸞会では出拠元の説明がありません。この譬え話もまた伊藤康善師や大沼法竜師からのパクリなのでしょう。

さて、盲亀浮木の譬えの出典は『雑阿含経』で間違いないようですが、『涅槃経』にも同様の譬えがあるそうです。以下、『「盲亀浮木の喩」と定家の恋歌』より引用。該当箇所は中ほど、(23)とある頁です。

 『望月仏教大辞典5』には『雑阿含経』第十五の用例と共に、以下のように記されている。
「盲亀浮木」盲亀の浮木に値遇し難きの意。雑阿含経第十五に「譬へば大地悉く大海と成るに、一盲亀あり、寿無量劫なり、百年に一たび其の頭を出す。海中に浮木あり、止だ一孔のみあり、海浪に漂流し風に随つて東西するが如き、盲亀百年に一たび其の頭を出し、当に此の孔に遇ふを得べきや不や。(中略)盲亀浮木復た差違すと雖も或は復た相得ん。愚痴の凡夫五趣に漂流し、暫く復た人身あらんこと甚だ彼よりも難し」と云へる是れなり。(4864 頁)


また以下、臨済宗妙心寺派・龍門寺・ご法話より引用。

また『涅槃経』にも「世に生まれて人となること難し、仏世に遇うことまた難し、尚大海の中にて、盲亀の浮木に遇うが如し」とあり、ご存知の有名な比喩であります。目の見えない亀が、大海に漂う丸太ん棒の穴に出くわすことが難しいように、人と生まれ、仏法に出会うことは得難いのだと。

「ヒマラヤ山の頂上から・・・」のような譬え話は「妙高の糸」と呼ばれるらしいですが、何経のどこに根拠があるかは現時点では割り出せていません。「法皇牟尼は・・・を喩況し」とありますから、お釈迦様が説かれたようではありますが・・・。ところで『WikiArc』トーク:愚禿に『願文』が載ってますね。林遊さんやっぱすげ~(゚д゚)!

と同時に、やはり高森顕徹会長の根本聖典は『仏敵』(伊藤康善師)、また大沼法竜師の著作が拠り所であり、教義内容から察するに『教行証文類』すらまともに読んだことがなさそうですから、出拠元に関しては実にいい加減な事が分かります。今は調べたいことはすぐに検索できますから、教義や組織のやり方に疑問を持った方は色々調べてみた方がいいですよ。勿論ネットの情報は玉石混淆ですから、内容を吟味する必要はありますが、このまま活動だけして信を獲られずに死んでゆく位なら絶対調べるべきです。以上、余談でした。

親の願い通りに子供が笑うと、その笑顔を見て親は喜ぶ

秋去り春去り、末っ子の三女もじきに1歳になります。早い・・・

相変わらず母親や子供達には敵いませんが、三女もずいぶんとなついてくれるようになりました。眠いとか、腹減ったとか、不機嫌でない限りは抱っこしてあやせばたいてい喜んで笑います。親が一方的に子供に与え、子供から与えられるものは何もないように思いきや、その無邪気な笑顔を見るととても嬉しくなります。苦労が吹っ飛ぶというのはちと言い過ぎですが、ちゃんと子供の方も、知ってか知らずか親に幸せを返してくれているのだなと感じます。

当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧・才学もいらず、男女・貴賤もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。
(2帖目13通)

ちょうど親が「笑っておくれ」と子供に微笑みかけ、その願い通りに子供が笑うと、その笑顔をみて親が喜ぶように、「我をたのめ」という御親の願い通りに私達が弥陀をたのめば、阿弥陀仏は深く喜びましまして、たのむ衆生を八万四千の光明の内に摂取して決してお捨てになりません。弥陀をたのむとは、我々の小賢しい計らいや先入観を交えずに、「我にまかせよ、必ず救う」という阿弥陀仏の大悲招喚の勅命をそのまま聞き受け、仰せの通りに後生をおまかせすることです。また、阿弥陀仏は「名号を称える者を極楽へ迎える」と誓われているので、その誓いを計らいなく信じて念仏することです。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。(末灯鈔12)

「なんまんだぶせい」という願い通りに私達が「なんまんだぶ」すると、「よう称えてくれた」と阿弥陀仏は深く喜ばれるのです。仏恩報尽の念仏とはよく言われたものです。

なんまんだぶすると、親様は大層喜んで下さるのですから、なるべくお念仏するようにしたいですね。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

親様の運転にまかせておけばよいのです

先日子供と夕食にラーメンを食べに行った帰り、よく行く日帰り温泉に行こうという事になって向かっている途中でした。すっかり暗くなり、周囲の様子がよく分からなかったため不安だったのか、子供(7)がこう言いました。

「お父さん、ホントにこの道で合ってるのかなぁ?」

私は言いました。

「大丈夫だから」

「本当にこっちで合ってるの?」そんな心配は無用。親は外が暗がりでも、ちゃんと目的地までの道順を覚えています。子供は道中の事はよく分からなくても、ただ車に乗って親の運転にまかせているだけで、目的地まで着いたというわけです。たとえ分かっていたって、慣れない夜道を七つの子供の足で数キロ離れた先まで進むのは困難でしょう。ここは素直に親の運転にまかせておけばよいのです。


私達が浄土に往くということもこれに似ています。本願に疑い晴れても、浄土の様相、浄土までの道順といったことは分かりません。私の子供のように不安に思うこともあるでしょう。しかし親様はちゃんと分かって、間違いなく私達を浄土までお連れ下さいます。道中の事はよく分からなくても、大悲の願船に乗じて親様の舵取りにまかせているだけで、浄土まで渡して下さるというわけです。たとえ分かっていたって、私の歩める道ではありません。私としてはただ親様の運転にまかせておけばよいのです。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

私が本願をお聞きするに当たって、「私のターン」というものはありません

私事ですが、自分は子供の頃から「ファイアーエムブレム」というゲームが大好きです。思春期から現在に至るまでその熱は冷めず、大の大人が3DSまで買って、バーチャルコンソールで昔のゲームを購入してまでプレイするという入れ込み様です。とは言ってもゲームボーイアドバンス以降のシリーズには手出しできておらず、「暗黒竜と光の剣」「外伝」「紋章の謎」「聖戦の系譜」「トラキア776」しか実際にプレイしたことはありませんが・・・。いつか3DSの「覚醒」「if」もやってみたいとは思いますが、物語も登場キャラも全く違いますし、子供と違ってドはまりしたら大変なので自重しています。

ファイアーエムブレム 新・紋章の謎 ~光と影の英雄~

は特にお気に入りで、もう最難関のルナティック´で5回はクリアしました。始めれば吟味地獄に陥ることは重々分かっていながら、ついつい何周もやってしまうという阿保な自分がいます。

さて、このゲームの特徴の一つに、自軍のターンと敵軍(同盟軍、中立軍)のターンがあることが挙げられます。ドラゴンクエストやファイナルファンタジーでも、コマンド入力して各キャラの行動を決定するというのは同じですが、自分と敵の行動はお互い入り混じっています。対してファイアーエムブレムは、自軍のターンに各キャラを動かし、終了したらターンエンドして相手ターンに譲るというシステムです。自軍のターンにいきなり敵軍が動き出すことはありません(攻撃を仕掛ければ反撃はしてきます)。自軍のターン→敵軍のターン→自軍のターン・・・と繰り返す点は囲碁や将棋と似ていますが、同一ターン内に複数のキャラを動かせる点は異なります。基本的に一度動かしたキャラは次のターンまで動かせず、同じマスに重ねてキャラを配置できないため、順番や配置等で長考することもしばしば。難易度が上がるほど高い戦略性が求められます。


前置きが長くなりましたが、タイトルでも示した通り、私が本願をお聞きするに当たって、「私のターン」というものはありません。どういう事かというと、普通は「教・行・証」と言われるように教えがあって、教えの通り実行して、証(さとり)を得るというのが一般的な仏教です。世の中でも全てと言っていい位そうで、まず「このような結果が得られますよ」という教えがあって、実際にその結果を得るための方法を実践実行し、望みの結果を得る(得ない)という構図です。サプリメントなんかは実に巧い商品で、それが実際効果があるかは分かりませんが、体験談を前面に押し出し、科学的な理屈を連ねて巧みに消費者の購買意欲をそそっています。

つまりは、望む結果(証)を得るには、教えを行ずるという「私のターン」というものが必ずあるということです。「このようになりたい」という願いだけで、具体的な行動に出なければその願いは果たせないということです。時には「棚から牡丹餅」的な感じで、願ったり叶ったりということもあるでしょうが、それは今までの自分の業が花開いたということであって、何もなく結果が現れたということではありません。

これがいわゆる自業自得の道理というもので、私達が生きてゆくにはこの道理に従って善業を修め、悪業を造らないようにしていくのが大事なことです。何が善で何が悪かということは国や時代、価値観や求めるものなどによって異なりますが、行動無くして成果は無い、「私のターン」無くして望みの結果は得られないということです。当然ながら聖道門や浄土門内の自力の教えでもそうで、さとりや往生という証を得るには、教えに従って行を修めていくということが必要不可欠です。


ただこれを親鸞聖人の教え、第十八願の教法に適応しようとすることは「自力」と言われ、この自力ある限り十八願によって救われるということはありません。第十八願の教法は、阿弥陀さまが衆生を漏らさず救い摂りたいという願いの元、五劫の思惟、不可思議兆載永劫の御修行を経て南無阿弥陀仏の大功徳を成就され、それを与えて救おうというものです。「浄土往生したい」というのは私の願いではなく、「浄土往生させたい」という阿弥陀さまの願いです。そのための行も私が加わる隙は微塵もなく、私に代わって全て阿弥陀さまが修められました。その願行を与えられ、私が往生成仏するという証も、阿弥陀さまが願われ行ぜられた結果です。

私としては、その本願をただ仰せの通り聞き受ける(信じる)のみにて往生成仏が決定するという、何とも有難くたのもしく、かたじけないご本願です。その信すら私が起こすのではなく、向こう様が恵み与えて下さるのですから、私が報土往生することは易いという言葉も要らぬ易さです。既に私を救おうという願行は成就され、その行信も与えられ、証を得るだけなのですから、私が特別何かを行じなければならないということはないのです。強いて言えば本願の言葉、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き、そのまま信じ受け容れるのみです。

こうした第十八願の教法に自力を混ぜ込み、求道のプロセスなどと称して会員を利用・搾取しているのが親鸞会です。因果の道理や19願、宿善、三願転入といった概念を巧みに利用し、絶対の幸福だとかいう幻想的な楽で聞く者を釣って、組織拡大要員として利用しているのです。私が薄い宿善を厚くし、私が19願・20願の行を実践して18願の世界まで到達するのだと、「私のターン」を設けて、献金・勧誘・無条件服従に都合よく従事させようというのが狙いです。私が本願に救われるに当たって「私のターン」というものはなく、先手の「阿弥陀さまのターン」で往生の一大事の勝負は決してしまうというのに、「私のターン」に執着させて本願を聞かせなくしています。獲信・往生とは無関係なことばかりやらせ、阿弥陀さまと私の仲を取り持つどころか、私を往生成仏させようという阿弥陀さまの願いを阻害しています。

親鸞会教義は親鸞聖人の教えとは向きが真逆ですから、それを正しいと信じている限りは本願に背き、本願の言葉を受け容れずにひたすら利用・搾取されるしかありません。「私が救いに向かって進んでいく」のではなく、「既に回向せられている本願の救いを受け容れる」のです。往生の問題は私がどうこうできるレベルの話ではないのです。それをどうにかしようとしている時点で既に自惚れの極みです。会員の皆さんには、早くそのような邪義は捨て去って、南無阿弥陀仏の六字のこころ、「我にまかせよ、必ず助けるぞ」の力強い本願の仰せに身も心もまかせて頂きたいと思うばかりです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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