宇宙から見たら塵のような地球、そのまた塵のような存在である私に南無阿弥陀仏が至り届いているという不思議

先日愛知県へ旅行に行ったことをこの記事で書きましたが、今回はラグーナビーチを歩きながら考えたもう一つのことを書きます。

その日の朝、私は長女と三女を連れて歩いていた(三女は抱っこの状態)のですが、やがて三女は寝てしまいました。長女は長い木か竹の棒を見つけて波打ち際でお絵かきを始めたので、三女の睡眠時間確保のために私はしばし別行動をとり、少し離れた海岸線の先へと向かいました。

普段のせわしない日常から離れ、ゆっくりと時間が流れているようでした。視界を遮るものはなく、沖に目をやれば水平線が見え、山に目をやれば広大な自然が広がっており、周囲に人間は私達家族を含めて5、6人しか見当たりません。何て広いんだ・・・。都会で生活していると、実にせせこましい所で毎日同じことの繰り返しで生きているため、すごく新鮮な気分でした。そして、この小さい体と頭で普段俺は一体何をやっているんだと思わされました。

こんな広い世界で、俺一人居ても居なくても何も変わらないし、一生の間でやることなど実にちっぽけなことだ。俺が死んで何十年、何百年と経ってしまえば、俺という人間がこの地球に存在していたことすら誰も知らなくなるだろう。道路には沢山のトラックが走っていて、俺もいつもは似たようなことをやっているが、遠くから見るとあんなちっぽけに見えるのか・・・。この広い海や山に比べたら、何て小さいんだ・・・。これが宇宙から見たならば地球なんて塵のような小ささで、星ごと一つ消滅したところで何の変化もないのではなかろうか。海や山と比べたってこんなにちっぽけだというのに、まして宇宙と比べてしまったら、俺は何て小さな存在なんだ・・・。

このように考えた時、藤村操の「巌頭之感」が頭をよぎりました。

悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。
ホレーショの哲學竟に何等のオーソリチィーを價するものぞ。
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。


こう書き残して自殺した藤村操の心中は分からんでもありません。わずか50年乃至100年の人生、わずか五尺の躰でこの広い世界に挑戦しようというのですから、無謀もいいところです。一生の間で分かることなどホンのごく一部に過ぎず、ほとんど何も分からんまんま生き、ほとんど何も分からんまんま死んでいくのです。自分一人でできること、残るものなんて無いに等しいです。子供が海辺に書いた絵と同じで、自分が残した足跡は消えてしまいます。ならば今死ぬのも、この先苦労して、世界のほんのちょっとのことを勉強して理解して、ほんのちょっと人の役に立って、ほんのちょっと周りに迷惑をかけて、ほんのちょっとの足跡を残して死ぬのも、何も変わらないのではないか。どうせ俺という存在さえ遠くない将来にこの世から抹殺されてしまうのだ。そうならば、苦労しない分今死んだ方がマシではないか。

このように考えを巡らしますと、自殺者が絶えないというのも理解できます。実際私も思うようにならない現実にもがき苦しみ、人生苦を感じて自殺したいと思っていた口ですので。


ただ、今は自殺をしなくて良かったと思えます。つらかったけど、苦しかったけど、毎日死にたいと思っていたけど、南無阿弥陀仏が私に至り届いていると知ることができましたから。いつ何が起こるか分からない、あっという間に生きて死んでいくこの世界で、ただ一つのまことに遇えたことは喜びの中の喜びです。死に際しては何一つたよりにならず、死出の山路、三途の大河をただ一人逝かねばならないというのに。苦しみから苦しみの綱渡りで、死んでも我が業苦で責め立てられて安らぎなどないというのに。その私を浄土へ連れていって仏にするというのですから、南無阿弥陀仏にはいかなる淳心房も頭が下がります。

宇宙から見たら塵のような地球、そのまた塵のような存在である私に南無阿弥陀仏が至り届いているという不思議。名声聞十方と重ねて誓われた阿弥陀仏の本願はまことでした。その願成就して南無阿弥陀仏と成って私にはたらいていることを知らせて頂けました。噓偽りだらけ、無常のものしかないこの世の中で、「ただ念仏のみぞまこと」と仰った親鸞聖人のお言葉は本当だなぁ、南無阿弥陀仏しかまことにたよりになるものはないなぁと思わされます。この偉大なる選択本願念仏の御法によくぞ遇うことができました。そしてそれを信じ奉り念仏しているのは、不思議の中の不思議。本当に良かったです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。
スポンサーサイト

ただ「難度海を度する大船」の絵を眺めていただけだったあの頃

先日、家族旅行で愛知県のラグナシアというテーマパークへ行ってきました。前日はそこへ隣接している変なホテルに泊まったのですが、長女は随分気に入ったようでした(次女は受付のでかい恐竜にビビッてましたが・・・(;'∀'))。3歳~10歳位の小さい子供がいるご家庭にはお勧めです(^ω^)

朝食を終え、開園時間まで随分あったので、私は長女と三女を連れて近くの海岸へと向かったのですが、内海とは言え久々に見る海の大きさに、改めて人間の小ささを知らされました。

ふいに遠くの方へ眼をやると、大きなタンカーのような船が見えました。それが、かつて親鸞会で説法のたびによく目にしていた「難度海を度する大船」によく似ていたので懐かしく思われました。しかしあの頃は

難度海を度する大船があるぞ~!
早くこの船に乗れよ~!


といくら言われても、大船がどこにあるのかも分からず、ただ「難度海を度する大船」の絵を眺めていただけでした。私と「難度海を度する大船」の間には随分と距離があるように感じ、その距離感は聞き始めた当初から退会まで変わりませんでした。ただ黒板に書かれる大船の絵を眺めては、「早く乗せて頂きたい。どうすればあの船に乗れるのか・・・」ともがいていたことを思い出します。

このように、かつての私と同じくただ「難度海を度する大船」の絵を遠くに眺めているだけで、私と大船の距離感は聞き始めから現在に至るまで変化がないという会員さんはいませんか? いらっしゃるとしたら、どうしてだと思いますか? 親鸞聖人の教えの一枚看板は「平生業成」だということは耳タコと思いますが、これを高森顕徹会長は

人生の目的が現在に完成する

ことだとしています。ということは、

「難度海を度する大船」に現在乗せて頂ける

ということです。しかし現実としては、何年、何十年求めても一向に大船に乗ることができない。大船に近づいているのかも全く分からないし、もうすぐ乗れるかもしれないという兆しも全く無い。どうしてでしょうか?

それは、求める方向性というか、ベクトルが逆だからと言えると思います。皆さんは、かつての私同様、

「早く乗せて頂きたい。どうすれば・・・」

と考えて、そのために推進される様々な活動に取り組み、それによって横の道を進んで大船に近づいていると思っていると思います。逆に現在の活動と、大船に乗ることが無関係なら、今のようには一生懸命取り組まないと思います。私が救われるべき地点まで到達しなければと思い、破邪顕正(勧誘)や財施(献金)をすることでそこへ近づき、やがてたどり着けるかのように思っているでしょう? これが大間違いなんです。

浄土真宗の信心は「本願力回向の信心」と言われるように、「如来の加威力」によって一方的に恵み与えられる信心です。それを、こちらから掴みにかかっているんですから、素直にお受けできる道理がありません。こちらの掴もう、助かろう、何とかなろうという力みを捨てて、あちら(阿弥陀)様の仰せを受けないことには信心も安心もないのです。

また、信心、信心と言われるものの、肝心の信心の内容を間違って教えられていることも原因の一つと考えられます。他力の信心をとるといっても、それは「ただ南無阿弥陀仏」なのです。

さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(御文章3帖目2通)

「我をたのめ、必ず助けるぞ」の六字のこころを信受したのが「信心」、それが口に出たのが「念仏」ですから、蓮如上人の仰る「ただ南無阿弥陀仏」は

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第二条)

の「ただ念仏」と全く同じです。名号で語るか、念仏で語るかの違いのみで、南無阿弥陀仏の他に信心も安心もありません。ところが親鸞会では二種深信を誤解して、

地獄一定と極楽一定が同時にハッキリすることだ

などと訳の分からない説明をしています。また、映画『なぜ生きる』を盲信していると、

苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わったのが他力の信心だ

と思ってしまうでしょう。このように、南無阿弥陀仏、念仏と全く関係ない信心を教えられますから、そんな教えを聞く会員の皆さんが親鸞聖人の教えられる「信心」を獲られないのも道理です。


根機つたなしとて卑下すべからず、仏に下根をすくふ大悲あり。行業おろそかなりとて疑ふべからず、『経』(大経・下)に「乃至一念」の文あり。仏語に虚妄なし、本願あにあやまりあらんや。名号を正定業となづくることは、仏の不思議力をたもてば往生の業まさしく定まるゆゑなり。もし弥陀の名願力を称念すとも、往生なほ不定ならば正定業とはなづくべからず。われすでに本願の名号を持念す、往生の業すでに成弁することをよろこぶべし。かるがゆゑに臨終にふたたび名号をとなへずとも、往生をとぐべきこと勿論なり。(執持鈔)

覚如上人も仰せのように、「本願の名号」が「正定業」であり、それは「弥陀の名願力を称念す」ること、「本願の名号を持念す」ること、つまり「ただ念仏して」です。で、念仏するその信心はというと、「本願あにあやまりあらんや」、本願を聞いて疑いない信心です。本願、また本願が成就したすがたである南無阿弥陀仏の名号を聞くことの他に信心はありません。その「本願の名号」と無関係な信心の説明を聞いていて、「本願の名号」を信受できる方がおかしいというものです。

一部『教学聖典』に出ているお言葉も混じっていますが、会員の皆さんはお聖教に取り組もうとしないので、覚如上人の仰る意味がまるで分かっていないと伺えます。まぁ私も当初はそうでした(今も知らないことだらけで勉強中ですけど・・・)から当然と言えば当然です。知らないなら知らないで知ったかぶりをせず、知らなかった自分を反省して覚えればいい話です。

このように平生本願の名号を聞き受け念仏すれば、その時往生の業事は成弁し、臨終に再び念仏を称えなくても往生を遂げるであろうことは勿論です。死の縁無量ですから、どのような死に方をするか分かりません。念仏を称える間もなく、あっという間に死んでしまうかもしれません。凶弾に倒れたり、溺れ死んだり、焼け死んだり、病気に苦しみ悶えて死んだり、あるいは寝ている間に死んだりして、臨終に念仏する余裕もないかも知れません。しかし、どのような臨終を迎えるにせよ、臨終の有様と往生は無関係であることをこの段では教えられているのです。そして最後のお言葉が、

本願を信じ名号をとなふれば、その時分にあたりてかならず往生は定まるなりとしるべし。

です。「本願を信じ念仏せよ」、これ以外に往生のみちは無いのです。逆にこれ以外の道を示してそこへ聞く者を誘導し、獲信・往生と無関係な組織拡大活動をやらせて私利私欲を満たしているのが高森顕徹会長です。

もし会員の皆さんが「難度海を度する大船」「大悲の願船」に乗せて頂きたいと願うなら、間違った教えを説く知識から離れて本物の真宗に遇い、本願を疑い無く聞き受けて念仏する他にありません。週末には親鸞会で報恩講が営まれますが、如来聖人のご恩に報いようとするならどうするべきか、よく考えて頂きたいと思います。

如来の本願をたよりとし、本願の仰せに安心する

私達凡夫の上には、「これで大丈夫」と安心することはありません。さりとて、「こんなことで大丈夫なのか」と不安になる必要もありません。私達はあくまで、如来の本願をたよりとし、本願の仰せに安心するのです。死んで極楽へお連れ下さるのか、はたまた地獄に堕ちるのかは、阿弥陀さまがお決めになることです。私としては、「我にまかせよ、必ず助けるぞ」との力強い真実の御言葉をそのまま信楽し念仏するのみです。たとえその教えが偽りで地獄へ堕ちるようなことがあっても、私の力でそれ(地獄行き)が変わるようなことはありませんし、師と共に堕ちるのですから孤独ではありません。

・たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。
そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
(執持鈔)

・たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 (歎異抄第二条)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

「信心」と言っても「本願の名号をきく」ことの他にはない、南無阿弥陀仏の他にはない、「我にまかせよ、必ず救う」という大悲招喚の勅命をただ聞き受けるのみ

本願文は、成就文を介することでより一層明らかになります。成就文について親鸞聖人は、

『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。

「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。

また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。
一念多念証文

とお示しです。今回はこの御文を通して浄土真宗を伺っていきたいと思います。


諸有衆生」は本願文の「十方衆生」と同じく「十方のよろづの衆生」と仰せです。ですが、これは他の誰でもない「この私」と受け取るべきでしょう。「この私」を除いて本願はありません。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

聞其名号」とは、本願成就文の直前、第十七願成就文で説かれている本願の名号を聞くということです。

十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。

全ての世界の数限りない仏方は、みな同じく無量寿仏のはかり知ることのできない勝れた功徳を褒め称えておいでだというのです。その勝れた功徳である本願の名号、南無阿弥陀仏を聞くのですが、これは本願を聞いて疑う心が無い、我が胸に持ち替えずにそのまま聞き受けていることを「本願の名号をきく」と言われています。そして、そのように疑い無く聞き受けていることを「信心」というのだと仰せです。このことは後の、

「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

の語でも知られるでしょう。ですから、「信心」と言っても「本願の名号をきく」ことの他にはない、南無阿弥陀仏の他にはない、「我にまかせよ、必ず救う」という大悲招喚の勅命をただ聞き受けるのみだということが分かると思います。またこの「信心」は、

「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。(尊号真像銘文)

とあるように本願文の「信楽」と全く同じです。ただ、本願文では「どうしたら信楽の心になれるのか」「本願の何を聞くのか」が不明だったのが、成就文を介しますと

十方諸仏が褒め称える南無阿弥陀仏の名号を聞いて信心歓喜乃至一念する

ことが明らかになります。十七願で誓われた通りの名号が既に南無阿弥陀仏と仕上がって、私を救うとはたらいているぞと聞いたなら、私の「どうしたら」「こうしたら」といった計らいは無用であり、そのまま南無阿弥陀仏におまかせとなるのです。そのように疑い無く慮り無く彼の願力に乗じたのを本願文では「信楽」、成就文では「信心」とお示しなのであります。


ところで、高森会長は信心について

地獄一定と極楽一定の二つの心がハッキリしたことだ

などと訳の分からない説明をし、「ハッキリするまで求め抜け」と言っては「本願の名号をきく」こととは無関係の組織拡大活動を会員にやらせています。会員の皆さんは信一念とそれまでとを分ける教えによってそれで納得してしまっているのかも知れませんが、早く気付いて南無阿弥陀仏とは無関係の活動から脱しない限り「本願の名号をきく」ことはできません。教義上からしても雑行をやりまくっている者が真実信心を獲られる道理がないからです。その雑行以前の善もどきの善に執心してこれを修め、しかも「本願の報土」に生まれようというのではなく「絶対の幸福」「幸せな人生にガラリと変わる」といった「夢・幻のような現世の幸せ」を追い求めている者が真実信心を獲て念仏するなど夢のまた夢です。


さて、話を戻しますが、次に聖人は

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。

と仰っています。これも誤解しやすいところですが、問題は何を「歓喜」するのかです。

「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり

ここだけ読んで、とにかく身も心も喜びに満ち溢れるのだ、そうでなければ信心ではないと思う会員の皆さんがほとんどと思いますが、そうではありません。それは「うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころ」とあるように、必ず往生するであろうということです。「うべきこと」とは往生のこと、それを「えてんず」、きっと得るであろうと、かねてさきより喜ぶ心です。往生するという未来の果を今から待っている喜びということです。浄土往生が約束された喜びということです。

浄土往生が約束されたというのはどれほど素晴らしいことかをこの記事でも少し書きましたが、しかし私達の腐った性根は、法をお聞かせ頂いている時は往生すべき身と定まったことを喜んでおっても、ちょっとつまらないことがあればその喜びはどこへやら。法話を聞いた帰りに知らない人と肩がぶつかって、相手に罵声を浴びせられでもしたらどうですか? また、変わらず健康に留意し、事故や怪我や病気に気をつけて生きているのも死にたくないからです。死ねば安楽浄土ですよ? ところがそれがちっとも恋しくない、迷いの世であるこの苦悩の旧里がいいとしがみついているのが自分というやつです。そして、目先の五欲を満たすことに夢中というどうしようもないやつです。

このようなことですから、私達の心持ちで「喜びが多いから往生一定」と決まるのでもなければ、「喜びがちっともないから往生不定」と決まるのでもありません。我々のコロコロの心は何のあてにもなりません。われらが往生の定まりたる証拠はあくまで本願が成就して仕上がったいまの南無阿弥陀仏であります。

死ぬと同時に浄土往生というこの上ない証果が約束されてもちっとも喜ぶ心のない、そんな煩悩具足の凡夫と知り抜いて、そんな者を助けるという阿弥陀仏の仰せをお聞かせ頂く度に、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と思い知らされます。

本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし
(高僧和讃 天親讃)

本願力に遇えてよかったです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。(つづく)

大丈夫です。絶対後生助かります。

南無阿弥陀仏。字にすればたった六字であり、それを口に称えるという至って易しい行なのに、どうしてただそれだけのことで浄土往生という証が得られると言われるのでしょうか。その答えが善導大師の

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。『観経疏 散善義』称名正定業

であります。法然聖人は承安5年(1175年)43歳の時、様々な修行や学問、読経の末にこの御文に出会われ、ご自身は勿論、人々の救われる道は専修念仏によるしかないと感得し、それから比叡山を下りて東山吉水に移り住み、念仏の教えを弘めてゆかれました。それで浄土宗ではこの年が立教開宗の年であると言われています。法然聖人は善導大師のこの御文を『選択本願念仏集』にて引かれています。

阿弥陀仏はその本願において、念仏一行を本願の行として選び択られたことを次のように教えられています。

もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。難易義

もし仏像を造り、塔寺を建てる者を助けるという本願であれば、金持ちしか助かりません。もし賢く智慧すぐれた者を助けるという本願であれば、愚かで智慧の劣った者は助かりません。もし仏の教えを多く見聞して学問がある者を助けるという本願であれば、学問がない者は助かりません。もし戒律を守って犯さない者を助けるという本願であれば、戒律を守れない者は助かりません。それで阿弥陀仏は法蔵菩薩であった昔、様々な行を選んでは「これではダメだ」と捨て、また選んでは「これでもダメだ」と捨てて、そして最終的に我が名を称える者を助けようと余の一切の難行諸行を選び捨て、至って易くしかも最も勝れた行である称名念仏を本願の行として選び択り、本願をお建て下さったというのです。

念仏を称えるというのは至って簡単なことで、3歳の子供でも称えることができます。うちの末っ子はまだ1歳なのでちょっと難しいですが、4歳の次女であれば「なんまんだぶなんまんだぶ」と簡単に称えることができます。しかも念仏を称えるのはその行に心身共に集中しなければならないという制限はなく、立っていても座っていても臥していても、止まっている時も動いている時も、仕事や家事、子育てをしている合間にでも称えることができます。とても保ちやすい行です。

ただ、どうしてそれだけのことで浄土往生の証果を得られるのかということが問題でした。仏教では教があって、行があって、その行に応じた証(さとり)を得るというのが常識ですが、ただそれだけのことで十悪五逆の悪人でも浄土往生というのですから、到底考えられないことです。法然聖人も天台宗で学ばれていましたので、『観無量寿経』下品下生の往生はご存知だったかと思いますが、その理由が分からなかったのでしょう。

そして辿り着いたのが先の善導大師の御文です。そこには、本願の行である念仏を称えるということは、「彼の仏願に順ずるが故に」、だから往生できるのだと教えられています。だから、一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざるは、これを正しく浄土往生が決定する行業、正定業と名づけるのだと言われています。私が称えるから往生するのではなく、阿弥陀仏が「称える者を往生させる」と誓われているから往生するのだというのです。


阿弥陀仏は、この淳心房を仏にせずば、我も正覚ならじと誓われ、今はその本願が成就して南無阿弥陀仏と成りましまして私にはたらいております。こうした本願が既に成就してはたらいて下さっているからこそ、私の計らいや様々な方法論は無用なのであり、この本願力に乗じて間違いなく往生を得るのであります。だから、こうした本願のいわれを信じて念仏すれば、皆人が必ず後生助かります。淳心房の言葉など何のあてにもなりませんが、阿弥陀仏が真実の御言葉で誓われ、そしてそれが成就されたことを釈尊をはじめ十方諸仏が証誠されていますから大丈夫です。安心して下さい。必ず後生助かります。ですから、安心して阿弥陀さまに後生まかせて下さい。阿弥陀仏は決してあなたを救うことをあきらめません。だからあなたもどうか「俺(私)みたいな者はどうせ・・・」とあきらめないで下さい。

その上での私の心の有り様は問題ではありません。喜びが有るとか無いとか、多いとか少ないとか、そういった私の心で往生が決定しているかどうかが決まるのではありません。私の心など次の瞬間には変化するもので、何のあてにもなりません。往生の定まりたる証拠はあくまで南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為本。まことに私に相応したありがたい教えです。なんまんだぶ、なんまんだぶ。

「助けるぞよ」の勅命が、この私一人に向けられている真実のお言葉であると受け容れたかどうか

『琴の糸』意外な結末に終わる のmashuさんのコメントより。

********************
「救われましたか?」「はい、救われました」というのに違和感を感じます。

「お救いの中にいる」という言い方だと、それほど違和感はありませんが。

********************

たしかに・・・。

私は、「救われましたか?」と聞かれれば

「後生の一大事助けられました」「阿弥陀仏にすべておまかせしました」

という意味で「はい、救われました」と答えますが、やっぱりちょっと違和感がありますね。「救い」と聞くと病気や怪我、災害などから命を救われること、あるいは心が重く沈んで苦しかった状態から幸福感で満たされた状態に変化することなどを想像するでしょうが、「阿弥陀仏の救い」は私達を浄土往生させ、仏に成すことであって、私達の想像している「救い」とは全く異なると思います。特に親鸞会で聞いてきた私は、実際の「阿弥陀仏の救い」と信前に抱いていた「阿弥陀仏の救い」に対するイメージとはまるで違いました。高森顕徹会長から長いこと聞いてきた者は、特に「阿弥陀仏の救い」について間違ったイメージを強く持っている場合が多く、実際に如来の願心を聞き受けても始めは混乱するのではないかと思います。この前、それについてこの記事にて述べさせて頂きました。

これが「お救いの中にいる」だとしっくりきますね。阿弥陀仏は五劫永劫の願行を成就され、南無阿弥陀仏と成りましまして既に私の元へ届いています。いつでも、どこにいても、絶えず「助けるぞよ」とお喚びづめです。「お救いの中にいる」のです。これは信前だろうと信後だろうと変わりません。変わるのは、「助けるぞよ」の勅命が、この私一人に向けられている真実のお言葉であると受け容れたかどうかです。本願の名号、なんまんだぶを聞いて疑いないのを「」といい、それを「信心」というのですから、世間的な意味の救い、また我々が今まで経験したことから想像している救いとはどうしたって異なるのです。

親鸞会では何が「」か、何が「信心」かということが正しく説かれません。それどころか、「」、「信心」に至るまでの道程を横の道として設け、善知識方が示されてもいない救済の方法論をでっち上げて会員の獲信・往生を妨げています。何かハッキリした自覚や、飛び上がるような喜びを想像してそれを追い求めているような人も少なくないかと思いますが、そんな自分の思いを優先して如来の願心を聞かない、お念仏申さないようでは情けないです。私の「こうなりたい」「ああなりたい」は私の欲望であって、それをかなえる本願ではありません。それにそれがかなったところで欲望はキリがなく、いつまでも満たされないことを如来はとうに知り尽くして、そのような私を救うべく南無阿弥陀仏と成りましました。私はそのような本願のお心を、己を空しくしてただ聞き受けるばかりです。どうか本願の仰せを首を垂れて聞き受け、念仏して浄土往生の本懐を遂げて頂きたいばかりです。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

せっかく目の前に届いていても、受け取る側が拒否していたら受け取ることはできません

もはや日本人の4人に1人は65歳以上という超高齢社会です。それでいて、この先はどうか知りませんが今の高齢者はそこそこ財力もありますから、テレビやラジオ、ネット等の通販のよいカモになっています。若い人達は在宅率が低く、中々連絡を入れてこない、連絡を入れてきてもすっぽかし率も高いのが問題ですが、高齢者は注文したことを忘れている、何を注文したか覚えていないことが多いというのが問題です。

何も高齢者に限らずですが、よく「中身は何ですか?」と聞いてくる人があります。これ実は困る質問なんです。記事欄や外装に明記してあれば答えられますが、書いてなければ答えられません。自分が梱包したわけではないので、配達員は何でも知っているだろうという思い込みは止めてもらいたいものです。中には「爆弾でも入っているんじゃない?」みたいなことを言われたこともありますが、アホかと思います。爆弾なら、もう輸送中の衝撃か何かでとっくに爆発してるわ。命狙われる悪い行いでもしてるんですかね? また代引きで中身が何なのか分からないから支払えないとか平気で言ってくる人もいますが、頼まないものが代引きで来るかよ? あんたの蒔かない種は生えないだよって感じです。

こちとら熱中症の危険も覚悟して、連日の真夏日・猛暑日の中をフラフラになりながら荷物を届けに回っているというのに、何を頼んだのか忘れているなんて言語道断です。せっかく目の前に届いていても、受け取る側が拒否していたら受け取ることはできません。また、そこまで届けようとしてきた配達員はじめ全ての関係者の苦労が水の泡です。自分で頼んだものくらい、メモって冷蔵庫などに貼るか、スマホなどに記録しておいてもらいたいものです。後で、やっぱり頼んだものだから受け取りたいとか平気で言ってくる人もありますが、本当に止めてもらいたいです。


同じように、阿弥陀仏は五劫永劫の願行を成就して南無阿弥陀仏となりましましたのに、これを受け取る側が拒否していたら受け取ることはできません。もう届いているのに、疑ったり計らったり、余計な詮索や先入観から方法論に走ったり、拒否しているつもりはなくてもそうやって撥ね付けていたらそれは拒否しているのと同じことです。そうやって自分の殻に閉じこもって本願を聞かないようでは、せっかくの阿弥陀仏の御身労も、釈尊や師主知識方の骨折りも、その他有名無名の仏法を伝えて下された方々の苦労も台無しです。

一体どれだけ多くの有情非情の「おかげさまで」こうして生きて弥陀の本願をお聞きし、念仏申しているのか分かりません。どうか余計な詮索や先入観を交えることなく、我が胸に持ち替えるでもなく、「助けるぞ」の仰せを仰せのままに聞き受け念仏して頂きたいものです。どっかのジジババよろしく受取拒否しないで受けて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

「私に間違いなく本願力が届いているかどうか、それを受け容れているかどうか」が大事

私は日常、荷物を渡す際にお客さんに伝票に押印やサインを求めます。中には印をどこに押せばいいかとか、印の向きとか、サインの場合は字のきれいさ等を気にする方あります。質問されれば「ここです」とか答えはしますが、別にどこに押してあろうが、逆を向いていようが、ミミズが這ったような字であろうが心配ありません。大事なのは、

本人に間違いなく荷物が届いているかどうか、本人が荷物を受け取ったかどうか

です。伝票の押印やサインはあくまで会社の都合、受け取る側にとっては重要ではありません。また伝票は本人宛てのものであっても、荷物が別人宛てであったら大変です。なので受け取る側は伝票ではなく、荷札の住所氏名で確認する必要があります。まぁ、それが合っていて中身が違っていたりしたら、それは配達する側の責任ではないので悪しからず・・・。



さて、煩悩にまみれ、深い罪業を抱えて、生死流転を際限なく繰り返して迷い苦しみ続ける私達を「むねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけ」がいまします。本願がすでに成就して阿弥陀と成っているということは、私を救う本願力が私にはたらいているということです。私はいま、ここで本願をお聞きし、南無阿弥陀仏の六字のこころをよく心得て念仏するのみです。大事なのは、

私に間違いなく本願力が届いているかどうか、それを受け容れているかどうか

です。まぁ前者は、本願がすで成就しているのでよいのですが、問題は後者、我々の側がこれをそのまま、素直に受け容れているかどうかです。「そんなうまい話があるかい」「自分には関係ない」と否定するのは勿論、「そんな本願があるんだぁ、ふーん」と絵空事のように眺めていたり、「本願に救われるにはどう聞けばいいのか、どうすればいいのか」と方法論に迷ったりするのも、本願力がはたらいていながらこれを受け容れず、撥ね付けている姿です。

同じく念仏していても、南無阿弥陀仏のいわれを了せず、それでいて自分の善根と捉えて助かろうというのであればそれは「おぼつかなきこと」です。また、信心があってもお念仏しないのはその甲斐がないと仰せられています。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

信心の内容は南無阿弥陀仏のいわれであり、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」ということですから、信心と念仏は不離の関係であります。他力の信心とは、「ただ南無阿弥陀仏」です。最後に、御文章のお言葉より南無阿弥陀仏のいわれを伺いたいと思います。

ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。
(3帖目2通)

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

この世に生まれ、生きていることは決して当たり前ではない

最近激しく暑いですね(;^ω^) 真夏日は当たり前、35℃以上の猛暑を観測する地点もチラホラという有様です。日本の場合は多湿というのもあってエジプトやインドとは質の違う暑さです。健康体の私でも相当こたえていますから、体の弱い方、子供や年配の方は特に気をつけて頂きたいものです。水と塩はセットで摂り、エアコン等を利用して熱中症対策をしましょう。よく電気代がかかるからとエアコンを使わない方がいますが、命あっての物種ですし、救急搬送されて治るまでの費用を考えたら安い安い(´・ω・`)

あまりに暑いので子供とプールに行ってきましたが・・・早速やらかしてくれました(~_~;) 夜中の2時に子供が声をかけてきたので何かと思ったら、大の方を漏らしていたのです・・・(;´Д`) 小ならたまにということはありましたが、大は小学校に上がってからは記憶になく、「マジかよ」と汗びっしょりになりながら始末に追われました。子供は後先考えず体力の限り遊んで食べるので、大人が行き過ぎをセーブしないといけませんね。子供のでさえ実に不快なのに、これが首吊った親族の処理をするとなると・・・気が狂っちゃいますよ(´;ω;`) この記事を読んでいる人の中にはいないとは思いますが、首を吊るのは止めましょう。いやマジで。


子供がいたらいたで、その世話や教育で苦労します。やらかしてくれた時はとてもそうは思えませんが、ただそれでも子供が存在して生きているというのは有難いことなのだと今思います。先日、友人のお子さんが死産だったという報告を受けました。まことに悲しいことです。この世に生まれ、生きていることは決して当たり前ではないことを思い知らされました。望まれた命であっても、中にはこの世に生まれてくることさえもできない子もいるということを知ると、やはり苦しい時であっても、こうして生きて念仏していられるのは実に多くの有情非情の「おかげさまで」なのだな、自分も沢山苦労や迷惑をかけてここまで大きくなって生きてきたんだな、そして今も多くの命を犠牲にして自分の命を保っているのだなと、今ここを生きているという有難さを感じなければならないなと思います。今、「生まれてきてくれてありがとう」と母親が赤ちゃんに言葉をかけるその意味が、ようやく少し分かった気がします。今、自分がこうして生きている意味を、多くの命で命を繋いでいる意味を、よくよく考えなければならないと思った出来事でした。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

どっちの人生を生きたいか

己の夢の実現、欲望の追求の人生

と、

おかげさまでと感謝する御恩報謝の人生

どっちの人生を生きたいか。




【参照】
『あさ川進の、宗教と私』【投稿文】念仏者の生き方
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード