なぜ会員はあんなに熱心に求めているのに、誰も助からないのか?

【質問】
なぜ会員はあんなに熱心に求めているのに、誰も助からないのでしょうか?



【回答】
説く側の問題からいうと、親鸞会では、仏願の生起・本末が説かれていないから、つまり十八願が正しく説かれていないからです。


これが全てなのですが、会員の熱心な活動についての質問なので、それについて答えたいと思います。


会員は、一言でいいますと、雜行やりまくり、自力の押しまかせです。
親鸞会の会員は何を熱心にやっているのかと言うと、主に聴聞、おつとめ、そして財施と破邪顕正です。
ところが、聴聞と言っても因果の道理や十九願を聞くことは真宗で聴聞とは言いません。仏願の生起・本末、南無阿弥陀仏のいわれ、十八願のこころを聞くのが聴聞です。しかし、最初に書いたように、肝心、要の十八願が正しく説かれていないのでは、正しく聞くこともまた難しです。
おつとめは、「善をしなければ信仰は進みません」という親鸞会のバイアスがかかっている状態でするので、本来は阿弥陀仏のお助けを聞かせて頂くものが、自力回向の行となってしまっています。更に、親鸞会教義のバイアスがかかった状態で正信偈・御文章を拝読するので、間違った理解で読んでしまうことも問題です。
財施と破邪顕正は、獲信の因縁として修せよと教えられた行ではありません。それどころか、正しい意味でのこうした行いも、獲信のため、往生のためになるだろうとやっていては雜行と嫌われ、捨てよと教えられます。


会員が勧められる活動に熱心なのは、熱心に求道していった結果に救いがあると思っているからです。自分の熱心さ、真剣さを間に合わせようとしています。
そんなものは全く間に合わないことを如来はとっくにご承知で、そのまま救う本願を建立されました。その本願は南無阿弥陀仏となって私に回向されているので、私としては本願を計らいなく聞き受けるのみです。

活動は一生懸命、熱心に取り組んでいても、方向が間違っています。往生、獲信のために念仏以外の行を修める者を「余の雜業の行者」と親鸞聖人は仰せですが、どれだけやろうと阿弥陀仏の光明はそういった人を照摂しないのです。
会員の皆さんも、早く誤りに気付いて邪説から離れ去り、念仏一行をふたごころなくもっぱら修する行者になって頂きたいと思います。
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Q&A(5)ー外に賢善精進の相を現じて(2)

Q&A(4)ー外に賢善精進の相を現じて(1)の続きです。



親鸞聖人は、『教行信証信巻』や『愚禿鈔』で善導大師の至誠心釈をを独自の訓点で読まれています。
今回は『愚禿鈔』から引用します。親鸞聖人が訓点を変えられた箇所を色を変えて示します。


『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生、身口意業に修するところの解行、かならず【真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。】貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善となす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時、急に走め急になすこと、頭燃を灸ふがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ【真実心のなかになしたまひしによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なりと。】また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。

現代語訳(『本願のこころ』(梯實圓著 法蔵館)72、73ページより)は以下の通りです。

『観経』には、一つには至誠心といわれています。至とは真という意味であり、誠とは実という意味です。浄土に往生しようとする一切衆生は、身の振る舞いも、言葉も、心に思うことも、学問も実践も、かならず【如来が真実心の内に成就して与えてくださったものを須る(用いる)べきことを明らかにしたいと思います。外面に賢者、善人のように勤め励む姿を現してはなりません。心の内には虚仮の思いを抱いているからです。】凡夫は貪り、怒り、よこしま、偽り欺きの心が絶えずおこって、悪い性質をとどめることができず、まるで毒蛇や蠍と同じような恐ろしい心をもっているからです。たとえ身・口・意の三業には、賢善な人のように振る舞っていたとしても、煩悩の毒の雑じった善であり、見せかけだけのいつわりの行というべきで、決して真実の業とはいえません。もし、このような煩悩の雑じった心を起こし、修行するならば、たとえ昼夜不断に、頭の髪の毛に着いた火を払いのけるほど懸命に修行したとしても、すべて毒の雑じった善といわねばなりません。このような雑毒の行を回向して浄土に往生したいと求めても、決して往生できません。
なぜならば、かの阿弥陀仏がまだ修行者として菩薩の行をなされたとき、身の行いも言葉の行いも心の持ちようも、ほんのわずかな時間であっても、【すべて真実心をもってなされたことに由るからです(由るというのは、如来を経て、如来の行を行じ、如来によりしたがって、如来の真実を用いるということです)。およそ如来が施し与えてくださった功徳をいただいて、浄土に生まれていこうと求めるのであれば、それはみな真実である。】
また真実というのに二種があります。一つは、自力の修行によって自己を利益し真実になろうとする自利真実であり、二つには如来の利他の働き(他力)によって与えられた真実で、それを利他真実といいます。



こうして前後も含めて拝読してみますと、至誠心をおこせといわれている意味がよく分かります。すなわち、自己には真実はないから、如来の真実心を用いるのですよと教えられているのです。真実心とは、如来より回向されるものなのです。


★Q&A(4)と(5)のまとめです。

善導大師が

「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」

と教えられたのは、

「内外不一致ではいけませんよ。外に賢善精進の相を現じていても、内が虚仮ではいけませんよ。心を真実にしなさいよ」

ということです。しかし、私たちには真実心というものはありませんから、阿弥陀仏から真実心を頂きなさいよと教えられていることになるのです。

そのことを法然聖人も教えられ、親鸞聖人はさらにハッキリ教えてくだされました。

したがって、上の善導大師のお言葉を根拠にして、今の救いを求める人に対し、あたかもド真剣に善をすることが救いに関係あるかの如くに説くことは不適当であると言わざるを得ません。

(つづく)





(補足)

林遊@なんまんだぶつ様より以下のコメントを頂きました。記事と合わせて読んでいただきたいと思います。

親鸞聖人は読み替えていらっしゃるのではありません。引文してこのように読んだ方がより深く阿弥陀如来のお心が窺えるという意味で訓点を変えていらっしゃいます。

Q&A(4)ー外に賢善精進の相を現じて(1)

会員の人から実際に受けた疑問点や会員の人が疑問に思うであろうことをQ&A形式で少しずつ取り上げたいと思います。もっといい回答や意見があれば教えて頂きたいと思います。

Q&A(3)の続きです。


Q、
善導大師は「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と、ド真剣に善をすることを勧められています。これは、早く弥陀の救いを求める人に説かれた教えだからこそ、親鸞聖人は「善導独明仏正意」と善導大師を絶賛されているのではありませんか?



A、
まず、「善導独明仏正意」と親鸞聖人が善導大師を賞讃されたのは、ド真剣に善をすることを勧めたからではありません。『六要鈔』には、「善導独明仏正意」を次のように解釈されています。

大師の讃、「善導」等とは、『選択集』の意は諸師多しといえども、独り今師に依る。蓋し仏証を請して古今を楷定し、明かに別意弘願の正旨を顕わすが故なり。これに依りて、或いは弥陀の化身といい、或いは経文を勘みて直ちに教主釈尊の再誕という。更に余師に準ずべからざる者なり。

弘願(18願)の正しい意を明らかにされたので、誉め讃えられたことが分かります。


次に、早く弥陀の救いを求める人はどうすればよいのかについては、前回、Q&A(3)ー速やかに生死を離れようとおもうならに書いた通りです。18願一つを求めて下さい。


最後に、「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」は、『観無量寿経疏・散善義』に出てくるお言葉です。

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。

と『観無量寿経』には、阿弥陀仏の浄土に往生しようとするものは「至誠心、深心、回向発願心」の三心をおこさなければならないと説かれています。
『観無量寿経』の三心は、定善、散善、念仏と組み合う場合がありますので、必ずしも一つにはなりません。
しかし、本願の念仏と組み合う場合は、本願の「至心、信楽、欲生」と同一になります。
善導大師が『観無量寿経』の三心を解釈されるとき、本願の念仏と組み合う三心として註釈されることに主眼が置かれていました。
「外に賢善精進の相を現じて~」は、その至誠心釈に出てくるお言葉です。
親鸞会では、一部分を取り出して教えられているので、ここでは前後を含めてみてみます。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。

このお言葉によりますと、浄土に往生しようとするものは、至誠心(真実心)をおこして、真実の自利・利他の行を実践しなければならないように見えます。

しかし、次の深心釈の「機の深信」には、現に罪悪生死の凡夫であり、さとりを得るてがかりさえもない自己であると信知したことが述べられています。

これがどういうことなのかについて、『本願のこころ』(梯實圓著 法蔵館)66~68ページから引用します。

その機の深信の内容は、明らかに浄土にふさわしい真実はまったく持ち合わせていない自身であるといわれているとしなければなりません。そのようにいわれている善導大師が、至誠心(真実心)を発せといわれたのは、私に真実心をおこせと要求されていたのではなくて、もっと違った意味を表そうとされていたのではないかと最初に気づかれたのは、法然聖人でした。醍醐本『法然上人伝記』「三心料簡および御法語」のなかに、善導大師の至誠心釈にこめられていた深い意味を、次のように読み取っておられます。

ここを以て今の文に「正しく彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行ぜし時、乃至一念一刹那も、三業の所修、皆真実心の中に作すに由るべし」云々。阿弥陀仏因中の真実心中作に由る行こそ悪雑はらざるの善なるがゆゑに真実と云ふなり。その義なにを以て知ることを得、次の釈に「凡所施為趣求亦皆真実」文。ここに真実を以て施すとは何者に施すと云えば、深心の二種の釈の第一、罪悪生死の凡夫といえる、この衆生に施すなり。造悪の凡夫、すなわちこの真実に由るべき機なり。云何が知ることを得る。第二の釈に、「阿弥陀仏四十八願衆生を摂受す」等と云々。かくのごとく心得べきなり云々(『法然上人伝全集』七八二頁)

少し難しい文章ですので、現代語訳をしておきます。

「善導大師のこの文は、阿弥陀仏が因位の時に真実心をもって作された(行)に由るべしといわれているのです。阿弥陀仏が因位の時になされた行こそ、少しの悪も雑わらない善ですから真実というのです。そのような道理をどうして知ることができるのかといえば、次の釈に、<およそ施為趣求するところ、またみな真実なり>といわれているからです。<施為>とは大悲を以て衆生に功徳を施し与える利他の働きのことであり、<趣求>とは智慧をもって涅槃のさとりを極めようとする自利の活動のことです。ここに(如来が)真実心を以て施すといわれていますが、何者に施されるのかといえば、次の深心釈に示されている罪悪生死の凡夫に施されるのです。深心釈には、一つの深心(真実の信心)を二つに開いて、救いの目当てとなっている機(自身)についての深信と、それを救う本願の法についての深信の二種があげられています。その第一の機の深信に<罪悪生死の凡夫>といわれている<この機>に施されるのです。罪悪を造りつつある凡夫こそ、取りも直さずこの真実(如来の真実心)に由るべき機なのです。どうしてそのようなことがわかるかといいますと、深心の第二の釈、すなわち法の深信の中に<阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう>等」といわれているからです。このように至誠心釈は心得るべきです。


この法然聖人の結論を承けて、親鸞聖人は至誠心釈を独自の訓点で読まれるのですが、長くなりましたので、それについては別の記事で書きます。

(つづく)

Q&A(3)ー速やかに生死を離れようとおもうなら

会員の人から実際に受けた疑問点や会員の人が疑問に思うであろうことをQ&A形式で少しずつ取り上げたいと思います。もっといい回答や意見があれば教えて頂きたいと思います。

Q&A(2)の続きです。



Q、
前回、善導大師・法然上人のお言葉を根拠に、諸行往生を廃されたとあなたは主張しました。しかし、親鸞会は、諸行往生でないことは明らかです。高森先生が、諸善をしたら助かると説いたことは一度もありません。
仏教の根幹は因果の道理です。因果の道理の結論は、廃悪修善。そのように、釈尊はじめ十方諸仏が、廃悪修善を説かれたのは、弥陀の十九の願意を開顕し、十八願に相応させるためです。善を実践するのは当然ではありませんか?



A、
仏教の目的は成仏であり、言い換えると、生死から離れることです。

速やかに生死を離れようとおもうならこうしなさいと、法然上人は『選択本願念仏集』の「三選の文」で明らかにされています。この法然上人のお言葉を、親鸞聖人は『教行信証行巻』に引文されています。

○はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


『尊号真像銘文』でも次のように教えられています。

○またいはく、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかに疾く生死をはなれんとおもへとなり。
「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・浄土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。
「選入浄土門」といふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法のなかに選びて浄土門に入るべしとなり。
「欲入浄土門」といふは、浄土門に入らんと欲はばといふなり。
「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。
「選応帰正行」といふは、選びて正行に帰すべしとなり。
「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。
「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。
「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。
「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。


存覚上人は『浄土真要鈔』の最初の章で「三選の文」を引用された後、次のように教えられています。

○わが親鸞聖人の一義は、凡夫のまめやかに生死をはなるべきをしへ、衆生のすみやかに往生をとぐべきすすめなり。
そのゆゑは、ひとへにもろもろの雑行を抛てて、もつぱら一向専修の一行をつとむるゆゑなり。これすなはち余の一切の行はみなとりどりにめでたけれども、弥陀の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらず。
念仏の一行はこれ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり、諸仏証誠の法なればなり。釈迦・弥陀および十方の諸仏の御こころにしたがひて念仏を信ぜんひと、かならず往生の大益を得べしといふこと、疑あるべからず。
かくのごとく一向に行じ、一心に修すること、わが流のごとくなるはなし。さればこの流に帰して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるべし。


以上のように、勧められているのは18願の行信一つであり、他の一切の行は「なげすてさしおくべし」「さしおくべし」と教えられています。


反対に、19願の行にあたる定散二善については、

○また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(教行信証信巻)

と、方便化土に往生する遠回りの善行であると親鸞聖人は教えられています。


すみやかに生死を離れようとおもうならば、法然・親鸞両聖人のお勧めに従い、18願一つを求めましょう。


最後になりますが、あなたがご指摘のように、仏法者ならば悪を慎み善に励むのは当然です。日常生活において、悪を慎み善に励むことが大切な心がけだと思います。

しかし、自己の修める善が獲信の因縁になるのだとか18願の救いに関係あるなどと主張するのならば、そのように教えられた根拠を提示して下さい。

(つづく)

Q&A(2)ー『観無量寿経』の「流通分」より

会員の人から実際に受けた疑問点や、会員の人が疑問に思うであろうことを、Q&A形式で少しずつ取り上げたいと思います。もっといい回答や意見があれば教えて頂きたいと思います。

今回はQ&A(1)の続きです。



Q、
18願が弥陀の御本意であり、お釈迦様・諸仏の出世本懐であることは認めます。しかし、阿弥陀仏が19願を建てられ、お釈迦様が『観無量寿経』に定散二善を説かれたのは実行させるためではありませんか?



A、
お釈迦様は『観無量寿経』で定散二善を説かれていますが、最後の「流通分」で、阿難に定散二善ではなく念仏を付属されています。

○仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。


そのことについて、善導大師・法然上人は次のように教えられています。

○「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(観無量寿経疏 散善義)

○釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。
ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。(選択本願念仏集)



このように、諸行往生は廃され、念仏往生が立てられています。

そのような善知識方のお導きにより、親鸞聖人は19願を離れたと『三願転入の御文』で仰っています。

○ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。(教行信証化土巻)

親鸞会でいわれるように、善知識方のお導きにより19願から出発したとは、仰っていません。

(つづく)

Q&A(1)ーお釈迦様の一生は?

これから何回かにわたって、会員の人から実際に受けた疑問点や、会員の人が疑問に思うであろうことをQ&A形式で少しずつ取り上げたいと思います。

もっといい回答やご意見があれば、是非コメントして下さい。記事にて紹介させて頂きます。





Q、
19願の善や定散二善は獲信の因縁として修する必要、勧める必要がないなら、廃悪修善ばかり教えられたお釈迦様の一生は何だったのでしょうか?



A、
○釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。(教行信証教巻)

○しかれば『大経』(上)には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。
この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。
しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。(一念多念証文)

○如来所以興出世 唯説弥陀本願海(正信偈)



以上のようなお言葉から、親鸞聖人は、お釈迦様・諸仏の出世本懐は阿弥陀仏の本願一つを説くことと教えられていることが分かります。

18願は、阿弥陀仏の御本意の願であり、お釈迦様の出世本懐であり、諸仏出世の直説ですから、18願一つを勧め、求め、18願によって救われることは弥陀・釈迦・諸仏の御心にかなっていることです。


そして、それ以外の法門(八万四千の法門)は、阿弥陀仏の本願(本願一乗)に導くために説かれた法門であると教えられています。

○おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。いま一乗と申すは本願なり。(一念多念証文)


(つづく)
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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