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ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(4)

高森顕徹会長の説く「聞く一つ」の誤りをあと1つ挙げるとすれば、

(4)「聞く」目的が間違っている

からと言えるでしょう。この記事等でも書きましたが、親鸞会の「仏教を聞く目的」「真宗を聞く目的」は

浄土往生、成仏

とは言っていてもそれは建前であって、会員の本音は

・「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
・アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。


にあります。そのことは親鸞学徒信条に、

一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます
一、われら親鸞学徒は、阿弥陀仏の御本願を聞信すれば、一念往生、現生不退、絶対の幸福を獲ると教え給うた親鸞聖人のみ教えを信じます。


とある通りです。死後の往生極楽も結構なことだが、それよりも何よりも現実のこの苦しみを救うてもらいたい。人生の目的を達成して絶対の幸福になりたい。「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜を獲得したい。このままでは何のために苦しい人生を生きてきたのか分からない。多くのものを犠牲にして親鸞会で活動してきたのか分からない。せっかくここまで求めてきたのに、何も獲られないで終わりたくはない。流した涙の一滴一滴が真珠の玉となってその手に戻るという、一切の苦労が報われる世界へ早く出たい・・・

要するに、会員は阿弥陀仏の願いを聞き受けようというのではなく、自分の欲望を叶えてほしい、叶えて下さいという気持ちで聞法し、活動しているということです。そのために辛くても、苦しくても、理不尽な目に遭ってもそこを耐え忍んでいるというわけです。とにかくこの世が「絶対の幸福」にならなければ死後の救いも無い、と教えられるので、自己の欲望とも相まってそのような「夢・幻のような現世の幸せ」を追い求めているのです。違いますか? そういう目的違いの人は救われないと教えられています。

寺参りしている人の目的が「死後の華降るお浄土」なら、会員はそれが「この世で、きわもない大功徳大利益を頂いて、幸せ一杯、満足一杯で生活させて貰えるようになる(※)」という「現世利益」に変化しただけです。この場合、前者はまだ欣求浄土の思いが見られますが、後者は浄土を願ってさえいないので、浄土真宗からは尚更遠いです。「浄土真宗」「親鸞」会と言いながら、その目的からして既にズレてしまっていることに、会員の皆さんは早く気付くべきです。


このように言いますと、あるいは、

・後生の一大事(無間地獄に堕ちるという一大事)の解決のためだ!

と反発する人もあるでしょう。しかし、これも浄土真宗の目的から幾分ズレてしまっています。こちらは、要するに地獄に堕ちたくないから、地獄行きを免れるために、ということでしょう。

確かに、死後の地獄が恐ろしいというのが浄土真宗を聞くきっかけにはなると思いますが、浄土真宗の目的はあくまでも自身の往生成仏(往相)と、仏果を得ての必然である衆生済度(還相)です。二度と迷わない身になりたいと出離を目指した上での18願他力の救いですから、ただ地獄を免れるために聞くというのは非常に程度が低く、真宗の目的にかなっていないと思います。

また、単に地獄行きを免れたかったら、わざわざ親鸞会で苦しい思いをせずとも神を拝めばよいのです。一生を費やして苦しい活動の日々を送った挙句、解決できずに後生無間地獄に堕ちて八万劫中大苦悩をひまなく受ける位ならば、神を拝んで蛇に生まれた方が比較にならないほどマシだというものです。

ところで、「後生の一大事」という用語においても、実際の意味と親鸞会で使われている意味とは随分と異なります。「後生の一大事」という語は主に蓮如上人が使われておりますが、上人が度々仰る「後生の一大事」という言葉は

(a)凡夫が浄土往生し、仏に成るという一大事。
(b)凡夫が浄土往生し、仏に成れるかどうかという一大事。


といった意味で使われていることがほとんどです。親鸞会のように

(c)信心決定していない者は必ず無間地獄に堕ちるという一大事。

という使われ方はされていません。それは高森信心の色眼鏡を外した状態で拝読すればよく判る事です。ちなみに、「信心決定せずに死んだならば、再び迷い苦しみの世界へ戻ることになる。最悪、地獄へ堕ちる」ことを「後生の一大事」ということは問題ありません。ただ蓮如上人は、「信心決定した人が死ねば、極楽往生でき弥陀同体のさとりを得て、永生の楽果を受ける」意味で「後生の一大事」の語を使われる事が多いようです。


親鸞会が「必堕無間」の意で「後生の一大事」を説く目的は会員の皆さんに獲信・往生して頂くためではなく、皆さんを利用して「打倒本願寺」「組織拡大」「会員倍増」といった「高森会長の私利私欲を満たすため」です。それは、往相の回向である真実の教行信証を説き与えずに化土の教行信証まがい、八万四千の法門まがいの邪偽の教行信証を授けていることからも十二分にお判りになるでしょう。

真実の教行信証」によって私達は真実の報土に往生するのです。「真実の行信」は如来回向の「念仏一行」であり、「至心、信楽、欲生」の「他力信」、本願に対して疑蓋無雑の「他力の一心」です。

化土の教行信証」によっては方便化土にしか往かれません。「化土の行信」は、行は19願の場合は「諸功徳」であり「定散二善」、要は「雑行」です。信心は「至心、発願、欲生」の「自力信」、「定散心」です。

邪偽の教行信証」によっては永く三途に沈むのみです。「邪偽の行信」は、行は親鸞会の場合は「助正間雑、雑行、悪業悪行」です。信心は「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、「自力心」の者がほとんどで、救われたと言っている者でも話を聞いてみれば「創価学会の信心」の者ばかりです。

親鸞会では「化土の行信」を根拠として、それを「真実の行信」を獲得するために絶対必要な手段であるかの如く教え、その実「邪偽の行信」を吹き込んで会員を組織拡大に利用しています。「化土の行信」からは化土へしか往けませんから速やかにこれを捨てて、「真実の行信」を賜りなさいと教えられているのが親鸞聖人です。まして「邪偽の行信」などに執心していては迷いの世界を流転するという果しか得られません。

このようなことですから、高森教をまともに聞いていては報土化土どころか、三悪道は必至です。それどころか「自力念仏の者は必堕無間」と念仏誹謗して慚愧あることなしですから、必堕無間もあながち間違いとは言い切れないのであります。


絶対の幸福」などというのは決して浄土真宗の信心ではありません。それは「高森の信」「創価学会の信心」であって「自力の信心」ですから、そんなものを獲たい、幸せになりたいと思って、いくら高森教を「聞く一つ」と聞き続けていても「真実の行信」は獲られません。

専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず「化身土文類」真門決釈

で、如来広大の恩徳を知ることができないのですから、専修にさえならず雑心極まりない者が大慶喜心を獲られないなど当たり前すぎるほど当たり前のことです。会員の皆さんは、聞いている教も、行も、信も、証も、全て間違っているから救われないのだと知って直ちに「高森の教行信証」を捨て、速やかに「真実の教行信証」に帰依して頂きたいと思います。

以上をもちまして、「ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか」の問いに対する答えとしたいと思います。



【参照】
『21世紀の浄土真宗を考える会』「後生の一大事」といふ事
『飛雲』謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長

(※)・・・『こんなことが知りたい①』p.21
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ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(3)

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(2)

の続きです。浄土真宗は、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」、すなわち

「必ず助けるから、安心して私にまかせなさい」という阿弥陀仏の仰せ

を、計らいを交えずにそのまま聞き受ける以外にありません。また、聞くままがすなわち信心であります。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。『一念多念証文』

このようなことですから、浄土真宗の教えは「聞く一つ」、正確に言うなら阿弥陀仏が「聞かす一つ」だと言えるのです。本願力がはたらいていることを疑い無く聞くことによって、報土の真因が決定する、つまり「信心決定」するということを、「行文類」では六字釈の中で

「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。

と仰せられています。「本願の名号」も「本願」も「願力」も、共に「南無阿弥陀仏」に他なりません。私達はただ御回向のなんまんだぶのはたらきによって往生成仏せしめられてゆくのです。

私の真剣、私の求道、私の聞いた力などが少しでもプラスになって救われるのではありません。全て本願力のはたらきによって信ぜしめられ、称えさせられ、仏に成らせられるのです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。「信文類」総決

とある通りです。こうして、往生の因も果も全て阿弥陀仏がお与えになったものであり、私の側には迷いの世界を出るだけの因は全く無いし、出離の因を成就するだけの行を修めることもできないということに疑い無いのが「機の深信」です。そして、ひとえに「南無阿弥陀仏」の独用(ひとりばたらき)で往生成仏せしめられるということに疑い無いのが「法の深信」であります。

これが「他力の信心」を機と法に開いた「二種深信」の内容です。「南無阿弥陀仏」のおはたらき一つで助かるということは、私の中には往生の資助となるものが何も無いということであり、願力にまかせることによってのみ往生を得るということです。これは「他力の信心」を獲て知らされることで、私が真剣必死に求道して、その結果知らされることが「機の深信」ではありません。私の求道で知らされることは「自力の浅信」の範疇のことです。

親鸞会の会員は、真剣必死に求道していった結果知らされる自分の姿が「機の深信」だと思っている節がありますが、勘違いも甚だしいです。「他力の深信」と「自力の浅信」の間には如何とも踏み越えられない深い深い溝があることを知らねばなりません。

南無阿弥陀仏」のおはたらきが私の心に届いたのが「信心」、それが口に現れれば「念仏」です。だから念仏申すままが信心であり、「南無阿弥陀仏」のおはたらきにまかせているということです。おはたらきとか、信心と言われても色も形も無いので愚鈍な衆生は分かりませんが、要は念仏を称えることの他には無いのです。

このようなことですから、「南無阿弥陀仏」のおはたらき一つで助かる、というのは言葉を換えれば「念仏一つ」で助かる、ということです。これはすなわち、「念仏一つ」で助かる、と受け容れた「信心一つ」で助かる、ということです。そのように「聞く一つ」なのが浄土真宗です。


ところが親鸞会は違います。これまで高森顕徹会長の説く「聞く一つ」が誤りである理由として

(1)そもそも親鸞会の教えは「聞く一つ」ではない
(2)「聞く」内容が間違っている

を挙げました。親鸞会では真実の教行信証とは別の「因果の道理」を聞かせ、真実の信心を獲るためと称してその実践を勧めています。これでは当然「聞く一つ」ではありません。「仏願の生起本末」にしても邪義雑じりの「仏願の生起」を教え、加えて「末は19願・20願」だとか言っているので、「聞く」内容が間違っています。

このように「聞く一つ」ではないし「聞く」内容が間違っているので、当たり前ですが「信心」も間違っています。「」と「」が間違っていて「」は正しいなど有り得ません。今回挙げる、高森会長の「聞く一つ」が誤りであるその3番目の理由は、

(3)「信心」の内容が間違っている

です。高森会長が「真実の信心」とは異なる「創価学会の信心」を教えていますので、そんな教えを聞き求めて「真実の信心」を獲られると考える方が気ちがい沙汰です。

信心」の内容が間違っているのは下の【参照】にリンクしてある記事をご覧頂けばよろしいかと思います。が、今は何より会員の皆さんに「信心」についての理解、また、「信心」を獲た、「信心決定」した、と聞くとどのようなことを思い浮かべるか聞いてみた方がよりハッキリするでしょう。どのような理解、想像をしているか。

・絶対に崩れない変わらない、永遠の幸福になったこと
・苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わったこと
・現在只今、苦悩渦巻く人生が、光明輝く生活の出来るようになったこと
・真剣必死に求道聞法していった先のこと
・真実の自己と、弥陀の誓願まことの二つがハッキリしたこと
・実地、地獄一定と堕ち切った体験をすること
・十劫以来、呼び続けて下されていた阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫く体験をすること
・地獄一定と極楽一定が同時に知らされること
・極めてハッキリと救われた鮮明な体験をすること
・一切経を読み破った体験をすること
・「さとりの52位」の内、51段の身になること


恐らくこのようなことではないでしょうか。これが「絶対の幸福」だと「創価学会の信心」を教えられ、そんな体験をすること、そんな身になることに憧れて、日々推進される活動をこなしているのではないでしょうか。あるいは

無常迅速、罪悪深重、信心決定しなかったから後生は必堕無間だ!

と無常と罪悪、死後の恐怖にせめたてられて、地獄へ堕ちたくないから求めているという人もあると思います。こんな教えを聞き続けて、「あぁ有難いなぁ」と思っている方が何人あるのでしょうね。確かに私も、

人生の目的は絶対の幸福になり、未来永遠の幸せに生かされることだ

と聞いて、実際にその身になれると教えられた当初は心の底から救われた思いがしました。その教えを周りの皆にも伝えようと『なぜ生きる』の本を片手に知人に声をかけもしました。ところが段々喜びも薄れ、

聞いても聞いても、頑張って活動してもそのような身にはなれない。自分がなれないのは仕方ないとしても、先輩達も、どうやら担当の○○講師でさえもまだ信心決定していないようだ。「人生の目的が、現在に完成する」の「現在」っていつのことだ? 無常はいつやってくるか分からない。もしかしたらこの帰りの車で事故を起こして死んでしまうかも知れない。後生の一大事とは大変な問題で、20年や30年で獲られるような信心ではないと言われるが、いつ解決ができるのか。とは言え求めなければ後生は必堕無間だからなぁ・・・。他に聞ける場所や教えてくれる先生はきっと無いのだろうから、とにかく親鸞会で求めていくしかない。

このような思いが退会までぐるぐる脳裏をよぎり、喜びとか有難いとかとは程遠い生活でした。それどころか、日々の仕事と親鸞会の活動の両立が苦しくて苦しくて、毎日のように自殺したいと思っていました。今考えてみると、「南無阿弥陀仏」のおはたらきも「念仏」も皆無同然で、「絶対の幸福」だとかいう現世利益、真宗の信心とは無関係な「創価学会の信心」を教えられ、無常と罪悪、死後の恐怖でせめたてられ、獲信・往生とは無関係の「組織拡大活動」に体よく利用されていただけですので、それは幸せも有難いもあるはずがないのでした。

親鸞会では「信心正因」、「唯信独達」を強調して「信心一つで助かる」とは言っていますが、肝心の「信心」が間違っており、会員は現世利益に釣られてありもしない信心を追い求めているために真宗の信心とは無縁の生活になるのでした。そこには「念仏」申す喜びも、「南無阿弥陀仏」のおはたらきにまかせた安心も無く、いつ無常が来るか知れない不安、いつ後生の一大事の解決が出来るか知れない苛立ちばかりで、来る日も来る日もただ献金・勧誘・服従といった活動の日々しかないでしょう。

たまたま信心決定したと言っている人がいても、語ることは体験談のオンパレードだったり、高森会長の賛美だったり、果ては念仏誹謗だったりと、やはり「真実の信心」を獲たとは言い難い人ばかりです。


その「信心一つで助かる」さえ最近は言わなくなり、

世界の多くの宗教が信じる宗教だが、信じることも要らない、聞く一つ

だとか言って「信心不要」を説いているのが高森顕徹会長です。「念仏」に続いて「信心」も抜き去り、ただ60年一貫してつらぬいているのは「絶対の幸福」なる「創価学会の信心」「一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心」なのでした。会員の皆さんは「聞く一つ」と言っても何を聞いているのか、よく思案を巡らせて頂きたいものです。



【参照】
高森の教行信証(信編) - 二種深信の誤った認識、救済の予定概念、信心決定病
高森の教行信証(信編) - 現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、という御約束通りに我々が絶対の幸福に助かった時を、他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(2)

前回の続きです。

高森顕徹会長の説く「聞く一つ」が誤りである理由、その二つ目が、前回とも重複する事ですが

(2)「聞く」内容が間違っている

です。私達が聞くべきことは「本願の名号」「南無阿弥陀仏の六字のこころ」です。これとは別の「因果の道理」とか、「因果の道理の結論である廃悪修善」ということを聞くのではありません。親鸞聖人は、

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「信文類」

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。一念多念証文

と仰せられています。この御文自体は親鸞会でも出てきますが、この「仏願の生起本末」が間違っています。

仏願の生起本末」=「本願の名号」=「南無阿弥陀仏の六字のこころ

です。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」、つまり

「必ず助けるから、安心して私にまかせなさい」という阿弥陀仏の仰せ

を、計らいを交えずにそのまま聞く以外に私達が聞くことはありません。そして、それがすなわち「信心」であるというのです。この「信心」は、私達が自分で起こす信心とは全く異なる「本願力回向の信心」である、阿弥陀仏より起こさしめられる他力回向の信心であると仰せです。

では「本願の名号」である「南無阿弥陀仏」はどのようにして成就されたのか、その起こりから一部始終を詳しく示されたのが「仏願の生起本末」です。それは「信文類」に

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

等と教えられている通りです。どうして阿弥陀仏が「我にまかせよ」と仰せかと言えば、私達が自力では永遠に迷いの世界を出られない「罪悪生死の凡夫」、「煩悩を具足せる凡夫」であるからです。私達の中には、迷いの世界を出られるだけの因が無く、また因を成就できるだけの行を修めることができません。仏願の生起、名号の起こりは、このような迷いから離れられずに流転を続けて際限なく苦しみ続ける私がいたからです。

それで、阿弥陀仏は私達に代わって「必ず助ける」という願いを発し、それを果たし遂げるだけの「不可思議兆載永劫」の行を修められ、ついに「南無阿弥陀仏」と成って下さいました。これが仏願の本、因本であります。

ところで、「不可思議兆載永劫」の行を修められる前、本願を発される際にも阿弥陀仏は、「五劫思惟之摂受」と五劫もの間かかってこの私の救済法を考えに考えておられます。これについて梯實圓和上は

 念仏往生の道を選択(せんじゃく)するために、法蔵菩薩が五劫(ごこう)ものあいだ思惟されたというこの経説には、二つのことがらが暗示されているようです。その一つは、法蔵菩薩というさとりの智慧をきわめたほどの菩薩が、五劫もの時をかけて思惟(しゆい)しなければ救いの道が見出せなかったということは、救いのめあてである私どもが、想像を絶する愚か者であり、罪深いものであったということです。二つには、如来が思いのかぎりをつくした上で、必ず救うと見きわめられた本願の救いは、微塵の狂いもない確実さで完成されているということです。

と仰せられています。ある先達は、『正信偈』の「五劫思惟之摂受」の御文を読む度に涙されたと聞いたことがありますが、きっと如来広大の御恩徳というものを人一倍感じられた方だったのでしょう。この私一人の救済にこんなにもかかり果て、今も現にかかり果てて下さっている御方がましますこと、またその御方のおこころを知ることができたということは、これ以上ない喜びであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

そして、このようにして成就された「本願の名号」、往生の因行が完全に仕上がった「南無阿弥陀仏」を私達に受け取りに来いと言うのでなしに、「回施」、恵み与えて下さるというのです。これが仏願の末、果末です。

このように私達は全く自力を要せず、ひとえに本願の独用(ひとりばたらき)によって浄土に往生し、この上ない仏陀のさとりを開かせて頂くという教えが浄土真宗です。

これら、仏願の生起から因本と果末に至るまでの一部始終が

仏願の生起本末

ということであり、それを計らいを交えずに仰せの通りに聞くのがすなわち「信心」です。


ところが親鸞会ではどうでしょうか? 私達は「罪悪生死の凡夫」、「煩悩を具足せる凡夫」であるという、いわゆる「仏願の生起」の部分ばかりが強調されます。それだけでなく、「全人類は五逆・謗法・闡提」であると邪義を唱え、「一切衆生悉有仏性」ではなく「一切衆生必堕無間」と説いて執拗に死後の恐怖を煽ってきます。

一方、「仏願の本末」の部分はほとんどありませんし、その説明も間違っています。「仏願の生起本末」の本が18願、末が19願・20願などというのは高森教でしか言われない珍説です。

このように、「仏願の生起」、「仏願の本末」のいずれも正しく説かないのが親鸞会です。それどころか、私達が「一つの善もできない極悪人」であると知らされなければ、「そんな者を助ける」阿弥陀仏の本願であると判らないと地獄秘事信心を説き続けています。この前の話では、『歎異抄』第一条を挙げて

罪悪深重の私であったと判るまで聞く。そう思えないのは聞法不足。聞法不足だから判らない。

などと説いていました。高森教では「罪悪深重の私であったと判」ったのが「機の深信」、「そんな者を助ける」と判ったのが「法の深信」であり、この二つが同時に立つとは言いながら、まずは「機の深信」が立たなければ「法の深信」は立たない、つまり救われないようです。この記事にて紹介したように、高森顕徹会長の著書にはそのように書かれていますし、アニメの親鸞聖人や韋提希の獲信シーンではそれが如実に描かれています。

ですから、会員はまず「罪悪深重の私であったと判」ろう判ろうとして高森会長の話を聞きます。そして私達の姿をそのように知らされようとして活動しています。ではどうすれば知らされるかというと、因果の道理に従って実地に廃悪修善をしていかねばならない。そうしなければ「罪悪深重の私であったと判」らない、後生の一大事(「必堕無間」の意)は分からない。まして後生の一大事が解決したということは絶対に無いというのです。

地獄一定の自己が分からず、聞いても聞いても中々後生に驚き立たないようなものは「無宿善の機」であり、「宿善の薄い我々は真剣に宿善を求めねば宿善開発の時節到来は有り得ない」と言い、そして、私達が仏教を聞き始めて後生の一大事が解決するまでの万人共通の道程を表現されたのが「三願転入の御文」であるというのです。こうした親鸞会の教義から、会では

・「因果の道理
・「廃悪修善
・「宿善
・「六度万行
・「三願転入
・「十九願
・「修諸功徳
・「定散二善

など、おおよそ「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とは縁遠い話、聖道もどきの「八万四千の法門」と林遊さんが指摘している通りの話ばかりを聞かされ、やりなさい、やらねば信仰は進みませんと勧められます。そして、「善の勧め」と称して上記の「六度万行」や「定散二善」等を根拠に

「高森会長の話を聞くこと」
「親鸞会に献金すること」
「親鸞会に人を誘うこと」
「会長や上司の指示に無条件で従うこと」


こんなことばっかりが勧められます。こうした活動の一環として、全国各地に会館を建てること、名前だけ会員の獲得、著書や映画の製作出版に関する財施等を勧められ、それらに躍起になっているというわけです。会員は、そういった活動の先に「信心決定」、彼らが憧れる「絶対の幸福」「光明輝く生活」「ハッキリスッキリ体験」があると思い込んでいるのでしょうが、このように「聞く」内容が間違っているため、高森顕徹会長や親鸞会の教えをまともに信じて実行している限り会員が「信心決定」するということはありません。


さて、この「信心決定」ということについて会員に甚だしい誤解が見受けられるのですが、随分長くなりましたので、それは次回に譲りたいと思います。



【参照】
聖典セミナー 「歎異抄」後序

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか(1)

大分前になりますが、親鸞会を退会した方からのメールで、

ある会員が、高森顕徹会長の説く「聞く一つ」を信じていて、どう破ればいいのか

ということを聞かれました。その時は簡単にメールでお返事したのですが、今回はこれについて、淳心房なりに考察したことを書いてみたいと思います。


親鸞会では「聴聞に極まる」「聞く一つ」「重ねて重ねて聞くのです」等と説かれ、最近では

浄土真宗は「聞の宗教」、「聞くことを教えている宗教」

であると発言し、他宗教と比較して「聞く」ということを強調するあまり

阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない

というアッと驚くタメゴロー発言まで飛び出したことは皆さんの記憶に新しいかと思います。


「聴聞に極まる」「聞く一つ」「重ねて重ねて聞くのです」

これ自体は間違いとも言えないのですが、親鸞会では教義の問題と会員の誤解があるため、高森顕徹会長が説くこうした教えは間違いです。なぜ間違いかと言いますと、


(1)そもそも親鸞会の教えは「聞く一つ」ではない

第一の理由がこれです。この記事でも書きましたが、「聞く」に「聞いたことを実行する」ことを含めるなら「聞く一つ」ではありません。親鸞会では「教学」と「行学」と言って、教えを聞いているだけではダメで、聞いたことを実践しなければ横の道を進んで助かるということは無いようです。「教学」だけで「行学」が伴わなければ

観念の遊戯、信仰の幼稚園

などと言われ、実地に求道していかねば信心決定して阿弥陀仏に救われることはないというのです。しかし、「聞く」というのと「聞いたことを実行する」とは普通別の事です。

例えば健康法にしても、「○○すれば健康になる」と「聞く」のと、実際に「○○する」、「聞いたことを実行する」のは違うことです。それがどんなに理にかなった方法で健康になるとしても、「聞く」だけで「聞いたことを実行する」ことがなければ絵に描いた餅です。

それに、「聞いたことを実行する」ことと「聞いた通りのことが実現する」ことも別の事です。聞いた通りに実行したとしても、聞いた通りのことが実現するまでは多少なりとも時間がかかります。

これら「聞く」「聞いたことを実行する」「聞いた通りのことが実現する」を仏教に配当すれば、教えを知る、つまり「聞く」。如説に修行する、「聞いたことを実行する」。説の通りのさとりを開く、「聞いた通りのことが実現する」と言えるでしょう。


この点、浄土真宗は、「わが真実なる誓願を信楽すべし」と「聞く」、すなわち

お前を仏にするという本願が既に成就してはたらいておるぞ。必ず浄土に迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせて、我が名を称えなさい。

という如来の勅命を疑い無く「聞く」という教えです。それがそのまま「信心」であり、仰せを計らい無く受け容れたすがたが「称名」つまり「念仏」となって行者の上に現れるのです。「」が「」であり、「」であるという教えというわけですね。このように「聞く」ままが「」であり「」であるという教えはあまり類を見ないと思います。「聞く」がすなわち「聞いたことを実行する」ということになるのですから。これは、真実の教行信証が本願力の回向によるものだから、私の所作や計らいは要らないからそうなるのです。

さて、こうした「信心」の行者、「念仏」の行者がやがて一期の命が尽きますと、浄土に往生して仏のさとりを開くのです。これを『歎異抄』では「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と仰せられてあります。

これを先ほどの「教行証」で当てはめれば

教 - 本願(阿弥陀仏の仰せ)
行 - (信じ)念仏を申さば
証 - 仏に成る


となります。まことに有難い教えであります。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


このようなことですから、浄土真宗は「聞く一つ」ということ自体は間違いではありません。先ほど示したような阿弥陀仏の仰せ、「南無阿弥陀仏」を「聞く一つ」ですから。ところが親鸞会の場合はそうではありません。

親鸞会では、阿弥陀仏の仰せ、「南無阿弥陀仏」以外の別の教えを説いています。高森の教行信証(行編)でも示しましたが、それは因果の道理であり、因果の道理の結論である廃悪修善の実践ということです。

この教えは誓願一仏乗である浄土真宗とは異なった八万四千の法門であり、こちらは当然のことですが「聞く」がすなわち「聞いたことを実行する」ということにはなりません。ですから、

・教えを聞いているだけではダメで、聞いたことを実践しなければ横の道を進んで助かるということは無い

となるのも道理です。親鸞会では独自の方便論を用いて、因果の道理因果の道理の結論である廃悪修善の実践が必要不可欠であるかのように説いていますが、親鸞聖人はそれを自力と誡められてしかいません。

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける
『正像末和讃』誡疑讃

とある通りです。実際のところは八万四千の法門もどき、19願もどき、自力諸善もどきの悪業悪行を主体とする活動がメインですから、そんな活動を「真実の仏法だ」などと信じてやっておる者は「七宝の獄」にさえ入れず、「自業自得の道理」にて三悪道に堕すのが必然です。それどころか、念仏誹謗の報いで「必堕無間」というのもあながち間違いとは言えないのであります。

ちなみにこうした高森教を先ほどの「教行証」で当てはめれば

教 - (高森流)因果の道理
行 - 悪業悪行、助正間雑、雑行
証 - 絶対の幸福


となりましょうか。「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、「創価学会の信心」を求め、組織拡大要員として獲信・往生とは無関係なことをやっている会員は哀れでしかありません。


まだまだ高森顕徹会長の説く「聞く一つ」についての誤りに関して書きたいことがありますが、一旦ここで切り、続きは次回書いていきたいと思います。

なぜ会員はあんなに熱心に求めているのに、誰も助からないのか?

【質問】
なぜ会員はあんなに熱心に求めているのに、誰も助からないのでしょうか?



【回答】
説く側の問題からいうと、親鸞会では、仏願の生起・本末が説かれていないから、つまり十八願が正しく説かれていないからです。


これが全てなのですが、会員の熱心な活動についての質問なので、それについて答えたいと思います。


会員は、一言でいいますと、雜行やりまくり、自力の押しまかせです。
親鸞会の会員は何を熱心にやっているのかと言うと、主に聴聞、おつとめ、そして財施と破邪顕正です。
ところが、聴聞と言っても因果の道理や十九願を聞くことは真宗で聴聞とは言いません。仏願の生起・本末、南無阿弥陀仏のいわれ、十八願のこころを聞くのが聴聞です。しかし、最初に書いたように、肝心、要の十八願が正しく説かれていないのでは、正しく聞くこともまた難しです。
おつとめは、「善をしなければ信仰は進みません」という親鸞会のバイアスがかかっている状態でするので、本来は阿弥陀仏のお助けを聞かせて頂くものが、自力回向の行となってしまっています。更に、親鸞会教義のバイアスがかかった状態で正信偈・御文章を拝読するので、間違った理解で読んでしまうことも問題です。
財施と破邪顕正は、獲信の因縁として修せよと教えられた行ではありません。それどころか、正しい意味でのこうした行いも、獲信のため、往生のためになるだろうとやっていては雜行と嫌われ、捨てよと教えられます。


会員が勧められる活動に熱心なのは、熱心に求道していった結果に救いがあると思っているからです。自分の熱心さ、真剣さを間に合わせようとしています。
そんなものは全く間に合わないことを如来はとっくにご承知で、そのまま救う本願を建立されました。その本願は南無阿弥陀仏となって私に回向されているので、私としては本願を計らいなく聞き受けるのみです。

活動は一生懸命、熱心に取り組んでいても、方向が間違っています。往生、獲信のために念仏以外の行を修める者を「余の雜業の行者」と親鸞聖人は仰せですが、どれだけやろうと阿弥陀仏の光明はそういった人を照摂しないのです。
会員の皆さんも、早く誤りに気付いて邪説から離れ去り、念仏一行をふたごころなくもっぱら修する行者になって頂きたいと思います。

Q&A(5)ー外に賢善精進の相を現じて(2)

Q&A(4)ー外に賢善精進の相を現じて(1)の続きです。



親鸞聖人は、『教行信証信巻』や『愚禿鈔』で善導大師の至誠心釈をを独自の訓点で読まれています。
今回は『愚禿鈔』から引用します。親鸞聖人が訓点を変えられた箇所を色を変えて示します。


『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生、身口意業に修するところの解行、かならず【真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。】貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善となす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時、急に走め急になすこと、頭燃を灸ふがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ【真実心のなかになしたまひしによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なりと。】また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。

現代語訳(『本願のこころ』(梯實圓著 法蔵館)72、73ページより)は以下の通りです。

『観経』には、一つには至誠心といわれています。至とは真という意味であり、誠とは実という意味です。浄土に往生しようとする一切衆生は、身の振る舞いも、言葉も、心に思うことも、学問も実践も、かならず【如来が真実心の内に成就して与えてくださったものを須る(用いる)べきことを明らかにしたいと思います。外面に賢者、善人のように勤め励む姿を現してはなりません。心の内には虚仮の思いを抱いているからです。】凡夫は貪り、怒り、よこしま、偽り欺きの心が絶えずおこって、悪い性質をとどめることができず、まるで毒蛇や蠍と同じような恐ろしい心をもっているからです。たとえ身・口・意の三業には、賢善な人のように振る舞っていたとしても、煩悩の毒の雑じった善であり、見せかけだけのいつわりの行というべきで、決して真実の業とはいえません。もし、このような煩悩の雑じった心を起こし、修行するならば、たとえ昼夜不断に、頭の髪の毛に着いた火を払いのけるほど懸命に修行したとしても、すべて毒の雑じった善といわねばなりません。このような雑毒の行を回向して浄土に往生したいと求めても、決して往生できません。
なぜならば、かの阿弥陀仏がまだ修行者として菩薩の行をなされたとき、身の行いも言葉の行いも心の持ちようも、ほんのわずかな時間であっても、【すべて真実心をもってなされたことに由るからです(由るというのは、如来を経て、如来の行を行じ、如来によりしたがって、如来の真実を用いるということです)。およそ如来が施し与えてくださった功徳をいただいて、浄土に生まれていこうと求めるのであれば、それはみな真実である。】
また真実というのに二種があります。一つは、自力の修行によって自己を利益し真実になろうとする自利真実であり、二つには如来の利他の働き(他力)によって与えられた真実で、それを利他真実といいます。



こうして前後も含めて拝読してみますと、至誠心をおこせといわれている意味がよく分かります。すなわち、自己には真実はないから、如来の真実心を用いるのですよと教えられているのです。真実心とは、如来より回向されるものなのです。


★Q&A(4)と(5)のまとめです。

善導大師が

「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」

と教えられたのは、

「内外不一致ではいけませんよ。外に賢善精進の相を現じていても、内が虚仮ではいけませんよ。心を真実にしなさいよ」

ということです。しかし、私たちには真実心というものはありませんから、阿弥陀仏から真実心を頂きなさいよと教えられていることになるのです。

そのことを法然聖人も教えられ、親鸞聖人はさらにハッキリ教えてくだされました。

したがって、上の善導大師のお言葉を根拠にして、今の救いを求める人に対し、あたかもド真剣に善をすることが救いに関係あるかの如くに説くことは不適当であると言わざるを得ません。

(つづく)





(補足)

林遊@なんまんだぶつ様より以下のコメントを頂きました。記事と合わせて読んでいただきたいと思います。

親鸞聖人は読み替えていらっしゃるのではありません。引文してこのように読んだ方がより深く阿弥陀如来のお心が窺えるという意味で訓点を変えていらっしゃいます。

Q&A(4)ー外に賢善精進の相を現じて(1)

会員の人から実際に受けた疑問点や会員の人が疑問に思うであろうことをQ&A形式で少しずつ取り上げたいと思います。もっといい回答や意見があれば教えて頂きたいと思います。

Q&A(3)の続きです。


Q、
善導大師は「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」と、ド真剣に善をすることを勧められています。これは、早く弥陀の救いを求める人に説かれた教えだからこそ、親鸞聖人は「善導独明仏正意」と善導大師を絶賛されているのではありませんか?



A、
まず、「善導独明仏正意」と親鸞聖人が善導大師を賞讃されたのは、ド真剣に善をすることを勧めたからではありません。『六要鈔』には、「善導独明仏正意」を次のように解釈されています。

大師の讃、「善導」等とは、『選択集』の意は諸師多しといえども、独り今師に依る。蓋し仏証を請して古今を楷定し、明かに別意弘願の正旨を顕わすが故なり。これに依りて、或いは弥陀の化身といい、或いは経文を勘みて直ちに教主釈尊の再誕という。更に余師に準ずべからざる者なり。

弘願(18願)の正しい意を明らかにされたので、誉め讃えられたことが分かります。


次に、早く弥陀の救いを求める人はどうすればよいのかについては、前回、Q&A(3)ー速やかに生死を離れようとおもうならに書いた通りです。18願一つを求めて下さい。


最後に、「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」は、『観無量寿経疏・散善義』に出てくるお言葉です。

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。

と『観無量寿経』には、阿弥陀仏の浄土に往生しようとするものは「至誠心、深心、回向発願心」の三心をおこさなければならないと説かれています。
『観無量寿経』の三心は、定善、散善、念仏と組み合う場合がありますので、必ずしも一つにはなりません。
しかし、本願の念仏と組み合う場合は、本願の「至心、信楽、欲生」と同一になります。
善導大師が『観無量寿経』の三心を解釈されるとき、本願の念仏と組み合う三心として註釈されることに主眼が置かれていました。
「外に賢善精進の相を現じて~」は、その至誠心釈に出てくるお言葉です。
親鸞会では、一部分を取り出して教えられているので、ここでは前後を含めてみてみます。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに。まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。

このお言葉によりますと、浄土に往生しようとするものは、至誠心(真実心)をおこして、真実の自利・利他の行を実践しなければならないように見えます。

しかし、次の深心釈の「機の深信」には、現に罪悪生死の凡夫であり、さとりを得るてがかりさえもない自己であると信知したことが述べられています。

これがどういうことなのかについて、『本願のこころ』(梯實圓著 法蔵館)66~68ページから引用します。

その機の深信の内容は、明らかに浄土にふさわしい真実はまったく持ち合わせていない自身であるといわれているとしなければなりません。そのようにいわれている善導大師が、至誠心(真実心)を発せといわれたのは、私に真実心をおこせと要求されていたのではなくて、もっと違った意味を表そうとされていたのではないかと最初に気づかれたのは、法然聖人でした。醍醐本『法然上人伝記』「三心料簡および御法語」のなかに、善導大師の至誠心釈にこめられていた深い意味を、次のように読み取っておられます。

ここを以て今の文に「正しく彼の阿弥陀仏因中に菩薩の行を行ぜし時、乃至一念一刹那も、三業の所修、皆真実心の中に作すに由るべし」云々。阿弥陀仏因中の真実心中作に由る行こそ悪雑はらざるの善なるがゆゑに真実と云ふなり。その義なにを以て知ることを得、次の釈に「凡所施為趣求亦皆真実」文。ここに真実を以て施すとは何者に施すと云えば、深心の二種の釈の第一、罪悪生死の凡夫といえる、この衆生に施すなり。造悪の凡夫、すなわちこの真実に由るべき機なり。云何が知ることを得る。第二の釈に、「阿弥陀仏四十八願衆生を摂受す」等と云々。かくのごとく心得べきなり云々(『法然上人伝全集』七八二頁)

少し難しい文章ですので、現代語訳をしておきます。

「善導大師のこの文は、阿弥陀仏が因位の時に真実心をもって作された(行)に由るべしといわれているのです。阿弥陀仏が因位の時になされた行こそ、少しの悪も雑わらない善ですから真実というのです。そのような道理をどうして知ることができるのかといえば、次の釈に、<およそ施為趣求するところ、またみな真実なり>といわれているからです。<施為>とは大悲を以て衆生に功徳を施し与える利他の働きのことであり、<趣求>とは智慧をもって涅槃のさとりを極めようとする自利の活動のことです。ここに(如来が)真実心を以て施すといわれていますが、何者に施されるのかといえば、次の深心釈に示されている罪悪生死の凡夫に施されるのです。深心釈には、一つの深心(真実の信心)を二つに開いて、救いの目当てとなっている機(自身)についての深信と、それを救う本願の法についての深信の二種があげられています。その第一の機の深信に<罪悪生死の凡夫>といわれている<この機>に施されるのです。罪悪を造りつつある凡夫こそ、取りも直さずこの真実(如来の真実心)に由るべき機なのです。どうしてそのようなことがわかるかといいますと、深心の第二の釈、すなわち法の深信の中に<阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまう>等」といわれているからです。このように至誠心釈は心得るべきです。


この法然聖人の結論を承けて、親鸞聖人は至誠心釈を独自の訓点で読まれるのですが、長くなりましたので、それについては別の記事で書きます。

(つづく)

Q&A(3)ー速やかに生死を離れようとおもうなら

会員の人から実際に受けた疑問点や会員の人が疑問に思うであろうことをQ&A形式で少しずつ取り上げたいと思います。もっといい回答や意見があれば教えて頂きたいと思います。

Q&A(2)の続きです。



Q、
前回、善導大師・法然上人のお言葉を根拠に、諸行往生を廃されたとあなたは主張しました。しかし、親鸞会は、諸行往生でないことは明らかです。高森先生が、諸善をしたら助かると説いたことは一度もありません。
仏教の根幹は因果の道理です。因果の道理の結論は、廃悪修善。そのように、釈尊はじめ十方諸仏が、廃悪修善を説かれたのは、弥陀の十九の願意を開顕し、十八願に相応させるためです。善を実践するのは当然ではありませんか?



A、
仏教の目的は成仏であり、言い換えると、生死から離れることです。

速やかに生死を離れようとおもうならこうしなさいと、法然上人は『選択本願念仏集』の「三選の文」で明らかにされています。この法然上人のお言葉を、親鸞聖人は『教行信証行巻』に引文されています。

○はかりみれば、それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。


『尊号真像銘文』でも次のように教えられています。

○またいはく、「夫速欲離生死」といふは、それすみやかに疾く生死をはなれんとおもへとなり。
「二種勝法中且閣聖道門」といふは、「二種勝法」は、聖道・浄土の二門なり。「且閣聖道門」は、「且閣」はしばらくさしおけとなり、しばらく聖道門をさしおくべしとなり。
「選入浄土門」といふは、「選入」はえらびていれとなり、よろづの善法のなかに選びて浄土門に入るべしとなり。
「欲入浄土門」といふは、浄土門に入らんと欲はばといふなり。
「正雑二行中且抛諸雑行」といふは、正雑二行二つのなかに、しばらくもろもろの雑行をなげすてさしおくべしとなり。
「選応帰正行」といふは、選びて正行に帰すべしとなり。
「欲修於正行正助二業中猶傍於助業」といふは、正行を修せんと欲はば、正行・助業二つのなかに助業をさしおくべしとなり。
「選応専正定」といふは、選びて正定の業をふたごころなく修すべしとなり。
「正定之業者即是称仏名」といふは、正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。
「称名必得生依仏本願故」といふは、御名を称するはかならず安楽浄土に往生を得るなり、仏の本願によるがゆゑなりとのたまへり。


存覚上人は『浄土真要鈔』の最初の章で「三選の文」を引用された後、次のように教えられています。

○わが親鸞聖人の一義は、凡夫のまめやかに生死をはなるべきをしへ、衆生のすみやかに往生をとぐべきすすめなり。
そのゆゑは、ひとへにもろもろの雑行を抛てて、もつぱら一向専修の一行をつとむるゆゑなり。これすなはち余の一切の行はみなとりどりにめでたけれども、弥陀の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらず。
念仏の一行はこれ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり、諸仏証誠の法なればなり。釈迦・弥陀および十方の諸仏の御こころにしたがひて念仏を信ぜんひと、かならず往生の大益を得べしといふこと、疑あるべからず。
かくのごとく一向に行じ、一心に修すること、わが流のごとくなるはなし。さればこの流に帰して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるべし。


以上のように、勧められているのは18願の行信一つであり、他の一切の行は「なげすてさしおくべし」「さしおくべし」と教えられています。


反対に、19願の行にあたる定散二善については、

○また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。(教行信証信巻)

と、方便化土に往生する遠回りの善行であると親鸞聖人は教えられています。


すみやかに生死を離れようとおもうならば、法然・親鸞両聖人のお勧めに従い、18願一つを求めましょう。


最後になりますが、あなたがご指摘のように、仏法者ならば悪を慎み善に励むのは当然です。日常生活において、悪を慎み善に励むことが大切な心がけだと思います。

しかし、自己の修める善が獲信の因縁になるのだとか18願の救いに関係あるなどと主張するのならば、そのように教えられた根拠を提示して下さい。

(つづく)

Q&A(2)ー『観無量寿経』の「流通分」より

会員の人から実際に受けた疑問点や、会員の人が疑問に思うであろうことを、Q&A形式で少しずつ取り上げたいと思います。もっといい回答や意見があれば教えて頂きたいと思います。

今回はQ&A(1)の続きです。



Q、
18願が弥陀の御本意であり、お釈迦様・諸仏の出世本懐であることは認めます。しかし、阿弥陀仏が19願を建てられ、お釈迦様が『観無量寿経』に定散二善を説かれたのは実行させるためではありませんか?



A、
お釈迦様は『観無量寿経』で定散二善を説かれていますが、最後の「流通分」で、阿難に定散二善ではなく念仏を付属されています。

○仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。


そのことについて、善導大師・法然上人は次のように教えられています。

○「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(観無量寿経疏 散善義)

○釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。
ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。(選択本願念仏集)



このように、諸行往生は廃され、念仏往生が立てられています。

そのような善知識方のお導きにより、親鸞聖人は19願を離れたと『三願転入の御文』で仰っています。

○ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。(教行信証化土巻)

親鸞会でいわれるように、善知識方のお導きにより19願から出発したとは、仰っていません。

(つづく)

Q&A(1)ーお釈迦様の一生は?

これから何回かにわたって、会員の人から実際に受けた疑問点や、会員の人が疑問に思うであろうことをQ&A形式で少しずつ取り上げたいと思います。

もっといい回答やご意見があれば、是非コメントして下さい。記事にて紹介させて頂きます。





Q、
19願の善や定散二善は獲信の因縁として修する必要、勧める必要がないなら、廃悪修善ばかり教えられたお釈迦様の一生は何だったのでしょうか?



A、
○釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。(教行信証教巻)

○しかれば『大経』(上)には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。
この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。
しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。(一念多念証文)

○如来所以興出世 唯説弥陀本願海(正信偈)



以上のようなお言葉から、親鸞聖人は、お釈迦様・諸仏の出世本懐は阿弥陀仏の本願一つを説くことと教えられていることが分かります。

18願は、阿弥陀仏の御本意の願であり、お釈迦様の出世本懐であり、諸仏出世の直説ですから、18願一つを勧め、求め、18願によって救われることは弥陀・釈迦・諸仏の御心にかなっていることです。


そして、それ以外の法門(八万四千の法門)は、阿弥陀仏の本願(本願一乗)に導くために説かれた法門であると教えられています。

○おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。
この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。いま一乗と申すは本願なり。(一念多念証文)


(つづく)
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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