新入生の皆さんはこんな話に注意(1)

これから何回かに渡って、私が親鸞会に勧誘され、そして退会し、現在に至るまでの経緯を述べていきたいと思います。

これは、浄土真宗親鸞会はカルトであり、特にこれから大学を迎えるであろう学生の皆さんが学生生活、そして卒業後の人生を棒に振ることのないように注意を促すためのものであります。


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平成13年3月、大学に合格し、前期合格手続きを済ませた私は、とりあえず帰宅の途に着こうとしました。

大学の門前まで来た時、2人の先輩に声をかけられました。「合格おめでとうコーナーをやってて、役立つ情報や得する情報をまとめてお届けしている」ということで、暇だった私は特に断る理由もなく、着いていくことにしました。

学外の部室に着くと、まあまあ人が集まっていて、「おめでとう!」と先輩方に迎えられました。

席へ案内されると、そこには小さなバインダーが用意されてあり、先輩から話をされました。内容をかいつまんで話すと、

・時間、体力、気力とも充実している大学時代。ところが大学生白書によると、大学卒業生1000人にアンケートを行った所、

「あなたの大学生活を色に例えると何色でしたか?」の問いに、無色、灰色、透明と答えた人が8割程
「あなたが大学4年間で得たものは何ですか?」に対して、卒業証書、単位、免許と答えた人がやはり8割程

という回答結果だったということ。

・多くの学生がそうなってしまうのは、勉強し、仕事をして、生きていくのは何のためなのかがはっきりしていないから。逆に生きる目的がはっきりすれば勉強も仕事もこのためだと、全ての行為が意味を持つ。

・そういう、生きる指針、羅針盤とでもいうべき生きる目的、人生の目的を大学生活が始まろうとしている今、先哲の智恵を通して学ぼう。

・これは人生における基礎工事のようなもの。基礎がしっかりしていない建物はどんなに立派なものでも崩れやすい。
たいていの人はこういった人生の基礎を知らずに色々なものを積み上げていくから、僅かな揺れで崩壊して苦しむことが多い。
逆に大学時代にこうした基礎をしっかり築いておけば、どれだけのものを積み上げても崩れない人生を送ることができる。


という内容でした。

そしてその人生の目的はゼミ形式で続けて話を聞いて、GWの合宿まで一通り聞くと大体理解できるというので、チャレンジ入部して聞いてみないかと誘われました。

そこで色々資料もくれたので、資料代、情報提供料だと思って入部金1000円を納めて話を聞いてみることにしました。



それから次回約束をしてその日は終わりましたが、約束日当日、電車代もかかるし面倒だったので、私はすっぽかししてしまいました。

ただ、どうもすっぽかしたことを悪いと思い、自分から部室に電話をして、再度約束をして行くことにしました。その時の話は、大体以下のような内容でした。


「人は幸せを求めつつ中々幸せになれない。それには原因があるのだが、たいていの人は「金がないから」「ものがないから」「地位や名誉がないから」「健康でないから」「友達がいたら」「恋人がいたら」など、周囲の環境に原因を探す。

じゃあそれらに恵まれた人は幸せかというと、そうではない。

天性の美貌を備え、世紀の結婚とまで羨まれたダイアナは自殺未遂を5回も遂げている。
革命的繊維ナイロンを開発したカロザースは、勤め先のデュポン社から「生涯どこへ旅行をし、どんなレストランやバーで飲食しようと、費用の一切は会社がもつ」という破格の待遇を受けていたにも関わらず、41歳の若さで自殺している。

金や財産、地位や名誉、友人や恋人など、なければないで苦しみ、あればあるで苦しむ。仏典にはこれを、「有無同然」と説かれている。


苦しみの根元はこれらではないなら、じゃあ何か?

高尚な人は欲、怒り、愚痴といった自分の心、いわゆる煩悩というものに原因があると見る。

そこで煩悩と如何に向き合うかについて、およそ2つの道に分かれる。

1つは自分の欲を思うがままに満たそうとする快楽説。しかし人間の欲望は無限で、有限な肉体を持った人間は満たし切ることはできない。
もう1つは、反対に欲望を抑えようとする禁欲説。だが、抑えよう抑えようとすると余計に噴き上がってくるのが欲望というものである。

限りない欲望を満たそうとしても抑えようとしても、人間はどうすることもできない。


実は、欲や怒りや愚痴と言うのは、苦しみの枝葉であって、根元ではない。
枝葉をいくら切っても、根っこがある限り苦しみはなくならない。
苦しみの根っこを知り、それを除かなければ、苦しみはなくならず、本当の幸せにはなれない。

では苦しみの根元とは一体何か? 今日は結論だけ言うと、それは「無明の闇」と言われているものである。
そして、この無明の闇を破ることが人生の目的であると、我々の先哲が既に突き止めている。

無明の闇とは何なのか、一体どうしたら破れるのか、広くて深い話だからいきなり結論だけ言ってもわからないので、続けて話を聞いてもらいたい」



私は先輩の話を聞いて、「先輩は無明の闇が破れたんですか?」と尋ねた所、先輩は「はい」と答えました。

私は、大学生で人生の目的というものが達成できて、崩れない人生の土台が築けるのかと内心驚きました。

同時に「本当なのか?」とも疑いましたが、1ヶ月ほど聞けば理解できるというので、自分も無明の闇を破りたいと思い、また先輩の熱心な勧めもあってとりあえず聞いてみようかと思いました。

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このようにして私は親鸞会の話を聞くようになりました。

思春期は特に、「我が人生とは一体何ぞや?」自分の人生に疑問を持つ人が多い時期だと思います。
そして人生の目的、なぜ生きるということについて疑問を持つことはとても大切なことだとも思います。

ところがそういった純粋な疑問を抱いている人に近づき、後々親鸞聖人の教えに答えがあると言って、その実親鸞聖人の教えとは似ても似つかぬ教えを徹底する宗教団体がいることを知っていなければなりません。

さて、親鸞会はどのような話を展開したのか、長くなりましたので続きは次の記事にて書きます。
今年新たに大学へ入学する皆さん、また大学のキャンパスで声をかけられた方、友人から講演会に誘われて行った方、以上のような内容やこれから挙げていく内容をサークルで聞いたら親鸞会の可能性が高いです。
不安に思ったらコメント欄に聞いた内容やサークルの様子を教えて下さい。親鸞会である可能性を検討してみたいと思います。
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新入生の皆さんはこんな話に注意!(2)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(1)の続きです。


それから、授業の時間割の作り方など色々教えてもらいつつ、人生の目的とは何かについて様々な話を聞きました。
今回は聞いた内容のいくつかをまとめて書いていきます。なお話される内容は順不同です。

最初は仏教、親鸞会ということは、私は話されませんでした。先輩になって聞かされたのは、これは仏縁を守るための「配慮」だとのことです。

※以前からの非難により、現在は勧誘の最初の段階で、仏教とか『歎異鈔』や『教行信証』に学ぶと触れる大学もあります。

※以下のような内容をサークルで聞いたら親鸞会の可能性が高いです。不安に思ったらコメント欄に聞いた内容やサークルの様子を教えて下さい。親鸞会である可能性を検討してみたいと思います。


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◎相対の幸福と絶対の幸福

日本のGNPは世界第二位、物質的にも恵まれた先進国であるが、自殺者は3万人を超え、特に中高年の自殺が目立つ。自殺と断定されただけでこの数だから、本当はもっと自殺者がいるかも知れないし、自殺予備軍まで含めるとその数は10倍とも、100倍とも言われている。

今が幸せという人は自殺しない。今が幸せになりたいのになれないから、今があまりにも苦しいから自殺を選ぶ。

なぜ幸せを求めながら幸せになれないのか。それは、幸福に相対の幸福と絶対の幸福があること、そしてその違いを知らないのが原因だ。

相対の幸福とは、他人や過去の自分など、何かと比べて感じることのできる幸せ。
金、財、地位、名誉、健康、家族、友人、恋人、才能などだ。
そういったものは、「他人」や「過去の自分」と比べて幸せを感じることができる。

ところが、こうした相対の幸福には欠点がある。

・続かない(色あせる)
・きりがない
・死が来たら総崩れ

欲望を満たす喜び、趣味や生き甲斐に熱中する喜び、仕事、恋人、様々な目標など、人それぞれにみな幸せになろうと必死に追いかけて生きているが、せっかく手にした幸せも色褪せうすれ、やがて何なる記憶に変色するか、崩れたり壊れたりしてなくなる運命を免れない。また、どれだけ求めても、もっともっとときりがない。たとえしばらく無事に続いていったとしても、死ぬときには何の明かりにもならない。

日本の歴史上、彼ほど成功したものはないといわれる秀吉も臨終には、「おごらざるものもまた久しからず露とおち露と消えにし我が身かな難波のことも夢のまた夢」と言って淋しく死んでいる。

このように相対の幸福ばかりを追い求める人生は、苦しむだけの一生に終わってしまう。

ではどうしたら幸せになれるのか。
実は、相対の幸福と呼ばれる幸福に対して、絶対の幸福と呼ばれるものがある。

絶対の幸福には、
・変わらない(色あせない)幸福
・比較する必要がないので一人居て一人喜べる
・死が来ても崩れない
という特徴がある。

たいていの人は相対の幸福ばかりを求め、絶対の幸福があることを知らないから本当の幸せになれない。

では絶対の幸福とは何なのか、
この絶対の幸福のことを、有名な古典である歎異抄では「摂取不捨の利益」と教えられている。
絶対に壊れない崩れない変わらない幸福のことである。

では、どうしたら絶対の幸福になれるのか、続けて話を聞いてもらいたい。



◎「なぜ生きるか、生きる目的、人生の目的」と、「どう生きるか、生きる手段、人生の目標」

私達は何のために生まれ、生きるのか。なぜ苦しくても自殺してはならないのか。これを人生の目的といい、平たい言葉でなぜ生きるという。

私達をより良く、より長く、より快適に生かすために全てのものは存在する。
政治、経済、科学、医学、芸術、文学、スポーツ、法律、倫理、道徳など、いわゆる「どう生きるか」「生きる手段」としてある。

では、そうやって生きる目的は何なのか?
「なぜ生きるか」「生きる目的」ということは、政治、経済などは答えてくれない。
答えをもっていない。

何をするにも目的あっての手段であるはずなのに、どうして一番大切な生きる目的は論じられないのだろうか?
たとえ論じられていても、それは「人生の目標」と呼ばれるものであることが多い。

人生の目標とは、とりあえず今はこれを目指すという人生の通過点であり、生き甲斐や趣味、生きる手段をいう。
大学合格、就職、起業、恋人を得る、結婚、マイホームを建てる、選手権大会優勝、金メダル獲得、などなど。
これらを手にいれた時は確かに安心、満足がある。
ところが、こうした「人生の目標」と「人生の目的」にはいくつかの違いがある。

 「人生の目標」    ・人それぞれ
・死ぬまで求道
・死によって総崩れ

それに対して、

 「人生の目的」
・万人共通唯一
・完成がある
・臨終に達成しても満足


「人生の目標」は、人それぞれ異なる。
そして、「越えなばと 思いし峰に 来てみれば なお行く先は 山路なりけり」で、また次、また次と目指さなければならないものである。越えるべき山路は人生に尽きない。これで終わったという完成がない。卒業がない。決勝点がない。死ぬまで求道である。
そのうち手にした幸福は、やがて色褪せ薄れるか、あるいは崩れさる。
最後、私達は必ず死んでいかなければならない。その時には全てが我が身から離れていく。
それでは一体何のための人生なのか?

「人生の目的」は、生まれてきたのはこれ一つという万人共通唯一のものである。「人生の目的」を達成すれば、人間に生まれてよかったという生命の大歓喜が味わえる。それは、どんなことがやってきても崩れない喜び、満足である。
これで求まったという完成がある、卒業がある、決勝点がある。死ぬまで求道ではない。
そして、臨終間際に達成しても満足して死ねるものである。


人生の目的と人生の目標はほとんどの人生論で同じ意味に扱われ、違いを知るのが大変である。

まずはこういった特徴の違いがあることを知ってもらいたい。

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(つづく)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(3)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(2)の続きです。

※以前からの非難により、現在は、勧誘の最初の段階で仏教とか『歎異鈔』や『教行信証』に学ぶと触れる大学もあります。

※以下のような内容をサークルで聞いたら親鸞会の可能性が高いです。不安に思ったらコメント欄に聞いた内容やサークルの様子を教えて下さい。親鸞会である可能性を検討してみたいと思います。

※『なぜ生きる』、『光に向かって100の花束』など一万年堂出版の書籍をゼミ(部会、ミーティング、講座)で用いていたら親鸞会だと思って間違いないでしょう。


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◎マラソンの例え

人生は様々な点でマラソンに似ている。どんな点が似ているかというと、

・立ち止まっていられない。
一ヶ所に止まっているランナーはいないように、昨日から今日、今日から明日へと私達は生きている。
走り続け、止まることを許されない。

・常に競争を強いられる。
早くは幼稚園のお受験から競争が始まり、受験戦争、就職難、出世競争など、常に周囲と比較され、走り続けなければならない。

・周囲から応援がある。
親、近所、学校や塾の先生、会社の上司など、頑張れ、負けるなと応援される。

・給水所がある。
あまり苦しいので小休止する所、また、とりあえずこれを目指すという目標が人生にはある。ただそれは、人生の通過点であって、ゴールではない。また走り続けなければならない。

このように様々な点で人生とマラソンはよく似ているが、マラソンの場合はゴールがハッキリしているのに対して、人生はどうか?
親、学校の先生、政治家、小説家、誰もハッキリとした人生のゴールを教えてくれない。人生はゴールが示されぬまま走り続けるようなものである。

あそこがゴールだとハッキリしていてこそ、頑張って走ることができる。
ゴールのない円形トラックを回り続けるランナーは、やがて走り倒れあるのみだ。
では、人生のゴールといえるような、いわゆる人生の目的はあるのか?

それについて教えられている「平生業成」という先哲の言葉がある。

「平生」とは、生きているとき。
「業」とは、人生の大事業のこと。事業といっても、ノーベル賞を取るとか、オリンピックで金メダル取るとか、マイホームを建てるとか、そういうものではない。
生まれてきたのはこれ一つのためであったといえるもの。これ一つ果たしたらわが人生いつ死んでも悔いなしといえるもの。言い換えると人生の目的、なぜ生きるかということ。
「成」とは完成する、達成するということ。

「人生にはこれ一つ果たさなければならない大事な目的がある。それは現在完成できる。だから早く達成しなさいよ」ということが、「平生業成」ということである。

ではその人生の目的、なぜ生きるの答えは何なのか、達成したらどうなるのか、どうしたら達成できるのか、広くて深い話だから続けて聞いてもらいたい。




◎海のたとえ(難度海)

人間が生まれたというのは、ちょうど太平洋の真ん中にポンと放り込まれるようなものだ。

・見渡す限りの水と空。一体どこに向かって泳げばよいのか分からない。

 人生も同じように、どこに向かって生きればよいか分からず生まれてくる。なぜ生きるのかが分からずに生まれてくる。

・しかし、泳がなければ沈んでしまうので、とにかく手足を動かす。そして、周りの人は泳ぎ方のコーチをし、一生懸命泳げという。

 生きねば死んでしまうので、とにかく生きよ、一生懸命生きよと周囲の人はいう。
そして、どうしたら長く、楽しく生きることができるのかと生き方を教えているのが、親や学校など。政治、経済、科学、医学、芸術、スポーツ、道徳、倫理、全てどうしたら長く、楽しく生きられるかの生き方を教えたもの。

 方角を示されずに、ただ生きよ、頑張って生きよ、前向きに生きよと言われ続ける。一体どこに向かって泳げばよいのか、方角知らずに泳いでいたら土左衛門になるだけように、ただ生きているのは死ぬために生きるようなものである。

・海には大小様々な波が次々と押し寄せてくる。

 同じように、人生には様々な苦しみの波がやってくる。
 人生のことを「難渡海」といわれる。
 渡ることが難しい海のようなものが人生ということ。海に波が絶えることがないように、人生に苦しみ悩みの波が絶えることはない。だから、「苦海」とも言われる。

 いじめ、失恋、受験戦争、就職難、人間関係、リストラ、離婚、借金、老い、病気、家族や友人の死別…
 苦しみに耐え切れず、自殺する人は日本だけで年間3万人以上。交通事故死の3倍以上の人が自ら命を絶っている。

・ずっと泳いでいるのも疲れるので、周囲に浮いている丸太や板切れにすがろうと懸命に泳ぐ。ところがせっかく泳ぎついてすがってみても、所詮は浮いたものなのでやがてくるっとひっくり返って、塩水飲んで苦しまなければならない。そういったことを繰り返し、最後は海のもくずと消えていく。

 丸太や板きれとは、人生でいうと、金、財産、名誉、地位、健康、マイホームなど、私たちがあて力にしているもの、支えにしているもの。
 懸命にそれらのものを追いかけて生きている。
 しかし、ようやく得た財産を詐欺で失って苦しむもの、病気になり健康に裏切られて苦しむもの、この人とならと思って結婚するが配偶者のために苦しむもの、せっかく得た地位を追われて悲しむもの、四方八方眺むれど世に愁歎の声は尽きない。

 そして、人生の最後は
 「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つもあい添うことあるべからず」
 と室町時代の蓮如という人はいっている。

 いよいよ死んでいくときは、それまであてにし、力にしてきたすべてのものに裏切られて、死んでいかねばならない。

 これでは、何のために生まれてきたのか? 生きているのか? 苦しむために生まれてきたようなものではないか。

 そんな人生において、
「難度海を度する大船」
があると『教行信証』という古典には書かれている。

 苦しみの波の絶えない人生の海を、明るく楽しくわたす大船がある。その船に乗り、未来永遠の幸福に生きることが人生の目的だと教えられている。

 では、難度海を渡す大きな船とは一体何なのか、どうしたら大きな船に乗れるのか、続けて聞いてもらいたい。

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(つづく)

大学の新入生の皆さんと家族の方、こんなサークルに注意!

今日は話の内容ではなく、サークルの様子について書きます。

以下のような点が複数当てはまるときは、大学の新入生の皆さんは親鸞会のサークルではないかと疑ってください。

もし大学に入学される新入生の皆さんやその親御さん、また、たまたまキャンパスを歩いていたら声をかけられた方、縁あって当ブログを読まれていたら、十分注意して下さい。

怪しいと思ったら遠慮なく詳細をコメントして頂きたいと思います。声をかけてきたサークルが親鸞会なのかどうか検証致します。

(親鸞会のサークルを経験した人で、他にも親鸞会と疑える特徴があればコメント欄で教えて頂きたいと思います)


・大学によって名称が違いますが、ゼミ(公開講座、ミーティング、部会など)が主体のサークル。

・話をされる内容が、こんな話に注意で書いている内容に一致する。

・平日にも関わらず、大学生とは思えないような年齢の人が講師をしている。

・授業後だけではなく、授業の空き時間や昼休みにも、誘いを受ける。

・休憩時間や行事終了後にも、先輩がさらに紙とペンを使って内容について話してくる。

・休日になると、別の大学との合同行事が設けられている。

・週刊予定表が配られ、行事の参加の有無や空き時間の予定を記入して先輩に提出する。

・新入生同士にあまり接点を持たせないようにしているような感じを受ける。その一方で、先輩ばかりが話しかけてくる。

・自分がある先輩に話したことが、別の先輩にも共有されている。

・学外に部室(大学によって名称が異なることがあります)がある。

・初めの何回かは、学内で行事が行われていたが、気が付くと行事は学外の部室でばかり行われるようになる(初めから部室の場合もある)。

・時間割を先輩と一緒に作成するように勧められる。そして、その時間割を先輩が把握している。

・親に対するサークルの説明の仕方まで、先輩が教えてきたり、先輩が気にしたり、先輩が聞いてきたりする。

・部室に『なぜ生きる』『光に向かって100の花束』『親のこころ』『子育てハッピーアドバイス』など、一万年堂出版の本が揃っている(はじめはなくても、知らないうちに並んでいることもあります)。

・メルマガの登録を勧められる(サークルのメルマガ、先輩が個人でやっているメルマガがあります)。

・部室では、床の上に絨毯が敷いてあり、そこに直接座って話を聞く。椅子に座って話を聞くことはない。(全ての部室に当てはまるかは分かりませんが、概ねそうです)

・部室の割と目立つ位置に、中身の分からないロッカー等が置いてある。(中には仏壇が入っていて、最初は隠されている)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(4)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(3)の続きです。

※西洋哲学や儒教家の言葉、日本文学者、哲学者の言葉なども取り上げて、偏りのないように話をしてきますが、注意が必要です。

※以前からの非難により、現在は、勧誘の最初の段階で仏教とか『歎異鈔』や『教行信証』に学ぶと触れる大学もあります。

※以下のような内容をサークルで聞いたら親鸞会の可能性が高いです。不安に思ったらコメント欄に聞いた内容やサークルの様子を教えて下さい。親鸞会である可能性を検討してみたいと思います。

※『なぜ生きる』、『光に向かって100の花束』など一万年堂出版の書籍をゼミ(部会、ミーティング、講座)で用いていたら親鸞会だと思って間違いないでしょう。


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◎いろは歌

「我々の生活で欠くべからざる思想は あるいは『いろは』短歌 に尽きているかもしれない」(『珠々の言葉』)
と芥川龍之介はいっている。
実は人生の目的が、いろは歌に教えられている。
いろは歌は、仏典の言葉を翻訳したものといわれている。対応させると以下のようになる。

色は匂えど 散りぬるを(諸行無常)
我が世誰ぞ つねならん(是生滅法)
有為の奥山 今日越えて(生滅滅已)
浅き夢見じ 酔いもせず(寂滅為楽)

・色は匂えど 散りぬるを 我が世誰ぞ つねならん

どんなに美しく咲き誇っている花も、やがて色あせ散るときがくる。この世の一切のものは、常がなく移り変わっていく。これを諸行無常といわれる。諸行とは、すべてのもの。無常とは常がなく変わり通しであること。
そして、どんな盛んな者も必ず衰え滅んでいく。栄枯盛衰は世のならい。世に常なるものなど何一つないのである。生あるものは必ず死に帰し、形あるものは必ず壊れるのが世の道理である。


私たちは、何かをたよりにし、あてにし、心の支えにして生きている。
夫は妻、学生は親、または学歴や社会的地位、お金、自分の能力・才能、恋人など、人それぞれ何かを頼りにして生きているのが私たち。何かをたよりにしなければ一時として生きてはいけない。

しかし、そのたよりにしているものが、本当にいつまでも支えになるものなのか?

「諸行無常」といわれるように、全ては変わるもの、私から離れていくもの、裏切っていくもの。

そして、頼りにしているものを失ったとき、人は苦しみ悩む。

ただ、失うときだけが苦しみなのではない。やがてかわってしまうものを支えにしていると、いつか失うのではないかと今から不安でビクビク。こころからの満足がない。

世界三大美人の一人、小野小町は「面影の変わらで年のつもれかしたとえ命に限りあるとも」という歌を残している。自分の美貌が変わってしまうことが不安だったに違いない。普通は自分の命が永らえることを望むが、命に限りがあっても面影が変わらないで年を取りたいとうたっている。

たとえ、支えにしているものがしばらくあったとしても、自分が死んでいくときは全てを置いて丸裸で死んでいかねばならない。

「この世をばわが世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」と詠み、藤原家の全盛期を築いた藤原道長も、臨終には迫り来る死を恐れて、阿弥陀仏の臨終来迎を期する儀式を行い、死んでいった。
死んでいくときは金も財も名声も一切当てにはならない。全て置いていく。
これでは、一体この世に何をするために生まれてきたのだろうか?

・有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔いもせず

苦しみ悩みの充満した人生を、今日越えたということがあるのだ。それは浅い夢のように儚くおぼろ気なものではなく、酒に酔っ払ったような一時的で覚めてしまえば何もなくなるというものでもない。


「越えなばと 思いし 峰に来てみれば なお行く先は 山路なりけり」とうたわれるようにも、越えても越えてもキリのない有為(苦しみ)の奥山のような人生を、今越えて、「人間に生まれてよかった」と生命の大歓喜をうることができた。

これの世界を昔の人は、
「広大難思の慶心」
「うれしさを昔は袖に包みけり今宵は身にもあまりぬるかな」
と言っている。

そういった人生の目的を、昔の人がすでに答えを見つけ、教えられているのだ。ここで話されることは、根拠のある話、一つ一つ根拠を挙げて話をしていくので、それを学んでみないか?



◎「生死一如」と「生死の一大事」

人生の目的を知るには、死について考えることが大事である。
「生きる目的にどうして死が?」と思うだろう。

昔から、「生死一如」といわれている。
生と死は紙の裏表のように、切っても切れない関係があるということ。死を抜きにして、生きる目的を論ずるのは片手落ちである。

生と死は、ちょうど台所と便所に例えられる。

台所は明るい、好きな場所。
便所は最近はきれいだが、昔は暗く、臭く、嫌な場所だった。
だからといって、便所がない家があるかといったら普通はない。

台所で食べたら、必ず出さねばならない。
便所の問題が解決していなければ、たとえ一時楽しく食事ができても後で必ず困ったことになる。
便所の問題が解決していて初めて台所で明るく楽しく食事ができる。


同じように、生は明るい、好きなもの。
死は暗い、嫌なもの。苦しいもの。考えたくないもの。

しかし、人間は生まれたからには必ず死ぬ。
死の問題が解決していなければ、たとえ一時明るく楽しい人生を送れたとしても、後で必ず困ったことになる。
死の問題を解決をしていて、初めて心から明るく楽しい人生を送ることができるのだ。


生きるとは、飛行機でいえば飛んでいることに例えられる。
生まれた時が飛び立った時。
人生も飛行機のように猛スピードで過ぎているのかも知れない。光陰矢の如しと言われ、過ぎ去った人生はあっという間に感じる。

飛行機には色々な飛び方があるように、人生には色々な生き方がある。
また機内では快適に過ごすための設備が用意されている。
時には乱気流やエンジントラブル、敵機との交戦など、危険な場面もある。
そうやって私達は日々生きているのだが、実際の飛行機とは決定的に違う点がある。

実際の飛行機には必ず行き先がある。
しかし、私たちは、どこへ向かって飛んだらいいか、飛ぶ方角を知らない、降りる飛行場が分からない飛行機に乗っているようなものである。そして、燃料には限りがあるから、飛び立った飛行機はやがて降りなければならない。

人は生まれたからには、やがて必ず死なねばならない。
100%ぶち当たる行き先を知らずに生きているのは、飛ぶ方角を知らず、降りるべき飛行場も分からずに飛んでいる飛行機と同じ。
最後は山腹に激突するか、海に突っ込んでいくか。
行く先知らずに飛んでいる飛行機は、墜落の悲劇あるのみである。

しかも墜落だけが悲劇なのではない。悲劇に近づくフライトそのものが地獄なのである。
行き先が分からない飛行機に安心して乗っていられますか?どんな機内食もおいしくないし、機内で何をしても心の底から楽しめない。

未来が暗いと現在が暗くなるのだ。

未来に人生最大の問題である「死という問題」を抱えていて、明るく楽しく人生を送れると思えるだろうか?

しかも、死の問題は100%やってくるし、いつくるかも分からない。
この死の大問題のことを、「生死の一大事」といわれる。
この生死の一大事の解決こそが人生の最優先課題である。

生死の一大事を解決するとは、先ほどの飛行機のたとえでいえば、いつでも安心して着陸できる飛行場を確保ようなもの。そのとき、悲劇のフライトは、明るく楽しいフライトへとガラッと変わる。

生死の一大事を解決してこそ、人生を大安心、大満足で生き抜くことができる。『歎異抄』という古典には、生死の一大事を解決した世界を「無碍の一道」と教えられている。一切のさわりがさわりのままでさわりにならない世界に出られるのだ。

死について考えることはいたずらに暗く沈むことではなく、生の瞬間を太陽よりも明るくする第一歩なのである。

では、生死の一大事を解決した「無碍の一道」とはどんな世界か、どうすれば解決できるのか、続けて話を聞いてもらいたい。

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(つづく)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(5)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(4)の続きです。

※以前からの非難により、現在は、勧誘の最初の段階で仏教とか『歎異鈔』や『教行信証』に学ぶと触れる大学もあります。

※以下のような内容をサークルで聞いたら親鸞会の可能性が高いです。不安に思ったらコメント欄に聞いた内容やサークルの様子を教えて下さい。親鸞会である可能性を検討してみたいと思います。

※サークルや先輩のメルマガ登録を勧められるたら、親鸞会である可能性があります。

※『なぜ生きる』、『光に向かって100の花束』など一万年堂出版の書籍をゼミ(部会、ミーティング、講座)で用いていたら親鸞会だと思って間違いないでしょう。


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◎三枚の鏡

人生の目的といっても、「私」の生きる目的である。

「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」と孫子も言う。
人生に当てはめると、敵とは生きている世界であり、己とは自分(私)であろう。
真の人生の成功者となるにおいて、私とはいかなるものかを知ることはとても大事なことである。
古代ギリシアから、「汝自身を知れ」とも言われている。

そこで今日は、「私」とはいかなるものかについて話をしよう。

みんな自分のことは自分が一番よく知っていると思うだろうが、はたしてそうか?

・「なくて七癖」 自分の欠点はどれくらいあげられるか?
・蔡君謨という宰相 長いあご髭で有名 髭を布団から出して寝るか入れて寝るか分からない
・この中に泥棒がいるなといった泥棒の親分の話

昔から「知るとのみ思いながらになによりも知られぬものはおのれなりけり」といわれるように、知っていると思いながら、一番分からないのが自分なのである。

なぜ自分のことが分からないのか?それは、近すぎるからである。
そこで、近いものをみるときには、鏡を用いる。

自分をうつしだす鏡に「他人鏡」「自分鏡」「法鏡」の三枚の鏡があると教えられている。

まず「他人鏡」とは、他人から見た私の姿である。それを通して自分はどんな者かを知るのだ。
ところが、人間の価値判断はいい加減なもので、一休は、
「今日ほめて 明日悪くいう 人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」
と笑っている。 自分に都合のよいときは善人で、都合が悪くなれば悪人という。
自分の都合で判断が変わってしまう他人鏡は、本当の自己をうつしだす鏡ではない。

次に「自分鏡」とは、自分で評価した自分、自分の眼に映れた自分のことだ。
ところが、人間には欲目があり、自分のことはどうしてもよいようにしか見ることができない。
欲目のことを自惚れともいう。仏教では、「慢」という。この自惚れ心を七つに分けて七慢という。
慢 過慢 慢過慢 我慢 増上慢 卑下慢 邪慢
私たちは、この自惚れ心から離れて生きることは絶対にできない。よって、自分鏡も本当の自己をうつしだす鏡ではない。

では、本当の私をうつしだす鏡はあるのか?それが最後の「法鏡」である。
法鏡とは仏教のことである。
お釈迦様はお亡くなりになられるとき「汝らに法鏡を授けるであろう」と仰ったと伝えられている。

法とは真実ということ。真実の自己、本当の私のすがたをうつしだす鏡のようなものが仏教なのだ。
つまり、仏教を聞くとは、自己を知るということ。
「仏道を習うは己を習うなり」(道元禅師)
「よもすがら仏の道に入りぬればわが心にぞたずね入りぬる」(源信僧都)
とも言われている。

鏡に近づけば近づくほど自分の姿がよく見えるように、仏教を聞けば聞くほど自分のすがたが知らされてくる。

では、私とは何なのかというと、私の心のことである。
本当の私とは、本当の私の心のすがたということなのだ。

この本当の私の心のすがたを、仏教では「煩悩具足」と教えられている。



◎煩悩具足

煩悩とは、私達を煩わせ悩ませるもの。
全部で108つあり、中でも代表的なものが欲、怒り、愚痴である。

今日は時間がないので欲について話をしよう。
欲とはなければないで欲しい、あればあったでもっと欲しいもっと欲しいと際限もなく求める心である。
私たちは、朝から晩まで欲に振り回されているといってもいいだろう。

西洋哲学は、古来こうした欲と向き合い方で、およそ2つに分かれる。

1つは自分の欲望をできるだけ多く満たそうとする「快楽説」。
ところが人間の欲望は無限で、有限な命を持った人間は満たし切ることはできない。

もう1つは、反対に欲望を抑えよう、減らそう、できるなら断ち切ろうとする「禁欲説」。
だが、抑えよう抑えようとすると余計に噴き上がってくるのが欲望というものである。

「煩悩具足」の具足とはそれで出来上がっているということ。煩悩に目鼻つけたようなのが人間なのだ。
つまり、煩悩はなくもならないし、減りもしないものだというのである。

限りない欲望を満たそうとしても満たしきれず、抑えようとしても抑えることはできない。
西洋哲学はここで行き詰まっている。
ではどうしたら人間は幸福になれるのか?



◎煩悩即菩提

実は、煩悩をなくも減らしもせずに、煩悩がそのまま菩提(幸せ)となるという世界がある。
それを教えているのが東洋哲学、仏教だ。
仏教では、「煩悩即菩提」とか「転悪成善」と教えられている。
煩悩がそのまま菩提になる、悪(苦しみ)が転じて善(幸福)になるということ。

それは一体どんなことなのか。例えで説明する。

ある村に、山一つ隔てた学校へ通学しなければならない男の子がいた。
山は険しく、道は寂しく、雨となればたちまち道が洪水になる。いつも山と道とがうらめしかった。
そこへある日、同じクラスに一人の可愛い転校生の女の子がやってきた。何と彼女は、同じ村ではないか。
男の子はすぐに彼女と打ち解け、いつも一緒に登下校して、険しい山道について語り合う仲になった。
ある日の下校時、にわか雨が降ってきた。傘は彼女の一本だけ。奇しくも相合傘になった男の子は、ひそかにこう願った。
「雨が止まないでほしい」「山がもっと険しければいい」「道がもっと長ければいい」
あんなに嫌だった雨も山も道も、返って喜ぶ元と転じているのである。
例えで全てをあらわすことはできないが、苦しみがそのまま喜びに転じ変わる世界があるのだ。

その世界を昔の人は、
「しぶがきのしぶがそのまま甘みかな」
「見れば見るほど たのもしそうな. 添うて苦労が してみたい」
「罪障功徳の体となる 氷と水のごとくにて 氷多きに水多し 障り多きに徳多し」
などとも言っている。

ではどうしたらその身になれるのか。
それは「聴聞に極まる」といわれている。聞くことが大事なので、続けて聞いてもらいたい。

**********************

(つづく)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(6)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(5)の続きです。

本日は、「宗教偏見カット」ということについて書きます。
親鸞会では新入生や初めて話を聞く人が怪しいと感じて辞めないように、「こんな質問を受けました」と不安要素を敢えて出して話をして、相手の警戒心を解く手法を用います。これを「カット」と言います。
代表的なものは、親御さんに反対されて辞めるのを防ぐ「親御さんカット」(最近は親御さんカットという言葉は使わなくなったようです。親に対する配慮といいます)、他の部活やサークルと兼部して辞めるのを防ぐ「兼部カット」などです。

気をつけたいのは、彼らの言葉遣いです。
(オ●ムとか統●協会など、皆さんが思い浮べるようなカルト的な)宗教のサークルではありません」という意味で、「宗教ですか?」と質問した人に「宗教のサークルではありません」と答えるので、嘘をついているようなものです。

お願いですから、現役学生会員の皆さん、大学新入生を勧誘しようとしている学顕クラブや支部会員の皆さん、ダミーサークルを作って相手の質問にきちんと答えないような勧誘は止めて下さいね。
それは明らかに嘘をついているということですよ。真実に導く方便や配慮なんかと思っていたらとんでもない間違いです。
嘘は善ですか? 悪ですか? そんなことをやっていて信仰が進むんですか?
自分の胸に手を当てて、真剣に考えて頂きたいと思います。


**********************

◎宗教偏見カット

人生の目的とか、なぜ生きるというテーマでゼミをやっていると言うと、「それって何かの宗教ですか?」と聞いてくる人がありますが、私達はそういった、皆さんが思っているような宗教のサークルではございません。
全く、違いマンモス。マンモス級に違うということです。

宗教といわれるものと私たちのサークルとの違いが分からねば、人生の目的はもう分からないので、よく聞いてもらいたいと思います。

そもそも、宗教という言葉は、英語の「religion」を翻訳したものです。
「re」とは「recycle」の「re」と同じで「再び」、「ligion」のもとになる語はラテン語で「結び付ける」という意味でした。「religion」とは、再び結びつけるという意味になります。

では何と何を結び付けるのか?
私とアッキーナを結び付けて下さるのか? それとも私とヤマピーを結び付けて下さるのか? もちろんそうではありません。

神と私を再び結び付けるということです。キリスト教では、人間はエデンの園から追放されたアダムとイブの子孫であると教えられます。その原罪を背負った人間と神を再び結びつける教えがreligionであり、これはキリスト教のことを指すのです。

今から2000年ほど昔、ヨーロッパではローマ帝国が席巻して民衆を支配していました。
民衆は国の圧政と重税に苦しみ、自分はなぜこんなに苦しまねばならないのかと常々不満に思っていました。
その不満がローマ帝国、皇帝に向かえば反乱が起き、ひいては帝国が倒される可能性もあるわけです。
そこで皇帝は神の教えを説くキリスト教に目をつけ、当時のローマ教皇と組んで各地に宣教師を送り込みました。そして民衆の不満を沈めるためにこのような教えを説かせたのです。

「今、皆さんが苦しんでいるのは、神の試練です。あなたの運命は神が作ってお与えになったもの。神を信じて下さい。今は苦しいでしょうが、それに耐えれば神はあなたを天国に連れていって下さいます。逆に運命に背くようなことをすると、神はお怒りになり、更にあなたに苦しい運命を課すことになるでしょう。だから、反乱を起こそうなんてバカな考えは捨てて、神から与えられた運命を受けとめて怒りを治め、仕事に励んで税金を納めて下さい。」

自分の運命は何によって決まるのか、さっぱり分からなかった民衆達は、如何にも立派な服装をして神の教えをもっともらしく説く宣教師の話を聞いて「あーそうだったのか」と考えを改め、再び仕事に励むようになりました。
国側にとったらこれで反乱も治まる、税金も納まる、これはたまりませんと、一石二鳥だったわけです。

このようにして、民衆を圧政から解放しようと説かれたキリスト教は完全に国政と癒着し、上層部は甘い汁を吸い続けたのでありました。

「自分の運命は神が作って与えられたもの」とは、科学が発達していなく、自然の脅威や流行病、また説明のつかない現象が多々あった当時としては、民衆がこのように考えるのも当たり前のことだったのです。
社会主義思想家のマルクスが「宗教は阿片だ、毒酒だ」と言ったのは、主に自分の運命を考えることを放棄して、神から与えられた運命に逆らわずに生きよと説く宗教を批判したのです。


それに対して仏教では、「自業自得」といって、自分に与えられた運命は、全て自分の行為の結果だと教えています。
「まけばはえ まかねばはえぬ 善し悪しの 人は知らねど たねは正直」
よい行いをしたらよい報いが来るし、悪い行いをしたら悪い報いが来る。よい運命も悪い運命も、自分にやってくる運命の全ては、過去に自分がやってきた行為の結果であり、万に一つも例外はないということが説かれています。

自分が今苦しんでいるとしたら、それは自分がやってきた行いに原因がある。
今の行いを変えれば、未来の運命は変わっていく。
そういう教えが仏教ですから、実に積極的、努力向上主義の教えであることがわかりますし、非常に論理的です。

マルクスはヨーロッパの人ですから、仏教という教えを知らなかったと思います。
だから、「宗教は阿片だ、毒酒だ」と言った彼の言葉は、仏教には当てはまりません。

なお江戸時代までは、宗教イコール仏教だったのです。それが今から150年ほど前に日本が開国して、ヨーロッパの文化が様々に入ってくる中で、外国の言葉を翻訳しなければならなくなりました。
そこで、キリスト教やイスラム教、その他色々な教えが日本に入ってきた時、翻訳者がそれらを「宗教」と訳したのです。

このサークルでは、「自業自得」の因果論に基づき、論理的に話をして、一つ一つ納得したもらった上で話を進めています。自分の頭で考えてもらって判断して頂いていますから、疑問や質問は大歓迎。

ですからこのサークルは、皆さんが心配しているような宗教のサークルではございません。
分からない所、違うんじゃないかと思う所は質問して、皆さんが理解し納得した上で話をしていきますから、続けて話を聞いてもらいたいと思います。


◎騙されていないと思って騙される

皆さんの中には、自分は騙されているんじゃないかと心配されている人、自分は心配していないが周りの人から「お前騙されているんじゃないか」と言われると動揺してしまう人があると思います。
何かアブナいものにはまってしまったのではないかと思う人、お前アブナいぞと言われると実は内心ではそう思っているけど外相にはその色を見せずという人もあるかもしれません。
○○君は、大丈夫ですか?

実は、あなた騙されていますよと言っている人も、言われている人も、お釈迦様の目からご覧になれば、どちらも騙されているのです。
アブナいぞと言っている人も言われている人も、お釈迦様からご覧になればアブナいのです。

例えば、みなさんは、明日死ぬと思いますか?思っていないでしょう。
そして、明日になれば、また明日も生きておれる。
そうやっていつまでも生きておれる、永遠に生きておれると思っているのが私たちです。

人間一度は死なねばならないと頭で考えていても、死ぬだなんてちっとも思っていない。

しかし、事実は、「生あるものは必ず死に帰す」です。
お釈迦様は、この事実を教えられたのです。それが仏教です。

私たちの命は無常なのに、常だと思っている。それを迷っているというのです。

仏教の言葉に、顛倒の妄念という言葉があります。顛倒とは、ひっくり返っている、逆さまだということです。妄念とは迷った思い。無常が事実なのに、常だと思っているのは、まさに逆さまな迷った思いでしょう。

そんな逆さまな心に騙されて、いつまでも生きておれると思って、あれもやってこれもやってと、そうしているうちに突然何の前触れもなく死んでいく。
そのとき、しまった~、こんなはずではなかった~、求めるものが間違っていた~と思っても、手遅れです。

そんな私たちをご覧になってお釈迦様は、騙されるなよ、アブナいぞと教えられているのです。

「世人薄俗にして共に不急の事を争う」と、お釈迦様は警鐘乱打されています。
世の中の人は、目先の事に心を奪われて、自分が死ぬなんてこれぽっちも思ってない。そして、急がなくてもよいことばかりを争い、死んでいく。

不急の事と言われているのは、人生急の事があるからであります。
人生急の事とは何か?
最も急がなければならない事とは何か?

それこそ、人生の目的であり、全ての人が待った無しで必ずぶち当たらねばならない死の問題の解決であります。この死の大問題を生死の一大事と申します。

自分のいつまでも生きているという心に騙されないで、生死の一大事を解決せよと教えられたのが仏教であります。

では、この生死の一大事とは何なのか?その解決はどうしたらできるのか?解決したらどうなるのか?これについても詳しく教えられているので、続けて聞いて頂きたいと思います。

**********************

(つづく)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(7)

新入生の皆さんはこんな話に注意!(6)の続きです。

※最初はいろいろな手段で近づいてきます。しかし話を聞き続けているうちに、以下のような内容をサークルで聞いたら親鸞会の可能性が高いです。不安に思ったらコメント欄に聞いた内容やサークルの様子を教えて下さい。親鸞会である可能性を検討してみたいと思います。

※メルマガの登録を勧められるかもしれません。

※以前からの非難により、現在は、勧誘の最初の段階で仏教とか『歎異鈔』や『教行信証』に学ぶと触れる大学もあります。

※『なぜ生きる』、『光に向かって100の花束』など一万年堂出版の書籍をゼミ(部会、ミーティング、講座)で用いていたら親鸞会だと思って間違いないでしょう。

※ネットの情報には、デマが多いみたいなことも言われているかもしれませんが、自分でよく情報を取り入れて判断してください。


**********************

◎武蔵の剣法

宮本武蔵は、一生涯60数回の真剣勝負をして一度も引けを取らなかった。
その中には、武蔵一人で多くの敵と戦わなければならないということもあったが、武蔵は敵をうち負かして勝ち続けた。
今日は、そんな宮本武蔵の剣法から勝利の方程式を学びたいと思います。


「負けパターン」

多くの人は、勝負事にいつも決まって負けるパターンがあることを知らない。

みなさん、赤と青と緑と黄色とピンクの5人のヒーローが出てくる戦隊ものを小さい頃にみたことがあると思います。
毎回やられ役の子分が、次から次へと飛びかかってくる。そして、弱いので次々にやられていきます。
そうやって最後に、親分と一騎打ちになります。
子分と親分の特徴は次の通りです。

(子分)
・たくさんいて、次々に飛びかかってくる。
・当然、親分より弱い。
・非常に目立つ。

(親分)
・一人
・最強
・大抵隠れている。

ドラマだと勝てるんですが、現実はそうはいきません。子分の相手ばっかりしている間に、相当消耗してゆきます。仮に他の子分全部倒せても最後に最強の親分がやってきて、力が互角であったとしてもやられてしまいます。

実際の日本刀は重いし、時代劇のように振り回せる代物ではありません。人を切ったらその血、脂で次の人を切ることができません。消耗も激しく、刀も切れないところで親分に襲われてしまったら勝ち目がありません。
親分に負けてしまったら、勝負は負けです。


「勝ちパターン」

では武蔵は、敵に囲まれた状況でどのように勝利をおさめたのか?

(1)次から次へと飛びかかってくる子分を相手にせず、「親分・子分を見極める」

(2)親分が分かったら、直行、直撃。

たいていは、その途中で子分がやってきます。
その場合は子分を倒す必要があるけれども、深追いする必要はありません。
うまく立ち回って、親分に直行すのが大事です。
そして、親分を倒す。

するとどうなるか。「あんな強い大将がやられちゃったんだから、とても勝負にならん」と、向こうの方から逃げていってしまいます。

(3)子分はあっても、なきがごとし。

つまり武蔵の場合は、倒すのは親分一人です。そして勝利をおさめるのです。
反対にたいていの人は子分にばかりを相手にして、たとえ一時勝ったかのように見えても、最後に負けてしまうのです。



◎私達の人生でいうとどういうことか?

押し寄せてくる子分とは、

・入試、大学の試験、資格試験、就職活動、婚活、出世競争などのハードルや病気、事故、などの様々なトラブル、困難・苦難。
・こっちの水は甘いぞと、私達を誘惑し、欲望を満たしてくれる娯楽や遊び、ゲーム。薬物みたいに悪い方へと誘っていくものも存在します。

こういうものは、次から次へとおしよせてきます。

そして、痛い、苦しい、悲しい、ムカつく、または、わくわくする、ドキドキする、楽しそう、一度は体験してみたいと、とても実感が湧きます。目立ちます。

だからこういった問題や誘惑が私達の目の前にやってくると、それに一生懸命で全神経を奪われてしまい、夢中になってしまいます。

ところが人生には、そんな私達の苦労や努力・楽しみをあざ笑うかのように、突然何の前触れもなしに襲いかかり、すべてをぶち壊してしまう親分があります。

その親分とは、これまで何回か話をしてきた死の大問題、生死の一大事であります。

絶対に死んでいきたくない私達が、絶対に死んでいかねばならない。
そして、死んでいくときには全てのものを置いて丸裸で一人旅立つ。

これほどの大問題は人生にはありませんが、みんな忘れています。



◎人生の目的は無碍の一道

死の大問題、生死の一大事を解決すると、「無碍の一道」に出ると『歎異抄』という古典に説かれています。

「無碍の一道」の「碍」とは、さわりということ。先ほどの話でいうと、目先の様々な問題、トラブル、困難・苦難などの子分にあたるものです。

それらを一つ一つ解決するのはとても大変ですが、そればかり相手していては、最後、生死の一大事という親分にやられてしまいます。

しかし、親分を先に倒すことができれば、子分は問題になりません。

「無碍」とは、さわりが無くなるということではなく、「いろいろな碍りがあっても、その碍りが碍りのままで碍りとならない」ということです。

「一道」とは、「一」とは絶対、「道」とは世界ということです。

碍りだらけのこの世の中で、碍りが碍りのままで碍りとならない、たった一つ絶対の世界がある。あるからこの世界に早く出なさいよと教えられているのです。

それには、人生最大の問題であり、人生の最優先課題である、生死の一大事という問題について、もっと知らねばなりませんので、続けて話を聞いて頂きたいと思います。

**********************

(つづく)

こんな感じで、新歓合宿に誘われました

こんな話に注意!連載の途中ですが、本日はこの話題に関連して、GWの新歓合宿にどのように誘われたのかを書きます。
ちなみに先輩の間では、この3月4月の時期を「新勧期」と言っていました。新入生を親鸞会に勧誘する時期、ということです。



私が行ったのは尾瀬の民宿でしたが、近年は高遠少年自然の家などでした(関東の人の場合)。
また、早い段階で勧誘ができない場合や、家族からの非難が起きることを懸念して、合宿が行われない可能性もあります。


ゼミの後、先輩が前に出て、合宿の期間、費用、場所、内容、企画などが紹介されました。その後、参加申し込み用紙が配られ、個別に合宿に参加することを勧められました。だいたい、以下のような話でした。

**********************

人生の目的と言うが、我々の先哲が知恵を絞って考えてきたような大変広くて深いテーマだから、一回聞いて「あぁそうですか」と簡単にわかるようなものではない。だから、人生の目的とはどのようなものなのか、様々な角度からわかりやすく話をしている。

ただ、一つの話を聞いてもどうも全体像がつかめないと思う。僕もそうだった。
4月の間、色々な話を聞いたが、バラバラの点のようで、最初の頃はよくわからなかった。
それが5月のGWの合宿に参加することで、一つ一つの点が、やがて線となり、面となり、立体となるように、続けて聞いていくことで「こういうものなんですね」とわかるようになった。

おかげで人生の目的がハッキリして、何事も前向きに取り組めるようになった。

5月のGWまでは、授業も履修登録位で忙しくないし、他のサークルも飲み会にコンパで本格的な活動はGW以降で活動という活動はしていない。2年生、3年生となるにつれて忙しくなるし、3年生の秋頃から就職活動が始まって、4年生になると卒論もある。社会人になったら仕事が忙しくてじっくりこういうテーマについて聞くことが難しい。

なぜ生きるかというテーマについて学ぶには1年生の今が一番よい時なんだ。

大学四年間の1ヶ月、たった2%を、人生の大事なことについて話を聞いたって損はないでしょ。

それに、合宿ではずっと話を聞いているだけではなかった。スポーツ大会や様々なレク、先輩の特技披露や他の大学との交流なんかもあって、本当に充実していて楽しかった。
何より、景色がきれいだし、食事がおいしいし、思い出に残る合宿だった。先輩やOBも素晴らしい合宿だということで何回も参加している人もいる。

一回一回のゼミもぜひ欠かさず聞いてもらいたいんだけど、授業や予定の関係で聞けないこともある。その点、合宿では続いた話を集中して聞けるし、疑問質問があっても時間を気にせずにできる。

合宿まで聞いて大したことないなと思うならこのサークルを辞めてもいいし、これはすごい話だなと思うなら続けてもらいたい。

ただ、内容には自信をもっているから、参加するなら真面目に取り組んでもらいたい。遊び半分では身に付くものも身に付かないでしょ。

「なぜ生きるのか」という大事なテーマについて学ぶというチャンスは長い人生で2度と来ないかもしれない。人生の晩年になって、俺の人生って何だったんだろうとなったら寂しいよね。

せっかく、今、学ぶことができるんだから、このチャンスを生かして、ぜひ○○君にも充実した学生生活、ひいては人生を送ってもらいたい。

これが参加用紙だけど、○○君は、いつ納金できるかな?

**********************


最初は1週間ぶち抜きの合宿プランだったので、さすがにそんなに長くは嫌だと思って断りました。
しかし先輩があまりにも熱烈に勧めてきたのと、4日間のショートバージョンもあるというので、妥協してショートバージョンの方に行くことにしました。

この合宿で、因果の道理、真実の自己、後生の一大事(どれも親鸞会教義でいうところのですが)を徹底して話し、後生の一大事の解決を教えられたのが仏教であり、親鸞聖人の教えであるという結論が聞けました。そして、合宿内で、親鸞聖人の教えの現在正しく説く人として高森会長が紹介され、その講演会へ行こうと勧められました。

一つ一つ納得して聞いているつもりが、知らず知らずの内にマインドコントロールされ、純粋で熱心な学生ほど、一向専念高森会長的人間になってしまいます。
どのようにしてそうなっていくのかは、こんな話に注意!の記事やその関連記事の中で書いていく予定です。



【その後、先輩になって知ったこと】
各大学には、年間の顕正目標(親鸞会入会者数の目標)というものがありました。
新歓合宿に参加する人数がある程度なければ、その目標達成は困難になってきます。

そのため、各大学で、新歓合宿参加目標というものがあり、その目標達成に向けて先輩は必死に活動しているのでした。

具体的には、

・合宿をどう打ち出すか
・誰(先輩)が誰(新入生)に合宿を勧めるのか、どんな話をするか
・参加決意をした人はいつ納金するのか、ちゃんと期日に納金したか
・親には何といって合宿に参加するのか
・金銭状況はどうか
・参加決意していない人の原因は何か、それでは、どう案内するか
・現状では目標達成が困難な場合、さらに1年生の勧誘を行うかどうか


などを、新入生が来る前や帰った後に、先輩は打ち合わせていたのでした。

あまりにも熱心に合宿参加を勧められた裏には、こんなことがあったのでした。

(つづく)

こんなフレーズを使うサークルに注意!

3月4月、浄土真宗親鸞会という団体が、大学で1年生を勧誘しています。
後の時期になると、他の学年も勧誘していることが多いです。

どんな方法で勧誘されるかは大学ごとに異なります。
キャンパス内で、学外で、友達を通じて、下宿訪問、メルマガ登録、mixi、ツイッターなど様々な形態で勧誘を行っています。さよなら親鸞会でも、mixiを使った勧誘に注意するようコメントがついていますので、参考にして頂ければと思います。

初めて出会ったときに、「親鸞会」とは言わないので注意が必要です。

どんな形で勧誘されても、やがて講義形式の話を聞くことになります。
そして、高森会長の法話やビデオ座談会に参加し、何ヵ月後かに親鸞学徒(親鸞会会員のこと)になることを勧められます。

何回か話を聞いてみて、サークルでなされる話の中で以下のような単語が複数出てきたら、親鸞会である可能性が高いです。


・メルマガ登録
・履修相談
・目的が大事
・人生の目的
・なぜ生きる
・生きる意味
・人生のビジョン
・人生の羅針盤
・縦と横の線の図
・人生のゴール、決勝点、卒業
・目的があって手段がある
・大学卒業生1000人に聞きましたアンケート(大学生白書)
・ジャッジメント能力(利根川進)
・インターネットの情報は必ずしも当てにならない、自分の目と耳で確かめるのが大事
・七つの習慣 「Begin with the end in mind.」
・三階建ての家を欲した金持ちの息子
・約束は必ず果たさなければならない(ナピールと少女の話)
・「人生はマッチ箱のようである。大切に扱うにはバカバカしいが、大切に扱わねば危険である。」(芥川龍之介)
・「科学は、何々だということは言える。しかし、何々であるべきだということに答えはない。」(アインシュタイン)
・「宗教なき科学は不具であり、科学なき宗教は盲目である。(※宗教を哲学に変えて言う場合有り)」(アインシュタイン)
・「人生は、狂人の主催したオリンピック」(芥川龍之介)
・「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」(林芙美子)
・「人間は生きて苦しむ為めの動物かも知れない」(夏目漱石)
・「人生は地獄よりも地獄的である」(芥川龍之介)
・「人生とは、いくつもの狭き門をくぐり続けるようなものだ」
・限界効用逓減の法則
・「一番幸せ」が「金メダルなんていらない」に(岩崎恭子選手)
・渇愛の法則
・日本では自殺者が年間3万人以上
・目的 手段
・生き甲斐 趣味
・目標
・死ぬまで求道
・相対の幸福 絶対の幸福
・幸福の字の由来
・人間に生まれてきて良かった
・生命の歓喜
・大安心 大満足
・いつ死んでも悔いなし
・人生を飛行機や海、マラソンなどにたとえた話
・「越えなばと思いし峰に来てみればなお行く先は山路なりけり」
・「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし」(徳川家康)
・「おごらざる者もまた久しからず 露と落ち露と消えにし我が身かな 難波のことも夢のまた夢」(豊臣秀吉)
・「私はただ、真理という大海の砂浜で小石を拾っている子供のようなものだ。」(ニュートン)
・苦しみの新しい間を楽しみといい楽しみの古くなったのを苦しみという
・命とは私に与えられた時間
・武蔵の剣法
・「人生は苦なり」
・「歓楽尽きて哀情多し」
・「四方八方眺むれど唯愁嘆の声のみぞ聞く」
・光に向かって
・仏教
・世界の光 親鸞聖人
・亀井勝一郎
・日本の三哲(西田幾多郎、三木清、田辺元)
・正見(一休の立て看板と蓮如の答え)
・諸行無常
・教行信証
・歎異抄
・難度海 苦海
・「難度海を度する大船」
・無碍の一道
・煩悩即菩提
・摂取不捨の利益
・平生業成
・「人身受け難し 今已に受く」
・盲木浮木の譬
・父母恩重経
・親の大恩十種
・天上天下唯我独尊
・お釈迦様 釈迦
・愛憎一如
・苦楽一如
・生死一如
・信疑一如
・顛倒の妄念
・酔生夢死
・いろは歌
・一炊の夢
・「まことに死せんときはかねてたのみおきつる妻子も財宝も我が身には一つも相添うことあるべからず」
・「人間はただ電光・朝露の夢・幻の間の楽しみぞかし」
・トルストイ 『懺悔』
・有無同然
・南国の原住民と金持ちの話(オレはもうヤシの木の下で昼寝をしているよ)
・ダイアナ自殺未遂5回
・カロザース破格の待遇も41歳の若さで自殺
・苦悩の根元
・無明の闇
・世人薄俗にして共に不急の事を争う
・人生は苦しみの花咲く木
・『むなしさの心理学』(諸富祥彦)
・一人一人の業界にそれぞれが住んでいる
・孤独地獄
・独生独死独去独来
・生死の一大事
・後生の一大事
・大命まさに終わらんとして懼悔こもごも至る
・三愛
・三位の臨終
・死の問題 死の大問題
・無常を観ずるは菩提心の一なり
・『死を見つめる心』(岸本 英夫)
・「死というのは突然やってくる暴力」(ビートたけし)
・元旦や 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし(一休)
・世の中の 娘が嫁と花咲いて 嬶としぼんで婆と散りゆく(一休)
・人生は食て寝て起きて糞たれて 子は親となる 子は親となる(一休)
・三人の妻
・自分探し
・人間の実相
・真実の自己
・知るとのみ思いながらに何よりも知られぬものはおのれなりけり
・三枚の鏡
・他人鏡 自分鏡 法鏡
・煩悩 三毒の煩悩
・五欲
・七慢
・身口意の三業
・心を一番重く見る
・我利我利
・自利利他
・六度万行
・因果の道理
・三世十方を貫く
・自業自得
・善因善果 悪因悪果 自因自果
・まかぬたねは生えぬ 刈り取らねばならぬ一切のものは自分のまいたものばかり
・まけばはえ まかねば生えぬ よしあしの 人は知らねど タネは正直
・八識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識、阿頼耶識)
・暴流の如し
・因縁果
・年毎に 咲くや吉野の 山桜 木を割りて見よ 花のありかは
・ナワをうらむ泥棒
・火の車 造る大工は なけれども 己が造りて 己が乗りゆく
・東條英機の辞世の句
・六道輪廻
・流転輪廻
・出離
・八難


※自分や友人・子供が入ったサークル、自分や友人が誘われたサークル、友人に誘われたサークルが親鸞会かどうか心配になった人は、コメント欄に情報を書いて下さい(管理人しかみることのできない秘密コメントもできます)。親鸞会かどうか見極めたいと思います。

こんな話に注意!も参考にしてください。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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