【ツッコミ】顕正新聞2017年1月1日号「論説」

平成29年親鸞会機関紙顕正新聞・年頭所感「大悲の願船に乗じ難度海を普く照らそう」(高森顕徹会長)を読んで思ったこと。

にて、既に親鸞会発行『顕正新聞』2017年1月1日号年頭所感について述べられています。せっかくなので、私も「論説」を引いてツッコミを入れてみたいと思います。


********************
 平成28年は、映画『なぜ生きる――蓮如上人と吉崎炎上』が全国の映画館で公開され、多くの人々が感動に包まれた。
 富山県の「TOHOシネマズ高岡」では、29週連続上映の大記録も樹立した。

********************

はいはい、いつもの会員を動員してのエセ記録ね。一万年堂出版の、『光に向かって100の花束』や『なぜ生きる』といった書籍同様、所詮親鸞会製作のものは会員を動員してなんぼです。観に行った人数のほとんどは会員でしょう。しかも何回、何十回と足を運んだであろうと覗えます。100回観たら祝賀会参加資格が得られるとのことでしたし。


********************
 映画に描かれていたように、蓮如上人は常に、「南無阿弥陀仏」の名号を御本尊となされていたという事実である。
********************

あれ? 山科本願寺は木像本尊だという記述がありますが・・・。
その名号を聞いて信心歓喜したその時に往生が定まるのですから、名号本尊が一番教えを的確に表現している本尊であることは言うまでもありません。しかし、親鸞会のように木像本尊、絵像本尊を排斥するのは如何かと思います。木像にしても絵像にしても、阿弥陀仏の我らを助けずにはおかぬ無限の智慧と慈悲を形として表したものですから、共に篤く敬うべき対象であると私は思うのですが、皆様は如何ですか?

ところが、親鸞会にいると【投稿文】 第4回 「 親鸞会を退会して 講師部の皆さんへ 」にあるように、

********************
私が講師部を退部する10年前 台湾布教に行っていた K山講師が 突然 帰国命令が出て 講師部会合の前に 引き出され糾弾されました。
 何をやったか S 木海外本部長がこう言いましました。
「私が 海外の視察で 台湾事務所に 行ったら 事務所 の中に 絵像が かけてあった。彼が 台湾の知人から もらって かけておいたそうだ、皆 これをどう思うか」と話し終わると 嵐のような 指摘が始まった。

(中略)

本願寺は木像本尊だから、 あれでは助からん
間違っている、狂っているとまで 講師 は言います。
その感覚だから 批判が出て 遂に こんな言葉が出ました。
ある女性講師が
「そんな 気持ちの悪いものもらってきて それでも講師部なのー」 と追及しました。

「そんな  気持ちの悪いもの」
ご絵像の阿弥陀仏を「気持ちが悪いもの」発言に私は 強い 衝撃を受けました。

********************

となってしまうのです。長いので一部抜粋に留めますが、まだご覧になっていない方はぜひ上リンクに飛んで全文ご覧下さい。名号も、絵像も、木像も、形は違えど「我にまかせよ、必ず助けるぞ」のお心は少しの違いもありません。

********************
ご木像、ご絵像は阿弥陀仏のお慈悲をもって救済して下さる本願の心を表しているのです。

右手の 親指 人さし指を捻って お胸の前に上げられ 掌は外に 向けられています。これは阿弥陀仏が 衆生を喚びたもうことをあらわすので召喚の印といいます。
南無の心です

左手は 親指と 人さし指を捻って 下に垂らされ 掌は上に向けられています。これは 阿弥陀仏が衆生を 洩らさず救済せずに やまぬ お心を表しますので  摂取不捨の印というのです。
阿弥陀仏の心です

********************

この通りです。南無阿弥陀仏の六字の心を形で表したのが絵像、木像ですから、その六字のこころさえ心得たなら一つに固執することはないのです。それを固執しているのは、形に囚われ心を失っている証拠です。


********************
 阿弥陀仏の本願を明らかになされた釈迦の「本願成就文」には、「名号を聞く一念に、絶対の幸福に救われる」と説き明かされている。
********************

後の方では「絶対の幸福(往生一定)」などと書いてありますが、本願成就文には絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を獲させるというような文言は一言もありません。問題なのは「絶対の幸福」という言葉が抱かせるイメージです。「絶対の幸福」と聞いて会員の皆さんが想像しているような心境と、実際本願を信じ念仏するようになった心境には、大きな隔たりがあると思います。

「名号を聞く一念に、往生が間違いなく定まる」

ならまだしも、

「名号を聞く一念に、絶対の幸福に救われる」

は不適切でしょう。この世の幻想的な楽で釣らなければ会員のモチベーションを維持できないのです。


********************
 そんな人間の実態を知り抜かれた阿弥陀仏は、信ずる心(機)と助ける力(法)を一体とした六字名号を完成なされ、「そのまま受け取ってくれよ」と、今も、お呼びづめなのである。
 その南無阿弥陀仏の名号を聞信すれば、信ずる心も念ずる心もない極悪人でも、浄土往生間違いなしの、絶対の幸福になれるのである。
 なんと透徹した深いお慈悲ではなかろうか。

********************

一部、らしいことは書いてありますが、今までの会員の皆さんに染み付いている教えをかんがみるに、

「そのまま受け取ってくれよ」と聞こえるところまで進ませて頂きます

ってな思考になってしまうでしょう。で、また因果の道理、廃悪修善、19願となるのは目に見えています。

南無阿弥陀仏の六字のこころ、「我にまかせよ、必ず助けるぞ」を聞くのに、時や場所は関係ありません。どれだけ聞いてきたかとか、どれだけ財施してきたとか、どれだけ人を誘ってきたとか、その他一切関係ないです。只今、この場で、このままの私が小賢しい詮索や先入観といった計らいを交えずに聞こえたままお受けするのみです。それで往生できるように阿弥陀さまが仕上げて下されてありますから、私は何のためらいもなく南無阿弥陀仏の六字に後生おまかせするのみです。ただこれだけのことを、それにはやれ宿善だ、やれ廃悪修善だ、やれ三願転入だと、どれだけ六字のこころと無関係なことばかり聞かされ続けているのかと思うと、会員の皆さんには同情するよりありません。


以上、簡単ですがツッコミを終了します。
スポンサーサイト

【ツッコミ】自力から他力へさんのコメント2

他力の信心を頂いたという「自力から他力へさん」のコメントを数日前から数多く頂いておりますが、結局は聖教に基づかない、聖教を高森流にしか解釈できない、根拠が高森本という、珍しい法に満ちた内容です。昼間から夜遅くまでお疲れ様ですね。私が日中サイトにアクセスできない環境であるため、お忙しいだろうに、リアルタイムではほとんど三願転入不要さんにお相手して頂いている状態で非常にかたじけないです。また林遊@なんまんだぶ様も様々に教えて下さり、誠にありがとうございます。

親鸞会サイドとしても、こんなものを書くだけ自らの品位を貶めることになることに気づかないところがおめでたいです。当ブログで小競り合いをしている暇があったら、高森会長に

『飛雲』との公開法論に応じましょう! 破邪顕正しましょう!」

と訴えて頂きたいところですが、残念ながら負け戦は目に見えて明らかですからしないでしょうね。

さて、コメント全文はこちらからご覧下さい。既に三願転入不要さんにお答え頂いていることで十分ですが、管理人として私もかいつまんでツッコミを入れていきたいと思います。


自力から他力へさんのコメント
煩悩具足(逆謗の屍)とはっきり知らされていないということは、残念ですが親鸞聖人の信心と異なります。あなたは間違っています。

こう言って出している根拠が高森本ですから、ギャグとしか考えられません。親鸞聖人は、

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ
(高僧和讃)

と仰っていますが、逆謗の屍と信知してなどとはどこにも仰っていません。当然、七高僧や覚如上人、蓮如上人のお言葉にもありません。残念ですが自力から他力へさんの信心は親鸞聖人や善知識方の信心と異なるようです。

三願転入不要さんのコメントにあるように、

簡単に言うと、善人も煩悩具足、悪人も煩悩具足、逆謗の者も煩悩具足

善人、悪人、逆謗に共通しているのは煩悩具足


ということです。「煩悩具足=逆謗」などという珍説は仏教にはありません。自力から他力へさんなら、

自力で初歓喜地まで悟られた龍樹菩薩や、定善ができたと言われる善導大師も逆謗だ

と邪教徒のようなことも平気で思い、言いそうですね。そのように善知識をおろかに思い、師をそしり、虚偽の善知識に仕えているような者のことを親鸞聖人は

善知識をおろかに思い、師をそしる者をば謗法の者と申すなり。

と仰っていることをよく胸に止めましょう。



自力から他力へさんのコメント
福徳蔵(19願)を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。(教行信証化土巻)

聖道門に行き詰まった人も含めたすべての人を19願へ誘引し、(群生海、あまねく諸有海ですから、偽なるもの、虚なるものだけではないですよ)

「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。」(教行信証化土巻)
と仰っています。

19願の人々に、折れず曲がらず速やかに20願へ進めよ、ということですから、すべての人が19願を通るように親鸞聖人が勧められています。


相変わらずの断章取義と捻じ曲がった解釈です。群生海、あまねく諸有海とあるから全ての人に関係あるんだという主張ですが、既に三願転入不要さんに論破されているように、

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。(化身土文類)

【現代語訳】
さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

ですから、群生海、あまねく諸有海というのは仏教のさまざまな法門(聖道門)に入ったが虚偽の人々を指していることが判ります。あくまで常識的な国語の理解力がある人ならばですが。高森邪義に冒されていると国語を始め様々な理解力が著しく低下してしまうので、高森学徒は何百回読んでも分からないかも知れません。

また、十方衆生、群生海、あまねく諸有海とあるから全ての人に関係があるのなら、釈尊は私達を含めた全ての人に聖道門を説かれたことになります。

『飛雲』「十方衆生」の意味より

十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。「十方衆生」と同義の「一切衆生」に至っては、「十方衆生」よりも多くの経典で出てきます。つまり、親鸞会理論を適用するならば、聖道門は全人類にとって実践しなければならない教え、ということになります。

そして、聖道門は釈尊が説かれた方便の教説です。親鸞会では方便について

我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う

と説明して善もどきの善の勧めに躍起になっていますが、それなら聖道門も十方衆生、一切衆生に説かれた方便の教えですからやらなければならないことになります。要は、十方衆生、群生海、あまねく諸有海とあっても、前後の意味などによって私達と関係あることもあれば関係ないこともあるということです。方便というなら、

聖道門は釈迦の説かれた自力仏教(19願から出た教え)であり、方便だが、助からない教えです。
末法の私たちは修する必要がありませんし、後生の一大事を解決できません。


なんかと観念の遊戯をしていないで、実地にやってみたら如何ですか?

ところで、それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。のお言葉については、

********************
問い

親鸞聖人は20願について「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。」(教行信証化土巻)と仰っています。19願の人々に、折れず曲がらず速やかに20願へ進めよ、ということですから、すべての人が19願を通るように親鸞聖人が勧められているではないですか。

答え

20願を勧められたお言葉が、なぜ19願から始めなければならないという意味になるのですか。三願転入の文でも同じで、「論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。」とは、七高僧方のお勧めによって、19願を出て20願に入った、ということであって、七高僧方が19願を勧められたのではありません。
要するに、七高僧方も親鸞聖人も19願を勧められてはいない、ということです。
********************

の問答が分かりやすいでしょう。


それで、散々求めているところの、

親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠

は今回も出ないままです。コメントばかりするのに、人の話は聞かないのですね。

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。 (総序)

【現代語訳】
煩悩に汚れた穢土を厭い、清らかな涅槃の浄土を願いながら、自力のはからいをまじえて本願を疑うから、歩むべき行道に迷い、まことの信心の何たるかを知らずに惑い続け、心は迷妄に閉ざされて暗く、さとらねばならない大切な事柄についてはあまりにも無知であり、しかも身に具えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ浄土往生を勧めたまう釈迦如来の発遣を仰ぎ信じ、最も勝れたさとりへの道である本願に帰依して、如来よりたまわったこの行にひたすら奉え、ひとえにこの信心を崇めなさい。

弥陀大悲の誓願を
 ふかく信ぜんひとはみな
 ねてもさめてもへだてなく
 南無阿弥陀仏をとなふべし

信心のひとにおとらじと
 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり
 称名念仏はげむべし
(正像末和讃)

など、18願や本願の念仏を勧められた箇所はいくらでもあります。こんな感じで、本当に19願が我々に必要で、19願の善の実践が獲信する上で不可欠ならば

「修諸功徳の善を修めよ」
「定散二善に励むべし」


などのような文言が沢山あっておかしくないはずです。そうしなければ救われないのならね。

人の心配は結構ですから、早く

親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠

を提示して下さい。提示できない、根拠がないということなら、それは親鸞聖人の教えにない、文底秘沈の珍しき法です。即刻「浄土真宗」「親鸞」の名を団体名から削除しましょう。

【ツッコミ】自力から他力へさんのコメント

※すべてのコメントはこちらからご覧下さい。


自力から他力へさんのコメント
19願の対象はすべての人であることは明らかですが

違います。『飛雲』[mixi]三願転入議論の解説1より。

『大無量寿経』18願の「十方衆生」
=『平等覚経』17願の「諸天人民蠕動之類者」
=『大阿弥陀経』4願の「諸天人民蜎飛蠕動之類」
諸々の神々や人々や虫の類

『大無量寿経』19願の「十方衆生」
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者」
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道」
諸々の仏国土の菩薩の行を行う者


19願の「十方衆生」は、19願文に発菩提心 修諸功徳とあるように、菩提心を発して諸々の善を修める、菩薩の行を行う者が対機です。これについて、 林遊@なんまんだぶ様がコメントにて説明して下さっていますので引用します。

*********************
第十九願に「発菩提心 修諸功徳」とあります。この菩提心については『往生要集』作願門p.902に詳しく説いてあります。その内容として四弘誓願が挙げられています。
http://wikidharma.org/57fe2b54deeb7

四弘誓願
①衆生無辺誓願度。 一切の衆生をさとりの岸にわたそうと誓う。
②煩悩無尽誓願断。 一切の煩悩を断とうと誓う。
③法門無量誓願学。 一切の教えを学びとろうと誓う。
④仏道無上誓願成。 この上ないさとりを成就しようと誓う。
こ成の四は諸仏・菩薩に共通する願なので総願という。 これに対してそれぞれの仏や菩薩に固有の願を別願という。 {wikiarc}
*往生要集と少しく文言が違いますが意味は同じです。

この四弘誓願を発(おこ)せというのですから、普通の人間なら無理なことは一目瞭然です。本当にこのような願いを発したら衆生無辺誓願度ですから、あらゆる衆生(生きとし生けるもの)を済度するまで死んでいる暇はないわけですね。
また、修諸功徳とは六度万行(六波羅蜜)ですが、六波羅蜜は阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったときに修した行法です。

 国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。{無量寿経p.26}
http://wikidharma.org/57fe2a5ae84b5

ですから虚心に第十九願文を読めば、これは私には不可能だとサルでもわかります。それを言葉の定義を言い換えて、会員に勧めるのですから無茶苦茶です。
まさに「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。」p.381ですね。

*********************

読まれればお分かりかと思いますが、会員の皆さんが、普段の身口意の三業で行っているであろう親切や言行一致等の倫理・道徳的な善を、六度万行や19願の行と同列に見做すこと自体がそもそも間違っているのです。布施が親切で、持戒が言行一致で・・・なんていう認識が仏教で説かれる「善」というもの、「行」というものをなめている証拠です。会員とは会話ができないという林遊様のご意見はまことにご尤もです。
この世で悟りを開くか、浄土を願うかの違いだけで、修諸功徳の善そのものは聖道行なのですから、在家の人間が仕事片手間で行ずることができるほど甘っちょろい行ではないのです。それこそ出家して、一生涯修行に打ち込んでなんぼという世界です。いや、なんぼにもならないかも知れません。それで親鸞聖人は、

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。(化身土文類)

【現代語訳】
しかし、はかり知れない昔から迷い続けてきた愚かな凡夫は、定善の行を修めることができない。心を乱さず思いを一つに集中して浄土の相を観ずる行だからである。散善の行も修めることができない。悪い行いをやめて善い行いをすることだからである。このようなわけで、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することさえできないのだから、『観経疏』には、「たとえ千年という長い寿命を費やしても、真実を見る智慧の眼が開かない」(散善義)といわれている。ましてすべての相を離れ、真如法性をそのまま観ずることなど決してできない。だから、『観経疏』には、「釈尊は、はるかに遠く、末法の世の煩悩に汚れた衆生のことを、仏や浄土の相を観じて思いを一つに集中することなどできないと見通しておられる。ましてすべての相を離れて真如法性を観じようとするなら、それは、神通力のないものが空中に家を建てようとするようなものであり、決してできるはずがない」(定善義)といわれている。

と、我々には定善散善の行を修めることができないと教えられるのです。そのような定善散善、19願の善、また六度万行といった仏教で説かれる諸善を、親鸞聖人が我々にやれと勧められるはずがありますか? 自力から他力へさんには

親鸞聖人が「他力の信心を獲るために19願を実践せよ、定散二善をせよ」と仰った直接的な根拠をご提示下さい

と求めたはずですが、的外れな根拠ばかりで一向に回答がありません。根拠だけで結構ですから、親鸞聖人のお言葉をご提示下さるよう重ねて求めます。

ところで、19願の実践が他力への不可欠なプロセスといい、他力の信心を頂いたと仰るのですから、当然自力から他力へさんは19願を実践されたのでしょうね? 林遊様のコメントをご覧になったなら、今後19願の実践などと軽々しく言わないことです。19願の行が実際はどんな行かも知らずに、親鸞会で勧められる善もどきの善をやった位で19願を通ったつもりになっている者こそ戯論者でしょう。



自力から他力へさんのコメント
後、すべての人が「逆謗の屍」というのは、仏眼からご覧になった実機のことです。
獲信すれば、「逆謗の屍」であることが知らされます。


根拠のない高森邪義の受け売りです。七高僧方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、ご自身のことを「逆謗の屍」だなどとは仰っていません。仰っていたら根拠を提示して下さい。



自力から他力へさんのコメント
ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲ふなり。(愚禿鈔)

定散諸機を勧誘して大経の三信に帰せしめるということですね。定散二善に堪えられぬ悪人には最初から念仏一つです。ただ親鸞聖人は、悪人に定散諸機も含めて

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化身土文類)

と仰っています。定散諸機にさえ「ただ弥陀を称せよ」ですから、我々は尚更「ただ弥陀を称せよ」以外お勧めはありません。また、定散二善や19願の実践が他力への不可欠なプロセスでない証拠に、聖人は

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし
(浄土和讃)

と仰せです。自力の三心をひるがえし捨てて『大経』の三信に通入せよということですから、定散二善や19願の勧めがないことはここでも明らかです。



自力から他力へさんのコメント
実機は逆謗、救われていないときは自惚れている疑心の善人、救われると逆謗と知らされます。

だからどこにそんなことを教えられているのですか? 根拠を提示して下さい。ちなみに疑心の善人とは20願自力念仏の人のことです(『飛雲』誡疑讃を19願を勧められたお言葉と解釈して、真宗界から笑われていますよ参照)。



自力から他力へさんのコメント
雑行は浄土の方便仮門であり浄土の要門だから、18願までの必要不可欠なプロセスということです。

は? 雑行は最初から「捨てて」ですが。雑行をやれなどと教える人は善知識方には見当たりません。真宗には「雑行の勧め」はありません。五正行以外の諸善を全て「雑行」と言いますので、当然諸善の勧めはありません。19願の勧めはありません。19願の実践が他力への不可欠なプロセスなどとはとんだ珍説というわけです。



三願転入不要さんに鋭く突っ込まれて、挙句の果てに自力から他力へさんが出してきた根拠が『歎異抄をひらく』(高森顕徹著)とは笑止千万です。結局根拠は聖教にはなく、高森会長の教え、高森会長の本にしかなかったということですね。

三願転入不要さん、また林遊様には私が言いたかったこと以上のことをコメント下さいまして大変感謝しております。この場を借りて御礼申し上げます。

【ツッコミ】善知識方の語られなかったこと

親鸞会発行『顕正新聞』平成28年9月1日号の三面下に、次の文章があります。

善知識方の語られなかったこと

あの人は獲信した。
この人も獲信したが、
Aさんや、Bさんはまだだ。

こんな言葉が
飛び交っている所がある。

娘は7歳2ヶ月で、
甥は昨年の9月に獲信したと、
実名や年月を記したり、
語ったりされている。

善知識は、どこにもない。
ここで善知識とは、
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の
ことである。



以前から度々このようなことが言われ続けていますが、親鸞会で熱心に聞法し、親鸞会発行の著書を読み、『教学聖典』なるものを覚えている人は、上の言葉に疑問を持たないでしょうか?

まず、親鸞会発行『教学聖典(4)』には以下の問いと答えがあります。

問(16)
親鸞聖人が、信心獲得された時のことを明示されている御文と根拠を、二つ示せ。

答(16)
○愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)

○建仁第一の暦春の頃、隠遁のこころざしにひかれて源空聖人の吉水の禅坊に尋ね参りたまいき。真宗紹隆の大祖聖人ことに宗の淵源をつくし教の理致をきわめてこれを述べたまうに、たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、飽くまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。(御伝鈔)


問(18)
法然上人の獲信せられた時と処と、どんな御文を読まれていた時かを記せ。

答(18)
時-承安五年の春 四十三才
処-黒谷の報恩蔵の中
文-一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 
   念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故(観無量寿経疏)


これは、親鸞聖人や法然聖人が獲信した実名や年月を記したり、 語ったりされていることではないのでしょうか?


次に、私は『末灯鈔』を読んだことがありません、と高森会長が告白にありますが、

高森顕徹編『獲信の記録』(昭和24年発行)には、高森会長が獲信を認定したと取れる文章が書かれています。
また、高森会長は信心獲得していると公言した元講師を、すべて異安心と認定しています。
これは、「あの人は獲信した。この人も獲信したが、Aさんや、Bさんはまだだ。」と言っていることとどう違うのでしょうか?


②以下、引用。
********************
『末灯鈔』には、

・明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。

・またひらつかの入道殿の御往生のこときき候ふこそ、かへすがへす申すにかぎりなくおぼえ候へ。

・明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。

・なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。

・さきにくだしまゐらせ候ひし『唯信鈔』・『自力他力』なんどのふみにて御覧候ふべし。それこそ、この世にとりてはよきひとびとにておはします。すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもにかかれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしへを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ往生もめでたくしておはしまし候へ。


と、明法房、平塚の入道、聖覚法印、隆寛律師という個人名を挙げて、信心獲得していた人だと親鸞聖人は書いておられます。親鸞聖人のこのお言葉をどう説明するつもりでしょうか。

まさか、信・不信と往生とは関係がないとはいわないでしょうね。

********************
これも、親鸞聖人が「あの人は獲信した。この人も獲信した」と言っていることではないのでしょうか?


それから、【検証】親鸞会における救済論に書きましたが、

会員の皆さんは、新しく人を誘う時、高森会長をどう説明しますか?
「高森先生は獲信の体験と深い仏教の学問を兼ね備えた善知識です」と話してはいませんか?
私は親鸞会製作ビデオで、「高森先生は18歳で信心決定(獲信)した」ということを何度も聞きましたし、講師部員や先輩からも聞きましたし、新人にそのように話をしていました。
これは、高森会長及び親鸞会会員が獲信した実名や年月を記したり、 語ったりしている
ことではないのでしょうか?


更には、親鸞会発行『こんなことが知りたい③』p.122には、以下の文章があります。

『御一代記聞書』には、堺に住んでいた日向屋という豪商は、三十万貫の大金を所持し豪奢な日暮らしして死んだが仏にはなれない、それに較べて大和に住んでいた了妙は帷一枚も着かねた貧乏人であったが、よく信心獲得していたから仏になるだろう、と蓮如上人は道破なされています。

これは、蓮如上人が了妙は獲信した、日向屋は獲信していないと実名を語られていることではないのでしょうか?


それと、こんな言葉が 飛び交っている所があるって具体的にどこなんでしょうかね?
これは、もうご存じの方も多いと思いますが、高森会長の出身母体である浄土真宗華光会のことでしょう。会員の皆さんにそれを知られたら会長の沽券に関わるので、敢えて団体名は出さずに非難しているわけです。
清森元講師などは、華光会の名前を出しただけで厳しく指摘を受け、学院送りにされています。

さて、上述のような内容、会員の皆さんは疑問に思いませんか? お聖教の御文や高森会長が過去に言ってきたことと、現在言っていることの整合性を図ろうとしても、もはや無理でしょう。先の読めない高森会長が、その場の思い付きで過去言ってきたことを忘れて話しているのですから、このように至る所で矛盾が生じてしまうのです。これを自業自得、自因自果、身から出た錆と言います。因果の道理を説くのなら、これ位は知っておいてくださいよ、高森顕徹センセイ。

ところで、このようにツッコむと、親鸞会はお決まりの詭弁を使って会員を納得させようとします。
機相・信相のプリントに関する質疑応答にて書いたようなK講師長の問答など、既にマインドコントロールから解放された人が聞けば「それで答えのつもりか」とすぐに詭弁を見破れるのですが、深いマインドコントロール下にある会員は「K講師長が仰るんだから」と自分に落とし込んで納得してしまうようです。会長や上司、教義に疑問を持つのは謗法罪みたく思っているのでしょうか、哀れなものです。無常の風に誘われる前に、気付いて頂ければよいのですが・・・。

以上、【ツッコミ】善知識方の語られなかったことでした。

「一切衆生必堕無間」の根拠は釈尊ではなく日蓮

『飛雲』「○○の主張は日蓮と同じ」の「○○」は高森顕徹会長のことですがより

********************
高森顕徹会長の主張は日蓮のパクリ、というお粗末さです。
高森邪説の「一切衆生必堕無間」は、日蓮著の『撰時抄』にある

教主釈尊の金言まことならば多宝仏の証明たがずば十方の諸仏の舌相一定ならば今日本国の一切の衆生無間地獄に堕ちん事疑うべしや

をアレンジしたものです。

これと『歎異抄』の「地獄一定」を結び付けて、高森風の機の深信が形成されたのでしょう。

実に高森会長らしい発想です。

********************

なるほどです。ですから、以下に引用する文章は私の方で修正しておきました。日蓮の思想の混じったエセ真宗を「全人類が救われるたった一本の道」などと信じさせられている方々は、実に哀れです。

********************
 親鸞聖人や蓮如上人が不惜身命の覚悟で教示下された生死の一大事とは、どんなことかといいますと、これは後生の一大事ともいわれていますように、総ての人間はやがて死んでゆきますが、一息切れると同時に無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続けねばならぬという大事件をいうのです。
 死後の存在を認める人も認めない人も関係なく、この一大事から逃れることは出来ません。地獄の実在を肯定する人にも、否定する人にも同じくこの一大事が惹起致します。経典『撰時抄』釈尊日蓮は、「一切衆生、必堕無間」とこれを説かれています。これは、総ての人間は必ず無間地獄へ堕ちて苦しむということです。その他、後生の一大事の説かれていない経典はありません。
(『こんなことが知りたい1』p.6~p.7)

********************

ちなみに「総ての人間は死ねば必ず無間地獄へ堕ちて、八万劫年苦しみ続ける」という意味での「後生の一大事」が説かれている経典はありませんがね。経典にないことでは仏教ではなく、外道です。会員の皆さんは、親鸞会及び高森会長の妄想に振り回されるのではなく、本当の真宗教義を学んで本願を信じ念仏して頂きたいと思います。

偽装退会者が、飛雲及び梯和上批判とS会擁護ばかり御熱心なのは、祖師聖人の御教え自体は興味がないのでしょう。

偽装退会者の論理は破綻しています。元々矛盾の上に立つ親鸞会教義ですから、あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たず、という状況は目に見えて明らかです。

最近のエントリーも、飛雲にて祖師方の根拠を元にその間違いを破られています。また、偽装退会者のコメント欄にその都度ツッコミが入っていますので、どのような諍いが起きているか気になる方はコメント欄まで含めて読んでみたらよいと思います。まぁ、飛雲及び梯和上批判とS会擁護ばかり御熱心で、祖師聖人の御教え自体は興味がないことが記事内容からありありと伺えるブログですので、純粋に親鸞聖人の教えを知りたい方、本願の救いを求める方にとっては見る価値はないでしょう。

さて、この偽装退会者は知能に相当問題があるようで、自身(?)が書いた直前のエントリーさえ忘れてしまうようです。既に飛雲に書かれている

真実の経は大経のみ → 根拠は涅槃経
存覚上人の説はとらない → 根拠は存覚上人


に加えて、6月13日のエントリーでは

梯実圓和上の主張は日蓮と同じ → 根拠は梯和上の本

ということが明らかになりました。書いても書いても飛雲に破られてしまい、苦肉の策に陥らざるを得なくなっているようです。そういえば以前、偽装本願寺の僧侶が『真宗の教義と安心』を利用して、「本願寺とS会の主張は同じだから飛雲は間違い」というような攻撃方法を取っていたことを思い出しました。今回も一緒で、本願寺が梯和上に変わっただけのことです。一方では外道やら異安心やら言っておいて、飛雲に勝てないと根拠として用いてくる、というところが共通しています。しかも、少し調べてみると言葉尻だけで実際は飛雲を破る根拠になっていないというところも同じです。間違いだろうが何だろうが飛雲さえ破れればそれでいいという感がひしひしと伝わってくるところまで同じです。


今回の偽装退会者の主張は

親鸞聖人が書かれたものの中に「五逆のものにあらず」という表現がない

というものですが、既にコメント欄で指摘されている通りです。たとえ御自身の著作の中になくとも「五逆のものにあらず」という表現のあるお聖教を書写し、関東の同行に読むことを勧めているのですから、これは間違いですね。親鸞聖人が「一切衆生は闡提の一機」なんて思っていたなら、そんな表現のあるお聖教をそのまま書写しないでしょうし、同行に勧めるわけもないでしょう。根拠がない以上、そんなものはS会及びS会擁護者達の単なる妄想です。自身が闡提だからと言って、それを一切衆生に拡大解釈するのはやめてもらいたいものです。

ブログ名だけはご立派なものですが、ここまで中身が伴っていないのも珍しいでしょう。魚屋なのにたばこ店の看板を掲げているようなもので、たばこを買いに来た人は腹を立てて帰っていきますし、魚が欲しい人は誰も来ませんから、お店は倒産してしまいます(笑) 実際S会は、会長の剽窃問題、長男の不倫疑惑、大学での偽装勧誘等のスキャンダルに加え、肝心要の教義が間違っていたことが明るみになって、随分とかつての勢いを落としています。魚屋なのにたばこ店の看板を掲げているようなものですから、今後どうなっていくかは本人たちが黒板に書いて説明している通りでしょう。


最後に、偽装退会者の言葉を少し変えてお返ししておきましょうか。

偽装退会者が、飛雲及び梯和上批判とS会擁護ばかり御熱心なのは、祖師聖人の御教え自体は興味がないのでしょう。

顕真6月号「ひと口問答2」について

『飛雲』一口問答(一切衆生必堕無間2)

に、親鸞会発行『顕真』5月号に引き続いて「ひと口問答2」が出されたと「おすぎ」さんがコメントされていたので報告します。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
顕真6月号より

ひと口問答2


五逆罪や法謗罪は、造っている人と 造っていない人とがいると
親鸞聖人は説かれているのに、全ての人が造っている罪であるいうのは
間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。


「一切の群生海、無始よりこの来、乃至今日・今時に至るまで、え悪汚染にして
清浄の心無く、虚仮てん偽にして真実の心無し」
と『教行信証』に親鸞聖人は説かれています。
「一切の群生海」とは、全ての人のことです。
「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということです。
親鸞聖人は至る所に説かれていることで、決して珍しい事ではありません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

明らかですが、親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張の相違点10項目の内、2番目の


2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


を意識したものです。

飛雲さんが既にコメントされている通り、【「清浄の心無く、真実の心無し」とは、五逆・法謗の者ということです。】は完璧な間違いです。どこをどう読んだら、「清浄の心無く、真実の心無し」が「五逆・法謗の者」となるのでしょうか? 全ての人の中には、この地球上だけでも、龍樹菩薩のように自力で出離なされた方や、善導大師のように定善のできた方もあるのです。また、御釈迦様の教えを正しく伝えられた七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人等も「全ての人」に含まれます。そういう方々を「五逆・法謗の者」扱いする者こそ「五逆・法謗の者」と言えましょう。そんな者達とは、聖人の仰るように

・同座せざれと候ふなり。(御消息)
・なれむつぶべからず。(同上)


であります。なお、引用されている「信文類」の御言葉は、

すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。

という意味でありますが、

全ての衆生の中には「五逆・法謗の者」がいる

とは言えても、

全ての衆生が「五逆・法謗の者」である

とはなりません。カルト創作教義の犠牲者はまともな思考能力が失われています。

『末灯鈔』のお言葉は、「全人類≠五逆謗法の者」を証明された根拠
間違いを知りながら「十方衆生は一人の例外もなく五逆・謗法・闡提の者である」と未だに言っている確信犯
謗法罪の定義さえも知らない親鸞会のお粗末さ
おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし

などにも書かれている通り、浄土真宗の祖師方は、御自身を含め全ての人は五逆・法謗の者だなどと仰っておられません。それどころか、お聖教には、「全ての人は五逆・法謗の者だ」という高森会長の主張を否定する根拠が沢山あるのです。親鸞聖人は至る所に説かれていることで、決して珍しい事ではありません。


そもそもこの話題について、親鸞会では五逆罪、謗法罪についての定義が本来のものとは異なっており、かつあいまいなので最初から話になりません。何かにつけてそれは五逆罪だ、謗法罪だと脅してきます。例えば、学友部の責任者であるK講師長は、インターネットで親鸞会批判サイトを見ることを謗法罪だと言っていました。勿論それは謗法罪でも何でもないのですが、親鸞会にとって不利な情報をもたらすものに触れることは謗法罪だと言って脅して近づけさせないだけです。会員流出を防ぐための単なる脅し文句に過ぎません。

五逆罪、謗法罪についての定義、そして全ての人は五逆・謗法の者ではない根拠は、

『親鸞会教義の誤り』必堕無間

も参照して頂ければと思います。

いずれ、飛雲さんから更なる解説がなされることでしょうから、当ブログではこの辺にしておきます。最後に、こんなひと口問答を作っている暇があるなら、早く飛雲さんとの法論に応じて下さい、親鸞会サン。

『夢幻界裡の覚醒』は親鸞会公認ブログのようです

親鸞聖人の教えを知らない人たちは、あわれです。

の記事にコメントを頂きました。ありがとうございました。

コメントによると、「はじめまして」さんの支部長は『夢幻界裡の覚醒』を読むよう言ってきたようです。支部長が読むことを勧めるとは、どうやら『夢幻界裡の覚醒』は親鸞会公認ブログのようですね。このブログは『飛雲』に対して、断章と詭弁で満ちてはいますが批判がなされていますから、親鸞会脳の人が読むと『飛雲』は間違っていると錯覚してしまうのかも知れません。
ん? ところで夢幻界裡氏はプロフィールには「某(内緒)本願寺の僧侶」とありますが・・・。親鸞会は本願寺を称名正因の異安心呼ばわりし、「死んだら極楽」「死んだら仏」「念仏さえ称えていたら死んだら極楽」と説教していると馬鹿にして、正しい親鸞聖人の教えが説かれていないと非難しています。一方で批判サイトは本願寺や脱会者のサイトで「高森先生憎し」の思いで書いているものだから読むなと言い、一方で本願寺の僧侶のブログを読めと言う。非難したり勧めたり、一体どっちなんでしょうか? とどまるところ、高森会長のことが誉め讃えてさえあれば他はどうでもよいのでしょう。

しかし、ネット対策に偽装本願寺の僧侶のブログを勧めるとは、親鸞会もとことん堕ちています。教義に絶対の自信があるなら、親鸞会は法論を受ければいいのです。そして批判を正確に受け止め、根拠をもってその批判を破ればいいだけの話です。そうすれば「さすが親鸞会」と会員さんも自信をもつことでしょう。教義が間違っているから辞めるという会員さんもずっと少なくなるはずです。ところが法論の申し込みまでされているのに、それを受けないということは、勝ち目のない戦だと分かっているからです。自分達は間違っていると自ら公言しているようなものでしょう。
それに、これは明らかに公約違反ですから、現状の沈黙は約束の一つも守れない団体が親鸞会だと世に知らしめているようなものです。法論を受けなくても受けても苦しい状況ですね。こういうのを自縄自縛とか、自因自果、身から出た錆というのでしょう。因果の道理を体を張って教えて下さっています。高森会長始め親鸞会の皆さんは、因果の道理、廃悪修善、善の勧めを説くからには、実行してもらわなくては話になりませんよ。

妄想は自分の頭の中だけに留めてもらいたいものです。

相変わらず高森会長の犠牲者は、「誰も定散二善ができないのではない」と言うと「自分にも善ができる、自性仏性があると思っている」だなどと訳の分からないことを論じています。親鸞会批判者の誰か、「私は定散二善ができる者だ」と言いましたでしょうか? カルト教義に汚染されていると、相手の主張をねじ曲げてしか見られないようです。こういうのを濁悪邪見というのですが、その標本のような人物が偽装退会者であると分かります。

「定散と逆悪とを矜哀して」の意味さえ知らない高森会長にあるように、智覚禅師が上品上生の善人であるとは法然・親鸞両聖人が仰っていることです。善知識方の御著書の中には、親鸞会や偽装退会者の理論を反証する御文がいくらでも載っています。「浄土真宗」「親鸞」の名を団体名から外した方がいい、ブログのタイトルを「間違った真宗教義の伝承のために」に変えた方がいい、と言っているのはそのためです。
さて、しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。(化身土文類)の御言葉について、対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」では分かりやすく以下のように書かれています。

********************
定善について善導大師は『定善義』の中で

万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

と教えられています。簡単に言えば、定善をできる人もあるが、現実的には殆どの人はできないということです。誰も定善ができないなどとは仰っていません。
親鸞聖人はこれを承けられまして『教行信証』化土巻に

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。

と教えられました。善導大師が定善のところで仰った「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」を親鸞聖人は散善にまで適用されているのですが、日本語の判らない人には、「かたし」が”可能性0”としか読めないのです。「かたき」は文字通り難しいのであって、”可能性0”ではありません。

親鸞会の好きな『浄土和讃』

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

を善知識にあうこと、教えること、よく聞くこと、信じることの”可能性が0”とは流石に理解していないと思いますが。

実際に善導大師は条件付きで定善について「この定かならずすなはち得やすし」と仰っているのですから、散善ならなおさらできる凡夫もあるのです。しかしながら、定善も散善も”難しい”ので、定善・散善に心をかけることなく、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」だぞ、と歴代の善知識方は教えておられるのです。

********************

これを書いた飛雲さんや他の親鸞会批判者を「私は定散二善ができる者だ」と言っているように理解する輩は、一体どのような教育を受けてきたのでしょうか? そこをまず疑わないといけません。妄想は自分の頭の中だけに留めてもらいたいものです。
また、「この定かならずすなはち得やすし」と仰った善導大師が、自身は常没の衆生であると嘆かれているのは「散善義」三心決釈の以下の御言葉によっても分かります。

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)
わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏をもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

解説はかるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからずから引用します。

********************
御自身は聖道門での修行に励んでも、出離することができず、流転をしてきた「常没の衆生」であることを善導大師は告白なされているのです。

では誰も出離できなかったのかと言えば、「他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。」と数えきれない多くの法友が出離していったと仰っています。その一方で、「しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。」なのです。これは「菩薩の道を行じ」た上での話をなされているのですから、善を実践なされたのです。善ができなかったのではありません。足りなかったということです。
それで聖道門を断念されて浄土門に入られた訳で、善導大師は御自身の体験から、定散二善を「欣慕浄土の善根」と深信なされたのです。
このように「菩薩の道を行じ」られた善凡夫もあるのですが、「仏法・世俗の二種の善根有ること無し」の悪凡夫もまたいる訳です。
「菩薩の道を行じ」られた善導大師が悪凡夫かどうかは、通常の思考があれば、容易に判断できることです。

********************


ではひるがえって、末代悪世の衆生である私達のことを見てみます。ここで、他の人のことは分かりませんので私自身のことについて考えてみますと、聖道門の修行はおろか、定散二善の中の世福すらまともに行じることができません。善凡夫か悪凡夫かと問われたら、間違いなく悪凡夫です。余の一切の行は出来難く、自力での出離は望むべくもありません。
そのような私のために説かれたのが念仏往生の法門です。対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」には、以下のように書かれています。

********************
存覚上人の書かれた『持名鈔』には、

薬をもつて病を治するに、かろき病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆゑに罪悪の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらるるなり。されば『選択集』のなかに、「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん」といへるは、このこころなり。

と教えられています。病に応じて薬を与えるのが良医です。良医と同じように、仏は機に応じて法を説かれたのです。上根の機、つまり善人には諸行を授け、下根の機、つまり悪人には念仏を勧められているのです。悪業の深い末世の凡夫は、念仏以外には救われる手立てがないのです。それを法然上人が『選択本願念仏集』の中で「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。」と教えて下されているのです。

上根の機と下根の機と説かれている法が違う、それが対機説法であり、応病与薬というのです。それが『勅伝』の

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

ということです。

またいつも紹介していますように、これは『往生要集』の

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

と同じことです。

********************

対機説法・応病与薬の意味すら分からない高森会長は、全ての人は極重悪人だと言いながらその極重悪人に対し定散二善などの諸行を勧めています。その高森会長を擁護する偽装退会者も同類です。それに論点すり替え、断章取義は朝飯前ですから、文章の一部だけ切り取って邪義を唱えたり非難をしたりできるのでしょう。高森会長こそキリスト教のことを「美しいことを教えている」「他の雑多な宗教よりもよろしい」なんて書いてますが。こういうのを断章取義と言うのですよ、お分かりですか? 分かったなら二度とこのような姑息なマネはしないことです。といっても国語の能力から疑ってしまう者達ですから、この文章を読んで理解することができるかどうか甚だ疑問ですが・・・。このように邪義と断章、詭弁で塗り固め、善知識方の勧めと異なる教えを聞いている会員が救われないのは当たり前のことです。

・上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。
・善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。


と仰せのように、私達はひとえに念仏によって往生を願うのです。正確に言うと、念仏によって往生させるという仏の願いを聞き受けて往生を願わしめられるのです。
高森会長及び偽装退会者は、下根の機に諸行を授け、善人をすゝめ給へる所をば我分と見て得分にせよと教えているようなもので、授けるもの、勧めるものが間違っています。「親鸞会」ではなく「高森会」、「正しい」ではなく「間違った」に名義変更しないと、不妄語戒(散善の中、戒福の一つ)を保てませんよ。あぁ、そういえば彼らの教義によると、「雑行をしていない者に雑行を捨てよと教えられるはずがない」ですから「戒律を破っていない者に戒律を守れと教えられるはずがない」ということで、一旦戒律を破ってからでないといけないんでしたっけ? これは失礼しました(戒福も、まず破戒してからでしたよね参照)。

ブログのタイトルを「間違った真宗教義の伝承のために」に変えた方がいいんじゃないの?

親鸞会は依然として『飛雲』との法論には応じないようです。元々高森会長を始め「親鸞学徒」の皆さんは仏弟子でも何でもないので、約束の一つもまともに守らないのは当然かも知れません。それでいて散善(世福、戒福、行福)を勧めているのですから、親鸞会教義は漫才以外のなにものでもありません(笑)

その代わり、親鸞会の者ということでは責任が負えないからか、親鸞会擁護の偽装退会者という立場で、過去に飛雲さんに破られて逃走した内容を未だに書き続けている者がいます。彼の論法としては、飛雲氏は祖師の御教えを否定したという証言ですね。

********************
この十六観の法を説きたまふは、ただ『常没の衆生』のためにして、大小
の聖のためにせずといふことを証明す。(観経疏)

しかるに『常没の凡愚』、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。
散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。(化土巻)

「定散二善をすすめられた『常没の凡夫』は定善も散善もできない悪人である。」

というのが祖師聖人の結論です。だから

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと
  勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよと
  なり、知るべし。(化土巻)

は、定散諸機イコール極重悪人となるんですよ。

「一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。」(観経疏)

一切衆生には定機と散機しかない。信前に十八願の機などない。

********************

等と書いているように、

・一切衆生(全人類)は定、散の二機しかない
・定散二善は聖者ではなく常没の衆生(一切衆生=全人類=定散諸機)に対して説かれたもの
・常没の凡愚(一切衆生=全人類=定散諸機)は定散二善を修めることができない者
・「定散諸機=極重悪人」であって一切衆生必堕無間


であるというものです。祖師の解釈にも合わない、都合のよい根拠を並べているだけのお粗末極まりない理論です。


まず、最初の「・一切衆生(全人類)は定、散の二機しかない」ということについて、『愚禿鈔』を挙げて聖人の解釈を見てみましょう。

【31】 また二種の機について、また二種の性あり。
二機とは、 一には善機、二には悪機なり。二性とは、一には善性、二には悪性なり。
【32】 また善機について二種あり。また傍正あり。
一には定機、二には散機なり。[『疏』(序分義 三八一)に「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」といへり。文]

(中略)

【35】 また悪機について七種あり。
一には十悪、二には四重、三には破見、四には破戒、五には五逆、六には謗法、七には闡提なり。(愚禿鈔)


このことから、『観経疏』序分義の散善顕行縁の文

四に「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るこのかたは、まさしく勧めて三福の行を修せしむることを明かす。これ一切衆生の機に二種あり。一には定、二には散なり。もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。ここをもつて如来(釈尊)方便して三福を顕開して、もつて散動の根機に応じたまふことを明かす。

「一切衆生の機」とは、悪機とは別の善機の意であると分かります。悪機とは別の善機に対して定善、散善を説き与えられているのです。悪機には定散二善は説かれていません。当然です。『観経』を読めば、上三品、中三品の善人に散善を説かれていますが、下三品の悪人には善は説かれず、念仏しか勧められていないのは誰でもわかることです。これはちょうど、19願の「十方衆生」が『平等覚経』では諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)ということで、作菩薩道者に修諸功徳の善を説き与えられているのと同じです(『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(聖道門の19願に対する見解・宿善))。十方衆生、一切衆生とあるからと言って、必ずしも私達と関係があるとは限らないのです。『飛雲』「十方衆生」の意味によれば、

「十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。「十方衆生」と同義の「一切衆生」に至っては、「十方衆生」よりも多くの経典で出てきます。つまり、親鸞会理論を適用するならば、聖道門は全人類にとって実践しなければならない教え、ということになります。

ということです。まぁ戒福すらまともに行じることのできない者達が聖道門の行などできるわけもありませんが。この当たり前のことが断章取義の親鸞会やその擁護者には分からないのです。100年経っても分からないかも知れません。高森会長の犠牲者はまともな思考が停止しています。

この最初の理論が間違っていますから、後はみな間違いです。善機と悪機があるとは親鸞聖人のお言葉ですが、それを無視して善機も悪機も一緒くたに悪機にして理論展開しているところに、彼の如き愚かさがあります。

「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。(『観経疏』序分義 要弘二門

・一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば(行文類)
・定散と逆悪とを矜哀して(同)

(19)
一 如来の本願は、もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事。
 本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(源空)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもつて往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。凡夫もし往生かたかるべくは、願虚設なるべし、力徒然なるべし。しかるに願力あひ加して、十方衆生のために大饒益を成ず。これによりて正覚をとなへていまに十劫なり。これを証する恒沙諸仏の証誠、あに無虚妄の説にあらずや。しかれば御釈(玄義分)にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。(口伝鈔)


善機と悪機、善人と悪人、善凡夫と悪凡夫、このように分けられているお言葉は挙げればきりがありません。親鸞聖人はじめ祖師方のお言葉を無視して、何が「正しい真宗教義の伝承のために」でしょうか? ブログのタイトルを「間違った真宗教義の伝承のために」に変えた方がいいんじゃないの?


さて、次の「・定散二善は聖者ではなく常没の衆生(一切衆生=全人類=定散諸機)に対して説かれたもの」についてですが、これについては「凡夫のためにして聖人のためにせず」「常没の衆生」とは?「定散と逆悪とを矜哀して」の意味さえ知らない高森会長などを参照して下さい。

如来(釈尊)この十六観の法を説きたまふは、ただ常没の衆生のためにして、大小の聖のためにせずといふことを証明す。(玄義分)

当時の中国では、『観無量寿経』の九品の中で上品の三生と中品の三生は、大乗、小乗の聖人等のために説かれた、という解釈でした。そのため、その誤りを正されてこのように仰ったということです。ただ、常没の衆生と言っても、定散二善を説かれたのは悪機、悪人、悪凡夫ではなく、善機、善人、善凡夫です。先ほど説明した通りです。『観無量寿経』『観経疏』をまともに読まず、言葉尻だけ取ってつなげているだけですから、実に薄っぺらくそして脆い理論だと分かりますね。


それから、「・常没の凡愚(一切衆生=全人類=定散諸機)は定散二善を修めることができない者」についてですが、これは雑毒の善ができる下品下生???かるがゆゑにほかに功徳善根を求むべからずなどを読まれたらよいと思います。誰も定散二善を行じることができないのではありません。「この定かならずすなはち得やすし」と仰った善導大師、そのお弟子の懐感禅師、また後善導と呼ばれた法照禅師は、定善ができた方と言われているようですし、智覚禅師が、上品上生の善人であったことは法然、親鸞両聖人が言われていることです。
「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」に書かれていますが、「かたし」とは「難しい」ということで「不可能」「可能性0」ということではありません。親鸞会のおつとめで読んでいる『浄土和讃』

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし


の「かたし」を「不可能」「可能性0」と理解している会員はいないでしょう。なのに、「化身土文類」の

しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。

の文章だけは「不可能」「可能性0」と言っているのは愚かなことです。


最後の、「・「定散諸機=極重悪人」であって一切衆生必堕無間」については、当たり前のことですが、「定散諸機」≠「極重悪人」、「善凡夫」≠「悪凡夫」当たり前の当たり前の当たり前ですが、「定散諸機」≠「極重の悪人」などが参考になると思います。「定散諸機」とは定善・散善のできる善人のことです。それと「極重の悪人」は違うのです。そして「定散諸機」は必堕無間の悪人などではありません。この程度のことさえ判らなくなってしまうところに、高森会長の被害者の愚かさ、そして悲しさがあります。
そして、善知識方が「他の方便なし」と教えられているのに、まだ反抗するのですか?

19願、定散二善は、聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、実践しても化土往生しかできない、と要門釈で解説され、浄土門に入った「定散の諸機」も18願他力念仏に帰せよ、と結論付けられたのです。それで『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、要門釈の最後で

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

とされたのです。「極重の悪人」には他の方便がありませんが、「定散の諸機」には他の方便があります。その「定散の諸機」に対しても、結論は「ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。「よくみづからおのれが能を思量せよとなり」と、その理由を付け加えておられます。「定散の諸機」と言っても、龍樹菩薩や天親菩薩と比べたならば、能力はたかが知れているではありませんか。龍樹菩薩や天親菩薩という大変に優れた方でさえも、18願の念仏に帰依されたのです。
そのことを『正像末和讃』で

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と仰ったのです。従って、善人にも結局は念仏を勧められているのだということです。


と書かれている通りです。


ちなみに、偽装退会者は「一切衆生悉有仏性」=「一切衆生必堕無間」などと下らないことを書いていますが、これについては「悉有仏性」と「必堕無間」の違いが、真宗とカルトとの違いを参照して下さい。あんな恥ずかしいことを書いていてよく「正しい真宗教義の…」などと言えるものです。


なお以下は、5月12日に「根拠捏造」さんがコメントした質問に対して、偽装退会者が一切触れずに論点ずらしにかかったために再度「根拠捏造」さんがコメントした内容です。
********************
No title
さて、以下の質問には答えられないということで決着しました。


1.聖道門での善を実践されて初地まで至られた龍樹菩薩は、善のできない極重の悪人ということですか?

2.定善が容易くできると仰った善導大師は、本当は定善のできない極重の悪人ということですか?

3.智覚禅師は上品上生の方、つまり散善の機と仰った法然上人・親鸞聖人は、嘘を仰ったということですか?

4.定散の機は、凡夫であることを明らかにされたのが善導大師ですが、善凡夫は常没ではない、迷いの衆生ではない、ということですか?

5.親鸞聖人が、すべての人は闡提、逆悪の機、極重の悪人と仰った【直接的な】お言葉を出してください。(化土巻はそんな意味にはなりません)

6.真仏土巻にある闡提の貴方の解釈が示されていませんので、現代語訳をして示してください。



答えられないとは、あなたの主張が間違っていたことを認めたことで、終了です。
アンチにはただの一度も勝てなかったあなたが、以前と同じことを書いて勝てるとでも思った愚かさを学習しましょう。
2012-05-16(20:03) : 根拠捏造 URL : 編集

********************

都合の悪い質問には一切答えず、論点をすり替えて勝っているように偽装する。親鸞会のお家芸ですね。「アンチSはコテハン全敗」だなどと、大本営発表もいいところです。篤い高森信者は約束を守らないわ、平気でウソをつくわ、人間としてどうかというところまで成り下がってしまっています。せいぜいおかしなことを書いて会員を失望させて下さい。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード