FC2ブログ

【ツッコミ】『顕正新聞』令和2年12月15日号

親鸞会発行『顕正新聞』令和2年12月15日号の論説では、

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。『歎異抄』第二条

のお言葉を出して、いつもの「自力の命がけの聞法」を勧めています。そこでは「往生極楽のみち」について

「往生極楽の道」とは、「必ず浄土へ往ける大安心に救う」と誓われた、阿弥陀仏の本願のことである。

と説明しています。「往生極楽の道」=「阿弥陀仏の本願」というのは間違いではありませんが、その阿弥陀仏の本願の救いに遇うと必ず浄土へ往けるというハッキリした自覚が生ずると思わせる書き方がされており、こちらは聖教に合わない珍しい教えです。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
『執持鈔』

とあるように、我々凡夫の側からは浄土へ参るとも、地獄へ往くともハッキリしません。たとえハッキリするとしても、凡夫の自覚など当てにならないものの象徴であり、またそれは意識ですから死ぬ時には滅んで無くなってしまいます。そういうハッキリスッキリ体験、ハッキリした自覚をたのんでいるのは「自力をすてて他力に帰するすがた」ではありません。

私達がたのむべきは我が身、我が心、我が自覚ではなく、阿弥陀仏であり、本願であり、本願成就の名号(念仏)です。真実大悲の阿弥陀仏が「必ず浄土へ迎えて仏にする」と仰せなのですから、私は愚痴にかえってこの本願の仰せを受け容れて、仰せのままにお念仏申すのみです。その上でゆく先が地獄だろうと何だろうと、私は阿弥陀さまの連れていって下さるところへゆくのみです。何しろ、我が力では悪道より他に無いのですから。これが、「自力をすてて他力に帰するすがた」です。

また、『歎異抄』の続きでは

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。

と仰せられていることから、「往生極楽のみち」=「念仏」であることは明白です。念仏を弥陀の本願と言い換えても間違いとは言いませんが、親鸞会の説く弥陀の本願は念仏とは無関係(せいぜい信後のお礼という程度)の本願ですから、それをいくら聞いても弥陀の本願に救われることはありません。

いずれの行も及び難い、悪道に堕すより他に無い我ら末代不善の凡夫を、浄土へ迎えて仏にするというのが阿弥陀仏の本願です。本願では、布施や持戒と言った諸善万行をことごとく選び捨て、称名念仏の一行を本願の行として選び取り、「念仏する者を極楽へ迎える」と仰せられています。

最近でこそ「自力念仏の者は必堕無間」などと表立って念仏誹謗することはなく、「念仏を称えるなということではない」などとも表向きは言うようになりましたが、それでも親鸞会は諸善の勧めをやめません。これでは、聞いている者が念仏一行になることも、その念仏の信心を獲得することもありえないのは至極当然のことです。本願に違し、教に反し、仏語に順じていないのですから。

親鸞聖人が法然聖人から受けた教えは

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

と仰せのようにこれだけです。論説では『大無量寿経』流通分や『浄土和讃』

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり


のお言葉を出してどれくらい真剣に聞くのかということは強調して書かれていますが、肝心かなめの「何を聞くのか」ということがまるで示されていません。こんな詮の抜けた話をいくらド真剣に聞こうと助かる道理がありません。聞くべきことは

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

であり、我々はこのように仰せられている本願、その本願成就して与えらえれている名号、念仏を計らいをまじえずに受け容れて称えるのみです。


今年最後の論説でも、真剣に聞け聞けと言うばかりで、何を聞くのか明確に教えられませんでした。

仏法を聞いて、生死の一大事を解決するために生まれてきた(論説)」

なら、その仏法を正しく説いて、会員の皆さんに往生極楽のみちを誤りなく示すべきですが、親鸞聖人や蓮如上人とは目的が違う親鸞会ですから、そのようにすることは未来永劫なさそうです。そんな教団にいくらしがみつこうと、いくら金や時間や労力を貢ごうと詮無いことです。

会員の皆さんは、いかにもいそぎ親鸞会の邪義を離れ、ただ念仏の一行に帰し、他力の信心を獲得して往生極楽の一大事を遂げて下さい。行は一切の諸善を捨てて念仏一行、信は念仏する者を極楽へ迎えるという本願を受け容れる一心です。称え聞こえる南無阿弥陀仏の念仏は、

必ず浄土へ迎えて仏にするから、安心してまかせなさい

という阿弥陀さまの仰せと聞いて下さい。仰せを聞くのが即ち信です。その信心定まった上の念仏は、我が往生を定めて下された阿弥陀さまに対する御恩報尽の念仏と心得て、縁に触れ折に触れ命ある限り申してゆきましょう。これが浄土真宗です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
スポンサーサイト



【ツッコミ】『顕正新聞』令和2年12月1日号

親鸞会発行『顕正新聞』令和2年12月1日号には、11月8日にあった二千畳での行事の様子が出ています。また論説では、その時の講演の内容が書かれています。新聞を見る限りでは高森会長がライブで話をしたかのようですが、実際は2003年の本部会館での講演記録を流したようです。要は、単なるビデオ法話です。

講演内容は、正信偈の最初と最後の二行についてでしたが、その内最初の二行

帰命無量寿如来 南無不可思議光

については、本願力に乗託し、一心に弥陀に帰命して人々にも真実の行信を勧められているところを

親鸞は弥陀に救われたぞ。親鸞は弥陀に助けられたぞ

というハッキリスッキリ体験の表明に貶めたいつもの高森節を披露し、最後の二行

道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

については

仏法を説く者、聞く者、すべての人々よ、どうか、親鸞とともに、同心してもらいたい。それには、ただ、善知識の教え・弥陀の本願を聞信する一念でなれるのだよ、と仰せである。

という内容であると書かれていました。


親鸞会では、ここにある「斯高僧説」、新聞の言葉では「善知識の教え・弥陀の本願」について間違っているため、その教えをいくら真剣に聞いても摂取不捨の利益にあずかることもなければ、真実報土の往生を遂げることもありません。

まず、弥陀の本願とは(第十七願を含めて)第十八願のことです。第十九願、第二十願のことではありません。正信偈偈前の文には

おほよそ誓願について真実の行信あり、また選択本願の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。

とありますが、正信念仏偈で述べられているのは真実の行信、選択本願の行信であり、方便の行信ではありません。ですから、聞くのは真実の行信を説かれた第十七願、第十八願であり、方便の行信を説かれた第十九願、第二十願ではないのです。

親鸞会では自流の三願転入論を用いて、会員にしきりに十九願を勧め善の実践を促していますが、十九願は菩提心を発して自力諸善を修める行者を臨終に極楽へ引接するという願です。親鸞聖人に、十八願の救いを目指して十九願をせよと教えられたお言葉はありません。

次に、「斯高僧説」、善知識の教えとは、

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土(中国)なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。『正信偈大意』

とあるように「念仏の一行」です。往生の行として「念仏の一行」ではなく、雑行(実態は悪業悪行)を勧められている会員が親鸞聖人と「同心」になることはありません。

そして、何を信ずるかというと、「斯高僧説」=「念仏の一行」ですから、称名念仏という行を信ずるのです。

この行には、如来が完成されたすべての善徳をおさめ、あらゆる功徳の根本としての徳を具えており、極めて速やかに功徳を行者の身に満足せしめる勝れたはたらきをもっています。それは仏のさとりの領域である真如と呼ばれる絶対不二の真実の顕現態です。

この行は第十七願より出てきた本願力回向の行です。この行は破闇満願の徳をもった最勝真妙の正業、往生の正定業であり、これが念仏であり、これが南無阿弥陀仏です。

南無阿弥陀仏は衆生を浄土へ招き喚び続けている阿弥陀仏の本願の仰せであり、衆生に往生の行を廻施したもう仏心であり、選択本願によってただ一つ選び定められた行です。

本願の念仏は、凡夫であれ聖者であれ、自らの計らいによって往生の行にしていくような自力の行ではなく、阿弥陀仏より与えられた往生行ですから、行者の方からは不回向の行と名づけられています。

念仏とはこのような行であると知って、念仏する者を必ず引接するという本願を深く信ずる、すなわち疑いをまじえずに受け容れる、これが信心です。

親鸞会では「絶対の幸福」とやらになったハッキリスッキリ体験のことを信心決定といいますから、全くもってずれているのです。信心決定とは、報土の真因が決定すること、往生の信心が決定することであり、それは念仏の信心ですから、そんなことをまるで教えられていない親鸞会の会員が信心も安心も分かるわけがありません。


もう高森会長が会員の前で話をすることはないでしょう。初聞法会の日程は出ていますが、この分だとまたビデオ法話です。会員の皆さんは、高森会長のビデオを見る会になった親鸞会、また、いつまでも晴れたも曇ったもない、救われる兆しも無いことにもっと疑問を持って、真剣に教えの真偽を検証して頂きたいです。そして、一心に本願を信じ念仏を申して、往生極楽の一大事を遂げて下さい。

善知識方が誰もしていない珍解釈をして、ありもしない阿弥陀仏の本願を説く高森顕徹会長

本日は親鸞会発行『顕真』2020年9月号の内容についてツッコミを入れます。

そこでは、8月10日にあった高森顕徹会長の話を基に、4名の講師部員のお礼状が紹介されています。その中で、「自力」について次のように聞いたと書かれています。一部抜粋します。

自力とは、「弥陀の本願を疑っている心」以外にありません。それはどういう心なのかを分かりやすく、「後生暗い心を破ると誓われた本願を疑っている心」と読み替えられ、その上で、後生暗い心を、「死ねばどうなるか分からない心」「旅立つ先がハッキリしない心」と、今の私たちの問題に迫って下さいました。(K講師)

自力の心は、後生暗い心と同じといっても間違いではないが、精密に言えばイコールではなく、「後生暗い心を破ると誓われた弥陀の本願を疑っている心」のみが自力である(H講師)

高森先生が、自力=疑情=無明の闇として、後生暗い心から説かれる(M講師)


自力の心と後生暗い心は精密に言えばイコールではない??? よく分からない内容です。今まで

疑情
無明の闇
後生暗い心


と散々説明して本にも書いてきたのに、それは一体何だったのでしょうか。

それはさておき、いずれにしても自力の心は後生暗い心ではありませんし、善知識方は誰も弥陀の本願を「後生暗い心を破ると誓われた本願を疑っている心」と読み替えてなどいません。

まずは、弥陀の本願とはどのような誓いなのかについて、善知識方は

このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。『安楽集』聖浄二門判

一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」と。『観経疏』「玄義分」一々の願にのたまわく

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。
四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
『往生要集』下巻 第八 念仏証拠

弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文。
 『無量寿経』の上にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ」(第十八願)と。
『観念法門』に上の文を引きていはく、「もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名号を称すること下十声に至らんに、わが願力に乗りて、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
 『往生礼讃』に同じき上の文を引きていはく、「〈もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉と。かの仏いま現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生することを得」と。
『選択集』本願章

「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。『唯信鈔文意』【8】

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

等と教えられています。要は、

我が名号を称することわずか十声ほどの者であっても、必ず極楽に迎える

という本願です。どこにも

「死ねばどうなるか分からない心」「旅立つ先がハッキリしない心」を破ってみせる

などとは書かれていません。とんだ読み替えですね。


次に、「自力」についてですが、

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。『末灯鈔』2通

自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず『唯信鈔文意』【3】

等とあるように、

おのおのの縁にしたがって阿弥陀仏以外の仏の名を称え、念仏以外の善を修めて我が身や修めた善根功徳をたよりとし、身口意の三業を正して浄土へ往生しようと思う心

です。どこにも、

「死ねばどうなるか分からない心」「旅立つ先がハッキリしない心」を破ると誓われた弥陀の本願を疑っている心

などとは書かれていません。本願や自力の説明に念仏、名号も無ければ、往生、浄土(極楽)も無いのです。これで本願や自力他力を説明したつもりのようですから、相変わらずのお笑い善知識様です。

『飛雲』自力の迷情とは後生どこへ行くかわからない心とか言っているお笑い悪知識

にありますが、後生どこへ行くかなんてことは、仏の智慧をもってしか判らないことです。他力の信心とは後生どこへ行くかハッキリする心だ、なんて根拠はどこにもありません。自力が廃ったら、つまり救われたら極楽往生がハッキリするものだと思い込み、そのハッキリした自覚をもって他力の信心を獲たかどうかの判定基準としている愉快な仲間達は、いい加減にその愚かさに気付くべきです。

凡夫の自覚など曖昧で当てにならないものの象徴です。後生、往生には何の役にも立ちません。たとえ死んだらどうなるかハッキリしたとしても、それで獲信したか否かの物差としているなら、それは我が心をたのむ自力の信心の範疇です。会員はただでさえ正雑二行の沙汰も知らず、念仏以外の余の善根(実態は悪業悪行)を修めて絶対の幸福というこの世の幸福を願っているのに、これで「自力」が廃る方がどうかしています。まずは高森教を離れて正しい意味を知ることが先決です。

なお、『末灯鈔』には「余の仏号を称念し、余の善根を修行して」とありますが、念仏一行を専修していても、その念仏を自分の修める善根だと思い、それを積み重ねて浄土へ往生しようという心であれば、それは同じく「自力」です。



善知識方が誰もしていない珍解釈をして、ありもしない阿弥陀仏の本願を説いているのが高森顕徹会長であるということは、いよいよ明々白々です。しかもそのような本願を聞いて疑いが破れたら極楽往生がハッキリするだの、あるいは絶対の幸福になるだのという幻説を垂れ流しているのですから、これは本願の破壊です。

会員の皆さんは、ありもしない本願を聞いていないで、聖教に説かれる本願を疑いなく信楽してお念仏申す身となって頂きたいと思います。これで、今回のツッコミを終わります。

菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす

親鸞会では、一向専念無量寿仏とは阿弥陀如来一仏を信じ仕えることだとし、阿弥陀如来以外の諸仏、菩薩、諸神に仕える行為や、それらを信じることを徹底的に排斥しています。そのために親鸞会発行『教学聖典(6)』では、普段は滅多にお目にかからない、蓮如上人の言行録である『空善聞書』まで取り上げて神信心を誡めています。以下、6号単語カード|Quizletより引用。

(44)蓮如上人が、神を信じている者達を悲しまれたお言葉と、根拠を示せ。

後生をば弥陀をたのみ、今生をば諸神をたのむべきように思う者あり、あさましきなり。(空善記)


最近浄土真宗聖典全書第五巻を読んでいて、『空善聞書』という項目があったので調べてみたら案の定出てきました。私の持っているものではp.651に載っています。尤も、『教行証文類』すら読んでいない高森会長が真宗全書など読んだことはないでしょうから、上の『空善聞書』も華光か大沼師から情報を得たものと思われます。


話を戻します。勿論一向専念無量寿仏にはそのような意味もあるのですが、それだけではありません。往生のために、親鸞会の大好きな布施等の諸善を廃して念仏一行になることという意味もあるのです。ここら辺は

『飛雲』2013年7月のエントリー
『同』2013年11月のエントリー

等をよく読めば親鸞会の間違いがお判り頂けると思います。親鸞会では信心決定までの道程として諸善を勧め、一向専念無量寿仏に反したことをしているので、そんな教えをまともに聞いて信じている会員が信心決定も往生治定もあるはずがありません。


一向専念無量寿仏とは往生行として諸善を廃して念仏一行になることですから、すなわち専修念仏のことですが、件の『空善聞書』には次のように言われています。

(二三)
一 言、念仏の流まちまちなれども、此聖人の御すゝめの如くなるはなし。さればこの御すゝめによりて、信をとること大果報人なりと。さればこれほどに殊勝なる流儀をそしる人、あさましき也。さればそしる人はかくのごとくとて、「菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす」との『和讃』(正像末和讃)の心を仰られて、「生死の大海きはもなし」とあり。あさましあさまし。(真宗全 五 p.652)

親鸞聖人の教えも念仏の流の一つです。『歎異抄』では、聖人が御同行に向かって専修念仏のともがら第六条)等と言われています。親鸞会では「親鸞聖人の教えに善の勧めがある」と公言して専修念仏を否定する団体ですから、これほどに殊勝なる流儀をそしる人であり、それを蓮如上人はあさましき也と仰っています。そして上人は『正像末和讃』のお言葉を引かれています。それが

菩提をうまじきひとはみな
 専修念仏にあだをなす
 頓教毀滅のしるしには
 生死の大海きはもなし
『正像末和讃』三時讃

です。ちなみにその一首前には、親鸞会会員なら誰でも知っているであろう

五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそひて
 念仏信ずるひとをみて
 疑謗破滅さかりなり


の和讃があります。高森会長や会員のような菩提をうまじきひと念仏信ずるひとをみて疑謗破滅し、専修念仏にあだをなすという頓教毀滅の輩です。「浄土真宗」「親鸞」の名を団体名に掲げながらこの有様ですから、生死の大海きはもないのは当然すぎるほど当然と言わざるを得ません。今も残っている会員がこれに気付くのはいつのことになるのでしょうか。

蓮如上人は最後に重ねて「あさましあさまし」と仰せられています。絶対の幸福という桃源郷に憑りつかれ、「五雑行は心も行為も間違いだが諸善万行はやらねば信仰が進まない」だとか何とか言われて、獲信、往生とは無縁の悪業悪行に手を染めている会員の皆さんは、実に「あさましあさまし」です。

【ツッコミ】『顕正新聞』令和2年10月15日号(2)

頂いた情報によりますと、昨日は高森会長が直接話をすることは無かったそうです。もはや人前で話をできる状態にはないのかも知れません。

この分だと今日も過去、もしくは直近に撮影された映像が流されるであろうことは想像に難くありません。多くの会員は、未だ元気だった頃の高森会長の姿が脳に焼き付いているのかもしれませんが、今は違います。老いの白髪と成り果てた高森会長を通して我が身の無常を観、またそのような高森会長という「人」に依ってきた自分を反省して、本当の浄土真宗の教えに遇って頂きたいものです。



さて、本日は親鸞会発行『顕正新聞』10月15日号の「善知識の唯一つの使命は?」と題された文章の内容についてツッコミを入れていきたいと思います。内容の一部は既に

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』「親鸞会の教えと、浄土真宗の教えで決定的に違うのは何ですか?その違いが私たちの救いに影響するのでしょうか?」(質問箱より)

にて紹介されています。該当箇所を引用させて頂きますと、

この「一向専念無量寿仏」を、蓮如上人が、ひらがな交じりで教えられたのが、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」というお言葉です。
「一向専念無量寿仏」「弥陀一仏に助けてもらいなさい」
 これ一つを勧める人が善知識です。(顕正新聞2020年10月15日号)


の部分です。宮田先生の仰る通り、「一向専念無量寿仏」の意味は念仏を勧めることです。しかもただ単に念仏を勧めるというのではなく、諸善を廃してただ念仏一行を勧めることです。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
(中略)
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。
『選択本願念仏集』三輩章 廃立

この「一向専念」について存覚上人は

それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』(上)のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』(下)の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。『浄土真要鈔』

おほよそ「一向専念無量寿仏」といへるは、『大経』の誠説なり。諸行をまじふべからずとみえたり。「一向専称弥陀仏名」(散善義 五〇〇)と判ずるは、和尚(善導)の解釈なり。念仏をつとむべしときこえたり。このゆゑに源空聖人このむねををしへ、親鸞聖人そのおもむきをすすめたまふ。 一流の宗義さらにわたくしなし。まことにこのたび往生をとげんとおもはんひとは、かならず一向専修の念仏を行ずべきなり。『持名鈔』【5】

と教えられています。

これは存覚上人が仰る通り親鸞聖人の勧めです。親鸞聖人は善導大師の「一心専念」の文を釈して次のように仰っています。

「一心専念」(散善義 四六三)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。『一念多念証文』「散善義」就行立信釈の文意

こうした親鸞聖人の教えを伝えられたのが蓮如上人ですが、蓮如上人は「一向専念」を「一心一向」という言葉で度々教えられています。その中の言葉が親鸞会でも有名な2帖目9通

一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。

のお言葉です。ただこの部分だけでは阿弥陀仏以外の諸仏を念じないことだけを言われており、諸善を廃することは書かれていません。しかし前後を読めば明らかなように

阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、
(中略)
さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。


とありますし、また「もろもろの雑行をすてて一心一向に弥陀に帰する」とはどういうことかについて

そもそももろもろの雑行をすてて一心一向に弥陀に帰すとまふすはことばにてこそさふらへ。もろもろの雑行をすててとまふすは、弥陀如来一仏をたのみ、余仏・余菩薩にこころをかけず、また余の善根功徳にもこころをいれず、一向に弥陀に帰し一心に本願をたのめば、不思議の願力をもてのゆへに弥陀にたすけられぬる身とこころえて、この仏恩のかたじけなさに行住坐臥に念仏まふすばかりなり。(『真宗全』五 御文章集成 p.254)

とも教えられています。

親鸞会のように三願転入の道だとか19願の実践だとか言って諸善を勧めていたら、聞く者は諸善に心を入れるばかりです。余の善根功徳にもこころをいれずになりません。余の善根功徳にもこころをいれずになるには、往生のためには諸善を廃さなくてはそのようになれません。親鸞会の勧めは善知識方とは真逆なので、それを信じている会員が一向専念無量寿仏できないのは当然すぎるほど当然なのです。

このように善知識方と真逆なことを教える高森会長は善知識ではありませんし、その高森会長の教えを真実と信じ切っている親鸞会会員は善知識ではありません。顕正新聞には

親鸞学徒は皆、善知識

などと書かれていますが、冗談はほどほどにしてもらいたいものです。


以上で、今回のツッコミを終わります。



【参照】
『飛雲』知ったかぶりも程々に

【ツッコミ】『顕正新聞』令和2年10月15日号

今日明日と親鸞会では報恩講が営まれているかと思いますが、高森会長は登壇するのでしょうか。あるいは今までの傾向からして、あらかじめ撮影しておいたビデオが流れるのでしょうか。参加された方の中で情報をお持ちの方は、よろしければコメントやメール等でお知らせ頂ければと思います。



さて、今回は親鸞会発行『顕正新聞』10月15日号の論説にツッコミを入れたいと思います。そこでは

念仏を峻別された親鸞聖人

という題で、『歎異抄』第七条

念仏者は無碍の一道なり。

のお言葉から始まっています。ところがその解説が・・・。

弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りとならぬ、絶対の幸福者である。
(中略)
どこを向いても障壁の人生で、一切の障りが障りにならぬ「無碍の一道」こそ、万人の願いである。


と、まるで阿弥陀仏に救われたならば様々な人生問題がことごとく解決されるかのような書きぶりです。そのような絶対の幸福だとかいうこの世の楽に魅力を感じて、ぜひとも絶対の幸福になりたいと夢見ている会員も少なからずいるかと思いますが、無碍の一道と、親鸞会の言う絶対の幸福は違います。詳しくは

『飛雲』無碍の一道と絶対の幸福の違い

を読んで頂ければと思いますが、結論を引用させて頂きますと

『歎異抄』第7条の「何物も障りとならない」とは信心についてのことであって、他のことについては障りだらけで、信のない人と何も変わらない

です。夢は夢のまま、獲られることはありませんので、早く夢から醒めて頂きたいものです。尤も、夢と言えば聞こえはいいですが、真実を言うと欲望です。浄土真宗は阿弥陀さまの願いを聞かせて頂く教えであって、凡夫の欲望を都合よく叶えてくれる教えではありません。


それから、論説では「万行随一の念仏」「万行超過の念仏」「自然法爾の念仏」という三通りの念仏があるとして、それぞれ簡単に説明されています。そして、早く「自然法爾の念仏」を称える身になるよう教えられているというのですが、ではどうすればその「自然法爾の念仏」を称える身になれるのかがどこにも書かれていません。

信仰が進めば必ず、念仏を称えずにおれなくなり、その心も万行随一から万行超過に変わっていく。そして、無碍の一道に飛翔し、自然法爾の念仏を称える身になることが、われらの出世本懐、昿劫多生の目的なのである。

論説の最後はこのように締めくくられていますが、その信仰とやらを進める手段がいつもの

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
・親鸞会に財施すること
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


を中心とした「高森の行」というわけでしょう。それを「善の勧め」と称して推進しているのですが、本当のところは善でも何でもない悪業悪行です。しかもこれは、救いは信仰が進んだ先の未来であって今ではないのですから、平生業成の否定でもあります。

蓮如上人は、信心決定するとは南無阿弥陀仏の六字のこころをよく心得たることだと仰り、『御文章』に繰り返し繰り返し南無阿弥陀仏の六字のこころを説き示されています。それを全く教えず、「信仰が進めば・・・」とはぐらかして会員に往生のみちを示さない、どころか組織拡大に利用し搾取しているのは本当に許せません。


なお、今回の論説では

救われるまでは念仏を称えなくてよいとか、称えるな、ということではない
「(念仏を)称える必要はないとは、どこにも書かれていない

などとも書かれており、「自力念仏の者は必堕無間」などと念仏誹謗していた頃よりは随分マシになっている箇所はありました。しかし、依然として間違いだらけなのは変わりません。

浄土真宗の目的は報土往生、成仏です。そのためには雑行雑善を投げ捨てて念仏の一行に帰し、称え聞こえる南無阿弥陀仏の声は「我にまかせよ、必ず浄土に迎えて仏にする」という阿弥陀さまの仰せだと聞き受けて、ひとえに往生をおまかせするのみです。仰せを聞くのがすなわち信です。

絶対の幸福などというこの世の楽で聞く者を釣って、私利私欲のために利用する教えなど浄土真宗ではありません。未だ騙されている会員の皆さんは、早く気付いて脱会し、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。

以上で、今回のツッコミを終わります。

【ツッコミ】『顕正新聞』令和2年10月1日号

季節が遷ろうのは早く、この間まで猛暑でヒィヒィしていたのがウソのように涼しい今日この頃です。

本当にしんどかった仕事ですが、少し前からようやく人が入るようになって、1日200個以上の配達が当たり前だった日々からは解放されました。今考えるとマジで無理だったわ(+_+) 自分でもよくやっていたと思います。もうあんな配達地獄には戻りたくありませんが、そうならないとも限りません。少なくとも今の状況のまま年を越したいものです。

なお、新型コロナウイルスのために相変わらず休みの日は子守で、それほど自由な時間もありません。ブログの更新等はあまりままならないこと、ご了承下さい。



さて、今回ツッコミを入れるのは親鸞会発行『顕正新聞』10月1日号の論説です。そこでは

無常観と真の幸福

と題して、この世の全てのものは常がなく続かないこと、自分の死をみつめるのが大事なことが書かれています。その中でこんなくだりがあります。

 生きるとは、死との戦いである。しかも、百パーセント負ける戦いなのだ。その無常(死)を直視した時、初めて人は、本当の幸せとは何かを探し求める。
 その心を、菩提心という。


どうやら親鸞会の定義では、「菩提心」=「本当の幸せとは何かを探し求める心」のようです。


しかし仏教で言われる「菩提心」はそうではありません。以下、拙エントリー

「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)

より引用します。

菩提心とは

梵語ボーデイ・チッタ(bodhi-citta)の漢訳。詳しくは阿耨多羅三藐三菩提心といい、無上正真道意・無上菩提心・無上道心などと漢訳する。仏果に至りさとりの智慧を得ようとする心のこと。

です。この心をおこすことを「発菩提心」といい、仏道の出発点とされるというのです。「絶対の幸福」などというこの世の楽しみを得ようとする心でもなければ、単純にやる気、奮発心を起こすということでもありません。

これについて、梯實圓著『本願のこころ』ではこのように書かれています。

********************
すべての仏や菩薩は、仏道修行を始めるときに総願と別願とをおこします。総願というのは、すべての菩薩に共通している誓願のことですから、通願ともいいます。菩薩が修行を始めるときに、まず自利(智慧)と利他(慈悲)を完成して仏になろうと誓う菩提心をおこしますが、その内容は、願作仏心(仏になろうと願う自利の心)と度衆生心(衆生を済度しようと願う利他の心)であり、さらにそれを広げれば四弘誓願として表されているような誓願を総願といいます。
 『往生要集』作願門には、
  一には衆生無辺誓願度。(衆生は無辺なれども、度せんと誓願す)
  二には煩悩無辺誓願断。(煩悩は無辺(尽)なれども、断ぜんと誓願す)
  三には法門無尽誓願知。(法門は無尽(量)なれども、知らんと誓願す)
  四には無上菩提誓願証。(無上なる菩提を証せんと誓願す)
                             (『註釈版聖典』七祖篇、九〇三~九〇四頁)
という度、断、知、証の四弘誓願として表されています。なお文言は書物によって少し違うこともありますが、意味は同じです。
 別願というのは、特定の仏、菩薩が、それぞれ特色のある誓いを立てられることをいいます。釈尊には五百の大願があり、薬師如来に十二の大願があり、阿弥陀如来に四十八願がありますが、それを別願というのです。
(p.39~p.40)
********************

菩提心」の内容は、仏になろうと願う自利の心(願作仏心)と、衆生を済度しようと願う利他の心(度衆生心)であり、それをさらに詳しく言い表したものが四弘誓願であります。


ですから「菩提心」とは具体的には四弘誓願のことで、それは

救うべき衆生は数限りなくいるが、ことごとく救い尽くそう。煩悩は際限なくわき起こってくるが、残らず断ち切っていこう。学ぶべき真理に尽きることはないが、ことごとく知り尽くしていこう。さとりの智慧は無上であるが、完全にさとり極めていこう。


ということですから、「本当の幸せとは何かを探し求める心」などとは比較にならない、非常に高レベルな心のことを言っていることが分かります。次元が違うと言っていいでしょう。所詮は己一人のための「絶対の幸福」とやらを追い求め、高森教にすっかり支配されて善悪の価値判断の基準も狂いまくっている高森教徒とは無縁な心です。


こんなことも分からない高森学徒ですから、軽々と19願の実践だとか、三願転入の道だとか平気で言えるのです。いつまでも仏法のためと称してあくせく貢いでいる会員の皆さんは、実に哀れ哀れです。

次の土日には親鸞会で報恩講が営まれる予定ですが、おそらく高森会長が直接話をする機会は無いでしょう。以前の、さも直接話をしたかのように演出している親鸞会のやり方に内心ガッカリしている人も少なくないはずです。そのような方は、ぜひともこれを機会に親鸞会教義は本当に正しいのか、教えの真偽検証をして頂きたく思います。

以上で、今回のツッコミを終わりたいと思います。

【ツッコミ】R02.01.01 顕正新聞(年頭所感等について)

本日は、高森顕徹会長以外の年頭所感についてツッコミを入れたいと思います。


まずは「法が説かれる所あればこそ」と題したM布教局長の年頭所感より。

なぁアンタさぁ、四依の文をもじって

「人に依らず、法に依れ」の釈尊のご遺言は、仏法者の死守しなければならぬ指針である。


なんて書いてるけど、「人に依れ」と一番自分に無条件服従を強いているのはアンタ(か父親か)じゃないの?

大丈夫、アンタに言われなくてもアンタに依っている人はいないから。みんな、アンタのバックにいる会長さんに依っているだけ。「人に依らず、法に依れ」なんてわざわざ言わなくても誰もアンタに依らないよ。意味はその内分かると思うからお楽しみに。


次は「「一向専念」貫く学徒に」と題したY総務局長の年頭所感より。

おいおい、釈迦一代の仏教の結論は

「一向専念 無量寿仏」(阿弥陀仏に一向専念せよ)


だって!? アンタ、未だに意味が分かってないんだねぇ。

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
(中略)
あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。
『選択集』廃立

親鸞会の大好きな諸善(雑行)を廃して専修念仏になるというのが「一向」という意味だよ。

もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。

法然聖人の教えは明快だ。

一向専念無量寿仏」という経典の言葉は使うけど、全然その通りになっていないのが親鸞会なの。

諸善、すなわち雑行を混ぜたら、もう真宗じゃない。蓮如上人が

されば自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす、わが聖人(親鸞)は雑行をえらびたまふ。このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。このいはれあるがゆゑに、別して真の字を入れたまふなり。『御文章』1帖目15通

と仰っている通り。阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神を拝したり、吉日良辰をえらんだり、加持祈禱をしたり、呪術・符水を用いたりしないことだけが「一向専念無量寿仏」じゃないから。太宰春台の文を用いて、さも親鸞会は「一向専念」を貫いてますみたく教えているけど、ギャグにしかならないから。

三願転入の道を進むために、宿善を厚くするために、信仰を進めるために・・・。こんなことを言っては、諸善と言う名の雑行、しかしてその実態は献金、勧誘、無条件服従等の組織拡大活動を勧めているのが親鸞会。

新春早々、あなたのおかげで、親鸞会は浄土真宗ではないことが明らかになりました。よかったね。


それから、「時間は確実に減っている」と題したK特専部長の年頭所感より。

人間怱々として衆務を営み、年命の日夜に去ることを覚えず。『往生礼讃』無常偈

の文を引いて、我々に残された時間は確実に減っていること、今やっていることは命をつぎ込む価値のあるものか自らに問えと訴えています。その通りですね、K部長。

ただ、その後の文は読まれていますでしょうか?

おのおの聞け。強健有力の時、自策自励して常住を求めよ。

次の瞬間の命さえ保証できない無常の世界に生きているのですから、健康でいられる時、すなわち今、自らつとめはげんで生滅変化を離れた涅槃のさとりを求めよと善導大師は教えられています。この迷いの世界を厭い離れ、常住の極楽に往生して涅槃のさとりを得ることこそが、命をつぎ込む価値があるものだというのです。

ところで、『往生礼讃』には称名念仏を専修する一行三昧の意義を明かされています。往生極楽のためには、専修念仏以外の雑多な行業、自力の雑行をまじえず、ただ念仏一行を称えよと仰せです。そして信心は、

二には深心。すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまで、さだめて往生を得と信知して、すなはち一念に至るまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。

という、「名号を称することわずか十声、一声の者に至るまで間違いなく往生させる」という本願に露ほども疑いない念仏の信心です。

これこそ我々が人間に生まれて本当にやるべきこと、命をつぎ込む価値があるものですが、果たして親鸞会はどうでしょうか。絶対の幸福というご利益を餌に聞く者を組織拡大活動に駆り立てるばかりではありませんか。平生業成という看板を掲げていても、会員の一体誰が平生業成の身になって喜んでいるというんでしょうか。私が会員だった時はそういう人は周囲に一人もありませんでした。これじゃ看板倒れじゃないですか。

先に書いた通りです。雑行に執心し、これを修めている者が真実信心の行人になれるわけがありません。残された時間が確実に減っていると我が後生を自覚するならば、速やかに雑行を投げ捨てて念仏の一行に帰し、念仏の声は「助けるぞ」の如来の喚び声と聞き受けて往生をおまかせする以外にありません。

今なされている活動は命をつぎ込む価値のあるものか、貴方自身がまず問うべきと思います。


その他、「善巧方便」と題した、三願転入の道を進めと暗に示すような短い文章もあります。

19願は善巧方便ではなく、権仮方便です。18願の法門の前には、還りてこれを廃するものです。これが理解できていないのと、19願がどのような願か全く無知なのとで、会員は後生助かるにはまず19願から始めなければならないという珍説に騙されてしまうのです。19願については

第十九願について全く無知であり、第十九願とは無縁な高森顕徹会長と親鸞会会員

を参照のこと。今宵の後生助かるには、速やかに19願は離れましょう。そして、18願一つ聞いて下さい。



以上で、令和2年1月1日号の顕正新聞へのツッコミは終了します。

【ツッコミ】悪人こそ弥陀の本願の正客(R02.01.01 顕正新聞【論説】より)

【論説】では人間の善悪の価値判断が国や時代や人々によって異なること、当てにならないものであると述べています。そのことを教えられた『歎異抄』のお言葉の口語訳と思しきものが載っていますが、その『歎異抄』のお言葉が後序

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに

です。その後、善悪を知り通した如来は我々のことを

心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善

と仰っていると『大無量寿経』五悪段 第五悪の文を引いて、仏教では心を重んじること、その心が悪ばかり造っているから口も体も悪ばかりなのが全人類であることを述べています。かかる悪人である全人類を

「絶対の幸福に救わずばおかぬ」

のが本師本仏の阿弥陀仏の本願であるというのです。これで論説は終わっています。しかしこれでは決定的に何かが足りません。一部分だけ述べて、その後を語らない物語のようです。足りないものとは何か、会員の皆さんは気付いているでしょうか?


もう多くの方はお気づきの通り、我々の実相に関する部分だけ述べて、それを助ける法、すなわち『歎異抄』で言えば

ただ念仏のみぞまことにておはします

の部分が無いのです。「本師本仏の阿弥陀仏の本願」という言葉は出しているものの、上のような説明で終始し、本願の説明も間違っていれば、どうしたら救われるのかという点については一切触れられていません。

阿弥陀仏が衆生救済の願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあることを「仏願の生起本末」と言いますが、これで言えば仏願の生起だけで仏願の本末は説かれていないという体たらくです。

しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。『信文類』経釈文自釈(聞によって信をあらわす)

とあるように、仏願の生起だけ聞いて仏願の本末を聞かないようではとは言えません。

また仏願の生起本末について蓮如上人は南無阿弥陀仏の六字のこころとして丁寧にお示し下さいましたが、その六字のこころについても一切触れられていませんから、親鸞会でいくら聞いていてもも何もないのです。


本願は、本願を信じ念仏する者を浄土に往生させる、という本願です。
仏願の生起とは、我々は煩悩具足で迷界を出離することができないということです。真実心も、真実を疑いなく受け容れる信心も、浄土願生の心も、我々は金輪際持ち合わせていないということです。
仏願の本とは、かかる我々をむねとして救うために五劫思惟、兆載永劫の修行を経て本願の三心(体は名号)を成就されたということです。
仏願の末とは、阿弥陀仏は三心(体は名号)を現に今、我々に施し与えて救おうとされているということです。

迷界を出離させ、必ず往生成仏してさとりを完成する法、すなわち南無阿弥陀仏の名号法を阿弥陀仏の方でご成就、ご用意下さったから、それを計らいをまじえずに受け容れよというのが仏願の生起本末の結論であり、それが南無阿弥陀仏の六字のこころです。そのように聞いて疑いないのがです。

もっとつづめれば、南無阿弥陀仏という「助けるぞ」の弥陀の仰せを聞く、これがです。そのがそのままでありますから、これを聞即信と言われるのです。

本願を計らいをまじえずに聞き、受け容れた姿が信心であり、念仏であります。信心、念仏となって我々の上に現れているのは、まったく本願力そのものであり、私の造作、私の計らいは雑じりません。

こうして如来の仰せを受け容れたその時、摂取不捨の利益にあずかり、現世は正定聚の位に入って決定往生の身となり、命が尽きた時が浄土に参ってさとりを完成する時ですから、これを現当二益というのです。往生が決定するのは臨終を待って初めて定まるのではなく、平生本願を聞信する一念に定まるから、これを平生業成というのです。


親鸞会では聞即信や現当二益、平生業成という語は出てきても、結局絵に描いた餅で、救いの法がありませんから道理から言っても助かるはずがないのです。例えれば、会員は重い病気でそのままでは死んでしまうという診断を聞かされているだけの病人のようなものです。

確かに病に無自覚なままではそれを治す薬には全く無関心ですから、診断を聞くというのも大事でしょう。しかし、診断を聞いただけでは病気は治りません。それを治す薬を飲まねば病気は治りません。ですから、患者には早く薬を飲ませねばならないのです。薬を飲むこと、そして病気が治ること、これが一番大事です。薬を飲んで病気が治ることがなかったら、ハッキリ言って診断を聞く意味は皆無でしょう。

ところが、この度の論説でもせいぜい医者がいるというだけで、病を治す薬すら教えていません。親鸞会の話というのはたいていこれで終わりです。救いがないんです。

更にひどいことに、救いについて触れたとしても、親鸞会は間違った薬を処方し続けているのです。そして患者の病気を治すことには無関心で、病院を大きくすること、来院者を増やすことにのみ執心しているのです。

ここで、病を治す薬が名号、念仏であり、薬を飲むのが信心であり、間違った薬が諸善(組織拡大活動)です。

親鸞会で聞き続けても、救いがありませんから、あるいはありもしない救いしか説かれていませんから、本願の救いには遇えません。いつまでも希望を捨て切れずに居残る会員は、実に哀れ哀れです。

【ツッコミ】皆々信心決定あれかし(R02.01.01 顕正新聞【年頭所感】より)2

前回の続きです。

高森顕徹会長の頭では、悪人とは「人間の代名詞」であり、善人、悪人と分けて教えられていても実際は世の中には悪人しかいないようです。自分こそが悪人であり、しかもそれに恥じることもなく、それでいて周囲には「無二の善知識」「蓮如上人以来五百年に一度の善知識」等と思わせ言わしめてきた人間、更に世の人々を「どう生きるかしか知らない人達」と見下しているのですから、ある意味仕方ないのかも知れません。

では、高森会長の頭では善人とは何を指すのか、年頭所感では次のように書いています。

 では聖人の「善人」とは、どんな人をいうのであろうか。

“善を励んで助かろう”“念仏称えて救われよう”と努める人である。励めば善ができ、念仏ぐらいは称え切れると思っている人だから、「自力作善」の善人と聖人はおっしゃる。

“諸善も念仏も、いずれの行もおよばぬ悪人”と見極められて建てられた、弥陀の本願を受け入れられず、疑っている人だから、「疑心の善人」とも言われている。


いつもの高森会長の妄想です。

善人とは、仏陀の戒めを守って悪をつつしみ、善をつむことによって、自分も周囲の人々も、安らかな幸せに向かってゆくような生活をしている人のことです。勿論最高の善人は仏陀ですが、善人の中にも煩悩を断じた初地以上の聖者もあれば、まだ煩悩は断じていないがさとりを目指して廃悪修善に努める善凡夫もあります。

要は善悪因果の道理を信じ、できる限りを尽くして廃悪修善に励み、さとりを開こう、あるいは浄土に往生してそこで仏道を完成しようという人を善人というのです。その内、因果の道理を深く信じている人は上品中生の人であり、浅くでも因果の道理を信じている人は上品下生の人であると『観経』には説かれています。

私が会員だった時、信心決定のことを「深信因果」と話す講師部員もいましたが、それでは悪人が信心決定して上品の仲間入りをするということであり、悪人正機を完全否定していることになります。

また、事あるごとに親鸞会では因果の道理を説いてそれを信じるよう勧めていますが、前述したように浅くでも信じていれば上品下生の人です。そういう人は、もはや必堕無間の極悪人ではありません。いずれにしても、悪人正機を完全否定して、善人になれと教え勧めているのが親鸞会であると分かります。


ところで、上の引用文によって高森会長の中では諸善と念仏は同じ位置づけなのだなということも分かります。何ですかね、この

念仏ぐらいは称え切れる

というのは。実相の念仏とか、観相の念仏ならできないというのは分かりますが・・・。

念仏とは何か高度なものだと思っているのかも知れませんが、そうではありません。念仏は、

ただこれ男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず『選択集』難易義

と法然聖人が仰せのように、 男でも女でも、 身分の高いものでも低いものでも、 行住座臥の区別なく、 時・処やいろいろの場合を論ぜず、 これを修めるのに難しくない行です。そしてそれは、性懲りもなく煩悩を燃やし続け、仏の戒めに背いて悪を犯し、生死の迷いを離れられない我ら凡夫を哀れにみそなわして、衆生往生の行として成就され、善悪賢愚の隔てなく平等に与え施されている本願力回向の行です。

本願文では「乃至十念」と誓われていますが、善導大師はこれを「下至十声」と教えられ、南無阿弥陀仏とその御名を口に称えることだとされています。法然聖人は念声是一と言われ、念と声は一つだと明確に教えられています。親鸞聖人も『唯信鈔文意』

「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

と、ただ口に十返南無阿弥陀仏と称することだと教えられています。

この愚かな悪人を救おうと平等の大悲から至って易く、それでいて最も勝れた行として念仏の一行を本願の行として阿弥陀仏が選び択られ、我々に施されている、それが本願の念仏です。いつでも、どこでも、うちの三歳の末娘でも称えられる至極の易行です。だから称えられるんです。なんまんだぶと口を動かしてみて下さい。簡単にできるでしょう。『観経』の下品下生で、臨終の悪人に勧められているのはこの口称の念仏です。

ただ、その選択の願心を聞かず、あるいは疑って、見失って、これを自分の功徳として、他の諸善万行を修するのと同じように称えて往生しようという自力心があっては報土往生は不可です。なので『歎異抄』には

自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

と、自力のこころをひるがえして阿弥陀仏の本願力にまかせたならば報土往生すると教えられています。

念仏は我々の上に現れていますが、決して我々の行いではなく、いずれの行も及び難い我々を目当てとして救おうと願い立たれた阿弥陀仏の大慈悲心の顕現なのです。念仏が「わがちからにてはげむ善」ではない、「行者のために非行・非善なり」と言われるのはそのためです。


ですから、高森会長は弥陀の本願を

“諸善も念仏も、いずれの行もおよばぬ悪人”と見極められて建てられた、弥陀の本願

なんかと表現していますが、これもデタラメであることが分かります。そして高森会長は念仏とは無関係な信心を勧め、「みなみな信心決定あれかし」の蓮如上人の言葉だけ用いて、実際は会員を信心決定させる気がないということも分かります。

本願を疑う自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得すれば、真実の浄土へ往生できるのである。

などと書いていても、教えが自力の心を増長させるような教えですから、それをまともに信じている会員が自力の心をふり捨てて、他力の信心を獲得できないのは当たり前の当たり前のことです。

信心獲得して真実報土の往生を遂げたければ、さっさと親鸞会を離れましょう。ただし絶対の幸福という妄想を捨て切れない人はお好きにどうぞ。



【参照】
『報徳寺』聖典セミナー 「歎異抄」第三条 ~悪人正機の伝承~
『WikiArc』念仏
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード