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19願は臨終来迎、辺地・胎生・懈慢界の往生を誓われた願であって、実践していけば20願へ進むという願ではない

会員の中で一番下の親会員の会費が月5,000円となったそうですね。これによって、ますます会員の中には「さすがにおかしい」と疑問に思う人が出てくるでしょう。なおこれとは違いますが、私がかつて会費を一燈から親会員へと下げた時、当時の担当支部長が血相変えて理由を聞いてきたことに少なからず疑問を感じました。

それにしても高すぎる。高森顕徹会長の話へのお布施が1回に5,000円ですから、普通に活動している会員なら月1回話を聞くとしてもそれだけで最低10,000円かかる計算です。月2回話を聞けば15,000円。遠方から富山へ行く会員は交通費や宿泊費もばかになりません。更に、降誕会や報恩講ではお布施が50,000円。また映画や著書への財施やら、地元会館への御報謝、地元行事の参加費等を含めると、活動費は年間100万円は固いんじゃないでしょうか。私も当時は独身だったからもっていましたが、今なら無理や・・・(;^ω^)

こう思うと親鸞会の会員は金持ちですね~。そして熱心な方々ですね~。そんな金銭的にも恵まれ、求道心の強い方々でさえ助からないのでは、その教えのどこが「全人類の救われるたった一本の道」なんだと疑問に思ってしまうのは私だけでしょうか?


さて、

『飛雲』19願を無視された歴代の獲信者、一方で19願を重要視する聖道門と高森顕徹会長

では、歴代の善知識方や妙好人が、どなたも「18願で救われるためには必ず19願を通らなければならない」とは教えられていないことが判り易く書かれています。

18願で救われるためには必ず19願を通らなければならない

そんな主張をすること自体、19願がどのような願なのか全く無知な証拠です。前々回、前回の記事で19願を実践するとはどのようなことか述べて来ました。

「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)
「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(2)

菩提心」をおこし、すなわち「四弘誓願」をおこし、心から浄土に生まれたいと願って、死ぬまで「修諸功徳」の善を修める。「菩提心」をおこせなければ、そしてその上で「諸功徳」を修めなければ、「至心発願」しなければ、19願の行にならんのです。もし19願の行の真似事をして、それをもって19願を通ったとするなら、それこそ「観念の遊戯」というものでしょう。如実に実践してこそ「通る」と言えるのです。

確かに親孝行や親切、慈善事業といったことは大事ですよ。でもね、それをやる時の心はどうですか? また、それが往生の業因になり得ると思いますか? 「絶対の幸福」とやらになりたいという自己の欲望の実現を願ってやっていても19願の行になりませんよ。それじゃお寺の阿弥陀仏の仏像に商売繫盛、家内安全などを祈願している人と本質的に何も変わりません。「後生の一大事の解決」とは口では言うけど、純粋に迷界からの出離を目指し、さとりの領域である阿弥陀仏の浄土に往生したい、そして必ず仏と成り、一切衆生を救おうという崇高な菩提心をおこして種々の善行を修めているんですか? それに今まで修めた善行は、阿弥陀仏が多くの聖衆を伴って来迎して下さるほど価値が高い代物ですか?

このように、19願の実践というのは口で言うほど容易いことではありません。というかこの末法の世において、在家の生活をしている煩悩具足の我々が行えるような行ではないのです。「菩薩道を作す」者が19願の対機であって、自己中心的な想念に支配され、愛欲と憎悪にまみれた我々には到底不可能な行なのです。菩提心をおこして菩薩道を歩める優れた善人が生涯修め続ける行、それが19願の行というものです。

更に、そうやって生涯懸命に19願の行に努め励んでも、臨終に阿弥陀仏の来迎がなければ往生できません。行自体大変厳しいことに加えて、臨終に往生が決まり、それまで往生できるかどうか不確定なのが19願です。また、往生できたとしても「辺地・胎生・懈慢界」の往生であって、報土往生ではありません。そのように19願をご覧になり、これは自力諸行往生を誓われた願だと教えられたのが親鸞聖人であり覚如上人でした。

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
(中略)
定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。
『末灯鈔』1通

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終まつこと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。これすなはち第十八の願のこころなり。臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願のこころなり。『執持鈔』(1)

読めばお判りのように、19願について説明されているものの、18願と比較する形で教えられ、その上で18願のみを勧められています。19願を実践せよとか、実践していった先に18願の救いがあるなどとは一言も教えられていません。19願を実践していった先は臨終来迎、化土往生です。平生業成、報土往生を誓われた18願とは行も、信(菩提心)も、往生の定まる時期も、証も全く異なります。18願と19願の関係を比較すれば、

18願
行ー往相回向の念仏(他力念仏)
信ー本願力回向の信心(他力の菩提心)
往生の定まる時期ー平生(至心信楽帰命の一念)
証ー報土往生

19願
行ー自力諸善
信ー自力の信心(自力の菩提心)
往生の定まる時期ー臨終
証ー化土往生(来迎があって)


となります。18願と19願では他力回向と自力発願でベクトルも180°違う上、行から証果から全て異なります。平生に往生が定まり、報土往生する18願の救いを求め、どうして化土往生の業因を積まねばならないのか。親鸞会の理論は理解不能です。19願を実践していくと20願へ進みますよ、18願の救いに近づきますよという教えがあり、実践しなさいと勧められた根拠でもあれば話は別ですが、そんな教えも根拠も全く無いのです。

そういえば20願についての記述は?

にも書きましたが、19願の実践の先について教義の対比は以下の通りです。

19願を実践していくとどうなるか

親鸞聖人 (臨終に来迎があれば)辺地・胎生・懈慢界の往生。20願へ進むという説示は無い

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長 善のカケラもできない自己が知らされて、20願へ進む

19願を実践せよと勧める知識方も無ければ、実践していけば20願へ進むと教えられたお言葉もありません。親鸞聖人自身、高僧知識方の教えによって「19願を出た」とこそ仰せられたものの、「19願に入った」とは仰っていません。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。「化身土文類」真門決釈

先ほどの飛雲さんの記事にある通り、善知識方も妙好人も、どなたも19願を勧められていません。そのことを踏まえてこのお言葉を普通に読めば、善知識方の教えは「19願を出なさい」という教えだと判るでしょう。その仰せに順って聖人はその通り「19願を出た」のです。それをどう解釈すれば我々に19願の実践が必要だということになるのでしょうか。親鸞会の理論は悪意と詭弁と誤魔化しに満ちています。加えて、

それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。「化身土文類」真門釈

これがどうして19願を勧めた根拠になるのか理解不能です。20願を勧められているから19願を勧められていると訳の分からないことを言っています。もし善知識方の歩まれた道を通らねばならないとしたら、聖道門の修行から始めなければならないでしょう。あるいは曇鸞大師のように仙人の教えから始めなければならないかも知れません。勿論その必要は無いです。70年に及ぶ布教人生の中で、会長の口から19願を実践してきたと語られないことが何よりの証拠です。

ちょっと考えてみて下さい。高森会長は特攻隊を志願して16歳の頃は軍隊にいました。それから戦争が終わって、彼は18歳で信心決定したと言っています。そのたった2年間の間、いつどれだけの19願の善を成したのか。それで信仰が進んで18願の世界に転入できるというなら、会員の皆さんはとっくにしているはずです。なのに、一向に真仮を知らず、如来広大の恩徳を迷失しているのは一体どういうわけでしょうか?

それさえ、「先生は宿善の厚い人だったからだ」とか理由をつけておさめてしまうつもりですか、会員の皆さん。あるいは「軍隊で無常と罪悪に満ちた厳しい現実世界を見せつけられたからだ」とか? なら我々は軍隊から始めなければなりませんよ。

・親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がない
・19願を実践していくと20願へ進むと教えられたお言葉もない
・高森会長自身、19願を通ってきたと告白していない


このように親鸞会流「三願転入の教え」は完全に破綻しています。その破綻した邪偽の教えにいつまでも付き合わなければならない愉快な仲間達は哀れ哀れです。
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「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(2)

最近の教科書はどうか知りませんが、私の記憶によれば、中学校の歴史の教科書には法然聖人や親鸞聖人のところで「念仏を称えれば極楽浄土に往ける」というような事が書かれていました。一方で、諸善については全く書かれていませんでした。

もし親鸞聖人の教えに「善の勧め」があれば、「諸善を修め念仏を称えれば極楽浄土に往ける」と説いた人といった説明になるでしょう。しかしそんな事を書いている教科書があるでしょうか? それほど親鸞聖人の教えと言ったら念仏だけなんです。信心は目に見えませんから、第三者は信仰を言動で判断するしかありません。では聖人の書かれたものや、各地の伝承といった言動から教えを判断するとどうなるか。

親鸞聖人の教えに「善の勧め」は無く、「専修念仏の勧め」しかない。

そのように言わざるを得ないのです。歴史の教科書の担当者とて、デタラメに書いているわけではありません。日蓮上人といったら題目、道元禅師といったら禅というように、親鸞聖人の教えの特徴は念仏なのです。それは高森会長が注目し、映画まで作ろうとしている『歎異抄』に特に顕著です。

しかるに念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学生たちおほく座せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
『歎異抄』第二条

念仏のほかに往生のみちがあるというなら、それは奈良や比叡山へ行って聞きなさいと仰せです。念仏のほかに諸善という往生のみちを教える親鸞会は、断じて親鸞聖人の教えではないことがここからも明らかです。


さて、前回の続きです。「菩提心」をおこすとは、すべての仏や菩薩に共通している「四弘誓願」をおこすということでした。その上で、

修諸功徳、至心発願、欲生我国・・・

と19願は続いていきます。「菩提心」がおこせなかったら、その後どのような善根功徳を積んでも19願の行とは言えません。行を起こす時の心を重んじる。仏教で心の行いを重視するとはこういうことです。「死んでくれ」と親に対して思っただけで五逆罪とか、そんな事とは違うのです。また、たとえ「菩提心」をおこせたとしてもその心が途中でくじけたり失われたりしてしまっては落第です。

この「菩提心」をおこすこと自体、末法の世に生きる煩悩具足の我々にはとてもできることではありませんが、勿論それだけでは自利と利他とを円かに具えた仏陀とはなれません。「菩提心」をおこした者は仏道の完成、すなわち仏のさとりを目指して修行していくのです。その修行内容は数え切れないほど多いので「諸善万行」と言われますが、これをまとめて説かれているのが「六度万行」とか、「六波羅蜜」と言われる六種の行業です。それを19願では次に「修諸功徳」、諸々の功徳(善)を修めよと説かれているのです。

それは本来、苦しみ悩みの人生を明るく楽しく幸せにわたす行いとか、幸せで豊かな人生を送れるとかいったそういう目的で行ずるものでもなければ、我々にもちょっと努力すればできるというような程度の低い行いでもありません。「諸功徳」とか「六度万行」、「六波羅蜜」とは自利利他円満した仏陀となるべき修行内容で、突き詰めれば法蔵菩薩のなされた行業であります。

国を棄て王を捐てて財色を絶ち去け、みづから六波羅蜜を行じ、人を教へて行ぜしむ。無央数劫に功を積み徳を累ぬるに、その生処に随ひて意の所欲にあり。『大無量寿経』法蔵修行

それを19願では「発菩提心、修諸功徳」と言われているのです。我々にそんなことができるかどうか。確かに、やってみなければ分からないということもありましょう。が、法蔵菩薩の修行が我々にできるかどうかですから、そんなことはやる前からハッキリしています。


ところで、19願ではこの世でのさとりの完成を目指す聖道門と違って、「諸功徳」を阿弥陀仏の浄土に往生するために行じます。それが次の「至心発願欲生我国」です。行ずる内容は聖道門と変わりません。ただ心を浄土に振り向けてやるのです。浄土へは遊びに行くのでも、楽をしに行くのでもありません。仏陀のさとりを完成し、あらゆる衆生を救ってゆくためです。往生してそこで終わり、良かったね、ではありません。

この世界は五濁悪世と言われるように、仏道修行を妨げる因縁があまりに多く、さとりを完成することは極めて困難です。そのような悪縁が全く無い世界が阿弥陀仏の浄土です。ですから、19願の行者はまず阿弥陀仏の浄土に往生して、そこで修行してさとりの完成を目指すわけです。仏陀のさとりを完成し、あらゆる衆生を救うという自利利他が究極の目的であることは、聖道門も19願も、勿論18願も変わりません。

そうやって諸々の功徳を積み重ねた行者の臨終に、多くの聖衆を伴って迎えに行きましょうと誓われているのが19願です。そしてその19願意を明らかにされたのが『観経』顕説の定散二善です。ちなみに散善も三世諸仏の成仏の業因です。

かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ、大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。
仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。
『観無量寿経』散善顕行縁

ですから、19願の修行を仕事や子育ての片手間にやるとか、そういう訳にいかないんです。全てを捨てて出家して、一生涯身命を賭して仏道修行に打ち込まねばなりません。当然です。一体、何を目指していると思っているのか。三悪道はおろか、この迷いの世界から出離して、さとりの境界である阿弥陀仏の浄土へ往生しようというのですよ。しかも自分の成した善で。十九願というと捨家棄欲、そんなの当たり前でしょう。これは半身不随的理解じゃないですよ。何かの片手間にちょっと修行して往生できるほど甘い世界じゃないんです、19願は。

今まで積み重ねた功徳に往生できるほどの価値があるか分かりませんし、この後の人生において、どんな罪を犯して功績が消えてしまうかも分かりません。阿弥陀仏は行者の功績を評価して迎えに来て下さるわけですから、19願の行者は死ぬまで仏道一筋、修行一筋で廃悪修善に励み、臨終も心乱れることなく祈願を凝らし、来迎を待ち望まねばならないのです。もし来迎が無ければ、今までの成果も空しく往生はかないません。


このように19願は大変厳しいことを言われているとお判り頂ければけっこうだと思います。そのようなことに全くもって無知なのが高森顕徹会長と愉快な仲間達です。だから軽々しく19願の実践だとか、定散二善の実践だなどと言っているのでしょう。「菩提心」をおこして行を修めなければ19願の実践にならんのですよ。園児さんのコメントの通り、親鸞会は「菩提心」をなめていると言わざるを得ません。ですから、「19願を実践しました」とか「三願転入して救われました」とうそぶいている親鸞会のなんちゃって獲信者などみなもつてそらごとたはごとと考えて間違いありません。

菩提心」「至心発願欲生我国」どころか、「絶対の幸福」だとかいう楽を獲たいがためじゃね・・・。ましてやっていることが「諸功徳」ではなく親鸞会への献金や勧誘、会長及び上司への無条件服従でしょう? 行も、行ずる心もみな間違い。だから、一生懸命やっていたって19願とは無関係ですし、18願の救いにも遇えません。

18願によって救われようというなら、19願を聞いていても無意味です。19願は菩提心を発し、至心発願して諸の功徳を修めて往生しようとする行者を臨終に迎えに行く、つまり救うという願ですから、平生、至心信楽帰命の一念に往生が定まるという18願とは全く異なる救いです。平生業成の教えを聞いて今救われようというのに、臨終に救うと誓われた願を聞いて実践しようとしてどうなりますか? ただちに18願を聞いて、南無阿弥陀仏のこころ、すなわち「助けるぞ」のお心を領受すべきなのは当たり前の当たり前のことです。

三願転入の教え」なる邪義を授けられ、18願の救いとは無縁な話ばかり聞き、18願の救いとは無縁な行いばかりやらされている会員の皆さんは実に哀れです。早く教義の誤りに気付いて邪義を授ける人の手から離れ、浄土真宗の正意に基づいて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。


ちなみに、我々には絶対に起こせない菩提心ですが、親鸞聖人は願力回向の他力の信心が横超の大菩提心だというのですから驚きです。こんなことは聖人でなければ言えたことではありません。全く、とんでもない御方の教えを学んでいるのだなとつくづく知らされます。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』六波羅蜜

「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)

諸善は絶対に不要だと言わないのに、念仏はその時々で必要だと言ったり、不要であるかのように説いたりするのが高森会長です。20願から18願の世界に転入するんでしょ? なら念仏は絶対に必要じゃないですか? その絶対に必要な念仏を絶対に必要だと言い切らない高森会長が「三願転入の教え」を説く目的は、会員を18願の世界に転入させるためではなく、単に諸善(という名の組織拡大活動)をさせるためでしょう。

さて、その親鸞会流「三願転入の教え」にて絶対に必要なのが19願の諸善の実践です。19願は要門であり、重要な教え、必要な教え、通らなければならないかなめの教えだと喚き散らしています。ところがその割には、それほど強調する19願の説明は随分といい加減なものです。特に序盤の「発菩提心」の解説、これは本当にいい加減です。私は、高森会長や講師部員らから「発菩提心」について

・「よーし、やるぞ!」とやる気を起こして
・奮発心を起こして
・ド真剣になって


というような説明しか聞いたことがありません。他の皆さん、会員の皆さんはどうでしょうか?

この「発菩提心」、菩提心を発すというのがどのような事か。これ一つ分かっただけでも、19願を実践するのは我々には不可能、それこそ捨家棄欲、出家して仏道一筋にでもならなければできないことだと判るでしょう。


古くはこの記事で林遊さんの解説を載せてありますが、今一度説明します。まず、菩提心とは

梵語ボーデイ・チッタ(bodhi-citta)の漢訳。詳しくは阿耨多羅三藐三菩提心といい、無上正真道意・無上菩提心・無上道心などと漢訳する。仏果に至りさとりの智慧を得ようとする心のこと。

です。この心をおこすことを「発菩提心」といい、仏道の出発点とされるというのです。「絶対の幸福」などというこの世の楽しみを得ようとする心でもなければ、単純にやる気、奮発心を起こすということでもありません。

これについて、梯實圓著『本願のこころ』ではこのように書かれています。

********************
すべての仏や菩薩は、仏道修行を始めるときに総願と別願とをおこします。総願というのは、すべての菩薩に共通している誓願のことですから、通願ともいいます。菩薩が修行を始めるときに、まず自利(智慧)と利他(慈悲)を完成して仏になろうと誓う菩提心をおこしますが、その内容は、願作仏心(仏になろうと願う自利の心)と度衆生心(衆生を済度しようと願う利他の心)であり、さらにそれを広げれば四弘誓願として表されているような誓願を総願といいます。
 『往生要集』作願門には、
  一には衆生無辺誓願度。(衆生は無辺なれども、度せんと誓願す)
  二には煩悩無辺誓願断。(煩悩は無辺(尽)なれども、断ぜんと誓願す)
  三には法門無尽誓願知。(法門は無尽(量)なれども、知らんと誓願す)
  四には無上菩提誓願証。(無上なる菩提を証せんと誓願す)
                             (『註釈版聖典』七祖篇、九〇三~九〇四頁)
という度、断、知、証の四弘誓願として表されています。なお文言は書物によって少し違うこともありますが、意味は同じです。
 別願というのは、特定の仏、菩薩が、それぞれ特色のある誓いを立てられることをいいます。釈尊には五百の大願があり、薬師如来に十二の大願があり、阿弥陀如来に四十八願がありますが、それを別願というのです。
(p.39~p.40)
********************

菩提心」の内容は、仏になろうと願う自利の心(願作仏心)と、衆生を済度しようと願う利他の心(度衆生心)であり、それをさらに詳しく言い表したものが四弘誓願であります。ですから、

菩提心を発して」=「四弘誓願を発して

ということです。我々に四弘誓願をおこせというのですから無茶ですね。「発菩提心」とはこういうことなんです。救うべき衆生は数限りなくいるが、ことごとく救い尽くそう。煩悩は際限なくわき起こってくるが、残らず断ち切っていこう。学ぶべき真理に尽きることはないが、ことごとく知り尽くしていこう。さとりの智慧は無上であるが、完全にさとり極めていこう。これが四弘誓願の内容であり、このような心をおこすことを「発菩提心」と言うのです。高森会長と愉快な仲間達はこの「菩提心」ということをあまりに軽く考えすぎています。

19願を実践するというのなら、まずは「菩提心」をおこすところからです。でなければ、次の「修諸功徳」以降が意味をなしません。19願も究極的にはさとりを完成し、あらゆる衆生を救う自利利他円満を目指す仏道です。仏道の出発点であり阿弥陀仏がおこせと言われる「菩提心」の抜けた行は19願の行とは言えません。


会員の皆さんは、自身はそのような清らかで崇高な「菩提心」をおこせるものかどうか、よく考えてみましょう。そして、やるなら「菩提心」をおこしてから様々な善根功徳を修めて下さい。そうでないと「19願を実践する」ことになりません。親鸞会で言う「三願転入の道」とやらを進むことにはなりませんよ。

今回はここまでとし、続きは改めてまた書きたいと思います。



【参照】
『WikiArc』菩提心

宿善にしても三願転入にしても、求道のプロセス・方法論を教えたものではない

ちょっと古い内容なのですが、せっかくなので(;^ω^) 林遊さんのコメントを見て、なるほどと思ったので書きます。

「善の勧め」という高森顕徹の宿善論も、浄土真宗に於ける宿善とは、獲信の現在から過去をふり返る言葉を求道のプロセスとした誤謬なのでした。

以前本願寺と揉めた宿善論も、獲信の現在から過去を振り返って阿弥陀仏のお育てを喜ぶという本願寺の主張と、これから獲信しようという人が未来に向かって善を修めて求道のプロセス・方法論とする親鸞会の主張がぶつかったものでした。

・宿善とは、現在から過去をふり返っているのであって、これから獲信のために修することを宿善といっているのではない。(『本願寺 なぜ 答えぬ』)

・宿善は、将来の獲信のために積まねばならないという方向で語られるものではなく、遇法獲信の現在から過去にさかのぼって、宿善のお陰である、と、その縁由を喜ぶ方向で語られるものである。(『同』)


本願寺としてはこのように主張していますが、これで間違いないです。

これは三願転入にしても同じ事で、選択の願海に転入し難思議往生を遂げる身となった親鸞聖人が、現在から過去を振り返って遥か遠い昔からの阿弥陀仏のお育てを喜ばれたというものです。これから選択の願海に転入しようという人が、まず19願から始めて20願へと進み、そして18願の世界に入る、という求道のプロセス・方法論として書かれたものではありません。

その証拠が、数多くの聖人の書物の中で三願転入の御文と呼ばれるものは「化身土文類」の唯一ヶ所だということ、19願を勧められた根拠が皆無だということ、誡疑讃等にて20願を厳しく誡められているということです。もし三願転入を求道のプロセス・方法論として聖人が教えられたとするなら、そんな大事なことを『教行証文類』に唯一ヶ所しか記さないとは考えられません。次に、19願の実践が獲信に不可欠なプロセスだというなら、至る箇所で勧められていて当然です。ところが、唯の一ヶ所も19願や定散二善の実践を勧めた箇所が無いのです。そして、親鸞会理論で言えば20願の行者は一般人や聖道門・19願の行者より獲信に近い優れた人であるはずなのに、聖人は褒めたり、「あとちょっとだぞ」と励ましたりすることもなく、それどころか重ねて重ねて誡められています。


『教行証文類』始め沢山のお聖教には、阿弥陀仏が我々に本願を信じさせ、念仏を称えさせ、浄土に迎え取って仏に成らしめるということが書かれています。私達がどうやって本願を信じ、念仏を称え、浄土に往生して仏に成るかという方法論・ハウツーが書かれているのではありません。

平成29年親鸞会機関紙顕正新聞・年頭所感「大悲の願船に乗じ難度海を普く照らそう」(高森顕徹会長)を読んで思ったこと。

にあるように、難度海を度する大船で言うなら私達がどうやって乗るかという「乗り方」ではなく、「難度海を度する大船に阿弥陀仏がどうやって私を乗せるかの乗せ方」です。

このように親鸞会では語られる方向性が真逆ですから、会員はいつまで経っても仏願の生起・本末、南無阿弥陀仏の六字のこころが分からず、方法論に囚われて如来広大の恩徳を迷失しているのです。本願招喚の勅命の前には、獲信へのプロセス・方法論などありません。直ちに疑いなく聞き受け念仏する他ないのです。それは長いこと求道してゆかねば聞けないというのではなく、正覚大音響流十方ですから既に届いているのです。それを我々の方であれこれ計らって聞かないだけです。

本願に救われるに当たって、「私のターン」というものはなく、私がどうこうしなければならないということもありません。獲信へのプロセス・方法論はありません。縦と横の線で言う「横の道」も、高森顕徹会長のでっち上げであって、実際に存在する道ではないのです。只今、この場で、何も変わらない今のままの私が、既に回向せられている本願の名号を聞き受け念仏するのみです。早く利用・搾取される人生から脱して本願の行者となって頂きたいばかりです。

「方便仮門」を捨てるのは、白道に踏み出す前、東岸の水火二河の直前で白道を進もうと決心した只今のことです

親鸞会の「二河白道の譬え」は、とにかく邪義だらけです。最近は善導大師の「二河白道の譬え」|阿弥陀仏に救われるまでの心の道のりという動画まで作っていますが、まず

阿弥陀仏に救われるまでの心の道のり

というのが邪義そのものです。二河白道の譬えは、

また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。(信文類)

【現代語訳】
また、往生を願うすべての人々に告げる。念仏を行じる人のために、今重ねて一つの譬えを説き、信心を護り、考えの異なる人々の非難を防ごう。その譬えは次のようである。

とあるように、他力の信心を守護する譬えであり、真実の他力信心を譬えられたものです。他力信心、真実信心を明かされた『信文類』に引文されているのですから、信前の

阿弥陀仏に救われるまでの心の道のり
信心獲得するまでの求道の道程を示すため

なわけがないこと位当然なのですが、親鸞会の邪義に毒されている人は、かつての私がそうだったように高森会長の話を受け入れてしまうのです。中には、実際の譬え話と高森会長の話が違うことを知りながら、「譬え話をより分かりやすくするために話を変えられている」という詭弁に納得してしまう人もあります。


さて、上リンク先では内容の詳しい邪義までは判りませんので、『安心問答』「親鸞会・高森顕徹会長の二河白道の喩えはおかしいと思います。どこがおかしいのでしょうか?」(頂いた質問)を基に譬え話から紹介します。

親鸞会の二河白道の喩え
 1.旅人が無人の荒野を旅していました。
 2.尊い人が現れて、西へ行けと教えます。
 3.西に向かうと、水の河、火の河が突如として現れます。
 4.再び尊い人が、二つの河の間にある幅四五寸の白道を往けと勧めます。
 5.それで旅人は、中間の白道を少しずつですが進みます。
 6.白道を進む旅人に、群賊・悪獣・悪知識が現れて「帰ってこい」と誘惑、妨害してきます。
 7.白道を真ん中ほどまで進むと、往くも死、帰るも死、とどまるも死の三定死の状態になります。
 8.その時に、西岸から「直ちに来たれ」という喚び声が聞こえます。
 9.声が聞こえると同時に幅四五寸の白道は無碍の大道に、水火二河は光明の広海に変わります。
 10.旅人は白道を進んで、西の岸に着きました。


善導大師の二河白道の喩え
 1.旅人が無人の荒野を旅していました。
 2.群賊悪獣に追われて、死を畏れて西に向かいました。
 3.西に向かうと、水の河、火の河が突如として現れます。
 4.群賊悪獣に追われて、帰るも死、とどまるも死、先にゆけばまた水火の二河に落ちて死んでしまう。
 5.旅人はそこで、どのみち行き場がないのなら、むしろ前に進んで行こうと決心をします。
 6.こう考えた時、旅人は東の岸に「この道を尋ねて行け」と人の勧める声と、同時に西の岸の上に人がいて
  「直ちに来たれ」と喚ぶ声とをたちまちに聞きます。
 7.その声を聞いた旅人は、疑いや恐れる心がなくなり、白道を進んでいきます。
 8.その後も白道は幅四五寸と狭いまま、水の河、火の河も変化はありません。
 9.白道を進み始めると、群賊悪獣が「帰ってこい」と誘惑します。
 10.それらの声に惑わされることなく、旅人は白道を進み、西の岸に着きました。


まず時系列で話の流れがそもそも違います。高森会長の話では、旅人は東岸にいる時から白道を進む過程において東岸の人の勧める声を聞き、白道を真ん中ほどまで進んでどうにもならなくなった時に西岸上の人の喚び声を聞きます。これは誤りです。本物の話では東岸で群賊・悪獣に追い詰められて、白道を進む決意をした時に、東岸の人の勧める声と西岸上の人の喚ぶ声を同時に聞きます。そして西岸上の人の喚ぶ声とは、

〈汝一心に正念にして直ちに来れ、我能く汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉

というものですが、これについては親鸞聖人が

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。
(中略)
「一心」の言は、真実の信心なり。
「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
(愚禿鈔)

と解説されています。注目すべきは「」です。「捨てて」と言われる「方便仮門」とは、この前にて既に

上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。(同)

と解説されているように「一切の定散の諸善」であり、「雑行」「発願の行」「回心の行」「浄土の雑行」「浄土の要門」です。高森会長の話では、白道の半分ほどまで進んでから「直ちに来れ」と聞くのですから、それまでは「方便仮門である一切の定散の諸善を信前の求道としてやれという話と辻褄が合います。

しかし、本物の話では白道へ一歩踏み出す前に「直ちに来れ」と聞くのですから、当然「方便仮門を捨てるのは、白道に踏み出す前です。東岸の水火二河の直前で白道を進もうと決心した只今のことです。「阿弥陀如来の誓願」の前には「方便仮門」である「一切の定散の諸善」「雑行」「発願の行」「回心の行」「浄土の雑行」「浄土の要門」は捨てものでしかないのです。方便仮門」である一切の定散の諸善を信前の求道としてやれという高森会長の話とは辻褄が合いません。

ところで、「「直」の言は、回に対し迂に対するなり。」と書かれていますが、これは

横超断四流(玄義分 二九七)といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。(信文類)

とあるように横超他力を顕されたものです。対する「」「」とは浄土門内の自力の教えである横出の教えを指しています。それは「すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善」ということですから、「方便仮門」である「一切の定散の諸善」「雑行」「発願の行」「回心の行」「浄土の雑行」「浄土の要門」と同じことです。

やはりお聖教のどこを読んでも、「如来大願の他力」すなわち18願と、「方便仮門」すなわち19願とは対比する形で教えられ、しかも「方便仮門(19願)を捨てて如来大願の他力(18願)に帰すること以外勧められていません。方便仮門である19願の勧めは皆無です。

18願の救いを求めて19願の善をやれ

だとかいう珍説は、親鸞聖人の教えからは出てきようはずもないのです。高森会長が譬え話を変えた目的は、「譬え話をより分かりやすくするため」ではなく「親鸞会の邪義を正当化し会員に刷り込むため」でしょう。


私はお聖教に書かれていることを正見して親鸞聖人のお勧めに順おうと決意し、親鸞聖人とは真逆のことを勧める高森会長・親鸞会とは決別しました。退会した当初は不安もありましたが、そういう経緯からついに本願を信じ念仏する身となれました。親鸞会が教える絶対の幸福だとかいう幻想的な楽は得られませんでしたが、阿弥陀さまに往生をおまかせし、後生をくつろがせて頂いた安心というのは何にも代えがたいものです。

他にも記すべき邪義が満載な親鸞会流「二河白道の譬え」ですが、長いのでこの記事では割愛します。

『親鸞会教義の誤り』宿善とは7
『同』宿善とは8
『親鸞会邪義を破る』▼二河白道の譬喩(1)
『同』▼二河白道の譬喩(2)

等をご覧下さい。また、動画では二河白道譬喩が正しい聖教に基づいた譬え話です。

会員の皆さんが高森会長の珍説を捨てて、親鸞聖人の教えに帰されるよう願っています。只今、ここにいる、このままの私が方便仮門を捨てて、如来大願の他力に帰するのです。「直ちに来たれ」すなわち「助けるぞよ」の仰せを、自分の計らいを交えずにそのままお聞きするだけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

「なにごともなにごとも」は口だけの高森顕徹会長

何とかクリスマスの修羅場を乗り切りました。とは言っても自分のエリアを死守しただけで、まだまだ事業所には大量の荷物の山が・・・。新たな荷物を配りつつ、不良債権(不在にして連絡よこしてこない客の荷物)処理をしてきましたが、やはり不良債権は残ってしまうもので、それらが常々頭を悩ませています。あんたらの荷物が邪魔で新たな荷物が積めないんだよ! ポチって満足してんなら最初から頼むんじゃねぇよって心底思います。また、このくそ忙しい時に日付と時間を指定しておいてすっぽかし、あとで再配依頼してきて何食わぬ顔で受け取る客。こっちが遅れると怒るくせにどういう神経してんだとブチ切れそうになります。


ところで、昨日はアニメ映画『なぜ生きる』の蓮如上人の台詞

「『聞く一つ』で、大船に乗せる」ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです

から、本願や成就文、和讃を出して話があったそうです。

『飛雲』「若不生者」の「生」を”信楽に生まれさせる”とする解釈にまた戻りました

に既に書かれていますが、『なぜ生きる2』でしれっと修正したのを内輪ではかねてからの解釈に戻しています。飛雲さんの仰る通り、会員に往生・獲信してほしいという気はさらさらないことが分かります。

話の中で、浄土和讃

若不生者のちかひゆゑ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ


を出して、「若不生者」の「生」は「信楽に生まれさせる」ことだという説の正当性を訴えていたようですが、大間違いです。若不生者のちかひゆゑ」は「往生かならずさだまりぬ」にかかっており、「若不生者 不取正覚」と誓われた阿弥陀仏の第十八願によって、我ら(信楽まことにときいたり、一念慶喜するひと)の往生が間違いなく定まることを教えられているのです。

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(尊号真像銘文)

にて聖人が仰せのように、本願の仰せを疑いなく信楽した人、信楽を獲た人が、阿弥陀仏の浄土に若し生まれることができなければ決して仏に成らないというのが聖人の解釈です。大沼師の解釈をパクって聖人とは別のことを言っておいて、

さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。(御文章)

を挙げて自分の説を頑なに主張しているとは、どういう神経をしているのかと疑わざるを得ません。

(159)
一 前々住上人へある人申され候ふ。開山(親鸞)の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの子細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。
(御一代記聞書)

の、親鸞聖人の教えられた通りに教えを説くことは「なにごともなにごとも」の中に入らないのでしょうか?

所詮は浄土真宗を利用して私利私欲を満たしているのが高森顕徹会長であり、親鸞会なのだということです。本当の親鸞聖人の教えを知りたい人、本願に救われて往生したいと願う人は、一刻も早く離れた方が身のためです。

「三願転入は法の必然」なのかも知れないが、親鸞会流「三願転入の教え」は邪義(2)

今回は、私の入信までの過程を振り返ってみたいと思います。

大学1年の時、偽装勧誘に遇って話を聞くようになった私は、諸行無常、無常迅速、罪悪深重と教えられ、確かに(必堕無間の意味で)後生は一大事だと思うようになりました。この後生の一大事を解決するには、善知識から真剣に聴聞して信心決定するしかないと、先輩の勧めもあって親鸞会に入会しました。それから教義の誤りを知らされて退会するまでは、停滞期もあったものの、自分が聴聞して、自分がおつとめをして、自分が勧められる活動に参加して、自分が少しでも身口意の三業を立派にしてと、縦と横の線で言うところの縦の線を目指して、横の道を進もうとしていました。救って下さるのは阿弥陀仏だが、その阿弥陀仏の救いに遇うところまでは自分から積極的にアクションを起こして進まなければならない、要は自力で進まなければならない、そうしなければ阿弥陀さまは救って下さらないと思っていたのです。

退会して後は、往生にはただ18願、ただ念仏一つに依らねばならないと教えて頂き、18願一つ聞き、念仏一行を称えるようになりました。この時、自力で聴聞や勤行や善行など、様々な行に励んで助かろうというところから離れましたので、三願転入の御文になぞらえますと、

ここをもつて淳心房、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

と言えるのかなと感じます。実感としては万行諸善の仮門の前をうろうろしていただけで、19願如実の実践はしておらず、臨終来迎による化土往生も願ってはおりませんのでそこは違いますが。このようなわけで淳心房は、知識同行方のお導きによって、久しく親鸞会の邪道を出て、永く高森信心を離れたと言った方がより適当です。

ところが、ただ18願、ただ念仏一つと教えて頂いても、本願力回向のお心が分からず、念仏を自分の善根として称えて助かろうという自力心はしばらく私を煩わせていました。いや、阿弥陀仏のお手を煩わせていたといった方が適切でしょうか。その時、直ちに本願力回向を受け容れない未熟な機をも見捨て給わぬ阿弥陀仏の大悲から発して下さった第二十願に不本意ながら留まっていたのかなと推察されます。それが後に心を翻され、阿弥陀仏による一方的な救いを受け容れて、一心一向に念仏して報土往生を願う身とさせて頂きました。このような心境の変化を、再び三願転入の御文になぞらえますと、

善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。

と言えるのかなと感じます。ただし、難思往生の心を発したわけではなく、あくまで本願の実報土に往生したいと願っていたのでその点でも違いがあります。ですから、淳心房の入信の過程としては

親鸞会(真宗もどき)→(20願)→18願

といった感じです。三願転入の御文通りというのは適当ではありませんが、何らかの形で三願転入で表せるような宗教体験はありました。


このように振り返りますと、自力のはからいを離れて選択の願海に転入したものには、何らかの形で三願転入で表せるような宗教体験があったと考えられるとする梯師の考えは確かにそうかも知れません。獲信者全員に尋ねたわけではないのでアレですが、往生に関して私は

雑行・雑修(自力心)→専修念仏(自力心)→専修念仏(他力心)
(※19願・20願如実の行の実践はしていませんので、あくまで個人的な感覚です。)

という過程を経ましたので、三願転入は必然とまでは断定できないが個人的に何らかの形で三願転入で表せるような宗教体験はあるのではないかと思います。ただしこれも一つの考え方なので、読者の皆さん、どうぞ選択はご自由に。


ところが、こうした梯師の説をもって親鸞会流「三願転入の教え」がどうこう言えないことは先日述べた通りです。三願転入の御文を始め『教行証文類』は、林遊@なんまんだぶ様が仰るように信心へのハウツー書ではありません。

御開山の著された『教行証文類』は、行信を得る為のプロセスを説いた教科書ではない。御開山が到達された視点から全仏教を俯瞰した書物であることを忘れて、まるで信心へのハウツー書のように読めば、高森顕徹氏が説くあほみたいな行信へのプロセスとしての三願転入になるのであった。
ようするに、「宿善を求めよ」という金集め人集め作戦が本願寺によって論破されたために編み出したのが要門→真門→弘願門という三願転入であった。あほである。


この通りです。あくまで獲信の現在から過去を振り返って「このようなお導きによって本願を信じ念仏して報土往生を遂げる身とさせて頂いた」ということであって、これから獲信・往生しようという人に「19願→20願→18願と進んで助かるのですよ」と獲信へのハウツーを教えたのが三願転入の御文ではないことをよく知らなければなりません。

祖師がお示し下されたように、我々が聞くべきは、説くべきは、あくまで18願、仏願の生起・本末、南無阿弥陀仏の六字のこころであって別にはありません。19願を説き与えるなど、猫でもないネズミの絵を与えて「虎を描け」と言っているようなもので、一生虎を描くことはできないことは度々述べている通りです。親鸞会の邪義に未だ迷っている方々は、一刻も早く利用・搾取されている現状に気づき、邪道を出でて本願他力の直道に赴いて頂きたいと思います。


【参照】
『用管窺天記』真仮を知らざるによりて

「三願転入は法の必然」なのかも知れないが、親鸞会流「三願転入の教え」は邪義

そういえば20願についての記述は?

の記事に、名無し様からコメントを頂いています。内容は「三願転入は法の必然」なのかどうかについてです。その中で、梯実円著「顕浄土方便化身土文類講讃」の中の一文が紹介されています。

********************
「単なる聖人(親鸞聖人のこと)個人の宗教経験に止まらず、自力を捨てて他力に帰するという廃立の信心の性格として、自ずから三願転入が為されると考える。同時に、権仮方便の教法を設定して、未熟の機を誘引される如来の摂機の次第からいっても三願転入は法の必然であると考えている。」

「自力のはからいを離れて選択の願海に転入したものには、何らかの形で三願転入で表せるような宗教体験があったと考えられる。」

********************

と書かれているとのことです。今回は、この文章と親鸞会流「三願転入の教え」について考察します。

諸行無常、罪悪深重、無常迅速と知らされるにつけ、この問題を何とかしなければならない、何とかしたいという思いになります。それで、我々は過去世において仏道修行に励んでいたのかも知れません。親鸞聖人も、

三恒河沙の諸仏の
 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども
 自力かなはで流転せり
(正像末和讃)

と仰っています。そんな過去がなければ、今生において仏教を聞けなかったのかも知れません。ところが、

自力聖道の菩提心
 こころもことばもおよばれず
 常没流転の凡愚は
 いかでか発起せしむべき
(同)

で、親鸞聖人のような方でさえ自力でどうにかなる問題ではないと仰せです。そして、

像末五濁の世となりて
 釈迦の遺教かくれしむ
 弥陀の悲願ひろまりて
 念仏往生さかりなり
(同)

と仰せられ、ご自身も念仏往生の教えに帰依なされています。これがいわゆる、

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。(化身土文類)

なのかなと思います。断定的な言い方をしないのは、「万行諸善の仮門」とは普通第十九願の教法を指すのであり、親鸞聖人が今生において19願を実践されたのかどうか不明だからです。聖道門を含めて「万行諸善の仮門」ということなのかも知れませんが、こればかりは聖人にお聞きしなければ分かりません。

あと、これは私の想像ですが、ただ法然聖人から教えを受けられるようになってからもしばらくは、念仏を自分の善根としてとらえ、念仏を称えて往生しようという自力心が離れず、泣かれていたのかもしれません。その時に、図らずも第二十願に入っておられたことを、

善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。(同)

と述懐なされているのかも知れません。それが、如来大悲の恩を知り、如来二種の回向を頂かれて選択の願海に転入された後に方便の教えであったと知らされ、

しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。(同)

とお慶びになったのかもしれません。

このように考察しますと、梯師の考え方もなるほどと思えます。遠い過去世から獲信の現在までを振り返ると、誰しも三願転入で表せるような宗教体験をしているのかも知れません。ただこれは考え方の一つであって断定はできませんので、梯師も断定的な言い方は避けています。「三願転入は法の必然」なのかどうか、どちらの説を取ろうとそれは各々自由であろうと思います。


ただし、親鸞会が言うような「三願転入の教え」は邪義です。善知識方は、「今生においてまず19願から始めなければならない」と言って19願を勧めるようなことはしておられないからです。

いつも申しているように、善知識方のお勧めはもっぱら18願のみです。20願すら厳しく誡められているというのに、まして19願はです。19願の実践を勧められた箇所が至る所に見られるなら分かりますが、20願すら「化身土文類」に唯一ヶ所、19願の実践の勧めは皆無です。その20願すら先ほど申し上げた通りです。

梯師の仰る説と、親鸞会流「三願転入の教え」は全く指している部分が違いますので、梯師の文章を通して親鸞会流「三願転入の教え」がどうこうとは言えないと思います。それに梯師ももしまだご存命であれば、親鸞会流「三願転入の教え」は否定するでしょう。梯師が19願を勧められているかどうか、著書を見れば明らかです。

以上、梯師の文章と親鸞会流「三願転入の教え」についての考察を終了します。

そういえば20願についての記述は?

「三願転入の教え」だとかいう邪義によって、会員の皆さんは直ちに18願を聞信できないばかりか、19願を根拠に善もどきの善をさも獲信に近づく行であるかのように吹き込まれ、組織拡大要員として利用・搾取されています。このままではこの世も苦しみ、そして念仏誹謗の罪によって未来も苦しみです。現当二益とは言葉だけで、高森会長は会員の皆さんに現当二益を得させようという気は全くなく、ただ私利私欲を満たすためにそういう文言で釣っているだけです。

さて、この邪義を破るべく色々とお聖教を読んでいく内に、以下のようなことに気づきました。

①19願と18願は対比する形で教えられ、18願のみを勧められている
②19願の先にあるという20願については、親鸞聖人は厳しく誡められている
③親鸞聖人以外で具体的に20願を出して説明されているお言葉はほとんど無い


①については、

本願念仏(18願)の機の不体失往生と、非本願諸行往生(19願)の機の体失往生の諍論
第十八の願のこころと第十九の願のこころ ― 自力の行者・諸行往生のひとになること、臨終をまち来迎をたのむこと、辺地・胎生・懈慢界の往生を勧めている高森顕徹会長
「諸行の行人、自力不真実の行人になること」、「十九の願をたのみて来迎にあづかること」、「報土の往生をとげず、胎生辺地の往生」、「臨終正念ならずしては辺地胎生の往生もなほ不定な救い」を勧める高森顕徹会長
「19願を捨てて18願一つ聞きなさい」。これが次第相承の善知識のあさからざる御勧化です

等の記事で、法然聖人、親鸞聖人、覚如上人、存覚上人、蓮如上人のお言葉を見てきました。まだご覧になっていない方はリンク先をお読み下さい。

②については、『正像末和讃』誡疑讃を23首も詠まれ、

以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。

と厳しく自力念仏往生(20願往生)を誡め、他力念仏往生(18願往生)を勧められています。また、『信文類』三心決釈

真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。

【現代語訳】
この真実の信心には、必ず名号を称えるというはたらきがそなわっている。しかしながら、名号を称えていても必ずしも他力回向の信心がそなわっているとは限らない。

や、『化身土文類』真文決釈

まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
(中略)
おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。


【現代語訳】
いま、まことに知ることができた。もっぱら念仏しても、自力の心で励むものは大きな喜びの心を得ることができない。
(中略)
大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。


『末灯鈔』(12)

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

などなど、自力念仏(20願)を誡め本願を信じ念仏する他力念仏(18願)のみを専らお勧めになっています。このように自力念仏さえ誡められてしかいないのですから、少善根であり、諸仏の勧めがなく、付属もされず、仏と疎遠であり、往生への遠回りであり、化土の業因であり、本願において選び捨てられた行である自力諸善が勧められているわけがないのです。


そして③についてですが、三願転入は万人の獲信までのプロセスだとか言っているものの、20願についての高僧知識方の記述は19願に増して少なく、中々見当たらないことに気づきました。「20願」という言葉は出さないまでも、南無阿弥陀仏の六字のいわれをよく知らずに念仏称えていても極楽には往生できないとか、自力念仏と他力念仏を対比して他力念仏を勧められている箇所は『御文章』、『御一代記聞書』にも見られます。しかし、やはり20願も19願と同様、18願と対比する形で教えられ、20願は誡められてしかいない、18願しか勧められていないのでした。

それで、本当に全くと言っていいほど親鸞聖人以外で20願文に触れている記述がなかったので、飛雲様、林遊様に伺ってみたところ、ようやく2箇所ほど見つかりました。1つは善導大師の『観念法門』摂生縁

また四十八願(大経・上意)のなかに説きてのたまふがごとし。「たとひ われ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至して発願してわが国に生ぜんと欲せん。命終の時に臨みて、われ大衆とその前に現ぜずは、正覚を取らじ」(第十九願)と。これまたこれ摂生増上縁なり。
また下の願(大経・上意)にのたまふがごとし。「たとひわれ仏を得たらんに、 十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に計け、心を至して回向してわが国に生ぜんと願ぜん。果遂せずは、正覚を取らじ」(第二十願)と。これまたこれ摂生増上縁なり。
また下の願(同・上意)にのたまふがごとし。「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。命終の後に、また女身とならば、正覚を取らじ」(第三十五願)と。義にいはく、すなはち弥陀の本願力によるがゆゑに、女人、仏の名号を称すれば、まさしく命終の時すなはち女身を転じて男子となることを得。弥陀手を接し、菩薩身を扶けて宝華の上に坐せしむ。仏に随ひて往生し、仏の大会に入りて無生を証悟す。また一切の女人もし弥陀の名願力によらずは、千劫・万劫・恒河沙等の劫にも、つひに女身を転ずることを得べからず、知るべし。いまあるいは道俗ありて、女人浄土に生ずることを得ずといはば、これはこれ妄説なり、信ずべからず。またこの経をもつて証す。またこれ摂生増上縁なり。


もう1つは法然聖人の『西方指南抄』十七条御法語

或人念仏之不審を、故聖人に奉問曰、第二十の願は、大綱の願なり。係念といふは、三生の内にかならず果遂すべし。仮令通計するに、百年の内に往生すべき也。 云云
これ九品往生の義意釈なり。極大遅者をもて、三生に出(いで)ざるこころ、かくのごとく釈せり。又『阿弥陀経』の已発願等は、これ三生之証也と。


です。これは知らなんだよ~( ̄д ̄) 流石のお二人です。『西方指南抄』のお言葉は既に林遊@なんまんだぶさんが『用管窺天記』三生果遂の願にてご紹介下さっています。

ただ、前者は往生を誓われた願の1つとして紹介されているだけ、後者は三生果遂を誓われた願として教えられているだけであり、親鸞会で教えられるような

「19願を実践していくと、善のカケラもできない自己が知らされて、20願へ進む」
「20願を実践していくと念仏も称え切れない自己が知らされて、18願に転入する」
「18願の救いを求めて20願を実践せよ、精一杯自力念仏に励め」


というような意味はこれらのお言葉から伺うことはできません。18願の世界に入るには、19願の善、20願の念仏を実践しなければならないという邪義は、親鸞聖人は勿論、経典上にも聖教上にもどこにも見られない珍らしき法です。


ところで、『西方指南抄』十七条御法語を読み進めていくとこのような御文もあります。

又云、『玄義』に云く、「釈迦の要門は定散二善なり。定者(は)息慮凝心なり、散者(は)廃悪修善なりと。弘願者如大経説、一切善悪凡夫得生」といへり。予(よが)ごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り。

又云、善導は第十八の願、一向に仏号を称念して往生すと云り。恵心のこころ、観念・称念等みな、これを摂すと云り。もし『要集』のこころによらば、行者においては、この名をあやまてらむ歟と。
又云、第十九の願は、諸行之人を引入して、念仏之願に帰せしめむと也。


19願は諸行の人、すなわち聖道門の人を念仏の願(18願)に帰依させるための願であると教えられています。そして、法然さま自身も要門の修行に堪えられない身であるからひとえに弘願をたのむのだと仰っています。にもかかわらず要門を実践しようとしているのは、どれだけ我が身知らずで自惚れ強いのでしょうか。


このように聖教を伺っていきますと、いよいよ親鸞会の邪義が明らかになり、いよいよ18願に依るしか我々が往生し成仏する道はないのだと知らされます。そして

○19願を実践していくとどうなるか

親鸞聖人 (臨終に来迎があれば)辺地・胎生・懈慢界の往生。20願へ進むという説示は無い
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長 善のカケラもできない自己が知らされて、20願へ進む



○20願について

親鸞聖人 20願を捨てよ
―――――――――――
高森会長 20願を実践せよ

       ※実態は19願の勧めばかりで20願は無視状態

という教義の差別があることも分かりました。19願を実践していく先は、死ぬまで求道、臨終来迎、化土往生です。平生業成、報土往生をし、法然聖人や親鸞聖人と同じ果報を得ようというなら、19願は捨てて18願一つ聞いて下さい。仏願の生起・本末、つまり「たすけるぞ」を聞き、念仏するのみです。

いつなんだ?

因果の道理が心底分かって、廃悪修善の気持ちが強くなるのは、いつなんだ?

悪しかできない己の姿が本当に知らされるのって、いつなんだ?

後生は一大事と驚き立つのって、いつなんだ?

後生に驚き立って、横の線の軌道に乗るのって、いつなんだ?

19願の実践をしていって、善のできない自分が知らされるのって、いつなんだ?

信仰が進んで、20願へ進むのって、いつなんだ?

20願の実践をしていって、心からの念仏も称えられない自分が知らされるのって、いつなんだ?

結局のところ、18願の世界へ転入するのって、いつなんだ?




【投稿文】 第4回 「 親鸞会を退会して 講師部の皆さんへ 」

等で嶋田元講師が仰るように、親鸞会教義とは

「雑行を知るだけでも30年40年かかる、真実信心は50年100年で 獲られるものではない」

という教えですから、今日や明日にも無常が迫っている人、肉体的精神的な病気・怪我で十分に親鸞会の活動ができない人は救われっこないことが分かります。一念の救いに遇うのに、雑行を知るだけで30年40年かかる、真実信心は50年100年で獲られるものではないというなら、結局は

30年40年では救われない、50年や100年では救われない

ということです。これに気づき、おかしいと疑問を持たねばなりません。会員の皆さんの多くは、

こんな こと言われて はーそうですかと  受け入れている

ようですが、嶋田さんも仰るように早く目を覚まして下さい。先に挙げた疑問をもっと深く自分の上に突き詰めて、親鸞会の教えで自分は助かるのかどうか、もっと真剣に考えて下さい。


仏願の生起・本末」とは18願のことです。19願・20願は入りません。
南無阿弥陀仏の六字のこころ」も18願のことです。19願・20願は入りません。

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(『御文章』5帖目5通)

どこに、18願を心得るために19願・20願を実践せよなんて説かれていますか? 高森会長が私利私欲を満たすために教えを利用し、捻じ曲げているところから、こんな邪義が発生してくるのです。19願を勧めるのは、虎どころか、猫でもない、ネズミの絵を与えて「虎を描け」と言っているようなもので、一生虎は描けません。

私達が聞くべきは、最初から最後まで18願のみです。方便仮門は直ちに捨てて、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」、「助けるぞ」の仰せを聞いて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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