19願は臨終来迎、辺地・胎生・懈慢界の往生を誓われた願であって、実践していけば20願へ進むという願ではない
会員の中で一番下の親会員の会費が月5,000円となったそうですね。これによって、ますます会員の中には「さすがにおかしい」と疑問に思う人が出てくるでしょう。なおこれとは違いますが、私がかつて会費を一燈から親会員へと下げた時、当時の担当支部長が血相変えて理由を聞いてきたことに少なからず疑問を感じました。
それにしても高すぎる。高森顕徹会長の話へのお布施が1回に5,000円ですから、普通に活動している会員なら月1回話を聞くとしてもそれだけで最低10,000円かかる計算です。月2回話を聞けば15,000円。遠方から富山へ行く会員は交通費や宿泊費もばかになりません。更に、降誕会や報恩講ではお布施が50,000円。また映画や著書への財施やら、地元会館への御報謝、地元行事の参加費等を含めると、活動費は年間100万円は固いんじゃないでしょうか。私も当時は独身だったからもっていましたが、今なら無理や・・・(;^ω^)
こう思うと親鸞会の会員は金持ちですね~。そして熱心な方々ですね~。そんな金銭的にも恵まれ、求道心の強い方々でさえ助からないのでは、その教えのどこが「全人類の救われるたった一本の道」なんだと疑問に思ってしまうのは私だけでしょうか?
さて、
『飛雲』19願を無視された歴代の獲信者、一方で19願を重要視する聖道門と高森顕徹会長
では、歴代の善知識方や妙好人が、どなたも「18願で救われるためには必ず19願を通らなければならない」とは教えられていないことが判り易く書かれています。
「18願で救われるためには必ず19願を通らなければならない」
そんな主張をすること自体、19願がどのような願なのか全く無知な証拠です。前々回、前回の記事で19願を実践するとはどのようなことか述べて来ました。
・「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)
・「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(2)
「菩提心」をおこし、すなわち「四弘誓願」をおこし、心から浄土に生まれたいと願って、死ぬまで「修諸功徳」の善を修める。「菩提心」をおこせなければ、そしてその上で「諸功徳」を修めなければ、「至心発願」しなければ、19願の行にならんのです。もし19願の行の真似事をして、それをもって19願を通ったとするなら、それこそ「観念の遊戯」というものでしょう。如実に実践してこそ「通る」と言えるのです。
確かに親孝行や親切、慈善事業といったことは大事ですよ。でもね、それをやる時の心はどうですか? また、それが往生の業因になり得ると思いますか? 「絶対の幸福」とやらになりたいという自己の欲望の実現を願ってやっていても19願の行になりませんよ。それじゃお寺の阿弥陀仏の仏像に商売繫盛、家内安全などを祈願している人と本質的に何も変わりません。「後生の一大事の解決」とは口では言うけど、純粋に迷界からの出離を目指し、さとりの領域である阿弥陀仏の浄土に往生したい、そして必ず仏と成り、一切衆生を救おうという崇高な菩提心をおこして種々の善行を修めているんですか? それに今まで修めた善行は、阿弥陀仏が多くの聖衆を伴って来迎して下さるほど価値が高い代物ですか?
このように、19願の実践というのは口で言うほど容易いことではありません。というかこの末法の世において、在家の生活をしている煩悩具足の我々が行えるような行ではないのです。「菩薩道を作す」者が19願の対機であって、自己中心的な想念に支配され、愛欲と憎悪にまみれた我々には到底不可能な行なのです。菩提心をおこして菩薩道を歩める優れた善人が生涯修め続ける行、それが19願の行というものです。
更に、そうやって生涯懸命に19願の行に努め励んでも、臨終に阿弥陀仏の来迎がなければ往生できません。行自体大変厳しいことに加えて、臨終に往生が決まり、それまで往生できるかどうか不確定なのが19願です。また、往生できたとしても「辺地・胎生・懈慢界」の往生であって、報土往生ではありません。そのように19願をご覧になり、これは自力諸行往生を誓われた願だと教えられたのが親鸞聖人であり覚如上人でした。
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
(中略)
定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。(『末灯鈔』1通)
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終まつこと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。これすなはち第十八の願のこころなり。臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願のこころなり。(『執持鈔』(1))
読めばお判りのように、19願について説明されているものの、18願と比較する形で教えられ、その上で18願のみを勧められています。19願を実践せよとか、実践していった先に18願の救いがあるなどとは一言も教えられていません。19願を実践していった先は臨終来迎、化土往生です。平生業成、報土往生を誓われた18願とは行も、信(菩提心)も、往生の定まる時期も、証も全く異なります。18願と19願の関係を比較すれば、
18願
行ー往相回向の念仏(他力念仏)
信ー本願力回向の信心(他力の菩提心)
往生の定まる時期ー平生(至心信楽帰命の一念)
証ー報土往生
19願
行ー自力諸善
信ー自力の信心(自力の菩提心)
往生の定まる時期ー臨終
証ー化土往生(来迎があって)
となります。18願と19願では他力回向と自力発願でベクトルも180°違う上、行から証果から全て異なります。平生に往生が定まり、報土往生する18願の救いを求め、どうして化土往生の業因を積まねばならないのか。親鸞会の理論は理解不能です。19願を実践していくと20願へ進みますよ、18願の救いに近づきますよという教えがあり、実践しなさいと勧められた根拠でもあれば話は別ですが、そんな教えも根拠も全く無いのです。
そういえば20願についての記述は?
にも書きましたが、19願の実践の先について教義の対比は以下の通りです。
○19願を実践していくとどうなるか
親鸞聖人 (臨終に来迎があれば)辺地・胎生・懈慢界の往生。20願へ進むという説示は無い
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長 善のカケラもできない自己が知らされて、20願へ進む
19願を実践せよと勧める知識方も無ければ、実践していけば20願へ進むと教えられたお言葉もありません。親鸞聖人自身、高僧知識方の教えによって「19願を出た」とこそ仰せられたものの、「19願に入った」とは仰っていません。
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。(「化身土文類」真門決釈)
先ほどの飛雲さんの記事にある通り、善知識方も妙好人も、どなたも19願を勧められていません。そのことを踏まえてこのお言葉を普通に読めば、善知識方の教えは「19願を出なさい」という教えだと判るでしょう。その仰せに順って聖人はその通り「19願を出た」のです。それをどう解釈すれば我々に19願の実践が必要だということになるのでしょうか。親鸞会の理論は悪意と詭弁と誤魔化しに満ちています。加えて、
それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。(「化身土文類」真門釈)
これがどうして19願を勧めた根拠になるのか理解不能です。20願を勧められているから19願を勧められていると訳の分からないことを言っています。もし善知識方の歩まれた道を通らねばならないとしたら、聖道門の修行から始めなければならないでしょう。あるいは曇鸞大師のように仙人の教えから始めなければならないかも知れません。勿論その必要は無いです。70年に及ぶ布教人生の中で、会長の口から19願を実践してきたと語られないことが何よりの証拠です。
ちょっと考えてみて下さい。高森会長は特攻隊を志願して16歳の頃は軍隊にいました。それから戦争が終わって、彼は18歳で信心決定したと言っています。そのたった2年間の間、いつどれだけの19願の善を成したのか。それで信仰が進んで18願の世界に転入できるというなら、会員の皆さんはとっくにしているはずです。なのに、一向に真仮を知らず、如来広大の恩徳を迷失しているのは一体どういうわけでしょうか?
それさえ、「先生は宿善の厚い人だったからだ」とか理由をつけておさめてしまうつもりですか、会員の皆さん。あるいは「軍隊で無常と罪悪に満ちた厳しい現実世界を見せつけられたからだ」とか? なら我々は軍隊から始めなければなりませんよ。
・親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がない
・19願を実践していくと20願へ進むと教えられたお言葉もない
・高森会長自身、19願を通ってきたと告白していない
このように親鸞会流「三願転入の教え」は完全に破綻しています。その破綻した邪偽の教えにいつまでも付き合わなければならない愉快な仲間達は哀れ哀れです。
それにしても高すぎる。高森顕徹会長の話へのお布施が1回に5,000円ですから、普通に活動している会員なら月1回話を聞くとしてもそれだけで最低10,000円かかる計算です。月2回話を聞けば15,000円。遠方から富山へ行く会員は交通費や宿泊費もばかになりません。更に、降誕会や報恩講ではお布施が50,000円。また映画や著書への財施やら、地元会館への御報謝、地元行事の参加費等を含めると、活動費は年間100万円は固いんじゃないでしょうか。私も当時は独身だったからもっていましたが、今なら無理や・・・(;^ω^)
こう思うと親鸞会の会員は金持ちですね~。そして熱心な方々ですね~。そんな金銭的にも恵まれ、求道心の強い方々でさえ助からないのでは、その教えのどこが「全人類の救われるたった一本の道」なんだと疑問に思ってしまうのは私だけでしょうか?
さて、
『飛雲』19願を無視された歴代の獲信者、一方で19願を重要視する聖道門と高森顕徹会長
では、歴代の善知識方や妙好人が、どなたも「18願で救われるためには必ず19願を通らなければならない」とは教えられていないことが判り易く書かれています。
「18願で救われるためには必ず19願を通らなければならない」
そんな主張をすること自体、19願がどのような願なのか全く無知な証拠です。前々回、前回の記事で19願を実践するとはどのようなことか述べて来ました。
・「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(1)
・「発菩提心」がどのような事かも全く知らない高森顕徹会長と愉快な仲間達(2)
「菩提心」をおこし、すなわち「四弘誓願」をおこし、心から浄土に生まれたいと願って、死ぬまで「修諸功徳」の善を修める。「菩提心」をおこせなければ、そしてその上で「諸功徳」を修めなければ、「至心発願」しなければ、19願の行にならんのです。もし19願の行の真似事をして、それをもって19願を通ったとするなら、それこそ「観念の遊戯」というものでしょう。如実に実践してこそ「通る」と言えるのです。
確かに親孝行や親切、慈善事業といったことは大事ですよ。でもね、それをやる時の心はどうですか? また、それが往生の業因になり得ると思いますか? 「絶対の幸福」とやらになりたいという自己の欲望の実現を願ってやっていても19願の行になりませんよ。それじゃお寺の阿弥陀仏の仏像に商売繫盛、家内安全などを祈願している人と本質的に何も変わりません。「後生の一大事の解決」とは口では言うけど、純粋に迷界からの出離を目指し、さとりの領域である阿弥陀仏の浄土に往生したい、そして必ず仏と成り、一切衆生を救おうという崇高な菩提心をおこして種々の善行を修めているんですか? それに今まで修めた善行は、阿弥陀仏が多くの聖衆を伴って来迎して下さるほど価値が高い代物ですか?
このように、19願の実践というのは口で言うほど容易いことではありません。というかこの末法の世において、在家の生活をしている煩悩具足の我々が行えるような行ではないのです。「菩薩道を作す」者が19願の対機であって、自己中心的な想念に支配され、愛欲と憎悪にまみれた我々には到底不可能な行なのです。菩提心をおこして菩薩道を歩める優れた善人が生涯修め続ける行、それが19願の行というものです。
更に、そうやって生涯懸命に19願の行に努め励んでも、臨終に阿弥陀仏の来迎がなければ往生できません。行自体大変厳しいことに加えて、臨終に往生が決まり、それまで往生できるかどうか不確定なのが19願です。また、往生できたとしても「辺地・胎生・懈慢界」の往生であって、報土往生ではありません。そのように19願をご覧になり、これは自力諸行往生を誓われた願だと教えられたのが親鸞聖人であり覚如上人でした。
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
(中略)
定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。(『末灯鈔』1通)
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終まつこと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。これすなはち第十八の願のこころなり。臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願のこころなり。(『執持鈔』(1))
読めばお判りのように、19願について説明されているものの、18願と比較する形で教えられ、その上で18願のみを勧められています。19願を実践せよとか、実践していった先に18願の救いがあるなどとは一言も教えられていません。19願を実践していった先は臨終来迎、化土往生です。平生業成、報土往生を誓われた18願とは行も、信(菩提心)も、往生の定まる時期も、証も全く異なります。18願と19願の関係を比較すれば、
18願
行ー往相回向の念仏(他力念仏)
信ー本願力回向の信心(他力の菩提心)
往生の定まる時期ー平生(至心信楽帰命の一念)
証ー報土往生
19願
行ー自力諸善
信ー自力の信心(自力の菩提心)
往生の定まる時期ー臨終
証ー化土往生(来迎があって)
となります。18願と19願では他力回向と自力発願でベクトルも180°違う上、行から証果から全て異なります。平生に往生が定まり、報土往生する18願の救いを求め、どうして化土往生の業因を積まねばならないのか。親鸞会の理論は理解不能です。19願を実践していくと20願へ進みますよ、18願の救いに近づきますよという教えがあり、実践しなさいと勧められた根拠でもあれば話は別ですが、そんな教えも根拠も全く無いのです。
そういえば20願についての記述は?
にも書きましたが、19願の実践の先について教義の対比は以下の通りです。
○19願を実践していくとどうなるか
親鸞聖人 (臨終に来迎があれば)辺地・胎生・懈慢界の往生。20願へ進むという説示は無い
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長 善のカケラもできない自己が知らされて、20願へ進む
19願を実践せよと勧める知識方も無ければ、実践していけば20願へ進むと教えられたお言葉もありません。親鸞聖人自身、高僧知識方の教えによって「19願を出た」とこそ仰せられたものの、「19願に入った」とは仰っていません。
ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。(「化身土文類」真門決釈)
先ほどの飛雲さんの記事にある通り、善知識方も妙好人も、どなたも19願を勧められていません。そのことを踏まえてこのお言葉を普通に読めば、善知識方の教えは「19願を出なさい」という教えだと判るでしょう。その仰せに順って聖人はその通り「19願を出た」のです。それをどう解釈すれば我々に19願の実践が必要だということになるのでしょうか。親鸞会の理論は悪意と詭弁と誤魔化しに満ちています。加えて、
それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。(「化身土文類」真門釈)
これがどうして19願を勧めた根拠になるのか理解不能です。20願を勧められているから19願を勧められていると訳の分からないことを言っています。もし善知識方の歩まれた道を通らねばならないとしたら、聖道門の修行から始めなければならないでしょう。あるいは曇鸞大師のように仙人の教えから始めなければならないかも知れません。勿論その必要は無いです。70年に及ぶ布教人生の中で、会長の口から19願を実践してきたと語られないことが何よりの証拠です。
ちょっと考えてみて下さい。高森会長は特攻隊を志願して16歳の頃は軍隊にいました。それから戦争が終わって、彼は18歳で信心決定したと言っています。そのたった2年間の間、いつどれだけの19願の善を成したのか。それで信仰が進んで18願の世界に転入できるというなら、会員の皆さんはとっくにしているはずです。なのに、一向に真仮を知らず、如来広大の恩徳を迷失しているのは一体どういうわけでしょうか?
それさえ、「先生は宿善の厚い人だったからだ」とか理由をつけておさめてしまうつもりですか、会員の皆さん。あるいは「軍隊で無常と罪悪に満ちた厳しい現実世界を見せつけられたからだ」とか? なら我々は軍隊から始めなければなりませんよ。
・親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がない
・19願を実践していくと20願へ進むと教えられたお言葉もない
・高森会長自身、19願を通ってきたと告白していない
このように親鸞会流「三願転入の教え」は完全に破綻しています。その破綻した邪偽の教えにいつまでも付き合わなければならない愉快な仲間達は哀れ哀れです。
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