真実の願と方便の願(1)ー法義の根本、因本の願、四十八願、生因三願、三願転入

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第一章 阿弥陀仏の本願
 第一節 真実の願と方便の願

 浄土真宗の法義の根本は阿弥陀仏の第十八願にある。ゆえに、親鸞聖人は『教行信証』の「信文類」において「この大願を選択本願と名づく」(二一一)と示され、「御消息」には「選択本願は浄土真宗なり」(七三七)と述べられている。
 本願には、もともと因本の誓願という意味で、菩薩が仏になるためにおこす願である。これには薬師如来の十二願、釈迦如来の五百願等があり、阿弥陀如来は四十八願をおこされている。この四十八願は、大きく分けて、(一)摂法身の願(自分の理想とする仏身に関する願い)、(二)摂浄土の願(自分の理想とする浄土に関する願い)、(三)摂衆生の願(衆生を救済することに関する願い)の三つに分けられ、摂衆生の願の中、衆生が浄土に往生する因について誓われてあるのは、第十八、第十九、第二十の三願である。親鸞聖人は、このうち第十八願を真実の願、第十九・第二十願を方便の願とみられた。第十八願は他力念仏によって阿弥陀仏の浄土に往生せしめんとする願であり、第十九・第二十願はそれぞれ、自力諸行の行者、自力念仏の行者を往生せしめんとする願である。親鸞聖人は、第十八願が阿弥陀仏の本意であって、第十九・第二十願は本意ではなく、他力の教えを直ちに信じられない未熟な人々に対して、仮にしばらく浄土往生の教えに誘い引き入れるためのものであると見られている。すなわち、このような方便の願は、暫く用いて還って廃せられるものである。また、この第十九・第二十願による往生は化土往生であって、第十八願による真実報土(※1)への往生とは異なっていると見られている。
 親鸞聖人は、この三願について、第十九願より第二十願へ、第二十願より第十八願へという、いわゆる三願転入の表白をされている(「化身土文類」四一二)。これを、聖人の実際の体験とみるか否かについては、異論のあるところであるが、たとえこれを聖人の求道の過程と見ても、まず第十九願より入れという意味ではなく、第十九・第二十願は捨て去られるべきものであり、第十八願のみに依れという意味ととるべきである。また、第十八願の中に身をおいてみると、ずっと以前より阿弥陀仏の大悲の中にあったという感謝の念をあらわされたものと見るべきであろう。

(一~三頁)



(※1)真実報土…阿弥陀仏の本願にむくいた真実の浄土。行者の自力の心に応じてかりに設けられた方便化土に対する言葉。
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真実の願と方便の願(2)ー根本の願

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第一章 阿弥陀仏の本願
 第一節 真実の願と方便の願

(つづき)
 第十八願は、衆生救済のためにとくに選びとられた根本の誓願であるという意味で選択本願といわれる。この第十八願の文は、

 設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法。
 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(十八)
 (もし、わたしが仏になるとき、あらゆる人々が心から(至心)信じ喜び(信楽)、往生安堵の想いより(欲生)、少なくとも十声念仏(※1)して(乃至十念)、そしてわたしの国に生れることができぬようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただ、五逆の罪を犯したり、正法を謗ったりするものだけは除かれます)


というのである。ここでは、信(至心・信楽・欲生)と行(念仏)とが誓われてあって、法然上人はこの第十八願を「念仏往生の願」といわれる。親鸞聖人もそれを承けて「念仏往生の願」(二一一)といわれるが、「信文類」の標挙(※2)には「至心信楽の願」(二一〇)と掲げられている。「念仏往生の願」というのは諸行の法(※3)に対して第十八願の法を念仏の行で示されるのであり、「至心信楽の願」というのは第十九願(諸行往生の法)第二十願(自力念仏の法)に対して他力の信心を要とする旨を示されるのである。

(三~四頁)



(※1)十声念仏…「十念」の「念」という字はもともと「心におもう」という意味であるが、善導大師や法然上人はこれを称名と明示され、親鸞聖人もこれを承けておられる。「十」とは数字であるから、十念とは、十声の称名念仏という意味になる。しかし、十念には乃至の語が付けられてあり、必ず十声に限るということではない。詳しくは後述。
(※2)標挙  …『教行信証』の各巻の内題(表紙にあるものを外題、本文の前にあるものを内題という)の前に掲げられた文。「教文類」では『大経』が示され、行・信・証・真仏土、化身土の各巻には、それぞれが成立する根拠としての願の名前が掲げられている。
(※3)諸行の法…称名念仏以外の行法。

第十七願と第十八願との関係

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第一章 阿弥陀仏の本願
 第二節 第十七願と第十八願との関係

 前節で述べた第十八願の法を私たちに説き示すことを誓われたのが第十七願で、これを諸仏称名の願と名づけられる。第十七願の文は、

 設我得仏、十方世界、無量諸仏、不悉咨嗟、称我名者、不取正覚。
 たといわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。(十八)
 (もし、わたしが仏になるとき、十方世界の数かぎりない諸仏が、ことごとくわたしの名をほめたたえぬようなら、わたしは決してさとりを開きません)


というのである。ここでは、阿弥陀仏の名号を十方の諸仏が称揚讃嘆するということが誓われてある。私たちにとって、諸仏の讃嘆の具体的なすがたは、釈尊によって説かれた『大無量寿経』である。「教文類」には、「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもって経の体とするなり」(一三五)と述べられてある。ここで本願といわれ、また名号といわれてあるが、本願と名号とは別のものではない。本願成就のすがたが名号の活動である。すなわち、阿弥陀仏によって成就された名号は、釈尊によって具体的に私たちに説き開かれる。この釈尊の開説が第十七願成就のすがたである。『阿弥陀経』に、六方の諸仏の証誠護念が説かれてあるのもまた同様である。
 ところで親鸞聖人はこの第十七願を真実行の願とし、第十八願を真実信の願とされる。「行文類」の「正信偈」の前には、

 おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり、その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。(二〇二)

等といわれてある。第十七願には、名号が諸仏にほめたたえられることが誓われてあるが、そのほめられつつある弥陀の名号が真実の行であると示されるのである。「行文類」の標挙に「諸仏称名の願」(一四〇)と掲げられるのはこの意味である。次に真実信の願として「至心信楽の願」を出され、この両願の意を承けて、「これすなはち選択本願の行信なり」といわれている。先に述べたように『教行信証』にあっては選択本願とは第十八願のことであって、第一八願のうえでは乃至十念の称名が行であり、至心・真楽・欲生の三心が信である。これによって、第十八願の乃至十念(称名念仏)と第十七願の名号とは別のものでないことが知られる。このように、阿弥陀仏の名号は諸仏によって称讃せられて、常に衆生の信心となり、称名念仏となって活動している。いいかえると阿弥陀仏の名号は諸仏をして讃嘆せしめて、衆生に信じさせ、称えさせつつあるものである。

(五~七頁)

釈迦と弥陀との関係(1)-仏の三身、二種法身

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第一章 阿弥陀仏の本願
 第三節 釈迦と弥陀との関係

 仏教では、仏身をいろいろに分類するが、親鸞聖人は法・報・応の三身説と、法性・方便の二種法身説を示されている。まず三身の中、法身とは真如法性そのものを仏身とするのであり、報身とは因願に酬報して顕れた仏身であり、応身とは衆生に応じて現れた仏身である。この三身に、さらに種々に変化のすがたを現す化身を加えると四身となる。阿弥陀仏は報身であり、この娑婆世界に出現された釈尊は応身である。親鸞聖人は「和讃」に、

 久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて
 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する(『浄土和讃』五七二)


と讃ぜられ、阿弥陀仏がこの世に出られたのが釈迦仏であると示されている。
 つぎに二種法身の中、法性法身とは、親鸞聖人が、

 法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。(『唯信鈔文意』七〇九)

と示されているように、認識を超え表現を絶し、また思惟すらおよばないものである。
 これに対して方便法身は、

 この一如宝界よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無礙のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無礙光如来となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。(『一念多念証文』六九〇)

と示されている。
 すなわち、法性法身は認識・表現を絶し、衆生との接点を持ちえないから、衆生に知らしめるために、法蔵菩薩の発願・修行、阿弥陀仏の成仏と顕現されたところが、方便法身である。
 この方便法身は、顕現されたものとして衆生と接点を持つが、それをまさしく私たちに説き示すのは十方の諸仏であって、此土においては釈尊である。その釈尊によって阿弥陀仏の本願を説き開かれているのが『大経』であることは前節において述べたところである。(つづく)

釈迦と弥陀との関係(2)-発遣と招喚、出世本懐、三経の隠顕

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第一章 阿弥陀仏の本願
 第三節 釈迦と弥陀との関係

(つづき)
 善導大師の「散善義」には有名な二河白道の譬がある。これは、絶体絶命の窮地に陥った旅人の前に、水火の二河が出現し、その中間に白道を見るが、この時此岸の勧める声、彼岸の喚ぶ声に従い、無事白道を渡りきるという話である。この此岸の勧める声は釈迦の教えに、彼岸の喚ぶ声は弥陀の本願に喩えられている。これを釈迦の発遣、弥陀の招喚というが、釈迦の発遣(教)によって弥陀の招喚(願意)を知らせていただくのである。
 『教行信証』の「教文類」は、真実の教を明らかにする巻である。そこで、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」(一三五)と示され、その真実である所以を、出世本懐をもって証されている。出世本懐とは、釈尊がこの世界に応身として出現された本来の目的を意味する。これを、『浄土文類聚鈔』では、「三世のもろもろの如来、出世のまさしき本意」(四九七)と述べられ、あらゆる仏の出世本懐である旨を明らかにされている。そもそも、仏が世に出現されるのは、衆生救済のためである。その意味で真実の救済法である弥陀の本願を説くことを出世本懐とされるのは当然である。
 親鸞聖人は、三部経について、『大経』は裏も表も無く他力念仏(第十八願)が明らかに説かれたものであって、『観経』(観無量寿経)『小経』(阿弥陀経)は、表面は未熟な人々を誘引するために、それぞれ自力諸行(第十九願)・自力念仏(第二十願)を説きながら、その底には他力念仏という仏の本意が流れていて、それが、所によって表にあらわれていると見られる(これを隠顕という)。すなわち、「教文類」の標挙においては、『大経』を真実の教と示され、「化身土文類」の標挙(三七四)においては、『観経』の意、『小経』の意は、それぞれ第十九・第二十願を明らかにされたものと示しておられるが、三経を通じて釈されるところには、

 三経の真実は、選択本願を宗とするなり。(三九二)

と述べられ、また、『浄土文類聚鈔』にも、

 三経の大綱、隠顕ありといへども、一心を能入とす。(四九六)

と明かされて、三経ともに第十八願が明かされてあるとして、ひとしく尊崇されているのである。

(八~十二頁)

本願文と成就の文-願文と成就文の性格、願文と成就文の対照、機受の全相と極要

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第一章 第四節
本願文と成就の文

 第一節で阿弥陀仏の本願について述べたが、それは法蔵菩薩の因位において発された誓願であって、その本願が実際に成就されていることを説き示されるのは釈迦仏である。本願は法蔵菩薩(阿弥陀仏)の誓願であるが、その成就は釈尊の教説で示されている。これを願成就文、あるいは本願述成の文という。ここで第一節に引用した第十八願を再掲すると、

 設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆、誹謗正法。
 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(十八)


とあり、第十八願成就文は、

 諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転、唯除五逆、誹謗正法。
 あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(四一)
 (すべての人々は、その名号のいわれを聞いて信心歓喜する一念のとき、それは、仏の至心から与えられたものであるから、浄土を願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退の位に入るのである。ただ、五逆の罪を犯したり、正法を謗ったりするものだけは除かれる)


とある。願文では「わが国」といわれ、成就文では「かの国」といわれているのは、願文が阿弥陀仏(=法蔵菩薩)ご自身の誓いとして示されるのであり、成就文が釈尊の教説であることをよく表している。
 そこで、願文と成就文とを対照してみると、次のようである。
 願文では第十七願の諸仏称讃の名号を承けて、信心と称名が説かれてあるが、その信心とはなにを信じるのかが第十八願文の上には示されていない。ところが、成就文では「その名号を聞いて」とこれを明らかにされている。
 願文には、信心(三心)と称名(乃至十念)とが誓われてあるが、成就文では信のみ説かれて行(称名)は説かれていない。
 「乃至」の語は一生涯の相続を省略された語であるが、その相続を願文では三心のあとに「乃至十念」と出され、成就文では信楽に相当する信心歓喜につけて「乃至一念」と示されている。
 願文には至心・信楽・欲生と衆生の三心が誓われているが、成就文では「信心歓喜乃至一念」と信楽一心におさめ、「至心廻向」は仏の側につけて「仏の至心から与えられたもの」とされている。
 これらについては後に詳しく述べるが、要するに、名号は、衆生の信(三心)となり行(称名)となり、そして命終時には真実報土の往生の果を得させることをあらわすのが願文である。そして、その名号が衆生に至り届いた(信心開発)のとき、報土に往生すべき身に定まる旨をあらわしているのが成就文である。ゆえに、願文は、名号が衆生の上にはたらいているすべてのすがた(機受の全相)をあらわし、成就文は、名号がまさに衆生に至り届いて往生が決定するところ(機受の極要)をあらわしたものであると、聖人は見られるのである。
 このように願文と成就文を対照することによって、阿弥陀仏の救済の法がいよいよ明らかになるのである。

(十二~十六頁)

願行具足についてー善導の六字釈、宗祖の六字釈、善導と宗祖

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第二章 名号のいわれ
 第一節 願行具足について

善導大師は、『観経疏』(玄義分)に、

言南無者、即是帰命、亦是発願回向之義。言阿弥陀仏者、即是其行。以斯義故、必得往生。
 南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。(「行文類」引用、一六九)

 (「南無」というのは、すなわちこれ帰命であり、またこれには発願回向の意味もある。「阿弥陀仏」というのは、すなわちその行である。こういうわけがあるから、かならず往生することができる)

と、南無阿弥陀仏の六字について解釈されている。ここでは、南無阿弥陀仏の六字のうち、「南無」の二字が願、すなわち阿弥陀仏の浄土に往生したいという願い、「阿弥陀仏」の四字が行、すなわち阿弥陀仏の浄土に向かって進む力であって、南無阿弥陀仏の六字に願も行も具わっているので、かならず往生することができるというものである。
 親鸞聖人はこれを承けて、「行文類」に、

 爾者、南無之言帰命。……是以、帰命者本願招喚之勅命也。言発願回向者、如来已発願回施衆生行之心也。言即是其行者、即選択本願是也。言必得往生者、彰獲至不退位也。
 しかれば南無の言は帰命なり。……ここをもって帰命は本願招喚の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。(一七〇)

 (そこで、「南無」の言葉は帰命と訳される。……こういうわけで「帰命」とは、如来が信ぜよとわれを招き喚びたもう仰せである。「発願回向」というのは、如来が因位の時に誓願をおこされて、今日われらの往生の行を与えてくださる大悲心である。「即是其行」というのは、如来の与えたもう功徳すなわち名号であって、本願の行者の上に相続の称名となってあらわれているものである。「必得往生」とは、この世で不退の位に至ることをあらわすのである)

と示される。
 ここでは名号を「帰命」「発願回向」「即是其行」の三義で解釈されている。このうち「即是其行」とは、衆生を浄土に往生せしめる力すなわち仏の智慧心をいい、「発願回向」とは、その力を衆生に施したいという願いすなわち仏の大悲心をいい、「帰命」とは、その願いと力が衆生に対して「帰せよ」と呼びかけつつあるすがたをとっていることをいう。この「帰命」「発願回向」「即是其行」のそれぞれは、六字全体についての解釈であって、衆生救済の悲智願行がすべて如来の側に成就され、現に衆生にはたらきかけていることをあらわしている。
 親鸞聖人はまた『尊号真像銘文』に南無阿弥陀仏の六字の解釈をされて、

 「言南無者」といふは、すなはち帰命と申すみことばなり、帰命はすなはち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひて召しにかなふと申すことばなり、このゆゑに「即是帰命」とのたまへり。「亦是発願回向之義」といふは、二尊の召しにしたがうて安楽浄土に生れんとねがふこころなりとのたまへるなり。「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。(六五六)

と述べられている。「行文類」の六字釈では、名号そのものについて阿弥陀仏の救済のはたらきを示されているのに対して、この『銘文』の六字釈は、その救済が私たちの上にはたらいているすがたで示されるものである。
 先の善導大師の六字釈と宗祖の六字釈とを比べてみると、善導大師の六字釈は、二字と四字に分けて解釈したものであって、またもともと念仏一つでは阿弥陀仏の浄土に往生できないという他師の解釈に対して、必ず往生できるということを明らかにされるためにうち出されたもの、すなわち対外的なものであり、宗祖の六字釈は六字全体の解釈であって、南無阿弥陀仏の名号の内容本質をあらわしたものである。これによって、阿弥陀仏の名号に、衆生を浄土に往生せしめるはたらきがすべて具わっていることを明らかにされるのである。

(一七~二一頁)

機法一体についてー行信不二、蓮師の機法一体、願行具足と機法一体

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第二章 名号のいわれ
 第二節 機法一体について

 本願の信心は名号に対しておこされる信心である。ここで信心と名号との関係を考えてみると、信ぜられるものが名号であって、その名号を信じるということが信心である。しかし、信心と名号の関係はこれだけでは十分表現されていない。名号は衆生に対して帰せよと呼びかけつつある法であることは、すでに前節で述べた。その名号のはたらきが衆生の心に届いて領解されたのが信心である。それゆえに、「信文類」には、本願の三心のうち至心について、

 この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(二三二)

とある。三心は別々に存在するのではないから、至心の体が名号であるというのは、信心の本質は名号であることを示すのである。また、「信文類」の冒頭には、

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。(二一一)

といわれ、『一念多念証文』には、本願成就文を解釈されて、

 「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。(六七八)

等といわれる。これらの文は、私たちの信心も名号のはたらきによっておこさしめられるものであって、阿弥陀仏の名号のほかに、別に衆生の信心があるのではない旨を示している。これを行信不二という。
 蓮如上人は『御文章』(四帖目第十四通)に、

 まづ「南無」といふ二字は、すなはち帰命といふこころなり。「帰命」といふは、衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。また「発願回向」といふは、たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。これすなはちやがて「阿弥陀仏」の四字のこころなり。……このゆゑに南無の二字は衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。また阿弥陀仏の四字はたのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。(一一八六)

といわれている。これは、南無阿弥陀仏の六字を二字と四字に分けて解釈し、「南無」は衆生の弥陀をたのむ信心(機)であり、「阿弥陀仏」は衆生をたすくる力(法)とされ、この機法が一体に成就されているのが南無阿弥陀仏の名号であると示されたものである。機とはもともと、法を被る者という意味で、衆生を指す言葉であるが、信心は衆生の上におこさしめられるものであるから、ここでは信心のことを機というのである。したがって、蓮如上人が機法一体といわれるのは、衆生の信心も名号のほかにはなく、名号が衆生の心に届いたのを信心というという意味で、行信が不二であることを示されるのである。
 なお、ここでは南無の二字をたのむ機、阿弥陀仏の四字をたすくる法と、分けて解釈されているが、同じく『御文章』に、

 さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。(六字すべてが機、三帖目第二通、一一三七)
 南無阿弥陀仏の体は、われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。(六字すべてが法、一帖目第十五通、一一〇六)


といわれるように、六字全体が衆生の信心となり、また六字全体が阿弥陀仏の衆生救済のはたらきであることを示されている。
 前節では、願行具足・悲智円具の義を述べ、今節では行信不二・機法一体の義を述べた。いずれも名号の本質をあらわすものである。それぞれの意義をいえば、先の願行具足は、衆生救済の願いも力もすべて、名号に備わっていることを示すものであり、機法一体は、その名号が衆生の上にはたらいて私たちの信心となる旨を明らかにするものである。

(二一~二五頁)

本願の信心(1)ー三心・一心、三重出体

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第三章 真宗の信心
 第一節 本願の信心

 第一章第四節において述べたように第十八願文には至心・信楽・欲生と三心が誓われ、その成就文では信心歓喜(信楽)の一心で示されている。そして天親菩薩は『願生偈』の冒頭に「一心」(一四四五)と表白されてある。親鸞聖人はこの三心と一心について問答を設けて詳しく解釈されるのであるが(これを三一問答という)、その結論をいえば、至心・信楽・欲生の三心は信楽一心におさまり、その一心が往生成仏の正因であると示されるのである。
 本願の三心は衆生の上におこす三心であるが、この三心は阿弥陀仏によっておこさしめられる三心である。そこで聖人は機無・円成・回施・成一というふうにこれを解釈されてある。衆生の上には本来こういう心は無いというのが機無であり、だからこそ仏の側で成就されたというのが円成であり、仏の成就された心を私たちに施与してくださるというのが回施であり、それによって私の上に信楽一心が成するというのが成一である。これが他力回向の信心である。三心の一々について略示すると、至心とは真実心である。私たちの上には真実清浄の心はなく、如来の清浄真実が衆生の上に具したのが衆生の上で語る至心である。信楽とは無疑愛楽の意で、阿弥陀仏の救済に対して疑いをまじえない心相である。疑いとは阿弥陀仏の救済に心を閉ざすことであるから、これを蓋にたとえて聖人は疑蓋無雑といわれる。欲生とは当来には必ず浄土に往生できるという想いである。この三心について、「信文類」には三重出体ということが示されてある。
 まず至心釈には、

 この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。(二三二)

と、本願の至心の体は仏の名号であると示されてある。これを生仏相望の出体といわれる。衆生の信心は仏の名号を領受したもので、名号のほかに衆生の信心はない旨を明らかにされるのである。
 次に信楽釈には、

 すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(二三五)

と、信楽の体は他力回向の至心であると示されてある。これを体相相望の出体といわれる。至心は信楽の体であり、信楽が至心の相である旨を明らかにされるのである。
 次に欲生釈には、

 すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。(二四一)

と、欲生心の体は信楽であると示されてある。これは体義相望の出体といわれる。往生安堵の想いは信楽の義別であって、欲生心の体は信楽である旨を明らかにされるのである。この場合、信楽も欲生も衆生の心相であるが、名号を心に領受した心相を示すのは信楽であって、その信楽のところに、まちがいなく浄土に往生させていただくという義があることを示すのである。
 以上、三重出体の釈によって、至心は信楽の体であり、欲生は信楽に具する義であって、名号を領受した心相をいえば信楽一心にほかはないことが知られる。
 この信楽一心には名号の全徳すなわち阿弥陀仏の智慧と慈悲とを円かに具しているから往生成仏の正因となる。この一心正因の義を更に明らかにされるのが「信文類」の菩提心釈と信一念釈である。(つづく)



生仏相望…衆生と仏とを対応して見ること。
体相相望…体(本質)と相(すがた)とを対応して見ること。
体義相望…心相の上で体(本質)と義(いわれ)とを対応して見ること。
義別…信楽にもともとそなわっている義(いわれ)を別に開いたということ。

本願の信心(2)ー菩提心、信一念

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)より引用

第三章 真宗の信心
 第一節 本願の信心

(つづき)
 菩提心というのは悟りを求める心であって、これをひらけば願作仏心(自らが仏になろうと願う心=自利)と、度衆生心(他の人びとを救おうとする心=利他)とになる。親鸞聖人は菩提心釈(二四六)において、自力と他力の二種の菩提心があることを示されている。自力の菩提心とは、勝れた能力を持つ菩薩方が悟りを求めて発す勇猛な心であって、私たちには到底発すことができない心である。これを『正像末和讃』には、

 自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず
 常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき(六〇三)


とうたわれてある。また、私たちは、たといこの菩提心を発すことができたとしてもそれによって修行を積むことが不可能である。すなわち先の「ご和讃」に続いて、

 三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき
 大菩提心おこせども 自力かなはで流転せり(六〇三)


とうたわれてある。この自力の菩提心に対して、如来回向の信心は菩提(悟り)を開くべき自利利他、智慧慈悲の徳が円かに具わっているので他力の菩提心といわれる。
 次に、そのような信心であるから、信心開発の即時に往生成仏の因が決定すると示されるのが、信一念釈である。これは、第十八願成就文によって信の一念をあらわされるもので、

 夫案真実信楽、信楽有一念。一念者、斯顕信楽開発時剋之極促、彰広大難思慶心也。
 それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(二五〇)


と示されている。成就文の「乃至」とは一生涯の相続を省略する言葉であり、「一念」とは信初発の時を指す。これによって、信初発のとき「即得往生住不退転」の益を得る旨を明らかにされるのである。成就文の「即得往生」の「即」について、「行文類」には、

 「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。(一七〇)

とあり、これを今の信一念釈と照らし合わせてみると、信心がおこった最初の時は、また浄土往生が決定する時であるということになる。それゆえ浄土往生の因はただ信心のみであり、その他のものは往生の因決定についてなにも関与しないことがいよいよ明らかである。この信心は先に述べたように一点の疑いもまじわらない疑蓋無雑の信楽一心であり、また後に、

 言一念者、信心二心故曰一念、是名一心。一心則清浄報土真因也。
 「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。(二五一)


と、「一念」を心相について解釈され、信楽一心が往生成仏の真実の因であることを重ねて明らかにされている。
 また「乃至」の言葉は、一生涯の相続を省略した言葉であるから、この信楽一心は生涯相続するものであって、相続の称名はこの中に含まれるのであり、これを「真実信心必具名号」(後出)というのである。

(二六~三二頁)
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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