はじめに

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用


はじめに

 阿弥陀如来様は、南無阿弥陀仏で、この私を、お浄土へ参らせて下さいますのです。
 つまり、南無阿弥陀仏のお喚び声の、「たすけるぞ」を、すなおに、頂きましたのです。それが信心であります。そのとき、阿弥陀様のお功徳を全領いたしますから、私は、たすけられまして、お浄土へ参らせて頂くことになったのであります。
 私は、かならず、きっと、お浄土へ参らせていただきます。
 その後は、「参らせてもらいます」と思うて、称名相続をさせて頂きます。ありがたいことであります。

(p.1)



ここに真宗のすべてが言い表されているように思います。信心とは、如来の御誓い、すなわち「たすけるぞ」を聞くことです。何かハッキリした体験を信心というのではありません。
「たすけるぞ」を聞く時、私の「ハッキリなりたい」「安心したい」「助かりたい」の計らい心は取り去られ、如来の光明に摂取されるのです。如来のお慈悲に包まれるのです。いや、今までずっと如来のお慈悲の只中にあったことに気付かされるといった方が適切でしょうか。このような愚か者を見捨てずに救おうとかかり果てておられた如来様へのかたじけなさ、そのお慈悲を今まで信じなかったことの愚かさ。真宗の教えを聴聞させて頂くと、色々と知らされることが出て参ります。
これから、加茂仰順師『浄土真宗 信心』を引きつつ、時に私の感想も交えて綴っていきたいと思います。
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今は光をながめてのみ進むのではありません。光を受けてゆくのです。遠いのぞみにあこがれて走るのではありません。今のわが手に、幸せの花輪をささげてゆくのです。

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  一 信心とは、どういうことか

 <浄土に生るべき因の御名を、このままの私に与えて下さる。>

  一

 自分は、このいのちのけがれを知りつつ、これを清めることができません。胸の飢えをかかえて、永遠の旅路に出かけねばなりません。
 弥陀ひとり、永劫の御心をつくし、その御名を受けやすく示して、私にふりむけられています。
 このままの救いぞと、このまま参らせてもらうとて、お慈悲をながめていてはなりません。
 これこそ、そなたにおくるわが心ぞと、仰せられてあります。その御名をはやく頂いてくれよとて、近く近く差し寄せて下されてあります。この「受けよ」「頂いてくれよ」の仰せに対して、「受けさえすればよい」「頂けばよい」などと打算的に思うてもおられません。私の思う心をそえようと計らうことはできません。「ただ受けよ」と、差し寄せたもうそのままに、この御廻向の御名をそのままいただくばかりであります。弥陀一人、永劫の御心をつくし、受けやすく示して、私にふりむけられます。永劫の大悲は、このときはじめて私に降らせ給うのであります。私が救われるのは、まさしくこのときであります。
 今は光をながめてのみ進むのではありません。光を受けてゆくのです。遠いのぞみにあこがれて走るのではありません。今のわが手に、幸せの花輪をささげてゆくのです。
 わざわいの雨の下に、涙の谷の底に、私はただこの御廻向の御名を受けてゆくのです。ここにはじめて、私は念仏往生の旅人であります。
 私の道はご開山様の歩まれた道であります。そのお導きによってのみ、仏の心をお受けする道であります。
  往くは春の日  そよ風うけて
  鼻歌まじりの  西の旅
  菜の花の香り  胸一ぱいに吸うて
  すいすいと   流れ進む 夕焼空の
  雲の下。


(p.3~p.5)


これまで「光に向かって進ませて頂きます」とどれだけ言ったり書いたりしたか。また、周囲の人間が言ったり書いたりしているのをどれだけ見聞きしたか分かりません。自分も周りも、「絶対の幸福」という遠いのぞみにあこがれて走っていた気がします。
ところが浄土真宗とはそのような教えではありません。私が救いを求めて阿弥陀さまに向かって進んでいくという教えではありません。既に阿弥陀さまの方から私へ向けて差し寄せられている南無阿弥陀仏の御名を、そのままお受けする教えです。私は、阿弥陀さまが一人、永劫の御心を尽して、近く近く差し寄せ給う御廻向の御名を、そのままお受けするばかりです。
今、ここで、この私が救われます。「助けるぞ」を聞くのみです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

「安心してこの御名を受けてくれよ」「この名一つが、正定業である」と呼ばわせ給う本願の思召

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  一 信心とは、どういうことか

 <浄土に生るべき因の御名を、このままの私に与えて下さる。>

  二

 御開山様は、念仏の身となられました。念仏往生の本願を宣べさせ給いました。
 聴聞こそは信の道であります。
 すなおに、満足に、本願の教えを聞くことによってのみ、如来のお心が受けられます。
 私たちは、自分の認める真実を捨てて、受けねばなりません。
 道はわが業報の道より外はないと、なさけないことを言うべきではありません。この苦悩の中になにものにもおかされない本願の一道のあたえられることを忘れてはなりません。
 その本願は私の心の中に動いてくる願心であると、こぢつけてはなりません。
 私が何を味わおうと、何を思おうと、私はどうにもなりません。
 ただ、わが名を受けよとの本願のお心が聞こえて下されるほかはなにものもありません。「わが名を受けよ」とのお心を、私はとりちがえておりました。
 受けよと仰せられるから、受けることが大切である。受けねばならない。受ければよいのだ。受ける一つが救われる道であると思っていました。
 これは信を主とすべきを行を主としていたのです。お受けするばかりで助けると仰せられるお手元を仰がねばなりません。
 しかしまた、お手元というところに力を入れて、何となくお受けする外にお慈悲があるように思うておりました。
 そして信とは、単にお慈悲を喜ぶのであって、念仏は信にはかかわりなく、ただ後念のお礼とのみ片づけて、或は修養の一つの方法と思い、或は信を頂くについての単なる手だてであると思っていました。信心、念仏の外に、お慈悲があるのではありません。
 いま、本願の仰せをいただいてみれば、そのおことばがちがうのではなく、その思召がまったく変ってまいりました。
 如来みずから、衆生よと私を呼びあげて、このわが名、名号を受けよと仰せられるのは、まったく闇の底にもだえねばならない私に、その御名を差しつけて下さるのでありました。私は罪をおそれ、死をおそれ、飢えた胸をかかえて、久遠の闇に突き当ってどうすることもできません。出来ないが捨てておけません。
 ここをあわれんでいて下さると言うても、わが苦は除かれません。ただ呼んでいて下さるというても、わがなやみは去りません。
 それゆえに、如来はそのおまことを私に加えられまして、私を弥陀と同じさとりにあがらせたいと思召されて、そのおまことをしぼりあげて、私に受けやすいように、その御名を成就され、私のいのちとして私にぢきぢきに差し寄せて、どうぞ、あれやこれと心配をやめて、心おきなく、このわが名を受けてくれよ。そなたの、あさましさ、愚かさ、かよわさを見抜いて、これをそなたに与えるから、安心してこの御名を受けてくれよ。この名一つが、正定業であると、呼ばわせ給うのが本願の思召でありました。ひとえに「わが名」を受けよとの思召であります。「受けよ」とは「あたえるぞよ」とのおこころであります。つまり、「わが名を受けよ」とは、わが名をそなたに与えるぞとのおこころでありました。
 三信十念の御心。「この御名を」受けよとの仰せそのままが、御廻向の思召であります。この御廻向というは、いろいろのものを与え給うのではなく、唯一つであります。つまり永劫の幸せのたねとなって下さる如来の御名一つを下されることであります。
 このやるせない親心を、三信十念に示させられて、このこわい病気をかかえながら、しかも薬をきらってにげる愚かな子を追いかけて、一つぶでもよいから飲んでくれと、差しつけて、呼びさけぶように、これを受けてくれと、十劫以来絶え間なく呼びかけて下されてある思召を聞いて、どうしてこれを受けずにおられましょうか。
 私は胸がはっきりせぬとか、わが心がしっかりせぬとか言うてはおられません。受けねばならぬとか、受けさえすればよいとか言うてはおられません。
 わが心が、わが胸がと、言うているのは、まだ本願を聞いてないのです。
 受けねばならない、受ければよいというのは、自分が裁き手となって、よい、悪いをさばいているのです。
 とにかく、受ける受けないにかかわらず、このままでよいのだというのは、まったく本願を踏みにじっているのです。驕慢の絶頂です。
 この罪にまみれ、飢えに悩んで、永劫の闇にすべりこまねばならぬ私を目がけて、その御名一つを差しつけて、たのむように、受けてくれよと、御廻向下されることに眼がさめたとき、いまはただただ仰せのままに頂くのであります。

(p.5~p.10)



 私も、念仏は後念のお礼とのみ片づけていました。また、とにかく信心が大事であり、念仏は信心とは関係ないように思っておりました。
 信心が大事なのはその通りですが、要は何を信じるかです。そこが分からなければ信心が大事、信心が大事と言っていても片手落ちというものです。今はその信心ということについて、蓮如上人に伺ってみます。

 信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(御文章五帖目五通)

 信心獲得するとは、三信十念の御心である第十八の願を心得ることであり、それはすなわち「わが名を受けよ」「たすけるぞよ」という南無阿弥陀仏のすがたを心得ることです。そのことを加茂師は詳しく、分かりやすく教えられています。この私一人を目がけて、永劫の昔から呼びかけて下さっていたのです。私は、その力強い仰せ(南無阿弥陀仏)を、仰せのままに聞くばかりです。それが信心です。信心とは、念仏の信心なのです。念仏を計らいなく聞き受けたのが信心です。南無阿弥陀仏が信心の体であると言われるのはそのためです。
 聴聞こそが信の道です。すなおに、満足に、本願の教えを聞くことによってのみ、如来のお心が受けられます。
 なお、信の道といいましても、「よーいドン」とスタートして、段々と救いへと進んでいって、そしてゴールというものではありません。聴聞や何かの積み重ねをしていくことによって、やがて信が獲られるというものではありません。このように考えている人も、やはり信を主とすべきを行を主としていると言えるでしょう。
 真宗は本願力回向、他力回向の教えですから、私がどこかへ向かって進んでいく教えとは違います。それは自力回向の教えです。私は、既に成就され、近く近く差しつけられている如来の御名を今ここでお受けするばかり。だから今救われるのであり、ここで救われるのであり、このままの私が救われるのです。南無阿弥陀仏の御名を帰命尽十方無礙光如来ともお呼びするのはそのためです。あとはかたじけなやとお念仏を申して、御国の旅路を歩む念仏者として生きてゆくのです。そのような御同行・御同朋が一人でも多く現れて頂けたら・・・、そう思っています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

如来は私の求めるものを与えたまわず、その御本意によって成就されたおまことの御名をさづけて、私の幸せを与えたもうのです

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  一 信心とは、どういうことか

 <浄土に生るべき因の御名を、このままの私に与えて下さる。>

  三

 私の思いをそえてではない。私の思いをのけてではない。このままでよいと、自分を許してではない。このままでは悪いと、自分を責めてではない。ただ下さるままに、お与えの御名をお受けする。久遠の大悲はここにはじめて、私に流れ入って下さいます。
 如来は一切計らうのではない。
 御名を受けて、はじめて、すべての計らいがないのであります。
 摂取不捨の誓いは、地獄ゆきのこの身に加えて下さるのではありません。ただこの御廻向の名号を頂いた者をみそなわして、これにくわえて下さるのであります。
 如来はその広大なるお慈悲を、この狭い道を以って、行わせられてあることを忘れております。
 ここにものすごく渇いた者がいるとします。酒でも、油でも、パンや肉でも救われません。ただ水のみであります。酒をくれ、油をくれ、パンをくれ、肉をくれと言い、このままで受けることなく、この苦しみを助けてくれという者があっても、それを許すことはできません。救いは水のみであります。また水なら誰でも受けることができます。このゆえに、救うものはただ水ですから、この水を与えるのです。
 自力作善の酒や油は、死の道です。また容易に受けられません。このままでも飢えの道です。求めるものが酒や油を求めても、どうしてそれが与えられましょう。如来は私の求めるものを与えたまわず、その御本意によって成就されたおまことの御名をさづけて、私の幸せを与えたもうのです。

(p.10~p.11)




如来は私の求めるものを与えたまいません。例えば、私は本願を信じ念仏するまでは、信心獲得したら常に満ち溢れる喜び、安心、満足が獲られると思い、それを求めていました。私の願いは、とにかくこの世を喜び、安心して、満足して生きたい、教えられる絶対の幸福というものになってみたい、今まで聞き求めてきたものを獲たい、ハッキリするというからハッキリしたい、後生は地獄というからそこから逃れたい、自業苦から地獄への綱渡りはイヤだ、というようなものでした。
でも、それって結局、「私の欲」ですよね。私の欲を阿弥陀様に押しつけて、叶えてほしい、叶えてほしい、どうして叶えて下さらないのか、ともがいていたのです。阿弥陀様は私の願いを聞いて叶えて下さる神様ではなく、私にまことの幸せを下さる親様だとは、ついこの前までは知りませんでした。阿弥陀様に私の願いを聞いて頂くのではなく、阿弥陀様の願いを私が聞いて、阿弥陀様の願い通りの身となる、これがまことの幸せだとは分かりませんでした。考え方が逆さまでした。そしてその逆さまな考えこそ正しいと信じ切っていました。
よく、「どうして助からないのか?」「どうしたら助かるのか?」と質問なさる方があります。自分もそうだったのでそう問う気持ちはよく分かります。真宗の教えを聞き、「助かりたい」と思っているなら当然出てくる疑問です。これは、自分の「助かりたい」という願いが先行して、阿弥陀様の「助けるぞよ」という願いをそっちのけにしているのです。そして、『自分の「助かりたい」という願い』とは言わば酒や油、『阿弥陀様の「助けるぞよ」という願い』とは言わば水で、自分の欲するものと阿弥陀様が与えんとしているものが異なるためにすれ違いが生じているのです。
ただ、自分のそうした計らいは自分で捨てることはできません。如来の願いを聞く所に、計らいが取れるのです。聴聞こそは信の道です。今、この場で、このままの私が如来に摂取され、決して捨てられません。如来の切なる願いを聞き受け、念仏される方がもっと現れて頂きたいと思います。

この世界にあって永劫の大事がきめられて、久遠の重荷をおろすときが、親様の重荷をおろされたときであります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  一 信心とは、どういうことか

 <浄土に生るべき因の御名を、このままの私に与えて下さる。>

  四

 如来は広大なお慈悲をすぼめて、小さな御名として、私に打ちこんで下さいます。
 この御名は、仏心の全現であります。これを頂いたときが、功徳成就の時です。このときは、如来の大悲成就の時です。この世界にあって永劫の大事がきめられて、久遠の重荷をおろすときが、親様の重荷をおろされたときであります。このことを思えば勿体ないきわみであります。如来はおまことの御名を与えて、私の幸せを与えたもうのであります。

(p.11~p.12)



仏様とは、私の苦しみを御自分の苦しみと見られる御方です。阿弥陀様の重荷とは、私が迷い苦しんでいることです。その私におまことの御名を与えて、久遠の重荷がおりたときが、阿弥陀様が重荷をおろされたときです。
十方衆生と誓われていても、阿弥陀様と私は1対1。阿弥陀様は衆生を順番に助けているのではありません。この私一人に喚びかけているのです。このことを思えば、勿体ないきわみです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

ご本願の中心は廻向のおぼしめし

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  一 信心とは、どういうことか

 <浄土に生るべき因の御名を、このままの私に与えて下さる。>

  五

 ご本願の中心は廻向のおぼしめしであります。それは、この苦悩の私をみすてたまわぬだけでなく、この私をみすてたもうことができないために、私にその御名を、心おきなく受けてくれよとて、御廻向下さるのでありました。
 どのように私をながめ、私をあわれみ、私を待ちたもうというても、それだけでは仏と凡夫は隔たっていまして、仏を見ればお慈悲は喜ばれますが、私を見れば心暗く、心安らかでありません。この御廻向の思召をしらせていただき、この御廻向を、真実の利を恵んで下さることに気づけば、強いて仰ぐことも、うつむくことも、おそれることもありません。
 ただお与えの御名一つを信受して、称えさせていただきます。
 この御名は、如来のお手元にあるのでなく、単に私の手元にあらわれたのでなく、まさしく、如来から私にさしよせてくださるこの御名、これが大悲の御涙であり、御血潮、御いのちそのものであることを聞かされてみれば、ここに何の不足がありましょうか。ただ高大な御心をよろこびて、称えます。

(p.12~p.13)



如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまひて
 大悲心をば成就せり(正像末和讃)


この私一人を見捨てることができないで、阿弥陀仏は大悲の結晶である御名を成就され、受けてくれよと御廻向下さるのです。それが知らされてみると、十方衆生と誓われてはいても、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。(歎異抄)

と、私一人のための本願と仰がずにはいられません。弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに淳心房一人がためなりけり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

廻向の御名をお受けすることが真実の信心であります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  一 信心とは、どういうことか

 <浄土に生るべき因の御名を、このままの私に与えて下さる。>

  六

 この本願の念仏の思召、これが釈尊から宗祖に流れこんでくだされたものです。『御文章』はこの名号を信受する一念のすがたをあらわされたものです。ここに「廻向を首としたまひて、大悲心をば成就せり」のおこころをお受けすることができます。私がこの世に生れた本意を本当に満足させてもらうのです。
 この真実を受けよ、受けたら助けるという交換条件ではありません。受けさせねばおかぬとの真実であります。いとし子に、「母ちゃんと言え」の母心は、言わしめねばおかぬとは、母心を受けしめねばおかぬとの母みずからの絶対のちからであります。
 これを受けることによって、いとし子はその願いを満足するように、私の久遠劫来の志願を満たして頂くのは、この名号のはたらきであります。つまり志願満足は御名のはたらきであります。
 如来の真実をさしつけられていることに気づかせていただいたならば、どうしてぐずぐずしていられましょうか。受けるとか受けないとか、私の方で計らうのではありません。受ける心までがご廻向の真実に成就せられてあります。
 御開山様では、救われたとは、この世では本願の仰せの聞きえられたことであります。彼の世では涅槃のさとりの開かれたことであります。
 お慈悲を聞いてお仕事を聞かず、お約束を聞いて御廻向を聞かない。私たちは救いの全体を聞かせてもらわねばなりません。
 廻向の大行であります。他力を聞いて廻向を聞かずにいてはなりません。廻向の御名をお受けすることが真実の信心であります。差しよせたまうそのままに、この御廻向の御名をそのままいただくのです。
 わが生きているのも不思議です。ましていわんや本願の名号を与えられて、これを称えまつる身にまでお育ていただいたことは、不思議の中の不思議であります。御名を聞いて、それなら助かるというは自力心であります。そのときは仰せは力を失って助かるという満足感ばかりが残ります。私はただただ仰せを聞いておるだけであります。
 第十八願は愛の単なる宣言ではありません。救いの単なる約束ではありません。南無阿弥陀仏の大行の廻向であります。この御名は本願の全分であります。この全体をあげて私に来て下さいますから、本願の全分私に来り、私の全分に本願が開動したもうのです。だから本願の宗教は、単なる自覚ではありません。また努力を教えるのでもありません。ただ信受を教えたもうのです。全宗教は「めざめよ、つとめよ」ですが、真宗は「受けよ」であります。このまま受けるのです。力も知恵もいりません。私はこのままおよびごえを受けるのです。心にうけるすがたが信心です。身にうけたすがたが念仏であります。されば、信心そのもの、まさしく南無阿弥陀仏の大行の来現であると同じく、念仏そのものは南無阿弥陀仏の来現であります。信行は内外の異りはありますが、一真実の大行の降ったものであります。念称是一とはこれであります。
 私、仏因を受けて満足するとき、仏、廻向を成じて満足したようなものであります。

(p.13~p.16)



「受けよ」と言われると「どう受ければ」と悩む。「頂く」と言われると「どう頂いたら」と考える。悩み考えて分からないと「どうすればいいんだ?」と力む。そんな自力の計らいをいくらめぐらせてもどうにもなりません。受ける心までが御廻向のものです。
受けるのに力も知恵もいりません。今の自分のまま受けるのです。信仰を進めるだとか、宿善を厚くするだとか、光に向かって進むだとか、全く無用の長物です。私はこのまま「助けるぞ」のおよびごえを受けるのです。

苦の海にただよえるものよ。涙の谷に沈めるものよ。ただ、弥陀の仰せをいただけよ

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  二 大悲の親様のおよびごえ 

  一

 味わうべきこと。
 人生は苦の海なり。涙の谷なり。咲く花にも散る時あり。満てる月も欠ぐる時あり。生あるものに死あり。楽あるものに苦あり。
 会うものは常にはなれ、盛んなるものは衰へるは、人生の常相なり。苦の海にただよえるものよ。涙の谷に沈めるものよ。ただ、弥陀の仰せをいただけよ。
 さらばよく救われることを得ん。よし現世の波荒く、人の世の谷深くとも、逆巻く波にも、岩間の草の露にも、月はひとしくその影を宿すが如く、み親の光明はあまねく十方の世界を照らして、一切の人々を摂取して捨てたまわず、わが苦悩はこれによって抜かれ、わが涙はこれによってぬぐわれ、われ等の心の闇は、これによって破られるなり。
 これは、蓮沼門三様の言葉に、少し私の言葉を入れたものです。口ずさんでみますと、なかなか味わい、ふかいものがあります。

(p.17~p.18)



生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしづめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける(高僧和讃)


ここを読んでいましたら、この御和讃が思い出されました。まことに人生は苦しみの海であり、涙の谷です。会者定離、盛者必衰はこの世の習い、楽しいこともありますが、「おもしろき こともなき世を おもしろく」という気持ちでやっていかなければやりきれないことが多々あります。今は年若く健康で、周囲の物にも恵まれ、身内も健在であっても、やがては一人、また一人と別れ、自身も老いや病で苦しみ、最後は死のためにこの世を去らねばならないでしょう。その時は、愛する家族も、苦労して手に入れたものも、この肉体とも別れて逝かねばなりません。そして得体の知れない未来、後生へと突っ込んでゆくのです。これでは何のためにこの世へ生まれ、生きているのか分かりません。死ぬために、苦しむために生まれ、生きているようなものです。
そういう人生にあって、弥陀の本願だけが私を本当に救って下さいます。所詮、生きるとは死へ向かっての行進であり、死は死でしかなかったものが、「死んだ後は私の国に生まれると思ってくれ」と喚びかけて下さるのですから、生と死の意味が全く変わってまいります。本願に喚び覚まされた人は、死ぬとは浄土へ生まれること、生きるとはその浄土へ向かっての行進ということになります。
物質的に何かを下さっても、それは無意味ではありませんが、私を本当に救うということにはなりません。流転輪廻の連鎖を断ち切り、さとりの領域に入らせて頂かない限り、私は生死の苦海に留まり、永久に脱することができずに彷徨い苦しみ続けます。弥陀の本願は、自力で出離することができず、永遠に迷いを重ねる私に、成就された本願力を廻向して往生成仏の身にして下さるという、私を本当に救って下さる弘誓のふねであり、まことに私の根機にあいかなった殊勝の誓願です。
ではこの殊勝の誓願をどのように信じたらよいのかと言えば、私の側からは何も造作は要りません。ただ、「助けるぞよ」の弥陀の真実なる言葉を聞き受け、お念仏を申すのみです。「助けて下さい」とお願いにかかるのではなく、「間違いなく助けるぞよ」のお喚び声をお聞きするのです。そうすれば阿弥陀仏は深くお喜びになって、その御身より大いなる光明を放って、この私を摂取して決してお捨てになりません。その後は、命ある限りはこのように易く私を助けて下された御恩を思えば、お念仏を称えて仏恩に報謝するばかりです。
人生に苦しみは絶えませんが、弥陀の本願に遇った人の人生とはすなわち浄土への旅であり、最後行き着く所の死とはすなわち浄土へ生まれるということです。そのような御同行に、これからも一人、また一人とお会いしていきたいと思います。

大悲の親様のお慈悲を戴いたのが信心であります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  二 大悲の親様のおよびごえ 

  二

 大悲の親様のお慈悲を戴いたのが信心であります。つまり、親様の「たすけるぞ」を受けることです。それが、同時に、後生大事の心配を親様に渡したことになります。お慈悲を受けることが、後生の心配を渡すことです。
 後生が大事であると心配するのが、宿善開発のときです。「たすけるぞ」の仰せを受けたのが、親様に後生の心配をまかせたときであります。「弥陀をタノム」ときであります。

(p.18)



信心とは、南無阿弥陀仏(「たすけるぞ」の仰せ)を受けることです。それは、後生の心配を阿弥陀仏におまかせしたことです。後生どのようなところへ生まれるか、私の方からは分かりません。私は、阿弥陀仏のお連れ下さる処へ往くだけです。後生の心配を渡すとは、とても安心できることです。南無阿弥陀仏、波阿弥陀仏。

【参照】
『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(後生の一大事について)

私から親様にあいにゆくには、衆生の根機が千差万別ですから、八万四千の道があります。親様の方からあいに来て下さるのには、八万四千も、三つも二つもありません。ただ信心一つであります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  二 大悲の親様のおよびごえ 

  三

 私から親様にあいにゆくには、衆生の根機が千差万別ですから、八万四千の道があります。親様の方からあいに来て下さるのには、八万四千も、三つも二つもありません。ただ信心一つであります。今まで、三悪道にちかづきつつあった身が、刻々に、お浄土のさとりへばかり近づく身となるとは、まことに、まことに、親様の仏力のお不思議、願で出来た御力のしからしむるところであります。親様は、今日の聞かせて下さるが大事です。私は、今日の聞くが大切であります。親様の「およびごえ」が、私に「わたる」と、「わたらぬ」の一つです。
 聴聞一つが如実に出来たなら、死ぬるまでもまつのではない。信の一念に、私の往生の願行をおさずけいただき、浄土参りの御利益はあとからあらわれますが、とりあえず私の中にある地獄だねの根が切れて、正定聚の密益をいただき、お浄土のさとりへばかり近づく身とならせていただくのです。
 私の往生のたねを、およびごえ一つで、即ち仏願の生起本末のお話一つで、「直ちに来れ、我能汝を護る」の一つで、つまり、「たすけるぞ」の一つで、私へおわたし下さるのです。つまりお助け下さるのですから、もしこれが、わたらぬと、永劫の間、どうすることもできません。それですから、親様は、「およびごえ」のところに、そのお心のすべてが入っておられるのであります。
 私は、その「およびごえ」を如実にお受けすることが大切であります。「弥陀がたすけるぞ」をお受けするばかりであります。それが、信心をいただいたことです。

(p.19~p.20)



1、『大経』(上)には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。
2、おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。(一念多念証文)


都合上、上の『一念多念証文』のお言葉を2段落に分けました。
「私から親様にあいにゆくには、衆生の根機が千差万別ですから、八万四千の道があります」とは、2段落目のことです。八万四千の法門は、私から阿弥陀仏にあいにゆく教えであり、本願一乗の救い、他力回向の救いを直ちに受け入れない衆生を導くために仮に設けられた自力方便の教えということです。なので、既に親鸞聖人から他力回向の教えを聞き、教えを受け入れられるようになった人にとっては、かえってこれを廃せられるのです。
「親様の方からあいに来て下さるのには、八万四千も、三つも二つもありません。ただ信心一つであります」とは、1段落目のことです。弥陀の誓願(第十八願)は、阿弥陀仏の方からあいに来て下さるというものです。それは二つも三つもありませんので、本願一乗と言われます。もし、第十八願の救いにあずかるに自力方便の教えが必要なら、本願一乗とは言われません。

親鸞聖人から教えを頂く我々が他力に帰するのに方便仮門が必要かどうかは、「汝一心正念にして直に来れ(散善義)」のお言葉を解釈された、

・「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。(愚禿鈔)

の文や、

・「総不論照摂余雑業行者」といふは、「総」はみなといふなり、「不論」はいはずといふこころなり。「照摂」はてらしをさむと、「余の雑業」といふはもろもろの善業なり、雑行を修し雑修をこのむものをば、すべてみなてらしをさむといはずと、まもらずとのたまへるなり。これすなはち本願の行者にあらざるゆゑに、摂取の利益にあづからざるなりとしるべしとなり。(一念多念証文)
・「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。(唯信鈔文意)
・余の一切の行はみなとりどりにめでたけれども、弥陀の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらず。念仏の一行はこれ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり、諸仏証誠の法なればなり。(浄土真要鈔)


などによっても明らかでしょう。
「たすけるぞ」のおよびごえ一つで、私はお浄土へ参らせて頂くのです。今、ここで、この私が救われるには、これより方法はありません。未だ方便が必要などと拘っている人は、親鸞聖人のお言葉にしたがって直ちに方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰して頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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