はじめに
『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用
はじめに
阿弥陀如来様は、南無阿弥陀仏で、この私を、お浄土へ参らせて下さいますのです。
つまり、南無阿弥陀仏のお喚び声の、「たすけるぞ」を、すなおに、頂きましたのです。それが信心であります。そのとき、阿弥陀様のお功徳を全領いたしますから、私は、たすけられまして、お浄土へ参らせて頂くことになったのであります。
私は、かならず、きっと、お浄土へ参らせていただきます。
その後は、「参らせてもらいます」と思うて、称名相続をさせて頂きます。ありがたいことであります。
(p.1)
ここに真宗のすべてが言い表されているように思います。信心とは、如来の御誓い、すなわち「たすけるぞ」を聞くことです。何かハッキリした体験を信心というのではありません。
「たすけるぞ」を聞く時、私の「ハッキリなりたい」「安心したい」「助かりたい」の計らい心は取り去られ、如来の光明に摂取されるのです。如来のお慈悲に包まれるのです。いや、今までずっと如来のお慈悲の只中にあったことに気付かされるといった方が適切でしょうか。このような愚か者を見捨てずに救おうとかかり果てておられた如来様へのかたじけなさ、そのお慈悲を今まで信じなかったことの愚かさ。真宗の教えを聴聞させて頂くと、色々と知らされることが出て参ります。
これから、加茂仰順師『浄土真宗 信心』を引きつつ、時に私の感想も交えて綴っていきたいと思います。
はじめに
阿弥陀如来様は、南無阿弥陀仏で、この私を、お浄土へ参らせて下さいますのです。
つまり、南無阿弥陀仏のお喚び声の、「たすけるぞ」を、すなおに、頂きましたのです。それが信心であります。そのとき、阿弥陀様のお功徳を全領いたしますから、私は、たすけられまして、お浄土へ参らせて頂くことになったのであります。
私は、かならず、きっと、お浄土へ参らせていただきます。
その後は、「参らせてもらいます」と思うて、称名相続をさせて頂きます。ありがたいことであります。
(p.1)
ここに真宗のすべてが言い表されているように思います。信心とは、如来の御誓い、すなわち「たすけるぞ」を聞くことです。何かハッキリした体験を信心というのではありません。
「たすけるぞ」を聞く時、私の「ハッキリなりたい」「安心したい」「助かりたい」の計らい心は取り去られ、如来の光明に摂取されるのです。如来のお慈悲に包まれるのです。いや、今までずっと如来のお慈悲の只中にあったことに気付かされるといった方が適切でしょうか。このような愚か者を見捨てずに救おうとかかり果てておられた如来様へのかたじけなさ、そのお慈悲を今まで信じなかったことの愚かさ。真宗の教えを聴聞させて頂くと、色々と知らされることが出て参ります。
これから、加茂仰順師『浄土真宗 信心』を引きつつ、時に私の感想も交えて綴っていきたいと思います。
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