【ツッコミ】親鸞学徒の鑑:蓮如上人(95)ー19願の至心は「人間の精一杯のまこと」だって??
『浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い』親鸞学徒の鑑:蓮如上人(95)(19願の至心は私達の誠心誠意)
には、ブログの著者の自分勝手な珍釈が綴られております。もとは高森会長が言い出したのだと思いますが、何にせよひどい解釈ですので、引用してツッコミを入れてみましょう。
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では、その十九の誓いを聞いてみよう。
「設ひ、我仏を得んに、
十方の衆生、菩提心を発し、
諸の功徳を修し、
至心に発願して、
我が国に生れんと欲はん。
寿終るの時に臨みて、
たとひ大衆と圍繞して、
其の人の前に現ぜずば、
正覚を取らじ」
(中略)
ここで「至心」と誓われているのは、
「人間の精一杯のまこと」
いうことで、
「仏のまこと」
のことではない。
「お前の誠心誠意、精一杯で
善をしなさい」
ということである。
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19願文の「至心」を「人間の精一杯のまこと」だと解釈しています。一体親鸞聖人がどこに「19願の至心とは人間の精一杯のまこと」だと教えらえているのか、根拠を示して頂きたいものです。根拠がなければ、それは文底秘沈の珍らしき教えです。
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この「至心」を「仏のまこと」と
勘違いしている人がいる。
この間違いが大変な誤解曲解を
生み、浄土真宗の根幹を
揺るがすこととなるのだ。
19願の「至心」が
「仏のまこと」なら
「仏のまこと」など
微尽も持たない私達が
まことの善などできる筈がない。
「まことの善などできない十方衆生に
まことの善を勧める筈はない。
だから19願が善を勧めた願ではなく、
善ができないことを
明らかにした願であり、
善を勧められた願ではない」
という主張も成り立つだろう。
しかし、19願で阿弥陀仏は
「お前のできる精一杯で
善をしなさい」
と善を勧めておられるのである。
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これは高森会長の「阿弥陀仏が19願で勧めている善は雑毒の善」だという珍説(『飛雲』19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ?????参照)と合致します。親鸞会の定義では、人間のできるどのような善であってもそれは雑毒の善です。親鸞会は月(無量光明土)へは決して行けない、地球上どこにでも行ける切符(雑毒の善)を勧める新興宗教であることはここからも明らかです。
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その19願の御意を
観無量寿経には
「もし衆生ありて、
かの国に生まれんと願ずれば、
三種の心を発してすなわち往生す。
何等をか三つとする。
一つには至誠心、
二つには深心、
三つには回向発願心なり」
(観無量寿経)
と、19願の至心を
観無量寿経の三心で教えられ、
みな凡夫の誠心誠意、精一杯のまことを
尽くして、善をしなさいと
勧められているのだ。
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ブログの著者は『観経疏』の至誠心釈、また親鸞聖人が「信文類」に引文されている至誠心釈を読んだことがないのでしょう。「信文類」引文の至誠心釈についてはQ&A(5)ー外に賢善精進の相を現じて(2)にて既に紹介していますが、今一度読んでみましょう。
『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生、身口意業に修するところの解行、かならず【真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。】貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善となす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時、急に走め急になすこと、頭燃を灸ふがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ【真実心のなかになしたまひしによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なりと。】また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。
【現代語訳】
『観経』には、一つには至誠心といわれています。至とは真という意味であり、誠とは実という意味です。浄土に往生しようとする一切衆生は、身の振る舞いも、言葉も、心に思うことも、学問も実践も、かならず【如来が真実心の内に成就して与えてくださったものを須る(用いる)べきことを明らかにしたいと思います。外面に賢者、善人のように勤め励む姿を現してはなりません。心の内には虚仮の思いを抱いているからです。】凡夫は貪り、怒り、よこしま、偽り欺きの心が絶えずおこって、悪い性質をとどめることができず、まるで毒蛇や蠍と同じような恐ろしい心をもっているからです。たとえ身・口・意の三業には、賢善な人のように振る舞っていたとしても、煩悩の毒の雑じった善であり、見せかけだけのいつわりの行というべきで、決して真実の業とはいえません。もし、このような煩悩の雑じった心を起こし、修行するならば、たとえ昼夜不断に、頭の髪の毛に着いた火を払いのけるほど懸命に修行したとしても、すべて毒の雑じった善といわねばなりません。このような雑毒の行を回向して浄土に往生したいと求めても、決して往生できません。
なぜならば、かの阿弥陀仏がまだ修行者として菩薩の行をなされたとき、身の行いも言葉の行いも心の持ちようも、ほんのわずかな時間であっても、【すべて真実心をもってなされたことに由るからです(由るというのは、如来を経て、如来の行を行じ、如来によりしたがって、如来の真実を用いるということです)。およそ如来が施し与えてくださった功徳をいただいて、浄土に生まれていこうと求めるのであれば、それはみな真実である。】
また真実というのに二種があります。一つは、自力の修行によって自己を利益し真実になろうとする自利真実であり、二つには如来の利他の働き(他力)によって与えられた真実で、それを利他真実といいます。
このことからわかるように、至誠心とは真実心のことです。しかし、人間には真実心はありませんから、至誠心をおこせというのは「如来の真実心を用いるのですよ」ということです。つまり、至誠心とは如来の真実心であり、著者の言葉でいうなら「仏のまこと」ということです。
ついでに簡単に申しておきますと、深心釈には二種深信が書かれてあり、深心とは如来回向の真実心、いわゆる「仏のまこと」です。回向発願心についても、阿弥陀仏が真実の心をもって回向してくださる本願のお心ということで、やはり如来の真実心、いわゆる「仏のまこと」です。
「19願の至心を観無量寿経の三心で教えられ、みな凡夫の誠心誠意、精一杯のまことを尽くして、善をしなさいと勧められているのだ」
と彼は得意満面に断言していますが、その理論が破綻していること、著者が親鸞聖人の解釈とは異なる異安心であることはこれにて明々白々です。何度も繰り返しますが、定散二善などの諸善万行は雑行です。このような雑行の勧めを堂々としている者からは、とても親鸞聖人の正しい教えなど聞けるはずもありません。親鸞聖人の教えが目当てなら、異安心の団体からは一刻も早く立ち去るべきです。
には、ブログの著者の自分勝手な珍釈が綴られております。もとは高森会長が言い出したのだと思いますが、何にせよひどい解釈ですので、引用してツッコミを入れてみましょう。
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では、その十九の誓いを聞いてみよう。
「設ひ、我仏を得んに、
十方の衆生、菩提心を発し、
諸の功徳を修し、
至心に発願して、
我が国に生れんと欲はん。
寿終るの時に臨みて、
たとひ大衆と圍繞して、
其の人の前に現ぜずば、
正覚を取らじ」
(中略)
ここで「至心」と誓われているのは、
「人間の精一杯のまこと」
いうことで、
「仏のまこと」
のことではない。
「お前の誠心誠意、精一杯で
善をしなさい」
ということである。
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19願文の「至心」を「人間の精一杯のまこと」だと解釈しています。一体親鸞聖人がどこに「19願の至心とは人間の精一杯のまこと」だと教えらえているのか、根拠を示して頂きたいものです。根拠がなければ、それは文底秘沈の珍らしき教えです。
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この「至心」を「仏のまこと」と
勘違いしている人がいる。
この間違いが大変な誤解曲解を
生み、浄土真宗の根幹を
揺るがすこととなるのだ。
19願の「至心」が
「仏のまこと」なら
「仏のまこと」など
微尽も持たない私達が
まことの善などできる筈がない。
「まことの善などできない十方衆生に
まことの善を勧める筈はない。
だから19願が善を勧めた願ではなく、
善ができないことを
明らかにした願であり、
善を勧められた願ではない」
という主張も成り立つだろう。
しかし、19願で阿弥陀仏は
「お前のできる精一杯で
善をしなさい」
と善を勧めておられるのである。
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これは高森会長の「阿弥陀仏が19願で勧めている善は雑毒の善」だという珍説(『飛雲』19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ?????参照)と合致します。親鸞会の定義では、人間のできるどのような善であってもそれは雑毒の善です。親鸞会は月(無量光明土)へは決して行けない、地球上どこにでも行ける切符(雑毒の善)を勧める新興宗教であることはここからも明らかです。
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その19願の御意を
観無量寿経には
「もし衆生ありて、
かの国に生まれんと願ずれば、
三種の心を発してすなわち往生す。
何等をか三つとする。
一つには至誠心、
二つには深心、
三つには回向発願心なり」
(観無量寿経)
と、19願の至心を
観無量寿経の三心で教えられ、
みな凡夫の誠心誠意、精一杯のまことを
尽くして、善をしなさいと
勧められているのだ。
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ブログの著者は『観経疏』の至誠心釈、また親鸞聖人が「信文類」に引文されている至誠心釈を読んだことがないのでしょう。「信文類」引文の至誠心釈についてはQ&A(5)ー外に賢善精進の相を現じて(2)にて既に紹介していますが、今一度読んでみましょう。
『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生、身口意業に修するところの解行、かならず【真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。】貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善となす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時、急に走め急になすこと、頭燃を灸ふがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ【真実心のなかになしたまひしによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なりと。】また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。
【現代語訳】
『観経』には、一つには至誠心といわれています。至とは真という意味であり、誠とは実という意味です。浄土に往生しようとする一切衆生は、身の振る舞いも、言葉も、心に思うことも、学問も実践も、かならず【如来が真実心の内に成就して与えてくださったものを須る(用いる)べきことを明らかにしたいと思います。外面に賢者、善人のように勤め励む姿を現してはなりません。心の内には虚仮の思いを抱いているからです。】凡夫は貪り、怒り、よこしま、偽り欺きの心が絶えずおこって、悪い性質をとどめることができず、まるで毒蛇や蠍と同じような恐ろしい心をもっているからです。たとえ身・口・意の三業には、賢善な人のように振る舞っていたとしても、煩悩の毒の雑じった善であり、見せかけだけのいつわりの行というべきで、決して真実の業とはいえません。もし、このような煩悩の雑じった心を起こし、修行するならば、たとえ昼夜不断に、頭の髪の毛に着いた火を払いのけるほど懸命に修行したとしても、すべて毒の雑じった善といわねばなりません。このような雑毒の行を回向して浄土に往生したいと求めても、決して往生できません。
なぜならば、かの阿弥陀仏がまだ修行者として菩薩の行をなされたとき、身の行いも言葉の行いも心の持ちようも、ほんのわずかな時間であっても、【すべて真実心をもってなされたことに由るからです(由るというのは、如来を経て、如来の行を行じ、如来によりしたがって、如来の真実を用いるということです)。およそ如来が施し与えてくださった功徳をいただいて、浄土に生まれていこうと求めるのであれば、それはみな真実である。】
また真実というのに二種があります。一つは、自力の修行によって自己を利益し真実になろうとする自利真実であり、二つには如来の利他の働き(他力)によって与えられた真実で、それを利他真実といいます。
このことからわかるように、至誠心とは真実心のことです。しかし、人間には真実心はありませんから、至誠心をおこせというのは「如来の真実心を用いるのですよ」ということです。つまり、至誠心とは如来の真実心であり、著者の言葉でいうなら「仏のまこと」ということです。
ついでに簡単に申しておきますと、深心釈には二種深信が書かれてあり、深心とは如来回向の真実心、いわゆる「仏のまこと」です。回向発願心についても、阿弥陀仏が真実の心をもって回向してくださる本願のお心ということで、やはり如来の真実心、いわゆる「仏のまこと」です。
「19願の至心を観無量寿経の三心で教えられ、みな凡夫の誠心誠意、精一杯のまことを尽くして、善をしなさいと勧められているのだ」
と彼は得意満面に断言していますが、その理論が破綻していること、著者が親鸞聖人の解釈とは異なる異安心であることはこれにて明々白々です。何度も繰り返しますが、定散二善などの諸善万行は雑行です。このような雑行の勧めを堂々としている者からは、とても親鸞聖人の正しい教えなど聞けるはずもありません。親鸞聖人の教えが目当てなら、異安心の団体からは一刻も早く立ち去るべきです。
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