【ツッコミ】親鸞学徒の鑑:蓮如上人(95)ー19願の至心は「人間の精一杯のまこと」だって??

『浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い』親鸞学徒の鑑:蓮如上人(95)(19願の至心は私達の誠心誠意)

には、ブログの著者の自分勝手な珍釈が綴られております。もとは高森会長が言い出したのだと思いますが、何にせよひどい解釈ですので、引用してツッコミを入れてみましょう。

********************
では、その十九の誓いを聞いてみよう。

「設ひ、我仏を得んに、
 十方の衆生、菩提心を発し、
 諸の功徳を修し、
 至心に発願して、
 我が国に生れんと欲はん。
 寿終るの時に臨みて、
 たとひ大衆と圍繞して、
 其の人の前に現ぜずば、
 正覚を取らじ」

(中略)

ここで「至心」と誓われているのは、

「人間の精一杯のまこと」

いうことで、

「仏のまこと」

のことではない。

「お前の誠心誠意、精一杯で
 善をしなさい」

ということである。

********************

19願文の「至心」を「人間の精一杯のまこと」だと解釈しています。一体親鸞聖人がどこに「19願の至心とは人間の精一杯のまこと」だと教えらえているのか、根拠を示して頂きたいものです。根拠がなければ、それは文底秘沈の珍らしき教えです。


********************
この「至心」を「仏のまこと」と
勘違いしている人がいる。

この間違いが大変な誤解曲解を
生み、浄土真宗の根幹を
揺るがすこととなるのだ。

19願の「至心」が
「仏のまこと」なら
「仏のまこと」など
微尽も持たない私達が
まことの善などできる筈がない。

「まことの善などできない十方衆生に
 まことの善を勧める筈はない。
 だから19願が善を勧めた願ではなく、
 善ができないことを
 明らかにした願であり、
 善を勧められた願ではない」

という主張も成り立つだろう。

しかし、19願で阿弥陀仏は

「お前のできる精一杯で
 善をしなさい」

と善を勧めておられるのである。

********************

これは高森会長の「阿弥陀仏が19願で勧めている善は雑毒の善」だという珍説(『飛雲』19願で阿弥陀仏が勧められている善は雑毒の善だ?????参照)と合致します。親鸞会の定義では、人間のできるどのような善であってもそれは雑毒の善です。親鸞会は月(無量光明土)へは決して行けない、地球上どこにでも行ける切符(雑毒の善)を勧める新興宗教であることはここからも明らかです。


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その19願の御意を
観無量寿経には

「もし衆生ありて、
 かの国に生まれんと願ずれば、
 三種の心を発してすなわち往生す。
 何等をか三つとする。
 一つには至誠心、
 二つには深心、
 三つには回向発願心なり」
  (観無量寿経)

と、19願の至心を
観無量寿経の三心で教えられ、
みな凡夫の誠心誠意、精一杯のまことを
尽くして、善をしなさいと
勧められているのだ。

********************

ブログの著者は『観経疏』の至誠心釈、また親鸞聖人が「信文類」に引文されている至誠心釈を読んだことがないのでしょう。「信文類」引文の至誠心釈についてはQ&A(5)ー外に賢善精進の相を現じて(2)にて既に紹介していますが、今一度読んでみましょう。

『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生、身口意業に修するところの解行、かならず【真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。】貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善となす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時、急に走め急になすこと、頭燃を灸ふがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ【真実心のなかになしたまひしによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なりと。】また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり。

【現代語訳】
『観経』には、一つには至誠心といわれています。至とは真という意味であり、誠とは実という意味です。浄土に往生しようとする一切衆生は、身の振る舞いも、言葉も、心に思うことも、学問も実践も、かならず【如来が真実心の内に成就して与えてくださったものを須る(用いる)べきことを明らかにしたいと思います。外面に賢者、善人のように勤め励む姿を現してはなりません。心の内には虚仮の思いを抱いているからです。】凡夫は貪り、怒り、よこしま、偽り欺きの心が絶えずおこって、悪い性質をとどめることができず、まるで毒蛇や蠍と同じような恐ろしい心をもっているからです。たとえ身・口・意の三業には、賢善な人のように振る舞っていたとしても、煩悩の毒の雑じった善であり、見せかけだけのいつわりの行というべきで、決して真実の業とはいえません。もし、このような煩悩の雑じった心を起こし、修行するならば、たとえ昼夜不断に、頭の髪の毛に着いた火を払いのけるほど懸命に修行したとしても、すべて毒の雑じった善といわねばなりません。このような雑毒の行を回向して浄土に往生したいと求めても、決して往生できません。
なぜならば、かの阿弥陀仏がまだ修行者として菩薩の行をなされたとき、身の行いも言葉の行いも心の持ちようも、ほんのわずかな時間であっても、【すべて真実心をもってなされたことに由るからです(由るというのは、如来を経て、如来の行を行じ、如来によりしたがって、如来の真実を用いるということです)。およそ如来が施し与えてくださった功徳をいただいて、浄土に生まれていこうと求めるのであれば、それはみな真実である。】
また真実というのに二種があります。一つは、自力の修行によって自己を利益し真実になろうとする自利真実であり、二つには如来の利他の働き(他力)によって与えられた真実で、それを利他真実といいます。


このことからわかるように、至誠心とは真実心のことです。しかし、人間には真実心はありませんから、至誠心をおこせというのは「如来の真実心を用いるのですよ」ということです。つまり、至誠心とは如来の真実心であり、著者の言葉でいうなら「仏のまこと」ということです。
ついでに簡単に申しておきますと、深心釈には二種深信が書かれてあり、深心とは如来回向の真実心、いわゆる「仏のまこと」です。回向発願心についても、阿弥陀仏が真実の心をもって回向してくださる本願のお心ということで、やはり如来の真実心、いわゆる「仏のまこと」です。


「19願の至心を観無量寿経の三心で教えられ、みな凡夫の誠心誠意、精一杯のまことを尽くして、善をしなさいと勧められているのだ」

と彼は得意満面に断言していますが、その理論が破綻していること、著者が親鸞聖人の解釈とは異なる異安心であることはこれにて明々白々です。何度も繰り返しますが、定散二善などの諸善万行は雑行です。このような雑行の勧めを堂々としている者からは、とても親鸞聖人の正しい教えなど聞けるはずもありません。親鸞聖人の教えが目当てなら、異安心の団体からは一刻も早く立ち去るべきです。
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【ツッコミ】親鸞学徒の鑑:蓮如上人(93)(三願転入の道)ー親鸞会流三願転入の教えは否定します

親鸞学徒の鑑:蓮如上人(93)(三願転入の道)

を見てみると、相変わらずの珍説が並べたてられております。引用してツッコミを入れてみましょう。

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「親鸞学徒の求道の道とは、
 三願転入の道である。
 若し三願転入を否定する者あらば、
 それは弥陀の本願を否定し、
 釈迦一代の教を否定し、
 七高僧を否定し、
 親鸞聖人の教えを否定する、
 仏教の門戸も知らぬ
 浅ましき外道である」
  
三願転入の否定は
弥陀の本願を否定し、
釈迦一代の教を否定することになる。

********************

親鸞会ではやたらと「求道」と言いますが、他力回向の教えに、信心獲得するまでに衆生の側で通っていかねばならぬ、求めていかねばならぬ「道」というものはありません。こちらが求めるより先に与えられている法を聞くのが真宗です。それを求道などと言って、会員に善もどきの善をやらせて獲信の妨げをしているのが親鸞会です。会員はすっかり騙されて、他力回向の教えを誤解して自力回向の教えと理解しているのです。なぜこのような誤解が生じるのかと言えば、(1)いつもの縦と横の線、(2)オリジナル二河白道の譬、(3)弥陀の救いと世間事との混同、などでしょう。
(1)に関しては、横の線を指して「この道を通って」、次に縦の線を指して「ここがゴール、ここが決勝点、ここが卒業」という説明を何十回、何百回と繰り返し聞き、また人にも話していれば、「この道を進んで、やがて縦の線に辿り着いて救われるんだな」という理解にしかなりません。ただ今、ここで、私が救われるだなどとは到底思えなくなるでしょう。
(2)に関しては、高森会長の話す二河譬では、白道の中間まで行かなければ弥陀の喚び声が聞こえないという設定になっております。そこまでは火の河・水の河(煩悩)と闘って進んでいくと教えられるため、会員は求道にもならぬ求道をしているわけです。本当の二河譬では、行者は白道に乗る手前で西岸上の人(阿弥陀仏)の喚び声を聞いております。そして白道に一歩踏み出した時が捨自帰他です。親鸞会の二河譬は様々に間違っているのですが、会員は正しいと思い込んでいるため、善をして求道していかなければ救われないと只今の救いを撥ねつけているのです。二河譬について詳しくは、『親鸞会教義の誤り』宿善とは7宿善とは8をご覧ください。
(3)に関しては、例えば何か芸事を熟達するにしても一朝一夕にはいかないとか、家一軒建てるのでも大変なのにまして後生の一大事が簡単に解決するはずがないとか、世間事と比較して「だから後生の一大事の解決は一朝一夕にいかないんだ」と説くことで、ますます只今無条件の救いを信じられなくなってしまうのです。

さて、私は三願転入は否定はしませんが、親鸞会でいう「三願転入の道」とやらは否定します。「三願転入の道」というのは、18願の世界に出るのに通らねばならない19願・20願の道、ということでしょう。通らねばならないとは、つまり19願・20願の行を実践しなければならないというものです。ところが、18願の救いを求める人に対して「18願の救いにあずかるに、19願の善を精一杯せよ、20願の念仏を励め」などという教えは真宗にはありません。このような珍説を唱える者こそ、このブログの著者が言っているように「それは弥陀の本願を否定し、釈迦一代の教を否定し、七高僧を否定し、親鸞聖人の教えを否定する、仏教の門戸も知らぬ浅ましき外道」です。


********************
濁世の群萠、穢悪の含識とは
全ての人をさす。
全ての人は始めから
真実に出会える人はいない。

九十五種の邪道とは
仏教ではない外道をいい、
殆どの人が外道に
迷っている人ばかり。

それが仏縁あって半満・権実の法門を
求めるようになるのである。
半満権実の法門とは
阿弥陀仏の本願以外の仏教をいい、
聖道門自力の仏教をいうのである。

仏教に出会えても、
それは聖道権仮の方便の教えを
聞いている人ばかりなのだ。
だから、真実を知り、
真実を求め、真実を獲得する人は
皆無であると親鸞聖人は
嘆いておられる。

そして、ウソ、偽りのものばかりを信じて、
苦しみ悩んでいる人が満ち溢れているのだ。

********************

どうも著者の文章だと、全ての人はまず聖道門に入るような印象を受けます。そして聖道門のことを「ウソ、偽りのもの」と言っているように読めますが、読者の皆さんはどうでしょうか?
ならば親鸞会の会員はまず聖道門に入っているのかというと全くそうではありません。「濁世の群萌」「群生海」などとあれば何でもかんでも「全ての人」と訳して、全ての人がそうであるかのように説くのはよろしくありません。また、聖道門は「ウソ、偽りのもの」でもありません。聖道門は仏説ですから殊勝の法であり、それをウソ、偽りと言うことは謗法罪になります。

・それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。(御文章3帖目2通)
・そもそも、当流念仏者のなかにおいて、諸法を誹謗すべからず。まづ越中・加賀ならば、立山・白山そのほか諸山寺なり。越前ならば、平泉寺・豊原寺等なり。されば『経』(大経)にも、すでに「唯除五逆誹謗正法」とこそこれをいましめられたり。これによりて、念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。(御文章1帖目14通)


ただ、私にはそう読めるだけで、著者は実際は聖道門をウソ偽り呼ばわりしていないのかも知れません。

ところで、著者は聖道門を「権仮の方便の教え」と言っていますが、同様に19願の教説、『観経』では定散二善の教えも「権仮の方便の教え」です。

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。(化身土文類)

ですから、聖道門と同様に19願も、18願の救いを求める人にとっては捨て去られるべき法門ということになります。著者は権仮方便が分かっているのか分かっていないのか、今一つ理解しかねますが、後の文章を読めば、聖道門は不要だが19願は必要だという主張で、やはり分かっていないことが伺えます。


********************
このような世相は釈尊は百も御承知、
そこで群生海・すべての人々を
18願の世界に誘引する為に
説かれたのが福徳蔵の教えであり、
観無量寿経のご説法なのである。

(中略)

お釈迦様が一切経で善を勧められ、
その全ての善を
観無量寿経一巻に
定散の二善にまとめられ
韋提希夫人に勧められたのは、
偏に、阿弥陀仏の19願の御意を
開顕する以外には
なかったのである。

19願は十方衆生を
18願に誘引する為に
建てられたのであることは
明々白々である。

********************

親鸞聖人の要門釈のお言葉を読めば、外道を離れて聖道門に入った人を誘引する願が19願だということで、既に18願の救いを求めている人にまで19願の善、定散二善を勧められているのではありません。親鸞聖人のお勧めは18願による真実報土への往生、成仏でありますが、「化身土文類」にある19願・20願の行は勧められていません。なぜなら、19願・20願とは、真実報土とは異なる方便化土へ往生する行信を教えられたものだからです。

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。(化身土文類)

「化身土文類」はこのように方便化身土を顕されるところから始まり、途中で挙げたお言葉のように方便化土へ往生する(とどまる)行信、すなわち19願・20願が教えられているのです。化土を誡め報土を勧められたのが親鸞聖人ですから、方便化土へ往生する行である19願の善、定散二善を勧められている訳がないのです。それでも高森会長は、釈尊が韋提希に定散二善を勧め、韋提希は定散二善に取り組んだように説きますが、これも根拠のない珍説です。『観経』を読めば、韋提希が定善に取り組んだなどとは全く説かれていないことが分かります。親鸞聖人が勧められていない19願の善(と称した献金と勧誘)を勧め、親鸞聖人が勧められている選択本願の念仏を説かない高森会長の教えが「珍らしき法」であることは明々白々です。

ウソ、偽りのものばかりを信じて、苦しみ悩んでいる会員が満ち溢れています。高森会長だけはまことと堅く信じていることでしょうが、そんな信心ほどあやしいものはありません。会員は今こそ

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。(歎異抄)

のお言葉を噛み締めるべきです。まことは念仏のみ、他はすべて「そらごとたはごと、まことあることなき」です。あとは、それを聖人のお言葉通り信じられるかどうかでしょう。

【ツッコミ】奥越親鸞学徒の集いー雑行を勧めている親鸞会

七大経⑫-67(四つの角目を聞け、修善を勧められた善導大師)
七大経⑫-68(四つの角目を聞け、修善を勧められた親鸞聖人)

では、『散善義』と『末灯鈔』の御文を用いて、善導大師や親鸞聖人が本願の救いを求めて善をせよと教えられているかのように教えています。これは大間違いです。

「不得外現 賢善精進之相 内懐虚仮(外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ)」

のお言葉は、その前後を拝読すれば分かるように、自分では真実心を起こすことができないから如来の真実心を用いなさいと仰ったものです。これが早く弥陀の救いを求める人に善をせよと仰ったお言葉ではないことは、

Q&A(4)ー外に賢善精進の相を現じて(1)
Q&A(5)ー外に賢善精進の相を現じて(2)

にて既に述べた通りです。

『末灯鈔』のお言葉も、三毒の煩悩を戒められたものであります。
親鸞聖人在世当時から、「往生に悪はさわりとならない」ことを得手に解釈し、煩悩のままに振る舞ってもよいという邪義は蔓延していました。その邪義を正さんがために親鸞聖人はお手紙で何度も戒められているのです。門徒の方々の、日常の生活態度を戒めておられるのであって、往生のために善をせよと仰ったお言葉とは違うのです。

浄土真宗では、往生行としての諸善万行は雑行と名づけて嫌われる行です。聖則の通りならば親鸞会は「信心獲得することを本と」する団体ですから、信心獲得するために諸善を勧めることは雑行の勧めをしていることになります。
善導大師や親鸞聖人に反して雑行を勧めている親鸞会は、浄土真宗と関係ない団体と言ってよいでしょう。そういう団体が自分達のことを「親鸞学徒」と呼ぶのは如何なものでしょうか? 親鸞聖人の教えを正しく伝えるどころか、教えに反したことを説く高森会長を唯一無二の善知識だと仰いでいるのですから、彼らの名称は「高森学徒」がふさわしいと思います。



【参照】
親鸞会ブログ・ポータルナビにも元会員さんのコメントが入っています。

救われるのに善は関係ないと言っているのに,まだ善がどうのこうのと言っているのは一体何を考えているのでしょうか。
元会員|1|2010-10-03 10:08

まだお分かりにならないのですか。救われるのに善は不要ということはご承知ですね。この世を生きていく中で善につとめるのは当たり前ですよ。何も仏法者でなくてもみんな一生懸命頑張っているではないですか。道徳的な善まで否定しているのではないですよ。善を語る前には,必ず「救われるために」とか「往生一定の身になるために」と言う言葉を付けてください。そうしないと結果として読者を騙す事になりますよ。今臨終を迎えている人に何を話すおつもりですか。「善に励みなさい」ではないでしょう。阿弥陀様の見抜いていられる私の姿とそれをそのまま救ってお浄土に連れていってくださるいわれの南無阿弥陀仏しかないではないですか。ほかに何かありますか。
元会員|2|2010-10-03 10:29

【ツッコミ】親鸞学徒の御本尊は御名号のみー浄土真宗の御本尊は名号だけではなく阿弥陀仏の形像も含みます

七大経⑫-38(四つの角目を聞け、親鸞学徒の御本尊は御名号のみ)

には、題にも見られるように、本尊についてのTS会による独断と偏見の説が見られます。
「親鸞学徒の御本尊は御名号のみ」とありますから、1つでも例外があればその説は間違いになります。TS会では蓮如上人を「親鸞学徒の鑑」と仰いでおりますが、

『元会員から見た浄土真宗親鸞会』本尊論でも相手の批判を無視し続ける親鸞会

で指摘されているように、

・山科本願寺の阿弥陀堂の本尊が木像本尊であった
・蓮如上人が「方便法身尊形」の絵像や「方便法身尊像」の木像を下附されていた


という歴史的事実から、「親鸞学徒の御本尊は御名号のみ」という説は誤りです。
TS会も事実は事実と認めて方向修正したらよいものを、自説に凝り固まって相手の主張を受け入れる広い懐を持たないために、誤りを指摘される結果となってしまいました。これも会が説いているように「自因自果」ですが、情けない限りです。

名号を聞いても絵像・木像と言った形像を拝しても、わたくし一人を助けんがためのやるせない弥陀の大慈悲心を読み取らなければなりません。
TS会の幹部講師は、『御一代記聞書』にある「あまた御流に背き候本尊以下」に阿弥陀仏の絵像・木像も含まれると言って、お風呂の度毎に焼かれたのだと主張し、蓮如上人に謗法の罪を被せていました。とんでもないことです。

「南無阿弥陀仏」の六字名号も「南無不可思議光如来」の九字名号も「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号も、立撮即行の尊形をあらわされた木像や絵像も、南無阿弥陀仏の名号法がこの私の上に活動しているすがたをあらわされたものであると心得て、「まかせよ、たすけるぞ」の弥陀の仰せを計らいなく聞き受け、本願を信じ念仏を申して、今度の一大事の往生をよくよく遂げて頂きたいと思います。



【補足】
親鸞会ブログ・ポータルナビのコメント欄にもツッコミが入っていますので引用します。

>我々、親鸞学徒は
世界の光親鸞聖人の教えられた通り
無上道を進ませて頂く以外にない
ことを再確認しておこう。

我々、高森学徒は
世界の恥高森先生の教えられた通り
諸善の道を進ませて頂く以外にない
ことを再確認しておこう。の間違いではないですか?

親鸞聖人の教えられた「只今の救い」に反して諸善をせよと言っていますからね。

淀川コナン|1|2010-09-07 06:36


引用元を明記しないと盗作になります。
「である」を「です」に変えただけではだめです。
伊藤康善『安心調べ』142ページ
「宗学の方では、かう云ふ風に論破して行く。
 善導や法然が称名本願を説いたのは、観経下々品の往生に腰を据えて、
 大経の本願文を見たのである。それは諸行に対して念仏易行を説いた
 ので、行々相対の法門といふ。親鸞が念仏為本より信心為本を勧めた
 のは、大経そのものに据つて、願成就文から、本願を見たのである。
 大経には称南無阿弥陀仏の文は一ケ所もない。願成就にも称名はない。
 信一念の往生である。ここから本願を見ると正しく信心往生である。
 乃至十念の称名は三信に収まって、唯信独達の教義が成立する。行々
 相対より唯信別開の絶対門になる。」

論文指導|2|2010-09-07 09:14

【ツッコミ】奥越親鸞学徒の集いーこんな記事を書いている暇があったら、早くURさんの法論の条件を承諾して下さい

七大経⑫-38(四つの角目を聞け、親鸞学徒の御本尊は御名号のみ)

では、O講師はTS会教義の垂れ流しばかりして、せっかく法論のお誘いがあったのに相手の条件を承諾する気配すらありません。条件と言っても、下記に挙げるように何も難しいことではありません。

今まで、親鸞聖人の教えをネジ曲げて大衆を騙し、仏法を食い物にしてきた人達は、本当の親鸞聖人の教えが大衆に知れわたることを極度に怖れます。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、ほんとうの親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。

と誓っていた会長のみ跡を慕う誇りある講師部員が、

・ブログ上で議論するのなら、私の主張の全文をあなたのブログに掲載するか、もしくは反論の元となる私のブログへのリンクを張ってください。

といった条件すら飲めないとは、情けないにも程があります。

こんな記事を挙げる前に、やることがあるでしょう。ほんとうの親鸞聖人のみ教えを開顕する気があるなら、ブログなり何なりで、堂々と上の条件に承諾し、喜んで対決に応じて下さい。

【ツッコミ】東本願寺がなぜ「歎異鈔の世界」を発刊したのかーとにかくかまってほしい古参の講師

七大経⑫-34(四つの角目を聞け、東本願寺がなぜ「歎異鈔の世界」を発刊したのか)

では、何やらO講師が相手をしてほしいと言いたげに、文章を書き連ねています。


東本願寺を代表する大学者の
二種一具の深信の解釈、
自性唯心の考えについて
如何に親鸞聖人の教えと
逸脱しているかを述べてきた。

それについて
URさんからは何の反論もないどころか、
助けてと悲鳴が聞こえそうな
メールが届いた。

URさん、この二人の大学者の書いたものは
自分には関係なく、宣伝もしていないと
言い逃れをするのだろうか。

今までコメントしてきた者までも
沈黙してしまった。



URさんという人からメールが来ているなら、個人情報に差し支えない範囲で引用して公開されたらいいのではないですか?
それにコメントが来なくなったのは、『飛雲』との論争に敗れ、東本願寺批判に論点スライドしているから、読者が呆れて相手にしていないだけだと思います。もし論争に敗れていないという自信がお有りなら、速やかに『飛雲』の質問に回答して頂きたいと思います。

・誰も化土往生できないと仰った親鸞聖人のお言葉
を出して下さい。回りくどい説明は一切不要です。直接的な根拠だけで結構です。


読者の皆さんは、O講師の誠意ある回答を望んでいますよ。よろしくお願いします。

【ツッコミ】七大経⑫-27(四つの角目を聞け、ボタンの掛け違いの恐ろしさ)ー善ができる証拠であるなどと、誰がどこで言ったり書いたりしているのか?

七大経⑫-27(四つの角目を聞け、ボタンの掛け違いの恐ろしさ)

では、またおかしな事をO講師が発言していますので、何点か指摘したいと思います。


阿弥陀仏が18願で
「十方衆生を救う」
と誓われておられるが
その十方衆生とは
どういう者であるのか。

(中略)

本願や願成就文では

「唯除五逆誹謗正法」

と弥陀が見抜かれ
その逆謗の屍を救うと
誓われたことを
明らかにした。



親鸞会では「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」といい、十方衆生が全て五逆・謗法の者であると主張しています。これは間違いです。
唯除五逆誹謗正法とはそういうことを仰っているのではありません。ではどういうことかと言うと、親鸞聖人は『尊号真像銘文』に、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と仰ってあります。「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」とはどこにも書かれていません。「十方衆生」の中に五逆、誹謗正法の重罪人もあるが、この二つの罪の重いことを示して、かかる重罪人も全て漏らさず往生させるぞと本願に誓われていることを親鸞聖人は仰っているのです。十方衆生が全て五逆、誹謗正法の重罪人であるなどとはどこにも仰っておられません。
「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」とは高森会長の無理矢理なこじつけであり、完全に珍しい教えです。



=====================

「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、
 善根薄少にして
 三界に流転して火宅を出でずと信知す」

「善根薄少」とはありますが、
「無善根」ではありません。
善根が少ないので、
自分の力では出離できないということであって、
悪しかできないということではありません。

善ができるという証拠である。
(体験至上の異安心の主張)

=====================



O講師のいう「体験至上の異安心」の人が、「善ができるという証拠である。」とどこに書いてあるでしょうか? O講師がこのように書いてあるのは、
「飛雲」
「親鸞会の邪義を正す」
などを意識したものであることに間違いありません。しかしこの一文はどこにも書かれていないのです。例えば、

親鸞会の邪義を正す

では、

 自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

と仰っています。親鸞聖人も『教行信証』信巻に引かれています。「善根薄少」とはありますが、「無善根」ではありません。善根が少ないので、自分の力では出離できないということであって、悪しかできないということではありません。


と書かれています。他にも、

高森会長による体験至上の異安心の「機の深信」とは、この程度のもの
『観経』も『観経疏』も読んだことが無いのに、知ったか振り

等にも同じことが書かれています。しかし、「善ができるという証拠である。」などとはどこにも書かれていません。O講師の付け足しであり、主張の歪曲です。

更にO講師はこの後、親鸞聖人の

「一切凡小、一切時のうちに、
 貪愛の心つねによく善心を汚し、
 瞋憎の心つねによく法財を焼く。
 急作急修して頭燃を
 灸ふがごとくすれども、
 すべて雑毒雑修の善と名づく。
 また虚仮諂偽の行と名づく。
 真実の業と名づけざるなり。
 この虚仮雑毒の善をもって
 無量光明土に生ぜんと欲する、
 これかならず不可なり」
 (教行信証信巻)


等の御文を引いて、凡夫には生死を出離するような「真実の業」ができないことを延々書いています。これではO講師のブログの読者は、まるで「飛雲」等のブログで、凡夫に真実の業ができると書いてあるかのように錯覚します。完全な情報操作です。
親鸞会が、獲信すると「微塵の善もできない極悪人」と知らされると変な事を主張していますので、「飛雲」では善導大師の御文を引いて「それは違うよ」と言っているだけです。生死を出離できるような善根が積めるなどということはどこにも書いていません。
親鸞会は、このように相手の主張を捻じ曲げて自説を展開するということしかしていないと言っても過言ではありません。説法では聞く者に誤解を与えるような話をし、つっこまれると「そんなことは言っていない」と突っぱねます。「善をしなければ信仰は進みませんよ」という話がその典型例です。



「自身はこれ煩悩を具足する凡夫、
 善根薄少にして
 三界に流転して火宅を出でずと信知す」

の御文を善ができるという
証拠にあげる者の気が知れない。



と主張を歪曲する者の気が知れません。



【参照】
『飛雲』「嘘も百回言えば真実になる」と信じ切っている親鸞会

【ツッコミ】七大経⑫-17(四つの角目を聞け、正信偈に説かれた真実の機)ー明確な根拠を挙げられず、親鸞会教義の垂れ流ししかできない古参の講師

七大経⑫-17(四つの角目を聞け、正信偈に説かれた真実の機)

では、O講師が相も変わらず親鸞会独自の教義を垂れ流しています。この内容については既に、

『飛雲』「かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ」が理解できない高森会長

にて扱われていますが、当ブログでもツッコミを入れたいと思います。



「一生造悪値弘誓」

「極重悪人唯称仏」
 (正信偈)

一生悪を造りづくめの極重の悪人。
諸仏の悲願にもれて、
見捨てられた機が
全人類の相である。

一生造悪の極重の悪人に
化土往生ができる人がいるのだろうか。



全人類がうんたらという前に、そういう貴方はどうなんですかと質問したいところです。親鸞会教義ではO講師、貴方も必堕無間ですよ。今宵後生へ出ていく覚悟はよろしいですか?
高い目標を追わされて、任務といってもビデオ法話のスイッチ係に雑用、報告ばかりではありませんか。今日や明日にも無常が迫っているのに、いつまでのらりくらりやっているつもりですか?

O講師は「全ての人は五逆・謗法の者であり、後生は必堕無間だ」と仰った釈尊や善知識方の御言葉を一つも挙げられていません。化土往生は仏説であるのに、会長の「一切衆生必堕無間」説との整合性を保つために必死に否定しています。このように善知識をおろかに思い、師をそしる者を、謗法の者というのです。そういう人とは同席してはならないと親鸞聖人は仰せです。

ところで、親鸞聖人はO講師が挙げたお言葉で、
「一生悪を造れども弘誓に値いぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむ」
「極重の悪人は、唯弥陀を称すべし」

と十八願一つお勧めになっていることが分かります。
また正信偈では、
「万善の自力、勤修を貶し、円満の徳号、専称を勧む」
ですから、浄土往生の行としては諸善を捨てて円満の徳号である念仏を専ら称えよと仰せです。

それなのにO講師は善導大師の御言葉を根拠に善の勧めを説いています。全く、親鸞会独自の珍しい教えです。これについては以前に当ブログでも取り上げていますので、

Q&A(4)ー外に賢善精進の相を現じて(1)
Q&A(4)ー外に賢善精進の相を現じて(2)

をご覧下さい。この内容はぜひO講師や親鸞会会員の方に読んでいただきたいと思います。なお、取り上げた法蔵館発行「本願のこころ」(梯實圓著)はとてもよい本なので、まだお持ちでない方はぜひお求めになっては如何でしょう。値段も1600円と手頃です。



弥陀と釈迦の、善巧方便なくして、
どうして無上の信心が我々に発起しようか。

それを善導大師は「要門」と言われ、
必要かつ重要であり通らなければ、
真実の十八願へは入れないからである。

観念の遊戯では、決して通れない。
方便だからと馬鹿にして
善に向かわねば求道は
空回りするばかりである。


弥陀と釈迦の「善巧方便」が「要門」だと言い、通らなければ真実の十八願へは入れない必要かつ重要な教えだと言っています。相変わらず善巧方便と権仮方便の区別も出来ていないので、改めて確認しておきます。

権仮方便とは、真実をそのまま説いても受け付けない者を導くために暫く用いられる、仮に設けられた法門のことです。外道の者を導くために聖道門が説かれ、聖道門の者を導くために要門が説かれ、要門の者を導くために真門が説かれました。これらは全て弘願へ導くための仮の手立てとしての意味があり、また如実に実践すればその益があるため疎かにはできませんが、既に弘願が真実だと親鸞聖人から教えられ、十八願による平生の救いを求めるようになった人には還ってこれを廃するのです。

ですから、十八願の救いを求める人には、権仮方便である要門の実践を勧められません。もし、「頭だけで合点しただけではいけない。できるかできないか、やってみなければどちらもハッキリしない」と横車を押されるならば、聖道門も釈迦が説かれた権仮方便の法門です。親鸞会会員は、聖道門ができない自分だとハッキリしているのでしょうか? 親鸞聖人のアニメだけ見て、「観念の遊戯」をしているだけです。
善巧方便と権仮方便について詳しくは、

『21世紀の浄土真宗を考える会』
善巧方便と権仮方便
方便といふこと 6

をご覧下さい。

こんな記事を書いている暇があったら、『飛雲』に書いてある、
・釈尊が韋提希に善を勧められていないと善知識方が仰っている
・極重の悪人には、権仮方便(聖道門・19願・20願)は不要である
・高森会長の説く二種深信が善導大師・親鸞聖人とは大きく異なっている
・後生の一大事の意味が違っている
・化土往生の人が多いと源信僧都・親鸞聖人・蓮如上人が仰っている
・極重の悪人でも、易く行じられるのが称名念仏である

という問題に、善知識方の御言葉を示して速やかに反論して下さい。

【ツッコミ】七大経⑫-11(凡愚低下の罪人の全人類に善ができるのか、できないのか)ー諸仏方、善知識方は化土往生を勧めていません(2)

【ツッコミ】七大経⑫-11(凡愚低下の罪人の全人類に善ができるのか、できないのか)ー諸仏方、善知識方は化土往生を勧めていません(1)の続きです。

御和讃については、『正像末和讃』に23首も仏智疑惑を誡める御和讃(誡疑讃)を詠んでおられます。『飛雲』誡疑讃について教えてあげて下さいに全ての誡疑讃と現代語訳が載っていますので引用します。


不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり
(訳)
仏の智慧を明らかにさとらない証拠として、如来のいろいろな智慧を疑い、
善悪の因果のみを信じ、自力念仏の功徳を頼みにするので、浄土の片隅の方便化土に止まるのです。


仏智の不思議をうたがひて 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずるこころなし
(訳)
仏の智慧の想いや言葉に尽くせない不思議の本願を疑って、自力の念仏を好む者は、
浄土の片隅や慢心の世界に止まって、仏のご恩を報謝する心がおこらないのです。


罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる
(訳)
善悪の因果を信じる行者は、仏の智慧の言葉に尽くせないほど不思議の本願を疑って
疑城胎宮に止まるので、真実報土の仏・法・僧から離れてしまうのです。


仏智疑惑のつみにより 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ 年歳劫数をふるととく
(訳)
仏の智慧や本願を疑う罪により、懈慢界や浄土の辺地に止まるのです。
疑う罪の深さにより、この場所で長い長い間むなしく過ごすのだと、釈尊はお説きなさったのです。


転輪皇の王子の 皇につみをうるゆゑに
 金鎖をもちてつなぎつつ 牢獄にいるがごとくなり
(訳)
自力の念仏の行者が化土に止まるのは、まるで転輪聖王の王子が聖王に背そむいた罪により、
金の鎖でつながれて牢獄に閉じこめられるようなものなのです。


自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
 うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる
(訳)
自分をたのんで称名する人は、如来の本願を信じないので、
その疑いの罪が深いから、七宝で飾られた疑城胎宮に閉じこめられるのです。


信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も
 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
(訳)
仏智を疑う自力の念仏の行者でも、他力信心の人に劣らないように救おうとしてくださる
如来の大悲のご恩を思い知って、他力の称名念仏に励みましょう。


自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける
(訳)
自分の力で善行を積み浄土往生を願う人はみんな、言葉に尽くせない仏智の本願を疑うので、
善悪因果の道理に従って自分が作った原因を身に受けて、七宝で飾られた疑城胎宮に止められるのです。


仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
 辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり
(訳)
仏智不思議の本願を疑って、念仏する功徳によって浄土に往生しようとする自力の人は、
浄土の片隅や懈慢界に生まれるので、阿弥陀如来の救いの大慈もいただけないのです。


本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり
 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる
(訳)
本願を疑う行者には、化土の蓮華の花に包まれて出られない人もいます。
あるいは浄土の片隅に生まれる者と嫌われ、あるいは疑城胎宮に堕ちる者として捨てられるのです。


如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり
(訳)
如来のいろいろな智慧を疑って、他力の念仏を信じることができないまま、
やはり善悪因果の道理のみを信じ、自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです。


仏智を疑惑するゆゑに 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを 牢獄にいるとたとへたり
(訳)
仏の智慧の本願を疑うので、母の体内のような方便化土に生まれる者は、智慧をいただくこともありません。疑城胎宮に生まれることを牢獄に閉じこめられていると譬えたのです。


七宝の宮殿にうまれては 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ 有情利益はさらになし
(訳)
七宝で飾られた疑城胎宮に生まれると、五百年もの間閉じこめられて
真実報土の三宝を見聞きすることがないので、この世に還相して人びとを救うことは全くできないのです。


辺地七宝の宮殿に 五百歳までいでずして
 みづから過咎をなさしめて もろもろの厄をうくるなり
(訳)
浄土の片隅の七宝で飾られた疑城胎宮にいて、五百年もの間そこから出られないで、
自分がおこした疑いなどのとがや罪によっていろいろな厄を受け、不安で危険な状態にいるのです。


罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり
(訳)
善悪因果の道理を深く信じて、自力念仏に励んでいる人は、
本願を疑う善人なので、真実の浄土ではなく、方便化土に止まるのです。


弥陀の本願信ぜねば 疑惑を帯してうまれつつ
 はなはすなはちひらけねば 胎に処するにたとへたり
(訳)
阿弥陀如来の本願を信じないので、心に疑いを持ち続けたまま往生はしますが、
往生した所の蓮華の花のつぼみはすぐには開かないので、母の体内にまだいるのと同じだと譬えたのです。


ときに慈氏菩薩の 世尊にまうしたまひけり
 何因何縁いかなれば 胎生・化生となづけたる
(訳)
ある時弥勒菩薩は釈尊に
「どのような因縁によって、往生を胎生・化生と区別して名付けられたのですか」と申し上げました。


如来慈氏にのたまはく 疑惑の心をもちながら
 善本修するをたのみにて 胎生辺地にとどまれり
(訳)
釈尊は弥勒菩薩に、「本願を疑う心を持ったまま
自力の念仏を励んで、その功徳で往生しようとするために胎生するのであり、方便化土の辺地に止まっているのだ」とお答えになった。


仏智疑惑のつみゆゑに 五百歳まで牢獄に
 かたくいましめおはします これを胎生とときたまふ
(訳)
釈尊は、「仏の智慧の本願を疑う罪により、五百年もの間、牢獄に
厳しく捕らえられている。これを胎生というのだ」とお説きなさったのです。


仏智不思議をうたがひて 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば 胎生のものとときたまふ
(訳)
仏智不思議の本願を疑って、念仏する功徳によって浄土に往生しようとする自力の人は、
浄土の片隅や懈慢界に生まれるので、阿弥陀如来の救いの大慈もいただけないのです。


自力の心をむねとして 不思議の仏智をたのまねば
 胎宮にうまれて五百歳 三宝の慈悲にはなれたり
(訳)
自力往生の心を最高のよりどころとして、想いや言葉に尽くせない仏の智慧の本願のはたらきを信じないので、
方便化土の疑城胎宮に生まれて五百年もの間、阿弥陀如来の三宝の慈悲から離れ、閉ざされているのです。


仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ
(訳)
釈尊は、「仏智不思議の本願を疑って、善悪因果の道理を信じて、自力の称名によって
浄土に生まれたいと願う者を、胎生の者というのだ」とお説きなさったのです。


仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば
 くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし
(訳)
仏の智慧の本願を疑う罪はたいへん深い。疑う心の罪の深さを思い知るならば、
それを悔いる心でもって、仏の智慧の想いや言葉に尽くせない不思議の本願におまかせしましょう。



いかがでしょうか。
「この善ができれば化土往生できるからやりなさい」
「この念仏を称えたなら化土往生できるから称えなさい」
などと言って19願の自力諸善、20願の自力念仏を勧めておられるどころか、誡めておられることがお分かり頂けるでしょうか。

「では釈尊は何のために定散二善などの諸善を説かれたのか。我々にやらせるためではないのか」と会員は質問しそうですから、法然聖人の御言葉で答えておきます。

定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。(念仏付属章)

定散二善を説かれたのは、念仏が諸善に超え勝れていることを顕すためだと教えられています。他にも親鸞会にとって都合の悪いことを法然聖人は教えられていますので、詳しくは【再掲】法然聖人のお言葉を参照下さい。

文証に依らず、「高森会長の体験、高森会長の言葉を根拠に親鸞聖人のお言葉を平気で捻じ曲げてゆく輩」の集団が親鸞会です。体験至上の異安心とは、彼らの事を言うのでしょう。

【ツッコミ】七大経⑫-11(凡愚低下の罪人の全人類に善ができるのか、できないのか)ー諸仏方、善知識方は化土往生を勧めていません(1)

『浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い』七大経⑫-11(凡愚低下の罪人の全人類に善ができるのか、できないのか)

では、珍しい教えがどんどん出てきております。既に

『飛雲』高森会長は異安心決定でいいですか、O講師。

にて破られていますが、こちらでも文証を挙げて珍説の誤りを正したいと思います。


諸仏方、善知識方は
御出世の本懐である
弥陀の本願一つを説かれ、
18願真実の世界に
導こうとなされている。

釈尊をはじめ十方諸仏が
廃悪修善を説かれたのは
因果の道理が宇宙の真理で
あるからではなく、
弥陀の19の願意を開顕し、
本願に相応させるためである。

しかし、十九願の善、二十願の念仏を
勧められる時、

「これはお前にはできない善だけれど
 できないことを知るために
 やるんだから、
 できない善でもやりなさい」

などとは勧められない。

「この善ができれば
 仏になれるからやりなさい」

「この善ができれば
 化土往生できるからやりなさい」

「この念仏を称えたなら
 化土往生できるから称えなさい」

と、勧めるのだ。



果たして釈尊や親鸞聖人は、
「この善ができれば化土往生できるからやりなさい」
「この念仏を称えたなら化土往生できるから称えなさい」
などと教えられているのでしょうか? 今回は『大無量寿経』の御言葉と『御和讃』を紹介したいと思います。まず、『大無量寿経』の御言葉です。少し長いので、読む気が失せてしまうという人は原文の最後の段落と現代語訳をご覧下さい。

「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。
もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。
【44】 また次に慈氏(弥勒)、他方仏国の諸大菩薩、発心して、無量寿仏を見たてまつり、〔無量寿仏〕およびもろもろの菩薩・声聞の衆を恭敬し供養せんと欲はん。かの菩薩等、命終りて無量寿国に生ずることを得て、七宝の華の中において自然に化生せん。弥勒、まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑなり。その胎生のものはみな智慧なし。五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞の衆を見ず、仏を供養するによしなし。菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず。まさに知るべし、この人は宿世のとき、智慧あることなくして疑惑せしが致すところなり」と。
【45】 仏、弥勒に告げたまはく、「たとへば、転輪聖王のごとき、別に七宝の宮室ありて種々に荘厳し、床帳を張設し、もろもろの旛を懸く、もしもろもろの小王子ありて、罪を王に得れば、すなはちかの宮中に内れて、繋ぐに金鎖をもつてす、飲食・衣服・床褥・華香・妓楽を供給せんこと、転輪王のごとくして乏少するところなけん。意においていかん。このもろもろの王子、むしろかの処を楽ふや、いなや」と。
対へてまうさく、「いななり。ただ種々に方便して、もろもろの大力〔ある人〕を求めてみづから免れ出でんことを欲ふ」と。仏、弥勒に告げたまはく、「このもろもろの衆生もまたまたかくのごとし。仏智を疑惑せしをもつてのゆゑに、かの〔胎生の〕宮殿に生じて、刑罰乃至一念の悪事もあることなし。ただ五百歳のうちにおいて三宝を見たてまつらず、〔諸仏を〕供養してもろもろの善本を修することを得ず。これをもつて苦とす。余の楽ありといへども、なほかの処を楽はず。もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離れんことを求めば、すなはち意のごとく、無量寿仏の所に往詣して恭敬し供養することを得、またあまねく無量無数の諸余の仏の所に至りて、もろもろの功徳を修することを得ん。弥勒、まさに知るべし。
それ菩薩ありて疑惑を生ずるものは、大利を失すとす。このゆゑに、まさにあきらかに諸仏無上の智慧を信ずべし」と。


【現代語訳】
「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。
(44) また弥勒よ、他の仏がたの国のさまざまなすぐれた菩薩たちも、さとりを得ようとして無量寿仏を見たてまつり、その仏をはじめとして菩薩や声聞たちに至るまで敬い供養したいと思うのである。これらの菩薩たちも、命を終えて後に無量寿仏の国に生れ、七つの宝でできた蓮の花におのずから化生するのである。
(45) 釈尊が弥勒菩薩に仰せになった。
 「たとえば転輪聖王が王の宮殿とは別に七つの宝でできた宮殿を持っているとしよう。そこにはさまざまな装飾が施されており、立派な座が設けられ、美しい幕が張られ、いろいろな旗などがかけられている。その国の王子たちが罪を犯して父の王から罰せられると、その宮殿の中に入れられて黄金の鎖でつながれるのであるが、食べものや飲みもの、衣服や寝具、香り高い花や音楽など、すべて父の王と同じように何一つ不自由することがない。さてその場合、王子たちはそこにいたいと願うだろうか」
弥勒菩薩がお答えする。
 「いいえ、そのようなことはないでしょう。いろいろな手だてを考え、力のある人を頼ってそこから逃れ出たいと思うでしょう」
 そこで釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。
 「胎生のものもまたその通りである。仏の智慧を疑ったためにその宮殿の中に生れたのであって、何のとがめもなく、少しもいやな思いをしないのであるが、ただ五百年の間、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、仏がたを供養してさまざまな功徳を積むこともできない。このことがまさに苦なのであり、他の楽しみはすべてあるけれども、その宮殿にいたいとは思わないのである。
 しかしこれらのものが、その苦は仏の知恵を疑った罪によると知り、深く自分のあやまちを悔い、その宮殿を出たいと願うなら、すぐさま思い通り無量寿仏のおそばへ行き、うやうやしく供養することができる。また、ひろく数限りない仏がたのもとへ行ってさまざまな功徳を積むこともできる。
 弥勒よ、よく知るがよい。仏の智慧を疑うものはこれほどに大きな利益を失うのである。そうであるから、無量寿仏のこの上ない智慧を疑いなく信じるがよい」


仏智を疑う者は胎生(化土往生)であって、大利を失うから明らかに仏智を信じなさいと教えられています。親鸞聖人はこのお言葉を『教行証文類』に引用され、仏智疑惑を誡めておられるのです。(つづく)
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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