文底秘沈の教えを信奉している輩は、相手の主張をすりかえることがお好き

『夢幻界裡の覚醒』凡夫の浅智 と 如来広大の恩徳

では、自称本願寺の僧侶は

『飛雲』浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

の一部を断章取義して非難しています。

自称本願寺の僧侶は、「信心決定しても判ることは僅かです」という飛雲さんの言葉を「如来広大の恩徳を知ることができない」という意味にすりかえ、その上「救われたら死後のことが判るのか」という論点から「救われたら如来広大の恩徳が知らされるのか」という論点にすりかえています。ホント好きですね、論点すりかえ。夢幻界裡氏の正体は実はすりかえ仮面なんですね(笑)(ニコニコ動画 番組をすりかえちゃえ!の巻参照。見るにはニコニコ動画への登録が必要です) もっとも、すりかえ仮面は子供達を楽しませる愉快な人物であるのに対し、自称本願寺の僧侶は勝他のために議論をする自己中心的な人物のようですが。
さて、飛雲さんがどこに「如来広大の恩徳を知ることができない」とか、そういった内容のことを書いているのでしょうか? 少なくとも私は見たことがありませんが、文底秘沈の教えを信奉している輩には見えるのかも知れません。

『飛雲』では、信心決定は驚天動地の体験だとか、信心決定すると極楽往き間違いなしとハッキリするとか、曠劫より常没流転してきた過去も出離の縁あることなき未来もハッキリ知らされるとか、全人類が逆謗の屍であると知らされるとか、三世十方を見通す仏の智慧を頂くとか、その他相当のことが知らされると主張する親鸞会の邪義を破っています。『飛雲』浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからずでは、その内「信心決定すると極楽往き間違いなしとハッキリする」「曠劫より常没流転してきた過去も出離の縁あることなき未来もハッキリ知らされる」などという親鸞会の主張を、『執持鈔』の言葉を挙げて破っているのです。なお、この類の議論については最近ですと今年の2月に、

『安心問答』「信心決定すると曠劫多生迷ってきた自己がハッキリ知らされる」と言ってしまった浄土真宗親鸞会高森顕徹会長(2月19日テレビ座談会に参加した方の情報より)

のコメント欄にてなされています。自己の三世がハッキリするという会員さんは高森会長の厚い信者で、体験したかどうかも分かりませんが自己の体験と高森会長の言葉に固執して、根拠を挙げての説明も届かなかったことが印象に残っています。こうした「信心決定すると極楽往き間違いなしとハッキリする」などを始め、相当のことがハッキリ知らされるという親鸞会の主張に対して『飛雲』では「信心決定しても判ることは僅かです」と言っているのであって、この言葉が「如来広大の恩徳を知ることができない」という意味ではないことは明白です。逆に、お聖教と異なることを主張することこそ、「弥陀の本願の真仮を知らない」輩である証拠でしょう。ここでも夢幻界裡氏の言葉を借りますと、

********************
(まとめ)

「信心決定すると極楽往き間違いなしとハッキリする」
「曠劫より常没流転してきた過去も出離の縁あることなき未来もハッキリ知らされる」(高森会長)

「それは弥陀の本願の真仮を知らないからである」(宗祖聖人)
「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず」(覚如上人)

********************

ということです。

それにしても、『執持鈔』やその他祖師方のお言葉と異なることばかり教えている団体の会長、またその会長を擁護する自称本願寺の僧侶は、一体何宗何教の信者なのでしょう? 真宗に昏き者とは、彼らの事を指して言うのにピッタリの言葉です。そんな真宗に昏き者達につき従う会員さんは、実に哀れです。邪義を信じているから「如来広大の恩徳を知ることができない」のだと知って、一日も早く親鸞会から解放されて本願に帰依して頂きたいものです。
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約束の一つも守れなくて善の勧め? 笑わせるねぇ。

『夢幻界裡の覚醒』修善も雑毒なるゆえに

では、

『飛雲』『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り25

を断章して相変わらずの飛雲攻撃がなされています。今回の断章取義もまたひどいものです。まず、夢幻界裡氏が「これが飛雲の主張だ」と載せている文章は、

********************
●飛雲氏

 「真実の善はできないが雑毒の善はできる」なら、
 「真実の善は微塵もできない」という意味になって、  
 「雑毒の善である定散二善はできる」ということになります。

 (中略)

 何度も教えてさしあげているように、
 下品上生以下は、雑毒の善もできない者のことですから、
 雑毒の善ができる人は、中品下生以上になります。

                       (飛雲のブログより)

********************

です。一方、この文章の元となった飛雲さんの記事の文章は、

********************
また、「微塵の善もできない」の「善」とは、どんな善のことでしょうか?
これについては、いつも曖昧な説明ですが、「真実の善はできないが雑毒の善はできる」というのが高森会長の主張ですから、この高森会長の言葉を信用するなら、「真実の善は微塵もできない」という意味になって、「雑毒の善である定散二善はできる」ということになります。韋提希は定散二善ができなかったと説明していますが、結局私たちには「雑毒の善である定散二善はできる」ということで、韋提希と私たちとは違うことになり、矛盾が生じますが、どういうことでしょうか?まさか、定散二善が真実の善だとでも思っているのでしょうかね。
何度も教えてさしあげているように、下品上生以下は、雑毒の善もできない者のことですから、雑毒の善ができる人は、中品下生以上になります。

********************

です。元々高森会長の主張を仮定した上での話だったはずが、飛雲さんが「真実の善はできないが雑毒の善はできる」と主張していることになって、その上で話が進んでしまっています。飛雲さんの主張は

「微塵の善もできない」と高森会長が主張する内容が・・・
・微塵の善もできない=真実の善も雑毒の善もできない → 私達は下品上生以下
・微塵の善もできない=真実の善はできないが雑毒の善はできる → 私達は中品下生以上


ということです。そして、

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(化身土文類)

と、定善・散善三福のできる善人も、五逆の極重の悪人も、「ただ弥陀を称せよ」と聖人が仰っているように、雑毒の善ができてもできなくても18願他力念仏1つを願えというのが真宗であるということです。

一方で高森会長は、私達は必堕無間、逆謗の屍だと言います。すなわち私達は下三品、中でも最低の下品下生だと主張しています。定善も、散善三福もできない、つまり雑毒の善もできない極悪人だということです。しかしまた一方で高森会長は善を勧めます。それも定散二善を根拠にです。釈尊は下三品には善は勧められず、念仏一つを勧められていますから、これは私達が雑毒の善のできる中品下生以上でなかったらあり得ないことです。この矛盾を飛雲さんは挙げ、親鸞会の「善の勧め」という邪義を批判しているのですが、自称本願寺の僧侶は断章取義して無理矢理飛雲さん攻撃をしているのです。



それにしても、

『飛雲』書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

の記事が出てから2週間近く経ちますが、親鸞会の方から「法論に応じる」という返答はないようです。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

親鸞会はかつてこのように公約していたようですが、今では見る影もありません。こんな約束の一つも守れなくて善の勧め? 笑わせるねぇ。そしてやっていることが影でこそこそと相手の主張を断章取義して攻撃とは、つくづく呆れた団体です。釈尊が「地獄に堕ちる」と仰っているのはどういう連中なのか、知らぬは本人達ばかりです。

「地獄一定」という言葉は同じでも、その意味するところが違う

『夢幻界裡の覚醒』宗祖の「地獄一定」は「機の深信」

では、

『飛雲』人の主張をネジ曲げてまでエントリーを書き、その上機の深信について未だに理解できないとは…
『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(後生の一大事について)
『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(機の深信と罪悪観との違いについて)

などに対して断章取義で貫かれた内容が綴られています。

なお、夢幻界裡氏は『真宗の教義と安心』を断章し、本願寺と親鸞会が同じ主張をしているかのように書いていますが、勘違いも甚だしいと言わねばなりません。『真宗の教義と安心』は当ブログでも紹介していますが、

二種深信の意義ー二種深信、捨機託法、二種深信と信罪福心

に、彼の挙げた文章を掲載しています。前後も含めて読んでみると

 機の深信とは、自らが地獄一定の存在であると、機の真実を信知することであり、法の深信とは、本願はそのような機をまちがいなく救う法であると、法の真実を信知することである。
 この二種深信は互いに矛盾した事実(地獄一定、往生決定)の信知と理解されやすい。しかし、機の深信の意味するところは自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知することであり、法の深信の意味するところは、出離ひとえに阿弥陀仏の救済の力にあると信知することである。すなわち、機の深信は自らのはからいを捨てさる(捨機)ということであり、また法の深信は阿弥陀仏の救済にすべてをまかせる(託法)ということである。このように二種深信は矛盾した信ではない。自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということは阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということであり、阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということは自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところであって、これは別なことではなく、『高僧和讃』にも、

 煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ(五九一)


とうたわれている。


と書かれています。ここでは、機の深信、つまり「地獄一定の存在であると、機の真実を信知する」とはどういうことであるかを、

・機の深信の意味するところは自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知すること
・機の深信は自らのはからいを捨てさる(捨機)ということ
・自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということ
・自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところ


であると言い換えられています。ですから、『真宗の教義と安心』にある「地獄一定」とは、

自力無功、捨機、捨自

という意味です。これは『飛雲』で主張されていることと何ら変わりありません。それに、「地獄一定の存在であると、機の真実を信知する」とは『歎異抄』の「地獄は一定すみかぞかし」を挙げて説明しているのでもありません。挙げられている『高僧和讃』の根拠では「煩悩具足と信知して」とあり、地獄一定とは煩悩具足の別の表現であることが分かります。

ところが親鸞会で主張している機の深信とは、一切衆生が必堕無間と知らされる、逆謗の屍であると知らされるということです。ですから親鸞会が言っている「地獄一定」とは、

一切衆生必堕無間、逆謗の屍

という意味です。「地獄一定」という言葉は同じでも、その意味するところが違うのです。まとめると、

本願寺 ― 地獄一定(=自力無功、捨機、捨自)
飛雲  ― 自力無功、捨機、捨自
親鸞会 ― 地獄一定(=一切衆生必堕無間、逆謗の屍)


となります。誰の主張がおかしいか、一目で分かりますね。地獄一定と書いてあれば他は全て無視してそこだけに飛びつく、だから断章取義だと言われるのです。地獄地獄と地獄にこだわっているのは親鸞会だけです。


それにしても、本願寺と親鸞会は同じ主張であり、本願寺及び親鸞会とは異なる飛雲さんは異安心だと自称本願寺の僧侶は言いたいようですが、親鸞会は本願寺を十劫安心とか称名正因の異安心と非難していることをお忘れですか? 飛雲を意識するあまり、飛雲を破ることしか頭にない様子で、異安心呼ばわりしている団体と親鸞会が同じであると書いていることにお気づきでしょうか? 異安心なのは親鸞会と貴方ですよ、自称本願寺の僧侶さん。下手に書けば書くほど、返って親鸞会及び自分の邪義が浮き彫りになるだけです。皆貴方方に呆れていますよ。

飛雲さんがどうこう言う前に、夢幻界裡氏は高森会長が「他流。 邪義。 明らかである。」と言っているようなものです

『夢幻界裡の覚醒』機の善悪と、報土往生の可否

では、

『飛雲』悪人正機も理解できない親鸞会

を断章取義して取るに足らない言葉遊びがなされています。何せ根拠が高森会長の言葉ですから、自称本願寺の僧侶さんは厚い高森信心をお持ちで、親鸞聖人よりも彼を重んじている様子が窺えます。読者の皆様には、両者のブログを見比べて、どちらの主張が理にかなっているか、親鸞聖人の教えに合致しているか検証してみて下さい。それにより飛雲さんが断章取義と言っている意味が一層よく分かると思います。

さて、親鸞会発行『本願寺なぜ答えぬ』では、

我々の救い(信心獲得)に前後ができるのは、ひとえに、各自の、宿善の厚薄による(p.93)

と書かれています。つまり、往生に前後ができるのは、宿善の厚薄によるというのです。親鸞会によれば、過去世の善根の厚い人は前に救われ、過去世の善根の薄い人は後に救われるということです。これはすなわち、過去世の善根の厚い人は報土往生に近く、過去世の善根の薄い人は報土往生に遠いという、遠近の関係があると言っているのと同じです。
ではどういう人が過去世の善根の厚い人で、どういう人が過去世の善根の薄い(少ない)人かと言えば、

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。(唯信鈔)

という会員もよく知っているお言葉から分かります。この事から親鸞会では、過去世の善根の厚い善人は、過去世の善根の薄い悪人よりも早く救われる、ということになります。
こうした高森会長の主張は、夢幻界裡氏の言葉を借りれば、

宿善の厚い人よりも、宿善の薄い人の方が、報土往生が「遠い」

 すなわち、

 ”機の善悪が、報土往生に(遠近の)関係がある”

 という。


となるでしょう。これは勿論、夢幻界裡氏が挙げている

機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。(口伝鈔)

のお言葉より邪義であることは明らかです。なお、宿善の厚薄と往生が親鸞会の主張通りの関係でないことは、先ほど挙げた『唯信鈔』のお言葉の後に出てくる、

宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。

というお言葉からも分かるでしょう。親鸞会の宿善論はここに破綻を見ることができます。

飛雲さんがどうこう言う前に、夢幻界裡氏は高森会長が「他流。 邪義。 明らかである。」と言っているようなものです。自分で尊敬する先生を「他流」「邪義」と非難してしまっています。
それにしても、どうしてこうも高森信心の人は影でこそこそが好きなのでしょう? 「どちらが正しいか公開討論しようじゃないか。カゲでコソコソせずに明るいところへ出ておいで。(『顕正一口メモ(A)』)」




【補足】
ちなみに親鸞会では「十方衆生に善人は一人もいない」などと主張しておりますが、宿善に厚薄があるということは善人悪人がいる、ということです。ここでも親鸞会教義は破綻していることが分かります。

【ツッコミ】極重悪人と三願転入3ー自爆&情けない自称本願寺の僧侶

『夢幻界裡の覚醒』極重悪人と三願転入3

では、『飛雲』に加えて当ブログを意識した記事が書かれています。引用するのは構いませんが、どうせならURLを載せて堂々と反論してもらいたいところです。陰でこそこそと批判し、会員へのワクチン接種しかできないところは、いつまでたっても直らないTS会の体質です。

さて、極重悪人と三願転入3では大きく2つの論点について書かれています。1つ目が、「定散の諸機」=「極重悪人」なのかということについて。そして2つ目が、三願転入についてです。

1つ目は、『飛雲』「定散の諸機」「極重悪人」と「機の深信」悪人正機も理解できない親鸞会にも書かれているのでご覧下さい。「自分の力では報土往生できない」という点では定散の諸機も極重悪人も同じであると親鸞聖人は見られ、共に「ただ弥陀を称せよ」とお勧めになっています。しかし、だからといって「定散の諸機」=「極重悪人」ではありません。『飛雲』にも書かれているように、国語の問題です。



2つ目の三願転入についてですが、


>【三願転入の教え】

【三願転入は万人が通らされるプロセス】

これらは、他の文献にも多々あることは事実であるから、
認めざるを得なかったであろう。



別に私は上の自称本願寺の僧侶氏の説を認めたとも認めないとも書いていません。三願転入は、まず親鸞聖人の実際の体験なのかそうでないのか、全ての人にあてはまるのかそうでないのか、あてはまるとしたら三願転入をいつの事と見るべきか、など様々に議論の分かれるところですから、私は「三願転入のとらえ方については各種様々ですが」と書きました。
それにTS会で言われる「三願転入の教え」とは、選択の願海に転入するのに、まず万行諸善の仮門、そして善本徳本の真門で教えられる行を修せよという教えです。つまり、18願の救いに遇うために、19願・20願の行を修せよという教えなのです。実際会員がそのように理解していることは、

これが親鸞会会員の三願転入の理解です

のciel氏の説を見れば分かります。そのような珍説は浄土真宗にはありませんので、「TS会で説かれるような三願転入の教えはない」というのが当ブログやTS会批判者の立場です。
よくTS会会長は三願転入の説明をする時に、

この親鸞は、善知識方のお導きによって、こうこうこういう道を通って選択の願海に転入した。ではどういう道かと言うと、まず「久しく万行諸善の仮門にいた」と仰っている。

と話し、万行諸善の仮門である19願の説明に入っていました。そして19願を開説された『観経』の顕説から定散二善を挙げ(※1)、イダイケが定善に取り組んだように吹き込み(※2)、縦と横の線を指して「横の道(※3)を通らなければ(ここを、19願の修諸功徳の善を実行しなければと会員は理解する)、選択の願海へは入れない」という内容の話を延々されたのを覚えています。

※1 私の在籍当時は定散二善の内容はろくに説明されませんでした。
※2 イダイケは定善を実行していません。
※3 横の道に該当する教えは浄土真宗にはありません。


定散二善を根拠とした善を勧めるのは、「善ができる」という私達の自惚れ心を捨てさせ、願に相応させるためであると何度も聞き、「善をしなければ信仰は進みませんよ」と会合では繰り返し聞かされました。ところがこの度、自称本願寺の僧侶は


>親鸞会で金輪際主張されていないことを、
親鸞会の主張だと言っている。

「十八願の救いに遇うために十九願・二十願の行を実践せよ」

親鸞会で、こんなことが教えられているのだと言う。

(中略)

18願の救いは、「名号を聞く一つ」。
これが親鸞会の主張である。



と主張してきました。一体この僧侶はTS会で何を聞いているのかと疑いたくなります。
TS会がいつも「目的地ですよ」などと話している18願の救いへの道のり、道程ということで19願、20願の説明がなされ、19願については「阿弥陀仏が勧めておられるんだぞ。万行諸善の仮門のことを善導大師は要門と仰せだ。要門とは、重要、必要、絶対に通らねばならないかなめの教えということだ。善をせよ、やらないものにはできるかどうかどちらもハッキリしないのだ。それでは、逆謗の屍と見抜かれた本願に相応しないのだ」などと説かれています。その結果、会員は尻を叩かれて、やれ法話の目標参詣人数が足りんだとか、やれ正本堂御報謝の募り直しだ、ドメイン財施だと活動しているのに、このような発言をしています。


>都合の悪いところは誤魔化そうとしているのもよくわかる。

とは、自称本願寺の僧侶氏自身のこととしか思えないのは私だけではないでしょう。
「十八願の救いに遇うために十九願・二十願の行を実践せよ」というのが間違いで、「18願の救いは、「名号を聞く一つ」」というのならば、獲信のために(因縁として)定散二善を勧めるTS会教義は間違いということになります。TS会が会員に善を勧めるのは、会員を18願の救いに導く以外にないはずだからです(それとも別の目的があるのでしょうか?)。
自称本願寺の僧侶さん、長々と御苦労様でした。おかげでTS会教義が破綻したデタラメな教義であることがよくわかりました。


それでも、

>まだ「定善も散善も出来ぬ極重悪人」とは知らされていないならば、
ただ弥陀を称せよとお勧めの相手ではない。


と主張し、定散二善を勧めるのならば、長々とした説明は結構ですから、18願の救いを求める人に「定善も散善も出来ぬ極重悪人」と知らされるために定散二善を修せよと教えられた親鸞聖人のお言葉を示して下さい。断っておきますが、偽物の根拠を出されても誰も認めませんのでお忘れなく。


ところで、

『さよなら親鸞会』本願寺に魂を売る講師部員

では、二股かけている講師部員、親友部員がいるとのことですが、二股という点では自称本願寺の僧侶氏も変わりません。貴方の尊敬するT会長は自ら本願寺を飛びだしたのに、この僧侶はわが身の生活が心配で御身大切・保身に汲々とし、そんな勇気がないのでしょうか。或いは立場を詐称しているのでしょうか。本当に僧籍を取っている本願寺の僧侶ならば情けないことこの上ありませんし、立場を詐称しているならばそんな者が内道だの因果の道理だの廃悪修善だのと言っていても全く説得力がありません。


以上で、今回のツッコミは終わります。


【補足】
親鸞会ブログ・ポータルナビに以下のツッコミも入っています。


>「十八願の救いに遇うために十九願・二十願の行を実践せよ」
> 
> 親鸞会で、こんなことが教えられているのだと言う。

もしこれが間違いだとすると、親鸞会では何のために十九願・二十願の行の実践が勧められているのだろう?

信心決定と無関係なことを一生懸命勧めているわけ?

親鸞会は信心決定一つ目的とする団体、というのは大ウソだったの?

名無しさん|1|2010-09-09 08:02


「過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。」

「宿善というものも待っていて来るものではなく、努力精進して求めてゆくものである。かかる人にこそ宿善到来ということがあるのである。」

宿善を求めないと信心決定は「あり得ない」そうです。

「十八願の救いに遇うために十九願・二十願の行を実践せよ」
っていうのと、何が違うの?

名無しさん|2|2010-09-09 09:42


親鸞会がいつも使う逃げの手口をまた使ってますね。

>「十八願の救いに遇うために十九願・二十願の行を実践せよ」
> 
> 親鸞会で、こんなことが教えられているのだと言う。

「我が身の後生の一大事解決のため(18願の救いに遭うため)に、御報謝頑張りましょう(善をしましょう)」
「御報謝を頑張るのは誰のためでもありません。我が身の後生の一大事の解決のためです」

親鸞会の講師から耳にタコができるぐらい聞かされましたよ。

こう言うとおそらく「善をしなければ信仰が進まないということと、善をすれば救われるということは違う。それがわかってない。」といういつものドグマが登場します。

もしそうなら、「善をしなければ信仰は進まない」と仰った親鸞聖人のお言葉を示してください。

(以下略)

名無しさん|3|2010-09-10 00:08

【ツッコミ】極重悪人と三願転入2ー珍釈がお好きな自称本願寺の僧侶

今回は、極重悪人と三願転入2について、ツッコミを入れていきます。



飛●氏は、
 
>「定散の諸機」=「定善・散善ができる人」

と言う。そして

>「定散の諸機」に入らない「極重悪人」に対して、
>親鸞聖人が19願を勧められることなどあり得ないことです。

と述べている。

「定散諸機と極重悪人とは別人」と考えていることが分かる。



それに対して、宗祖は、

 『観経』の定散の諸機は、極重悪人、
  ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

と仰せである。

「定散の諸機、その人が、極重の悪人である」

とおっしゃっている。

「定散の諸機と極重の悪人とが別人」

という飛●氏が間違いであることは、これにて証明済みである。


そして飛●氏が言うように、
 
「定散の諸機」=「定善・散善ができる人」
 
が正しいならば、宗祖のお言葉は、
 
「定善・散善ができる人」=「極重悪人」
 
ということになり、飛●氏の誤りは歴然としている。



何が証明済みで誤りは歴然としているのでしょうか? 独自の理論とは、自称本願寺の僧侶のようなことを言うのでしょう。親鸞聖人は「定散の諸機、その人が、極重の悪人である」などとは、教えておられません。この僧侶の珍釈です。

さて、釈尊は『観経』の十悪、五逆の罪人である下三品には、諸善ではなく念仏を勧められています。源信僧都は釈尊のこころを読み取り、

『観経』に、極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得。(往生要集)

と仰いました。「極重の悪人」とありますので、下三品の中でも下下品の機のことです。仏は極めて罪の重い悪人に対しては、定散二善を勧められず、ただ(本願を信じ)念仏して極楽に生まれよと説かれるのです。

ところが親鸞聖人は、この源信僧都のお言葉を受けて、

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。(化身土文類)

と仰り、19願の対機である「定散の諸機」に対しても「ただ弥陀を称せよ」とお勧めになっています。
なぜでしょうか?

これについては既に、『飛雲』定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなりに取り上げられているので、引用します。

19願の対機である「定散の諸機」も「極重悪人」と親鸞聖人は見られたのです。
要門釈の最初に

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

と、親鸞聖人は19願を聖道門の人を誘引するための願と仰っていますが、聖道門から19願に入った「定散の諸機」に対してさえも、19願の方便を勧められず、「極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。
「定散の諸機」も「極重悪人」であるから、18願他力念仏だけを勧められているのです。
更にこの後に「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり」と結んでおられます。

山邊習学・赤沼智善著『教行信証講義』には、このところを、

「極重悪人無他方便」の文は念仏証拠門十文の中、第四文である。この文は、『要集』では『観経』下々品の意を述べたるものとなつてゐて定散の諸機に冠らすべきものではないのであるが、我が聖人がこの文を引用して『観経』定散の諸機は極重の悪人、他の方便なければ唯弥陀を称名せねばならぬと見給ふたので、茲にも聖人の醇乎たる宗教的態度を見ることが出来る。即ち聖人から見れば、下々品の念仏はすべて定散の諸機に蒙らしむべきもので、定散の機類は一応善機と云はれるけれども、徹底的にいへばすべて極重の悪人であるといふのである。我が聖人はいつも、ものの表面を見ないで、真を徹見し給ふのである。定散の機といふは表相である、仮相である。真なる相は、本願正所被の極重悪人なのである。

と解説されています。

つまり、一応善機といえる「定散の諸機」も「極重悪人」と親鸞聖人は見られ、そのような19願の対機である「定散の諸機」に対しても「ただ弥陀を称せよ」とお勧めになられているのです。

ましてや、もともと定散二善によって往生しようとしていない、すでに18願の救いを求めている人に定散二善が勧められているはずはないのです。



『観経』の定散の諸機は、極重悪人

という宗祖のお言葉で明らかなように、
 
『観経』に説かれている「定散の諸機」は、
本当は「極重の悪人」なのである。
 
「極重の悪人」であっても、
「定散の諸機」は19願の相手となる。

すなわち、「定散諸機」は、
本当は、「極重の悪人」であり、
善などで助かる器ではなく、
ただ佛を称する他力以外に救われる道はない。
にもかかわらず、そう見抜いておられる弥陀の本心を疑い、
そんな極重の悪人とは思えない「疑心の善人」だから、
19願の御方便が必要なのである。


と書いていますが、「疑心の善人」という言葉の使い方がおかしなことは、【ツッコミ】極重悪人と三願転入(3)ー根拠も解釈も偽物が好きな自称本願寺の僧侶で、すでに述べました。



親鸞会は、
下々品の機である「極重悪人」を
「定散の諸機」に昇格しているのではなく、
「定散の諸機」は、
いまだ下々品の機「極重悪人」とは思えない人
と主張しているのである。



親鸞会ではどうしても「全ての人は微塵の善もできない極悪人」としたいようです。

「嘘も百回言えば真実になる」と信じ切っている親鸞会でも言われているように、その理論だと初歓喜地まで悟った龍樹菩薩も「極重悪人」ということになりますから呆れます。



「三願転入は、すべての人を導かれる弥陀のお計らい。」

これまで、多くの先達が、このように説いてこられた事実は、

数多くの文献に明らかである。



三願転入のとらえ方については各種様々ですが、親鸞会のように十八願の救いに遇うために十九願・二十願の行を実践せよと説いている者はどうでしょうか? 
数多くの文献があるなら、十や二十紹介してもらいましょうか、自称本願寺の僧侶さん。

また、三願転入を計らうなではなく、十八願を計らうなと教えられたのが親鸞聖人であることは、すでに、
『元会員からみた浄土真宗親鸞会』
「三願転入を計らうな」なのか?、「18願を計らうな」なのか?
(補足)「三願転入を計らうな」なのか?、「18願を計らうな」なのか?
で指摘済みです。



妄想は自由ではあるが、宗祖の御教えを違えて教える罪
は大きい。

間違いなく、無間業である。



そっくりそのままお返しします。

以上で、今回のツッコミは終わります。

【ツッコミ】極重悪人と三願転入(3)ー根拠も解釈も偽物が好きな自称本願寺の僧侶

夢幻界裡の覚醒 極重悪人と三願転入

へのツッコミを続けたいと思います。


『親鸞聖人御遺言法語一名真宗授要続編 釈 教名集』を出して、親鸞聖人が定散二善を勧めた根拠にしています。これについて、

『飛雲』井の中の懲りない面々のコメント欄

で幹部会員歴数十年さんが指摘しておりますので引用します。

『親鸞聖人御遺言法語一名真宗授要続編 釈 教名集』について、『真宗大辞典巻二』(鹿野苑刊)p.1264に、
「親鸞聖人御法語二巻、文応元年(1260)6月聖人の弟子教名の集めし者にして宝暦11年(1761)6月教名の末孫常陸笠間の光照寺教円がこれを校刻した。」とあり、本願寺派の江戸時代の学者玄智や履善はこれは宗祖のものでもなく、又宗祖の意に反する内容のもとしている。
とあります。根拠も解釈もすべて偽物が好きなんですね、M野。


それらしい根拠があれば何でも引っ張ってくる傾向がブログの著者には見受けられます。宗祖の教えは宗祖の御言葉をもって示して頂きたいものです。



されば、19願の相手は、
形が浄土門かどうかではない。
形ではなく、心が問題である。

「極重悪人に対して善の勧めは”不要”などと
 自分で計らう余地がある程度の信仰で、
 逆悪の自分とは知らされていない”疑心の善人”もすべて」
が相手である。

(中略)

未だ、「極重の悪人」と知らされていない「疑心の善人」に、
絶対に必要なものが19願の方便だったのである。



ブログの著者は度々「疑心の善人」という言葉を使っていますが、意味をよく心得ているのでしょうか? まず、親鸞聖人が「疑心の善人」と仰っているお言葉を挙げます。『正像末和讃』の仏智疑惑和讃の一首です。

罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

(訳)
善悪因果の道理を深く信じて、自力念仏に励んでいる人は、本願を疑う善人なので、真実の浄土ではなく、方便化土に止まるのです。

ご和讃の最初の二句「罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは」のもとになったのは、『大経』の「なほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん」のお言葉です。親鸞聖人はこのお言葉を『化身土文類』では、要門について教えられている部分と真門について教えられている部分の2カ所に引文されています。ですから、「罪福ふかく信じつつ善本修習するひと」とは19願または20願の行者であり、それを「疑心の善人」と教えられているのです。そして、そういう19願、20願の行者は方便化土に止まると仰って、18願を疑うことを誡められているお言葉です。

そういう「疑心の善人」というお言葉をもってきて

「疑心の善人」に、絶対に必要なものが19願

とブログ著者は書いていますが、文脈を無視した解釈と言わざるを得ません。
19願・20願の行者に本願疑惑を誡められているのが、上のご和讃です。19願の行信を勧められているお言葉ではなく、19・20願の行者を誡められたお言葉です。意味が反対なのです。言葉の意味も理解していない自称本願寺の僧侶は、一から本願寺で勉強し直した方がよろしいかと思います。



「極重の悪人は、他の方便なし。」とは、

「19願の定善散善の勧めが不要」というこちらの計らいなどではない。

「19願の定善散善など出来ない極重の悪人でありました、
 弥陀を称する他力以外に救われる道はありませんでした」
という、弥陀の御心の信知である。



またしてもこのような珍説を唱えております。そこまで自信満々に仰るのでしたら、
極重の悪人と知らされるために定善・散善をせよと教えられた親鸞聖人の直の御言葉を示して下さい。
大体定散二善は、行自体は聖道行であり、親鸞聖人は定散二善は出来難いことを「化身土文類」に教えられています。そして速やかに真門へ入れよと仰せられてあります。「速やかに」ということを親鸞会ではどのように理解しているのでしょうか? 「善を一生懸命やってできない自分と知らされて」からでは「速やかに」ではありませんよ。
ただし、真門の教説は本願の名号の称功を認めておりますから、仏智を疑い報土往生することができません。ですから本願力によって自力の心を離れなさいと18願をお勧めになっているのです。
このように真門を勧められている個所は「教行証文類」に一か所だけあります。しかし、後には廃捨されている権仮方便の教説ですし、親鸞聖人が最も力を入れられたのは「誡疑讃」などに見られる信疑廃立ですから、親鸞聖人のお勧めは18願一つと言うことができます。



「定散の諸機」は、「定善・散善ができる人」ではなく

「極重悪人」と宗祖が言われている。



これは、親鸞聖人の

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。

の御言葉が根拠なのでしょうが、本願寺出版社の現代語訳によれば、

また『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪が重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。

とあって、「定散の諸機」=「極重悪人」ということは言われていません。もっと本願寺の教学を勉強してからものを言って下さい。でなければお笑いものです。


「自称本願寺の僧侶の矛盾点は、まだまだある。」のですが、ありすぎますので今回はこの位にしておきます。

【ツッコミ】極重悪人と三願転入(2)ー因果の道理について

夢幻界裡の覚醒 極重悪人と三願転入

について、今回もツッコミを入れます。



そもそも、浄土門は、内道。
誰も否定できないであろう。
されば内道を信じないまま、浄土門は信じられない。

内道を信じるとは、因果の道理を信じること。
因果の道理を信じないままで、
阿弥陀仏の浄土往生を願うことは出来ないということだ。
弥陀の浄土を願わせようとされた釈迦の教えが
常に因果の道理を説き、善を勧められているのも当然。
弥陀が必要と思われて、勧めておられることだからである。



これについて、三点ほど書きたいと思います。
まず第一に、親鸞会流因果の道理は間違っていることが随所に指摘されています。これについては、

【考察】親鸞会の「善の勧めの実践」と「自因自果」

のリンク先をご覧下さい。

第二に、因果の道理をうるさく説いているはずの親鸞会、また会長が、まともに廃悪修善をしているとは思えないことをしています。

・「親鸞会教義の誤り」への反論を依頼した特専部員を除名する。
・反論もしないのに、「これが親鸞聖人の正しい教えだ」と主張し、間違った教えを弘め続ける。「誤りを犯さないことを誇りとするよりも 誤りを直ちに改めることを誇りとしよう」ではなかったのか。
・大沼氏や伊藤氏からの盗作しておきながら、あたかも自分が書いたものであるかのように振る舞う。
・意図的な断章をした御文を教学聖典に用い、会員に親鸞会ドグマを浸透させる。
・根拠が存在しなかったり、根拠が間違った御文を教学聖典に掲載し続ける。
・法論すれば相手の主張を歪曲し、相手があきれて論戦放棄すると、勝手に勝利宣言。
・深夜に親鸞会が貸与した正御本尊を取り返そうと、会員が押し掛ける。
・F館は6階部分に会長御殿がありながら、会員には嘘をついて5階建てと案内。
・大学では正体を隠した偽装勧誘を繰り返し、職員及び学生に迷惑をかけている。


ありすぎて書き切れませんが、こんなことをしている団体が、自分たちの事を内道だと思っているところがおめでたいです。

そして第三に、善悪因果の道理にとらわれて本願の救いを計らっているままでは、明らかに仏智を信じて浄土往生することは出来ないということです。

もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。(大無量寿経)

【現代語訳】
「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。

不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり
(訳)
仏の智慧を明らかにさとらない証拠として、如来のいろいろな智慧を疑い、
善悪の因果のみを信じ、自力念仏の功徳を頼みにするので、浄土の片隅の方便化土に止まるのです。


罪福信ずる行者は 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば 三宝にはなれたてまつる
(訳)
善悪の因果を信じる行者は、仏の智慧の言葉に尽くせないほど不思議の本願を疑って
疑城胎宮に止まるので、真実報土の仏・法・僧から離れてしまうのです。


自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける
(訳)
自分の力で善行を積み浄土往生を願う人はみんな、言葉に尽くせない仏智の本願を疑うので、
善悪因果の道理に従って自分が作った原因を身に受けて、七宝で飾られた疑城胎宮に止められるのです。


如来の諸智を疑惑して 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ 善本修習すぐれたり
(訳)
如来のいろいろな智慧を疑って、他力の念仏を信じることができないまま、
やはり善悪因果の道理のみを信じ、自力念仏がすぐれていると励んでいる者がいるのです。


罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
 疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり
(訳)
善悪因果の道理を深く信じて、自力念仏に励んでいる人は、
本願を疑う善人なので、真実の浄土ではなく、方便化土に止まるのです。


仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を
 修して浄土をねがふをば 胎生といふとときたまふ
(訳)
釈尊は、「仏智不思議の本願を疑って、善悪因果の道理を信じて、自力の称名によって
浄土に生まれたいと願う者を、胎生の者というのだ」とお説きなさったのです。


このように、善悪因果の道理を深く信じる行者は、本願を疑うために浄土へ生まれられず、方便化土に止まると教えられています。
ここで注意しておきたいのですが、これは「善をするな」「悪はし放題やってよい」ということではありません。勿論、倫理・道徳的な善悪を心得て、悪を慎み善に向かう姿勢は大事です。しかし、それは浄土往生とは無関係と心得るべきです。
因果の道理を強調し、廃悪修善の実践の先に救いがあるかのように説くことは、聞く者の浄土往生を妨げ、方便化土に止めることになるでしょう。ですから親鸞聖人、蓮如上人の書かれたものには因果の道理についての記述がほとんどないのも頷けます。


☆まとめです☆

・親鸞会流因果の道理は、本来仏教で説かれる因果の道理とは異なっている
・因果の道理を説いている者、また団体が、まともに廃悪修善を実践しているとは言い難い
・廃悪修善の実践の先に救いがあるかのように説くことは、聞く者の報土往生を妨げることになる


因果の道理を説き、内道を自称するからには、相応の行が伴わなくてはなりません。そうでないなら、因果の道理は説くべきではないでしょう。釈尊はそういう外道の者を導くために聖道門を説かれたのですから、聖道門からスタートした方がよいかも知れません。聖道門はれっきとした方便の教説です。(つづく)

【ツッコミ】極重悪人と三願転入(1)ー本願寺の主張にも疎い自称本願寺の僧侶~再び~

夢幻界裡の覚醒 極重悪人と三願転入

が更新されましたが、相手の主張の捻じ曲げ度は更新毎にひどさをましています。以前は今ほどでもなかったのですが・・・
これから何回かに分けて、ツッコミを入れていきたいと思います。


親鸞会批判者の主張を、

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
【邪説】
 
「弥陀の三願は孤立している」
 
「三願転入の教えは存在しない」

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

と書いていますが、正確に言うと、

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
【親鸞会批判者の主張】

「弥陀の生因三願には真仮が有り、十九願・二十願は真実十八願の
前には廃捨されるべき権仮方便の願である」
 
「十八願の救いに遇うために、十九願・二十願の行を実践しなけ
ればならぬ、という親鸞会流三願転入の教えは存在しない」

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

です。

【ツッコミ】”三願転入の教えはない”という邪説2ー本願寺の主張に疎い自称「本願寺の僧侶」

に挙げましたが、『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)には

 親鸞聖人は、この三願について、第十九願より第二十願へ、第二十願より第十八願へという、いわゆる三願転入の表白をされている(「化身土文類」四一二)。これを、聖人の実際の体験とみるか否かについては、異論のあるところであるが、たとえこれを聖人の求道の過程と見ても、まず第十九願より入れという意味ではなく、第十九・第二十願は捨て去られるべきものであり、第十八願のみに依れという意味ととるべきである。(p.2~p.3)

と書かれており、親鸞会流三願転入の教えは否定されています。

本願寺の主張にすら疎いとは、

”視野が狭すぎ!”
”不勉強にも、ほどがあるよ!”

そう言いたくなる気持ちも、理解してもらえますでしょうか?



さてさて、三願孤立の邪説者の、大きな共通点の一つは、

19願の相手として、
「定散二善が出来る人」
「菩薩行を行える善人」
なる人が「実在」すると理解し、
それを「定散諸機」と理解し、
それらのみを相手に誓われたのが第19願、
と領解していることである。

すなわち、
19願意を説かれた観経の、定散二善で、
釈迦が導かれた相手「定散諸機」は、
「逆悪の人ではない」
「そんな行ができる善人」
と理解し、

正信偈の「矜哀定散与逆悪」という宗祖のお言葉も、
蓮師「正信偈大意」の
「されば定散の機をも五逆の機をも、
 もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。」というお言葉も、

「定散」と「逆悪」とを分けられているのだから、
19願の相手は、そのうちの
「逆悪の人ではない」
「定散二善のできる人」と理解している。

飛●氏もそうだ。


これが、真仮が分かっていないと言われる所以である。

飛●氏の主張は、
方便で教えられていることを真実と受け止めているのだから、
未だ方便に留まっている教え、ということになるであろう。



どこが、真仮が分かっていないと言われる所以なのでしょうか?
方便で教えられていることを真実と受け止めているとは、本当は権仮方便の教説なのに、それを真実の教説と思って実践していることを言うのでしょう。
『飛雲』を読む限り、管理人さんがそうだとはとても思えません。真実は十八願であり、権仮方便の十九願・二十願を廃捨して、十八願に入れといつも書かれています。

一方、親鸞会では真実十八願の救いに遇うために方便十九願の行を勧めていますから、親鸞会教義は会員を「未だ方便に留めている教え」、ということになるでしょう。
十九願の行は化土の業因であり、臨終来迎を期待せずしては方便化土へも生まれられない行であって、真実報土へは往生できないと嫌われる行です。親鸞聖人の教えには、十八願の救いに遇うために十九願の行をせよという勧めはありません。真仮を知らざるのは自称本願寺僧侶氏と氏が絶賛する高森氏でありましょう。

それにお聖教は素直に読めばいいものを、高森流解釈で読むからおかしくなるのです。蓮如上人が、

「されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。」

と仰っているのですから、本願に漏れている人はいないのだと受け取ればよいのです。
ある一定の結論の元、それに合うように教義を構築したのが高森氏ですから、そんな高森氏を尊敬するこの僧侶がヘンテコな解釈しかできないのも当然です。やはり知識は選んで聞かないといけません。(つづく)

【ツッコミ】”三願転入の教えはない”という邪説2ー本願寺の主張に疎い自称「本願寺の僧侶」

今回は、『夢幻界裡の覚醒』”三願転入の教えはない”という邪説2についてツッコミを入れたいと思います。
相変わらず親鸞会理論の焼き増しですが、本願寺が親鸞会の「三願転入の教え」を認めるかのような文章を書いています。


そもそも「三願転入」について、古今の浄土真宗に諸説ある中で、
現在の本願寺の中でも、ちょっと調べればすぐ分かるほど、
 
「親鸞聖人の”三願転入”という宗教体験は、
 単に聖人個人の体験に留まらず、
 ”浄土三部経全体の構造”まで明らかにする内容であり、
 ”浄土真宗教学の根幹をなす教え”にもなっています。」
 
と、【三願転入】は浄土真宗の【教え】と主張される人は
よくあるのであり、(当たり前だが)
「三願転入の教えが七高僧にない」などというのは、
「三願転入」という言葉がなければ、その教えはない、という超低級か、
それに毛が生えた程度の浅薄な理解である。
七高僧の教えどころか、
”浄土三部経全体の構造”とか”浄土真宗教学の根幹をなす教え”
と理解できている学者に、少なくとも及ばない程度ということ。
 
その分際で、「三願転入の教え」を主張する親鸞会を「間違いだ」と言っているのは、
自分が正しいと強引に決め付ける幼さと妬みマル出しの悲しさである。



相変わらずどこから引っ張り出してきたのか分からない文章です。せめて論文名と著者名位は明らかにしてもらいたいところです。

さて、『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)には三願転入について書かれている箇所がありますが、この本をブログの著者は知っているでしょうか? 該当箇所だけ引用すると、

 親鸞聖人は、この三願について、第十九願より第二十願へ、第二十願より第十八願へという、いわゆる三願転入の表白をされている(「化身土文類」四一二)。これを、聖人の実際の体験とみるか否かについては、異論のあるところであるが、たとえこれを聖人の求道の過程と見ても、まず第十九願より入れという意味ではなく、第十九・第二十願は捨て去られるべきものであり、第十八願のみに依れという意味ととるべきである。(p.2~p.3)

とあります。

親鸞会の主張するように、第十八願に救われるのに第十九願・第二十願の行をやれとは教えていないことがわかります。「本願寺の僧侶」なら、親鸞会流「三願転入の教え」は否定されていること位お分りになりませんかね?

親鸞会の言うことが正しいと主張するなら、親鸞聖人が第十八願の救いを求める人に第十九願の修諸功徳の善をやりなさいと勧められている根拠を示して下さい。いくら長々と文章を連ねたところで、明確な根拠がないのでは珍しい教えと言われて仕方がありません。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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