蓮如上人と三願転入にどのような関係が??

浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集いでは、昨日の記事にも紹介しましたが『親鸞学徒の鑑:蓮如上人(93)(三願転入の道)』などと題して親鸞会流三願転入の教えを懲りもせずに書き続けています。友人から「蓮師と何の関係があるのか知らんが…」というメールをもらいましたが、全く同感です。
蓮如上人と三願転入を関係づけることがそもそも間違いなのです。第一、蓮如上人は三願転入について仰っていませんし、後生のために、他力の信心を獲るためには三願転入しなければならないなどとは一言も書かれていません。『御文章』を読んでみれば明らかです。それどころか、後生のために、信心獲得のためには定散二善等の雑行・雑善を投げ捨てて、一心一向に弥陀に帰命せよとばかり書かれているのです。その根拠は80通のお手紙の中でも何か所も書かれていて挙げれば長くなってしまいますが、これから何回かに分けて蓮如上人のお言葉を紹介していきたいと思います。

 当流、親鸞聖人の一義は、あながちに出家発心のかたちを本とせず、捨家棄欲のすがたを標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、さらに男女老少をえらばざるものなり。
 さればこの信をえたる位を、『経』(大経・下)には「即得往生住不退転」と説き、『釈』(論註・上)には「一念発起入正定之聚」(意)ともいへり。これすなはち不来迎の談、平生業成の義なり。
 『和讃』(高僧和讃・九六)にいはく、「弥陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」といへり。
 「外儀のすがた」といふは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり。つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり。
 さてこのうへには、たとひ行住坐臥に称名すとも、弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもふべきなり。これを真実信心をえたる決定往生の行者とは申すなり。(御文章1帖目2通)


親鸞聖人の一義とは、不来迎の談、平生業成の義です。それは「即得往生住不退転」とあるように、第18願の教法を指しています。対して第19願とは臨終来迎を誓われた願であり、不来迎の談、平生業成の義ではありません。

・不来迎のことも、一念発起住正定聚と沙汰せられ候ふときは、さらに来迎を期し候ふべきこともなきなり。そのゆゑは、来迎を期するなんど申すことは、諸行の機にとりてのことなり。真実信心の行者は、一念発起するところにて、やがて摂取不捨の光益にあづかるときは、来迎までもなきなりとしらるるなり。されば聖人の仰せには、「来迎は諸行往生にあり、真実信心の行人は摂取不捨のゆゑに正定聚に住す、正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る、かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。この御ことばをもつてこころうべきものなり。(御文章1帖目4通)
・諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。(口伝鈔)


とある通りです。19願の行者は諸行往生の機であり、臨終の来迎を期待しなければ胎生辺地までも生まれることができません。ですから真宗に19願の勧めなどありはしないのです。

さて、蓮如上人は『高僧和讃』を引いて不来迎の談、平生業成の義を懇ろに諭されます。まず和讃では「弥陀の報土をねがふひと」と言われ、18願による報土往生を願う人はこのようにしなさいということが教えられています。

「外儀のすがたはことなりと」とは、「外儀のすがた」といふは、在家・出家、男子・女人をえらばざるこころなり」から分かるように、一切の人々がその姿形、資質、才能などは異なれど、その違いは選ばない、差別しないということです。

『「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり』ですから、どのような罪の重い者であっても、回心懺悔して、弥陀如来の本願を信知しなさいと教えられているのです。「三願転入の道を進みなさい、定散二善に励みなさい、19願を通らねば18願にはアリ一匹入れないのだ」などということは少しも教えられていません。「弥陀如来の本願」とは第18願のことですから、18願一つお勧めになっています。

では、弥陀如来の本願を信知しようと思うなら、どうせよと教えられているでしょうか。19願の善をせよ、定散二善をせよ、やらねば信仰は進まないなどと教えられているのでしょうか。蓮如上人に聞いてみましょう。

 問うていはく、さてかやうに弥陀如来のわれらごときのものをすくはんと、たびたび願をおこしたまへることのありがたさをこころえわけまゐらせ候ひぬるについて、なにとやうに機をもちて、弥陀をたのみまゐらせ候はんずるやらん、くはしくしめしたまふべきなり。
 答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。これを信心をえたる多屋の坊主達の内方のすがたとは申すべきものなり。(御文章1帖目10通)


「善をすれば信仰が進み、獲信に近づく」というような心は、ひとえに本願力の回向によって救うと誓われた第18願に反して、自力の善が獲信に近づくのに役立つとあて力にする心です。これを「もろもろの雑行をこのむこころ」というのです。それは「もののいまはしくおもふこころ」と同じく「すて」と教えられています。「余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして」と仰っているのと同様に、諸行・諸善にもこころをかけてはならないのです。

 これによりて、その信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において、今生のいのりをのみなせるこころを失ひ、またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり。(御文章2帖目2通)

信心獲得しようというなら、「諸善・万行にこころをかけず」と教えられています。蓮如上人の教えに19願の勧めがあるのかないのか、三願転入の道とやらを説かれているのかいないのか、明々白々ですね。


18願一つを勧められた蓮如上人は「三願転入の道」とやらを説いておらず、逆に定散二善などの諸善を「雑行・雑善」ときらって「後生のため、獲信のためには投げ捨てよ」と教えられていますから、「三願転入の道」を否定しています。親鸞会の理屈から言えば、そんな蓮如上人は

 それは弥陀の本願を否定し、
 釈迦一代の教を否定し、
 七高僧を否定し、
 親鸞聖人の教えを否定する、
 仏教の門戸も知らぬ
 浅ましき外道である


ということになるでしょう。いい加減謗法の限りを尽くすのは止めてもらいたいと思います。



【補足】
親鸞学徒の鑑:蓮如上人(94)(三願転入を否定する者あらば)にて、ブログの著者が何やら疑問を投げかけていますが、既に『親鸞会の邪義を正す』会員との問答(19願・諸善・方便)等で論破されている通りです。参照して下さい。
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蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(2)

蓮如上人は、後生のため、往生のため、獲信のために必ず通らねばならぬ道があるなどとは教えられていません。その道を進むために19願の善をせよとも教えられていません。全く祖師、蓮師の教えられていない珍らしき法を親鸞会は教え、会員に善もどきの善を勧めて獲信を妨げています。本日は蓮如上人と三願転入にどのような関係が??に続き、蓮如上人のお言葉を通して親鸞会流三願転入の教えなど真宗にはないことを見ていきたいと思います。

 しづかにおもんみれば、それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。これおほきにまれなることぞかし。ただし人界の生はわづかに一旦の浮生なり、後生は永生の楽果なり。
 たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、盛者必衰会者定離のならひなれば、ひさしくたもつべきにあらず。ただ五十年・百年のあひだのことなり。それも老少不定ときくときは、まことにもつてたのみすくなし。これによりて、今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。
 そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。
 その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。
 さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。
 この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。  
 かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。(御文章2帖目7通)


人界の生はわずかに一旦の浮生であり、栄華栄耀をきわめても盛者必衰会者定離のならいで長続きしません。しかも老少不定ですから、まことたよりになるものがありません。そういう世の中ですから、「今の時の衆生は、他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり」とお勧めになっています。では、他力の信心をえて浄土の往生を遂げるにはどうせよと教えられているでしょうか?

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。

智慧、才学、富貴、貧窮、善人、悪人、男子、女人等、人間には一人一人、ありとあらゆる差別があります。他力の信心をとるのに、それらすべての差別はない、智慧や才学のあるなしは関係ない、というのが「さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず」ということです。なら、何が問題なのかというと、次に「ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす」と仰っています。

雑行についてWikiarkより引用しますと、
正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くことをめざす聖道門の行である諸善万行を往生行として転用したものであるから、このようにいう。化土の業因であるとされている。
ということです。もともと往生行ではない諸善万行を至心・発願・欲生の心で行ずるから浄土方便の善と言われますが、これは化土の業因であって、親鸞会の人が誤解しているように横の道(本来は横の道などないのですが)を進むためにやらねばならない善ということではありません。
さて、繰り返しますが、定散二善などの諸善万行(雑行)は方便化土の因であって真実報土の因ではありません。そして阿弥陀仏の光明は雑行を修める行者を照らし摂めませんから、雑行と名づけてきらわれ、捨てよと教えられるのです。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。(化身土文類)

では正行とはどういうことかと言えば、これもWikiarkより引用しますと、
正当純正なる往生行。浄土教では、とくに阿弥陀仏に対する読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養の五を、阿弥陀仏に関係のない諸善万行(雑行)に対して正行という。
ということです。なお、「じゃあ五正行(親鸞会ではおつとめを五正行に充当している)をやっていればいいのか」と早とちりする人がいるといけませんので、正行に帰するとはどういうことか、『御文章』の続きを読んでみましょう。

その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。

阿弥陀仏の救いにあずかるに、衆生の側で何か用意しなければならないというものではありません。善をしてできない自分が知らされるとか、後生の一大事に驚きがたつとか、こちらが何かしてそういう状態にならなければならないということではありません。私を往生成仏せしめる用意は如来の方で既にされていますので、私の側からは何も要りません。なので「なんのやうもなく」です。
私を往生成仏せしめる用意とは、弥陀が五劫の思惟、兆載永劫のご修行の末成就された南無阿弥陀仏の名号のことです。「南無(我をたのめ)阿弥陀仏(必ず救う)」の大悲招喚の勅命を計らいなく聞き受けたすがたが弥陀を一心一向にたのむすがたですから、正行に帰するとは本願の名号を疑いなく聞き受け、阿弥陀仏の光明に摂取されたことを言うのです。そうなった人は、この世の命が尽きたら必ず浄土へ往生し、成仏すると教えられています。
往生のために私が用意するものは何もなく、ひとえに如来の誓願を計らいなく聞き受けた一念の安心一つで浄土に往生するとは、何と易いことでしょうか。

この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。

蓮如上人のお言葉の通りです。逆にこのような本願でなければ、「かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬるわれらごときのいたづらもの(御文章1帖目3通)」である私は到底助かることはありませんでした。何と有難く、かたじけないことでしょうか、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

では、そんな「こころえやすの安心」なら、どうして信心獲得する人が少ないのでしょうか? もし貴方が信心獲得できずに「何と信を獲るとは難しいのか」と思っているなら、どうして「こころえやすの安心」と言われるのか疑問がおきませんか? それは、ひとえに本願力によって助けると誓われた他力本願、他力回向の教えをそのまま聞かず、こちら側で様々に疑い計らっているからです。
「修めた善や称えた念仏が少しは救いの足しになるだろう」
「善をやらんよりやった方が早く救われるだろう」
「さすがの阿弥陀仏でも、今のままの私を助けることはできないに違いない」
「自力の計らいを捨てなければ、他力に帰すことはできない。自力の計らいをどうするか」

せっかく本願力回向の教えを聞いてはいても、このような計らいで撥ねつけて如来の勅命を聞かず、背を向けて逃げまどう者が沢山あります。私もその一人でした。自力の計らいをすてて真実信心を獲る人は稀ですから、

これによりて『大経』(下)には「易往而無人」とこれを説かれたり。この文のこころは、「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、浄土へはまゐりやすけれども、信心をとるひとまれなれば、浄土へは往きやすくして人なし」といへるはこの経文のこころなり。

と蓮如上人は教えられています。

自力の計らいは自分ではどうにもならないのに、自力を何とかしようともがいて如来の勅命を聞かないのは実に勿体ないことです。もし方便の善をしなければ捨たらないようであれば、「自力を捨てるために善をしなさい」と教えられるはずです。そうではなく、自力は本願を聞くところに捨たる、本願力によって捨たるのですから、「さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし」と重ねて教えられているのです。

親鸞会の三願転入の教えは、蓮如上人の教えからは出て来ようがない「文底秘沈の教え」です。会員は善もどきの善の勧めでますます本願力を疑い、「とりやすき信心」を「とりにくき信心」にしてしまっていると言えます。善を修めたら修めただけ、「救いに近づいているはずだ」「何もやっていないよりは、たいして聴聞や破邪顕正、財施をしていないあの人よりは早く救われるだろう」という思い(自力の計らい)は強まるだけです。会員さんはこの2帖目7通の始めのお言葉をよく噛み締めて、親鸞会の教えで自分は今救われることができるのか、真剣に考えて頂きたいと思います。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(3)

今回も蓮如上人のお言葉を通して、真宗に親鸞会流三願転入の教えなどないことを見ていきたいと思います。

 これによりて親鸞聖人のすすめましますところの他力の信心といふことを、よく存知せしめんひとは、かならず十人は十人ながらみなかの浄土に往生すべし。
 さればこの信心をとりてかの弥陀の報土にまゐらんとおもふについて、なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんをこころうべきや。ねんごろにこれをきかんとおもふなり。
 答へていはく、それ、当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。これまことにわれらが往生の決定するすがたなり。このうへになほこころうべきやうは、一心一向に弥陀に帰命する一念の信心によりて、はや往生治定のうへには、行住坐臥に口に申さんところの称名は、弥陀如来のわれらが往生をやすく定めたまへる大悲の御恩を報尽の念仏なりとこころうべきなり。これすなはち当流の信心を決定したる人といふべきなり。(御文章2帖目8通)


まず、親鸞聖人のお勧めは「他力の信心」つまり第18願であって、「(19願の善、20願の念仏の実践の末、18願の世界に入るという親鸞会流の)三願転入」ではありません。では、その信心を獲得して弥陀の報土に参ろうと思うならどのようにしたらよいと教えられているでしょうか? 誰しも聞きたいことでしょう。お手紙の中でも尋ねている人がいます。蓮如上人はそれについて「まず19願の善をせよ、三願転入しなければ助からない」などと教えているのでしょうか? 続きを読んでみたいと思います。

それ、当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。これまことにわれらが往生の決定するすがたなり。

衆生の造作は何も要りませんから「なにのやうもなく」です。我々に、阿弥陀仏に救われる方法論はないということです。
次に「わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」ということですが、これは他力信心を機と法の二種に開いて表されています。この前半部分だけを読んで、「自己の罪悪に畏れなければならない」と理解してはなりません。他の御文章には「あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず」(2帖目10通)「それわが身の罪のふかきことをばうちおきて」(3帖目1通)等とありますから、自己の罪悪は問題にするなということです。親鸞会のように自己の罪悪を問題にして、「後生に驚きが立たねばならない、地獄一定の自己が知らされねばならない」ということではないのです。これについて詳しくは、『元会員から見た浄土真宗親鸞会』『顕真』1月号法友通信を読むを参照して下さい。
「弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、もろもろの雑行をすてて専修専念」ですから、ひとえに阿弥陀仏に往生をおまかせしなさい、往生行としての諸善万行をすてて正定業である本願の念仏を二心なく専ら称えなさい、とのお勧めです。定散二善をやりなさい、三願転入しなさいなどとは一言も書かれているどころか、「もろもろの雑行(定散二善などの諸善万行)をすてて」と仰っています。

また引くところの文(定善義)のなかに、「自余衆善雖名是善若比念仏者全非比校也」といふは、意のいはく、これ浄土門の諸行に約して比論するところなり。念仏はこれすでに二百一十億のなかに選取するところの妙行なり。諸行はこれすでに二百一十億のなかに選捨するところの粗行なり。 ゆゑに「全非比校也」といふ。また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。ゆゑに「全非比校也」といふ。(選択本願念仏集)

とあるように、定散二善などの諸行は本願の中に選び捨てられた粗行であり、念仏は本願の中に選び取られた妙行です。選び捨てられた粗行をことさら勧め、選び取られた妙行を軽視するのでは、善知識方のお勧めとは逆です。親鸞会は親鸞聖人と逆のことを勧めていることをお分かり頂くと共に、他力の信心を獲るのにこちらの造作は要せず、ひとえに如来のおはたらきで信心を獲ることを知って頂きたいと思います。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(4)

蓮如上人が「阿弥陀仏に救われるために善をせよ」と勧められていないことは、以下のお言葉が最も分かりやすいと思います。

 そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。
 しかれば一心一向といふは、阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり。このゆゑに人間においても、まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。されば外典のことばにいはく、「忠臣は二君につかへず、貞女は二夫をならべず」(史記・意)といへり。阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、その師匠の仏をたのまんには、いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。このいはれをもつてよくよくこころうべし。
 さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、万善万行の総体なれば、いよいよたのもしきなり。(御文章2帖目9通)


「阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる」ですから、阿弥陀仏の救いに関しては善は雑行と名づけて嫌われているのです。どうしてかというと、阿弥陀仏の誓願(18願)には「一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはん」と誓われているからです。
この「一心一向」ということについて、蓮如上人は、「阿弥陀仏において、二仏をならべざるこころなり」と解説しておられます。これを親鸞会では「阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神は我々を助ける力がないから捨てよということだ」と解説しますが、この「捨てよ」と言われるものの中に一つ、決定的に抜けているものがあります。それが親鸞会が勧める「諸善」です。
阿弥陀仏以外の諸仏、菩薩、諸神に我々を助ける力がないように、我々の修する善に我々を助ける力はありません。だから阿弥陀仏を一心一向にたのむとは、余仏をたのまないことに加えて、自己の修する善根功徳をたのまないことなのです。余仏をたのんでいては阿弥陀仏に一心一向になれないのと同様、善をたのんでいては阿弥陀仏に一心一向になれません。だから、諸善は雑行と名づけて嫌われるのです。
こう言うと、会員さんは「私たちは善をたのんではいない」「善で救われると親鸞会は一度だって説いたことはない」と反論するかも知れません。では、会員の皆さんは何の為に親鸞会で勧められる善をしているのでしょうか? 後生の一大事の解決のため、信心決定のため、阿弥陀仏に救われるためではないのでしょうか? そして、善で救われることはないにしても、横の道を進んで縦の線にたどり着くまでは必要だと考えてはいないでしょうか? 実はそれが、「修善は獲信とよい関係にある」と思って我が身の善根をたのんでいるすがたなのです。それでは阿弥陀仏を一向にたのむことができないのも当然です。
この「一向」ということについて、法然聖人は、

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

と教えておられます。往生のためには諸行(諸善)を廃してただ念仏を用いるから一向と言うのです。一向専念無量寿仏とは、阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩・諸神を廃するだけでなく、諸行も廃するということです。親鸞会の説明は不十分であるだけではなく、会員が無量寿仏に一向専念することを妨げているのです。
また親鸞聖人も、「一向」という事について以下のお言葉で教えておられます。

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。(一念多念証文)

一向とは「余の仏を念ぜず」だけではなく、「余の善にうつらず」ということも含まれるのです。「余の仏」と「余の善」は並列関係にあります。このように余行を廃して念仏一行を用いることが善知識方の教えであることは、蓮如上人が後に

さて南無阿弥陀仏といへる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、そのほか万善万行も、ことごとくみなこもれるがゆゑに、なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや。

と仰って、「一切の諸神・諸仏・菩薩」に「そのほか万善万行」を加えて、「なにの不足ありてか、諸行諸善にこころをとどむべきや」と教えられていることからも分かります。このような教えに反して、獲信への道程として諸善を勧め、諸行諸善にこころをとどめされているのが親鸞会なのです。それだけではなく、本願の名号をお飾りにしてそのこころを正しく説いていないのです。親鸞会で説かれることと言えば本来ないはずの獲信への道程ばかりで、肝心の本願のこころ、名号のいわれが明らかにされることはありません。これでは何十年聞いても詮の抜けた風呂のようで、会員の心に真実信心の水が蓄えられることがないのも頷けます。

それでも会員は「阿弥陀仏に一心一向になるのは縦の線(信一念)のことで、それまでは通らねばならぬ道程があるのだ」と頑なに信じていますが、ではその「通らねばならぬ道程」とやらを蓮如上人は教えられているでしょうか。続きを読んでみたいと思います。

 これによりて、その阿弥陀如来をば、なにとたのみ、なにと信じて、かの極楽往生をとぐべきぞなれば、なにのやうもなく、ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよほされて、仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、仏心と凡心とひとつになるところをさして、信心獲得の行者とはいふなり。

阿弥陀仏を何とたのみ、何と信じて極楽往生を遂げるのかといえば、今まで書いてきたように「なにのやうもなく」ですから衆生の造作は要せず本願力一つにて信心決定し、往生が決定するのです。
一念帰命の信心(他力の信心)を機(ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを)と法(かたじけなくも弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて)の二種に開いて顕され、その一念帰命の信心をおこせば、まことに宿善の開発にもよおされて仏智より他力の信心を与えられ、仏凡一体の身になります。勿論、自分でおこす信心ではなく、仏智より与えられる信心です。そういう身になった人を信心獲得の行者と言うのです。
ここでの宿善開発とは、親鸞会で教えるように薄かった宿善が修善によって厚くなり、そして開発したという意味ではありません。蓮如上人のお言葉からは、信一念までに修善をせよという教えは見当たりません。これは「阿弥陀仏の一方的なおはたらき」を意味しています。「宿善」には「過去世の善根」ということに限らず、何通りもの意味があるので注意しなければなりません。詳しくは、『親鸞会教義の誤り』宿善とは等をご覧ください。

蓮如上人の教えは始めから終わりまで本願のこころ、名号のいわればかりで、獲信への道程やその道程を進むために善をせよという教えはありません。対して高森会長の話は、始めから終わりまで獲信への道程やその道程を進むために善をせよということばかりで、本願のこころ、名号のいわれは説かれません。最近の親鸞会では会員に「聖人一流章」しか読ませないようですが、これはまともに『御文章』を拝読すれば、このように親鸞会の教えを真っ向から否定する文章が沢山あることに気がついてしまうからです。そろそろ会員の皆さんは、捨てよと言われる雑行を勧められ、実態は組織拡大のために利用されているだけだという事実に気づいて頂きたいと思います。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(5)

今回も、『御文章』を通して他力の信心のおもむきと、親鸞会でいう三願転入の教えなど存在しないことを見ていきたいと思います。

 それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、経・釈ともにあきらかにみえたり。さればその他力の信心のすがたを存知して、真実報土の往生をとげんとおもふについても、いかやうにこころをももち、またいかやうに機をももちて、かの極楽の往生をばとぐべきやらん。そのむねをくはしくしりはんべらず。ねんごろにをしへたまふべし。それを聴聞していよいよ堅固の信心をとらんとおもふなり。

 答へていはく、そもそも、当流の他力信心のおもむきと申すは、あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。

これによりて弥陀如来の遍照の光明のなかに摂め取られまゐらせて、一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふべし。さていのちも尽きぬれば、すみやかに真実の報土へおくりたまふなり。しかればこのありがたさたふとさの弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮にはただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。このこころすなはち、当流にたつるところの、一念発起平生業成といへる義これなりとこころうべし。

さればかやうに弥陀を一心にたのみたてまつるも、なにの功労もいらず。また信心をとるといふもやすければ、仏に成り極楽に往生することもなほやすし。あら、たふとの弥陀の本願や。あら、たふとの他力の信心や。さらに往生においてその疑なし。しかるにこのうへにおいて、なほ身のふるまひについてこのむねをよくこころうべきみちあり。それ一切の神も仏と申すも、いまこのうるところの他力の信心ひとつをとらしめんがための方便に、もろもろの神・もろもろのほとけとあらはれたまふいはれなればなり。しかれば一切の仏・菩薩も、もとより弥陀如来の分身なれば、みなことごとく、一念南無阿弥陀仏と帰命したてまつるうちにみなこもれるがゆゑに、おろかにおもふべからざるものなり。

またこのほかになほこころうべきむねあり。それ国にあらば守護方、ところにあらば地頭方において、われは仏法をあがめ信心をえたる身なりといひて、疎略の儀ゆめゆめあるべからず。いよいよ公事をもつぱらにすべきものなり。かくのごとくこころえたる人をさして、信心発得して後生をねがふ念仏行者のふるまひの本とぞいふべし。これすなはち仏法・王法をむねとまもれる人となづくべきものなり。(御文章2帖目10通)


この御文章には、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義である他力の信心ということと、念仏行者のふるまいの本とが書かれています。まず、親鸞聖人の一義である他力の信心ということについて、蓮如上人はどう教えられているか、見ていきます。
他力の信心ということを詳しく知らなければ今度の一大事の往生極楽は望めないことは、経・釈ともに明らかです。「ならばその他力の信心ということをよく知って、真実報土の往生を遂げようと思うのですが、くわしくお聞かせ下さい」という人に蓮如上人はお答えになっています。

答へていはく、そもそも、当流の他力信心のおもむきと申すは、あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、さらに一念も本願を疑ふこころなければ、かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。これによりて弥陀如来の遍照の光明のなかに摂め取られまゐらせて、一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふべし。さていのちも尽きぬれば、すみやかに真実の報土へおくりたまふなり。しかればこのありがたさたふとさの弥陀大悲の御恩をば、いかがして報ずべきぞなれば、昼夜朝暮にはただ称名念仏ばかりをとなへて、かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。このこころすなはち、当流にたつるところの、一念発起平生業成といへる義これなりとこころうべし。

「あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず」ですから、心を我が身や我が身の罪悪にかけるのではありません。「まず後生の一大事(親鸞会では無間地獄に堕ちるという一大事の意)を知らねばならない」と罪悪についてを詳しく話し、機を責め立てるような説き方はしておられません。そんなことをしても心は地獄に向き、地獄に畏れおののくだけで救いはないからです。
では何に心をかけるのかというと、「ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」とあるように阿弥陀仏、南無阿弥陀仏です。そして、「かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞ」と聞くのです。「お前を助けるぞ」と聞くのが信です。
そのように本願のおこころを頂き、一念も疑心ない人は、阿弥陀仏の光明に摂取され、仏凡一体の身になり、この世の命が尽きたら速やかに真実報土の往生を遂げるのです。このようにして下さる阿弥陀仏の御恩徳の有難さ、尊さをどのように報いるのかといえば、ただ称名念仏しなさいと教えられています。
これが当流の他力の信心のおもむき、一念発起平生業成の義です。どこにも三願転入せよとか、善をせよとは書かれていませんし、そのような意味のお言葉も見当たりません。全くもって捏造教義だということが分かります。

さればかやうに弥陀を一心にたのみたてまつるも、なにの功労もいらず。また信心をとるといふもやすければ、仏に成り極楽に往生することもなほやすし。あら、たふとの弥陀の本願や。あら、たふとの他力の信心や。さらに往生においてその疑なし。

とあるように、阿弥陀仏の救いに衆生の側からは何の功労もいらず、ひとえに本願力によりますから、信心獲得、往生成仏というのは易いことなのです。この本願の独用(ひとりばたらき)を受け入れられず、自力でとらえようとしているから難しいのです。阿弥陀仏は何も難しいことを要求しているのではありません。「我が名を称えよ」と仰っているだけです。我が名とは南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とは「お前を助けるぞ」の勅命です。「善知識の話を一言一句間違えずに聞き覚える」「善知識の指示に無条件に従う」「家族、友人を誘ってくる」「精一杯の財施をする」など、往生には一切不要なことです。ただ「お前を助けるぞ」と聞き受けるのみです。

ここまでが他力の信心のおもむきであり、これより後の文章は念仏行者のふるまいについて、つまりこの世の生き方についてです。簡単に言えば一切の神、仏をおろそかにしてはならないということと、公事を怠りなくやりなさいということです。

ちなみに、一切の神、仏をおろそかにしてはならないというところで「方便」と仰っている箇所があります。

それ一切の神も仏と申すも、いまこのうるところの他力の信心ひとつをとらしめんがための方便に、もろもろの神・もろもろのほとけとあらはれたまふいはれなればなり。

がそれです。もし方便が「真実に入れるために絶対必要なもの」なら、まず神や仏を信じるという道程を経なければならないはずでしょう。何にせよ、「他力の信心ひとつをとらしめんがための方便」なんですから。また、聖道門も方便の教えですが、方便なのですからこれもやらねばならないはずです。ところがそうはせず、19願の善ばかりをやたらとこだわって勧めています。親鸞会が19願を根拠に善を勧めるのは、単に献金と人集めに都合がよいからであると、会員の皆さんは知るべきです。
親鸞聖人の勧めは第18願の教法のみです。この世の生き方については悪を慎み善に向かう姿勢は大事ですが、往生・獲信に関しては我々の善悪の行為は無関係です。親鸞聖人の教えに19願の勧めはなく、18願のこころ、「お前を助けるぞ」をそのまま頂くばかりであうことを重ねて申し上げ、今回はこれで終わりたいと思います。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(6)

東日本大震災による死者数が阪神大震災の死者数を超え、戦後最大の震災となりました。今もなお行方不明者が多数おられ、被災地以外でも続く余震に不安な日々が続いています。福島原発も気がかりです。株価や為替にも影響が現れています。東京ではガソリンスタンドに長蛇の列ができ、米やパン、カップ麺、防災グッズ等は連日品切れ品薄状態です。計画停電も行われ、闇夜に懐中電灯で夕食という方もいるでしょう。列車も本数を減らしての運行で、電車で通学・通勤する方は大変だと思います。それでも被災地で食糧も十分でない、風呂にも中々入れない、プライベートもない生活をしている方々に比べたらどれだけ恵まれているか知れませんが、いつまでこのような状態が続くのかと不安です。
しかしこのような混乱でも生じないと、ぶつぶつ文句を言いながらも過ごしていた日常が如何に恵まれていたかということは中々分からないものですね。同じように、五道・六道という悪趣に赴いてからでないと人は人間界が如何に恵まれていたかということが分からないのかも知れません。ただそれでは後の祭りですから、今こそ世の無常を見つめ、常住の極楽を願い、阿弥陀仏の本願を聞かれる方が一人でも現れてくれたらと思います。


本日も、蓮如上人の『御文章』を通して親鸞会流「三願転入の教え」などないことを見ていきます。

当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧・才学もいらず、男女・貴賤もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。

さればこのこころを『経』(観経)には、まさに「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし。さてはわが身のほとけにならんずることは、なにのわづらひもなし。あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことは、さらにもつてあるべからざるものなり。

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。これによりて、かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな弥陀如来の御恩のありがたきほどをよくよくおもひはかりて、仏恩報謝のためには、つねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。(御文章2帖目13通)


2帖目13通の最初は、当流念仏者のふるまいについてのことですので省略しています。
「あながちに智慧・才学もいらず、男女・貴賤もいらず」ですから、弥陀の救いに一切の差別はないということです。
当流安心(他力信心)を機(ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて)と法(かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて)の二種に開いて顕されています。
「なにのやうもなく」なので、衆生の側からは造作を要しない、弥陀の独用ということです。
「ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば」阿弥陀仏はその人をお救い下さるということですが、こちらで「どうか助けて下さい」とお願いするのではありません。こちらの「助かりたい」の思いに先行している、如来の「必ず助ける」「我にまかせよ」の親心を計らいなく聞いて、「それでは仰せの通りお助けましませ」と如来に後生、往生をおまかせ致すのです。
すると、『この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。さればこのこころを『経』(観経)には、まさに「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし』と仰っているように、阿弥陀仏は深く喜ばれて念仏の行者を光明の中に摂め取り、決してお捨てになりません。
衆生の造作は要せず、まったく弥陀の独用により往生成仏が定まるのですから、何と有難くかたじけない、殊勝な弥陀如来の本願でしょうか。この本願によらずしては、我らが往生成仏するすべはありません。
これが当流の安心(他力の信心)です。信心を獲たといっても、私の苦労や努力によって獲たのではなく、如来より授けられたのです。行者がおこす信心ではなく、弥陀如来他力の信心なのです。また信心を獲るというと何か自分の心に確固とした信念のようなものができるように思いがちですが、そうではありません。如来の勅命を計らいなく聞き受けているのが信心であり、私の側に確固としたものはありません。我が往生の証拠は南無阿弥陀仏にあると知って、往生をひとえに弥陀におまかせし、後生をくつろがせて頂いた姿が信心です。

2帖目13通にも獲信のための善の勧めはありません。当流の安心のおもむきに善は無関係だからです。ところが親鸞会は善と救いを関係づけて会員に善もどきの善を勧め、会員の獲信の妨げをしているのです。根拠は前後の文脈を無視して断章したものばかりで、こうした当流の安心のおもむきは話されません。例えばこの御文章では親鸞会が善の勧めに利用している「宿善」という言葉が出てきますが、薄い宿善を修善によって厚くせよという意味ではないことは前後を読めばすぐに分かることです。これでは当流でもなく、かといって他流でもなく、単なる新興宗教ということがお分かり頂けると思います。
親鸞会の会員は「それは信の一念のことであってそこまでに通らねばならない道程がある」と思い込まされているため、御文章を素直に読めないかもしれません。では、蓮如上人は「通らねばならない道程」とやらをどこかに教えられているでしょうか? 拝読すれば分かるように、信一念の話、南無阿弥陀仏の話、18願の話ばかりで、どこにも教えられていないのです。教えられていないということは、信一念までに「通らねばならない道程」とやらは存在しないということです。その、本来存在しないはずの「通らねばならない道程」を教える高森会長には、会員の獲信とは別に目的があることを、会員の皆さんはよく知らねばなりません。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(7)

「蓮如上人と三願転入にどのような関係が??」のシリーズも今回で7回目です。当ブログ読者の皆様は、もはや親鸞会流「三願転入の教え」などないことは十分にお分かりであり、いい加減にくどいかと思います。ところが、高森先生信心の強固な会員はそれでも親鸞会教義に固執し、本来の意味とは異なって断章されたわずかな根拠をもって「それでも高森先生の仰ることに間違いはない」と信じているのです。元々「高森先生のみが正しい。他は皆間違いだ」という観点でしか物事を判断できなくなっていますので、親鸞会と異なる解釈は始めから間違いと決めつけて読むか、あるいは講師・先輩に質問して親鸞会流の解釈を重ねて叩きこまれ、それを素直に信じてしまうのです。まさにマインドコントロールのなせる業です。
そこで当ブログでは、現在は『御文章』を通して当流の安心のおもむきとはどういうことか、他力の信心を獲るために諸善の勧めがなされているのかを検証しています。今回は2帖目14通を通して見ていきます。

 それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。この秘事をなほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその秘事をいはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの秘事をありのままに懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。

そもそも、当流勧化のおもむきをくはしくしりて極楽に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちてその身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかにをさめおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。

されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の他力の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば、阿弥陀如来の御たすけありつることのありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章2帖目14通)


まずはじめは秘事法門について仰っています。釈尊も親鸞聖人も蓮如上人も、六道輪廻して迷界をさまよい続けると教えられ、地獄にしても「こういう人は地獄へ堕ちる」と教えられているところがほどんどです。2帖目14通でもそうです。対して親鸞会の主張する「一切衆生必堕無間」説の明確な根拠となりえるのは

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(御文章2帖目2通)

の一文のみです。『御文章』は一部の人にあてられたお手紙ですから、親鸞会の主張通りならもっと多くのお手紙にこのような文章がなければ辻褄が合いません。また、

「専雑執心判浅深 報化二土正弁立」といふは、雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。これすなはち、専雑二修の浅深を判じたまへるこころなり。『和讃』(高僧和讃・九三)にいはく、「報の浄土の往生は おほからずとぞあらはせる 化土に生るる衆生をば すくなからずとをしへたり」といへるはこのこころなりとしるべし。(正信偈大意)

とあることとも辻褄が合いません。今は「一切衆生必堕無間」説についてはこれ位にしておきますが、こういうことからも親鸞会教義はおかしいと分かって頂きたいものです。

次に当流勧化のおもむきが教えられています。極楽に往生しようとする人は、まず他力の信心ということをよく知らねばなりません。他力の信心とはどういうことかと言えば、私達のようなあさましい凡夫がたやすく浄土へ参らせて頂く用意であるということです。では他力の信心のすがたというのはどういうことかと言えば、

なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちてその身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかにをさめおきましますなり。

です。ただひとすじに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつるのみであって、衆生の造作は要しません。一心一向とは余仏をたのまないことだけでなく、諸行・諸善にこころをとどめないことです。このことは既に蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(4)にて述べました。

そして、南無阿弥陀仏というのは私達が他力の信心を獲たすがたであり、他力の信心とは南無阿弥陀仏のいわれをあらわしていると教えられています。信心といっても南無阿弥陀仏の他にはないということです。最後に称名報恩の義を述べられて2帖目14通は終わっていますが、どこにも他力の信心を獲るために諸善を勧められてはいませんね。また、他力の信心を獲るために「通らねばならない道程」とやらも教えられてはいません。
『御文章』にはいずれもいずれもこうした他力信心のおもむき、南無阿弥陀仏のすがた、すなわち18願のみが教え勧められているのであって、19願や定散二善の勧めはありません。親鸞会が殊更強調する三願転入については触れてもおられません。もし親鸞聖人が19願や定散二善を勧めておられるなら、なぜ蓮如上人は聖人のなされたように教えられていないのでしょうか? 何事も何事も開山聖人のされたようにするのがよいと教えられた蓮如上人であるのに、おかしいと思いませんか? 親鸞会は、平生業成の教え(18願)に臨終来迎の教え(19願)を引き入れています。なのでこうした善知識方の教えとは合致しませんし、救われる人が皆無といっていいのはそのためです。
他力の信心を獲るために善は不要です。もしそんなにも善をしたいのであれば、今なら親鸞会に財施する分を全額日本赤十字社等を通じて東日本大震災の義援金として寄付したり、ボランティアとして活動した方がよほど素晴らしい善になると思います。親鸞会に財施しても、一族はじめ一部の幹部を潤すだけで何の利益もありません。法施だと言って活動したり偽装勧誘をしたりしても、このように教えが間違っていますから同じく何の利益もありません。教義は秘事法門と同様の「あさましき外道の法」ですから、会員の皆さんには蓮如上人のお言葉を借りて以下のように申し上げます。

この高森教義をなほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその高森教義をいはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの高森教義をありのままに懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(8)

本日は2帖目15通を見ていきます。

 そもそも、日本において浄土宗の家々をたてて西山・鎮西・九品・長楽寺とて、そのほかあまたにわかれたり。これすなはち法然聖人のすすめたまふところの義は一途なりといへども、あるいは聖道門にてありし人々の、聖人(源空)へまゐりて浄土の法門を聴聞したまふに、うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、わが本宗のこころをいまだすてやらずして、かへりてそれを浄土宗にひきいれんとせしによりて、その不同これあり。

しかりといへども、あながちにこれを誹謗することあるべからず。肝要はただわが一宗の安心をよくたくはへて、自身も決定し人をも勧化すべきばかりなり。それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり。

かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。あら、こころえやすの他力の信心や、あら、行じやすの名号や。しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり。また南無阿弥陀仏といふはいかなるこころぞといへば、「南無」といふ二字は、すなはち極楽へ往生せんとねがひて弥陀をふかくたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」といふは、かくのごとくたのみたてまつる衆生をあはれみましまして、無始曠劫よりこのかたのおそろしき罪とがの身なれども、弥陀如来の光明の縁にあふによりて、ことごとく無明業障のふかき罪とがたちまちに消滅するによりて、すでに正定聚の数に住す。

かるがゆゑに凡身をすてて仏身を証するといへるこころを、すなはち阿弥陀如来とは申すなり。されば「阿弥陀」といふ三字をば、をさめ・たすけ・すくふとよめるいはれあるがゆゑなり。かやうに信心決定してのうへには、ただ弥陀如来の仏恩のかたじけなきことをつねにおもひて称名念仏を申さば、それこそまことに弥陀如来の仏恩を報じたてまつることわりにかなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章2帖目15通)


日本において、浄土宗が西山流、鎮西流、九品寺流、長楽寺流など様々に分派しています。これは、法然聖人の勧められたことは一つでも、昔は聖道門であったが聖人へ参って教えを聞かれた方々に正しく理解されることはなく、またそれまで学んできた聖道門の教えを未だ捨て去ることができず、そればかりかその教えを浄土宗に引き入れようとしたので、各派に分かれてそれぞれ教えが異なるという現象が起きているのです。
聖道門の教えは、ごく簡単に言えば、善悪因果の道理に基づき厳しい修行(廃悪修善)によって自力でさとりを開くというものです。対して浄土門の教えは本願力を回向されて往生成仏するというもので、自力は捨てものです。聖道門の理論とはまるで違います。今までさとりの完成のために久しく自力の修行に打ち込んできた方々が、それら自力修行は本願の行にあらざる雑行であるから捨てよ、そして阿弥陀仏が本願の行として選び択られた念仏一行を専らにせよと教えられても、簡単に「はいそうですか」と今までの教えを捨て去ることはできないでしょう。なぜなら聖道門の人にとって浄土門の教えを受け入れることは、今まで長い間かけて取り組んできた修行、信じてきた教え、費やしてきた人生を否定することになるからです。そのため、従来の聖道門の頭で浄土門の教えを理解しようとして、あるいは諸行による往生を説いたり、あるいは多念の称名によって臨終に往生が定まると説いたりと、それぞれが今までの教えを浄土宗に持ちこんだ結果このような不同が生じているのでしょう。

このように今までの教えを捨て去ることができないという点では、親鸞会の会員も同じです。教義では定散二善等の雑行を勧めて真宗とは逸脱し、結果として自分も周囲も、また何十年と求めている人でさえ救われていないという明らかな現実があるのに、なおも親鸞会にしがみつく理由の一つは、今まで長い間かけて取り組んできた活動、信じてきた教え、費やしてきた人生を否定されたくないからです。そして救われない現実に対して、

「家一軒建てるのでも大変。3000万円、5000万円とかかる。まして私が求めているのは後生の一大事の解決。無間地獄に堕在して八万劫中大苦悩を免れるだけではなく、この世は弥勒菩薩と肩を並べる正定聚不退転となり、そして一息切れたら弥陀の浄土へ往生し、無上の妙果が得られるのだ。家はマッチ一本で焼けてしまうものだが、今求めているのは焼けもせず、流されも、盗まれもしない、永久に変わらぬ無上の幸福である。そんな簡単に、一朝一夕に解決のできる問題ではない。だが、たゆまず屈せずあきらめずひたすらに求めていけば必ず道は開ける。高森先生は真実を説き切っている。聞き切らないのは私の求道姿勢が甘いからだ。たとえどれだけかかろうと、解決つくまで求めぬかなければ」

などと自らを慰めて、より活動に懸命に取り組んでいくのです。親鸞会は聖道門とも異なりますが、こうした考えはまさに善悪因果の道理で弥陀の救いをとらえている聖道門的思考です。これではどれだけ懸命に聞き求めても、「引く」と書いてあるドアを懸命に押しているようなもので、いつまでも自力に留まり続けます。
あるいは自分にはとても解決ができないと落胆するものの、必堕無間の呪縛により親鸞会を離れることもできずに幽霊会員として留まる人もあるでしょう。絶対の幸福になれると甘い誘惑に乗って聞いてみたら必堕無間の恐怖を叩きこまれる。求道を断念した人も、懸命に活動を続けている人も共に救われない。費やしたものは多く、いたずらに時間ばかりが過ぎ去って刻一刻と無常は近づいている。これでは絶対の不幸としか言いようがありません。

さて、話を『御文章』に戻します。蓮如上人は「それら浄土宗の各宗を誹謗してはならない、大事なことはわが一流の安心をよく聞いて、自身も信心決定し人にも教え勧めなさい」と教えられ、わが一流の安心とはどういうことかを懇ろに説かれます。

それ当流の安心のすがたはいかんぞなれば、まづわが身は十悪・五逆、五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、そのうへにおもふべきやうは、かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、すこしも疑心なければ、かならず弥陀は摂取したまふべし。このこころこそ、すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり。

我が身は罪悪にまみれ、いずれの行にても生死を離れることができない者であると自力を離れ、そのような私を目当てに必ずお救い下さるという阿弥陀仏の本願を疑いなく聞き受け、他力に全託したのが弥陀に摂取されたすがたです。それを他力真実の信心をえたるすがたとも言うのです。
私の側からは何かをしなければならないという条件はなく、ひとえに本願力によるお救いですから、

かくのごときの信心を、一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。あら、こころえやすの他力の信心や、あら、行じやすの名号や。

と仰っています。信心をとるということは別段難しいことではないのです。しかし、この弥陀の救いを聖道門の理論、すなわち善悪因果の道理の上で考え計らっていたらこれほど難しいことはないでしょう。先ほど申し上げたように、「引く」と書いてあるドアを懸命に押しているようなものです。親鸞会の会員は因果の道理の上に本願の救いをとらえていますので、救われないのも道理ですし、信心獲得したと言っている人を「自称獲信者」「そんな程度の信心ならね」と非難しているのも頷けます。それなら高森会長も同じく「自称獲信者」であり、「そんな程度の信心ならね」と言われても仕方ないのですが、高森先生信心ですからそうは言わないのが親鸞会です。

しかればこの信心をとるといふも別のことにはあらず、南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、すなはち他力信心の体なり。また南無阿弥陀仏といふはいかなるこころぞといへば、「南無」といふ二字は、すなはち極楽へ往生せんとねがひて弥陀をふかくたのみたてまつるこころなり。さて「阿弥陀仏」といふは、かくのごとくたのみたてまつる衆生をあはれみましまして、無始曠劫よりこのかたのおそろしき罪とがの身なれども、弥陀如来の光明の縁にあふによりて、ことごとく無明業障のふかき罪とがたちまちに消滅するによりて、すでに正定聚の数に住す。

信心獲得とか、その信心を金剛心と言うと聞くと、自分の心に確固としたものが存在するようになると誤解する人があるかも知れません。そうではないのです。信心をとるいっても別のことではなく、南無阿弥陀仏の六字をこころえわけたのが、他力信心の体なのです。では南無阿弥陀仏とはどのようなこころかと言うと、「南無」というのは「極楽に往生しようと願え」という弥陀の勅命を疑いなく聞き受け、弥陀に往生をおまかせしたこころです。「阿弥陀仏」というのは、そのように弥陀の勅命を聞き受けた衆生を憐れんで、果てしない過去からの恐ろしい罪悪にまみれた身ではあるけれども、弥陀如来の光明の縁に遇い、流転輪廻の罪が消えて正定聚の数に入ったことをいうのです。
このように凡身をすてて仏身を証するというこころを、阿弥陀如来というのです。なので「阿弥陀」という三字を、摂め・助け・救うと言われています。ただし、信心獲得は平生の一念ですが、本当に凡身をすてて仏身を証するのは臨終一念の夕であって、この世を生きてある限りは煩悩にまみれた憐れな凡夫でしかありません。

そして、このように信心決定しての上には、弥陀如来の広大な恩徳のかたじけなさを称名念仏して報じなさいと教えられて2帖目15通は終わっています。どこにも親鸞会流「三願転入の教え」や「通らねばならない道程」とやらは教えられていませんね。聖教の上にない教えを、さも説かれているようにでっち上げ、会員の獲信を妨げ、会員を組織拡大に利用している親鸞会は、早々に「浄土真宗」「親鸞」の看板を降ろすべきです。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(9)

『御文章』を通して親鸞会教義の誤りを検証するこのシリーズも、本日から3帖目です。勿論2帖目までで取り扱っていないものもありますが、そこにも親鸞会流「三願転入の教え」や「必ず通らねばならない道程」とやらはまったく教えられておりません。本当か嘘か、ご自身で拝読してみて下さい。会員の皆さんは高森会長や講師の言葉を鵜呑みにするのではなく、自分で確かめる習慣をつけなければならないと思います。親鸞学徒と称し、蓮如上人を親鸞学徒の鑑と言うからには、親鸞聖人のお言葉、蓮如上人のお言葉がものさしであり、『なぜ生きる』『歎異抄をひらく』『本願寺なぜ答えぬ』等にある高森会長の言葉はものさしではありません。


 そもそも、当流において、その名ばかりをかけんともがらも、またもとより門徒たらん人も、安心のとほりをよくこころえずは、あひかまへて、今日よりして、他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、報土往生を決定せしむべきなり。それ一流の安心をとるといふも、なにのやうもなく、ただ一すぢに阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるばかりなり。

しかれども、この阿弥陀仏と申すは、いかやうなるほとけぞ、またいかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、われひとりすくはんといふ大願をおこしたまひて、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、それ衆生の罪においては、いかなる十悪・五逆、謗法・闡提の輩なりといふとも、すくはんと誓ひましまして、すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまひて、その願成就して阿弥陀如来とはならせたまへるを、すなはち阿弥陀仏とは申すなり。

これによりて、この仏をばなにとたのみ、なにとこころをももちてかたすけたまふべきぞといふに、それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。しかるに弥陀如来には、すでに摂取と光明といふ二つのことわりをもつて、衆生をば済度したまふなり。まづこの光明に宿善の機のありて照らされぬれば、つもるところの業障の罪みな消えぬるなり。

さて摂取といふはいかなるこころぞといへば、この光明の縁にあひたてまつれば、罪障ことごとく消滅するによりて、やがて衆生をこの光明のうちにをさめおかるるによりて、摂取とは申すなり。このゆゑに、阿弥陀仏には摂取と光明との二つをもつて肝要とせらるるなりときこえたり。されば一念帰命の信心の定まるといふも、この摂取の光明にあひたてまつる時剋をさして、信心の定まるとは申すなり。

しかれば南無阿弥陀仏といへる行体は、すなはちわれらが浄土に往生すべきことわりを、この六字にあらはしたまへる御すがたなりと、いまこそよくはしられて、いよいよありがたくたふとくおぼえはんべれ。さてこの信心決定のうへには、ただ阿弥陀如来の御恩を雨山にかうぶりたることをのみよろこびおもひたてまつりて、その報謝のためには、ねてもさめても念仏を申すべきばかりなり。それこそまことに仏恩報尽のつとめなるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目1通)



一流の安心をとるといっても、私達の側から「○○しなければならない」という条件はなく、「ただ一すぢに阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるばかり」であると仰っています。弥陀の救いに「三願転入しなければアリ一匹助からない」といった条件をつけることは、蓮如上人の教えに反します。
では阿弥陀仏とはどのような仏で、どのような者をお救い下さるかと言うと、三世の諸仏に捨てられたあさましい我ら凡夫女人を「我一人助ける」という大願をおこされて、五劫思惟、永劫の修行を経て、たとえ十悪、五逆、謗法、闡提といった重罪人であっても助けるとお誓いなされ、すでに諸仏の悲願に超え勝れた本願を成就なされた御方、それが阿弥陀仏であるというのです。
では、私達は阿弥陀仏を何とたのみ、何とこころして助けて頂くのかというと、

それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、一念も疑ふ心なくは、かならずたすけたまふべし。

これだけです。あとは、阿弥陀仏は摂取と光明という二つの理をもって私達をお救い下さるということ、阿弥陀仏の御恩に称名念仏して報じなさいということが書かれているのみです。蓮如上人の教えは常に同じですね。
我が身の罪の深いことには心をかけずに、ただ阿弥陀仏を二心なく一向にたのみ、一念も疑う心なくば、必ず助けて下さるとのことです。弥陀を一向にたのむ身になるには19願の善をせよとか、必ず通らねばならない道程があるとか、親鸞会で教えられる珍説は一切書かれておりません。なお、この御文章中に出てくる「宿善の機」とは「本願力廻向の救い(18願)を信じられる機」というほどの意味です。「今生において宿善の薄かった者が修善によって宿善厚くなった人」という意味はさらさらありません。

私達はただかの阿弥陀仏の「必ず助けるぞ」の仰せを計らいなく聞き受け念仏するのみです。それはすなわち18願のこころ、南無阿弥陀仏のいわれを聞くことです。19願は関係ありません。必ず通らねばならない道程とやらもありません。宿善を求めよ、厚くせよという教えもありません。「あったら説かれぬ道理がない」どこかで聞いたセリフの通りです。親鸞会流「三願転入の教え」などは、秘密の法文と同様にでっち上げの教えであることを、一人でも多くの会員さんに知って頂きたいと思います。

蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(10)

本来は他力信心のおもむきの部分だけを抜き出せばもっと簡潔なのですが、断章主義と思われても困りますし、何より『御文章』のお言葉そのものに触れて頂きたいので、一通全てを掲載しています。今回は3帖目2通を通して、親鸞会流「三願転入の教え」や「必ず通らねばならない道程」とやらは教えられていないことを見ていきます。


 それ、諸宗のこころまちまちにして、いづれも釈迦一代の説教なれば、まことにこれ殊勝の法なり。もつとも如説にこれを修行せんひとは、成仏得道すべきことさらに疑なし。

しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

 そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

さりながら、浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、是非すべからず。これはわが一宗の開山(親鸞)のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。宿縁のあらんひとは、これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。かくのごとくこころえたらんひと、名号をとなへて、弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、その仏恩報尽のためには、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目2通)



釈迦一代の説教というのがいわゆる八万四千の法門であり、親鸞聖人はそれを「浄土方便の善」等と言われています。では蓮如上人は「方便の善をやりなさい」と勧められているかと言えば、

しかるに末代このごろの衆生は、機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。ここに弥陀如来の他力本願といふは、今の世において、かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、五劫があひだこれを思惟し、永劫があひだこれを修行して、「造悪不善の衆生をほとけになさずはわれも正覚ならじ」と、ちかごとをたてましまして、その願すでに成就して阿弥陀と成らせたまへるほとけなり。末代今の時の衆生においては、このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、成仏するといふことあるべからざるなり。

とスルーして、早速弥陀如来の他力本願、すなわち18願をお説きになっています。五劫思惟、永劫の修行をして成就なされた願とは勿論18願であって19願ではありません。この御文章には19願は出てきませんから当然ですね。さて、ではどうしたら助かるのかというと、

そもそも、阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、またなにとやうに機をもちてかたすかるべきぞなれば、それ弥陀を信じたてまつるといふは、なにのやうもなく、他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、たとへば十人は十人ながら、みなもつて極楽に往生すべし。さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。

と仰っています。他力の信心のいわれをよく知った人は、みな極楽に往生すると言われていますが、他力の信心とは「ただ南無阿弥陀仏なり」とあるように、南無阿弥陀仏の六字以外にはないのです。それでは南無阿弥陀仏というのはどのようなこころかと言うと、

されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。まづ「南無」といふ二字はいかなるこころぞといへば、やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、すなはち南無とは申すなり。つぎに「阿弥陀仏」といふ四字はいかなるこころぞといへば、いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、疑のこころのなき衆生をば、かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、そのひかりのうちに摂めおきたまひて、さて一期のいのち尽きぬれば、かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。

と仰せです。まず「南無」とは定散二善等の余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、一心一向に弥陀をたのみたてまつるこころです。「後生助けるぞ」の仰せを二心なく聞き受け、「仰せの通りお助けましませ」と往生を弥陀になげたすがたです。次に「阿弥陀仏」とは、このように弥陀を一心にたのみ、疑心なき衆生を必ず光明の内に摂取して、この世の命が尽きたら浄土へ往生させるというこころです。

それ以後は、世間に沙汰するところの念仏について述べられ、称名報恩の義を教えられて終わっています。やはり親鸞会流「三願転入の教え」はありませんでした。

「私達は諸仏に捨てられた者であることを何とも思っていない。自分は諸仏に捨てられたほど罪が重い者と、後生に驚きが立たねば仏教は始まらない」
「こういう道を通って弥陀を一心にたのむ身となる」


このように罪悪を煽る説き方や、「必ず通らねばならない道程」とやらもありませんでした。蓮如上人の御文章を読むと、親鸞会教義が如何にでっち上げのまやかしであるかがよく分かります。「念仏無間」と同様に、文底秘沈の珍らしき法を聞き求めていることに、会員の皆さんは早く気付いて下さい。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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