縦と横の線のマインドコントロール下では、只今の救いを只今の救いと捉えることは難しい

最近は大きな行事では当たり障りのないことしか言わない高森顕徹会長ですが、今年の報恩講ではどんな話があったか、情報をお持ちの方は教えて頂けたらと思います。


さて、親鸞会の視覚的マインドコントロールが、縦と横の線と人の図です。



何回かチャレンジしましたが、私にはことりさんのブログのように上手く描けませんでした。本当は縦の線の左側に「人生の目的完成」「絶対の幸福」などの字を入れたかったのですが、下手くそ過ぎて・・・(´・ω・`)。きちんとした図については、

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』親鸞会会員が「横の線」を進んでいるのになぜ「縦の線」にたどり着けないのかを、エッシャー上りと下り(無限階段)から考える
『同』高森会長「善をしなければ、自惚れ心が砕かれないので救われない」(5月6日二千畳座談会・6月1日顕正新聞より)

等の記事にある図を参照して下さい。

これは勧誘当初からスケッチブックや黒板、ホワイトボードに書かれ、初期部会から毎回出てきます。図で言う人の位置(右端)が仏教の聞き始めで、聴聞を重ねて段々と理解し進んでいき、縦の線で人生の目的を達成・完成し、絶対の幸福になる。それを無碍の一道とも、摂取不捨の利益とも言うと説いています。

実は、この縦と横の線の図も大沼法竜師のパクリではないかと言われています。

『高森センセイの通信簿』大沼法龍師と高森顕徹師の決定的な相異点

に、大沼法竜師が書かれたという図が載っています。

そこから、徐々に変化していき現在のオリジナル図になったのでしょう。昔は横の線が縦の線の左側まで伸びていたという話も聞いたことがあります。


この、勧誘当初から聞く者の脳裏に視覚的に刻み込まれる上の図ですが、残念なことに縦と横の線のマインドコントロール下では、只今の救いを只今の救いと捉えることは難しいです。この図が頭にある限り、人生の目的完成・信心決定は求めていった先の未来にあり、現在は人生の目的完成・信心決定はできないという思考に陥ってしまうのです。以下にそのプロセスを述べてみます。

会員の皆さん、特に学友部の皆さんは、高森会長の説法の前に目的の確認をすると思います。そこで、「仏法を聞く目的は後生の一大事の解決。今日こそは信心決定するぞ」と決意して聴聞に臨むでしょう。

しかし、説法の途中で高森会長が縦と横の線を書くのを見るとどうでしょうか?

「自分はまだ因果の道理も本当に分かっているとは言えない。廃悪修善の気持ちも弱い。後生に驚きも立っていない。自分はまだまだ黒板の右端だ。いや、あのスタートラインにも立っていないのではないだろうか」

と、真面目に求めている方ならこんな気持ちにならないでしょうか? というのは、高森会長は

「因果の道理の結論は廃悪修善。廃悪修善を実践して見えてくるのは悪しかできない己の姿。これでは因果の道理に順じて後生は一大事。ここで後生に驚きが立つ。後生に驚きが立って初めてあの(横の線の)軌道に乗る。お釈迦様は全人類をあの軌道に乗せるのに45年かかった」

というようなことを説いているからです。

会員の皆さんは、最初の頃は聴聞を重ねる毎に少しずつ横の道を進んで縦の線に近づいていると思っていたのが、やがて一向に進んでいる気配もないと感じるようになり、今では横の線の軌道にすら乗れていないのではないかという気分になっていることと思います。こんなことで本当に助かるのかと疑問を持ちながらも、

「難信だから」
「よく聞くことも難ければと言われるから」
「高森先生に間違いがあるはずがない」


と、現在助からない理由付けをし、ごまかしごまかし求めているというのが実態ではないでしょうか?

そして、何とかして横の線の軌道に乗ろう、横の道を進もう、信仰を進めよう、縦の線に近づこう、そのための手段として、

1、高森会長の法話は欠かさず参詣し、真剣に聞く
2、因果の道理をよく聞いて自分に落とし込む
3、親鸞会で推進される活動になるべく参加する
(お布施、AT、チラシ配り、行事に人を誘う、顕正人数目標達成・・・)

等々、「光に向かう教え」に従って各々取り組んでいることと思います。

このように、親鸞会では縦の線という理想郷に向かってひたすら進めと励まされ、一向に進んでいるか分からないまま活動を余儀なくされます。しかも自分が横の線の軌道に乗っているかどうかさえ不確かなのですから、助かるのはいつになることやら。そんな状況なのですから、とてもではないが現在助かる教えではありません。あの図が頭にある限り、救いは求めていった遥か先の未来であり、まだ求めている最中の現在ではないという思考に陥るプロセスは、これでご理解頂けたかと思います。


聴聞中「今日こそ」「今日こそ」と力んでも時間は空しく過ぎ、恩徳讃を歌って終了。帰りの道中は、その日の話の暗記大会や今後の目標達成を誓って終わるでしょう。自分が会員であった時、運転しながら「もし交通事故でも起こして死んでしまったら、一体いつ横の線を進み、信仰が進んで助かるというんだろう?」という不安にかられていたことを時々思い出しますが、会員の皆さんの中にそんなことを思う人はいないのでしょうか?

会員の皆さんが一向に信心決定できないのは、往生・獲信と無関係な教え、自分で救いに向かっていくという自力回向的教えを視覚的にも徹底されているからです。信心獲得するには、親鸞会教義を真受けにしていたらまず不可能ですから、一刻も早く邪義から決別すべきです。中にはあさ川進さんのように会にいながら救われた方もいらっしゃいますが、自分は教義の誤りを知らされたからには退会しか道がなかったですね。

「親鸞会で聞いてきた話を基準にするので無く、親鸞聖人がどう教えられているかを基準にしよう」

熱心な会員さんが高森会長のその時その時の教え、『なぜ生きる』『こんなことが知りたい』等の著書を絶対の基準としているのに対し、あさ川さんはこのように思われていたというのですから驚きました。でも、そうでもしないと間違いだらけの親鸞会の中にいて信心決定は無理ということでしょう。

まぁとにかくあの縦と横の線の図は頭から消し去ってしまうのが良いです。そして、「横の道を進む教え」「縦の線に向かう教え」「”私が”阿弥陀仏の救いに向かう教え」とは向きが正反対の、「”阿弥陀仏が”私を救う教え」を聞いて頂ければと思います。

阿弥陀仏 ← 私

ではなく、

阿弥陀仏 → 私

です。向きを間違えてはなりません。ようやく親鸞会の邪義から離れて阿弥陀仏に救われようとされている方でさえ「阿弥陀仏 ← 私」となっています。逆なんです。私が救いに向かって進むのではなく、既に私一人に向かって喚びかけられている救いのお言葉を聞き受けるのです。「阿弥陀仏 → 私」という一方的なお助けを仰ぐのです。これだけです。だからこそ淳心房のような者でも平生業成の身になれたのです。そして、どなたでも只今、ここで、このままの自分がお助けに助けられます。安心して下さい、大丈夫ですよ。



今年の親鸞会報恩講でも相変わらず縦と横の線の図は出てきたでしょうが、あの視覚的マインドコントロールが一番いかんと感じる今日この頃です。未だに活動しているであろうかつての仲間達が偲ばれてなりません。まことに宿善まかせとはいいながら、何とかならんもんかなぁ・・・。
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高森会長の説く「一念の救い」は、言うなれば「一念別時意説」

『観経』に説かれた念仏往生説は、別時意という方便説であって、凡夫が称名をしたくらいで阿弥陀仏の報土に往生することなど決してできない、というのが、摂論宗の学僧らが唱えた念仏別時意説でした。以下、親鸞会で言われることは方便でも何でもないただの邪義だということを御理解頂いた上で、親鸞会で言われる「一念の救い」を考察します。


高森会長は法話にて、

「一念の救いですから、まだ説法が終わるまでに○○分ありますから十分救われます」

というようなことを話したり、『なぜ生きる』には

「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人を眼目とされている。もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ」(p.343)

と書いたりして、只今救われるようなことを説いたりします。一方、いつもの縦と横の線と人の図を書いて、

「後生の一大事が問題にさえなっていないのだからまだあの軌道に乗っていない」
「コンマ以下」
「黒板外」
「あの軌道に乗せるのにお釈迦様はご苦労された、それで四十五年かかった、一切経になった」


などと話し、救われるのは遠い先のことであるかのように説いたりします。

この両方を聞いている会員は、「一念の救い」をどう理解するでしょうか? 私は、「救われるのは一念だが、私はそこまで至るのに時間がかかる」と理解していました。というより、高森会長の話の整合性を考慮するとこの理解しかないのではないかと思われます。逸話で出てくる耳四郎や親鸞聖人、弁円などは宿善の厚い御方で、私のように宿善薄い者は一念の救いまでに長い求道が必要だと思うよりありませんでした。今から見ればこれは「飴と鞭作戦」だったことがよく分かります。

さて、高森会長の説く「一念の救い」は「救われるのは一念だが、ほとんどの人はそこまで至るのに時間がかかる」というもので、言うなれば「一念別時意説」です。ほとんどの人は横の線の軌道にも乗っていなく、何十年と聞いて求めたくらいで信心決定など決してできない、というものです。
「人生の目的が現在に完成する」などと言って誘い、蓋を開けてみれば完成するまでに何十年かかるか分からない、それどころか今生で完成できればいい方だ、でも完成しなければ後生は必堕無間だからやるしかない、とカルトまっしぐらの暗き道を歩ませるのが親鸞会です。教えが親鸞聖人とは異なりますから、いくら親鸞会の話を聞いて信じて従っていても他力の信心とは無関係です。そのような邪義とは即刻縁を切り、「只今救うぞ」の仰せを聞いて念仏して下さる会員さんが一人でも多く現れることを念じています。

特に大学新入生の皆さん、親鸞会は因果の道理、廃悪修善、善の勧めなどと体のいいことを言ってはおりますが、幹部は不倫疑惑をおこしたり、万引きをしたりしています。最初は親鸞会と分からないように正体を隠し、ダミーサークルまで作って勧誘しています。皆さんもそうやって勧誘されたことでしょう。また、いつでも法論に応じると言いながら約束の一つも守れません。今は合宿の真っ最中で情報に触れられないかも知れませんが、当ブログや他の親鸞会批判に接する機会があればと願うばかりです。

親鸞会でいうところの人生の目的というのは、これから死ぬまでのいつかの間に達成する目的

親鸞会でいうところの人生の目的というのは、これから死ぬまでのいつかの間に達成する目的ということです。ほとんどの人は現時点でいつもの横の線の軌道に乗っていないので、まずは横の線の軌道に乗るところから始めなければなりません。それには因果の道理をよく聞いて、その結論である廃悪修善を実践し、真実の自己の姿が見えてきて、後生に驚きが立たねばならないようです。また、横の線の軌道に乗っている人でも、要門19願の教えを実践していかねば絶対に縦の線(信一念)まで行けないと教えられます。
このように無条件の救いに沢山の条件を加え、只今現在と信一念を分断して、こちらから阿弥陀仏の救いに向かって進んでいくという教えです。なので、何年、何十年聞いている人でも助からないのはある種道理でもあります。会員さんはたいてい、助かるのは横の線の軌道を進んでいった先であり、未だ横の線の軌道に乗っているかどうかさえ分からない現在救われるなどとは毛頭考えられなくなっているでしょう。これでは只今救うぞの仰せだと言われてもまともに聞き受けることは困難です。親鸞会の邪義を聞き続け、毎回縦と横の線と人の図を見て、人にも書いて話をしていれば自然とそうなってしまいます。

阿弥陀仏の狙いは、私を信心の行者にし、極楽に迎えとるというものです。それも、これから死ぬまでのいつかの間に信心の行者にするというのではなく、現在只今信心の行者にするということです。それには本願の名号を聞く一つであり、私の側で用意するものは何もありません。だから命があと一刹那しかないような臨終間際の人でも助かるのであり、老少善悪の人を選ばないと言われるのです。罪悪深重、煩悩熾盛の衆生を助けると誓われた本願だからです。本願を信じるには、定散二善などの善は要りません。念仏に勝る善はないからです。

しかるに世の人つねにおもへらく、上尽一形の多念も宗の本意とおもひて、それにかなはざらん機のすてがてらの一念とこころうるか。これすでに弥陀の本願に違し、釈尊の言説にそむけり。そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。 そのゆゑは願(第十八願)成就の文(大経・下)には、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」と説き、おなじき『経』の流通(同・下)には、「其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念 当知此人 為得大利 即是具足 無上功徳」とも、弥勒に付属したまへり。しかのみならず、光明寺(善導)の御釈(礼讃)には、「爾時聞一念皆当得生彼」と等みえたり。これらの文証みな無常の根機を本とするゆゑに、一念をもつて往生治定の時剋と定めて、いのちのぶれば、自然と多念におよぶ道理を明かせり。されば平生のとき、一念往生治定のうへの仏恩報謝の多念の称名とならふところ、文証・道理顕然なり。もし多念をもつて本願としたまはば、多念のきはまり、いづれのときと定むべきぞや。(口伝鈔)

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。(歎異抄第一条)


只今の、このままの私が救われない教えでは、いつどうなったら助かるというのでしょう。今宵の後生には到底間に合いません。ところが邪義を真に受けていると中々そのような考えには至らないのかも知れません。

『安心問答』顕正新聞4月15日号を読むと、3月18日学生大会で高森会長の説明した「仏願の生起本末」の説明がもっとひどいものだった件

を読んでみると、

18願・他力の世界には、弥陀の19願・20願を通らねば絶対に入れないと知らされました。三願転入の道を進ませていただきたいと思います。

などというのが真剣に聞いている会員さんの理解のようです。私もかつてはそのように理解していましたが、会員の皆さん、「しばらくは死なないだろう、それまでに横の線の軌道に乗って、三願転入の道を進んで…」などと考え日々を過ごしている内に命終わってしまいますよ。親鸞会教義とは自分が救われる教えなのか、今よく考えて頂きたいと思います。

今救われずして、どうして未来助かるだろうか

親鸞会では、救われるためには横の線の軌道に乗り、そして横の線を進んで縦の線まで辿り着かなくてはなりません。つまり救われるのは未来であって今ではありません。求めていく間に横の線の軌道に乗れなかったり、あるいは乗れたとしても縦の線まで辿り着けずに命終わった場合は無間地獄です。

・出息入息 不待命終(?)  (←何経に説かれているのか分かりません。御存じの方は教えて下さい。)

などの言葉を出して後生への不安を煽り、死ぬのは一分後かも知れないなどと書いたりしている高森会長ではありますが、助かるのが今ではない未来ならば、助かるのは死んでからと言っているようなものです。彼の理論でいえば、今晩死ぬ人は今晩から後生、一時間後に死ぬ人は一時間後から後生、一分後に死ぬ人は一分後から後生だからです。親鸞会で何十年と聞き求めている人や講師部員でも横の軌道に乗っているとは言えないでしょうに、今から一分後に死ぬ人は、その短い時間内に一体どうやって横の軌道に乗って横の道を進んで縦の線に辿り着くのでしょうね。それに、

・仏法には明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ。(御一代記聞書155)

と説いたり聞いたりしていながら、悠長に横の軌道に乗ろうとか信仰を進めようなどとやっているのは、明日ありと思う心があるからです。明日どころか、何年も、何十年も生きていられる、平均寿命位は生きられると思わなければ、親鸞会での活動などやっていられません。明日がないとすれば、私の造作を交えずに只今助ける本願でなければ間に合わないことは誰が考えても分かることでしょう。

今救われずして、どうして未来助かるだろうか

というアニメの法然聖人の言葉は、善慧房にではなく高森会長や会員さんに対して言われていると見えるのは、私だけでしょうか? 会員さんには親鸞会の活動で満足せずに、自分の後生を身近に引き寄せて考えて頂きたいものです。

信一念と現在を分けて考える親鸞会会員

親鸞会の会員さんが陥っている考え方として、

それは縦の線(信一念)のことで、そこまでは・・・しなければならない。

というものがあります。信一念と現在を分けるという発想です。よく親鸞会教義への批判に、こんな回答をしている会員さんを見かけた覚えがあります。もっと具体的に言うと、

・一念の救いとは縦の線(信一念)のことで、そこまでは横の線の軌道を進まなければならない。
・「雑行を捨てよ」というのは縦の線(信一念)のことで、雑行をやっていない者に言われるはずがない。そこまでは雑行をやっている自分だと知らされるまで善をしなければならない。
・「雑行を捨てよ」というのは縦の線(信一念)のことで、そこまでは雑行が問題になるところまで進まなければならない。
・「本願を聞く一つで助かる」というのは縦の線(信一念)のことで、そこまでは三願転入の道を進まなければならない。
・「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(散善義)」というのは縦の線(信一念)のことで、そこまでは煩悩と闘って白道を進まなければならない。
・「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(散善義)」というのは縦の線(信一念)のことで、水火の難に堕することを畏れていない者に言われるはずがない。そこまでは「行くも死、帰るも死、止まるも死」の三定死のところまで進まなければならない。
・『「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり(信文類)』とは縦の線(信一念)のことで、そこまでは聴(親鸞会では高森会長の話を聞くこと、廃悪修善を実践すること)を重ねていかねばならない。


などです。高森会長の話の整合性、祖師方のお言葉と親鸞会教義との整合性を計るためにこう考えるのです。というか、これ以外思いつかないというのが実態でしょう。
会員としては、祖師方のお言葉も高森会長の教えもどちらも否定することはできません。祖師方のお言葉を取り、高森会長の教えを捨てることができたらよいのですが、会長信心の堅固な会員にとってはどだい無理な話です。どちらの説も否定せず、かつ高森会長の正しさを説明するにはどうすればよいか? それで、現在と信一念を分けて考えるようになったのでした。そしてこれが、現在の自分が救いにあずかれない理由として最も適切であると思い至ったのです。

しかし、この考えは平生業成に反しています。平生業成とは、臨終を待つまでもなく、平生に他力の信心をえたそのときに浄土に生れることが確定することです。平生と臨終は大分違うように思えて実は隣り合わせですから、平生とはつまり現在只今のことで、現在只今他力の信心を得て往生が定まるということです。一応親鸞会の定義を確認しておくと、『なぜ生きる』には

「人生の目的が現在に完成する(p.4)」

と書かれています。これから求めていった先の未来ではなく、現在と書かれているのに注目です。では、

それは縦の線(信一念)のことで、そこまでは・・・しなければならない。

という考え方はどうかと言うと、現在は救われず、これから求めていって縦の線(信一念)に辿り着いた時、すなわち未来に救われるというものです。これでは、仮に縦の線(信一念)に辿り着くのにあと3日かかる人がいたとして、その人が今晩無常の風に誘われたらアウトということになります。平生業成ではありません。
「だから急がねばならないのだ」と会員さんは仰るかも知れませんが、それは「しばらくは死なない」という前提ありきの話です。極論として、あと一秒しか命のない人はどうですか? 皆さんの尊敬している高森会長は『なぜ生きる』に以下のように書いています。

「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人を眼目とされている。もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ」(p.343)

これは『口伝鈔』の、

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

のお言葉を解説したものですが、この考えはまた、「多念をもつて本願」とするのと発想が同じであって「一念往生」でもありません。高森会長の言葉でいえば「一念の救い」でもないことが分かります。

では、高森会長は正しく教えを説いていて、会員の皆さんが聞き損なっているのかというとそうではありません。高森会長はこのようなことを書いている一方で、お決まりの縦と横の線と人の図を書いて、縦の線を指して「ここまで進め」とも説いています。これらのどちらも正しいと結びつけるには、現在と信一念を分けて考えるより他に考えようがないというだけのことです。会員さんは会長がその場その場で言うことを都合よく脳内変換して教義の整合性を保っているのです。というか、会長信心があると脳内変換せざるを得ないのです。しないと整合性が崩れてしまいます。
本願の救いにあずかるに、私の方からどこかへ向かっていくというのは自力回向的な発想です。「救いは一念だが、そこまでは・・・」というのは平生業成、一念往生に反する考え方です。高森会長がその場その場で言うことに踊らされて、祖師方のお言葉と親鸞会教義との整合性、そして親鸞会教義内での整合性を保とうとした結果、会員さんの理解は真宗の信心とは似ても似つかぬものになっています。それを「聞き誤り」だと言われては、会員さんはお気の毒というより他にありません。



【参照】
友人が矛盾と感じ、指摘した「一念の救い」

親鸞会で100年や200年求めても信心は得られません

高森会長の話では、獲信は遠~~~い先のこととしか思えなくなる

にて、親鸞会で信心獲得を目指そうとすると、まず横の線の軌道に乗るまでに最短で45年、それから横の道を長いこと進んでいってようやく縦の線に辿り着くと書きました。
これなら今生でギリギリ間に合うか間に合わないか位と見てとれますが、実際は100年や200年求めても信心は得られないようです。『なぜ生きる』にはそれが見て取れる箇所があります。

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「弘誓の強縁」とは、“なんとしても苦しみの根元を断ち切り、人生の目的を果たさせたい”という強烈な弥陀の誓願をいい、その誓いどおりに、苦しみの根元が断ち切られて、人生の目的成就した歓喜の生命を、「真実の浄信」と言われている。
 それはもう、百年や二百年求めて得られる、ちっぽけな幸せではなかった、と知らされるから、「多生にもあえないことにあえた、億劫にも獲がたいことをえた」と言われているのである。多生億劫の間求めても、得られぬものが得られたのだから、「ああ!」と驚嘆されたのも当然であろう。(p.176)

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これは、『教行証文類』総序の中の、

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。

というお言葉を高森会長が解説をしている中の文章です。改めて読み返してみると、お言葉の解説があまりにもヘンテコであるのに「ああ!」と驚嘆してしまいます。さて、高森会長はここで、

真実の浄信は100年や200年求めたところで到底得られるものではない。それどころか多生億劫の間求めても得られないものである。親鸞聖人は、多生億劫の間求めても得られない信心を得た。

と言っています。信心獲得は難しいことであると強調し、100年や200年求めても得られないものを得ようとしているのだから、もっと真剣に求道(活動)しなさい、横の道を進みなさいと発破をかけているようです。確かに自力で求めようとしたら多生億劫かかっても得られない信心ですが、真実の浄信は本願の独用により只今ここにいるこの私に恵み与えて下さるものです。しかも「聞其名号 信心歓喜」(大無量寿経)とあるように、獲信には本願の名号を聞く一つです。なので総序のお言葉は、真剣な求道(活動)をせよというのではなく、聞思せよ、つまり只今本願を信じ念仏を申す身となれというお勧めであります。

ところが、横の線の軌道に乗り、その軌道を進まなければ絶対に信心を得られないと信じ込んでいる会員はそうは読めないでしょう。元気な人は、

自分は今、多生億劫の間求めても得られないようなものを得ようと求めているのだ。たとえどれだけかかろうと、解決つくまで聞き抜かなくては。真剣に聴聞して、因果の道理を深く信じ、廃悪修善を実践して、早く横の軌道に乗って、横の道を進んで、そして一念の決勝点を突破したい。

と意気込むでしょうが、同じことのくり返しに疲れている人は、

信心を得ることはまことに難しい。多生億劫の間求めても得られないようなものを、私のような者が死ぬまでに得られるのだろうか。とても無理なのではなかろうか。たとえ今生で無理だとしても、現在の求道が遠生の結縁にでもなればよい。

などと考えてはいないでしょうか? どちらにせよ、真剣な求道(活動)をせよ、あるいは聞思するのは縦の線でそこまでは真剣な求道(活動)をしなければならない、としか読めないのではないでしょうか? あの縦と横の線と人の図が頭にある人は、阿弥陀仏からの一方的なお計らいとは受け取れず、「求めない者に得られたということがあるか」という思考で救いを未来に眺め、そこまで求め進もうという考えに陥っています。ひとえに阿弥陀仏から一方的に与えられる他力の信心を、逆にこちらから授かりに向かって行こうとしているのです。このように向きが逆さまですから、いつまでも本願を疑い続け、他力の信心を得ることはできません。

因果の道理、19願、定散二善など、真宗の信心とは関係ないことばかり聞かされやらされて、自力回向的考えに陥っている限りは、親鸞会で100年や200年求めても信心は得られません。第一、こちらが求めるに先行して既に与えられている救いの法でありますから、真宗では「求める」とか「求道」という言葉がそもそも適さないように感じます。それに本気で成仏や諸行往生、自力念仏往生を目指して修行しておられる方々に比べたら、親鸞会の活動など求道ごっこでしょう。100年や200年求道ごっこしても何も得られませんわ。一体会員の皆さんは、南無阿弥陀仏の他に何の不足があるというのでしょうか。そんな求道ごっこはもうおしまいにして、只今、ここにいるこの私に喚びかけられている救いの法(南無阿弥陀仏)を聞き受け、念仏して頂きたいと思います。

親鸞会での活動が加わることでそれまでの当たり前だった生活までが侵食されていくパターンが多いのです(頂いたコメントより)

毎日が、決まった行動のくり返しと気づく

の記事に、名無し様からコメントを頂きました。ありがとうございました。高森顕徹監修『なぜ生きる』の読み替え、実に的を射た表現に脱帽です。

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タイトルを見て、久しぶりに『なぜ生きる』を読んでみました。
会員の時、それらしい体験(信心決定)のない講師部から「がんばって求道していけば、きっとそのうちいいこと(救われる)あるよ」と無責任な励ましを沢山聞かされていました。しかし代わりばえのしない求道がつづくだけが実感でした。
会員はゴールなき円形トラックを「求めよ」「頑張れ」「駄目だと思う心が駄目でないものを駄目にするのだ」と講師方に鞭打たれ走っているのです。
その講師も高森会長から「辞めたらどうなるか分かっているだろうな」と脅しの誓約書に縛られて「毎日毎日僕らは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうよ」状態です。
人間毎日決まった行動をきちんと繰り返していくこと自体は大切なことですし、毎日同じことを積み重ねていくことで成長もし、前進出来るものだと思いますから、同じ行動の繰り返しということはそれはそれで大切だと私は思います。私自身親鸞会を辞めても生活そのものは特別代わりばえのない日々を送っています。
ただ彼らは「人生の目的(ゴール)」に向かっているはずなのに、実際は「人身受け難し今已に受く!(よくぞ人間に生まれたものぞ!)」というゴール突破の感激を味わっている人が皆無というのが問題と思います。
万歳万歳万々歳というゴールがあるぞー、だからこの道(横の道)を進めよ!と会長に示されながら、あんなに頑張っている講師部からして誰もゴールにたどり着けないでいるのです。
しかもそれまでの生活に親鸞会求道が加わっただけといいますが、親鸞会での活動が加わることでそれまでの当たり前だった生活までが侵食されていくパターンが多いのです。親鸞会一色の日々になっていくのです。
こんな毎日に一体何の意味があるのかと真剣に悩んでくれたらいいのですが、彼らにとっては「絶望的なことに、これがもっとも安心できる理想的な人生」になってしまっているのです。
新歓期によく使ってた言葉でいえば、まさに「狂人の主催するオリンピック」です。

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『なぜ生きる』には、

「生きてきて本当によかった」という満足がなく、来る日も来る日も「食べて寝て起きて」のくり返しならば、ゴールを知らずに走っているランナーと同じです。ゴールに近づく喜びもなければ、「やった!」というゴール突破の感激もないと思ったら、足に力が入るはずはないでしょう。目的地がハッキリしていてこそ元気に走り通せるのは、人生行路も同じです。(p.34)

と書かれていますが、まさに親鸞会会員のことでしょう。「食べて寝て起きて」のくり返しが、「食べて寝て起きて活動して」となったに過ぎません。縦の線を指して「ここが卒業、ここが決勝点、ここがゴール」と言われても、どこがゴールなんだかよく分からないというのが私が会員の時の実感でした。「生きてきて本当によかった」という満足は当然なく、ゴールに近づく喜びもなければ、「やった!」というゴール突破の感激も得られませんでした。それどころか、ゴールというのが「必堕無間の一大事から逃れること」という認識でしたので、どんどん暗い所へと進んでいくような印象でした。これでは、活動に身が入るはずはありませんでした。

ここで、名無しさんが指摘されていることですが、「それまでの生活に親鸞会求道が加わっただけといいますが、親鸞会での活動が加わることでそれまでの当たり前だった生活までが侵食されていくパターンが多い」という点が見過ごせないと感じ取り上げることにしました。これは仰る通りで、私の見落としていた点でもあります。
学生ならば、主に活動のために学業やその後の社会生活に支障をきたしてしまうことが挙げられます。単位を落とし留年するのは勿論、中には中退して活動に身を捧げようとした人もあったでしょうし、今もあると思います。親鸞会と出会わなければ資格の一つでも取ったり、ちゃんと就職活動をしたりして働いていたであろう人が、ろくにそういったこともせずにバイト生活を続けていたり、あるいは働きもしなかったりする人も中にはあります。確かに生き方は人それぞれであり、あれこれ言える立場ではありませんが、宗教に入信したためにこうなったと親鸞会へのイメージダウンになってしまうことに本人さんは気づいているのでしょうか?
社会人ならば、活動のために犠牲にしなければならないことが多いです。睡眠時間を削ったり、疲労で仕事に打ち込めなかったり、家族や友人・恋人と過ごす時間を削ったり、趣味や生きがいを我慢したり・・・まだまだあるでしょうが、普段の生活が親鸞会の活動に浸食されてしまい、本来やるべき事、やりたい事がおざなりになってしまうのです。
それがいい、そうしなければならないと思えるのは、親鸞会のいう「人生の目的」に賛同し、活動に熱中していられる間だけでしょう。何かのきっかけで教義的な誤りや、組織的なおかしさを知って退会した人にとっては、「ムダな日々をすごしてきた。求めるものが間違っていた」と裏切られた痛嘆を禁じえないと思います。

あるはずのない架空の道を「求めよ」「頑張れ」「駄目だと思う心が駄目でないものを駄目にするのだ」と鞭打たれて走っているのですから、まさに「狂人の主催するオリンピック」です。それが会員さんにとって「もっとも安心できる理想的な人生」であるなら、もはや手の施しようがありません。事実を知り、受け入れた時の動揺と苦痛と怒りはありますが、明日、また明日、そしてまた明日が、時の階を滑り落ち、「最後の幕は血で汚され」てからでは遅いのです。刻々と迫る無常を凝視して、決して後悔をのこさぬように願います。

高森会長の話では、獲信は遠~~~い先のこととしか思えなくなる

縦と横の線と人の図は、会員がいつまでも救われないと示しているようなもの

の記事に名無し様よりコメントを頂きました。ありがとうございました。

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あの図も大沼法龍さんからのパクりですね。
私の持っている大沼さんの本にも縦線と横線の図がありますが、高森先生のそれとは違います。
一つあげれば人間の絵が親鸞会の図には書かれますが、大沼さんの図には書かれていません。
大沼さんは信前信後の水際がある、自力他力の違い目があるよ、一念の信を決定していなければ報土往生は出来ないということを言わんが為の図であって、それを高森会長が、まず軌道に乗らないと始まらない。軌道に乗ってもここを進まないとあっこの世界には行けないと言っているんですよね。
そして法話ではしばしば「後生の一大事が問題にさえなっていないのだからまだあの軌道に乗っていない」「コンマ以下」「黒板外」「あの軌道に乗せるのにお釈迦様はご苦労された、それで四十五年かかった、一切経になった」などと私は聞いてきました。
会員さんは「後生の一大事が問題にならないから雑行が出てくる所までも行ってない」「心の中で占いなどがつい気になったりする。まだ自分は内外廃立も出来てない」などと思い、「まずはあの軌道に乗らなければ」と考える傾向にあります。それが本心なのか、あるいはそう言わないとならない雰囲気があるからかは判りませんが、会員さんは軌道に乗ることに必死になっているのではないかと思います。
それだけじゃ会員さんも絶望的になる人もいるからか、時には「皆さんは六十億の中で選ばれた中の選ばれた人」、(山に降った雨水が海に流れる絵を書いて)「皆さんはもうここ(河口付近)まで来ている」「私はこの学生達を見ていると真宗の危機は人類の危機、と浄土から寄せかけ寄せかけ戻ってきた尊い方々なんじゃないかと思うんですよ」などと言ってよいしょしてみたりもします。
時には「そんなことで救われるか」と言ったり、「皆さんは救いに一番近い」と言ってみたり。
カルト宗教にありがちな「飴と鞭」作戦なんですが、講師や会員さんはそれを「智恵(厳しさ)と慈悲(優しさ)」の御教導と理解し、有り難がっているのだと思います。
ひどい状態になると(悲智円満の)南無阿弥陀仏の独り働きで先生はそのように言わずにおれないのだ、と感激したりもしています。
そこを、そうじゃない、高森会長があなたの気持ちを親鸞会に縛り付けておくために巧みに操っているに過ぎないのだ、ということを気づいてもらいたいのですが…。

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大沼師の図も、また彼が三願転入を出したのも、それは信前信後のあることを示すためです。それらを高森会長が目をつけ、横の線を信前の求道の道程とし、そこに19願・20願を当てはめたのです。それが親鸞会流「三願転入の教え」の正体でした。そのことは

『飛雲』「三願転入の教え」の正体

に大沼師の文章付きで書かれていますので参照して下さい。

さて、名無しさんが既にご指摘ですが、縦と横の線と人の図には裏があります。それは、実は私達は横の線の軌道に乗っていなく、軌道に乗るまでが大変だということです。

   |
   |    20願      19願     人
   |――――――――――――――――   真実の自己  廃悪修善  因果の道理    私
   |                          ―――――――――――――――――――――
   |

この図で、人の位置に私が立つには、「後生に驚きが立つ」「後生の一大事が問題になる」という条件が必要なようです。それには、因果の道理をよく聞いて、その結論である廃悪修善を実践していき、法鏡に映し出された私の本当の姿(真実の自己)が分かってこなければならないというのです。これは、横の軌道に乗るまでにそれとは違う別の道を進まねばならないようなものです。なので便宜上、横の線の下に更にもう一本横の線を書きました。「私」と書いてあるのが今自分のいる位置で、まずは「人」の位置を目指すというものです。では私が横の軌道に乗るまでどれくらいかかるのでしょうか? 高森会長は、お釈迦様は聴衆を横の軌道に乗せるのに45年かかったと話しているのですから、私が人の位置まで来るのに最短で45年だと言っているようなものです。仏が導いて45年としたら、仏より劣る者が導いたらそれ以上かかるのは必至ですからね。
更に、いざ横の軌道に乗ってからがまた長いのです。まず19願の善に取り組み、できない自分が知らされたら20願の念仏と取り組んで、自力間に合わなかったということが知らされてようやく縦の線に辿り着くのですから、

「一体信心獲得はいつの話なんだ!」

とツッコミたくなります。高森会長の話では、獲信は遠~~~い先のこととしか思えなくなるのはこのためです。
これだけでは救いは絶望的ですから、高森会長は飴と鞭作戦で上手くやる気を起こさせて、会員を活動に駆り立てています。会員さんは数年も活動すれば、高森会長信心、獲信願望、今のままでは後生不安だという思い、今までの苦労を無駄にしたくない思い、今までの自分を否定したくない思い、求道の敗残者と見下されたくない思い、会員の間でハブにされたくない思いなど、様々な思惑があって途中で親鸞会の活動をスッパリ断ち切ることができにくくなります。高森会長の目的はまさにこの状態に会員を持っていき、そしてより活動に邁進させることです。活動さえしっかりしてくれれば、獲信するしないは眼中にないのです。というか、獲信されたら嘘の教えが分かってしまうので、獲信者が出るのは困るという始末です。
横の軌道に乗るまでに45年もかかっていたら、もはや救いは絶望です。今日が自分の死ぬ日であれば、助かる教えではありません。会員の皆さんにはさっさと見切りをつけて、只今助ける本願を聞いて只今救われて頂きたいものです。

親鸞会では、つまるところ「お前はまだまだだ。もっと頑張れ」と言われるだけなので救いがない

会員さんは親鸞会で推進される活動をすることで信心決定に近づき、やがて信心決定すると信じ込んでいるでしょうが、実は往生・獲信に関しては何も進んでいません。親鸞会でお決まりの横の線は、善知識方の教えにない架空の道だからです。

それが実感されると、毎日が決まった行動のくり返しであることに気づきます。そんなことで今日や明日にも後生を迎えたらとなると不安がこみ上げてくるでしょう。しかし、勇気を出してその不安や、いつまでも信心決定できない不足を支部長や講師・先輩に打ち明けてみても、聴聞が足りない、正しく聞けていないと言われるのが関の山です。後生は一大事だと不安を煽られ、あれこれ説明された後、最後に「聴聞に極まる」「真剣に聞かせて頂きましょう」と説得されて終わりです。要は「お前はまだまだだ。もっと頑張れ」と言われるだけなので救いがないのです。私は何度も胸の不安を支部長に相談しようとしましたが、こう言われることは予想がついていましたのでしませんでした。何せ支部長自身が未信なのでこう言うしかないのですが・・・

それでも私が求め続けたのは後生への不安と信心決定への憧れが大きかったです。また、親鸞会の教義は正しいが自分がついていけないだけだという思い込み、今までの苦労を無にしたくないため、求道の敗残者と見下げられたくないから、人間関係のため、などなど、今から思い返すとこのような理由がありました。振り返ると、信心決定を目的としていたつもりが、いつの間にか惰性になり、「辛抱して求め続けること」が目的になっていたと思います。会の教義に絶望し、もう限界、これ以上求めてもダメだとあきらめようとすると、必堕無間の呪縛によりすっきりと退会に踏み切れませんでした。ただ、もし私に教義の誤りを教えてくれた先輩から話を聞く前に無事に退会していたとしても、親鸞会で嫌な経験をしていますから今後真宗とは無縁な生活を送っていたと思います。高森会長の他に知識を知りませんし、本願寺を始めとして彼以外正しい親鸞聖人の教えを説く人はいないと教え込まれていたので、他を当たろうと動くことはなかったに違いありません。後生へのもやもやした不安を抱えて、もしかしたら再入会して同じことのくり返しをし、苦しみの輪から永遠に抜け出せなかったということもあり得ます。

架空の道を通ろうとしているのですから、何十年と求めてきた人も、またこれから先何十年求めようと、前に進めないのは当たり前のことです。平生業成、現生不退、不体失往生とは言うものの、親鸞会には救いがないのです。救いがあることを示すのは単にやる気を出させるためで、会員さんに救われてもらうためではありません。もしそうなら、雑行を勧めるなどありえないことです。19願や定散二善を根拠に善(もどきの善)を勧め、それが18願に至る道程だなどとは親鸞聖人は教えられていません。信一念と現在は離れたことのように説き、選択の願海への転入を阻止している教義を信じていては、今宵の後生に間に合わないことは明らかです。会員の皆さんには、入会前も今も変わらず「死ぬまで求道」の終わりなき円形トラックを回り続けていることに気づいてもらいたいと思います。

毎日が、決まった行動のくり返しと気づく

朝晩宿善ポイントを貯めるためのおつとめをして、

ビデオ法話や部会へ参加して、

チラシ配りや勧誘をして、

ブログ更新やメルマガ配信をして、

週末は富山か地元での法話へ行って、

年に何回かの大きな行事へ参加・勧誘をして、

会費やお布施を納付して

・・・

というようにして毎日が過ぎ、1週間が過ぎ、1ヶ月が過ぎ、そして1年が過ぎてゆく。会員の皆さん、毎日が、親鸞会在籍前と大差ない、いや、親鸞会の活動が加わっただけの「決まった行動のくり返し」であることに気づきませんか? 今日や明日にも無常がやってくるかも知れないのに、いつ信心決定し、往生成仏の身となるつもりですか? よく考えて頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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