親鸞会会員の誤解―高森会長は51段目の位にいる(1)

親鸞会では、高森会長を権威づけし、会員を服従させるのに

高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる

と会員に思い込ませています。

高森先生は阿弥陀仏の御心が分かり、自分達に正しく説いて下さる唯一の御方

であると推量、忖度させるには、我々とは次元が違う境地にいると思わせる必要があります。

親鸞会ではさとりの52位の話をし、1段でも違えばその境界は人間と虫けらほど違うと言います。我々は1段のさとりも開いていない凡夫で、仏覚は52段目の最高位。そして信心獲得すると51段高とびしてあと1段で仏という等覚の位に到達するように教えられています。さとりの52位を図で示し、一番下から上に向かって曲線を引いて、信一念で一気に51段の位まで飛び越えるように印象付けています。あまり上手ではありませんが、下の絵を参照して下さい。



信一念で51段高とびして、既に等覚のさとりを開いて一生補処の位にいる弥勒菩薩と肩を並べるという話は高森会長のオリジナルかと言えば、当然そんなはずは無く、伊藤康善師からのパクリです。伊藤康善著『安心調べ』には

そんなあっさりした話で生死の大問題が解決する人があれば、吾等は求道に苦労することもない。仏勅をすなおに信ぜられるほど、我等はお目出度い人間にできていない。そこには深酷な体験の苦しみがなくてはならぬ。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説く者も愛想をつかし、求める者も愛想をつかし、求道に精も根も尽き果てて、悲泣悶絶のどん底から、湧き上がる精神的大飛躍の境地がなければならぬ。廻向信は決して、おぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つこころである。
この信は仏階52段の中、下50段を超えて41品の無明を断ずる等覚不退に類同せられる。……、真に手の舞い足の踏むところを知らぬ大歓喜である。至心信楽己を忘るというも愚かなり、大千世界を踏む破って、恒沙の諸仏に怒号叱咤することのできる豪快な自覚が生まれてくるのである。この体験がなくては何を言っても駄目な話だ。
(P255~P256)

とあります。これが高森顕徹著『会報第二集』では

そんなあっさりした話で生死の大問題が解決するものか、十劫の昔の話を素直に信ぜられる程我らはお目出度い人間に出来ていないのだ。そこには、生死の断頭台上に生首をつき出す苦しみがある。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても尚心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説くものも愛想をつかし、求める者も愛想をつかし求道に精も根もつき果てて悲叫悶絶のどん底から湧き上がる精神的大飛躍の境地がある。一念は断じておぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つ心である、この一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられるものであり、真に手の舞、足の踏むところを知らぬ大歓喜があるから慶喜一念という。至心信楽己を忘れるというも愚なり、大千世界を踏み破って恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚が生まれるのだ。この一念の体験がなくては何をいっても駄目なのだ。(P94)

とあります。所詮はこれが「一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられ」たと宣っている「無二の善知識」の本当の姿です。会員の皆さんは、いい加減気づきましょう。



【参照】
『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(2)
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親鸞会会員の誤解―高森会長は51段目の位にいる(2)

親鸞聖人は、真実信心を獲たら等覚(等正覚)にいたり、一生補処の位にある弥勒菩薩と同じで、この世の命が終わり次第必ず大般涅槃をさとる、この上ないさとりを開かせて頂くのだと教えられています。

等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。(正信偈)

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。(信文類)

如来二種の回向を
 ふかく信ずるひとはみな
 等正覚にいたるゆゑ
 憶念の心はたえぬなり

弥陀智願の回向の
 信楽まことにうるひとは
 摂取不捨の利益ゆゑ
 等正覚にいたるなり

五十六億七千万
 弥勒菩薩はとしをへん
 まことの信心うるひとは
 このたびさとりをひらくべし

念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし

真実信心うるゆゑに
 すなはち定聚にいりぬれば
 補処の弥勒におなじくて
 無上覚をさとるなり
(正像末和讃)

この「弥勒菩薩と同じ」というのは、「必ず仏と成ることが決定している」という点で弥勒菩薩と念仏の衆生は同じということです。智慧や徳まで同じということではありません。
等正覚とは、3.仏因円満した正覚に等しい位で仏陀の一歩手前にあるもの。菩薩の修行の五十二位あるうちの第五十一位。という意味で用いられることもありますが、親鸞聖人が仰せられる「等正覚」とは、

4.真実信心を得たものは、仏因円満していて、必ず仏と成るから、現生の正定聚の位を「弥勒に同じ」といい、また「等正覚」ともいう。

という意味においてです。そのことを、

・この二尊の御のりをみたてまつるに、「すなはち往生す」とのたまへるは、正定聚の位に定まるを「不退転に住す」とはのたまへるなり。この位に定まりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆゑに、「等正覚を成る」とも説き、「阿毘跋致にいたる」とも、「阿惟越致にいたる」とも説きたまふ。「即時入必定」とも申すなり。この真実信楽は他力横超の金剛心なり。

・「次如弥勒」と申すは、「次」はちかしといふ、つぎにといふ。ちかしといふは、弥勒は大涅槃にいたりたまふべきひとなり。このゆゑに「弥勒のごとし」とのたまへり。
念仏信心の人も大涅槃にちかづくとなり。つぎにといふは、釈迦仏のつぎに五十六億七千万歳をへて、妙覚の位にいたりたまふべしとなり。「如」はごとしといふ。ごとしといふは、他力信楽のひとは、この世のうちにて不退の位にのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。
(一念多念証文)

 信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒におなじと説きたまへり。
 さて『大経』(下)には、「次如弥勒」とは申すなり。弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば弥勒におなじ位なれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。浄土の真実信心の人は、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、心はすでに如来とひとしければ、如来とひとしと申すこともあるべしとしらせたまへ。弥勒はすでに無上覚にその心定まりてあるべきにならせたまふによりて、三会のあかつきと申すなり。
浄土真実のひともこのこころをこころうべきなり。
 光明寺の和尚(善導)の『般舟讃』には、「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(意)と釈したまへり。「居す」といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたり、といふこころなり。これは弥勒とおなじといふことを申すなり。これは等正覚を弥勒とおなじと申すによりて、信心のひとは如来とひとしと申すこころなり。
(末灯鈔)

と仰せられています。命ある限り、私達はあさましき不浄造悪の身であります。煩悩は満ち満ちて、欲や怒りや憎しみの心が善心を汚し、己を律するどころか常に流されて生きています。しかもそれをどうにかしようとしてもある程度までで、それ以上はどうすることもできません。弥勒菩薩に等しい徳が具わるのではありませんし、等覚の菩薩にふさわしい人格者になるのでもありません。また、信後は経典や聖教がすらすら読めるようになるとか、意味が分かるようになるわけではありません。法をお聞かせ頂いて味わいが変わる等はありますが、信前は無かった特別な智慧が具わるわけではないのです。

もし現生で51段目に相当する智慧や徳が身に具わり、「恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚」とやらが起きるのであれば、七高僧が仰っていないわけがありません。しかし親鸞聖人までは、七高僧のどなたも、等正覚にいたり正定聚の位に入るのは当益、つまり死後の利益とされました。11願には「国中の人・天」、如来會の11願には「国中有情」とあり、11願成就文には「かの国に生るるもの」、如来會の11願成就文には「彼の国の衆生、もし当に生まれん者」と説かれていますから、等正覚にいたり正定聚の位に入るのは浄土に往生してからだというのは当然の解釈だったのです。ということは、等正覚にいたり正定聚の位に入るという明らかな自覚は無いということです。それを親鸞聖人があえて現益とされたのは、豪快な自覚からではなく、そうでなければ理屈が通らないという聖人の理論です。

それを、信心獲得したら51段高とびして正定聚不退転の明らかな大自覚が起き、現生で十種の幸せに生かされると言い、仏智満入、仏智全領して相当の事が知らされるかのように説いているのが高森会長です。ところが先ほど述べたように、七高僧方は浄土に往生した後に正定聚に入る、と仰っています。もし、入正定聚の益を知らされていないことをもって異安心だと言うのであれば、七高僧方は異安心になります。

また、親鸞会内では信心獲得したという人は高森会長はじめ数えるほどしかいません。しかも教えを正確に分かりやすく説ける人は高森会長のみだとされています。これもおかしな話です。獲信者が51段目の覚りの境地にいるのなら、彼らがもっと法を説けるはずでしょう。聞く側ももっと彼らに近づいて教えを聞いたり、質問に答えてもらったりすればよさそうなものです。それに彼らが年老いた会長に代わってもっと壇上やそれぞれの支部で教えを説いていけばよさそうなものですが、決してそうはしないのです。あくまで会員は高森会長の言葉を絶対視し、高森会長の言葉のみを信じている状態です。ほぼ高森会長しか出ていない世界のことを、自分もその世界に出れるんだと夢見て、毎回なけなしの金をはたいて富山へ行っては手を空しくして帰ってくる。それを何年、何十年と懲りずに疑問も持たずに繰り返しているのが哀れな会員の姿です。極難信だと言われていつまでも獲信できないことに納得してしまっている体たらくですが、そもそも信心獲得とはどういうことで、何が変わって何が変わらないのか、これについて無知で誤解が甚だしいから信心も安心もさっぱり分からないのです。全ては外道の教えを説いて迷わせている高森会長が元凶です。

そして、弥勒菩薩に等しい智慧や徳を具えるなら、他人の著書を剽窃、盗用したり、一族専用の施設を会員には内緒で建設したり、法論にいつでも応じると公言しながら約束の一つも果たさなかったり、批判サイトに反論を依頼した会員を除名にしたりと、菩薩とか仏教徒以前に、ただの人としてもどうかと疑問に思うような言動をするものでしょうか? 会員の多くは周囲の賛美や親鸞会製作物のみをもって高森会長を唯一無二の善知識と崇めている節がありますが、そうしたマインドコントロールが抜けた上で高森会長や親鸞会の言動を見てみますと、人としても実に低レベルな、我利我利亡者という表現が相応しい人物、団体であります。

仏心と一つになるという事と、仏智を体得する事の違いが判らず、教学も無い、教養も無い、人としてもどうかと疑わしい人物を唯一無二の善知識と崇めている会員の皆さんは実にお気の毒です。特に学生上がりの皆さんは、難関大学に合格した明晰な頭脳を今一度使ってよく考えてみたら如何でしょうか?

【参照】
『WikiArc』6 正定聚
『安心論題』正定滅度
『飛雲』どちらが異安心か?
信心決定しても51段目の覚りの境地には出られません

親鸞会会員の誤解―高森会長は51段目の位にいる(3)

親鸞会では度々、

もし自分の考え、思いが正しいのなら、仏法なんか聞く必要はない。自分の思う通りにやっていけばいい。それで幸せになれる。ところが実際思い通りに生きているような人でも、「私ほどの幸せ者はありません」と喜んでいる人はいない。それどころか、「四方八方眺むれど、ただ愁嘆の声のみを聞く」と言われるように苦しみ、憂い、嘆きの声ばかりが聞こえてくる。その原因と解決の道、全人類が本当の幸せになれるたった一本の道を仏法は教えている。だから聞かなければならない。
仏法には真実が説かれている。真実は、私達が納得できるできない、正しいと思える思えないは関係ない。納得できるからやる、納得できないからやらない、というのは世間の考え。それでは仏法は聞かれない。善知識方は、私達が人生の目的を果たし絶対の幸福になるために選び抜かれた最短の道を教えられている。たとえ分からないこと、納得がいかないことでも、親鸞聖人のなされたようにされた蓮如上人のように、我々もさせて頂かねばならない。


というようなことを聞かされます。会員の皆さんはこれがすんなり受け入れられると思いますが、それはマインドコントロールされているからです。私達が従うべきはお釈迦様が説かれた「」、親鸞聖人が教えられた「」であって、教えを説く「」ではありません。勿論、教えを説く先生を尊敬し、信頼することは大切です。しかし、教え以外の行動、言動、指示、命令にまで無条件に従うのではありません。

法に依りて人に依らざれ

とはそういう事です。これが過去の顕正新聞や講師部聖則には、

********************
我々も又、善知識の仰せに対し本会の指示に対し、何事も何事も仰せのままに指示通りに無条件で服従するように努めていかねばならない。これが求道であり、 この過程があってこそ、親鸞聖人の「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり」という真の無条件服従が体験できるのである。

ただひたすら、善知識を弥陀の化身と仰ぎ、善知識のお言葉を弥陀の直説と頂いていく事にのみ、私達が無碍の大道に雄飛できる道のある事を再自覚し、会長先生の御下にぬかずかねばならない。

この絶対の体験をするまで、聴聞によって無条件服従の心を培い、本会の指示に無条件に従うことによってその形を整え、心身ともに無条件服従へ仕向けていく努力が自己の信心決定を早め、強固な組織作りとなり、真宗の流れをより早く可能たらしめるのである。

会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本と致します。
上司の指示は会長先生の命と心得ます。(親鸞会講師部聖則)

********************

等とあり、「高森先生や上司の言うことに無条件に従え」ということにすり替えられています。


最初の内は「合点ゆかずば合点ゆくまで聞きなされ」と妙好人の言葉を出して、質問大歓迎、納得・合点のゆく教えだからと言われますが、会員となり、段々とマインドコントロールが進むにつれて、求道上の悩みや教義の矛盾点、指示の意義については質問しづらい雰囲気になっていきます。

元々矛盾の上に成り立つ教義であり、講師部員も先輩方も信心の本質的な部分については何も知りませんから、いくら質問しても歯切れの悪い答えしか返ってきません。結局、「もっと真剣に聴聞しよう」「より一層光に向かって進ませて頂こう」で終わりです。指示に「なぜ?」と口答えしようものなら、特に幹部以上はやり玉に挙げられてしまうでしょうし、仏法がどのようなものか分かっていない信仰の幼稚園児だとみなされてしまいます。そして、やがて教義の矛盾点は「まだ信を獲ていないから矛盾としか思えないんだ」「高森先生の深いミココロなのだろう」と片付け、何もかも上司の指示に従うような、親鸞会的人間になってしまうのです。

『親鸞会公式ホームページ』三願転入は弥陀のお計らい

には、こんなことが書かれています。

********************
阿弥陀仏の十九の誓いは、「修諸功徳(しゅしょくどく)の願」と言われている。「諸(もろもろ)の功徳を修し」とは、諸善万行、善と教えられるものなら何でもしなさい。知っただけでは観念の遊戯、論語読みの論語知らず、になってしまう。実行しなければ、結果は分からない。「力一杯、功徳(善)を修めなさい」と、阿弥陀仏が十方衆生に勧められているのが十九の願である。

「では、信仰が進めば、救われるのか」と、聞きたい人がいるに違いない。

 それは、凡夫の計ろうべきことではない。ひとえに弥陀のお計らいである。阿弥陀仏の絶対の救済を、どうして我々が計らえようか。

 不可称・不可説・不可思議の弥陀の本願を計らうことの愚かさを、親鸞聖人は、こうたしなめられている。

「補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議を計らうべき人は候わず」(末灯鈔)

“最も仏に近い、弥勒菩薩でさえ、弥陀の本願力不思議は想像も思慮もできないのに、阿弥陀如来の仏智を計らえる人がいるはずないではないか”

********************

これで納得してしまう人は、完全に思考停止しています。「信仰が進めば救われるのかどうかなど我々が計らうべきことではない」と、求道上の疑問や悩みを持つことさえ許されず、ひたすら財施に顕正に励め、上司の指示は会長先生の指示と心得て無条件に従え、そうしなければ信心決定できずに必堕無間だとせめたてられて、正常な思考判断ができない状態に陥っているのです。こうなってしまうのも、

・高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる
・高森先生は阿弥陀仏の御心が分かり、自分達に正しく説いて下さる唯一の御方


だと思っていることが原因の一つに挙げられると思います。51段目という、常人の智慧も才覚も及ばない境地にいると思うからこそ、「会長先生の深いミココロ」で納得してしまうのでしょう。

しかし、たとえ信心決定しても智慧や徳、人格までが弥勒菩薩に等しくなるのではありませんし、獲信したと言っている高森会長の言動は菩薩とか仏法者以前の、一般人と比べてもどうかと疑問なレベルであることは既に述べてきました。もうすぐ降誕会で、会員の皆さん(特に幹部以上)は目標達成に追われて必死な状況とは思いますが、毎年毎年そんな事を繰り返してきて信心獲得できていますか? そんなものは、獲信・往生とは何の関係もないのです。それを獲信・往生と関係あるかのように思い、「やればこの道進むだろう」などと考えているのを「自力」というのです。会員の皆さんには、早く仏法者以前の悪知識から離れて、弥勒菩薩と等しく必ず仏と成ることが決定している念仏の衆生になって頂きたいと思います。


【参照】
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』「三願転入を計らうな」なのか?、「18願を計らうな」なのか?
カルト宗教の特徴で最初に挙げられるのが、「指導者に対する崇拝・絶対的なリーダー(教祖)がいる」という点

親鸞会会員の誤解―高森会長は51段目の位にいる(4)

前回、親鸞会公式ホームページでも挙げられていると紹介した末灯鈔第7通、御消息第20通

補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。

のお言葉は、法然聖人の「如来の誓願には義なきを義とす」「他力には義なきを義とす」というお言葉についての説明の一部です。全文はリンク先をご覧頂きたいですが、該当箇所を抜き出しますと

また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。

と仰せられています。親鸞聖人は18願の説明の際、度々法然聖人のこのお言葉を引かれています。

法然聖人は定善散善等の諸善を廃してただ念仏一行をお勧めになっています(【再掲】法然聖人のお言葉等参照)。法然聖人が「如来の誓願」といった場合は18願を指します。19願や20願ではありません。そのことは、承元の法難のきっかけとなった『興福寺奏状』に、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とあり、また明恵高弁の『摧邪輪』に、

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

とあることでも分かるでしょう。「阿弥陀仏の本願は48あるのに、なぜ他の願を無視して18願だけというのか」、「19願は本願ではないのか」と、聖道諸宗が法然聖人を非難しているのです。

このようなことですから、弥勒菩薩でも計らえないと言われる

仏智の不思議」=「如来の誓願」=18願

であって、19願・20願ではないことは明らかです。当然ながら、18願の世界に転入するためには19願、20願の道程を通らなければならないとかいう親鸞会流三願転入の教えは存在しません。


ところで、『末灯鈔』とほぼ同じお言葉を用いて覚如上人が仰っているのが『執持鈔』

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。


(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。
だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。


です。先ほどの説明からも分かると思いますが、

仏智の不思議」=「如来の御ちかひ」=18願

です。逆にこうした18願、「仏智の不思議」になまじいの計らいを加え、19願・20願の道程を通らなければ18願の世界に入れないだとかいう邪義を正しいと思い込むことを「凡夫の浅智」というのです。

「仏智の不思議が分かるのは、51段高とびして仏智を体得した高森先生ただお一人だ」と思い込み、親鸞会流三願転入の教えとやらに騙されて多くの時間、金銭、労力を搾取されている会員の皆さんは実にお気の毒です。早く邪義を唱える人の手から離れて、「凡夫の浅智」を挟まずに「如来の誓願」に帰依して、報土往生を遂げる身となって頂きたいと思います。


【参照】
『飛雲』他力には義なきを義とす
『飛雲』法然上人・親鸞聖人を平気で非難攻撃する高森会長
『飛雲』「凡夫の浅智」以前に無智なんですよ

親鸞会会員の誤解―親鸞会でしか真実は説かれていない(1)

会員の皆さんが親鸞会に留まり活動する理由の一つとして、

親鸞会でしか真実は説かれていない

という思い込みというか、早合点というか、誤解があります。それで、教義のどの部分を真実と思うかと言えば、苦悩の現実、老病死の問題、煩悩といった、機の部分に関してです。例するに、

『親鸞会公式ホームページ』親鸞会 お釈迦様の「人間の実相」の譬えで後生の一大事を明らかに

などにある、親鸞会で説かれる”無常の虎”の譬え話を仏説だと思い込み、こういう話をする先生だから説かれることは全て真実だと早合点、誤解しているのです。

この”無常の虎”の譬え話、既にご存知の方は多いでしょうが『仏説譬喩経』に説かれている内容とは随分違います。それらしい立派な掛け軸がありますので、一部では譬え話が変化して親鸞会でなされるような話が伝わっている地域があるのかも知れません。また、”無常の虎”の譬え話は『会報第一集』にもあるので、華光会か大沼法竜師から拝借した可能性があります。

確かに、あんな危険なところにぶら下がっておりながら蜂蜜のことしか頭に無い旅人の姿はまさしく私の事だと納得させるだけの話ではあります。私も、これが人間の本当の姿だと思い、その解決こそが人間に生まれて為すべき事だと思ったからこそ、ふらふらではありましたが親鸞会で聞き求めていた一人です。しかし、『仏説譬喩経』に説かれている譬え話というからには、『仏説譬喩経』に忠実でなければその話はウソです。

・譬えにはある程度の自由度があって、話を変えてもいいではないか
・高森先生は私達に分かりやすく話をするために、敢えて話を変えられている


等の言い訳をしたり、そんな文言で納得してしまう人は相当にマインドコントロールされており、高森本仏論者だと言うべきでしょう。親鸞会でも聞いたことがあるはずです。経典のお言葉には一字一句に深い意味があり、これを勝手に加減してはならないと。教学試験においても、根拠が経典の問題では一字一句正確に書けないと×でしょう? その経典のお言葉を勝手に加減して内容まで変え、無常と罪悪で聞く者をせめ立てるだけでなく、組織拡大要員として利用・搾取している高森顕徹会長は、既にさとりを開いた仏なのでしょうか? それとも親鸞聖人の名を語った一新興宗教の会長なだけでしょうか? 答えは言うまでもありません。


譬え話と言えば、「二河白道の譬え」も『観経疏』散善義に説かれている内容とは随分違います。善導大師が説かれたというからには、『観経疏』に忠実でなければその話は同じく嘘です。原本と現代語訳については、

『飛雲』法論を怖れる「群賊」

等をご覧下さい。それにしても、善導大師が『観経疏』の最後に

一句一字加減すべからず。 写さんと欲するものは、もつぱら経法のごとくすべし、知るべし。

とまで仰っているお言葉を勝手に加減して内容まで変え、信後の信心守護の譬えを信前の聞法求道の譬え、阿弥陀仏に救われるまでの心の道のりを譬えたものだと宣っている高森会長という人物は一体何者でしょうか? 『親鸞会教義の誤り』宿善とは8にあるように、伊藤康善著『仏敵』が根本聖典の善知識様という表現が適切に思えます。


ついでに、時々話される『法華経』の「長者窮子の譬え」にも触れておきましょう。ご無沙汰かと思いきや、

『浄土真宗親鸞会 宇治金時にあこがれて』二千畳座談会で、長者窮子の譬えを学びました

にあるように2010年11月21日に、また

『あさ川進の、宗教と私』3/3 学生大会の話(のあらまし)

にあるように2013年3月3日にも話がなされたようです。更には、

【浄土真宗親鸞会】お釈迦様の『長者窮子の譬え』に学ぶ

こんな動画まであります。私は若かりしK講師長がアシスタントをしていたビデオ法話でしか聞いたことがありませんでしたが。さて、この話も大まかな流れは合っているものの、『法華経』信解品に説かれている内容とは随分違います。譬えが何を表しているのかもまるで異なります。浄土三部経以外の経典からも阿弥陀仏の大悲を汲み取ろうという姿勢は大事ですが、「長者窮子の譬え」は”阿弥陀仏のご方便”を譬えたものではありません。まして高森会長が言うような、”我々をどうしたら決勝点まで出させる事が出来るのかと言う弥陀のお計らい”を譬えたものではありません。所詮は『教行証文類』さえまともに読んだことがないのですから、『仏説譬喩経』も『法華経』も読んだことがあるはずがありません。


ところで、会員の皆さんに質問です。皆さんは「後生の一大事を助かろうとして」高森会長の話を聞いていることと思いますが、「後生の一大事を助かろうとして」『仏説譬喩経』や『法華経』を読むことを何と言うでしょうか?

そう、親鸞会の定義では、読誦雑行です。内容を聞くことも同じことです。正月やお盆、彼岸の墓参りすら忌み嫌う会員が、実は雑行をやりまくっているということがこれでも分かると思います。特に『法華経』は自力修行によって成仏を目指すことを説くものですから、19願よりも真宗に遠い教えです。

親鸞聖人は、信後の信心守護を譬えた「二河白道の譬え」は『教行証文類』に引かれ、『愚禿鈔』『一念多念証文』等でも度々解説、紹介されています。が、”黒白二鼠”の譬えと「長者窮子の譬え」は、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の書かれたものの中には出てきません。ということは、我々が真実信心を獲る上でさして重要でない譬え話だということです。


このように、親鸞会で説かれていることは一見真実らしく聞こえますが、実際は経典や聖教に基づいていないことが多くあります。内容も大沼師や華光会由来の話がほとんどなので、別に親鸞会でなくとも華光会へ行けば同じような話はいくらでも聞くことができます(大沼師は既にお亡くなりになっていますが)。そして、らしく聞こえるのは我々の機様の部分がほとんどで、救いの法に関しては邪義だらけです。真実が説かれていそうだからと聞き続けても信心も安心も分からないのは聞く側のせいばかりではありません。説かれる内容が高森教では、それをまともに聞いて親鸞聖人の教える信心を獲られる方がおかしいです。

親鸞会で説かれているのは真実ではなく、虚仮であります。親鸞聖人の仮面を被り、救いがあるように見せかけていながら実は無い、平生業成と謳いながら外道の教えに導かれてしまう、そういう教えが親鸞会の教義です。本当の親鸞聖人の教えが知りたければ、親鸞会を離れて聞いた方が断然良いです。幸い現在も築地本願寺や京都本願寺などで定期的に法話が開かれております。他でも各地法話は開催されています。書店に行けば本も沢山あります。稲城選恵和上の本とか、梯實圓和上の本とか、ネットでも探せます(受け取ることも考えて注文してね)。更にはネット動画も普及してきて、法話を聴聞できる、知識を探せる環境は着実に整えられてきています。留まりながらでもよいですが、月々の会費も無駄ですし、親鸞会での知識が邪魔で他の方の話をまともに聞けないことが多いので、見切りをつけてきれいさっぱりさよならした方がよいです。

人は今までと違う環境へ行くことに不安やためらいを感じるようです。特に必堕無間の呪縛に囚われている人は恐怖と言っていいでしょう。しかし大丈夫です。私が言うから大丈夫なのではなく、阿弥陀さまが「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救うぞ)」と遥か昔から真実の御言葉でお喚びづめですから大丈夫なのです。必ず、只今お助け下さいます。私は何の計らいも無く、そのおこころをそのまま聞き受け念仏するだけです。「親鸞会でしか真実は説かれていない」などと思い込んでいないで、親鸞会という間違った閉鎖された空間から、広い世界へ足を伸ばしてみませんか?


【参照】
『飛雲』”無常の虎”とは何?
『仏説譬喩経』には”無常の虎の譬え”は説かれていない

親鸞会会員の誤解―親鸞会でしか真実は説かれていない(2)

この記事でも書きましたが、会員の皆さんは一部の情報を正しいと思うことをもって、

親鸞会でしか真実は説かれていない

と早合点し、そのように思い込んでいるのだと推察されます。

先日の親鸞会降誕会では『白骨の章』を通して、無常、真実の自己についての話があったようですが、

・人間の浮生なる相
・まぼろしのごとくなる一期
・一生過ぎやすし
・われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず
・朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身
・ただ白骨のみぞのこれり
・老少不定のさかひ


というような人間のはかなさ、この世の無常を「確実な事実」だと思えることをもって、親鸞会教義全体が正しい、親鸞会でしか真実は説かれていないと思い込んでいると考えられます。確かに、人間のはかなさ、命の短さ、この世の無常といった部分に関しては否定できることは一つもありませんが、だから「高森先生の仰ることは全て正しい」と言えるのでしょうか?

・死は他人事であり、自分事と全く思っていない
・「人や先、人や先」としか思っていない
・明日死ぬとは全く思っていない
・いつかは死なねばならないとは思うが、腹底は永遠に死なないと思っている

まぁいつものようにこのような内容を話していたということなのですが、「こう思っていると言い当てられた」から「高森先生の仰ることは全て正しい」ですか?

また、度々親鸞会で出てくる『御文章』

それおもんみれば、人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄華栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふとも、それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。(1帖目11通)

のお言葉を挙げて、

・人間は稲妻の光や朝露が一瞬にして消えゆくような夢幻の間の楽しみである
・栄華をきわめ栄耀にふけって、人生が自分の思うがままであるとしても、それはせいぜい50年100年のこと
・もし只今にも無常の風がやって来たなら、どんな病気や苦しみに遭って死ぬか分からない
・死んでゆく時はかねて当てにし頼りにしていたものは、何一つ自分にはついてこない
・妻も子供も、必死にかき集めた金も名誉も地位も、全て我が身から離れてゆく
・全てに裏切られて、たった一人で死んでいかねばならない

などと高森会長や会員はよく話しますね。このように説くことで、高森会長を始め親鸞会の人間(上層部)は「妻子や財宝などの世間事には執着していない」と思っている会員さんも多いのではないかと思います。しかし、「このように言い当てられた」から「高森先生の仰ることは全て正しい」ですか? 高森会長らは世間事に執着していないという証拠になりますか?

度々挙げるお言葉と言えば『歎異抄』後序が思い浮かびますが、

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに

の部分が真実だと思える、だから「高森先生の仰ることは全て正しい」と会員の皆さんは結論付けている感があります。しかし、こうした世の中の無常を説いていることが、イコール親鸞会教義全体が正しいという証拠になるでしょうか?


ところで会員の皆さんの中には、無常や罪悪等もそうだが「高森先生はいつも親鸞聖人、蓮如上人のお言葉を出して話をしている。だから正しい」と信じている方もあるかも知れません。しかし、そのお言葉は本当に高森会長の解釈で正しいのか検証したことはありますか? 前後の文章とのつながりは? 他の根拠との整合性は? ただ「高森先生が仰るのだから」と右へ倣えではありませんか?

また、「高森先生は倒れても倒れても立ち上がり、声が出なくなっても何とか壇上でお話しされている。私達の後生を案じ、仏恩報謝の気持ちがなければとてもできないことだ。だから正しい」と信じている方もあるでしょう。でも、一生懸命でさえあれば正しいですか? 世の中には過労死する方も沢山ありますが、そのように死ぬくらい頑張っていれば誰でも正しいですか?


他にもそれぞれ、その人なりに親鸞会が正しいと信じる理由はあると思います。しかし、入り口の話さえ正しいと思えたなら、後は全て正しいのか。根拠を挙げて話せば正しいのか。死ぬほど活動していれば正しいのか。それとも、講師部員や先輩、周囲の会員が口を揃えて賛美するから何となく正しいと思っているだけなのか。答えは何となく分かっているという会員さんも少なくないと思いますが、教義や組織のやり方に疑問を持っている方はこの機会にぜひ考えてみて下さい。(つづく)

親鸞会会員の誤解―親鸞会でしか真実は説かれていない(3)

前回の続きです。「高森会長が話す人間のはかなさ、この世の無常などの話が正しいとしても、それが親鸞会教義全体が正しいという証拠になるか?」という問いを皆さんに投げかけていました。

中には薄々勘付いている会員さんもあるかと思いますが、答えは「証拠にはなりません」。

無常の話はあくまで無常の話であって、浄土真宗の教義体系とは別ものです。高森会長は無常などの世の真実を話した上で、時折り根拠を混ぜてもっともらしく教えを説くので、浄土真宗に疎い素人は騙されてしまうというわけです。

聖教の内容は読み誤りやすい。自己流に解釈するな。意味が判らなければ聞きなさい

という上からの指示も実に巧妙です。これによって会員は聖教の内容を自分で考えることをしなくなり、疑問に思うことがあっても質問したら大概丸め込まれてしまいます。その結果、親鸞会の邪義を存分に刷り込まれることになります。このように真実を一部取り入れた邪義を説いているため、その一部分の真実に惹かれて「正しい」と思ってしまうと、教義全体が正しいように錯覚、誤解、早合点してしまうのです。

この「一部分の真実」というのが、前回挙げた人間のはかなさ、命の短さ、この世の無常についてです。また『なぜ生きる』第一部にあるような、この世の幸せは続かないとか、欲を満たす喜び、仕事の喜び、愛する人との出会い、その他どのような趣味・生き甲斐・目標達成の喜びも、一時幸せでも続かないしキリがない、やがて老や病や死のために必ず崩れ去るといった話もそうです。他に、罪悪や煩悩に関しても正しい部分があります。こうした機の部分に関しては、邪義もあるものの概ね親鸞会で言われる通りと言っていいでしょう。

ところが、私達が阿弥陀仏に救われることに関して、すなわち救いの法という肝心かなめの部分については、勿論正しい解釈をしている所もありますが大部分は邪義だらけです。主要な教義に絞って見ましても、

・全ての人は死ねば必ず無間地獄に堕ちる
・全ての人は生まれながらにして五逆罪、謗法罪を造っている
・世の中に善人は一人もいない、全ての人は悪人である
・善をしなければ絶対に獲信できない
・白道は自力の求道心、信心
・19願の実践は必要
・定散二善や六度万行の実践は必要
・宿善の薄い者が、そのままで信心獲得はあり得ない
・宿善を積め、求めよ、厚くせよ
・獲信すると、逆謗の屍と必ず知らされる
・獲信すると、浄土往生することが火に触ったよりもハッキリする
・善知識に無条件服従せよ
・因果の道理を深信しなければならない
・三願転入しなければ蟻一匹救われない
・全ての人は19願から始めなければならない
・「聞く一つ」とは、聞いたこと(廃悪修善)を実践することを含む
・縦と横の線と人の図
・活動することで横の道を進み、縦の線に近づいていく


とまぁ実に沢山の誤りがあります。これに細部を合わせたらそれこそキリがありません。

親鸞会の教えは、一部分は正しいが教義全体で言えば邪義であります。ですから、人間のはかなさやこの世の無常といった機の部分はよく分かっても、救いの法の部分は矛盾点だらけでサッパリ分からないでしょう?

例えば現在只今助かると言われながら、相当求めても一向に横の道を進んだ気がせず、このままで助かるのか不安に思っている方はありますか? 極難信だからとか、方便が必要だとか、後生の一大事は人生賭けての最大事だとか色々理由をつけて救いを先延ばしにし、終いには臨終までに間に合えば万々歳、今生助からなくても遠生の結縁になればいいなどと考えている方はいないでしょうか? これは「現在只今助かる」は正しいのですが、高森会長が説く「横の道」が浄土真宗に存在しない、でっち上げの架空の道であるためです。

高森会長の教えに疑問を抱かず、諾々と従っている人は、『白骨の章』の話で言えば

・死は他人事であり、自分事と全く思っていない
・「人や先、人や先」としか思っていない
・明日死ぬとは全く思っていない
・いつかは死なねばならないとは思うが、腹底は永遠に死なないと思っている


人そのものです。「我や先」だと思えたら、今日明日にも死なねばならないと考えたら、白骨の章に書いてあることが「そうだ!」と分かったら、延々と信仰とやらを進めていってその先に救いが有るだか無いだか、有るとしてもそこまで自分が到達できるのかハッキリしない教えで満足できますか? 自分の命が今日一日しかないとしたら、その24時間の間にどれだけの善をして信仰が進んで助かるというのでしょうか? まして現在只今助かりますか? 答えは自ずとハッキリしてきます。親鸞会の教えで私は助からないと。それで私も、この人だけは辞めないだろうと思っていた先輩の退会をきっかけとして親鸞会から脱した一人です。

退会した当初は、それこそとくよしみねさんのこの記事にあるような気持ちでしたが、本願力にお遇いすることができて本当に良かったです。必堕無間の呪縛からも解放され、後生は阿弥陀さまにおまかせして安心です。

親鸞聖人の教えに矛盾はありません。現在、ここにいる、このままの私を「助けるぞ」と仰せられる阿弥陀さまの誓いをそのまま受け容れるだけです。私を助ける手筈は阿弥陀さまが五劫永劫の願行を成就し整えられており、既に十劫の昔から招喚しておられます。それは「なんまんだぶ」となって私の元へ届いていますから、私としてはこの誓いの御名を素直にお聞きするのみです。確かに自力で他力を掴もうとかかっている内は分からないことも当然ありますが、大丈夫です。煩悩に穢れた私の言葉は不真実ですが、「我にまかせよ、必ず救う」と阿弥陀さまが真実の言葉で仰せられているのですから大丈夫です。必ず助かります。この際親鸞会の教義や組織、度重なる朝令暮改の無理難題に疑問を持っている方は、邪義だらけの高森教から脱して本物の浄土真宗を聞き、真実なる誓願を信楽して念仏して頂きたいと思います。

親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(1)

会員の皆さんが大きく誤解していることの一つが

方便だからやらなければならない

というものです。これに騙されて、親鸞聖人が勧められなかったことを、さも勧められているかのように思い込み、また人にも教えるという自損損他に陥っている人が多いのです。『教学聖典(2)』では、

我々を真実に近づけ、真実を体得させるに絶対必要なものを言う。

と教え、あたかも方便とあれば「我々に絶対必要で実行しなければならないもの」という認識を植え付けています。これは間違いです。一口に方便といっても、我々に必要な方便とそうでない方便とがあるのです。


今一度確認しておきますが、方便には《善巧方便》《権仮方便》の二種類があります。浄土真宗では「随自意の法門」と「随他意の法門」とに分けて《善巧方便》《権仮方便》の立場を区別化されています。

「随自意の法門」とは善巧方便のことです。仏の自らの意にかなって用いられる教化の方法であるからそのように称されます。それは大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるという意味で、阿弥陀仏を「方便法身」というときの方便がそれです。『唯信鈔文意』において二種法身が語られる方便はこの善巧方便に該当します。

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。

法性法身自身が法性法身とはいかなる法身であるのかを巧みに表現するために、方便法身として「形をあらはして」説明されるのが善巧方便です。法性法身と方便法身は決して別物ではなく、ただ法性と対した時に便宜的に方便と称されているだけで、方便法身は法性法身の世界に達するまでの階梯といった意味ではありません。法性法身は全性修起して方便法身を全うじるものです。でありますから、真実の法門に入ったからと言って廃するものではありませんし、また廃してはなりません。


対して「随他意の法門」とは権仮方便のことであり、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受け取れないから、その機(すなわち阿弥陀仏自身から見た「他」のことで、すなわち衆生のこと)に応じて仮にしばらく誘引のために用いられる教えをいいます。機が真実の法門に入ったならば、権化の法門は不要となり還りて廃せられます。このように暫く用いるが後には還って廃するような方便を権仮方便もしくは「随他意の法門」といいます。それは具体的には第十九願(要門)・第二十願(真門)の世界のことを指しています。

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ
(浄土和讃)

このように祖師は自力聖道門の教えを「権仮の方便」と言われ、そこに久しく留まっていた故に流転を続けてきたのであり、そこを離れて悲願の一乗である阿弥陀仏の本願真実の教えに帰命しなさいと教えられています。その阿弥陀仏の本願にも真実(随自意)の法門と権仮(随他意)の法門とがあり、権仮方便である19願・20願の法門は化土に留まる教えであるからこれを廃し、18願真実の法門に帰依して報土往生を願いなさいというのが親鸞聖人のお勧めであります。

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。(化身土文類)

とあるように、聖道門同様に19願も権仮方便の教説であり、真実18願の法門の前には不要となり還りて廃せられる教えなのです。


これが親鸞会では、《善巧方便》《権仮方便》とをごちゃ混ぜにして教えています。

従仮入真(「仮より真に入る」、または「仮よりしか真に入れず」と訓読させている)

の語を用い、18願の世界に転入するためには19願・20願の道程を通らなければならないなどと教えていますが、真宗に無知なのもいいところです。現在、仮にいる者に、仮を捨てて真へ入れというのが、仮より真へ入らしめる「従仮入真」という宗学用語なのです。

19願を実践してゆく先は臨終来迎、化土往生です。来迎にあずかれるかどうかは臨終まで不確定ですから「死ぬまで求道」です。そしてうまく化土往生できたとしても化土でまた修行して報土往生を目指すのですから「死んでも求道」です。臨終来迎にあずかれなければ当然自らの業に報いて六道を流転することになります。まぁ三悪道は免れないかと・・・。これが親鸞会の場合は外道の教え、阿弥陀仏を誹謗して慚愧あることない悪知識の教えを自らも信じ人にも吹き込むという罪を犯しているので、「必堕無間」もあながち間違いではないかも知れません。

ただ、今までの悪行を心から懺悔し、邪義とは決別し、大いなる慈悲の誓願を信じ念仏すればその行者をかたじけなくも阿弥陀仏は摂め取って決してお捨てになりません。早く邪義を授ける人の手から離れて、18願を直ちに聞き受けて念仏して頂きたいと思います。


【参照】
『用管窺天記』従仮入真
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』従真垂化??ー「従真垂仮」と「従仮入真
『飛雲』”方便より真実に入れ”の正しい意味
『飛雲』善巧方便と権仮方便の意味を教えてあげてください

親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(2)

親鸞会では「方便だからやらなければならない」として善という名の献金、勧誘、会長及び上司への無条件服従を会員に課しています。その例として高森顕徹会長は『王舎城の悲劇』の韋提希を出して、

韋提希はお釈迦様の言われる通りに定善をやった

と教えていますが、これは真っ赤なウソです。『観無量寿経』を読んでみますと、釈尊が定善をお説きになる直前に、韋提希は釈尊にこのように申し上げています。

仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」

さらに釈尊は韋提希に仰せになった。
「そなたは愚かな人間で、力が劣っており、まだ天眼通を得ていないから、はるか遠くを見とおすことができない。しかし仏には特別な手だてがあって、そなたにも極楽世界を見させることができるのである」
そのとき韋提希が釈尊に申しあげた。
「世尊、わたしは今、仏のお力によってその世界を見ることができます。でも、世尊が世を去られた後の世の人々は、さまざまな悪い行いをして善い行いをすることがなく、多く苦しみに責められることでしょう。そういう人たちは、いったいどうすれば阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるでしょうか」


こうした韋提希の、釈尊が世を去られた後の未来の人々を案じた要請によって釈尊は定善を説かれたのです。韋提希は既に釈尊の仏力によって極楽世界を拝見したので、定善をやる必要はありません。当然定善をしていませんし、やろうともしていません。

『なぜ生きる』やアニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』では、韋提希が定善を試みて出来ずに苦悶に堕ちてゆく姿が書かれていますが、とんでもないデタラメ創作教義です。定善を説く合間合間に釈尊は

・この想成じをはりて(水想観)
・この想成ずるとき(地想観)
・地想成じをはりなば、次に宝樹を観ぜよ。(宝樹観)


等と仰り、水想観が出来たら次は地想観、地想観が出来たら次は宝樹観を成せと教えられます。親鸞会のように、水想観が出来なかったら次は地想観、地想観が出来なかったら次は宝樹観ではありません。また当然ですが、定善のできない自分を知らせるために説いた観法ではありません。『無量寿仏観経』ですからあくまで釈尊は無量寿仏を観る方法を教えられたのです。親鸞会の話通りなら、観が進む度に易しくなっていかねばなりませんが、逆です。むしろ日想観、水想観、地想観辺りは無量寿仏を観ずる前段階の、まず極楽世界を思い描く観法なので、ここで躓いていたら話になりませんし、ここから徐々に難しく高度になっていくのです。

釈尊はこうして定善十三観をお説きになりましたが、この観を成就できるのは極めて優れた資質の持ち主のみで、大部分の人々は成就できずに落ちこぼれることを予見され、続けて散善をお説きになられます。上三品には行福を、中三品には世福、戒福を与え、善の出来ない下三品には念仏を施されています。ところが、流通分に至って釈尊は、それまで広く説いてきた定散二善ではなく、下三品にわずかに説かれた念仏を阿難に付属されるのです。

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。
仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。


もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。このような人は、観世音・大勢至の二菩薩がすぐれた友となリ、さとりの場に座り、仏がたの家である無量寿仏の国に生れるのである」
釈尊は阿難に仰せになった。「そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名を心にとどめよということである」。釈尊がこのようにお説きになったとき、目連や阿難および韋提希たちは釈尊のこの教えを聞いて、みな大いに喜んだのである。


このことを法然聖人は『選択本願念仏集』念仏付属章において、懇ろに釈尊の本意を説き明かされていますが、長くなりそうなので続きは次回にしたいと思います。


ところで、今回少し触れたことからもお分かりのように、『観無量寿経』に説かれている事と高森顕徹会長の主張は随分違います。主な相違点については、以前

『観無量寿経』に説かれている事と、親鸞会教義との相違点

等の記事に書きましたので参照して下さい。

親鸞会会員の誤解―方便だからやらなければならない(3)

釈尊が『観無量寿経』にて、それまで広く説いてきた定散二善ではなく、下三品にわずかに説かれた念仏を阿難に付属された本意を、法然聖人は念仏付属章で教えられています。

釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文。
 『観無量寿経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。
 同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と。


善導大師の「散善義」を引かれ、『観無量寿経』には定善・散善の利益が説かれるけれども、阿弥陀仏の本願より伺えば、称名念仏こそがこの経典の肝要であると教えられています。なので、釈尊は定善・散善の諸行を付属せず、ただ念仏を阿難に付属されたというのです。
その後、『選択集』では定散二善を詳しく解説されます。詳しくはリンク先や七祖聖教をご覧下さい。定散二善についておおよそどのような行か述べられた後、法然聖人はこう続けられます。

次に念仏とは、もつぱら弥陀仏の名を称するこれなり。念仏の義常のごとし。しかるにいま、「正明付属弥陀名号流通於遐代」(同)といふは、おほよそこの『経』(観経)のなかに、すでに広く定散の諸行を説くといへども、すなはち定散をもつて阿難に付属し後世に流通せしめず。ただ念仏三昧の一行をもつてすなはち阿難に付属し遐代に流通せしむ。

念仏とは、もっぱら阿弥陀仏の御名、南無阿弥陀仏を称えることです。「善導大師が『まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす』と仰っているのは、『観無量寿経』の中にすでに広く定散の諸善が説かれているけれども、釈尊は定散二善を阿難に付属し後の世に流通せしめておられない。ただ念仏三昧の一行を阿難に授けてはるか後の世に弘めんとされているのだ」というのです。

それから、問答形式で釈尊が念仏一行を付属されたお心を開かれてゆきます。

問ひていはく、なんのゆゑぞ定散の諸行をもつて付属流通せざるや。(中略)
なんぞ観仏三昧を廃して念仏三昧を付属するや。


「どうして定・散の諸行を付属流通しないのか。またどうして観仏三昧を廃して念仏三昧のみを付属するのか」まずこのような問いを出し、それについては以下のようにお答えです。

答へていはく、「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」(散善義)といふ。定散の諸行は本願にあらず。ゆゑにこれを付属せず。またそのなかにおいて、観仏三昧は殊勝の行といへども、仏の本願にあらず。ゆゑに付属せず。念仏三昧はこれ仏の本願なるがゆゑに、もつてこれを付属す。「仏の本願に望む」といふは、『双巻経』(大経)の四十八願のなかの第十八の願を指す。「一向専称」といふは、同経の三輩のなかの「一向専念」を指す。本願の義、つぶさに前に弁ずるがごとし。

「定散の諸行は本願にあらず」
「観仏三昧は殊勝の行といへども、仏の本願にあらず」


非常に厳しいお言葉です。定善・散善の諸行や観仏三昧は本願ではないから付属されなかったというのです。対して、念仏は仏の本願であるから付属されたのだと仰っています。善導大師の「仏の本願に望む」というのは、『大無量寿経』の48願の中の第18願を指し、「一向専称」というのは、『大無量寿経』三輩段の中の「一向専念」を指すとのことです。
このことから、「三願転入の教え」なる珍らしき教えは無い、善導大師、法然聖人が開かれたのは第18願の教えで、19願や20願の教えは含まれていないということが分かります。19願には「発菩提心 修諸功徳」とありますから、19願の教えが含まれるなら定善・散善の諸行を廃することはあり得ません。そして定善・散善等の諸善を勧めることは「一向専念無量寿仏」の否定でもあります。親鸞会ではアニメで「一向専念無量寿仏」の言葉を何十回と出して強調していますが、その意味するところが全く分かっていないことが伺えます。念仏以外の諸善を廃し、ただ念仏一行を立てなければ「一向専念無量寿仏」にはならないのです。

念仏付属章では、続いてこのような問答がなされます。

問ひていはく、もししからば、なんがゆゑぞただちに本願の念仏の行を説かず、煩はしく本願にあらざる定散諸善を説くや。

「もし定散二善や観仏三昧が仏の本願にあらずというなら、どうして釈尊は直ちに本願の念仏の行を説かず、煩わしく本願の行ではない定散諸善を説かれたのか」という問いが出されています。至極尤もな問いですね。

浄土真宗のイロハも知らない高森顕徹会長も『本願寺なぜ答えぬ』にてこんなことを書いています。

”定散二善が、韋提希の獲信に無関係”と、するならば、”説かれた目的はなんのため”と、反問したい。(p.147)

親鸞聖人のお師匠様である法然聖人のお言葉位知っとけよと言いたいですね。本当に経典や聖教に無知な高森会長ですが、法然聖人のこの問いに対する答えが、

答へていはく、本願念仏の行は、『双巻経』(大経)のなかに委しくすでにこれを説く。ゆゑにかさねて説かざるのみ。また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。(中略)ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

です。「本願念仏の行は『大無量寿経』の中に詳しく既に説かれているから、『観無量寿経』では重ねて説かれていないだけである。また定散二善を説かれたのは、念仏が他の善より遥かに勝れていることを顕すためである。もし定散二善がなければ、どうして念仏が殊に秀でて勝れた行であることを顕せるというのか」というのです。であるから、釈尊の本意としては、定散二善は廃するために説かれ、念仏三昧は立てるために説かれたというのが法然聖人の教えであったのです。

もし布施や持戒、多聞、観仏三昧、孝養父母などの諸善を本願の行としたなら、それができない者は往生の望みを絶たねばなりません。しかもそういった行ができる者は少なく、できない者は甚だ多いのです。それで阿弥陀仏が普く一切衆生を平等に助けるために、他の諸行諸善は難行であり劣行であるとして本願において選び捨てられ、至って易くしかも最も勝れた念仏一行を本願の行として選び取られたのでした。

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。難易義

このような阿弥陀仏がただ一行選ばれた念仏を称えるのは、まさしく阿弥陀仏のお心に順ずる行為であるから、本願に乗じて必ず往生を得ると教えられたのです。ただ、私達があれこれ計らって、「なんまんだぶしますんでお助け下さい」とやっとってもそれは仏願に順ずるとは言えませんよ。阿弥陀仏が「なんまんだぶせい」と仰る、そのお言葉に計らいを入れずにそのまま「なんまんだぶ」するのです。それは念仏する者を極楽へ迎えるという仏願を計らいなく信じて称える念仏ですから、彼の仏願に順じて必ず往生を得るのです。

問ひていはく、なんがゆゑぞ五種のなかに独り称名念仏をもつて正定の業となすや。
答へていはく、かの仏の願に順ずるがゆゑに。意はいはく、称名念仏はこれかの仏の本願の行なり。ゆゑにこれを修すれば、かの仏の願に乗じてかならず往生を得。
雑行と正行

このように教えられた法然聖人を本師と仰ぐ親鸞聖人が、獲信・往生のために定散二善や19願の行を勧めるわけがないでしょう。親鸞聖人は法然聖人の教えを「浄土真宗」と仰っているのですから、『選択本願念仏集』を知らずして『教行証文類』は分かりません。『選択集』も『教行証文類』もろくに読んだことがなく、大沼法竜師や伊藤康善師の著作を根拠として「親鸞聖人の教えに善の勧めはある」「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」などと吹聴する高森顕徹会長の様は滑稽至極であります。

方便だからやらなければならない

と教えられてやっていることは本願に順ずる行ではなく、実は本願に背く行であること、そして背くばかりか献金・勧誘・無条件服従という善もどきの善、行もどきの行であることを、会員の皆さんにはよく知って頂きたいと思います。親鸞聖人が教えられてもいないことを「これが本当の親鸞聖人の教えだ」と偽り、己の夢の実現、欲望の追求に浄土真宗を利用して「師をそしり善知識をあなづりなんどする」、阿弥陀仏を誹謗する外道の高森顕徹会長を信じるのは謗法罪です。即刻離れることをお勧めします。(つづく)
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淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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