親鸞会会員の誤解―高森会長は51段目の位にいる(1)
親鸞会では、高森会長を権威づけし、会員を服従させるのに
高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる
と会員に思い込ませています。
高森先生は阿弥陀仏の御心が分かり、自分達に正しく説いて下さる唯一の御方
であると推量、忖度させるには、我々とは次元が違う境地にいると思わせる必要があります。
親鸞会ではさとりの52位の話をし、1段でも違えばその境界は人間と虫けらほど違うと言います。我々は1段のさとりも開いていない凡夫で、仏覚は52段目の最高位。そして信心獲得すると51段高とびしてあと1段で仏という等覚の位に到達するように教えられています。さとりの52位を図で示し、一番下から上に向かって曲線を引いて、信一念で一気に51段の位まで飛び越えるように印象付けています。あまり上手ではありませんが、下の絵を参照して下さい。

信一念で51段高とびして、既に等覚のさとりを開いて一生補処の位にいる弥勒菩薩と肩を並べるという話は高森会長のオリジナルかと言えば、当然そんなはずは無く、伊藤康善師からのパクリです。伊藤康善著『安心調べ』には
そんなあっさりした話で生死の大問題が解決する人があれば、吾等は求道に苦労することもない。仏勅をすなおに信ぜられるほど、我等はお目出度い人間にできていない。そこには深酷な体験の苦しみがなくてはならぬ。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説く者も愛想をつかし、求める者も愛想をつかし、求道に精も根も尽き果てて、悲泣悶絶のどん底から、湧き上がる精神的大飛躍の境地がなければならぬ。廻向信は決して、おぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つこころである。
この信は仏階52段の中、下50段を超えて41品の無明を断ずる等覚不退に類同せられる。……、真に手の舞い足の踏むところを知らぬ大歓喜である。至心信楽己を忘るというも愚かなり、大千世界を踏む破って、恒沙の諸仏に怒号叱咤することのできる豪快な自覚が生まれてくるのである。この体験がなくては何を言っても駄目な話だ。(P255~P256)
とあります。これが高森顕徹著『会報第二集』では
そんなあっさりした話で生死の大問題が解決するものか、十劫の昔の話を素直に信ぜられる程我らはお目出度い人間に出来ていないのだ。そこには、生死の断頭台上に生首をつき出す苦しみがある。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても尚心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説くものも愛想をつかし、求める者も愛想をつかし求道に精も根もつき果てて悲叫悶絶のどん底から湧き上がる精神的大飛躍の境地がある。一念は断じておぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つ心である、この一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられるものであり、真に手の舞、足の踏むところを知らぬ大歓喜があるから慶喜一念という。至心信楽己を忘れるというも愚なり、大千世界を踏み破って恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚が生まれるのだ。この一念の体験がなくては何をいっても駄目なのだ。(P94)
とあります。所詮はこれが「一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられ」たと宣っている「無二の善知識」の本当の姿です。会員の皆さんは、いい加減気づきましょう。
【参照】
『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(2)
高森先生はさとりの52位の内、あと1段で仏という51段目の位にいる
と会員に思い込ませています。
高森先生は阿弥陀仏の御心が分かり、自分達に正しく説いて下さる唯一の御方
であると推量、忖度させるには、我々とは次元が違う境地にいると思わせる必要があります。
親鸞会ではさとりの52位の話をし、1段でも違えばその境界は人間と虫けらほど違うと言います。我々は1段のさとりも開いていない凡夫で、仏覚は52段目の最高位。そして信心獲得すると51段高とびしてあと1段で仏という等覚の位に到達するように教えられています。さとりの52位を図で示し、一番下から上に向かって曲線を引いて、信一念で一気に51段の位まで飛び越えるように印象付けています。あまり上手ではありませんが、下の絵を参照して下さい。

信一念で51段高とびして、既に等覚のさとりを開いて一生補処の位にいる弥勒菩薩と肩を並べるという話は高森会長のオリジナルかと言えば、当然そんなはずは無く、伊藤康善師からのパクリです。伊藤康善著『安心調べ』には
そんなあっさりした話で生死の大問題が解決する人があれば、吾等は求道に苦労することもない。仏勅をすなおに信ぜられるほど、我等はお目出度い人間にできていない。そこには深酷な体験の苦しみがなくてはならぬ。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても、なお心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説く者も愛想をつかし、求める者も愛想をつかし、求道に精も根も尽き果てて、悲泣悶絶のどん底から、湧き上がる精神的大飛躍の境地がなければならぬ。廻向信は決して、おぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つこころである。
この信は仏階52段の中、下50段を超えて41品の無明を断ずる等覚不退に類同せられる。……、真に手の舞い足の踏むところを知らぬ大歓喜である。至心信楽己を忘るというも愚かなり、大千世界を踏む破って、恒沙の諸仏に怒号叱咤することのできる豪快な自覚が生まれてくるのである。この体験がなくては何を言っても駄目な話だ。(P255~P256)
とあります。これが高森顕徹著『会報第二集』では
そんなあっさりした話で生死の大問題が解決するものか、十劫の昔の話を素直に信ぜられる程我らはお目出度い人間に出来ていないのだ。そこには、生死の断頭台上に生首をつき出す苦しみがある。払うても払うても後から後から現われ、奪えるだけ奪っても尚心の底にこびりつく仏智疑情の薄紙を破らねばならぬ。だから説くものも愛想をつかし、求める者も愛想をつかし求道に精も根もつき果てて悲叫悶絶のどん底から湧き上がる精神的大飛躍の境地がある。一念は断じておぼろではない。今こそ明らかに知られたりと驚き立つ心である、この一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられるものであり、真に手の舞、足の踏むところを知らぬ大歓喜があるから慶喜一念という。至心信楽己を忘れるというも愚なり、大千世界を踏み破って恒沙の諸仏に怒号叱咤することの出来る豪快な自覚が生まれるのだ。この一念の体験がなくては何をいっても駄目なのだ。(P94)
とあります。所詮はこれが「一念に仏階五十二段の中、下五十段を超えて四十一品の無明を断ずる等覚不退に類同せられ」たと宣っている「無二の善知識」の本当の姿です。会員の皆さんは、いい加減気づきましょう。
【参照】
『なぜ私は親鸞会をやめたのか』高森顕徹氏と伊藤康善氏の著書の類似点(2)
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