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本日予定されていた追悼法要もドタキャンした高森顕徹会長

本日は親鸞会館では追悼法要がなされたようですが、高森顕徹会長はドクターストップとのことで講演は中止となりました。その発表があったのが午前10時過ぎ(講演開始直前やん!)にあったそうで、皆驚いていたようです(当たり前だ!)。

代わりに過去の講演ビデオが上映されましたが、内容は去年の追悼法要のものと思われるとのことです。昨年の内容の一部はこちらを参照。
↓↓↓
高森顕徹会長の説では、親鸞聖人と一味の信心だという覚如上人は「絶対の幸福」とやらになっていません


何も今回のようなドタキャンは初めてというわけではなく過去にもありました。

2012年8月5日の親鸞学徒追悼法要を突然休んだ高森顕徹会長(親鸞会)

しかし、こう何回も何回も連続で中止、ドタキャンするということは近年は少なかった気がします。それほど体調が思わしくないということでしょう。


ところで、会員の皆さんは、直前のドタキャンに対して

先生は私達の後生を案じて、限界まで立とうと思われていたが、医師に止められた

などと忖度しているのかも知れません。しかし、説いている教えからして、高森会長は皆さんを組織拡大要員としか見做していないことは明らかです。私達が後生助かるのに、廃悪修善も、宿善を厚くすることも、19願の善を実践することも、一切必要ないからです。そのような私達の獲信・往生に関係ないこと、どころか障害にしかならないようなことを勧める高森会長の目的は、当然ながらそれとは別にあるということです。

追悼法要もドタキャンし、この分では報恩講まで講演はいつも事前に中止、下手をすれば報恩講すら中止ということになりかねません。会員の皆さんは、代理の者すら立てない高森顕徹会長一辺倒の親鸞会にいつまでも希望を抱いていずに、追悼法要をご縁に今宵の後生と向き合って、今聞いている教えで自分は助かるのかよく考えて頂きたいものです。
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善知識方の教えに無い「宿善が厚くなる方法」を説いて本願力回向の法を与えず、会員に信心獲得させる気が全く感じられない高森顕徹会長(再び)

お知らせした通り、昨日予定されていた高森顕徹会長の講演は中止となり、その代わりに富山では高森会長の過去の講演ビデオが上映されたようです。それは、内容から伺うに約一ヶ月前の講演でした。

善知識方の教えに無い「宿善が厚くなる方法」を説いて本願力回向の法を与えず、会員に信心獲得させる気が全く感じられない高森顕徹会長

に一部内容を紹介していますので参照して下さい。


映画も大コケで会員にも不評らしく、財源確保に必死のようです。言っておきますが、

宿善を求めよ、厚くせよ

という教えは浄土真宗にはありません。

聞法は本願のこころ、南無阿弥陀仏の六字のこころをお聞かせ頂くのであって、「聞法」という善を積んで宿善を厚くして、救いに近づこうという自力的な意味合いはありません。

朝晩のお勤めにしても、聞法であり御恩報謝であって、「朝晩のお勤め」という善を積んで宿善を厚くして、救いに近づこうという自力的な意味合いはありません。

六度万行は、本来はこの土でさとりをひらく聖道門の行であって、往生行ではありません。往生行としては邪雑な行ということで、真宗では雑行と言われ、捨てよと教えられています。その雑行を勧めている時点で、親鸞会はもはや浄土真宗と呼べる団体でないことは明らかです。


浄土真宗は本願力回向の教えです。如来・浄土に向かって進むことも、にじり寄ることもできない、それどころかそんな気すらない、迷いの世界から離れられずに苦悩するよりない私達に、至極成就された本願力を回向して浄土に迎え取り、仏にしようという教えです。それは、南無阿弥陀仏の六字に結晶していますから、私達はそのこころをよくお聞かせ頂いて、この六字を疑いなく信受し、仰せのままにお念仏申すばかりです。

高森会長にとって会員は、組織拡大のためのコマでしかありません。残念ながら、これが現実です。会員の皆さんは、いつまでも高森会長の心を忖度していないで、また、親鸞会に希望をつないでいないで、今宵の後生と真剣に向き合い、本当に親鸞会の教えで救われるのかよく考えて頂きたいものです。

【お知らせ】高森顕徹会長の講演中止

本日予定されておりました、富山での高森顕徹会長の映画解説は中止となったそうです。

情報に寄りますと、ホームページには案内が変更されていないので、またビデオ聴聞か何かになるようです。これで今年何度目の青空か、いや間違えた、何度目の中止か知りませんが、迷惑な話です。尤も、会員は

「会長先生が我々の後生を案じてご無理を重ねられた結果だ」

などと妄想し、思考停止していることでしょう・・・。

会は、まだ映画『歎異抄をひらく』が上映している映画館に動員をかけるつもりかも知れません。本日上映予定の映画館は、検索したところでは全国7か所と非常に少なく、しかもミニシアターでの上映でしょうから、近隣の会員を招集すれば容易に満員御礼にできるでしょう。

一応、8月4日(日)には追悼法要をやると前々から宣言していますが、現段階ではそれも怪しいです。


以上、お知らせでした。

今日は高森顕徹会長の講演・・・のはずでしたが・・・

今日は高森顕徹会長の講演・・・のはずでしたが・・・

ビデオ法話に変更になったそうです。


本でもアニメでも映画でも、何か作るたびに休みがちな高森会長です。90歳の高齢ですから仕方ない面はあるかと思いますが、親鸞会も親鸞会で他に方法があると思います。それをせずに高森会長のビデオ法話を上映するとは、どこまでも高森顕徹一辺倒の親鸞会です。

こんな時、講師部員は決まって「先生の御法体が~」などと高森会長の苦労話をし、会員は神妙な面持ちでそれを聞いて、「ひとえに私達の後生を案じてご苦労される善知識高森先生」などと想像しているのでしょうね。


残念なことに、現在の講演は勿論、過去のビデオを見ても、映画を観ても、往生・獲信はかなわないでしょう。高森会長の教えは良く言っても自力回向的な教えであり、真宗の詮が抜けているので、それを親鸞会教義に染まった頭で聞いて理解し、実践しようとしている内は本願の仰せを聞き受けることは難中之難無過斯です。

わざわざビデオを見るために富山へ行く必要はありません。それよりも、「一念の救い」だとか言いながらなぜ救いに遇えないのか。今日が自分の最期の日だとしたら親鸞会の教えで助かるのか。静かに思いを巡らし、調べてみた方がよほど賢明です。私は現役会員の時、よく富山からの帰り道に、今日自分が死んでしまうとしたら、どうやって宿善を厚くして(信仰を進めて、横の道を進んで)助かるというのかと自問していました。

その答えはいつもNo。「助からない」でした。それで、先に退会していた先輩の勧めもあって退会しました。その時は不安もありましたが、失敗続きの私ですけど、その選択は珍しく間違っていませんでした。会員の皆さんには、今宵の後生を思うなら、なぜ助からないのか、教えは本当に正しいのか、深く疑問を抱いて、納得いくまで調べることをお勧めします。「お前の人生の持ち時間、もう切れたよ、さようなら」と旅立つ前にどうか。

善知識方の教えに無い「宿善が厚くなる方法」を説いて本願力回向の法を与えず、会員に信心獲得させる気が全く感じられない高森顕徹会長

先日日曜日は久々に富山で高森顕徹会長の講演がありました。内容の一部は

『飛雲』高森顕徹流ヘンテコ宿善論復活

に紹介されています。今回の演題は

「宿善開発して善知識にあわずば、往生はかなうべからざるなり」(御文章2帖目11通)
宿善開発とは、どんなことでしょうか?


でした。5月の講演に引き続き、宿善の話がされたようです。

ただし、前回のような高森教の中では割合マシな話と違って今回は以前からの邪義の復活で、宿善開発についてというよりは、宿善が厚くなる方法についてがメインと言った感じの内容でした。高森会長が「善の勧め」を強調する話をするときというのはたいがいお布施が目当てなのですが、今回は映画『歎異抄をひらく』関連のお布施が思うように集まっていないのかも知れません。


さて、まず「宿善開発」の意味ですが、今演題にされている「宿善開発」とは、高森会長がこの度説明したような方便から真実へ入った一念、いわゆる信心決定、信心獲得のこととは違います。先に言いますが、これは文章の流れから判断して「善知識に遇う因縁が熟すること」というほどの意味です。それを見ていきましょう。

まず、『御文章』2帖目11通は、前段では十劫安心善知識だのみの異義について書かれています。

十劫安心とは、十劫の昔に「衆生往生せずばわれ正覚とらじ」という誓願を成就して阿弥陀仏となられたのであるから、その時すでに私どもの往生は決定している。それを今まで知らなかっただけであるから、これを知って忘れないのが信心である、というように、信心を観念的に理解するものです。

善知識だのみとは、知識帰命とも言われます。これは、阿弥陀仏に帰命するといっても、現に法を説いてくださる善知識がなけれぱ何にもならないのだから、善知識だけをたのみにすればよいのだ、と善知識に帰命すべきことを主張するものです。

そして、これら二つの異安心の誤りを正すために、教えを五重の義で示したのが後段です。

すなわち、①宿善があって、②善知識に遇い、③光明のはたらきによって、④信心獲得の身となり、⑤名号が称名念仏として出てくる、というように、獲信に到る過程や獲信以後の相状を説明したのが五重の義です。

阿弥陀仏の正覚と衆生の往生が同時に誓われ、その願成就しているからもう我々は救われているんだと観念的に理解したのが救いではありません。法蔵菩薩が阿弥陀仏と成って本願が成就していても、善知識に遇って教えをよく聞いて信心獲得しなければ往生はできませんから、五重の義に「善知識」が入っています。

その善知識に遇うのは、誰でも彼でも遇えるのではなく、遇う因縁があって遇うのだということを示すために、五重の義の第一に宿善がそれとして掲げられています。そして第二の善知識に遇うのですが、ここで善知識が我々を救うのではありません。善知識から「阿弥陀仏に帰命せよ」という教えを受けて、そのとおり阿弥陀仏に南無帰命させて頂くことで我々は本願の救いにあずかります。

ですから、第三に光明という阿弥陀仏のはたらきが挙げられ、そのはたらきによって信心獲得すると、信心を第四に挙げられます。そうしたらならば、信心の必然として必ず名号が称えられますから、第五に名号が挙げられているのです。


こうしたことを踏まえた上で、五重の義が示されている後段を見てみましょう。

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。
されば善知識といふは、阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり。しかれども帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。


善知識に遇って教えをよく聞いて信心獲得しなければ往生はかないませんので、その善知識に遇うべきことの重要性を「宿善開発して善知識にあはずは、往生はかなふべからざるなり」と仰っています。ただ、善知識には何の因縁も無しに遇えるわけではありません。中には善知識を探して方々巡っていた/いるという方もあるでしょう。遇いたくても遇えるというものでもないのです。

その善知識に巡り遇い、教えを聞かせて頂く因縁、それをここでは「宿善」という語で表されているのです。ですから、「宿善開発して」とは「善知識に遇う因縁が熟して」ということです。

宿善開発して善知識に」遇うわけです。信心獲得は善知識に遇って教えを受け、阿弥陀仏の光明のはたらきによってですから、五重の義ではその後です。ですから、ここで言う「宿善開発」を「信心獲得」ととらえることはまことに不適当です。「信心獲得して善知識に」遇うのですか? 違うでしょう。

また、五重の義では善知識の後に宿善はありません。善知識にお遇いした後に、宿善を厚くしていくことで救いに近づき、やがて救われるということなら、善知識の後にもう一度宿善がなければなりません。しかしそのようなことはありませんので、今回高森会長が話したような宿善を厚くする行いに3つある云々といった話は全くの無意味であり、それどころかそんな教えは善知識方の教えに無い邪義そのものということになります。同時にそんな邪義をまき散らす高森顕徹という人物が善知識に値するかということも自ずと知られるでしょう。


善知識方の教えに無い「宿善が厚くなる方法」を説いて本願力回向の法を与えない高森会長からは、会員に信心獲得させる気が全く感じられません。善知識の教えとは

そもそも善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり

とあるように、本願の名号をふたごころなく専ら修せよと勧める教え、「必ず助けるから安心してまかせなさい」という本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れて、仰せの通り念仏一行を専ら称えよと勧める教えです。

高森会長の邪義をいくら聞き続けても、邪義に染まった頭でいくらおつとめをして宿善を厚くしようと努めても、駄作映画にいくらお布施を頑張っても、それらの行為は残念ながら報土往生の得とも失ともなりません。会員の皆さんは、自身の後生を思えば、いい加減に騙されている現実を直視した方が賢明でしょう。

経典に無いことを捏造し続けて慚愧有ること無い高森顕徹会長

先日日曜日は高森顕徹会長の座談会がありました。相変わらずの

映画『なぜ生きる』の質問
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか。


に答えるというもので、すでに

『飛雲』大沼法竜師の説明を受け売りして恥をかき続ける高森顕徹会長

に内容の一部が紹介されています。長らく続いた映画『なぜ生きる』の質問座談会ですが、おそらく今回で最後でしょう。今週末には駄作映画の第二弾が公開される予定ですので、それ以降は新しい映画の話で持ちきりになるはずです。それにしても、

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』平成の親鸞会を機関紙で振り返る(3)

で宮田先生が紹介されているように、新しもの好きの高森会長は次々と出版物を出してはいきますが、親鸞会では新たに作品が出たら一つ前の作品は一気に見向きもされなくなってしまう傾向にあります。しばらく経てば顧みられることもあるでしょうが、当分映画『なぜ生きる』の存在感は急激に影をひそめるでしょう。


さて、今回高森会長は『正信偈』の「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」を出して話をしていましたが、その内容は今までと同じく経典に無い捏造話でした。それは、

正信偈「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」

にあるような

「助けさせてください」
「やめておけ」
「助けさせてください」
「やめておけ」
と何回も何回もやりとりされて、
ついに世自在王仏は、
「これだけ言ってもあきらめられないなら」
と根負けされました。


などといった法蔵菩薩と世自在王仏とのやり取りです。『大無量寿経』を読んでもそのようなやり取りはどこにもありません。難しいと感じる方は現代語訳だけでもお読み下さい。

どうせこれも華光会か大沼師からのパクリをそのまま転用したものでしょう。『二河白道の譬え』ほど改造の悪意は感じられませんが、親鸞会では人間の実相で用いられる『黒白二鼠の譬喩』といい、『長者窮子の譬喩』といい、経典や聖教の内容を大幅に、しかも自説の都合の良いように改造、改変、捏造して話がされています。

経典のお言葉は一字一句正確でなければならぬ

と言って、教学試験の際は経典の言葉は一文字でも間違えると×です。その位厳しく教えていながら、いざ自分が話す時には改変し、時には全くデタラメな話をする神経は、私には全くもって理解不能です。それを

高森先生は分かり易いように、敢えて話を変えて教えて下さっている

などと忖度しているとしたら、その人は完全に思考停止しています。


ちなみに、法蔵の示現のすぐ後の讃仏偈の一節

正覚の大音、響き十方に流る。

とは、法蔵菩薩が世自在王仏を褒め讃えた言葉です。これが『教学聖典(2)』では

問(18)
阿弥陀如来の呼び声は、大宇宙に轟いていると説かれた『大無量寿経』のお言葉を示せ。

答(18)
〇正覚の大音は、響十方に流る。


となっています。確かに本願の名号である南無阿弥陀仏は十方諸仏の称讃、讃嘆によって大宇宙に轟いていると言えますが、このように本来の意味と違う問答を設けて教えるというのは如何かと思います。これについてもご存知の方ばかりでしょうが、知らない方もあるかも知れませんので念のため。


ところで、法蔵菩薩と世自在王仏との架空のやり取りを話す際に必ず出てくるのが

仏教では、弟子はどんなよいことをする時も、必ず先生にお伺いを立て、先生の許可を得なければならない

などという話です。以前、師匠と弟子の関係を禅宗の達磨大師と慧可のエピソードを持ち出して話をしたことも記憶に残っています。また、師匠に立てついた者はどうなるのかを、アニメ『世界の光 親鸞聖人』第六部では信楽房が闇に向かって歩いていくシーンで示しています。嶋田元講師や瓜生元講師、近藤元講師や宮田元講師、あるいは私のような教義や組織批判をして辞めていったような者をアニメの信楽房に見立てている会員も少なくないのではないかと思われます。

実は架空のやり取りよりも、これが非常に問題です。これを徹底することで、高森会長や上司の指示に無条件服従し、何をするにも上司の指示を仰いで行動する、親鸞会的人間に仕立てていくのが会のやり方なのです。

自分の考えを持たず、何をするにも上司に相談し、上司の指示通りに動く。教義に関しても、高森会長の説を絶対視して他の意見は聞かない。教義批判を聞いても上司の詭弁を信じ込んで受け容れない。一度に多くの離反者が出ないのも、反乱分子を発見したらすぐに上司に報告せよと指示を受け、それを忠実に守っている人がいるからです。

私はそういった会の規則には必ずしも染まっていなかったこと、また自身の救いが目当てであったこと、数々の矛盾点を抱えている上に今宵の後生に間に合わない教義であると正見できたことで、先に退会していた先輩の意見を受け容れて辞めることができました。しかし、親鸞会的人間に仕立てられていた周囲の会員は、会や上司を信じていたために説得は通じませんでした。


少なくとも親鸞聖人の上では、こうした部下に対して無条件服従を強いるような教えはありません。何でもかんでも、朝令暮改の無理難題にも「畏まりたる」と言え、そうしなければ助からんぞ、などと聖人は教えておられません。これはカルト教義の特徴の共通項に挙げられています。和合僧などとは程遠い、邪教徒の教えです。

専修念仏のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。そのゆゑは、わがはからひにて、ひとに念仏を申させ候はばこそ、弟子にても候はめ。 弥陀の御もよほしにあづかつて念仏申し候ふひとを、わが弟子と申すこと、きはめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいふこと、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがほに、とりかへさんと申すにや。かへすがへすもあるべからざることなり。自然のことわりにあひかなはば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと[云々]。『歎異抄』第6条

【現代語訳】
同じ念仏の道を歩む人々の中で、自分の弟子だ、他の人の弟子だといういい争いがあるようですが、それはもってのほかのことです。この親鸞は、一人の弟子も持っていません。なぜなら、わたしのはからいで他の人に念仏させるのなら、その人はわたしの弟子ともいえるでしょうが、阿弥陀仏のはたらきにうながされて念仏する人を、わたしの弟子などというのは、まことに途方もないことだからです。つくべき縁があれば一緒になり、離れるべき縁があれば離れていくものなのに、師に背き他の人にしたがって念仏するものは往生できないなどというのは、とんでもないことです。如来からいただいた信心を、まるで自分が与えたものであるかのように、取り返そうとでもいうのでしょうか。そのようなことは、決してあってはならないことです。本願のはたらきにかなうなら、おのずから仏のご恩もわかり、また師の恩もわかるはずです。このように聖人は仰せになりました

親鸞聖人はこう仰せられたとあります。親鸞会はこのような思想の団体なのか、よく考えて頂きたいものです。尤も、親鸞会は「専修念仏のともがら」ではなく「兼修雑行のともがら」ですが。



【後書】
ちなみに、親鸞会のアニメでは闇に向かって進んでいった信楽房ですが、

ただ信楽房はのちに心をひるがえして、ふたたび聖人のもとへ帰ってきました。『親鸞聖人門侶交名牒』にその名が出ていますし、いわゆる門弟二十四輩のなかにも名をつらねる有力な門弟となっていった人です。おそらく聖人のこうしたお言葉を伝え聞いて感動して回心したのでしょう。
聖典セミナー 『歎異抄』第六条 ~親鸞は弟子一人ももたず~より)

とのことです。古巣を出て行ったきり、お世話になった恩師が訪ねて来ても会わず、それどころか暗に非難して会員の流出を防ごうとしている誰かさんとは、えらい違いです。

また、入会(入学)金だけで5万円(学生は2万円)、月に最低5000円の会費を払わせておきながら、一番大事であるはずの本尊は貸与で、退会時は返納しなければならないというのも解せぬ話です。これぞまさに

わがものがほに、とりかへさんと申すにや

です。まぁ、粗悪品でしかも貼り合わせのコピー&ペースト正本尊は返却した方が後腐れが無くていいか。

いくら聞いても、親鸞聖人、蓮如上人と同じ信心になどなりはしない、「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」という阿弥陀仏のお約束を説き続ける高森顕徹会長

昨日の高森顕徹会長の話は、いつもの偽装ロングヒットの映画解説ではなく、蓮如上人の「聖人一流の章」についてでした。内容の一部は既に

『飛雲』係念の宿善?の念仏を勧めた?高森顕徹会長?

に挙がっています。

話の中で高森会長は、

「もろもろの雑行」
=阿弥陀仏の本願に対する人間の一切の計らい心


「一心に弥陀に帰命」
=一心に阿弥陀仏の本願を聞けば


「仏の方より往生は治定せしめたもう」
=(一心に阿弥陀仏の本願を聞けば)阿弥陀仏の不可思議の願力によって往生は治定の身にして下される


と割かし無難な話もしていましたが、一方で相変わらず

阿弥陀仏の本願とは、「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」という阿弥陀仏のお約束

などとも説いていました。


肝心のどのような本願かということが間違っているために、いくらその本願を一心に聞いたところで人間の一切の計らい心は無くなりませんし、「一心に弥陀に帰命」することもありません。「仏のかたより往生は治定」など夢のまた夢です。

まず、仏教の目的は流転輪廻しているこの迷いの世界からの出離であり、成仏です。また、仏陀のさとりの必然としての衆生救済も含まれています。この世の幸福は一瞬のことでしかなく、たちまちのうちに消えてしまう儚いものでしかありません。しばらく私の身の上にあっても、やがて老病死のために離れていってしまいます。

そのような私達にこの世の儚さと、浄土の素晴らしさを教え、阿弥陀仏の本願力によって浄土に往生して、この上ないさとりを開かせて頂く浄土の真宗こそ真実の仏教であると教えていかれたのが親鸞聖人でした。

浄土真宗とは今は教団名ですが、元々は教団名ではなく、教えの名前でした。浄土とは往生浄土ということで、迷いの世界を離れて浄土に往生し、涅槃界に至らせて頂こうということです。このような本来の目的を忘れさせ、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めさせる教えは浄土真宗でも仏教でもないのです。一方でこの世の無常を説きながら、一方で絶対に崩れない幸福があると人間の欲望を煽り立て、そのために信者と資金を集めさせるような教えは、「外教邪偽の異執」でしかありません。


では、我々はどのようにして浄土に往生したらよいのでしょうか。それについて『正信偈』偈前の文では

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。


と教えられ、『三経往生文類』には

この真実の称名と真実の信楽をえたる人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへるなり。

と教えられていることかも判るように、真実の行(称名)真実の信(信楽)によってです。これらを、それぞれ私が起こしてというのではなく、本願力の回向によって、つまり阿弥陀仏から与えられて、難思議往生、すなわち浄土(報土)往生するというのです。その浄土往生が決定した位を「正定聚の位に住」すと言われています。

私達はそのように教えられ、また自分の能力が後生、往生に関してたのみにならないことを思い知って、ひとえに本願を信じ念仏して往生しようとするのですが、ともすれば念仏の意味を間違えて我が善根とし、それを積み重ねて往生するかのように思いこんでしまいます。これが高森会長で言う「人間の一切の計らい心」というものです。見た目では同じように手を合わせ、同じように念仏を称えていても、信心が間違っていたら報土往生はできませんから、蓮如上人は「信心をもつて本とせられ候ふ」とその信心を厳しく説かれるのです。


ところで、元々、聖人一流章はそれ単独の御文ではなく、

トーク 帖外ご文章 梯實圓和上『攻めの蓮如上人』

を読まれれば判るように帖外御文章の一節でした。そこで、

答ていはく、我等がこゝろへをき候分は、弥陀の願力に帰したてまつりて朝夕念仏を申し、仏け御たすけ候へとだにも申候へば往生するぞと心得てこそ候へ、そのほかは信心とやらんも安心とやらんも存ぜず候。これがわろく候はゞ御教化候へ、可聴聞候。

と告白した坊主に対して、

まづ聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもて本とせられ候。

といって坊主の信心を正していくわけです。

私はずっと代々心得ているのは阿弥陀様の本願力に帰依して朝晩念仏を申して、仏様どうぞこれで助けて下さいませとお願いさせすれば往生するのだと心得ている。その他信心とも安心とも、そんなことは一切私は知りません。もしこれが間違っているとしたら、正しい教えを言ってくれ

という坊主に対して、

親鸞聖人の教えの根本は信心であるのだ。阿弥陀仏の本願を信じ、弥陀をたのみたてまつる信心、これが親鸞聖人の教えの一番根本にあるのだ。

と説いていることが分かります。朝晩念仏をして「これでお助け下さいませ」とお願いしているという、その自力信心を正しているのです。普段、「雑行」を「厚い宿善になる」などと聞かされ、正行と雑行の分別も無いような人に言われた言葉ではないことに注意が必要です。


尤も、今回高森会長は

その身になるまで(信心獲得するまで)の念仏は、無意味かというとそうではない。「宿善」になる。大切な善い種蒔きになる。

と説いていたようですが、いつもは「いくら念仏を称えていても助からない」と言いつつ「獲信の因縁(宿善)として善を修せよ」と、「雑行」の勧めに躍起になっています。それを真受けにして「雑行」をやりまくっている会員が、いきなり「阿弥陀仏の本願に対する人間の一切の計らい心」を捨てよと言われても意味不明と思います。

まずは高森教の邪義を離れ、迷いの世界を厭い離れて浄土を欣い求めるべきことを知り、阿弥陀仏が余の一切の善を「雑行」と選び捨てた心に順って捨て、ただ一行選び択られた本願の念仏を専ら修めて往生を願うようにでもならないと、その信心がどうという話にはならないでしょう。なぜなら真宗の信心は「念仏の信心」であって「念仏と無関係な信心」ではないからです。

その上で、念仏は我が計らいの心から如来・浄土に近づいていこうという自力の行ではなく、如来・浄土から届き与えられた本願力回向の行であり、回向された阿弥陀仏のこころは「助けるぞ、我にまかせよ」という招喚の勅命であると聞いて頂きたいと思います。「助けるぞ」の仰せをそのまま聞くのが、すなわち信です。このような選択本願の行信によって、浄土に往生させて頂く、これが浄土真宗です。


雑行」をやりまくっている状態で、いくら聞いても、親鸞聖人、蓮如上人と同じ信心になどなりはしない、

「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」という阿弥陀仏のお約束

とやらを聞き続けても徒事です。駄作映画の第二弾に期待せずに、さっさと身を引いて本当の親鸞聖人の教えを探しに行った方が、はるかに賢明です。さすがに、こればかりは「まことに宿善まかせ」ですがね・・・。

親鸞聖人が問題にもされていないことを問題にし、親鸞聖人がされてもいない本願の説明をして、真宗を捻じ曲げ独自の高森教を説いている高森顕徹会長

90歳を過ぎても精力的に活動を続ける高森会長は、先日の降誕会に引き続いて座談会をしています。ただ、

『飛雲』高齢者による事故が問題になっていますが、高森顕徹会長の話も重大な事故です

に挙がっているように内容はひどいもので、暴走し、誰も止めることができず、手の施しようもありません。

一応演題について紹介しますと、今回もいつもの

映画『なぜ生きる』の質問
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか。


でした。これで話をするのもあと少しでしょう。今後は映画『歎異抄をひらく』の質問に答える形式の座談会に取って代わられることは容易に想像できます。


それにしても、『飛雲』に紹介されている高森会長の以下の迷言

・阿弥陀仏の本願は、「死んだらどうなるか判らぬ心を無くす」お約束
・苦しみの根源が、「死んだらどうなるか判らぬ心」
・日々煩悩で苦しんでいるが、それは葉や花のことで、苦しみの根幹でない


等は完全に事故です。浄土真宗はおろか、仏教でも何でもない、ただの高森教です。

この記事でも触れましたが、善知識方は「死んだらどうなるか」を明確に教えられています。例えば『往生要集』には地獄界から天上界までの苦悩の相が書かれていますが、その内三悪道に堕する因について詳しく教えられています。まず等活地獄に堕ちる者は

殺生せるもの、このなかに堕つ。

と仰せられ、更に細かく分類して「昔、鹿を殺し鳥を殺せるもの」は屎泥処というところに堕ち、「昔、物を貪りて殺生せるもの」は刀輪処というところに堕ちる等と詳しく書かれています。続いて黒縄地獄、衆合地獄と順々に説かれ、阿鼻地獄という欲界の最底の処に堕ちる者は

五逆罪を造り、因果を撥無し、大乗を誹謗し、四重を犯して、虚しく信施を食らへるもの

であるとその因を明らかにされています。ちなみに餓鬼界は「慳貪と嫉妬のもの」が堕ち、畜生界は「愚痴・無慚にしていたづらに信施を受けて、他の物を償はざるもの」がその報いを受けると教えられています。貪瞋痴の三毒の煩悩は、まさしく三悪道に堕する因であるということです。煩悩は「葉や花のことで、苦しみの根幹でない」などという説示はありません。勿論親鸞聖人の教えにもそんな珍説は存在しません。

一方で、善趣に属する人間界は

それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。『御文章』2帖目7通

とあるように五戒を守ったことにより得られる果報であり、天上界は更に加えて十善業を行った結果として享受する楽なる果報です。修羅界は少し調べてみましたが、真宗系ではヒットしませんでした。『摩訶止観』では、

もし、その心、念念に常に彼に勝れんことを欲し、人に下るに耐えず、他を軽んじて己れを珍むこと鴟の高く飛びて下し視るがごとく、しかも外は仁義礼智信を揚げ、下品の善心を起すは、阿修羅道を行ずるなり。

【現代語訳】
また、他人より、なんとかして勝ちたいと願って、人に負けることを嫌い、とんびが高い空の上から下界を見下ろすように自分を高くし、他人を軽べつする。しかも外面は五綱と尊ばれている仁義礼智信を堅く守る賢人のように見せかける。これは、阿修羅の道を行じているのである。

と説明しています。仁義礼智信という善行を修めてはいるが、内心は勝他の執着心が強く、下品の善心であるような者は修羅界の報いを受けるというのです。

尤も、よく修羅界を省略して五道、五悪趣などと説かれるので、そこまで修羅界について詳しく知る必要はないでしょう。私達にとって大事なのは報土の因です。これを知ることが大事です。


このように、仏教では「こういう因を造ればこういう世界に生まれる」と死後の因果が詳しく教えられています。そのような仏説をまことと信ずることは仏法者にとって当然のことです。ですから、親鸞聖人は

死んだらどうなるか判らぬ心

など問題にしていないのです。自力疑情無明の闇についてそんな説明も、それに近い説明もありません。

そして、我々は際限なく流転輪廻して苦悩から離れられないことを知り、穢土を厭い離れて浄土を欣い求めること、これが浄土教の出発点です。ところが、親鸞会の出発点は『親鸞学徒信条』にあるように

一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます。

ですから浄土教でも何でもありません。ですので、親鸞聖人の教えを聞くきっかけにはなるかも知れませんが、仏教の目的である成仏、浄土教の目的である浄土往生(そして成仏)を果たすには場違いです。

その証拠に高森会長は話の中で

「死んだらどうなるか判らぬ心」を「無明の闇」とも言われる。阿弥陀仏はその闇を破り、「至心信楽 欲生我国 乃至十念」にしてみせると約束されている。
これは「信楽にして念仏を称えさせよう」ということ。絶対の幸福にしてお礼の念仏も称えさせるということ。


などと言っていたようですが、これによって親鸞聖人が問題にもされていないことを問題にし、親鸞聖人がされてもいない本願の説明をして、真宗を捻じ曲げ独自の高森教を説いていることが分かります。

18願は「信楽を獲た人を浄土に生まれさせる願」であって「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる願」ではありませんし、「信楽」は本願に対して疑蓋間雑なき心相であって「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽ではありませんし、念仏は本願の行であり本願招喚の勅命であって単なる信後のお礼でもありません。


「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。『一念多念証文』

と聖人は仰せですが、こんなにも間違った「本願」「如来の御ちかひ」を聞いていて、それに「疑ふこころなき」状態になれると思いますか? 会員の皆さんはよく考えて頂きたいと思います。

救われるのに「努力が要る、頑張る必要がある」かのように教えて「自力」を勧める高森顕徹会長と、「自力をすてて」と言われながら「自力に励んで」いる親鸞会会員

今年の親鸞会の降誕会も、当然と言えば当然ですが邪義満載の高森教に終わりました。


はじめに、頂いた情報によると高森会長は初日、「自力」の説明において

世間一般で「自力」とは「自分だけの力」のことで、「自力で努力しなさい、頑張りなさい」と使っている。
「自力」を努力とか、自分だけの力と思っている人が教えをどんなに聞いてもわからない。
救われるのに努力は要らないとか頑張る必要はないと思っていたら、全く教えが分からない。無碍の一道に出られない。


などと話していたそうです。ということは、裏を返せば教えが分かっている人というのは

救われる(無碍の一道に出る)には「努力が要る、頑張る必要がある」と思っている

というわけです。高森会長としては、会員には組織拡大要員として人やお金を集めてもらわなければ困りますから当然ですが、そうやって救われるのに「努力が要る、頑張る必要がある」という思いこそ「自力」であることに会員の皆さんはまだ気づかないでしょうか? その「自力」のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来に後生おまかせしたのを「他力に帰する」というのですが、昨日紹介したように

親鸞聖人の仰る自力とは、死んだらどうなるか判らない心

というような頓珍漢な説明を真受けにしていたら一生分からないでしょう。

我々は、救われるのに努力や頑張る必要は一切ありません。ただ如来の回向を受け容れるだけです。会員はこれを無力(むりき)とか観念の遊戯としか思えないでしょうが、これが「自力をすてて他力に帰する」です。


次に、ちょっと細かいですが

「他力」は、自分以外の力を世間では「他力」と言っているが、親鸞聖人の教えていかれた浄土真宗で「他」は「阿弥陀仏」のことであり「他力」とは「阿弥陀仏のお力」

という説明には異議があります。

他力」とは正確には「利他力」ということで、仏の救済活動を仏の側から明らかにした語です。他を利益する力、それを「他力」というのです。この場合の他は、阿弥陀仏から見て他である私達のことですから、「他力」の「他」は「私達衆生」のことであるとするのが『浄土論註』の引文から見て親しい解釈であると思います。

問うていはく、なんの因縁ありてか〈速得成就阿耨多羅三藐三菩提〉といへるやと。

答へていはく、『論』(浄土論)に〈五門の行を修してもつて自利利他成就したまへるがゆゑに〉といへり。

しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。およそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに。
「行文類」覈求其本釈

親鸞聖人は「行文類」において「他力といふは如来の本願力なり」とだけ仰って、後は『浄土論註』と元照律師の『観経義疏』の引文のみです。「他」は何かという具体的な説明がありません。それで『浄土論註』を紐解いてみますと、以上のように解釈することができます。ただ、コメント欄にあるように、「他力」の「他」を阿弥陀仏だと説明する方やそのような文献もありますので、記事内容を修正しました。

この「利他」とか、あるいは「他利」ということをきちんと知らないと、念仏往生と信心正因、また念仏往生と平生業成とは違ったことのように聞こえるかも知れませんのでここで取り上げておきます。


そして極めつけは、『飛雲』18願文さえもまともに理解できない高森顕徹会長とその信者達にあるように

どんな人も煩悩を持ったまま、「信楽」にしてみせると約束されているのが阿弥陀仏の本願。
本願によって「信楽」の身になれる。「信」は「大安心」、「楽」は大満足。別の言葉で「破闇満願」。


という従来の教義の復活でしょう。これらの教えから、会員は救われると「死んだらどうなるか判らない心」がすたって「死んだらどうなるかハッキリ判った心」になる、大安心大満足の「絶対の幸福」になるといった間違った本願を信じることになります。そして、その世界に憧れて、一方無常や罪悪にせめたてられて、より一層の組織拡大活動を余儀なくされていくでしょう。それこそ高森会長や一部幹部の思う壺だということを知らず、無知とは恐ろしいものです。それでいて、「高森センセーありがとうございましたー!」なんていう狂信者の弁論を聞いて喜んでいるのですから、どこまでも哀れ哀れです。


このようにして、過去と似たようなことを同じように話して終わった平成最後の親鸞会の降誕会でした。別に同じ話をしてもいいんです。似たような話をしてもいいんです。それが「真実誠満」の話なら。しかし、中身は空虚でうそいつわりの、言葉だけ真宗用語を使って人を組織拡大活動に駆り立てるだけの邪義であり、それを垂れ流し続け、聞く者を騙し続けているから批判せずにいられないんです。

浄土真宗の教え、親鸞聖人が教えていかれたことは、「自力をすてて他力に帰する」一つ

とか何とか言っていたようですが、どうですか、会員の皆さん。「自力をすてて他力に帰する」ということがどういうことか分かりましたか? そして、「自力をすてて他力に帰する」ことができましたか? 

皆さんが信心獲得のため、救いに近づくだろうと思って日々やっている様々な活動、努力、頑張り、それこそが「雑行雑修」であり「自力」なんですよ? 「自力をすてて」と言われながら「自力に励んで」いるのが、偽らざる親鸞会会員の実態です。

私達が如何様に努力しようと頑張ろうと、後生の解決、報土往生には何の役にも立ちません。それで阿弥陀仏は果てしなく流転輪廻を繰り返して苦悩の絶えない私達衆生を哀れに思召して、気の遠くなる長期間においてご修行されていた時、片時も清浄真実の心を失わず、私達を救うことに少しの疑いもなく、私達に回向することを第一として、あらゆる功徳がまどかに具わって衆生の煩悩を問題とせずに救いたもう、思い計ることも、讃え尽くすことも、説き尽くすこともできない至上の尊号、すなわち南無阿弥陀仏を成就されたのです。

この南無阿弥陀仏の名号は、これを頂いて称える者の身に速やかに往生成仏の因を満足せしめるはたらきがあります。そして我々を救いたい、救いたいという如来の大悲心そのものです。ですから、南無阿弥陀仏とは、「助けるぞ」「我にまかせよ」と久遠劫来喚び続けておられる本願の仰せなのです。この大悲やるせない仏心をそのまま聞き受けて、計らいを離れて後生、往生を仏にまかせたのが「自力をすてて他力に帰する」ということです。私達が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称えているままが、如来招喚の勅命に呼び覚まされて、本願をまことと受け容れて浄土に向かう人生を歩んでいるすがたなのです。

如来の大悲回向をそのまま受け容れる以外に、後生助かる道は二つも三つもありません。どうぞ、そのように本願の名号を聞き受け、疑いなく信受してお念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『WikiArc』他力

やはり「もつぱら自力をすてて他力に帰する」についてきちんと説明しない高森顕徹会長

『飛雲』基本的な言葉である「自力」さえ親鸞聖人の定義とは、無関係の高森顕徹会長

に紹介されていますが、やはり高森会長は「もつぱら自力をすてて他力に帰する」についてきちんと説明しなかったようです。特に「自力」については、

親鸞聖人の仰る自力とは、死んだらどうなるか判らない心

というものでした。これについては一応予想済みでした。「自力」を「無明の闇」と言い換えて、「無明の闇」とは「後生暗い心」だと説明するのは高森会長の常套手段ですから。


それにしても、「死んだらどうなるか判らない心」をすてるとはどういうことでしょうか? また、その心がすたったらどうなるんでしょうか? 「死んだらどうなるかハッキリ判った心」になるとでも言うのでしょうか?

このようなことですから、おかしな高森教徒が「信心決定したら後生ハッキリする」という珍説を真受けにして、二種深信と絡めて機の深信から言えば「地獄一定」だが法の深信から言えば「極楽一定」だとか、まるで二つの後生が露塵の疑いもなくハッキリ知らされるかのように妄想しているのです。

度々出す御文ですが、信心決定して阿弥陀仏に救い摂られても、我々の側からは後生はハッキリしません。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
(『執持鈔』)

これについて飛雲さんの説明を引用すると

阿弥陀仏に救われたならば、死後のことが判るのかということについて、

•往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
•われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
•故聖人の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」
•故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなり


等々、死後のことをはからうべきではない、つまり凡夫にははっきり判らないということです。

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

自力を捨てて他力に帰すとは、すべて阿弥陀仏におまかせであり、阿弥陀仏の御心を正しく伝えて下された師と同じところへ往く、いうことです。極楽往き間違いなしと、はっきりするのではなく、阿弥陀仏にすべておまかせしたことがはっきりするのです。だから、阿弥陀仏の本願、そして本願を説かれた師の教えられている通り、極楽往き間違いなし、となるです。

阿弥陀仏、地獄、極楽、死んだらどこへ往くのかが、判るということではありません。


ということです。私なりにまとめますと、

・後生どのような所へ生まれるかを含めて全て阿弥陀仏におまかせしたのが他力の信心。
・浄土へ参るのか、地獄へ堕ちるのか、我々の側からはハッキリ判らない。
・たとえ地獄だろうと法然聖人や親鸞聖人と同じ所へ生まれると心得る。
・自力の行では出離はかなわず悪道に堕するよりないのだから、念仏して地獄へ堕ちても後悔ない。
・阿弥陀仏の仰せ、そして本願を説かれた師の仰せを疑いなく受け容れているから、阿弥陀仏のお計らいにまかせて死後は浄土往生する。


ということです。これが「もつぱら自力をすてて他力に帰する」という「真宗の極致」なのですが、高森会長にはそんな説明をする気は更々ないでしょう。せいぜい

・「他力に帰する」とは、阿弥陀仏の本願の大船に乗ったことだ
・阿弥陀仏に救い摂られると、一息切れたら極楽参り間違いなしとハッキリする


等と説明するのが関の山ではないでしょうか。そして、「聴聞に極まる」で続けて聞いて下さいで終了でしょう。こんな真宗もどきでゴールも決勝点も卒業もあるようでない話を聞いて満足しているとしたら、その人は完全な高森教徒です。


今日も10時20分より12時まで、途中20分休憩を挟んだ「高森先生座談会」があるそうですが、そこでもし

阿弥陀仏に救い摂られると、一息切れたら極楽参り間違いなしとハッキリする

などといつものように教えていたら、真宗教義を何も知らん高森教だなと笑い飛ばしてあげましょう。



【参照】
『飛雲』浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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