「真実の行」を示さずに「大悲の願船」に乗るとか言い、創価学会の信心は貫き通す高森顕徹会長

『飛雲』 『観経』も『観経疏』も『教行信証』も全く読んだことがないから韋提希の話を創作するしかない高森顕徹会長

にて紹介されているように、11日はいつもの

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

について高森顕徹会長の話がありました。

大悲の願船」=「阿弥陀仏の本願」=「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

と相変わらず50年近く貫き通している創価学会の信心を説いていましたが、今回は「ガラリと変わる」説明に

与韋提等獲三忍 即証法性之常楽(正信偈)

のお言葉と、アニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』を用いていた点がいつもと違いました。そして「三忍」について、直前に本願成就文をいつものように説明した後、

信忍=信心
喜忍=歓喜
悟忍=即得往生住不退転
(※)

と「三忍」を成就文のお言葉に当てはめて教えていた点も違いました。従来は

『挑戦の道 in Singapore』三忍 ・・・ 「喜忍」 「悟忍」 「信忍」

に書いてあるような説明で、成就文のお言葉と関係づけて話していたことは記憶にありません。そういう高森会長の文章を読んだこともありません。このように当てはめて教えている方はいるのかと調べてみたのですが、現時点では判明していません。ただ『正信偈大意』には

「慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」というは、一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜悟信の三忍をうべきなり。喜悟信の三忍というは、一つには喜忍という、これ信心歓喜の得益をあらわすこころなり、二つには悟忍という、仏智をさとるこころなり、三つには信忍というは、すなわちこれ信心成就のすがたなり。しかれば、韋提はこの三忍益をえたまえるなり。これによりて真実信心を具足せんひとは、韋提希夫人にひとしく三忍をえて、すなわち法性の常楽を証すべきものなり。

とあって、

喜忍」=「信心歓喜の得益をあらわすこころなり

とありますから「喜忍」が「信心歓喜」に該当するとは言えると思います。しかし他は・・・

信忍」をツユチリほどの疑心もなくなった心と説明するなら、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

とあるのですから「」もしくは「聞其名号」なのではないかと考えられますが、考察はこの辺にしておきます。


それにしても、譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇といい、

絶対の幸福になると苦しみの人生が幸せな人生にだんだんではなくガラリと変わる

と創価学会の信心の説明に正信偈(三忍)を利用するとは不届き千万であります。

自力から他力へと信心はガラリと変わっても、私たちの心も幸福もガラリとは変わらないのです。阿弥陀仏にすべておまかせをしたという点においてのみ、変わるだけです。

とある通りで、阿弥陀仏の本願を聞信した瞬間から、南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得た瞬間から、真実の行信を獲た瞬間から苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにはならないのです。仮にそうなるとしても、高森の教を学び高森の行を修めている者は絶対に真実の行信は獲ることはできません。なぜなら、

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

とは行文類に説かれており、真実の行、すなわち南無阿弥陀仏を称えるという念仏一行による徳益を述べられたものだからです。「高森の行」という悪業悪行、助正間雑、雑行を修める者には決して窺い知れないものであることは言うまでもありません。尤も「高森の行」を修めて創価学会の信心を獲られる可能性はあります。


最後の方で本尊と二益法門について語っていたようですが、本尊については『飛雲』に紹介されているリンク先へ飛んで下さい。こちらでは二益法門について述べます。高森会長はいつも「往生は2回ある」などとホラを吹いていますが、このように説くことが「体失往生」と「不体失往生」について無知な何よりの証拠です。

体失往生」とは「諸行往生」の機、19願の機が遂げる往生で「化土往生」のこと。「不体失往生」とは「念仏往生」の機、18願の機が遂げる往生で「報土往生」のことです。「念仏往生」の機は平生の聞信の一念に往生が定まりますからこれを「体失せずして往生を遂ぐ」と言われたのです。生きている時の往生ではありません。

高森会長は「不体失往生した者を体失往生させる」などと無知を晒す発言をしていますが、これは

報土往生を遂げる身になった念仏往生の機が、死ねば諸行往生の機と同じく化土往生する

と言っているようなもので全くのデタラメです。ろくに真宗を学んでいないことの証明であります。

また、高森会長は現益の方を「往生」の語を用いて

絶対の幸福に往かされて生く

などと言っていますが、現益は「正定聚」の位に入ることです。ところが、

正定聚」の位に入る=「絶対の幸福

としますと、七高僧方は死後に「正定聚」の位に入ると仰っていますので、死後に「絶対の幸福」になると教えられたのが七高僧方ということになります。つまり、私達には信心を獲ても「正定聚」の位に入ったという明確な自覚は無いということです。その無いものを有るように見せかけ、現世利益で聞く者を釣って組織拡大に利用せんとして浄土真宗の教義を用いる高森教は本当に許せません。


大悲の願船」に乗るのは「南無阿弥陀仏」の名号法、すなわち「念仏一行」という「真実の行」によるのですから、いくら「高森の教」を学び「高森の行」を修めたところで絶対にできません。会員の皆さんは、偽物の浄土真宗から速やかに離れ、本物の「浄土真宗」を聞いて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。



【参照 及び 追記】
『WikiArc』三忍

※・・・この配当は、山邊習學・赤沼智善共著『教行信証講義』からのパクリだそうです。
之を成就文に配すれば、信心が信忍、歓喜が喜忍、即得往生が悟忍である。」(P.878)
suさん、ありがとうございました。
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『「其の名号を聞く」とは、本願を聞く一つ。信ずる一つではない』と、親鸞聖人の仰せも、過去の自身の製作物も完全否定する高森顕徹会長

昨日は富山で「高森教」の映画『なぜ生きる』の解説がありました。内容は、

「大船」とは何ですか? 「大悲の願船」とは何ですか? 「絶対の幸福」とはどんな幸福ですか?

といった映画を観られた方(会員)からの疑問に答えるというものだったそうです。それでこの度、またも

其の名号を聞くとは、本願を聞く一つ。信ずる一つではない。

というトンデモ発言が飛び出しました。


順を追って高森顕徹会長の話を辿っていきますと、まずは

大船」=「大悲の願船」=「阿弥陀仏の本願」=「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

と従来の説を繰り返しました。「絶対の幸福」とはどんな幸福かということについては

譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇(「行文類」正信偈)

とこれまたいつもの根拠を出して

天一面、雲霧に覆われても太陽が出れば、その雲霧の下は明るく闇はないのと同じ

であると話したとのことなんですが・・・


会員の皆さんはこんな説明で、「絶対の幸福」とはどんな幸福か分かったんですかね?

雲霧に覆われているとは「煩悩具足の凡夫」のこと

で、闇が晴れて、「大船に乗って初めて、煩悩具足の凡夫であったと分かる」と宣っていますが、自分が煩悩具足ということが分かったから何なのでしょうか?

煩悩具足の凡夫であったと分かる」=「絶対の幸福

なんでしょうか? どんな幸福なのかということがサッパリ分からないのは私だけではないと思います。

不退転」=「正定聚の位」=「絶対の幸福

とするのも

『飛雲』親鸞聖人の教えを知らないのだから七高僧方の教えなど何一つ知らない高森顕徹会長

にて破られているので、こうした曖昧な説明しかできないのでしょう。極度に批判を恐れていると伺えます。


それで、訳の分からない「絶対の幸福」とやらにどうしたらなれるかというところで、先に紹介したトンデモ発言につながります。高森会長は、成就文の「聞其名号」を出して

其の名号を聞くとは、本願を聞く一つ。信ずる一つではない。

と説明しました。

阿弥陀仏の本願を信じなさいとはどこにも教えられていないし、そんなことを口が腐っても言ってはならない

に続く、あっと驚くタメゴロー発言です。「」と「」の関係も分からないのかと言いたくなります。

それにしても、アニメ『世界の光 親鸞聖人』で、法然聖人に

いかなる智者も、愚者も、弥陀の本願を信ずる一念で救われるのです

などと言わせたり、親鸞聖人に

すべての人が、どうにもならぬ極悪人だからこそ、阿弥陀如来は我を信じよ、必ず、救い摂ると誓っておられるのです

などと言わせていたのはどこのどいつでしょうか。また、『こんなことが知りたい②』p.154にて

阿弥陀仏の御誓いは「聞其名号、信心歓喜」とありますように、聞いて信ずる者を助けるという御約束

と書いていたのは何だったのかという話です。


五逆と正法を誹謗している私のための本願であると分かるところまで聞け。

と最後の方では話していたようですが、相変わらず「仏願の生起」に邪義を織り交ぜた話ばかりで、全くと言っていいほど「仏願の本末」が説かれません。それでいて、「横の線の道を進む教え」に結び付け、役に立たない「雑行もどきの組織拡大活動」を会員にやらせようとしています。

こんな話をいくらまともに聞いていても「聞其名号 信心歓喜」とはなりませんから、会員の皆さんは皆さんを「信心獲得」させるつもりのない偽の善知識から離れて、「其名号」である「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かれる方から聞いて下さい。直接説法を聞かれるのが一番ですが、難しい場合は、本、ブログ、音声、動画等を通してでも構いません。「本願寺は間違い」という大本営発表を真に受けていてはダメです。

南無阿弥陀仏(必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい)」という本願招喚の勅命を聞くのがすなわち信です。私の計らいを入れず、聞いたことを我が胸に持ち替えたりせず、聞こえたそのままが信心です。聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はありません。どうかこうした本願の仰せを疑い無く聞き受けて念仏して頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。



【参照】
『WikiArc』聞即信

『「無条件の救いだったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く』のだと救いに条件を付け、ありもしない道程を設けてそこを通そうとする高森顕徹会長

1月3日の親鸞会初聞法会は、去年に引き続きいつもの

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

という演題で話があったそうです。相変わらず「難思の弘誓は難度海を度する大船」(総序)という、

五道、六道という迷いの世界を難度海という海にたとえ、阿弥陀仏の本願、お約束をそこから出離して往生成仏せしめる船にたとえて教えられた

ことを、

人生を難度海という海にたとえ、阿弥陀仏の本願、お約束をその苦しみの海から救う船にたとえて教えられた

という低次元な話に貶め、阿弥陀仏の本願を

「どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に」

というこれまた低次元な現世利益を獲させる本願に貶めています。ここで、「絶対の幸福」とは煩悩を断ぜずになる幸福であり、それは「無明の闇」が晴れたことだというのです。ところが、高森会長によると「無明の闇」とは

「後生暗い心」「死に向かったら真っ暗になる心」

だというのですから、それが晴れたということは、

「後生明るい心」「死んだ先がハッキリ分かった心」

になったということでしょう。この誤りについては散々述べていますが、例えばこの記事を参照して下さい。


さて、今回は、

(阿弥陀仏の本願は)無条件で絶対の幸福にするとのお約束とのことだが、(私達は救われるのに)条件があるとしか思っていない。(本願に対する)疑いの心がある。
無条件で助けるとは、「○○した人は(大船に)乗せてあげよう」ということではない。
「無条件(の救い)だったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く。

などと高森会長が「無条件の救い」について宣っていたことを取り上げます。

阿弥陀仏の本願、中でも18願は、迷いの世界を離れて往生成仏するような因を持たない私に、成就された本願力を回向して、すなわち南無阿弥陀仏を与えて、私をさとりの世界へ導こうというものです。私の力、自力は全く要せず、ただ本願力、南無阿弥陀仏の独用(ひとりばたらき)で往生成仏せしめられます。罪の軽重、善根の多少、修行の久近といったことは救いの条件に含まれません。ただ本願の仰せ、「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」を聞き受けて念仏する者を極楽へ迎えようという本願ですから、「無条件の救い」とよく言われます。

ただ「無条件の救い」と言っても前提があります。全ての人を救うべく本願力ははたらいているのですが、まず本願あることを知らない人は残念ながら救われません。

聞其名号 信心歓喜

ですから、本願、また本願が成就したすがたである名号を聞かないことにはどうしようもないです。次に、本願あることを知っていても、本願によって救われようと思わない人も救われません。例えば異教徒や無宗教者であったり、仏教徒であっても聖道の修行によってさとろうとする者、浄土教を信じていても19願や20願によって往生しようとする者などです。また、謗法や闡提の者は謗法なり闡提を止めてからでなければ救われません。

仏教、中でも浄土教を信奉している者で、本願(18願)によって救われようと思っている人、という前提があるのです。私達で言えば、「親鸞聖人の教えが正しいと信じている人」と言っていいでしょう。親鸞会の会員でも、親鸞聖人の教えが正しいと思い、18願によって救われたいと思っているのであれば対象者に含まれます。ここで「無条件の救い」とは、そのような18願によって救われたいと願う人が、「本願を聞くのに」「本願に救われるためにその人の方で○○しなければならないという条件は無い、ということです。

判り易く言うと、私達の側で、善をしなければならないとか、後生に驚きが立たねばならないとか、地獄一定の自己を知らされなければならないといった条件は無いということです。主体を変えて言うと、私達の行為如何で「この人は救う」「この人は救わない」「この人は早く救う」「この人は後で救う」と阿弥陀仏の方で選んだりしないということです。親鸞会の会員で言えば、

「(縦と横の線で)縦の線まで聞き抜いた者を助ける」
「因果の道理をよく聞いて理解しない者は助けない」
「廃悪修善の心の無い者、弱い者は助けない」
「後生に驚きが立たない者は助けない」
「宿善の薄い者は助けない」
「今生において真剣に宿善を求める者を助ける」
「善をせず信仰が進まない者は助けない」
「三願転入する者(19願の善、定散二善をする者)を助ける」
「微塵の善もできない極悪人と知らされた者を助ける」


本願を聞くのに」「本願に救われるために」上記のような条件は無いということです。


ところが親鸞会ではどうでしょうか? まさに上記のような条件を付けていることは言うまでもありません。

第一、親鸞会では阿弥陀仏の本願を「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を獲させる本願だとしています。信心については「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」とか訳の分からない説明をし、その際念仏は出てきません。信心の体である「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かないのはいつも指摘している通りです。そして、親鸞聖人が教えられたことの無い信心獲得までの道程、いわゆる「横の線の道」を勝手に設けて、そこを通って救われるべき地点(縦の線)まで到達しなければ救われないかのように説いています。「横の線の道」が時として

因果の道理が深く知らされてゆく道
廃悪修善の気持ちが強くなってゆく道
後生の一大事が知らされてゆく道
仏法の重さが知らされてゆく道
薄い宿善が厚くなってゆく道
二河白道を煩悩と闘って求道してゆく道
『聴』から『聞』ときこえるまでの道
信仰が進んでゆく道
三願転入の道

などと変化しますが、いずれにせよ、只今、この場で、本願を聞いて極楽浄土へ往ける身に救われることは無いようです。逆に「只今この場で救われる」と説く者を「土蔵秘事やそれに類する者達」だと非難し、あくまでも高森会長が説く「横の線の道」に万人を当てはめようとしています。今回で言えば、

「無条件(の救い)だったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く。

と、「横の線の道」を通って、ある地点(縦の線)まで到達しなければ「無条件の救い」にはあずかれないように説いています。もうお気付きのように、高森会長の説く「無条件の救い」は、いくつもいくつも条件を張り巡らせた上での「無条件の救い」であることがお分かり頂けるかと思います。これでは最早「無条件の救い」とは言えません。何十年と聞いている会員や、講師部員でさえ救われていないことがそれを物語っています。こんな教えをまともに聞いていて、阿弥陀仏に救われるとかどうとか言っていること自体が気狂い沙汰なんです。



『「無条件の救いだったー!」というところまで仏願の生起本末を聞く』のだと救いに条件を付け、救いにあずかるまでにありもしない道程を設けてそこを通そうとするのが親鸞会のやり方です。ところが、親鸞聖人の教えに「横の線の道」に該当する教えはありません。存在しない道をいくら通ろうとしても通れないのは道理です。会員の皆さんには、皆さんの求道姿勢が悪いのではなく、教えが間違っているから信心も安心も無いのだということに気付いて頂きたいです。そして、邪義を授ける人の手から離れて浄土真宗に帰依し、只今、この場で、本願の仰せを聞いて念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』木の深信が立った高森顕徹会長

年頭所感でも、当然「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かない高森顕徹会長

親鸞会が今年から「新体制」になったようです。詳しくは

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』新体制になり最後のカーブを曲がった親鸞会(顕正新聞平成30年1月1日号を読んで)

をご覧下さい。「同志」だとか言っているのが隣国を連想させます。


さて、親鸞会発行『顕正新聞』2018年1月1日号の高森顕徹会長の年頭所感は、『歎異抄』第二条

おのおのの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。

の御言葉から始まっています。親鸞聖人が20年関東で説かれた教えは「往生極楽の道」以外無かった、その「往生極楽の道」とは、

「必ず極楽浄土へ、往ける身に救う」と、阿弥陀仏が誓われている本願

であるというのです。ところがと言うか、当然と言うか、その後はこの記事でも紹介したいつもの根拠

たとひ大千世界に
 みてらん火をもすぎゆきて
 仏の御名をきくひとは
 ながく不退にかなふなり
浄土和讃

火の中を 分けても法は聞くべきに
 雨風雪は もののかずかは


や、『御一代記聞書』155

仏法には世間のひまを闕きてきくべし。世間の隙をあけて法をきくべきやうに思ふこと、あさましきことなり。

などを出して

・たとい大宇宙が、火の海になろうとも、そのなか仏法を聞きひらく人は、必ず絶対の幸せに成れる
・仏法を仕事の合間に聞けばよかろう、程度に思っているのは、まだ本当の仏法が分かっていない


と創価学会用語をパクった「絶対の幸福」なるものを勧めたり、叱咤したりするのみで、本願の何を聞くのか、どうすれば「必ず極楽浄土へ、往ける身」に救われるのかについては最後まで書かれていませんでした。


この、実に中途半端というか、言わないのか言えないのか不明ですがとにかく必ず大事な部分をボカすところが高森顕徹会長らしいです。これでは、たとえこの年頭所感を何百回読んでも

もっとド真剣に聞け! お前はまだ仏法の重さが分かっとらん!

ということが分かるのみで、「往生極楽の道」とは何かということは絶対に分かりません。「往生極楽の道」とは

「必ず極楽浄土へ、往ける身に救う」と、阿弥陀仏が誓われている本願

と言っても差し支えありませんが、『歎異抄』で言うとそれは

・念仏よりほかに往生のみちをも存知し
・親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。
・このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり


とあるように「往生極楽の道」=「念仏」です。また「阿弥陀仏が誓われている本願」とは、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

とあるように、「「念仏を称える者を必ず極楽浄土へ迎える」と、阿弥陀仏が誓われている本願」です。ですから、「念仏」のいわれ、またそれを聞いて称えよということが勧められていなければ、「往生極楽の道」を説いているとは言えないのです。それがどうですか? 年頭所感を始め、高森会長の話のどこに、

念仏」のいわれ、またそれを聞いて称えよということ

が勧められているでしょうか? 高森会長が挙げた『浄土和讃』にも

仏の御名をきくひとは

とちゃんと書いてあるでしょう。だから私達は「仏の御名」である「本願の名号」、「南無阿弥陀仏」のいわれを聞いて「念仏」せよと教えられるのです。


親鸞聖人は「行文類」にて、「南無阿弥陀仏」とは衆生に帰せよと命じる如来のよび声、つまり「必ず極楽浄土へ迎えるから、安心してただこの阿弥陀にまかせなさい」という命令、仰せなのだと教えられています。また、それは阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心であるとも仰せです。この、私達に施し与えて下さるという「往生の行」というのが「念仏」です。

念仏」は、私達が様々な行の中から選んで称えるのではなく、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものでありますから、阿弥陀仏の方でただ一つ選んで「なんまんだぶせよ」と仰せられる行なのです。こうした阿弥陀仏の勅命を受けたなら、念仏以外の自余の諸善、すなわち「雑行」は要らないなと廃るのです。そして、阿弥陀仏の仰せに帰して念仏する者はこの世で不退転の位に至る、お助け下さるというのです。

これが、蓮如上人が度々仰せられる「南無阿弥陀仏の六字のこころ」です。例えば『御文章』5帖目8通には

「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。

とある通りです。阿弥陀仏は私達を必ず助けるために本願をお建てになり、想像もつかない御身労をされて、「南無阿弥陀仏」と成って下さいました。

これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなり(同)

ですから、この「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を知る以外に私達が極楽に往生するも何も無いことがお分かり頂けると思います。

されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。『御文章』5帖目13通

とも仰せのように、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を知る以外に信心も安心も無いのです。であるのに、そのような肝心要の「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を高森会長が説かない理由は何なのでしょうか?

1、そもそも高森会長は「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を知らない。
2、知ってはいても、会員に信心を獲させる気が無い。


考えられるのはこの2つしかありません。いずれにしても、そんな知識から聞き続けても浄土真宗の信心を獲て、極楽に往生することはできないのは言うまでもないことです。


いつもの「光に向かう教え」「横の道を進む教え」「信一念とそれまでとを分ける教え」「宿善を厚くする教え」「三願転入の教え」といった高森教に支配された頭では受け入れ難いものがあるかも知れませんが、これが浄土真宗です。『歎異抄』に「ただ念仏して」とあるのも、元々は阿弥陀仏が「ただ念仏せよ」と仰せられていますから、その勅命を受けて「ただ念仏して」と言われているのです。

ただのだだもいらんただじゃったー!

などという訳の分からない境地ではないのです。阿弥陀さまの勅命を受けて、その通りにおまかせする以外に信心はありません。ありもしない信心を追い求め、「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽に憧れて、「往生極楽の道」とは無関係の組織拡大活動をしている限りは他力の信心など毛頭分かりませんから、会員の皆さんは早く親鸞会の邪義に気付き、高森教を捨てて浄土真宗に帰依し、阿弥陀仏の仰せを受けて念仏して頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

今年も終ぞ「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かず、聞く者に「他力の大信心」を獲させる気が無かった高森顕徹会長

今年の仕事は、キツイことに変わりはありませんが、ぶっ壊れた去年に比べたら随分マシです。若干の荷物の遅延等はあるものの、去年のように事業所に帰ってきたらその日の午前中指定の荷物がゴロゴロ転がっているということは無く、ほぼその日の荷物をその日の内に届けることができています。あとは個々の力量と統括する上司の采配次第で、去年のような絶望感はありません。やっぱこうでないとね~。


さて、世間がクリスマスムードで浮足立っていた頃、富山ではいつもの演題

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
とは、どんなことでしょうか?


これについて高森顕徹会長の話があったそうです。 


内容は、飛雲さんが挙げていないことからも分かるように同じことの繰り返しです。「大船」とは、『教行証文類』冒頭の「難度海を度する大船」=「阿弥陀仏の本願」のことで、

「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」

という約束だと説明。その後「相対の幸福」とはどんなものかを話して、Abcさんが問題発言と指摘していた

「上見て暮らすな下見て暮らせ」

の語も登場。では「絶対の幸福」とはどんなものかというと、本願成就文に「即得往生 住不退転」と教えられており、それは

退転しない境地

だと話したそうです。ただ、「相対の幸福」を

・人と比べて、喜んだり、悲しんだりする幸せ。
・比べるものによって幸福感が変わる。
・不安定で続かない幸福。


などと説明した点からして、聞く者が「絶対の幸福」を

・人と比べること無く喜べる幸せ。
・何と比べようと幸福感は変わらない。
・永遠に変わらない幸福。


と妄想し、阿弥陀仏に救われるとそんな退転しない境地に出られると夢見ていることは想像に難くありません。

もし、上述したような意味で「絶対の幸福」を捉え、この世でそんな幸せの身になれる、それが阿弥陀仏に救われた、「難度海を度する大船」に乗った、「即得往生 住不退転」ということだと考えているなら、それは大変な勘違いです。


『飛雲』親鸞聖人の教えを知らないのだから七高僧方の教えなど何一つ知らない高森顕徹会長

にあるように、

不退転=正定聚の位

ですが、これを

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

としますと問題が発生します。七高僧方は死後に正定聚になるとしか仰っていません。

不退転=正定聚の位=絶対の幸福

であるなら、死後に「絶対の幸福」になると教えられたのが七高僧方ということになります。この世で「正定聚の位」に入ったという明らかな自覚、実感があるなら、七高僧方のどなたも現生正定聚を説いていないのは到底考えられないことです。もし「絶対の幸福」=「正定聚の位」に入ったという自覚をもって正しい信心としますと、死後に正定聚になると教えられた七高僧方は異安心です。高森会長は、死後に「正定聚の位」に入る、「絶対の幸福」になると教えられた七高僧方を異安心だと非難しているのと同じだということがお判り頂けるでしょう。


話を続けます。それから高森顕徹会長は、では

どうすれば「絶対の幸福」になれるのか

ということには、成就文の「聞其名号」を出しました。それで、

名号は南無阿弥陀仏の六字

と説明したまではよかったんですが、そこから唯一の本願寺攻撃の足掛かりと言っていい本尊の話になりました。何があっても本願寺は非難したいらしく、浄土真宗の各寺の本尊が大体木像であるということから、

如何に、現在の浄土真宗が誤ってしまっているかが知らされる。迷っている証拠でもある。

と宣っています。その後、『御文章』5帖目13通

南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。

や、「行文類」正信偈

帰入功徳大宝海

を出して、

そんな宝を一念で阿弥陀仏が廻向、与えて下される

などという話はあったものの、最後まで「南無阿弥陀仏の六字のこころ」とはどんなこころかについては語られなかったようです。これでは、浄土真宗を説いたことにはなりません。なぜなら、5帖目13通には続けて

・されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
・されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。


等とあるからです。「この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひと」というのであり、六字のほかに別に信心というものがあるのではないのです。それで蓮如上人は

そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。


と、ここでも善導大師の六字釈を引いて懇ろに「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説き開かれておられます。私達のような悪業煩悩の身であっても、一念阿弥陀仏に帰命すれば、必ずその人を弥陀はよくお知りになって助けて下さるというのです。これも、「必ず助けるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という弥陀の先手の勅命があって、それに対して私が、「では仰せの通りにおまかせします、お助け下さい」と仰せをそのまま受け容れたことを言われています。そのように、弥陀の仰せを聞き受けた者に「無上大利の功徳」をお与え下さり、またそうした念仏の行者を「正定聚不退転なんどいふ位」に定めて下さると教えられています。

そんな宝を一念で阿弥陀仏が廻向、与えて下される

とは言っても、「されば一念に弥陀をたのむ衆生に」与えて下されるわけで、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」がどんなこころか知らない者は受けられません。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」をよく心得た者を、「他力の大信心」を獲た人だと蓮如上人は仰います。しかし高森顕徹会長は、上辺だけの説明に終わって、本願寺は攻撃するものの、今年も終ぞ六字のこころを説きませんでした。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を説かないということは、「他力の大信心を獲させる気が無いということです。ということは、「難度海を度する大船に乗せるつもりも無いということです。


そんな宝を一念で阿弥陀仏が廻向、与えて下される

とは説かれても、だからそこまで光に向かって進ませて頂きましょうとか、より真剣に聞かせて頂きましょうなどと更なる活動を余儀なくされるのが落ちです。また、それには仏教をよく理解しなければならない、その仏教の根幹が因果の道理だとか、どうせそんな展開になることは目に見えています。そんな宝をいつ受け取んだよ?

いつやるか? 今でしょ!

ちょっと古いですけど、今、この場で、「助けるぞ!」という「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を聞くんです。そのまま受けるんです。聞くのが信心です。聞いたのが無上大利の功徳を受け取ったのです。正定聚不退転の位に入ったのです。難度海を度する大船に乗ったのです。学生サークルの延長のような活動をこなしていった先の未来の話じゃないんですよ。会員の皆さんはいつまでのらりくらり邪義に迷って無関係な活動をやっているのかと、業を煮やしているのは私だけではないと思います。

もう間もなく2017年も終わろうとしています。一生を一年としますと、その総決算が大晦日に当たるかと思いますが、高森教の教えで大晦日までに信心決定することができると会員の皆さんは考えているでしょうか? もしできないと考えているなら、この先臨終まで信じて求めていっても同じことです。高森教の「光に向かう教え」、「宿善を厚くする教え」、「三願転入の教え」は、こちらから阿弥陀仏の救いを掴もうとする自力的な教えであって、やっていることが如実の善だとしても獲信・往生とは無関係です。

獲信・往生には念仏一行、それは言葉を代えれば「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を聞く一つです。「南無阿弥陀仏の六字のこころ」も教えられない、行だけでも「念仏一行」ともなっていない、それどころか「雑行(もどき)」をやりまくっている、それでいて「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽を追い求めている、こんな状態で「信心決定」とか、「難度海を度する大船」に乗るとか言っている方がどうかしているんです。


如何に、現在の浄土真宗が誤ってしまっているかが知らされる。迷っている証拠でもある。

これは本願寺にあらず、他ならない親鸞会のことです。会員の皆さんは、信心を獲させる気が無く、私利私欲を満たすことしか頭に無い偽の善知識から一刻も早く離れて、本物の浄土真宗に遇い、「南無阿弥陀仏の六字のこころ」を聞き受けて念仏して頂きたいと思います。

「不体失往生している者が死ねば体失往生する」「阿弥陀仏は二回往生を約束されている」等、とにかくトンデモ邪義連発の高森顕徹会長

この前の結婚式は神前式で、アニメ『世界の光 親鸞聖人』の第二部第三部に出てくるような演奏や舞いが見られました。それにしても神社の本殿(拝殿?)というのでしょうか、参列者控室からそこまでずらずらと移動し、儀式、そしてそれが終わってまた戻ってくるまでの間の寒いことと言ったら(;^ω^) 暖かい時期はもはや予約でいっぱいだったのかも知れませんが、屋内で全てを済ませるのでない場合は時期も考えた方がよさそうです。どうせなら義弟の実家は浄土真宗なんだし、仏前式がいいのになぁなんて思いましたが、今時はホテルかチャペル、また今回のような神社での式がほとんどで、仏前式を挙げたという人はいるのでしょうが周りでは聞いたことが無かったのでした。


さて、どっかのドタキャン会員達と違ってキチンと約束を果たし参列していた頃、親鸞会では、

施主・真生会富山病院からの質問
 映画「なぜ生きる」で、『「なぜ生きる」の答えは、大悲の願船に乗ることだ』とありましたが、
 なぜ大悲の願船に乗ることが生きる目的となるのか、その理由を詳しく教えて下さい。


という質問に答える形式で、高森顕徹会長の話があったそうです。彼らは未だに続けちゃってるんだろうなぁ、日曜日も富山に行って支離滅裂な話を聞いていたんだろうなぁと考えるとため息をつかずにはいられません。


今回は、先ほども触れたアニメ『世界の光 親鸞聖人』第二部に出てくる、体失・不体失往生の諍論の場面を流して「往生」について話をしたようです。本願成就文の「即得往生 住不退転」に注目し、

阿弥陀仏は、全ての人に「即得往生 住不退転」と約束されている

という流れから出てきたそうで、「往生」を

1、生まれ変わって往く
2、極楽に往って仏に生まれる


の二つの意味があると説明、それからアニメを流し、

・不体失往生している者が死ねば体失往生する
・阿弥陀仏は二回往生を約束しておられる
・死んでから極楽に生まれる往生が「体失往生」
・生きている今、絶対の幸福になるのが「不体失往生」


などと話したそうです。


まぁ、これだけでも高森顕徹会長がいかに浄土真宗に無知な人物であるかということがすぐに分かりますね。まず、「往生」とはどういうことか、何が語源なのかということも知らないといけません。既にこの記事でも書いていますが、「往生」の語源は法然聖人の

捨此往彼 蓮華化生」(『往生要集大綱』)

というお言葉です。法然聖人は『往生要集大綱』第七に

言往生者 捨此彼 蓮華化

と仰っています。読み下すと、

往生と言うは、此(ここ)を捨て彼(かなた)にきて、蓮華に化するなり

です。此(ここ)、つまりこの娑婆世界を捨てて、彼(かなた)、すなわち阿弥陀仏の極楽浄土にって、蓮華に化する。その「」と「」を取って「往生」ですから、「生きている時の往生」など有るわけがないのです。

1、生まれ変わって往く

何じゃこりゃ? 「往生」にこんな意味はありません。また、当然ながら、

・阿弥陀仏は二回往生を約束しておられる

本願文のどこをどう読んだらこんなデタラメ創作教義が出てくるのか意味不明です。


これは親鸞聖人が仰ったとされる「不体失往生」の誤解から来ているものと思われます。これを

「肉体を失わない時の往生」、つまり「生きている時の往生」

と早とちりしたのでしょう。これがそもそも間違いです。お聖教をキチンと読んでいないからこのような間違いをするのです。

善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。
(中略)
念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。
『口伝鈔』一 体失・不体失の往生の事

とあるように、身体が滅ばなくても信心獲得のとき浄土に生まれることが確定するので、「体失せずして往生す」、すなわち「不体失往生」と親鸞聖人は仰ったのだというのです。ですから「不体失往生」とは何かと言えば、「平生に往生が定まる」ということです。「往生」するのはあくまで死んでからですが、その「往生」が定まるのが「体失せずして」、つまり「平生」ということです。これが分かれば、

・生きている今、絶対の幸福になるのが「不体失往生」

こんな創価学会用語をパクった解釈が出てくるはずがないのです。


ついでに善恵房証空上人が仰ったとされる「体失往生」についても触れておきますと、これは「平生」に対して「臨終に往生が定まる」ということです。

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。
(中略)
諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。
(同)

とあるように、臨終を待ち、阿弥陀仏の来迎にあずかって初めて「往生」が確定するので「体失して往生する」、すなわち「体失往生」と言われたわけです。ただこの「体失往生」は「胎生辺地」への往生、つまり「化土往生」であり、「報土往生」ではありません。また、臨終に阿弥陀仏の来迎が無ければ「化土往生」すらかなわないという極めて不確定なものです。しかも何もしなくても臨終来迎にあずかれるのではありません。平生は19願に従って修諸功徳の善を積み、来迎にあずかれるよう誠心誠意努めねばなりません。ですから、

・死んでから極楽に生まれる往生が「体失往生」

こんな解釈が出てくるのはお聖教をキチンと読んでいない証拠なのです。だから、

・不体失往生している者が死ねば体失往生する

などというトンデモ邪義が出てくるのです。


それについて説明していきましょう。その後、『口伝鈔』には

勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり。

と書かれています。

念仏往生は本願なる」「本願念仏の機の不体失往生

と言われているように、本願である18願を信じ念仏する者は平生に往生が定まりますから「不体失往生」です。念仏往生の機、18願の機が遂げる往生が「不体失往生」です。そして「不体失往生」は

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。『末灯鈔』12通

とあるように「報土往生」であります。一方、

諸行往生は、非本願なる」「非本願諸行往生の機の体失往生

ですから、本願に非ざる19願の行を修して臨終に阿弥陀仏の来迎を待つ者は臨終に往生が定まりますから「体失往生」です。諸行往生の機、19願の機が遂げる往生が「体失往生」です。体失往生」は『口伝鈔』だけでも十分ですが

この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。『末灯鈔』1通

とあるように「辺地・胎生・懈慢界」への往生、すなわち「化土往生」です。このように「不体失往生」と「体失往生」とでは、遂げる往生が異なるのです。これが分かれば、高森会長の

「不体失往生している者が死ねば体失往生する」

という発言は、

「報土往生を遂げる身になった者が死ねば化土往生する」

と言っているのと同じであることが分かるでしょう。だから「トンデモ邪義」だと言ったのです。


これまで述べてきたことをここでまとめておきます。

・阿弥陀仏は往生の定まる時期が平生か臨終かで異なる2つの願を建てられている。
・平生に往生が定まるのが18願。「不体失往生」=「平生に往生が定まる」。
・臨終に往生が定まるのが19願。「体失往生」=「臨終に往生が定まる」。
・本願念仏の機(18願の機)が遂げる往生が「不体失往生」=「報土往生」。
・非本願諸行往生の機(19願の機)が遂げる往生が「体失往生」=「化土往生」。
「不体失往生している者が死ねば体失往生する」など有り得ない。


それにしても、「諸行往生は本願にあらず」と仰せられる諸行往生の機の「体失往生」であるのに、

「不体失往生している者が死ねば体失往生する」

と発言するとは、高森顕徹会長は「本願念仏の機の不体失往生」と「非本願諸行往生の機の体失往生」のどちらを勧めているのでしょうか。いすれにしましても、まともに仏の本願である「念仏往生」を説いてはおりませんから、親鸞聖人の教えられる「本願念仏の機の不体失往生」を遂げたい方は高森顕徹会長及び親鸞会から離れた方がよいでしょう。



【参照】
『WikiArc』化生
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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