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高森顕徹会長の説では、親鸞聖人と一味の信心だという覚如上人は「絶対の幸福」とやらになっていません

『飛雲』創価学会の真似をして人集めに血眼になっている高森顕徹会長

でも紹介されているように、先日8月5日は親鸞会では追悼法要が営まれ、

「私が死んだら、川に捨てて魚に与えよ」
親鸞聖人は、なぜ言われたのでしょうか


という質問に答える形式で高森顕徹会長の話がありました。

「私が死んだら、川に捨てて魚に与えよ」とは、覚如上人のお言葉

本師聖人(親鸞)の仰せにいはく、「某[親鸞]閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたふべし」と[云々]。これすなはちこの肉身を軽んじて仏法の信心を本とすべきよしをあらはしましますゆゑなり。これをもつておもふに、いよいよ喪葬を一大事とすべきにあらず。もつとも停止すべし。『改邪鈔』(16)

が元になっていることは言うまでもありませんが、高森会長は「仏法の信心」については

本願によって絶対の幸福の心になるのが「仏法の信心」

などとうそぶき、その「絶対の幸福」については

・死んだらどうなるかハッキリする人を絶対の幸福という
・後生暗い心を明るくして絶対の幸福にするというのが阿弥陀仏のお約束


などと説いて、今回も当然ながら浄土真宗の信心を伝えるつもりが全くない有り様でした。


さて、覚如上人は「仏法の信心」である「捨自帰他」について以下のように教えられています。

往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり
執持鈔(2)

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。このたび、もし正しい教えの師にお会いしないならば、わたしたち愚かなものはかならず地獄に堕ちるはずである。ところがいま、上人のお導きにあずかって、阿弥陀仏の本願を聞き、救いとってお捨てにならない道理を胸に収め、離れにくい生死の迷いを離れて、生れにくい浄土にかならず生れようと、心に深くたのむのは、けっしてわたしの力によるものではない。たとい、阿弥陀仏の智慧にすべてを託して念仏することが地獄に堕ちる行為でしかないのに、それをいつわって、「浄土に生れるための行為なのだ」、と上人がお教えになることにだまされて、わたしが地獄に堕ちるとしても、けっしてくやしく思うはずはない。

その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。


現代語訳を読めばお判りのように、高森会長の教える「仏法の信心」とはまるっきり違います。

・往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
・われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
・たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
・善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず


これらの御文から、

・往生について、阿弥陀仏に何もかも全ておまかせすることが仏法の信心
・我々凡夫に死んだらどうなるかハッキリ判るものではない
・たとえ行き先が地獄であっても法然聖人のいらっしゃる処へ行くのだと心得る


等のことが言えます。高森顕徹会長の説では、「絶対の幸福」とは

・死んだらどうなるかハッキリすること
・後生暗い心が後生明るい心になったこと


ですので、親鸞聖人と一味の信心だという覚如上人は「絶対の幸福」とやらになっていません。阿弥陀仏に救われたら後生ハッキリするものだとカンカンに信じている会員ばかりでしょうが、これが現実です。会員は浄土真宗に非ざる高森教を真実と思い込まされているだけです。


所詮「絶対の幸福」など創価学会からのパクリ用語であり、現世利益を求める人を釣り上げるルアー(疑似餌)に過ぎません。それに気付かず、高森会長が亡くなるまで、あるいは没後も騙され続ける会員の事を思うと、実にお気の毒です。

仏法の信心」とは、往生について阿弥陀仏のお誓いに何もかも全ておまかせすることであると覚如上人は仰っています。阿弥陀仏は本願において「念仏を称える者を浄土に迎える」と仰せなのですから、我々はその仰せを計らい無く受け容れて阿弥陀仏に計らわれるままにお念仏申すのみです。そうして念仏して仮に地獄へ堕ちても、法然聖人や親鸞聖人のいらっしゃる処へ参るのです。繰り返しになりますが、他力の信心とは我々の側から死んだらどうなるかハッキリするということではありません。

本願も間違い。信心も間違い。念仏も間違い。そんな教えを聞いていて親鸞聖人や覚如上人と一味の信心になれるわけないでしょう。会員の皆さんは、早く親鸞会の邪義に気付いて高森教から脱し、浄土真宗に帰して本願を信じ念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)
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「自然法爾」を正しく説かない、「聞く一つ」「真剣な聞法」と言うが、肝心の「何を」聞く一つなのかを正しく教えない高森顕徹会長

『飛雲』屁理屈も矛盾に満ち溢れていることに気付くこともない高森顕徹会長と愉快な講師部員

に挙がっているように、前の日曜日は岐阜県各務ヶ原会館の落慶法要ということで高森顕徹会長の話がありました。どっかの巨大組織をライバル視してか、未だハコモノ建設に余念のない親鸞会です。

頂いた情報によると、今回は午前中のみの話(座談会)で、その後会食会もあったそうです。内容は

念仏者は無碍の一道なり。『歎異抄』第七条

の「無碍の一道」についてでした。そこで高森会長からほとんど聞いたこともなかった「自然法爾の念仏」という言葉が出てきたのですが、その説明が高森会長らしいというか、

絶対の幸福にさせて頂いた人がその御恩報謝、お礼の心で称える念仏

というものでした。「自然法爾」についてしゃべるなら根拠位出せばいいのに、高森教へ誘導するのみで本当の親鸞聖人の教えを話す気はないようです。

自然法爾の事

 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。「法爾」といふは、この如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふなり。法爾はこの御ちかひなりけるゆゑに、およそ行者のはからひのなきをもつて、この法の徳のゆゑにしからしむといふなり。すべて、ひとのはじめてはからはざるなり。このゆゑに、義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。

 弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。

 ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
『末灯鈔』5通

なお、『正像末和讃』自然法爾章にもほぼ同様のお言葉があります。

自然とは、阿弥陀仏の救済は人間のはからいによって成立することではなく、本願力の自ずからなるはからいによって往生成仏せしめられることをいいます。「おのづから」「しからしむ」と言われているように、行者のはからいによるのではなく、一方的な本願のはたらきかけによって救われるのです。

法爾とは自然と同義語です。如来のお誓いであるから自ずから働いて下さる。だから法爾といいます。私達は如来のお誓い、本願のはたらきを聞いてそのままおまかせするのみだということです。

このようなことですから、「自然法爾の念仏」というのは行者のはからいで称える念仏ではなく、本願が自ずからはたらいて出てくる念仏です。本願のはたらきがそのまま私の口を通して現れる、そういう念仏だということです。ですから「自然法爾の念仏」とは現在当ブログにて考察中の往相回向の大行、真実の行と同義です。


勿論称える我々の心持ちとしては、我が往生を定めて下された御恩報尽の思い、感謝の思いもあるでしょう。しかしここでは聖人はそのようなことを仰っていません。「行者のはからひのなき」「義なきを義とす」というのが「自然」であり「法爾」だと教えられています。

また、高森会長は相変わらず創価学会のパクリ用語である「絶対の幸福」が云々と言っていますが、親鸞聖人は本願をそんな「絶対の幸福」にするだとかいう誓いであるとは仰せられていません。

ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり

ですから、本願は私達を無上仏に成らせようという誓いです。その誓いは我々にあれこれせよというにあらず、

もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたる

とあるように、我々の計らいが雑じる隙はありません。南無阿弥陀仏とたのませて浄土に迎えようと阿弥陀仏がお計らいになっている、そのような誓いだというのです。ですから私達はただ誓いの名号を計らい無く聞き受け、本願のはたらきにそのままおまかせしてお念仏申すばかりです。


ところが高森会長は絶対にこのようなことは言いません。目的である「打倒本願寺」「組織拡大」のためには、因果の道理を説いて善と言う名の献金、勧誘をしてもらう必要があるからです。それによって阿弥陀仏の救いに近づくとか、横の道を進むとかと考えるのはまさに「行者のはからひ」です。

聞く者をそのように「自業自得の道理」に押し留め、本願のはたらきを妨げるような教えを説いているのが高森会長です。「自然法爾」ということを正しく教えない、本願を正しく説かない、これで聞く者が本願の通りになるわけがありません。最近「聞く一つ」ということを強調している会長は、今回も

どうすれば無碍の一道に出られるのか

という質問に

「聞く一つ」「真剣な聞法」。家族が重大な病気にかかり、その結果を医師から聞く時のような態度(で聞く)。

などと答えたそうですが、何を「聞く一つ」なのか。何を「真剣」に聞法するのか。家族の病気について医師から聞く時のような態度で一体何を聞くのか。それが明らかにされていない、正しく説かれていないのです。

聞くのは「本願の名号」である南無阿弥陀仏の六字のこころです。言葉を換えれば「自然法爾」、阿弥陀仏のお計らいを聞くのです。「自然法爾」を正しく説かない、「聞く一つ」「真剣な聞法」と言うが、肝心の「何を」聞く一つなのかを正しく教えない高森顕徹会長の与太話をいくら真剣に聞いていたって徒事です。会員の皆さんは、浄土真宗に非ざる高森教から一刻も早く抜け出し、阿弥陀仏のお計らいにまかせてお念仏を申して、この度の浄土往生の本懐を遂げて頂きたく思います。



【参照】
『WikiArc』自然法爾

ようやく「二河白道の譬え」を話すも省略した内容で、相変わらず「白道」=「聞法心」と邪義を唱え続ける高森顕徹会長

『飛雲』よく知りもしない『観無量寿経』の内容を知ったかぶりで話をする高森顕徹会長と愉快な仲間達

にあるように、先日日曜日は高森顕徹会長の話がありました。今回は映画『なぜ生きる』への質問

「聞く一つで、大船に乗せる」とはどういうことか?

についてでした。それでようやく『二河白道の譬え』について話があったのですが、頂いた情報からはかなり省略した話しかなされなかった模様です。さすがに創作『二河白道の譬え』を話すのはためらわれたのでしょう。かと言って話をまるっきり変えてしまっては過去の話との整合性が取れませんから、何とか苦肉の策を練って取り繕っていたという印象を受けました。


今回、高森会長は善導大師が『二河白道の譬え』で明らかにされたものが3つあるとして、

(1)阿弥陀仏の救いは「聞く一つ」
(2)「どんな人でも」助けるお約束
(3)(阿弥陀仏に救われるまでの)「心の道のり」


と話していました。しかしこれも随分とデタラメ創作教義が雑じっています。特に(3)です。

『二河白道の譬え』信後の他力信心を守護する譬えです。

また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。「信文類」二河白道

信前の阿弥陀仏に救われるまでの「心の道のり」とやらを明らかにした譬えでないことは明白です。「信文類」は信後の真実の信心を顕かにした文類であって、信前のことを言われているのではありません。親鸞聖人は、『二河白道の譬え』を「信文類」でしか引文されず、信前のことを言われていると話している「化身土文類」には引文されていません。この事実一つ取っても高森教の邪義は明らかです。


また(1)についても、善導大師はそうは教えられていません。

『飛雲』麻原教祖を未だに信じているアレフの信者より幼稚な高森顕徹会長信者

等をお読み頂ければお判りのように、阿弥陀仏に救われるには

なんぢ一心に正念にしてただちに来れ
⇒「真実の信心(他力の信心)で念仏して(西の岸)に来なさい」=「白道を歩みなさい」

と教えられたのが善導大師です。この念仏、信心を往相回向である他力念仏、他力信心と明らかにされ、他力の信心は仏願の生起本末、すなわち南無阿弥陀仏の六字のいわれを聞いたまさにその時に決定すると教えられたのが親鸞聖人でした。

確かに18願の救いは「聞く一つ」と言っても差し支えありませんが、それは高森会長の言う「聞く一つ」とは違います。南無阿弥陀仏の六字のいわれ、すなわち「必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい」という本願招喚の勅命「聞く一つ」です。

高森教のように因果の道理廃悪修善十九願定散二善等の話を聞き、その実践と称した組織拡大活動をしていくことではないのです。煩悩と闘って様々な「高森の行」を実践することで白道を進み、やがて阿弥陀仏の喚び声を聞く、という邪義を真に受けている会員ばかりでしょうが、そうではありません。現在只今、ここで、「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」という喚び声を聞き受けて白道を歩むのです。

白道を歩み出したのが真実信心になった時で、それには「高森の行」の実践は一切不要です。ただ「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」という誓いをそのまま聞き受けてお念仏申すのみです。


他力の意味しかない白道自力の聞法心と教えられ、聞いたことの実践と称して献金、勧誘、無条件服従といった様々な「高森の行」をやらされる会員は哀れです。大悲の願船に乗じるのは真実信心の念仏一行という大行の利益であって、助正間雑、雑行、悪業悪行をやっている内はそれは永久に訪れません。会員の皆さんには、19願という方便仮門、また高森教という外教邪偽の異執は直ちに捨てて、「助けるぞ」の仰せを疑い無く聞き受けて念仏して頂きたいものです。

「二河白道の譬え」は回避し、「絶対の幸福」を連呼するも結局説明になっていない高森顕徹会長

7月8日(日)は高森顕徹会長の座談会があったそうですが、またも「二河白道の譬え」は回避です。今回は

「弥陀の本願」と「大悲の願船」の関係について

だったとのことですが、今更会員はこのようなことを聞きたいでしょうかね? それよりも、

どうしたら大船に乗せて頂くことが出来るのか

ということを分かりやすく徹底するために善導大師が説かれたという「二河白道の譬え」を聞きたいという会員の方が多いんじゃないかと思います。おそらく、最近の『飛雲』で徹底的に譬え話自体の誤りと何を譬えたものかの誤りを暴かれていますから、更なる批判を恐れて出すに出せないといったところでしょう。


さて、今回は高森会長の話を聞いていれば当然ですが

「絶対の幸福」がわからないという質問も多い

ことを紹介していました。長年聞いている人ならお判りでしょうが、高森会長は結局「相対の幸福」ではないと話しているに過ぎません。それで「絶対の幸福」がどんなものか分かる人の方がおかしいです。今回も例に漏れず「相対の幸福」の話ばかりで、「絶対の幸福」については

「相対の幸福」しか知らない私たちは分からない。世を超えている。

と煙に巻いていました。「相対の幸福」については

全て死んで行く時に崩れてしまう幸福。比べて初めて感じる幸福。煩悩を満たす幸せ。

等と説明していましたが、それなら「絶対の幸福」は

死んで行く時も崩れない幸福。比べなくても感じる幸福。煩悩を満たす幸せではない。

ということかと想像するよりありません。訳の分からない幻想的な楽で人々を釣って組織拡大に利用するのみで、高森会長には親鸞聖人の教えを正しく伝えて往還二種の回向を獲させる気など更々無いことが伺えます。


そう言えば、今回高森会長は演題の質問について

「弥陀の本願」と「大悲の願船」の関係は「イコール」

だとか宣っていました。今までは「弥陀の本願」が設計図、それに基づいて出来上がったのが「大悲の願船」だということでしたが、念仏する者を浄土に迎えるという本願も、本願が成就したすがたである南無阿弥陀仏の六字も全く説く気が無いのですから、もはや高森会長には本願も願船も一緒、とにかく騙し続けられればそれでいいのでしょう。こんな邪偽の善知識を未だに盲信している会員が哀れでなりません。

もちろん無関係ではないけれども、本願と願船はイコールではありません。念仏する者を浄土に迎えるという本願が成就して南無阿弥陀仏の船が仕上がった、という関係です。私達は、名号のいわれを聞いて信心歓喜乃至一念し、正定聚の位に定まるわけですから、名号のいわれを聞かないことには救われません。

阿弥陀仏はかつて法蔵菩薩であった時、迷いの世界で苦しみ悩んでいる全ての衆生を平等に救い摂りたいと願いを発されました。この世にはまことのやすらぎも楽しみもなく、私達は永遠に流転して苦悩は絶えることがありません。そこで法蔵菩薩は諸仏に超え勝れた浄土を建立し、衆生を迷界より出離させ、浄土へ迎えて救うと誓われたのです。そして不可思議兆載永劫において菩薩の行を行ぜられてついに阿弥陀仏と成られ、今や円融無碍不可思議不可称不可説の至徳である南無阿弥陀仏を恵み与えて衆生を救いつつあります。

南無阿弥陀仏とは必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさいという阿弥陀仏の真実なる仰せなのです。そのいわれを聞き受けたのが信心、本願のはたらきがそのまま出てくるのが念仏。こうした往相回向の念仏を「大行」とされ、その「大行」による利益が

しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。

という「行文類」のお言葉です。これは真実信心による念仏生活の楽しさ、専ら念仏一行に仕えただ本願力回向の信心を崇める有難さを仰ったのであって、「絶対の幸福」だとかいう南無阿弥陀仏と何の関係があるのか分からない、説明を聞いても全く訳の分からない幻想的な幸福を教えられたものではありません。


阿弥陀仏の目的は衆生を出離、往生、成仏させることです。この世は火宅無常の世界であり、すべて空事、たわごと、まことあることなしです。そんな世界に生きる我々をこの世で絶対に崩れない変わらない幸福にする云々という目的の本願ではないのです。そんなにこの世の幸福にこだわるのなら、聖道門に行ってこの世での成仏を目指すべきです。そんな気概のない人も、親鸞会にいるより別の宗教に行ったり自己啓発セミナー等に通ったりした方がよほどマシでしょう。

本願はこの世の幸福をどうこうするというものではありませんし、この世の幸福は必ず崩れます。後生に対する心構えさえ、誰しも想像上の死と眼前に迫った死は異なりますから、眼前の死の恐怖を前に今まで聞いてきたことなど吹っ飛んでしまうかもしれません。しかし、臨終の様子がどうであれ、平生本願力をたのんで念仏する者は必ずその本願力によって往生させて頂くことが決定しているのです。私の心が問題じゃないんです。いまの南無阿弥陀仏が往生の定まりたる証拠で、私はまるまる南無阿弥陀仏におまかせするよりないんです。

幻想的な幸福に憧れ、ありもしない信心を求めて勧められるまま勧誘や献金や服従の行を繰り返しても、会員が思っているような本願ではありませんから往相の回向である「大行」、「大信」は獲られず報土往生はかないません。まして「白道」が「聞法心」だとかいうデタラメ「二河白道の譬え」を本物と思っていてはね。今回その話が無かったのは反って良かったかも知れません。

会員の皆さんには、この世の幸福云々を超えた、迷いの世界からの出離を目指した上で、阿弥陀仏の浄土に往生して仏に成るのが真宗の目的であるとわきまえて、それにはただ必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさいという本願招喚の勅命を聞き受けて念仏するのみであることを知って頂きたいと思います。

序盤の方で『二河白道の譬え』の存在を示していながら話さない高森顕徹会長

『飛雲』二河白道の譬えを回避した話で、更に恥の上塗りをして収拾のつかない無知ぶりを発揮する高森顕徹会長

にある通りで、日曜日の講義でまたしても高森会長は『二河白道の譬え』を話しませんでした。これが最初から譬えには一切触れずに、

「聞く一つで、大船に乗せる」とはどういうことか。どうしたら大船に乗せて頂けるのか。

という映画『なぜ生きる』の質問に沿って話をするというのならまだ判るのですが、序盤の方で

どうしたら大船に乗せて頂くことが出来るのかを分かりやすく徹底するために善導大師が『二河白道の譬え』を説かれた。

と『二河白道の譬え』の存在を示していながら話さないという体たらくです。話せば全く違う話だと叩かれるのは火を見るよりも明らかですから、逃げに逃げ回っている様子が鮮明に分かります。


さて、上リンク先では高森流宿善論を論破していますが、何しろ高森教は信心獲得の速い遅いは宿善が厚いか薄いかによるという教えです。それで、耳四郎や親鸞聖人、熊谷蓮生房、明法房弁円等は過去世の宿善が厚かったから、つまりは聞法や仏法・世法のさまざまな善根を積んできたから、今生において早く信心決定したというのです。これは、『観経』下三品の悪人を実は「大乗始学の凡夫」だと説明した天台大師ら諸師の理論と非常によく似ています。

更に高森教では、「耳四郎や親鸞聖人は宿善が厚かったから早く救われたんだ。私達は宿善薄い者だから、努めて宿善を求め、厚くしなければならぬ。そうしなければ信心獲得の時節到来はあり得ない」ということで、様々な「高森の行」を授けて実践させています。そんな行を人によっては何十年と続けてきた方もあるでしょうが、どうでしょうか。それによって信心獲得できましたでしょうかね? そういった「宿善を厚くする教え」、近年で言えば「三願転入の教え」なるものを信じている人には、下三品の悪人、中でも下品下生の極悪人が臨終に善知識に遇い、言われるまま「南無阿弥陀仏」と10回称えて往生したとはとても信じ難い話でしょう。

この下品下生の往生について、摂論宗の一派は念仏別時意説を唱え、すぐに往生したように説かれているが実際には往生を得たのではないと主張しています。何だかこれも、「平生業成」の語を「人生の目的が現在に完成する」という意味だと教え、あたかもすぐに「平生業成」の身になれるかのように説いてはいるが実際にはそうではないという高森教と似ていますね。


では下品下生の極悪人は摂論宗の者達の言うように実際は往生を得ていないのかどうなのか。それについて善導大師は有名な六字釈でもって説明されています。

いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。 いかんが具足する。
「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。
「玄義分」六字釈

【現代語訳】
いまこの『観経』の中の十声の称名には、 十願十行があって具足する。 どのように具足するのか。「南無」というのは、すなわち帰命ということである。またこれは、発願廻向の意味でもある。「阿弥陀仏」というのは、すなわち衆生が浄土に往生する行である。南無阿弥陀仏の六字の名号にはこのようないわれがあるから、必ず往生することができるのである。

十声の念仏は唯願無行ではなく、願行具足しているから、次の生にはまちがいなく浄土に往生できるというのです。こうした善導大師の古今楷定の註釈により、高位の菩薩の為の経であると見られていた『観無量寿経』は主人公の韋提希を始めとした凡夫の為の経典であることが明らかにされたのでした。


これを親鸞聖人はさらにご自身の六字釈において、「帰命」とは阿弥陀仏からの「帰せよの命」であると仰せられています。「必ず浄土へ迎えるから、安心して我にまかせよ」との仰せであるというのです。こうした名号のいわれを聞くところに私達の自力疑心の計らいは取り去られ、報土の真因決定しますから、そのような意味で浄土真宗は「聞く一つ」と言っても差し支えありません。

浄土往生するのに、我々の煩悩は邪魔になりません。「無碍光如来」ですから。では何故、そのような名号が成就していながら全ての衆生は救われていないかと言えば、その名号のいわれを領受していないからです。撥ね付けているからです。茶碗に水を注げばそこに水は入っていきますが、蓋がしてあれば注いだ水は全て外に流れてしまいます。そのように、我々の疑いの蓋が本願力を撥ね付け、領受しないから、本願が成就してはたらいていながら救われないのです。

この疑いの蓋、「疑蓋」も、南無阿弥陀仏のひとりばたらきによって取り去られます。私達の力は要りませんし、要るとしてもどうにもなりません。「聞く一つ」とは言いますが、私の聞いた力と合わせて取り去られるのでもありません。だから正確には如来の「聞かす一つ」にて浄土往生決定となるのです。


これに、従来の「煩悩と闘って白道を進む」という創作『二河白道の譬え』を合わせたら当然ですが「聞く一つ」にはなりません。そして高森会長自身が言っている「人生の目的が現在に完成する」ということにも反します。

平生業成」というからには今です。ずーっと聞き続けていった先、煩悩と闘っていった先の話ではありません。南無阿弥陀仏は既に成就して、今、ここにいる、この私にはたらいているのですから、私は今、ここで、この私一人を「助けるぞ」と仰せの勅命を聞き受けるのみです。

高森教では「聞く一つ」と言いながら実際は「聞く一つ」ではないし、「聞く」内容も間違っています。名号のいわれを聞かず、高森会長の「絶対の幸福に救われる」という邪義を「聞く一つ」なのが親鸞会会員の実態です。次回も説くのかどうか甚だ怪しいですが、創作『二河白道の譬え』をいくら聞いていても大悲の願船に乗ずることはできません。名号のいわれを信受した真実信心の称名による利益が「乗大悲願船」のお言葉です。そのようなわけですから、大悲の願船に乗りたいなら一刻も早く親鸞会を離れて、名号のいわれを正しく説かれる方(動画や音声、本、ブログ等でも)から聞いて信心決定し、お念仏申すことをお勧めします。



【参照】
安心論題/六字釈義

真宗の根本とも言うべき南無阿弥陀仏の「南無」や、その翻訳語である「帰命」の言葉の意味を説けない高森顕徹会長

『飛雲』親鸞聖人の教えられた二河白道の譬えの解説で高森顕徹会長を攻撃しておきます

でも紹介されているように、日曜日は富山で高森顕徹会長の話がありました。今回は

『正信偈』と『歎異抄』について

という質問に答える形式だったようです。ただ、話した内容は浄土真宗ではなく、いつもの「絶対の幸福」という「創価学会の信心」を『真宗宗歌』や『正信偈』や『歎異抄』の言葉で粉飾し説明しただけというものでした。

この記事で書いたように、前回高森会長は

どこでどのように大悲の願船に乗せて頂けるのか、絶対の幸福になれるのか

二河白道の譬え」で善導大師は明らかにされていると話していました。が、今回その説明は一切無しです。前の講演でその説明を中途半端で終えていながら、話をすれば容赦のない批判を浴びせられることに戦々恐々としてか、頂いた情報からは「二河白道の譬え」の「二河」の字もありませんでした。「創価学会の信心」は説き続けるくせに、浄土真宗については説かない、説明も途中で終わりというのが最近の高森クオリティです。


ところで、高森会長はまたまた面白いことを言っていました。

「帰命」と「南無」の言葉の意味は説けない。分かりやすく言うならば「永久の闇より救われた」ということ

だと。仏教の勉強もろくにせず、『教行証文類』もまともに読んだことがない高森会長らしい発言です。これは、『真宗宗歌』で「永久の闇よりすくわれし・・・」と歌われている通り、「永久の闇から救われた」というのが仏教で教えられる「絶対の幸福」だとし、そこからお釈迦様と阿弥陀仏の違いを説明する一環で

帰命無量寿如来 南無不可思議光

の『正信偈』冒頭のお言葉を挙げた際に言い出したことです。

それにしても「帰命」と「南無」の言葉の意味を親鸞聖人が丁寧にご解説されているのを高森会長は知らないとしか思えない発言です。または知っていても意味が分からず、解説ができないのでしょう。

親鸞聖人は「行文類」にて、善導大師の六字釈を承けてご自身の六字釈を施しておられます。

しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音こえなり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音こえなり。悦税二つの音こえは告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。


そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「悦(えつ)」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「税(さい)」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう」という意味になります。説の字には、悦と税の二つの読み方がありますが、説(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「命」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることを顕しています。『無量寿経』には「即得往生」と説かれ、その心を釈して『十住毘婆沙論』には、「即時人必定」といわれています。「即」の字は、阿弥陀仏の本願力を疑いなく聞くことによって、真実報土に往生するまことの因が決定する時の極まりを明らかに示された言葉です。「必」の字は、「明らかに定まる」ということであり、本願力によって自ずから然らしめたまうという道理を表しており、迷いの境界と分かれて、さとりを極めるべき正定聚の位につけしめられたことを表しており、金剛のように堅固な信心を得ているすがたを表しています。


現代語訳を載せておきましたが、聖人は一字一字とても細かく説明をされ、「帰命は本願招喚の勅命なり」と結ばれています。「帰命」とは、阿弥陀仏が私達に来いよ来いよと絶えず招き喚び続けておられる本願の仰せだというのです。その仰せ、願力を仰せのままに聞き受けて「報土の真因決定」し、阿弥陀仏に心身共に帰依したこと、また阿弥陀仏一仏、念仏一行を心の拠り所としたことの表明として、親鸞聖人は『正信偈』冒頭に

帰命無量寿如来 南無不可思議光

と仰っています。「親鸞聖人の教えを徹底する」とか言うつもりなら、もっと親鸞聖人の教えをよく勉強し、人にも教えられるようになってからにするべきでしょう。

順番が飛んでしまいましたが、「帰命は本願招喚の勅命なり」の後に聖人は、「南無」のもう一つの意味である「発願回向」について、

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。

と仰せられています。私達が「迷いの世界を離れたい」「清らかな世界へ往生したい」と願いを発す遥か以前に、法蔵菩薩は私達を「迷いの世界にとどめてはおかぬ」「必ず浄土へ迎え取る」と願いを発され、48願を建立して菩薩の行を成就され、ついに阿弥陀仏と成られました。

本来私達が迷いを離れてさとりの世界である浄土へ往生しようとするなら、私達自身が浄土へ生まれたいと願いを発し、相応の修行を積まなければなりません。しかし私達は如実にそのような清らかな願いを発すことも、相応の行を修めることもできないと知られて、阿弥陀仏は本来私達がしなければならない願と行とを成就して、私達に回施、まるまる与えることで助けようとされているのです。その願行が具足して、衆生を必ず往生させるはたらきとしての顕現体が「南無阿弥陀仏」という六字の名号だったのです。

しかも、それを自分の元まで取りに来いと言うのでなしに、ご自身が「南無阿弥陀仏」という声の仏と成られて、この「諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海」である私達の心に飛び込んで下されるというのです。

これが高森会長の説き方だと、阿弥陀仏が横の道を進んで自分の元まで来た者を助ける、また助かるに相応しい行いをしてきた者を助ける、と仰っているかのようです。そうではなく、現在只今、ここにいる、この私めがけて阿弥陀仏は「衆生の行を回施したまふ」ているのです。私は何もやる必要も変わる必要も無く、ただ「願力を聞くによりて報土の真因決定する」のです。それまでに「白道を煩悩と闘って進む」とか、「白道は聞法心」とか言っているのは、全く根拠の無いデタラメです。

帰命」や「南無」の言葉の意味を説けないのなら、「南無阿弥陀仏」のすがたを心得たのを「信心獲得」するというのですから、私達は「南無阿弥陀仏の六字のこころ」が分からず「信心決定」できない、「無明の闇」が破られない、「永久の闇よりすくわれ」ないということになってしまいます。高森会長の話をどれだけ真剣に聞いても「信心決定」も「信心獲得」もできない、「永久の闇よりすくわれ」ないのは当然すぎるほど当然なのです。


さて、『歎異抄』の「念仏者」というのは大行である如来回向の「念仏一行」を称える念仏行者のことです。本来は本願の名号に我々の無明を破り、志願を満たすはたらきがあるのですが、聖人は本願の名号が我々に至り届いて信心となり、それがそのまま現れてきた称名の位で

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。「行文類」破闇満願

と仰せられています。名号はそれを信受した念仏行者の口に称えられても仏の位に属する性質を失わない、正しく浄土に往生する行業だというので「称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり」と言われています。そして念仏の他に阿弥陀仏という仏様は無いんだと、名体不二を表しているのが次の「念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり」であり、南無阿弥陀仏の他に信心は無いんだと、信行不二を表しているのが「南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり」というお言葉です。そういう真宗の根本とも言うべき南無阿弥陀仏の「南無」や、その翻訳語である「帰命」の言葉の意味を説けない者が、法話と称して講演していること自体が気ちがい沙汰なんです。

話を戻しますが、そうした念仏行者は、現生では「不退の位に至ることを獲る」、正定聚の位に入ると言われ、この世の命が尽きたら浄土に往生して仏のさとりを開くのだと、

念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。「信文類」決釈

と示されています。こうした現当二益を教えられたのが浄土真宗です。世俗的な幸福、「相対の幸福」と比較しての「絶対の幸福」の身になると教えられたのではありません。迷いの世界を出離するという、この世の幸福云々といった世俗的なことを超越した上での18願、阿弥陀仏の救いですから、「絶対の幸福」だとかいうこの世の幸福を求めて教えを聞いていても現当二益は獲得できません。まして

念仏者は、どんな幸せになれるのか

と新聞に一面いっぱい使って大々的に広告する割、「念仏者」とはどんな人か、「念仏」とはどういうことか一切話されず、ただ「絶対の幸福」だとかいう親鸞聖人の教えられたことのない幻想的な楽の話を聞いていても、「現当無益」は必至です。会員の皆さんも、広告や勧誘によって初めて参加したという方々も、中身は空っぽ、浄土真宗の仮面を被った一新興宗教の教えを聞かされていることに気付いてもらいたいものです。

恥も外聞も無くデタラメ「二河白道の譬え」を説き続け、会員を騙し続ける高森顕徹会長

昨日は高森顕徹会長の話がありました。今までの二通りとは少し違い、

「大悲の願船に乗せて頂くとはどういうことか」
「そんな絶対の幸福があるとは信じられない」


といった映画を観た人(会員?)の感想に対する話でしたが、

『飛雲』あれだけ醜態を曝しながらいまだに二河白道の譬え話をする厚顔無恥な高森顕徹会長

に挙がっている通り何とも厚顔無恥であり、かつ中途半端なものでした。


まずは「死ぬまで求道」に対して「平生業成」の語を出し、

絶対の幸福は、これで求まったということがある

といつも通りの「創価学会の信心」は欠かさず話します。それから、

平生業成の身、絶対の幸福になるにはどうすればよいのか。その道程、道のりを明らかにされている。

として善導大師の「二河白道の譬え」を紹介し、

白道は聞法心を表している

と相変わらずのデタラメ創作教義を披露。しかし、

どこでどのように大悲の願船に乗せて頂けるのか、絶対の幸福になれるのか

善導大師は明らかにされているそうですが、その説明は途中で終わっています。そういえば、先日の降誕会でも高森会長は「譬如日光覆雲霧」の内、太陽(日光)の説明を「明日命があれば話す」とか言っておいて、結局話したのかどうか・・・。もはや一つの話を時間内に完結する能力も無くなっているのかも知れません。


この記事で紹介したように、親鸞会ではデタラメ「二河白道の譬え」を動画にして公開していますから、信前の

阿弥陀仏に救われるまでの心の道のり
信心獲得するまでの求道の道程を示すため


という主張を変えるつもりは毛頭ないでしょう。しかし、本当の「二河白道の譬え」は、信後の

他力の信心を守護する譬え

です。これは、「二河白道の譬え」を信後の真実信心を顕された「信文類」に引文され、自力信心、つまり信前である「化身土文類」には引文されていないという事実からも分かると思います。

このように、まず譬えたものが何か間違っています。だからその後、何もかもが狂ってくるのです。その上、更に高森会長は話を所々改変しています。信前の求道の譬えとし、話自体を変えることで、会員に

煩悩と闘って求道する
求道してゆこうとすると、必ず煩悩が邪魔になる
白道を進んでゆくと、必ず聞法求道をさまたげるものが出てくる

という邪義を植え付け、また会員の苦しい心情を掌握して「高森先生の仰ることに間違いない」と信じ込ませているのです。間違っても「会員の皆さん一人一人の後生を案じて」といった殊勝な心からしていることではないでしょう。もしそうなら、善導大師が

一句一字加減すべからず。 写さんと欲するものは、もつぱら経法のごとくすべし、知るべし。散善義

と記された『観無量寿経疏』のお言葉を勝手に加減・改変するのは考えられないことです。


さて、高森会長のデタラメ「二河白道の譬え」本当の「二河白道の譬え」では相違点がいくつもありますが、中でも違うのはやはり「白道」についての解釈と、

弥陀の招喚の言葉を、いつ、どのようなタイミングで聞くか

でしょう。「白道」については詳しくは『飛雲』をご覧頂くとしますが、少し言わせてもらいますと、聞法心と譬えるからには当然自力の聞法心、自力の信心です。真実の信心を譬えたという本当の譬えとは全く異なります。

さて、当ブログでは後者について再度扱います。

デタラメ「二河白道の譬え」では、釈迦の発遣の言葉は白道に踏み出す前の此岸で聞きますが、弥陀の招喚の言葉は白道を進んでいき、此岸と彼岸の中間ほどで絶体絶命の状態となった時に聞きます。

それに対して本当の「二河白道の譬え」では、釈迦の発遣と弥陀の招喚の言葉を双方とも此岸で聞きます。話の都合上、釈迦の発遣が先で弥陀の招喚は後に書かれていますが、この二尊のお言葉は同時と考えてよいでしょう。ともかく、白道に踏み出す前、此岸で弥陀の招喚の言葉を聞くのであって、白道を進んでいった先で聞くというのは間違いです。

すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。
この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、(後略)


全文は「信文類」二河白道をご覧下さい。三定死、釈迦の発遣、弥陀の招喚、これらは全て白道に踏み出す前のことで、釈迦弥陀二尊の勅命を聞いて旅人は白道を一歩二歩と踏み出していることが分かります。

これは親鸞会流の、白道が聞法心だとか、譬えが信心獲得するまでの求道の道程を示したものだとかいった邪義を完全否定しています。今、ここにいる、この私に真実の教行信証が回向されている、それを今、ここで、この私一人を招喚したもうと聞くのです。煩悩と闘い、「高森の行」に邁進して、心身疲れ果てた先に聞くのとは違います。それは、

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。(中略)大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。浄土文類聚鈔

のお言葉によっても明らかに知られるでしょう。譬えで阿弥陀仏は「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ」と仰せですが、その「一心正念」とは真実信心による念仏です。「真実信心で念仏しなさい」という弥陀の招喚を白道に踏み出す前に聞くのですから、信心を獲るために煩悩と闘い、「高森の行」を修める必要は皆無です。それどころか「高森の行」は助正間雑、雑行、悪業悪行という雑多な行ですから、そんなものに執心して修めている内は弥陀の招喚を聞いて順うなど有り得ません。

〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。

とあるように、<道の上をまっすぐに西へ向かう>というのは、自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたものですから、「高森の行」など反って邪魔なだけです。ただちに捨てるべきものです。


以下、簡単ではありますが、高森会長のデタラメ「二河白道の譬え」本当の「二河白道の譬え」の相違点を挙げておきます。譬え話を勝手に加減・改変しているのは、会員の皆さんにより判り易くするためとかではなく、「高森の教」を真実と信じ込ませて「高森の行」を効率よくやらせるため、要は高森会長の私利私欲を満たすためです。

会員の皆さんは、原文をよく読んで、双方の違いをよく理解して下さい。そして、ただちに「高森の行」を捨て、「必ず助けるから、安心してまかせなさい」という阿弥陀仏の仰せをそのまま受け容れて念仏して下さい。


(1)二河白道の譬えとは

親鸞聖人 信後の、他力の信心を守護する譬え
――――――――――――――――――――――
高森会長 信前の、絶対の幸福になるまでの道のり


(2)白道とは

親鸞聖人 真実の信心
――――――――――――――――――――――
高森会長 (自力の)聞法心


(3)弥陀の招喚の言葉を、いつ、どのようなタイミングで聞くか

親鸞聖人 白道に踏み出す前、此岸で聞く
――――――――――――――――――――――
高森会長 白道を進んでいった先、此岸と彼岸の中間ほどで聞く


(4)信心を獲るために、煩悩と闘い、「高森の行」を修める必要はあるか

親鸞聖人 無い
――――――――――――――――――――――
高森会長 ある




【参照】
「信文類」二河白道

自力諸善(雑行)を勧めていながら「他力の念仏になりなさい」と話す高森顕徹会長

『飛雲』高森顕徹会長の総括?がこの程度の噴飯話

に挙がっていますが、5月12日、13日は親鸞会の降誕会がありました。

今回は『歎異抄をひらく』の10周年記念と絡んで『歎異抄』の言葉を用いて話がありましたが、ところがと言うか、やはりと言うか、親鸞聖人の教えは聞くことができず、結果的には「絶対の幸福」という創価学会の信心を話して終了した模様です。


1日目は60余年説いてきた「絶対の幸福」が『歎異抄』第7章の「無碍の一道」だと話し、

・碍=煩悩
・無碍=煩悩があってもさわりにならなくなる
・一道=幸福


だとか言って、総括すると

「絶対の幸福」=「煩悩があってもさわりにならない幸福」

といった説明でした。しかし、後の方では

「絶対の幸福」=「死んだらどうなるかがハッキリする」

だと言い、『正信偈』の「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して

・煩悩熾盛、罪悪深重のまま「絶対の幸福」になること
・「闇」は、人生の目的の分からない心、生きる目的の分からない心、死んだらどうなるか分からない心


という説明をし、結局太陽(日光)の話は有ったのか無かったのか、頂いた情報からは分からず終いでした。


2日目は、「念仏者は」について涙の例え話をして念仏する心を説明し、

・お礼の心で称えるのが他力の念仏
・他力の念仏になりなさい


とか話していたようです。この2日間の内容をまとめて言えば、

・煩悩があってもさわりにならない幸福になれますよ

と往還二種の回向を現世利益に貶めた話を説き、

・死んだらどうなるかハッキリしますよ

と親鸞聖人が教えられてもいない我々の上での後生ハッキリ話を説き、

・他力の念仏になりなさい

というものの、どうしたら他力の念仏になるのかよく分からない話をしていた、というものです。

飛雲さんの仰る通り、『歎異抄』を出したのだから念仏と信心について『歎異抄』の言葉で説明せよと言いたいですが、浄土真宗に無知な高森顕徹会長には無理な話なのでした。


さて、「無碍の一道」を「絶対の幸福」だとする邪義は『飛雲』をご覧頂くとして、当ブログでは別の面をツッコんでみたいと思います。まずは『正信偈』の「」についてです。これは直前に「無明闇」とあるように「無明の闇」です。ただし、「無明の闇」とは高森会長が説くような

人生の目的の分からない心、生きる目的の分からない心、死んだらどうなるか分からない心

とか言った心ではありません。また迷いの根元である痴無明でもありません。これは疑無明、つまり

本願疑惑、仏智疑惑、自力疑心

のことです。だから阿弥陀仏の本願が分からなくては話になりません。本願のことを

絶対の幸福にしてみせるという御約束
後生ハッキリしてみせるという御約束

だなんかと信じ込んで聞いていても、それとは全く異なるのですから、その本願に対する疑いが晴れないのは当たり前のことです。会員の皆さんの「無明の闇」が晴れない理由の一つはここにあります。

では親鸞聖人が教えられる阿弥陀仏の本願とは何かと言えば、いつも出しますが

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

ということで、名号を称える者を極楽へ迎えようという誓いです。名号には我々の「無明の闇」を破り、往生の志願を満たして下さるはたらきがある。そうしたはたらきのある名号を、我々に聞かせ与えて下さる誓いであるとそのまま受け容れて称えよということをここでは仰っているのです。これを『歎異抄』第一条では

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

と説かれ、『歎異抄』第二条では

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

と教えられています。「ただ念仏する者を往生させるぞ」という本願を信じて称える、そのまま本願におまかせして称える、その称えようと思うまさにその時に摂取不捨の利益にあずかり、往生が定まるのだというのです。ここで行である「ただ念仏」とはいつも申し上げている通り「念仏一行」ということです。そして信心は

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり

という信心、また

ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

という信心で、要は本願におまかせしたこと、如来回向の「念仏一行」で往生すると心が定まったことです。

ところが高森顕徹会長は、「念仏一行」どころか、(教義上では)助業を勧め、また自力諸善という雑行を勧めています。自力諸善(雑行)を勧めていながら

他力の念仏になりなさい

と話すとは、一体どの口が言っているのでしょうか。「念仏一行」はおろか、念仏よりも

「高森会長の話を聞くこと」
「親鸞会に献金すること」
「親鸞会に人を誘うこと」
「会長や上司の指示に無条件で従うこと」


などの「高森の行」を強烈に推し勧めて、聞く者が「ただ念仏」と心が定まるわけがないのです。これでは、聞く者の本願疑惑、仏智疑惑、自力疑心が晴れるどころか、反って深まるだけです。会員の皆さんの「無明の闇」が晴れない理由の二つ目は、こうした

・本願疑惑、仏智疑惑、自力疑心を増長させる闇の教えを受けているから
・「念仏一行」とはおよそかけ離れた行の実践を勧められているから


ということにあります。

また今回も、高森会長は

煩悩があるままで、煩悩がさわりとならない幸福になれる

という説明を「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」を出して繰り返していましたが、ここで親鸞聖人は、煩悩は往生のさわりとはならない、往生のさまたげとはならない、煩悩によって一度定まった往生が取り消しとはならないことを言われています。煩悩が幸福のさわりとはならない、幸福のさまたげとはならない、煩悩によって幸福が壊されないことを言われたのではありません。『尊号真像銘文』には、

「譬如日月覆雲霧雲霧之下明無闇」といふは、日月の、雲・霧に覆はるれども、闇はれて雲・霧の下あきらかなるがごとく、貪愛・瞋憎の雲・霧に信心は覆はるれども、往生にさはりあるべからずとしるべしとなり。

とありまして、貪愛・瞋憎の雲や霧に信心は覆われていても、往生のさまたげにはならないと知りなさいと教えられています。我々が煩悩のために煩い悩み苦しむことは信前も信後も変わらないのです。それを、

救われたら煩悩があってもさわりとならない、さまたげにならない、煩悩によって壊されない幸福になれる

と現世利益を夢見て、そんな幸福を獲させる本願だと誤解して追い求めていても救われるわけがありません。会員の皆さんの「無明の闇」が晴れない理由の三つ目は、「絶対の幸福」という現世利益に幻惑されて往生を願っていないからです。願っているとしても、「絶対の幸福」のおまけのように思っているからです。


こんな高森会長の与太話を真剣に聞き続けても、獲られたとして「創価学会の信心」です。教えが間違っているのですから、親鸞聖人の教えられる「真実の教行信証」が分かるはずもなければ、大悲回向の行信を獲て如来広大の恩徳を知ることができるはずもありません。今回も信心獲得はかなわなかったという会員さんは、これを機会に自分の聞いている教えが正しい浄土真宗なのか検証するご縁にして頂きたいと思います。



【参照】
『聖典セミナー』「歎異抄」第一条
『聖典セミナー』「歎異抄」第二条
称名破満の釈義

「仏願の生起・本末」を聞きなさいと言いながら、「仏願の生起」しか話さない高森顕徹会長

先日の日曜日は、富山でいつもの2通りの内、

映画『なぜ生きる』の中の蓮如上人のお言葉
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです。」
とは、どんなことでしょうか。


という質問に対して高森顕徹会長の話があったようです。

今回の話を要約すると、高森流「仏願の生起」を『歎異抄』後序のお言葉と「人間の実相」の掛け軸の譬え話で説いたというものです。古参の会員なら耳タコの、特に新しい話題も無い話でした。


今回の話で問題だったのは(今回ばかりではありませんが)、高森会長が「信文類」

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

のお言葉を出して

「仏願の生起・本末」を聞きなさい

と話しておきながら、実際に話したのは「仏願の生起」の部分だけだったということです。

前回の記事で少し「仏願の生起本末」について触れましたが、そこで指摘した通りのことを今回もやっていたのが高森顕徹会長です。違いと言えば、「仏願の生起」の部分を

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき

のお言葉と、人間の実相の掛け軸を用いたオリジナル「仏説譬喩経」の譬え話で話したという点くらいです。それで何をどのように聞くのかと言うと、

「火宅無常の世界に生きている煩悩具足の凡夫」
「これ(掛け軸に描かれている旅人の姿)が自分の本当の姿」
と知らされるところまで聞かせて頂くこと


だと言っていたそうです。


恐らく、高森会長の話を聞き続けてそのように知らされたのを「機の深信」だと思い込んでいる会員ばかりだと思いますが、全くもって的外れも甚だしいです。「二種深信」は「他力の信心」を二種に開いて顕されたものですから、「他力の信心」を獲ないことには「機の深信」もなければ「法の深信」もないことは当たり前の当たり前のことです。では「他力の信心」を獲る、「信心獲得」するとはどういうことかと言えば、

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。『御文章』5帖目5通

とあるように「第十八の願をこころうる」ことであり、それは「南無阿弥陀仏のすがたをこころうる」ことです。ですから「南無阿弥陀仏のすがた」を聞かないことには「信心獲得」もなければ「機の深信」も立たないことは言うまでもありません。「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」の阿弥陀仏の勅命を受けて、仰せの通りおまかせするのが「信心獲得」ということですが、高森会長の話のどこに「南無阿弥陀仏のすがた」が説かれていますか?

阿弥陀仏の勅命を受けて、我が機に用事は無い、計らいは要らないことに疑い無いのが「機の深信」です。私は自力では決して迷いの世界を出られるような者では無かったなと知らされるのです。これは、疑い無く慮り無く仏願力に乗託して往生を得ると決定して深く信じた「法の深信」が必ずその裏にあります。

こうした「南無阿弥陀仏のすがた」を「信文類」では「仏願の生起本末」と言われ、仏願の起こりから法蔵修行、そして南無阿弥陀仏を成就して私達に往生の因を恵み与えて下さるまでの一部始終を聞きなさいと仰せられています。ところが親鸞会ではご存知の通り私達のこと、いわゆる「堕つる機」ということばかりが問題にされ、南無阿弥陀仏のこと、いわゆる「助ける法」は全くと言っていいほど説かれません。「仏願の生起」の話ばかりで「仏願の本末」が無いのです。

助ける法」が無いのに、助かるということがあるはずがありません。薬を与えずに、患者の病気が治るということがありますか? 救助隊を派遣せずに、動けない被災者を助け出すことができますか?

南無阿弥陀仏」は今、現にここにいる私に向かって常にはたらいています。「南無阿弥陀仏」が成就したのは未来の話でも過去の話でもなく、現在只今です。それは他の誰のためでもなく、ここにいるこの私一人のためです。「そなたを救う法が完成しているから、安心してまかせよ」という「南無阿弥陀仏のすがた」を説かずして、どうして聞く者が本願の通りに救われることがあるでしょうか。


「私がどのようなものなのか」という話ばかり聞いていても、「南無阿弥陀仏」を聞いて、本願におまかせすることがなければ私は助かりません。肝心の「助ける法」が抜けた話を何十年聞いていても、私は救われるはずがありません。会員の皆さんには、皆さんの聞き方、求め方以前に「何を聞くのか」を間違って教えられている事を知って頂くと共に、早くエセ真宗教義を捨て去って浄土真宗に帰して頂きたいと思います。



【追記】
ところで、もうご存じの方も多いと思いますが、親鸞会の「仏説譬喩経」の譬え話は経典の話とは随分異なっています。実際に説かれている話との違いは

『親鸞会の邪義を正す』 『仏説譬喩経』には”無常の虎の譬え”は説かれていない

を参照して下さい。「経典の言葉は一字一句加減してはならない」と言いながら、経典の通りに説いていないのが高森顕徹会長です。また譬え話に関連することですが、「二河白道の譬喩」や「長者窮子の譬喩」に関しては親鸞会に都合の良いように経典や聖教の話を変えているということも知って頂きたいと思います。

救われないのは「聞法不足」と会員のせいにし、何十年と聞いて活動しても救われないような教えを説く高森顕徹会長

『飛雲』嘘体験至上主義の与太話を60数年し続けてきた高森顕徹会長

にあるように、日曜日はまたまたいつもの演題

大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わるとは、どう変わるのでしょうか

で高森顕徹会長の話がありました。現在は『歎異抄をひらく』の映画への移行期であることが誰の目にも明らかで、今回は第一条と第九条を出していました。今後は、親鸞会は映画『歎異抄をひらく』が公開になればそれ一色になり、『なぜ生きる2』同様に映画『なぜ生きる』もほとんど見向きもされなくなるでしょう。

第一条については、大悲の願船に乗せられるとは阿弥陀仏の本願(お約束)によって絶対の幸福の身になることであり、阿弥陀仏はどのような者を絶対の幸福に助けるかということから

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと[云々]。

とつなげています。ただ話したのは主に下線部のみで、「死ぬまで罪悪深重で煩悩しかない者、この私を(絶対の幸福の身に)助ける」とか何とか言っていたようです。ここで問題だったのが

罪悪深重の私であったと判るまで聞く。そう思えないのは聞法不足。聞法不足だから判らない。

などと話していた点です。おそらく会員の頭では、

罪悪深重の私であったと判」ったのが機の深信機の深信が立たなければ法の深信も立たず救われない

という理解でしょうから、これをまともに聞けば、「罪悪深重の私であったと判」るためにますます高森会長の話を聞き、因果の道理を聞き、廃悪修善という名の「組織拡大活動」に身を沈める方向へと向かってしまうことでしょう。そんな活動をいくらやったところで二種深信とは無関係な徒事とは知らずに。それが高森会長らの目的なのですが、それにしても何十年と聴聞している講師部員や幹部会員も多くある中で

聞法不足だから判らない。

とは何とも無慈悲な話です。救われないのは「聞法不足」と会員のせいにし、何十年と聞いて活動しても救われないような教えを説いておいて「平生業成」とか「不体失往生」などとはどの口が言っているのでしょうか。

親鸞会教義が染み付いている会員には理解不可能でしょうが、本願に救われるには

念仏にまさるべき善なき」「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき

という念仏一つ、またそのような念仏一つで助けるという本願に疑い無い

信心を要とす

です。「聞法不足」などというのは救われない条件ではありません。法然聖人は

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。『選択本願念仏集』難易義

と仰り、多く聞法した者を助けるという本願ならば、聞法の少ない者は往生の望みを絶たねばならず、しかも多聞の者は少なく少聞の者は甚だ多いと教えられています。親鸞聖人は

修行の久近を論ぜず「信文類」大信嘆徳(四不十四非)

と仰って、修行期間の長い短い、親鸞会で言えば聞法歴活動歴の長い短いが問われるのではないと教えられています。日本の、それこそ何十年と聞いている会員の皆さんが「聞法不足」なら、昨日今日聞き始めた人はどうなってしまうのでしょうか。今まさに臨終という人が聞いたところで「聞法不足」です。到底救われっこありません。ところがなぜか学徒になって2年目の、通訳を通して聞いているブラジルの会員さんなどは救われたことになっています。このことは会員の間では、親鸞会七不思議(笑)の一つに数えられているでしょう。

会員の皆さんは、高森教については「聞法不足」ではありませんが、浄土真宗の教えについては「聞法不足」です。今すぐに高森教を捨て離れ、「南無阿弥陀仏」(必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい)という如来の勅命をそのまま聞き受けて念仏して下さい。彼の仏願に順ずるが故に、仏の本願によるが故に、本願が成就してはたらいて下さっている故に、本願の仰せを疑い無く、そのまま聞き受けて念仏すれば必ず往生を得させて頂けます。往生の安心についてはこれだけです。


さて、大悲の願船に乗るとガラリと変わるという根拠に先日も

与韋提等獲三忍

を用いていましたが、これは詳しくはこちらの記事をご覧頂くとします。当ブログでは、今回高森会長が

0段の煩悩具足の凡夫が51段の身となる

と宣ったことについて触れます。これは本願成就文の

即得往生 住不退転

の説明から出てきたことですが、正定聚の位に入ったことを正定聚の位に入ったことが実感として知らされると勘違いした高森会長の珍説です。正確には伊藤康善師からのパクリなのですが、親鸞聖人は「さとりの52位」に配当して正定聚の位を「51段の身となる」などとは説明されていません。即得往生について聖人は

「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。 一念多念証文

と解釈され、正定聚の左訓に「往生すべき身と定まるなり」と施しておられます。信心獲得のその時に必ず次生往生してさとりを開く身と定まるということで、「51段の身となる」わけではないのです。「51段の身となる」なら、51段の位に達したと判らないはずはありませんから当然自覚はあるでしょうが、それなら七高僧方がどなたも現生正定聚を仰らず、死後に正定聚に入るとしか教えられていないのはどうしてでしょうか。

親鸞会理論でいくと、死後に「51段の身となる」と教えられたのが七高僧方ということになります。現生で「51段の身とな」った自覚の無い七高僧方は異安心になりますが、親鸞聖人はそうは仰っていません。つまり現生で正定聚の位に入るが、それは正定聚の位に入ったことが実感として知らされるとか、「51段の身となる」ということではないということです。あくまで往生すべき身と定まったのを正定聚の位につき定まると言われているのです。このように述べますと、反論として

『正信偈』に「成等覚証大涅槃」とあり、「等覚」=「51段」ではないのか!

とか何とか言われそうですが、親鸞聖人はそうは解釈されていません。このお言葉は『大無量寿経』の異訳である『無量壽如來會』の11願

もし我、成仏せんに、国中有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せざれば、菩提を取らじ。

から出ていると思われますが、先ほど申し上げたように七高僧方は「等正覚を成」ることは死後だと仰せられています。親鸞聖人はこれを現生のことだとされましたが、「等正覚を成」ると言っても51段の位をさとるわけではありません。『尊号真像銘文』正信偈の文には

「成等覚証大涅槃」といふは、「成等覚」といふは正定聚の位なり。この位を龍樹菩薩は「即時入必定」(易行品)とのたまへり、曇鸞和尚は「入正定之数」(論註・上意)とをしへたまへり、これはすなはち弥勒の位とひとしとなり。

と、「等覚」=「正定聚の位」の意味で教えられています。「弥勒の位とひとし」と言われるのも、次の生で仏に成る弥勒菩薩と同様に、念仏の衆生は必ず次の生で仏に成ることが確定しているからです。その点で「ひとし」なのであって、弥勒菩薩と等しいさとりを開くのでも、智慧や徳が具わるのでもありません。第一、51段の位を現生でさとるのなら、煩悩が少しも変わらないというのは有り得ない話です。


高森会長の説は、『歎異抄』で言えば第十五条

煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと

という邪義に近いものがあります。さすがにこの世での成仏は否定していますが、高森会長の説明からは51段の位をさとるかのような印象しか受けません。一段違えば人間と虫けらほど違うと言い、信心獲得した人は51段の高みにいるように教えます。高森会長や講師部員、また熱心な高森教徒の傲慢な態度はここが由来かと思われます。遥か高みから虫けらを見るように一般世間や各真宗宗派、また退会者を見下し蔑んでいるのは、「高森先生は51段の位に達した御方」という痛い勘違いから来ているのでしょう。

対して、阿弥陀仏はごそごそと蠢く虫の類にも「必ず往生させる」と深い慈悲を注いでおられます。言動を近くで見ている方は、「高森先生は51段の位に達した御方」なのかどうかはよくお判りでしょう。また、見ていなくても、飛雲さんからの公開法論の申し込みに6年間も応じないこと一つ取ってもその真偽は明らかです。

会員の皆さんは、阿弥陀仏の御心とはおよそ縁の無い高森顕徹会長、また親鸞会に見切りをつけ、早く浄土真宗に帰依して、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。


【参照】
『WikiArc』正定聚
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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