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親鸞聖人が問題にもされていないことを問題にし、親鸞聖人がされてもいない本願の説明をして、真宗を捻じ曲げ独自の高森教を説いている高森顕徹会長

90歳を過ぎても精力的に活動を続ける高森会長は、先日の降誕会に引き続いて座談会をしています。ただ、

『飛雲』高齢者による事故が問題になっていますが、高森顕徹会長の話も重大な事故です

に挙がっているように内容はひどいもので、暴走し、誰も止めることができず、手の施しようもありません。

一応演題について紹介しますと、今回もいつもの

映画『なぜ生きる』の質問
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか。


でした。これで話をするのもあと少しでしょう。今後は映画『歎異抄をひらく』の質問に答える形式の座談会に取って代わられることは容易に想像できます。


それにしても、『飛雲』に紹介されている高森会長の以下の迷言

・阿弥陀仏の本願は、「死んだらどうなるか判らぬ心を無くす」お約束
・苦しみの根源が、「死んだらどうなるか判らぬ心」
・日々煩悩で苦しんでいるが、それは葉や花のことで、苦しみの根幹でない


等は完全に事故です。浄土真宗はおろか、仏教でも何でもない、ただの高森教です。

この記事でも触れましたが、善知識方は「死んだらどうなるか」を明確に教えられています。例えば『往生要集』には地獄界から天上界までの苦悩の相が書かれていますが、その内三悪道に堕する因について詳しく教えられています。まず等活地獄に堕ちる者は

殺生せるもの、このなかに堕つ。

と仰せられ、更に細かく分類して「昔、鹿を殺し鳥を殺せるもの」は屎泥処というところに堕ち、「昔、物を貪りて殺生せるもの」は刀輪処というところに堕ちる等と詳しく書かれています。続いて黒縄地獄、衆合地獄と順々に説かれ、阿鼻地獄という欲界の最底の処に堕ちる者は

五逆罪を造り、因果を撥無し、大乗を誹謗し、四重を犯して、虚しく信施を食らへるもの

であるとその因を明らかにされています。ちなみに餓鬼界は「慳貪と嫉妬のもの」が堕ち、畜生界は「愚痴・無慚にしていたづらに信施を受けて、他の物を償はざるもの」がその報いを受けると教えられています。貪瞋痴の三毒の煩悩は、まさしく三悪道に堕する因であるということです。煩悩は「葉や花のことで、苦しみの根幹でない」などという説示はありません。勿論親鸞聖人の教えにもそんな珍説は存在しません。

一方で、善趣に属する人間界は

それ人間界の生を受くることは、まことに五戒をたもてる功力によりてなり。『御文章』2帖目7通

とあるように五戒を守ったことにより得られる果報であり、天上界は更に加えて十善業を行った結果として享受する楽なる果報です。修羅界は少し調べてみましたが、真宗系ではヒットしませんでした。『摩訶止観』では、

もし、その心、念念に常に彼に勝れんことを欲し、人に下るに耐えず、他を軽んじて己れを珍むこと鴟の高く飛びて下し視るがごとく、しかも外は仁義礼智信を揚げ、下品の善心を起すは、阿修羅道を行ずるなり。

【現代語訳】
また、他人より、なんとかして勝ちたいと願って、人に負けることを嫌い、とんびが高い空の上から下界を見下ろすように自分を高くし、他人を軽べつする。しかも外面は五綱と尊ばれている仁義礼智信を堅く守る賢人のように見せかける。これは、阿修羅の道を行じているのである。

と説明しています。仁義礼智信という善行を修めてはいるが、内心は勝他の執着心が強く、下品の善心であるような者は修羅界の報いを受けるというのです。

尤も、よく修羅界を省略して五道、五悪趣などと説かれるので、そこまで修羅界について詳しく知る必要はないでしょう。私達にとって大事なのは報土の因です。これを知ることが大事です。


このように、仏教では「こういう因を造ればこういう世界に生まれる」と死後の因果が詳しく教えられています。そのような仏説をまことと信ずることは仏法者にとって当然のことです。ですから、親鸞聖人は

死んだらどうなるか判らぬ心

など問題にしていないのです。自力疑情無明の闇についてそんな説明も、それに近い説明もありません。

そして、我々は際限なく流転輪廻して苦悩から離れられないことを知り、穢土を厭い離れて浄土を欣い求めること、これが浄土教の出発点です。ところが、親鸞会の出発点は『親鸞学徒信条』にあるように

一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます。

ですから浄土教でも何でもありません。ですので、親鸞聖人の教えを聞くきっかけにはなるかも知れませんが、仏教の目的である成仏、浄土教の目的である浄土往生(そして成仏)を果たすには場違いです。

その証拠に高森会長は話の中で

「死んだらどうなるか判らぬ心」を「無明の闇」とも言われる。阿弥陀仏はその闇を破り、「至心信楽 欲生我国 乃至十念」にしてみせると約束されている。
これは「信楽にして念仏を称えさせよう」ということ。絶対の幸福にしてお礼の念仏も称えさせるということ。


などと言っていたようですが、これによって親鸞聖人が問題にもされていないことを問題にし、親鸞聖人がされてもいない本願の説明をして、真宗を捻じ曲げ独自の高森教を説いていることが分かります。

18願は「信楽を獲た人を浄土に生まれさせる願」であって「信楽を獲た人を信楽に生まれさせる願」ではありませんし、「信楽」は本願に対して疑蓋間雑なき心相であって「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽ではありませんし、念仏は本願の行であり本願招喚の勅命であって単なる信後のお礼でもありません。


「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。『一念多念証文』

と聖人は仰せですが、こんなにも間違った「本願」「如来の御ちかひ」を聞いていて、それに「疑ふこころなき」状態になれると思いますか? 会員の皆さんはよく考えて頂きたいと思います。
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救われるのに「努力が要る、頑張る必要がある」かのように教えて「自力」を勧める高森顕徹会長と、「自力をすてて」と言われながら「自力に励んで」いる親鸞会会員

今年の親鸞会の降誕会も、当然と言えば当然ですが邪義満載の高森教に終わりました。


はじめに、頂いた情報によると高森会長は初日、「自力」の説明において

世間一般で「自力」とは「自分だけの力」のことで、「自力で努力しなさい、頑張りなさい」と使っている。
「自力」を努力とか、自分だけの力と思っている人が教えをどんなに聞いてもわからない。
救われるのに努力は要らないとか頑張る必要はないと思っていたら、全く教えが分からない。無碍の一道に出られない。


などと話していたそうです。ということは、裏を返せば教えが分かっている人というのは

救われる(無碍の一道に出る)には「努力が要る、頑張る必要がある」と思っている

というわけです。高森会長としては、会員には組織拡大要員として人やお金を集めてもらわなければ困りますから当然ですが、そうやって救われるのに「努力が要る、頑張る必要がある」という思いこそ「自力」であることに会員の皆さんはまだ気づかないでしょうか? その「自力」のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来に後生おまかせしたのを「他力に帰する」というのですが、昨日紹介したように

親鸞聖人の仰る自力とは、死んだらどうなるか判らない心

というような頓珍漢な説明を真受けにしていたら一生分からないでしょう。

我々は、救われるのに努力や頑張る必要は一切ありません。ただ如来の回向を受け容れるだけです。会員はこれを無力(むりき)とか観念の遊戯としか思えないでしょうが、これが「自力をすてて他力に帰する」です。


次に、ちょっと細かいですが

「他力」は、自分以外の力を世間では「他力」と言っているが、親鸞聖人の教えていかれた浄土真宗で「他」は「阿弥陀仏」のことであり「他力」とは「阿弥陀仏のお力」

という説明には異議があります。

他力」とは正確には「利他力」ということで、仏の救済活動を仏の側から明らかにした語です。他を利益する力、それを「他力」というのです。この場合の他は、阿弥陀仏から見て他である私達のことですから、「他力」の「他」は「私達衆生」のことであるとするのが『浄土論註』の引文から見て親しい解釈であると思います。

問うていはく、なんの因縁ありてか〈速得成就阿耨多羅三藐三菩提〉といへるやと。

答へていはく、『論』(浄土論)に〈五門の行を修してもつて自利利他成就したまへるがゆゑに〉といへり。

しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。およそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに。
「行文類」覈求其本釈

親鸞聖人は「行文類」において「他力といふは如来の本願力なり」とだけ仰って、後は『浄土論註』と元照律師の『観経義疏』の引文のみです。「他」は何かという具体的な説明がありません。それで『浄土論註』を紐解いてみますと、以上のように解釈することができます。ただ、コメント欄にあるように、「他力」の「他」を阿弥陀仏だと説明する方やそのような文献もありますので、記事内容を修正しました。

この「利他」とか、あるいは「他利」ということをきちんと知らないと、念仏往生と信心正因、また念仏往生と平生業成とは違ったことのように聞こえるかも知れませんのでここで取り上げておきます。


そして極めつけは、『飛雲』18願文さえもまともに理解できない高森顕徹会長とその信者達にあるように

どんな人も煩悩を持ったまま、「信楽」にしてみせると約束されているのが阿弥陀仏の本願。
本願によって「信楽」の身になれる。「信」は「大安心」、「楽」は大満足。別の言葉で「破闇満願」。


という従来の教義の復活でしょう。これらの教えから、会員は救われると「死んだらどうなるか判らない心」がすたって「死んだらどうなるかハッキリ判った心」になる、大安心大満足の「絶対の幸福」になるといった間違った本願を信じることになります。そして、その世界に憧れて、一方無常や罪悪にせめたてられて、より一層の組織拡大活動を余儀なくされていくでしょう。それこそ高森会長や一部幹部の思う壺だということを知らず、無知とは恐ろしいものです。それでいて、「高森センセーありがとうございましたー!」なんていう狂信者の弁論を聞いて喜んでいるのですから、どこまでも哀れ哀れです。


このようにして、過去と似たようなことを同じように話して終わった平成最後の親鸞会の降誕会でした。別に同じ話をしてもいいんです。似たような話をしてもいいんです。それが「真実誠満」の話なら。しかし、中身は空虚でうそいつわりの、言葉だけ真宗用語を使って人を組織拡大活動に駆り立てるだけの邪義であり、それを垂れ流し続け、聞く者を騙し続けているから批判せずにいられないんです。

浄土真宗の教え、親鸞聖人が教えていかれたことは、「自力をすてて他力に帰する」一つ

とか何とか言っていたようですが、どうですか、会員の皆さん。「自力をすてて他力に帰する」ということがどういうことか分かりましたか? そして、「自力をすてて他力に帰する」ことができましたか? 

皆さんが信心獲得のため、救いに近づくだろうと思って日々やっている様々な活動、努力、頑張り、それこそが「雑行雑修」であり「自力」なんですよ? 「自力をすてて」と言われながら「自力に励んで」いるのが、偽らざる親鸞会会員の実態です。

私達が如何様に努力しようと頑張ろうと、後生の解決、報土往生には何の役にも立ちません。それで阿弥陀仏は果てしなく流転輪廻を繰り返して苦悩の絶えない私達衆生を哀れに思召して、気の遠くなる長期間においてご修行されていた時、片時も清浄真実の心を失わず、私達を救うことに少しの疑いもなく、私達に回向することを第一として、あらゆる功徳がまどかに具わって衆生の煩悩を問題とせずに救いたもう、思い計ることも、讃え尽くすことも、説き尽くすこともできない至上の尊号、すなわち南無阿弥陀仏を成就されたのです。

この南無阿弥陀仏の名号は、これを頂いて称える者の身に速やかに往生成仏の因を満足せしめるはたらきがあります。そして我々を救いたい、救いたいという如来の大悲心そのものです。ですから、南無阿弥陀仏とは、「助けるぞ」「我にまかせよ」と久遠劫来喚び続けておられる本願の仰せなのです。この大悲やるせない仏心をそのまま聞き受けて、計らいを離れて後生、往生を仏にまかせたのが「自力をすてて他力に帰する」ということです。私達が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称えているままが、如来招喚の勅命に呼び覚まされて、本願をまことと受け容れて浄土に向かう人生を歩んでいるすがたなのです。

如来の大悲回向をそのまま受け容れる以外に、後生助かる道は二つも三つもありません。どうぞ、そのように本願の名号を聞き受け、疑いなく信受してお念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『WikiArc』他力

やはり「もつぱら自力をすてて他力に帰する」についてきちんと説明しない高森顕徹会長

『飛雲』基本的な言葉である「自力」さえ親鸞聖人の定義とは、無関係の高森顕徹会長

に紹介されていますが、やはり高森会長は「もつぱら自力をすてて他力に帰する」についてきちんと説明しなかったようです。特に「自力」については、

親鸞聖人の仰る自力とは、死んだらどうなるか判らない心

というものでした。これについては一応予想済みでした。「自力」を「無明の闇」と言い換えて、「無明の闇」とは「後生暗い心」だと説明するのは高森会長の常套手段ですから。


それにしても、「死んだらどうなるか判らない心」をすてるとはどういうことでしょうか? また、その心がすたったらどうなるんでしょうか? 「死んだらどうなるかハッキリ判った心」になるとでも言うのでしょうか?

このようなことですから、おかしな高森教徒が「信心決定したら後生ハッキリする」という珍説を真受けにして、二種深信と絡めて機の深信から言えば「地獄一定」だが法の深信から言えば「極楽一定」だとか、まるで二つの後生が露塵の疑いもなくハッキリ知らされるかのように妄想しているのです。

度々出す御文ですが、信心決定して阿弥陀仏に救い摂られても、我々の側からは後生はハッキリしません。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
(『執持鈔』)

これについて飛雲さんの説明を引用すると

阿弥陀仏に救われたならば、死後のことが判るのかということについて、

•往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
•われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
•故聖人の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」
•故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなり


等々、死後のことをはからうべきではない、つまり凡夫にははっきり判らないということです。

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

自力を捨てて他力に帰すとは、すべて阿弥陀仏におまかせであり、阿弥陀仏の御心を正しく伝えて下された師と同じところへ往く、いうことです。極楽往き間違いなしと、はっきりするのではなく、阿弥陀仏にすべておまかせしたことがはっきりするのです。だから、阿弥陀仏の本願、そして本願を説かれた師の教えられている通り、極楽往き間違いなし、となるです。

阿弥陀仏、地獄、極楽、死んだらどこへ往くのかが、判るということではありません。


ということです。私なりにまとめますと、

・後生どのような所へ生まれるかを含めて全て阿弥陀仏におまかせしたのが他力の信心。
・浄土へ参るのか、地獄へ堕ちるのか、我々の側からはハッキリ判らない。
・たとえ地獄だろうと法然聖人や親鸞聖人と同じ所へ生まれると心得る。
・自力の行では出離はかなわず悪道に堕するよりないのだから、念仏して地獄へ堕ちても後悔ない。
・阿弥陀仏の仰せ、そして本願を説かれた師の仰せを疑いなく受け容れているから、阿弥陀仏のお計らいにまかせて死後は浄土往生する。


ということです。これが「もつぱら自力をすてて他力に帰する」という「真宗の極致」なのですが、高森会長にはそんな説明をする気は更々ないでしょう。せいぜい

・「他力に帰する」とは、阿弥陀仏の本願の大船に乗ったことだ
・阿弥陀仏に救い摂られると、一息切れたら極楽参り間違いなしとハッキリする


等と説明するのが関の山ではないでしょうか。そして、「聴聞に極まる」で続けて聞いて下さいで終了でしょう。こんな真宗もどきでゴールも決勝点も卒業もあるようでない話を聞いて満足しているとしたら、その人は完全な高森教徒です。


今日も10時20分より12時まで、途中20分休憩を挟んだ「高森先生座談会」があるそうですが、そこでもし

阿弥陀仏に救い摂られると、一息切れたら極楽参り間違いなしとハッキリする

などといつものように教えていたら、真宗教義を何も知らん高森教だなと笑い飛ばしてあげましょう。



【参照】
『飛雲』浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

「地獄脅し」と自力の命がけの求道を勧めるばかりで、聞くべき「阿弥陀仏の本願」も「仏の御名」も説かずに浄土三部経以外のお経もどきの話をし続ける高森顕徹会長

昨日の高森顕徹会長の講演は、毎度おなじみの

映画『なぜ生きる』の質問
「『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」
とは、どんなことでしょうか。」


について話すというものでした。その内容は

この大宇宙が火の海になっても、そこをくぐり抜けて聞け

と、これまたいつもの根拠を出して話してからの、『仏説譬喩経』とは異なる「オカシナ話」を出して「地獄脅し」をする、というものだったようです。『仏説譬喩経』とは異なる「オカシナ話」をするのは今年はや3回目です。

たいがい、こうした自力の命がけの求道と死後の「地獄脅し」を繰り返す時というのはお布施を募る時が多いのですが、映画『歎異抄をひらく』に関してのお布施が不十分なのか、それとも他に新たな名目で募財を始めたのか。とにかく、親鸞会の台所事情を垣間見ることができます。


さて、名目上「後生の一大事を助かろうとして」いる会員ですが、どうも「五雑行」には敏感な割に、読誦雑行のような行為を繰り返していることには気づいていない様子です。彼らの定義では、読誦雑行とは

後生の一大事を助かろうとして、浄土三部経以外のお経を読む行為

としていますが、浄土三部経以外の『仏説譬喩経』の話を聞くという行為を彼らはどう思っているのでしょうか。また、浄土三部経の内容とは言い難い映画のシナリオブックを読む行為を彼らはどう思っているのでしょうか。

ちなみに親鸞聖人は、本物の「黒白二鼠の譬え」さえもご依用になっていません。まして況や『仏説譬喩経』とは異なる「オカシナ話」をやです。そのような外道の偽の「黒白二鼠の譬え」と、死後の「地獄脅し」の話を聞き続けるばかりで、聞くべき

阿弥陀仏の本願
仏の御名


とは何かを聞いて信受しなければ、「後生の一大事の解決」もへったくれもありません。信心決定報土往生とは真実信心の念仏の行者の話で、会員のように浄土三部経以外のお経の話を聞いて喜んでいる偽の仏弟子とは無関係なのです。

わたくしにいはく、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量せよ。『選択集』純雑対

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。「化身土文類」雑行釈

会員は、真剣に聞く聞かない以前に、聞いている内容を確かめた方がいいです。


阿弥陀仏の本願とは、久遠劫より迷いの世界を流転して苦悩から離れられないこの私を必ず浄土へ迎えて仏にするという、世を超えた法蔵菩薩の因位の誓い、願いです。

我を信じる者を絶対の幸福に救う
光明輝く生活のできるようにしてやろう

などというご利益、現世利益を誓われたものではありません。

仏の御名とはその願成就して

我が真実なる誓願を疑いなく信じ、お念仏を申して浄土に生まれてきてくれよ
必ず浄土へ迎えるから、安心してまかせなさい

と喚ばせたもう、果位の阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)のことです。この阿弥陀さまの御計らいに対して、我々の小賢しい詮索や先入観をまじえずに、本願の仰せを仰せのままに聞き、仰せのままに受け容れることを「仏の御名をきく」というのです。高森教の様々な邪義を聞くことを「仏の御名をきく」とは言いません。


地獄脅し」と自力の命がけの求道を勧めるばかりで、聞くべき「阿弥陀仏の本願」も「仏の御名」も説かずに浄土三部経以外のお経もどきの話をし続ける高森顕徹会長からいくら話を聞いていても何の所詮もありません。高森教しか知らずに付き従うしか能がない信者は、どこまでも哀れ哀れです。



【参照】
「いつもの根拠」 ⇒ 『当ブログ』雨風雪はもののかずかは
自力の命がけの求道」 ⇒ 「飛雲」自力の聞しか知らない高森顕徹会長と会員の関係は、善鸞と善鸞の言うことを信じて親鸞聖人の元に行く気のない同行

聞くべきことが何かも知らない青年婦人学生諸君と、地獄脅しを復活させた高森顕徹会長

昨日の親鸞会の行事は、「青年婦人学生大会」という名目で

お釈迦様の「人間の実相」の譬えとはどんな譬えでしょうか

という質問に答える形式の、高森顕徹会長の座談会でした。内容の一部は既に

『飛雲』本日も「オカシナ話」をし続ける高森顕徹会長

に紹介されています。聞くべきことが何かも知らない青年婦人学生諸君はこんなことを質問し、高森会長創作の「人間の実相」の話を一日かけて聞いて、またしても時間と労力と金銭を無駄にしたというわけです。

それにしても、今まで何十回と聞いてきて、人にも話せる位に覚えているであろうことを今更また聞きたいかと不思議でなりません。これも、「人間の実相」が分からなければ「(地獄必定の)後生の一大事」が分からない、「(地獄必定の)後生の一大事」に驚き立たなければ横の線の軌道にも乗らない、横の線の軌道に乗らなければその道を進んで救われるということはない、と信じ込んでいるからでしょう。そして、より深く理解しなければ、より真剣に活動しなければと、その教えと活動にハマってゆくのが哀れ親鸞会の会員です。これこそカルトの思う壺ですが、それに気づくのはいつになることやら・・・


さて、飛雲さんもご指摘の通り、『仏説譬喩経』には無い「深海」について

底なしの海を地獄に譬えられた

と言って地獄脅しを復活させたようです。その後、地獄は自分が造り出すものだとしていつもの歌

火の車 造る大工は なけれども 己が造りて 己が乗りゆく

が出てきました。この歌は作者未詳となっておりますが、一説によると一休禅師の歌だそうです。

『真宗興正派 本山興正寺』今月の法話
『遇法のよろこび』遇法のよろこび(その七) s.63.4.1
『こころはコロコロ日録』畳の表替え

他にも一休禅師の歌として紹介しているサイトは多数あります。参考までに。


それで、その地獄を「親鸞身をもって知らされた」として出したのが『歎異抄』第二章

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

でした。5月公開の映画を意識して、『歎異抄』を絡めてきています。

会員の多くは、このように知らされたのを機の深信だと思い、そう知らされよう知らされようと思って教えと活動にのめり込んでいくのだと思われます。私もそうでした。真剣必死の求道の果てに地獄一定の苦しい体験をし、地獄の釜底に叩き堕とされた時、阿弥陀仏の呼び声が五臓六腑を貫いて救われるというような、いわゆる「救済の予定概念」を描いていたからです。高森会長の著書は

高森の教行信証(信編) - 二種深信の誤った認識、救済の予定概念、信心決定病

にて紹介したようにそのように思わせる書き方で一貫しています。また、『世界の光 親鸞聖人』の親鸞聖人の獲信シーンも、韋提希の獲信シーンも、深い苦悩に堕ちてからの救済という体で描かれていますから、視覚的にもそういう概念を植え付けられているのです。

まず己は地獄一定の極悪人だと知らされなければならない。これが機の深信で、そう知らされたと同時に法の深信が立つ。信心決定とは真実の自己が知らされた体験で、それには本当の自分とは何かを知らなければならない。だから、「人間の実相」の譬え話を真剣に聞いて、藤蔓にぶら下がって蜜を求め、今にも地獄に堕ちようとしている自分に気づかなければならない。そうしなければ求道の出発点にも立てない。

こんな思考回路の会員ばかりかと思いますが、これは甚だしい誤解です。一昨日の記事にも書いた通りですが、今回は『飛雲』なんちゃって二種深信を妄信する高森顕徹会長と愉快な仲間達より引用します。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
高森会長最大の駄作である『なぜ生きる2』に二種深信の説明があります。

地獄より行き場のない身だと疑い晴れ、いつ死んでも浄土往生間違いなし、と疑い晴れているからだ。大悲の願船に乗ずると、何人も、この二つのことに疑い晴れる。
これを「二種深信」という。


大沼法竜師の二種深信の説明を劣化コピーしたものです。
高森会長は、二種深信の基礎を知らないのです。

二種深信を最初に取り上げられたのは存覚上人です。存覚上人は、蓮如上人が釈迦の化身・勢至菩薩の化身とまで絶賛され、存覚上人の解釈をそのまま受け入れよとまで蓮如上人は仰っています。
その存覚上人が『教行信証』を解説された『六要鈔』に、二種深信についてこのようにあります。

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

機の深信については、「正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず」「聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて」とあります。地獄とかそんな内容のことは一切ありません。
善ができてもできなくても関係なく、自分の行いによる功徳では、出離できないことを知ることです。
「善をしなくても助かる」という退会者に対しての反論として高森会長が指導したのが、

「では悪をすれば助かるのですか」と言えばよい

でした。善をしないなら悪をする、という発想が機の深信に無知な証拠です。善をすることも、悪をすることも共に、「自力の功」です。この一点だけでも、高森会長が機の深信を体得していないと言えます。
存覚上人の解説をもう少し詳しく見ると、「聖道の諸教」と比較されています。

つまり、機の深信とは元々、聖道門では出離できないという内容なのです。それは善導大師の告白を読むとよく判ります。

『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、 無始よりこのかた、 他のものと同時に、 発願し、 悪を断ち、 菩薩の道を行じたのに、 他のものはことごとく身命を惜しまず、 修行して位を進め、 因が円満し、 果が成就して、 聖者の位を証した。その数は、 大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、 われら凡夫は過去より今日に至るまで、 いたずらに流転して、 煩悩の悪障が次第にますます多くなり、 福徳智慧のきわめて少ないことは、 重昏をもって明鏡に望むがようである。 今このことを考えると、 どうして心驚き悲しまずにおられようか。

聖道門では出離できないのではなく、身命を惜しまずに修行した多くの法友が出離していった中で、自分は落ちこぼれの凡夫だから出離することができないのだ、との告白です。

地獄より行き場のない身」だなんていう低レベルの話かどうかは、聖教をちょっとでも読んだら判る話です。

法の深信についての存覚上人の解説は簡潔で、「出離は偏に他力に在ることを明かす」「偏に仏力に帰す」です。聖道門に代表される「自力の功」では出離できないが、阿弥陀仏の18願によって出離することができる、と深く信じたことを法の深信というのです。
いつ死んでも浄土往生間違いなし」ではなく、浄土往生の道は「他力」「仏力」だと深く信じたことです。

地獄が判るわけでもなく、浄土が判るのでもないです。あくまで出離の手段、浄土往生の手段が自力ではなく他力と判ったことを二種深信というのです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

これが二種深信の意味です。問題なのは、二種深信がどうやって立つのか、立つのはいつかということです。それについて教えられているのが二河白道の譬えです。今は簡単に言いますと、二種深信が立つのは自分の力ではなく、東の岸で釈迦の発遣と弥陀の招喚とを聞き、その仰せに信順することによってです。仰せに順い、旅人が「白道を進んでいこう」と心が定まった時が二種深信が立った時です。それは煩悩と闘って白道を進んでからではなく東の岸にいる時ですから、求道していった先の未来ではなく只今です。

自力の命がけの求道、親鸞会の組織拡大活動をしていって立つものではありません。「偏に仏力に帰」したのが二種深信であり、それはただ「弥陀をたのむ」ということです。今回、高森会長は

蓮如上人は「弥陀をたのめ」と言われた。これは「願船に乗せてもらいなさい」ということ。
「たのむ」とはお願いではない。まかせるということ。


と珍しくまともなことをチラッと話していました。この部分だけは正しいです。ところが、今まで聞いてきたことが邪魔をして、会員の皆さんは「まかせるまでは求道していかなければならない」と固く思い込んでいるでしょう。そうではなく、只今、南無阿弥陀仏の六字のいわれ、「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」の仰せを聞いて、その通り、只今往生を阿弥陀仏におまかせするのです。他には何も要りません。これだけです。これが他力の信心を獲た念仏の行者です。これを『歎異抄』では

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(第一章)

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(第二章)

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(第三章)

等と言われているのです。これが長い求道の果てのことだと考えているのと、高森会長が専修念仏の否定を説いていること、及び他力信心の体である南無阿弥陀仏の六字のこころを説かないのとで、会員は何も判らず獲信・往生とは無関係な組織拡大活動に振り回されているのです。


親鸞会にいる限り、邪義を聞き続けるためどうしても救われるのは求道していった先、宿善が厚くなった未来、横の道を進んで縦の線まで辿り着いた時であって今ではないとしか思えないと思います。加えて、雑行や雑行もどきの悪業悪行の実践を余儀なくされ、念仏一行などと言おうものなら揃って「信仰の幼稚園だ」などと非難されることは想像に難くありません。そして、「聞く一つ」といっても聞くべきことが説かれていないので、信心も安心もないまま後生に対して不安な日々を送らなければならないのは今まででよくお判りかと思います。

藤蔓が切れるまで、猶予はないかも知れません。8年前の今日の出来事を、一体誰が予想できたでしょうか? 親鸞会の教えで今宵の後生に間に合うか、会員の皆さんはよく考えて頂きたいと思います。

往生成仏の近道である「念仏」を直ちに説き与えず、「三願転入の教え」だとか言って方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えをかれこれ何十年と説き続けてきた高森顕徹会長

昨日の高森顕徹会長の話は、また元に戻って映画『なぜ生きる』の質問

『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか。

に答えるというものでした。内容の一部は既に

『飛雲』高森顕徹会長の70年の布教を根底から覆す「念仏のみぞまことにておわします」

に紹介されています。今回の話の中で

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします
親鸞聖人は、これ一つ生涯説かれた


ということについて、「念仏成仏これ真宗」の聖語を軸に飛雲さんはツッコまれていますので、当ブログでは別の視点からツッコミを入れていきたいと思います。


先週の「オカシナ話」を繰り返した後、高森会長は親鸞聖人の比叡山時代の話から、

親鸞聖人は法然上人から大悲の願船、阿弥陀仏の本願を教えて頂き、29歳の時に乗られた。その時の喜びを教行信証に、

噫、弘誓の強縁は多生にも値いがたく、真実の浄信は億劫にも獲がたし」(総序)

と仰っている。大悲の願船に乗せて頂いたことを「値」という字で表現された


と話したようです。親鸞会では、特に『教学聖典』を覚えている人は「総序」のお言葉自体はほとんど暗記していると思いますが、やはり肝心なところが抜けているために聖人が何を勧められたかを知らない人ばかりです。抜けているのは、

しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。

穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。


【現代語訳】
 こういうわけですから、浄土真宗は、下劣な凡夫も行いやすい真実の教法であり、どのような愚かなものも易く、しかも速やかに往生することのできる成仏の近道です。釈尊がその一代に説かれたさまざまな教えのなかで、この海のような広大無辺な徳をもつ本願の教法に勝るものはありません。

 煩悩に汚れた穢土を厭い、清らかな涅槃の浄土を願いながら、自力のはからいをまじえて本願を疑うから、歩むべき行道に迷い、まことの信心の何たるかを知らずに惑い続け、心は迷妄に閉ざされて暗く、さとらねばならない大切な事柄についてはあまりにも無知であり、しかも身に具えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ浄土往生を勧めたまう釈迦如来の発遣を仰ぎ信じ、最も勝れたさとりへの道である本願に帰依して、如来よりたまわったこの行にひたすら奉え、ひとえにこの信心を崇めなさい。


の部分です。ただ、これは何を言われたものか、高森会長と愉快な仲間達は意味不明でしょうから少々説明を加えていきます。

親鸞聖人は「総序」にてまず、阿弥陀仏の本願は果てしない生死の迷いの海を渡り、万人をさとりの世界に至らしめる大きな船のようであり、阿弥陀仏の不可思議の光明は無明の闇を破って人々が本当の心の拠り所となるような真実の明るさをもたらす、太陽のように輝く智慧の徳そのものだと讃えています。それから王舎城の悲劇についてご自身の領解を述べられた後、

ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。

【現代語訳】
それゆえ自他不二、生死一如とさとりきわめた阿弥陀仏の無上の徳を円かに具えている名号は、人びとの煩悩悪業をそのままさとりの徳にかえていく智慧のはたらきをもっており、阿弥陀仏よりたまわった金剛堅固の信心は、私たちの疑いを除いて、さとりを完成させるはたらきをもつ真理そのものであることがわかります。

と、如来回向の大行と大信を讃嘆されます。全ての人々を浄土に迎えて救うという本願は十劫の昔に既に成就して、「円融至徳の嘉号」と呼ばれるような南無阿弥陀仏の名号となって私達に届いています。その名号を計らい無く受け容れて(大信)称える(大行)念仏の行者にならせて頂いたことに深い感動を込めて

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。

と聖人は仰っています。「行信」とは真実の行である「念仏」と、それを疑いなく聞き受けている信楽(真実の信)のことです。この真実の教えほど易く、しかも速やかに往生することのできる成仏の近道は無いということで、

凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径

と言われています。「念仏」は阿弥陀仏が本願において一切の諸善万行を選び捨て、ただ一つ選び択られた浄土往生の正しき行業ですから、これを頂いて称える行者の身に速やかに往生成仏の因を満足せしめ、この世を終えると同時に利他円満の妙位、無上涅槃の極果をさとらせるはたらきがあるのです。ですから

凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径

とは具体的には「念仏」のことです。

ところで「捷径」とは「近道」ということです。これ以上無い往生成仏の近道が「念仏」であるというのです。ということは、「近道」でない道、さとりへの「遠回りの道」があるのです。それを聖人は「」という字で顕されています。これは「迂回」とも言うように「遠回り」「回り道」ということです。ではどのような教えがそうかと言えば、

竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。(中略)また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。「信文類」横超釈

とあるように聖道門内の「竪出」と浄土門内の「横出」の教えです。「竪出」は私達に関係しませんので省きますが、問題は「横出」です。「横出」は浄土門内の自力の教えであり、それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えだというのです。それは具体的には19願、20願に顕されているような自力諸善、自力念仏を修めて往生しようという教えです。

もうお気づきの通り、高森会長は往生成仏の近道である「念仏」を直ちに説き与えず、「三願転入の教え」だとか言って方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えをかれこれ何十年と説き続けてきたわけです。「遠回り」「回り道」の教えですから、それをまともに信じて聞いている会員が信心を獲て念仏するようになるわけがありません。もう皆さんは、いくら高森教で頑張っても晴れたも曇ったも判らない理由が判りましたね。


親鸞聖人のお勧めは、上に挙げた「総序」の文からお分かりのように

ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ

つまり、往生極楽のためには一切の諸善を捨てて、念仏一行を一心に修せよでした。これは法然聖人の仰せであるとして、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

『歎異抄』にはこう仰ったと書かれており、これこそまことの教えであると

ただ念仏のみぞまことにておはします

と言い切っていかれたのが親鸞聖人だったのです。

対して高森顕徹会長。今回は

その後(大悲の願船に乗せて頂いた後)、親鸞聖人は全ての人が大悲の願船に乗れることを示すために、法然上人の勧めで時の関白、九条兼実公の娘玉姫と結婚され、大悲の願船のある事を説いていかれたと 「親鸞聖人の御歌」に書かれている。

と話していたそうですが、そうやって破戒、殺生、女犯という言わば諸善の否定とも受け取れる行為を公然とされて「念仏」が万人を速やかにさとらせる近道であり唯一の教えであることを聖人が身をもって明らかにされたにもかかわらず、昨年末は

「ただ念仏して」を念仏称えれば極楽浄土に往けると間違っている。
『飛雲』「よき人の仰せ」を知らないどころか踏みにじる高森顕徹会長より)

と「ただ念仏」は間違いだと説いています。加えて、『なぜ生きる2』11章には

 無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

と書いて「ただ念仏」を非難し、

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
 親鸞学徒の求道の道とは、三願転入の道である。

 若し三願転入を否定する者あらば、それは弥陀の本願を否定し、釈迦一代の教を否定し、七高僧を否定し、親鸞聖人の教えを否定する、仏教の門戸も知らぬ浅ましき外道である。

 三願転入は、弥陀のお計らいなのである。
『親鸞会公式ホームページ』三願転入を否定する者あらば
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

といって19願、20願という「遠回り」「回り道」の自力諸善、自力念仏の教えを勧めて「ただ念仏」を否定しています。これが昔は「三願転入の教え」ではなく「宿善」の語を利用して財施や破邪顕正という自力諸善(もどき)を勧めていたというだけで、「ただ念仏」を否定していたことは変わりません。高森顕徹会長70年の布教は、

ただ念仏のみぞまことの否定

だったことが判ります。


最後に判り易くまとめておきます。

●一生涯の教えは何か

親鸞聖人 ただ念仏のみぞまこと
―――――――――――――――――
高森会長 ただ念仏のみぞまことの否定 


これほど浄土真宗とは正反対の高森教を信じる会員は、哀れ哀れです。

「浄土真宗」「親鸞」会と名乗りながら、「浄土真宗」の話も「親鸞」聖人の教えも無い高森顕徹会長

昨日は延期に延期を重ねてようやく高森顕徹会長がお出まししました。体調が戻らないなら後継者育成のためにも代理の者を立てて話をさせればいいものを、とことん知識帰命の親鸞会です。さて、話の内容ですが

『飛雲』トルストイよりも仏教を知らない高森顕徹会長

に挙がっているようにそれはそれは酷いものでした。「浄土真宗」「親鸞」会と名乗りながら、「浄土真宗」の話も「親鸞」聖人の教えも無い、一日かけて自分が書いたシナリオの解説をしただけという、わざわざ富山まで行ってお布施を納めてまで聞く価値が無い内容でした。あれを聞いて満足しているとしたら、会員の思考停止ぶりはお隣の国民よりはるかに深刻です。


『Wikipedia』親鸞によれば、親鸞聖人は75歳の頃に『教行証文類』を一応完成なされ、弟子に書写を許されています。それから80歳代後半に至るまで、

・宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。
・建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。
・建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。
・建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)[注釈 37]を撰述する。
・建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。
・康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。
・康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。
・正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。


と、数々の御聖教を撰述し、浄土の教えを書き残されています。その間にも『教行証文類』を推敲され続けていかれたことは皆さんご承知の通りです。そこに書かれている内容は、要約すれば「如来二種の回向」であり、「真実の教行信証」でした。中でも私達が助かるタネは「真実の行信」であるとして

・もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
・真実の行信を獲れば、(乃至)仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。
・「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。


と、往相回向の大行、つまり本願の念仏と、往相回向の大信、つまり本願力回向の信心を勧められたのです。


蓮如上人も、記録で確かな限り84歳の頃まで『御文章』を書かれ、門徒の方々を勧化していかれました。

あはれ無上菩提のためには信心決定の行者も繁昌せしめ、念仏をも申さん輩も出来せしむるやうにもあれかしと、おもふ一念のこころざしをはこぶばかりなり。
(中略)
これによりていよいよ貴賤道俗をえらばず、金剛堅固の信心を決定せしめんこと、まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、別しては聖人(親鸞)の御本意にたりぬべきものか。
(中略)
あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。あひかまへてあひかまへて、この一七箇日報恩講のうちにおいて、信心決定ありて、われひと一同に往生極楽の本意をとげたまふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
  明応七年十一月二十一日よりはじめてこれをよみて人々に信をとらすべきものなり。
『御文章』4帖目15通

蓮如上人は、報恩講のうちに信心決定して往生極楽の本意を遂げよと仰せられていますが、それはどのような内容だったのかと言えば、それまで多くの『御文章』が示すように他力信心の体である

南無阿弥陀仏の六つの字のこころ『御文章』5帖目11通
南無阿弥陀仏の六字のすがた『御文章』5帖目13通

でした。信心決定すると言っても、信心の体である「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を聞き受ける以外に無いというのです。六字釈を施して書かれている御文も多いですが、施さずに書かれている御文も内容は同じ「南無阿弥陀仏の六字のすがた」です。これを説かなければ聞く人が信心決定するも何もないからです。


ところが高森顕徹会長が訴えてきたことはどんなことだったでしょう。

まず目的ですが、目指すところは「必堕無間」という「地獄必定の一大事」の解決、そして「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽であって、「往生極楽の本意」は「絶対の幸福」の必然だからなのか、オマケ程度の扱いです。果たして浄土往生、往生極楽を目的に親鸞会で聞いているという方はどれだけあるでしょうか。

次に目的を果たすには、「信心決定」するにはどうすればよいかについては、過去は「まことに宿善まかせ」に着目させて宿善薄い者は信心決定できないかのように説いてきました。そして親鸞会流『宿善論』を展開させ「宿善を求めよ」「宿善を厚くせよ」といっては

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
・親鸞会に財施すること
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


を中心とする「高森の行」を勧めてきました。結成35周年大会以降は突如として「三願転入の教え」を出して、親鸞会流『宿善論』に代わって(あるいは平行する形で)同じく「高森の行」を勧めてきました。その間、外からの批判に応じて従来の教義を出したり引っ込めたり、修正したり元に戻したりしていますが、会内ではほとんど変化がありません。そして、昔はどうか知りませんが、私が在籍していた頃から今日に至るまで、高森会長が

南無阿弥陀仏の六つの字のこころ
南無阿弥陀仏の六字のすがた

を正しく説いている姿は見たことがありません。

それでいて、若い頃から大沼法竜師や伊藤康善師のパクリ本を次々と著しては自著のように振る舞って大学者を気取ってきました。また、本願寺に法論を挑んでは揚げ足取りの質問を繰り返し、相手を呆れさせて論戦放棄したところで勝利宣言してきました。それが今や真宗を学んだ退会者によって形勢は完全に逆転し、法論は惨敗続き、『飛雲』との公開法論に応じないままもうすぐ7年であることは周知の事実となっています。

70歳代からは、出版社を立ち上げてパクリ本を世間に公表しています。80歳代には親鸞会史上最低の駄作『なぜ生きる2』を著し、教義は浄土真宗でも何でもないことが明白になりました。更に他の新興宗教の真似をしてアニメ映画を製作し世に送り出しています。それらには親鸞聖人、蓮如上人の教えは無いも同然、教えを捻じに捻じ曲げた邪義や、親鸞会へ導入する話が書かれ、描かれているだけです。


既に絶版の「会報」にパクった六字釈が出ている程度で、70年以上の親鸞会の歴史の中で、信心の体である

南無阿弥陀仏の六つの字のこころ
南無阿弥陀仏の六字のすがた

が話されることはほとんどなかったのです。そして今回は、念仏は勿論、浄土は勿論、本願すら出てこなかったようです。真宗教義でもない、もうほとんどの会員は耳タコの話、親鸞会への導入部分の話を繰り返して一日を終えたというものです。90歳を迎えてもこれですから、一生涯浄土真宗の肝要どころか、要点すら説く気は無いのでしょう。会員の皆さんは、こんな教えを聞いていて今宵の後生に間に合うのか、信心決定して往生極楽の本意を遂げられるのか、真剣に考えてみるべきです。

「専ら自力をすてて他力に帰する」という「宗の極致」が全く理解できていない高森顕徹会長

今年初めの高森顕徹会長の話は、

「宗の極致」と「『歎異抄』第二章」の関係

を聞きたいという質問についてでした。内容の一部は、既に

『飛雲』今年も大衆を騙すのに余念のない高森顕徹会長

に書かれています。


なぜか唐突に出てきた「宗の極致」という言葉。『改邪鈔』第二条にある

いまの真宗においては、もつぱら自力をすてて他力に帰するをもつて宗の極致とするうへに・・・

が由来ですが、浄土真宗で一番大事な教えは何か、それと「『歎異抄』第二章」の物語と一体どんな関係があるのかを質問者は聞きたいということだと思います。何にせよ、今回の話を要約すれば

阿弥陀仏の本願を疑っている心で、命がけに訪ねて来た関東の人達に、早く自力を捨てて他力に帰せよと「宗の極致」を教えられたお言葉が『歎異抄』第二章

ということでした。


それにしても、親鸞聖人の仰せと今まで高森顕徹会長が説いてきた教えは全然違います。内容を聞く限り、「専ら自力をすてて他力に帰する」という「宗の極致」が全く理解できていないと言わざるを得ません。参考までに両者の違いを今回の話の枠内で述べてみますと、

1.聞く人に何を教えてきたか

親鸞聖人 往生極楽のみち、往生のみち

――――――――――――――――――
高森会長 絶対の幸福

2.それには具体的にはどうすればいいか

親鸞聖人 念仏

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長 ワシの話を聞け、助業もせよ、雑行もせよ、ワシの指示に無条件で従え

3.「教」=「よき人の仰せ」とは

親鸞聖人 ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし

―――――――――――――――――――――――――
高森会長 念仏称えれば極楽浄土に往けると間違っている

4.「行」=「ただ念仏して」の「ただ」とは

親鸞聖人 念仏一行

――――――――――――――――――――――――――――――――――
高森会長 びっくり仰天
       ”ただ”もいらぬ”ただ”じゃったと、無条件の救いに驚き呆れた”ただ”


5.「信」=「信ずる」とは

親鸞聖人 「念仏称えれば極楽浄土に往ける」と深く信じたこと

―――――――――――――――――――――――――――――
高森会長 地獄一定と極楽一定が同時に知らされる、ハッキリする

6.「証」=「弥陀にたすけられまゐらす」とは

親鸞聖人 浄土往生(この世では正定聚)

――――――――――――――――――――――
高森会長 絶対の幸福(になると後生は浄土往生)

ちょっと思いつくものを挙げてみましたが、まぁ全然違いますね。

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

のお言葉に「教」「行」「信」「証」が収まるそうですが、その「教」「行」「信」「証」が全て間違っているのですから、いくらそんな間違った話を「聞く一つ」と真剣に聞いたところで、法然聖人や親鸞聖人と一味の信心になれないことは判り切っています。第一、目的が「大悲の願船に乗る」という名の「絶対の幸福」だとかいう現世利益で、浄土往生はそのオマケ的な意味合いが色濃いですから、そういう人は浄土往生はできません。

尤も、「絶対の幸福」という創価学会の信心は獲られたとしても、それは「他力の信心」、「現生十種の益」とは根本的に異なりますから、現当二益とは言っていても実態は現当無益です。念仏一行どころか、雑行や、雑行もどきの活動をやりまくっている者には、大行利益である乗大悲願船の心などもう判らないでしょう。


結局は、田畑を売り、命がけで聞きに行った関東の同行を引き合いに出して、

命がけの聞法でなければならない

と「自力の命がけの求道」を勧めただけでした。「ワシの元へ来い」が本音の高森会長は、肝心の浄土真宗の救いを説かず、今年もせっせと足を運ばせて組織拡大活動をやるように仕向けることしかしないようです。

創作『二河白道の譬え』宿善を厚くする教え光に向かう教え親鸞会流『三願転入の教え』等の親鸞会の教えは、会員の皆さんが信心獲得して報土往生するための真実の教えではなく、「絶対の幸福」を餌に、無常と罪悪でせめたてて効率よく組織拡大活動を推進させんがための邪偽の教えです。

阿弥陀仏に救われたい、迷いの世界を離れたい、浄土往生して仏果を得たいとお望みの方は、すぐに親鸞会の邪道を出て18願真実の法門に入り、「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」との仰せを聞き受けて、ひとえに往生の一大事を阿弥陀さまにおまかせして下さい。それが「もつぱら自力をすてて他力に帰する」という「宗の極致」であり、他力の信心の体である念仏のこころ、南無阿弥陀仏の六字のこころです。


【参照】
『飛雲』高森会長の「知らん」
『飛雲』”ただ”では救われない高森会長の教え
『飛雲』18願にも18願成就文にもない諸善を勧める破綻した高森邪義

「聞く一つ」と連呼するも、今年もついに『何を「聞く一つ」なのか』明らかにしなかった高森顕徹会長

日曜日の高森顕徹会長の話はまたまたいつもの演題

『聞く一つで、大船に乗せる』ということは、阿弥陀仏の命を懸けたお約束だからです」とは、どんなことでしょうか。

についてでした。内容の一部は既に

『飛雲』「よき人の仰せ」を知らないどころか踏みにじる高森顕徹会長

に紹介されている通りです。


高森会長は「聞く一つ」の根拠として本願成就文の「聞其名号」、また「信文類」

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。

のお言葉を挙げていましたが、今年もついに『何を「聞く一つ」なのか』明らかにしませんでした。一方で、

「聞く一つ」と聞いても頼りない気がする。

と何度も言っていたようですが当然です。その後、話があったのは創作『二河白道の譬え』『歎異抄』第二章で、よく分からないがとにかく富山に来て高森顕徹会長の話を聞き続けていけという内容が繰り返されただけだからです。ここが決勝点、ここがゴール、ここが卒業だといくら聞いても、富山へ来て高森会長の話を聞き、月々の会費やその度募られるお布施を納め、新たに聞く人を勧誘し、上司の指示に無条件で従ってゆく。毎年毎年この繰り返しで終わってゆくのですから、「頼りない気がする」のは当たり前です。一応、終盤で

「よき人の仰せを被りて」の「被りて」が大切、これが「聞きて」であり、「聞く一つ」

とは言ったものの、「よき人の仰せ」が間違っているのですから説いたことになりません。


さて、飛雲さんが挙げられた尊号真像銘文には続きがあります。

またいはく、「当知生死之家」といふは、「当知」はまさにしるべしとなり、「生死之家」は生死の家といふなり。「以疑為所止」といふは、大願業力の不思議を疑ふこころをもつて、六道・四生・二十五有・十二類生[類生といふは一、卵生 二、胎生 三、湿生 四、化生 五、有色生 六、無色生 七、有相生 八、無相生 九、非有色生 十、非無色生 十一、非有相生 十二、非無相生]にとどまるとなり、いまにひさしく世に迷ふとしるべしとなり。
「涅槃之城」と申すは、安養浄刹をいふなり、これを涅槃のみやことは申すなり。「以信為能入」といふは、真実信心をえたる人の、如来の本願の実報土によく入るとしるべしとのたまへるみことなり。信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。


【現代語訳】
また 「当知生死之家」 ということについて、 「当知」 とはよく知るがよいということであり、 「生死之家」 とは生れ変り死に変りし続ける迷いの世界のことをいうのである。 「以疑為所止」 というのは、 大いなる本願の思いはかることのできないはたらきを疑う心によって、 六道・四生・二十五有・十二類生という迷いの世界にとどまるというのであり、 今に至るまでの長い間このような世界に迷い続けてきたと知るがよいというのである。 「涅槃之城」 というのは、 安養浄土のことをいうのであり、 これは涅槃の都ということである。 「以信為能入」 というのは、 真実信心を得た人は阿弥陀仏の本願に誓われた真実の浄土に往生することができると知るがよいというお言葉である。 信心はさとりを開く因であり、 この上ない涅槃に至る因であると知るがよいというのである。

これは法然聖人の『選択本願念仏集』

まさに知るべし、生死の家には疑をもって所止となし、涅槃の城には信をもって能入となす。

のお言葉を解説されたものですが、こちらでは

信心は菩提のたねなり、無上涅槃をさとるたねなりとしるべしとなり。

菩提のたね、無上涅槃をさとるたねは信心であると仰せです。「仏名をとなふる」「御名を称する」という念仏と「真実信心」という信心とは、共に、「無上涅槃のさとりをひらくたね」「無上涅槃をさとるたね」だというのです。念仏は信後のオマケ程度にしか考えられない会員は理解不能でしょうが、信心とは、念仏称えて往生できると深く信じた心のことです。言葉を換えると、念仏一行と心が定まったことを信心というのです。

念仏と無関係な信心ではありません。阿弥陀仏が法蔵の昔、どうしたら一切衆生を平等に救うことができるか五劫の間思惟せられて、一切の自力の行を選び捨て、ただ称名念仏一行を往生の行と選び択られたのですから、法の側から言えばこうした選択本願の大行こそが「無上涅槃のさとりをひらくたね」なのです。

ところが、これを受ける機の側が本願に相応していない、自力心が邪魔をしていると本願のはたらきが妨げられてしまいます。具体的に言えば、ただ口に称名ばかり称えたら往生できると思っていたり、自力修行の一つとして念仏をとらえていたり、念仏を自分の功徳として、それを積み重ねて助かろうとしていたりすることです。それでは往生は「おほきにおぼつかなき次第」であるというのです。

だから蓮如上人は繰り返し「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を説かれ、今称えている南無阿弥陀仏にはこのようないわれがあるのだよ、それをよく心得るのが信心決定なのだと教えられたのでした。

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。

善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。

さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
『御文章』5帖目11通

もろもろの雑行を捨てて疑いなく阿弥陀仏におまかせすること、ただ念仏をもって私を助けようとされている仏意に疑いないのが「信心をとる」ということだと仰せです。この真実信心が「無上涅槃をさとるたね」なのです。会員は真実信心といっても「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」といったハッキリスッキリ体験位にしか考えられないでしょうが、南無阿弥陀仏の六字のすがた以外にはありません。


創作『二河白道の譬え』『歎異抄』第二章で高森顕徹会長が訴えたいことは、自力の命がけの求道です。「次も来てもらうこと」「勧誘して一人でも多く高森教徒になってもらうこと」「一円でも多く献金してもらうこと」「高森会長の指示に無条件で従ってもらうこと」おおよそこのような組織拡大、私利私欲を満たすのが目的の高森会長は、念仏と信心の関係も、聞くべき南無阿弥陀仏の六字のこころも何も話しません。それで聞く者が信心決定するという方がおかしいです。高森会長の「聞く一つ」の話が「頼りない気がする」のは当然で、聞くべき法を聞いて安心させてくれない、無常と罪悪にせめたてられてなおもウソの白道を進まなければならないからです。

この度も「白道は弱い聞法心」と邪義をまき散らしていましたが、親鸞聖人の仰る「白道」には他力の意味しかありません。高森会長の自力の命がけの求道という教えを信じて騙され続ける会員は哀れ哀れです。そんなことより、阿弥陀仏が我々を助けようと命がけの求道をされたことを聞かせて頂き、本願成就の南無阿弥陀仏を受けなければなりません。心ある人は、急いで求道ごっこの邪偽の法門を離れ、他力弘願の法門に入って南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き、お念仏して真実報土の往生を遂げる身となって頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり。」が絶対に理解できない高森顕徹会長

南無阿弥陀仏のことについて触れておきながら、「私たちを絶対の幸福にするはたらきがある」と、どこまでも創価学会の信心は外さない高森顕徹会長

日曜日の高森顕徹会長の話は、いつもと違って

「映画『なぜ生きる』で、自ら命を投げ出した了顕を見ると、命よりも大切なものがあるように感じました。仏教では、なぜ人の命は尊いと教えられるのでしょうか。」

という演題についてでした。内容の一部は既に

『飛雲』 『阿弥陀経』を読んだことがあっても意味は知らない高森顕徹会長

に紹介されています。当ブログでも頂いた情報を基に今回どんな話があったか紹介したいと思います。

まず人の命は尊い、人命は地球より重いということを、盲亀浮木の譬えや「人身受け難し」、横川法語のお言葉を挙げて説明しています。それは人間に生まれなければ果たせない大事な目的があるからで、その人間に生まれた目的、「なぜ生きるか」を教えられたのが仏教。それは「絶対の幸福」になることだというおなじみの話がされたようです。その後、

南無阿弥陀仏には私たちを絶対の幸福にするはたらきがある。
釈迦は南無阿弥陀仏を頂いて絶対の幸福になると教えられている。
ところが「仏法聞き難し」と言われ、南無阿弥陀仏の法は聞き難い。


などという話から、『阿弥陀経』に説かれる六方諸仏の証誠のお言葉を挙げて話をしています。加えて

利他の信楽うるひと『高僧和讃』(79))は信心獲得した人、絶対の幸福になった人

と説明し、獲は現益、得は当益と無理やり現当二益を結び付け、

それまで(絶対の幸福になるまで)重ねて聞きなさい

と言ってまたしても救いはお預けの話でした。「生きる目的」を伝える『教行信証』の証の巻を命を投げ出して守ったのが了顕だとのことでしたが、聞く者にいつまでも大事な「生きる目的」というのを果たさせない高森顕徹という人物には憤りしか感じません。『教行信証』もまともに読んだことがない高森会長は、「生きる目的」という親鸞聖人が直接論じていないことを論じ、目的達成に向けて進んで行きましょうという方向で話をしています。これが本願力回向という真宗の要の教義に真っ向から反していることを会員の皆さんは早く知るべきでしょう。


そんな人物を無二の善知識だと勘違いしているところにいつまでも騙され続ける要因があります。親鸞聖人が教える浄土真宗の救いは、今であり、ここであり、この私を救うというものです。高森会長の話では、平成業成と言いながら救いは聞き続けていった未来、求め続けていった未来であって「今」ではありません。また、救いは光に向かって進んでいった処であって「ここ」ではありません。そして、宿善を求めて厚くなった人、三願転入の道を進んで決勝点にたどり着いた人が救われるんであって、「今」「ここ」にいる「この私」は救われません。

本願は成就して南無阿弥陀仏と成り、今、私の上にはたらいています。それは昨日の話でもなければ明日の話でもなく、今日、「今」の話です。また、私のいないどこかの世界で空転しているのではなくて、今、私がいる「ここ」ではたらいているんです。そして、何かの行をやっていって救われるに値する人物をでもなくて、抱えきれない罪業を抱えてどうすることもできないでいる「この私」を仏にするとはたらいているんです。

はたらいているのになぜ救われないのか。計らいが邪魔をしているんです。自力心が邪魔をしているんです。自分には後生なんてとても手に負える問題じゃないと素直に手を放して如来におまかせすればいいのに、何もしなくていいなんてそんなわけがない、それでは無力(むりき)だ、それでは救われるはずがないと計らっているから本願のはたらきを受け容れられずにいるのです。

南無阿弥陀仏というのは、もうこの阿弥陀はお前を仏にする仏に成ったよ、だから安心してまかせなさい、と我々に救いを告げている名乗りです。要は南無阿弥陀仏とは

阿弥陀仏がこの私目がけて「助けるぞー」と喚んでおられる声

なのです。この「助けるぞ」の仰せを聞くのがすなわち信、喚び声が心に届いたのが信心です。この如来招喚の勅命の他に信心はありません。また、この如来の仰せが口に出れば念仏です。念仏は、私を必ず往生させるという本願のはたらきがそのまま出てきたのであって、我が計らいの心をもって往生を祈願する自力の念仏とは違います。本願の仰せを疑いなく受け容れ、はたらきのまま出てくる自然法爾の念仏です。

成就した南無阿弥陀仏の名号が心に届いたら南無阿弥陀仏という信心、口に出れば南無阿弥陀仏という念仏で、真宗はどこまでも南無阿弥陀仏以外にはありません。だから蓮如上人は、

当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。
『御文章』5帖目9通

それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。『御文章』5帖目13通

等と仰って繰り返し南無阿弥陀仏の六字のこころを説き示されています。下線部は一昨日の話の中で出てきた根拠のようですが、その前後に大事な南無阿弥陀仏の六字のこころが説かれているのです。全くもって会員の皆さんは大事なところを教えられていません。これは故意に教えられていないと言わざるを得ません。

蓮如上人は宿善だ三願転入の教えだなどと言って、19願や定散二善を根拠に善(もどきの善)をやれなんて一言も言われてないんです。「弥陀をたのめ」、つまり本願のはたらきにおまかせして念仏せよ、これしか仰っていないんです。高森会長が邪義をまき散らして『阿弥陀経』の顕説にも反することを説いているのは飛雲さんの記事に書かれている通りです。


せっかく南無阿弥陀仏のことについて触れておきながら、

私たちを絶対の幸福にするはたらきがある

と、どこまでも創価学会の信心は外さないとは・・・。自利の一心でもない信心と雑行とを勧める高森会長には浄土真宗を説く気がないことは明白です。会員の皆さんには、今回挙げられた『御文章』の前後に目をつけ、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞き受けて、本願のはたらきにまかせてお念仏して頂きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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