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ネット中継の講演すらしない高森顕徹会長 その2

4月26日(日)は高森会長のネット中継による講演がなされる予定でしたが、実際は行われず、過去のビデオでの講演記録が流されたようです。それもどうやら、一般会員には断り無く。

ネット中継の講演すらしない高森顕徹会長

にて予想した通りです。この分だと、来月に予定されている高森顕徹会長の行事もそうなるでしょう。

それにしてもおかしいのが、過去の講演記録に切り替えるのに会員に予告が無いという点です。普通ならば、「ドクターストップがかかって・・・」などと事情を説明した上で切り替えるのが筋でしょう。ところが親鸞会は異常です。もはや異常が異常であるということに慣れ過ぎてそれが普通になり、あるいは忖度の域になっているのかも知れませんが、こういうところからも会員の皆さんは、親鸞会は異常だと感じ取って頂きたいものです。


さて、頂いた情報によりますと、今回流されたのは去年2019年5月の「聖人一流の章」についての講演記録のようです。内容については

『飛雲』係念の宿善?の念仏を勧めた?高森顕徹会長?

を参照頂きたいと思います。当ブログでも

いくら聞いても、親鸞聖人、蓮如上人と同じ信心になどなりはしない、「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」という阿弥陀仏のお約束を説き続ける高森顕徹会長

にて扱っています。こんな教えをいくら聞き続けても、残念ながら徒事です。


まず、浄土真宗の目的はこの迷いの世界からの出離です。そのための本願であり、念仏であり、信心です。「絶対の幸福」だとかいうこの世の幸福ではありません。もし、「絶対の幸福」という現世利益を目的に仏法を聞こうというのなら、それは本末転倒です。存覚上人はこれを稲と藁の関係で教えられています。

まめやかに浄土をもとめ往生をねがはんひとは、この念仏をもつて現世のいのりとはおもふべからず。ただひとすぢに出離生死のために念仏を行ずれば、はからざるに今生の祈祷ともなるなり。これによりて『藁幹喩経』といへる経のなかに、信心をもつて菩提をもとむれば現世の悉地も成就すべきことをいふとして、ひとつのたとへを説けることあり。「たとへばひ とありて、種をまきて稲をもとめん。まつたく藁をのぞまざれども、稲いできぬれば、藁おのづから得るがごとし」といへり。稲を得るものはかならず藁を得るがごとくに、後世をねがへば現世ののぞみもかなふなり。藁を得るものは稲を得ざるがごとくに、現世の福報をいのるものはかならずしも後生の善果をば得ずとなり。『持名鈔』

何のために生まれてきたのか。何のために生きるのか。なぜ苦しくても生きなければならないのか。

この答えが、親鸞会では「絶対の幸福になるため」です。そして本願の説明が

「すべての人を 必ず助ける 絶対の幸福に」という阿弥陀仏のお約束

です。親鸞会の説く本願は言わば「」です。ここからして親鸞会ではもうダメなことが分かります。

次に、迷いの世界から出離する方法です。これについて、この世で修行してさとる聖道門、死後浄土に往生してさとる浄土門がありますが、浄土真宗は死後浄土に往生してさとる浄土門です。

その浄土門の行に、正行と雑行とがありますが、浄土真宗は余のもろもろの雑行をまじえず、本願の念仏一行によって浄土往生しようという教えです。雑行とは

『飛雲』高校生並みの国語力なら簡単に理解できる雑行の話

にあるように「万行」=「雑行」=「諸行」、つまりは親鸞会の大好きな諸善です。「絶対の幸福」(建前としては浄土往生)のために諸善という「雑行」を勧める親鸞会が、如何に親鸞聖人の教えと反しているか分かります。親鸞会はダメダメです。

それから信心についてですが、親鸞会では

真実信心
=「二種深信
=「絶対の幸福
=「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる

などという創価学会の信心、魔訶不思議な信心を教えています。しかし、浄土真宗の信心は本願の仰せを疑いをまじえずに受け容れたことであり、死後どのようなところへ赴くかも含めて全て阿弥陀仏におまかせしたことです。それも「念仏の信心」ですから、絶対の幸福とやらを願い、諸善をまじえてそれに執心している者にはまず分からないでしょう。

その浄土往生が、阿弥陀仏の本願を聞信した平生の一念に決定するというのが信心決定です。その信心は自分で起こすものではなく、阿弥陀仏より賜る信心です。阿弥陀仏より賜る信心ということは親鸞会でも言いますが、それに沢山の尾ひれはひれがついて、驚天動地の体験、ものすごい幸福感を得られる体験のことだと妄想しているのが親鸞会の会員です。これで「浄土真宗」「親鸞」会と名乗っているのですから意味不明です。


阿弥陀仏の浄土に往生して後生助かるためには、もろもろの雑行を捨てて本願の念仏一行を専ら称え、称え聞こえる南無阿弥陀仏の声は「助けるぞ」「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」と喚んでおられる阿弥陀さまの仰せだと聞き受けて、一心に後生おまかせして下さい。仰せを聞くのがすなわち信です。

親鸞会の教えは、浄土往生とは無関係、どころか、障害にしかなりませんから、しがみついているだけ無駄事です。早く会員の皆さんが親鸞会教義の誤りに気付いて脱会し、本願を信じて念仏されるよう願います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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ネット中継の講演すらしない高森顕徹会長

昨日(4月12日)は高森会長のネット中継による講演がなされる予定でしたが、実際は行われず、代わりに過去のビデオ法話が流されたようです。

『飛雲』新型コロナに怯える絶対の幸福の体現者

によれば高森顕徹会長はF館に籠って、掃除をする係以外は入れないようにしているそうですからさもあらんと思います。確かに高齢者は若者に比べて新型コロナウイルス感染症による重症化率、致死率が高いのですが、この自分だけ安全を確保して会員の後生の問題をほったらかしにしている会長さんの姿を、会員の皆さんはどのように感じているのでしょうか。


とは言え、もう話をしようにも、高森会長は絶対の幸福の連呼ばかりでまともな質疑応答もできない状態なのかも知れません。

念仏の話もしなければ、念仏往生の願も、念仏(南無阿弥陀仏)のこころも説かない高森顕徹会長
「死なない身になりたい、ということと、絶対の幸福になりたい、ということは同じ」だそうです

で紹介しましたが、前回3月8日にネット中継の講演をした際は、質問を受け付けておいていざ質問をされたらしょうもない回答しかできない様子でした。今後は、以前頂いた情報通りなら4月26日にネット中継の講演がある予定ですが、この分だとまたビデオ法話になるか、中止になるかの確率が高いです。


新型コロナウイルスによる緊急事態宣言が出され、一部地域では県独自の緊急事態宣言も出されて、現在は法を聞くことすら困難な状況です。会員の皆さんは、今の自分を見つめ直すいい機会だと思って、本当にこのまま親鸞会で求め続けて後生助かるのかをよく考えてみて下さい。

今、ここで、この私一人が救われる法、それが弥陀仏の本願念仏です。高森会長のおっかけをしたり、親鸞会に献金したり勧誘したり、会長や上司の指示に無条件服従をしたりという行を何十年とやり続けなければ助からんというのではありません。それでは今、ここにいる、この私は助かりません。

今、ここにいる、この私一人を救う法は既に成就されています。それが南無阿弥陀仏の名号法です。この法に救われるには善も悪も、煩悩の多い少ないも関係ありません。ただ南無阿弥陀仏と称え、耳に聞こえるお念仏の声は「助けるぞ」「後生まかせろ」「安心して浄土に来なさい」と阿弥陀さまが喚んでおられる声だとお心得下さい。その阿弥陀さまの喚び声を聞くのがすなわち信です。後は命のある限り南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えて、如来広大の御恩徳に報いさせて頂くのみです。

会員の皆さんが知っている限りの親鸞会の教えで、今、ここにいる、この私は救われるでしょうか。もし救われないと感じたなら、その教えに用事はありません。早く脱会しましょう。そして、本願を信じ念仏して下さい。この先、そのような浄土の同行が一人でも多く現れてくれることを願います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

「死なない身になりたい、ということと、絶対の幸福になりたい、ということは同じ」だそうです

『飛雲』の記事に

絶対の幸福とは
死なない身になること
と教えられたのには驚きました。


というコメントがありました。齢90を過ぎて何を言い出すか分からない高森会長ではありますが、ホンマかいなと思ってコメント主とは別の方の聴聞録を紹介して頂いたところ、どうもそんなことを話していたようです。

話の流れとしては以下のようです。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
・全ての人がかかっている病があり、それが「無明業障のおそろしき病」(『御文章』2帖目13通)である。

・「無明」は「後生暗い心」、全人類が必ず行かねばならない「後生」がわかっていない、一番大切なことがわかっていない心。これを治す薬が南無阿弥陀仏の名号。

・その名号の効能は破闇満願。

無碍光如来の名号と
 かの光明智相とは
 無明長夜の闇を破し
 衆生の志願をみてたまふ
『高僧和讃』曇鸞讃

衆生の志願とは、私達の究極の願い。それを絶対の幸福という。全ての人を絶対の幸福にするお約束が弥陀の本願。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

このように「絶対の幸福」を強調して、その後

死なない身になりたい、ということと、絶対の幸福になりたい、ということは同じか?


といった質問に「そうです」と答えたようです(あるいは自問自答か?)。

紹介頂いた聴聞録にはありませんでしたが、私達の究極の願いとして人間の五願の話もしたのだろうか、あるいはそれがバックにあった上でこのような問答をしたのだろうか、と推測されます。

映像やボイスレコーダー等で音源があればハッキリしますが、『飛雲』のコメント通りとするならば、その願いは人間である限りは絶対にかないません。「絶対の幸福」とは所詮理想郷、桃源郷のようなものだと分かります。

あるいは、本願を信じ念仏して仏に成れば無量寿・無量光のさとりの身とさせて頂けますが、それはあくまでも当来の利益なので、「絶対の幸福」は死んでからということになります。

会員の皆さん、皆さんが追い求めている「絶対の幸福」とは人間である限り絶対にかなわない欲望ですから、早くそのような画餅は捨て去って浄土を願い、本願に疑いなくその身をまかせお念仏して下さい。



なお、今回高森会長は質問タイムの前に演題の「名号、信心、念仏」について

この3つの仏語が分かれば、親鸞聖人の教えの50%(以上)分かる。


と話していました。当然「残りの半分は何か」と質問を受け、それには

名号信心念仏の他半分とは、聖人はたくさんの仏語を教えられた。
それが分からなかったら全部とは言えない。色々なことを教えられている。


と答えたそうです。カッコつけて適当なことをしゃべっておいて、いざ質問を受けたらこれかと同行は笑っていました。私も同じ思いです。高森会長がこんな状態でも講演せざるを得ないとは、親鸞会の後継がいないことを公言しているようなものです。そんな親鸞会に未だにしがみついている人々は、哀れという他ありません。

念仏の話もしなければ、念仏往生の願も、念仏(南無阿弥陀仏)のこころも説かない高森顕徹会長

3月8日(日)は高森顕徹会長のネット中継での話がありました。既に

『飛雲』念仏往生を知らないし否定する浄土真宗があるか?

でも扱われている通りで、演題は「名号、信心、念仏」でした。

今回は、まず15分高森会長が話し、その内容の中で質問をネットで受け、それについて高森会長が答えたそうです。質問が採用された会員は喜んだでしょうが、情報を下さった方によれば、質問に答えたり、はたまた自分の話をしたりで、そこの境界が曖昧混沌として全体として分かりにくい、まとまりのない話だったようです。聞かれたことにのみ答えればよいのに、結局自分の話をするのは親鸞会ではお決まりのパターンです。


さて、演題の「名号、信心、念仏」ですが、これは今までしてきたように名号を薬に、信心を(病の)全治に譬えて説明されています。念仏は頂いた情報からは何もありませんでしたが、会員は「念仏=お礼」だと理解していることは想像に難くありません。もうすぐ入学のシーズンとなりますが、私が学生会員だった頃、新入生に念仏(南無阿弥陀仏)については「ありがとう」のお礼の意味だと説明することがほとんどでした。

それくらい、「念仏=お礼」という意識が定着しているのが親鸞会です。そして、いくら念仏を称えていても助からない、念仏は信心獲得するのに無意味、念仏は信後報謝に限る、などと誤った挙句、中身の無い高森会長の与太話を聞き覚えることに全神経を集中させているのが多くの会員です。ですから、たいがいの会員は勤行や法話の前後くらいしかお念仏申しません。それだけでなく、時折高声念仏している人を見れば、内心「あれは称名正因の異安心だ」などと見下す思考が自然と身についてしまいます。更に行き過ぎると、自力念仏の者は必堕無間という具合に念仏を誹謗する者まで出てくる始末です。

そうやって念仏を軽視している上で信心が大事であると聞き、この信心一つ獲られたら絶対の幸福になれる、人間に生まれた喜びが沸き上がる、一切の苦労が報われ流した涙の一滴一滴が真珠の玉となってその手に戻る、などと言われるものですから、会員はますます念仏がおろそかになり、とにかく信心、信心とありもしない信心を追い求めて彷徨うことになってしまうのです。


まず、私達は第十八願によって救われるわけですが、その第十八願を法然聖人は「念仏往生の願」と言われ、親鸞聖人もそのまま継承されています。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。
(中略)
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。
「信文類」大信釈

またこの後、第十八願の別名が続きますが、次に選択本願と出てきます。これは、第十八願において、衆生往生の行が選択されたということを示しています。どのように選択されたかというと、一切の諸善を選捨して、称名念仏の一行を選択されたというのです。

浄土真宗は仏教ですから、当然目指すのは往生成仏であり、その教行証があるわけです。よく浄土真宗には行が無いなどと言われますが、親鸞聖人は自力の行を否定されただけで、行の無い宗教を語ったのではありません。念仏は確かに私の口に現れていますが、決して私の恣意的な選びによる行為ではなく、如来の選びによって如来が私の口を動かして声と成って現れている、如来の行いであったのです。

そのため、念仏は凡聖自力の行ではなく、不回向の行だと言われます。念仏は、本願力によって成就し回向された行だったのです。それを他の諸善を行ずるのと同じように我が功徳と思い、それを積み重ねて往生しようという自力の信心で行ずるから報土へ参れないのです。

成就し回向された念仏を称える際の信心を重視し、強調されたのが親鸞聖人であり蓮如上人であって、念仏抜きの信心を語られたのではありません。念仏は、たとえ信心が無くても行ずるものです。念仏往生の願だからです。「これで助かってくれよ」と阿弥陀仏が選択し回向されたものだからです。この世の幸福云々を超えた迷界からの出離、成仏を目指し、阿弥陀仏の仰せの通り念仏一行を専修している者の中で、その信心が自力か他力かを問われているのです。絶対の幸福とかいったこの世の幸福が目的とか、念仏以外の雑行や悪業悪行に心をかけている人は論の外の外です。


親鸞聖人や蓮如上人の当時は、現代と違って平和で豊かな世の中ではありませんでした。戦乱に荒れ果て、飢饉や疫病によって今日明日の命もまったく保証できない時代でした。そんな中で浄土は、多くの民衆の切実な願いであったことでしょう。そして浄土を願い、浄土往生の行として念仏を称えるということも、特に蓮如上人の時代は相当民衆の間で浸透していたと伺えます。

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。『御文章』5帖目11通

みんなこのように心得ていたというのですから、すごいことです。今なんか、科学信心の虜となって死後の存在を否定するばかりか、平和で豊かで楽しみも沢山あるわけですから、極楽に往生しようとか、その行として念仏を称えようとか考える人自体が希有な気がします。

しかし、です。称名念仏自体はいいのですが、その心得が、つまり信心が間違っている、または知らない人が多かったようです。それで親鸞聖人は「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」称えよと教えられ、蓮如上人は南無阿弥陀仏の六字のこころを懇ろに説いて真実信心の称名を勧めていかれたのです。


確かに信心は肝要です。七高僧方にしても、信心を抜きに教えを説かれてはいません。ただし、何についての信心なのか知らなければ結局信心は分かりません。それに、その信心を獲るには「聞く一つ」だと言われても、何を「聞く一つ」なのか分からなければ、間違っていれば信心は獲られません。

聞く一つ」なのは念仏往生の願の生起本末であり、念仏(南無阿弥陀仏)のいわれです。これを計らいをまじえずに聞き受けて本願の仰せに順い、本願力にまかせたのが「聞く」ということであり、それが即ち信心です。念仏に込められている、「助けるぞ」「我にまかせよ」「必ず浄土に迎えて仏にする」という仏の願いをそのまま聞き容れて願力に乗託する、往生を阿弥陀仏におまかせする、これが信心です。けれども高森会長はこういうことを説きません。そればかりか、親鸞聖人の仰せとは真逆なことばかり説いています。そういった高森会長の与太話を聞いて暗記力を誇っている、そんなものは信心でも何でもありません。



今回も「聞く一つ」を強調していましたが、終ぞ念仏の話もしなければ、念仏往生の願も、念仏(南無阿弥陀仏)のこころも説くことはありませんでした。この先、高森会長と会員の質疑応答の機会や「ご講演」の日程も案内されているそうですが、念仏一行の勧めも、念仏往生の願も、念仏のこころも説かれないようなら、会長の話を聞き続ける意味は無いでしょう。絶対の幸福という現世利益が欲しいなら聞き続ければいいですが、親鸞聖人と同じ処へ参って仏に成りたいと願う方は、早く退会して本当の浄土真宗を聞きましょう。

聞きに来た人にも直接話をせず、「後生の一大事」「無明の闇」「一向専念無量寿仏」のどの意味も正しく説かず、会員に浄土往生の一大事を遂げさせる気が全く無い高森顕徹会長

2月9日(日)は富山で高森顕徹会長の「ご講演」の予定でしたが、新型肺炎流行の影響により各地でネット中継での座談会になったそうです。富山県で二千畳に参詣した会員もいたそうですが、高森会長は別室から話をし、直接聞くことはできなかったようです。しかし集まって来た人にさえ直接顔を合わせないとは、高森会長は人に信を獲らせる気が全く無い、新型肺炎やその他の感染症にかかって死ぬのが怖いのでしょうか。


さて、今回の演題は

後生の一大事

でした。後生とは後世とも言い、死んだ後の世のことで、後生の一大事生死の一大事とも言う、人生最大の問題、人生の最重要課題であるとも話していましたが、結局どんな一大事であるかは、頂いた情報からはよく分かりませんでした。度重なる親鸞会批判の影響もあって

後生の一大事」=「地獄必定の一大事」=「必堕無間の一大事

と死後の地獄を強調するような話は控えたのかとも思われますが、情報の限りでは

生まれた者は、必ず、早ければ今日にも死んでいかねばならないという一大事

という程度の意味しか伝わってきませんでした。


相変わらず親鸞会では「後生の一大事」という語を用いても正しい意味を説明しませんので、浄土真宗以前に浄土教にもなっていません。「後生の一大事」とは

後生とは後に来るべき生涯。一大事とは最も重要なことの意。転迷開悟(煩悩の迷いを転じて、さとりを開くこと)のことで、生死の問題を解決して後生に浄土に往生するという人生における最重要事項をいう。


ということで、往生浄土の一大事、凡夫が仏に成るという一大事、または浄土往生できるかどうかという一大事ということです。

生まれた者が死ぬこと、悪ばかり造っている凡夫が地獄に堕ちるのは仏教では当たり前のことです。生死の迷いから離れられず、さとりを開く手がかりさえない凡夫が、迷いを離れさとりの境界である浄土に往生して仏に成るからこれを一大事というのです。

しかし、誰かれ構わず浄土往生できる、死んで仏に成れるわけではありません。そのような往生極楽の一大事を遂げるには、現在、本願の念仏を疑いなく信受して本願力に乗託する以外にはありません。本願を信受して阿弥陀仏に後生おまかせすることがなければ、また空しく迷いの世界に輪転しなければなりませんから、ここは「浄土往生できるかどうか」ということまで含めて一大事というべきでしょう。これについては

『21世紀の浄土真宗を考える会』「後生の一大事」といふ事

にも詳しく書かれていますから参照して下さい。


また、後生ハッキリしない心を「無明の闇」だとか今回も話していましたが、それも違います。「無明の闇」が破れたら後生ハッキリ分かる心になるかと言えばそうではありません。これについては

『飛雲』浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

等を参照して下さい。そして、「無明の闇」を破るには「一向専念無量寿仏」だとも話していたようですが、普段のように雑行(もどきの組織拡大活動)を勧めていて「一向専念無量寿仏」はありません。

『飛雲』一向専念無量寿仏のカテゴリ

を読んで頂けば判るように、

一向」=「諸行を廃してただ念仏を用ゐる

です。自力の命がけの聞法や、親鸞会への献金や勧誘、会長や上司への無条件服従等の行を獲信の因縁として勧めておいて、会員が「一向専念無量寿仏」できるわけがないのです。

後生の一大事助かるには、諸善を捨てて念仏一行となった上で、その念仏に込められている南無阿弥陀仏の六字のこころをしっかりと領受させて頂くことが肝要です。しかし高森会長は、会員に雑行を捨てさせる気もなければ念仏一行に向かわせる気もない、南無阿弥陀仏の六字のこころを正しく説く気もないので、結果として高森教をまともに信じていて後生の一大事を助かる、浄土往生を決定する会員はいないのです。


所詮は、「絶対の幸福」という現世利益をばらまいて、それを餌に大衆を釣っている新興宗教と何ら変わらないのが親鸞会です。「浄土真宗」「親鸞」の名を団体名から外して「高森教」とでも名乗れば、現在のような批判を受けることは減るでしょうが、これだけ親鸞聖人の教えならざることを説いて世間・会員を騙し続けている限り、批判は絶対に止まないでしょう。

自分だけ「安全な所」に立って、溺れている者を助けようとしない高森顕徹会長

1月19日(日)は富山で高森顕徹会長の「ご講演」がありました。内容は

映画『歎異抄をひらく』のセリフ
「溺れている者を助けるには、安全な所に立たねばならぬ」
とはどんなことでしょうか?


という質問に答えるというものだったそうです。

既に高森会長の言葉ありきで、それに合わせて聖教の言葉を出して解説している感でいっぱいです。自分の説ありきでそれに合うような聖教の言葉を持ってくる人というのは本願寺派でもたまにありますが、僧籍を剥奪されて「打倒本願寺」に生涯を捧げてきた高森会長はそれしかしないと言っても過言ではありません。


さて、それではまず高森会長の話の大まかな内容を記します。

・「溺れている者」とは色々な苦しみで苦しんでいる人
⇒四苦八苦の説明

色々な苦しみで苦しんでいる人を助けるには、「安全な所に立たねばならぬ」。

・「安全な所に立たねばならぬ」には二義ある。

・一つは「助ける力を持たねばならない」。
しかし私達は阿弥陀仏の本願に救われて絶対の幸福になっても苦しんでいる人を救う力は無い。
助ける力があるのは、阿弥陀仏の本願、大悲の願船のみ。
だから釈尊は仏教の結論として「一向専念無量寿仏」と教えられた。

・もう一つは「阿弥陀仏にこの世で救われて絶対の幸福になること」。
それを「捨自帰他」、自力(本願を疑う心)を捨てて他力に帰するという。
そうなった人は死ぬと阿弥陀仏の極楽浄土に仏と生まれることができる。
そうすれば神通力で縁のある人を救うことができる。
⇒『歎異抄』第五条

・人を救う力は無いが、導くことはできる。それは善知識のもとへ誘うこと。
人に一向専念無量寿仏を勧めること。

・「捨自帰他」とは絶対の幸福になること、正定聚の位に入ること。
入正定聚までの生活は五正行
⇒五正行の説明


先ほど私が言ったことがお判り頂けるのではなかろうかと思います。


次にこの「ご講演」の内容に私からは二点、ツッコミを入れていきます。一つ目は

「溺れている者を助けるには、安全な所に立たねばならぬ」

というセリフ自体についてです。

まぁこれは不適切ですね。高森会長が言っている「溺れている者を助ける」云々といった話は

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(善導大師・観無量寿経疏・玄義分)

等の語を意識してのことでしょうが、そもそも「水に溺れたる人」を助けるのは阿弥陀仏であって善知識や私達ではありません。私達が何かをする、何かをできるというのは驕慢も甚だしいです。

確かに阿弥陀仏から大慈悲心を頂いた我ら念仏行者の心情からすれば、何とかして有縁の方々も本願を信じ念仏して浄土へ生まれる人生を生きてもらいたいという、いわゆる有情利益の心が出てくるかとは思います。

しかし、私達には人を救う力どころか、人をご法座へお連れすることも難しい、お念仏のいっぺんも称えさすことすらかなわない、非常に非力な存在です。それどころか、本心をたたけば自分や愛する者の幸福は願うが、縁の無い人、憎い人にはそんなことは思わない、冷たい心しか持ち合わせていないことに気付きます。

そういう私達が、一人一人行動は違えど、ご本願を、お念仏を、ご信心を有縁の人に何とか何とかとやっているのはひとえに南無阿弥陀仏のはたらきであって、私達の煩悩妄念から出ている心、行動ではありません。

また、還相回向にしても、衆生済度はすべて回向ですから南無阿弥陀仏のはたらきによってであって、あくまで私達は衆生を済度するという利益を恵まれるということです。私の力というのは微塵も及ばない、ただ本願力の回向によってすべてなさしめられる業なんだと示されたのが二回向四法の『教行証文類』の教えです。

何やらかんやらと説明していますが、

「溺れている者を助けるには、安全な所に立たねばならぬ」

というセリフからは、我執我所執のにおいがプンプン漂ってきます。


二つ目は、入正定聚までの生活は五正行を毎日実践することだというような話をしていた点についてです。

高森教で言う「五正行」とはいわゆる朝晩のおつとめのことですが、これを信心獲得までの階梯、道のりとして教えるところが高森教らしいです。これでは親鸞会で言うところの本願寺が「念仏称えたら助かる」と言っているというのと同じで、親鸞会は「朝晩のおつとめをキチンとしたら助かる」と言っているようなものです。

おつとめとは、南無阿弥陀仏の六字のこころが説かれている『正信念仏偈』や『御文章』を拝読させて頂き、「一心に我をたのめ、必ず後生助けるぞ」の仰せを一身に受けさせて頂いて有難いことだ有難いことだと喜ぶ御恩報謝の行です。その反対におつとめをして助かろう、救いに近づこうとかかっているのは雑行雑修です。

こうやって救いを彼方に置き、そこまで求めていこうというのが特に高森教経験者の心情ですが、これは本願に反する悪い心がけです。本願は南無阿弥陀仏と仕上がって今、ここにいる、この私に届いているのです。今、ここにいる、この私に既に届いている南無阿弥陀仏を、「一心に我をたのめ、必ず後生助けるぞ」の仰せであると称え聞かせて頂く。これが信心であり、この他には後生助かるためには何もありゃしません。後は、既に往生を定めて下された如来広大の恩徳に、行住坐臥にお念仏して報じたてまつるのみです。

それと、この話では一見、雑行を勧めていないように思えますが、高森教に詳しい人は実は雑行、高森の行の勧めがなされていることが分かることでしょう。五正行の中に「讃嘆供養正行」がありますが、高森教では

・親鸞会に人を誘うこと
・親鸞会にお布施をすること


をも「讃嘆供養正行」の中に位置づけています。今回の話の中に

・人を救う力は無いが、導くことはできる。それは善知識のもとへ誘うこと。

等とあったことからもそれが伺えるでしょう。この「善知識」が高森会長を指すことは会内では常識だからです。五正行の意義は正しく示されず、こんな自力雑行、実態は高森の行を勧められ、絶対の幸福というご利益が目当てで後生を願わない会員がいつまでも助からないのは当然すぎるほど当然のことです。


結局、高森会長風に言えば、高森会長は自分だけ「安全な所」に立って、溺れている者を助けようとしません。いや、溺れている者を更に溺れさせ、むしれるだけむしって生死の滝壺に突き落とそうとしていると言っていいやも知れません。これに気付かず、本願のおこころを頂いてお念仏することができない、どころか、搾取されるだけされて現当無益の一生を空しく過ごさんとする高森教の信者は、実に哀れ哀れです。

自分こそが一番親鸞聖人を悲しませていることに気付かない高森顕徹会長

先日1月5日(日)は富山で高森顕徹会長の初聞法会があったそうです。演題は

「親鸞聖人の悲しみ」

でした。親鸞聖人が喜ばれる年とさせて頂くには、悲しまれたことを知ることが大切だというのです。それを

かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す
『正像末和讃』愚禿悲歎述懐

のお言葉を通して話があったとのことでした。

説明を一通りした後、私達の禍福は鬼神がもたらすものではなく、我々の身口意の三業による善悪の行為が引き起こすものであると因果の道理を出します。その後、釈尊は、私達は身口意の三業で悪ばかり造り続けていると説き()、親鸞聖人はその姿をハッキリと照らし抜かれて

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

と述べておられ、かかる我々を救おうと阿弥陀仏は本願(設計図)を立て、大悲の願船を作られたということを話しています。そして、

・大悲の願船には迷信を破らなければ乗せて頂けない
・鬼神が禍福を与えるという迷信を破らねば、大悲の願船には乗れない


と言って、冒頭の和讃は現在の日本人について嘆かれた聖人のお言葉、悲しみであると話していたようです。


高森会長は、自分は親鸞聖人が喜ばれることをしていると思っているのかも知れませんが、実は、自分こそが一番親鸞聖人を悲しませていることに気付かない様子です。

親鸞聖人は『教行証文類』において二ヵ所、「悲しきかな」と仰っています。一箇所は「信文類」

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

です。これは、金剛心を獲て諸仏方に真の仏弟子と讃えられる身となったにも関わらず、依然として広い海、大きな山のような煩悩にまつわられて、必ず往生すべき身に定まったことを喜ばず、日々仏のさとりに近づいていることを楽しまない己に慚愧されているお言葉です。これは親鸞会的に言えば、

絶対の幸福になったのに、煩悩のために絶対の幸福を喜ぶ心が無い

という告白です。阿弥陀仏に救われたことを「絶対の幸福」とか表現する愚かさがよく知られます。

もう一箇所は「化身土文類」

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

です。ここでは煩悩にまみれた愚かな凡夫が迷いの世界を出離することができない理由を、

助正間雑し、定散心雑するがゆゑに

と教えられています。称名念仏一行を往生の正定業として選択し、回向して下さる弥陀の願心に背き、五正行の中の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の助業と称名の正定業とを同格にみなして修め、その功徳によって往生しようという「定散心」すなわち自力心が雑じっているからだというのです。それを高僧和讃では

助正ならべて修するをば
 すなはち雑修となづけたり
 一心をえざるひとなれば
 仏恩報ずるこころなし


と讃詠されています。善導大師は往生行を正行と雑行とに分けられ、更に正行を称名の正定業と、読誦等の前三後一の助業とに分けられています。そして、上の一つ前の和讃を読めば判るようにその意は

ひとへに専修をすすめしむ

すなわち専修念仏、専修称名を勧めるためであったと親鸞聖人は見ておられます。

その専修念仏、専修称名に対して、助業と正定業を同格にみなして修めるのは雑修であり、これは他力の一心を獲ざる自力の信心の人であるから仏恩を報ずる心が欠けていると言われるのです。

なお上の「化身土文類」のお言葉は真門決釈の御文ですから、その行者はもはや雑行を離れて正行に帰した20願の行者です。ところが20願の行者も、本願のおこころを知らずに助正並べて修め、その功徳によって助かろうという自力心にたぶらかされて本願力に身をまかせることがない、信心の大海に入ることができないから、迷いの世界を出離することができません。そのことを「悲しきかな」と仰っているのです。


親鸞聖人は20願の行者を悲しまれています。では、20願の行者以前の、正行と雑行の分別もつかず、雑行をやることは救いに近づく手段だと思ってこれを修めている人を親鸞聖人はどう思われるでしょうか。また、雑行をやることは救いに近づく手段だからやりなさいと勧める人を親鸞聖人はどう思われるでしょうか。

親鸞会では、因果の道理、七仏通戒偈、19願「修諸功徳」、『観経』「定散二善」等を根拠に、信前の人に六度万行で言い表されているような布施、持戒等の諸善を勧めています。

この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。

ですから、親鸞会では雑行を勧めています。雑行をやっている者は、大悲の願船に乗れるでしょうか。

仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。「化身土文類」雑行釈

ですから、雑行をやっている者を、阿弥陀仏の光明は照らし摂めることはありません。すなわち、雑行をやっている者は、大悲の願船に乗れません。

雑行をやっている者を、親鸞聖人は喜ばれるでしょうか。悲しまれます。

雑行を勧める者を、親鸞聖人は喜ばれるでしょうか。悲しまれます。


高森会長も会員も、親鸞聖人が悲しまれることを平然とやっていることが分かります。先日の高森会長の言葉をもじって言えば

・大悲の願船には迷信を破らなければ乗せて頂けない
・雑行をやることによって救いに近づくという親鸞会の迷信を破らねば、大悲の願船には乗れない


と言うことができます。「親鸞聖人の悲しみ」は親鸞会に向けられています。いつまでも親鸞聖人を悲しませる「親鸞学徒」とは何ぞやと、ため息が出るばかりです。

『歎異抄』第五条の解説なのに念仏の説明を全くしない高森顕徹会長

12月22日(日)は、富山にて高森顕徹会長の「ご講演」(映画解説)がありました。内容は

亡き父母の真の孝行はどうすべきか

という質問に答えるというものでした。


親鸞会の映画『歎異抄をひらく』の中に、

阿弥陀仏の本願を聞かない者こそが親不孝者なのだよ

というセリフがあるそうです。そこで「では真の孝行とは何か」と質問があり、それは阿弥陀仏の本願を聞いて絶対の幸福になることこそが「亡き父母の真の孝行」であるという話をしたのではないかと思います。

それから『歎異抄』第五条を挙げ、親鸞はなぜ親の法要をしないのかと問いを出し、

・一切の有情は皆もって生生世世の父母兄弟であり、順次生に仏になって助けることができるから。
・親鸞にまことの心が無く、念仏を称えたり立派な葬式をして廻向しても、父母を助けることはできないから


と答え、その後

極楽でさとりを開いて神通力を得たら助けることができる。しかしさとりを得る前でも、絶対の幸福になったら、救済の真似事くらいはできる。

として、肉食妻帯の断行や三大諍論、越後や関東でのご布教など、親鸞聖人の生涯は「救済の真似事」だったと味わいを話しています。また、「御臨末の御書」を出して聖人がすぐに戻ってくると言われたのは還相回向のことで、往相回向と還相回向は仏法を聞いて縦の線のところで得られるとも話していたようです。



さて、「絶対の幸福」だとか、往還回向は縦の線で得られる(だからそこまで進め)だとか、ツッコミどころは色々ありますが、やはり一番は、高森会長は『歎異抄』第五条の解説なのに念仏の説明を全くしない点でしょう。今回の話でも、亡き父母の追善供養に「一遍の念仏も申したことがない」が、いつの間にか「法要をしない」ことにすり替わっています。

『歎異抄』第五条では

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。

とこれまた当時としては―現代もですが―破天荒な発言をされ、その理由の一つとして

わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。

と答えられています。念仏が「わがちからにてはげむ善」であればその善を亡き父母に差し向けて助けることができようが、念仏は、私どもの一人ひとりが生死を超える道として、如来からたまわった行であって、私が造った功徳ではないから、先亡者に施すことはできないといわれるのです。

念仏は自力回向の行、「凡聖自力の行」ではなく、いずれの行にても生死を離れられない私のために如来が成就して与えたもうた本願力回向の行、私から言えば「不回向の行」だというのです。「行文類」決釈には

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

と教えられ、善人も悪人も等しく救いたもう、海のように広大な阿弥陀仏の本願を疑いなく受け容れて念仏し、成仏すべきであると、念仏とその信心を勧められています。


念仏軽視の布教を70年してきた高森会長からは絶対に出ない説明であろうと思われます。また念仏といえば信後の報謝で、「自力念仏の者は必堕無間」と信じてきた親鸞会の会員には、他力回向の信心という概念はあっても他力回向の念仏という概念はおそらくありません。

それゆえ、とにかく信心決定、信心獲得するのが大事で、信心決定しさえすれば念仏は自然についてくるのだから、「信心正因称名報恩」で信心が重要なのだからと、念仏を軽んじて、高森会長の邪義を聞くことや、その勧めに従って親鸞会へ献金・勧誘することを肝要と心得ている人が多いのではないでしょうか。

また、おつとめや高森会長及び講師部員の話の前後に合掌念仏しますが、会員の皆さんはどう思って念仏しているのでしょうか。私は会員だった頃、話の前には「何とかこの一座で信心決定したい、させて下さい」と祈るような気持ちで称え、話の後には「今日も空しく一日終わってしまった」と呆然と何となくいつもの習慣で称えていました。今の会員には、高森会長の教えから、あるいは仏法に遇わせて頂き聞かせて頂く身になったことへの感謝として、あるいは宿善を厚くして縦の線(救い)に近づく手段として称えている人が多いかもしれません。


念仏とは、確かに私の上に現れていますが、決して私の煩悩妄念から出たものでも、私が選んで称えているものでもありません。阿弥陀仏が本願において、称名念仏一行を往生の行と選び択り、「これで助かってくれよ」と大悲を込めて施し与えて下さっている如来の行なのです。わずか一声で無上の功徳を行者に具足せしめ、必ず往生成仏すべき身に定め、命終わると同時に速やかにさとりを開かせる超世希有の勝行なのです。

そのように如来が誓願し、その誓願成就して与えて下さったのだから、このお念仏一つで間違いなく往生すると如来の計らいに疑いなくまかせ、自力を離れたのが信心です。お念仏の六字、南無阿弥陀仏を成就された如来の本願のおこころを

「必ず浄土に迎えるから、安心せよ、我にまかせよ」

と表現されますが、その本願、南無阿弥陀仏の六字のこころをこのように頂き、疑いなく我が往生をまかせたのが信心です。

念仏を称えている者は多いけれども、その念仏を往生の行と誓われた本願のおこころを知らなければ往生はまことにもって不確かですから、親鸞聖人は「行文類」と『尊号真像銘文』に、蓮如上人は『御文章』にそれぞれ南無阿弥陀仏の六字釈を施して、信行一体、機法一体の南無阿弥陀仏を示して下さったのでした。


今年も、頂いた情報による限り、高森会長は本願の念仏も、信心の体である南無阿弥陀仏の六字のこころも説くことはありませんでした。これで、聞く者が信心決定して往生一定の身になり、お念仏を申して如来広大の御恩を報じたてまつることができないのは当たり前の当たり前の話です。

間もなく、2019年も終わろうとしています。会員の皆さんは、今宵後生を迎えて悔いはないでしょうか? 後生といっても遠い話ではなく、只今の話です。後生の一大事とは、すなわち只今の一大事です。只今、再び迷いの世界に帰るか、浄土に往生して仏に成らせて頂くか、という一大事です。

その一大事を、阿弥陀仏の本願を聞かせて頂き、平生の一念に往生の一大事決するという教えが浄土真宗です。救われるのかどうか分からない聞法の道をひたすら進めという教えではないのです。聞法とは、既に成就され、私の所へ届いている救いの法、南無阿弥陀仏をお聞かせ頂くのであって、自分の善根(聞法善とか)と捉え、これを積み重ねて救われよう、救いに近づこうという自力の行とは違うのです。

念仏にしても同じです。既に成就され、「名号を称える者を極楽に迎える」という本願を聞いて、疑いをまじえずに往生を本願力にまかせてそのまま称える他力の行であって、自分の善根と捉え、これを積み重ねて救われよう、往生をより確かなものにしようという自力の行ではないのです。

親鸞会会員は、「念仏を称えて救われよう」が「聴聞して救われよう」に変化しただけです。逆に、聴聞の内容が南無阿弥陀仏の六字ではなく、宿善を厚くせよ、そのために雑行をやれ、という教えですから真宗とは大きく隔たっています。このようなエセ真宗とは一刻も早くさよならすべきです。

今宵の後生を思えば、ただ如来が与えたもうた南無阿弥陀仏を称え、その心は「我にまかせよ」との如来直々の勅命であると疑いなく聞き受けて、安心して後生をおまかせして下さい。そうした真実信心の行人を、今生では正定聚の位、摂取不捨の利益にあずけしめ、命終わると同時に必ず浄土に往生させて下さいます。こうした現当二益の救いには平生只今あずからせて頂けますから平生業成です。これが浄土真宗です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
聖典セミナー 「歎異抄」第五条 ~追善供養をこえて~

悪人正機説に触れながら、「そのまま(悪人のまま)では助からないから、宿善を求め宿善を修めて(善人になって)、阿弥陀仏の救いに向かってゆきなさい」と、悪人正機とは真逆なことを説いていることに全く気付かない高森顕徹会長

先日12月8日(日)は富山で高森顕徹会長の講演がありました。『歎異抄』第三条を取り上げての講演でしたが、頂いた情報からその内容を推するに

一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

ここの部分を取り上げて、後はいつもの高森教を説いたようです。


まず第三条に表されている「悪人正機」説は、

・阿弥陀仏の本願は、悪人を救済の正しき対象とする
・阿弥陀仏の大悲は、幸せな善人よりも、すべての人に見捨てられていく不幸な悪人のうえにその憐れみは深く、重くかけられている
・阿弥陀仏の救いは、ひとえに如来の慈悲心の必然として恵みあたえられるものであって、人の功績に応じて与える褒美ではない


ということを、特に浄土のご法義を正しく受け止め、理解しているであろう弟子を選んで、その弟子のみに口伝された教えです。ご法義をよく理解していない者が表面的に浅く受け取って、自他共に悪道に堕さないようにとの配慮から、書ではなく、口伝えで伝えられたご法義だということをまず理解すべきです。

そのことをよく理解しない高森会長のような者がこの第三条を読みますと、悪人正機でありながら善人正機のような教えになってしまうのでしょう。そして、親鸞会の「善」の名の下に真実を伝えるためならどんな悪も許されるということで、他人の著書の剽窃を始めとし、執拗な本願寺批判、法要を妨害しての座り込み抗議、大学での偽装勧誘、偽装ベストセラー、息子の不倫疑惑事件もみ消し、上司のセクハラパワハラ、あいまいな会計報告、その他私も知らない、挙げ切れない様々な問題が親鸞会から発生しているのだと思われます。


さて、しかして高森会長は善人よりも悪人を目当てとして救う本願というよりは、ほどんど「真実の自己」の話をして一日の講演を終えました。『大無量寿経』五悪段 五悪

心につねに悪を念ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。

や、いつもの身口意の三業の話、心の行いを重視する話をし、

仏法を聞くとは、法鏡に向かうこと。法は真実。真実を映し出す鏡に近づくこと。
最後、真実の自己、悪人が知らされる。
自惚れている善人でさえ、救われるのだから、悪人と知らされた者はなおさら救われる。


などと話していたようです。


親鸞会では宿善の薄い者がそのままで助かるということはあり得ず、宿善を求めて、薄い宿善がやがて厚くなって、そして救われるのだと教えます。その宿善のものがらの一つが聞法で、それは宿善が厚くなる行為であると共に、法鏡に向かって進み、真実の自己が知らされてゆく行為だというのです。また、聞法のみでなく、五正行の実践と称した朝晩のおつとめ、六度万行の実践と称した布施等の善も勧められます。

前にも言いましたが、「善人」とは宿善の厚い人、「悪人」とは宿善の少ない人、つまり宿善の薄い人です。

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。『唯信鈔』【15】)

ですから、高森会長の説くところは、そのまま(悪人のまま)では助からないから、宿善を求め宿善を修めて(善人になって)、阿弥陀仏の救いに向かってゆきなさいということだと分かります。そして法鏡まで辿り着いた者を救うということですから、そこまで求めた者に論功行賞的に救いを与えるのが阿弥陀仏の本願だということになります。これは悪人正機の完全否定です。

勿論、浄土の教え、阿弥陀仏の救いはそんなものではありません。『唯信鈔』には続いて

しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。

と宿善(過去の善根)すくない身でありながら「ふかく本願を信ぜり」と、他力の信心を獲て摂取不捨の光益にあずかったことを述べられています。この記事で述べたように「ふかく」=「他力」です。


聞法とは、高森教が言うような宿善を厚くする善とか、阿弥陀仏の救いに向かってゆく手段ではなく、既に成就し、私に向かってはたらきかけていて下さる南無阿弥陀仏の救いの法をお聞かせ頂き、これを計らいをまじえずに領受させて頂くことです。真宗の聞法に自力的な意味はありません。念仏にしても同様です。それを自力の聞法、自力の念仏に貶めているのは聞く側、称える側の問題です。

阿弥陀仏は「ここまで求めて来い」と言うので無しに、「お前を待ちきれずにここまで来たぞ」と、南無阿弥陀仏と成って真如の世界より届いて下さった仏様なのです。今、ここにいる、この私の元に、既に来て下さっている仏様なのです。

私には、迷いを離れることも、さとりを開くこともできません。永久に迷い、苦しみ続けていくしかない凡夫です。その私目がけて

一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟(『唯信鈔』【4】)

して、その願成就してはたらいていて下さるのが南無阿弥陀仏の名号法です。宿善が厚かろうが薄かろうが、そんなものは救いと関係ありません。私達はただ、この深重なる誓願を計らいをまじえずに受け容れて、仰せの通り南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と阿弥陀仏の御名を称えて往生一定と期するのみです。


高森教では、「どこそこまで進んで行け」というばかりで、今、ここにいる、この私は救われません。今、ここにいる、この私を救うのが阿弥陀仏の本願です。それは、廃悪修善によって仏に近づいていく善人や聖者よりも、むしろ仏に背を向けて苦しみ続けていくしかない悪人である私を目当てとして建てられたご本願ですから、その教えを「悪人正機」と言われるのです。会員の皆さんは早く「悪人正機」を完全否定する高森教から離れ、本物の「悪人正機」説に出遇って本願を信じ念仏申して頂きたいと思います。



【参照】
『浄土真宗本願寺派 報徳寺』聖典セミナー 『歎異抄』第三条 ~悪人正機の伝承~

質問に答えたようで、実は自分の首を絞めていることに気づかない高森顕徹会長

11月24日(日)、親鸞会館では映画解説がなされました。そこで高森会長は、映画『歎異抄をひらく』についての2つの質問に応答したようです。なお、この映画解説については

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』初の映画「歎異抄をひらく」解説で高森顕徹会長が語ったことから、親鸞会の今後を考える。2019年11月24日(日)映画解説より

の記事でも扱われているので参照して下さい。


まず1つ目の質問は

(1)シナリオブック25ページに平次郎が「親鸞さまは、救われたのですか?」と聞いたあと周りの人は驚いていますが親鸞聖人は「よい質問だな」とおっしゃっています。本当に良い質問だったのでしょうか。

というものでした。ここで「平次郎」とは幼い頃の唯円房のようです。

話の中で高森会長は

法に依りて人に依らざるべし

という四依の文の一部を出し、

その人が、救われていたら教えを聞こう、救われてなかったらやめようと判断するのは間違い。
説かれる法で判断しなければならない。


と話していたようです。説かれる法が正しければ聞こう、間違っていればやめようと判断するのが正しいという主張のようですが、ならば、後生は必堕無間と脅し、全ての人は五逆、謗法、闡提の極悪人だと言いふらし、「宿善を求めよ」「三願転入せよ」と言っては雑行(実態は悪業悪行)を勧め、会長や上司の指示に無条件服従を強いる親鸞会の教えは正しいでしょうか? 間違っているでしょうか? 親鸞聖人はどのように仰せですか?

会員の皆さんは親鸞会で言われることを鵜呑みにするのではなく、実際のところはどうなのかを徹底調査した上で親鸞会の教えを聞くべきかどうか判断すべきだと思います。なお、この話の結論は

真実に導くために子供に花を持たせるという意味で、平次郎に「よい質問だな」と言われた。

というような答えでした。ということは、ハッキリ言えばよくない質問だということでしょう。もっとハッキリ言えば、都合の悪い質問だからしてくれるなということでしょう。

最近、二千畳で講師部員が話をしているが、彼らは信心を獲た上で話をしているのか、未信のままで話をしているのか。この質問は、「こんなことを思ったり、聞いたりするのはよくないことなのか?」と疑問に思った会員から出た質問かもしれません。



次に2つ目の質問は、

(2)阿弥陀仏に速く救われる人と、遅く救われる人があり、阿弥陀仏の救いには条件があるのではないか?

といった質問です。これは唯円房が、殺人を犯して死刑執行を待つ幼馴染みの権八に、牢屋で面会した時のセリフに関してのものです。唯円房は権八に対して

全ての人間が阿弥陀仏の本願に救われ、極楽浄土に生まれることができるんだ。 阿弥陀仏の救いに、条件はないんだよ。

と語っています。このセリフに関しての質問のようです。

これについて、高森会長はまず

阿弥陀様の本願は無条件。善人になったらという条件は一切ない。

などと話したようです。それで、一休禅師と蓮如上人の歌を通して条件と蓋の違いを説明し、その後どうしたら蓋が取れるかについては「宿善にかぎれり」だといって、

宿善を厚くする一番の方法は聞法。仏教を聞かせて頂くこと。

などといった論調で宿善厚くするための聞法を勧めていました。

あのー、高森さん、「宿善」の厚い人ってつまり善人ってことなんですが・・・。要は高森会長の説く阿弥陀仏の本願とは「宿善の厚い者を救う」ということで、「善人になったらという条件」がついています。「無条件」などとはとても言えない本願であることが明らかです。


宿善」に関しては散々述べて来ましたので詳しく言いませんが、蓮如上人は『御文章』においては教えに関心が有るか無いか、教えを真剣に聞く気が有るか無いかで「宿善」「無宿善」の言葉を用いています。高森会長のように、これから阿弥陀仏に救われよう、信心獲得しようとする者が修めるべき善根功徳が「宿善」であるとは教えられておりません。

過去において宿善薄い者は今生において真剣に宿善を求めなければならない。そうしなければ救われない

というような意味で「宿善」の語を用い、「宿善」厚くするための聞法求道、おつとめ、修善を勧めている箇所は一箇所もありません。

聞法といっても、因果の道理や高森教の邪義を聞くことではありません。「本願の名号」「仏願の生起本末」を聞くのです。そして、本願を聞いて疑いないのが聞であり信です。聞法を重ねていってやがて宿善が厚くなり、そして救われるというなら、「多聞多見」というのが救われる条件となります。

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。『選択本願念仏集』難易義

法然聖人はこのように教えられ、教えを多く聞くことが往生の行、つまり救われる条件だとしたなら、そのようにできない多くの人々は、往生の望みを絶たねばならないというのです。

親鸞会は他にも「善をしなければ信仰は進みません」などと話します。要は「善をしなければ信仰は進まず助からない」ということです。ここでは善をすること、そして信仰(?)を進めることが救われる条件となっています。

まだまだ、因果の道理をもっと深く知らされねばならないとか、真実の自己がもっと知らされねばならないとか、後生に驚きが立たねばならないとか、19願の善をド真剣にやらねばならないとか、会員の皆さんは個々に色々とそう考えて活動していると思います。それらは全て救われる条件です。

このように、救われる条件は無い、条件と蓋との違いを知らない、などと話しながら、現実には思いっきり救われる条件を設けまくって、あれせいこれせい、せなんだら助からんぞと会員を組織拡大活動に駆り立て、利用・搾取しているのが親鸞会であり高森顕徹会長であると判ります。

そういった、皆さんが考えているような「救われる条件」というものは本願にはありません。本願を聞く、聞法といっても、今、ここで、この私を浄土に迎え取るという本願の仰せを疑いをまじえずに聞き容れるのみです。

しかしながら、親鸞会では邪義の雑じった「仏願の生起」が説かれるのみで「仏願の本末」は聞かせてもらえず、「本願の名号」である「南無阿弥陀仏の六字のこころ」も教えてはくれません。聞け、聞けと言っていても、我々が聞くべき内容が無いのです。聞くべき内容が無い団体に身を置くことや、そこで話を聞くこと、及び活動することは意味があるのかないのか、会員の皆さんはよく考えてみるべきでしょう。



さて、(1)については、無安心無信心の講師部員が二千畳で話をするようになって

・未信の講師たちに法を説かせること、また未信の講師たちの話を聞くことはどうなの?
・講師の方々に「あなたは救われましたか?」なんて聞くのは悪いことではなかろうか。


と内心思っている会員らから、(2)については

「条件がない」と聞くが、自分も周りも救われていない。本当に阿弥陀仏の救いには条件がないのか?

と思っている会員らから出た、親鸞会の話を聞いていれば当然すぎるほど当然出てくる質問と言えるでしょう。

それに答えたものの、恐らく高森顕徹会長は自分の首を絞めていることに気づいていません。説かれる内容で判断したら親鸞会教義などは親鸞聖人の仰せとは似て非なる邪義であり、救われる条件がないと言いながら「多聞多見」を始めとして多くの条件を設けているからです。

蓮如上人は『御一代記聞書』

一 信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。

と仰って、「自分が信心を得てもいないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、自分は何もものを持たないでいて、人にものを与えようとするようなものである。これでは人が承知するはずがない」と教えられています。また、「まず自分自身の信心を決定して、その上で他の人々に信心を勧めるのである。これが仏恩報謝になるのである」とも仰せです。

自身も助からず、それでいて人前で話をしなければならず、人々に信を取らすこともできない講師部員。また、そんな講師部員の話を半ば疑問視しながらも聞き続ける会員は、実に哀れ哀れです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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