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自分だけ「安全な所」に立って、溺れている者を助けようとしない高森顕徹会長

1月19日(日)は富山で高森顕徹会長の「ご講演」がありました。内容は

映画『歎異抄をひらく』のセリフ
「溺れている者を助けるには、安全な所に立たねばならぬ」
とはどんなことでしょうか?


という質問に答えるというものだったそうです。

既に高森会長の言葉ありきで、それに合わせて聖教の言葉を出して解説している感でいっぱいです。自分の説ありきでそれに合うような聖教の言葉を持ってくる人というのは本願寺派でもたまにありますが、僧籍を剥奪されて「打倒本願寺」に生涯を捧げてきた高森会長はそれしかしないと言っても過言ではありません。


さて、それではまず高森会長の話の大まかな内容を記します。

・「溺れている者」とは色々な苦しみで苦しんでいる人
⇒四苦八苦の説明

色々な苦しみで苦しんでいる人を助けるには、「安全な所に立たねばならぬ」。

・「安全な所に立たねばならぬ」には二義ある。

・一つは「助ける力を持たねばならない」。
しかし私達は阿弥陀仏の本願に救われて絶対の幸福になっても苦しんでいる人を救う力は無い。
助ける力があるのは、阿弥陀仏の本願、大悲の願船のみ。
だから釈尊は仏教の結論として「一向専念無量寿仏」と教えられた。

・もう一つは「阿弥陀仏にこの世で救われて絶対の幸福になること」。
それを「捨自帰他」、自力(本願を疑う心)を捨てて他力に帰するという。
そうなった人は死ぬと阿弥陀仏の極楽浄土に仏と生まれることができる。
そうすれば神通力で縁のある人を救うことができる。
⇒『歎異抄』第五条

・人を救う力は無いが、導くことはできる。それは善知識のもとへ誘うこと。
人に一向専念無量寿仏を勧めること。

・「捨自帰他」とは絶対の幸福になること、正定聚の位に入ること。
入正定聚までの生活は五正行
⇒五正行の説明


先ほど私が言ったことがお判り頂けるのではなかろうかと思います。


次にこの「ご講演」の内容に私からは二点、ツッコミを入れていきます。一つ目は

「溺れている者を助けるには、安全な所に立たねばならぬ」

というセリフ自体についてです。

まぁこれは不適切ですね。高森会長が言っている「溺れている者を助ける」云々といった話は

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。(善導大師・観無量寿経疏・玄義分)

等の語を意識してのことでしょうが、そもそも「水に溺れたる人」を助けるのは阿弥陀仏であって善知識や私達ではありません。私達が何かをする、何かをできるというのは驕慢も甚だしいです。

確かに阿弥陀仏から大慈悲心を頂いた我ら念仏行者の心情からすれば、何とかして有縁の方々も本願を信じ念仏して浄土へ生まれる人生を生きてもらいたいという、いわゆる有情利益の心が出てくるかとは思います。

しかし、私達には人を救う力どころか、人をご法座へお連れすることも難しい、お念仏のいっぺんも称えさすことすらかなわない、非常に非力な存在です。それどころか、本心をたたけば自分や愛する者の幸福は願うが、縁の無い人、憎い人にはそんなことは思わない、冷たい心しか持ち合わせていないことに気付きます。

そういう私達が、一人一人行動は違えど、ご本願を、お念仏を、ご信心を有縁の人に何とか何とかとやっているのはひとえに南無阿弥陀仏のはたらきであって、私達の煩悩妄念から出ている心、行動ではありません。

また、還相回向にしても、衆生済度はすべて回向ですから南無阿弥陀仏のはたらきによってであって、あくまで私達は衆生を済度するという利益を恵まれるということです。私の力というのは微塵も及ばない、ただ本願力の回向によってすべてなさしめられる業なんだと示されたのが二回向四法の『教行証文類』の教えです。

何やらかんやらと説明していますが、

「溺れている者を助けるには、安全な所に立たねばならぬ」

というセリフからは、我執我所執のにおいがプンプン漂ってきます。


二つ目は、入正定聚までの生活は五正行を毎日実践することだというような話をしていた点についてです。

高森教で言う「五正行」とはいわゆる朝晩のおつとめのことですが、これを信心獲得までの階梯、道のりとして教えるところが高森教らしいです。これでは親鸞会で言うところの本願寺が「念仏称えたら助かる」と言っているというのと同じで、親鸞会は「朝晩のおつとめをキチンとしたら助かる」と言っているようなものです。

おつとめとは、南無阿弥陀仏の六字のこころが説かれている『正信念仏偈』や『御文章』を拝読させて頂き、「一心に我をたのめ、必ず後生助けるぞ」の仰せを一身に受けさせて頂いて有難いことだ有難いことだと喜ぶ御恩報謝の行です。その反対におつとめをして助かろう、救いに近づこうとかかっているのは雑行雑修です。

こうやって救いを彼方に置き、そこまで求めていこうというのが特に高森教経験者の心情ですが、これは本願に反する悪い心がけです。本願は南無阿弥陀仏と仕上がって今、ここにいる、この私に届いているのです。今、ここにいる、この私に既に届いている南無阿弥陀仏を、「一心に我をたのめ、必ず後生助けるぞ」の仰せであると称え聞かせて頂く。これが信心であり、この他には後生助かるためには何もありゃしません。後は、既に往生を定めて下された如来広大の恩徳に、行住坐臥にお念仏して報じたてまつるのみです。

それと、この話では一見、雑行を勧めていないように思えますが、高森教に詳しい人は実は雑行、高森の行の勧めがなされていることが分かることでしょう。五正行の中に「讃嘆供養正行」がありますが、高森教では

・親鸞会に人を誘うこと
・親鸞会にお布施をすること


をも「讃嘆供養正行」の中に位置づけています。今回の話の中に

・人を救う力は無いが、導くことはできる。それは善知識のもとへ誘うこと。

等とあったことからもそれが伺えるでしょう。この「善知識」が高森会長を指すことは会内では常識だからです。五正行の意義は正しく示されず、こんな自力雑行、実態は高森の行を勧められ、絶対の幸福というご利益が目当てで後生を願わない会員がいつまでも助からないのは当然すぎるほど当然のことです。


結局、高森会長風に言えば、高森会長は自分だけ「安全な所」に立って、溺れている者を助けようとしません。いや、溺れている者を更に溺れさせ、むしれるだけむしって生死の滝壺に突き落とそうとしていると言っていいやも知れません。これに気付かず、本願のおこころを頂いてお念仏することができない、どころか、搾取されるだけされて現当無益の一生を空しく過ごさんとする高森教の信者は、実に哀れ哀れです。
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自分こそが一番親鸞聖人を悲しませていることに気付かない高森顕徹会長

先日1月5日(日)は富山で高森顕徹会長の初聞法会があったそうです。演題は

「親鸞聖人の悲しみ」

でした。親鸞聖人が喜ばれる年とさせて頂くには、悲しまれたことを知ることが大切だというのです。それを

かなしきかなやこのごろの
 和国の道俗みなともに
 仏教の威儀をもととして
 天地の鬼神を尊敬す
『正像末和讃』愚禿悲歎述懐

のお言葉を通して話があったとのことでした。

説明を一通りした後、私達の禍福は鬼神がもたらすものではなく、我々の身口意の三業による善悪の行為が引き起こすものであると因果の道理を出します。その後、釈尊は、私達は身口意の三業で悪ばかり造り続けていると説き()、親鸞聖人はその姿をハッキリと照らし抜かれて

いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

と述べておられ、かかる我々を救おうと阿弥陀仏は本願(設計図)を立て、大悲の願船を作られたということを話しています。そして、

・大悲の願船には迷信を破らなければ乗せて頂けない
・鬼神が禍福を与えるという迷信を破らねば、大悲の願船には乗れない


と言って、冒頭の和讃は現在の日本人について嘆かれた聖人のお言葉、悲しみであると話していたようです。


高森会長は、自分は親鸞聖人が喜ばれることをしていると思っているのかも知れませんが、実は、自分こそが一番親鸞聖人を悲しませていることに気付かない様子です。

親鸞聖人は『教行証文類』において二ヵ所、「悲しきかな」と仰っています。一箇所は「信文類」

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

です。これは、金剛心を獲て諸仏方に真の仏弟子と讃えられる身となったにも関わらず、依然として広い海、大きな山のような煩悩にまつわられて、必ず往生すべき身に定まったことを喜ばず、日々仏のさとりに近づいていることを楽しまない己に慚愧されているお言葉です。これは親鸞会的に言えば、

絶対の幸福になったのに、煩悩のために絶対の幸福を喜ぶ心が無い

という告白です。阿弥陀仏に救われたことを「絶対の幸福」とか表現する愚かさがよく知られます。

もう一箇所は「化身土文類」

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

です。ここでは煩悩にまみれた愚かな凡夫が迷いの世界を出離することができない理由を、

助正間雑し、定散心雑するがゆゑに

と教えられています。称名念仏一行を往生の正定業として選択し、回向して下さる弥陀の願心に背き、五正行の中の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養の助業と称名の正定業とを同格にみなして修め、その功徳によって往生しようという「定散心」すなわち自力心が雑じっているからだというのです。それを高僧和讃では

助正ならべて修するをば
 すなはち雑修となづけたり
 一心をえざるひとなれば
 仏恩報ずるこころなし


と讃詠されています。善導大師は往生行を正行と雑行とに分けられ、更に正行を称名の正定業と、読誦等の前三後一の助業とに分けられています。そして、上の一つ前の和讃を読めば判るようにその意は

ひとへに専修をすすめしむ

すなわち専修念仏、専修称名を勧めるためであったと親鸞聖人は見ておられます。

その専修念仏、専修称名に対して、助業と正定業を同格にみなして修めるのは雑修であり、これは他力の一心を獲ざる自力の信心の人であるから仏恩を報ずる心が欠けていると言われるのです。

なお上の「化身土文類」のお言葉は真門決釈の御文ですから、その行者はもはや雑行を離れて正行に帰した20願の行者です。ところが20願の行者も、本願のおこころを知らずに助正並べて修め、その功徳によって助かろうという自力心にたぶらかされて本願力に身をまかせることがない、信心の大海に入ることができないから、迷いの世界を出離することができません。そのことを「悲しきかな」と仰っているのです。


親鸞聖人は20願の行者を悲しまれています。では、20願の行者以前の、正行と雑行の分別もつかず、雑行をやることは救いに近づく手段だと思ってこれを修めている人を親鸞聖人はどう思われるでしょうか。また、雑行をやることは救いに近づく手段だからやりなさいと勧める人を親鸞聖人はどう思われるでしょうか。

親鸞会では、因果の道理、七仏通戒偈、19願「修諸功徳」、『観経』「定散二善」等を根拠に、信前の人に六度万行で言い表されているような布施、持戒等の諸善を勧めています。

この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。

ですから、親鸞会では雑行を勧めています。雑行をやっている者は、大悲の願船に乗れるでしょうか。

仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。「化身土文類」雑行釈

ですから、雑行をやっている者を、阿弥陀仏の光明は照らし摂めることはありません。すなわち、雑行をやっている者は、大悲の願船に乗れません。

雑行をやっている者を、親鸞聖人は喜ばれるでしょうか。悲しまれます。

雑行を勧める者を、親鸞聖人は喜ばれるでしょうか。悲しまれます。


高森会長も会員も、親鸞聖人が悲しまれることを平然とやっていることが分かります。先日の高森会長の言葉をもじって言えば

・大悲の願船には迷信を破らなければ乗せて頂けない
・雑行をやることによって救いに近づくという親鸞会の迷信を破らねば、大悲の願船には乗れない


と言うことができます。「親鸞聖人の悲しみ」は親鸞会に向けられています。いつまでも親鸞聖人を悲しませる「親鸞学徒」とは何ぞやと、ため息が出るばかりです。

『歎異抄』第五条の解説なのに念仏の説明を全くしない高森顕徹会長

12月22日(日)は、富山にて高森顕徹会長の「ご講演」(映画解説)がありました。内容は

亡き父母の真の孝行はどうすべきか

という質問に答えるというものでした。


親鸞会の映画『歎異抄をひらく』の中に、

阿弥陀仏の本願を聞かない者こそが親不孝者なのだよ

というセリフがあるそうです。そこで「では真の孝行とは何か」と質問があり、それは阿弥陀仏の本願を聞いて絶対の幸福になることこそが「亡き父母の真の孝行」であるという話をしたのではないかと思います。

それから『歎異抄』第五条を挙げ、親鸞はなぜ親の法要をしないのかと問いを出し、

・一切の有情は皆もって生生世世の父母兄弟であり、順次生に仏になって助けることができるから。
・親鸞にまことの心が無く、念仏を称えたり立派な葬式をして廻向しても、父母を助けることはできないから


と答え、その後

極楽でさとりを開いて神通力を得たら助けることができる。しかしさとりを得る前でも、絶対の幸福になったら、救済の真似事くらいはできる。

として、肉食妻帯の断行や三大諍論、越後や関東でのご布教など、親鸞聖人の生涯は「救済の真似事」だったと味わいを話しています。また、「御臨末の御書」を出して聖人がすぐに戻ってくると言われたのは還相回向のことで、往相回向と還相回向は仏法を聞いて縦の線のところで得られるとも話していたようです。



さて、「絶対の幸福」だとか、往還回向は縦の線で得られる(だからそこまで進め)だとか、ツッコミどころは色々ありますが、やはり一番は、高森会長は『歎異抄』第五条の解説なのに念仏の説明を全くしない点でしょう。今回の話でも、亡き父母の追善供養に「一遍の念仏も申したことがない」が、いつの間にか「法要をしない」ことにすり替わっています。

『歎異抄』第五条では

親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。

とこれまた当時としては―現代もですが―破天荒な発言をされ、その理由の一つとして

わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ。

と答えられています。念仏が「わがちからにてはげむ善」であればその善を亡き父母に差し向けて助けることができようが、念仏は、私どもの一人ひとりが生死を超える道として、如来からたまわった行であって、私が造った功徳ではないから、先亡者に施すことはできないといわれるのです。

念仏は自力回向の行、「凡聖自力の行」ではなく、いずれの行にても生死を離れられない私のために如来が成就して与えたもうた本願力回向の行、私から言えば「不回向の行」だというのです。「行文類」決釈には

あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。

と教えられ、善人も悪人も等しく救いたもう、海のように広大な阿弥陀仏の本願を疑いなく受け容れて念仏し、成仏すべきであると、念仏とその信心を勧められています。


念仏軽視の布教を70年してきた高森会長からは絶対に出ない説明であろうと思われます。また念仏といえば信後の報謝で、「自力念仏の者は必堕無間」と信じてきた親鸞会の会員には、他力回向の信心という概念はあっても他力回向の念仏という概念はおそらくありません。

それゆえ、とにかく信心決定、信心獲得するのが大事で、信心決定しさえすれば念仏は自然についてくるのだから、「信心正因称名報恩」で信心が重要なのだからと、念仏を軽んじて、高森会長の邪義を聞くことや、その勧めに従って親鸞会へ献金・勧誘することを肝要と心得ている人が多いのではないでしょうか。

また、おつとめや高森会長及び講師部員の話の前後に合掌念仏しますが、会員の皆さんはどう思って念仏しているのでしょうか。私は会員だった頃、話の前には「何とかこの一座で信心決定したい、させて下さい」と祈るような気持ちで称え、話の後には「今日も空しく一日終わってしまった」と呆然と何となくいつもの習慣で称えていました。今の会員には、高森会長の教えから、あるいは仏法に遇わせて頂き聞かせて頂く身になったことへの感謝として、あるいは宿善を厚くして縦の線(救い)に近づく手段として称えている人が多いかもしれません。


念仏とは、確かに私の上に現れていますが、決して私の煩悩妄念から出たものでも、私が選んで称えているものでもありません。阿弥陀仏が本願において、称名念仏一行を往生の行と選び択り、「これで助かってくれよ」と大悲を込めて施し与えて下さっている如来の行なのです。わずか一声で無上の功徳を行者に具足せしめ、必ず往生成仏すべき身に定め、命終わると同時に速やかにさとりを開かせる超世希有の勝行なのです。

そのように如来が誓願し、その誓願成就して与えて下さったのだから、このお念仏一つで間違いなく往生すると如来の計らいに疑いなくまかせ、自力を離れたのが信心です。お念仏の六字、南無阿弥陀仏を成就された如来の本願のおこころを

「必ず浄土に迎えるから、安心せよ、我にまかせよ」

と表現されますが、その本願、南無阿弥陀仏の六字のこころをこのように頂き、疑いなく我が往生をまかせたのが信心です。

念仏を称えている者は多いけれども、その念仏を往生の行と誓われた本願のおこころを知らなければ往生はまことにもって不確かですから、親鸞聖人は「行文類」と『尊号真像銘文』に、蓮如上人は『御文章』にそれぞれ南無阿弥陀仏の六字釈を施して、信行一体、機法一体の南無阿弥陀仏を示して下さったのでした。


今年も、頂いた情報による限り、高森会長は本願の念仏も、信心の体である南無阿弥陀仏の六字のこころも説くことはありませんでした。これで、聞く者が信心決定して往生一定の身になり、お念仏を申して如来広大の御恩を報じたてまつることができないのは当たり前の当たり前の話です。

間もなく、2019年も終わろうとしています。会員の皆さんは、今宵後生を迎えて悔いはないでしょうか? 後生といっても遠い話ではなく、只今の話です。後生の一大事とは、すなわち只今の一大事です。只今、再び迷いの世界に帰るか、浄土に往生して仏に成らせて頂くか、という一大事です。

その一大事を、阿弥陀仏の本願を聞かせて頂き、平生の一念に往生の一大事決するという教えが浄土真宗です。救われるのかどうか分からない聞法の道をひたすら進めという教えではないのです。聞法とは、既に成就され、私の所へ届いている救いの法、南無阿弥陀仏をお聞かせ頂くのであって、自分の善根(聞法善とか)と捉え、これを積み重ねて救われよう、救いに近づこうという自力の行とは違うのです。

念仏にしても同じです。既に成就され、「名号を称える者を極楽に迎える」という本願を聞いて、疑いをまじえずに往生を本願力にまかせてそのまま称える他力の行であって、自分の善根と捉え、これを積み重ねて救われよう、往生をより確かなものにしようという自力の行ではないのです。

親鸞会会員は、「念仏を称えて救われよう」が「聴聞して救われよう」に変化しただけです。逆に、聴聞の内容が南無阿弥陀仏の六字ではなく、宿善を厚くせよ、そのために雑行をやれ、という教えですから真宗とは大きく隔たっています。このようなエセ真宗とは一刻も早くさよならすべきです。

今宵の後生を思えば、ただ如来が与えたもうた南無阿弥陀仏を称え、その心は「我にまかせよ」との如来直々の勅命であると疑いなく聞き受けて、安心して後生をおまかせして下さい。そうした真実信心の行人を、今生では正定聚の位、摂取不捨の利益にあずけしめ、命終わると同時に必ず浄土に往生させて下さいます。こうした現当二益の救いには平生只今あずからせて頂けますから平生業成です。これが浄土真宗です。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
聖典セミナー 「歎異抄」第五条 ~追善供養をこえて~

悪人正機説に触れながら、「そのまま(悪人のまま)では助からないから、宿善を求め宿善を修めて(善人になって)、阿弥陀仏の救いに向かってゆきなさい」と、悪人正機とは真逆なことを説いていることに全く気付かない高森顕徹会長

先日12月8日(日)は富山で高森顕徹会長の講演がありました。『歎異抄』第三条を取り上げての講演でしたが、頂いた情報からその内容を推するに

一 善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

ここの部分を取り上げて、後はいつもの高森教を説いたようです。


まず第三条に表されている「悪人正機」説は、

・阿弥陀仏の本願は、悪人を救済の正しき対象とする
・阿弥陀仏の大悲は、幸せな善人よりも、すべての人に見捨てられていく不幸な悪人のうえにその憐れみは深く、重くかけられている
・阿弥陀仏の救いは、ひとえに如来の慈悲心の必然として恵みあたえられるものであって、人の功績に応じて与える褒美ではない


ということを、特に浄土のご法義を正しく受け止め、理解しているであろう弟子を選んで、その弟子のみに口伝された教えです。ご法義をよく理解していない者が表面的に浅く受け取って、自他共に悪道に堕さないようにとの配慮から、書ではなく、口伝えで伝えられたご法義だということをまず理解すべきです。

そのことをよく理解しない高森会長のような者がこの第三条を読みますと、悪人正機でありながら善人正機のような教えになってしまうのでしょう。そして、親鸞会の「善」の名の下に真実を伝えるためならどんな悪も許されるということで、他人の著書の剽窃を始めとし、執拗な本願寺批判、法要を妨害しての座り込み抗議、大学での偽装勧誘、偽装ベストセラー、息子の不倫疑惑事件もみ消し、上司のセクハラパワハラ、あいまいな会計報告、その他私も知らない、挙げ切れない様々な問題が親鸞会から発生しているのだと思われます。


さて、しかして高森会長は善人よりも悪人を目当てとして救う本願というよりは、ほどんど「真実の自己」の話をして一日の講演を終えました。『大無量寿経』五悪段 五悪

心につねに悪を念ひ、口につねに悪をいひ、身につねに悪を行じて、かつて一善もなし。

や、いつもの身口意の三業の話、心の行いを重視する話をし、

仏法を聞くとは、法鏡に向かうこと。法は真実。真実を映し出す鏡に近づくこと。
最後、真実の自己、悪人が知らされる。
自惚れている善人でさえ、救われるのだから、悪人と知らされた者はなおさら救われる。


などと話していたようです。


親鸞会では宿善の薄い者がそのままで助かるということはあり得ず、宿善を求めて、薄い宿善がやがて厚くなって、そして救われるのだと教えます。その宿善のものがらの一つが聞法で、それは宿善が厚くなる行為であると共に、法鏡に向かって進み、真実の自己が知らされてゆく行為だというのです。また、聞法のみでなく、五正行の実践と称した朝晩のおつとめ、六度万行の実践と称した布施等の善も勧められます。

前にも言いましたが、「善人」とは宿善の厚い人、「悪人」とは宿善の少ない人、つまり宿善の薄い人です。

宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。『唯信鈔』【15】)

ですから、高森会長の説くところは、そのまま(悪人のまま)では助からないから、宿善を求め宿善を修めて(善人になって)、阿弥陀仏の救いに向かってゆきなさいということだと分かります。そして法鏡まで辿り着いた者を救うということですから、そこまで求めた者に論功行賞的に救いを与えるのが阿弥陀仏の本願だということになります。これは悪人正機の完全否定です。

勿論、浄土の教え、阿弥陀仏の救いはそんなものではありません。『唯信鈔』には続いて

しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。

と宿善(過去の善根)すくない身でありながら「ふかく本願を信ぜり」と、他力の信心を獲て摂取不捨の光益にあずかったことを述べられています。この記事で述べたように「ふかく」=「他力」です。


聞法とは、高森教が言うような宿善を厚くする善とか、阿弥陀仏の救いに向かってゆく手段ではなく、既に成就し、私に向かってはたらきかけていて下さる南無阿弥陀仏の救いの法をお聞かせ頂き、これを計らいをまじえずに領受させて頂くことです。真宗の聞法に自力的な意味はありません。念仏にしても同様です。それを自力の聞法、自力の念仏に貶めているのは聞く側、称える側の問題です。

阿弥陀仏は「ここまで求めて来い」と言うので無しに、「お前を待ちきれずにここまで来たぞ」と、南無阿弥陀仏と成って真如の世界より届いて下さった仏様なのです。今、ここにいる、この私の元に、既に来て下さっている仏様なのです。

私には、迷いを離れることも、さとりを開くこともできません。永久に迷い、苦しみ続けていくしかない凡夫です。その私目がけて

一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟(『唯信鈔』【4】)

して、その願成就してはたらいていて下さるのが南無阿弥陀仏の名号法です。宿善が厚かろうが薄かろうが、そんなものは救いと関係ありません。私達はただ、この深重なる誓願を計らいをまじえずに受け容れて、仰せの通り南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と阿弥陀仏の御名を称えて往生一定と期するのみです。


高森教では、「どこそこまで進んで行け」というばかりで、今、ここにいる、この私は救われません。今、ここにいる、この私を救うのが阿弥陀仏の本願です。それは、廃悪修善によって仏に近づいていく善人や聖者よりも、むしろ仏に背を向けて苦しみ続けていくしかない悪人である私を目当てとして建てられたご本願ですから、その教えを「悪人正機」と言われるのです。会員の皆さんは早く「悪人正機」を完全否定する高森教から離れ、本物の「悪人正機」説に出遇って本願を信じ念仏申して頂きたいと思います。



【参照】
『浄土真宗本願寺派 報徳寺』聖典セミナー 『歎異抄』第三条 ~悪人正機の伝承~

質問に答えたようで、実は自分の首を絞めていることに気づかない高森顕徹会長

11月24日(日)、親鸞会館では映画解説がなされました。そこで高森会長は、映画『歎異抄をひらく』についての2つの質問に応答したようです。なお、この映画解説については

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』初の映画「歎異抄をひらく」解説で高森顕徹会長が語ったことから、親鸞会の今後を考える。2019年11月24日(日)映画解説より

の記事でも扱われているので参照して下さい。


まず1つ目の質問は

(1)シナリオブック25ページに平次郎が「親鸞さまは、救われたのですか?」と聞いたあと周りの人は驚いていますが親鸞聖人は「よい質問だな」とおっしゃっています。本当に良い質問だったのでしょうか。

というものでした。ここで「平次郎」とは幼い頃の唯円房のようです。

話の中で高森会長は

法に依りて人に依らざるべし

という四依の文の一部を出し、

その人が、救われていたら教えを聞こう、救われてなかったらやめようと判断するのは間違い。
説かれる法で判断しなければならない。


と話していたようです。説かれる法が正しければ聞こう、間違っていればやめようと判断するのが正しいという主張のようですが、ならば、後生は必堕無間と脅し、全ての人は五逆、謗法、闡提の極悪人だと言いふらし、「宿善を求めよ」「三願転入せよ」と言っては雑行(実態は悪業悪行)を勧め、会長や上司の指示に無条件服従を強いる親鸞会の教えは正しいでしょうか? 間違っているでしょうか? 親鸞聖人はどのように仰せですか?

会員の皆さんは親鸞会で言われることを鵜呑みにするのではなく、実際のところはどうなのかを徹底調査した上で親鸞会の教えを聞くべきかどうか判断すべきだと思います。なお、この話の結論は

真実に導くために子供に花を持たせるという意味で、平次郎に「よい質問だな」と言われた。

というような答えでした。ということは、ハッキリ言えばよくない質問だということでしょう。もっとハッキリ言えば、都合の悪い質問だからしてくれるなということでしょう。

最近、二千畳で講師部員が話をしているが、彼らは信心を獲た上で話をしているのか、未信のままで話をしているのか。この質問は、「こんなことを思ったり、聞いたりするのはよくないことなのか?」と疑問に思った会員から出た質問かもしれません。



次に2つ目の質問は、

(2)阿弥陀仏に速く救われる人と、遅く救われる人があり、阿弥陀仏の救いには条件があるのではないか?

といった質問です。これは唯円房が、殺人を犯して死刑執行を待つ幼馴染みの権八に、牢屋で面会した時のセリフに関してのものです。唯円房は権八に対して

全ての人間が阿弥陀仏の本願に救われ、極楽浄土に生まれることができるんだ。 阿弥陀仏の救いに、条件はないんだよ。

と語っています。このセリフに関しての質問のようです。

これについて、高森会長はまず

阿弥陀様の本願は無条件。善人になったらという条件は一切ない。

などと話したようです。それで、一休禅師と蓮如上人の歌を通して条件と蓋の違いを説明し、その後どうしたら蓋が取れるかについては「宿善にかぎれり」だといって、

宿善を厚くする一番の方法は聞法。仏教を聞かせて頂くこと。

などといった論調で宿善厚くするための聞法を勧めていました。

あのー、高森さん、「宿善」の厚い人ってつまり善人ってことなんですが・・・。要は高森会長の説く阿弥陀仏の本願とは「宿善の厚い者を救う」ということで、「善人になったらという条件」がついています。「無条件」などとはとても言えない本願であることが明らかです。


宿善」に関しては散々述べて来ましたので詳しく言いませんが、蓮如上人は『御文章』においては教えに関心が有るか無いか、教えを真剣に聞く気が有るか無いかで「宿善」「無宿善」の言葉を用いています。高森会長のように、これから阿弥陀仏に救われよう、信心獲得しようとする者が修めるべき善根功徳が「宿善」であるとは教えられておりません。

過去において宿善薄い者は今生において真剣に宿善を求めなければならない。そうしなければ救われない

というような意味で「宿善」の語を用い、「宿善」厚くするための聞法求道、おつとめ、修善を勧めている箇所は一箇所もありません。

聞法といっても、因果の道理や高森教の邪義を聞くことではありません。「本願の名号」「仏願の生起本末」を聞くのです。そして、本願を聞いて疑いないのが聞であり信です。聞法を重ねていってやがて宿善が厚くなり、そして救われるというなら、「多聞多見」というのが救われる条件となります。

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。『選択本願念仏集』難易義

法然聖人はこのように教えられ、教えを多く聞くことが往生の行、つまり救われる条件だとしたなら、そのようにできない多くの人々は、往生の望みを絶たねばならないというのです。

親鸞会は他にも「善をしなければ信仰は進みません」などと話します。要は「善をしなければ信仰は進まず助からない」ということです。ここでは善をすること、そして信仰(?)を進めることが救われる条件となっています。

まだまだ、因果の道理をもっと深く知らされねばならないとか、真実の自己がもっと知らされねばならないとか、後生に驚きが立たねばならないとか、19願の善をド真剣にやらねばならないとか、会員の皆さんは個々に色々とそう考えて活動していると思います。それらは全て救われる条件です。

このように、救われる条件は無い、条件と蓋との違いを知らない、などと話しながら、現実には思いっきり救われる条件を設けまくって、あれせいこれせい、せなんだら助からんぞと会員を組織拡大活動に駆り立て、利用・搾取しているのが親鸞会であり高森顕徹会長であると判ります。

そういった、皆さんが考えているような「救われる条件」というものは本願にはありません。本願を聞く、聞法といっても、今、ここで、この私を浄土に迎え取るという本願の仰せを疑いをまじえずに聞き容れるのみです。

しかしながら、親鸞会では邪義の雑じった「仏願の生起」が説かれるのみで「仏願の本末」は聞かせてもらえず、「本願の名号」である「南無阿弥陀仏の六字のこころ」も教えてはくれません。聞け、聞けと言っていても、我々が聞くべき内容が無いのです。聞くべき内容が無い団体に身を置くことや、そこで話を聞くこと、及び活動することは意味があるのかないのか、会員の皆さんはよく考えてみるべきでしょう。



さて、(1)については、無安心無信心の講師部員が二千畳で話をするようになって

・未信の講師たちに法を説かせること、また未信の講師たちの話を聞くことはどうなの?
・講師の方々に「あなたは救われましたか?」なんて聞くのは悪いことではなかろうか。


と内心思っている会員らから、(2)については

「条件がない」と聞くが、自分も周りも救われていない。本当に阿弥陀仏の救いには条件がないのか?

と思っている会員らから出た、親鸞会の話を聞いていれば当然すぎるほど当然出てくる質問と言えるでしょう。

それに答えたものの、恐らく高森顕徹会長は自分の首を絞めていることに気づいていません。説かれる内容で判断したら親鸞会教義などは親鸞聖人の仰せとは似て非なる邪義であり、救われる条件がないと言いながら「多聞多見」を始めとして多くの条件を設けているからです。

蓮如上人は『御一代記聞書』

一 信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。

と仰って、「自分が信心を得てもいないのに、人に信心を得なさいと勧めるのは、自分は何もものを持たないでいて、人にものを与えようとするようなものである。これでは人が承知するはずがない」と教えられています。また、「まず自分自身の信心を決定して、その上で他の人々に信心を勧めるのである。これが仏恩報謝になるのである」とも仰せです。

自身も助からず、それでいて人前で話をしなければならず、人々に信を取らすこともできない講師部員。また、そんな講師部員の話を半ば疑問視しながらも聞き続ける会員は、実に哀れ哀れです。

「法鏡(縦の線)に向かって進め」と言うばかりで、今は救われない教えを説く高森顕徹会長

昨日は富山で高森顕徹会長の講演がありました。演題は

親鸞聖人の告白

というもので、その告白の言葉として出したのが『正像末和讃』

是非しらず邪正もわかぬ
 このみなり
 小慈小悲もなけれども
 名利に人師をこのむなり


でした。三枚の鏡(他人鏡、自分鏡、法鏡)を出しての話で、内容はいわゆる「真実の自己」だったそうです。


まず、親鸞会で尤もらしく説いている、お釈迦様がお亡くなりになる時に「我は汝らに法鏡を授けるであろう」と仰ったという話について。今回も出てきましたが、これはデタラメです。この記事にて園児さんのコメントを紹介していますが、再度アップしておきます。

親鸞会では「三枚の鏡」や「法鏡」の話がもっともらしく出て来ます。しかし親鸞会の説く法鏡の話は仏説と言えない創作物語だと思います。

法鏡は「法の鏡の法門」として涅槃経に出てきます。釈尊の弟子の死後を案じた阿難尊者が釈尊に質問したところ
一、ブッダに対する清らかな信仰
二、法に対する清らかな信仰
三、教団に対する清らかな信仰
四、戒律を守る
をたもてば「死後はわかるであろう」とお説きになった話です。
(https://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn16/dn16c09.htm)

上の話からわかるように涅槃経の「法の鏡」の鏡は
「 仏教を学べば学ぶほど、自分自身の本当の姿を知らされます。」
と親鸞会の教えるような「自分の姿を写す」といった鏡としては出てきません。
「汝らに法鏡を授けるであろう」
という文も涅槃経には出てきません。強いて言えば「我今復為汝等説法鏡経」が該当します。原文の「説く」が「授ける」に変わってしまっています。「親鸞会的」法鏡であれば「授ける」の方が都合がよいので「授ける」としたのだと思います。

一方、善導大師は『観経疏』序分義に
「経教はこれを喩うるに鏡の如し。」
と残されていて、こちらはまだ意味が近いかと思います。それならば涅槃経の話とせずに善導大師の話として出せば良い話です。親鸞会は善導大師のお言葉を意図的に改変したか、例によって誰かの著書や布教本からのパクリによってこの話を作ったのだと思います。
(※)


高森会長や講師部員の話を鵜呑みにしている方、これが現実です。出典もデタラメ、経典の意味内容とも合わない、パクリと創作で70年布教してきたのが高森顕徹会長という人物であると正見した方がよいです。


次に、今回高森会長が話していた

仏教を聞くとは、その鏡に近づくこと。一日聞けば一日分近づき、一ヶ月聞けば一ヶ月分近づく。鏡に近づけば近づくほど、自分の姿が見えて来る。

という内容についてです。どうやら親鸞会では、いつもの縦と横の線で言う「縦の線」の所に法鏡があるらしく、高森会長や親鸞会の話を聞くことはその法鏡に向かって進むことのようです。

なら10年聞いている人は10年分、20年聞いている人は20年分、50年聞いている人は50年分近づいているはずですが、その縦の線、法鏡にたどり着いたという方は親鸞会にあるでしょうか? 結局、どれだけ親鸞会で聞き続けようと、キリがないんです。そりゃあそうです。阿弥陀仏の救いを遠い彼方に置き、そこに向かって進んで行こうという教えなのですから。それを「自力」と言うのですが、会員は自力の求道を美学としているのですから手に負えません。高森会長の教えを一言で言うと

「法鏡(縦の線)に向かって進め」

になりますが、親鸞聖人の教えは「本願力回向」です。浄土に向かって進むことも、にじり寄ることもできない私達に、阿弥陀仏の方からやって来られて、救いの法である南無阿弥陀仏を与えて救う、そういう教えですから、高森会長の教えとは向きが真反対なわけです。図で示すと

親鸞聖人の教え
南無阿弥陀仏 →→→→→→ 私


高森会長の教え
法鏡(縦の線) ←←←←←← 私


ということです。ちなみに、南無阿弥陀仏から私へ向かうといっても既に届いているので距離はありませんが、その逆に私から真実へ向かって進もうとすると、これには無限の距離があります。

また、親鸞聖人の教えは「平生業成」です。平生とは、すなわち今ということです。本願は南無阿弥陀仏と成就して、私達が求めるより先に、既に届けられています。私達は、その南無阿弥陀仏の名号法を信受することで救われるのですから、今、ここで救われることができる教えなのです。

対して、高森会長の教えは法鏡(縦の線)に向かって進み、進んだ先の救いです。今の救いではありません。その証拠に、10年20年、それ以上聞いている人でもまだまだ法鏡(縦の線)にたどり着かないでしょう。

今は救われません。聴聞して、活動して、法鏡(縦の線)にたどり着いた時に救われます。

高森会長の主張は要はこのようなものです。今救われるわけがありません。これは「平生業成」の否定です。親鸞会では聞き始めの人には「平生業成」の語を出して、さもすぐに救われるかのように話しますが、奥座敷へ入っていけばこんなものです。そして、救われるにはあれせいこれせい、救われなかったら後生は必堕無間だと言って、組織拡大活動に利用・搾取するのみです。


なお、今回の高森会長の話は、以前(2012年)

『親鸞会を脱会した人(したい人)へ』質問「家で休むことは悪ですか?」→高森会長「真実の自己を知るのは難しい」(6月24日二千畳座談会より)

にて宮田先生が指摘されているような

•高森会長の仏願の生起本末の話は、「生起」しかしない。
•真実の自己を知る(法鏡に近づく)。煩悩具足の自己と知るのが法話


ということそのものです。今回は「煩悩具足の自己」が「極悪人」「無慈悲で名利しか求めていない者」に変わっただけです。救いの法を与えられず、自力の求道を美学として組織拡大活動に利用されて、「死ぬまで求道」「死んでも助からない」教えに迷い、その迷っていることすら気づかない会員は、どこまでも哀れ哀れです。



【参照】
『WikiArc』「法の鏡」三宝
『涅槃経』に説かれる「法鏡」とは「自己を知る鏡」ということではなくて、「三宝に対する帰依」を言います。

本願の内容も「対機説法」「応病与薬」ということも知らず、邪義を唱え続ける高森顕徹会長

昨日(10月20日)は親鸞会の報恩講の2日目で、高森顕徹会長の講演がありました。10月6日も午後だけ話をしていたようですが()、宣言通り講演をするのはかなり久しぶりな気がします。

しかし、話をしても内容は所詮親鸞聖人の教えとは異なる邪義、邪説でした。

高森会長は、お釈迦様は全ての人を曽無一善、一生造悪、罪悪深重、煩悩熾盛の者と知らせ、「絶対の幸福」にするという阿弥陀仏の本願まで導くために因果の道理を教えられ、廃悪修善を勧められたというのです。

本願の説明もさることながら、「善人と悪人がいるのではない、全ての人は悪人」とか、全ての人に廃悪修善を勧められたように教えているところが、相変わらず仏教、真宗に無知な高森会長らしいです。


阿弥陀仏の本願は

至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のり『尊号真像銘文』
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたる『末灯鈔』12通

ということであって、「全ての人を絶対の幸福にする」なんていう創価学会のようなものとは違います。信楽は「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」という本願を計らいをまじえずに受け容れたことであり、絶対の幸福とかいうミラクルな幸せになったことではありません。

お釈迦様は、この世の幸福云々を超えて、生死を解脱して成仏得道することを教えられた方であり、

幸せになりたければ「廃悪修善」をしなさい

こんな程度の低い教えを説いた方とは異なります。善も悪も成仏に関してであり、この世を幸せに生きることが目的ではありません。倫理道徳に毛の生えたようなものが仏教と思ってもらっては困ります。その成仏得道を目指す道に様々あって、その内、阿弥陀仏の浄土に往生して成仏しようというのが浄土真宗です。


お釈迦様が教えられたことを「経」と言いますが、膨大な量の経典があり、それぞれ様々な教えが説かれているのは、相手(機)に応じて最善の法を説かれたからです。これを「対機説法」と言います。

親鸞会でも「対機説法」とは言われますが、意味が分かっていません。相手が違うのですから、全て同じ教えになるわけがないのです。それをわきまえずに全ての人に因果の道理を説いて廃悪修善を勧められたと教えるところが無知の極みです。

人は人の数だけ違いがありますが、その中で極めて優れた善人から極重の悪人まで無限の階層があります。その中で、善人には善人に即した教えを、悪人には悪人に即した教えを説かれたのがお釈迦様です。

まず、『観無量寿経』では韋提希の要請によって定善が説かれ、その後釈尊が自ら散善をお説きになられています。そして人々を上品上生から下品下生の九品に分類し、その上品と中品には世福、戒福、行福の三福行(散善)を勧められています。しかし下三品に至っては、善は勧められず、いきなり念仏を勧められるのです。

次に、親鸞聖人は「行文類」に『安楽集』を引いて次のように教えられています。

『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。

【現代語訳】
 『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、«仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか»とお尋ねした。
 世尊は父の王に、«仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです»と仰せになった。


現代語訳を読めば判ると思いますが、釈尊は父である浄飯王に善ではなく、いきなり念仏を勧めておられます。しかも「行文類」に引かれているということは、真実の行、他力の念仏を勧めていると親鸞聖人は見られているのです。因果の道理を説いて廃悪修善を勧め、曽無一善、罪悪深重と分からせてから阿弥陀仏の本願を説くなどという回りくどいことを釈尊はしておられません。

それもそのはずです。仏教は「応病与薬」で、医者が病人の病に応じて薬を与えるように、相手の機に応じてそれに最もふさわしい法を授けるという教えだからです。

存覚上人は『持名鈔』にそのことを次のように教えられています。

薬をもつて病を治するに、かろき病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆゑに罪悪の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらるるなり。されば『選択集』のなかに、「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん」といへるは、このこころなり。

病に応じて薬を与えるのが良医です。良医と同じように、仏は機に応じて法を説かれたのです。上根の機、つまり善人には諸行(善)を授け、下根の機、つまり悪人には念仏を勧められているのです。悪業の深い末世の凡夫は、念仏以外には救われる手立てがないのです。それを法然聖人は『選択集』約対章

しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。

と教えて下されているのです。「無明淵源の病」「重病の淵源」は、余行(諸善)という薬では治せない。ただ念仏という「中道腑臓の薬」「霊薬の腑臓」によってのみ治すことができるというのです。後に法然聖人はそれを「醍醐の妙薬」と表され、親鸞聖人はこれを「信文類」

本願醍醐の妙薬

と表現されています。本願の念仏のことです。


このようなことですから、私達が曽無一善、一生造悪、罪悪深重、煩悩熾盛の者ならば、余行という善ではなく、「中道腑臓の薬」「霊薬の腑臓」「本願醍醐の妙薬」という念仏を勧め、そのいわれを説いて本願を信受させるというのが筋です。諸善では「無明淵源の病」は治せませんから、与えても意味がありません。それはまるでがん患者に風邪薬を、肛門の治療に目薬を処方するようなものです。もしそんな医者がいたらそれは良医でしょうか? もしそんな医者に診てもらっていると分かったらどう思うでしょうか?

もうお判りのように、がん患者に風邪薬を、肛門の治療に目薬を処方するような医者が高森顕徹会長だということです。そして、何十年と聞いてきた者にも相変わらず間違った処方薬を与えているのです。会員の皆さんが信心も安心も分からず、無明業障の病が治らないのは当然すぎるほど当然なのです。病に効果のある薬を与えられていないのですから。

私達が後生の一大事を助かり、浄土に往生して仏に成るべき道はただ念仏往生の一道です。その念仏とは、努め称えて我が功徳とし、これを積み重ねて往生するというものではありません。称え聞こえる南無阿弥陀仏の声は、

我にまかせよ、必ず救う
必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい


と招き喚び続けておられる阿弥陀仏の勅命です。この阿弥陀仏の仰せを仰せのままに受け容れ、身も心もすっかり阿弥陀仏におまかせしたのが信心です。これが本願の念仏信心です。

阿弥陀仏は私達を浄土に招待しておられるのです。せっかく招いて下さっているのですから、疑ったり躊躇したりせずに、仰せの通りお招きにあずかったらいいのです。反対に、グズグズして応じないというのはまことに失礼なことです。因果の道理を信じて廃悪修善をやって救いに近づこうなんてのはもってのほかです。

阿弥陀仏の本願は南無阿弥陀仏と成就して、今、ここに、既に届いています。只今、南無阿弥陀仏の六字のこころを頂いて往生は定まります。因果の道理を信じて廃悪修善を実践していった先ではありません。それでは今は助からないということです。今は助からないということは、高森会長の言葉で言うなら「死んだらお助け」ということです。それは浄土真宗ではありません。浄土真宗は「平生業成」です。

会員の皆さんは、何が目的で親鸞会に入り、活動しているのかよく考えて頂きたいと思います。親鸞会では、本当の意味での「平生業成」は説かれていません。「死んだらお助け」、もっと言うなら「死んでも助からない」教えしかありません。今宵の後生を思ったら、親鸞会の教えで自分は助かるのか、疑問に思ったらそのままにせず、よく向き合って考えてみることです。皆さんが本願を疑いなく信受して念仏を申し、報土往生の一大事を遂げられるよう願っています。



【参照】
『飛雲』対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」

【後書】
解釈におかしな点がありましたので修正しました。指摘して頂きありがとうございます。

親鸞聖人の報恩講であるはずなのに、演題とも、親鸞聖人の教えともおよそかけ離れた親鸞会流「因果の道理」を説く高森顕徹会長

昨日(10月19日)は親鸞会の報恩講の初日で、午後から高森顕徹会長の講演がありました。演題は

「なぜ生きる」と「歎異抄」

だったのですが、内容は演題とも、親鸞聖人の教えともおよそかけ離れた親鸞会流「因果の道理」でした。


序盤は阿弥陀仏とお釈迦様の関係をいつものように話し、

如来所以興出世 唯説弥陀本願海

の正信偈の御文を出して

お釈迦様は阿弥陀仏の本願一つを明らかにされた

と説いていました。ここまではまぁ当たり障りのない内容でしたが、問題はここから。高森顕徹会長は、如来とはお釈迦様であり、お釈迦様は私達が求めている「幸福」のために一生涯、「因果の道理」を説いていかれたと話し出したのです。この後は今まで説いてきたような「因果の道理」の説明を今回も同じように繰り返し、

・お釈迦様は、私達が幸せになるために因果の道理を明らかにされ、廃悪修善を勧められた
・お釈迦様は一生涯、因果の道理を説いて、幸福になりたかったら廃悪修善をしなさいと教えられた


などと話していました。このことと先の正信偈のお言葉との関係は今日(10月20日)話すそうです。


それにしても、高森顕徹会長の話は親鸞聖人の教えとは真っ向から対立しています。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。「教文類」

浄土真宗とは、阿弥陀仏が二つのもの(往相と還相)を恵み与えて下さるという教え、本願力回向の教えです。そして

往相の回向について真実の教行信証あり。

と言われ、具体的には第十七願(教、行)、第十八願(信)、第十一願(証)の回向によって私達が往生成仏せしめられていくと教えられています。浄土真宗は、私達に真実の教行信証を与えて生死の迷界から真実報土へと渡す阿弥陀仏の大悲の本願力がましますこと、それが現に今はたらいていることを教えられているのです。私達が求めている幸福云々を超えた出離、そして成仏の話であり、高森教とはスケールが違います。

この阿弥陀仏の救いにあずかるには、私達が因果の道理を信じて廃悪修善をする必要はまったくありません。すべて阿弥陀仏の本願力の独用(ひとりばたらき)です。真実の教も、真実の行も、真実の信も、真実の証も、全て阿弥陀仏の御回向のもの、私はただその回向を受けるのみです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。「信文類」

【現代語訳】
このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。

それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。「証文類」

【現代語訳】
さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべて阿弥陀仏の大いなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因が清らかであるから、果もまた清らかである。よく知るがよい。

往生成仏に必要な行信は既に南無阿弥陀仏と仕上がって、現に今私達に回向されています。私達は疑ったり躊躇したりせずに「南無阿弥陀仏必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい)」と招喚したまう阿弥陀仏の本願の仰せをそのまま聞き受け、仰せのままにお念仏申すのみです。

本願のお言葉を聞き、仰せの通りに受け容れて阿弥陀さまに後生をおまかせしたのを他力の信心といいます。それに対して、自力の信心があります。自力の信心とは、因果の道理を信じ、我が善悪にとらわれる心で本願の救いを求める心のことです。

罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。「化身土文類」

【現代語訳】
罪を恐れ自分の善をあてにする心で本願力を願い求めるのであり、これを自力の専心というのである。

罪福を信ずる心」とは、要は因果の道理を信じる心です。このようなことですから、高森顕徹会長の

幸福になりたかったら廃悪修善をしなさい

という教えは、浄土真宗、本願力回向の教えとは真逆な自力回向自力修行的な教えだと判ります。そして、実態は「やりなさい」と勧めている善とは主に

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
・親鸞会に財施すること
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


を中心とする「高森の行」、いわゆる組織拡大活動、善でも行でもない悪業悪行ですから、浄土真宗でも親鸞聖人の教えでも、まして仏教でもない一新興宗教の教えです。

そんな高森会長の邪義を真に受けて、廃悪修善を実践して本願の救いに近づこうなどと考えている会員はまさに自力の信心そのものであることがお判りでしょう。同時に高森顕徹会長の教えは、会員を自力の信心に押し留める教えであることも判ると思います。廃悪修善を実践して救いに近づこうなんて者が、疑いなく慮りなく弥陀をたのむことなどあり得ないからです。


なお、本願の救いに因果の道理や廃悪修善の実践が不要なことを『歎異抄』で言うなら

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに(第一条)

自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず(第三条)

罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり(第七条)

まつたく、悪は往生のさはりたるべしとにはあらず。持戒・持律にてのみ本願を信ずべくは、われらいかでか生死をはなるべきやと。かかるあさましき身も、本願にあひたてまつりてこそ、げにほこられ候へ。(第十三条)

などが該当するでしょう。我々の善悪は関係なく、本願をたのむかどうか、本願を疑いなく聞いて念仏するかどうかで往生が決まるのです。廃悪修善の実践と本願の救いは無関係、どころか、信前の者に廃悪修善の実践を勧めることは、聞く者を自力の世界に押し留めることになります。

尤も、会員が求めているのが「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、ありもしない現世利益であるとするなら、そういう人は親鸞聖人の仰る自力、他力の範疇にも入らない人です。親鸞聖人の報恩講と言いながら二千畳のギネス認定を誇り、90歳を過ぎてもなお親鸞聖人の教えとは真逆なことを説き続ける高森顕徹会長。そんな高森会長を唯一無二の善知識と崇め奉り、「高森先生ありがとうございましたー!」なんていういつもの弁論を聞いて喜んで信心も安心も無い会員は、毎度のことながら哀れ哀れです。

『飛雲』との公開法論からすでに7年以上逃亡し続けている高森顕徹会長が講演している『「二千畳」がギネス世界記録™・世界最大の畳部屋に認定』だってさ

『親鸞会公式ホームページ』【令和元年9月】親鸞会館 二千畳の行事案内(7月22日配信)

を境に、親鸞会の公式ホームページでは令和元年10月以降の行事の案内がありません。度重なる高森会長の講演中止に、案内を出せずにいるのでしょう。代わりと言っては何ですが、お知らせとして

「二千畳」がギネス世界記録™・世界最大の畳部屋に認定

という記事が紹介されています。

9月23日、審査の結果発表には、地元の射水市民はもちろんのこと、県内外や、地元の国会議員、市議会議員、町内会の方々、複数のメディアも取材に訪れ、大勢の観衆で会場はいっぱいとなり、熱気であふれました。


と報道してはいますが、所詮は「ギネス記録認定」という名利のためであって、往生の一大事のために人々が集まって熱気であふれたのではありません。それに、たとえ往生の一大事のために人々が集まったとしても、教えが親鸞聖人のそれとは異なりますから、人々は何も無い山に宝を採りにいくようなものです。いや、宝の山に入ったと思わせて持っている宝を根こそぎ取られると言った方が適切かも知れません。

親鸞会の教えは無常と罪悪で聞く者を責め立てて後生を人質に取り、解決のためにと言っては組織拡大活動に利用するというものです。決して、会員や聞く人々の獲信・往生を目的としているとは言えません。その証拠に、親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張とは真反対のものが少なくないです。

それについて今一度、『飛雲』より引用します。

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親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

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ちなみにギネス世界記録公式認定員の方々、またギネス記録ということで親鸞会について知ったという方々、先日認定を受けた親鸞会館で講演している高森顕徹会長は、『飛雲』との公開法論からすでに7年以上逃亡し続けています。こういうことも知っておられた方がよろしいかと思います。


ところで、去る9月15日は、高森顕徹会長は午後から講演したと新たな情報を頂きました。午前中は講師部員による話があったのか、ビデオ法話だったのか、アニメ映画の上映だったのか分かりませんが、一日を通しての講演ではなかったようです。このことから、一つには高森会長はもう体調的に一日を通して講演は難しいこと、二つには最近の親鸞会の動きから、ようやく新体制に向けて移行しつつあることが伺えます。

しかし、あれだけ高森会長一辺倒でやってきたのに、会員はこうした事態をどう見ているのでしょうか。また、特に古参の会員は、高森会長のコピー劣化版の講師部員の話をどのように聞いているのでしょうか。

親鸞会ではたすけたまふ法が皆無に等しく、それでいて講師部員は未信の者ばかりですから、いくら二千畳で毎日聴聞できるとなっても、聞く人は真宗の肝要である本願の念仏と信心はさっぱり分からないままでしょう。会員の皆さんには、早く自分達は組織拡大活動に利用されているだけだという事実に気付いて脱会し、正しい本願を聞かせて頂いて、本願を疑いなく信じ念仏されるようになって頂きたいです。

誰が話したにせよ、親鸞聖人のお言葉を使った邪義を弘めている親鸞会

昨日は富山で講演があったようです。ただし、高森顕徹会長が登壇して講演したのかは現時点では分かっていません。ビデオの可能性もありますし、講師部員の誰かが講演した可能性もあります。情報をお持ちの方はぜひコメント欄に記して頂けたらと思います。
(※コメントにて、9月15日は高森顕徹会長が講演したとの情報を頂いています)


さて、演題は「蓮如上人の御遺言について」で、『御文章』4帖目15通

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。

のお言葉を通しての話でした。信心決定とは映画『なぜ生きる』で言えば難度海を度する大船に乗ったことであり、それは難度海(苦しみの人生)に溺れて苦しんでいる者を必ず乗せて弥陀の浄土まで渡す大きな船のことであると説明していました。それから信心決定したらどうなるかについて『正像末和讃』

他力の信をえんひとは
 仏恩報ぜんためにとて
 如来二種の回向を
 十方にひとしくひろむべし


を挙げ、

この世で信心決定、絶対の幸福の身にさせ、死ねば阿弥陀仏の極楽浄土にて仏の身にさせる。これが阿弥陀仏の救いであり、この二つが救われた時にハッキリする。

などと話し、このことを、映画『歎異抄をひらく』の慧信房と親鸞聖人のセリフを通して解説したそうです。


相変わらず「信心決定」=「絶対の幸福」と位置づけ、それはハッキリした体験だと説明していますが、そんな幻想的な楽、ハッキリスッキリ体験を求めていくら聞き続けたところで真宗で言われる信心は獲られませんし、浄土往生して仏の身にして頂くこともできません。

まず真宗の信心は、念仏という行についての信心です。「宿善まかせ」を間違って教えられ、高森会長の話を聞くことや、親鸞会に献金・勧誘すること、上司の指示に無条件服従することなどを「善」という名の元に勧められている親鸞会の会員は、実態は「悪業悪行」の人々、百歩譲っても「雑行」の人々です。阿弥陀仏の光明は、「雑行」を修めて往生しようという人を照らし摂めることはありません。

阿弥陀仏は、いずれの行にても生死を離れられない私達を善悪・賢愚の隔てなく平等に救おうと思い立ち、称名念仏の一行を往生の行と選び取り、自らの名に全ての善徳を込めて「これで助かってくれよ」と与えて下さっています。本願の念仏は、これを称することわずか十声、一声の者までも必ず往生させる徳を具えた正定業であり、そのように疑いなく受け容れたことを信心というのです。そうした信心も自分で起こすものではなく、これまた本体は仏の大悲心であるような信心であって、阿弥陀仏の方より与えられる信心ですから、「他力の信」というのです。

雑行」、実態は「悪業悪行」を勧められ、浄土往生して仏に成るというよりは「絶対の幸福」という欲望を叶えるために活動している人が、地獄脅しとエセ現世利益の教えを聞き続け、求め続けたところで本願に救われる、いわゆる「信心決定」することはありません。それどころか不浄説法をする悪知識を信じ、その教えを弘めるという悪業を犯し続けていますから、その業に報いて「必堕無間」というのもあながち間違いではありません。会員の皆さんは、早くこのことに気づいて自らの過ちを深く懺悔し、直ちに悪知識の元を離れるべきです。


ところで、今回の話にもありましたが映画『歎異抄をひらく』に出てくる慧信房とは何者でしょうか? 少なくとも二十四輩の中にはいないようです。検索しても、映画『歎異抄をひらく』関連の記事しかヒットしません。どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、こちらも情報をお寄せ下さい。

映画『歎異抄をひらく』自体、倉田百三の「出家とその弟子」のストーリーの一部をパクったようですし、もしかしたら「出家とその弟子」の中に出てくる人物なのかも知れません。教義は大沼法竜師と伊藤康善師のパクリ、組織拡大法は創価学会のパクリ、映画も他人のパクリと、パクリ三昧なのが高森顕徹会長という人物です。その上親鸞聖人の教えと真反対のことを教えて聞く者を組織拡大活動に利用・搾取する、そういう人物です。

いつまでもそのような人物を信じ続ける会員の皆さんは、蓮如上人の仰る通り「あはれ、あはれ」です。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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