高森の教行信証(証編) - つつしんで高森の証を顕さば、表裏の義あり。その裏といふは、『「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活』『アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験』なり。

高森の教行信証」も後は「高森の証」を残すのみとなりました。今までを簡単に振り返りますと、

高森の教」・・・映画『なぜ生きる』(を代表とした高森顕徹会長の出版物)
高森の行」・・・助正間雑、雑行、悪業悪行(人集め金集め、高森への無条件服従)
高森の信」・・・①創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心(獲られたとして)
          ②「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、善知識だのみ

です。いずれも「真実の教」「真実の行」「真実の信」とは大いに異なります。決定的な違いは

如来より回向せられる他力真実の教行信に対して、高森より授けられる自力邪偽の教行信

という点です。「他力回向」に対して「自力いっぱいの求道」、「念仏一行」に対して「高森教の組織拡大活動」、往生には念仏一つとふたごころない「真実の信」に対して意業の上での「ハッキリスッキリ体験」ですから、そんな教えで「浄土真宗」「親鸞」会などと名乗る資格はありません。「高森教」とでも名乗るのが相応しいです。


阿弥陀仏は久遠実成の古仏として、五濁の凡愚を憐れに思われ、釈迦牟尼仏となってこの世に応現して下さいました。そして『大無量寿経』を説いて、南無阿弥陀仏の名号という形で我々のような凡愚に「往生のみち」を与えて下さったのです。全く本願力の独用(ひとりばたらき)によって、我々は本願力がはたらいていることを聞かされ、信知させられ、成仏させられるのです。私達はこの道理を造作もなく、計らいも要らずにただ聞き受けるのみです。こうして十八願のいわれ、南無阿弥陀仏の六字のこころを領受したのを「信心決定」と言います。その人にしかない神秘的体験やハッキリスッキリ体験のことではありません。このように「真実の行信」を獲た念仏の行者がやがて得させて頂くのが

つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。(「証文類」往相の真証

とあるようにこの上ない仏のさとりという「真実の証」であり、そして大悲の必然である「還相」でした。

二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。「証文類」還相回向

迷える人びとを救うために、煩悩の渦巻く穢土に還ってくる。思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれるというのです。


このことは高森教でも「浄土往生」「往生即成仏」「還相回向」と言うには言いますが、「高森の教行信」からは出てきようもない証果です。また会員にとっては、死後の「浄土往生」「往生即成仏」もけっこうだがそれよりも何よりもこの世を「絶対の幸福」に生きたい、苦悩渦巻く人生を「光明輝く生活」の出来るようになりたい、としか思っていないでしょう。それに現在「絶対の幸福」になりさえすれば死後の証果は必ずついてくるのだから、今はとにかく「絶対の幸福」になることが肝要、それには聴聞、おつとめ、善・・・といった感じで、会員は念仏一行とは程遠い活動の日々を過ごしていることと思われます。

そうやって頑張って求めていけば、やがて信仰が進んで、ドタ牛のような下の心が被っている布団がはがれていって、下の心が「」と阿弥陀仏のジカの呼び声を聞ける時が来るのだ。アニメの親鸞聖人や韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験ができるんだと夢見ているのは想像に難くありません。いつまでも救いは今ではなく求めていった先の未来の話で、それでいて「平生業成」とはどの口が言うのか、今から振り返れば狂人の寝言としか思えないです。

こんな具合で、会員は阿弥陀さまの願いを聞き受けるどころか、逆に自分の願望を阿弥陀さまに聞き入れてもらおうというつもりで教えを聞いています。迷いの世界からの出離、報土往生をさせると誓われている本願を、この世を「絶対に崩れない変わらない幸福、一切の滅びる中に滅びざる永遠の幸福」にする本願だと思い込み、早くその身になりたい、早くしてくれ、どうしてして下さらないんだ、こんなに頑張っているのに、こんなに苦しんでいるのにと、どこかの幸福製造機や、求道の褒賞として信心を獲られるかの如く思っているのですから、これで親鸞聖人の教え、浄土真宗が分かるわけがないのです。

それに、「浄土往生」「往生即成仏」はまだしも、「還相回向」は肯定的に捉えていないのではないでしょうか。私は親鸞会で初めて「還相回向」の話を聞いた時、鬱々とした気分になったものでした。

え~、またこの世に還って来て苦しまねばならないのか~

と思ったからです。講師部員や先輩から「浄土から還って来た人は必ず信心決定できる」などと聞かされてはいたものの、またこの世の苦しみを味わい、信心決定までの遠き道を求めなければならないのかと思うとイヤで仕方ありませんでした。無間地獄に堕ちることと比べたらマシか位で、けっこうなことだとは到底思えませんでした。ここらへんR1000さん辺りは同感してくれると思いますが、読んでたらコメきぼんぬ(笑)


このように「死後の救い」と言っても実質言葉のみで、死後の地獄を説くことも組織拡大に駆り立てるためのツールに過ぎず、現世利益を謳って浄土真宗を利用しているのが高森顕徹会長であり、その教えが「高森の教行信証」であることがお判り頂けると思います。「高森の証」も表向きの証と裏の証があり、表向きの証は

・「浄土往生」「往生即成仏」「還相回向

ですが、会員が憧れ求めているところの証、裏の証は

「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。

です。ただこれも、高森教の理想像であって現実に獲られる人は極めて稀です。たいがいは絵に描いた餅、目の前にぶら下げられたニンジンであって、組織拡大活動のモチベーションとして掲げられているに過ぎません。そして獲られたとしても、あくまで「高森の証」であって「真実の証」とは似ても似つかぬ邪義の証です。そんなものはよその宗教、特に新興宗教へ行けばいくらでも聞くことができるでしょう。


以上、長くなりましたが「高森の教行信証」を一通り顕し終わりました。会員の皆さんは、一刻も早くこのような高森の邪道を出て、「真実の教行信証」に帰依して頂きたいと思います。


つつしんで高森の証を顕さば、表裏の義あり。その表といふは、すなはちこれ浄土往生なり。往生即成仏なり。還相回向なり。然るに親鸞会の会員、かくのごとき証果を求めず。弥陀の本願を知らず、本願を聞かず、ただ己が願望を弥陀に叶えさせんとして活動するのみなり。その裏といふは、

・「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽。夢・幻のような現世の幸せ。光明輝く生活。
・アニメの親鸞聖人、韋提希の獲信シーンのようなハッキリスッキリ体験。


なり。かくのごとき己が願望を叶えんと高森の教を学び、高森の行信を修するのみなり。是は是、高森教の理想像なり。画餅なり。目前の餌なり。組織拡大活動の根源なり。もし、これを獲たりといふとも、高森の証にして真実の証に非ず。邪義の証にして大般涅槃を超証せざる条勿論なり。
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高森の教行信証(信編・番外編) - 高森教(火星教金星教)の信心、念仏誹謗、念仏一行の否定、自己弁護と弁明、過去の体験の固執、手の平返しに満ちたカルト教祖

親鸞会側が法論で劣勢になると、最後に言うセリフが

お前は一念のはっきりした体験が有るのか!」(チュウビさんのコメント

というものです。「火星人」=「金星人」さんも

ハッキリしないのに一念一念とこだわるのは何故ですか?ハッキリするから一念一念と書かれているのではないですか?

と書いています。根拠を出せないとハッキリ体験を語って逆転を図ろうとする、お決まりのパターンです。

確かに親鸞会の「仏教を聞く目的」「真宗を聞く目的」は浄土往生、成仏ではなく「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、夢・幻のような現世の幸せです。そのことは親鸞学徒信条に、

一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信ずることによってのみ獲得できることを信じます
一、われら親鸞学徒は、阿弥陀仏の御本願を聞信すれば、一念往生、現生不退、絶対の幸福を獲ると教え給うた親鸞聖人のみ教えを信じます。


とある通りです。「絶対の幸福」などというのは浄土真宗の信心ではなく、「高森の信」「創価学会の信心」であって「自力の信心」ですから、必ず自分で「信心が起きた!」というハッキリした自覚、体験を伴うのでしょう。

チュウビさんに先の言葉を吐いた講師部員も、自身は例のハッキリスッキリ体験をしたのか知りませんが、高森会長が「ハッキリ」「ハッキリ」と壊れた蓄音機のように説くことと、熱心な高森教徒であることからそのように自信満々に言ったのだと考えられます。やっぱり最後は「体験至上主義」の親鸞会です。

古来、異解・異安心といわれるものの多くは、この信一念についての誤った理解によるといえましょう。信一念の時は本人にわかるのか、わからないのか。その時の体験はどのようであるのか。そうした体験はもう済んだのか、まだなのか。等々の論議は、宗祖の信一念釈の思召しとはおよそかけ離れた戯論でありましょう。安心論題/信一念義

戯論に走り、結局は「体験至上主義」で論拠の出せない高森教からは、一刻も早く脱するべきです。


さて、親鸞聖人は浄土に往生してさとりを開く教えを浄土門と仰っています。

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。化身土文類

もう一度言いますが、私達が教えを聞く目的は「浄土往生」であり「成仏」なんです。聖道門の修行には堪え難く、とてもこの世ではさとりを開けない末代不善の凡夫だから、阿弥陀仏の本願によって次生往生してさとろうというのです。「絶対の幸福」だとかいう五十年百年のうちのたのしみを獲るための教えではありません。もしこの世から真の安楽を獲たいのであれば、聖道門へ行って入聖証果すべきです。

ただいそぎても生れたきは極楽浄土、ねがうてもねがひえんものは無漏の仏体なり。」と蓮如上人も仰せのように、この世の幸福云々を超えた出離を目指した上で、自力修行ではさとれないと知って、阿弥陀仏の本願を信じ念仏を申して浄土、成仏を願うのが真宗ですから、「光明輝く生活」を目的にしている人は今すぐその目的違いを改めるべきです。そうでないと、このまま高森教に搾取され続ける「闇の生活」になるだけでなく、後生は三悪道です。念仏誹謗、念仏一行の否定によって「必堕無間」も間違いではないかもしれません。


ところで前回、念仏誹謗、念仏一行の否定を繰り返して慚愧あることない異聖教の教祖様を取り上げました。親鸞会教義に疑問を持ったふりをしてその実「親鸞会の教義にどっぷりと漬かって」いる彼の人物は、自ら言い放った「念仏でも唱えて待ってろよ、すぐに死神が迎えに行くからな」の暴言について

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<<念仏でも唱えて待ってろよ、すぐに死神が迎えに行くからな<<

これは売り言葉に買い言葉で出た言葉でありますが、「唱えて」がポイントです。
相手が、「称えて」という字を使った時に、厳重に注意してます。
「でも」は軽く見過ぎてますので訂正している筈です。
「死神」は無常の事であり、「諸行は無常であり、今晩の臨終にその念仏を唱えていて大丈夫ですか?」と言い返しただけの事です。
称名念仏を称えている人は、いつ死神が来ても必ず極楽往生させるという本願を深く信じてますのでご心配無用ですよ。っと反撃しています。
念仏唱えている人に、早く称名念仏を称える人に人になって下さいという意味です。唱えている人に対して称えなければ、という意味です。
火星人は親鸞会の教義にどっぷりと漬かっており、退会者からは敵対視されているので、すぐに喧嘩になります。「阿弥陀仏の本願は無条件でそのままの救いだぞ」という事は一致しますが、「高森の行は信心決定する為の方便の行だ」と強く思い込んでいるのが問題です。全ての人は真実を聞く耳がないので、求道という名のもとに、同じ所を疲れ果て倒れるまで走り続けなければならず、それが三願転入だと思い込んでいます。
高森の教に従えば、そういう考えになりますが、親鸞聖人の教えとは違うという事をよくよく火星人に言い聞かせてやってください。高森の行で苦しんでいる人は救われますか?これからも淳心房さん達に真偽検証をよろしくお願いします。
2018-02-12(11:56) : 金星人
「金星人」さんのコメント
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と言い訳しています。いくら酔った勢いでも、売り言葉に買い言葉であっても、本願を信じ念仏を申して浄土を目指して生きる者が言うような言葉とは到底思えません。仮に書いてしまったとしても、その誤りに気付いたならば謝罪した上でコメントの削除を要請するのが筋でしょうが、そのようにする気配は全くありませんでした。

その他の発言についても、

念仏誹謗ではなく、早く自力の念仏から他力の念仏を称える人になって頂きたいという願いからですので誤解なく。「火星人」さんのコメント

と悪びれる様子は全くなく、相変わらずの一人よく仏法知り顔の体、一人よく他力の信心を獲た体です。高森教(火星教金星教)信心の者は「真実を知らされているのは自分(達)だけ」「オレは真実の仏法を知っている、お前らは聞き損ないの無安心無信心の必堕無間の哀れな奴らだ」という思い上がり、慢心がありますから、必然的に批判者を見下す発言となるのです。まぁ日蓮●宗でもパンフレットに「真実の仏法」等と書いていますから、どこでも「真実の仏法」などと言うには言うのですが、その信仰や信心は彼の人物の主張発言からして「真実の仏法」「真実の信心」とは似ても似つかぬ「異星教」「創価学会の信心」であることは明らかです。

『さよなら親鸞会』観勢寺落慶のコメント欄

を辿ってゆけば例のコメントへ行き着きますが、その前も、その後も、彼の人物のコメントからは「早く自力の念仏から他力の念仏を称える人になって頂きたいという願い」など感じ取ることはできません。読み取れるのは批判者を侮り見下す態度、念仏誹謗、念仏一行の否定、自己弁護と弁明のみと言ってよいでしょう。ちなみに、どんな心、どんな信心から例のコメントが出てきたかについては、それを的確に捉えていると思われるコメントがありましたので紹介しておきます。

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いつもいつも言い訳がみっともない。

自力念仏=多善根・多功徳・多福徳
諸善=少善根・少功徳・少福徳

>念仏でも唱えて待ってろよ。すぐに死神が迎えに行くからな。

(無功徳の自力の)念仏でも唱えて待ってろよ。すぐに死神が迎えに行くからな。

こういう気持ちだからこんな言葉になるの。

親鸞会が最重要視する聴聞について

「聴聞でもして待ってろよ。すぐに死神が迎えに行くからな。」

こんなことをいうか?
言わないね、言ったら指摘の嵐。講師なら降格、学院送り。

親鸞会が次に重要視している布施について

「布施でもして待ってろよ。すぐに死神が迎えに行くからな。」

こんなことをいうか?
言わないね、言ったら指摘の嵐。

つまりだね、

聴聞>布施>>>>>………>>>>>>>>>倫理道徳>念仏

この程度にしか考えていない。正確に言うと

念仏=無善根・無功徳・無福徳

としか考えていない証拠。

これを念仏誹謗という。

投稿: | 2016年12月11日 (日) 17時17分

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この通りです。念仏のこころを知らず、他宗教の祈りの言葉や不可解な呪文と同列に見なしているからこそ出た発言です。彼の人物からしたらアーメンでも題目でもいいわけです。


彼の人物は口を開けばお得意の体験談、都合が悪くなればエントリーを変えて謝罪や言い訳といったことを繰り返しています。業を煮やせば「ハイ、さようなら!」と親鸞会教義をまき散らして逃亡、別のブログでまたしても過去の体験の固執、そして手の平返し、謝罪、言い訳・・・と全く進歩のないことをやっています。

法論が出来ないので

はこちらのセリフです。聖教の根拠に基づいて宗義の優劣や真偽をめぐって行われる論争を法論と言います。聖教の根拠を示せずに高森教に基づいた火星教金星教のオンパレードでは法論になりません。まして論争において自分の体験談を出すなど敗北を自ら認めているようなものです。

彼の人物にはどうやら信者がいるようで(※)、「カルトにはカルトをもって信心決定病に感染させないと、十八願を聞く機には熟さない」などと言って信者にカルト教義を授けるカルト教祖となっている模様です。TENさんも仰るように「仏様の願いからまったくの逆方向を向いて」おり、彼の人物からは願作仏心度衆生心もまるで感じられません。それどころか、

下品中生といふは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯せん。かくのごときの愚人は、僧祇物を偸み、現前僧物を盗み、不浄説法して、慚愧あることなく、もろもろの悪業をもつてみづから荘厳す。かくのごときの罪人は悪業をもつてのゆゑに地獄に堕すべし。命終らんとするとき、地獄の衆火、一時にともに至る。『観無量寿経』下品中生

の愚人と同一に思えてなりません。この下品中生の悪人はまだ念仏誹謗はしていませんが、彼の人物は念仏誹謗を繰り返しています。仏法を誹謗しているのですから、仏の浄土の往生を願うはずがありません。以前に「願生心」について頓珍漢な回答をした訳もこれで納得です。

念仏誹謗の有情は
 阿鼻地獄に堕在して
 八万劫中大苦悩
 ひまなくうくとぞときたまふ
(正像末和讃)

と仰せの通り、無間地獄に堕ちる因は「念仏誹謗」です。直ちに「念仏誹謗」と、お仲間にカルト教義を授けるのを止めてもらいたいと切に願います。

高森会長の教行信証(信編・番外編) - 間違った教えを信じて従っていても本願に救われるなら、正しい教えは必要ない

浄土真宗」の法義には「二種の回向」すなわち「往相回向」「還相回向」があります。その内、「往相」、つまり我々が浄土に生まれゆくすがたについて「真実の教行信証」があると教えられたのが親鸞聖人です。

親鸞聖人はあらゆる宗教現象を真・仮・偽(真実、権仮(方便)、邪偽)の三種に分類されています。真実の教から真実の行信が現れ、真実の信を具足した真実の行によってのみ真実の証果を得ることができます。一方、方便の教からは方便の行信が現れますが、これでは方便の証しか得られません。また邪偽の教は人の欲望や煩悩を増大し満足させるのみで、道理に反した教えです。なので、その教えをいくら深く信じ、それに従っていくら行を修めてもさとりは得られず、邪道悪道に陥るしかないのであります。

真実の教行信証」に帰する以外に我々が真実報土に往生する道、つまり「往生のみち」は二つとありません。であるから、法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人は幾多の法難や命の危険を顧みず「真実の教行信証」を明らかにして「往生のみち」を説き示されて行かれたのです。そのおかげによって、私達は凡夫が仏に成るという超世稀有の正法をお聞かせ頂き、本願を信じ念仏を申して仏に成らせて頂けるわけですね。

間違った教えを信じて従っていても本願に救われる、「真実の信」が獲られるなら、正しい教えは必要ないし、正しい教えを明らかにする必要もないのです。例えば善鸞から聞こうが、十劫安心や土蔵秘事の人から聞こうが、その他異安心の人から聞こうが救われるんですから。それ以前に、そもそも浄土真宗である必要がありません。キリスト教やイスラム教だって、もっと言えばその他の新興宗教だっていいのです。最近、浄土真宗でも高森教でもない「異星教」の教祖様が自分の体験談をひっきりなしに自慢して「獲信した」と喚いていましたが、その程度の神の啓示的体験ならよその宗教、特に新興宗教へ行けばごまんと聞けるでしょう。

真実の教えから真実の行、真実の信心が明らかになり、真実の行信を獲て真実の証を開く、これが浄土真宗です。尤も、高森の教えを聞き誤って、或いは正しい部分と間違った部分を整理し聞き分けて救われる可能性はありますが、間違った教えを信じて拠り所にし、それを基に求道したとて救われるということはあり得ません。自力の積み重ねが他力ではないからです。また、あくまで可能性は0ではないというだけであって、そのような邪偽が多分に雑じった教えから離れて、真実味の溢れた教えを頂いた方が良いのは言うまでもないことです。それと、高森教しか知らない人は何が正しく何が間違いかも知りませんから、会内で聞き分けてという方法はお勧めできません。それよりは一度高森教を捨て去って新たに浄土真宗を聞かれることをお勧めします。


ところで、先ほどの教祖様はかつて高森教を信じて求道し、高森教で言うところの「聞即信の一念の体験」をしたそうです。しかし今では高森教について半信半疑のようで、どうも高森教を元に独自の「異星教」を創り上げているようです。自ら一念覚知だと言い、ハッキリ体験を何百と書いてそれを元に信心を語っています。また、

火星人の信心
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悩んでないでもう一度仏教を一から勉強した方がいいと思います。その方が楽になれると思います。念仏唱えていても死んだら地獄だよ。御用心ご用心。

投稿: | 2016年12月 7日 (水) 13時47分
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念仏さえ唱えていれば良いのだという考え方はキリスト教のアーメンと同じじゃん。「悪い事しても懺悔してアーメンと言えばすべて許されて天国に行けます。」ってか

投稿: | 2016年12月10日 (土) 15時10分
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念仏でも唱えて待ってろよ。すぐに死神が迎えに行くからな。

投稿: | 2016年12月10日 (土) 21時41分
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仏とも法とも知らない人に、善はやると遠回りになるから兎に角念仏だけをひたすら唱えなさいと言うのが正しい浄土真宗だと仰るおつもりですか?

投稿: | 2017年1月 2日 (月) 13時14分
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念仏唱えれば往生できる善人様だという心が心底にありますね。

投稿: | 2017年1月 3日 (火) 13時21分
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クソ坊主教のクソ坊主は「念仏唱えたら極楽だ」と庶民を安心させて金儲けの種に説法や葬式をしているのよ。ありがたやありがたやとクソ坊主が感謝されたいだけなのよ。

投稿: | 2017年1月 5日 (木) 10時44分
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念仏唱えたら極楽だと言っていたほうが「クソ坊主教」の金儲けになるのね。

投稿: | 2017年1月 5日 (木) 11時00分
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suさんのコメントより)

等々、念仏誹謗、念仏一行の否定と取れる発言を繰り返していました。それでも、時々反省の色を見せるので取り消しますかと聞きましたが、何だかんだと言い訳をして撤回しようなどという気は更々見られませんでした。これまで多くの方々が誤りを正さんとコメントを寄せて下さいましたが、改めるそぶりはありませんでした。一部親鸞会教義を否定する所は違いますが、根拠を求めても知らないと答えたり、やはり根拠は親鸞会教義だったり、都合の悪い質問には逃げて逆質問をしたり話題を変えたりして逸らしたりと、その書きぶりや人格や信心は高森会長や講師部員や会員そのものです。そんな教祖様の体験談をいくら聞いたところで「真実の信」は獲られず、せいぜい「教祖様の信」が獲られるかどうかといった程度です。

自身でも言っているように一念覚知であり、このように念仏誹謗の創価学会土蔵秘事地獄秘事信心の者は

往生の金剛心のおこることは、仏の御はからひよりおこりて候へば、金剛心をとりて候はんひとは、よも師をそしり善知識をあなづりなんどすることは候はじとこそおぼえ候へ。『末灯鈔』20通

とあるように真実信心でないことが明白です。往生の金剛心は「仏の御はからひよりおこりて候」であり、教祖様の体験によって起こるのではないからです。また、金剛心を取った人が念仏誹謗や念仏一行の否定をすることはあり得ないからです。たとえ酔った勢いであったとしても、売り言葉に買い言葉であったとしても、これまでの暴言の数々はとても真実信心の人がするコメントとは考えられないでしょう。

往生の金剛心が体験によって起こるのであれば、体験をしていない者、信一念の自覚の無い者は起こらないことになります。教祖様は明確に一念覚知にこだわり、信一念の自覚無き者は救われていないのだと今でも信じていると思われます。そのように根底には「オレ以外は信心を獲ていないんだ」という慢心、他人を見下す心があるからこそ、我一人仏法知り顔の体で先ほど挙げたようなコメントを繰り返し、しかも撤回するつもりもないのでしょう。教えを乞うつもりで実は私や他の退会者の説を破ってやろうという魂胆も見え隠れしています。

また教祖様は「そのまま助ける本願」と喚いていますが、「念仏誹謗の者をそのまま助ける本願」ではありません。(※)別に「救われた」と言うことは表現の自由ですが、言っていることが「真実の行信」とあまりにかけ離れた異安心の主張なので、教祖様の信心は数ある「自力の信心」の一つに過ぎないことが明白です。


当ブログの目的の一つが「親鸞会教義の誤りを伝えること」です。宗教法人「浄土真宗親鸞会」から分派した団体はいくつかありますが、私はそれらを問題にしません。同様に、親鸞会教義を引きずっているが一部否定して新たな教えを弘めんとしている人を相手にするつもりはありません。よってこの度、当ブログは火星人さんからのコメントを拒否することに致しました。

ちなみに火星人さんのホストを拒否したら、同時に金星人さんのホストも「拒否中」となったので、

「火星人」=「金星人」

であることは明確になりました。何のために別人格を演じていたのかその理由は定かではありませんが、何にせよ聖教に基づかずに自説を押し通す。体験談を語りまくり、根拠は聖教に無く体験談と高森教。念仏誹謗、念仏一行の否定を繰り返し、数々の諫めにも聞く耳が無い。このようなことですから、「火星教金星教」の布教はよそでやって下さいということになりました。

こんな信仰経歴もある」と参考にはなりましたが、異星人とは会話ができないので困ったものです。文証も挙げられないようでは浄土真宗ではありません。そんなことでは、高森会長に言われてしまいますよ。

・三業で判断した信心が、何の価値があるか。
・証拠より論ということを知らないのだ。根拠をあげられぬのはインチキの証拠だ。
(『顕正一口メモ(B)』)

読者の皆様には、こうした異星教の教祖様を通して親鸞会の他にも注意すべき浄土真宗系の新興宗教があることを知って頂ければと思います。そして、浄土真宗は信一念を覚にも執じず、不覚にも執じない「覚もよし、覚えぬもよし、共に仏智に信順するを以て、当流安心の正義とす」という立場であり、信一念の自覚が有っても良し、無くても良し、共に仏智に信順する、つまり本願の名号を計らい無く聞き受け、仰せの通りおまかせしたのが信心であるということを改めて申し上げておきます。


【参照】
火星人の「手のひら返し」発言の数々(TENさんのコメントより)

高森の教行信証(信編) - つつしんで高森の信を顕さば、表裏の義あり。その表といふは、二種深信なり。他力真実の信心なり。その裏といふは、すなはち「絶対の幸福」なり。「光明輝く生活」なり。裏の信にまた二種あり。

今回も、例にならって古文調で書いた文章を紹介したいと思います。「高森の信」も以前に示した「高森の行」と同様に、表向きの「高森の信」と裏の「高森の信」とが存在します。

表向きの「高森の信」とは、「二種深信」「他力真実の信心」といった真宗用語を使った信心です。

裏の「高森の信」とは、「絶対の幸福」という創価学会の信心です。「われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける」という高森教の阿弥陀仏の本願によって現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようになったことを言います。それを他力信心を獲たとか、信心決定したとか言っております。

そのように高森教の本願に救い摂られると、二つのことがハッキリします。一つには「地獄一定」、二つには「極楽一定」で、この二つが、同時に疑い晴れている心だから、「機法二種一具の深信」(二種深信)といわれると言っています。実際の高森教では同時ではなく若干の前後のずれがあり、まず自力でド真剣に聞法求道して自力間に合わなかった無間のドン底に叩き堕とされた時「地獄一定」「機の深信」が立ち、それからほぼ時を同じくして信心歓喜、歓喜踊躍とおどり上が「極楽一定」「法の深信」が立つようです。このような高森教の二種深信に則って、アニメ『世界の光 親鸞聖人』の親鸞聖人の獲信のシーンも、アニメ『親鸞聖人と王舎城の悲劇』の韋提希の獲信のシーンも描かれています。土蔵秘事地獄秘事信心の典型です。

それから、こうした高森教の「機法二種一具の深信」(二種深信)を「聞即信の一念の体験」と呼んでいます。それは火にさわったようにハッキリするものである明らかな明らかな体験盲者の開眼の一刹那等と言って明らかな自覚があり、逆にハッキリ自覚のない信心は絶対に他力真実の信心ではありませんというのです。信一念の自覚に固執し、その自覚をもって信心の有無を計る一念覚知の異義です。

こうしたことを阿弥陀仏はその本願に「信楽にしてみせる」と誓っているというのです。

ところが、阿弥陀仏の本願は「絶対の幸福」だとかいう幻想的な楽、夢・幻のような現世の幸せを獲させる本願ではありません。それは高森教の本願であって、弥陀の本願ではありません。弥陀の本願は「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」という誓いです。信楽を獲た者を浄土に生まれさせるという誓いです。

「地獄一定」と「極楽一定」の二つがハッキリするというのは、二種深信の誤った認識です。聞即信の一念の体験があると言い、そうしたハッキリした体験をするまで自力で命がけの求道(「高森の行」の実践)をし、求道に精も根も尽きたところで二種深信が立つなどと説くことは、救済の予定概念を聞く者に植え付ける行為です。信心ばかり強調して念仏を軽視し、ありもしない信心を求めてありもしない道程を進むよう教えるのは、聞く者を信心決定病に陥らせる行為です。

浄土真宗は信一念を覚にも執じず、不覚にも執じない「覚もよし、覚えぬもよし、共に仏智に信順するを以て、当流安心の正義とす」という立場です。信一念の自覚が有っても良し、無くても良し、共に仏智に信順する、つまり本願の名号を計らい無く聞き受け、仰せの通りおまかせしたのが信心です。信一念の自覚がハッキリ有るから往生一定だとか、逆に無いから往生不定だとか、はたまた地獄だとかは言えないのです。凡夫のハッキリスッキリなどみなもつてそらごとたはごとであり、往生の証拠にはなりません。往生の証拠は、現に常にはたらいて下さっている「いまの南無阿弥陀仏」です。このように凡夫の側に確かなものは何一つなく、ただ仏様の側にしかまことはありませんから、「ただ念仏のみぞまことにておはします」と仰られるわけです。

真実の教行によって真実の信は発起するわけで、高森の教行は決して真実の教行ではありません。よって聞く者が真実の信を獲ることができないのは当たり前のことです。高森教では「難信」を盾に獲得不可能の信心、獲得超難関な信心であることを正当化し、法然聖人、親鸞聖人の教えと真逆なことを教えています。数年に一度、親鸞会会員であり、高森顕徹会長や出版物を褒め讃えている者の中で「獲信した」という会長へのお礼状を機関誌に載せていますが、その信心は定かではありません。同じく「獲信した」と言っていても組織に都合の良い人間はもてはやされ、都合の悪い人間には「除名」処分が下されます。

高森教に都合が良いかどうかで信心の有無を計り、都合の良い人間を利用するだけですので、「みなみな信心決定あれかし」などというのは本当に口先だけ、ただ読んでいるだけ、そう願っているように振る舞っているだけです。教えが釈尊、七善知識方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人と真逆であることがそうである何よりの証拠です。結局、高森会長は

そんなすごい信心を獲たワシを崇めていけ。ワシだけの話を聞け。ワシの教えを世界に弘めよ。ワシに献金せよ。ワシの指示に無条件で従え。早くワシの示す道を進まなければ後生は必堕無間だ。

という主義主張を会員に、果ては全人類に徹底させたいだけです。

ところで、裏の「高森の信」にまた二種類あります。一つには

①創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心

です。「獲信した」と思ってもこうした信心です。「高森の行」が「自力の行」ですから、信心も自力の信心です。「自力の行」をやっていった結果他力の信心になることはあり得ません。二つには

②「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、善知識だのみ

です。たいていの会員はハッキリ体験ができず、ただ高森顕徹という人物や、その主義主張を「間違いない」と頑なに信じているだけです。「鰯の頭も信心から」の信心と同類で、「高森先生から聞かなければ助からない」「高森先生から離れたら助からない」という善知識だのみに陥っています。

自分の体験に固執してしがみついても、高森会長をいくら深く信じても、それらは真実の信心ではありません。それらは真宗を装った外道の信心であって金剛の真信ではありません。尤も、現在親鸞会で言われる信心や体験は高森顕徹会長の過去の獲信体験とは随分異なっています。



つつしんで高森の信を顕さば、表裏の義あり。その表といふは、二種深信なり。他力真実の信心なり。

その裏といふは、すなはち「絶対の幸福」なり。「光明輝く生活」なり。

高森に曰く(『こんなことが知りたい①』)、真実の他力信心を獲得するということは、阿弥陀仏の絶対の救いにあずかるということです。即ち阿弥陀仏の絶対の願力によって助かったことをいいます。阿弥陀仏は、その本願(約束)に「われを信ずる者は、必ず絶対の幸福に助ける」と誓っていられます。勿論、死後ではありませんから、これを平生業成というのです。現在只今、苦悩渦巻く人生を光明輝く生活の出来るようにしてやろう、という御約束です。

また曰く(同)、その約束通りに我々が絶対の幸福に助かった時を、他力信心を獲たとか、信心決定したとかいうのです。これは偏に阿弥陀仏(他力)のお力によって、このようにさせて頂けた、ということがハッキリしますから、他力の信心、他力の信仰というのです。しかも、阿弥陀仏の救いは一念でなされます。阿弥陀仏は「ひとおもい」で絶対の幸福にしてみせると誓っていられるからです。これを聖人は「一念往生」とか「一念の信心」とも仰言っています。アッという間もない時剋の極促に我々の苦悩を抜き取り、無上の幸福を与えて下さいます。

また地獄一定、極楽一定を同時に知らるることなり。

高森に曰く(『なぜ生きる』)、誓願不思議に救い摂られ、無明の闇が晴れると、次の二つのことがハッキリする。「金輪際、地獄ゆきと、疑い晴れる」(機の深信)「極楽へ、必ず往けると、疑い晴れる」(法の深信)この二つが、同時に疑い晴れている心だから、「機法二種一具の深信」(二種深信)といわれる。「地獄一定」と「極楽一定」を同時に、どうして知ることができるのか。

地獄一定について曰く、自身はこれ極重悪人なり。五逆謗法闡提なり。無慚無愧なり。煩悩具足なりと、露塵の疑い無く知らるるなり。火に触るより、盲者開眼の一刹那より明らかなり。自覚するなり。自覚なき者、信無き証拠なりと。決定して深く、自身は必堕無間の極悪人にして、出離の縁有ること無しと信ず。無間の底に堕ち切るなり。悲泣悶絶するなり。五体投地するなり。

極楽一定について曰く、弥陀の誓願まことなり。「絶対の幸福」まことなり。必ず極楽にむまるなり。弥勒に同じなり。等覚の菩薩なりと、露塵の疑い無く知らるるなり。火に触るより、盲者開眼の一刹那より明らかなり。自覚するなり。自覚なき者、信無き証拠なりと。決定して深く、高森の仰せまことなり、大宇宙一の幸福者なり、極楽参り間違いなしと信ずるなり。

高森に曰く(『こんなことが知りたい③』)、信じたのも知ったのも、学問も修養もすべて間に合わず、堕ちるも助かるも判らぬ心一つが業に引かされて、地獄は一定すみかぞかしと、無間のドン底に叩き堕とされた時(機の深信)、自力無功と他力不思議とは同時に働き、信心歓喜、歓喜踊躍とおどり上がり、阿弥陀さまこうまでして下さらなければ聞かない、しぶとい私でございました。(法の深信)

また曰く(『こんなことが知りたい①』)、自力間に合わなかったと、助かる望みが断ち切られて、無間のドン底へ叩きおとされた時、十劫以来、呼び続けて下されていた阿弥陀仏のみ声が、五臓六腑を貫くのです。

また聞即信の一念の体験なり。曰く、一念の体験無き者、真実信心に非ずと。

高森に曰く(『こんなことが知りたい③』)、信心獲得するとはどんなことなのかと言えば、「必ず絶対の幸福に救うと誓われた御約束通り、阿弥陀仏に救われ、弥陀の本願は私一人をこの身に救うためであった」と慶喜せずにおれない明らかな明らかな体験なのです。(乃至)曾我師が言われようが、何人が言われようが、ハッキリ自覚のない信心は絶対に他力真実の信心ではありません。

また曰く(『顕正』p.99)、真実の信仰には一念がある。一念とは疑晴れて大満足の境地に開発したひとおもいをいい、盲者の開眼の一刹那、地獄一定が極楽一定と転じた瞬間、煩悩具足が至徳具足と転じた一念、明来闇去、闇去明来の一念、いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念、言説や思惟の及ぶところではない驚天動地の一刹那をいうのである。しかし、思慮分別を越えるといっても疑蓋無雑の信楽の開発する初起の信であるから、無念無想である筈は毛頭ないから、やはり明らかな自覚である。

また現世で信楽に生まるることなり。信楽とは絶対の幸福なり。

然るに、教を学び行を修せんに、真実の信を獲る者無し。何を以ての故に。是は是、高森の教、行にして真実の教、行に非ず。本願は高森教の本願にして弥陀の本願に非ざるが故に。阿弥陀仏は「絶対の幸福にせん」と誓わず。「名号をとなへんものをば極楽へ迎へん」と誓はせたまひたる。また至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる。

「地獄一定」「極楽一定」の条、これ二種深信の謬見なり。二種深信は一他力信心を二種に開きし相なり。一にして二、二にして一なり。別々の二に非ず。高森の二種深信、聞即信の一念の体験、これは救済の予定概念なり。信心決定病を起こさしむ邪義なり。

鮮妙師の曰く(『意業非意業之論』)、年月を知るも障とせず、知らざるも亦功とせず、覚もよし、覚ぬもよし、共に仏智に信順するを以て当流安心の正義とす、故に前々住上人も年月日時の覚不覚を論ずべからず、御相承多く年月を記し給はず、高祖之を記し給ふ。その義云何と云へば親の懐で育ったものは年月を認めて親と知りたることなし。何時の間にやら親を知る。生来真宗の教示に育せられたるもの如此。又生まれてより他人に育てられて生長の後、家にかへる者は親を知る年月を知る(中略)覚えたが好と計するもよからず。不覚が正義なりと認むるも悪し。乃ち覚不覚を論ずべからずと御裁断されたものなり。(宗学院論集 一念覚不論集所収、九五頁)

真実の教行によりて真実の信は発起す。高森の教は真実の教に非ず、高森の行は真実の行に非ず。故に真実の信を獲ざる条勿論なり。「難信」の語に依りて獲得不可能、獲得超難関の信心とし、法然、親鸞の仰せならぬくせ法門を説く。偶「我信心を獲たり」と云ふ会員ありといえども、自身の喜び、高森の賛美、高森への感謝のみにして信心不可解なり。同じく「我信心を獲たり」と云ふ者、都合よければ利用し、都合わるければ「除名」の命を下し追放するなり。

みなみな信心決定あれかし」の言は真意に非ず。その故は如何となれば、師主知識の仰せならざる邪義を説く。高森の申す条は

そんなすごい信心を獲たワシを崇めていけ。ワシだけの話を聞け。ワシの教えを世界に弘めよ。ワシに献金せよ。ワシの指示に無条件で従え。早くワシの示す道を進まなければ後生は必堕無間だ。

といふ主義主張なり。

裏の信にまた二種あり。一には

①創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心

なり。「信心を獲たり」といふもこれなり。行は自力の行にして、信は自力の信なるが故に。自力の行より他力の信を獲ざる条勿論なり。二には

②「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、善知識だのみ

なり。親鸞会といふもかくのごとく信ずるばかりの集まりなり。鰯の頭も信心なり。高森に依らざれば助かるといふことあるべからずと信ず。これ善知識だのみなり。

信心を獲たりといふとも、高森を如何に深く信ぜんとも真実の信にあらず、外道の信心にして金剛の真信にあらざるなり。尚、「高森の信」と高森顕徹会長の過去の体験談とはおほきに異せり。



【参照】
一念覚知説の研究 紅楳英顕 伝道院紀要19号

高森の教行信証(信編) - 詮ずる所、「高森の信」とは①創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心、②「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、善知識だのみ

高森会長は「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」と強引に定義づけ、全人類は五逆・謗法・闡提であるとしています。これにしつこくこだわる理由は、「一切衆生必堕無間」を正当化するためと、「必堕無間の一大事から逃れたい」という聞く者の欲求を組織拡大のエネルギーに転換するためでしょう。「打倒本願寺」が目的の高森会長は、会員の獲信・往生は眼中に無く、とにかく「浄土真宗親鸞会」という組織を本願寺より大きなものにするために、未信の者の「助かりたい」エネルギーに着目し、利用することにしたのです。正本堂が2000畳なのも東西本願寺の御影堂の畳数を合わせたより多い数だからです。

高森会長は、信後の人の報謝の活動よりも、信前の人の求信の活動の方が組織拡大において遥かに効率的効果的だと判断したのでしょう。確かに金と人を集め、信者を意のままに操るのが目的であれば後者の方が、いや後者でなければ無理です。「高森の行」である悪業悪行、助正間雑、雑行救いを求めてやる行いですから、「真実の行信」を獲た人からすればあまり教義を知らなくても何となくおかしいと分かるほどのものです。

親鸞会の活動を優先するあまり大学生が留年、中退したり、会員を獲得するために正体を隠した偽装勧誘をしたり、「宗教のサークルではありません」と平気でウソをついたり。活動が行き過ぎて、夜中に脱会者の家に押しかけたり、病気(肉体的にも精神的にも)や家庭不和、果ては家庭崩壊となったり。不当な契約書を書かされたり、大勢の前で指摘・𠮟責を受けたり、疑問に思うことも上司の指示に従わねばならなかったり・・・。

他にも、常識的に考えたら、いくら仏法のためだとは言えおかしなことばかりでしょう。最初は真実に出遇えた喜びからだとしても、無常と罪悪にせめたてられての活動、煩悩と闘いながらの活動、朝令暮改の無理難題にも「はい!」と従わねばならない活動なのですから、苦しくないわけがありません。こんな活動、やればやるほど安心とか満足、喜びとか幸せといったことから遠ざかってゆく気がします。

かつて近藤元講師は、あまり会員の皆さんに財施を募りたくなかったと仰っていました。どれだけ財施しても、また活動しても、それらは獲信・往生とは無関係だからだというのです。信後の人は、阿弥陀仏の方からの一方的な救いということを、すなわち本願力の回向ということを知らされますから、どうしても親鸞会の活動には疑問を持たざるを得なくなります。

教義に合わないことを言いふらされたら親鸞会としては非常に困ります。ですから、親鸞会にとっては信後の人は極力いない方がよいのです。とは言え、獲信者が全くいないのも会員のモチベーションの維持のためにNGです。そこで親鸞会の取る方法が、数年に一度位で「獲信した」という人の記事を機関誌に載せて「救いはある」ということを会員に知らせるというものです。「救いはある」「獲信者がいる」というのが、会員を親鸞会に繋ぎ止め、親鸞会の教えに一縷の望みを託す理由の一つになっているのは間違いなさそうです。

ただし、機関誌には載せるものの、行事の中休みや体験発表などで「獲信した」という人物を皆さんの前で発表し、教えや体験を語ってもらったり質疑応答したりということはほとんどありません。一昔前は西堀咲枝さんの体験発表などありましたが、現在はどうでしょうか? 皆さん憧れの体験をした(?)人物であるというのに、大概は会うことも、話をすることもかなわないのです。また、同じく「獲信した」という近藤元講師や宮田元講師、上田祥広さんなどは「自称獲信者」として「除名」扱いです。要は、高森教に都合が良いかどうかで「獲信者だ」ともてはやしたり、「異安心、聞き損ないだ」と除名・追放したりしているということです。本当に信心を獲て念仏しているかどうかなど、高森教にとっては二の次だということです。

必堕無間の恐怖で会に縛り付け、そこから逃れたいというエネルギーに着目し、組織拡大に最大限利用する。救われないことに不足をならす者には、あるいは一大事の重さを説き、あるいは高森会長から受けている恩(?)を説き、あるいは救われた人がいることを示して更なる活動と会への忠誠を促す。このようにして大きくなってきたのが今の親鸞会です。

ところが、ネットが普及するにつれ、著書の剽窃、息子の不倫疑惑等の不祥事が明るみになり、ついに教義の誤りまで暴露されて以降は、高森会長の高齢化と相まってかつての勢いが無くなっているのが現状です。ほぼ会員だけしか観ない映画を作り、各地に会館を建てまくったはいいが、今後どうなっていくのか。行方が気になりますが、当ブログとしては教義の誤りと正しい浄土真宗を紹介する他はありません。


さて、今まで長らく「高森の信」を述べて来ました。まとめますと

・「高森の信」=「絶対の幸福」=「光明輝く生活」
・「高森の二種深信」=「地獄一定と極楽一定が同時に知らされる」
・聞即信の一念の体験(火に触ったよりもハッキリした体験で、ハッキリしないのは信心ではない)
・救済の予定概念(「こうしてこうしてこうなったのが弥陀の救い」と我々の側で観念的に決めつける)
・信心決定病(信心決定が唯一の目的だと、ありもしない信心を求めて真剣(?)に聞法し活動する)
・「信楽」=「絶対の幸福」


このような感じです。表向きは「二種深信」とか「他力真実の信心」などと言っておりますが、実態は浄土真宗を装っているだけの創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心であり、自力の信心です。たまに「獲信した」という人が現れても、言っている内容は自身の苦労話や一念の体験をした喜び、会長や出版物の賛美、会長への感謝ばかりです。南無阿弥陀仏の六字のこころなど知る由もありませんから、その程度の信心を獲、その程度の体験をしたいのならばよその宗教へ行った方が早いでしょう。

そして「高森の信」は「一念の救い」と言いながら、実際は「20年や30年」「30年40年」「100年や200年」では獲得不可能の信心であり、たまたま「信心決定した」という人がいても、「疑似体験」「造られた〝獲信体験〟」「安楽椅子の人」と言われてしまう獲得超難関な信心であります。当然そんな信心ですからほとんどの会員は獲られるはずもなく、ただ

そんなすごい信心を獲たワシを崇めていけ。ワシだけの話を聞け。ワシの教えを世界に弘めよ。ワシに献金せよ。ワシの指示に無条件で従え。早くワシの示す道を進まなければ後生は必堕無間だ。

という高森顕徹会長の思想を妄信して従っている状態です。親鸞会の会員とは、高森顕徹という人物や、その主義主張を「間違いない」と信じている人達の集まりですから、詮ずる所、「高森の信」とは

①創価学会の信心、一念覚知土蔵秘事地獄秘事信心
②「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という妄念妄信、善知識だのみ


ということがお判りかと思います。獲られたとして①、大概は獲られず②の信心です。

実は「高森の行」をより積極的にやってもらう要となるのが「高森の信」です。「高森の信」の深さは「高森の行」をどれだけ懸命にこなすかに現れてくるからです。逆に言うと、「高森の行」に熱心でないのは「高森の信」が浅い証拠で、そんなことでは横の道を進めないとか、教えが全く分かっていないとか、幹部以上なら恩知らず等と指摘され、講師部員であれば更に不当な処遇を受ける羽目になるのです。

無論こんなものは、どれだけ信心が深かろうと「真実の信」とは似ても似つかぬ「エセ信心」です。私は何十年も会員だった方々と比べるとやや早め、入会して8年ほどで「高森の信」を離れ、「真実の信」を獲て念仏させて頂く身となりました。しかし私のかつての仲間達は、多くは恐らく未だにそんな妄念妄信を抱いて、往生・獲信とは無関係な「高森の行」をやり続ける忠実な組織拡大要員としての人生を生きていることでしょう。何とか気付いてもらいたいとは思いましたが、「高森の信」は妄念妄信でありこの記事でも書いたように恋している状態に近いので、説得は難しかったです。

ただ、オレは三井、あきらめの悪い男(爆) いつか教義や組織に疑問を抱いて当ブログを閲覧し、教義の誤りと正しい浄土真宗を知るきっかけになってほしいと願い、これからも綴っていきたいと思います。

高森の教行信証(信編) - 高森教の本願を聞いていても「信楽」も獲られなければ「浄土」に生まれることもできないのは当たり前の当たり前

信心正因」「唯信独達」と「信心」を強調する割に、肝心要のその「信心」が親鸞聖人の教える「真実の信」とあまりにかけ離れているのが「高森の信」です。

真実の信」と言えば「至心・信楽・欲生」の三心ですが、それについても「大安心大満足の明るく楽しい心」とか、「日本晴れの心」とかいった新興宗教同然の説明です。で、結局は「不可称不可説不可思議の信楽」だと煙に巻き、獲れば分かるんだから早く求めよ、そうしなければ後生は一大事だと脅しの論法にすり替わるのはいつも述べている通りです。


以前からの高森会長の説明では「信楽」=「絶対の幸福」であり、高森教の阿弥陀仏の本願は

この世で信楽(絶対の幸福)に生まれさせるというお約束

です。かつて「若不生者」の解釈についての論争で、この自己流解釈を正当化せんとして高森会長は

成就文に死後のことは説かれていないから本願文にも死後のことは説かれていない

と本願から死後の往生の意味を抜いてしまったことさえありました。実際は本願文に

欲生我国 乃至十念 若不生者
私の国(極楽浄土)へ生まれようと思ってたとえ十偏でも念仏する者をもし生まれさせなければ

とあり、成就文には

願生彼国 即得往生 住不退転
彼の国(極楽浄土)へ生まれようと願うその時に往生を得て不退転に住する

と説かれていますから当然本願文にも成就文にも死後の往生が説かれているのは明らかなのですが、当時は「高森信心」が篤かったため分かりませんでした。


「信楽」といふは、如来の本願真実にましますを、ふたごころなくふかく信じて疑はざれば、信楽と申すなり。(尊号真像銘文)

ですから、阿弥陀仏の本願が真実であることに疑い無いのが「信楽」であり、訳の分からない幻想的な幸福感を言うのではないことは明らかです。それからその「信楽」をえた人が浄土にもし生まれないようであれば仏に成らないと教えられているのが

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生れずはといふみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓ひたまへるみのりなり。このこころはすなはち至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。(同)

のお言葉でした。これが高森会長の主張では

至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは仏に成らじと誓ひたまへる御のりなり。

ということですから、意味が通じません。高森教では「浄土」は「絶対の幸福」のおまけ的意味合いであり、その時々で抜いたり加えたりしているのですから、そんな高森教の本願を聞いていても「信楽」も獲られなければ「浄土」に生まれることもできないのは当たり前の当たり前のことです。

そしてこの「信楽」は利他回向の至心をもつて信楽の体とし、「至心」は至徳の尊号すなわち南無阿弥陀仏の名号をその体とするのですから、信心といっても南無阿弥陀仏の名号を心に領受することにほかなりません。必ず極楽へ迎えるから、安心してまかせなさいの勅命をそのまま聞き受けたすがたが信心です。地獄一定と極楽一定という矛盾する二つの心が同時に立つとか、南無阿弥陀仏と何の関係があるのかよく分からないがとにかくとてつもなく大きな幸福感が満ち満ちる、といったことではないのです。


また、名号を聞き受けたのが「信心」で、それが口に現れたら「念仏」です。「信心」と「念仏」は別々の二つのことではありません。名号を心にたもち、口にたもつことで、共に如来回向の行であり信であって、切り離すことができない関係にあります。このことを梯實圓和上は

三心といっても、「お願いだからわが名を称えつつ浄土へ生まれてきてくれよ」と願われている本願を聞いて感動し、疑いなく受け容れていることをいうのですから、仰せに順って称名しているすがたこそ、本願を疑いなく信じているありさまです。(梯實圓『本願のこころ』p.114)

と言われています。親鸞聖人は本願文に念仏が誓われているそのこころを、

「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまふに、遍数の定まりなきほどをあらはし、時節を定めざることを衆生にしらせんとおぼしめして、乃至のみことを十念のみなにそへて誓ひたまへるなり。(同)

と顕して、本願の念仏は一生涯に亘って称名相続する者からわずか一遍乃至十遍の称名で、あるいは本願を信受してその後一遍も称えられずに命終わる者まで全てを包摂するものである。数量の多少を超越し、我々のいのちの限り称えさせて頂くものであることを示すと共に、一声一声に無量の徳を持っている如来の行であるということを教えられています。

親鸞会では念仏に「サンキュー」程度の意味しか持たせていませんが、念仏は「浄土真実の行」であり「選択本願の行」であり「最勝真妙の正業」なのです。そこに御恩報謝という意味も兼ね備えているということであって、単なるお礼の言葉では無いのです。単なるお礼であれば

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。(歎異抄第二条)
煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします(歎異抄後序)

このようなことを言われるはずがありません。信心を重視して念仏を軽視するというのは、信心と念仏の関係がよく分かっていない表明であり、結果的に信心をも軽視する、あるいは誤解することにもなるでしょう。それがやがては念仏と無関係のありもしない信心を追い求める信心決定病にもつながるのです。


ついでに本願文について、「十方衆生」=「唯除五逆誹謗正法」という高森教の解釈も当然間違っています。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

ここで聖人は「唯除五逆誹謗正法」について抑止と摂取の意味で教えられていますが、全人類は五逆・謗法・闡提であるなどとは一言も教えられていません。お釈迦様も、七高僧方も、聖覚法印も、親鸞聖人も、覚如上人も、蓮如上人も、どなたもそのような見方はされていません。

つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、ふたごころなく如来をたのむこころの、ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざるを、本願たのむ決定心をえたる信心の行人とはいふなり。『御文章』1帖目2通

罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども」ですから全人類は五逆・謗法・闡提であるわけではないのです。


このように信心も間違っている。「称名念仏は、すべて信後報謝に限る」と念仏を軽視している。「念仏がないから信心一つ」と言って成就文から念仏を抜いてしまう。更に、「本願を聞く一つ。信ずる一つではない」と信心まで抜いてしまう。死後の往生の意味を抜いたり加えたりしている。全人類は五逆・謗法・闡提であると独自の定義をしている。本願文の解釈がまるでデタラメ、珍しい教えであり、それでいて「絶対の幸福」だとかいう夢・幻のような現世の幸せを獲させる本願だと説いている。そういう本願観、教えが「高森の教」ですから、そんな間違った教えをいくら信じて従ったところで「真実の信」が獲られないことは火を見るよりも明らかです。

会員の皆さんは、「真実の教行信証」とは似ても似つかぬ「高森の教行信証」を授けられているのですから救われないのは道理です。どれだけ聞いても求めても活動しても、そんなもの「真実の信」を獲ることとは無関係です。皆さんの求め方以前に教えが「デタラメ創作教義」ですから、まずはそこから脱して下さい。そして「真実の行信」を獲て、本願をふたごこころなく信じて念仏して頂きたいと思います。

高森の教行信証(信編) - 「難信」だから何十年と求めても信心を獲られないのだ、と救われないことを正当化し、法然聖人、親鸞聖人の教えと真逆なことを教えている高森顕徹会長

確かに真実信心を獲ることは難しいと教えられています。

弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。(正信偈)

しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。(信文類)

(68)
如来の興世にあひがたく
 諸仏の経道ききがたし
 菩薩の勝法きくことも
 無量劫にもまれらなり

(69)
善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

(70)
一代諸教の信よりも
 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ
 無過此難とのべたまふ
(浄土和讃)

せっかく「高森の教行信証」という邪道を出て、親鸞聖人の教えを聞いて報土往生したいという願いを起こして聴聞している人でも、未だ「どうしたら信心決定できるのか」悩まれている方が少なくないと思われます。

親鸞聖人は、なぜ信心を獲ることが難しいかというと、一つには「邪見・驕慢の悪衆生」にとってはこれ以上難しいことはないとお示しです。ただこれは、次の理由にもつながりますが本願力回向の救いを自力疑心の計らいをもって捉えるからこれ以上難しいことはないということです。阿弥陀仏のお力を疑っているから、他力の救いを知らないから、自力に拘って邪見になり驕りたかぶっている、そういう者は難の中の難、斯に過ぎたるは無しとなるわけです。本願力におまかせして自力を離れたならば、これ以上易いことはありません。

「じゃあどうまかせればいいのか」と問う方がいるのですが、それが「自力」であり「邪見驕慢」なのです。如来が問題にされ、如来の手によって成就し回向されている救いの法を、我が問題とし、我が手を伸ばして掴もうとしているのですから、獲られるわけがないのです。「南無阿弥陀仏(必ず極楽へ迎えるから、安心してまかせなさい)」の勅命をそのまま聞いて、そのまま受け容れるよりありません。「助けるぞ」をくのがです。

方法論はありません。歎異抄で言えば、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」とよきひとの仰せをかぶりて信ずる、つまりそのまま受け容れて念仏するより「往生のみち」は二つと無いのです。この他に、何か我々がすべきことがあるはずだと、何もしないで救われるなどあるはずがないと自力で救いを掴みにかかっている者を邪見・驕慢の悪衆生と言われ、そんな者は「信楽受持甚以難」と説かれるのです。

これは親鸞会がよい典型例です。高森会長は「大沼法竜師の味わい」を教義と勘違いして半世紀以上経過しておりますが、言葉だけ真似て真宗を装い、「真実を知っている者は自分達以外にはいない、と他人を見下し扱き下ろして」います。そんな高森会長や愉快な仲間達のような者を

邪見・驕慢の悪衆生

というのです。高森会長は、「難信」だから何十年と求めても信心を獲られないのだ、と救われないことを正当化し、「我々は自惚れているから、善をして善のできない地獄一定の自分だとハッキリ知らされなければ救われない」と教義を創作して「善の勧め」なる「高森の行」を勧めて法然聖人、親鸞聖人の教えと真逆なことを教えています。会員も会員ですっかり騙されてその気になり、ありもしない信心を求めてありもしない道程を通ろう、通れるんだと自力の求道を美学としているのですから、まさに邪見・驕慢の悪衆生そのものです。

私は声を大にして言いたい。掴もうとしているその手を引っ込めて、ただ如来の勅命を仰ぎ聞き受けろと。真宗の信心はただそれだけです。後は南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とお念仏を申して、往生を定めて下された御恩を報謝する人生を生きて行く。これがお念仏申す人生を生きるということです。


さて、それと、信心を獲ることが難しいもう一つの理由は、「いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり」と教えられています。この現代語訳は、

なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。

ということですが、要は「阿弥陀仏の本願力によって回向される信心であるから難しい」というのです。人によっては「?」が100個くらいつく理由だと思います。私もそうでした。

普通は、「教えがあって、教えの通り行じて、さとる」というのが仏教なのですが、浄土教、特に真宗は行ずる際の「信心」が問題になります。また、教えを行じてさとるのは私ですから、普通主体は私なのですが、浄土真宗は「阿弥陀仏」が往生の因も果も「回向する」つまり与えるという教えであり、主体は私ではなく「阿弥陀仏」であるという点も事を難しくしています。そして「信心獲得」とか「信心を頂く」と表現しますので、そう聞いた私達はつい「頂こう」「頂くにはどうすればいいか」と方法論に走りがちです。この点が厄介なのです。

信心を頂く」といいますが、これは言葉を変えると「計らいは要らない」「方法論は要らない」ということです。本願は既に成就して「南無阿弥陀仏」と成り、「必ず極楽へ迎えるから、安心してまかせなさい」という喚び声となって私に届いています。こうした名号のいわれを聞いて、「必ず助ける」本願力が私にはたらいているとわかったら、本願力が信じられたなら、こちら側で余計な詮索は不要なのです。これは自分で起こす信心ではありません。ではどうして起こるかといったら如来より起こさしめられる信心だというので、これを、「他力の信心」「本願力回向の信心」というのです。それで「信心を頂く」と言われているのです。私が私の力で頂こうとして頂けるものではなく、「南無阿弥陀仏」の六字のこころをそのまま聞き、そのまま受ける。それが「頂く」ということなのです。

同じことで、「自力を捨てる」とよく言われますが、捨てようとするのもまた「自力」であって、自分で捨てられるものではありません。これも、「必ず助けるからまかせろ」の阿弥陀仏の勅命を受けて「こんな邪魔なものは要らないな」と廃るのです。これを「自力を捨てて他力に帰する」というのですが、私の力は一切要せず、ただ如来の本願力のみで迷いの世界を離れ、往生成仏せしめられるという教えであるが故に、逆に人々は「そんなことはなかろう」「そんなうまい話があるか」「何かやらなければならないことがあるはずだ」と疑い計らってしまう。だから、「無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し」、まことに悟り易い教えであるが、悟る者がいない。それは真実の信楽を獲ることが難しいからだ。どうして難しいかと言えば、阿弥陀仏の本願力によって回向される信心を自力で捉えているからだ、と言われるのです。


このようなことですから、自力で掴もうとする限りは「難信」であっても、一たび「助けるぞよ」の勅命を受けて計らいを離れた念仏の行者にとっては「とりやすの安心」「こころえやすの安心」なのであります。

そもそもその信心をとらんずるには、さらに智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行をすてて、正行に帰するをもつて本意とす。
その正行に帰するといふは、なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して捨てたまはずして、一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。この一念の安心一つにて浄土に往生することの、あら、やうもいらぬとりやすの安心や。されば安心といふ二字をば、「やすきこころ」とよめるはこのこころなり。さらになにの造作もなく一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、極楽に往生すべし。あら、こころえやすの安心や。また、あら、往きやすの浄土や。
『御文章』2帖目7通

対して「高森の教」では「絶対の幸福」という「高森の信」を目指して悪業悪行、雑行、助正間雑等の「高森の行」を勧めています。「すてて」と仰せの「雑行」を「拾え」と言って自力疑心を勧めているようなものですから、そんなデタラメ創作教義をまともに信じていては「難信」は「難信」のままであり、「とりやすの安心」「こころえやすの安心」と心得られるわけがないことは言うまでもないことです。

迷いの世界を自力で出離しようとしているから、これ以上難しいことはないとなるのです。あ、いや、そうじゃなかった。親鸞会の会員は「絶対の幸福」を獲ようなどと目的からして違っているので、18願を信ずる以前の問題でした。まぁそれはさておき、私達には絶対不可能な出離、そして往生成仏をさせんと阿弥陀仏は本願力を成就し「南無阿弥陀仏」と回向されているのですから、私達はただその本願力がはたらいておるぞと聞き、受ける以外にないのです。願力にうちまかせる他に信心も安心もありません。

このまま親鸞会で高森会長が「正しい阿弥陀仏の本願を説く先生」だと信じていくら聞き続けたところで、悪業悪行、助正間雑、雑行、ありもしない信心、ありもしない方法論を説き与える偽の善知識、邪の善知識なのですから「真実の行信」を獲ることなど不可能です。高森会長が指し示す道は「全人類が救われるたった一本の道」ではなく、「かへつてまた曠劫を経歴する道」であります。会員の皆さんは、早くこの事実に気づいて泥船から脱し、「南無阿弥陀仏」という「大悲の願船」に乗じて「難度海を度」して頂きたいものです。

高森の教行信証(信編) - たまたま「信心決定した」という人がいても、「疑似体験」「造られた〝獲信体験〟」「安楽椅子の人」と言われてしまう獲得超難関な信心

教えが「真実の教行信証」ではなく「高森の教行信証」ですので、そんな高森会長の話をまともに信じて実践していても「真実の行信」が獲られるわけがありません。

それでもたまに、「高森先生から聞いて信心決定した」という奇特な方が現れます。昨年では、

「晴れて大悲の願船に」

という見出しで学徒となって2年目、30代のデザイナーというブラジルの会員さんの獲信体験が『顕正新聞』1面で公表されました。あれからそのブラジルの会員さんはどうしているのか定かではありませんが、もうひらがなやカタカナはマスターしたんでしょうかね。その方の信心の程は分かりませんけれども、それに対して日本の、それこそ会員歴何十年といった講師部員や会員が未だに救われていないのはどういったわけでしょうか。


親鸞会では、機関誌などで「獲信体験」を公表した会員には信心に”お墨付き”を与える一方で、会員以外の者(退会者や華光会員、その他の真宗信者など)が「獲信した」と言おうものならこぞって「群賊悪獣」「体験至上主義」「自称獲信者」と呼び、「彼らの信心は所詮体験しかないのだ」とか、「そんな簡単に獲られる信心ではない」などと一刀両断しています。

 獲信したと思っている者は、
「私が信心決定した時は、ああだった、こうだった」
「オレが信心獲得した時は、こうなった、ああなった」
と体験話をしたがる。
 いわゆる珍しい話である。
『親鸞会公式ホームページ』擬似体験のコツ

  今晩とも知れぬ命、罪悪深重の己が、今死ねばどうなる。後生が気になり、つらい、つらい、私も早く救われたい、ああなりたいと自分を急き立てる。大声で念仏称えたり、なんでオレは救われないのだ、と叫んだりもする。韋提希のように、はいずり回る者も現れる。
  弥陀の呼び声、一声聞きたい。聞いて、早く楽になりたい一心である。
  すると人間の心は、まことに複雑怪奇。自分で自分に説法する。心の中から呼び声を発するのだ。恐るべき自己暗示は、聞こえない声も、聞こえたと深く思い込ませてしまうのである。
  つかんだら、もう放さない。それで、信心いただいた、ああ、オレはもう助かった、となる。
『親鸞会公式ホームページ』造られた〝獲信体験〟

親鸞会では会員以外の獲信者(ホームページでは「浄土真宗華光会」のことを指していると思われます)のことをこのように言い、「安楽椅子の人」だとか呼んでその信心を否定します。どうも親鸞会では、真実信心か否かの分かれ目は「親鸞会会員であるか否か」にあるようで、似たような体験談でも会員なら「獲信者」だと称讃し、非会員なら「自称獲信者」だと貶めています。また、「高森顕徹会長や出版物を褒め讃えているかどうか」にもあるようで、先ほどのブラジルの会員さんも、当時独学でひらがなを勉強中とは到底考えられない文章で高森会長や映画『なぜ生きる』を絶賛していました。


体験談と言えば、最近よく「高森先生から聞いて信心決定した」という「金星人」さんの体験談を多く頂きます。(どうやら「金星人」=「火星人」=「ヘナチョコ」=「火の人」のようです。飛雲さよなら親鸞会に頻繁にコメントしており、その信心や人格がよく知られます。真宗でも高森教でもない、独自の「金星教」ワールドが展開されています。もしかしたら他にもハンドルネームがあるかも知れません)

聴聞していればいつか助かる、と信じていた我が身に大変な大事件が起こりました。心は真っ暗にカキ乱れ、光に向かっているのに何故に最低最悪の酷い目にあい、この世の地獄を見なければならぬのか。この世の自業苦を解決しなければと真剣に聴聞しました。
真剣に聴聞する心が信罪福心からであり、後生の一大事が何一つも心にかかってない自分が知らされて、お門違いだと見放されました。一生懸命に求道してきたつもりが、何一つも役に立たず、結局空回りで一歩も進んでいない。これから先にいくら求道しても絶対に助からない奴だ。どうしたらいいのだ。分からない分からない。と、もがき苦しんでいた時に「そのままだぞ」と直の呼び声が脳裏にハッキリと聞こえました。「そのまま助ける本願」は本当だった本当だったと疑いが無くなり、湧き出る歓喜の心から念仏を何度も称えさせられました。
「体験談」のコメント(本人)より抜粋)

私はS会以外から話を聞いた事がありません。
光に向かっている筈なのが、悪果が次々に現れて韋提希の様に愚痴の心で苦悩し、全てを捨ててご法話会場に行き、泣き泣きお勤めをして真剣に聴聞しました。聴聞する目的がお門違いの人は創価学会に行ってくれとT先生からも見捨てられました。今まで真剣に求道してきたのに何も聞かないテレーキョトンボーの闡提の心に泣かされて、分からない分からないと三定死で苦しみぬいて、もうダメだと諦めた時に、幼児の様な声で「そのままだぞ」とハッキリと声が聞こえました。本願に間違いがなかった。T先生の言っていた事は本当だったと大驚喜心が起こり疑情がなくなりました。それ以来後生の一大事の解決の為に聴聞するという気持ちはなくなりました。
「金星人(火星人)さんへ」のTENさんのコメントより抜粋)

(※TENさんのブログはこちら⇒大悲にふれて

このような書き込みが相当なされています。当ブログでも相当書いており、その前にもTENさんの証言によると「100回位聞きました」とのことですから、まさに「体験談のオンパレード」です。

今までに、金星人さんのそういった体験談が親鸞会の機関誌で取り上げられ、「獲信体験」として公表されたかどうかは定かではありません。しかし、これは対象こそ違うものの、上に紹介した親鸞会公式ホームページにて指摘していることそのものです。金星人さん、貴方は当時「正しい阿弥陀仏の本願を説く先生」だと信じていた高森会長の話を聞いて「聞即信の一念の体験」をしたと言っていますが、高森会長からは、直接的にせよ、間接的にせよ貴方の体験は「疑似体験」「造られた〝獲信体験〟」であり、「安楽椅子の人」だと言われているようですね。金星教では「錯乱状態でシナプスが繋がり何か閃く事」が「聞即信の一念の体験」のようですから、それは高森教からしても間違いでしょう。

親鸞会内では「誹謗サイト(親鸞会批判サイトのこと)を見ることは謗法罪だ」とうるさいので、当ブログを閲覧して書き込んでくる点からして、金星人さんは忠実な「高森教徒」でないことだけは間違いなさそうです。また、少なからず現在の教義に疑問を持っているようで、親鸞会及び高森顕徹会長に全幅の信頼を置いているようでもなさそうです。現在は高森会長のことを「正しい阿弥陀仏の本願を説く先生」と信じていないともお答え頂いています。ということは、親鸞会からすれば金星人さんは「群賊悪獣」「体験至上主義」「自称獲信者」であり、「彼らの信心は所詮体験しかないのだ」とか、「そんな簡単に獲られる信心ではない」などと一刀両断されてしまう側の人間ということになりますね。


親鸞会の機関誌などで「獲信者」だと紹介されたからその人は真実信心の人だとは言えませんが、それにしても親鸞会では「獲信者」の数が極めて少ないです。親鸞会以外では皆無であり、たまたま「信心決定した」という人がいても、「疑似体験」「造られた〝獲信体験〟」「安楽椅子の人」と言われてしまう獲得超難関な信心のようで、これで果たして「全人類が救われるたった一本の道」なのかと疑問に思わざるを得ません。

勿論、獲信者が親鸞会以外では皆無などということはなく、決して多いとは言えませんが現在も信心獲得した念仏の行者は相当数おられることでしょう。逆に、念仏一行どころか悪業悪行、助正間雑、雑行を勧める教えをまともに聞いて信心獲得するということの方がおかしいのです。教義の誤りは、体験談を否定しつつも会員のモチベーションを保つために体験談を事あるごとに載せ続ける矛盾を通してもよくわかると思います。善知識方の書かれたものに体験談というのはほとんどありません。特に生々しい体験談は皆無です。書かれたものは体験談ではなく、教えです。

確かに信心獲得することは難しいと教えられてはいますが、会員の皆さんの場合は、皆さんが信心獲得できない最大の原因は「間違った教えを聞いて実践している」というところにあります。それはまた次回に譲ることにしますが、兎にも角にも「高森の教行信証」から離れて「真実の教行信証」を知らないことには浄土真宗の信心は分かりませんから、会員の皆さんは邪義を邪義と正見して一刻も早く見切りをつけ、「南無阿弥陀仏のいわれ」を聞いて「信心歓喜」して頂きたいものです。


それにしても、体験談をたのみにして一度掴んだらもう離さないというのは恐ろしいことです。私には、そんな不思議体験が無くて本当に良かったです。もし私に不思議体験があったら、「これでもう大丈夫」「あの時あんな体験をしたのだから」とどんずわって、それ以上法を聞くことも、真宗を学ぶことも無く、また少しでも御恩報謝をしようとも思わなかったかも知れません。「自分の意識、記憶の中の出来事」という無常のものをたよりとしているというのは自力の計らい以外の何物でもないですし、そんなものが役に立つと言っているのは「真実信心がどんなものか知らない」と表明しているようなものです。

体験談は万人に当てはまるものではないし、実際に信心を獲た人がいるということは分かってもそれ以上実りはありません。そんな個人的な体験談を何度も書き連ねるというのは自慢以外の何物でもないでしょう。まして体験談を元に「本願まこと」とか言われてもね。皆さんにも信心獲得してもらいたいと思うのであれば、自身がまず教えをよく学んで、そして教えを書くべきだと考えますが、はてさて・・・。

高森の教行信証(信編) - 「一念の救い」と言いながら、実際は「20年や30年」「30年40年」「100年や200年」では獲得不可能の信心

親鸞会では、阿弥陀仏の救いに時間はかからない、「一念の救い」だとよく言われます。

「『一念』とは、人生の目的が完成する、何億分の一秒よりも速い時をいう」
”人間に生まれたのは、これ一つであった”と、人生の目的が成就したのを「信楽開発」と言い、その分秒にかからぬ速さを「時剋の極促」と言われている。まさに極速円融といわれるゆえんであろう。
 では、なぜ弥陀の救いは、こんなに早いのか。(中略)

「弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、最悪の人を眼目とされている。もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ」
(『なぜ生きる』p.342~p.343)

いかにも今日聞いて今日救われる、今臨終の人でも救われるかのように語っています。実際、今臨終の人でも救われる教えであることは間違いありません。『観無量寿経』下品下生では、十悪五逆の罪人が臨終に善知識に遇い、勧められるまま念仏を称えて往生したことが説かれています。しかし、高森教ではこれも大ウソです。

親鸞会では「平生業成」の看板を掲げて「人生の目的が現在に完成する」などと言うものですから、いかにもすぐ、聞く人によっては一座の聞法で、時間がかかる人でも3年くらいで「人生の目的」が完成して「絶対の幸福」になれるような印象を受けます。ところが、よくよく聞いていきますとそんなことは無く、その「一念の救い」、要は「高森の信」を求めて「高森の教」を学び「高森の行」を修めていかなくてはなりません。つまり

救われるのは「一念」だが、その「一念」に到達するのは時間がかかる

というのが実態なのです。その「時間がかかる」というのも三秒くらいならいいですが、

・20年や30年で獲られる信心なら「億劫にも獲難し」と言われるはずがない(これが獲信か、7P)

・雑行、雑修、自力の心を知るには30年40年かかるだろう。(教学講義)

・信心獲得は100年や200年求めて獲られるような、ちっぽけなものでなく、多生永劫、求めてようやく獲られるもの、ということが明らかです。ーーー
 我々も魂のリハビリをしているようなもので、信心獲得までには肉体のリハビリどころでない、多生永劫という長いリハビリの時間を要するのだ、と教えて頂きました。(昨年来た友人の手紙・会員暦30年以上)
『私の白道』5より)

とあるように「20年や30年」「30年40年」「100年や200年」で獲られるようなものではないというのですから、実質現世では不可能ですわ。そんな本願では、「一刹那に臨終の迫っている、最悪の人」「あと一秒しか命のない人」はおろか、年若く健康で、頭脳明晰、やる気に溢れた大学生でも不可能です。あまり適当な例えではありませんが、超サイヤ人ブルーの界王拳の悟空、超サイヤ人ブルーの力を更に超えて破壊神同等のトッポを倒したベジータ、超サイヤ人ブルーと同等に戦える17号の同時攻撃を破るジレンに俺ら生身の人間が勝負を挑むみたいなもんで、力の差は歴然、試合の前から既に勝敗は決しています。


それもそのはずで、「信文類」「化身土文類」には

・また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
・雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。


と教えられています。高森教はひいき目に見て雑行の教えですから、二双四重の教判ではひいき目に見て横出」に分類されます。これは確かに「100年や200年」ではない、報土への回り道なので納得です。

親鸞会の教えは「横超」に「横出」をくっつけたような珍しい教えなので、「一念で救われる」と言う時は「横超」の方を強調し、そうやって聞く者を誘い出して「横出」の方へ導き、いつまでも救われないと不足をならす会員には世間事と比較して「後生の一大事」の重さを説いて黙らせるという手法を用いています。「横超」「横出」といってもそれは言葉だけ浄土真宗で、その実は「一念の救い」という「高森の信」を目指して善の勧めと称した「高森の行」をやっていけという「高森の教」です。

まず、「絶対の幸福」というエサをぶら下げ、次に釣れた者を無常と罪悪でせめたて、「後生の一大事」を説いて死後の恐怖を煽り立てます。すると聞く者は何とかそんな一大事から逃れたい、そして変わらぬ幸福の身になりたいと思い、「後生の一大事」の解決と、「絶対の幸福」の獲得を目指して組織拡大に利用されてゆくのです。「聞法(聞邪義)」を重ねさせることで「高森の教」を刷り込み、「最も宿善厚くなる行為」「全人類が救われるたった一本の道を示すという素晴らしい善行」との触れ込みで「破邪顕正(弘宣邪義)」を正当化し実践させています。それに加え、組織を拡大させ基盤を安定させる「財施(献金)」、会長及び上司への「無条件服従」が勧められるのは勿論です。親切や親孝行、約束を守るといった日常生活、倫理道徳的な善行はサブ的な要素で、積極的に勧められるのは上に述べたような行為です。

私もそうでしたが、「現在只今助かる」という言葉に惹かれて会員の皆さんは聞き始めたのだと思います。しかし、聞いても求めても助からない。「一念の救い」に遇えない。「絶対の幸福」になれない。その理由については「事は後生の一大事だから」「教えは正しいがついていけない自分が悪い」などと自分で自分を納得させ、一朝一夕ではいかないんだと、「20年や30年」「30年40年」「100年や200年」で獲られるようなものではないものを求めているんだということで、現役会員の方々は今ではすっかり「現在只今助かる」をアキラメているのではないでしょうか?


会員の皆さんが親鸞聖人の教え通り「真実の行信」を獲られないのは、皆さんの聞き方、求め方が悪いというよりは、教えが間違っているからです。教義的にひいき目に見て「三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善」「横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門」の教えを行じていて「真実の行信」を獲られる方がおかしいのです。加えて、実態としての行は悪業悪行がメインで、しかも浄土往生、成仏というよりは「絶対の幸福」という夢・幻のような現世の幸せが目的ですから、世間的な幸福云々を超えた出離を目指した上での18願の救いが判るという方がどうかしています。

18願の信、「真実の信」は、私達が仏願の生起本末、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑い無いことです。それは自分で起こす信心、自分でそうだと思い固める信心とは違いますから、「本願力回向の信心」と言われています。「必ず極楽へ迎えるから、安心してまかせなさい」という勅命をそのまま受けるのがすなわち信です。本願は成就して、既に南無阿弥陀仏と成って今現に私にはたらいていますから、「そなたを助ける法が今はたらいておるぞ」と聞くのです。そう聞いたなら、そう受け容れたなら、己の計らいは要りません。つまり自力が廃る、自力を離れるのです。後は、命ある限り如来の救済法である「南無阿弥陀仏」を口に称えて、如来大悲の恩徳、師主知識の恩徳をかみしめ、至徳を報謝する人生を生きて行くのです。これがよく真宗の「信心決定」したる「念仏の行者」というものです。

南無阿弥陀仏」の勅命を受けたその時、臨終を待たずして浄土往生が定まりますから、これを「平生業成」といいます。何か特別な行が必要なわけでもなく、私達としてはただ本願力にまかせるだけですので、今臨終という人でも間に合います。今臨終という人に「高森の行」をやっていかねば助からない、「20年や30年」「30年40年」「100年や200年」で獲られるようなものではないと説くのはあまりに無慈悲です。こんな教えでは誰も助からないということは今まで述べてきた通りです。

信心獲得」「信心を頂く」と聞きますと、どうしても「頂く」ということに執着し、何か物を貰うように阿弥陀仏から何かを賜るんだろうと思いがちですがそうではありません。「信心獲得」「信心を頂く」というのは、要は「計らいを捨てる」「計らいは要らない」ということです。「ただ南無阿弥陀仏のいわれを聞け」「「助けるぞ」の勅命を受けよ」とこういうことです。それを私はよく「本願を信じ念仏する」と申し上げているわけです。会員の皆さんには、現世では獲得不可能な「高森の信」「絶対の幸福」を追い求めることはもう止めて、親鸞聖人の仰せに耳を傾けて本願を信じ念仏して頂きたいと思います。

高森の教行信証(信編) - 信心決定は過去の体験ではない。いまの南無阿弥陀仏こそわれらが往生の定まりたる証拠

親鸞会では「一念」ということを非常に重視します。その大体は、

「『一念』とは、人生の目的が完成する、何億分の一秒よりも速い時をいう」(『なぜ生きる』p.342)

という意味で、あっともすっともギャーとも言う間もない極めて短い時間のことを指しています。その「一念」に人生の目的が完成する、絶対の幸福になる、無碍の一道に出る、後生の一大事が解決する、などというのです。そしてその「一念」に自力間に合わなかったと無間のドン底に堕ち、同時に他力に摂取されるという摩訶不思議な体験をするように説き、それを「信心決定」だと言い、その時の体験を「聞即信の一念の体験」などと呼んでいます。会員の皆さんが追い求めている憧れの体験です。

しかし、そんなものが「信心決定」だなどとはどこにも説かれていません。全くもって珍しい教えであり、まさに「高森の信」であります。「信の一念」にしても、

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。

阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信受する信心が開け発った最初の時を信の一念(時剋の一念)といい、

一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。

また、阿弥陀仏の救済をふたごころなく疑いなく信ずることを一念(信相の一念)というのです。時剋の一念の瞬間を凡夫の上で必ず、ハッキリと自覚できるとか、時剋の一念の自覚が無ければ真実信心ではないとか、時剋の一念の瞬間に地獄一定と極楽一定を同時に知らされるなどとは、ただの一言も仰っていません。

そもそも「信心決定」「信心獲得」が「体験」であるとは言われていません。蓮如上人は

信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。(5帖目5通)

他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。(5帖目11通)

等と仰って、信心決定する、信心獲得するといっても南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得る以外には無いのだぞとお諭しです。であるから、蓮如上人は事あるごとに南無阿弥陀仏の六字のこころを懇ろに説き示されたのです。「必ず浄土へ迎えるから、安心してこの阿弥陀にまかせなさい」という南無阿弥陀仏の仰せをそのまま心に受けたのが信心です。その信心が開け起る最初の時を指して時剋の一念といい、その信心のすがた、仰せの通り南無阿弥陀仏に全ておまかせしてふたごころないことを信相の一念というのです。

ですから、重要なのは時剋の一念の時をハッキリ自覚し覚えているかどうかではなく、現在只今、南無阿弥陀仏に全ておまかせしてふたごころがないかどうかなのです。時剋の一念(と自身で勝手に思っている時)にどんな体験をしたといっても、それは年月を経る毎にどんどん過去の話になっていき、その記憶は段々と曖昧になってゆきます。そして最後死んでゆくときは忘れ失ってゆく、やがて必ず滅びるものです。「聞即信の一念の体験」をしたといっても、自分の記憶しか証拠はありません。もしそれが真実まことの信心を獲た体験ならばよいのですが、それがいわゆる神の啓示、自己暗示の類だったらどうします? 記憶の上での体験を糧に信心を語るというのは非常に危ないことなのです。

そんな曖昧で、100年もしない内にやがて必ず滅びゆくものが往生の証拠なのでしょうか? 蓮如上人は、いまの南無阿弥陀仏こそわれらが往生の定まりたる証拠であると仰っています。

当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。すでに善導釈していはく、「言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行」(玄義分)といへり。「南無」と衆生が弥陀に帰命すれば、阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。このこころすなはち「阿弥陀仏即是其行」といふこころなり。このゆゑに、南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、機法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。

阿弥陀仏が昔法蔵菩薩であった時、「衆生(お前)を仏に成さなんだら我も仏に成らんぞ」と私の正覚と自身の正覚とを同時に誓われました。その本願が成就し、誓いの通り阿弥陀仏と成ってすでに正覚が成就されたすがたが、いまの南無阿弥陀仏であるというのです。そして、いまの南無阿弥陀仏が、私達の往生が定まっている証拠だとの仰せです。

定まりたる」とは現在完了形で、過去だけでもなく、現在だけでもないところがポイントであるとお聞きしたことがあります。私達が名号のいわれを聞き受け信心が開け起こったはじまりが時剋の一念、その信心のすがたが信相の一念でありますが、信心が相続してゆくのは南無阿弥陀仏が成就して絶えず私を喚んで下さっておられる故、バックボーンに常に如来の本願力がはたらいて下さっているが故であります。

信心を頂いて私の心が立派になったから相続してゆくのではありません。また信心を頂いたその時に不思議体験をしたから往生一定なのではありません。私の中には何にもありゃしません。空っぽです。そこに如来の本願力が、つまり南無阿弥陀仏が来りたまい、入りたまうから「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とよく響くわけですね。私の中には確たる証拠はなく、証拠は今現に届いている南無阿弥陀仏しかありません。

常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人がよく言ったというのはそのことなのです。私にあるのは煩悩妄念のみで、まことはない。だから私の心の中に信心を探さずに、仏様の側に仰げというのです。それを、「自分がこうこうこういうハッキリした体験をしたのだから間違いない」と決めているのは、信を仏辺に仰がず、煩悩妄念の中に探しているすがたです。「高森の信」とは所詮その程度のもので、創価学会の信心を真宗の言葉を使って表現しているに過ぎません。


教義の根幹は大沼法竜師、伊藤康善師のパクリ、組織拡大法もパクリ、信心もパクリ、何もかもパクリというのが「高森の教行信証」です。こんなものを「唯一絶対にして真実の宗教」などと一時的にでも信じていたのですから、それは馬鹿にされ蔑まれても仕方ないかなと思わされます。会員の皆さんは、いくら「高森の教行信証」を仰ぎ奉ろうとも「真実の教行信証」とは無縁、どころか反って障害にしかならないことを知って、一刻も早く邪義を捨て去り、本願を信じ念仏して頂きたいと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』補註7 信の一念・聞
『飛雲』自力による一念の信心
『用管窺天記』慈悲は罪悪機中に味わう
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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