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謹賀新年(2018年)

瞬く間に2017年も終わってしまいました。年を追うごとに時間の流れが加速している気がします。四方に同時に放たれた弓矢を一瞬で捕らえる男の足より命が終わるのは速いというお釈迦様の譬えはどうやら間違いないようです。残された命がどれだけあるかは分かりませんが、できるだけ無駄にせずに、そして心豊かに一日一日を生きていきたいと思います。今年もよろしくお願いします<(_ _)>



さて、本願を信じ念仏するようになってから、確かに宮田先生が仰るように私の中では「なぜ生きる」は大した問題ではなくなりました。

阿弥陀仏の救いは、「お前を浄土に往生させて、仏にする」ものです 。その身に救われたならば、「なぜ生きる」は大した問題ではなくなります。
映画「なぜ生きる」の感想(4)「なぜ生きる」は「親鸞聖人教え」と違うたった一つの理由より)

勿論、本願を信じ念仏を称え、浄土へ向かって生きる人生に転換された現在も様々な苦しみはあります。ただ親鸞会にいた頃は精神不安定だったこともあり、今よりずっと苦しみが深かったです。苦しみ痛みに弱く、おそらく他の人なら大した苦しみに思わないであろうことも大きな苦しみに感じてしまっていました。その中で毎週のように富山に通いながら仕事をしていくのは本当に辛かったです。毎朝、通勤途中に「俺は何のためにこんな苦しい中生きてるんだろう?」とか、「こんなに苦しくて、しかも後生の解決ができないのなら、いっそ今死んだ方がマシだ」とよく考えていました。それでも、

「(こんな苦しい人生)なぜ生きる?それは、阿弥陀仏に救われるためだ!」

という高森顕徹会長の教えに「そうだそうだ」と思い、何とか救われて永遠の幸福、絶対の幸福になり、一切の苦しみから解放されたいと一縷の望みを託して求めていました。ところが、いつの間にか「人生の目的」が

真の人生の目的を知ったとき、一切の苦しみ悩みも意味を持ち、それに向かって生きるとき、すべての努力は報われる(『なぜ生きる』p.365)

などと、苦しみに意味を与える方向で語られ、いつまでも後生の解決ができないことに対しては

人生の目的を知っただけでも大変なことだ

と慰めにならない慰めを言われ、

本当の人生の目的を達成したとき、一切の苦労は報われ、流した涙の一滴一滴が、真珠の玉となってその手に戻るのです。(『なぜ生きる』p.105)
阿弥陀仏に救われるための苦労ならば、全て意味があり、報われる。だから頑張れ!

とすり替わって、ますます組織拡大活動に駆り立てられるだけでした。


こうした高森顕徹会長、親鸞会の教えは、浄土真宗ではありません。後生助かるという事、私達が本願を信じ念仏を申して浄土に往生するという事は、私達の苦労や努力の成果ではないからです。

しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。信文類

【現代語訳】
このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。

私がド真剣に聞いたから、苦しい求道に耐え抜いたから、どんな苦労や努力も惜しまなかったから往生の行信が獲られたのではありません。「すべて」阿弥陀仏が与えて下さったのです。これは、信後はそのことを知らされるが、信前は必死の求道聞法が必要だということでもありません。もし必要なら、「すべて」では無くなるからです。我々が本願を信じるのも、お念仏申すのも、浄土往生してこの上ないさとりを開くのも、「すべて」阿弥陀仏の回向によるものです。私としては計らいを捨ててこの道理を聞き、そのままお受けするのみです。

大体、私の真剣さとか、苦労、努力などが、後生の解決の一体何に役立ちますか? 何の役にも立たないでしょう? 私の行為が、信心を獲て浄土往生するのに何らかの役に立つと思っているのを「自力」というのです。そんな己のことなど打ち捨てて、阿弥陀さまがド真剣なはたらきぶりを聞かせて頂かなきゃなりません。こんな俺なんかを助けて浄土に迎え、最高のさとりを悟らせるためにどれほどのご苦労、ご辛労をされたのか。果てしない過去からどれだけ私の救いにかかりきりなのか。片時も休む間も無くはたらいて下さっておられる、その阿弥陀さまのド真剣を受けなきゃなりません。

ここの所を高森教では「高森先生のご苦労」「高森先生のご恩」とすり替えて組織拡大活動の促進剤としていますが、とんでもないことです。そんなものがあるとしても、それはあくまで

速やかに浄土往生して仏果を得る横超の直道を親鸞聖人が明らかにされた

点においてのみです。この、親鸞聖人の教えを知らせてくれた一点において、私は高森会長や親鸞会に感謝しています。ところが高森会長はその親鸞聖人の教えを正確に伝えず、己の私利私欲に会員を振り回しているだけですから、他は百害あって一利なしです。高森教を聞いて活動していても「阿弥陀仏のご辛労」に報いることにはなりません。あれをまともに聞いて信心獲得できる道理がないので、それを知らされた者として僅かでも「御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩」に報いるべく教義の誤りと浄土真宗の教えについて綴っています。

私は幸いにも阿弥陀さまの、真剣そのものの救済活動の只中にあることを知らされ、本願招喚の勅命を受けてお念仏申す身とさせて頂きましたが、今も気付かず組織拡大活動に勤しんでいたら、そしてその間にこの世の縁終わっていたらと思うとゾッとします。衆苦輪に繋縛せられて、またしても迷いを重ねる所だったのを、「間違わさぬぞ」「迷わせぬぞ」の仰せに迷いの絆を断ち切られたことは、慶びの中の慶びであります。私の人生、お念仏のこころを知り、お念仏申すための人生でした。


このように本願を信じ念仏申すようになってからは「なぜ生きる」だとか「人生の目的」は大した問題ではなくなりました。日々の生活の中で、勿論忙しいのもありますけど、本当にこういったことは考えなくなりました。相変わらず衆禍の波はやって来て、苦しみが深い時などは「何でこんなに苦しまないといけないんだ!」と苛立ったりもしますが、まぁこれは業の報いです。そう簡単に割り切れるものでもないですけど、受けてゆくより仕方ありません。

この世は業報の恐ろしさを知らされると同時に、永遠に迷いを断ち切って往生成仏させる本願力、また本願力に遇うための命でありすべてのものである、ということを分からせて頂く道場であるのかなと思ったりもします。今後どうなるかは分かりませんが、今日も命を恵まれた感謝、本願力に摂取され往生を一期として生かされているということを教えの光を受けて知らされつつ、命ある限り念仏を申して生きていきたいです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ。

ただ、この記事で取り上げた座間市の事件、小学生でも自死を選んでいる現実、高校の同級生が早くも一人欠けてしまったこと、祖母の死、祖父の体調不良などをきっかけに、子供であったり親兄弟、また縁のある人、生きる意味に悩んで苦しんでいる人に浄土真宗の法を伝えるといった場合には、「なぜ生きる」というか、生きる意味とその方向性、そして死んでゆく意味というのを自分の中で今一度しっかりと捉えておかねばならないと思いました。

別に周囲が悪いと言うつもりはないのですが、人生の何たるかについて教えてくれる人は、親も先生も、先輩も友人も、寺の坊主も含めて一人もありませんでした。どなたもどなたも、挨拶に礼儀、勉強に遊び、仕事に娯楽など、いわゆる「生き方」「どう生きる」ばかりで、それはそれで結構なことだけれども、肝心の「生きる」とはどういうことなのか、「生きる」ことにどんな意味があるのか、苦しいことがあってもなぜそこを耐えて生きていかなければならないのか、また「死ぬ」とはどういうことなのか、「死ぬ」ことにどんな意味があるのか、やがて必ず死んでゆくのに何のための人生なのか・・・、こういったことについては誰も教えてくれなかったです。誰か、こうした問題について明確に答えてくれる人はあったでしょうか? そして、あってもそれは自分が納得いくような答えだったでしょうか?

おそらく、満足する答えを教えてくれた人はほとんどいなかったのではないかと思います。このように生きることに無知であり、死ぬことにも無知であれば、決して自殺を選んでもおかしくはないし、「死にたい」「自殺したい」という声が世間に蔓延しているのも道理です。私自身もずーっと思っていたことです。

別にこのようなことを考えなくても生きてゆくことはできますが、それではハッキリ言って動物と一緒です。死ぬために生きているようなものです。毎日同じようなことを繰り返して、起きて糞して寝て食って、その内に子は親となり、また子が親となり、その間に趣味や娯楽で楽しくしていっても、我が身は年老いて、様々な病気にかかり、やがて必ず死んでゆくのです。死んでゆく時に、我が身に何が残るのか、有難い人生であったと満足して死んでゆけるのか、そして死ぬことも有難いことですと受け容れられるのか。

こう考えていきますと、生きる意味とその方向性、そして死んでゆく意味についてよく考えもしないで生きてゆくということは実に薄っぺらい人生だなとしみじみ思うのです。「生きる」「生きている」ということを当然と思っていたら、自分は今大変有難い状況にいるということは分かりません。「命がある」というのが当たり前なのですから、命を粗末にしてしまうのも当たり前となってしまいます。ところが私達は物心付いた頃から当たり前のようにこの世に存在しているわけで、教えてもらわなければ「命の大切さ」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」といったことはまず分かりません。

今回はこれまでと致しますが、これから、改めてこのようなことについて掘り下げていってみたいと思います。
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この世に「生まれる」ということ、「生きる」ということ、「生きてゆく」ということ

この記事で「命の大切さ」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」といったことを掘り下げてみたいと書いてから早や10ヶ月。それから随分と間が空いてしまいましたが、今日はこのことについて触れていきます。


私達はこの世に「生まれて」きました。英語で言うと

I was born.

そう、受身形です。学生の頃、

I was born:吉野弘

をチラッと読んだ記憶がありますが、これにある通り自分の意思とは無関係にこの世へやって来たのです。もしかしたら、過去世において「次こそは人間に生まれて仏法を修め、永遠に迷いを離れてこの上ないさとりを開くぞ」と固く誓って両親の元へやって来たのかも知れませんが、そんなことは覚えていません。ただ、気が付いたら自分という存在がここにあったのです。

前世はおろか、生まれてすぐや、赤ん坊の頃の記憶は全くありません。でも、前世はともかく、胎児だった時、生まれた時、赤ん坊だった時は確実にあったのです。母親のお腹の中で十月十日、肉体を分け与えられて、恐らく出産の際には自分には想像できない痛みと共に生まれたのです。その後もお乳を飲ませてもらったり、オムツを変えてもらったり、親からしたらつまらない遊びに付き合ってもらったり・・・。

きっと、転んで泣いた時は抱っこしてあやしてもらったのです。病気の時などは眠い目を擦り擦り看病してもらったことでしょう。自分は小さい時に庭の池に落ちて溺れてしまったと母に聞きましたが、その時は必死に救助されたのです。本能的に生きようとする意思があったというのもありますが、そんなものは微々たるもの。全く親のおかげで、周りの人々のおかげで、そして自分の血となり肉となるために犠牲になった豚や鶏、魚などの多くの命のおかげで「生かされて」きたのです。

この肉体は生まれた時からして既に母親の一部を分け与えられて始まっています。乳児期に飲むお乳も母親のものです。それ以後も、植物のように自ら栄養を産み出すことなく、水やお米、肉や魚、野菜、果物、その他数多くの命を頂くことで保っています。最初から最後まで、私のものだったものなど一つもありません。全て与えられたものです。全て頂いたものです。それを我が物顔に、「自分の命なんだから、生きようが死のうが自由」などと考えること自体、こうしたことが全く分かっていない証拠です。ただし、このようなことはよほど感性が鋭いか、教えてもらうかしなければまず分からないことでしょう。そういう教えが普段の生活や教育現場で説かれない現状は実に悲しいことです。


ただ、そうやってこの世に「生まれて」、「生かされて」いるのは何のためでしょうか? 確かにこの問いに答えが無くても生きてはいけます。また、現状に満足し、生きているのが楽しいならば疑問に思うことはありません。現在小3の長女も学校が楽しいようで、嫌なこともあるものの、まだこの問いを考えるには到っていないようです。ところが、行動する意味を考えずにいられないのが人間であり、生きるのが苦しければ問わずにはいられないのがこの問題です。

生物学的に言えば「子孫を残すため」ですが、じゃあ独身で子供の無い人、子供を産みたくても産めない人は生きる意味がないのかということになってしまいます。「富を築くため」かと言えば、多くの人は十分な金や財を得られず、しかも富豪でも自殺している人がいることを考えるとどうも違います。「地位や名声を得る」にしても、「なりたい職業に就く」にしても、「愛する人と結ばれる」にしても、そういった願望、欲望関係は違うようです。

誰か、こうした「生まれてきた理由」、「生きる意味」について考え、「これだ!」と納得のいく答えを導き出せた人はあるでしょうか? また親でも先生でも、こうした問いについて真摯に答えてくれた人はあったでしょうか?


これについて答えを持たずに生きるということは、実に薄っぺらい、そして危うい人生だと私は思います。人生の裸形は、「世の中は起きて箱して(糞して)寝て食って後は死ぬを待つばかりなり」と一休和尚が言ったように、同じことの繰り返しでやがて必ず死んでゆくというものです。

「生きる」とは、「死に向かって」進行していることであり、「生きてゆく」と言いますが、結局「死に向かってゆく」ということです。よく、苦しい状況に「死んじゃうよ」と言う人がありますが、そんな苦しみの象徴、嫌なものの象徴である「」に向かって刻一刻と我々は向かっているのです。ですから、「生まれてきた理由」、「生きる意味」を考えずに、知らずに生きるというのは、「死ぬために生きる」ようなものです。「起きて糞して寝て食って」なら動物だって立派にやっています。ですから以前、生きる意味とその方向性、そして死んでゆく意味を考えずに生きることは「ハッキリ言って動物と一緒」だと書きました。

ところが、そのように大事な、人生の根本でもある、「生きる」とはどんなことか、生きてゆく先である「死」とはどんなことかということを、誰かまともに取り扱っている人はいるでしょうか? 誰も立ち止まって考えることなく、ただ目の前の勉強であったり、仕事であったり、やらなければならないことに追い立てられて生きているように思います。そしてその内に、この世での持ち時間が切れて、「もうあなたの人生は終わりだよ、さようなら」と死んでゆかねばならないのだとしたら、一体何のための人生だったのでしょうか? 「こんなところでくたばってたまるか」とよく言われますが、こんなところでくたばらなければならないのです。「死んでも死に切れん」とよく言われますが、死に切れなくても死んでゆかねばならないのです。

何の為に生きて行くのか答えなんて無くていいよ

と歌っている人もありますが、本当に答えが無くていいですか? まぁ、変な宗教に騙されてしまうよりはマシかも知れませんが、それで安心して、満足して、「有難い人生でございました」と死んでゆけますか?


同じ生きてゆくなら、「生きる意味とその方向性」を知って生きてゆきたいじゃないですか。同じ死んでゆくなら、「苦しい事、辛い事も沢山あった。やり残したことも沢山ある。でも、今死んでも満足だ。真に有難い、けっこうな人生でございました」と合掌し、家族や周囲の皆さんに感謝して死んでいきたいじゃないですか。更には、この世を終わって「死んでゆく意味」は何なのか、そこまで知って次の世へ旅立ちたいじゃないですか。

これについては親鸞会でも言っているように、政治、経済、科学、医学、文学、芸術、倫理、道徳・・・、これらの人間の営みの中では答えがありません。そもそもこれらはそのような問題を扱っていないからです。扱っているのは哲学や宗教です。現在私が帰依し学んでいる浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、この問題について、その教えを通して一つの答えを示されています。今は詳しく言いませんが、キーワードは万人共通の往生成仏の道である「念仏」です。お念仏申す人生を送ることこそが本当に意味のある人生であり、様々な御恩に感謝していける人生になり、人生がお浄土への旅路へと転換することになり、やがて一切衆生を思うが如く利益することになる。私はそのように領解しています。なぜそう言えるのか、詳細はいずれ別記事で書きたいと思います。

それを聞いて納得する人もいるでしょうし、そうでない人もいるでしょう。それも一つの考えだねと無関心な人もいるでしょう。ただ、いずれにしても「生まれてきた理由」、「生きる意味」、「死んでゆく意味」について考えるのは無駄な事ではありません。むしろ考えずに生きる方が危ないです。ここまで読まれて、未だ考えたことがないという方がありましたら、この記事が考えるきっかけにでもなればいいなぁと思います。

なお浄土真宗の教えに関心がある方は、

浄土真宗の法話案内

などから検索してお参りして頂ければと思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

知りたい人にはどうしても知りたい、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」

人生、気が付くと既に始まっています。

私は4歳位からでしょうか、それくらいからおぼろげに記憶があります。便所で、曾祖母にケツを拭いてもらったことを覚えています。幼稚園で友達と砂場を掘ったり遊具で遊んだりしたこと、また園にいる時に大きな地震があったことも覚えています。庭で走っていて、自分ほど速く走れる者はいないだろうなんかと自惚れていた記憶が残っています。まぁそれは小学校の徒競走で見事に打ち砕かれましたが・・・。

4歳頃ですからある程度大きくなっていて、自分の頭や目、耳、鼻、口、手足、体があって、小さな物を掴んだり投げたり、歩いたり走ったり、食べたり飲んだりできることは分かりました。それから父母、祖父母、曾祖母、妹、近所の人や友達、先生など、多くの人達が周りにいることを知っていきました。住んでいる家、庭、周辺の地理も覚えていきました。色々な遊び、自転車の乗り方、読み書き計算、挨拶、その他様々な「生きる知恵」を習得し、段々世界が広がってゆきました。


そうやって大きくなってゆく過程から現在まで、勉強や様々な「生きる知恵」を教えてくれる人はありましたが、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」はこれだと教えてくれたのは、私には親鸞会しかありません。他は、まるで考えてない、関心が無い、どころか、触れるのがタブーかの如く、誰も問題にもしませんでした。

別に「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」を知らなくても生きてはいけます。毎日毎日、変わり映えもなく台所とトイレの往復、家と会社の往復、寝て起きてを繰り返すだけの人生ならば。でもそれでは動物とは違う、人としての一生を生きたと言えるのか。これでは動物と変わらない一生ではないかと思ってしまいます。否、人間は動物と違って耐え難きを耐え忍び難きを忍んで生きている分、苦しみが深いのではないでしょうか。

人生が順風満帆であったり、生きるのに必死過ぎて心を亡くしている状態の時ならばこんなことは思いません。苦しみや将来の不安、身近な人の死や臨死体験など、考えさせられる縁でも来ない限り。そして、同じことの繰り返しで最期死ぬだけの人生ならば今死ぬのとさして変わらないと気付いてしまうと、どうしても「生きる意味」を知りたくなります。知ることができなければ生きていけません。そんな事、いっそきれいさっぱり忘れて楽しく生きられたらいいのですが、考えてしまった者からしたらそんな簡単に方向転換できないものです。


かく言う私も小学生、中学生位まではそこそこ楽しく生きていましたが、志望の高校に入った頃から段々とこの問題を考え始めました。というのも、私は小さい頃から母親に「○○高校に入学してもらいたい」と言われており、それを目標に生きてきたからです。当然高校入学で終わりではないわけで、目標を失った自分は迷いました。次は大学だと期待をかけられましたが、中学までと違って勉強量は膨大でキリがありません。なりたい職業があったとか、好きで勉強していたとかではなく、私は当時好きだった女の子が勉強ができたから勉強していたに過ぎなかったので、意味も分からずただ知識を詰め込むだけの勉強が徐々に苦しくなっていきました。

高校では、やはり天才というか秀才というか、上には上がいるもので、自分が最大限努力しても勝てない相手がクラスにいました。好きなTVゲームもやり過ぎて親がいい顔をしません。時々受ける模試の判定は苦手の国語が足を引っ張ってCとかDランク。迫ってくる受験を考えると暗くなるだけです。また、当時心の支えであり好きだった女の子への恋も実らず、思うようにならない現実に嫌気が差してきました。

自分は一体何がしたいのか。何をするためにこの世に生まれてきたのか。全く分からない。とにかく苦しい。この苦しい気持ちを抱いたまま生きてゆくのはつらい。その内にも通信教育の課題はドンドン溜まり、時間はドンドン過ぎていきます。やりたいことが分からないし、本当に欲しいものも得られない。将来に希望も持てない。親や先生の期待は重圧でしかない。しかも苦しいこの気持ちを分かってもらえない。他人にとっては「その位の事で何悩んでんだ?」と思うことでも、自分にとってはそれが全てと言っていい位大きいことだったのです。

高3の2学期、いよいよ苦しくなってきた私は「どうせ死ぬなら今死んだ方がマシだ」と自殺を決意しました。が、いざ死のうとすると真っ暗で、恐怖しかありません。それまでは死んだらタンパク質の塊になるだけ、自分は無になると考えていましたが、その考えは一変し、この言いようのない死への恐怖に驚き、負けて、自殺も断念しました。その頃の自分が自分に出した答えは、

「人生に意味は無い。自分には死ぬ勇気も無い。ならば無意味な人生を死ぬまで生きるしかない・・・」

というものでした。その後、奇跡的に大学に合格しましたが、この暗い心はどうにもなりませんでした。


知りたい人にはどうしても知りたい、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」。日本で自殺者が多いのも、新興宗教にハマる人が多いのも、こうした人生の根本的な問題が家庭でも学校でも、社会でも全く扱われていないからではないかと私は考えます。訳の分からない無意味な行動はできないように、意味も目的も分からない人生を明るく楽しく生きることができるはずがないからです。きっと、生きる目的や意味が分からないことが根本にあり、そこへ様々な苦しみが関係して自殺したり、新興宗教にハマったりするのだと思います。

だから、教義は間違いだらけですが、「人生の目的」「なぜ生きる」という親鸞会の問いかけまでは間違いではありません。むしろまともです。私はその答えを知りたい、人生の目的を果たしたいという気持ちがあったので、先輩の勧誘も手伝って入会しました。結果は散々でしたが、「親鸞聖人の教え」というところまでは間違っていませんでした。おかげさまで私は今、本願を信じお念仏を申して、往生を期として浄土への旅路を歩む身とならせて頂けています。「親鸞聖人の教え」の存在を示してくれた点のみ、親鸞会には感謝、感謝です。


親鸞聖人の教えには、人間の力では如何ともし難い生死の問題を超えてゆく、「生死出づべき道」が示されています。それが「念仏」であるということを一生涯通して明らかにされたのが親鸞聖人です。その教えによって、私はこの人生は迷いの世界を出離させる「念仏」に遇うための人生だったと知らせて頂きました。

勿論、人生の苦悩が全て解決されたわけではありません。今までの業報で、現在も様々に苦しみ悩んでいる事に変わりはありません。仕事、人間関係、病気、経済面、その他人生の一切の苦しみは、煩悩具足は変わりませんから、生きてある限り存在し続けます。しかし、真っ暗な死後の恐怖に怯え、無意味な生を受け入れて、空しさを抱えながら死ぬまで生きる人生ではなくなりました。

「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」、更には「死んでゆく意味」をも知りたいという方には、聖人の教えを学び、そこに答えを見出すというのも一つの選択肢だと思います。浄土真宗に関心がある方は、

浄土真宗の法話案内

等で日時や場所を確認の上、参詣されてはいかがかと思います。

この世へは、お念仏申すために生まれてきたんだよ

この世に「生まれる」ということ、「生きる」ということ、「生きてゆく」ということ

の記事に、複数の方からコメントを頂きました。ありがとうございました。

親鸞聖人は、直接には「生きる意味はこうだ」というようなことは仰っていません。なので、本願を信じお念仏を申した上でそれでも生きる意味は無いと考えるのは、それはもうその人の自由じゃ。私は一つの思想に皆さんをはめ込むつもりではないし、私の考えや領解を押し付けるわけでもありません。また皆さんの考え方を無理に変えようという気もないので、「生きる意味」について反対意見や、別の捉え方があれば意見して頂いて全然かまわないです。それよりも、こういった大事な問題について無関心というのが一番困ると私は考えます。

ただ、生きる意味は無いと説く宗教が人を救い得るのか。そういう教えを人は聞きたいと思うのか。私はそうは思いません。それに生きる意味が無いなら、自死を止める理由もありません。一人一人が誰とも代わることのできないかけがえのない「いのち」を持って生きている。その「いのち」のある間に果たすべき事柄がある。そしてそれを果たし終えた人にも、その人にしかできない大切な事柄がある。私はこう考え、「生きる意味はある」というスタンスで書いていきますので、よろしくご承知おき下さい。



さて、ここからは「生きる意味とその方向性」について、本日も書いていきます。

生きる、生きてゆくということは、その文字からは想像もつかないほど大変なこと、そして覚悟の要ることです。若い内、周囲から守られている内は分からないかも知れませんが、当ブログをご覧の方の中にも、言うに言えない苦しみを抱えて生きてきた、今生きているという方もおられると思います。確かにいいこともあったが、やはり苦しみの連続が人生ではないかと思います。

たしかに今の日本には昔のように戦争もありません。世界から見たら平和そのもので、物は豊か。GDPは世界3位に後退しましたが、それでも経済大国であることは変わりません。昔は死病と言われていた病気も医学の進歩で治癒可能となったものもあります。貧しい生活を強いられている方も少なくありませんが、世界の難民と比べたら、比較にならないほど恵まれています。

ところが豊かさと幸福度は必ずしも一致しないようです。「世界幸福度報告書2018」では日本は54位とのことですから、「豊かさ」=「幸福」とは一概に言えないことが分かります。「幸せだなぁ」と身の幸をかみしめて生きている人もあるかと思いますが、今の生活が当たり前になってしまうと、中々幸福を感じられないものです。経済的な豊かさと心の幸福感が必ずしも比例しないのはそのためです。

また、生きる過程でどんな幸せなことがあったとしても、ずっとその状態を保ち続けることはできません。やがてそれは思い出となり、記憶となり、過去のこととなります。美味しいものを食べたこと、皆に褒められたこと、好きな人を見つめるだけで胸がときめいたこと、家族や友人と笑いあったこと、受験に合格したこと、志望する会社に入社したこと、いい仕事ができたこと、会社を立ち上げて成功したこと、愛する人と結婚したこと、子供ができたこと、美しい風景を見たこと、難病を克服したこと・・・人それぞれ幸せなことは色々あったでしょうが、そこで人は止まることはできません。幸せの瞬間に、「ここで、このまま時が止まってしまえば・・・」と思うのは、やがてその幸せも終わってしまうことが感じ取れるからです。

現在テレビ放映中のアニメ「HUGっと!プリキュア」の敵である「クライアス社」は、時間を止めて人々の未来を奪うらしいですが、その社長ジョージ・クライの考えも分からなくはありません。むしろその思想には同調です。今を花咲くプリキュア達も、彼女らが本物の人間だったならやがて大人になり、おばさんになり、おばあさんになります。いつまでも元気、可愛くきれいではいられません。仲間との別れ、大切な人との別れもあるでしょう。どんな悪事災難が起こるか分かりません。そして、護り、はぐくみ、育ててゆこうとしていた自分自身の未来さえも無くなり、たった一人で死んでいかねばならないのです。

「人々が笑顔で暮らし続けられる世界を作るため、新たな苦しみが永遠に生まれぬよう、時間を止めることで未来を消滅させる」

こんなことが可能ならば、「幸せだなぁ」と感じたその瞬間にぜひともそうしてもらいたいものです。

実際に、私達が感じている幸せは終わります。それには、残念ながら永続性が無いのです。生まれたからには老いと病と死はまぬがれません。出会ったからにはいつか別れねばなりません。嫌なこととも向き合わねばなりません。突然の事故、病気、家庭不和、いじめ、隣近所とのいざこざ、仕事上のトラブル、死別・・・無いものもありますけど、やがて出くわさなければならないものばかりです。生きてゆく限り、招かれざる客は必ずやって来る。その苦難に堪えて、苦難を超えて生きてゆく。生きてゆくのは覚悟が要ると言ったのはこのことです。

愛は幻、幸せは一瞬で、掴んだと思った幸福も一夜の夢、一朝の幻と消えていった経験はありませんか? 今、招かれざる客のために苦心惨憺、これからどうやって生きてゆけばいいのか途方に暮れて悩んでいる方もきっとおられるでしょう。次の瞬間には、このように書いている私がそうならねばならないかも知れません。本当にいつ何時、どのようなことが起こるか分かりません。全く予想だにしなかったことが起きるものです。

それがいいことならいいですが、反対に今まで経験したこともない逆境に立たされた時、強烈に生きる意味を問わずにはいられなくなるでしょう。苦しいのに、なぜ生きてゆかねばならないのか。この苦しみに耐えてまで生きてゆくのは何のためなのか。辛い思いをして生きてもやがて死んでゆく。なら、今死ぬのも変わらないではないか。私は10代半ばからずっとこのことを考えていました。


生きることに疑問を持たず、またそれほどに苦しくもないのなら、そんなことを考えなくても生きてゆけるのでしょう。しかし、思うようにならない現実に苦しみ、この苦しみに耐えてまでどうして生きていかねばならないのかと考えていた私はそうではありませんでした。ここに、親鸞会の教えに惹かれる下地があったのです。

ただ、教えは間違っていましたが、「人生の目的」「なぜ生きる」という問いかけまでは間違いではありません。逆にこのような問いに対して正面から向き合わない、どこかお茶を濁してあいまいに終わってしまう、何も教えられないというこの社会が間違っているとさえ感じてしまいます。何せ生きてゆくということについて根本となる問題です、この「なぜ生きる」「生きる意味」というのは。これが分からないんじゃあ、人は自死を選んだって全然おかしくないです。強くたくましく生きろ。で、生きたその先が老病死では、生きた甲斐がないですもの。

生きれば生きるだけ幸せになっていくならいいかも知れないけれども、そうではありませんから。私は、祖母が生前ぽつりと呟いたこの言葉が強く胸に残っています。

「人生って、いったい何だろうね・・・」

若い時から苦労して体もやせ細り、心臓も弱って立つこともままならなくなった祖母がこう呟いていたことが、今も忘れられません。たしかその時の祖母は88か89歳だったと記憶しています。きっと、今まで夢・幻のように過ぎて行った人生を振り返り、遠くない将来に死にゆく未来を見て呟いたのでしょう。私には、生きる意味、また死んでゆく意味を知らずに生きるとはこういうことになるのだという説法だと思われてなりません。


できるなら、その時に戻って、感謝の言葉と共に伝えてやりたい。

この世へは、お念仏申すために生まれてきたんだよ。人間の世界は迷いの境界で、本当の安心や満足は無いんだ。この迷いの世界を出て、まことの安らぎを得るのが人間に生まれて死ぬまでになさねばならないことなんだよ。ところが我々は欲望や怒り、憎しみといった煩悩の塊で、とても自分の力で迷いを離れられるような者じゃない。それで阿弥陀仏は、「お願いだから南無阿弥陀仏と称えて浄土へ生まれてきておくれ」と私達に往生のみちである念仏を与えて下さった。阿弥陀さまは「必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい」と仰せなんだから、その通りにまかせてただなんまんだぶ、なんまんだぶと称えて必ず生まれられると思い定めて。あとはいのちのある限りお念仏を申して、往生を定めて下された御恩を喜んで共に浄土の旅を生きようね。そして、いのちが終わった時がお浄土参りだよ。


浄土真宗では、私達がさとりの領域、まことの安らぎである阿弥陀仏の浄土に往生するみち、すなわち「念仏」を教えています。人間の力ではどうにもできない生死の問題ですが、平生南無阿弥陀仏のこころを聞いたその時に必ず往生定まる身となります。するとそこからはお浄土へ向かう人生となります。

「南無阿弥陀仏(必ず浄土に迎えるから、安心してまかせなさい)」という真実の仏の言葉を仰ぎ、光とし、口に称えて常に聞きつつ、浄土を目指して生きてゆく。こうして生きる意味と方向性とを常に真実の御名を称え聞いて確かめつつ、いのちのある限り生きてゆくのです。そして、いのちが尽きたらただ死ぬんじゃない。お浄土へ生まれるのです。死んでゆく意味は、浄土へ参ってこの上ないさとりを完成し、まことの安らぎを得ることです。そうなってこそ死んでゆく甲斐があるというものです。そうしたら、今度は皆さんにもそうなってもらいたいと有縁の方々を思うが如くお浄土へ導くことができる。これみな、阿弥陀仏がお与え下されたお念仏の利益です。

生きる意味は何なのか。どこへ向かって生きているのか。死んでゆく意味は。こういうことが気になる方には、ぜひとも浄土真宗を聞いて頂きたいものです。日時、場所、布教使の先生については

浄土真宗の法話案内

等を参照して頂きたく思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・


【参照】
国連「幸福度ランキング」、日本は54位だった
『Wikipedia』HUGっと!プリキュア

私が知らされた「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」

現在、この記事をご覧になっているあなたの周りには、「生きる意味とその方向性」を教えてくれる/くれた人はいるでしょうか? 何のために生まれてきたのか? 何のために生きるのか?

明るく楽しく、強くたくましく、苦しみ悩みがあってもそこを乗り越えて生きろ生きろとは言うけれども、苦を耐え、難を乗り越えて生きる意味は何なのか? そうして生きていった先には何があるのか? 生きていったその先は老病死、愛別離、怨憎会です。老病は無くても必ず死なねばなりません。では死んだらどうなるのか?

残念ながら私の周囲にはありませんでした。まずこの問い自体を出す人がいませんでした。それよりも、

「どうしたら勉強ができるのか」
「どうしたらスポーツができるのか」
「どうしたら友達と仲良くできるのか」
「どうしたら事件や事故に遭わないか」
「どうしたら受験に合格できるのか」
「どうしたら効率よく単位が取れるのか」
「どうしたら志望する会社に就職できるのか」
「どうしたら仕事ができるのか」
「どうしたら起業できるのか」
「どうしたら恋愛・結婚ができるのか」
「どうしたら良い子に育てられるか」
「どうしたら良い人間関係を築けるか」
「どうしたら健康に過ごせるか」
「どうしたらお金が稼げるか、貯まるか」
「どうしたら安心した老後を過ごせるか」
「どうしたら病気が治るのか」
「どうしたら今の苦難を乗り越えていけるのか」
「どうしたら家族に争いの種を残さずに死んでいけるのか」
・・・

等、いわゆる「How to」「より良く生きられる方法」ばかりが問題にされ、「そうやって生きていくのは何のため」「なぜ生きる」かは昔も今も問題にしている人をほとんど知りません。たまに街頭でもらう新興宗教の冊子には、「これが生きる目的だ」みたいなことが書いてありましたが、それは「神のため」であったり「奉仕すること」であったり、決して自分の納得いく答えではありませんでした。

こうした「生きる方法」に終始するのみで、肝心の「生きる意味とその方向性」は全くと言っていいほど論じられないのは、いい点数を取る事のみに終始して学んだことをどう生かすか知らない学生に似ていると思います。学んだことを生かさなければ本当に学んだ意味が無いように、「生きる意味とその方向性」が分からなければ本当に人としての一生を生きたとは言い難いと思うのです。

こんな大事な問題が扱われないのは、人間の智慧や知識では到底答えようのない問題だからでしょう。どこか気にはなりつつも、考えても本を読んでも何をしても分からない。そんなことを考えているのは弱いとか、変だと思う。そういう悩みを抱えていると、おかしな宗教にハマってしまう。それで考えたり、答えを探したりすることを放棄して、とにかく今を明るく楽しく生きてゆこうやということに落ち着くのだと思います。

ただ、これは単なる問題の先送り、棚上げで、何の解決にもなっていません。他の誰でもない、自分の人生です。そして、もう一回とはいかない、一度っきりの人生です。もっと真剣になって、この問題に向き合ってみるべきです。突然でも晩年でも、死を迎えねばならなくなって、「しまった!」では遅いのです。皆さんの中にはそれでいいと思われる方もあるかも知れませんが、少なくとも私はそんな人生はまっぴらごめんです。

ですから、私はよく親鸞会は全て間違いであるかのように書くこともありますが、「人生の目的」「なぜ生きる」は大事なことだと説いている点まで間違っていると言っているのではないんです。諸行無常、罪悪深重、死の問題・・・。それは、確かに仏教教義に照らして細かく見ていけばおかしな点もありますが、ここまで間違ってはないんです。別に親鸞会を肯定したり、擁護したりするつもりは更々ありませんが、これを考えずして、きちんと見定めずして本当に明るい楽しい人生が送れるか? この点は同感せざるを得ないところです。


幸いにも、私は親鸞聖人の教えを通して、「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」を知ることができました。

仏教の目的は、生死出離、転迷開悟、成仏すること。現在、阿弥陀仏の本願を信じ念仏を申せば正定聚の数に入る。その後は、常にお念仏を申して如来大悲の御恩を報じつつ、浄土を目指して生きてゆく。そして命終わると同時に浄土に往生し、即成仏する(往相)。それからは仏の大慈大悲をもって衆生を思うが如く利益する(還相)。この往還二種を阿弥陀仏より回向される教えが横超他力、すなわち浄土真宗である。

親鸞聖人の教えをつづめて言えばこの通りです。

これに沿って言うならば、私が「生まれてきた理由」は迷いの世界からの出離、往生成仏することです。果てしない過去から、私は迷いの世界を生まれ変わり死に変わり無限に繰り返してきた。自身は欲や怒り、腹立ち、そねみねたむ煩悩の塊で、現在は人間として、いつどうなるか分からないこの火宅無常の世界に生きている。そして、死んだなら今までの業に応じた世界へ行って、それからまた永遠に迷っていく。こうした迷いの世界を出て、まことの安らぎを得ることが「生まれてきた理由」です。

生きる意味」は現在正定聚の数に入ること。迷いの世界を出るには、迷いの因を知ってそれを断ち切り、さとりの因を知ってそれを修める行をしなければなりません。ところが、末世の今の世において、世俗の生活をしている私のような煩悩具足の者がとてもできることではありません。それで、阿弥陀仏は法蔵の昔にそのような私を浄土に迎えて救うと発願し、気の遠くなる長期間の修行を経て私の往生成仏の因行である南無阿弥陀仏の名号を成就されました。この南無阿弥陀仏のお心を領受したその時、正しく往生の定まった人々のお仲間(正定聚の数)に入れさせて頂く。そうなることが、この世に生まれ、「生きる意味」です。

生きる方向性」は、浄土です。今まで死は死でしかなかった、死に向かって生きていた人生が、浄土の旅となったのです。「お願いだから我が誓願を計らい無く信じ、念仏を称えて浄土へ生まれてきてくれよ」という弥陀の誓願の通り、本願を信じお念仏を申して、必ず往生し、仏となるべき位に定まったからには、生きてゆく先は浄土往生、そして成仏です。

また、自分がそのような身になったからには、如来大悲の恩徳、本願を伝えて下された師主知識の恩徳、ほか私をこれまで育て生かして下さった様々な人、ものへの御恩を感じ、少しでもそれらに感謝し報いようと生きてゆく。お念仏申すのも、本願のましますことをお伝えすることも、みな仏恩、師恩への報謝です。本願力に遇うたからこれでお終いではありません。これも大切な「生きる意味」であり「生きる方向性」であると思います。

死んでゆく意味」は、往生成仏して還相のはたらきをさせて頂くこと。この世では私のような者がいくら何を言っても自在性が無いから全然本願の尊さ、お念仏の素晴らしさを伝えられない。でも、浄土にて利他円満の妙位、無上涅槃の極果をさとった暁には、迷いの世界へ還り来て、一切衆生を思うが如く利益させて頂ける。浄土へは私一人が安らぐために往くんじゃない。浄土へ参ったら、今度は私が浄土の素晴らしさを伝えて回るんだ。死んで終わりじゃない。むしろ死んでからが本番か。

と、このように言えましょうか。それで、これらは本願成就のなんまんだぶのはたらきによって全てなされることなので、淳心房は人生を「お念仏申すための人生であった」と領解しています。


なお以上は私の領解を紹介させて頂いたまでで、これを皆さんに押し付けようというのではありません。それと同じく浄土真宗を聞いている方でも、私の領解には賛否両論様々だと思います。私のように思わねばならないということもありませんし、受け取り方は各人のご判断です。それはそれとして、親鸞聖人、浄土真宗の教えに関心があるという方、聞いてみたいと思われた方は、日時、場所、布教使の先生などを

浄土真宗の法話案内

等で確認して頂き、御法座へお参りして頂きたく思います。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

お念仏申す人生を生きる

私の長女は今年からiPadを持ち始め、ゲームやら何やらダウンロードして毎日楽しく遊んでいます。そのiPadの機能の一つにAI(人工知能)との会話機能があります。話しかけると応えてくれたり、必要なことを検索したりしてくれます。ただ、変な質問に関しては変な回答で返してきます。昨日、試しにAIに

「死んだらどうなるんですか?」

と聞いてみたら、ご丁寧にと言うか何と言うか、自殺予防サイトを検索してくれました(笑) AIまでが死ぬな、生きろ生きろと言ってきているように感じましたが、そうやって生きてゆくのは何のためなのか、やがて必ず死んでゆくが、その先はどうなっているのか、人間が知らないんだからAIに聞いても分かるわけないですね。

AIまでが人を生かそう生かそうとしてきますが、こんな人生の根本的な問題が分からずして本当に安心した、満足した生き方ができるとは私は思いません。「生まれてきた理由」や「生きる意味とその方向性」を知らず、ただ毎日を繰り返して死んでゆく人生は、私ならイヤです。


色々と紆余曲折はありましたが、有難いことに私は浄土真宗の教えを通してこうした大事なことを知らせて頂くことができました。人生に絶望し、苦しみに耐えかねて自殺を考えないことは無かった日々もあった。けれど、生きていてよかったです。自殺しなくてよかった。今、さるべき業縁が来て死ななければならないとなっても、遇うべきものには遇わせて頂いたし、聞くべき教えは聞かせて頂いたので、そういう点で後悔はありません。


この世に「生まれてきた理由」は、迷いの世界を出離して往生成仏するため。「生きる意味」は現在正定聚の数に入り、往生一定の身になること。「生きる方向性」は、浄土。そのような身にして頂いた御恩を思えば、それに報いようと生きてゆく。これも「生きる意味」であり「生きる方向性」である。「死んでいく意味」は、往生成仏、そして還相のはたらきをさせて頂くこと。私はこのように知らせて頂きました。

私が浄土に生まれゆく姿が往相で、再び娑婆へ還り来て一切衆生を利益するのが還相です。この往相も還相も如来選択回向のお念仏、またお念仏一つが往生のみちであることに疑いない願力回向の信心によってなされます。なので私は信心をお念仏に含めて、人生は「お念仏申すための人生であった」と領解しています。


生きることの意味も、死ぬことの意味も何も分からず、ただひたすら食うて糞して寝て起きて、あとは死ぬのを待つばかりでは、人としての一生を生きたとは言えません。迷いの世界を迷いの世界と知らせ、煩悩具足の我が身、火宅無常の世界を知らせて、さとりの世界である阿弥陀仏の浄土へ導こうとしている浄土仏教、とりわけ浄土真宗はやはり他の宗教とは比較にならない素晴らしい教えであるなと思います。

しかも、往生成仏の因行を南無阿弥陀仏の名号と成就し、これを回向して下さるというのですから、何とも有難くかなじけないことです。けれど、このような全分他力、本願力回向のご法義でなければ、親鸞会の活動にすらついていけない私のような愚悪な凡夫には到底救いにあずかることは不可能でした。

こうした南無阿弥陀仏のはたらきによって、現在この世で正しく往生の定まった人々のお仲間に入らせて頂いたことは、不思議の中の不思議であり、慶びの中の慶びです。

阿僧祇劫という長期間の修行によってようやく初地の位に到達した聖者は、天上界と人界と中有とを二十八返往復する生と死を繰り返すならば、自然に煩悩が尽きて、阿羅漢のさとりを完成し、二十九番目の迷いの生存をうけることがないそうです。菩薩がこの位に至れば真如をさとるから、再び退転することなく必ず成仏できることが定まり、歓喜が生ずるので、初地の位を歓喜地とも言います。

今、南無阿弥陀仏のはたらきで正定聚となった念仏の行者は、二十八返往復はおろか一返の往復もなく死ぬと同時に浄土に参って仏果を得ます。初地の聖者は、その後もう二阿僧祇劫もの修行を経て等覚と成り、更に百大劫に及ぶ修行を過ぎて仏果を得るというのですから、念仏者の賜っている利益はとてつもない利益です。このことを踏まえれば、真実の行信を獲たならばそれを歓喜地と名づけるという親鸞聖人の御釈はまこと理にかなっています。このような利益を獲させて頂いた身の幸は、宗歌のように「なににくらぶべき」であります。

「死ぬということは、浄土へ生まれることだと思ってくれ」。このような阿弥陀仏の願心を聞き受けた今となっては、この人生は浄土への旅です。旅ですから、晴れの日もあれば雨の日、時には嵐や暴風、大雪の日もあります。順境もあれば逆境もありで、楽しいこともありますが苦しくてたまらないこともあります。ただ、死は死としか考えられなかった私にとって、その死が「浄土に生まれる」ことに変わったのはまさに一大転換です。

そしていよいよ臨終には浄土に仏として生まれるのです。でもそこで終わりじゃない。そしたら今度は仏の大慈大悲をもって一切衆生を思うが如く利益する還相の始まりです。親の有難みが知らされたらその恩に報いたいと思うのが子供です。人間の力では如何ともし難い生死の問題から救って頂いたその御恩を思えば、今度は少しでも御恩に報いたいという気持ちが出てくるでしょう。

自分一人が喜んでいたら、他人は苦しんでいても構わないなんて教えではありません。また道理の上でも、人に伝えたいと思わない信仰が真実の信仰であるはずがありません。勿論、伝え方が分からずどうしたらいいのかということはありますが、お節介にも、他人にも御親の徳の尊さを伝えたいと思う気持ちは、お念仏を申し、御恩を知らされるほどに湧き出てまいります。ただし、別に無理強いはしません。阿弥陀さまはその人その人に最適な方法で導いておられることでしょうから、私としてはこのお念仏の教えを紹介させて頂くばかりです。

今はてんでなっちゃいないが、人それぞれ、本願の尊さ、お念仏の素晴らしさを弘めたいと御法座へ参ったり、法座を企画して人を誘ったり、お念仏申したり、私ならこうして書いて何とか何とかとやって完成の時を待っている。私一人が救われたらいいなんていう狭い教えじゃない。皆さんにもどうか本願を信じて念仏申して頂きたい。本願は成就して私の上にはたらいているんだと知って頂きたい。こう思ってやっていた所が、死ぬと同時にいっぺんに完成してしまう。それからは自在な還相のはじまりです。


私は親鸞聖人の教えによって「生まれてきた理由」「生きる意味とその方向性」「死んでゆく意味」を知らされ、しかもそれが全て如来回向のお念仏一つによって果たされると領解しました。ですから、

Q.何のために生まれてきたのか?
A.お念仏申すためです。


一言で言うなら、私はこのように答えます。お念仏申す人生を生きる。これこそが本当に生まれてきた甲斐があり、生きる甲斐があり、そして死んでゆく甲斐がある人生を送れることだと思います。

もし、当ブログをきっかけに浄土真宗を聞いてみたいと思われる方がありましたら、

浄土真宗の法話案内

等で法話の日程や場所、先生などを確認し、お参りして頂きたく思います。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』歓喜地
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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