本願の名号は往生の業因(往生成仏の果を得させる力)であり、その本願の名号を疑いなく聞き受けた信心が往生の正因であると言われます。この名号と信心、業因と正因ということについて、以下のようなたとえで教えられることがあります。
船(名号)は沈むものを乗せて渡すはたらきがあります。
でも、その船に私が乗らなければ(信心)私は彼の岸(浄土)に渡る(往生)ことはできません。
私の病を治す薬(名号)ができてそれを与えられても、
私が服用(信心)しなければ私の病はなおりません。
このたとえで言うと、本願の名義にかなって称える如実の称名、すなわち
念仏は、悪道に沈む私達を迷いの世界からさとりの世界へと渡すはたらきがある「
大船」のようなものです。また、治しがたい五逆・謗法・一闡提という重病をも療したもう「
醍醐の妙薬」のようなものです。
念仏が浄土真実の行、選択本願の行であると言われるのには、このようなわけがあるのです。
ただし、たとえにもあるように「
その船に私が乗らなければ」、薬を「
私が服用しなければ」、私の救いにはなりません。ですから、「
念仏往生」と言われる法義が私達一人ひとりの上に実現するのは私達がその法を疑いなく信受した時であり、私達にとってはその信心が肝要ですから、これを「
信心正因」と言われます。
信心が大事、信心正因、唯信独達と言われますが、何を信ずるのかと言ったら「
念仏往生」の法です。この法を我々一人ひとりが信受して初めて救いが成立するのです。信受した時に、「
念仏往生」という万人の道が私の道になるのです。
念仏は、末代に生きる我らがごとき愚劣な凡夫に与えられた唯一の「
往生のみち」であり、
私の生きる道です。しかもどの道よりも速く、確実に往生成仏せしめられる最高の仏法、無二の法なのです。その
念仏という法が届いて我々の帰命の
信心となるわけで、
念仏という法が抜け落ちた
信心はありません。
また、
念仏は我々に届いた本願の「
行」であり、本願の
念仏にはわずか一声称えた者をも往生させる正定業としてのはたらきがあるということを聞いて疑いないのが「
信」です。この「
行」と「
信」は決して分けることができない不離の関係であることを、親鸞聖人は「
御消息」にて次のように仰せられています。
信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。このことは、「行文類」の始めに「
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」と、これから顕す大行は勿論、後に詳細に顕す大信までも同時に示しておられることからも分かります。また、
行一念釈においても「
おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり」と、行信それぞれに一念ということがあることをも同時に教えておられます。「信文類」本の
大信釈や「同」末の
信一念釈は、遠くこれらの示唆を承けての解釈です。
そして、「行文類」では「
真実の行信」「
選択本願の行信」と行信の次第で説かれ、「信文類」では
真仏弟子釈において「
この信行によりてかならず大涅槃を超証す」と信行の次第で説かれています。「
行」と「
信」は切っても切れない、分けるに分けられない不離の関係であることがよく分かります。
これは元々、阿弥陀仏が念仏往生の願(第十八願)において「
至心信楽欲生我国乃至十念」と行信を誓われ、本願を信じて念仏する者を往生させると仰っているからです。親鸞聖人は行を第十七願に、信を第十八願に配当されましたが、第十七願と第十八願は元々一つの願でしたから、法然聖人の教えを継いで第十八願に集約して教えられてもいます。その一例が上に示した御消息です。
こうした信不離の行、行不離の信であることを、「行文類」でも「信文類」でも善導大師の「
専心専念」(散善義・意)を釈して、一心一行、一行一心の行信を示しておられます。念仏を離れた信心もなければ、信心を離れた念仏もありません。これが親鸞聖人の教えられる「
選択本願の行信」です。
しかし、姿かたちは念仏一行を専修していても、本願に相応しない行者もあります。本願を疑い、我が善根として名号を称える定散心自力の念仏の行者は化土にとどまるとして、自力疑心、自力の計らいを厳しく誡められていることはご承知の通りです。ですから、聖人は不離不二の行信を敢えて二つに分け、三心即一の信心を伴った念仏一行を専修せよと教えられたのです。この一心帰命の信心が肝要であると示すと共に、願力回向の信心こそ横超の大菩提心であり、往生成仏の果を開く仏道の正因であると聖道諸宗の論難に的確に答えられたのが「信文類」でした。
このようなことですから、
「
念仏がないから信心一つ」
「
阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない」
などという教えが親鸞聖人の上にあるわけがないのです。中にはそのような説を真受けにしていたり、様々な考察を加えて折衷案を示したりという方もありますが、こういう教えは親鸞聖人の上には勿論、蓮如上人の上にもないことです。それに、今まで現れた和上様方もこんなことを仰っているとは聞いたことも読んだこともありません。もしそんな説法や記述がありましたら、ぜひ根拠を示して頂きたいものです。自分の信奉する先生を擁護したい気持ちはよく分かりますが、私達が一番にすべきは如来聖人のお言葉であり教えです。
真実の信心で念仏せよこれが弥陀、釈迦、諸仏の本意にかない、七高僧方の勧められた「
選択本願の行信」であり、真実報土へ往生するまことの因だと示されたのが親鸞聖人です。信心が涅槃の真因、真実報土の正因だと示すことは誠に結構なことですが、その信心の本体は如来の大悲心であり、それは念仏となって私の心に響き込んでくるのです。その念仏がないとか、称えよと仰っていないとか、信後の報謝であって信心獲得するには無意味とかいう説を受け容れてしまう人は、信心正因称名報恩説を誤解している可能性があります。
親鸞聖人が勧められたのは行だけでも信だけでもなく、「
選択本願の行信」であることを私達は深く受け止めて、「
助けるぞ」「
我にまかせよ」という招喚の勅命となって響き込んで下さる南無阿弥陀仏の仏心を計らい無く受け容れ、お念仏申させて頂くのが如来聖人のおこころに合いかなうことであると思います。
蓮如上人は親鸞聖人の教えを承け、信心の体である「
南無阿弥陀仏の六字のこころ」を示すことで正しい信心を顕し、称名は報恩行として教えられています。上人の時代は真宗だけでなく浄土宗や時宗の方々の影響もあり、往生には念仏だという思想が大分広まっていたと見えます。そういう人達には、その信を示すことが重要でしたが、そこから遠く時代が下った現代ではどうでしょうか。
信心正因称名報恩説が悪いとは思いません。ただ、昔と違って現代は往生も願わず、念仏が往生の業だとも知らない、念仏にどんな意味があるのかよく分からない、そんな人が多くはないでしょうか。こういう人に念仏の法を説かず、信心正因称名報恩説を説いても、念仏も信心も判らず方法論に迷うばかりではと危惧されます。実際に親鸞会会員は、信心獲得の方法論として「
三願転入の教え」を授けられ、教義上は「
雑行」を、実態は一新興宗教の組織拡大活動、「
悪業悪行」をやって迷い続けている有り様です。
ちなみに、自説に都合の悪い『教行証文類』以外の聖人の著作やお手紙は「法然聖人の教え」だとして受け入れない方がありますが、そもそも『教行証文類』からして法然聖人の『選択本願念仏集』の真実性を証明されたものです。『教行証文類』を含めた親鸞聖人の著作の全てが「法然聖人の教え」と言ってもいいほどです。勿論聖人独自の発揮点も沢山ありますが、自説の都合に応じて「これは親鸞聖人の教え、これは法然聖人の教え」と分ける姿勢は問題と言わざるを得ません。
法然聖人の著作ならまだしも、『尊号真像銘文』等の著作や御消息は親鸞聖人のお書きになられたものです。そこには法然聖人の影響は多分にありましょうが、ご自身が信じてもいないことを書かれたり、門弟の方々に教えられたりする聖人ではないでしょう。やはりそこは「親鸞聖人の教え」として受け止めるべきだと思います。それでも御消息に書かれていることが「法然聖人の教え」であると主張するならば、では御消息に度々示される現生正定聚説は「法然聖人の教え」かと反論したいほどです。
親鸞聖人は法然聖人の正当なる教義継承者ですから教義の肝要な部分については完全に一致しています。親鸞聖人の教えの元は法然聖人にありました。それは、親鸞聖人の教えとされている信心正因、平生業成ということについてもです。これについては、長くなりましたので記事を改めて述べていきたいと思います。
【参照】
【報徳寺】「正信偈」本願名号正定業