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コメント返信(現在の苦しみを「神の試練」と言われて納得している他宗教の信者と同程度の信心の親鸞会会員)

しばらく間を空けていた間に多くのコメントを頂いておりました。皆さまのそれぞれの主張、言いたい気持ちはよく分かりますが、もうここらでお納めください。会員や講師部員との諍いならまだしも、親鸞会退会者と観察者で諍っていてもいい方向へは向かわないと考えます。

さて、二河白道の譬えは18願意を表したものであることは言うまでもありません。ところが、その18願で誓われる信心は自分で起こすのか、本願力回向の信心として如来より賜るのか。ここが善導大師のお言葉を当面読みしますと、私達には判断しかねるのです。

例えば至誠心ですが、『観経疏 散善義』の当面読みはこうです。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。

この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。また真実に二種あり。 一には自利真実、二には利他真実なり。(中略)

不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。 またもし善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。 内外明闇を簡ばず、みなすべからく真実なるべし。 ゆゑに至誠心と名づく。
『散善義』至誠心釈

浄土へ往生しようという者が起こさねばならない三心の一つが至誠心ですが、その至とは真、誠とは実で、至誠心とはすなわち真実心のことだと教えられています。それで、私達は親鸞聖人から教えを受けていますから「真実心」とは我々凡夫の心ではなく如来の真実心だと分かりますが、善導大師がお書きなされたままを私達が読みますと、真実心を我々の方で起こさなければならないように読めるのです。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

如何ですか? これを私達が浄土真宗の知識なく読んで、これは如来の真実心をもちいることが真実心であると分かるでしょうか? 私には、至誠心とは自分で起こさなければならない信心であるように受け取れます。

それを、法然聖人、親鸞聖人が血みどろの求道、研究をなされて、私達には如来のお心にかなうような、浄土へ往生できるような真実心は持ち合わせていないし、到底起こすことができない。これは自分で起こす信心ではなく、如来より回向される真実心である他にないと明らかにして下さったのです。親鸞聖人は善導大師の真意を明らかにするために次のように読み替えて下さいました。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。

もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}

不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。


こう読み替えられることによって、真実心は我々凡夫の起こす信心ではなく、如来の真実心であることを明らかにされたのです。18願意といったら他力回向に決まっている、というのは我々が親鸞聖人から教えを受けているから分かるのです。至心信楽欲生の三心は、これを普通に読めば我々が「至心に信楽して我が国に生まれんと欲うて」という信心を起こして、と読むより他にないでしょう。


読み替えによって他力回向の義を明らかにされたお言葉として今問題になっている、回向発願心釈の例のお言葉もそうです。清浄願往生の心を自分で起こすのか、それとも如来より賜るのか。当面読みでは判断しかねるところを、親鸞聖人が読み替えられることによって如来より回向される清浄願往生の心だと明らかにされたのです。

親鸞会では19願を持ち出してきてごちゃごちゃと言っておりますが、林遊さんは19願のことを問題にしているのではないのです。自力といったら19願と、短絡的に結び付けてはいけません。18願を信ずる人の中にも自力あり、他力ありです。

また林遊さんが悪いのではなく、それを利用して善導大師の真意を捻じ曲げ、浄土真宗の他力回向のご法義を捻じ曲げている講師部員が悪いのです。林遊さんは自分の主張をズバッと仰る方ですから、それは退会者の皆さんの癇に障ることもあるでしょうが、あの林遊さんの説明まで悪くはないのです。

私達は経典やお聖教を読めば内容が分かると思っています。しかし、実際はそうではないのです。菩薩の論、高僧方の釈、そして親鸞聖人のお言葉を通すことによって初めて如来のお心がどういうものか、我々のような凡夫が浄土に往生するにはどのようにしたらよいのか、どうすることが如来のお心にかなうことになるのかといったことが明らかになるのです。親鸞聖人に至って、本願力回向、全分他力、現生正定聚、往生即成仏、その他様々な善知識方の真意が明らかになりました。私達はそこを知らなければならないと思います。


それにしても許せないのが高森顕徹会長であり講師部員です。退会者の挙げた根拠を逆手に取って自説の根拠としたり、今回の清浄願往生の心のことといい、利用できるものは何でも利用して会員を騙し続けています。私達はこうした親鸞会の言動に憤りを感じ、その誤りを糾弾していかねばならないと思います。

親鸞聖人は「白道」を他力の意味でしか教えられていません。それを、善導大師の当面読みを利用して聖人の御釈をひっくり返すような、悪びれることなく今までの創作話に合うような説明をして、なおも会員を獲信・往生と無関係の組織拡大活動に利用・搾取している親鸞会は本当に許せません。

私達は東の岸にいる時、「白道」に踏み出す前に弥陀の招喚のお言葉を聞きます。そのお言葉を聞くまでに、親鸞会で説かれるような自力の命がけの求道は不要です。そんなものは捨てて、阿弥陀さまが我々を助けるために命がけの修行をされ、今も現に、常に助けようと願われはたらき続けられている、その阿弥陀仏のお心を受けなければなりません。今、ここで、この私一人を救うという南無阿弥陀仏の六字の心を聞き受けお念仏申す。この他に我々が為すべきは無いことを訴えて、この記事を終わりたいと思います。


【後書】
そういえば、高森会長は上の至誠心釈の当面読み

外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

を利用し、19願の「発菩提心 修諸功徳」の説明の際に

「ド真剣に善をしなさい」とはどれくらい「ド真剣」なのか

を教える根拠として利用していました。実に許し難い行為です。こんなデタラメな教えを受けて信心獲得を妨げられていることに、会員の皆さんは早く気付いて頂きたいです。
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彼の人物へのコメント返信 及び 悔い無き選択を

相変わらず愚かな人物からのコメントが来ています。私は現時点でこの人物が誰か見当がつきません。ただ書き込みの内容から憶測して親鸞会会員と思われるので「親鸞会会員と思しき」と言っています。おいコメント主、この記事読んでるか? 読んでたら親鸞会会員かどうかくらい教えてくれ。そうしたらハッキリすることだから。

別に偽ってもいいけど、それは「妄語」だからな。「妄語」は善か悪か、それくらい区別つくよな? その報いは他でもない自分が受けていかないといけないんだから、そんな事でしょうもない嘘つくなよ?


さて、今回も彼の人物のコメントにツッコミを入れてみたいと思います。

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因果の道理を説く釈迦の教えがわからなければ「無碍の一道」もわかりません。
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⇒おいおい、因果の道理、廃悪修善って連呼する割に、親鸞会は廃悪修善をまともに実践しているとは言い難い事例ばかりじゃないか。今パッと思いつくものだけでも結構あるぞ。

・大学での偽装勧誘(正体を隠した勧誘)
・高森会長の、大沼法竜師の著書の剽窃問題
・高森会長の息子の不倫疑惑事件
・会員を総動員しての、高森会長の著書の偽装ベストセラー、映画の偽装ロングヒット
・本願寺への法要妨害
・「あれで会計報告のつもりか」と言わざるを得ない、あいまいな会計報告
・お布施を流用して会館や病院に豪華な一族専用スペースを建設
『親鸞会教義の誤り』への反論を依頼した特専部員へ不当な処遇を与えた上に除名
・高森会長が『飛雲』との公開法論に応じないまま6年以上経過


古くはこの記事にも書いているから参照してくれ。これらは善か悪か? 更に個々の会長や息子、講師部員や幹部会員の数々の言動を見ていったらキリがないし取り扱わないが、知ってる人は知ってるぞ。因果の道理とか廃悪修善とかと言うつもりなら、まず高森会長が過去の公約通り『飛雲』との公開法論に応じるよう貴方からも進言してくれたまえ。せめて公開法論くらい実現しないと親鸞会の因果の道理、廃悪修善は信用できない。

・善とは親鸞会にとって都合がよいこと
・悪とは親鸞会にとって都合が悪いこと

としか思えないのでよろしく。


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親鸞会で日々一生懸命やっている活動(真宗宗歌の心から、そうせずにおれない)

高森会長の「一心一向に弥陀に帰命せよ」のご説法を、雨にも負けず、風にも負けず、雪にも負けず、聴きに来られる、

後で「私はこのように聴きましたが、あなたはどのように聴かれました?」という信心の沙汰をし、

聞法善をする、

善き法の友の仲間入りし、

お布施https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BDをする、

「会長や上司の指示に無条件に従う」(本願招喚の勅命を、会長や上司の勅命と勝手解釈した頓珍漢)、

煩悩あるままで、廃悪修善につとめる

弥陀の願心によって横の線の道を進んで

「絶対の幸福」=「大安心、大満足」=「信楽」=「無碍の一道」

の大悲の願船に乗せていただけるまで聞法精進する。

すなわち、これ他力の念仏道=弥陀の願心による道=釈迦の教えによる道=七高僧の教えによる道=親鸞聖人のみ教え

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⇒はいはい、いつもの高森教ね。全く経典や聖教の根拠が無いんだが。「絶対の幸福」=「無碍の一道」という経典や聖教の根拠を示してくれ。

いくら貴方がもっともらしいことを申されても、経典にないことでは仏教ではありません!

よく聞いてるセリフだろ? 間違いだらけのアニメだけど、珍しくこのセリフは正しい。そういえば以前の記事で、「絶対の幸福」=「無碍の一道」という経典や聖教の根拠を求めたはずだが。無いのなら、創価学会のパクリ、高森教ということで決着だ。有るのなら、すぐ示してくれ。無常は迅速、生死は一大事、だろ?



浄土真宗には、高森教の説くような因果の道理や、獲信・往生のために廃悪修善を実践せよという教えはありません。浄土真宗とは何を教えたものか。それは「教文類」に明らかなように往相、還相の二種の回向です。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

往相とは「往生浄土の相状の意。衆生が浄土に生れゆくすがた」で、それは阿弥陀仏からの回向によるんだと教えられたのが浄土真宗です。その往相の回向について「真実の教行信証あり」。真実の教行信証によって私達は浄土に往生させて頂くんだということです。じゃあ真実の教行信証って何かと言ったら、

真実の教 - 大無量寿経
真実の行 - 無碍光如来の名を称する(念仏一行)
真実の信 - 至心・信楽・欲生(本願力回向の信心)
真実の証 - 利他円満の妙位、無上涅槃の極果


です。これらを全て回向されるというのが浄土真宗です。弥陀の正覚と衆生の往生は同時に誓われており、弥陀の正覚は既に成就している。ではなぜ衆生は往生しないのかと言うと、衆生がそれを領受していないから。私達はこの道理を領受することが必要なので、こうした如来の回向を聞かせて頂く、いわゆる聴聞ということが勧められるのです。

この真実の教行信証の中に、因果の道理をよく知れとか、廃悪修善の実践をせよとか、どこかありますか? そう、無いんですよ。真実の教行信証は如来の回向、本願力の回向によるものだから、我々の計らいは要らないんだ、我々の方から回向することは何も無いんだ、としか教えられていません。

もう我々の救いは南無阿弥陀仏と仕上がっています。もはや我々のすることは何も無いのです。強いて言えば、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞いて領受することです。南無阿弥陀仏の名号を心に受けたのが信心、それが口に出れば念仏で、名称こそ違いますが全て南無阿弥陀仏のはたらき以外の何物でもありません。

この如来の回向、本願力の回向を聞かせて頂くのを聴聞とか聞法と言いますが、それを自分の修した善のように聞法善などと言うことはありません。また、聞法善とやらを積み重ねて救われる、あるいは聞法善をしていくことで救いに近づくということもありません。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。「化身土文類」真門決釈

これは念仏を己の善根として、これを称えて往生しようとする者は報土往生できないことを述べられたものですが、親鸞会ではこの中の「本願の嘉号」が「聞法善」に変化しただけです。ただ、正しい真宗が説かれているならばまだいいのですが、聞く内容が高森教なので、その結果は報土どころか、化土どころか、悪道です。最悪、彼らが言うように「必堕無間」というのもあながち間違いではないかも知れません。


このように親鸞会では本願力の回向に対して自力の命がけの聞法善というように救いへのベクトルも違えば、真実の教行信証に対して方便の教行信証とも言い難い高森の教行信証を授けられますから、そんな教えをまともに信じていて真実の信真実の証が獲得できっこないことは火を見るよりも明らかです。

真実の証は、真実の教に説かれる真実の行真実の信によって得られます。真実の行も、真実の信も、共に南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏のはたらき一つで報土往生を遂げるのだから、私達は誓いの名号、本願をふかく信じて、つまり真実の信心で念仏しなさいと、こう教えられたのが浄土真宗です。聖人は、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。『末灯鈔』12通

とお示しになっています。因果の道理をよく知れとか廃悪修善をやれとか、そんな勧めはどこにもありません。

親鸞聖人のお言葉を選ぶか、高森会長の言葉を選ぶか、あるいはどちらも選ばず別の選択肢を選ぶか。選択権は一人一人にあります。最後は自分の選択です。悔いの残らない方を自分で選んで頂きたく思います。

コメント返信(『相変わらず「絶対の幸福」の連呼のみで、肝心の何を「聞く一つ」かを全く教えない高森顕徹会長』の、親鸞会会員と思しき名無しさんへ)

相変わらず「絶対の幸福」の連呼のみで、肝心の何を「聞く一つ」かを全く教えない高森顕徹会長

の記事に、親鸞会会員と思しき名無しさんから複数コメントがありました。今回はそれに答えるというかツッコミを入れるというか、とにかく書いていきたいと思います。


********************
>親鸞聖人は、絶対の幸福を「無碍の一道」(※)とおっしゃっています。
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⇒勝手に創作しないで下さい。正確には、

高森会長は、「無碍の一道」を「絶対の幸福」と勝手に読み替えています。

です。元学徒さんのコメントにあるように、

無碍の一道」≠「絶対の幸福

です。幻想的な楽、桃源郷のようなものを「無碍の一道」と思ってもらったら困りますね。


********************
>「何十年聞いたところで、分からないでしょう。」秘事法門の者が言う事
********************

⇒「因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても分かるものではありません」とか言っている親鸞会は秘事法門ですね。


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>何の造作「聴く事も、聞く事も、受け入れる事も」も要らず『聴き誤り』・・・・只仏法は聴聞に極まることなり
********************

⇒何やら勝手に書き加えていますが、私は

我々は何の造作も要らず、ただ誓いの名号を聞き、仰せのままに受け容れてひとえに後生、往生を阿弥陀さまにおまかせするのみです

と書いています。とんだ断章取義ですね。ここで「造作」というのは、親鸞会で言えば貴方がたが日々一生懸命やっている活動のことです。高森会長の眠い話を我慢して記憶するように聞く、後で記憶力自慢大会をする、善(もどきの善)をする、人を誘って会員にする、お布施をする、会長や上司の指示に無条件に従う、煩悩と闘って活動する・・・。それらによって横の線の道を進んで「絶対の幸福」とやらになろうという活動のことです。そんなものは一切「要らず」と言っているんです。


********************
>仰せのままに受け容れて・・・・・・・・・・・・・・・・・他力か自力、水際たってない
>ひとえに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・書くだけで意味知らず
>後生、往生を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・体失往生
>阿弥陀さまにおまかせするのみです。・・・・・・・・・・・他力か自力、水際たってない
********************

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

(中略)

さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
『執持鈔』(2)

と仰った覚如上人は「他力か自力、水際たってない」ということか? 善知識をおろかにおもうことが常習化していますね。浄土真宗の人ではなく高森教徒だというのが明らかです。

ひとえに・・・《副》他には心を向けず、または他の事はさておき、全く。ただただ。

ちなみに、

体失往生
=諸行往生
=臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず
=第十九の願
=非本願なるによりて定散の機にかぎる

不体失往生
=念仏往生
=至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生す
=本願(第十八の願)
=本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる

だよ。『口伝鈔』をよく読みたまえ。往生するのはあくまで死んでからだ。その往生が平生に定まるのが不体失往生。これは報土往生。それに対して臨終に定まるのが体失往生。これは化土往生。貴方の先生は

不体失往生した者を体失往生させる。

などと言っているが、これでは

報土往生を遂げる身になった者が、死ねば化土往生する。

と言っているようなものだ。そんな頓珍漢で真宗に無知な人物に未だに付き従っているのが信じられない。


********************
>善をするだとかしないとか『仏教知らず』、

「諸悪 莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」
********************

⇒聖道諸宗が法然聖人を非難したのと同じ理論であることが判らないかね?

『飛雲』法然上人・親鸞聖人を平気で非難攻撃する高森会長

でも読んでおいて下さい。


********************
>横の線の道を進むとか進まないとか

『仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り』、
********************

⇒「白道」を、いつも高森会長が書いている横の線の道に当てはめるのがそもそも間違い。


********************
「善知識の能(任務)というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と人を勧むべきばかりなり」
********************

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。

(中略)

もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。
『選択本願念仏集』

念仏以外に善と称した組織拡大活動を勧める高森会長は断じて善知識でないことが明らかです。


********************
>ひとえに本願の独用(我々は何の造作も要らずひとりばたらき)で一大事の往生を遂げ、・・・・・・・・・・・・・いつかわからん

>その暁には今度は還相の菩薩となって思うが如く衆生を利益する往還二種の回向を教えたものです。・・・・・・・・どの暁かもわからん

>勿論、我が往生を定めて下された御恩を喜ぶ心はありますが、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『ありますが・・・というあいまいなものでない』
********************

⇒往生を遂げるのは「臨終一念の夕」。そして「大般涅槃を超証」した暁に今度は還相だよ。

御恩を喜ぶ心は「あります」って書いてるでしょ? あるかないか判らないならあいまいと言えるけどね。貴方は親鸞会によって失われた国語力を取り戻すのが先決だと思う。


********************
「真宗の繁昌と申すは、人の多く集まり威の大いなることにてはなく候。
 一人なりとも人の信を取るが真宗の繁昌に候」
********************

⇒無信心の集まりが信心欲しさに勧誘し、最近は新聞広告まで使って大体的に人集めしているのに、よくこの蓮如上人のお言葉が出せるものだわ。それでいて幽霊会員はほったらかしだもんね。


********************
生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞かせていただく以上に、ありがたく尊い幸せがあるでしょうか。
********************

幸せですよ。高森教の邪道を離れ、まことの真宗に遇えて本当に幸せです。危ないところでした。



以上、所詮根拠は高森本の名無しさんへの回答(ツッコミ)でした。

コメント返信(【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(3))

今回は頂いたコメントに返信します。



林遊@なんまんだぶ様

やはり親鸞聖人は、言わば法然聖人の教えの正当なる継承者なのですね。法然聖人と親鸞聖人の教学が大きく隔たってしまった理由の一つとして、梯和上が

「覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したこと」

を挙げておられるのは頷かざるを得ません。覚如上人は浄土宗から宗門を別にするために、あまり似通った教えでは別にする意味がないので信心正因称名報恩を前面に打ち出したのでしょう。それが蓮如上人に引き継がれて、以降浄土真宗ではずっと蓮如教学を代用して親鸞教学としてきた。

しかし、蓮如教学と親鸞教学が全く一緒ならいいのだけれども、どうも聖教を読んでみると一緒とは言えませんね。特に今考察中の「」すなわち「念仏」に関してはその教え方が違う。親鸞聖人の領解は、ただ「念仏する者を往生させる」本願をふたごころなく深く信じて念仏する、というものですね。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。『末灯鈔』12通

念仏の信心を詳しく説き開かれたのが「信文類」ですが、林遊さんが仰るように大行は大信であり、大信は大行。行と信とは一つであって二つ、二つであって一つという不離の関係でした。分けて説けば行と信と二つになるが、如来回向の大行には自ずから大信が具足しているし、大信は必ず大行の念仏となるのだから行と信はセットで見るべきですね。

これを分けて信心ばかり重視し、しかも信心を獲たことを「絶対の幸福」などと教わるものだから誤解し、ありもしない信心を求めて彷徨う羽目になる。これが親鸞会会員のすがたです。自分もかつてやっていたのですから他人事ではないですけど、実に困ったものです。特にあの「」の押し付け、「報恩の強要」は本当に勘弁してもらいたいです。



愚愚流様

信心といっても念仏の信心ですからね。念仏と信心を別々に考えたらいかんですね。まして「念仏を称えないのが大谷派の伝統である」て何ですか、そりゃ(苦笑)。念仏称えない真実信心なんて、声が出せないとか特別な事情がない限りあり得ません。称名報恩と教わっているなら御恩を報ずるためにお念仏申して当然。それが出ないのは如来広大の恩徳を迷失していると言われても仕方がないことかと思います。



チュウビ様

親鸞会の場合は「如来大悲の恩徳」、「師主知識の恩徳」を「高森先生の恩徳」にすり替え、「お礼の強要」をしてくるので論外です。高森先生がおられなければ親鸞聖人に遇うことができなかったと「高森先生の恩徳」を感じるならば、間違った教えを間違った教えとハッキリ指摘し、間違った教えを受けている人を正しい浄土真宗に誘引して差し上げることですね。これが「高森先生の恩徳」に報いることになるでしょう。また、それが同時に「如来大悲の恩徳」、「師主知識の恩徳」を報ずることにもなると思います。これからもお互い、共に本願を仰ぎお念仏を申して至徳を報謝する人生を歩みたいものですね。



Abc様

> 高田派では「お念仏の中に生かされる生活」として日々念仏と共に日暮しをしております。私は「念仏」を「阿弥陀さまがいるぞ」と言うことを私と私の近くにいる方(正しく言いますと私の声の届くところにおられる方)に聞かせていただくこと と受け取っております。

やはり仰せに順って称名しているすがたこそ、本願を計らい無く受け容れている信心のあらわれですね。念仏相続の日暮らしが、真宗門徒としてあるべきすがたと思います。お念仏する中に、仏を仰ぎたい気持ち、お浄土を願う気持ち、お念仏を伝えたいという気持ち、大悲の中に生かされながらそれに背反する心しかない自分を知らされ懺悔する気持ち、何とか仏の恩に報いたいという気持ち、等の様々な気持ちが起きる気がします。全ての本というか、お念仏申すことが根本ですよね。

そしていつも示して下さる御和讃からも知られるように、信心と念仏を必ずといっていいほどセットで聖人は教えておられる。念仏申すままが信心であり、信心は必ず念仏となって現れるのだから当然と言えば当然ですが、六字の他に信心があるように思っていたら信心を求めてガタガタと苦労することになります。

かと言って念仏申していれば誰でも真実信心かというとそうでもない。どこか自己流が雑じっていたら如実修行ではない。帰せよの命を受けてしまえば何でもないが、純粋なる他力の故に信じることが難しい。しかし何とか有縁の方々にお念仏とそのこころが伝わってもらいたいと願う他ありません。



コメントを下さった皆様、ありがとうございました。ご意見を受け、私自身法に触れ、お念仏を申す機縁となりまして有難く思います。これからもより聖教をたしなみ、お念仏を申して少しでも報恩謝徳の人生を歩みたいものです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんなんまんだぶ・・・

コメント返信(いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らない)

不正な投稿だと撥ねられてしまうので記事に書きました。いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らないの記事へのコメント返信です。


Abc様

本当に早いです。学校が休みで給食が無いので、私のと合わせて娘の弁当も作っておりますが、学校の準備となると妻や子供にまかせきりですね・・・。これではまずいのですが、本当に「知らん」です(*_*;

さて、仰る通りで

> 現生に「摂取の利益」に預かる

ことは間違いありません。聖人も「信文類」にて

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

と教えられている通りです。ここで問題なのが、「現生に十種の益を獲」たことと、「現生に十種の益を獲」たことが実感として知らされることとの違いです。高森教では実感として知らされるように説いていますから、会員は種々の誤解を抱いてしまうのです。例えば記事で冒頭申し上げたようなことです。

高森教でよく言われる「弥勒と肩を並べる」というのも随分傲慢な表現かと思います。馬鹿野郎、こちらの方が早くさとらせて頂くか知れないが、今生では弥勒菩薩と同格などとはとてもとても・・・。「弥勒におなじく」という表現は確かにこの記事でも書いたようにありますが、智慧や徳まで同じくなるわけではありません。会員は、「高森先生は阿弥陀仏の御心を知らされて51段の境地に出た御方」だなどと盲信していますので、高森会長は勿論ですが講師部員、一部会員の傲慢な態度はここから出ているものかも知れません。

信を獲ても「仏智の不思議」は「仏智の不思議」です。我々が判る程度のものならばそれは「思議の法」です。「仏智の不思議」を「思議の法」に貶め、念仏を説かず信心も誤り、神秘的体験、ハッキリスッキリ体験を獲信のように誤解させていること、またそんな体験を求めさせ、ありもしない道程を通らせようと「一切要らない」行をやらせて金集め人集めに狂奔する親鸞会の邪義をもっと明らかにしなければなりません。


林遊@なんまんだぶ様

梯和上のご法話を紹介して下さりありがとうございました。記事上でもリンクを貼らせて頂きました。私の人生、色々苦しい事や辛い事もありましたし、当然これからも生きてある限りやってくるでしょうが、遇うべき法には遇わせて頂き、聞くべき法は聞かせて頂きました。阿弥陀さまの仰せ一つで、念仏一つで死ねます。と申しましても、今はまだ死ぬつもりはないのですが(;^ω^) なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・。

いなみ様へ

今回は、いなみ様より頂いたコメントにお答えします。

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> 高森会長の説法を聞き、この話は仏願の生起本末のどこを話しているのだろうと思いながら聞きますが、よくわかりません。
> 仏願の生起本末を話しているのでしょうか?
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邪義を織り交ぜながらの「仏願の生起」の部分を話しています。生起とは阿弥陀仏の本願の起こりということですが、それは悪業煩悩を重ねて六道二十五有生を果てしなく流転輪廻し、真の安らぎ、真の楽しみ、真のさとりとは縁のない「この私」がいたというのが本願の起こりです。ただ、私達は死ねば必ず無間地獄に堕ちるということ、私達は生まれながらに五逆罪・謗法罪を造っているということ、全ての人間は悪人しかいないということ、一つの善もできないということなどは間違いです。

仏願の生起本末について詳しくは、安心論題/聞信義相等をご覧下さい。


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> 仏願の生起本末を聞いていないとしたら疑心が有ることも無くなることもありません。
> 「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を聞かせて頂いたという実感がありません。
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その通りです。仏願の本(因本)と末(果末)を説いていないどころか間違って教えており、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」など全くと言ってもいいほど説かれないからです。

阿弥陀仏は苦悩の衆生、すなわちこの私、今で言えば「いなみさん」を捨てずして、何とかして浄土へ迎え取り、仏にしてやろうと五劫が間これを思惟して48願を起こされ、永劫が間これを修行されました。これが仏願の本(因本)です。

そして、今や威神功徳不可思議の名号である南無阿弥陀仏は既に成就され、「名声十方に聞こえん」と重ねて誓われた通り、いなみさん目がけて絶えず喚びかけられ、「我にまかせよ」「我が名を称えよ」と常にはたらきかけているのです。これが仏願の末(果末)です。

こうした仏願の生起、本、末を聞いて疑う心のないのを「」というのです。すなわち、本願が南無阿弥陀仏と仕上がって私にはたらいているぞということを、そのままお聞きする、そのまま受け容れるということです。これが「」であり、また「」であります。「仏願の生起本末」、「南無阿弥陀仏の六の字のこころ」を「」くのがそのまま「信心」なのです。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

それは長いこと聞法を重ね、活動を重ねていった先の話ではなく、現在只今のことです。今、この場で、ここにいる私が本願力に摂取され、ひとえに後生を阿弥陀さまにおまかせ致すわけです。だって本願は南無阿弥陀仏と仕上がって今、この場、ここにいる私まで届いているのですから。でなければ今臨終という人は到底間に合わないでしょう?

それと、高森会長は仏願の本は18願、仏願の末は19願・20願という珍説を打ち出し、「なぜ生きる2」に書いて出版までしていますが、そもそも考えてみて下さい。19願・20願を聞いて、それらを実践している、あるいは実践しようとしている時というのは本願(18願)を疑っている状態です。19願・20願を聞いていて、疑いが無くなるわけがないでしょう?

加えて言えば、「「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」のお言葉は「信文類」、すなわち至心信楽の願、18願について明らかにされた文類の中にあります。19願・20願は無関係です。それを関係づけて、会員の獲信・往生とは無関係の組織拡大活動をやらせているだけだということが明らかにお分かり頂けるかと思います。


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> 本当は高森会長に直接質問したいのですが、それは叶わないので、支部長や幹部の会員に質問しようとすると、「えんしょう」の人が来ているからと言われ質問しにくい雰囲気を感じます。
> 和合僧を破ると五逆罪で地獄行きだと暗黙のプレッシャーを感じ、そんたくしてその場の雰囲気をよくするように努めたりしています。
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そのお気持ちは察するに余りあります。私も会員だった当時は似たような思いでした。あと、聞いても「もっと真剣に聞かせて頂きましょう」「もっと光に向かって進ませて頂きましょう」と言われて終わりということは判り切っていたので質問もしませんでした。「物を言え物を言え」と最初は教えられますが、肝心な部分については「忖度しろ」という暗黙の了解がありますよね。それではいけないのですが、そうなっているのが親鸞会です。


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> いままでは高森会長の教えに誤りはなかろうと勝手に思い込んで自分で調べませんでした。
> 調べようにも反論の根拠になる学がありません。
> 言われるままにそういうことだと思っていました。
>
> 反論の根拠としてお聖教が上げられるので自ら聖典で調べてみると確かにそのように書かれています。
> お聖教をよくよく読んで判断したいと思います。
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高森会長の説が正しいか、批判者の説が正しいか、あるいはどちらも正しくないか、本当のところはどうなんだと疑問を持って、それを後回しにしたりうやむやにしたりせずに、納得いくまで調べてみることが大事です。当ブログの題名が「真偽検証」ですが、いなみさんも親鸞聖人の正しい教えをどうぞ真偽検証なさって下さい。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお書き下されたものを根本としているという点ではいなみさんも私も同じであると思います。そういった善知識方の直のお言葉に向き合って頂きたいと思います。


以上、簡単ではありますがお返事とさせて頂きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。



【追記】
林遊@なんまんだぶ様がいなみさんのコメントへのお答えとして書いて下さっています。
↓↓↓
『用管窺天記』利他力

Abcさんからのコメントに返信

今回は、もしこの世の苦しみを何とかしようというのならこの世での成仏を目指すべきだし、信を獲たとて我々の罪が消えるわけではないので、当然その報いは信前と変わらず苦果として現れてくるの記事に頂いたAbcさんのコメントに返信します。


親鸞会会員と思しき名無しさんとしては、私が

「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していることに他ならない

等と書いたことに反論を試みたいのでしょう。しかし彼らは、

「(信心獲得すると同時に)私達の苦しみの人生は幸せな人生にガラリと変わります

と明言しているし、彼らが描いた蓮如上人は

幸せな人生にガラリと変わっても必ずしも他力の信心を獲ているとは限りません

とも言っていないので、「親鸞会は『幸せな人生にガラリと変わる』だとかいう二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定している」と私は言いました。その反論を

真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。(信文類)

のお言葉を基に試みているだけです。本当に愚かな事だとお判りになると思います。


>「喜びが沸き上がらない」ということに関しましては、善信房と唯円房のやりとりのなかにありますので、そちらをご覧になられてください。

第九条ですね。「踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」、「定聚の数に入ること」「真証の証に近づくこと」を喜ばないのは、「愛欲の広海」「名利の大山」といった煩悩のため

にて書かせて頂きました。信心を獲ても喜びの心はそれほどに湧き上がらず、早く浄土へ往きたいという心もない。ただ親鸞会では絶対の幸福だとかいう幻想的な楽をちらつかせて、幸せな人生にガラリと変わると会員に夢見させています。『歎異抄』のこうした話はされなくはないですが、会員としては絶対に変わらない崩れない安心、満足、喜びの境地に出る、いわゆる

「(信心獲得すると同時に)苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる

と信じていることでしょう。浄土往生はオマケで、これ目当てに聞いているのが本心という人は少なくないと思います。


自力、他力についての解説については

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。(御消息第六通)

でしょうか。あくまで本願を聞いて疑い無いことを他力とか、本願に対する無疑心を真実信心と言われているので、我々の心に起こった喜びとか、変化をもって信心を語られていないことを親鸞会はよく知るべきですね。成就文でも、身も心も喜びに満ち溢れた「歓喜」ではなく、二心なき「信心」が真実報土の正因だと教えられているので、信心以外の要素で「信心獲得したらこう変わる」と話す際には十分注意しなければなりません。


アニメ『世界の光 親鸞聖人』第1巻の法然聖人のセリフ
捨てようとする心も捨てよ!
ですが、自力を捨てようとするのも自力なので、これはこれでいいです。が、その後親鸞聖人が「ハッ!」となって泣いて念仏する描写がいけません。あれと親鸞会教義を合わせて考えると、

・一度は地獄の釜底に堕ちて苦しい体験をし、そこから救い摂られるのだろう
・救われた瞬間(信一念)はあのようにハッキリ自覚する、自覚できるのだろう
・救われるとあのように感泣して念仏を称えるのだろう


という先入観が出来てしまいます。そして、そこまでは真剣必死な聞法求道をしなければならないと教えられ、会員の皆さんは他力信心とはまるで無関係な事に従事しているのです。


親鸞会ではこれまで批判に応じて説く内容を変えてきました。その結果ダブルスタンダードな教義となっています。それで批判者が一つを否定すると「そんな事は言っていない」と反論しにかかって来るということがしばしば起こります。会員は説く内容が変わるたびにそれまでの教義との整合性を図らねばならず、矛盾した教義を正しいと信ずるに無理な脳内変換をしております。しかし浄土真宗は矛盾する教義は特にありませんし、煎じ詰めれば「本願を信じ念仏すれば仏に成る」という極めて分かりやすい教えです。

こうした浄土真宗を捻じ曲げ、己の夢の実現、欲望の追求に利用する高森顕徹会長は本当に許せませんので、今後も誤った教義を批判していきたいと思っています。コメント、ありがとうございました。

「踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」、「定聚の数に入ること」「真証の証に近づくこと」を喜ばないのは、「愛欲の広海」「名利の大山」といった煩悩のため

コメント返信の続きです。

コメント6
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動乱破壊せられない信心を阿弥陀仏からいただきますから、間違いなく往生成仏させて頂けるという歓喜は生涯途切れることなく続いていきます。心の内に常に喜びは絶えず、よろこびは心にいつもあります。
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信心は動乱破壊しませんので、間違いなく往生成仏させて頂けるというのはその通りです。ただ信心が我々の心を喜ばせ続けるかといったらそうではありません。後で話しますが、とんでもない邪魔者がいて、そのような素晴らしい果報を私達は中々喜ばないのです。

心とか信心というのは実態がないものですから表現に困るところですが、ともあれ阿弥陀仏より賜った信心が常に我々の根底にありますから、「喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ」であります。それが縁に触れ折に触れ、間違いなく仏にさせて頂いたことを喜ぶ心となって起きてまいります。ただ「こころのうちに」であって常に喜びが心の前面、表面に絶えず出ているというものではありません。世俗的な生活をしている我々は相変わらず日々の事象に押し流され、どう生きてゆくかしか考えず、ついつい法の有難みを忘れがちなのであります。

ところで浄土真宗の教えを聞く私達は、浄土往生、往生成仏といつもつい軽く口にしていますが、これは言葉ではどうにも表現しようがない物凄いことなのです。もし自力で成仏に至るには、三祇百大劫という私達の認識に乗らないほど長期間に亘って修行しなければなりません。現在兜率天で成仏を目指している弥勒菩薩は等覚のさとりまで到達していますが、その弥勒菩薩でさえ更に56億7千万年修行をしなければならないというのですから、世に比類なき長期間を要する、しかも厳しい道です。当然誰しも歩める安易な道ではなく、極めて優れた資質を持った者が堅固な忍耐力をもって三祇百大劫にもおよぶ修行を積まねばなりません。像法の時の智人である龍樹菩薩や天親菩薩でさえ自力成仏は断念して念仏の門に帰依しているのですから、末法の今を生きる我ら凡夫にはたとえ天地がひっくり返ったって自力成仏は無理なのは言うまでもありません。

それで、この世でのさとりはあきらめて、阿弥陀仏の本願によって浄土に往生しようという浄土仏教が我々の機根にかなった教法なのですが、末代不善の凡夫、十悪五逆の罪人である我々は、自力諸行往生や自力念仏往生の道すら厳しいものがあります。もし如説に19願の善を行じようと思ったら、それこそ出家して世俗的な生活から離れる必要があります。毎日平気で肉や魚を食べて殺生の限りを尽くし、嘘で塗り固めた生活をし、自分さえよければいいと自己中心的な考えをもって、己の夢の実現、欲望の追求のみに生きている、どんなブラック企業よりもブラックな私達の後生は、仏教的観念をもって普通に考えたら三悪道、中でも地獄しかないでしょう。そんな我々が後生地獄を免れて辺地、懈慢界の往生ですらあり得ないことなのに、死ぬと同時に報土に往生し、しかも仏のさとりを開くというのですから、これ以上の不思議は考えられません。もしそんな果報が得られるとなったら、踊り狂って死ぬ位喜んでも足りるということはないはずです。

ところが問題は、そのような素晴らしい果報を得るとなったことを私達がどうとらえているかという点です。この前東名高速で反対車線から車が飛んで来たという事件がありましたが、どうでしょうか? この映像ほど往生成仏する身とさせて頂けたことを凄いことだとビックリしているでしょうか? また宝くじ等で思いがけず100万円ほどの金を手に入れたとしましょう。如何でしょうか。100万円手に入ったよりも往生成仏の果報を喜んでいるでしょうか? 残念ながら、私の腐り切った性根はそれほども驚きも喜びもしておりません。本当にどうしようもない根性です。

この、喜ぶ心が湧き出てこないということ、本願を疑い無く信じさせて頂いたこと以外は信前とさして変わらないということは、誰しも不審な点だと思われます。もう二度と迷いの世界に流転することなく、次生必ず浄土に往生し、仏に成る身となったのだし、お聖教には『唯信鈔文意』の文然り、「広大難思の慶心」、「踊躍歓喜」等と教えられていますから、もっともっと喜ぶ心が出て当然だろう、逆にそうならないのはどうしてだろうかと疑問に思うところでしょう。また、死ねば一切の苦から解放されて最高のさとりを開くのだから、一刻も早く死んだ方がよさそうに思えますが、さして早く死にたい、早く浄土に往生したいという心もありません。勿論「死にたい」と思うことはありますが、それはあくまで現実苦からの離脱を求めてであり、さとりを開いて衆生を思うがごとく利益しようなどという立派な心からではないのです。それについて教えられているのが『歎異抄』第九条

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]。

です。「踊躍歓喜のこころ」は無いのではないけれども「おろそかに候ふ」と唯円は申しており、親鸞聖人はそれを否定もせずに「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」、親鸞もそうだと仰っています。そして、死ぬと同時に浄土往生し、速やかに迷いを離れて無上のさとりを得られるというこの上ない果報を間違いなく賜る身となったのに、そんな喜ぶべきことを喜ばないのは「煩悩の所為」であるというのです。

『歎異抄』は親鸞聖人の書かれたものではないではないか」という人もあるかも知れませんので、これを『教行証文類』で示しますと、会員の皆さんもよくご存じの「信文類」悲嘆述懐

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

がそれです。「定聚の数に入ること」「真証の証に近づくこと」を喜ばないのは「愛欲の広海」「名利の大山」といった煩悩のためであるというのです。そんな煩悩具足の凡夫を目当てとして阿弥陀仏は本願を建て、名号を成就して与えて下されたのだと、煩悩しかない、喜ぶべきことを喜ばない仏道の死骸のような我が身を見るにつけ、大悲大願がたのもしく、いよいよひとえに後生は阿弥陀さまにおまかせするのみだと知らされます。


信心を獲て後に喜ばれるとか、喜ばれぬとかいった心配は無用です。大事なのは本願を疑い無く聞き受けていること、南無阿弥陀仏のすがたを心得たこと、本願に身も心もすっかりおまかせしたことであります。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。(執持鈔)

OHEさんも挙げているこのお言葉の通りです。

我々の心が喜ぶのは欲望を満たした時だけと言っていいでしょう。地獄逃れて仏に成るという果報を喜ばない、腐った性根しか持たない我々の心が如何様に喜んでいても、そんなものは何の当てにもなりません。本当に頼りになるのはただ念仏のみです。「助けるぞ」の大悲招喚の勅命のみです。もし「間違いなく往生成仏させて頂けるという歓喜は生涯途切れることなく続いていきます。心の内に常に喜びは絶えず、よろこびは心にいつもあります」と言われるように生涯途切れぬ歓喜が心にいつもあるようなら、

煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなまし

と親鸞聖人に言われてしまうことでしょう。

真実信心、大慶喜心、広大難思の慶心、大慈悲心・・・これらは全て他力の信心の言い換えであり、信心獲得しても我々の心が真実心、大慶喜心、大慈悲心になるわけではない

数日前からひどい鼻炎に悩まされています。元々、スギとヒノキの花粉には反応するので春はいつも憂鬱なのですが、6月のこの時期に花粉症のような症状が出ることは例年はあり得ません。まだ残っている鼻炎薬で対処しておりますが、それにしても眠い(=_=)・・・ アレジオン系の薬なので眠気を誘発してしまい、鬱陶しい眠気を引きずったまま仕事をしています。別に鼻炎ごときで死にはしませんが、それでも体調が思わしくない、体に痛い部分があるとそれだけで嫌な気分になり、早く改善してほしいと思います。

このような苦しみ、また苦しみの感じ方は信前も信後も特に変わるところはありません。死ぬのは相変わらず怖い、嫌ですし、もしナイフや拳銃等で、またリンチに遭うなどして死んだら、恐らく彼らへの恐怖や恨みの感情以外はないでしょう。死の縁は無量でそれは先世の業因によるものですから逃れることはできません。ただどのような死に方、死(やその他の苦境)に際しての心の動乱があっても信心は動乱しませんから、一度信を獲た人が浄土往生することは間違いないのであります。信心獲得とは南無阿弥陀仏のすがたを心得たことであって、最高無上で、死に際しても変わらぬ安心、満足、喜びの境地に出るとかいう体験とは違うのです。親鸞会の会員さんで「絶対の幸福」とやらを求めているならともかく、浄土に往生して迷いを離れたいと願う人は、そんな邪義は捨て去って直ちに本願を信じ念仏いたしましょう。


今回も、親鸞会会員と思われる方から頂いたコメントに答えていきたいと思います。

コメント4
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「この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。」(唯信抄文意)

(現代語訳)
この信心を得ることを「慶喜」というのである。慶喜する人を諸仏と等しい人という。「慶」は「よろこぶ」ということである。信心をすでに得てよろこぶのである。「喜」は心のうちによろこびが絶えることなくいつもあることをいう。得なければならないことをすでに得て、身にも心にもよろこぶという意味である。信心を得た人を『観無量寿経』には「分陀利華」と説かれている。

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上の『唯信鈔文意』のお言葉は、善導大師の『法事讃』

極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専

について解説されている箇所の一部です。極楽は無為涅槃の界であり、八万四千の法門に教えられる自力の善根を修めて生まれられる世界ではない、それでお釈迦様は沢山の善の中から名号を選び取って私達に与えて下され、念仏一行を一心に修めよと教えて下された、というのがおおよその意味です。全文は上リンク先へ飛んで頂くとして、今は該当箇所を抜き出します。

「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。

「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。この一行一心なるひとを「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」(『礼讃』・意 六六二)と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。この一心は横超の信心なり。横はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆゑに超と申すなり。これすなはち大悲誓願力なるがゆゑなり。この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」とのたまへり。この信楽は仏にならんとねがふと申すこころなり。この願作仏心はすなはち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなはち仏性なり、すなはち如来なり。この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。


ここでは他力の信心を、「横超の信心」、「金剛心」、「本願の三信心」、「真実信心」、「願作仏心」、「度衆生心」、「大菩提心」、「大慈悲心」、「仏性」、「如来」と様々に言い換えられ、そして「慶喜」とも仰っています。こうした信心の言い換えは『教行証文類』においても「信文類」専念専心の釈文等に見られます。

宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。
しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。
金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。願海平等なるがゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。


【現代語訳】
 善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行である。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。この専心は深い心、すなわち深心である。この深心は深く信じる心、すなわち深信である。この深信は固く信じる心、すなわち堅固深信である。この堅固深信はゆるぎない心、すなわち決定心である。この決定心はこの上なくすぐれた心、すなわち無上上心である。この無上上心は真実の徳を持った心、すなわち真心である。この真心は生涯もたれる心、すなわち相続心である。この相続心は純朴で飾り気のない心、すなわち淳心である。この淳心は常に仏を思う心、すなわち憶念である。この憶念はまことの徳をそなえた心、すなわち真実一心である。この真実一心は広大な法を受けた喜びの心、すなわち大慶喜心である。この大慶喜心はまことの心、すなわち真実信心である。この真実信心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、すなわち金剛心である。この金剛心は仏になろうと願う心、すなわち願作仏心である。この願作仏心は衆生を救おうとする心、すなわち度衆生心である。この度衆生心は衆生を浄土に往生させる心である。この心は大菩提心である。この心は大慈悲心である。なぜなら、はかり知れない阿弥陀仏の智慧によって生じるからである。阿弥陀仏の本願が平等であるから、阿弥陀仏より回向された信心も平等である。信心が平等であるから、その信心にそなわる智慧も平等である。智慧が平等であるから、慈悲も平等である。この大慈悲をそなえた信心が、浄土に至ってさとりを開く正因なのである。

大慶喜心」のことを『唯信鈔文意』では「慶喜」と言われていることが分かるでしょう。他にも「広大難思の慶心」とも言われていますが、全て他力の信心の言い換えです。無論、阿弥陀仏より回向せられる信心が我々に影響を与えることは言うまでもなく、自分の力では決して生死を離れられず苦しみ続ける私が次生必ず仏に成ると聞けば嬉しい喜びの心が起きてきます。また、多少なりとも有縁の方々にお伝えしようなどという心も起きてまいります。ただし、我々の心が「大慶喜心」になるのではないのです。それは、他力の信心を「金剛心」、「真実信心」、「大慈悲心」、「如来」等と呼ばれても、我々の心が金剛心になるわけでも真実心になるわけでも、大慈悲心になるわけでも如来と同じ心になるわけでもないことと同じです。如来より回向せられる真実浄信が煩悩の塊である我々に影響を及ぼすことは間違いありませんが、今生において我々の悪業煩悩が浄化されて立派な心になるとか、どんなことがあっても崩れない安心、満足、喜びの境地に出るなどといったことはないわけです。あくまで往生は変わらない、往生の因である信心は変わらないということであって、我々の心、幸福感が変わらないということではないことに注意して下さい。

それと、この一段は万行諸善を隨縁の雑善と言われ、それらは自力の善根であるから極楽に生まれることはできないと嫌われていること、そして釈尊は数多くお説きになられた善の中から本願の念仏を選び取って我々に与え、念仏一行を一心に専ら修せよと教えられているところです。因果の道理、廃悪修善、六度万行、七仏通戒偈、19願、定散二善等を根拠に親鸞会では「善の勧め」なる教えを説いて、その度に会員を献金、勧誘、無条件服従などの活動へと駆り立てていますが、親鸞会の勧めるものがらがたとえ如説の善であってもそれは「隨縁の雑善」「自力の善根」であって「実報土には生れずときらはるる」のです。そして、「隨縁の雑善」「自力の善根」では浄土往生できないと余の善を捨てて、念仏一行を一心に修める人を阿弥陀仏は光明の中に摂め取って決してお捨てにならないのです。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。(化身土文類)

とあるように、阿弥陀仏の光明は、「余の雑業の行者」、すなわち「隨縁の雑善」「自力の善根」を修める者を照らし摂めないのです。まして単なる一新興宗教団体の、組織拡大のための活動に勤しみ、それが信心獲得へ近づく方法であるなどと思い込んでいる者は・・・言うまでもありませんね。

いずれにせよ、他力の信心は念仏一行を二心なく一心に専ら修する者に回向せられるのであり、釈迦弥陀の教勅に順わず、因果の道理や19願、定散二善などを根拠として善もどきの善に励んでいる者には決して分からない信心なのであります。会員の皆さんは、

信心獲得したら、苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わる
信心獲得は、火に触ったよりも明らかなハッキリした体験
広かったぞ~、大きかったぞ~、想像を絶する大きな慶びの心が起きたぞ~
最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地に出る
何時でも何処でも満足一杯、喜び一杯、安心し切って明るい生活ができるようになり、人生の醍醐味を心ゆくまで味わうことができるようになるのです

このような文言で信後はさぞや素晴らしい世界に出るのだろう、逆にそうならなかったら信心獲得ではないと思い込んでいるかと推測されますが、そんな幻想的な楽を追い求めている人は救われないと説かれていることを知るべきです。

しかし、苦しみの世界から出離したい、阿弥陀仏に救われて浄土に往生したいと願い、南無阿弥陀仏のすがたをよく心得たなら、阿弥陀仏は深く喜びましまして、八万四千の大いなる光明を放ってその人を摂め取って決してお捨てになりません。親鸞会の活動が信心獲得へ近づく方法であるなどという邪義は捨て、また小賢しい凡夫の詮索や先入観も捨てて、「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)」の大悲招喚の勅命をそのまま聞き受け念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長

「信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」とは言えないし、「絶対の幸福」だとかいう特別な境地の幸福感を教えられたのが親鸞聖人でもない

信を獲て後は何があろうと往生することは変わらないが、幸福感は変わる

の記事に親鸞会会員と思われる方からコメントがありました。細かく分かれて多く頂いておりますので、区切って返答していきたいと思います。

コメント1
********************
まず、信心獲得すれば喜びが起きますが、喜びが起きたかどうかによって信心獲得したかどうかは判定はできません。
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確かに、高森顕徹会長は真実の信心か否かの判定基準は二種深信だと『教学聖典』にも問答形式で教えています。ところが会長は映画『なぜ生きる』で蓮如上人に、

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」

と言わせています。ということは、

信心獲得 → 幸せな人生にガラリと変わる

ですから、幸せな人生にガラリと変わらないようならそれは信心獲得ではないということです。「幸せな人生にガラリと変わる」の部分を「喜びが起きる」と言い換えたら、喜びが起きないようならそれは信心獲得ではないということです。余談ですが、「幸せな人生にガラリと変わる」の部分を「ハッキリする」と言い換えたら、ハッキリしないようならそれは信心獲得ではないということです。これは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心を判定している事に他ならないのでそう書きました。高森会長の話はダブルスタンダード的な点が多く見られ、また会員の皆さんは高森信心をもって話を聞くため間違いないと思えるのかも知れませんが、実際は親鸞聖人の教えとは遠くかけ離れた高森教であって浄土真宗ではないのです。

それと、「喜び」といってもその感じ方や表現の仕方は人それぞれであり、いつも心の前面に出ているというものではありません。親鸞聖人は『教行証文類』「総序」の文にて

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな

と慶びを仰っていたと思いきや、一方「信文類」にて

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

とも仰っています。また『歎異抄』第九条では、「念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってきません」という唯円房の不審に「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と答えられています。往生一定の身にして頂いたといっても、その喜びは我々の心の上には出てきたり引っ込んでしまったりします。法をお聞かせ頂いてその有難さに感泣することもあれば、日常生活に戻ると様々な苦果を受けてせっかくの喜びが失せることもあります。喜べる時もあるがそうでない時もあるのです。

ところが高森顕徹会長は『こんなことが知りたい②』の中でこのようなことを書いています。

 では絶対の幸福とは何か、結論を急ぎましょう。
 この場合、絶対というのは、無上、最高不二という意味と、どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜びということです。
 最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地をいうのです。死に直面しても変わらないものならば、その他の障害によって動乱することは毛頭ありませんから、何時でも何処でも満足一杯、喜び一杯、安心し切って明るい生活ができるようになり、人生の醍醐味を心ゆくまで味わうことができるようになるのです。
(p.10)

これは信心が「動乱破壊」されないことを安心、満足、喜びが「動乱破壊」されないこと、つまり信後の我々の心が「動乱破壊」されないことと勘違いした誤りです。また『なぜ生きる』では

焼けもせず、流されも、盗まれもしない、いつも満ちている無上の幸せ(p.180)

などと書いていますが、これは「信心=幸福感」としている誤りです。他力の信心は焼けもせず、流されも、盗まれもしませんが、我々の心、幸福感は変化します。「無上の幸せ」とやらがいつも信後の人の心に満ちていたなら「悲しきかな」「唯円房おなじこころにてありけり」などとは仰らないでしょう。こうした特別な境地の幸福感を教えられたのが親鸞聖人ではありません。

コメント2
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なので、信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるとは言えますが、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わったかどうかによって信心の有無は判定できません。
それは人生がガラリと変わったと思っても、信心獲得した方もあれば、信心獲得したつもりになっているだけの方もありますし、親鸞聖人の教えを聞いてない人でも、ある時から人生がガラリと変わったという方もあるからです

ご説法を注意深く聞かれている方なら、信心獲得すればガラリと変わるとは言われるが、「ガラリと変われば、それが信心獲得だ。」とは教えられないことはご理解いただけると思います。

********************

OHEさんのコメントにあるように、「信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」とは言えません。あと、確かに高森会長は「ガラリと変われば、それが信心獲得だ。」とは教えてはいないでしょうが、会員の皆さんは「ガラリと変わらなければ、信心獲得ではない」と思い込んでいるのではないでしょうか? こう思わせるのが高森会長の狙いです。そうすれば会員の皆さんは、「まだ救われていないから、救われるためにもっと頑張ろう」と献金、勧誘、無条件服従に前向きになるでしょう。

コメント3
********************
信心獲得すれば、無始よりこのかた迷いの世界で苦しみ続けた私が、次生報土往生するということが平生に決定します。「定んで往生を得と深信」し、間違いなく往生すると疑う余地がなくなります。現生に正定聚の身になれますから、信心獲得すれば大慶喜の心が起こります(正信偈記載の通りです。)。
********************

これもOHEさんのコメントの通りですが、それにしても喜びとか大慶喜ということにこだわりますね。「大きな喜びの心が起きなければ信心獲得ではない」と思い込んでいる何よりの証拠です。それと、「入正定聚の益を得る」ことと「正定聚の身になったことが実感として知らされる」ことは違います。51段高とびして弥勒菩薩と同じ境地に出られる等と勘違いをしているのかも知れませんがそうではありません。

コメント4は次回に譲ります。コメント5
********************
信心獲得しても、因果の道理も煩悩具足も全く変わりませんから、上記の苦しみは生涯変わりません。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わると聞くと、相対の幸福しか知らない私たちは上記の苦しみが解決し、なくなるように誤解してしまいますが、そう誤解してはならないということをいつもねんごろに教えられています。
********************

「上記の苦しみ」とはお金や物、病気や怪我等のために苦しむことですが、「絶対の幸福」とやらが「どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜び」「最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地」だというのなら、私達が日常煩い悩んでいることなんかヘッチャラなはずですよ。あと、日常の苦しみがやって来ても煩悩即菩提ですぐさま喜びに転じ変わるのだろうとか思っている会員さんも少なくないかと思われます。

ところが、二河白道の譬喩が示す通り、一歩白道に踏み出した後(信後)も、水火二河も白道も、群賊悪獣らも、何も変化しません。後生を阿弥陀さまにおまかせした気楽さ、安心、遇い難い教えに遇えた喜びはありますが、信心以外のことは一般の人々と何らと言っても過言ではないほど変わるところはありません。相変わらず苦しいものは苦しいし、嫌なものは嫌なのです。絶対の幸福なる特別な境地を夢見ている方にはショッキングかもしれませんが、信心獲得とはそんな境地に至る体験ではありません。


長くなりましたので、続きは次回書きたいと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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