Abcさんからのコメントに返信

今回は、もしこの世の苦しみを何とかしようというのならこの世での成仏を目指すべきだし、信を獲たとて我々の罪が消えるわけではないので、当然その報いは信前と変わらず苦果として現れてくるの記事に頂いたAbcさんのコメントに返信します。


親鸞会会員と思しき名無しさんとしては、私が

「苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」などと説くことは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定していることに他ならない

等と書いたことに反論を試みたいのでしょう。しかし彼らは、

「(信心獲得すると同時に)私達の苦しみの人生は幸せな人生にガラリと変わります

と明言しているし、彼らが描いた蓮如上人は

幸せな人生にガラリと変わっても必ずしも他力の信心を獲ているとは限りません

とも言っていないので、「親鸞会は『幸せな人生にガラリと変わる』だとかいう二種深信以外の要素、つまり三業で信心の有無を判定している」と私は言いました。その反論を

真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。(信文類)

のお言葉を基に試みているだけです。本当に愚かな事だとお判りになると思います。


>「喜びが沸き上がらない」ということに関しましては、善信房と唯円房のやりとりのなかにありますので、そちらをご覧になられてください。

第九条ですね。「踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」、「定聚の数に入ること」「真証の証に近づくこと」を喜ばないのは、「愛欲の広海」「名利の大山」といった煩悩のため

にて書かせて頂きました。信心を獲ても喜びの心はそれほどに湧き上がらず、早く浄土へ往きたいという心もない。ただ親鸞会では絶対の幸福だとかいう幻想的な楽をちらつかせて、幸せな人生にガラリと変わると会員に夢見させています。『歎異抄』のこうした話はされなくはないですが、会員としては絶対に変わらない崩れない安心、満足、喜びの境地に出る、いわゆる

「(信心獲得すると同時に)苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる

と信じていることでしょう。浄土往生はオマケで、これ目当てに聞いているのが本心という人は少なくないと思います。


自力、他力についての解説については

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。如来の御ちかひなれば、「他力には義なきを義とす」と、聖人(法然)の仰せごとにてありき。義といふことは、はからふことばなり。行者のはからひは自力なれば義といふなり。他力は本願を信楽して往生必定なるゆゑに、さらに義なしとなり。(御消息第六通)

でしょうか。あくまで本願を聞いて疑い無いことを他力とか、本願に対する無疑心を真実信心と言われているので、我々の心に起こった喜びとか、変化をもって信心を語られていないことを親鸞会はよく知るべきですね。成就文でも、身も心も喜びに満ち溢れた「歓喜」ではなく、二心なき「信心」が真実報土の正因だと教えられているので、信心以外の要素で「信心獲得したらこう変わる」と話す際には十分注意しなければなりません。


アニメ『世界の光 親鸞聖人』第1巻の法然聖人のセリフ
捨てようとする心も捨てよ!
ですが、自力を捨てようとするのも自力なので、これはこれでいいです。が、その後親鸞聖人が「ハッ!」となって泣いて念仏する描写がいけません。あれと親鸞会教義を合わせて考えると、

・一度は地獄の釜底に堕ちて苦しい体験をし、そこから救い摂られるのだろう
・救われた瞬間(信一念)はあのようにハッキリ自覚する、自覚できるのだろう
・救われるとあのように感泣して念仏を称えるのだろう


という先入観が出来てしまいます。そして、そこまでは真剣必死な聞法求道をしなければならないと教えられ、会員の皆さんは他力信心とはまるで無関係な事に従事しているのです。


親鸞会ではこれまで批判に応じて説く内容を変えてきました。その結果ダブルスタンダードな教義となっています。それで批判者が一つを否定すると「そんな事は言っていない」と反論しにかかって来るということがしばしば起こります。会員は説く内容が変わるたびにそれまでの教義との整合性を図らねばならず、矛盾した教義を正しいと信ずるに無理な脳内変換をしております。しかし浄土真宗は矛盾する教義は特にありませんし、煎じ詰めれば「本願を信じ念仏すれば仏に成る」という極めて分かりやすい教えです。

こうした浄土真宗を捻じ曲げ、己の夢の実現、欲望の追求に利用する高森顕徹会長は本当に許せませんので、今後も誤った教義を批判していきたいと思っています。コメント、ありがとうございました。
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「踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと」、「定聚の数に入ること」「真証の証に近づくこと」を喜ばないのは、「愛欲の広海」「名利の大山」といった煩悩のため

コメント返信の続きです。

コメント6
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動乱破壊せられない信心を阿弥陀仏からいただきますから、間違いなく往生成仏させて頂けるという歓喜は生涯途切れることなく続いていきます。心の内に常に喜びは絶えず、よろこびは心にいつもあります。
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信心は動乱破壊しませんので、間違いなく往生成仏させて頂けるというのはその通りです。ただ信心が我々の心を喜ばせ続けるかといったらそうではありません。後で話しますが、とんでもない邪魔者がいて、そのような素晴らしい果報を私達は中々喜ばないのです。

心とか信心というのは実態がないものですから表現に困るところですが、ともあれ阿弥陀仏より賜った信心が常に我々の根底にありますから、「喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ」であります。それが縁に触れ折に触れ、間違いなく仏にさせて頂いたことを喜ぶ心となって起きてまいります。ただ「こころのうちに」であって常に喜びが心の前面、表面に絶えず出ているというものではありません。世俗的な生活をしている我々は相変わらず日々の事象に押し流され、どう生きてゆくかしか考えず、ついつい法の有難みを忘れがちなのであります。

ところで浄土真宗の教えを聞く私達は、浄土往生、往生成仏といつもつい軽く口にしていますが、これは言葉ではどうにも表現しようがない物凄いことなのです。もし自力で成仏に至るには、三祇百大劫という私達の認識に乗らないほど長期間に亘って修行しなければなりません。現在兜率天で成仏を目指している弥勒菩薩は等覚のさとりまで到達していますが、その弥勒菩薩でさえ更に56億7千万年修行をしなければならないというのですから、世に比類なき長期間を要する、しかも厳しい道です。当然誰しも歩める安易な道ではなく、極めて優れた資質を持った者が堅固な忍耐力をもって三祇百大劫にもおよぶ修行を積まねばなりません。像法の時の智人である龍樹菩薩や天親菩薩でさえ自力成仏は断念して念仏の門に帰依しているのですから、末法の今を生きる我ら凡夫にはたとえ天地がひっくり返ったって自力成仏は無理なのは言うまでもありません。

それで、この世でのさとりはあきらめて、阿弥陀仏の本願によって浄土に往生しようという浄土仏教が我々の機根にかなった教法なのですが、末代不善の凡夫、十悪五逆の罪人である我々は、自力諸行往生や自力念仏往生の道すら厳しいものがあります。もし如説に19願の善を行じようと思ったら、それこそ出家して世俗的な生活から離れる必要があります。毎日平気で肉や魚を食べて殺生の限りを尽くし、嘘で塗り固めた生活をし、自分さえよければいいと自己中心的な考えをもって、己の夢の実現、欲望の追求のみに生きている、どんなブラック企業よりもブラックな私達の後生は、仏教的観念をもって普通に考えたら三悪道、中でも地獄しかないでしょう。そんな我々が後生地獄を免れて辺地、懈慢界の往生ですらあり得ないことなのに、死ぬと同時に報土に往生し、しかも仏のさとりを開くというのですから、これ以上の不思議は考えられません。もしそんな果報が得られるとなったら、踊り狂って死ぬ位喜んでも足りるということはないはずです。

ところが問題は、そのような素晴らしい果報を得るとなったことを私達がどうとらえているかという点です。この前東名高速で反対車線から車が飛んで来たという事件がありましたが、どうでしょうか? この映像ほど往生成仏する身とさせて頂けたことを凄いことだとビックリしているでしょうか? また宝くじ等で思いがけず100万円ほどの金を手に入れたとしましょう。如何でしょうか。100万円手に入ったよりも往生成仏の果報を喜んでいるでしょうか? 残念ながら、私の腐り切った性根はそれほども驚きも喜びもしておりません。本当にどうしようもない根性です。

この、喜ぶ心が湧き出てこないということ、本願を疑い無く信じさせて頂いたこと以外は信前とさして変わらないということは、誰しも不審な点だと思われます。もう二度と迷いの世界に流転することなく、次生必ず浄土に往生し、仏に成る身となったのだし、お聖教には『唯信鈔文意』の文然り、「広大難思の慶心」、「踊躍歓喜」等と教えられていますから、もっともっと喜ぶ心が出て当然だろう、逆にそうならないのはどうしてだろうかと疑問に思うところでしょう。また、死ねば一切の苦から解放されて最高のさとりを開くのだから、一刻も早く死んだ方がよさそうに思えますが、さして早く死にたい、早く浄土に往生したいという心もありません。勿論「死にたい」と思うことはありますが、それはあくまで現実苦からの離脱を求めてであり、さとりを開いて衆生を思うがごとく利益しようなどという立派な心からではないのです。それについて教えられているのが『歎異抄』第九条

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。 よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。 いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]。

です。「踊躍歓喜のこころ」は無いのではないけれども「おろそかに候ふ」と唯円は申しており、親鸞聖人はそれを否定もせずに「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」、親鸞もそうだと仰っています。そして、死ぬと同時に浄土往生し、速やかに迷いを離れて無上のさとりを得られるというこの上ない果報を間違いなく賜る身となったのに、そんな喜ぶべきことを喜ばないのは「煩悩の所為」であるというのです。

『歎異抄』は親鸞聖人の書かれたものではないではないか」という人もあるかも知れませんので、これを『教行証文類』で示しますと、会員の皆さんもよくご存じの「信文類」悲嘆述懐

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

がそれです。「定聚の数に入ること」「真証の証に近づくこと」を喜ばないのは「愛欲の広海」「名利の大山」といった煩悩のためであるというのです。そんな煩悩具足の凡夫を目当てとして阿弥陀仏は本願を建て、名号を成就して与えて下されたのだと、煩悩しかない、喜ぶべきことを喜ばない仏道の死骸のような我が身を見るにつけ、大悲大願がたのもしく、いよいよひとえに後生は阿弥陀さまにおまかせするのみだと知らされます。


信心を獲て後に喜ばれるとか、喜ばれぬとかいった心配は無用です。大事なのは本願を疑い無く聞き受けていること、南無阿弥陀仏のすがたを心得たこと、本願に身も心もすっかりおまかせしたことであります。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。(執持鈔)

OHEさんも挙げているこのお言葉の通りです。

我々の心が喜ぶのは欲望を満たした時だけと言っていいでしょう。地獄逃れて仏に成るという果報を喜ばない、腐った性根しか持たない我々の心が如何様に喜んでいても、そんなものは何の当てにもなりません。本当に頼りになるのはただ念仏のみです。「助けるぞ」の大悲招喚の勅命のみです。もし「間違いなく往生成仏させて頂けるという歓喜は生涯途切れることなく続いていきます。心の内に常に喜びは絶えず、よろこびは心にいつもあります」と言われるように生涯途切れぬ歓喜が心にいつもあるようなら、

煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなまし

と親鸞聖人に言われてしまうことでしょう。

真実信心、大慶喜心、広大難思の慶心、大慈悲心・・・これらは全て他力の信心の言い換えであり、信心獲得しても我々の心が真実心、大慶喜心、大慈悲心になるわけではない

数日前からひどい鼻炎に悩まされています。元々、スギとヒノキの花粉には反応するので春はいつも憂鬱なのですが、6月のこの時期に花粉症のような症状が出ることは例年はあり得ません。まだ残っている鼻炎薬で対処しておりますが、それにしても眠い(=_=)・・・ アレジオン系の薬なので眠気を誘発してしまい、鬱陶しい眠気を引きずったまま仕事をしています。別に鼻炎ごときで死にはしませんが、それでも体調が思わしくない、体に痛い部分があるとそれだけで嫌な気分になり、早く改善してほしいと思います。

このような苦しみ、また苦しみの感じ方は信前も信後も特に変わるところはありません。死ぬのは相変わらず怖い、嫌ですし、もしナイフや拳銃等で、またリンチに遭うなどして死んだら、恐らく彼らへの恐怖や恨みの感情以外はないでしょう。死の縁は無量でそれは先世の業因によるものですから逃れることはできません。ただどのような死に方、死(やその他の苦境)に際しての心の動乱があっても信心は動乱しませんから、一度信を獲た人が浄土往生することは間違いないのであります。信心獲得とは南無阿弥陀仏のすがたを心得たことであって、最高無上で、死に際しても変わらぬ安心、満足、喜びの境地に出るとかいう体験とは違うのです。親鸞会の会員さんで「絶対の幸福」とやらを求めているならともかく、浄土に往生して迷いを離れたいと願う人は、そんな邪義は捨て去って直ちに本願を信じ念仏いたしましょう。


今回も、親鸞会会員と思われる方から頂いたコメントに答えていきたいと思います。

コメント4
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「この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。」(唯信抄文意)

(現代語訳)
この信心を得ることを「慶喜」というのである。慶喜する人を諸仏と等しい人という。「慶」は「よろこぶ」ということである。信心をすでに得てよろこぶのである。「喜」は心のうちによろこびが絶えることなくいつもあることをいう。得なければならないことをすでに得て、身にも心にもよろこぶという意味である。信心を得た人を『観無量寿経』には「分陀利華」と説かれている。

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上の『唯信鈔文意』のお言葉は、善導大師の『法事讃』

極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専

について解説されている箇所の一部です。極楽は無為涅槃の界であり、八万四千の法門に教えられる自力の善根を修めて生まれられる世界ではない、それでお釈迦様は沢山の善の中から名号を選び取って私達に与えて下され、念仏一行を一心に修めよと教えて下された、というのがおおよその意味です。全文は上リンク先へ飛んで頂くとして、今は該当箇所を抜き出します。

「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。

「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におも ひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。この一行一心なるひとを「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」(『礼讃』・意 六六二)と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。この一心は横超の信心なり。横はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆゑに超と申すなり。これすなはち大悲誓願力なるがゆゑなり。この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」とのたまへり。この信楽は仏にならんとねがふと申すこころなり。この願作仏心はすなはち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなはち仏性なり、すなはち如来なり。この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。


ここでは他力の信心を、「横超の信心」、「金剛心」、「本願の三信心」、「真実信心」、「願作仏心」、「度衆生心」、「大菩提心」、「大慈悲心」、「仏性」、「如来」と様々に言い換えられ、そして「慶喜」とも仰っています。こうした信心の言い換えは『教行証文類』においても「信文類」専念専心の釈文等に見られます。

宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。
しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ金剛心なり。
金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。願海平等なるがゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。


【現代語訳】
 善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行である。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。この専心は深い心、すなわち深心である。この深心は深く信じる心、すなわち深信である。この深信は固く信じる心、すなわち堅固深信である。この堅固深信はゆるぎない心、すなわち決定心である。この決定心はこの上なくすぐれた心、すなわち無上上心である。この無上上心は真実の徳を持った心、すなわち真心である。この真心は生涯もたれる心、すなわち相続心である。この相続心は純朴で飾り気のない心、すなわち淳心である。この淳心は常に仏を思う心、すなわち憶念である。この憶念はまことの徳をそなえた心、すなわち真実一心である。この真実一心は広大な法を受けた喜びの心、すなわち大慶喜心である。この大慶喜心はまことの心、すなわち真実信心である。この真実信心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、すなわち金剛心である。この金剛心は仏になろうと願う心、すなわち願作仏心である。この願作仏心は衆生を救おうとする心、すなわち度衆生心である。この度衆生心は衆生を浄土に往生させる心である。この心は大菩提心である。この心は大慈悲心である。なぜなら、はかり知れない阿弥陀仏の智慧によって生じるからである。阿弥陀仏の本願が平等であるから、阿弥陀仏より回向された信心も平等である。信心が平等であるから、その信心にそなわる智慧も平等である。智慧が平等であるから、慈悲も平等である。この大慈悲をそなえた信心が、浄土に至ってさとりを開く正因なのである。

大慶喜心」のことを『唯信鈔文意』では「慶喜」と言われていることが分かるでしょう。他にも「広大難思の慶心」とも言われていますが、全て他力の信心の言い換えです。無論、阿弥陀仏より回向せられる信心が我々に影響を与えることは言うまでもなく、自分の力では決して生死を離れられず苦しみ続ける私が次生必ず仏に成ると聞けば嬉しい喜びの心が起きてきます。また、多少なりとも有縁の方々にお伝えしようなどという心も起きてまいります。ただし、我々の心が「大慶喜心」になるのではないのです。それは、他力の信心を「金剛心」、「真実信心」、「大慈悲心」、「如来」等と呼ばれても、我々の心が金剛心になるわけでも真実心になるわけでも、大慈悲心になるわけでも如来と同じ心になるわけでもないことと同じです。如来より回向せられる真実浄信が煩悩の塊である我々に影響を及ぼすことは間違いありませんが、今生において我々の悪業煩悩が浄化されて立派な心になるとか、どんなことがあっても崩れない安心、満足、喜びの境地に出るなどといったことはないわけです。あくまで往生は変わらない、往生の因である信心は変わらないということであって、我々の心、幸福感が変わらないということではないことに注意して下さい。

それと、この一段は万行諸善を隨縁の雑善と言われ、それらは自力の善根であるから極楽に生まれることはできないと嫌われていること、そして釈尊は数多くお説きになられた善の中から本願の念仏を選び取って我々に与え、念仏一行を一心に専ら修せよと教えられているところです。因果の道理、廃悪修善、六度万行、七仏通戒偈、19願、定散二善等を根拠に親鸞会では「善の勧め」なる教えを説いて、その度に会員を献金、勧誘、無条件服従などの活動へと駆り立てていますが、親鸞会の勧めるものがらがたとえ如説の善であってもそれは「隨縁の雑善」「自力の善根」であって「実報土には生れずときらはるる」のです。そして、「隨縁の雑善」「自力の善根」では浄土往生できないと余の善を捨てて、念仏一行を一心に修める人を阿弥陀仏は光明の中に摂め取って決してお捨てにならないのです。

経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。(化身土文類)

とあるように、阿弥陀仏の光明は、「余の雑業の行者」、すなわち「隨縁の雑善」「自力の善根」を修める者を照らし摂めないのです。まして単なる一新興宗教団体の、組織拡大のための活動に勤しみ、それが信心獲得へ近づく方法であるなどと思い込んでいる者は・・・言うまでもありませんね。

いずれにせよ、他力の信心は念仏一行を二心なく一心に専ら修する者に回向せられるのであり、釈迦弥陀の教勅に順わず、因果の道理や19願、定散二善などを根拠として善もどきの善に励んでいる者には決して分からない信心なのであります。会員の皆さんは、

信心獲得したら、苦しみの人生が、幸せな人生にガラリと変わる
信心獲得は、火に触ったよりも明らかなハッキリした体験
広かったぞ~、大きかったぞ~、想像を絶する大きな慶びの心が起きたぞ~
最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地に出る
何時でも何処でも満足一杯、喜び一杯、安心し切って明るい生活ができるようになり、人生の醍醐味を心ゆくまで味わうことができるようになるのです

このような文言で信後はさぞや素晴らしい世界に出るのだろう、逆にそうならなかったら信心獲得ではないと思い込んでいるかと推測されますが、そんな幻想的な楽を追い求めている人は救われないと説かれていることを知るべきです。

しかし、苦しみの世界から出離したい、阿弥陀仏に救われて浄土に往生したいと願い、南無阿弥陀仏のすがたをよく心得たなら、阿弥陀仏は深く喜びましまして、八万四千の大いなる光明を放ってその人を摂め取って決してお捨てになりません。親鸞会の活動が信心獲得へ近づく方法であるなどという邪義は捨て、また小賢しい凡夫の詮索や先入観も捨てて、「南無(我にまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)」の大悲招喚の勅命をそのまま聞き受け念仏して頂きたいと思います。



【参照】
『飛雲』謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長

「信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」とは言えないし、「絶対の幸福」だとかいう特別な境地の幸福感を教えられたのが親鸞聖人でもない

信を獲て後は何があろうと往生することは変わらないが、幸福感は変わる

の記事に親鸞会会員と思われる方からコメントがありました。細かく分かれて多く頂いておりますので、区切って返答していきたいと思います。

コメント1
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まず、信心獲得すれば喜びが起きますが、喜びが起きたかどうかによって信心獲得したかどうかは判定はできません。
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確かに、高森顕徹会長は真実の信心か否かの判定基準は二種深信だと『教学聖典』にも問答形式で教えています。ところが会長は映画『なぜ生きる』で蓮如上人に、

「大悲の願船に乗せられると同時に、私たちの苦しみの人生は、幸せな人生にガラリと変わります」

と言わせています。ということは、

信心獲得 → 幸せな人生にガラリと変わる

ですから、幸せな人生にガラリと変わらないようならそれは信心獲得ではないということです。「幸せな人生にガラリと変わる」の部分を「喜びが起きる」と言い換えたら、喜びが起きないようならそれは信心獲得ではないということです。余談ですが、「幸せな人生にガラリと変わる」の部分を「ハッキリする」と言い換えたら、ハッキリしないようならそれは信心獲得ではないということです。これは、二種深信以外の要素、つまり三業で信心を判定している事に他ならないのでそう書きました。高森会長の話はダブルスタンダード的な点が多く見られ、また会員の皆さんは高森信心をもって話を聞くため間違いないと思えるのかも知れませんが、実際は親鸞聖人の教えとは遠くかけ離れた高森教であって浄土真宗ではないのです。

それと、「喜び」といってもその感じ方や表現の仕方は人それぞれであり、いつも心の前面に出ているというものではありません。親鸞聖人は『教行証文類』「総序」の文にて

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな

と慶びを仰っていたと思いきや、一方「信文類」にて

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

とも仰っています。また『歎異抄』第九条では、「念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってきません」という唯円房の不審に「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり」と答えられています。往生一定の身にして頂いたといっても、その喜びは我々の心の上には出てきたり引っ込んでしまったりします。法をお聞かせ頂いてその有難さに感泣することもあれば、日常生活に戻ると様々な苦果を受けてせっかくの喜びが失せることもあります。喜べる時もあるがそうでない時もあるのです。

ところが高森顕徹会長は『こんなことが知りたい②』の中でこのようなことを書いています。

 では絶対の幸福とは何か、結論を急ぎましょう。
 この場合、絶対というのは、無上、最高不二という意味と、どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜びということです。
 最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地をいうのです。死に直面しても変わらないものならば、その他の障害によって動乱することは毛頭ありませんから、何時でも何処でも満足一杯、喜び一杯、安心し切って明るい生活ができるようになり、人生の醍醐味を心ゆくまで味わうことができるようになるのです。
(p.10)

これは信心が「動乱破壊」されないことを安心、満足、喜びが「動乱破壊」されないこと、つまり信後の我々の心が「動乱破壊」されないことと勘違いした誤りです。また『なぜ生きる』では

焼けもせず、流されも、盗まれもしない、いつも満ちている無上の幸せ(p.180)

などと書いていますが、これは「信心=幸福感」としている誤りです。他力の信心は焼けもせず、流されも、盗まれもしませんが、我々の心、幸福感は変化します。「無上の幸せ」とやらがいつも信後の人の心に満ちていたなら「悲しきかな」「唯円房おなじこころにてありけり」などとは仰らないでしょう。こうした特別な境地の幸福感を教えられたのが親鸞聖人ではありません。

コメント2
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なので、信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わるとは言えますが、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わったかどうかによって信心の有無は判定できません。
それは人生がガラリと変わったと思っても、信心獲得した方もあれば、信心獲得したつもりになっているだけの方もありますし、親鸞聖人の教えを聞いてない人でも、ある時から人生がガラリと変わったという方もあるからです

ご説法を注意深く聞かれている方なら、信心獲得すればガラリと変わるとは言われるが、「ガラリと変われば、それが信心獲得だ。」とは教えられないことはご理解いただけると思います。

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OHEさんのコメントにあるように、「信心獲得すると、苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わる」とは言えません。あと、確かに高森会長は「ガラリと変われば、それが信心獲得だ。」とは教えてはいないでしょうが、会員の皆さんは「ガラリと変わらなければ、信心獲得ではない」と思い込んでいるのではないでしょうか? こう思わせるのが高森会長の狙いです。そうすれば会員の皆さんは、「まだ救われていないから、救われるためにもっと頑張ろう」と献金、勧誘、無条件服従に前向きになるでしょう。

コメント3
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信心獲得すれば、無始よりこのかた迷いの世界で苦しみ続けた私が、次生報土往生するということが平生に決定します。「定んで往生を得と深信」し、間違いなく往生すると疑う余地がなくなります。現生に正定聚の身になれますから、信心獲得すれば大慶喜の心が起こります(正信偈記載の通りです。)。
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これもOHEさんのコメントの通りですが、それにしても喜びとか大慶喜ということにこだわりますね。「大きな喜びの心が起きなければ信心獲得ではない」と思い込んでいる何よりの証拠です。それと、「入正定聚の益を得る」ことと「正定聚の身になったことが実感として知らされる」ことは違います。51段高とびして弥勒菩薩と同じ境地に出られる等と勘違いをしているのかも知れませんがそうではありません。

コメント4は次回に譲ります。コメント5
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信心獲得しても、因果の道理も煩悩具足も全く変わりませんから、上記の苦しみは生涯変わりません。苦しみの人生が幸せな人生にガラリと変わると聞くと、相対の幸福しか知らない私たちは上記の苦しみが解決し、なくなるように誤解してしまいますが、そう誤解してはならないということをいつもねんごろに教えられています。
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「上記の苦しみ」とはお金や物、病気や怪我等のために苦しむことですが、「絶対の幸福」とやらが「どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜び」「最悪の死に直面しても変わらぬ安心、満足の境地」だというのなら、私達が日常煩い悩んでいることなんかヘッチャラなはずですよ。あと、日常の苦しみがやって来ても煩悩即菩提ですぐさま喜びに転じ変わるのだろうとか思っている会員さんも少なくないかと思われます。

ところが、二河白道の譬喩が示す通り、一歩白道に踏み出した後(信後)も、水火二河も白道も、群賊悪獣らも、何も変化しません。後生を阿弥陀さまにおまかせした気楽さ、安心、遇い難い教えに遇えた喜びはありますが、信心以外のことは一般の人々と何らと言っても過言ではないほど変わるところはありません。相変わらず苦しいものは苦しいし、嫌なものは嫌なのです。絶対の幸福なる特別な境地を夢見ている方にはショッキングかもしれませんが、信心獲得とはそんな境地に至る体験ではありません。


長くなりましたので、続きは次回書きたいと思います。

相変わらず都合の悪い質問には答える気がない親鸞会会員

久しぶりに親鸞会会員と思しき名無しさんがコメントしてきましたが、内容がこれです。

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「淳心房」様
このサイトに久しぶりに来てみましたが相変わらず、サイバー空間で遠吠えしているのですね。

>2.三大諍論で高森会長は信心を判定しているが、それは三業で判定していることではないのか言いなさい。

三大諍論は高森先生がされたのではないのですよ。親鸞聖人がされたのをご存じないようですね。浄土真宗の「イロハからやり直したら?
浄土真宗のイロハも知らない者の質問には答えようがないではありませんか。

精神科のA先生がそんな先生なら、なおさらあなたにふさわしいのでは?

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Web上のブログのことを「サイバー空間」とか言っている時点でこの方のお年の程が知られるというものです。私の記事内容が「サイバー空間で遠吠え」というなら、この人の書き込みも「サイバー空間で遠吠え」以外の何者でもありません。相手の事はよく見えるが、自分の事となるとサッパリ分からなくなってしまうようですね。

・真実の自己がハッキリ知らされないと、大悲の願船には乗せて頂けない
・(真実の自己が)ハッキリ知らされるところまで、仏法を聞くことが肝要


高森顕徹会長によればこういうことらしいですから、名無しさんが真実の自己をハッキリ知らされて大悲の願船に乗せて頂くのはまだまだまだまだ、甚だ未来の話でしょう。

それにホームページやブログで書くのが悪いというなら、

浄土真宗親鸞会 公式サイト

で色々書くのも悪いということです。またこんなのとか、こんなのはどうなんだという話です。


さて、都合の悪い質問には答えない親鸞会会員の特性がここにも出ています。一々「法然門下においてなされた三大諍論」と言わねばならないのかと呆れてしまいます。そして3番目の質問は完全無視です。現在、親鸞会に勧誘されて聞き始めたという方もあるかと思いますが、入れ込み様によっては、ひどい例だとこのコメント主のようになってしまいますのでどうか気づいて脱して頂きたいものです。

では、一部ONEさんが答えていますが、名無しさんには言葉を改めて質問を致します。

2.「法然門下においてなされた三大諍論」で高森会長は信心を判定しているが、それは三業で判定していることではないのか言いなさい。
3.淳心房が書いていることを「おかしな教義」と言っているが、具体的にどこがどのようにおかしくて、正しい教義はどうなのか、聖教に基づいて示しなさい。


ロクな返答は期待していませんが、お待ちしています。

仏願の生起・本末は、真実が説かれている、信後のことが書かれている、18願について教えられている『信巻』に説かれています

【お知らせ】平成29年、親鸞会の降誕会について

にて、仏願の生起・本末について触れたところ質問を頂いたのでお答えします。

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「仏願の本」が「阿弥陀仏(法蔵菩薩)が発願し修行されたこと」であるという事を仰っている聖教上の根拠と
「仏願の末」が「五劫思惟、永劫の修行を経て十劫のいにしえに本願が成就し、私にはたらいているということ」であるという事を仰っている聖教上の根拠を教えて頂けないでしょうか?

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親鸞聖人が仏願の生起・本末について教えられている箇所は何箇所かあり、親鸞会でも用いられる根拠では『信文類』至心釈

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。

すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。

です。過去の記憶によりますと、親鸞会の講師試験において、

親鸞聖人が仏願の生起について教えられたお言葉と根拠を示せ。

というような問題があって、その答えが上に挙げたお言葉の内、

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。(教行信証信巻)

だったかと思います。

至心釈のこのお言葉は、灘本愛慈師によりますと

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

というのが仏願の「生起」、

ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。

というのが仏願の「本」、

如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。

等というのが仏願の「末」であるとお示しです。


同様に『信文類』信楽釈

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。

『信文類』欲生釈

しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。

も、仏願の生起・本末について教えられています。いずれもいずれも、迷界を出ることのできない私どものために(生起)、大悲の誓願を起こして永劫に修行せられ(本)、遂に十劫のいにしえに果成の阿弥陀仏となって、現に私どもを救いつつある(末)、ということです。


ちなみに大江山さんが仰っているように、

仏願の生起・本末」=「其名号」=「十七願の名号」

です。無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを聞く、すなわち南無阿弥陀仏のいわれを聞くのであって、19願や20願のことを聞くのではありません。親鸞会でも

・『教行信証』前五巻には真実が、化土巻には方便が説かれている
・『教行信証』前五巻は信後のことが、化土巻は信前のことが書かれている


などと言うでしょう。では

仏願の生起・本末が説かれているのは何巻ですか?

と質問してみては如何でしょうか? そうです、真実が説かれている、信後のことが書かれている、18願について教えられている『信巻』です。方便であり、信前である19願や20願は関係ないでしょう? また、逆に

高森会長以外で、『仏願の生起・本末の「」が19願20願のことだ』なんてどの真宗学者が言っているんですか?

と聞いてみるのもいいかも知れません。それにしても、『教行証文類』すらまともに読んでいない高森会長や会員に、「一切経全てを読んだこともないのになぜ断言できるのか?」なんて言われたくないですけどね。

親鸞会会員にとっては「高森会長の言葉」が絶対であり、それ以外は忌み嫌う傾向にありますので対話は難しいかとは思いますが、その難しいことに挑戦されていることに感服いたします。分かって頂けたらいいですね。

最後に、コメントを下さったはるばるさん、大江山さん、ありがとうございました。


【参照】
『安心論題』(1)聞信義相

教えが正しいかどうかを計るものさしの一つが「本願力回向」、また「只今の救い」

今回は名無し様より以下のコメントを頂いたので、それにお答えしたいと思います。

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テレビ、新聞を読まれて感じられるように偽りを述べても、そのまま通り過ぎてしまう今の世の中です。「浄土真宗の教えを正しく伝えてます。」と世間に述べてはいても、実は間違いだらけで、間違いに気がついたとしても平気な顔で反省のかけらもありません。浄土真宗では、正しい教えを聞かないと真実の信心を獲ることは難しいと思います。ようするに、今の世は、自分も含め嘘をついても、あまり罪とは思わない汚れた世界ということです。感情に流されず、みんなが有難がっているからといって、その教えが正しいと思ってはならないということです。とかく私たちは、みんなが正しいことだというと、そのことを信じてしまう癖があるように思います。それで、後で違うと知り驚くのです。また、今日、詐欺など人をだます技術が向上しています。うまく感情に入り、だまします。いったん騙されると、正しいことがわからなくなります。逆に正しいことが、間違いのように思ってしまいます。いくら正しいことを分別しようとしても手遅れです。ですから、感情で信じてしまう前に、私たちは、幸い、字も読めますし、インターネットの普及している時代なので、自分で確認する作業をすることもできます。例えば、「阿弥陀さまは功徳を積んで、まとめて与えるのではない。ひとりひとりを背負って、親が背負った子供にみかんをひとつ剝いてはホイ、ひとつ剝いてはホイ、と少しずつ与えるように功徳を我々ひとりひとりの上に積み上げてゆかれた」という内容も、「本当にそうですか。」と言いたいのです。偉い先生が根拠のような文をだされて、「ハイ」間違いないと簡単に思っていいのかということです。少しは、「短命の機の衆生を阿弥陀様はなぜ小出しに救おうとなさされるのか」と疑問を持ち、自分で御聖教で確認することが必要です。今、非難されている団体に入ってしまうようなことを二度と繰り返すことのないようにしていただきたいと思います。
*********************


仰りたいことは伝わってきました。この世はつくづく嘘で塗り固められた世界です。騙し合い、化かし合いばかりで、真実は一つもありません。また、様々な人々の欲望がひしめき合い、それがぶつかって地獄の鬼も真っ青の惨劇が毎日のように報じられています。そのようなことを見聞きするにつけ、実に醜く穢れ切った世の中であると感じます。そして自分もその醜く穢れ切った一人だというのが悲しいです。もう本当に生きてゆくこと自体がイヤになることもあります。

そんな世の中を生きているのですから、疑心暗鬼に陥るのは当然です。親鸞聖人の教えについてもそうで、その人の説く教えが正しい浄土真宗の教えなのかどうか、それを自分でよく考えて見極めることは大切なことです。私もそれで痛い目を見ていますから、そのことについては同感です。

親鸞会や、親鸞会から派生した団体など、本物でない浄土真宗の団体が少なくない中、では何を基準として我々は教えが正しい浄土真宗なのかどうかを判断したらよいのでしょうか? 色々ものさしはあるでしょうが、私はその人が「本願力回向」、「只今の救い」を説いているかどうかをものさしとしたらよいと思います。

往生・獲信に関して善を勧める団体は、本願力回向を真っ向から否定していますから本当の親鸞聖人の教えではありません。また、話を聞き続けて「救いが遠い先のように感じる」「死ぬまでに何とか救われたらよい方だ」としか思えないならそれもまた即得往生住不退転の道理に反しますので、間違っている公算が大きいです。私達が往生成仏する因も果も全て阿弥陀仏が恵み与えて下さるものであり、仏願の生起・本末、南無阿弥陀仏のいわれを疑いなく聞き受けた只今往生定まる身となることを教えている方(本や音源などでも可)からお聞きするのがよいでしょう。


ところで、「阿弥陀さまは功徳を積んで、まとめて与えるのではない。ひとりひとりを背負って、親が背負った子供にみかんをひとつ剝いてはホイ、ひとつ剝いてはホイ、と少しずつ与えるように功徳を我々ひとりひとりの上に積み上げてゆかれた」というお話についてですが、これは恐らく法蔵菩薩の不可思議の兆載永劫における御修行の過程を譬えを用いて表現されているのだと思います。我々のような悪人が往生成仏するのにはこのような阿弥陀さまの、衆生かわいい、衆生を助けるためならどんな苦労も厭わぬという並々ならぬ御心労があってのことなんだということがよく伝わってくるではありませんか。

このお話を聞いて、名無し様は「短命の機の衆生を阿弥陀様はなぜ小出しに救おうとなされるのか」と疑問に思っておられるのかも知れませんが、そうではありません。一善積んでは私のため、一行励んでは私のためと、兆載永劫の長きに亘り積まれた功徳の総体、すなわち南無阿弥陀仏は既に成就していますから、そのいわれを疑いなく聞き受けたならばその時往生定まる身となります。

要はどこに重きを置くかによって話が異なるということです。阿弥陀さまの御修行の御苦労は先ほどのみかんの譬えで私は改めてよく分からせてもらいました。一方、「短命の機の衆生を救う」ということに重点を置くとなるとまた違ってきます。既に成就されているなんまんだぶに後生おまかせするだけだから、今日聞いて今日救われる、今聞いて今救われる、このなんまんだぶの謂れを只今聞いて只今救われて下さいというような話になるでしょう。

法は聞く者によって全く受け取り方が異なります。きっと私のような受け取り方をするような方もあれば、おとぎ話のようにしか思えないという方、疑いの目で見る方、デタラメだと謗る方、色々いらっしゃると思います。偉い先生が説くことだから本物だと頭から決めてかかるのは良くない、きちんと自分で正しいかどうか見極めなければという姿勢は、それはそれでいいです。ただ、話の中の一部を切り取って「ここが矛盾する」と細かくケチをつけるようなことをしないで頂きたいと思うのです。譬えなので合わない部分も当然出てきます。その譬えが何を表さんとしているのかを知るのが大事です。


最後に、阿弥陀仏の救いに関して私達の思慮分別は要らないというか邪魔ですから取っ払わねばなりません。この思慮分別、虚妄分別が邪魔をして本願力回向を撥ね付けておるのです。私達の分別智をもって如来の無分別智は到底理解できませんし受け容れることはできません。「本願力回向」、「只今の救い」を説いている知識から、また本や音源でも構いませんが、我々の小賢しい詮索や先入観を入れずに本願の仰せ、なんまんだぶを素直に聞いて念仏して頂きたいと思います。

『18願は「浄土に生まれたい人(善がしたい人)」の為に誓われた願』『18願の十方衆生は「善がしたくてしたくて仕方ない人」』なのか?

昨日の記事に、通りすがりさん、jakenさん、一言さん、元会員さんからコメントを頂きました。随分と白熱した論議となっていますが、元々は通りすがりさんの以下のコメントが発端のようです。

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では、なぜ18願に善の勧めがないのでしょう?
18願は「浄土に生まれたい人(善がしたい人)」の為に誓われた願だからですよ。

善がしたくてしたくて仕方ない人に「善をしなさい」と勧める必要がないですからね。
善がしたいのでなく、「早く極楽(欲楽)に生まれて楽がしたい(化土に生まれたい)」と思ってるそこら中の人達には19願が必要でしょう。

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何を根拠にこのようなことを仰っているのか、全くもって意味不明です。通りすがりさんの説だと、

18願の十方衆生=「浄土に生まれたい人(善がしたい人)」
           =「善がしたくてしたくて仕方ない人」

19願の十方衆生=「早く極楽(欲楽)に生まれて楽がしたい(化土に生まれたい)と思ってる人」


ということですが、18願の十方衆生は善がしたくてしたくて仕方ない人だと教えられているでしょうか?

・自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。(信文類引文)

・一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。(信文類)

・一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。(信文類)

・「大無量寿経言」といふは、如来の四十八願を説きたまへる経なり。「設我得仏」といふは、もしわれ仏を得たらんときといふ御ことばなり。「十方衆生」といふは、十方のよろづの衆生といふなり。
「至心信楽」といふは、「至心」は真実と申すなり、真実と申すは如来の御ちかひの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし、濁悪邪見のゆゑなり。
(中略)
「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。 (尊号真像銘文)

・そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。(唯信鈔)

・これにつけても阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。(『御文章』4帖目3通)

・阿弥陀如来の仰せられけるやうは、「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、罪はいかほどふかくとも、われを一心にたのまん衆生をば、かならずすくふべし」と仰せられたり。(『御文章』4帖目9通)


親鸞聖人や蓮如上人方のお言葉を拝見するに、

十方衆生は煩悩に穢れて清浄の心が無く、嘘偽りばかりで真実の心が無い。我々の罪業は重く、善心が煩悩に穢されて悪の心が止まず、善根は薄く少なくしてこの迷いの世界を出ることができない

と仰っています。「善がしたくてしたくて仕方ない人」だとかいう意味とは正反対です。善をしようと思っても煩悩によって善心が汚れ、悪の止まない者だとの懺悔がどなたのお言葉にも表れています。


また、19願の十方衆生の定義も親鸞会張りに逸脱しています。

『大無量寿経』19願の「十方衆生」
=『平等覚経』18願の「諸佛國人民有作菩薩道者」
=『大阿弥陀経』7願の「八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道」
=諸々の仏国土の菩薩の行を行う者


ですから、善がしたくてしたくて仕方ない人という言い方は変ですが、こんな人はどちらかというと19願の十方衆生の方が近いですね。今回は19願はあまり関係がないのでこの辺で。


通りすがりさんには、親鸞聖人や蓮如上人、ほか高僧知識方が『18願は「浄土に生まれたい人(善がしたい人)」の為に誓われた願』『18願の十方衆生は「善がしたくてしたくて仕方ない人」』だと教えられた根拠の提示を求めます。根拠がなければ親鸞聖人の教えとして成立しませんのでご了承下さい。

「自分の意思」というのは自力でしょうか。それとも他力でしょうか。また、20願を離れるのも自分の意思でしょうか。(頂いた質問)

19願からは、自分の意思で、あるいは教えてもらうことで離れることができます

の記事に質問を頂きましたので、お答えしていきたいと思います。

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「自分の意思」というのは自力でしょうか。それとも他力でしょうか。
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まずその前に自力、他力という言葉の意味をご理解下さい。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。(親鸞聖人御消息)

【現代語訳】
まず自力ということは、行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからい心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土の往生しようと思うことを自力というのです。また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。『飛雲』行者のはからひは自力なれば義といふなりより)

このようなことですから、「自分の意思」そのものは自力でも他力でもありません。「自分の意思」であれこれ計らい方法論を実践して浄土へ往生しようと思うならそれは自力といい、「自分の意思」を入れずに如来の仰せをそのままお受けするなら他力といいます。あくまで成仏、往生、獲信といったことに関して自力とか他力と言いますのでご承知おき下さい。

「19願を捨てるのは阿弥陀仏の本願力によってではないのか」という質問ではないかと思いますが、聖道門と浄土門を自分の意思で、あるいは教えられて選ぶのと同じように、願の上では18願と19願を自分の意思で、あるいは教えられて選ぶのです。私には、19願を捨てる捨てないに関して阿弥陀仏の本願力がどのように作用するのかは全く見当もつきません。ただ、自力の心と違って、雑行・雑修の行を捨てるのですから、実践してできないことを知らされずとも自分の意思で捨てられる、ということを言いたかったのです。まぁ元々19願をやろうともしていなければ、捨てるも何もないし、捨てようという「自分の意思」も存在しないのですがね。


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また、20願を離れるのも自分の意思でしょうか。
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これについては複雑ですね。20願と18願とでは、行は同じ選択本願の念仏、信が自力か他力かの違いということです。他力を聞くところに自力は廃るのですから、20願の行者が18願に転入するのは自分の意思ではなく、如来の願力です。
ただ、これは信前の者をみな20願の行者と捉えるかどうかの問題でして、もし捉えないなら20願は結論として浄土真宗では勧められませんので入るも離れるもありません。

20願については親鸞聖人は多く触れられていますが、七高僧方や覚如上人、存覚上人、蓮如上人は、不勉強のため誠に恐縮なのですが、具体的に20願を出して触れられている箇所が見つかりません。『化身土文類』の20願の根拠として祖師が挙げられているものは、それぞれの高僧知識方が20願を仰ったものなのかどうか特定ができないのです。どなたか七高僧方や覚如上人、存覚上人、蓮如上人の20願についての記述をご存じの方は根拠をお知らせ下さい。

話を元に戻して、もし私達を20願の行者と捉えないならば、先ほどと同様に20願から離れようという「自分の意思」はそもそも存在しません。


親鸞会では獲信までのプロセスとしてすべての人は19願から始めなければならないと教え、19願に執拗にこだわります。そして、19願が廃るのは自力一杯19願を実践して善のカケラもできない自分だったと知らされてからだというのです。それで私は、そのこだわっている人に

「19願では報土往生はできないから捨てなさい」
「親鸞聖人の教えには19願を実践せよという説示はありません」
「19願を捨てるのは自分の意思で、あるいは教えてもらうことでできます」
「19願の実践をする必要なく19願から離れられます」


と申し上げているだけです。そこをご理解下さい。

19願の先に20願があり、20願の先に18願があり、行はどうかとしても心の道程としては19願→20願→18願と進むという親鸞会の考えがもしおありでしたら、それはお捨てになった方がよろしいと思います。もしそんな考えがなければ結構です。


【補足】
林遊@なんまんだぶ様よりコメントを頂きました。ありがとうございました。

他力という言葉が、他者依存のような意味で用いられているが、本来の他力という言葉の意味は、一方的に衆生を救済するという阿弥陀如来の利他力を仏の側から表現した言葉である。

と教えて頂きました。詳しくは、コメントにあるリンク先をお読み頂ければと思います。

末代の我々が救われる阿弥陀仏の第十八願の教法を、この地球上で最初にお説きになられたのはお釈迦様です

今回も、ひろちゃんから頂いたコメントについてお答えします。

********************
親鸞聖人は「往生浄土のために」善を勧められなかったと教えていただきました。
ということは、「最終的に仏になるために」善を勧められなかった、としても良いでしょうか。
すると、仏になるために善をせよ、というお釈迦様の教えを否定することになりますから、親鸞聖人の教えは仏教とは言えないと思います。それともお釈迦様の教えは、この世を生きていく上で善をせよ、と教えられた単なる倫理道徳の教えだったのでしょうか。そうは思えません。
お釈迦様の説かれた八万四千の法門のほとんどが仏になるために善をせよ、という教えなのに、そのほとんどの教えを否定しておられる親鸞聖人のみ教えは仏教ではなく、どう考えても親鸞教に思えます。お釈迦様の教えのごく一部である阿弥陀仏の本願を親鸞聖人が説かれたから仏教というなら、イスラム教も旧約聖書を使っているからキリスト教だということになってしまいます。ですからごく一部が一致しただけで仏教というのは無理があるのではないでしょうか。
やはり仏教という以上は、お釈迦様の説かれた教えの大部分と一貫していないと無理があるように思います。もし親鸞聖人が善を勧められたのなら仏教と言えますが、親鸞聖人の教えに善の勧めは全くないのですから、とても仏教とは言えないと思います。
お釈迦様は正法の時代の厳しい善が出来る人が相手であり、親鸞聖人の教えは末法の善のできない人を相手にした教えとなれば、時代も相手も仏になる方法も全く違う教えなので、それを同じ宗教と言えるのでしょうか。
お釈迦様の説かれた仏教は、現在の末法の世では役に立たず、親鸞聖人の説かれた教えだけがこの世を照らしています。
私は仏教では救われませんでした。親鸞聖人のみ教えによって初めて救われました。

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要は、聖者や善人に向けて説かれた教えと、悪人に向けて説かれた教えが違うということです。対機説法、応病与薬という言葉はご存じかと思いますが、仏様は優れた医者の如く、それぞれの病に応じて薬を与える如くそれぞれの相手に最もふさわしい法(教え)を説かれた方だったのです。それが、

薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。(持名鈔)

のお言葉で分かるかと思います。聖道門は釈尊在世時および正法の時機相応の教えであって、末法の私達は救われない教えです。釈尊は時の経過と共に説かれた法が衰退していくことを察知され、聖道門の教えとは別に末代の我々が救われる阿弥陀仏の本願をお説きになられたわけです。

親鸞聖人は、「最終的に仏になるために」善を勧められなかった、と理解して構いません。では何を勧められたかと言うと、先のお言葉にもあるように、ひろちゃんが日々称えていらっしゃるであろう念仏です。なぜなら、

そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 (歎異抄第二条)

とあるように、念仏以外の諸行諸善に励んで仏になれる身ならよいが、いずれの行も修しがたく成仏の道が絶たれてしまっている親鸞であるからだというのです。親鸞聖人は法然聖人の教えを承けて念仏一つ私達にお勧めになりました。

念仏には、本当は私達がやらねばならない往生成仏のための万善万行恒沙の功徳を阿弥陀さまが代わって修められています。私達はこの念仏を回向されて救われるのです。私達が日々何となく称えている念仏には、阿弥陀仏が五劫という間思惟され、兆載永劫の御修行をされた、それひとえにこの私を往生成仏させるためだったという阿弥陀仏の願いと行とが納まっています。それを我々に最初にお説きになられたのはお釈迦様ですから、この第十八願の教法を仏教と言わずして何と言うでしょうか? お釈迦様がこのように明らかにして下さらなかったら、歴代の善知識も明らかにされなかったでしょう。そうであれば、親鸞聖人まで本願念仏の教えが届くことはありませんでした。もし親鸞聖人が明らかにして下さらなかったらこの淳心房も教えを聞いて念仏する身になれなかったでしょうし、ひろちゃんも同様です。元を辿ればお釈迦様がこの地球上で最初にお説きになられた方ですから、ひろちゃんの思いも分からないこともありませんが、やはりお釈迦様の御恩というものを忘れてはなりません。

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。(歎異抄第二条)

のお言葉を、よくよくお味わい下さい。


ところで、以前にひろちゃんはこのようにコメント下さいましたね。

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世間まみれだった私に、信心決定することがいかに大切かを教えてくれましたのは、親鸞会でした。その親鸞会の高森先生にはご恩を感じる必要はないのでしょうか。
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もし高森顕徹会長に恩を感じているようなら、それよりももっともっと大きな御恩をお釈迦様に感じて頂きたいものです。お釈迦様なかりせば知りえなかった阿弥陀仏の本願念仏の教えです。



【お知らせ】
昨日の記事で、高森会長及び親鸞会上層部の人間が廃悪修善をまともに実践しているとは言い難い事例(教義面)に関して、以下の内容を加筆しましたことを、皆様にお知らせいたします。

・過去の法論では頑なに自説を曲げなかったのに、後になってしれっとそれまでの主張を修正してくる。若不生者の「生」の解釈が典型例。㈱チューリップ企画と田中一憲の法論はまさに勝他のための議論。

私は退会直前までこの法論を見たことはありませんでしたが、退会直前にこの法論を見て、親鸞会側のあまりに酷い応対に憤りを感じたことを覚えています。本文だけでなく、長いですがコメント欄も目を通して頂ければ、親鸞会側の誤りがより顕著に分かるかと思います。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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