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観経安心が勧められているならまだマシで、実態は「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という高森教安心に陥っている親鸞会会員

前の記事にa様からコメントを頂きました。ありがとうございました。

結局、観経安心をすすめているようですね。
大経の解釈はほとんどなかったようです。

このあたりが、親鸞会の限界なのだとおもいます。


まず「観経安心」とは、

第十九願の至心発願の誓いによって、万善諸行の自善を回向して浄土に往生しようと願い求める信心

ということでよろしいでしょうか? 検索してもヒットしなかったもので、『三経往生文類』

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。

を参考にしました。違っていたら「観経安心」とはこうだという定義を与えて下さい。とりあえず、上の定義の元で話を進めていきます。


これなら、親鸞会はまだマシです。会員は「観経安心」とも違います。以下、3つの理由を挙げて説明します。

1.目指すべき目的がズレている
まず、「観経安心」の人の目的は浄土往生です。しかし親鸞会の会員は、おそらく目的からしてズレています。

会員の多くは、人生の目的である「絶対の幸福」(※あくまでも高森会長の定義です)になることが望みであり、浄土往生は勿論、成仏、還相は「絶対の幸福」のオマケ程度に考えているのではないかと思うのです。

一、われら親鸞学徒は、人生の究極の目的は、絶対の幸福を獲るにあり、絶対の幸福は、真実の宗教を信じることによってのみ獲得できることを信じます。

親鸞学徒信条の第一にはこのようにあります。

親鸞会では真実信心を「絶対の幸福」に救われたことであるとして、この世を「絶対の幸福」に救われない者は後生も助からない、つまり浄土往生のしるしは「絶対の幸福」に救われたことだと理解している節があります。この世を「絶対の幸福」に救われさえすれば浄土往生は確定なのだから、とにかく「絶対の幸福」になるのが大事、それには高森先生から真剣に聴聞させて頂く以外にはないと考える会員が大半ではないでしょうか。

もしこれを読んでいる会員の方がありましたら、胸に手を当てて考えてみて下さい。皆さんが求めているのは「絶対の幸福」? それとも浄土往生、成仏?

ちなみに私が会員だった頃は「絶対の幸福」でした。この世は苦しみ悩みに満ちており、何とかそれを解決して「人間に生まれてよかった」と心底喜べる境地に出たい、「絶対の幸福」になりたい、こればかりでした。それは米と藁では藁だと教えられても、やはり解決したい第一はこの世の苦しみで、「絶対の幸福」になることがイコール後生の一大事の解決になるのだからと、幻想的な幸福を求めていました。

勿論中には、「私は後生の一大事の解決を目的にしている」という人もあるかも知れません。しかし、そういう方が解決しようと思っている「後生の一大事」というのは「無間地獄に堕ちる一大事」であって、無間地獄から逃れることが目的なのではないでしょうか? 浄土往生を願ってのことではないのではないでしょうか?

親鸞会では度重なる批判に対応するようにしばしば「浄土往生」という語を用いるようになりましたが、会員の多くは「絶対の幸福」、あるいは「無間地獄に堕ちる一大事」からの脱却が目的ではないかと思われます。浄土真宗は、その名の通り往生浄土を宗とする教えです。ですから、浄土往生が目的となっていない会員は「観経安心」以前の問題になります。


2.善をする目的がズレている
次に、「観経安心」の人は浄土に往生したいと願い、そのために諸善万行を修めてその善を阿弥陀仏に回向します。ですから、少しでも浄土往生に足る善根功徳を積もう、阿弥陀仏の来迎にかなう善人になろうと懸命になります。ところが、親鸞会会員が善をするのは、

一つの善もできない極悪人だと知らされる

ためでしょう。心の底では「善ができる」と自惚れており、その邪見驕慢を打ち砕くための善巧方便が親鸞会の「善の勧め」だと勘違いしている会員ばかりだと思いますが、そんな心がけですからあまり懸命にはなれません。なので会では無常と罪悪の鞭でせめたてて会員を活動に駆り立てるのですが、そもそも善をやっているのに「善ができない」と知らされることはありません。「その程度の善ではとうてい浄土往生は無理」と知らされることはあっても、「一つの善もできない極悪人だと知らされる」ことはありません。

なお会員はこう知らされたのを「機の深信」だとこれまた勘違いしているようですが、「機の深信」の内容はこれとは異なるので、会員はいくら善に励んでも救われることも救いに近づくこともありません。


3.勧められる善が善と呼べない代物
そして、「観経安心」の人は諸善万行を修める人ですが、親鸞会の会員はどうでしょう。度々書いていますが、高森会長や親鸞会が「やりなさい」と勧めている善とは主に

・高森顕徹会長の話を自力で命がけで聞くこと
・親鸞会に人を勧誘し、会員(学徒)にすること
・親鸞会に財施すること
・高森会長や上司の指示に無条件で従うこと


を中心とする「高森の行」、いわゆる組織拡大活動、善でも行でもない悪業悪行です。尤も、お勤めや親切、親孝行なども勧められないわけではありませんが、メインは上記の項目でしょう。こんなものが浄土往生に相応しい善行であるはずがありません。


以上のように、親鸞会の会員は「観経安心」とも異なります。ではどんな安心かと言ったら

「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」という高森教安心

とでも言うべきでしょう。最近は論破されすぎて「高森先生はそんなことは言っていない」と退会者を批判することしかできない高森教信者ですが、それほどまでに「誰が何と言おうと高森先生に間違いない」と信じ込んでいるのです。公開法論を申し込まれながら逃げに逃げまくっている、その事実を会員にはひた隠しに隠し続けている、そんな人物をそのように信じ込んでいるのです。傍からみたら新興宗教の教祖を信じる信者と何一つ変わらないのですが、本人さん方は唯一無二の善知識だと信じ込んでいるのです。実に哀れです。

聞くべき南無阿弥陀仏の六字のこころは説かれず、雑行(実態は悪業悪行)を勧められているのに、会員が信心も安心もあるわけがありません。会員の皆さんが一日も早く高森教のデタラメ創作教義に気付き、これをふり捨てて浄土真宗の安心におもむかれることを願ってやみません。
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【コメント返信】「わかりません」さんへのコメント返信

今回は、「わかりません」さんへのコメント返信です。なお、秘密コメントで書かれているので、記事としては一部を引用してそれに応える形式にしました。枠の中が「わかりません」さんのご意見です。


如来の仰せとして「正しい」とか「間違っている」というのは身の丈にあわない問題なので、そのような観点からの判断はできません。


私も、私自身の智慧や理解能力では如来の仰せがどのようなものであるかは皆目分かりません。分かりませんから、経典を始め、それを解釈された菩薩の論や高僧の釈、親鸞聖人の釈を通して如来の仰せを知らせて頂いているわけです。その経論釈の上では、どのお言葉を取ってみても

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っている

としか書かれていません。十八願の「乃至十念」に始まって、高僧方の本願文の解釈にも、親鸞聖人の本願文の解釈にも、全て「念仏を称える者を往生させる」本願だと教えられています。A先生が重視する本願成就文にも念仏の意があると親鸞聖人も存覚上人も仰っています。

阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない

ということがただの一つも言われていない、それどころか逆の事ばかり説かれている。この事実を基に、私は、このように教えることは仏説、師説に反すると主張しているのです。


ところで、私も、「我にまかせよ」に関しては問題視していません。問題視しているのは

阿弥陀仏の仰せは「我にまかせよ」であって「念仏を称えよ」ではない

と、信心と行とを対立関係で説いていること、そして念仏を本願から抜いてしまっていることです。また、A先生の説明では、行は信心の必然と言えば聞こえはいいけれども、要するに念仏は信心の後という位置づけです。これでは『教信行証』となってしまいますが、そうではありません。信は行についての信であり、信に先立つものが行であるから、『教行信証』も行、信の次第で説かれているのです。

それと我々はよく『教行信証』と言い慣わしていますが、正確には『顕浄土真実教行証文類』です。仏教である限りは教行証です。真実の行によってさとりを開く。その真実の行は、当然我々の上に現れる行いでなければなりません。それが本願の念仏であり、法然聖人の明らかにされた選択本願の行であると顕かにされたのが「行文類」です。真実の行には当然真実の信が具足していますが、それを開いて顕かにされたのが「信文類」です。行と信は分けて説かれてはありますが、別々の二つのことではありません。それゆえ、信行一念章には

 四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
 これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。


と教えられています。この手紙を頂いた高田の覚信房はおそらく『教行証文類』を読んでいたのだと思います。それで親鸞聖人に質問し、それに対して答えられたのがこのお手紙なのでしょう。ここには行と信を分けるようなことも、信が先で行が後だというようなことも書かれてはいません。


「念仏を称えよとは言われていない」については、信一念時の大悲領解を勧め、自力をまったく必要としない無条件の救いである事を教え勧める表現として理解できます。


かなりA先生に対してひいき目なご意見ですね。尤もかく言う私も当初はそのように理解しようとしていました。しかしですね、そんな表現をしている善知識方は勿論、和上様方の中にも、このような表現をして説いている方を私は知らないんです。わかりませんさんはご存知ですか?

それと、阿弥陀仏が往生の条件として信心と念仏をご指定なんです。また、信心といっても念仏を称える際の信心のことを真宗では問題にしているのです。それは勿論本願力によって回向せられる行信で、我々が用意するものではないのですが、信も行も共に南無阿弥陀仏を心に領受し、口に称えるのであって、片方を取って片方を捨てるというようなものではありません。念仏を称える際の自力心を誡めるなら話は分かりますが、念仏自体を本願から抜いてしまうような発言は私としては看過できないのです。

ましてや、そのように発言している根拠が「行文類」親鸞聖人の六字釈であるとか、『教行証文類』以外の都合の悪い御文は法然聖人の教えだなどと発言していることを聞いてからは、その独善的な聖教の解釈を受け容れることはできなくなりました。


「念仏を勧めている」だけでは大悲が現れているとは言えないように思われます。


なので私は、「本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れて」等と信心を一具にした念仏の勧めを書いているつもりです。現今の真宗の主流は空華だからなのか、信心については語っても、行を語る布教使の方は少数派な感が否めません。念仏は本願の行であって、一声一声如来から頂いている往生の正定業なのだから専らこれを行じなさいと聖人のお勧め通り説く方には滅多にお目にかかれません。

信なき行は凡夫の不安な叫びですが、同じように、行なき信は観念の遊戯であると思います。信因称報説に立って話をされることは結構ですが、私達が称えるべき念仏を「称えよと仰っていない」はありません。明らかに聖教に反する主張なのですから、私は忖度はせずに間違いだと言っていきます。



以上です。なお、わかりませんさんはA先生の熱烈な信奉者というわけではありません。

(A先生の)念仏往生や平成業成の理解は通常の理解とは異なっていると思いますし、法然聖人の本願念仏集をより詳細に組み立て直したのが教行信証ではあっても両者に思想上の違いがあるとか、能信が同じだが所信が異なるというのは理解出来ません。


このようにも仰っていることを、最後に申し伝えておきます。

親鸞聖人が19願を勧めている根拠は何ですか?

親鸞会の人間が親鸞会流「三願転入の教え」をことごとく論破され、負け犬の遠吠えのように言っているのが

阿弥陀仏の19願と釈尊の説かれた善の勧めは無駄であったと言うのか

という類の言説です。自分は火星人ではないと必死で否定している人物もその一人です。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
釈迦の教えは廃悪修善の教えであり、それ以外はありません。そして最後に結論として大無量寿経に導きました。一切経は対機説法だと言いますが、何故45年間弥陀の本願一つを説かなくて善の勧めを説いて来たのですか?釈迦のお弟子さんは弥陀の本願を聞く耳がなかったからですか?おかしいですよね。最初から弥陀の本願と念仏を説き続けていれば、念仏で救われる人も沢山いたし、迷う人も無かった筈ですよね。善を説く必要も無かった筈ですよね。
2019-03-11(21:40) : ルパン
(全文はこちら
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これについては既に『飛雲』雑行の意味も知らない喜劇の主役に扱われていますので引用します。

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 ならば阿弥陀仏の19願と釈尊の説かれた善の勧めは無駄であったと言うのか

と歴代の善知識方をおろそかに思い、そして謗る謗法の輩がいますので、親鸞聖人はそれに対する答えも用意されているのです。それが先程の化土巻・雑行釈の次にあるお言葉です。

これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。

雑行(浄土の方便の善、19願、定散二善)に励んでも化土往生しかできないが、そんな雑行を説かれたのは、欣慕のためである、ということです。

同じことを『教行信証』化土巻・隠顕釈に、

しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と教えられています。
雑行(浄土の方便の善、19願、定散二善)は、欣慕浄土の善根なのです。つまり、浄土を願っていない聖道門の人に、浄土を願わせるためのものである、ということです。

また『三経往生文類』にも、

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。

とやはり同じことを仰っています。

これと以前から紹介している「他の方便なし」というお言葉

『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

『高僧和讃』源信讃

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ


『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

は、完全に筋が通るのです。
善人である聖道門の人には、浄土の方便の善である19願、定散二善が欣慕浄土のために必要ですが、極重の悪人には19願、定散二善という方便は必要ないのです。

これらのことは1年前のmixi上の法論でsutybi氏、EMS氏によって説明され、高森会長が一撃でダウンしたものでした。

高森会長は、半世紀の間、無二の善知識を演じてきましたが、すでに幕は下りています。今後は、雑行の意味も知らない喜劇の主役として観客を大いに笑わせて下さい。

~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

これは今から約8年前の記事ですが、それ以前に既に親鸞会は大敗を喫していることが分かります。どうにも反論できなくなった親鸞会側が、その後mixiのトピックごと削除するという暴挙に出たことは有名な話です。


問題なのは、「釈迦の教えは廃悪修善の教え」であるという、親鸞聖人が方便の教説だと教えられているその教えを私達が実践しなければならないかどうか。ここですね。

もし、親鸞会流「三願転入の教え」が正しくて、それが親鸞聖人の教えだというのなら、親鸞聖人は至るところに19願を勧めているはずです。いや、勧めていなければなりません。そうしなければ、蟻一匹救われないというのですから。しかし、19願を勧めている根拠が無いのなら、それは親鸞聖人の教え、勧めではありません。

それで再三再四「親鸞聖人が19願を勧めている根拠は何ですか?」と尋ねているのですが、一向に的を射た回答を得ることができません。親鸞会で仕入れた知識と自説を主張するばかりで、ようやく答えたのが

願成就文を根拠として三願転入の教えだと言っているのです。

だとかいう珍答です。念仏往生(18願)の機受の極要を教えられた本願成就文

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く

のお言葉のどこが19願を勧めているというのか、全くもって意味不明です。後のコメントにあるように、

願成就文→自分がした体験
三願転入→高森会長が勧める行の実践


脳内変換し、「自分がした体験」を根拠に、「高森会長の教えに間違いはなかった!」と言いたいだけなのでしょう。このように高森教と自分の体験が根拠であり、聖教に基づいた議論ができませんから、飛雲さんに相手にされないのは当たり前の当たり前のことです。「逃げられた」のではなく、全く話が通じないので時間の無駄だと判断されただけです。


私も、相手が高森顕徹会長や親鸞会の講師部員であるなら聖教に基づいてトコトン議論したいところですが、所詮は高森教を根拠に自分の体験が正しいと言いたいだけ、高森教は利用しているに過ぎない人物のために時間と労力を使いたくありません。なので、

親鸞聖人が19願を勧めている根拠は何ですか?

の質問に的確な根拠をもって応答して頂けるなら議論は続けます。高森教と自説に固執するのみで、聖教に基づいて議論しないなら火星人と同様に対処しますので、ご承知おき下さい。

宅配の仕事の現実と、苦悩の私達の現実

今回は、この記事に頂いた名無しさんのコメントにお返事したいと思います。繁忙期の宅配の仕事の現実を知って頂くいい機会にもなるかと思います。



> 手段は、いろいろあると思いますよ。宅急便には受取人の電話番号が書かれていると思います。だから、そこに片っ端からかければ良いのです。

⇒言ってくると思いました。確かに一つの手段です。しかし運転しながら電話をかけるわけにはいきませんから、車を停めて電話をかけてゆくしかありません。そんなことをやっている間に午前中は終わってしまいます。それでは、結果的に午前中回れずに迷惑をかけてしまうお客さんが増えてしまうのではないですか? また、午前中の荷物だけ持っているのではなくて、別の時間帯の荷物もあれば、当日指定の荷物、指定なしの荷物も大量に抱えているのです。電話がけで時間が押して、それらが捌き切れず翌日持ち越しになれば、またそれだけ多くのお客さんに迷惑をかけてしまうのではありませんか?

それに、こちらの事情を理解して素直に変更してくれる優しいお客さんばかりではありません。どうしても今日の午前中だとごねるケースが少なくなく、運が悪いと何分、何十分とその一人の人につかまってしまうのです。その間に5人、6人に配りに行けたものを、その時間を無駄に潰してしまう結果になります。

ちなみに私はボランティアではないので、早出してサービス残業する気は更々ありません。また、人員が十分に揃っていれば解決できる課題は多いです。大分見直され、社会のメスが入れ始められた物流業界ですが、まだまだ戦力は十分ではないし、せっかく入ってきても途中でバックレたり、辞めたりしていく人も多くて、私が最悪だと思った2016年の年末よりはマシになったかなという印象しかないです。限られた人数、限られた時間の中で大量の荷物を扱わなければならないところに、繁忙期の難しさがあるのです。


> それを怠っているのは、受け身であり、他者依存だと思います。

⇒本気でそう思うなら、試しに繁忙期の宅配やってみますか? こちらは一人でも戦力がほしいので大歓迎ですよ、まぁ役に立てばね(笑) 途中でバックレたり辞めたりする人は要りません。


> また、決められた通りに届けられなく、かつ、自分で良い方法を見つけられなければ、それは組織的な問題なので、どのように対応すべきかを相談すべきです。

⇒私がヤバいという場合は、周囲はそれ以上にヤバいという状況がほとんどです。手が空いている人なんていませんし、上司に相談したところで上司は上司の仕事があり、結論は「ガンバレ」です。上司を探して、あるいは電話して相談している時間がもったいないです。時間は待ってくれませんから、一分でも配達にかけた方が結果的に迷惑をかけるお客さんが少なくて済みます。現場は、名無しさんの想像以上に混乱しているのです。

名無しさんが思いつく程度の事は既に自分や周囲が試して、現実にそぐわないということがよく分かっているのです。理想ばかり高くても現実に果たせない、それが繁忙期の我々宅配の仕事です。それで、私は仕方ないがこれが迷惑をかけるお客さんを最小限にとどめる方法だと割り切ってやっているのです。だから愚痴の一つも言いたくなりますよ。悪しき考え方とやらにも陥ってしまいます。逆に愚痴の一つも出ない、悪しき考え方とやらにも陥らずに常に正しい考え方で生きられる人がどれほどいるのかと考えてしまいますよ。



さて、この話を広げていけば聖道門での成仏得道の話になります。廃悪修善をして仏と成るべき因徳を積めば成仏することは間違いないですが、じゃあ現実問題として私達にできますか? 修行を完遂できるというなら、どうぞおやりになって下さい。私には不可能です。宅配の仕事なんか比較にならないほどの不可能さです。

例えば天台宗の行で定行三昧という90日間の所定の行がありますが、話を聞く限り私にはとてもやれる自信がありません。その他名無しさんも知っているであろう千日回峰行などもありますが、私のような者が取り組んだら間違いなく自決しなければならないでしょう。行を積めばさとりが開けるというのは仏説ですからこれは明らかなのですが、如実に実践できないからさとれなくて困っているのです。

それに対してまともに修行して成仏の因徳を積むことができない、そればかりか三毒を始めとする108の煩悩をどうすることもできない、空しく流転を免れない私達を哀れに見そなわして、何としても浄土に迎えて仏にすると誓われ、その願成就して我々を救いつつあるというのが浄土門の阿弥陀仏の救済です。これを甘えの宗教と言われるならそれまでですが、そのような救いでなければ淳心房のような者は救われません。

私は敢えて仕事や日々の生活での苦悩や愚痴を書くことで自分の思いが伝わるだけではなく、自分のような者はとても救われるなんて無理なのではなかろうかとあきらめかけている方が、絶望することなく阿弥陀仏の救いの普遍性と平等性を知ってもらえるのではないか、あきらめることなく本願の尊さを仰ぎお念仏してもらえるのではないか、と考えています。淳心房のような者でも助かったと言っているのだから、阿弥陀仏の救いというのは絵空事でもおとぎ話でもなく現実にあるんだなと思ってもらえるのではないか、と思うのです。

勿論、努力は続けていきます。一人でも迷惑をかけるお客さんが減るように。けれど、0にすることは現実的に不可能です。飲酒運転や交通事故が0にならないのと一緒です。飲酒運転や交通事故を本気で0にしようと思ったら、車を無くせばいいのです。酒を無くせばいいのです。でも現実にそんなことが可能ですか? また、自分が気をつけていても運悪く煽り運転するような車に出くわしてしまったらどうですか?

ご意見はご意見として受け止めますが、理想論ばかりで現実にそぐわないことを色々と並べられても当方としては困ってしまうわけです。悪しき考え方を言うなと言われるのも尤もですが、思いは思いとして述べて、そんな考え方に支配されている私を決して見捨てたまわぬ本願の尊さを仰ぎ、お念仏して、改めるべき点は今後少しずつでも改めていこうという気持ちであれば良いのではないかと私は考えてやっています。


それにしても、あの記事であのようなことをツッコんでくることは当時は想定外でした。私は完璧な人間ではないし、完璧どころか間違いだらけの、煩悩に支配されてそれをどうすることもできない愚かな人間です。後悔や反省の毎日で、今日は100点なんて日は一生送れそうもありません。そんな私のような者に相応した阿弥陀仏の救済法であることが皆さんに知ってもらえたらという気持ちで書いています。

だから、書き方は気をつけますが、その時思った気持ちは書ける範囲内で正直に書いていくつもりです。それを偽ってきれいごとばかり書く方がウソというものです。世の中には実に多くのブログがあるので、きれいごと、理想論がお望みならそういうブログやサイトを探して見れば良いと思います。選ぶのは読者の皆さんです。当ブログでは、理想論でいきたいと思いつつもそれをどうすることもできない現実に直面している私達を、決して見捨てたまわぬ本願念仏の法を私なりの書き方で書いていきます。気に入らない人は見なければいいだけの話です。読者の皆様もどうぞそのつもりでよろしくお願いいたします。

この記事は以上です。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

コメント返信(現在の苦しみを「神の試練」と言われて納得している他宗教の信者と同程度の信心の親鸞会会員)

しばらく間を空けていた間に多くのコメントを頂いておりました。皆さまのそれぞれの主張、言いたい気持ちはよく分かりますが、もうここらでお納めください。会員や講師部員との諍いならまだしも、親鸞会退会者と観察者で諍っていてもいい方向へは向かわないと考えます。

さて、二河白道の譬えは18願意を表したものであることは言うまでもありません。ところが、その18願で誓われる信心は自分で起こすのか、本願力回向の信心として如来より賜るのか。ここが善導大師のお言葉を当面読みしますと、私達には判断しかねるのです。

例えば至誠心ですが、『観経疏 散善義』の当面読みはこうです。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。 外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。 貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。

この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。また真実に二種あり。 一には自利真実、二には利他真実なり。(中略)

不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。 またもし善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。 内外明闇を簡ばず、みなすべからく真実なるべし。 ゆゑに至誠心と名づく。
『散善義』至誠心釈

浄土へ往生しようという者が起こさねばならない三心の一つが至誠心ですが、その至とは真、誠とは実で、至誠心とはすなわち真実心のことだと教えられています。それで、私達は親鸞聖人から教えを受けていますから「真実心」とは我々凡夫の心ではなく如来の真実心だと分かりますが、善導大師がお書きなされたままを私達が読みますと、真実心を我々の方で起こさなければならないように読めるのです。

一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

如何ですか? これを私達が浄土真宗の知識なく読んで、これは如来の真実心をもちいることが真実心であると分かるでしょうか? 私には、至誠心とは自分で起こさなければならない信心であるように受け取れます。

それを、法然聖人、親鸞聖人が血みどろの求道、研究をなされて、私達には如来のお心にかなうような、浄土へ往生できるような真実心は持ち合わせていないし、到底起こすことができない。これは自分で起こす信心ではなく、如来より回向される真実心である他にないと明らかにして下さったのです。親鸞聖人は善導大師の真意を明らかにするために次のように読み替えて下さいました。

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。

もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}

不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。


こう読み替えられることによって、真実心は我々凡夫の起こす信心ではなく、如来の真実心であることを明らかにされたのです。18願意といったら他力回向に決まっている、というのは我々が親鸞聖人から教えを受けているから分かるのです。至心信楽欲生の三心は、これを普通に読めば我々が「至心に信楽して我が国に生まれんと欲うて」という信心を起こして、と読むより他にないでしょう。


読み替えによって他力回向の義を明らかにされたお言葉として今問題になっている、回向発願心釈の例のお言葉もそうです。清浄願往生の心を自分で起こすのか、それとも如来より賜るのか。当面読みでは判断しかねるところを、親鸞聖人が読み替えられることによって如来より回向される清浄願往生の心だと明らかにされたのです。

親鸞会では19願を持ち出してきてごちゃごちゃと言っておりますが、林遊さんは19願のことを問題にしているのではないのです。自力といったら19願と、短絡的に結び付けてはいけません。18願を信ずる人の中にも自力あり、他力ありです。

また林遊さんが悪いのではなく、それを利用して善導大師の真意を捻じ曲げ、浄土真宗の他力回向のご法義を捻じ曲げている講師部員が悪いのです。林遊さんは自分の主張をズバッと仰る方ですから、それは退会者の皆さんの癇に障ることもあるでしょうが、あの林遊さんの説明まで悪くはないのです。

私達は経典やお聖教を読めば内容が分かると思っています。しかし、実際はそうではないのです。菩薩の論、高僧方の釈、そして親鸞聖人のお言葉を通すことによって初めて如来のお心がどういうものか、我々のような凡夫が浄土に往生するにはどのようにしたらよいのか、どうすることが如来のお心にかなうことになるのかといったことが明らかになるのです。親鸞聖人に至って、本願力回向、全分他力、現生正定聚、往生即成仏、その他様々な善知識方の真意が明らかになりました。私達はそこを知らなければならないと思います。


それにしても許せないのが高森顕徹会長であり講師部員です。退会者の挙げた根拠を逆手に取って自説の根拠としたり、今回の清浄願往生の心のことといい、利用できるものは何でも利用して会員を騙し続けています。私達はこうした親鸞会の言動に憤りを感じ、その誤りを糾弾していかねばならないと思います。

親鸞聖人は「白道」を他力の意味でしか教えられていません。それを、善導大師の当面読みを利用して聖人の御釈をひっくり返すような、悪びれることなく今までの創作話に合うような説明をして、なおも会員を獲信・往生と無関係の組織拡大活動に利用・搾取している親鸞会は本当に許せません。

私達は東の岸にいる時、「白道」に踏み出す前に弥陀の招喚のお言葉を聞きます。そのお言葉を聞くまでに、親鸞会で説かれるような自力の命がけの求道は不要です。そんなものは捨てて、阿弥陀さまが我々を助けるために命がけの修行をされ、今も現に、常に助けようと願われはたらき続けられている、その阿弥陀仏のお心を受けなければなりません。今、ここで、この私一人を救うという南無阿弥陀仏の六字の心を聞き受けお念仏申す。この他に我々が為すべきは無いことを訴えて、この記事を終わりたいと思います。


【後書】
そういえば、高森会長は上の至誠心釈の当面読み

外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

を利用し、19願の「発菩提心 修諸功徳」の説明の際に

「ド真剣に善をしなさい」とはどれくらい「ド真剣」なのか

を教える根拠として利用していました。実に許し難い行為です。こんなデタラメな教えを受けて信心獲得を妨げられていることに、会員の皆さんは早く気付いて頂きたいです。

彼の人物へのコメント返信 及び 悔い無き選択を

相変わらず愚かな人物からのコメントが来ています。私は現時点でこの人物が誰か見当がつきません。ただ書き込みの内容から憶測して親鸞会会員と思われるので「親鸞会会員と思しき」と言っています。おいコメント主、この記事読んでるか? 読んでたら親鸞会会員かどうかくらい教えてくれ。そうしたらハッキリすることだから。

別に偽ってもいいけど、それは「妄語」だからな。「妄語」は善か悪か、それくらい区別つくよな? その報いは他でもない自分が受けていかないといけないんだから、そんな事でしょうもない嘘つくなよ?


さて、今回も彼の人物のコメントにツッコミを入れてみたいと思います。

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因果の道理を説く釈迦の教えがわからなければ「無碍の一道」もわかりません。
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⇒おいおい、因果の道理、廃悪修善って連呼する割に、親鸞会は廃悪修善をまともに実践しているとは言い難い事例ばかりじゃないか。今パッと思いつくものだけでも結構あるぞ。

・大学での偽装勧誘(正体を隠した勧誘)
・高森会長の、大沼法竜師の著書の剽窃問題
・高森会長の息子の不倫疑惑事件
・会員を総動員しての、高森会長の著書の偽装ベストセラー、映画の偽装ロングヒット
・本願寺への法要妨害
・「あれで会計報告のつもりか」と言わざるを得ない、あいまいな会計報告
・お布施を流用して会館や病院に豪華な一族専用スペースを建設
『親鸞会教義の誤り』への反論を依頼した特専部員へ不当な処遇を与えた上に除名
・高森会長が『飛雲』との公開法論に応じないまま6年以上経過


古くはこの記事にも書いているから参照してくれ。これらは善か悪か? 更に個々の会長や息子、講師部員や幹部会員の数々の言動を見ていったらキリがないし取り扱わないが、知ってる人は知ってるぞ。因果の道理とか廃悪修善とかと言うつもりなら、まず高森会長が過去の公約通り『飛雲』との公開法論に応じるよう貴方からも進言してくれたまえ。せめて公開法論くらい実現しないと親鸞会の因果の道理、廃悪修善は信用できない。

・善とは親鸞会にとって都合がよいこと
・悪とは親鸞会にとって都合が悪いこと

としか思えないのでよろしく。


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親鸞会で日々一生懸命やっている活動(真宗宗歌の心から、そうせずにおれない)

高森会長の「一心一向に弥陀に帰命せよ」のご説法を、雨にも負けず、風にも負けず、雪にも負けず、聴きに来られる、

後で「私はこのように聴きましたが、あなたはどのように聴かれました?」という信心の沙汰をし、

聞法善をする、

善き法の友の仲間入りし、

お布施https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BDをする、

「会長や上司の指示に無条件に従う」(本願招喚の勅命を、会長や上司の勅命と勝手解釈した頓珍漢)、

煩悩あるままで、廃悪修善につとめる

弥陀の願心によって横の線の道を進んで

「絶対の幸福」=「大安心、大満足」=「信楽」=「無碍の一道」

の大悲の願船に乗せていただけるまで聞法精進する。

すなわち、これ他力の念仏道=弥陀の願心による道=釈迦の教えによる道=七高僧の教えによる道=親鸞聖人のみ教え

********************

⇒はいはい、いつもの高森教ね。全く経典や聖教の根拠が無いんだが。「絶対の幸福」=「無碍の一道」という経典や聖教の根拠を示してくれ。

いくら貴方がもっともらしいことを申されても、経典にないことでは仏教ではありません!

よく聞いてるセリフだろ? 間違いだらけのアニメだけど、珍しくこのセリフは正しい。そういえば以前の記事で、「絶対の幸福」=「無碍の一道」という経典や聖教の根拠を求めたはずだが。無いのなら、創価学会のパクリ、高森教ということで決着だ。有るのなら、すぐ示してくれ。無常は迅速、生死は一大事、だろ?



浄土真宗には、高森教の説くような因果の道理や、獲信・往生のために廃悪修善を実践せよという教えはありません。浄土真宗とは何を教えたものか。それは「教文類」に明らかなように往相、還相の二種の回向です。

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

往相とは「往生浄土の相状の意。衆生が浄土に生れゆくすがた」で、それは阿弥陀仏からの回向によるんだと教えられたのが浄土真宗です。その往相の回向について「真実の教行信証あり」。真実の教行信証によって私達は浄土に往生させて頂くんだということです。じゃあ真実の教行信証って何かと言ったら、

真実の教 - 大無量寿経
真実の行 - 無碍光如来の名を称する(念仏一行)
真実の信 - 至心・信楽・欲生(本願力回向の信心)
真実の証 - 利他円満の妙位、無上涅槃の極果


です。これらを全て回向されるというのが浄土真宗です。弥陀の正覚と衆生の往生は同時に誓われており、弥陀の正覚は既に成就している。ではなぜ衆生は往生しないのかと言うと、衆生がそれを領受していないから。私達はこの道理を領受することが必要なので、こうした如来の回向を聞かせて頂く、いわゆる聴聞ということが勧められるのです。

この真実の教行信証の中に、因果の道理をよく知れとか、廃悪修善の実践をせよとか、どこかありますか? そう、無いんですよ。真実の教行信証は如来の回向、本願力の回向によるものだから、我々の計らいは要らないんだ、我々の方から回向することは何も無いんだ、としか教えられていません。

もう我々の救いは南無阿弥陀仏と仕上がっています。もはや我々のすることは何も無いのです。強いて言えば、南無阿弥陀仏の六字のこころを聞いて領受することです。南無阿弥陀仏の名号を心に受けたのが信心、それが口に出れば念仏で、名称こそ違いますが全て南無阿弥陀仏のはたらき以外の何物でもありません。

この如来の回向、本願力の回向を聞かせて頂くのを聴聞とか聞法と言いますが、それを自分の修した善のように聞法善などと言うことはありません。また、聞法善とやらを積み重ねて救われる、あるいは聞法善をしていくことで救いに近づくということもありません。

おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。「化身土文類」真門決釈

これは念仏を己の善根として、これを称えて往生しようとする者は報土往生できないことを述べられたものですが、親鸞会ではこの中の「本願の嘉号」が「聞法善」に変化しただけです。ただ、正しい真宗が説かれているならばまだいいのですが、聞く内容が高森教なので、その結果は報土どころか、化土どころか、悪道です。最悪、彼らが言うように「必堕無間」というのもあながち間違いではないかも知れません。


このように親鸞会では本願力の回向に対して自力の命がけの聞法善というように救いへのベクトルも違えば、真実の教行信証に対して方便の教行信証とも言い難い高森の教行信証を授けられますから、そんな教えをまともに信じていて真実の信真実の証が獲得できっこないことは火を見るよりも明らかです。

真実の証は、真実の教に説かれる真実の行真実の信によって得られます。真実の行も、真実の信も、共に南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏のはたらき一つで報土往生を遂げるのだから、私達は誓いの名号、本願をふかく信じて、つまり真実の信心で念仏しなさいと、こう教えられたのが浄土真宗です。聖人は、

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。『末灯鈔』12通

とお示しになっています。因果の道理をよく知れとか廃悪修善をやれとか、そんな勧めはどこにもありません。

親鸞聖人のお言葉を選ぶか、高森会長の言葉を選ぶか、あるいはどちらも選ばず別の選択肢を選ぶか。選択権は一人一人にあります。最後は自分の選択です。悔いの残らない方を自分で選んで頂きたく思います。

コメント返信(『相変わらず「絶対の幸福」の連呼のみで、肝心の何を「聞く一つ」かを全く教えない高森顕徹会長』の、親鸞会会員と思しき名無しさんへ)

相変わらず「絶対の幸福」の連呼のみで、肝心の何を「聞く一つ」かを全く教えない高森顕徹会長

の記事に、親鸞会会員と思しき名無しさんから複数コメントがありました。今回はそれに答えるというかツッコミを入れるというか、とにかく書いていきたいと思います。


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>親鸞聖人は、絶対の幸福を「無碍の一道」(※)とおっしゃっています。
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⇒勝手に創作しないで下さい。正確には、

高森会長は、「無碍の一道」を「絶対の幸福」と勝手に読み替えています。

です。元学徒さんのコメントにあるように、

無碍の一道」≠「絶対の幸福

です。幻想的な楽、桃源郷のようなものを「無碍の一道」と思ってもらったら困りますね。


********************
>「何十年聞いたところで、分からないでしょう。」秘事法門の者が言う事
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⇒「因果の道理が分からなければ仏教は何十年聞いても分かるものではありません」とか言っている親鸞会は秘事法門ですね。


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>何の造作「聴く事も、聞く事も、受け入れる事も」も要らず『聴き誤り』・・・・只仏法は聴聞に極まることなり
********************

⇒何やら勝手に書き加えていますが、私は

我々は何の造作も要らず、ただ誓いの名号を聞き、仰せのままに受け容れてひとえに後生、往生を阿弥陀さまにおまかせするのみです

と書いています。とんだ断章取義ですね。ここで「造作」というのは、親鸞会で言えば貴方がたが日々一生懸命やっている活動のことです。高森会長の眠い話を我慢して記憶するように聞く、後で記憶力自慢大会をする、善(もどきの善)をする、人を誘って会員にする、お布施をする、会長や上司の指示に無条件に従う、煩悩と闘って活動する・・・。それらによって横の線の道を進んで「絶対の幸福」とやらになろうという活動のことです。そんなものは一切「要らず」と言っているんです。


********************
>仰せのままに受け容れて・・・・・・・・・・・・・・・・・他力か自力、水際たってない
>ひとえに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・書くだけで意味知らず
>後生、往生を・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・体失往生
>阿弥陀さまにおまかせするのみです。・・・・・・・・・・・他力か自力、水際たってない
********************

かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

(中略)

さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。
『執持鈔』(2)

と仰った覚如上人は「他力か自力、水際たってない」ということか? 善知識をおろかにおもうことが常習化していますね。浄土真宗の人ではなく高森教徒だというのが明らかです。

ひとえに・・・《副》他には心を向けず、または他の事はさておき、全く。ただただ。

ちなみに、

体失往生
=諸行往生
=臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず
=第十九の願
=非本願なるによりて定散の機にかぎる

不体失往生
=念仏往生
=至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生す
=本願(第十八の願)
=本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる

だよ。『口伝鈔』をよく読みたまえ。往生するのはあくまで死んでからだ。その往生が平生に定まるのが不体失往生。これは報土往生。それに対して臨終に定まるのが体失往生。これは化土往生。貴方の先生は

不体失往生した者を体失往生させる。

などと言っているが、これでは

報土往生を遂げる身になった者が、死ねば化土往生する。

と言っているようなものだ。そんな頓珍漢で真宗に無知な人物に未だに付き従っているのが信じられない。


********************
>善をするだとかしないとか『仏教知らず』、

「諸悪 莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」
********************

⇒聖道諸宗が法然聖人を非難したのと同じ理論であることが判らないかね?

『飛雲』法然上人・親鸞聖人を平気で非難攻撃する高森会長

でも読んでおいて下さい。


********************
>横の線の道を進むとか進まないとか

『仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り』、
********************

⇒「白道」を、いつも高森会長が書いている横の線の道に当てはめるのがそもそも間違い。


********************
「善知識の能(任務)というは『一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし』
と人を勧むべきばかりなり」
********************

しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。

(中略)

もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。
『選択本願念仏集』

念仏以外に善と称した組織拡大活動を勧める高森会長は断じて善知識でないことが明らかです。


********************
>ひとえに本願の独用(我々は何の造作も要らずひとりばたらき)で一大事の往生を遂げ、・・・・・・・・・・・・・いつかわからん

>その暁には今度は還相の菩薩となって思うが如く衆生を利益する往還二種の回向を教えたものです。・・・・・・・・どの暁かもわからん

>勿論、我が往生を定めて下された御恩を喜ぶ心はありますが、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『ありますが・・・というあいまいなものでない』
********************

⇒往生を遂げるのは「臨終一念の夕」。そして「大般涅槃を超証」した暁に今度は還相だよ。

御恩を喜ぶ心は「あります」って書いてるでしょ? あるかないか判らないならあいまいと言えるけどね。貴方は親鸞会によって失われた国語力を取り戻すのが先決だと思う。


********************
「真宗の繁昌と申すは、人の多く集まり威の大いなることにてはなく候。
 一人なりとも人の信を取るが真宗の繁昌に候」
********************

⇒無信心の集まりが信心欲しさに勧誘し、最近は新聞広告まで使って大体的に人集めしているのに、よくこの蓮如上人のお言葉が出せるものだわ。それでいて幽霊会員はほったらかしだもんね。


********************
生まれ難い人間に生まれ、聞き難い仏法を聞かせていただく以上に、ありがたく尊い幸せがあるでしょうか。
********************

幸せですよ。高森教の邪道を離れ、まことの真宗に遇えて本当に幸せです。危ないところでした。



以上、所詮根拠は高森本の名無しさんへの回答(ツッコミ)でした。

コメント返信(【考察】なぜ無碍光如来の名を称することが「大行」なのか(3))

今回は頂いたコメントに返信します。



林遊@なんまんだぶ様

やはり親鸞聖人は、言わば法然聖人の教えの正当なる継承者なのですね。法然聖人と親鸞聖人の教学が大きく隔たってしまった理由の一つとして、梯和上が

「覚如、蓮如の信因称報説をとおして親鸞教学を理解したこと」

を挙げておられるのは頷かざるを得ません。覚如上人は浄土宗から宗門を別にするために、あまり似通った教えでは別にする意味がないので信心正因称名報恩を前面に打ち出したのでしょう。それが蓮如上人に引き継がれて、以降浄土真宗ではずっと蓮如教学を代用して親鸞教学としてきた。

しかし、蓮如教学と親鸞教学が全く一緒ならいいのだけれども、どうも聖教を読んでみると一緒とは言えませんね。特に今考察中の「」すなわち「念仏」に関してはその教え方が違う。親鸞聖人の領解は、ただ「念仏する者を往生させる」本願をふたごころなく深く信じて念仏する、というものですね。

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。『末灯鈔』12通

念仏の信心を詳しく説き開かれたのが「信文類」ですが、林遊さんが仰るように大行は大信であり、大信は大行。行と信とは一つであって二つ、二つであって一つという不離の関係でした。分けて説けば行と信と二つになるが、如来回向の大行には自ずから大信が具足しているし、大信は必ず大行の念仏となるのだから行と信はセットで見るべきですね。

これを分けて信心ばかり重視し、しかも信心を獲たことを「絶対の幸福」などと教わるものだから誤解し、ありもしない信心を求めて彷徨う羽目になる。これが親鸞会会員のすがたです。自分もかつてやっていたのですから他人事ではないですけど、実に困ったものです。特にあの「」の押し付け、「報恩の強要」は本当に勘弁してもらいたいです。



愚愚流様

信心といっても念仏の信心ですからね。念仏と信心を別々に考えたらいかんですね。まして「念仏を称えないのが大谷派の伝統である」て何ですか、そりゃ(苦笑)。念仏称えない真実信心なんて、声が出せないとか特別な事情がない限りあり得ません。称名報恩と教わっているなら御恩を報ずるためにお念仏申して当然。それが出ないのは如来広大の恩徳を迷失していると言われても仕方がないことかと思います。



チュウビ様

親鸞会の場合は「如来大悲の恩徳」、「師主知識の恩徳」を「高森先生の恩徳」にすり替え、「お礼の強要」をしてくるので論外です。高森先生がおられなければ親鸞聖人に遇うことができなかったと「高森先生の恩徳」を感じるならば、間違った教えを間違った教えとハッキリ指摘し、間違った教えを受けている人を正しい浄土真宗に誘引して差し上げることですね。これが「高森先生の恩徳」に報いることになるでしょう。また、それが同時に「如来大悲の恩徳」、「師主知識の恩徳」を報ずることにもなると思います。これからもお互い、共に本願を仰ぎお念仏を申して至徳を報謝する人生を歩みたいものですね。



Abc様

> 高田派では「お念仏の中に生かされる生活」として日々念仏と共に日暮しをしております。私は「念仏」を「阿弥陀さまがいるぞ」と言うことを私と私の近くにいる方(正しく言いますと私の声の届くところにおられる方)に聞かせていただくこと と受け取っております。

やはり仰せに順って称名しているすがたこそ、本願を計らい無く受け容れている信心のあらわれですね。念仏相続の日暮らしが、真宗門徒としてあるべきすがたと思います。お念仏する中に、仏を仰ぎたい気持ち、お浄土を願う気持ち、お念仏を伝えたいという気持ち、大悲の中に生かされながらそれに背反する心しかない自分を知らされ懺悔する気持ち、何とか仏の恩に報いたいという気持ち、等の様々な気持ちが起きる気がします。全ての本というか、お念仏申すことが根本ですよね。

そしていつも示して下さる御和讃からも知られるように、信心と念仏を必ずといっていいほどセットで聖人は教えておられる。念仏申すままが信心であり、信心は必ず念仏となって現れるのだから当然と言えば当然ですが、六字の他に信心があるように思っていたら信心を求めてガタガタと苦労することになります。

かと言って念仏申していれば誰でも真実信心かというとそうでもない。どこか自己流が雑じっていたら如実修行ではない。帰せよの命を受けてしまえば何でもないが、純粋なる他力の故に信じることが難しい。しかし何とか有縁の方々にお念仏とそのこころが伝わってもらいたいと願う他ありません。



コメントを下さった皆様、ありがとうございました。ご意見を受け、私自身法に触れ、お念仏を申す機縁となりまして有難く思います。これからもより聖教をたしなみ、お念仏を申して少しでも報恩謝徳の人生を歩みたいものです。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんなんまんだぶ・・・

コメント返信(いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らない)

不正な投稿だと撥ねられてしまうので記事に書きました。いくら親鸞聖人であっても、知らないものは知らないの記事へのコメント返信です。


Abc様

本当に早いです。学校が休みで給食が無いので、私のと合わせて娘の弁当も作っておりますが、学校の準備となると妻や子供にまかせきりですね・・・。これではまずいのですが、本当に「知らん」です(*_*;

さて、仰る通りで

> 現生に「摂取の利益」に預かる

ことは間違いありません。聖人も「信文類」にて

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

と教えられている通りです。ここで問題なのが、「現生に十種の益を獲」たことと、「現生に十種の益を獲」たことが実感として知らされることとの違いです。高森教では実感として知らされるように説いていますから、会員は種々の誤解を抱いてしまうのです。例えば記事で冒頭申し上げたようなことです。

高森教でよく言われる「弥勒と肩を並べる」というのも随分傲慢な表現かと思います。馬鹿野郎、こちらの方が早くさとらせて頂くか知れないが、今生では弥勒菩薩と同格などとはとてもとても・・・。「弥勒におなじく」という表現は確かにこの記事でも書いたようにありますが、智慧や徳まで同じくなるわけではありません。会員は、「高森先生は阿弥陀仏の御心を知らされて51段の境地に出た御方」だなどと盲信していますので、高森会長は勿論ですが講師部員、一部会員の傲慢な態度はここから出ているものかも知れません。

信を獲ても「仏智の不思議」は「仏智の不思議」です。我々が判る程度のものならばそれは「思議の法」です。「仏智の不思議」を「思議の法」に貶め、念仏を説かず信心も誤り、神秘的体験、ハッキリスッキリ体験を獲信のように誤解させていること、またそんな体験を求めさせ、ありもしない道程を通らせようと「一切要らない」行をやらせて金集め人集めに狂奔する親鸞会の邪義をもっと明らかにしなければなりません。


林遊@なんまんだぶ様

梯和上のご法話を紹介して下さりありがとうございました。記事上でもリンクを貼らせて頂きました。私の人生、色々苦しい事や辛い事もありましたし、当然これからも生きてある限りやってくるでしょうが、遇うべき法には遇わせて頂き、聞くべき法は聞かせて頂きました。阿弥陀さまの仰せ一つで、念仏一つで死ねます。と申しましても、今はまだ死ぬつもりはないのですが(;^ω^) なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・。

いなみ様へ

今回は、いなみ様より頂いたコメントにお答えします。

********************
> 高森会長の説法を聞き、この話は仏願の生起本末のどこを話しているのだろうと思いながら聞きますが、よくわかりません。
> 仏願の生起本末を話しているのでしょうか?
********************

邪義を織り交ぜながらの「仏願の生起」の部分を話しています。生起とは阿弥陀仏の本願の起こりということですが、それは悪業煩悩を重ねて六道二十五有生を果てしなく流転輪廻し、真の安らぎ、真の楽しみ、真のさとりとは縁のない「この私」がいたというのが本願の起こりです。ただ、私達は死ねば必ず無間地獄に堕ちるということ、私達は生まれながらに五逆罪・謗法罪を造っているということ、全ての人間は悪人しかいないということ、一つの善もできないということなどは間違いです。

仏願の生起本末について詳しくは、安心論題/聞信義相等をご覧下さい。


********************
> 仏願の生起本末を聞いていないとしたら疑心が有ることも無くなることもありません。
> 「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」を聞かせて頂いたという実感がありません。
********************

その通りです。仏願の本(因本)と末(果末)を説いていないどころか間違って教えており、「南無阿弥陀仏の六つの字のこころ」など全くと言ってもいいほど説かれないからです。

阿弥陀仏は苦悩の衆生、すなわちこの私、今で言えば「いなみさん」を捨てずして、何とかして浄土へ迎え取り、仏にしてやろうと五劫が間これを思惟して48願を起こされ、永劫が間これを修行されました。これが仏願の本(因本)です。

そして、今や威神功徳不可思議の名号である南無阿弥陀仏は既に成就され、「名声十方に聞こえん」と重ねて誓われた通り、いなみさん目がけて絶えず喚びかけられ、「我にまかせよ」「我が名を称えよ」と常にはたらきかけているのです。これが仏願の末(果末)です。

こうした仏願の生起、本、末を聞いて疑う心のないのを「」というのです。すなわち、本願が南無阿弥陀仏と仕上がって私にはたらいているぞということを、そのままお聞きする、そのまま受け容れるということです。これが「」であり、また「」であります。「仏願の生起本末」、「南無阿弥陀仏の六の字のこころ」を「」くのがそのまま「信心」なのです。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。(一念多念証文)

それは長いこと聞法を重ね、活動を重ねていった先の話ではなく、現在只今のことです。今、この場で、ここにいる私が本願力に摂取され、ひとえに後生を阿弥陀さまにおまかせ致すわけです。だって本願は南無阿弥陀仏と仕上がって今、この場、ここにいる私まで届いているのですから。でなければ今臨終という人は到底間に合わないでしょう?

それと、高森会長は仏願の本は18願、仏願の末は19願・20願という珍説を打ち出し、「なぜ生きる2」に書いて出版までしていますが、そもそも考えてみて下さい。19願・20願を聞いて、それらを実践している、あるいは実践しようとしている時というのは本願(18願)を疑っている状態です。19願・20願を聞いていて、疑いが無くなるわけがないでしょう?

加えて言えば、「「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」のお言葉は「信文類」、すなわち至心信楽の願、18願について明らかにされた文類の中にあります。19願・20願は無関係です。それを関係づけて、会員の獲信・往生とは無関係の組織拡大活動をやらせているだけだということが明らかにお分かり頂けるかと思います。


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> 本当は高森会長に直接質問したいのですが、それは叶わないので、支部長や幹部の会員に質問しようとすると、「えんしょう」の人が来ているからと言われ質問しにくい雰囲気を感じます。
> 和合僧を破ると五逆罪で地獄行きだと暗黙のプレッシャーを感じ、そんたくしてその場の雰囲気をよくするように努めたりしています。
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そのお気持ちは察するに余りあります。私も会員だった当時は似たような思いでした。あと、聞いても「もっと真剣に聞かせて頂きましょう」「もっと光に向かって進ませて頂きましょう」と言われて終わりということは判り切っていたので質問もしませんでした。「物を言え物を言え」と最初は教えられますが、肝心な部分については「忖度しろ」という暗黙の了解がありますよね。それではいけないのですが、そうなっているのが親鸞会です。


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> いままでは高森会長の教えに誤りはなかろうと勝手に思い込んで自分で調べませんでした。
> 調べようにも反論の根拠になる学がありません。
> 言われるままにそういうことだと思っていました。
>
> 反論の根拠としてお聖教が上げられるので自ら聖典で調べてみると確かにそのように書かれています。
> お聖教をよくよく読んで判断したいと思います。
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高森会長の説が正しいか、批判者の説が正しいか、あるいはどちらも正しくないか、本当のところはどうなんだと疑問を持って、それを後回しにしたりうやむやにしたりせずに、納得いくまで調べてみることが大事です。当ブログの題名が「真偽検証」ですが、いなみさんも親鸞聖人の正しい教えをどうぞ真偽検証なさって下さい。親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人のお書き下されたものを根本としているという点ではいなみさんも私も同じであると思います。そういった善知識方の直のお言葉に向き合って頂きたいと思います。


以上、簡単ではありますがお返事とさせて頂きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。



【追記】
林遊@なんまんだぶ様がいなみさんのコメントへのお答えとして書いて下さっています。
↓↓↓
『用管窺天記』利他力
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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