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コロナウイルス「かんせんしょう」ではありません、円満徳号「かんせんしょう」です

現在、次女は7歳、三女は4歳のため、正信偈を読むと言ってもひらがなを追ってすらすら読むことすらままならない。そこで彼女らは、自分が発した正信偈の音を耳で覚えている。

そのため、普段聞いたことがある音を聞くと反応する。例えば、

清浄歓喜智慧光

と聞くと「あっ、ちえだ!」とか、

広由本願力回向

と聞くと「あっ、りきだ!」という具合に、聞いたことがある人や友達の名前などに反応する。

名前なら可愛いものだが、近頃は、ご時世なのだろう、次女が

円満徳号勧専称

に反応する。「かんせんしょう」とあるからだ。

テレビでもラジオでも、「コロナウイルス感染症」の言葉を聞かぬ日は無い。それで、知らず知らずのうちに耳の内に残ってしまっているのだろう。

反応を示す度、私は

コロナウイルス「かんせんしょう」ではありません、円満徳号「かんせんしょう」です
なんまんだぶと称えよってことだよ


と言っている。

早く「コロナウイルス感染症」の言葉を聞かぬ日が来ることを願うと共に、円満の徳号を専称している子供らの念仏の声を聞いて有難いことだと思った。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
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なむあみだぶつの問題出して

三女と一緒に就寝する時には拝読することが慣習化してきた正信偈。相変わらず中断しながら、おしゃべりしながら、ふざけながらではあるが、一緒に拝読できることは有難い。

それにしても小さい子は本当に物覚えが早い。覚えるように訓練させているわけではないのに、随分と句を口ずさむようになってきた。最初の「帰命無量寿如来」から「超発希有大弘誓」までは完璧に暗唱できる。十二光もほぼ覚え、「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見」の箇所などもよどみなく言える。

その三女は少し前から

「なむあみだぶつの問題出して」

と言う。どういうものかと言えば、例えば、まず

きみょうーむりょうー

と漢字七文字の内、頭の四文字を自分が詠う。その後、

じゅーにょーらい

と、残り三文字を三女が答えるという寸法だ。

これを繰り返す内に、かなり正解することが多くなってきた。今は、依釈段の龍樹章までは大体答えられる。その後も、覚えていない箇所、間違える箇所はあるものの所々は覚えている。これを聞いて、ひらがなの練習もしていないのにここまでそらんずることができることに、しばしば次女が驚いている。


今年は随分と味気なく、また嫌な思いをしたことが多い年だった。

学校や保育園の行事は中止が多数、行われるにしても規模を縮小しての開催で、終わったらすぐ解散、撤退。同じ園や学校に通う親や子供達とはすれ違いざまの挨拶程度でろくな交流も無かった。ただ毎日を消化していくような日々が多かったように感じる。

仕事も本当にきつかった。何だあの物量は・・・。加えて時間管理だ、クレームを起こすなだ、既定の休憩時間を確保しろだ、報告書を出せだ、何だかんだと上からの注文ばかりでほとほとうんざりした。

ブログの更新もろくにできない状態だった。しばらくブログに触らずにいたら、現役カルト信者の他にも嫌がらせコメントをする者が現れた。こんなのとかこんなのとか。こういうのを誹謗中傷と言うのだと、被害者意識の強い誰かさんに教えてやりたいと思った。

行動も随分と制限された。どこへ行くにもマスクで、常に息苦しい思いをした。

毎年6、7回は行く帰省は今年は1、2回のみ。ろくに両親や祖父、妹や甥っ子に会えなかった。

チケットを取って春休みに行くはずだった遊園地も、緊急事態宣言のために延期となった。8月に辛うじて行ったが、事前予約が必要だったらしく、入場に手間取ったり、アトラクションも人数制限が厳しくて長蛇の列に並んだり、楽しめるものとは言えなかった。

義弟の奥さんを始め、自分の周りで多くの方が亡くなり、喪中のはがきが毎年より多く届いた。

年末恒例の、小学校時代の同級生との飲み会も、今年は辞退せざるを得なかった。


事故に遭ったり、職を失ったり、収入が無くなったりしたわけではないので、自分はまだ恵まれている方だと思う。ただ、例年に無く嫌な思いをしたことが多い一年だった。そういった中、こういう有難いことがあったのはせめてもの救いである。

新型コロナウイルスは依然として世界中に蔓延している。日本でも感染者が増え続けている。また、今冬は12月から大雪に見舞われている。この分だときっと来年も色々と大変そうだ。つらいこと、苦しいこと、予定通りにいかないことも多々起こるだろうが、命のある限りは本願を仰ぎ念仏を申して、往生を期として生きていきたいと思う。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

【感想】約束のネバーランド

この前、長女が面白いというので、

約束のネバーランド

のアニメ1期を一緒に見ました。最近のアニメは、『進撃の巨人』といい、『鬼滅の刃』といい、考えさせられるものが多いです(私が知らないだけで、昔から、沢山の漫画、アニメがですが)。それで、本日は『約束のネバーランド』を見ての私の個人的な感想を綴っていきます。


(ここからはネタバレ含みますのでご注意下さい)

アニメ1期では、自分達が鬼の食糧となる食用児であることを知ってしまったエマ、ノーマン、レイらがグレイス=フィールド農園から脱出するまでのストーリーが描かれています。子供達を育てる女性は『ママ』と呼ばれ、子供達に慕われていますが、その実態は、生き延びるためではあるけれども、質の良い食用児を育てて鬼に提供しているという無慈悲な養母です。


このアニメを見て、気づいたことがいくつかあります。一つは、私の実態です。少し変えて表現しただけで、現実にはアニメと同様のことが行われています。

鬼⇒人間
ママ⇒畜産農家
グレイス=フィールド農園の子供達⇒牛、豚、鶏等の家畜

としたら、まさに現実そのものです。家畜達は決して殺されて食べられたくはないだろうし、畜産農家の方々も、手間暇かけて手塩にかけて育てた、我が子とも言える家畜達を決してむやみやたらに殺したくはないだろうと思います。私のように肉を食べる人間がいるから、何のためらいも懺悔もなく美味い美味いと食べる鬼のような人間がいるから、出荷して提供しているのでしょう。

高級肉に舌鼓を打ち、我々の食欲をそそるような食レポが毎日テレビやラジオ等から流れていますが、それらを見たり聞いたりしても何とも思わない、涙の一つも流さない、それを当然と受け流す、逆に欲しい欲しいと手を伸ばす、冷徹無比な私のような者がいるから、生きて食べていくために肉の出荷提供を生業としている人がいます。

現実を知ってしまったエマ達には、自分達を殺して食べんとする鬼達、その鬼達へ自分達を提供していたママ達は悪魔の如く見えていることでしょう。エマはすごくいい子だからそうは思わないかも知れませんが、私ならそう思います。私を殺して食べる鬼、その鬼へ私を出荷するために育てていたママには恨み呪い、憎しみの感情しか抱きません。殺されて食べられる動物達はどう思っているのか知れませんが、決して死にたくないはずです。それを殺して食べるのですから、そして美味い美味いと喜んでいるのですから、無意識に毎日恐ろしいことをしています。生き物を殺す罪は地獄に堕ちる業だと言われるのも至極真っ当な話だと思わされました。そして、せめて合掌して命を頂こうと改めて思いました。


二つ目は、アニメのママは子供達を出荷するために手段を選ばない無慈悲な悪人として描かれていますが、それは自分が生きてゆくために仕方無くしていることだということです。これも、自分がいざ出荷されようという時に、食べられる道か、生き延びる道か、どちらかを選べと言われたら、死への恐怖に負けてママの道を選ぶに違いありません。死にたくないというのは生き物に生来備わっている本能であり、煩悩の所為ですから、それを断ち切って食べられる道を選択するというのは実に難しいことです。私には、ママ、また鬼に隷属している人間を責める資格がありません。

尤も、ママの道を選ぶにしても、感情を殺し、人間性を殺し、道徳的良心を殺して、ひたすら上の命ずるままに子供達を提供し続けなければなりません。罪の意識、良心の呵責に苛まれ、出荷した子供の人数分の十字架を背負って生きていかねばなりません。それに耐え得る精神の持ち主、または罪の意識を感じないサイコパスでなければ到底務まらない仕事です。殺されるのも地獄ですが、生きるのも地獄。グレイス=フィールド農園に生きる人間には救いがありません。


三つ目は、肉として食べられるというわけではありませんが、私達も将来、必ず出荷される時が来るということです。いつかと言うと、死ぬ時に、どこにかと言うと、死出の山路、三途の大河にです。

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。1帖目11通

親鸞会で散々聞かされ、自分も話してきたことですが、この部分については正しいです(ただし親鸞会では救いの法についてがデタラメなので、いくらそれを真剣に聞いて従っていても助かりません)。

誰かが死ぬと、その原因を追究し、それを取り除くべく生きている側の我々は努力します。事故ならなぜ起きたのか、同じことを繰り返さないためにはどうしたらいいのか、原因を究明して再発防止に努力します。病気ならなぜなったのか、発見法や治療法はあるのか、その病気にならないためにはどうしたらいいのか、原因を追究して同じ病気で苦しむ人、亡くなる人が一人でも少なくなるよう努力します。これは大事なことで、要らないと言っているのでも、言うつもりもありません。

ただ、そうやっていくら努力しても、人間が死ななくなるわけではありません。少し死ぬのが伸びただけ、または無量にある死の縁の内、一つ二つが無くなっただけです。事故なく病気なく健康に暮らせたとしても、やがて老病がやってきて、そして確実に死なねばなりません。

誰もが、死の因は事故や病気、ウイルス、凶器等にあると思うでしょうが、仏教は違います。生まれたから死ぬのです。生まれなかったら死なないのです。つまり、死の因は生まれたことにあります。

グレイス=フィールド農園から脱出し、鬼への出荷を逃れる方法はありましたが、死出の山路、三途の大河への出荷は何人も逃れることはできません。だのに、それに気づかず、また気づいていながら何をするでもなく、ただ毎日をいたずらに明かし暮らしているのが人間です。それは幸せでしょうか?

抗うエマにママ(イザベラ)はこうなだめています。

幸福な一生じゃない? 暖かなお家で、おいしいご飯と、愛情いっぱい。飢えも寒さも真実も知らず、満たされた気持ちで死んでゆく。一体それのどこが不幸だと言うの?

確かに一理あります。世界には、お家の無い子供、飢えや寒さに苦しむ子供、愛情の欠片も注がれたことの無い子供がいっぱいいることでしょう。日本でだって貧困家庭は少なくなく、親の虐待で殺される子供だっています。それに対して、農園での生活は、優しいママの下、子供達同士が仲良く助け合って暮らしています。暖かなお家、おいしいご飯、いっぱいの愛情。戦争も無い、いじめも無い、虐待も無い。勉強の強制も無い、仕事の重圧も無い。どこが不幸だと言うのでしょうか。

しかしながら、『約束のネバーランド』を見た人の中で、農園の子供に自分もなりたいと本心から思う人はまずいないでしょう。私もそうです。なぜか。将来、12歳までには殺されて、鬼に喰われることが決定しているからです。養豚場の豚や、料亭の生簀に泳ぐ魚をうらやましく思う人がいないように、殺されて喰われることが決定している生活を望む人はいないでしょう。

でも、現実には養豚場の豚や、生簀の魚をうらやむ人ばっかりです。彼らは生きるのに何不自由ありません。不自由の無い、より良い暮らしの理想と言っても言い過ぎではないと思います。ただ毎日を明るく楽しく、あるいは無難にそつなく、あるいは叶えたい夢や目標のために、あるいは今日の命をつなぐために、とにかく不自由の無い、より良い暮らしのみを求めているなら、つまりはそういうことです。

みんな暮らしには思いを巡らせますが、生きるということそのことに疑問を抱かず、必ずやってくる死を考える人がいません。疑問を抱き、考えても、それを越えてゆくにはどうしたらいいか、答えに到りつく人がいません。答えを教えてくれる教えが無く、その教えを知っている人がいません。そうやって何の解決法もないまま生きていった先が、死出の山路、三途の大河なら、一体何のための人生なんでしょうか。それで動物とは違う、人としての一生を生きたと言えるのでしょうか。これだから世人は薄俗だというのです。釈尊のお言葉は当然すぎるほど当然と言わねばなりません。

このようなアニメをきっかけに、自分も鬼のような存在であり、そして必ず死すべき存在であることに気づき、浄土を欣求し穢土を厭離しようという思いに至る人があればなぁと思ったのでした。


以上で、『約束のネバーランド』アニメ1期を見ての感想を終わります。どんなアニメか気になる方はアマゾンプライムなどで視聴することができます。また、実写版の『約束のネバーランド』が今日から映画館で公開されますし、来年1月からはアニメ2期もスタートするそうなので、気になる方はチェックしてみて下さい。

どういうことだ?

親鸞会によれば、生きる目的は万人共通だという。『なぜ生きる』によれば

万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、“よくぞこの世に生まれたものぞ”の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである(p.3)

とある。要は、この世から未来永遠に亘って幸せになる、ということのようだ。しかも、それが親鸞聖人生涯のメッセージであるかのように書かれている。

では、その万人共通の生きる目的とやらを果たすのに高森顕徹会長という特定の一個人、『浄土真宗親鸞会』という特定の一宗教団体にあれこれ尽くさなならんというのは一体どういうことだ? 


親鸞会で勧めていることは、つまりは高森顕徹会長(親鸞会)の話を聞くことであり、高森顕徹会長(親鸞会)のところへ人を誘うことであり、高森顕徹会長(親鸞会)に献金することであり、高森顕徹会長(親鸞会)の指示に無条件に従うことだ。善の実践だとか仏法のためだとか綺麗事を言っているが、実際はこれである。同書には

それほど有名で、強い関心を持たれている聖人だが、その思想はアキレルほど誤解曲解されていることに驚く。(p.3)

とあるが、「アキレルほど誤解曲解されていることに驚く」のはこっちである。そして、高森顕徹会長の教えの信奉者は、それを頑なに信じて人の話を聞かない、聞く耳を持たないことに驚く。会員は、いつまで親鸞聖人を騙った偽の教えに騙され続けるのだろうか。

再度ここで、親鸞聖人の教えと、それを「アキレルほど誤解曲解」している高森顕徹会長の主張との相違点を『飛雲』より紹介させて頂く。

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親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

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早く親鸞会教義の誤りに気づいて脱会し、本願を信じ念仏される方がより多く現れることを願う。

なむあみだぶつの絵本読もう

うちの三女(4歳)は末っ子の特有なのか、甘え上手でわがままだ。自分や妻にうまーく甘えるその姿に、特に次女が激しく嫉妬している。いやぁ、お前が三女と同じ歳にはもう下がいて、同じようには構ってやれなかったからな・・・すまぬ・・・

また、姉達や保育園のお友達の影響もあるからか、年の割によく口が回る。この前も、保育園を嫌がる娘に

「○○ちゃんは保育園が好きだろ?」

と言ったら、

「パパは仕事が好きだろ?」

と返してきた。保育園にはお友達もいるし、先生方も優しいし、冷暖房完備で快適だし、自分と家で過ごすよりは余程いいだろうと思っていたが、それでも保育園の方が嫌なようだ。自分には理解できないが、まぁ自分の仕事くらい保育園が嫌いなら仕方ないかと、最近はコロナの影響もあって自分が休みの日は一緒に過ごしている。


その三女は、近頃どういうわけか妻ではなく自分と一緒に寝たがる。長女はママ一辺倒、次女もママ好きで、自分も小さい頃は母親としか一緒に寝た記憶が無いことを考えるとこれまた理解できない。

これには嬉しいは嬉しいのだが、しかし寝相がとんでもなく悪くて、夜中によく起こされてしまうので困りものだ。ただでさえ疲れて眠いのに、更に疲れが取れないような状態で、正直一緒に寝るのは・・・とためらう。

ところがこの三女、自分と寝る時の誘い方が実に巧みで、

「パパのへやで、なむあみだぶつの絵本読もう」

という具合だ。『なむあみだぶつの絵本』とは10年以上前に華光会で購入したおつとめの本(礼拝聖典)のことなのだが、本当に巧い。さすがにこう言われると断れない。

で、一緒に読み始めるのだが、やれページをめくらせろだとか、やれふりがなを見ては

「これは○○ちゃんの『み』だ、これは●●ちゃんの『こ』だ」

などと言って割り込んできて中々進まない。しまいには途中で飽きてしまって、ベッドの上でぴょんぴょん跳ね回っている。時には念仏和讃の途中で寝落ちしている。

それでも、門前の小僧習わぬ経を読むで

「きみょーむりょうーじゅーにょらーい
なーむーふーかーしーにーこー」

と最初の二行くらいは覚えているのは嬉しく思う。いつまで自分と正信偈和讃を読んでくれるか分からないが、少しでも今を大切に、娘と一緒に拝読したいと考えている。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

俺のような者でもできる往生の行は、本願の念仏しかない

久しぶりの更新です。
一部では淳心房死亡説が流れていますが、一応まだ生存していますのでご承知おき下さい。

更新ができなかったのは仕事と家庭の事で忙し過ぎたためです。

仕事では、新型コロナウイルス感染症のために宅配の需要が極端に伸びて、4月辺りから物量が通常の1.5倍~2倍ほどに増加しています。朝から180個、190個、時には200個以上持ち出して、更に追加で何十個と配達する日々。毎日毎日うんざりする物量にほとほと疲れています。

家庭では、同じくコロナのために学校の休校やら保育園の登園自粛やらが続き、自分も妻も仕事の日は子供らに弁当を作ったり、休みの日も食事を作ったり相手をしたりという日々が続いています。緊急事態宣言以後の給食の復活は非常に有難かったですが、今は夏休み期間中で、平日はせっせと弁当を作っています。

仕事か家庭か。どっちかならいいんですが、このダブルパンチで来られるとさすがにつらい。休む時間が無いんですよ。それでしばらくブログの方はお休みしていたというわけです。今後も、まだ当分コロナはおさまりそうにないので、ブログの更新等は色々と落ち着いたらということで・・・。


さて、それにしてもこのような状況下でも、また俺のような者でもできる往生の行というのは、やはり本願の念仏しかないとつくづく思い知らされました。

正直今は、必要な事以外何にもやる気が起きません。その必要な事の中でも最低限の事しかやる気が起きません。その最低限の事の中でもやりたくない気持ちいっぱいです。とても往生の行どころではありません。

造像起塔とか、智慧高才とか、多聞多見とか、持戒持律とか、このような行をする者を往生させるという本願であったならば、他の方々はいざ知らず、淳心房のような貧賤、愚痴、少聞少見、破戒無戒のものは定めて往生の望みを絶たねばならないところでした。

第一、親鸞会の活動にすらまともについていけなかった淳心房ですから、出離・往生とは無縁、悪道に沈むより他にありません。たもちやすく称えやすい南無阿弥陀仏の名号を考え出してくださり、この名号を称えるものを浄土に迎えとろうと御誓い下されたのは、ひとえにこの淳心房一人のためでした。

相変わらず苦悩の尽きない人生ですが、ひとえに本願の名号を口に称え、南無阿弥陀仏に往生をおまかせして、浄土に往生したいと思うております。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

悪口、不平不満ばかり言うその口で南無阿弥陀仏を称えるのだ

山家の伝教大師は
 国土人民をあはれみて
 七難消滅の誦文には
 南無阿弥陀仏をとなふべし

一切の功徳にすぐれたる
 南無阿弥陀仏をとなふれば
 三世の重障みなながら
 かならず転じて軽微なり
『浄土和讃』現世利益讃

この前、上のような現世利益讃を拝読している内にこのようなことを考えました。

淳心房、お前、口を開けば人の悪口ばかり言うておるじゃないか。不平不満ばかり言うておるじゃないか。その口で南無阿弥陀仏を称えるのだ。南無阿弥陀仏と称えることは仏を誉め讃えることになる。それはまた、罪を懺悔することにもなる。

『尊号真像銘文』には次のようにあります。

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。

南無阿弥陀仏を称えることは、「仏をほめたてまつるになる」「無始よりこのかたの罪業を懺悔するになる」というのです。こちらは別して仏を誉め讃えたり罪を懺悔したりするつもりでなくとも、そうなると教えられています。これがありがたいところです。

私には申し訳ないけれどもそのような殊勝な心がありません。起きてきません。造悪は止まず、その報いで苦しむしかありません。それが念仏することは嘆仏、懺悔となって下さるというのですから、今後も悪業を造って苦しむはずであった果報は自ずから変わってくるはずです。


法のお育てを受けていきますと、少しずつですが、仏さまを中心とする考え方というものができてきて、自然と悪を慎むような心がけができてきます。勿論、造作も無く縁によってむさぼりの心、怒り、腹立ち、憎しみの心が出てくるのは変わりませんが、それを恥ずかしい、申し訳ないと反省、懺悔するような心も起きてくるのです。

本来そのような性分でなかった私にそのような心が起こってくる。これは、阿弥陀仏や諸仏方、菩薩方や神々の護念摂護にあずかっているから、そのおかげによって起こさしめられるのではないかと思うのです。

・七難消滅の誦文には南無阿弥陀仏をとなふべし
・三世の重障みなながらかならず転じて軽微なり


以前はそんなこともあるもんかいなと考えていましたが、このように考えてまいりますと今は故あることではないかと思われます。勿論これは私の味わいなので、そのように捉えて頂きたいと思います。尤も、現実の悪果が善転することを期待して念仏するというのは本末転倒です。念のため。


色々申しましたが、要はつべこべ言わずになんまんだぶせいということだと味わいました。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

仏心を体現した医師団のはずなのに・・・

a様よりコメントを頂きました。ありがとうございました。


実際、添付されているURLを開いてみると、赤の太字で次のように書かれています(4月19日現在)。

なお、当院では新型コロナウイルスの検査(PCR検査)を実施することは
できませんのでご了承ください


病院や老人ホームにおけるクラスター(集団感染)が広がりつつありますので事情のほどはお察ししますが、かの病院は「仏心を体現した医師」の集団ではなかったでしょうか。


なお、院内の書には

あれを見よ
 みやまの桜
 咲きにけり
 真心つくせ
 人知らずとも




驚くな
 諸行無常と
 説かれたり


等の作品があるそうです。「仏心を体現した医師」ならば、今まさに苦しんでいる人々に真心尽くして救いの手を差し伸べるべきではないか、そしてそういう人々に「諸行無常」を通して往生のみちを示して差し上げたらよいのではないでしょうか。まぁ詮ずる所は各々の病院の判断ですがね・・・。しかし「仏心を体現した医師」の集団がこれではねと考えてしまいます。



余談ですが、教義云々は置いといて、今回の全国民に一律10万円給付という政策を私は評価しています。元々の30万円給付は収入の落ちた人々の救済措置ということですが、線引きが難しいですし、30万円程度では到底足りないという方もいらっしゃるでしょうし、それに関連する詐欺も多発するでしょうし・・・。当然、全国民に一律10万円給付というのも問題が無くはありませんが、苦しんでいるのは国民全体です。新型コロナ対応を拒否しているどこかより、国民全体でコロナ問題を乗り切っていこうという姿勢は評価できます。

親鸞会の皆さんは、もし全国民に一律10万円給付が現実化した場合、どうするのでしょうね。気になります。

人として生まれたからには必ず死ぬ

今日は花祭りで祝うべき日なのだが、世間はそれどころではない。

遂にというか、今更というか、7都府県を対象にコロナウイルス感染症に関する緊急事態宣言が発令された。毎日毎日、新聞もテレビもラジオもネットもコロナコロナで気が滅入ってしまう。この先行きの見えない状態が、少しでも快方に向かうことを願う他ない。


ところで、今や全世界の人々がコロナウイルスの情報に関して非常に関心を持ち、対策をしていることと思う。それは、コロナウイルスで死に至るからに他ならない。

AFPが各国当局の発表に基づき日本時間7日午前4時にまとめた統計によると、世界の新型コロナウイルスによる死者数は7万3139人となっているそうである。
新型コロナウイルス、現在の感染者・死者数(7日午前4時時点) 死者7.3万人に

コロナウイルスにかかってもほとんど死者が出ないならばこんなに大騒ぎしない。沢山の人が死ぬから、これほどの騒動になっているのだろう。

しかし、コロナウイルスにかからなければ人は死なないかと言ったら全くそんなことは無い。コロナウイルスにかかろうとかかるまいと、人として生まれたからには必ず死ぬ。この事実は微動だにしない。

けれども、多くの人はコロナウイルスには騒いでも、必ず死ぬという「自分の死」、そして死んで行く先には騒がない。これに驚かない人には宗教は無縁である。縁があったとしてもこの世を生きる道具のようにしか思えないだろう。そういう人には地獄も極楽も問題にならなければ、念仏やその信心もどうでもよいものであろう。

浄土には往き易くして人無しと言われるが、至極尤もなことである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

ごちそうさまでした。なんまんなんまんなんまんなんまん

次女(6歳)は恥じらいがあるというか、大分周囲に対して「こんなことを言ったらどう思われるか」と気にする。

この前も末娘(3歳)がショッピングモールのフードコートで

「ごちそうさまでした。なんまんなんまんなんまんなんまん」

と大きい声でやっていたのを気にしていた。

末娘はまだそんなことお構いなしだから、こうやって出てくる。これがいいなぁ。


やがて末娘にも次女と同じような感情が芽生えるだろうが、出るものは止めずに出してやったらいい。

この凡夫の口からなんまんだぶが出てくるということは仏さまが説法獅子吼しているのとおんなじだと桜井和上は仰る。『大無量寿経』、ひいては釈尊一代の仏教を一言で言えば「南無阿弥陀仏」と教えて頂くのだからそういうことだろう。フードコートで娘の口を通して仏さまの説法獅子吼に遇わせて頂いたと思うと嬉しい。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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