FC2ブログ

お念仏しながら髭を剃ってみた

この記事の後日談。

私もお念仏しながら髭を剃ってみた。

一応剃れないこともない。

500年前とは違って今はくっきり映る鏡もあるし、髭剃りクリームもある。また、今自分が使っているカミソリはシッククアトロの5枚刃だから、そうそう口の周りを切る心配も少ない。

ただ、大雑把には剃れるが、特に口角の辺りをきれいに剃ろうとすると口をすぼめなければならない。その時はきちんと発音できず、どもった声の念仏になってしまった。

さすがに道宗のような、割り木を敷いて寝るようなことはできないが、先人の念仏者を尊敬し、自分も如来回向のお念仏を称え聞きつつお浄土へ旅する人生を生きたい。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
スポンサーサイト



津国郡家の主計と申す人あり。ひまなく念仏申すあひだ、ひげを剃るとき切らぬことなし。わすれて念仏申すなり。

昔の念仏者には我々の常識ではとても考えられない方が多くいた。例えば摂津の国の主計。

『御一代記聞書』(62)
一 津国郡家の主計と申す人あり。ひまなく念仏申すあひだ、ひげを剃るとき切らぬことなし。わすれて念仏申すなり。人は口はたらかねば念仏もすこしのあひだも申されぬかと、こころもとなきよしに候ふ。

【現代語訳】
 摂津の国、郡家村に主計という人がいました。
いつも絶えることなく念仏を称えていたので、ひげを剃るとき顔のあちこちを切ってばかりいました。
ひげを剃っていることを忘れて念仏を称えるからです。
「世間の人は、ことさらつとめて口を動かさなければ、わずかの間も念仏を称えることができないのだろうか」と、何とも気がかりな様子でした。


これについて、『我が師村田和上』(桜井 鎔俊)には次のように記されている。

津の国とは摂津国(現大阪府)、郡家は役名であろう。『伝記』に依れば、この郡家の主計なる人物は、非常に貧しくて困り果て、清水の観音に「福徳を授かりたい」と祈願した。満願の霊告に、「これより東の方へ尋ねて行け。必ず汝に福徳を授けてくれる人に出会うであろう」というお言葉を聞き、お告げのとおり東の方を尋ねて行くと、数人のお同行たちがお寺参りの帰りらしく、念仏して通るのに行き合い、事の次第を語り、尋ねると、異口同音に「それは野村殿(蓮如上人住居、住居をもって聖者の尊称とした)のことであろう」と、上人のご住居を教えてくれた。教えられたとおり野村殿に上人を訪ね、詳しく次第を物語ると、上人は快く承諾され、「七日間滞在し、続けて法縁に会いなさい」と言われるのであった。彼はお言葉のとおり毎日法縁の席に列していた。三日目の法縁の果てた後、一般の参詣者は帰っても、彼は独り残り、大声をあげて泣いていた。上人が、その訳を尋ねられると、彼は答えて言う。「われこの世の福徳に惑い、後生の大事を忘れたり」と。

この返答の語は原文のままを掲載したが現代語で言えば、夢幻泡影の如く実体のない幸福を追及して、永遠不滅なる真実の幸福の何であるかを知らなかったと、懺悔したのである。その時、上人は彼の懺悔を尊く思われ、彼のために一文を書き与えられたのが、現在まで伝わっている蓮如上人五帖一部の『おふみ』の第五帖目第六通であるという。

一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、和讃に聖人のいはく、五濁悪世の有情の、選択本願信ずれば、不可称不可説不可思議の功徳は行者の身にみてり。(以下略)

 この『おふみ』の書きぶりが、他の『おふみ』の書きぶりと、かなり違っている点を考えると、かの『蓮如上人伝記』の編者の伝えたところの物語とともに、いかにも真実を伝えているように思われる。このことは、村田和上の御法話にも出たことがあった。この予備知識をもたずに、かの『蓮如上人御一代聞書』のグンケのカズエの条下を読んでも「ヒゲをそるときも念仏を忘れず申すので、顔を切らぬことがなかった」と蓮如上人から誉められるような念仏者に、どうしてなり得たのか、理解に苦しむであろう。

(p.211~p.213)


私もこれを読むまではどうして髭剃りしている時まで、口の周りを切ってまでお念仏しているのか理解できなかったが、こういう物語を聞かせて頂くとそれが少し分かる気がする。

蓮如上人は信心決定の人のまねをせよと仰せられている()が、信心決定の念仏行者であるならばなおさら先人のお念仏に対する姿勢位は見習わねばならないと思った。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

壮大な南無阿弥陀仏の無限ループ

「名号を称える者を極楽に迎える」という本願を聞いて仰せの通り南無阿弥陀仏と称える。

その声を「助けるぞ」「極楽に迎えるから安心せよ」「安心して我にまかせよ」との如来の仰せと聞かせて頂く。

そして、既にお助けにあずからせて頂いたことの有難さ尊さよとまたお念仏申す。

そのお念仏の声をまた如来の勅命と聞かせて頂く。



私は最近、これを命の限りループしてお浄土へ生まれさせて頂くのかなと思います。これが往相回向で、浄土に参った暁には、今度は私が南無阿弥陀仏と成って有縁の方々の口に耳に称え聞こえるのかなと思います。これが還相回向というのかなと、このように味わっております。

壮大な南無阿弥陀仏の無限ループとでも言いましょうか。このおはたらきに出遇わせて頂けたのは、まことに有難いことです。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

信心が正因か、念仏が正因か

信心が正因か、念仏が正因か。

よくこんなことを問題にする人がありますが、私に言わせれば、こんな問い自体がナンセンスです。

向こう岸に渡ることができたのは船のおかげですが、船に乗せて運んでもらったからとも言えます。
病気が治ったのは薬のおかげですが、薬を飲んでよく効いたからとも言えます。
船も大事ならそれに乗るというのも大事です。薬も重要ならそれを飲むことも重要です。
何でも乗ればよい、飲めばよいというものでもありません。泥船では沈没してしまいます。効果のある薬でなければ病気は治りません。
一方で重い私を載せて向こう岸まで往ける船でなければなりませんし、重い私の病気を治療することのできる薬でなければなりません。
しかしもう一方で、船があっても乗らねば向こう岸に着けませんし、薬があっても飲まねば病気は治りません。
船と乗る、薬と飲むは両方大事であり、目的を果たすには不離一体のものです。

この場合、船、薬にたとえたのは念仏であり、乗る、飲むにたとえたのは信心です。ちなみに、今の念仏のところを名号で説明する方もありますが、法然聖人は船に関しては不明ですが、薬に関しては念仏で説明されています。親鸞聖人は船は大行利益のところで大悲の願船とたとえられていますし、薬は法然聖人のそれを引き継がれているので、私もそれに倣って念仏でたとえています。


つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

「行文類」大行釈では、これから示す大行と共に、後に詳細する大信までも同時に示されています。念仏も信心も、共に阿弥陀仏より回向される選択本願の行信ですから、上のような問いをする人は、阿弥陀仏の計らいになまじいの凡夫の計らいをまじえているのでしょう。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。
これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。
信行一念章

とあるように、行と信は「弥陀の御ちかひ」ですから、念仏を一声称えて往生すると聞き、本願を疑いをまじえずに受け容れて、一声、十声、更に一生涯称えさせて頂くのが本願のおこころにかなった念仏の行者です。

それでも信心が正因であって念仏が正因ではないなどという人は、

「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。『尊号真像銘文』

「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。『唯信鈔文意』

等の親鸞聖人のお言葉を否定する者でしょう。念仏正因であり、信心正因です。その関係は、念仏が往生成仏の正因であると深く信じた信心が往生成仏の正因であるという関係です。念仏が往生成仏の正因でなければそれを信ずるも何もありません。両者は離れたものではないのです。

念仏は万人に共通に与えられている往生のみちです。しかし、それを私が受け容れなければ私のみちにはなりません。それで、念仏往生の法を機の側で適示するならば、これを受け容れる信心を正因とするのです。


念仏一行を称えて間違いなく往生するとふたごころなく信じ、信じて称える。こうした一心一行の勧めが、すなわち親鸞聖人のお勧めです。もし「念仏は往生の因ではない」などとお考えの人がいたら、

念仏は往生の因ではない

と教えられた聖教の根拠を示すべきでしょう。ただ私が調べた限りではこのような御文は祖師方のお言葉の中には見つけることができていません。なお、言っておきますが、

涅槃の真因はただ信心をもつてす

等はその根拠とはなりません。「ただ信心」の信心は「念仏の信心」であって念仏と無関係な信心ではないし、またこの御文はその前に

問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに、論主(天親)一心といふや。
答ふ。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども


とあるように本願の至心・信楽・欲生の三心と、天親菩薩の一心との関係について述べられている箇所であって、念仏と信心の関係について述べられている箇所ではないからです。


聞く者が自力に陥らないようにとの配慮なのかも知れませんが、それにしても「念仏は往生の因ではない」というのは違います。念仏は浄土真実の教であり行であり、そして法であります。そこに称える行者の心持ちからすれば報謝の念もあるという話です。ただの信後のお礼というような、スケールの小さいものではありません。

信心が往生の正因と教えられるから短絡的に念仏は往生の因ではないという考えに陥りがちですし、そのように説いたり話したりする方もあると思いますが、私はそれに関しては反対です。信心が大事、ただ信心のみと言うけれども、その中身を精査する必要があるでしょう。

ちなみに、「ただ信心のみ」とはキリスト教でも言うそうです。

「最近できるようになったこと」

この前長女が、学校での出来事を話してくれた。その中で、プリントに

「最近できるようになったこと」

を書いたそうなのだが、突然何と書いたかと問われた。


漢字が上手に書けるようになった、計算問題が早く解けるようになった、料理ができるようになった・・・


思いつくものを色々答えたが、どれもハズレ。答えを聞くと、(正確な文言は忘れてしまったが)


食べ物をありがたいと感じることができるようになった


と書いたという。



自分には大人になって仏法を知らされるまでそんな感覚は無かった。確かに2人で食事をする時に、度々お肉やお魚の命を頂いて我々は生きていることを話しているが、子供心にそう感じてくれていたとは有難いことだと思った。

自分も含めて、人間が動物の命は勿論、様々なものの命を奪って生きることは当然のことのように思っている人が多いのではないだろうか。特に戦後、西欧思想に影響を受けて、肉食が当たり前になっている現代人の多くはそうではなかろうかと思う。例するにことりさんの

命に対する葛藤はないのか?

の記事の如くである。

普段は仏とも法とも無い、法滅さながらの環境を生きている私。進んで法に触れさせて頂き、如来広大の恩徳を始めとして、様々な人やものの御恩を知り、それを感じて生きていきたいものである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

阿弥陀仏の薬

先日、麻薬や覚せい剤関係でまた芸能人が逮捕されたと聞いた。その人が有名な映画やドラマ、劇や舞台などに出演していればいるほど大変だ。未公開なものは演者や声優を差し替えて撮り直しを、今公開しているのであれば公演中止等を余儀なくされ、既に公開して出回っているものに関しては回収されることもあるらしい。まことに自損損他の咎逃れ難いことである。

ところが私は、麻薬や覚せい剤関係に手は染めていないものの、無明という酒にはついつい手を出している。飲んでは後悔し、後悔しては懲りずにまた飲むという毎日。本当にダメな父ちゃんだ・・・

また怒りにまかせて子供達を叱ってしまった。
また睡眠欲に抗えず子供達と十分に遊べなかった。
またあまりの仕事量にイライラして同僚に当たってしまった。
また惰眠をむさぼって聖典を読み進められなかった。
・・・すまぬ・・・

親鸞聖人は自らを「精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして・・・」と懺悔しておられるが、我が身の懈怠ぶり、精進の心のなさと比べたら「いやいやいやいや何を仰いますか聖人さま」と思ってしまう。

親鸞聖人を引き合いに出さなくても、妙好人として伝えられる浅原才市さんとか、無量精進仏の化身のような自分の先輩と比べても、自分の情けなさ、不甲斐なさが際立ってしまう。

実に根っからの悪人、真性の怠け者である淳心房。しかも、中々聴聞にも参れないときてる。そんな淳心房だからこそ阿弥陀仏の薬は手放せないし、これだけは切らしてはならないと強く感ずる。

まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。『末灯鈔』20通

あまりに欲や怒りが逆巻いて念仏する気にもならず、念仏していてもちっとも味気ないこともしょっちゅうだが、そのように欲や怒りしかないこの煩悩の只中に、よく阿弥陀さまの喚び声が届いて下さったものだなとも思う。

この口から出る一声一声が、知らず知らずのうちに心のブレーキになっていることに後で気づく。

普段、何気なく称えている一声一声が「まちがわさぬぞ」「助けるぞ」「安心して我にまかせよ」とのお喚び声であり、如来のお育てにあずかっていることだとは、何とも言えず有難く、かたじけないことである。

阿弥陀仏の薬をつねに好みめして生きていきたい。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『本願力』金魚掬いの救いと磁石のはたらき

日向と日陰

あれほど暑かった夏も、そして秋も過ぎ、もう今年も12月になってしまった。本当に早い・・・。いよいよ寒くなり、太陽の光が恋しくなってきた。日中、日陰に入るととても寒く、日向を求めたくなる。

蓮如上人は『御一代記聞書』307にこのように仰ったと伝えられている。

一 陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

万物を生み出す力に陽の気と陰の気とがある。陽の気を受ける日向の花ははやく開き、陰の気を受ける日陰の花はおそく咲く。そのように、宿善が開け、信心獲得するにもおそい・はやいの違いがあるというのである。


蓮如上人は主に信前の人を勧化するためにこう仰ったと思われるが、

信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなり

ともあるように、信後の人にも同様に心から仏法を聴聞するように勧められている。

信後も、相変わらず仏の教えに反逆し続ける自性は変わりない。欲は起こすし腹は立てるし、ねたみそねみ、憎む心はとどまらず消えず絶えずで、悪いとは思いながらも止めることができない。仏道の死骸とは他ならぬ自分のことを言うのだなと反省せざるを得ない。

法に触れ、教えの光を身に受けなければ、この時期乾燥して体中から水分が抜けていくように、教えて頂いたことや有難い思いが心から体から抜けていってしまう。世俗に埋没し、周囲に仏法の「ぶ」の字もない環境下で暮らしている私なんかなおさらだ。

ならばこそ、常に法に触れ、教えを受けて、有難い光が差してくるように、暖かくなってくるようにしなければならない。それもしないで有難い、嬉しい気持ちが起こらないのは、あたかも真冬に日陰で、冷たい風にさらされる場所にいながら「寒い寒い」「なぜ暖かくないのか」と言っているようなものであると思う。

蓮如上人はまた、『御一代記聞書』(88)にて次のように仰ったという。

一 人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ籠に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その籠を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。

その籠を水につけよ」。心がけたいことである。これを解説して梯實圓和上は

仏法についての知識を蓄えようとばかり努めるのは、学習ではあっても、まことの聞法ではありません。肝心のことを聞き落としているからです。私が老耄して、たとえ如来さまを忘れてしまうようなことがあったとしても、私を決して忘れてくださらぬ阿弥陀如来さまのましますことを聞いていないからです。
如来の救いを記憶しようとすることは、如来を自分の心の中に取り込もうとしているのであって、目の粗い籠に水をためようとしているようなものです。まことの聞法は、その籠を水につけておくように、自分が如来の大悲に包まれていることを聞いて喜び、如来の大悲にわが身を任せることなのです。忘れることを悲しむよりも、また聞くことを楽しむのです。


と仰せられたという。如来を取り込もうとするのではなく、如来の大悲に包まれていることを知らせて頂くことがまことの聞法であると受け取らせて頂いた。私には非常に有難く感じられる。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『用管窺天記』その籠を水につけよ

弥陀をたのむ人生を

保育園の、親同士の飲み会の席のことである。

その会はほとんどママさんで、旦那はいないためにしばしば旦那への愚痴話が聞かれた。どんな仲むつまじい間柄だって相手への不足や不満の一つや二つはあるんだから、パートナーへのそれは当然あるだろうな。まぁ愚痴をこぼすことによって少しでも日頃の鬱憤が晴れて前向きに生きられるならと思って聞いていた。

その中で、あるママさんが「旦那からの愛情が感じられない」と嘆いていた。一説によると、男性は愛情をしぐさで表現し、あまり言葉では表さないらしい。対して、女性は言葉でハッキリと愛していると伝えてほしいそうだ。―無論、全ての男性、女性がそうではないだろうが―

そのママさんは、冗談半分か、酔った勢いかは知らないが「浮気してやる~」と言っていた。それを見て、

「愛をたのむ人生を生きちゃダメだ。
愛をたのむよりは、弥陀をたのむ人生を・・・」

と密かに思った。


愛をたのむ人生は、常に期待と不安に揺れ動く。
確かに人生、愛がなくては生きてゆけない。

ところが、愛する人が自分を愛してくれるとは限らない。
愛しい人の愛を得られない苦しみは、愛が募る分だけ大きい。
愛が得られなければ、生きていても仕方がないと思わしめるほど。

ただし、幸いにして結ばれても、その愛の心は続かない。
人間の愛は、冷めもするし、心変わりもする。
悲しいことにウソと偽りと裏切りが付きもの。
とろけるような幸福感は、次の瞬間には崩壊につながっている。

そして最も悲しいのは、憎しみに転じかねないこと。
恋愛のもつれは勿論、家族、恋人同士で殺し合う愛憎の悲劇は後を絶たない。

しかして、どんなに愛し愛されていても必ず別れてゆかねばならない。
心中したとて、死んでゆくのは一人一人。決して一緒にはなれない。
詮ずる所、愛のみでは人間は幸福にはなれない。
まして生死苦悩を脱することは決してできない。

やはり、愛憎を超え、生死苦悩を超える道は念仏往生の一道よりなかろう。
同じく阿弥陀仏より賜るお念仏によってのみ、俱会一処とまた遇える世界のあることが知らされる。
同じく阿弥陀仏より賜るご信心によってのみ、怨親平等に救われる世界のあることが知らされる。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

寺カフェ

最近、寺カフェなるものが流行っているらしい。この前ラジオで紹介されていた。
↓↓↓
寺カフェ代官山

ラジオでは聞き逃したため何宗の寺なのか分からなかったが、

浄土真宗本願寺派 生田山 信行寺 春秋苑

と一番下に書かれている。真宗のようだと知って少し驚いた。

ホームページには、

仏教を皆さまにとってもっと身近なものにしたい。


私たちの寺カフェは現代の人々の、いわば「駆け込み寺」です。
何かに思い悩んでいる。誰に相談したらいいかわからない。こんな小さな悩みを笑われたらどうしよう。
お寺ってどうなんだろう? でも今まで行った事がないから敷居が高い。

皆さんが行きにくいなら、私たちから出かけて行こう。
それが寺カフェです。


このように寺カフェを運営するに当たっての動機が書かれている。これによって、宿善の機(関心のある人)が浄土真宗の教えを知り、本願を信じ念仏を申す同行となって下されば有難いご縁である。


時に親鸞会サン。もしこれを「事業仏教」と罵倒するのなら、食事処「サンキュー」や安心弁当などを経営し、呼び込みにギネス認定を受けて世界一大きい畳部屋を誇っている貴方がたも、十分「事業仏教」ですよ。

鸞聖人・御命日

今日は親鸞聖人の御命日である。ということで鸞聖人・御命日の『御文章』を拝読。

 そもそも、今日は鸞聖人(親鸞)の御命日として、かならず報恩謝徳のこころざしをはこばざる人、これすくなし。しかれどもかの諸人のうへにおいて、あひこころうべきおもむきは、もし本願他力の真実信心を獲得せざらん未安心の輩は、今日にかぎりてあながちに出仕をいたし、この講中の座敷をふさぐをもつて真宗の肝要とばかりおもはん人は、いかでかわが聖人の御意にはあひかなひがたし。しかりといへども、わが在所にありて報謝のいとなみをもはこばざらんひとは、不請にも出仕をいたしてもよろしかるべきか。

されば毎月二十八日ごとにかならず出仕をいたさんとおもはん輩においては、あひかまへて、日ごろの信心のとほり決定せざらん未安心のひとも、すみやかに本願真実の他力信心をとりて、わが身の今度の報土往生を決定せしめんこそ、まことに聖人報恩謝徳の懇志にあひかなふべけれ。また自身の極楽往生の一途も治定しをはりぬべき道理なり。これすなはち、まことに「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」(礼讃)といふ釈文のこころにも符合せるものなり。

それ、聖人御入滅はすでに一百余歳を経といへども、かたじけなくも目前において真影を拝したてまつる。また徳音ははるかに無常の風にへだつといへども、まのあたり実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして、一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり。これによりて、いまこの時節にいたりて、本願真実の信心を獲得せしむる人なくは、まことに宿善のもよほしにあづからぬ身とおもふべし。もし宿善開発の機にてもわれらなくは、むなしく今度の往生は不定なるべきこと、なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。

しかるにいま本願の一道にあひがたくして、まれに無上の本願にあふことを得たり。まことによろこびのなかのよろこび、なにごとかこれにしかん。たふとむべし、信ずべし。これによりて年月日ごろわがこころのわろき迷心をひるがへして、たちまちに本願一実の他力信心にもとづかんひとは、真実に聖人の御意にあひかなふべし。これしかしながら今日、聖人の報恩謝徳の御こころざしにもあひそなはりつべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

  [文明七年五月二十八日これを書く。]


大意(『御文章ひらがな版・拝読のために』本願寺出版社より)

 今日は親鸞聖人のご命日ですから、参集の人々で、報恩の気持ちを持たない人は少ないでしょう。しかし真実信心を得ていないものが、ただ今日だけ参詣すればいいと思っているのなら、聖人のお心には沿いません。

けれども家にいて報恩のおつとめもしない人は、いやいやながらでも参詣するのもよいでしょうか。

毎月二十八日にかならず参詣しようと思っている人は、しっかりと心構えをし、信心をまだ決定していない人は、このたびの参詣ではやく他力の信心を決定して、浄土往生を定めるようにしてください。

そのようにしてこそ、報恩の気持ちにかない、また自らの浄土往生も定まるというものです。

このことは善導大師の「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」というお言葉にも合うものです。

聖人が入滅なさって百余年を経過しますが、今、目の前にご真影を拝することができ、またお声を直に聞くことはできませんが、み教えはそのまま伝えられて他力の信心は今も絶えることはありません。

このときに他力の信心を得なかったら、自分は、如来のお育てのご縁が実を結ばなかったと思わなければなりません。それは嘆いてもあまりあることです。

ところが、いま私たちは、本願の教えに遇いがたくして遇うことができました。これにすぎる喜びはありません。まことに如来の本願を尊び、疑いなく信じるべきです。このことにより、自力の心をひるがえして他力の信心をいただく人は、まことに聖人のお心にかなう人です。これこそ、聖人に対する報恩謝徳のこころがそなわったということです。



今日も仕事で、残念ながらどこにも参詣は果たせないが、聖典を拝読し、本願を仰ぎ念仏しつつその御恩徳を偲びたいと思う。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード