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どういうことだ?

親鸞会によれば、生きる目的は万人共通だという。『なぜ生きる』によれば

万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、“よくぞこの世に生まれたものぞ”の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである(p.3)

とある。要は、この世から未来永遠に亘って幸せになる、ということのようだ。しかも、それが親鸞聖人生涯のメッセージであるかのように書かれている。

では、その万人共通の生きる目的とやらを果たすのに高森顕徹会長という特定の一個人、『浄土真宗親鸞会』という特定の一宗教団体にあれこれ尽くさなならんというのは一体どういうことだ? 


親鸞会で勧めていることは、つまりは高森顕徹会長(親鸞会)の話を聞くことであり、高森顕徹会長(親鸞会)のところへ人を誘うことであり、高森顕徹会長(親鸞会)に献金することであり、高森顕徹会長(親鸞会)の指示に無条件に従うことだ。善の実践だとか仏法のためだとか綺麗事を言っているが、実際はこれである。同書には

それほど有名で、強い関心を持たれている聖人だが、その思想はアキレルほど誤解曲解されていることに驚く。(p.3)

とあるが、「アキレルほど誤解曲解されていることに驚く」のはこっちである。そして、高森顕徹会長の教えの信奉者は、それを頑なに信じて人の話を聞かない、聞く耳を持たないことに驚く。会員は、いつまで親鸞聖人を騙った偽の教えに騙され続けるのだろうか。

再度ここで、親鸞聖人の教えと、それを「アキレルほど誤解曲解」している高森顕徹会長の主張との相違点を『飛雲』より紹介させて頂く。

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親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.法の深信について

親鸞聖人 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず
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高森会長 浄土往生が火に触ったよりも明らかに知らされる

11.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

12.因果の道理について

親鸞聖人 罪福の因果を信じることは自力・仏智不思議を疑う心
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高森会長 因果の道理を深信しなければならない

13.三願転入について

親鸞聖人 聖道門の人を浄土門に導く方便が19願であり、19願の勧めはない
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高森会長 全人類は19願から始めなければならない

14.「一向専念無量寿仏」について

親鸞聖人 諸善を廃して念仏1つになること
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高森会長 阿弥陀仏1仏に向かって諸善をすることも含む

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早く親鸞会教義の誤りに気づいて脱会し、本願を信じ念仏される方がより多く現れることを願う。
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なむあみだぶつの絵本読もう

うちの三女(4歳)は末っ子の特有なのか、甘え上手でわがままだ。自分や妻にうまーく甘えるその姿に、特に次女が激しく嫉妬している。いやぁ、お前が三女と同じ歳にはもう下がいて、同じようには構ってやれなかったからな・・・すまぬ・・・

また、姉達や保育園のお友達の影響もあるからか、年の割によく口が回る。この前も、保育園を嫌がる娘に

「○○ちゃんは保育園が好きだろ?」

と言ったら、

「パパは仕事が好きだろ?」

と返してきた。保育園にはお友達もいるし、先生方も優しいし、冷暖房完備で快適だし、自分と家で過ごすよりは余程いいだろうと思っていたが、それでも保育園の方が嫌なようだ。自分には理解できないが、まぁ自分の仕事くらい保育園が嫌いなら仕方ないかと、最近はコロナの影響もあって自分が休みの日は一緒に過ごしている。


その三女は、近頃どういうわけか妻ではなく自分と一緒に寝たがる。長女はママ一辺倒、次女もママ好きで、自分も小さい頃は母親としか一緒に寝た記憶が無いことを考えるとこれまた理解できない。

これには嬉しいは嬉しいのだが、しかし寝相がとんでもなく悪くて、夜中によく起こされてしまうので困りものだ。ただでさえ疲れて眠いのに、更に疲れが取れないような状態で、正直一緒に寝るのは・・・とためらう。

ところがこの三女、自分と寝る時の誘い方が実に巧みで、

「パパのへやで、なむあみだぶつの絵本読もう」

という具合だ。『なむあみだぶつの絵本』とは10年以上前に華光会で購入したおつとめの本(礼拝聖典)のことなのだが、本当に巧い。さすがにこう言われると断れない。

で、一緒に読み始めるのだが、やれページをめくらせろだとか、やれふりがなを見ては

「これは○○ちゃんの『み』だ、これは●●ちゃんの『こ』だ」

などと言って割り込んできて中々進まない。しまいには途中で飽きてしまって、ベッドの上でぴょんぴょん跳ね回っている。時には念仏和讃の途中で寝落ちしている。

それでも、門前の小僧習わぬ経を読むで

「きみょーむりょうーじゅーにょらーい
なーむーふーかーしーにーこー」

と最初の二行くらいは覚えているのは嬉しく思う。いつまで自分と正信偈和讃を読んでくれるか分からないが、少しでも今を大切に、娘と一緒に拝読したいと考えている。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

俺のような者でもできる往生の行は、本願の念仏しかない

久しぶりの更新です。
一部では淳心房死亡説が流れていますが、一応まだ生存していますのでご承知おき下さい。

更新ができなかったのは仕事と家庭の事で忙し過ぎたためです。

仕事では、新型コロナウイルス感染症のために宅配の需要が極端に伸びて、4月辺りから物量が通常の1.5倍~2倍ほどに増加しています。朝から180個、190個、時には200個以上持ち出して、更に追加で何十個と配達する日々。毎日毎日うんざりする物量にほとほと疲れています。

家庭では、同じくコロナのために学校の休校やら保育園の登園自粛やらが続き、自分も妻も仕事の日は子供らに弁当を作ったり、休みの日も食事を作ったり相手をしたりという日々が続いています。緊急事態宣言以後の給食の復活は非常に有難かったですが、今は夏休み期間中で、平日はせっせと弁当を作っています。

仕事か家庭か。どっちかならいいんですが、このダブルパンチで来られるとさすがにつらい。休む時間が無いんですよ。それでしばらくブログの方はお休みしていたというわけです。今後も、まだ当分コロナはおさまりそうにないので、ブログの更新等は色々と落ち着いたらということで・・・。


さて、それにしてもこのような状況下でも、また俺のような者でもできる往生の行というのは、やはり本願の念仏しかないとつくづく思い知らされました。

正直今は、必要な事以外何にもやる気が起きません。その必要な事の中でも最低限の事しかやる気が起きません。その最低限の事の中でもやりたくない気持ちいっぱいです。とても往生の行どころではありません。

造像起塔とか、智慧高才とか、多聞多見とか、持戒持律とか、このような行をする者を往生させるという本願であったならば、他の方々はいざ知らず、淳心房のような貧賤、愚痴、少聞少見、破戒無戒のものは定めて往生の望みを絶たねばならないところでした。

第一、親鸞会の活動にすらまともについていけなかった淳心房ですから、出離・往生とは無縁、悪道に沈むより他にありません。たもちやすく称えやすい南無阿弥陀仏の名号を考え出してくださり、この名号を称えるものを浄土に迎えとろうと御誓い下されたのは、ひとえにこの淳心房一人のためでした。

相変わらず苦悩の尽きない人生ですが、ひとえに本願の名号を口に称え、南無阿弥陀仏に往生をおまかせして、浄土に往生したいと思うております。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

悪口、不平不満ばかり言うその口で南無阿弥陀仏を称えるのだ

山家の伝教大師は
 国土人民をあはれみて
 七難消滅の誦文には
 南無阿弥陀仏をとなふべし

一切の功徳にすぐれたる
 南無阿弥陀仏をとなふれば
 三世の重障みなながら
 かならず転じて軽微なり
『浄土和讃』現世利益讃

この前、上のような現世利益讃を拝読している内にこのようなことを考えました。

淳心房、お前、口を開けば人の悪口ばかり言うておるじゃないか。不平不満ばかり言うておるじゃないか。その口で南無阿弥陀仏を称えるのだ。南無阿弥陀仏と称えることは仏を誉め讃えることになる。それはまた、罪を懺悔することにもなる。

『尊号真像銘文』には次のようにあります。

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。

南無阿弥陀仏を称えることは、「仏をほめたてまつるになる」「無始よりこのかたの罪業を懺悔するになる」というのです。こちらは別して仏を誉め讃えたり罪を懺悔したりするつもりでなくとも、そうなると教えられています。これがありがたいところです。

私には申し訳ないけれどもそのような殊勝な心がありません。起きてきません。造悪は止まず、その報いで苦しむしかありません。それが念仏することは嘆仏、懺悔となって下さるというのですから、今後も悪業を造って苦しむはずであった果報は自ずから変わってくるはずです。


法のお育てを受けていきますと、少しずつですが、仏さまを中心とする考え方というものができてきて、自然と悪を慎むような心がけができてきます。勿論、造作も無く縁によってむさぼりの心、怒り、腹立ち、憎しみの心が出てくるのは変わりませんが、それを恥ずかしい、申し訳ないと反省、懺悔するような心も起きてくるのです。

本来そのような性分でなかった私にそのような心が起こってくる。これは、阿弥陀仏や諸仏方、菩薩方や神々の護念摂護にあずかっているから、そのおかげによって起こさしめられるのではないかと思うのです。

・七難消滅の誦文には南無阿弥陀仏をとなふべし
・三世の重障みなながらかならず転じて軽微なり


以前はそんなこともあるもんかいなと考えていましたが、このように考えてまいりますと今は故あることではないかと思われます。勿論これは私の味わいなので、そのように捉えて頂きたいと思います。尤も、現実の悪果が善転することを期待して念仏するというのは本末転倒です。念のため。


色々申しましたが、要はつべこべ言わずになんまんだぶせいということだと味わいました。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

仏心を体現した医師団のはずなのに・・・

a様よりコメントを頂きました。ありがとうございました。


実際、添付されているURLを開いてみると、赤の太字で次のように書かれています(4月19日現在)。

なお、当院では新型コロナウイルスの検査(PCR検査)を実施することは
できませんのでご了承ください


病院や老人ホームにおけるクラスター(集団感染)が広がりつつありますので事情のほどはお察ししますが、かの病院は「仏心を体現した医師」の集団ではなかったでしょうか。


なお、院内の書には

あれを見よ
 みやまの桜
 咲きにけり
 真心つくせ
 人知らずとも




驚くな
 諸行無常と
 説かれたり


等の作品があるそうです。「仏心を体現した医師」ならば、今まさに苦しんでいる人々に真心尽くして救いの手を差し伸べるべきではないか、そしてそういう人々に「諸行無常」を通して往生のみちを示して差し上げたらよいのではないでしょうか。まぁ詮ずる所は各々の病院の判断ですがね・・・。しかし「仏心を体現した医師」の集団がこれではねと考えてしまいます。



余談ですが、教義云々は置いといて、今回の全国民に一律10万円給付という政策を私は評価しています。元々の30万円給付は収入の落ちた人々の救済措置ということですが、線引きが難しいですし、30万円程度では到底足りないという方もいらっしゃるでしょうし、それに関連する詐欺も多発するでしょうし・・・。当然、全国民に一律10万円給付というのも問題が無くはありませんが、苦しんでいるのは国民全体です。新型コロナ対応を拒否しているどこかより、国民全体でコロナ問題を乗り切っていこうという姿勢は評価できます。

親鸞会の皆さんは、もし全国民に一律10万円給付が現実化した場合、どうするのでしょうね。気になります。

人として生まれたからには必ず死ぬ

今日は花祭りで祝うべき日なのだが、世間はそれどころではない。

遂にというか、今更というか、7都府県を対象にコロナウイルス感染症に関する緊急事態宣言が発令された。毎日毎日、新聞もテレビもラジオもネットもコロナコロナで気が滅入ってしまう。この先行きの見えない状態が、少しでも快方に向かうことを願う他ない。


ところで、今や全世界の人々がコロナウイルスの情報に関して非常に関心を持ち、対策をしていることと思う。それは、コロナウイルスで死に至るからに他ならない。

AFPが各国当局の発表に基づき日本時間7日午前4時にまとめた統計によると、世界の新型コロナウイルスによる死者数は7万3139人となっているそうである。
新型コロナウイルス、現在の感染者・死者数(7日午前4時時点) 死者7.3万人に

コロナウイルスにかかってもほとんど死者が出ないならばこんなに大騒ぎしない。沢山の人が死ぬから、これほどの騒動になっているのだろう。

しかし、コロナウイルスにかからなければ人は死なないかと言ったら全くそんなことは無い。コロナウイルスにかかろうとかかるまいと、人として生まれたからには必ず死ぬ。この事実は微動だにしない。

けれども、多くの人はコロナウイルスには騒いでも、必ず死ぬという「自分の死」、そして死んで行く先には騒がない。これに驚かない人には宗教は無縁である。縁があったとしてもこの世を生きる道具のようにしか思えないだろう。そういう人には地獄も極楽も問題にならなければ、念仏やその信心もどうでもよいものであろう。

浄土には往き易くして人無しと言われるが、至極尤もなことである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

ごちそうさまでした。なんまんなんまんなんまんなんまん

次女(6歳)は恥じらいがあるというか、大分周囲に対して「こんなことを言ったらどう思われるか」と気にする。

この前も末娘(3歳)がショッピングモールのフードコートで

「ごちそうさまでした。なんまんなんまんなんまんなんまん」

と大きい声でやっていたのを気にしていた。

末娘はまだそんなことお構いなしだから、こうやって出てくる。これがいいなぁ。


やがて末娘にも次女と同じような感情が芽生えるだろうが、出るものは止めずに出してやったらいい。

この凡夫の口からなんまんだぶが出てくるということは仏さまが説法獅子吼しているのとおんなじだと桜井和上は仰る。『大無量寿経』、ひいては釈尊一代の仏教を一言で言えば「南無阿弥陀仏」と教えて頂くのだからそういうことだろう。フードコートで娘の口を通して仏さまの説法獅子吼に遇わせて頂いたと思うと嬉しい。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

悲しい。

悲しい。


志村けんさんが亡くなってしまった。直接会ったことは無いが、子供の頃から「バカ殿様」「変なおじさん」で楽しませてくれた。大人になっても、子供達に志村さんのネタを真似て見せ、子供達をも楽しませてくれた。コロナウイルスに感染したとはラジオで聞いていたが、まさか亡くなってしまったとは信じられない。本当に悲しい。


今日から次女が小学校に上がる。めでたいことかも知れない。しかし、若干名同じ小学校へ通う子供達もいるが、保育園の同じ組の子達はそれぞれの小学校へ散り散りになる。せっかく全員の名前を覚え、一緒に遊んできたのに・・・。中にはもう二度と会わない子もいるだろう。めでたいのかも知れないが、俺にとっては悲しい。


お世話になってきた配達エリアのお店が年度末で閉店してしまった。いつも笑顔を絶やさないおばあちゃんが店主のお店。そこのパンがとても美味しかった。釣り銭で困った時は両替えしてもらっていた。そんなお店が、昨日通りかかったら閉店の張り紙が・・・。


諸行無常、会者定離とは聞いて知っているが、実際に出くわすと何とも虚しい、悲しい気持ちになる。

自分位の年になってくると、あまりいい変化というものは無い。正直、無い。それでも生きてゆかねばならないというのは、ある種の覚悟が要る。

これからも様々な別れはやってくるだろう。この身である限り悲しみは尽きないが、命ある限りはお念仏を申し、お浄土へ生まれ往く人生を生きてゆかねばと思った。なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

なんまんだぶおじさん

この前出がけに私がお念仏していたら、次女(6歳)が

「なんまんだぶおじさん」

と揶揄してきた。かまわずなんまんだぶ、なんまんだぶと申していると、今度は三女(3歳)が次女の真似をして

「なんまんなんまんおじさん」

と・・・。お前ら・・・。


これは如来からの誉め言葉と受け取っておく。

ますます念仏相続にはげみます。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・

仕事は暇な手足の有効活用

お念仏していると口は忙しいが、手足は暇だ。

その暇な手足で仕事をする。仕事は暇な手足の有効活用である。


それが、ついつい仕事が中心でお念仏はその次、そのついでという考えに陥ってしまう。

一体何しにこの世に生まれてきたと思っている?

確かにこの世は仕事をしなければ食べていけない。家族を養ってもいけない。食べなければ自分も家族も死んでしまう。生きてゆくには大事なことであり、決しておろそかにできないことに違いない。

けれども、仕事して食べておれば死なないかと言えばそうではない。いつまでも家族と共にあり続けられるかと言えばそんなことはない。必ず、早ければ今日にも、死んで、あるいは死なれて別れてゆかねばならない。

この世へは、この生死の迷いを離れ、真の安らぎを得て二度と迷いの世界に還ることがないようになるためではなかったか。全く、本願を信じお念仏申させて頂く身となっても私の考えは顛倒している。これだから、やはり仏法は聞いてたしなんでいかねばならないことが知らされる。


一 仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなりと[云々]。『御一代記聞書』157

【現代語訳】
「仏法を主とし、世間のことを客人としなさい」という言葉がある。
仏法を深く信じた上は、世間のことはときに応じて行うべきものである。


蓮如上人はこのように仰っている。このお言葉に関連して梯實圓和上は

愛憎の渦巻く日常生活を、ひたすら念仏を申し、如来さまと相談しながら、そのお導きを光と仰いで生きていくのが在家仏教


であると仰っている。顛倒の妄念絶えない私だからこそ、常に教えの光を受け、ひたすらお念仏を申して心得違いをその都度直していかねばならないと思った。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・



【参照】
『WikiArc』仏法をあるじとし…
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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