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【考察】念仏の勧めについてⅡ(1)

【考察】念仏の勧めについて

では、七高僧方がどのように本願をご覧になられたか、そして何を勧め、またそれを親鸞聖人がどのように教えられているかを見てきました。

いずれもいずれも、本願文の説明に念仏を抜かしておられません。それどころか、善導大師に至っては大胆にも大事な信心を抜かして、念仏のみで本願を語られています。念仏は、本願において阿弥陀仏が唯一選び択られた衆生往生の行です。阿弥陀仏は「念仏を称える者を極楽に迎えよう」と仰っておいでですから、私達はその誓いを深く信じて念仏すれば必ず浄土に往生できるのです。

念仏は阿弥陀仏の勧めです。阿弥陀仏が勧められているからこそ釈尊もまた念仏を勧め、諸仏も念仏の法の真実なることを証誠しているのです。釈尊の教えは八万四千を超えますが、末法五濁の世に生きる末代不善の凡夫である我々には、念仏の法による以外に迷いの世を出離することは不可です。ですから三国の祖師方は、ただ念仏の一行を勧めてこられました。それを受け継がれたのが親鸞聖人です。


繰り返しますが、念仏は、阿弥陀仏が本願においてただ一つ選択された衆生往生の行です。信心は、その本願に対する信心、本願の信心であり、言葉を換えると本願が成就して仕上がった名号、念仏を称える際の信心、念仏の信心です。本願の信心、念仏の信心は、「念仏を称える者を極楽に迎える」という本願を深く信ずること、称名念仏の一行で往生が決定すると深く信ずることです。分かりやすく言えば

「念仏一つで助ける」という本願を深く信ずる
「念仏一つで助かる」と深く信ずる


という信心です。「深く信ずる」とは疑いの心を押さえつけて信じ込むのではなく、「念仏一つで助ける」という本願の仰せを計らいをまじえずに受け容れたことです。これは自分で起こす信心ではなく、如来より回向される他力の信心です。また、本願が成就して仕上がったのが南無阿弥陀仏の名号ですから、その名号を称える「念仏一つで助かる」と疑いをまじえずに受け容れたことでもあります。本願の信心、念仏の信心、この二つは同じことです。

本願は既に成就し、南無阿弥陀仏と成って私に至り届いております。救いの法は既に与えられているのですが、これを私が信受しなければ、受け容れなければ、私の救いになりません。そのようなわけで、本願を、本願の念仏を受け容れた信心が往生の正因だと言われるのです。これが信心正因です。これを正確に言うと、念仏の信心正因です。

では、その信心が与えられたから往生は決定、後は何をする必要もない、念仏を称える必要もないのかと言ったらそうではありません。念仏は、一生をかけて相続していく行です。では、往生は決定したのに、信後の人は何のために念仏を称えるんですか、何か意味はあるんですかと言ったら、それは往生を定めて下された御恩報謝のためだよ、そのように心得て念仏しなさいと教えられています。これが称名報恩です。これも正確に言うと、信後の称名報恩です。


親鸞聖人が、往生一定となった後の称名に報恩の義があることを教えられているのは確かです。しかしながら、親鸞聖人は「称名は報恩である」ことを顕すために『教行証文類』その他多くの著書を書かれたわけでないことも確かです。

ただ、お聖教を読んでいきますと、親鸞聖人の上に往生のための念仏の勧めがあることは明らかですが、特に蓮如上人の『御文章』の上では信前は弥陀をたのめ、南無阿弥陀仏の六字のすがたを心得よという勧めばかりで、顕わに往生のための念仏の勧めは説かれていません。それでいて信後の称名は報恩と心得よという内容で一致しています。この違いは一体何なのでしょうか。

蓮如上人以来、浄土真宗は多く『御文章』による教化がなされてきました。どうも『御文章』に顕著に表れている蓮如上人の教え、蓮如教学をもって、親鸞教学の代用としてきた節があります。ところが近年、清沢満之によって『歎異抄』が世間の注目を浴びることとなり、その影響が真宗界にも及んでいるようです。

『御文章』と『歎異抄』では、文面上に顕わになっている教義が随分と異なるように見受けられます。例えば『御文章』では「後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめ」ですが、『歎異抄』では

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。

等とあるように念仏が強調されています。その他、驚くような内容が書かれています。それで、恐らく説く側の布教使も、聞く側の門徒の方々も困惑しているのでしょう。

中には、『御文章』の教化こそ真宗であり、それを強調するあまりなのか、

・法然上人の教えと親鸞聖人の教えは違う
・信心が往生の因であり、念仏は往生の因ではない
・阿弥陀仏は念仏を称えよと仰っていない
・念仏往生と平生業成は違う
・『歎異抄』の教えは親鸞聖人の教えではない
・『教行信証』以外の親鸞聖人の著作や御消息は法然上人の教え


等というような主張まであります。それらは本当なのでしょうか。

この【考察】ではそのような疑問から、その謎を解く鍵を探すべく、念仏往生の法門が七高僧から親鸞聖人、更には蓮如上人へとどのように伝わっていったかを、お聖教や和上方の書物を通して伺っていきたいと思います。



【参照】
『飛雲』念仏往生の願成就文と信心正因称名報恩
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【考察】念仏の勧めについてⅡ(2)

ここで改めて、七高僧方はなぜ、何のために念仏の一行を勧められたのでしょうか。それは、

願はくはもろもろの行者、おのおのすべからく心を至して往くことを求むべし。また『無量寿経』(上・意)にのたまふがごとし。
「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。かの仏いま現に世にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得。
『往生礼讃』

いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行を遮するにはあらず。 ただこれ、男女・貴賤、行住坐臥を簡ばず、時処諸縁を論ぜずして、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にはしかじ。
(中略)
いはんやまた、もろもろの聖教のなかに、多く念仏をもつて往生の業となせり。
『往生要集』念仏証拠

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて選びて浄土門に入るべし。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて選びて正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業を傍らにして選びて正定をもつぱらにすべし。正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。『選択本願念仏集』三選の文

等とあるように、浄土に「往く」ため、「往生を得」るためです。「往生を願求」して、「往生の業」としてです。「生死を離れ」、浄土に「生ずる」ためです。つまり、往生のためです。


この世界は迷いの境界であり、自身は煩悩罪業にまつわられて、果てしない過去から今日、そしてこの先未来永劫に至るまで、我々は六道二十五有生を転々して苦悩を離れることができません。ですから、迷いを離れて悟りを開き、清らかな涅槃の境界に至れと教えられているのが仏教です。

その仏教について、聖道門と浄土門という二種類の勝れた教えがあります。

おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。「化身土文類」聖浄二門判

一つは、この世で聖者となってさとりを開く聖道門、難行道です。そしてもう一つが、

安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。

浄土に往生してさとりを開く浄土門、易行道です。

この内、聖道門は時は釈尊在世ならびに正法の教え、機は聖者、善人のための教えであり、像末、法滅の時機の衆生には相応しない教えです。現在は末法に当たりますが、時代は釈尊を去ること遥か遠くであり、教えは深くして衆生の理解能力は乏しいため、聖道の諸教は我々には高嶺の花であります。この時機になりますと、教えはあっても如説に修行してさとり得る者は一人もいないと教えられます。

大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。
その聖道の一種は、今の時証しがたし。 一には大聖(釈尊)を去ること遥遠なるによる。 二には理は深く解は微なるによる。このゆゑに『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。
このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。
『安楽集』聖浄二門判

対して浄土門は、阿弥陀仏の本願力によって順次に極楽に往生し、浄土にて迷いを離れてさとりを開く教えです。聖道門は険しい陸路を歩いて行くような教えであるから難行道と言われ、浄土門は自らの力に依らず、船に乗って風を受けて水路を進んで行くような教えであるから易行道と言われます。聖浄二門判で言えば、浄土真宗は浄土門、易行道に当たります。

釈尊一代の教えは教理行果を出ないといいます。親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』を著されましたが、聖道門にしても浄土門にしても、教があり、行を修して、果(証)を得ることは共通です。聖道門の行は諸善万行と言われるようにありとあらゆる善根功徳ですが、浄土門、とりわけ浄土真宗の行は、称名念仏の一行です。それは阿弥陀仏の本願に「念仏の衆生往生せずは我も正覚を成らじ」と誓われているからです。称名は阿弥陀仏が選択された行だからです。念仏は阿弥陀仏の勧めだからです。

行の無い仏教はありません。「ただ信心のみ」とは、キリスト教でも言うことです。親鸞聖人は行の無い仏教を説かれたのではなく、一切の自力を否定されただけです。ですから、七高僧方、親鸞聖人は、生死を離れる(出離する)ため、浄土に往生してさとりを開くために、その往生の行として念仏を勧められたのです。(最初から)報恩の行として念仏を勧められたのではありません。


浄土真宗の目的は、生死を出離すること、浄土に往生し成仏することです。ひいては、仏の大慈大悲をもって一切衆生を救済することです。その教が浄土三部経、中でも『大無量寿経』を根本とする教えであり、その行が称名念仏の一行です。この土台無しに親鸞聖人の教えがあるわけではなく、蓮如上人も、この土台無しに信心正因称名報恩の法義を説かれたのではありません。

ただ親鸞聖人と蓮如上人では、時代背景も異なる上に問題とされていることも随分と違います。それについて、まず親鸞聖人の時代背景や問題を次回以降に追って紹介していきたいと思います。

ともあれ、穢土を厭い、浄土を願うならば、

速やかに迷いの世界を離れ、浄土に往生しようと思ったら、聖道門をさしおき、雑行をなげうち、助業をかたわらにして、専ら称名念仏の一行をつとめよ。仏名を称すれば必ず浄土に生ずることができる。阿弥陀仏が本願にそう誓われているからである。

という法然聖人の教え、それを無我に相承された親鸞聖人の教えに順じて一心に本願をたのみ、一向に称名念仏の一行をつとめましょう。

私が念仏を称えるから往生するのではありません。「念仏する者を往生させる」という本願があるから往生するのです。信心は、上の赤字の内容を深信すること、すなわち、本願の仰せ、善知識方の勧めを仰せの通り受け容れて、身も心もすっかり阿弥陀仏にまかせることです。私達の拠り所は私達の心ではなく、本願であり、本願成就の名号、念仏です。

【考察】念仏の勧めについてⅡ(3)

稲城選恵著『浄土真宗の再興』によると、親鸞聖人は法然聖人の遺弟として専修念仏の正意を明らかにするところに生涯がかけられていました。

宗祖においては法然上人から伝承された専修念仏の正意を明らかにするところに生涯がかけられていた。また蓮師の上では宗祖聖人によって明らかにされた浄土真宗の正意を正しく伝承し、鮮明にするところに使命があった。(p.19)


同書では、続いて親鸞聖人の時代はどのようなことが問題となっていたのか、それに対して蓮如上人の時代はどうかということが書かれています。今は前者について同書より紹介します。

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 宗祖の上では他宗である当時の既成教団の聖道仏教が問題となっていたのである。恩師法然上人が浄土宗を独立し、専修念仏の道を明らかにされた。一切のもののすべてが念仏一行でたすかることを明らかにした為、『高僧和讃』「源空讃」には、

 「本師源空世にいでゝ 弘願の一乘ひろめつゝ 日本一州ことごとく 浄土の機縁あらはれぬ
  承久の太上法皇は 本師源空を帰敬しき 釈門儒林みなともに ひとしく真宗に悟入せり」
                             真聖全、宗祖部 五一二~三頁

とあり、男女老少、賢哲愚夫、釈門儒林、皇室等の高貴のものも、一般の庶民と等しく、念仏の法に帰依したといわれる。ここに衰退化しつつある当時の既成教団に刺激を与えたのである。しかし法然上人の教団の中にも、造悪無碍の如き異端者もあり、さまざまな世間の批判をあびたのである。それ故、興福寺僧綱の九ヶ条の念仏停止の奏状の中にも「釈衆を損ずるの失」をあげている。専修念仏の徒は囲碁、雙六なども公にし、肉食妻帯をしても往生には妨げとならない。反道徳的なことを許容するように思われたのである。このような批判は法然上人自らも『和語灯録』巻四に次の如くある。

 「……たとへば人のおやの、一切の子をかなしむに、そのなかによき子もあり。あしき子もあり、ともに慈悲をなすとはいへども、悪を行ずる子をば目をいからかし、杖をさゝげて、いましむるがごとし……悪人までもすてたまはぬ本願としらんにつけても、いよいよほとけの知見をばはづべし、かなしむべし……」
                              真聖全、拾遺部上 六四二頁

とあり、『西方指南鈔』下本にも光明房の造悪無碍に対しての法然上人からの御消息を出されている。

 更に法然上人の入寂後、専修念仏に対しての最もきびしい批判は明恵上人の『摧邪輪』であろう。明恵上人―一一七三~一二三二―は宗祖と出生時が同年であるが、華厳宗の学僧であり、学徳兼備、当時の既成教団の急先鋒ともいうべき方であった。師と北条泰時のエピソードは有名であり、彼を立派な政治家にしたのは明恵上人であったといわれる。泰時が生き仏のように尊敬していた明恵上人が『摧邪輪』のはじめには次の如くある。

 「髙辨年来於聖人深懐仰信以爲所聞種々邪見在家男女等仮上人髙名所妄説未出一言誹謗上人、説雖聞他力之談説未必信用之、然近日披閲此選択集、悲嘆甚深、聞名之始㐂礼乎上人妙釈、披巻之今、恨黷乎念仏真宗、今詳知、在家出家千万門流所起種々邪見皆起自此書……」
                                  浄全巻八 六七五頁

とあり、明恵上人は『選択集』を目にするまでは法然上人を大変尊敬していたようである。世間の噂さ等を聞いても信用していなかったといわれる。しかし『選択集』を拝読して驚き、在家、出家、千万の種々の邪見はすべてこの書より起るとまで激怒している。この『選択集』への難点を二つあげ、一つは菩提心を揆去するの過失、二に聖道門を以て群賊に譬えている過失である。この『摧邪輪』三巻は「建暦二年十一月二十三日」と末尾にある。法然上人は建暦二年一月二十五日―一二一二―に入寂されているから十ヶ月後に出されたものである。更に建暦三年六月には『摧邪輪荘厳記』一巻を著わし、十六の失を出し、批判されている。「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候」―『歎異鈔』第二章―とある法然上人の『選択集』を罵詈打倒され、看過することは出来得ない。宗祖の『教行信証』撰述の理由は正しくこのような聖道門の学僧の批判に対することは勿論である。更に法然上人の『選択集』を一言にしてつくすと、専修念仏の義を鮮明にするところにある。それ故、『摧邪輪』の具名は「於一向専修宗選択集中摧邪輪」とあり、一向専修とある。また日蓮上人の四ヶの格言の「念仏無間」も正しく専修念仏にあった。それ故、当時の既成教団、聖道仏教に刺激を与えたのは専修念仏の専修にあったと思われる。更に建仁寺栄西禅師―一一四一~一二一五―は宗祖より三十二才ほど先輩で、法然上人より少し後輩であるが、わが国の臨済宗の開祖である。師は中国で禅宗の第六祖慧能禅師の『六祖法宝檀経』により、西方浄土を批判されているのである。西方十万億仏土の浄土を批判し、十万は十悪をいい、十悪を離れると我心即弥陀であり、西方に浄土あると思うものは愚人であるという。

 また比叡山の宝地房証真―生歿年次不詳―は法然上人とも交流があったといわれる。彼は法華三大部私記三十巻を註釈し、『法華玄義私釈』で西方十万億仏土の極楽浄土を厳しく批判しているのである。それ故、宗祖の『教行信証』をみると、明恵上人に対しては特に「信巻」に菩提心釈を出し、更に「信巻」別序では栄西禅師の『六祖法宝檀経』の批判として、「自性唯心に沈んで、浄土の真証を貶ず」といわれ、批判されている。更に宝地房証真に対しては「真仏土巻」には数量によって表現されず、西方十万億仏土の極楽という用語は略されている。数量による表現は次の「化身土巻」の内容とされているのである。師の影響であることが明らかにしられる。その他、天台教義が常に念頭にあり、題号の教行証も天台家等に用いる用語である。このような意味において宗祖の教義は対聖道門を主とするものといわれる。

 また法然上人門下の異流も看過することは出来ない。『末灯鈔』十九通にも、

 「……浄土宗の義、みなかはりておはしましあふて候。ひとびとも、聖人の御弟子にてさふらへども、やうやうに義をいひかへなどして、身もまどひ、ひとをもまどはかしあふてさふらふめり……京にもおほくまどひあふてさふらふめり。……」
                               真聖全、宗祖部 六八七頁

とあり、更に『御消息集』一通にも、

 「……京にも一念多念なんどまふすあらそふことのおほくさふらふやうにあること、さらさらさふらふべからず。……」
                                    同上 六九五頁

とあり、『一念多念文意』の末尾にも、

 「……これにて一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。淨土真宗のならひには、念仏往生とまふすなり、一念往生・多念往生とまふすことなし。……」
                                    同上 六一九頁

とあり、その他、『西方指南鈔』『歎異鈔』等によると、法然上人入寂後、特に一念義、多念義の分派がそれぞれ争っていたことが知られる。このように、対外的には天台教義をはじめ、聖道門に対し、また対内的には法然上人門下の異流を背景としている。更に当時の既成教団の現世の祈禱卜占の呪術思想等をその背景としているのに対し、真実なる法然上人の念仏往生の奥義を明らかにせんがためといわれる。
(p.20~p.25)
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親鸞聖人の問題として、

①他宗である当時の既成教団の聖道仏教
②法然上人門下の異流
③当時の既成教団の現世の祈禱卜占の呪術思想等

の三点が挙げられています。中でも、親鸞聖人の御時には①、天台宗や真言宗、華厳宗や法相宗などの対聖道門が大きなウエイトを占めていたのです。



【参照】
引用中の『摧邪輪』の読み下し文
↓↓↓
高弁、年来、聖人において、深く仰信を懐けり。聞ゆるところの種種の邪見は、在家の男女等、上人の高名を仮りて、妄説するところなりとおもひき。未だ一言を出しても、上人を誹謗せず。たとひ他人の談説を聞くと雖も、未だ必ずしもこれを信用せず。しかるに、近日この選択集を披閲するに、悲嘆甚だ深し。名を聞きしの始めには、上人の妙釈を礼せむことを喜ぶ。巻を披くの今は、念仏の真宗を黷せりと恨む。今、詳かに知りぬ、在家出家千万の門流、起すところの種種の邪見は、皆この書より起れりといふことを。(日本思想大系巻十五『鎌倉旧仏教』岩波書店刊『摧邪輪』より)

【考察】念仏の勧めについてⅡ(4)

親鸞聖人と蓮如上人とでは歴史的に200年ほどの差異があり、その時々の時代背景も、世間の情勢も、問題としているところも違います。その違いを無視して、蓮如上人の『御文章』に顕著に表れている教義のみをもって親鸞教学の代用とすることは、時として親鸞聖人、蓮如上人の教え勧めとは違ったものを生み出してしまう可能性があります。

今回は、前回と重複部分もありますが、稲城選恵師の著書より親鸞聖人において問題とされていたことを伺います。

『蓮如上人の生涯とその教学の大綱』
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 蓮如上人の教学を正しく理解するためにはその背景を看過しては通じない。このことは従来の宗学では余り問題にされなかったが、甚だ重要である。親鸞聖人の教学の背景も同様である。しかし蓮師と宗祖の上では異なるのである。このことは七祖の上にも通ずる。

 現在、蓮如上人の教学が親鸞聖人の教学を屈折したとか、変容しているといわれるのはこの背景を問題としないからである。宗祖の時代の背景は対聖道門である。これに対し、蓮師の背景は聖道門の他宗よりも法然上人門下の異流の他流である。宗祖の『教行信証』の背景には冠頭の題号によっても他宗聖道門に対している。

 即ち『教行信証』「化身土巻」後序によると、

  「竊かに以みれば聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛なり……」

とあり、題号の「教行証文類」の教行証は聖道門に対していることが知られる。しかし、対内的な理由も勿論存するのである。栂尾の明恵上人―一一七三~一二三二―は学徳兼備の高僧であった。師は法然上人入寂の十ヶ月後に『摧邪輪』を著し、法然上人の『選択集』を鋭く批判している。

 「法然のいっていることは天魔外道の法であり、諸悪の根源はこの書にある」とまでいっている。この『摧邪輪』を読んで、法然上人の門下が黙認する人が存するであろうか。この『摧邪輪』には菩提心を否定することと、聖道門を群賊悪獣という二点を中心に出している。更に『摧邪輪荘厳記』には十六点あげている。『教行信証』撰述の意図は正しく聖道門に対する反駁、専修念仏の真義を明らかにするところにあったのである。更に建仁寺栄西―一一四一~一二一五―は『六祖法宝壇経』により、西方極楽を否定している。このことは『信巻』別序に、

  「自性唯心に沈んで、浄土の真証を貶ず」

によっても知られる。更に当時比叡山の学頭といわれた宝地房証真師である。法然上人と年齢の差も余りないといわれるが、師が西方極楽を批判し、『法華玄義私釈』には多くの難点をあげている。宗祖は叡山時代に師の教えをうけていると思われる。それ故、『真仏土巻』には「西方十万億仏土」の『讃阿弥陀仏偈』の文を略している。また、西方とか極楽という用語を余り用いなかったのも、このような背景が考えられる。それ故、『教行信証』の背景には当時の聖道門、南都北嶺の仏教、明恵上人等を看過しては理解出来得ないものがある。更に当時の為政者等の現世祈祷、法然上人門下の一念義、多念義系の分裂等も考えられる。
(p.23~p.25)
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「蓮如上人の河内での『御文章』」
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……今は宗祖聖人と蓮如上人の共通点と相違点の主なものをみることにしよう。

 先づ相違する面をみると、第一に時代背景である。宗祖聖人―一一七三~一二六二―の時代は平安末期から鎌倉時代の北条時頼の時代である。この間、源頼朝が征夷大将軍になったのは一一九二年、宗祖のニ十歳である。この間、権力をほしいまゝにした藤原一族が滅亡し、平家が頭を上げたが、このおごる平家も源氏のために亡ぼされ、この源氏も三代もつづくことなく北条氏に権力を奪われたのである。全く権力の争奪戦の渦中にあり、加ふるに重なる天災地変により、乱世の時代といわれる。それ故、平安末期より末法思想が滲透したのである。更に当時の既成教団の南都北嶺の諸僧は宗祖の「悲歎述懐和讃」にある如く、

  末法悪世のかなしみは 南都北嶺の仏法者の
  輿かく僧達力者法師  高位をもてなす名としたり
  仏法あだなるしるしには 比丘比丘尼を奴婢として
  法師僧徒のたふとさも  僕住ものゝ名としたり

とあり、僧侶本来の立場は全く看過され、ただ自らの名利の禍の中に溺れていることを宗祖は悲歎されている。それ故、時代の危機、民衆の苦悩の解決を与えるような指導原理はなく、卜占祭祀の呪術しかなかったのである。

 この時代の危機を歴史的現実として誕生したのが法然上人の専修念仏の教えであった。この浄土宗の独立宣言は当時の既成教団に一大センセイションを惹起したのである。特に既成教団の中にも当時の代表的学僧はすべて念仏教団を批判し、政治権力と結合し、念仏禁制もしばしば行われたのである。特に北条泰時に絶対の信頼をうけた明恵上人―一一七三~一二三二―は学徳兼備の高僧であったが、師が『選択集』の批判の『摧邪輪』を著し、法然のいうことは天魔外道の法であると罵倒したのである。このような南都北嶺をはじめ、当時の既成教団の批判に対する法然上人の専修念仏の正意を鮮明にすることは生涯をかけられた使命といわれる。主著『教行信証』はこの意を明らかにされたものである。更に法然上人門下の異流―一念義多念義―に対し、真宗の肝要、念仏の奥義を明らかにされたのである。
(一三四~一三五頁)
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親鸞聖人の問題は、これらによっても分かるように対聖道門が主たるものでした。専修念仏の正意を明らかにし、聖道諸師の論難に的確に応答するために『教行証文類』が著されたことが分かります。

【考察】念仏の勧めについてⅡ(5)

今回は少々細切れになりますが、『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』から親鸞聖人当時問題となっていたこと、親鸞聖人が『教行証文類』を著すきっかけになったと言われる事件を伺っていきます。

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   貞応(元仁)の念仏禁制

 元仁元年(一二二四年)は貞応三年で、十一月二十日に元仁と改元されたのですが、この年は恩師法然聖人の十三回忌にあたり、ふたたび専修念仏が停止(禁制)になった年でもあったのです。法然聖人在世中の承元元年(建永二年、一二〇七年)に起こった承元の法難によって専修念仏が禁制になりましたが、法然聖人が亡くなられたあと、門弟たちの活躍によって、ふたたび専修念仏の教えが隆盛に向かい、京都をはじめ全国のいたるところに念仏の声が響きわたるようになっていきました。それが法然聖人の十三回忌を機縁として、いっそう強まる気配を見せたので、ついにこの年の五月十七日に比叡山延暦寺から朝廷へ、専修念仏を禁制にし、念仏者たちを厳重に処分するようにという訴訟状が提出されたのです。これを「延暦寺奏状(延暦寺大衆解)」といいます。この訴訟状によって、この年の八月五日に、法然聖人の教えは邪教であると認定され、ふたたび専修念仏停止が宣下されたのです。貞応三年、すなわち元仁元年は、念仏が禁制にされた年であったということを忘れてはなりません。

 しかも、それから間もなく、定照という天台宗の僧侶が、法然聖人の主著である『選択本願念仏集』を批判する『弾選択』という書物を著しました。それに対して、法然聖人の高弟だった隆寛律師が『顕選択』という書物を著して反論し、定照の批判は「闇夜のつぶてのようなもので、一つも当たらない」といわれたものですから、比叡山の学僧たちは憤慨して、隆寛律師をはじめ、「法然の流れを汲むものは一人も残らず処罰せよ」と朝廷に迫ったのです。そこで朝廷は、嘉禄三年(一二二七年)、念仏者を一斉に検挙し、隆寛律師は八十歳という高齢にもかかわらず奥州へ流罪となり、空阿上人は薩摩へ、成覚房幸西上人は壱岐(実際は阿波?)へ、それぞれ流罪になったのです。

 それでもまだ比叡山の衆徒の怒りはおさまらず、『選択集』(建暦本)の版木をことごとく没収して根本中堂の前で焼き払い、法然聖人の墓を暴いて、遺骸を賀茂川へ捨てようとまでしたのです。しかし、法然聖人の弟子であった宇都宮頼綱兄弟が、六波羅の兵を率いて僧兵たちを追い払ったので、墓の建物は壊されましたが、遺骸だけは守ることができました。この事件を、嘉禄の法難といいます。親鸞聖人が五十五歳のときのことでした。

(中略)

 「延暦寺奏状」の第四条に、法然やその弟子たちは、今は末法の時代だから念仏以外に救いの道はないといっているが、天台の『浄名経疏』などの説によれば、今はまだ末法の時代ではないことになる。それに、たとえ末法であったとしても、まだ初期であるから、修行さえすればさとりを開くことができる時代である。また仏滅後五千年間は証を得るという説もある。それなのに念仏以外に生死を超える道がないというのは、釈尊の教えを否定する邪説であると非難しているのです。
(p.34~p.37)
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聖道門からは、専修念仏、末法の世は念仏以外に救いの道はないという教えが非難されています。


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   承元の法難

 ところで、法然聖人の教えの真意を顕すといいましたが、それは法然聖人ほど多くの誤解と、非難中傷を受けた方はいなかったからです。外部からの非難中傷の最たるものは、承元の法難の引き金となった「興福寺奏状」や、元仁の念仏停止や、嘉禄の法難のもとになった「延暦寺奏状」であり、さらには明恵上人高弁の『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』などがあります。

 「延暦寺奏状」のことは先ほど述べたので、ここでは「興福寺奏状」について少し述べておきます。それは元久二年(一二〇五年)十月、親鸞聖人が三十三歳のとき、奈良の興福寺から、法然聖人の教えは正当な仏法ではないということを九か条に分けて数えあげ、法然をはじめ主だった門弟たちを処分し、その教えを禁止せよと、朝廷に上奏した文書のことです。「興福寺奏状」の執筆者は、当代一流の学僧として崇められていた笠置の解脱上人貞慶(一一五五~一二一三)でした。

 この「興福寺奏状」が、専修念仏者の風紀問題とあわせて朝廷にとりあげられ、建永二年(承元元年、一二〇七年)二月に念仏停止の勅命が下り、住蓮房、安楽房など、門弟四人が死刑に処せられ、四国へ流罪となった法然聖人を含めて八人(実際は七人)が流罪に処せられるという大弾圧事件が起こりました。このとき親鸞聖人は越後へ流されたのです。

(中略)

 こうして「興福寺奏状」や「延暦寺奏状」、あるいは明恵上人の『摧邪輪』などの論難に対して、選択本願念仏の法門の真実性を顕し、浄土真宗こそ真の仏法であるということを、釈尊の言葉と祖師たちの釈文によって証明していこうとされたのが『教行証文類』だったのです。

 さらに法然聖人の門下には、法然聖人の在世中から、すでに念仏往生を誤解して、一念義と多念義という両極端の異義が生まれ、互いに自己の立場の正当性を主張して、まるで水と火のごとく、激しく争っていました。また、諸行本願義というような説を立てて、聖道門の教えと妥協し、法然聖人がせっかく開かれた万人平等の救いの道を閉ざしてしまうような人も出てきていたのです。

 このように、法然聖人滅後の浄土宗は、外的にも内的にも、ざまざまな困難な問題に直面していました。こうした状況のなかで、選択本願念仏の真実義を明らかにし、法然聖人に対する非難や誤解を正していくという直弟子としての思想責任を果たしていかれたのが、親鸞聖人の『教行証文類』の述作だったのです。
(p.49~p.53)
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外的には聖道諸宗の批判、内的には一念多念の諍論や諸行本願義といった異義と、浄土宗は多くの困難な問題に直面していたことが分かります。なお、諸行本願義については以下もご覧下さい。


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こうして、本願の行であるから正定の業であるといわれた法然聖人の教学を、根底から揺り動かすような学説を立てるものが出てきました。天台宗の学僧であった出雲路の住心が、第十九願によって諸行も本願の行であると説き、法然門下でありながら、師の滅後に住心の弟子となって諸行本願義を学んだ覚明房長西(一一八四~一二六六)が、第二十願によって、諸行も本願の行であると主張したことがそれでした。

 称名が正定業であるのは、本願の行であるからだというのが、法然聖人の称名正定業説の論拠でした。ところが長西は、念仏が第十八願の行であるように、諸行も第二十願の行であるから、本願の行であり、選択行である称名と比べれば、勝劣、難易、傍正の違いはあるが、称名と同じように往生を得、不退の益を得る行であると主張したわけです。こうして、法然聖人が「諸行を捨てて念仏一行を専修せよ」といわれた選択本願念仏論が、根底から揺り動かされかねない状況になったのです。
(p.211~p.212)
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諸行本願義はもともと、天台宗の学僧である住心によって説かれたものですが、長西は特に第二十願を基に諸行も本願の行であると主張したようです。聖道門との教義の融和を図り、浄土宗を守ろうとしたのかも知れません。長西の真意は分かりませんが、とにかくこのような主張により、

「もろもろの雑行(諸善)を投げ捨てて念仏一行を専修せよ」

という法然聖人の教えが、あろうことか法然門下の者によって捻じ曲げられようとしていました。



ちなみに、以下に浄土宗及び『選択本願念仏集』を批判した「興福寺奏状」「延暦寺奏状」『摧邪輪』についてリンクを貼っておきますので参照して下さい。

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『WikiArc』興福寺奏状
『本願力』延暦寺奏状
『摧邪輪』巻上
『摧邪輪』巻中
『摧邪輪』巻下

【考察】念仏の勧めについてⅡ(6)

本日は「興福寺奏状」と「延暦寺奏状」について、『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』を通して伺います。念仏弾圧は、思想的にはこれらが根拠となっております。

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   「行文類」撰述の動機

 親鸞聖人が、この「行文類」を顕されるには、重大な動機がありました。まず対外的には、法然聖人の在世当時から滅後にわたって、いくたびも加えられた国家権力による専修念仏停止という弾圧と、それを引き起こすもとになった南都・北嶺の旧仏教側からの執拗な論難に対して専修念仏の真実性を証明するためでした。また対内的には、本願の念仏は、本願力回向の法であるという念仏の本質を明らかにすることによって、人間のはからいを否定し、一念にとらわれて多念を否定したり、多念にとらわれて一念を否定するような一念多念の諍いに明快な決着を与えて、法然聖人の念仏往生説の真髄を明らかにするためでした。そのために、本願力回向の行信というまったく新しい教学的視野を開いて、浄土教学を大成していかれた。それが「行文類」だったのです。

 すでに述べたように、建永二年(承元元年、一二〇七年)二月、承元の念仏停止といわれる事件が起こりましたが、それに思想的な根拠を与えたのは、南都の興福寺から朝廷に出された「興福寺奏状」であったということは、『教行証文類』の後序にも言われているとおりです。そこには九箇の失をあげて、法然聖人の教学を批判していますが、第四万善を妨ぐる失、第六浄土に暗き失、第七念仏を誤る失の三失は、選択本願に立脚して構築されていた法然聖人の専修念仏の教説を真向から否定するものでした。

 「万善を妨ぐる失」とは、これまで仏教においてさとりへの道とされてきたさまざまな修行道を、すべて難行道のゆえをもって捨てしめ、ただ称名念仏の一行だけが生死を超える道であるということは誤りだというのです。ことに、そのころの仏教界で功徳ありとされていた『法華経』の読誦や、真言、止観に縁を結び、堂塔を建立し、尊像を造絵することを、ことごとく雑行であると称して、土くれのように捨てしめたことは、仏教への反逆であり、正法を誹謗するものであるというのです。

 「浄土に暗き失」というのは、『無量寿経』や『観無量寿経』をはじめ、浄土の諸師たちも盛んに諸行による往生を説かれているのに、それを無視して、諸行は往生の行に非ずというのは、人びとを欺くものだというのです。ことに、下下の悪人と上上の賢善者とが同じ浄土に往生できるなどということは、因果の道理に背き、わが身のほどもわきまえない愚痴のきわまりであると嘲笑しています。

 また「念仏を誤る失」というのは、法然聖人は口称念仏を最上の行のようにいうが、それは誤りであるというのです。同じ念仏といっても、念ぜられる仏に、仏名もあれば仏体もある。その仏体にも報身や応身といった姿形のある事仏もあれば、色もなく形もない法身という理仏もある。この法身真如こそ仏のさとりの本体であるから最高とし、仏名を最下とする。また仏を念ずる相にも、口に仏名を称える口称もあれば、心に仏を念ずる心念もある。その心念にも仏徳に想いをかける繋念と、禅定(深い精神統一)を修して報身仏や法身仏を観念していく定心念仏とがあり、その定心のなかにも、まだ煩悩がまじわっているような有漏定もあれば、煩悩妄念の消滅した無漏定もある。こうしたなかで、口称念仏は最も浅劣な行であり、無漏の定心念仏が最も深く勝れた行であるということは、仏教の常識ではないか。それなのに法然は、阿弥陀仏は第十八願において、「乃至十念せよ」と称名念仏を往生行と定められているから、称名以外の行をする必要はないという。しかし阿弥陀仏の本願が、どうして勝行をさしおいて、劣行のみを往生行と定められることがあろうか。下下の悪人がわずかに称えた十声の念仏を、まるで阿弥陀仏の本意であるかのように主張し、上上の善人が修行している勝れた諸善を捨てさせることは、近くは善導の釈義に背き、遠くは『観無量寿経』などの諸経の説に反する邪説であると、痛烈に非難しています。

 法然聖人が亡くなって、その十三回忌にあたる貞応三年(元仁元年、一二二四年)、今度は天台宗の本山、比叡山延暦寺から専修念仏を禁制にするようにという訴状が朝廷に上奏されました。「延暦寺奏状」では、六か条にわけて法然聖人の教えを非難していますが、その第五条に掲げている「一向専修の輩、経に背き、師に逆らふ事」というのが、さきにあげた「興福寺奏状」の三か条と同じ意趣を述べたものです。すなわち専修念仏者は、称名以外はすべて雑行であるから往生できないといい、逆に十悪五逆をつくって慚愧の心さえないものも称名すれば往生できるといい、あまつさえ「悪業を怖れるものは仏願を疑うものである」といって愚人をたぶらかしている。それは『観無量寿経』に説かれた諸善万行による往生を否定し、持戒の清僧であった善導大師の誡めに背くもので、責めても余りあるものだと非難しています。こうして法然聖人が開顕された選択本願念仏の教えは、南都・北嶺の学僧たちの非難の的となり、朝廷からは激しい罪科に問われ、誕生したばかりの浄土宗(選択本願の教法)は、地上から抹殺されようとしていたのです。

 このような状況のなかで、法然聖人からその主著『選択本願念仏集』の伝授をうけ、浄土宗の将来を託された遺弟として、その師恩に応答するために『教行証文類』を著されたわけですが、なかでも「行文類」は、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と法然聖人から教示された念仏の一行こそが、弥陀、釈迦、諸仏の本意にかなった大行であり、龍樹菩薩以来の浄土の祖師が証明せられる真実行であることを、仏祖の言葉をもって立証していかれたものでした。『教行証文類』のなかでも「行文類」だけが、七高僧の聖教のすべてが引用され、さらに各宗の祖師方の念仏讃仰の文まで引かれるのも、称名が普遍の真実行であることを広く証明するためでした。

 ことに引文の最後に、『選択本願念仏集』の題号と「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」の標宗と三選の文が引かれます。これは『選択集』全体を引用されたと同じ意味をもっていることは、すでに先哲の指摘されたとおりです。しかも『選択集』の法義の真実性を顕すために書かれた『教行証文類』において、『選択集』の引用は、ただこの「行文類」だけなのです。一見、不思議に思えるこのことによって、「行文類」が選択本願念仏の本質を明らかにし、その法義の真実性を証明するためのものであったことがわかります。
(p.157~p.162)
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外からは聖道諸宗の教義批判、権力者による念仏弾圧、内からは一念多念の諍論と、浄土宗は問題だらけであったようです。その中でも、やはり大きな問題は

諸善を廃して称名念仏の一行

という専修念仏、選択本願念仏の教えに対する非難でした。こうした当時の仏教界を根底から覆すような革命的な教えと、当時法然聖人の教えを誤解した人々の非道徳的な言動とが相俟って「興福寺奏状」「延暦寺奏状」という訴訟状が出され、結果承元の法難、嘉禄の法難といった法難に見舞われたことが伺えます。

【考察】念仏の勧めについてⅡ(7)

これまで見てきたように、親鸞聖人の御時は教義的には大きく二つ、対聖道門と、対浄土門内の異流の問題がありました。聖人の時代は、そこからおよそ200年後の蓮如上人時代の問題とは異なり、対聖道門のウエイトが大きいです。鎌倉初期は、まだ浄土宗が聖道門から離れて一宗として独立せんとしてからそれほど年月が経っていません。浄土宗の開宗は1175年と言われ、およそその辺りから末法五濁の我らでも救われる浄土の教え、念仏の教えがだんだんと民衆に弘まっていくわけですが、そこに大きく立ちはだかったのが聖道諸宗でした。

いつの時代、どこの国でも、保守と革新と言いますか、やはり何か新しいことを発そうとすると、必ず旧勢力がそこに立ちはだかるものです。興福寺奏状では、まず

第一 新宗を立つる失

を挙げて正統な論拠を示すことなく、勅許も得ずして、新しい宗派を立てることはおかしいという非難に始まり、全九箇条に亘って徹底的に浄土宗を非難攻撃しています。浄土宗の教義に関しては主に

第四 万善を妨ぐる失
第六 浄土に暗き失
第七 念仏を誤る失


の三箇条ですが、他条にも所々、諸善を捨てて専修念仏はおかしいということに触れています。また、専修念仏を信奉する一部の者達による非常識な言動についても述べられています。このように、法然の説くところは教義的にも、それを信奉する人々の倫理的な側面から見ても仏教ではない、こんな教えが世に弘まったら国の終わりだ、そうなる前に何とかしてほしいと訴えています。

そうやって、浄土宗誕生からわずか30年余りで起こった専修念仏の大弾圧事件がかの承元の法難です。その思想的根拠となったのが興福寺奏状です。更にそこから20年後には、嘉禄の法難が起きています。その原因となったのが延暦寺奏状です。その他にも浄土宗、法然聖人の教えは何度も窮地に立たされ、多くの念仏者が死刑や流刑といった極刑に処されたり、今では考えられない暴力を振るわれたりと、様々な迫害を受けました。


なぜこうも執拗に浄土宗、法然聖人の教えが弾圧されたのでしょうか。それは教義的に言えば

法然の教えは仏教ではない

と見做されたからです。特に聖道の修行である諸善万行をことごとく雑行と名づけて廃し、どんな愚かな者もただ称名念仏の一行のみで往生できると主張したことが、彼らにとって最も許せないことであったに違いありません。最下の悪人でも行ずることのできる称名念仏という劣行をもって往生の行と定め、仏教に広く説かれる諸善万行を捨てしめることは謗法であり、断じてこんな教えは仏教ではないと、激しい怒りを買ったわけです。

それに対して親鸞聖人は、いや、法然聖人の教えこそ真実の仏教だと。それを証明しようじゃないかと『教行証文類』、正確には『顕浄土真実教行証文類』を著されたのでしょう。この題号には、

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。

と「後序」の文にある如く、時代が経るについて滅びゆく聖道門の教行証に対して、どんな時代のどんな人も平等に救われる浄土門の教行証があるんだ、これこそ真実の仏教だ、これはお師匠様の法然聖人や親鸞が勝手に言っていることではなく、お釈迦様を始めこれまでインド、中国、朝鮮、日本に出られた高僧知識方が仰っているんだ、そのことを経、論、釈の文を集めて証明した書がこれだ、という意味が込められていると推察します。


では、どうしたら法然聖人の教えこそ真実の仏教だと証明することができるでしょうか。お分かりのように、聖道諸宗からは「諸善を捨てて専修念仏、称名念仏の一行」という行を否定されています。これに対して、法然聖人の教えの真実性を明らかにするためには、専修念仏、称名念仏の一行こそが真実の仏教であることを証明する必要があったのです。

仏教と言えば教行証です。存覚上人はこれについて

「教行証」とは、いわゆる次の如く所依・所修・所得の法なり。霊芝の『弥陀経義疏』に云わく「大覚世尊一代の教は、大小殊なるといえども、教理行果を出でず。教に因りて理を顕わし、理に依りて行を起こし、行に由りて果を克す。四法にこれを収むるに鮮〈すこ〉しきも尽くさざることなし」已上。教行証と教理行果と、その義は大いに同じ。中に於いて教行の二種は全く同じ。理はこれ教に摂す。彼の『義疏』に云わく「理は即ち教の体なり」。即ちその義なり。証は即ち果なり。果に近遠あり。近果は往生、遠果は成仏なり。証に分極あり。分証は往生、究竟は成仏なり。その義は同じなり。『六要鈔』巻一之一

と示されています。釈尊一代の教えは、教理行果、すなわち教行証を出ません。

行の無い仏教はありません。では聖道門の様々な行に対して、浄土門の行は何かと言ったら念仏です。中でも法然聖人が正定の業と仰り、専らにせよと勧められているのは難しい実相の念仏や観想の念仏、また観像の念仏ではなく、阿弥陀仏の名号を口に称える口称の念仏、称名念仏の一行です。

どうして釈迦一代の勝行をことごとく雑行と捨てて、最も浅劣な称名念仏一行と言うのか

聖道諸宗の言いたいことを一言におさめたらこれでしょう。これをどうしても経、論、釈の上で正しい仏教なんだと証明する必要があったのです。



【参照】
『Wikipedia』興福寺奏状

【考察】念仏の勧めについてⅡ(8)

前回の最後に少し触れましたが、そもそも念仏と言っても大きく4種類あります。

一、称名念仏 (仏の名を口にとなえること)、
二、観像念仏 (仏の形相や相好を心に思い浮かべて念じること)、
三、観相念仏 (西方浄土のさまを心に思いつつ念じること)、
四、実相念仏 (仏の法身を観じて念じること)


梯和上は念仏について、興福寺奏状の第七「念仏を誤る失」の中で、奏状の内容について

同じ念仏といっても、念ぜられる仏に、仏名もあれば仏体もある。その仏体にも報身や応身といった姿形のある事仏もあれば、色もなく形もない法身という理仏もある。この法身真如こそ仏のさとりの本体であるから最高とし、仏名を最下とする。また仏を念ずる相にも、口に仏名を称える口称もあれば、心に仏を念ずる心念もある。その心念にも仏徳に想いをかける繋念と、禅定(深い精神統一)を修して報身仏や法身仏を観念していく定心念仏とがあり、その定心のなかにも、まだ煩悩がまじわっているような有漏定もあれば、煩悩妄念の消滅した無漏定もある。こうしたなかで、口称念仏は最も浅劣な行であり、無漏の定心念仏が最も深く勝れた行であるということは、仏教の常識ではないか。(『聖典セミナー 教行信証[教行の巻]』)

と解説されています。だから一口に念仏行と言っても一般には様々な種類、浅深、勝劣があるのです。それに、行ずる人の心も様々ならば、思い描く仏も様々ですから、無限の種類があると言えます。

また明恵上人は『摧邪輪』にて清涼大師の釈義を出して

あに口称の行を以て、所得の解脱門とせんや。故に清涼大師、この念仏の義を釈するに、束ねて五種とす。一縁境正観念仏門、二摂境唯心念仏門、三心境倶泯念仏門、四心境無礙念仏門、五重重無尽念仏門。この五門を融して、以て一致とする、即ち是れこの中の能念の心なりと云云。これ即ち口称にあらざるなり。即ち大師自ら釈して云く、 「称名は口に属す、真念にあらざるが故に、略して言はず。 」文。この故に、善導和尚、文殊般若経等によって、称名を以て宗とし、三昧を以て趣として、真念を得しめんがための故に、称名を勧むるなり。この故に、これらの文を引いて証として、念仏の義を成じ、さらに一向称名を以て本として、心念に関けざるにはあらざるなり。(p.19)

といい、口称、称名は真念を得しめるための浅劣な行だと位置づけています。これは、何も明恵上人に限ったことではなくて聖道諸宗からしたら当然の見解です。


そうした中で、親鸞聖人の示された大行(真実の行)とは無碍光如来(阿弥陀如来)の名を称する称名であり、これこそ往生の正業であり、これが念仏であると仰せられています。

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。
大行釈

しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。経文結釈「破闇満願」

この場合、私が南無阿弥陀仏、また帰命尽十方無碍光如来と称えるから大行なのではなく、阿弥陀仏が本願において称名を往生の行と選択されたから称名が大行なのです。親鸞聖人においては、根拠は全て本願に基づいています。だからその出拠を「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」と、本願より出でし行だと説明しているのです。林遊さんは

わたくしが〔なんまんだぶ〕と称えるから往生の行業になるのではなく、阿弥陀仏が本願に選択された行であるから大行であり「大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり」 (行巻 P.141) と、仏教で説かれる回向の意味を逆転されたのである。

と仰っていますが、『教行証文類』は本願力回向、阿弥陀仏の回向を仏の側から語られた書物ですから当然のことと言えます。法然聖人の浄土宗が「選択本願」という一語に集約できるとすれば、親鸞聖人の浄土真宗は「本願力回向」という一句に摂めつくすことができます。法然聖人の選択本願の宗義を、本願力回向という名目(教義概念)をもって開顕したのが『教行証文類』であったといえるでしょう。



【参照】
『WikiArc』自力念仏

【考察】念仏の勧めについてⅡ(9)

親鸞聖人は、法然聖人の開顕された浄土真宗とはどのような教法なのかについて、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。「教文類」真宗大綱

と教えられています。それは、本願力による往相・還相という二種の回向相を軸として、教、行、信、証という四法で顕すことのできるような教えであるというのです。そして、その教、行、信、証について詳細な論述がなされていくわけです。

『教行証文類』には「浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり」とありますが、その広博な法義を一巻に要約された『浄土文類聚鈔』には

しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。

といわれています。浄土真宗と本願力回向は内容的には同じ事柄を指していることがわかります。浄土真宗とは、本願力回向といわれる宗義を軸として展開していく教法の名称だったのです。

ここの、「回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり」という文言は、曇鸞大師の『浄土論註』回向門から採られたものです。そこには

いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり。


 「回向」に二種の相あり。一には往相、二には還相なり。「往相」とは、おのが功徳をもつて一切衆生に回施して、ともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せんと作願するなり。

「還相」とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那を得、方便力成就すれば、生死の稠林に回入して一切衆生を教化して、ともに仏道に向かふなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜きて生死海を渡せ んがためなり。このゆゑに「回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり」といへり。


と教えられています。ただ、『浄土論註』では回向する主体は浄土を願生する行者ですが、親鸞聖人は阿弥陀仏が浄土願生の行者に回向されるのだとして主体を転換されています。往還するのは行者ですが、その往相・還相を回向する、つまり往還させるのは阿弥陀仏の本願力であるというのです。

その往相について「真実の教行信証あり」といわれるように、『無量寿経』という真実教によって、南無阿弥陀仏が往生成仏の大行であると信じて称える行と信が与えられ、この行信を因として涅槃の浄土へ往生し成仏する証果が与えられることを往相回向といいます。

つまり、『無量寿経』の教えを聞き、本願を信じ念仏して、浄土へ往生し成仏するのは願生の行者本人ですが、実は、本願を説いた教である『無量寿経』も、称える南無阿弥陀仏の行も、それを往生の因と信ずる信心も、往生成仏の証果も、全て阿弥陀仏の本願力によって成就し与えられたものだというのが親鸞聖人の領解です。そして、このような阿弥陀仏の衆生救済の活動を阿弥陀仏の側から語られたのが『教行証文類』という書物だったのです。

こうして親鸞聖人は、善導大師・法然聖人の称名正定業説、選択本願念仏論を天親菩薩・曇鸞大師の教学によって包み込み、阿弥陀仏による本願力回向という全く新しい教学的視野を開かれたのでした。


親鸞聖人がそうされるに当たっては、今まで述べてきたように聖道諸宗からの選択本願念仏論に対する激しい非難がありました。それについては改めて次の記事で書きたいと思いますが、このように『教行証文類』は阿弥陀仏の回向を語られた書物です。つまり、阿弥陀仏が「真実の教行信証」「大行」「浄信」を与えられるのです。称名も、称名が往生の正定業であると受け容れる信心も、阿弥陀仏によって恵まれるのです。

称名というと、衆生が「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と口に仏の名を称するという衆生の動作としてのみ捉えられがちです。というか、普通はそれ以外の見方は無いでしょう。しかし親鸞聖人は、称名は阿弥陀仏が本願に誓われ、成就し、そして衆生にお与えになった行だと仰るのです。

『教行証文類』は仏が教を与え、行を与え、信を与え、証を与えて衆生を救済するというように、仏の救済を仏の側から顕す約仏の説かれ方がされています。一方、仏の救済を衆生の側から表現することを約生と言います。親鸞聖人はどちらの説かれ方もされていますが、その文章では約仏で語っておられるのか、約生で語っておられるのか。称名を仏の回向と捉えるか、衆生の動作として捉えるか。この約仏と約生を混同しますと、途端に訳が解らなくなり、不毛な議論にも発展しかねません。それについても、今後考察していきたいと思います。



【参考文献】
聖典セミナー教行信証[教行の巻]
『WikiArc』約仏、約生

【考察】念仏の勧めについてⅡ(10)

さて、随分と話が逸れてしまいましたので本編に戻します。

聖道諸宗の非難を一言で言えば

どうして釈迦一代の様々な勝行、難行、諸行を捨てて、最も浅劣な称名念仏一行というのか

におさまります。法然上人が諸善を勧めつつ念仏を勧めたり、諸行往生を勧めつつ念仏往生を勧めたりされたならそこまで非難は起こらなかったかも知れません。それ位、「諸善を捨てて称名念仏一行」というのはセンセーショナルだったということです。

そりゃそうです。善悪因果の道理に遵って悪を断じて仏と成るべき善根功徳を修める、因に応じた果報を受けるなどということは仏教の常識です。法然聖人の教えはそれを根底からひっくり返すようなものですから、到底受け容れられるような教義ではなかったわけです。興福寺奏状では

自業自得、その理必然なり。しかるに偏に仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚癡の過なり。

と自業自得の理、即ち因果の道理を挙げ、延暦寺奏状では

しかれば悪を造れば必ず獄に堕し、善を修せば定んで天に生ず、自業自得の報いなり。不亡不失の理なり。ここをもって、「諸悪莫作 諸善奉行」いずくんぞ七仏通戒の誠に非ずや。大陽、光明ありといえども、盲者、これを見ず、大悲、偏頗なしといえども、罪人これに預らずなり。しかるに、今ただ特に徴弱の称名、極重の悪業を憚からざる、詐偽の至り責めて余りあるなり。

と七仏通戒偈を挙げて、法然の説く専修念仏は自業自得の因果の道理に反するものであると痛烈に批判しています。また、明恵上人は『摧邪輪』にて

しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言ふは、何が故ぞ。第十九の願に云く、 「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや。発菩提心の言、処処に一にあらず。たとひ四十八願の中に菩提心の名言なしと雖も、是れ仏道の正因なるが故に、始めてこれを説くにあらざるペし。しかるに菩提心において余の字を用ゐる、甚だ吁吁たるかな。(p.23)

と19願を挙げて、仏道において菩提心は必要不可欠なることを指摘しています。上人は菩提心撥去の難として19願を出していますが、同じく19願には「修諸功徳」とありますから、弥陀の19願を根拠として「諸善を捨てて称名念仏一行」はおかしい、19願は本願ではないのかと非難することもできたのです。どっかのエセ真宗の会みたいに。

明恵上人は、菩提心とは行を修する上で行に先立って当然あるべき心のことだとし、阿弥陀仏の本願の中にも菩提心は当然ある。それは説かれていないのではなく、説くまでもない前提だから説かれていないだけである。もし菩提心が無ければ浄土も成立しないし、往生人もまた菩提心を発さなければ浄土を感得することもできないと言っています。また、

是を以て、四十八願の中、処処にまた発菩提心の言あり。汝が引くところの第十八願の中に云く、 「至心信楽欲生我国」と云云。明らかに知りぬ、内心は是れ正因なり。往生の業、ただ口称に限るにあらざるなり。たとひ深く菩提心の行相を解せん時、至心信楽の文、必ずしも菩提心にあらずと言ふと雖も、もし口称の外に内心を取らば、内心を以て正因とすべし。口称は即ち是れ助業なり。内心において浅深の差別あり。まさに浅を以ては末とし、深を以ては本とすべし。その深きは、即ち是れ菩提心なるべきなり。しからば、菩提心、最も浄土の正因とすべし。(p.16)

もし第十八の願に、菩提心の言なしと言はば、既に「至心信楽欲生我国」と云ふ。何ぞこの中に菩提心を簡ばんや。(中略)明らかに知りぬ、至心信楽の言は、専ら大菩提心を以て先とすべし。(p.23~p.24)

と18願の信心を出しています。明恵上人は、「至心信楽欲生我国」を、称名に先立ってある「内心」として捉え、至心信楽は菩提心ではない浅い心であるが、この内心をもって往生の正因とすべきであり、口称は内心を助ける助業だと言っています。行為に先立って心、意業があるというのは当然です。明恵上人の批判は決して的外れでも、揚げ足取りでも何でもない、ごく自然のことと言えます。

明恵上人の上では、内心である菩提心が仏道の終始を一貫している根本であり、これが往生の正因であり、これを抜かしたら仏教ではないという極めて重要なものです。それを「菩提心等の余行」と言い、称名念仏に対しては余行、雑行と名づけてこれを廃棄せしめることは、仏教の破壊であり、謗法以外の何物でもないとしか考えられなかったのでしょう。

他にも明恵上人は、念仏とは正しくは心念を指す言葉であり、口称に限るものではないとも指摘しています。菩提心の問題は今は差し置きますが、これは興福寺奏状の第七「念仏を誤る失」でも指摘されており、選択本願念仏という行に関する重大な問題です。


では、そんな法然聖人の教えが真実の仏教であることを示すには? そうです。

称名念仏一行こそが浄土往生の正しき行業

であるという証明が絶対に必要でした。そして、それを経・論・釈の上で証明したのが『教行証文類』であり、特に「行文類」だったのです。



【参照】
『選択集』と『摧邪輪』(安藤文雄)
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淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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