「一切衆生必堕無間」と言いながら「一切衆生必堕無間」を自ら否定している親鸞会

親鸞会教義とは実に頓珍漢な教えです。当ブログでも何度も書いているように、大沼法竜師や伊藤康善師のパクリ損ないに創価の思想が混ざったデタラメ創作教義ですから、至る所に穴や矛盾が生じています。

「一切衆生必堕無間」という教義にしてもそうです。まずは『こんなことが知りたい①』から。

 俗に、お盆といいますが、正しくは盂蘭盆といいます。『仏説盂蘭盆経』から起こったものです。
 この経には、お釈迦さまの十大弟子の一人に目連尊者という人がありました。この人は神通力第一と称され、特に孝心の深い人でありました。その目連尊者が神通自在を得て三世を観ました時に、いたましいことには、尊者の亡き母が餓鬼道に堕ちて苦しんでいることが判りました。(p.190)


私は仏説盂蘭盆経を読んでいませんので正確なところは分かりませんが、この話が本当だとすれば目連尊者の母親は無間地獄ではなく餓鬼道に堕ちていたということになります。「一切衆生必堕無間」の否定です。

次に、『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り11にありますが、「餓鬼が寒林で骸を打つ」の話もそうです。親鸞会では真剣な聞法求道を促すためにこの話を用いますが、『飛雲』にあるように、親鸞会は自分で一切衆生必堕無間を否定しているのです。

それから、『会報第一集』三世因果の教え(二)にラマ僧の話が載っていますが、そこには、死んだ怠け者のラマ僧はロバに生まれ変わるであろうと書かれています。そしてこの話の最後に、

 併し人間や動物に生れる者は上等の部類で大概の者は地獄へ矢の如く堕ちていく。(p.49)

と締めくくられています。やはりこれも「一切衆生必堕無間」の否定です。

一切衆生必堕無間というからには、一人の例外もなく死ねば必ず無間地獄へ堕ちねばその教義は嘘です。親鸞会は教義自体が嘘であることを自ら証明しているのです。だから最初に頓珍漢な教えだと書きました。

第一、親鸞会がやたらと強調している因果の道理からして一切衆生必堕無間はおかしな教義なのです。一人一人それぞれ業が異なるのに、死後は例外なく無間地獄へ堕ちるなど、今からすれば正気の沙汰とは思えません。生まれたばかりで死んでしまう赤子も、100まで生きた老人も、素晴らしい生き方をした人も、罪を犯し続けた悪人も、同様に無間地獄へ堕ちるのですからね。そんなおかしな話がありますか?
それに、ほとんどの人は仏法とご縁のないままこの世を生き、そして死んでゆくのですから、一切衆生必堕無間が真実なら大多数の人々は無間地獄に堕ちるために人間に生まれてきたようなものです。次生は無間地獄が決定しているなら、わざわざ人間に生まれない方がよかったかも知れません。その辺の犬や猫の方がよかったということになってしまいます。「人身受け難し、今已に受く」の喜びなど起きようはずがありません。

所詮、人様のことは問題ではなく、我が身に引き当てて受け止めるのが仏法です。自身のことを必堕無間の者と味わうには何の問題もありません。しかし必堕無間を全人類に拡大して解釈するのは如何なものかと思います。ご覧のように、一切衆生必堕無間という教義は親鸞会が自ら否定しているデタラメ創作教義ですから、未だに引きずっている人はご心配なさらないで下さい。また、そう言われてもやはり自分の罪悪の報いを恐れてしまう方は、自身の罪悪の深いことに心を懸けず、どんな罪の深い者でも助ける本願を聞き、その仰せを仰いで下さい。それ以外に救われる道は二つも三つもございません。この私一人を助けるためにご苦労なされている、阿弥陀仏の仰せを受け容れて下さい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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「一切衆生必堕無間」についてのコメント返信

「一切衆生必堕無間」についての問答(コメントより)にコメントを頂いています。今回はコメントの紹介、及びそれについての返信です。

名無し様のコメント
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「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(歎異抄後序)

「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において…(中略)…如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。」(教行信証信巻)

といった言葉に代表されるように、自身の罪悪というものを強く打ち出す親鸞聖人の言葉は、阿弥陀如来の救いや慈悲とセットになって述べられていることが多いです。浄土真宗の信心は「二種深信」と言われますので、当然といえば当然です。

つまり、必堕無間にしても、本願念仏の教え・阿弥陀如来の救いに「出遇ったわたし」が、「自分自身のこと」として味わう際において出てくる言葉なのです。中央仏教学院のテキストも必堕無間だけではなく、「定得往生の者であるというよろこびに生きる」とあるように。

そこから一即一切・一切即一の理論で一切衆生に広げたとしても、あくまで基本は「自身のこと」として味わうものです。「自身のこと」という最も大切な部分がゴッソリと抜け落ちた「全人類共通の法則」「一般論」のような知識的理解の上で語ったり、ましてや他者に対して脅しのように振りかざしたり、そう受け止められるような使い方をする言葉ではありません。

また「救いに出遇った者の味わい」として出てくるのですから、「一切衆生は必堕無間なんだから、救われるために求道を頑張ろう」という理屈も生まれないのは、上記の言葉を見ても、

無明長夜の灯炬なり
 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり
 罪障おもしとなげかざれ

というご和讃からも明らかです。

「地獄は一定すみかぞかし」とおっしゃった歎異抄第2条ですら「必堕無間」であることを伝えようとする一段ではありません。不審をかかえて関東から命がけの旅をしてきた弟子たちに、改めて「念仏以外の道があると思ってるなら大間違いだよ」と示し、その念仏の教えを示してくださった法然聖人への深い敬慕の念の中から「地獄は一定すみかぞかし」という言葉が出てきています。自身の味わい・領解を通して、最後には「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」と締めくくっています。

親鸞会は必堕無間が求道のためのキーワードになっており、唯一無二の善知識こと会長の存在とセットになって「無間地獄から逃れるには信心獲得しなければ、そのためには唯一無二の全知識のいらっしゃる親鸞会で求道に励まなければ」と脅しのような効果をもたらしています。

同じ言葉を使っていたとしても、理屈の組み立て方次第でその中身が全く逆方向になってしまうこともあるという典型的な例ですね。注意したいものです。

※管理人様、長々とでしゃばって失礼しました。南无阿弥陀仏。

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私も同じように思います。


中央仏教学院生徒(西本願寺)様
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では仏教学院の先生方は、間違った味わい方をされているのでしょうか。

また、いろいろの方面から勉強してみたいと思います。

有難うございました。

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何度も言っていることですが、個人的な味わいとして「私は必堕無間のあさましい存在だ」と言う分には何も差し支えありませんし、ましてそれが正しいとか間違いだとか言うつもりもありません。本願寺は親鸞会などとは比較にならないほど多くの布教使や学者がいらっしゃいますから、中央仏教学院生徒さんに返答した先生のような考えの方もあるのでしょう。
ただ、「一は一切、一切は一、必堕無間はすべての衆生にあてはまるご教導とこそ味わいます。」という返答があったからといって、それが親鸞会の説く一切衆生必堕無間は正しいという根拠にはなりません。中央仏教学院生徒さんは、親鸞会の説く「一切衆生必堕無間という教義」の正当性を主張するために西本願寺の先生に質問し、その返答を当ブログに書き込んでおられるのでしょうか? 当ブログの性質の一つが親鸞会批判ですから、当ブログに書き込んでくる理由はそれ以外考えられませんが、まずそれを伺いたいと思います。
親鸞会では、全ての人は死ねば必ず無間地獄に堕ちて八万劫中大苦悩ひまなく受ける、これを後生の一大事といい、この後生の一大事解決には親鸞聖人の正しい教えを聞いて信心決定するしかないと説きます。要は一切衆生必堕無間というのは、親鸞会に入って信心決定するしかあなたの助かる道はない、という脅し文句なのです。そして聞く者を、無間地獄から逃れるのが目的で親鸞聖人の教えを聞く、というスタンスにしてしまっています。
会員の皆さんが親鸞会に留まる理由の一つが、この一切衆生必堕無間という呪縛です。そこで、この呪いの言葉から解き放たれて、無間地獄から逃れるためではなく真実浄土を願って本願を聞き念仏されるようにと思って「一切衆生必堕無間という教義」を批判しています。実際、経典や聖教上には「一切衆生必堕無間」という言葉も、「一切衆生必堕無間」ということを意味する教えもありません。もしあれば、釈尊の言葉で、あるいは七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人の言葉で示して頂きたいものです。

なお、親鸞会は本願寺に対して「念仏さえ称えておれば死んだら極楽、死んだら仏、死んだらお助け」と説いていると批判し、葬式仏教・法事仏教となって死人を食い物にしている、間違った教えを説いているとコテンパンにこき下ろしています。その本願寺の先生の言葉をもって親鸞会教義の正当性を主張するとは如何なものか、読者の皆様には言うまでもないと思います。

「一切衆生必堕無間」についての問答(コメントより)

柏木由紀大好きっ子様からコメントを頂きました。ありがとうございました。皆さんにも紹介いたします。

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驚愕聖典XX号



一切衆生必堕無間とは誰の言葉か。何を根拠に言っているのか。


○親鸞会会長の高森顕徹の造語である。
○根拠は日蓮の言葉である。
○教主釈尊の金言まことならば多宝仏の証明たがずば十方の諸仏の舌相一定ならば今日本国の一切の衆生無間地獄に堕ちん事疑うべしや(日蓮の「撰時抄」をアレンジしたもの)



一切衆生必堕無間という狂人どもを破る根拠を三つ以上あげよ。


○一切経に出ていない言葉である。
○それどころか経典に「一切衆生悉有仏性」と説かれている。
○一切衆生が必堕無間ならば、釈尊が、「彼の国の人民、胎生の者有り」と、自力念仏の者は化土往生することを大無量寿経に説かれるはずがない。

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何度も言いますが、一切経の中にも、祖師方の聖教の中にも「一切衆生必堕無間」という言葉、またそのような意味の文章はありません。仏教でもなければ、浄土真宗でもない、外道の教えを本当の親鸞聖人の教えなどと騙されて聞かされているのが会員の皆さん、あなた方です。皆さんは「後生は一大事で、助かるには高森先生から真剣に聴聞して信心決定しなければならない」等と思っているかと思いますが、では経典や聖教上に根拠のない教えで助かるとお思いなのですか? 「たとえ経典や聖教に根拠がなくても高森先生がそう仰るんだから正しい」と言うなら、それは親鸞学徒ではなく高森学徒です。本当の親鸞聖人の教えを知りたい方、信心決定して報土往生の一大事を遂げたいと願う方は、ぜひとも釈尊や祖師方の御言葉を学んで、教えの真偽を検証して頂きたいと思います。

こちらの質問には答えず、一方的に質問をぶつけてくるという相変わらずの親鸞会会員

それで、「一切衆生必堕無間」の根拠は?

の記事に「ヒロシ」さんから重ねてコメントがありました。

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弥陀の救い


では、なぜ、弥陀の救いが、あるのですか?

一切衆生が、必堕無間じゃないなら、何故、弥陀の救いがあるのですか?

蓮如上人が、「あわれあわれ存命のうちに皆々信心決定あれかしと
朝夕おもいはんべり。」(御文章)

と、蓮如上人は、「信心決定してくれよ」と、朝夕思っていたんですか?

信心決定しないと、どうなるんですか?

何故、後生の一大事が、あるんですか?

何故、我々は、弥陀の救いに、会わないといけないんですか?

何故、阿弥陀仏が、「皆助ける」と仰ってるんですか?

阿弥陀仏から、助けてもらわなかったら、どうなるんですか?

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相変わらずこちらの質問には答えず、一方的に質問をぶつけてくるという親鸞会会員らしいコメントです。高森信者とはまともな議論をすることは非常に困難ですね。
さて、このコメントにも「一切衆生必堕無間」の根拠はありませんでした。ということで、

「一切衆生必堕無間」の根拠はない

ということで決着です。これ以上当ブログに何か書き込むというなら、まず「一切衆生必堕無間」の根拠を示してからにして頂きたいと思います。



ところで、色々と質問が来ておりますので、私は根拠を挙げて答えましょうか。これは「信文類」の御言葉が分かりやすいと思います。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。 しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。 また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。 なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。
次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。それで、これを信楽というのである。すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。  ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。  すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。  この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

ということで、なぜ弥陀の救いがあるのかについては、一言でいえば

阿弥陀仏が苦しみ悩む衆生を哀れんで助けようとして下されたから。

であります。私たち衆生がはかり知れない昔から煩悩から離れることなく迷いの世界に流転し、多くの苦しみに縛られて清らかなまことの信楽がありません。がために、阿弥陀仏はこれを哀れんで、五劫思惟の願を発し、兆載永劫の行を修めて、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる我ら衆生に広く施し与えて下さるのです。

しかし、せっかく私たちが浄土往生する手はずを阿弥陀仏が整えて下さっていても、これを受け取らねばまたしても流転を重ねなければなりません。信心を決定せねば、今度の報土の往生は不定です。

信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。(五帖目十一通)

なので蓮如上人は、「皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」と仰ったのでしょう。ちなみにここでは信心決定しなければ無間地獄に堕ちるとは仰っていませんね。

「後生の一大事」=「未信の者は死ねば必ず無間地獄に堕ちるという一大事」ではありません。本来参れるはずもない我ら衆生が浄土に往生するという一大事、迷いの世界に流転するか浄土に往生できるかどうかという一大事を後生の一大事というのです。これについては

『21世紀の浄土真宗を考える会』「後生の一大事」といふ事

が分かりやすいと思います。単に無間地獄を逃れたいなら、親鸞会に入って苦しい思いをせずに神を拝めばよいのです。

一度、神を拝んだ者は、五百生の蛇身を受け、現世に福報は更に来たらずして、後生は必ず三悪道に堕す。(『教学聖典(6)』)

別に弥陀の救い(第18願による救い)に遇わなければならないという強制はありません。やれると思う人は聖道門自力修行の道で生死出離を目指しますし、第19願に誓われている自力諸行往生の道を、あるいは第20願に誓われている自力念仏往生の道を辿る方もあるでしょう。(まぁ、いずれの道にも行かず、無仏無仏法な生活をして命終わるという人が圧倒的に多いでしょうが・・・)
ただ、末代の我々に聖道門の修行をしてさとりを開くことはできませんし、第19願や第20願は直ちに救うという弥陀の本意ではありません。念仏して第18願による往生を願うことが弥陀の本意であると親鸞聖人が明らかにして下されたので、同心するものはそれに順うというまでです。

なぜ「皆助ける」と仰っているのかについては、阿弥陀様がそう仰っているからです。これ以上のことは阿弥陀様に聞いて下さい。

阿弥陀仏から助けて頂かなかったら、後生はまた迷いの世界を流転です。中でも三悪道に堕ちる者は多いでしょうし、無間地獄に堕ちる者もあるでしょう。しかし全ての衆生が死ねば必ず無間地獄に堕ちるわけではありません。お釈迦様は勿論、七祖、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人、どなたも仰っていません。



これで質問には答えたと思います。では、ヒロシさんに重ねて言いますが、「一切衆生必堕無間」の根拠を経典やお聖教の御文で挙げて下さい。それ以外のコメントはお断りです。

それで、「一切衆生必堕無間」の根拠は?

当ブログの主張は、『「一切衆生必堕無間」は珍説』

の記事に、またまた「ヒロシ」さんからコメントがありました。


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妙好人

へぇ~。妙好人・宮川信吉はカルトの考えなんですね。

「お慈悲を聞かぬものは馬鹿でぃ。人間に生まれたのは、お慈悲聞きに生まれたのじゃ。お慈悲間かにゃ、地獄へ落ちるぞぃ。お寺へ参りさえ」

弥陀のお慈悲聞かないと、地獄に落ちると述べているんだけど、カルトの考えなんだあ~。

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どうも論点がずれてしまっているので、大本に立ち返りたいと思います。
当ブログの主張は、親鸞会が主張している「一切衆生必堕無間」は珍説であるというものです。それは違うというのならば、妙好人ではなく善知識方の御言葉で「一切衆生は必堕無間である」という根拠を示して頂きたいと思います。この度のコメントでそんな根拠はないと言っているようなものですが、それが示せないというのならば、潔く根拠がないことを認めて、揚げ足取りに勤しむようなことはお止め下さい。


次に、宮川信吉という人がどのような人物なのか分かりませんが、単に「地獄へ堕ちる」というようなことは覚如上人も言われています。つい先日も挙げましたが、再び引用しておきます。

往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。(執持鈔)


この中で覚如上人は、

・このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。

と仰っています。ただ、後の方では、

・明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。
・しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし


とも仰っています。「地獄」が「悪道」に変わっています。我々の後生は地獄であると必ずしも限定はされていないのです。まして、全ての人の後生は無間地獄だなどとはどこにも仰っていません。それは蓮如上人も同じです。
妙好人の言葉は自身の味わいによるところが大きく、地獄という表現が多く使われています。また説法の中で、後生は地獄だと説く布教師はあったでしょうし今もあるでしょう。ただ、後生は必堕無間だとか、全ての人が無間地獄に堕ちるなどと言っている人はあるでしょうか。一人一人業が違うのに、一緒くたに全ての人の後生は無間地獄などとは、因果の道理から考えて普通におかしいと分かろうものです。この必堕無間の邪義が繰り返し徹底され、その恐怖が会からの離脱防止に一役買っていたことは、退会者のよく知るところであります。私は、ただ単に地獄という言葉を使うかどうかでカルトだと言っているのではありません。必堕無間の恐怖で離れようとする信者を縛っている、だからカルトだと言っているのです。


さて、宮川信吉さんはお慈悲を聞けと言われていますが、浄土真宗で言われるお慈悲とは阿弥陀仏の第十八願のこと、「我にまかせよ、必ず助ける」という南無阿弥陀仏の名号のことです。その第十八願の教法はそっちのけで、やれ三願転入しなければ助からないから十九願の善をやれだとか、やれ宿善薄い者はそのままでは宿善開発の時節到来はあり得ないから宿善を求めよ、厚くせよだなどと、およそ浄土真宗とは無関係な邪義を唱え続けているのが親鸞会であり高森会長です。後生は必堕無間と脅され、まるで間違った救いの法を与えられている会員さんは実に哀れでなりません。悲願の一乗に帰命しなければ永久に流転の身となるとは親鸞聖人の仰せであり、苦から苦への綱渡りとはまさにこのことです。早く高森信心を捨て去って本当の浄土真宗の教えに遇われることを願います。

当ブログの主張は、『「一切衆生必堕無間」は珍説』

ふと疑問に思ったこと

の記事に、「ヒロシ」さんからコメントを頂きました。


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珍説に反論!

必堕無間は、珍説ではありません。

明治の妙好人・安川庄兵衛は、こう述べています。

「地獄行きに候えば、かわる気づかいのなきものに候、必堕無間は間違いなき事に候。」

と、はっきり述ベ、「必堕無間は間違いない」と断言してしますよ!

それでも必堕無間は、珍説ですか?

そうなら、安川庄兵衛は、珍説を述べたことになりますよ!

さらに、必堕無間について、他の妙好人は、違う言葉で、こう述べています。

「信のない人地獄行き」(中畑小市)
「念仏ない人地獄行き」(浅原才市)

それでも必堕無間は、珍説ですか?

そうなら、妙好人は、珍説を述べたことになりますよ!

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「必堕無間」という言葉は真宗でよく使われているようです。『親鸞会教義の誤り』一切衆生は必堕無間なのか1には、

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このように言いますと、「必堕無間」は親鸞会以外の真宗関係団体でも使っているとの反論があるでしょう。高森会長が著作の大半を盗作したといわれている大沼法竜師の『魂のささやき』には、

三千世界の者はみな助かっても、法竜一人は助からないのだ、と往生の望みの綱が切れたとき、無間のどん底に投げ込まれたのが先か、その機のままを摂取するのだぞの勅命が届いたが先か、必堕無間が先か、十方法界唯であったの自覚が先か、明来闇去か、闇去明来か、そんなことなど考える余裕あればこそ、この極悪最下の機が極善最上の法に生かされたのだ。

とあります。また高森会長が18才で獲信体験をした時の所属団体である華光会でも、「必堕無間」という言葉は使用されています。
本願寺系発行の書物にも、「必堕無間」の言葉は見られます。その元になったのが『歎異抄』の、

いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。

です。『歎異抄』は親鸞聖人の書かれた書物ではありませんので、これが親鸞聖人のお言葉と断定はできませんが、親鸞聖人のお言葉であるとして、親鸞会では、「親鸞聖人でさえ、地獄しか行き場のないものであると仰っているのだから、全人類は必堕無間で間違いない」、と主張します。

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とあります。真宗界で「必堕無間」という言葉が使われているのは明白です。

ここで、上リンク先の記事で書いていることを含め、当ブログで問題視しているのは、親鸞会・高森会長の主張する「一切衆生必堕無間」という珍説についてです。これについては、経典にもお聖教にもこのような文言もこのようなことを意味する箇所もないというのが当ブログの主張です。この点ご理解下さい。


ただ、もしヒロシさんが親鸞会の会員及び親鸞会の擁護者で、高森会長の主張する「一切衆生必堕無間」という説を肯定するためにコメントをされたならば、妙好人の言葉ではなく、経典やお聖教のお言葉で「一切衆生必堕無間」の根拠を示して下さい。せいぜい出せる根拠と言えば、蓮如上人の

この信心を獲得せずは、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(二帖目第二通)

位のものでしょうが、この文章には主語がありません。普通手紙というのは受け取る相手に向けて書くものなので、この文章の主語は「二帖目二通のお手紙を受け取った方」と考えるのが妥当です。それが証拠に、蓮如上人は別のお手紙では相手を限定して「地獄に堕ちる」等と仰っています。たとえその方には当てはまっても、それがそのまま全人類に当てはまるというものではないのです。わかりやすく喩えて言えば、ラブレターに

好きです。

と書いてあったからといって、書いた当人はその手紙を受け取った人のことが好きなのであって、その手紙を受け取っていない者のことを好きだということではありません。まして全人類が好きだということではありません。

我が身の罪悪を振り返って「自分は必堕無間の者だ」と反省するのは大いに結構ですが、それを全人類に拡大して「全ての人は死ねば必ず無間地獄に堕ちるぞ、一切衆生必堕無間だぞ」などと主張するのはカルトの考えです。このようなカルトの考えに支配され、救いの法を与えられずに活動している会員さんは大変哀れです。一刻も早く抜け出して、本願の救いに遇って頂きたいと願ってやみません。

親鸞会発行『顕真』5月号の「ひと口問答」について

『飛雲』朝令暮改の人に随ふべからずに既に紹介されていますが、親鸞会発行『顕真』5月号(p.21)に、明らかに『飛雲』を意識したと思われる内容がありましたので報告します。


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ひと口問答(1)

問い

弥陀に救われずに死ぬ人は、六道輪廻するか、または十九願・二十願の行者は化土へ往生すると親鸞聖人は教えていられるのに、地獄に堕ちるというのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。


答え

 蓮如上人は「信心決定せずは、報土往生すべからず」(『御文章』三帖目八通)と、報土に対する化土ですから、十九願・二十願の行者の化土往生も排除されていません。
 また、六道の中には無間地獄もありますから「この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」とも『御文章』(二帖目二通)にあります。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


以下、この問答に関する考察です。

まず、会の教義に絶対の自信がおありなら、コソコソと「・・・という人がありますが」などと言わずに、「『飛雲』に親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点10項目として、その1番目に

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

と書いてある」、と言えばよいのです。まぁ法論を申し込まれながら沈黙しかできないようでは、とてもそんなことは書けないでしょうが。いつものことですが、「・・・という人がありますが」と書いてあるあたり、親鸞会の自信のなさがにじみ出ています。

次に、『飛雲』の主張とは異なる問答にしていることが見過ごせません。『飛雲』では、高森会長の説く「一切衆生、必堕無間」が間違いだと言っているのであって、「地獄に堕ちるというのは間違いだ」と言っているのではありません。六道の中には無間地獄もあるなどということは親鸞会に言われずとも分かります。親鸞会お家芸の論点すり替えがここにも出ています。

それから、『蓮如上人は「信心決定せずは、報土往生すべからず」(『御文章』三帖目八通)と、報土に対する化土ですから、十九願・二十願の行者の化土往生も排除されていません。』との答えですが、『飛雲』の主張を一部認めたということでしょうか? 認めたならば、早速必堕無間の邪義を訂正しなければなりませんし、会員にもその旨を正確に伝えなければなりません。それとも、十九願・二十願の行者は実際にはいないと詭弁を使うつもりでしょうか? それをも否定する根拠が「定散と逆悪とを矜哀して」の意味さえ知らない高森会長に載っていますけど。
どちらにせよ、経典、お聖教を断章せずに読めば、「一切衆生、必堕無間」という言葉も、そのように教えられている箇所も、どこにも見出すことはできません。それどころか、「一切衆生、必堕無間」を否定するような根拠ばかりが出てきます。それを『御文章』二帖目二通の

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

の一文のみにしがみついて「一切衆生、必堕無間」と断じているのが親鸞会です。こういうのを断章取義というのです。なお、これについて詳しくは「一切衆生必堕無間」は幼稚な発想「一切衆生必堕無間」を否定された善知識方などをご覧下さい。

最後に、今後10項目についてQ&Aがありそうな気配が致します。しかし、こんなことを書けば書くほど指摘を受けるだけです。こんなものを書いている暇があればさっさと『飛雲』との法論に応じて下さい、親鸞会サン。

会員の皆さんは、五逆のもの、謗法のものではありません(2)補足-こんなことさえ判らぬ人達

親鸞会で定義している謗法罪の中で、

・「今日の話は長かった、短かった、分かりやすかった、分かりにくかった」と(高森会長の話を)評価する

というものがあります。理屈としては、小学生の生徒と先生の喩えを出して、「先生は生徒の答案の良し悪しを採点できるが生徒は先生の答案の良し悪しが分からないため採点できない。善知識の話をあーだこーだと評価するのは、説かれる先生の上に立たなければできないこと」ということです。ならば、

・高森先生は、親鸞聖人の教えを分かりやすく、正確に説いて下さる方です
・高森先生は、信心決定の体験と、深い教学を兼ね備えた、蓮如上人以来の善知識です


などと高森会長をあーだこーだと評価しているのはどういうことでしょうか? 説かれる先生の上に立たなければできない謗法罪ではないのでしょうか? これを素直に受け入れられない人は、相当高森先生信心の強い方、マインドコントロールが根深い方です。謗法罪は無間業だと教えられながら平然と犯し続けている、こんなことさえ判らぬ人達が親鸞会の会員です。
勧誘経験のある会員さんなら、このような文句で富山やビデオ法話に人を誘ったことがあるはずです。このように会員に平気で(会で言う)謗法罪を造らせまくっている会長、また造りまくっている会員にだけには、「淳心房は謗法罪を造りまくっている」等と言われたくないものです。

会員の皆さんは、五逆のもの、謗法のものではありません(2)-謗法罪について

親鸞会における謗法罪の定義は、

・「仏教なんて迷信だ、邪教だ」とそしる
・善知識をおろそかに思う
・(高森会長の説法を)居眠り聴聞する、あるいは居眠り半分に聞く
・「どれだけ聞けばよいのだろう」「聞かなければよかった」と不平に言う、不平に思う
・「今日の話は長かった、短かった、分かりやすかった、分かりにくかった」と(高森会長の話を)評価する
・インターネットで親鸞会のことを非難する


などで、一つでも犯せば謗法罪ということになります。五逆罪と同様、10分間説法や親鸞会で聞いてきたことを参考にまとめました。親鸞会で根拠としているお言葉が、

1、善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。(末灯鈔)
2、殺るよりも おとらぬものは 思う罪(?)
3、念仏誹謗の有情は 阿鼻地獄に堕在して 八万劫中大苦悩 ひまなくうくとぞときたまふ(正像末和讃)


等ですが、これらも五逆罪と同様に断章主義とこじつけです。
1については五逆罪と全く同じで、親鸞聖人は善証房などの親をののしり聖人をそしっていたような五逆、謗法のものとは同座してはならないと教えられています。末灯鈔は関東各地の門弟にあてられたお手紙ですが、門弟の方々は五逆、謗法のものではない前提で書かれているのは明らかです。もし門弟の方々が五逆、謗法のものなら、「善証房はこういう悪いやつだが、実は皆さんも善証房と同様に五逆、誹謗のものなのです」という内容の文章が一つ位あってもいいものです。が、そのような文章は宗祖の上には見当たりません。
2についても五逆罪と全く同じです。ちなみに謗法罪の定義は、

 問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。(浄土論註)


で、仏や菩薩そのもの、あるいは仏や菩薩の教えを否定すること、またそのような考えを自分自身でおこしたり他人に教えられてその通りと心に定めることを誹謗正法というのです。親鸞聖人の教えを公然とねじ曲げる高森会長は誹謗正法の者と言えるでしょうが、それは確信犯的一部の人間です。
3については、念仏誹謗のものは無間地獄に堕ちるのであって、全人類が念仏を誹謗しているわけではありません。親鸞会的理論では「心では念仏を謗っている」などと言いますが、拡大解釈にもほどがあります。

一切衆生必堕無間と説いて会員を恐怖させ、会に縛り付け、助かりたいなら善をせよと献金や勧誘をやらせ、偽の親鸞聖人の教えを説いているのが親鸞会であり、高森会長です。『光に向かって』の話ではありますが、釈尊は説法の最中に居眠りしたアナリツ尊者に「お前は今謗法罪を造った。後生は必堕無間だ」などとは教えられていません。ですから、高森会長の話で居眠りしたり、不平を言ったり、説法の内容を評価したりしても謗法罪とはいいません。それどころか邪説が耳に入りませんから、どんどん居眠りして頂いてかまいません。まぁ出かけていって寝る位なら、行かない方がマシですけどね。
インターネットに親鸞会批判をしたところで、事実無根の偽情報はいけませんが、それでも謗法罪とはなりません。ちなみにある幹部会員が「批判サイトを見るのは謗法罪だ」と言っていましたが、その理屈でいえばサイトの存在と内容を知っているその幹部会員、ネット対策員、高森会長は謗法罪を犯しまくっている狂人と言えるでしょう。自分が言っていることがいかに矛盾に満ちているか、無理を承知ですが、気づいて悔い改めてほしいと願わずにはいられません。

なお、自分の心を見つめて、「自分は五逆、謗法の塊だ。必堕無間の者だ」と内省するのはけっこうなことです。罪悪観のない人に宗教心はまたないですから。しかし、人に説いて恐怖させ、組織に縛り付けるやり方はとんでもありません。更に、解決のために献金と勧誘を要求し、組織拡大要員として利用するなど、もっての他であります。
釈尊は、五逆罪を犯したと自責の念から病で苦しむ阿闍世王に対して、「お前は五逆のものではない」と仰っています。親鸞会の説き方とは逆ですね。罪悪を感じないものには罪の恐ろしさを知らせ、罪悪に恐怖するものにはその恐怖を取り除き、正法を与えてさとりの世界へ導く、釈尊の巧みな御教導です。会員の皆さんは与えられるべき正法が全く与えられておらず、罪の恐ろしさばかりが教えられています。これ以上親鸞会にいても、教えはどんどんねじ曲がるばかりで正しくなる見込みはありませんから早く離脱し、本願寺などで信頼できる僧侶から聞かれることをお勧めします。

会員の皆さんは、五逆のもの、謗法のものではありません(1)-五逆罪について

親鸞会では「全ての人は五逆、誹謗正法の罪を造っているから後生は必堕無間だ」と主張します。そして、真面目な会員さんはこれを真受けにして恐怖し、「後生の一大事の解決」のために親鸞会で推進される活動に頑張るようになります。また、活動についていけなくなった人でも「救われるには高森先生から教えを聞いて信心決定するしかない」とマインドコントロールされているため、退会を躊躇して幽霊会員として留まり続ける人も多いと思います。私も活動についていけずに幽霊会員だった時、「親鸞会から離れても後生は必堕無間だからなぁ」と退会を躊躇し、結局マイペースで再活動することにしました。


「後生は必堕無間だから」
「人間の実相が真実だと思うから」
「私は五逆、謗法の者だから」


という理由で留まる会員さんの多くは、自己の罪悪をよく見つめている真面目な方が多いです。逆に三業で造る罪の意識があまりない方は、必堕無間と迫られてもへっちゃらで、すんなりと離れられるでしょう。
さて、必堕無間の恐怖に縛られている会員さん、皆さんは本当に五逆、謗法の罪を犯しているのでしょうか? 親鸞聖人は、五逆の者、謗法の者を親鸞会で定義されている通りに教えられているのでしょうか? 本日は、五逆罪について検証してみたいと思います。

まず、親鸞会では五逆の者とはどう定義されているかというと、

・体で親を殺す(父殺し、母殺し)
・羅漢殺し(今日は高いさとりを開いた人がいないため、なし)
・親鸞会の和を乱す(和合僧を破る)
・目先のことに心を奪われたり、聴聞していても居眠り半分だったり他事考えたりで「後生の一大事の解決」に向かわず、阿弥陀仏の目から血の涙を流させる(仏身より血を出す)
・口で親をののしる(「死んでしまえ」というのは勿論、「うるさい」「邪魔だ」「あっちへ行け」などとののしる)
・一つ屋根の下で暮らしておりながら、ろくに口もきかず、呼ばれても聞こえないふりして親を邪魔者扱いする
・寝たきりにでもなり親の介護が必要になった時、世話を嫌って「いい加減に・・・」と思う
・心で親を殺したり、邪魔者に思う
・「なんで生まれてきたんだろう」「生まれなければこんなに苦しまなくてもよかったのに」と思う


などで、どれか一つでも犯せば五逆の罪になると教えられます。10分間説法や、親鸞会で聞いてきた事を参考にまとめました。これらの根拠としているお言葉が、

1、五逆といふは(往生十因)、「もし淄州によるに五逆に二つあり。一つには三乗の五逆なり。いはく、一つにはことさらに思うて父を殺す、二つにはことさらに思うて母を殺す、三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもつて仏身より血を出す。恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づくと。(信文類)
2、おやをそしるものをば五逆のものと申すなり。(末灯鈔)
3、心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善(大無量寿経)
4、一人一日のうちに八億四千の憶いあり、念々になすところこれみな三途の業なり。(親鸞会では善導大師のお言葉としていますが、『浄土菩薩経』のお言葉とのことです。『21世紀の浄土真宗を考える会』歎異抄第2章を読む その2の補足と寄り道参照)
5、もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし。(口伝鈔)
6、殺るよりも 劣らぬものは 思う罪(?)


などです。だから全人類に五逆罪を犯していない者は一人もいない、必堕無間だと主張していますが、かなりの断章主義とこじつけが見られます。以下、簡単に親鸞会の定義と聖教上の定義が違っていることを書きます。

まず1については、「ことさらに思うて」ですから「故意に」ということです。故意に親を殺すことを五逆罪というのであり、心で親を殺したり邪魔者扱いしたりすることを五逆罪とは教えられていません。
2については、このお言葉のすぐ後に「同座せざれと候ふなり」と言われ、善証房という親をののしり親鸞聖人を謗っていた者を具体的に出されて、「このような五逆のものに近づいてはならない」と教えられています。全人類が五逆のものなら誰とも同座してはならないということになります。「同座せざれと候ふなり」と教えられるということは、五逆罪を犯していない人がいる前提の上でのことです。
3については、「人間の身口意の三業の実相を説かれた」お言葉だとしていますが、これは断章主義です。3のお言葉は『大無量寿経』下巻の「五悪段」の中、第五の悪人について説かれているのであって、全人類がそうであるという根拠ではありません。勿論「全人類が五逆の者である」と教えられた根拠にはなり得ません。
4についても、「三途の業なり」ですから、三悪道ということです。「全人類が五逆の者である」「後生は必堕無間だ」と教えられた根拠にはなりません。
5については、「だから心で親を殺したり邪魔者扱いすることも五逆罪だ」と理解する人が多いのですが、そうではありません。これも前後の文章を弁えず断章主義しているから意味が分からなくなってしまうのです。詳しくは会員との問答(五逆罪、謗法罪について)を読んで頂きたいのですが、このお言葉は、「私達はもともと罪そのものを本性としている者なので、大小の差別なく三業でなすことは罪でないものはない」ということを教えられています。しかし、だからと言って心で親を殺すのが五逆罪だとこじつけるのはおかしいのです。
6については、親鸞会では重要な根拠の一つですが、いつも「仏教では『殺るよりも 劣らぬものは 思う罪』と言われ・・・」とは言っても誰の言葉なのか明言しません。明言できるのは、親鸞聖人がこのようなことを仰って「心で親を殺すことも五逆罪である、だからお前達は全て五逆のものだ、後生は必堕無間だ」とは教えられていないということです。

全人類が五逆のものであるなど、親鸞会のオリジナル教義です。詳しくは、
自称獲信者との論争1
会員との問答(五逆罪、謗法罪について)
等をご覧下さい。会員の皆さんは、五逆のものではありません。罪におそれる皆さんに必要なのは、「地獄一定の自己」とやらを知ることではありません。只今救う本願に只今救われることです。必堕無間の呪いに苦しむ人が一人でも呪いから解放され、本願の救いに遇って下さることを願っています。
会員を必堕無間の恐怖で会に縛り付け、組織拡大にさんざん利用して、組織にとって邪魔になったり要らなくなったりしたらポイするような団体は、断じて許されるものではありません。こういうカルト創作教義を2000畳に籠もって秘事の如く説く親鸞会こそ、蓮如上人から、

さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。

と言われても仕方のない団体なのです。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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