『真宗の信心』(加茂仰順師)より

昨日、元S会会員さんより、加茂和上のお言葉を教えて頂きました(^^)v

とても素晴らしい内容なので、皆さんにも紹介させて頂きます。

今回は、加茂仰順師『真宗の信心』(探究社)のp.70~p.73より引用の内、前半部分です。




10
それで根本の暗闇を取り除くために、この自分の力ですることになれば三僧祇百大劫の修行をせねばなりません。

それはどのくらいのながいことかというに、一仏から一仏までの出世の間が、五十六億七千万年かかります。

そしてこの番々出世の仏の数を、七万五千体の仏に値うて修行をしたのが一大阿僧祇劫です。二大阿僧祇劫目では七万六千体、三大阿僧祇劫目では七万七千体、合わせて二十二万八千体の諸仏の出世に偶うて修行をしなければ、根源の暗闇は除かれません。これが除かれねば仏果は得られません。

これほどむつかしいことであればこそ、法蔵菩薩の智慧でもってして、どうして暗闇を除いてやろうかと御思案ばかりが五劫の間、そしてそれを実現さすための願行に永劫の間かからせられ、出来上がったのがいまのお助けの南無阿弥陀仏です。

しかしそれも臨終まぎわではない、平生業成の名号のお助けのいわれをはやくいただかねばなりません。

平生業成とは平生のとき往生の業が成弁するということで、平生とはたった今ということ、往生の業事とはお浄土参りの業因ということ、成弁とはかたづくということです。

それが体も元気でたしかなたった今、助かることにきまりをつけて下さるお助けということです。

ところが、そこのところを聞き損って生きているうちに信心を頂いておかないと、死んでから地獄におちてゆくからとするならば、真宗の信心は死なねば助からないようになります。

そんななまぬるいお助けではありません。生きている今、助かる信心ですから、信心をいただいて死ぬるまでは浄土の道中です。死んだときは浄土へ参ったときです。
スポンサーサイト

『真宗の信心』(加茂仰順師)より(2)

元S会会員さんより加茂仰順師のお言葉を教えて頂き、昨日は前半部分を紹介させて頂きました(^^)v


今回は、加茂仰順師『真宗の信心』(探究社)のp.70~p.73より引用の内、後半部分です。




11
平生の今、南無阿弥陀仏の本願の、私を助けて下さることを聞き得させてもらうことは、まことに宿善の厚い者です。

親様、御苦労をおかけいたしました、すみませんでした、と言うほかはありません。

そこをとりちがえて、お助けとは元気なうちに信心をいただいておくと、死ぬるとそこに阿弥陀様がお待ち下されて、そこで弘誓の船に乗せてもらうて、それからぽつぽつとお浄土へ送りとどけて下さることを信じるのを信心のように思うていたら大きな間違いです。

真宗のお助けはつづめていえば、お浄土に参らせて頂いて仏果を得させてもらうのではありますが、それはただ当てになるやらどうやら分からんものをいまここであてにして空しい望みをかけて喜んでいるのではありません。

いまここで、死んで仏になること、お浄土へ参ることを決めてもらうお助けです。

信心決定の行者にさせて頂くところに、はっきりと仏因をたまわり、息の切れたときが直ちに浄土に参り、弥陀同体の仏にならせていただくのです。

ここのところがよく領解されてないと、ながい間聴聞はさせてもらったが、今夜でも無常が来たならばと、後生に大事をかけるとどうしても、浄土に参れそうにない。

後生となったらつかまえどころがない。ここ一つにながい間苦しんでいるが、どうしたら往生に安堵が出来るのであろうかと、思案をすることになります。

それでどこまでも平生業成の南無阿弥陀仏のお助けを明らかに聞かねばなりません。それはほかのことではありません。親様の仰せを仰せのままに聞かせてもらって、御親切がありのままにうけとられて、かかるあさましきものを親様なればこそとお受けができた、これが信心です。

この信心が定まるなり、摂取の光明のうちにおさめとりたまいて、生きている間はいつもつきそい、まもりづめにまもって下され、死なばお浄土へ参らせて下さるのであります。

真宗の信心は、確信とか、自覚とか、体験とか、信仰とかいう言葉ではあらわされない信心

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

「三 仰せのままを、おうけする」五

 「聞く」とは、この私を救いたもう法を成就なされたのが、南無阿弥陀仏の名号であります。その名号を聞くことをいわれてあるのです。
 その名号には、この私の障りを消し、疑いを除く徳用を具備せられてありますから、その名号を聞くところに「疑心あることなし」と申されてあるのです。
 名号を聞いて、疑心が無くなったのなら、「疑いなし」と言われる筈でありますのに、過去、未来、現在の三時にわたる言葉づかいをして、「疑心あることなし」と申されてあるのは、名号を聞いて疑心が無くなり、信心が発起したのではなく、如来のお助けに一点の疑いなく、決定のお助けであって、それを聞いたのが、聞信の一念でありますから、「疑心あることなし」と申されたのです。それで、信心決定の行者を金剛心の行人とも申されてあって、その「金剛心」は「仏心」であり、「摂取不捨の心」であると申されてあります。
 それで、真宗の信心は、確信とか、自覚とか、体験とか、信仰とかいう言葉ではあらわされない信心であり、領受の信でありますから、「タノム」とか、「まかす」とか、「安心」とかいう言葉で示されてあるのです。つまり「会う」の信心でなく、「遇う」の信心であります。


(p.28~p.29)



他力の信心とは、名号を聞いて、如来のお助けに一点の疑いない無疑心です。
如来が助けるに間違いないので、私が助かるに間違いないと頂くのです。
本願力回向の信心ですから、私が主体ではありません。如来が主体であり、私は客体です。だから真宗の信心は加茂和上が仰るような言葉で示されるのです。

それにしても、「三界の大導師たる大自覚」とか、「鮮やかな一念の体験」とか、「信仰は進みません」とか言っている団体は何なのか…と思えてきます。

ただ願力のおかげにて、いつ命は終わるとも、往生せしめたもうことを、幾たびも仰いで、称名相続するばかりである

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  三 仰せのままを、おうけする


  八

 最後に、義山和上のおよろこびを申させてもらいます。
 『男女善悪の凡夫をはたらかさず、ひとえに仏の御力にて、助けすくはんと、よびかけたもうことを聞いて、わがはからいをまじえず、まるまる仏の御助けにあづかることと、信受する初めの念を、信の一念とは言うのである。この信受は、何程の時間を経ることなりと、凡夫のしらるるべきにあらず。また、知ることもいらないことである。また、我は、いつも信一念であると知ることもいらない。ただ願力のおかげにて、いつ命は終わるとも、往生せしめたもうことを、幾たびも仰いで、称名相続するばかりである。その外のことは分らなくてもよい』と。

(p.32~p.33)



全く義山和上の仰る通りです。私の付け足す言葉は反って蛇足になりましょうから控えさせて頂きます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

お助けをききうることが大事であります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  三 仰せのままを、おうけする


  九

 つまり、大切なことは、お助け下さることを聞くのです。仰せの聞こえたとは、助けられるわいと分かる。お助けの分るとは、宿善によります。
 一点のうたがいのないお助けの聞こえたのです。お助けのままが、きこえたら、お助けにまかされたのであります。お助け下さるお助けのきこえたのです。
 お助けをききうることが大事であります。
 聞き得た上のたのしみは、拙い言葉でも、胸のありだけ語りあい、お慈悲よろこぶたのしみは、おぼえた人には味はわかりません。

(p.33)



阿弥陀仏は、今、ここにいるこの私に向かって「助けてやるぞ」と喚びかけておられます。その仰せを、今、ここにいるこの私が聞かせてもらうのです。本当に、仰せを仰せのままに聞くのみです。他に何の不足もありません。これを、これだけでは不足に思っているのを仏智を疑惑しているというのです。その疑惑も仰せを聞くところに捨たりますので、とにかく、今、この場で「助けるぞ」の仰せを聞いて頂きたいと思います。

たすけるぞの勅命を、たすけるぞと聞き、たすけると思うところ、信心決定であります

『浄土真宗 信心』(加茂仰順師)より引用

  四 善知識の教えたもうは信心のことです

  二、聞思ということ

 聞思の思は、私が迷いを出ることが絶望ですから、如来の本願の勅命を聞いた通り念持することであります。
 たすけるぞの勅命を、たすけるぞと聞き、たすけると思うところ、信心決定であります。
 たすけるぞをほんまに受けたのが、本願に相応したのであります。
 如来のおのぞみ通り、たすけて下さいませとしたごうたのが、本願相応というのです。このときお助けにあずかったのであります。

(p.36~p.37)



「たすけるぞ」の勅命を、こちらの側で勝手に変換しない。それが「たすけるぞ」を「たすけるぞ」と聞くということです。「たすけるぞ」を聞いて「たすかるぞ」という意味だと考えたり、「どうすれば」「こうすれば」とあれこれ計らったりしているのは、勅命を勝手に変換しているすがたです。「たすけるぞ」がそのまま私の心に映ったすがた、それが信心といってもよいでしょう。だから仰せを聞いて安心するのではなく、仰せのみで安心してしまうのです。全く私の思いを介さない信心、だからこそ往生は一定です。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード