選択本願

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

●選択本願

阿弥陀仏が法蔵菩薩であったときに、十方諸仏の国土をことごとくみそなわし、一切の衆生を平等に救うために、難行であって、しかも劣行である自力の諸行を選び捨てて、最も勝れた徳を持ち、最も易行である念仏一行を選び取り、決定往生の行として選び定め、念仏往生せしめようと誓願されたことをいう。

一往は四十八願全体が選択本願といえるけれども、究極の意味では念仏を選択された第十八願を指している。

(p.216)
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『教行証文類』の概要(1)ー浄土真宗という教法

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

一、浄土真宗の立教開宗

浄土真宗という教法

 『教行信証』とは、善信房親鸞聖人(一一七三~一二六二)の主著である『顕浄土真実教行証文類』の略称で、『教行証文類』とも呼ばれています。また浄土真宗の立教開宗の根本聖典であるということから、『本典』とも尊称されてきました。『教行信証』という四法題は、その内容から名づけられた名称で、親鸞聖人の曾孫にあたり、事実上の本願寺の創設者であった覚如上人がしばしば用いられた書名ですが、親鸞聖人や直弟子たちは「教行証」という三法題を用いられていますので、これからは『教行証文類』と略称することにします。

 『教行証文類』が著された意図は、親鸞聖人が「浄土真宗」と名づけられた本願の教法が、どのような思想構造をもっているかということを、体系的に示すことでした。いいかえれば、浄土真宗とは『無量寿経』に説かれた阿弥陀仏の本願を信じて念仏し、浄土に生まれて生死の迷いを絶ち、愛憎の煩悩を超えた仏陀になることによって、限りなく大悲利他の活動を行っていく道を教える宗教です。それを親鸞聖人自身の深い宗教経験をとおして体系的に示された書なのです。ですから、『教行証文類』の冒頭には、「浄土真宗」と名づける教法は次のような構造をもっているとして、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(『註釈版聖典』一三五頁)

といわれています。これから開顕しようとする浄土真宗とは、本願力による往相・還相という二種の回向相を軸として、教、行、信、証という四法で顕すことのできるような教えであるというのです。そして、その教、行、信、証について詳細な論述がなされていくわけです。この書が『教行信証』と呼ばれるようになった所以です。ここで注意しておかなければならないのは、今日では浄土真宗という名称は教団名として用いられていますが、親鸞聖人のところでは教法の名称であって、教団名ではなかったということです。のちに親鸞聖人が「浄土真宗」と名づけられた教えを慕う人びとの集団ができて、初めてこの名称を教団名とするようになったわけです。

ところで親鸞聖人は、自身が遇った浄土真宗は、恩師法然房源空聖人(一一三三~一二一二)によって開かれた教えであるといわれています。『高僧和讃』には、

智慧光のちからより
本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまふ(『註釈版聖典』五九五頁)


とたたえられているとおりです。

 もっとも法然聖人は、自身が独立させた選択本願の教法を「浄土宗」と名づけられていて、「浄土真宗」という名称は使われていません。にもかかわらず、浄土真宗は法然聖人が立教開宗された教えであるといわれているということは、「浄土真宗」という名称を、法然聖人が顕そうとされていた「浄土宗の真実の宗義」という意味で使われていたからに違いありません。

(p.1~p.3)




「浄土真宗とは『無量寿経』に説かれた阿弥陀仏の本願を信じて念仏し、浄土に生まれて生死の迷いを絶ち、愛憎の煩悩を超えた仏陀になることによって、限りなく大悲利他の活動を行っていく道を教える宗教」なのですね☆


ちなみに私はこの本を読んで初めて、浄土真宗という名称は元々教団名ではなかったということを知りました。

そして親鸞聖人は、浄土真宗は法然聖人によって開かれた教えであると仰っていることも知りました。

その法然聖人は「偏依善導」と仰って、善導大師の教えをそのまま受け継がれています。

また、親鸞聖人は正信偈の最後に「唯可信斯高僧説」と仰っていますから、親鸞聖人の教えは七高僧の教えを受け継がれたものです。

親鸞会では七祖聖教を拝読したことが理由で除名になった方もあるそうですが、七祖聖教は排斥すべきではなく、きちんと勉強していく必要があるでしょう。

では、本日はこれまでと致します。

『教行証文類』の概要(2)ー立教開宗ということ

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

立教開宗ということ

 さきに『教行証文類』は、浄土真宗の立教開宗の根本聖典であるといいましたが、立教開宗とは、釈尊の教えに信順しつつも、独自の教義体系を樹立し(立教)、教法(宗)を開創する(開宗)ことをいいます。そのためには、まず宗の名称を定め(宗名)、その教えが依って立つ根拠となる経論を選定し(所依の経)、その教えが仏教全体のなかでどのような位置をしめているかを明らかにするために教判を行い(教判)、さらにその教えが、釈尊以来どのような人々によって伝えられてきたかという伝統(師資相承)を明示しなければならないとされています。

 法然聖人は、『選択集』の第一章(二門章)において、これらの四項目について独自の見解を示されています。すなわち宗名としては「浄土宗」を名のり、所依の経典としては『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の「浄土三部経」を選定し、論としては天親菩薩の『浄土論』を指定されています。

 さらに、教判としては聖浄二門判を立てて、仏教を聖道門と浄土門の二種に分類し、聖道門とはまったく違った法門構造をもっている独自の仏教として浄土宗を位置づけていかれたのです。

 そして、浄土宗を受け継いできた伝統としては、一往は曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、懐感禅師、少康法師の五祖による相承を立てられますが、再往は善導一師によると断言されるように、善導大師の釈義を第一の拠りどころとして、経典の心を領解していかれました。こうして浄土宗の立教開宗、すなわち浄土宗という教法の独立宣言を行っていかれたのです。

 それにひきかえ親鸞聖人の『教行証文類』には、立教開宗宣言といわれるような意図で書かれた文章を見ることができません。それは親鸞聖人自身が、浄土宗のほかに新しい教えを立教開宗するというような意図を、まったく持っておられなかったからです。しかし随所に、上にあげたような四項目についての親鸞聖人独自の見解を読み取ることができます。

 すなわち、宗名としては浄土真宗といい、所依の経としては、一往は「浄土三部経」に依るが、再往は『観無量寿経』『阿弥陀経』を方便教と位置づけ、『無量寿経』だけを真実教と判定され、それを正依の経典と定められています。

 また教判としては聖浄二門判と、頓漸二教判を巧みに組み合わせて、二双四重の教判を立てて仏教を分類し、究極においては、浄土真宗を最高の仏教と位置づけていく誓願一仏乗説を確立していかれたのです。

 さらに教法の伝統相承についても独自の見解を示し、龍樹菩薩(一五0~二五0頃)に始まり、天親菩薩(四00~四八0頃)、曇鸞大師(四七六~五四二)、道綽禅師(五六二~六四五)、善導大師(六一三~六八一)、源信僧都(九四二~一0一七)、法然聖人(一一三三~一二一二)に至る七高僧の伝統系譜を明らかにしていかれたのです。

 このように法然聖人の教えと、親鸞聖人の教えとを対照してみると、その教説の本質的なところは完全に一致していますが、その教義の顕し方や体系の立て方には大きな隔たりがあることがわかります。たしかに親鸞聖人自身には法然聖人の浄土宗のほかに、新しく浄土真宗をたて、立教開宗をするというような意識はなかったに違いありません。しかし『教行証文類』を撰述した結果として、「浄土真宗」という独自の仏教を開くという偉業を事実として成し遂げられたといわねばなりません。後世、その教えの流れをくむものが、親鸞聖人を浄土真宗の宗祖と仰ぐようになったのは、そのためです。


(p.3~p.6)




◆法然聖人の立教開宗においての四項目

○宗名…浄土宗
○所依の経…『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経、『浄土論』
○教判…聖浄二門判
○師資相承…一往は曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、懐感禅師、少康法師の五祖。再往は善導大師一師。



◆親鸞聖人の著作から読み取れる四項目

○宗名…浄土真宗
○所依の経…一往は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経、再往は『無量寿経』だけが正依の経典。
○教判…聖浄二門判と頓漸二教判の組み合わせによる二双四重の教判。
○師資相承…龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師、道綽禅師、善導大師、源信僧都、法然聖人の七高僧




◆おまけ・近年の高森会長から読み取れる四項目

○宗名…浄土真宗親鸞会(浄土真宗でも親鸞聖人の教えでもないので、改めた方がよい。浄土真宗とか親鸞聖人の教えと言わなければ教義批判は減ると思います。)
○所依の経…一往は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経。再往は『観無量寿経』。(実態は所依の経はなし。『教学聖典』、『なぜ生きる』、『歎異抄をひらく』を中心とした高森会長の著作に腰を据えた教義。会員の人は「テレビ座談会」で何の解説をしているのか落ち着いて考えてみて下さい。)
○教判…「曲解した三願転入の御文」と「独自の宿善論」の組み合わせによる宿善ポイント制(親鸞会用語でいうと、死ぬまで求道の「光に向かって進む」教え)。
○師資相承…一往は親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人。(実態は、伊藤康善、大沼法竜、S価からの寄せ集め教義。本音は、高森会長一人が最高権威。カルトといわれる所以。)

『教行証文類』の概要(3)ー教法の体系

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

二、本願力回向の宗教

教法の体系

 親鸞聖人は、浄土真宗とは、本願力回向の二つの相である往相(浄土へ生まれていくありさま)と還相(穢国に還って来て衆生を救済していくありさま)と、その往相として回向された教、行、信、証という四法を基本として成立している教法であるといわれています。そして『教行証文類』は、その往相の四法を中心として釈顕されていましたから、覚如上人以来、『教行信証』とか『教行信証文類』と四法題で呼ばれてきたのです。

 ところで、『教行証文類』の広博な法義を一巻に要約された『浄土文類聚鈔』には、

しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。(『註釈版聖典』四七八頁)

といわれています。『教行証文類』では、浄土真宗に二種の回向があるといい、ここでは本願力回向に二種の相があるといわれているのですから、浄土真宗と本願力回向は言葉に違いはありますが、内容的には同じ事柄を指していることがわかります。いいかえれば、浄土真宗とは本願力回向といわれる宗義を軸として展開していく教法の名称だったのです。法然聖人の浄土宗が、「選択本願」という一語に集約できるとすれば、親鸞聖人の浄土真宗は「本願力回向」という一句に摂めつくすことができます。法然聖人の選択本願の宗義を、本願力回向という名目(教義概念)をもって開顕したのが『教行証文類』であったといえましょう。

 それでは、本願力回向とはどのような法義を意味しているのでしょうか。まず、本願と力と回向の三つの項目に分けて、その意味をうかがうことにしましょう。


(p.6~p.7)



阿弥陀仏が「どんな者でも必ず救う」と誓われた選択本願。それは衆生の造作をまじえず、阿弥陀仏による一方的な救いであるというのが本願力回向の宗義であります。

それに対して、本願力回向を聞いてもすぐさま受け入れられずに、

「いくら大慈大悲の阿弥陀さまと言えど、衆生の造作をまじえずして救われることがあるか」
「自力諸善に励むものを往生させるというのならわかる」
「修行はできないが、そのまま救うということは有り得ない、せめて念仏くらい称えないと」
「こちらで諸善に励まねば救って下さらないだろう」
「せめて真心こめてお念仏称えなければ、助けていただけないだろう」

とはねつける者も当然います。阿弥陀仏がされるお仕事を、私の方で受け持とうとしているのです。

そんな自力諸善、自力念仏に励む者でも「堕としはせぬぞ」と誓って下されたのが十九願、二十願です。
だからこの二願は「随他意の願」と言われ、「随自意の願」と言われる選択本願(十八願)を真実の願と呼ばれるのに対し、方便の願と呼ばれるのです。ここで言われる方便とは、くどいですが権仮方便です。

阿弥陀仏は「汝一心正念にして直に来れ」と喚びかけておられますから、仰せに順いただちに十八願によって救われることが阿弥陀仏の御心にかなっているのです。このブログを縁に、一人でも多くの方が、法然・親鸞両聖人が明らかにしていかれた選択本願に只今救われ、念仏する身となって頂きたいと思います。

『教行証文類』の概要(4)ー第十八願のこころ

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

第十八願のこころ

 『無量寿経』によれば、阿弥陀仏が法蔵菩薩と名のる修行者であったとき、一切の衆生を、善悪・賢愚の隔てなく平等に救って、さとりの領域である浄土に生まれさせようと願って四十八種の誓願をおこし、さらに兆載永劫の修行によって一々の願を完成し、十劫のむかし阿弥陀仏となられたと説かれています。その四十八願は、念仏往生を誓われた第十八願に集約していくと見るのが、善導、法然両祖の伝統をうけた親鸞聖人の領解でした。いま本願力回向といわれるときの本願は、その第十八願を指しています。その願は、次のように誓われています。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(『註釈版聖典』一八頁)

「たとい私が仏陀になり得たとしても、十方世界のすべての衆生が、私の真実なる誓願を疑いなく信じ、わが国(浄土)へ生まれようとおもって、わずか十遍であれ、私の名を称えているのに、もし私の国に生まれることができないようならば、私は仏陀にはなりません。ただし五逆罪をつくり、仏法を誹謗しているようなものは除きます」というのです。

 このなか、「もし生ぜずは、正覚を取らじ」までは、救いを誓われていることから摂取門といい、「五逆と誹謗正法とをば除く」とは、この二種の重罪を犯しているものは往生させないと抑え止められていることから抑止門といっています。抑止された意図は、この二種の重罪を造ったものに、罪を罪と知らせて慚愧を生じさせ、回心させるために設けられた巧みな方便であるといわれています。

 さて摂取門のなかで「十方の衆生」というのは、広く十方の衆生を救済の対象とされていることを表しています。「至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて」とは、至心とは真実心ということで、阿弥陀仏の願心の真実であることをいうといわれています。信楽とは、阿弥陀仏の真実なる本願を疑いなく受けいれている信心をいい、欲生とは、本願の仰せのとおり必ず浄土に生まれることができると期する心です。ですから全体としては、阿弥陀仏の真実なる誓願を疑いなく聞きいれて、必ず浄土へ生まれることができるとおもえと信心を命じられた言葉であることがわかります。

「乃至十念(すなわち十念に至るまで)せん」とは、数の多少を問わず、ひたすら阿弥陀仏の名を称念しつつ、浄土を目指して生きよと、称名を浄土願生者の歩むべき道として選定されたことを表しています。こうして第十八願は、浄土へ往生する因としての信と行が選び定められていることがわかります。この信と行が決定的な往生の因であることを知らせるために、「もし生ぜずは、正覚を取らじ」と誓約し、必ず浄土へ生まれさせると、その証果を約束されたのです。とくにここに、「もし浄土へ往生させることができないようならば正覚を取るまい」と、往生と正覚を一体に誓われたということは、正覚者阿弥陀仏は、念仏の衆生の往生を保証し、衆生救済を「いのち」としている徹底した救済者であることを表しているのです。


(p.7~p.9)



阿弥陀仏は法蔵菩薩であったとき、生きとし生けるすべてのものを、老少・善悪をえらばず、男女・賢愚・美醜・貧富など、あらゆる差別を越えて平等に救うという、とてつもない願いを発されました。それは諸仏の願に超え勝れたこの上ない誓願であり、世に二つとない誓いですから、親鸞聖人は、

建立無上殊勝願
超発希有大弘誓(正信偈)


と讃嘆されています。

前回も書きましたが、阿弥陀仏の救いに対して私達衆生は何の造作もまじえません。全て阿弥陀仏のお力によって、この真実なる誓願を疑いなく受けいれて念仏称える身とならせて頂くのです。どんなお育てがあってのことか、私達は幸いにも親鸞聖人から、18願真実の教えを聞かせて頂くことができました。

ところが、あともうちょっとのところが越せず、阿弥陀仏の本願に対して「いくら何でも」と疑ってかかる方がいます。すなわち、本願を疑いなく聞きいれずにいる時は、

「せめてこちらで本願を受け入れられるように心を調えなければ、救いには遇えないのだろう」
「何にも用意は要らないと言われても、何かしなければ救って下さらないだろう」
「善をやったり念仏を称えたりした方が、善をやらなかったり念仏を称えなかったりするよりも早く救われるのではなかろうか」
「雜毒の善とは言えやらんよりやった方がいいだろう、いくら阿弥陀さまといえど、散乱放逸な状態では救って下さらないだろう」
「真心こめてお念仏称えたならば、心が散乱したまま称えたり、称えなかったりするよりはお助けに近づくのではなかろうか」
「居眠り聴聞など以ての外、ド真剣に聴聞しなければ火花は散らないんだ(つまり救われないんだ)」


というような心が出てきます。

受け取り心を作ろうとしたり、救われるべき人材になろうと努力したり、私の真剣さを間に合わせようとしたり、他力に全託することができないのです。こういった心を「不了仏智」「疑情」「疑網」「二心」「雜行、雜修、自力の心」などと申します。そしてこの最大の障壁である自力の心を何とかしようとあがくのですが、自力の心は自分の智慧、学問、経験、才能、修行などで何とかなる問題ではありません。

『唯信鈔文意』には、

「本願他力をたのみて自力をはなれたる」

と教えられています。「本願他力をたのみて自力をはなれ」ることは「どれほどの難しいことか」と悩まれている方もありましょうが、蓮如上人のお言葉で言いますと「なんのようもなく、一心一向に仏たすけたまえと弥陀をたのむ」これだけです。


修造「阿弥陀さまのこと思えよ。応援してる人達のこと思ってみろって。あともうちょっとのところなんだから。必ず信心決定できる。だからこそ! 南無阿弥陀仏に命を懸ける! お前も強い根っこを持て!(=心を弘誓の仏地に樹てよ!) Never Give Up!!」

阿弥陀さまが私の往生をあきらめなかったから、今の私の仏縁があるのです。

「汝今知るや不や阿弥陀仏ここを去ること遠からず」(観無量寿経)

ですから、救われていない人も、あともうちょっとのところだと思います。救いをあきらめないで下さい。修造先生も仰るように「Never Give Up!!」です。どうか一日も片時も急いで阿弥陀仏の真実なる誓願を疑いなく聞きいれて、念仏して下さい。

『教行証文類』の概要(5)ー第十八願と五願六法(六願七法)

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

第十八願と五願六法(六願七法)

 このように第十八願には、信心と称名行と往生の証果という往生の因果(往相)と、それを可能にする阿弥陀仏の正覚の成就が誓われていました。親鸞聖人は、それを四十八願のなかの第十一願、第十二願、第十三願、第十七願、第十八願の五願に誓われている事柄とあわせて、その内容をさらに詳しく示していかれたのです。

 まず第十七願は、十方の諸仏に本願の名号を称讃させることを誓われていますが、諸仏の称讃は教ですから、「教文類」に顕される真実教の成就を誓ったものでした。しかし、諸仏が称讃される名号は、私たち衆生のうえに届いて「乃至十念(すなわち十念に至る)」の称名となって現れていますから、この称名は第十七願の名号そのものであるというので、真実行を第十七願の位で顕していかれたのが「行文類」でした。「至心信楽欲生」という信心は、十方の衆生が、その名号のいわれを疑いなく聞き受けているすがたであって、この信心を誓うのが正しく第十八願であるといい、その内容を詳細に顕すのが「信文類」だったのです。

 この行信によって得る果を第十八願には、「若不生者、不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」といい、確実に浄土に往生させてさとりを得させると誓われていました。ところで、浄土に生まれたものを完全なさとりに至らせようと誓われているのが第十一願の「必ず滅度に至らしめる」という証果の誓いですから、第十一願によって真実の証果を顕されたのが「証文類」です。その真実の証果の必然的展開として第二十二願に誓われた大悲還相が回向されていくというので、親鸞聖人は「証文類」のなかで還相回向を明かしていかれるのです。

 また第十八願の「不取正覚」の正覚とは、無量光(アミターバ)、無量寿(アミターユス)の徳をもった阿弥陀仏のことですが、それを詳しく誓われたのが光明無量の願(第十二願)であり、寿命無量の願(第十三願)でした。このように真仏の徳の完成を誓った第十二願、第十三願によって真仏と真土が成就していったと釈顕されたのが「真仏土文類」だったのです。

 こうして第十八願の法義内容を詳しく開いて誓ったのが、第十七願(教と行)、第十八願(信)、第十一願(証)、第十二願、第十三願(真仏と真土)の五願であり、それによって教、行、信、証、真仏、真土の六法が完成していくと見られたのです。これに第二十二願によって成就された還相を加えると六願七法になります。

 こうして親鸞聖人は、開けば五願六法(六願七法)になるような、第十八願のはたらき(本願力)によって回向成就されたものとして、浄土真宗を領解されたのです。これを親鸞聖人の取願立法(願を取って法を立てる)の法義といい、すべては阿弥陀仏の本願によって成就され、私に恵み与えられたものであると知らせる『教行証文類』の法義の顕し方の特徴です。


(p.10~p.12)



『教行証文類』では、教巻の冒頭に、

「謹んで浄土真宗を按ずるに、二種の回向あり。一には往相、二には還相なり。往相の回向に就いて、真実の教・行・信・証有り。」

と書かれた後、真実教、真実行、真実信、真実証、真仏真土についての解説が詳細になされます。なお、五願六法は『教行証文類』各巻の標挙の文からも分かります。

教巻:大無量寿経
真実の教 浄土真宗

行巻:諸仏称名の願(17願)
浄土真実の行 選択本願の行

信巻:至信信楽の願(18願)
正定聚の機

証巻:必至滅度の願(11願)
難思議往生

真仏土巻:光明無量の願(12願) 寿命無量の願(13願)


このように18願を、11願・12願・13願・17願・18願に開かれて、真実の教・行・信・証・真仏・真土を明らかにされたのが『教行証文類』前五巻の内容です。 そして、五願に開かれた法義は第十八願に集約されますから、親鸞聖人は十八願一つ聞くことを勧められています。

「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(教行信証総序)

親鸞聖人のお勧めに順い、どうか只今の救いに遇って頂きたいと思います。

『教行証文類』の概要(6)ー本願力回向

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

本願力回向

 本願力の力とは「力用(はたらき)」のことで、ものを動かす「ちから」のことです。本願に誓われたとおりに、十方の衆生を揺り動かして本願を信じさせ、名号を称えさせて、浄土へ往生させていくはたらきを本願力というのです。一般には、本願を信ずることと、念仏することは、私たちのなすべき事柄であり、信じ行じた功績に対する褒章として浄土へ生まれさせるのが阿弥陀仏のはたらきであって、それを本願力とも他力ともいうと考えていました。そのために、念仏はしているが救われるかどうか確信がもてず、つねに不安がつきまとい、臨終の正念を祈り、臨終の来迎を願い求めるようになっていました。このように本願を信じることも、念仏することも私の功績とみなしていることを自力というのです。

 それに対して親鸞聖人は、『無量寿経』の教えに遇うことも、念仏することも、決して私の力ではなく、本願力のはたらきのたまものであると受け取っていかれたのです。もともと阿弥陀仏に背くばかりで、本願を信じようとか、念仏しようというような殊勝な心は持ちあわせていなかった私を、念仏の衆生にしてくださったのは、まったく本願力のはからいのたまものでした。このように私を念仏の衆生に育て上げた本願力が、私を浄土へ生まれさせるのです。本願を聞いているものは、すでに本願力のなかに包まれており、念仏するものは、すでに阿弥陀仏のはからいに動かされていることを信知せよといわれるのです。

 『教行証文類』の「総序」に、「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(『註釈版聖典』一三二頁)といわれています。「行信を獲る」とは、「南無(信)阿弥陀仏(行)」を獲ることであり、具体的には本願を信じ念仏する身になっていることです。真実に背いて煩悩の泥沼に埋没している私が、仏を念ずる身になっているということは、私を念仏の行者たらしめ、真実にめざめさせようと久遠劫来願い続け、育て続けられた如来の本願力が、いま私のうえで念仏の花となって開いているのです。その遠い宿世の仏縁に謝念をこめて思いをはせよといわれているのです。

 このように、不可思議の本願力が、いま私のうえに届いて、念仏の声となって響きわたり、信心の智慧となって私を涅槃の浄土へと導き続けていることを、親鸞聖人は本願力回向といわれたのです。

 回向とは、回転趣向(進行方向を転換する)ということで、自分が獲得している善根を転換していくことです。さまざまな修行によって獲得した行徳を、世俗の名利の実現のために用いようとする想いを転換して、さとりの智慧の完成に向かおうと願い、また苦しみ悩む人びとに施し与えて救っていこうと願い、自他に安らかな涅槃が実現するようにと願っていくことを意味しています。しかし本願力回向といわれたときは、阿弥陀仏が一切の苦悩の衆生を哀れみ救うために、ご自身の徳のすべてを名号にこめて恵み与えていかれる大悲利他の活動を意味していました。その具体的なすがたが、往相と還相であり、教、行、信、証となって私たちのうえに実現しているわけです。


(p.12~p.14)



本願力回向の

「本願」
「力」
「回向」

のそれぞれの解説がこれで出揃いました。

「本願」…第十八願
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(『註釈版聖典』一八頁)
「たとい私が仏陀になり得たとしても、十方世界のすべての衆生が、私の真実なる誓願を疑いなく信じ、わが国(浄土)へ生まれようとおもって、わずか十遍であれ、私の名を称えているのに、もし私の国に生まれることができないようならば、私は仏陀にはなりません。ただし五逆罪をつくり、仏法を誹謗しているようなものは除きます」

「力」…力用(はたらき)、ものを動かす「ちから」。

「回向」…回転趣向(進行方向を転換する)。自分が獲得している善根・行徳を、さとりの智慧の完成、また苦しみ悩む人びとに施し与えて救っていこうという想いに転換すること。


☆まとめです☆

「本願力回向」…阿弥陀仏が一切の苦悩の衆生を哀れんで本願を発され、本願に誓われたとおりに救うために、ご自身の徳のすべてを名号(南無阿弥陀仏)にこめて衆生に恵み与えていかれるという大悲利他の活動(はたらき)。その具体的なすがたが、往相と還相であり、教、行、信、証となって私たちのうえに実現している。



ここで衆生というのは、他の誰のことでもなく「この私」一人のことです。阿弥陀仏は一切の苦悩の衆生を一人も漏らすことなく救う徹底した救済者であるため、「十方衆生」と誓われています。それを親鸞聖人は、

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(歎異鈔)

と受け取っていかれました。十方衆生とは誓っておられるけれども、お目当ては「この私」一人だったのだと受け取っていくところに、私は阿弥陀仏の大慈悲を強く感じます。「この私」一人を助ける本願を他人事にせずに、本願に誓われたとおり只今救われ、念仏して下さい。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

『教行証文類』の概要(7)ー往相と還相

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

往相と還相

 親鸞聖人の往相・還相の二種回向説は、少なくともその言葉は、曇鸞大師の『往生論註下巻(『註釈版聖典』七祖篇一0七頁)』によったものです。しかし、意味を変えて用いられていたことに注意しなければなりません。曇鸞大師の場合、往相も還相も、回向する主体はいずれも願生の行者でした。浄土を願生する行者が、浄土へ往生していく過程において、この世で大悲心をおこし、自分の修得した行徳を迷い苦しむ人びとに回向し、自他ともに往生して仏道を完成しようとすることを往相回向といわれたのです。還相回向も、浄土に往生してさとりの境地に達し、思いのままに人びとを救済できる力をもった行者が、大悲心をおこして、迷いの境界に還って来て、苦悩の衆生を救済していく利他回向のはたらきを意味していました。

 ところが親鸞聖人は、二種の回向の主体を阿弥陀仏とし、願生の行者はその客体とみなされたのです。煩悩具足の凡夫を往生成仏させる阿弥陀仏の本願力のはたらきを往相回向といい、往生して仏陀としてのさとりを完成したものが、そのさとりの必然として十方世界に現れて自在に迷えるものを救済する還相も、阿弥陀仏の本願力のなさしめたまうわざであるとして、これを還相回向といわれたのです。こうして往還するのは行者ですが、その往相・還相を回向するのは阿弥陀仏の本願力であるというので、「本願力の回向に二種の相あり、一つには往相、二つには還相なり」(『註釈版聖典』四七八頁)といわれたのです。

 その往相について「真実の教行信証あり」(『註釈版聖典』一三五頁)といわれるように、『無量寿経』という真実教によって、南無阿弥陀仏が往生成仏の大行であると信じて称える行と信が与えられ、この行信を因として涅槃の浄土へ往生し成仏する証果が与えられることを往相回向というのです。

 また還相は、本来は浄土から煩悩の境界である穢国へ還り来って利他教化をするから還相というのですが、しかし「証文類」の還相の釈を見ると、浄土に往生して仏果を極めたものが、果より因に還り、菩薩としての相を示現して大悲利他のはたらきを行うことを還相といわれていますから、それは従果還因(果より因に還る)の相というべきでしょう。親鸞聖人は還相のことを「普賢の徳」といい、『浄土和讃』には「普賢の徳に帰してこそ、穢国にかならず化するなれ」(『註釈版聖典』五五九頁)と讃嘆されています。そしてその普賢という文字に、「われら衆生、極楽にまゐりなば、大慈大悲をおこして十方に至りて衆生を利益するなり。仏の至極の慈悲を普賢とまうすなり」(『浄土真宗聖典原典版』校異篇二三三頁)という左訓が施されています。これによって普賢菩薩のように従果降因(果より因に降る)して、菩薩の姿をとって人びとを教化するところに仏陀の慈悲の具体的な顕現があると見て、それを還相とされていたことがわかります。

 それは『華厳経』に、思いはかることも、説くこともできない仏陀のさとりの境界を、衆生に知らせて導くときには普賢菩薩という菩薩の説法として開示されるといわれたものによって還相の意義を理解されたものです。


(p.14~p.16)



「親鸞聖人は、二種の回向の主体を阿弥陀仏とし、願生の行者はその客体とみなされた」というところが大事です。親鸞会にいたときは、こういうことが全く分かっておらず、私が縦の線に向かって進むのだとばかり思い込んでいました。
しかし、それは正反対でした。全て阿弥陀仏のおはたらきであり、私は阿弥陀仏に計らわれるばかりでした。私というのは、お釈迦様の手の内を飛び回る孫悟空のようなものだと喩えた方がありましたが、まさにその通りだと思います。
そして、このように往相を回向された者はひとたび浄土に往生した後、

「浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。」(歎異鈔)

とあるように、還相の菩薩となって自由自在に衆生救済のために活動するのですね☆

『教行証文類』の概要(8)ー真実の教

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

三、『教行証文類』六巻の概要

真実の教

 『教行証文類』の第一は、真実教を顕す「教文類」です。教とは、正しい道理を説いて人びとを諭し、導くことです。仏教では、真実をさとった聖者が迷えるものを導く言葉を「教」というといわれています。

 もっとも「教」という場合には、言教、すなわち教えの言葉を意味するときと、そこに説き表されている教法、すなわち正しい道理を意味するときとがありますが、いまは言教、すなわち経典のことを「教」といわれているのです。そしてそこに説かれている教法が、行、信、証の三法なのです。「教文類」のはじめには「それ真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」(『註釈版聖典』一三五頁)といい、釈尊が阿弥陀仏の本願のいわれを説き示された『無量寿経』を真実教とされています。

 そしてこの『無量寿経』が、釈尊をはじめすべての仏陀たちの出世の本懐(本意)を説かれたものであるということを『無量寿経』の発起序の文によって証明し、真実教といわれる理由を明らかにされたのが「教文類」です。

 ところで『無量寿経』は、釈尊が説かれたものであるにもかかわらず、阿弥陀仏の本願力によって私たちに回向されたものであるといわれたのには、二つの理由がありました。その一つは、釈尊をして『無量寿経』を説かしめたのは阿弥陀仏の第十七願力だったからです。すなわち第十七願には、

 たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。(『註釈版聖典』一八頁)

と誓われています。十方の諸仏をして、本願の名号のいわれを称揚、讃嘆させ、十方の衆生に阿弥陀仏の救いを聞かせようと誓われているのです。十方諸仏の一仏として、この娑婆世界に出現された釈尊も、阿弥陀仏の第十七願力に促されて『無量寿経』を説かれるわけですから、阿弥陀仏が第十七願力をもって、『無量寿経』を私たちに回向されているといえるのです。

 さらにまた親鸞聖人は、濁りきったこの世に生きる苦悩の凡愚に、本願の名号のいわれを説き聞かせて、万人平等の救いの道がすでに用意されていることを知らせるために、阿弥陀仏が自らこの娑婆へ応現されたのが釈尊であるといわれています。『浄土和讃』「諸経和讃」に、

 久遠実成阿弥陀仏
 五濁の凡愚をあはれみて
 釈迦牟尼仏としめしてぞ
 迦耶城には応現する(『註釈版聖典』五七二頁)


と讃仰されたのが、それです。釈尊とは、有限な人間に応じて自らを時間的に限定された阿弥陀仏であり、阿弥陀仏とは釈尊の絶対無限のさとりの領域を開顕したものといえましょう。したがって、釈尊の説法のままが阿弥陀仏の説法であるから、本願力回向の教といわれるのです。


(p.16~p.18)



『大無量寿経』に説かれている阿弥陀仏の本願こそ、釈尊、諸仏出世の本懐であり、私達のような五濁の凡愚が往生成仏することのできる唯一の教法です。

極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ (高僧和讃)

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。(教行信証化土巻)


と仰せのように、直ちに方便仮門を捨てて如来の大願他力に救われ、念仏して下さい。

『教行証文類』の概要(9)ー真実の行

『聖典セミナー教行信証[教行の巻]』(梯 實圓師)より引用

真実の行

 真実教には、万人が平等に救われる道として、南無阿弥陀仏という本願の名号が与えられていることを明らかにし、これを信じ、これを行じなさいと勧められていました。これによって往生の因として阿弥陀仏より真実の行信が回向されていることを信知し、行じていくことを顕すのが「行文類」と「信文類」でした。

 親鸞聖人は「行」の左訓に「オコナフトマフスナリ」(『原典版聖典』七九六頁)といい、また「真実の行業あり」(『註釈版聖典』六二五頁)ともいわれていますから、行とは「おこなう」「おこない」のことと見られていたことがわかります。もちろんその「おこない」は、それによって迷いの根源である無明煩悩が寂滅し、涅槃の境地に至ることのできるような徳をもった「まことのおこない」(真実行)であることはいうまでもありません。

 「行文類」によれば、阿弥陀仏より回向された大行とは、尽十方無碍光如来の名を称える称名ですが、称え顕されている本願の名号は、阿弥陀仏がさとられている真如法性の徳の顕現態であり、一切の善根を内包していて、あらゆる功徳の根本であるような徳をもっており、それをいただいて称えるものの身に速やかに満足せしめていくはたらきをもっています。それゆえ大行といわれるのであると讃えられています。そのような称名は、私たちの口に現れていますが、人間の判断によって行っているような人間の行為ではなく、阿弥陀仏の大悲の願から出てきた行であり、本願力によって恵み与えられた如来回向の行なのです。それは、いいかえれば、阿弥陀仏そのものが称名の声となって煩悩のまっただ中に顕現してきて、生死に惑う衆生の無明(無知)の闇を破り、往生成仏の志願を満たしていく大悲招喚の勅命でもありました。こうして本願の念仏は、私たちに人生の意味と方向を信知せしめ、人生にまことの実りと安らぎをもたらすから「真実の行」といわれたのです。


(p.19~p.20)



私を迷いから呼び覚まし、救いを告げる御名が南無阿弥陀仏の名号であり、一声一声の称名は阿弥陀仏の本願海から恵まれた行であるから「真実の行」と言われるのですね☆
南無阿弥陀仏という、「そなたを助けるぞ」の勅命を仰せの通りそのまま聞く。これがすなわち信です。
こちらで「助けて下さい」「念仏称えたら助けて下さるだろう」と、念仏を自分の善根として称えていては助かりません。あくまでも「阿弥陀仏が私を助ける」という先手の法をお聞きするのです。
まだ本願を聞いていない方も、力強い本願力によってたちどころに他力摂生の旨趣を受得する身となれますから、只今救う本願を聞いて只今救われて下さい。
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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