名号にも形像にも、阿弥陀仏の大慈悲心があらわれています

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 またここで、わたくしたちの家庭のお内仏のご本尊のことに少しふれておかねばなりません。すなわちご本尊には名号があり、形像がありますが、その名号にも南無阿弥陀仏の六字や、帰命尽十方無碍光如来の十字、南無不可思議光如来の九字、南無不可思議光仏の八字などがあります。しかし、いずれも仏のみ名であり、そのお徳をたたえたみ名であります。また形像には絵像があり、木像などの彫刻があります。それは立像ですが、そのおすがたのいずれにも衆生救済があらわされてあります。ことにこの立像は、「観無量寿経」で韋提希の前に、救いの仏として立たせられたお姿といわれております。なぜ立たせられたのであるのかといえば、韋提希が、まさに地獄に落ちんとしているのを救うのにしばらくの猶予を許さず、急いでおもむかねばなりませんでした。そのやるせのない仏の大慈悲心のあらわれがあのお立ち姿で、いつもわたくしたちの前におわしますのであります。このやるせのない大慈悲心によって救われるのです。わたくしたちはこのお姿を安置して、仏の大慈悲心の親心をいただかせてもらい、わたくしたちの幸せを喜ばせていただくのであります。
 この仏のお姿を拝して、そのお救いのおこころを仰ぎ、お救いをひたすら愛楽させてもらうのがあのお姿であります。朝夕のお内仏での「おつとめ」は腹いっぱいお救いのおいわれを喜ばせていただくのであります。それがそのまま報恩のいとなみであると仰せくだされてあります。


(p.296~p.297)



阿弥陀仏の、私を救わずばおかぬの大慈悲心のあらわれが名号であり形像です。
その心を無視して単に「絵像、木像はダメだ。名号のみでなければならぬ」と主張する人こそ、形にとらわれ本質を見失っていると思われます。

それに、命懸けて御守りせねばならぬと貸与される名号が、安い劣悪な材質で造られ、しかも南無阿弥陀仏の横に「愚禿釈親鸞」の「親鸞」だけをぶった切って貼り合わせたものであるとはどういうことでしょうか?
不審に思われた方は、仏具屋さんに貸与された本尊を見せに行かれたらよいでしょう。

形だけは名号本尊でも、南無阿弥陀仏のこころが正しく説かれないようでは真宗ではありません。定散二善を勧めているようでは浄土仮宗です。更に、実態が献金と勧誘で、定散二善と違う行を勧められているならば浄土偽宗です。
そのような仮宗、偽宗からは一刻も早く離れ、真宗に帰することを心よりお勧め致します。



(参考)
『元会員から見た浄土真宗親鸞会』本尊論でも相手の批判を無視し続ける親鸞会
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真実信心のおもむき(1)ー南無阿弥陀仏の信は、ただ聞いたままの信

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 真宗の信心は、救いの手段や、付加物ではありません。親鸞聖人が、「教行信証」を著わされたのは、この信心の高調にあることで、涅槃の真因となり得るという高大な内容のものであります。つまり、救われたすがたを信心と仰せられるのです。
 さらにいえば、如実の信心は、仏になる因であり、迷悟昇沈の分ちはこの信心の有無であるとされています。いわゆる信心正因のおさとしは、真宗での要中の要であります。
 それといいますのも、仏の本願のお約束がそれだからであります。第十八願に「至心に信楽して我国に生れんと欲う」とあるのが信心です。このおことばは、「至心」と「信楽」と「我国に生れんと欲う」という三つのことばにしてありますから、三信といわれてあります。しかしなにかむつかしいことのように思われて、先人もいろいろと思案されております。
 しかし仏の大悲をよくよく聞かせていただいてみれば、決してむつかしいものであるべきではありません。すなわち「至心」とは「まこと」ということであり、「生れんと欲う」とは「浄土に参らせていただくことに決定する」ことですから、それは仏に救われたところの思いであります。それでつまり、「信楽」と、このもしくたのもしく仏のお救いに無疑となったことであります。わたくしの救いは本願に誓われ、み名にあらわされてありますから、み名のおいわれを聞かしていただくほかには何物もないのであります。信心のありかたはどれほど聞いても、それのまねをしてゆくのではありませんから、実際には信の説明はいらないようなものです。しかしそれでは信の如実、不如実がわかりかねるので、これも明らかにしておかねばなりません。
 この南無阿弥陀仏の信は、自分の心で考えてできた信でもなく、また自分の知恵で知ってできた信でもありません。ただ聞いたままの信であります。その聞くというのは何を聞くのかといえば、仏のみ名を聞くのであります。仏の救いの声を聞くのであります。それは「まかせよ救う」のお声ですから、その通りに聞き得られたのが信心です。

(p.297~p.298)

真実信心のおもむき(2)ー仏願の生起・本末

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 釈尊は、「その名号を聞いて信心歓喜する」とさとされ、親鸞聖人は「聞くというは、衆生仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。これを聞という」とされてあります。み名を聞くというのは、み名は仏の本願の成就してあらわれたものですから、その本願の生起本末を聞くのであります。生起というのは、本願はだれのために起こされたのであるかということであります。それはひとえにわたくしのためであります。
 また、本末の本とは、わたくしのために起こされた仏の本願ということです。末とは、その本願の成就したことであります。すなわちそれが「なむ・あみだぶつ」のみ名であります。このみ名にはわたくしのための仏の本願がこめられて、わたくしを救わねばおかないという力となっていられます。これのいわれを聞き得られたのが信心であります。それで聞いたままの信心であるということは、信心はわたくしの案じたものではなく、仏のおまことがわたくしに届いてくだされたものであるというのであります。またわたくしの救われるということは、聞く一念でありますから、まことに早く定まるものであると仰せられてあります。また聞いたのでありますから、聞かせるものがその通りに届いたのです。だから、無念無想ではないのです。それゆえに、信心はみ名のおいわれを聞いた信心ですから、すなわちそれは、み名そのものであります。このようないろいろの尊いわけがあるのであります。
 これを要するに、信は無疑であるというのが最も穏当な言い方であります。不疑ではありません。除疑であります。わたくしの持っている計らい心がすっかり取り上げられて、仰せのままがすなおにいただかれたことであります。助かるものが届けられたことであり、よばれるものに遇うたことであります。歎異鈔の後序の上でいえば、弥陀五劫思惟の内容が「親鸞一人がため」であります。このわたくしが永劫救われないことが、弥陀の悲しみであります。弥陀の五劫思惟ということは、「それほどの業をもちける身」(蓮如自筆本)の罪業の深さをあらわしてあるのであります。つまり五劫思惟の内容がわたくしの上では機の深信であり、また法の深信であります。如来の願い場所は、わたくしが救われないというところにあり、本願のお仕事は、そこにいとなまれるのであります。この意味において、如来に見抜かれたわたくしが救われるということになります。こうしてこの救われたすがたが信心であります。

(p.298~p.300)

真実信心のおもむき(3)ー「たすけたまへ」とは

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 そしてまた、南無阿弥陀仏の南無は梵語で、中国のことばにすれば帰命ということであります。この帰命ということについて、あるいは自身の生命を投げ出してわたくしを助けてくださいと、仏に請い求むることであるとし、あるいは小さい自分の生命を大きな仏の生命へ還すことであるともされた者もありますが、親鸞聖人は仏へ対しては、そのように一生懸命に救いを求めるというような、水くさい心で向うのではないとされています。また命を仏に還すというような理くつばったことは、温い仏のお慈悲の前でのことではないとされました。つまり、「帰」はしたがうことであり、「命」は仏の仰せであり、勅命でありますから、仰せのありだけを聞くまま、仰せのままに、わが身全体がうち計らわれることであるとされたのであります。仏の仰せは「必ず助けるぞ、まかせよ」ですから、その仰せにしたがったというのは、助けてくださるままになったということであります。だからそれが「仏をたのんだ」のであり、信じたのであります。
 蓮如上人はこのたのむ心持を「たすけたまへ」とあらわされました。これが一面にはいろいろと誤解されたこともありましたが、これは信頼し、たのんだ心持ですから、ひじょうにあざやかに信心の心持ちがあらわされてあるのであります。すなわち「たすけたまへ」は、どうぞ助けてくださいと仏へ請い求める意味ではなく、仏の仰せが、「たすけたまふ」というのですから、それをいただいたわたくしの上では「たすけたまへ」(たすけまします)であります。つまり「ふ」が「へ」に変わったのであります。そこで、「へ」の字の意味が明らかになれば、その心持ちもはっきりしますが、この場合は、「許諾」の意味であります。たとえば、お酒を十分にいただいてもう一滴も飲めなくなったとき、お引き受けの側が、ぜひお酒を受けてくれと、無理にすすめて来ました。それなら「つぎたまえ」という場合、この「たまえ」が今の許諾の意味の使い方であります。仏は助けたくてたまらない。助けねばおかぬとある仰せであります。その仰せに対して、それを許して、仏の思召のままにお助けあそばせと、わが身全体が仏に計らわれてしまうのであります。ここにやるせない仏の思召と、何の世話もないわたくしの信楽のすべてが出てくるのであります。
 ここでもう一つ押していえば、名号といい、勅命というのは、仏のお救いのはたらきのあらわれたものですから、それを聞くところに、仏のお救いがわたくしの中にとどいてくださるのであります。「たすけたまへ」という信心は、「たすけたまふ」仏のお救いに助けられたすがたであります。ここに微塵もわたくしの計らいがまじわる余地はなく、仏のお救いが入り満ちたのであります。だから仏のお救い以外は何物もないのであります。お助け一つであります。
 これを覚如上人は「この信心をばまことのこころとよむうへは凡夫の迷心にあらず。まったく仏心なり。この仏心を凡夫にさづけたまふとき、信心といはるるなり」(最要鈔)と示されてあります。また、親鸞聖人の三一問答(信の巻)にしましても、わたくしは虚仮不実でまことはない。それで仏がまことを成就して、わたくしへ与えてくださるのであると仰せられるのであります。虚仮不実のかたまりのわたくしに、真実信心のできる訳はありません。全く仏のおまことが入り満ちてくだされたからであります。

(p.300~p.302)

真実信心のおもむき(4)ー二河譬、二種深信

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 例の二河譬において、二河の間にある白道を、煩悩の心の中に届いた信心とも釈され、また仏のご本願とも釈されてあります。これからしても、ご本願の仏のおまことがそのまま信心なのであります。つまり、信心とは仏のおまことのほかにはないと示されているのであります。決して凡夫の作り出すようなものではありません。
 また、信心というのは、わたくしがこのまま救われるという信であります。わたくしとはどのようなものかといえば、煩悩悪業にみちみちた悪人であります。虚仮不実であって、たのむべき何物をも持たない者であります。二河譬でいえば、群賊悪獣と、水火二河とに滅ぼされるよりほかに道がなく、永遠に闇暗の悩みから出ることを知らない者であります。仏の助ける、救うといわれるのはこの者のありだけであります。どうにもすることのできないこの者を救ってくださるのであります。二河譬の三定死のゆきづまりにいるのであれば、わたくしは悶絶しなければならないありさまであります。そして、何物でもつかまえて助かりたいとあせるばかりであります。ところが救いのみ手は、西の岸から「そのままを」と、かかってくだされたのであります。その救いのままに救われてゆくところに、本当の安らぎが与えられるのであります。すなわち救いのままに救われて、白道の上を水火二河におそれず、歩ませていただくことを得るのであります。だから自力の計らいを全く要しないで、ひとえに仏の救いに計らわれてゆくのであります。これが信のすがたであります。この信のすがたをくわしく示されたのが、善導大師の二種深信であります。すなわちその著、「散善義」には、

 一つには決定して深く自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し、常に流転して出離の縁あることなしと信ず。二つには決定して深くかの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受し、疑いなくおもんばかりなく、かの願力に乗じて定んで往生を得ると信ず

とあります。これは一つには二つにはとありますが、二度思うてみるということではなく、あさましい自分がこのままに仏に救われると、自分の計らいをうちすてられて、仏のお力に計らわれるほかはないということなのであります。これは七高僧方を仰ぎましても、また親鸞聖人におきましても、すべてみな煩悩悪業に満ち満ちたすがたのままが、本願に救われ、仏に助けられることをおよろこびになっておられるのであります。わたくしの悪業煩悩のままをいとうことは、どのようにゆきとどいたお救いなのでしょうか。もしも何とかならねばいけないとあったならば、とてもどうにもできないのですのに、このままを救ってくださるのでありますからこそ、ここで今、わたくしの一切の問題は解決しおわるのであります。

(p.302~p.304)

真実信心のおもむき(5)ー三不三信の教え

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 それでは次に、その信心が正しいかどうか、ということのお示しについてうかがわねばなりません。
 親鸞聖人の「正信偈」に「三不三信誨慇懃」とありますが、この三信というのは淳心、一心、相続心であり、それに反するものが三不信であります。つまり三信ということがまことの信心であり、三不信はまことでないものということであります。ここに信心の正と不がはっきり出されてあります。そこで三信の内容である淳心というのは、淳いしっかりした信心のことで、この反対は薄い信心であります。薄い信心とはどのようなすがたかといえば、若存若亡と示されてあります。若存若亡は「存せるがごとく、亡せるが若き」ともよませてあり、「あるときはさもとおもふ、あるときはかなふまじとおもふなり」とも釈されてあります。これについて前のようによめば「あるかないかわからないような信心」というのであり、後のようにみれば、「昨日は助けらるることと思えたようであり、今日はどうであろうかと案じている」ということになります。しかしけっきょくは同じことで、このようなありさまが淳い信心がないということであります。これに反して、仏のお救いに対して本当に安心の身にならせていただいたのが、淳い信心であります。また次の一心は、信心が一つに定まったというのであります。お助けに助けられることに定まったのであります。その反対は自分の心にえがいた信心であります。それを無決定といわれてあります。自分は助けていただかれるのかどうか、さっぱり定まらない。それが疑いであります。相続心とはいただいた信が続くのであります。しかし、わたくしたちの心は水の流れるように常に動いており、眠るときもあります。一つのことばかりを思ってはおられません。けれども信は相続しておりますから、いつもお助けは決定しております。もしわが心でおしかためているのであれば、たとえ続いているとしても、それは不相続心であります。それで不相続心のことを余念がまじわるといわれてあります。真宗の信心は、淳であり、一であり、相続するものであります。このようにいえば信心に何かたくさんの条件や、属性ができて、たいそうむつかしいもののようにみえますが、決してそうではありません。ただ、わたくしが仏に救われることが、もしもほんとうにわたくしのものになったならば、決して若存若亡でも、無決定でも、余念がまじわることでもありません。ご縁があって真宗のみ教えを聞いてはいましても、自分は救われるかどうかわからず、ぐずついているようであれば、それは仏のお救いがまだ自分のものになっていないといわねばなりません。いくら内容が知れたといっても、概念にとどまっていてはなりません。ここはとても大切なことですから、よくよく聞かせていただかねばならないところであります。

(p.304~p.306)

真実信心のおもむき(6)ー信心と歓喜の関係

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 さらにいえば、真宗のおみのりを聞くわたくしたちは、とかく喜べるとか喜べないとかいうことを気にすることがあります。喜びのことを歓喜といいますが、それは法の上のよろこびですから法悦ともいわれています。この歓喜は法を聞く者が望むものでありますから、次に信心と歓喜の関係をうかがっておくべきであります。
 真宗では信心のことを、歓喜といわれた場合もあり、信心そのものでなくして、その信から出たよろこびをいわれた場合もあります。信心そのものを歓喜といわれた場合は、仏に救われて、安心した心持であります。信心にはこの安心した心持がありますから、それを歓喜といわれたのであります。この場合には、感激的な喜びとは別にして考えなければなりません。たいていの人が望んでいるのはこの感激の上のよろこびであります。これを望むのに、喜びそのものを望む者もあれば、また信心があれば喜びがありますから、その喜びから逆に信心のある無しをたしかめようとして、喜びを望む者もあります。喜びはだれしも望むことでありますが、それで信心のあるなしをたしかめようとすることは、信心が本当にたしかでないからの計らいであります。信心には必ず喜びがつきものですが、喜びの有無をもって信心をとやかくいうことは、思いと実際とが異なるものであることを知らねばなりません。
 親鸞聖人の場合では、歎異鈔で唯円が喜ばれないと同じように喜べないとか、仏になることを喜ばないとか申されていることもあります。しかしそれかと思えば、「よろこばしいかな心を弘誓の仏地に樹て」とか「慶喜いよいよ至り、至教いよいよ重し」といって、大層よろこばれてあるようです。そうすると喜ぶのが真実か、喜ばないのが真実かといえば、いずれも真実であります。実際は、よころぶべきことを喜ばないのがわたくしたち人間であります。煩悩のあるものはみなその通りであります。その喜ばないのに気づくとき、その者を救い給う仏のご恩がいよいよ仰がれ、その広大なご恩を喜ばないわたくしの上に、かかってくださるご恩を知れば、喜ばずにはいられないのであります。しかし、その喜びは信心のところから出てくるもので、その有る無しは問題ではありません。わたくしが仏に救われるかどうか。仏の救いはわたくしのものであるかどうか。この信心の問題さえ解決すれば、喜ばないところに喜びがあり、喜ぶところに喜ばないことを知るという、信の妙趣を味わうことであります。世間の例でもお酒を飲めば、歌ったり舞ったりしますが、飲むことを忘れて歌や舞いだけを求めることは意味のないことであります。いたずらに喜ぶことをあこがれて、仏のお救いを聞かないことは、筋道のはずれたことであります。蓮如上人も「如来もよろこばは、たすけ給わんとのお誓いにあらず、たのむ衆生をたすけ給わんとの本願なり」(蓮如上人一期記)とも仰せられています。

(p.306~p.308)

真実信心のおもむき(7)ー宿善

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 少し長くなりましたが、ここで「宿善」ということをうかがっておかねばなりません。信の獲・不は宿善の有無によるといわれるからであります。
 だいたい宿善の梵語は「プールバー」で、「自覚以前」という意味であります。つまり「気がつく前」ということで、弥陀のご本願はわたくしが気がつく前にすでに起こされていたのであります。気がついたときはすでに手おくれなのであります。その意味からすれば、気がついたときは、たとえわたくしが今までに行なったとしても、わたくしのものではなかったのであります。また、「宿」の中にはただ今までの過去のすべてが入り、善とは法性にかなう浄業のことであります。そうした浄業は如来のなさしめ給うはたらきのほかにはないわけであります。だから、宿善とはどこまでも、信の上の反省といわねばなりません。信を通さないと宿善は出てきません。そこには永い間、聞かせていただきながらはねつけていたわたくしが出てまいります。お与えものをはばんでいました。邪魔をしていました。深いめぐみが与えられていました。如来から計らわれていたわたくしであります。自分のすべてが如来のはたらきかけの中にいたのであります。たとえむだをしたようでも、むだではなかったのであります。ともかく、現在の信の反省において、如来の計らいであったといただくのが、あいがたくして今あうことのできたこの身いっぱいの喜びであります。今すなおに掌を合わさせていただく幸せであります。要するに、宿世の善根というほどの善はわたくしには有ることがないわけで、宿善は如来からわたくしたちへの働きかけの善ということになります。わが後生の問題に大事にかかってきたのがすでに宿善到来したしるしであります。

(p.308~p.309)

タノムタスケタマヘの義

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 御一代記聞書(末二十一丁)に「信心安心といへば愚痴のものは文字もしらぬなり。信心安心などいへば、別の様に思うなり。ただ凡夫の仏に成ることをおしふべし。後生たすけたまへと弥陀をたのめといふべし。何たる愚痴の衆生なりとも、聞きて信をとるべし」とあって、蓮師御再興の功勲は全く当流安心の一義を、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」ことであると示されることにあります。だから真宗安心をあらわす言葉として大切なものと言い得ます。ところが、この言葉の解釈に本如上人の時代に異説が出て、遂に三業惑乱を来すことになりました。それ以来この教語の研究が安心研究の中心になってまいりました。
 御一代記聞書(末二十三丁)に「聖人の御流は、たのむ一念の所肝要なり。(乃至)雑行すてて後生たすけたまへと一心に弥陀をたのめとあきらかにしらせられ候。然れば、御再興の上人にてましますものなり」とあります。
 タノムの語は、御文章の中に一三三ヶ所出ています。しかもこの語は横川法語に源して、法然上人や宗祖の釈文にも見えています。
 タノムの漢字は、恃、怙、憑、頼などがありますが、今は帰命と信とが真宗教義をあらわすにふさわしいものです。帰を「たのむ」という例は、行の巻(二十五丁、五十丁)、真仏土の巻(十四丁)、和讃等にあり、御文章(二の七)に「その正行に帰するといふは、なにのやうもなく、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつることはりばかりなり」とあるのがそれです。
 また、信の字を「タノム」と訓ずるのは、疑惑讃に「不思議の仏智をたのまねば」或は「仏智不思議をたのむべし」とあり、また、唯信鈔文意(三十一丁)にも同じようなお示しがあります。御文章(五の六)には「一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを『和讃』にいはく、五濁悪世の有情の、選択本願信ずれば」等とあります。
 この故に、「たのむ」とは帰命のことであり、信のことです。だから本願の勅命に帰順乗託することを名づけて、あてたよりにする心に名づけるのであって、祈願や請求ではありません。
 「たすけたまへ」は、御文章の中で二十五章、二十九カ所に亘って示されています。
 文法の上から言えば、命令の語です。この語は相手によって請求とも、許諾ともなります。真宗の信は、名号聞信の信心歓喜であります。即ち、「一心正念直来、我能護汝」という先手の勅命に向って、「たすけたまへ」と言うのでありますから、許諾の意です。
 要するに、「後生たすけたまへとたのむ」という意味は、必らず助けんの勅命に向かって、御意の如くお助け下さいと信順するのみであります。だから、御裁断の御書には「ただこれ大悲の勅命に信順する心なり」と、はっきりお示し下されてあるのです。
 殊に蓮師の上で、「疑なく信ずる」となされる文証は、「阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて」(御文章五の四)とあるのがそれであります。

(p.58~p.60)


【参照】
「たのむ」「たすけたまへ」はとても大事なお言葉ですが、特に現代の私達にとっては非常に間違いやすいお言葉でもあります。詳しくは、

『21世紀の浄土真宗を考える会』タノムタスケタマヘ

を読んで頂ければと思います。ブログのトップページの左横、又は下方のタグを使うと便利です。「タノムタスケタマヘ」に関連する記事の一覧が出ます。引用した加茂仰順師の文章も解説されています。

信心の利益について(1)ー現生十種の益

『親鸞の世界』(加茂仰順師)より引用

 仏のお救いに救われたすがたが信心であるということは、いままでに述べてきたことであります。そこには仏のお救いがわたくしたちの上にいろいろとはたらきをあらわしてくださるのでありまして、それが信心の利益であります。その利益には、現世において直ちに受する利益と、来世お浄土へ生まれて後に得る利益とがあります。前のものが現益、後のものが当益といわれていますが、それは現世にある利益と、当来にある利益という意味であります。
 そこでまず現益は正定聚の人となるのであります。正定聚というのは、浄土に参って仏になるに定まった者という意味です。すなわち「正」とは梵語で「サンミヤク」で完全にということ、「定」とは「ニヤータ」でしばりつけるという意味ですから、完全にしばりつける、つまり不生不滅の名号に完全にしばりつけられ、名号からぬけられない身となることであります。とかく現世利益といえば、神仏の特別のご利益で、病気が治癒するとか、その他困ったことが取り除かれて望みがかなえられたことをいうようですが、真宗の利益はそれとは性質を異にしています。親鸞聖人は現世利益のことをお示しになっていますが、これは一口にいえば正定聚の人となるということであります。つまり、仏の光明がわたくしの心に届かれ、名号がわたくしの中へ入ってくだされたのであります。それで、わたくしは仏の光明におさめとられ、名号をたまわって願も行も円かになったのですから、お浄土へ参らせていただくことに定まり、仏になることにきまったわけで、それでこれを正定聚というのであります。そして、その正定聚の中にふくまれている内容をとり出してみると、たくさんな利益となります。親鸞聖人はこれを現生十種の益と示されてあります。(教行信証の信の巻)

 (一) 冥衆護持の益、(二) 至徳具足の益、(三) 転悪成善の益、(四) 諸仏護念の益、(五) 諸仏称讃の益、(六) 心光常護の益、(七) 心多歓喜の益、(八) 知恩報徳の益、(九) 常行大悲の益、(十) 入正定聚の益、です。

 この中で、第十が正定聚に入るということで、これが全体をのべたもので、前の九がその内容としての利益であります。(一)はわたくしたちの見ることのできない仏や諸天善神が、影の形に添うようにまもってくださることであり、(二)はあらん限りの功徳を身に具足することであり、(三)はわたくしの善も悪も共に仏の善にさせられるのであり、(四)は諸仏がおまもりくださることであります。また(五)は諸仏がおほめくださることであり、(六)は弥陀のお心のあらわれたところの光明に常にまもられることであり、(七)はお救いにあずかったのでありますから、その心によろこびが多いのであります。(八)は心によろこびが多いところには、また仏のご恩をわからせてもらい報ずる心が出てまいります。(九)はその仏のご恩を知らされて報ずる心が出てまいりますから、常にみ名をたたえると共に、仏の慈悲を心として身に行なってゆくことになります。これらの九つはいずれも入正定聚の者の利益であります。この中には、自分に知られることもあれば、知られないこともあり、心やすがたの上にあらわれることもあれば、あらわれないこともあります。すなわち至徳具足の益や、転悪成善の益などはわたくしの心の上にはっきりと見えるようにあらわれることではありませんが、心多歓喜の益や、知恩報徳の益や、常行大悲の益などは、わずかながらでも知らせていただけるものであります。この現世利益は、世間でよくいわれる現世利益とその趣きが異なるのは、殊にこうした心多歓喜や、知恩報徳や、常行大悲というようなことがあげられてあることであります。つまり、わたくしたちは毎日とかく不平不満で暮していますが、これが心多歓喜として転換されるのであります。また、人に施した恩は忘れませんが、受けたご恩は忘れがちであります。そうしたわたくしたちが、知恩報徳の人とならしていただくということは、大きな変わりかたであります。また、すぐに利己的に動こうとするわたくしたちでありますが、それが常行大悲の生活へと展開してまいります。これらのことが、普通にいわれている現世利益とは異なるところであります。今ここでいう現世利益は、信心による人格の変化であります。つまりこのように人格の高められてゆく信心ですから、冥衆は護持し、諸仏は護念され給うのであります。

(p.309~p.312)
プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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