大経讃(4)「臨終現前の願により」の御和讃
大経讃(3)ー『観経』の「顕の義」と「隠彰の義」に続いて、この御和讃について取り上げます。
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
これは、『観経』の顕の義について教えられたことを前回述べました。
大意は、以下のようになります。
「阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、釈尊は聖道自力の人を誘引するために、諸善万行はみな浄土真実の導く善根であるとして、『観経』一部に定善の行、散善の行を説き、定善に縁のある人、散善に縁のある人に、それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。」
(聖典セミナー「浄土和讃」黒田覚忍著 234頁より引用)
ここで注意しなければならないのは、「定散諸機をすすめけり」とは、定散諸機を弘願(18願)に勧め入れるのではないことです。
『浄土三経往生文類』には「観経往生」について次のように教えられています。
「観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。」
「『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり」
と教えられていますように、定散二善をすすめられたのは、九品往生をすすめるためなのです。結果は、方便化土の往生なのですから、定散二善を親鸞聖人が勧められていないことは明らかです。
そして、『観経』の隱彰の義については、『大経讃』の次の『観経讃』で教えられています。『観経讃』では隠彰の義のこころのみが明らかにされています。
そして、『観経讃』の最後の御和讃には、
定散諸機各別の
自力の三心ひるがへし
如来利他の信心に
通入せんとねがふべし
と詠まれて、自力の三心をすてて他力の信心に入ろうと願え、と他力の信心が勧められています。
なお、『弥陀経和讃』でも、阿弥陀経の隠彰の義(18願意)のみが明らかにされています。一首紹介します。
恒沙塵数の如来は
万行の少善きらひつつ
名号不思議の信心を
ひとしくひとへにすすめしむ
と十方諸仏が他力の信心をひとしくひとえに勧められていることが分かります。
浄土和讃の『大経讃』・『観経讃』・『弥陀経讃』は三経一致門にたって説かれています。
(詳しくは『21世紀の浄土真宗を考える会』「浄土三部経と三願」を読んで下さい)
「三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。」(教行信証化土巻)
(訳『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会編)参照)
『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三経に説く教えには顕彰隠密の義があるといっても、みな他力の信心を明らかにして、涅槃に入る因とする。そのため三経のはじめには、「如是」と示されているのである。「如是」という言葉は、善く信じるすがたをあらわしている。いまこの三経をうかがうと、みな決して損なわれることのない真実の心をまさにかなめとしている。
「ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。」(教行信証化土巻)
(訳『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会編)参照)
このようなわけで、『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』に説かれる真実の教えは、第十八願をそのかなめとするのである。
このように親鸞聖人は、浄土三部経に説かれる教えは第十八願が要であり、釈迦弥陀の二尊、十方恒沙の諸仏は他力の信心、本願力廻向の信心一つ勧められているのだと明らかにしていかれました。
ですから、ひたすら第十八願他力真実の教えを聞けよとお勧めなのです。
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
これは、『観経』の顕の義について教えられたことを前回述べました。
大意は、以下のようになります。
「阿弥陀如来の第十九願の意をうけて、釈尊は聖道自力の人を誘引するために、諸善万行はみな浄土真実の導く善根であるとして、『観経』一部に定善の行、散善の行を説き、定善に縁のある人、散善に縁のある人に、それぞれに自力の行による往生をお勧めくださった。」
(聖典セミナー「浄土和讃」黒田覚忍著 234頁より引用)
ここで注意しなければならないのは、「定散諸機をすすめけり」とは、定散諸機を弘願(18願)に勧め入れるのではないことです。
『浄土三経往生文類』には「観経往生」について次のように教えられています。
「観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。 これを双樹林下往生と申すなり。」
「『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり」
と教えられていますように、定散二善をすすめられたのは、九品往生をすすめるためなのです。結果は、方便化土の往生なのですから、定散二善を親鸞聖人が勧められていないことは明らかです。
そして、『観経』の隱彰の義については、『大経讃』の次の『観経讃』で教えられています。『観経讃』では隠彰の義のこころのみが明らかにされています。
そして、『観経讃』の最後の御和讃には、
定散諸機各別の
自力の三心ひるがへし
如来利他の信心に
通入せんとねがふべし
と詠まれて、自力の三心をすてて他力の信心に入ろうと願え、と他力の信心が勧められています。
なお、『弥陀経和讃』でも、阿弥陀経の隠彰の義(18願意)のみが明らかにされています。一首紹介します。
恒沙塵数の如来は
万行の少善きらひつつ
名号不思議の信心を
ひとしくひとへにすすめしむ
と十方諸仏が他力の信心をひとしくひとえに勧められていることが分かります。
浄土和讃の『大経讃』・『観経讃』・『弥陀経讃』は三経一致門にたって説かれています。
(詳しくは『21世紀の浄土真宗を考える会』「浄土三部経と三願」を読んで下さい)
「三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。」(教行信証化土巻)
(訳『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会編)参照)
『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』の三経に説く教えには顕彰隠密の義があるといっても、みな他力の信心を明らかにして、涅槃に入る因とする。そのため三経のはじめには、「如是」と示されているのである。「如是」という言葉は、善く信じるすがたをあらわしている。いまこの三経をうかがうと、みな決して損なわれることのない真実の心をまさにかなめとしている。
「ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。」(教行信証化土巻)
(訳『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会編)参照)
このようなわけで、『無量寿経』・『観無量寿経』・『阿弥陀経』に説かれる真実の教えは、第十八願をそのかなめとするのである。
このように親鸞聖人は、浄土三部経に説かれる教えは第十八願が要であり、釈迦弥陀の二尊、十方恒沙の諸仏は他力の信心、本願力廻向の信心一つ勧められているのだと明らかにしていかれました。
ですから、ひたすら第十八願他力真実の教えを聞けよとお勧めなのです。
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