自力の計らいと本願力回向
『浄土真宗 信心』(加茂仰順著)より
仰せを、頂くことです。仰せを頂くだけであります。本当に、私が仰せを頂かして頂かねばなりません。「タスケルゾヨ」の仰せを、すなおに、「はい」と頂いたのであります。これだけであります。
一般のお同行さんは、「仰せを頂けばよい」ということを聞いて、それで終っています。それではいけません。本当に、自分が、「タスケルゾヨ」を、頂かねば、なりません。「仰せを頂くということ」を、心得ているだけでは、いけません。本当に、「タスケルゾヨ」をすなおに頂くことが大切であります。
「タスケルゾヨ」を、頂くだけであります。(p.137)
加茂和上の言葉は平易な文章で、見事に本願力回向のご法義が顕されていると思います。有難い仰せです。
『浄土真宗 信心』の内容を読むと、言葉を替えて繰り返し繰り返し、阿弥陀仏の一方的なお救いが綴られております。
ブログでもよく書いていることですが、自力の計らいある間はどうしても
私→阿弥陀仏
という概念で、私が真剣に聞いたら、うまいこと聞いたら、今と違った聞き方をしたら助かる、助けて頂ける、というように、「私」を主語にして考えてしまいます。
他の宗教信心、また宗教に限らなくても、「私」が「信じる対象(神、仏、人など)」に何かをしたら、それに応じた何かが返ってくるというのが、いわゆる信心というものです。
違うんですね。
阿弥陀仏の一方的な救いなんです。
阿弥陀仏→私
の一方通行です。私の行為、思いによって救いが決定するのではなく、「救われるに決定しているぞ」の如来の仰せ、如来のお手回し、如来のお慈悲を頂くばかりです。「ワシに任せてくれ」の仰せを、すなおに頂くだけであります。
これだけであります。
後は如来と共に浄土への旅をさせて頂き、命尽きたらいよいよお浄土へ参らせて頂くのです。
これを聞いて信じていればよかろうというのではお浄土参りはかないません。
「助けるぞ」を「はい」と頂くのです。「助けるぞ」の仰せに疑いがないのです。不思議なことです。
阿弥陀仏のお姿を見たわけでもなく、言葉を聞いたわけでもないのに、阿弥陀仏が私をお救い下さることに疑いがないのです。
この無疑心が往生浄土の決定心、大信であり、これは南無阿弥陀仏より出でたる信心です。
何か私の心に確固とした信心が出来上がるということではなく、阿弥陀仏が私をお救い下さることに何の疑いもないことが信心ですから、いよいよ如来のお救いを聞かせて頂くのが大事であり、その他にないのであります。
自分と離れたところにある救いを求めて聴聞するのではありません。既に阿弥陀仏より届けられている救いの法を頂くのです。
このように、自力の計らいと本願力回向のご法義では、向きが全く反対なのです。自力の計らいを何とかしようと苦心されている方もありますし、以前の私もそうでしたが、自力の計らいを自分で何とかできるならば阿弥陀仏はこんなに苦労しておられないでしょう。
自力を捨てなければと、自分の側に問題をもってきて方法論を求めたところでナンセンスです。南無阿弥陀仏に自力を捨てさせるはたらきがありますから、この救いの法をお聞かせ頂くよりありません。
今の自分と離れたところにある決勝点を目指して聞くのではなく、今の自分をそのまま助ける如来の仰せを頂いて下さい。必ず救われます。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
仰せを、頂くことです。仰せを頂くだけであります。本当に、私が仰せを頂かして頂かねばなりません。「タスケルゾヨ」の仰せを、すなおに、「はい」と頂いたのであります。これだけであります。
一般のお同行さんは、「仰せを頂けばよい」ということを聞いて、それで終っています。それではいけません。本当に、自分が、「タスケルゾヨ」を、頂かねば、なりません。「仰せを頂くということ」を、心得ているだけでは、いけません。本当に、「タスケルゾヨ」をすなおに頂くことが大切であります。
「タスケルゾヨ」を、頂くだけであります。(p.137)
加茂和上の言葉は平易な文章で、見事に本願力回向のご法義が顕されていると思います。有難い仰せです。
『浄土真宗 信心』の内容を読むと、言葉を替えて繰り返し繰り返し、阿弥陀仏の一方的なお救いが綴られております。
ブログでもよく書いていることですが、自力の計らいある間はどうしても
私→阿弥陀仏
という概念で、私が真剣に聞いたら、うまいこと聞いたら、今と違った聞き方をしたら助かる、助けて頂ける、というように、「私」を主語にして考えてしまいます。
他の宗教信心、また宗教に限らなくても、「私」が「信じる対象(神、仏、人など)」に何かをしたら、それに応じた何かが返ってくるというのが、いわゆる信心というものです。
違うんですね。
阿弥陀仏の一方的な救いなんです。
阿弥陀仏→私
の一方通行です。私の行為、思いによって救いが決定するのではなく、「救われるに決定しているぞ」の如来の仰せ、如来のお手回し、如来のお慈悲を頂くばかりです。「ワシに任せてくれ」の仰せを、すなおに頂くだけであります。
これだけであります。
後は如来と共に浄土への旅をさせて頂き、命尽きたらいよいよお浄土へ参らせて頂くのです。
これを聞いて信じていればよかろうというのではお浄土参りはかないません。
「助けるぞ」を「はい」と頂くのです。「助けるぞ」の仰せに疑いがないのです。不思議なことです。
阿弥陀仏のお姿を見たわけでもなく、言葉を聞いたわけでもないのに、阿弥陀仏が私をお救い下さることに疑いがないのです。
この無疑心が往生浄土の決定心、大信であり、これは南無阿弥陀仏より出でたる信心です。
何か私の心に確固とした信心が出来上がるということではなく、阿弥陀仏が私をお救い下さることに何の疑いもないことが信心ですから、いよいよ如来のお救いを聞かせて頂くのが大事であり、その他にないのであります。
自分と離れたところにある救いを求めて聴聞するのではありません。既に阿弥陀仏より届けられている救いの法を頂くのです。
このように、自力の計らいと本願力回向のご法義では、向きが全く反対なのです。自力の計らいを何とかしようと苦心されている方もありますし、以前の私もそうでしたが、自力の計らいを自分で何とかできるならば阿弥陀仏はこんなに苦労しておられないでしょう。
自力を捨てなければと、自分の側に問題をもってきて方法論を求めたところでナンセンスです。南無阿弥陀仏に自力を捨てさせるはたらきがありますから、この救いの法をお聞かせ頂くよりありません。
今の自分と離れたところにある決勝点を目指して聞くのではなく、今の自分をそのまま助ける如来の仰せを頂いて下さい。必ず救われます。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
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