親鸞会は「雑行雑修の人製造の宗教」!?
本日は『唯信鈔文意』から学びたいと思います。
「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。
「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。
御文を読まれたらお分かりのように、ここは『観経』の上品上生に説かれている「具三心者必生彼国」の文についてです。
そして、善導大師の「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃)の文を引かれ、その解説をしておられます。
この中で聖人は、一心(本願真実の三信心)を得た人は必ず真実報土の往生を遂げ、この一心が欠けたならば真実報土に生まれることはできないと仰っています。
本願真実の三信心とは至心・信楽・欲生のことですが、これらは名号のはたらきによって衆生に開き起こる信心です。「助けるぞ」の仰せが南無阿弥陀仏となって既に私達に届いていますから、それを聞くのが即ち信です。聞くのにどうしらもこうしたらもなく、そのまま、仰せの通りお聞きするのです。
さて、雑行雑修の人は報土には生まれられず、報土に往けるのは極めて稀ですから、
真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。
と誡められています。
雑行雑修の人とは、簡単に言うと阿弥陀仏の救いを求めて諸善に励み、その善根功徳をもって浄土に往生しようという人のことです。
ですから『観経』顕説を根拠に、「善をしなければ信仰は進みませんよ」などと言って定善・散善を勧めるのは、雑行雑修の人になれと言っているようなものです。聞く側は、阿弥陀仏に救われたいと思って善をやり、自分の修めた善が何らかの形で救われるための役に立つと考えているからです。
親鸞会会員の方は、善があるいは宿善になると考え、あるいは横の道を進んで縦の線までたどり着くための手段と考え、あるいは善のできない己と知らされ自力が廃る方便の善と考えてはいませんか? もし、自分の修めた善が救いとは全く関係ないと思えず、少しでもこのような思いがあるのなら、それは自分の修めた善が何らかの形で救われるための役に立つと考えているということです。
そういう考えで諸善に励んでいる人を雑行雑修の人と言いますから、親鸞会は一応教義上は「雑行雑修の人製造の宗教」と言えるかもしれません。実際はもっとひどいのですが、親鸞聖人の教えと全く違うことが分かって頂ければOKです。
救われるために19願の善をせよという教説は浄土真宗にはありません。そのような邪説は捨て去り、本願を聞いて直ちに本願真実の三信心を得、真実報土の往生を遂げる身となって頂きたいと思います。
「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。
「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。
御文を読まれたらお分かりのように、ここは『観経』の上品上生に説かれている「具三心者必生彼国」の文についてです。
そして、善導大師の「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃)の文を引かれ、その解説をしておられます。
この中で聖人は、一心(本願真実の三信心)を得た人は必ず真実報土の往生を遂げ、この一心が欠けたならば真実報土に生まれることはできないと仰っています。
本願真実の三信心とは至心・信楽・欲生のことですが、これらは名号のはたらきによって衆生に開き起こる信心です。「助けるぞ」の仰せが南無阿弥陀仏となって既に私達に届いていますから、それを聞くのが即ち信です。聞くのにどうしらもこうしたらもなく、そのまま、仰せの通りお聞きするのです。
さて、雑行雑修の人は報土には生まれられず、報土に往けるのは極めて稀ですから、
真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。
と誡められています。
雑行雑修の人とは、簡単に言うと阿弥陀仏の救いを求めて諸善に励み、その善根功徳をもって浄土に往生しようという人のことです。
ですから『観経』顕説を根拠に、「善をしなければ信仰は進みませんよ」などと言って定善・散善を勧めるのは、雑行雑修の人になれと言っているようなものです。聞く側は、阿弥陀仏に救われたいと思って善をやり、自分の修めた善が何らかの形で救われるための役に立つと考えているからです。
親鸞会会員の方は、善があるいは宿善になると考え、あるいは横の道を進んで縦の線までたどり着くための手段と考え、あるいは善のできない己と知らされ自力が廃る方便の善と考えてはいませんか? もし、自分の修めた善が救いとは全く関係ないと思えず、少しでもこのような思いがあるのなら、それは自分の修めた善が何らかの形で救われるための役に立つと考えているということです。
そういう考えで諸善に励んでいる人を雑行雑修の人と言いますから、親鸞会は一応教義上は「雑行雑修の人製造の宗教」と言えるかもしれません。実際はもっとひどいのですが、親鸞聖人の教えと全く違うことが分かって頂ければOKです。
救われるために19願の善をせよという教説は浄土真宗にはありません。そのような邪説は捨て去り、本願を聞いて直ちに本願真実の三信心を得、真実報土の往生を遂げる身となって頂きたいと思います。
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