蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(12)

 それ、つらつら人間のあだなる体を案ずるに、生あるものはかならず死に帰し、盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。さればただいたづらに明かし、いたづらに暮して、年月を送るばかりなり。これまことになげきてもなほかなしむべし。このゆゑに、上は大聖世尊(釈尊)よりはじめて、下は悪逆の提婆にいたるまで、のがれがたきは無常なり。しかればまれにも受けがたきは人身、あひがたきは仏法なり。

たまたま仏法にあふことを得たりといふとも、自力修行の門は、末代なれば、今の時は出離生死のみちはかなひがたきあひだ、弥陀如来の本願にあひたてまつらずはいたづらごとなり。しかるにいますでにわれら弘願の一法にあふことを得たり。このゆゑに、ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏申すべきなり。

しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、阿弥陀如来を一向にたのめば、ほとけその衆生をよくしろしめして、すくひたまへる御すがたを、この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。

かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。あら、たふとや、あら、ありがたの阿弥陀如来や。かやうの雨山の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞや。ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と声にとなへて、その恩徳をふかく報尽申すばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章3帖目4通)


生あるものは必ず死に帰す、盛者必衰は世のならいです。今回の東日本大震災では死者1万人以上、行方不明者と合わせて2万8千人以上という大惨事になりましたが、たとえこのような災害もなく一生を平穏に暮らせたとしても、逃れ難きは無常です。このような無常の世の中、まれにも受けがたきは人身、あいがたきは仏法です。
ところが、せっかく仏法に遇いながらも、自力修行の門は末法の今日では生死出離の道はかないません。弥陀如来の本願に遇わなければ空しく一生が終わってしまいます。ところが私達は幸いにも「弘願の一法」に遇うことができました。これによって、「ただねがふべきは極楽浄土、ただたのむべきは弥陀如来、これによりて信心決定して念仏申すべきなり」と教えられています。
「弘願の一法」とは勿論18願の教法だけのことです。もし弘願への道程として要門、真門の教えが必要ならば「要門、真門、弘願の三法」となければおかしいですし、蓮如上人は要門とその実践方法を詳しくお説きになったはずです。しかし後を読んでも要門の要の字も出てきません。親鸞会流「三願転入の教え」は大ウソであることがますます明らかになってまいります。

さて、南無阿弥陀仏の六字をよく心得わけたのが他力信心のすがたですが、では私達は阿弥陀仏をどのように信じて往生の一大事を遂げるのでしょうか。蓮如上人にお聞きしましょう。

なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。

「なにのわづらひもなく」ですから、私の側から「○○しなければならない」ということはありません。
「もろもろの雑行雑善をなげすてて」ですから、弥陀の救いに遇うには定散二善等の雑行は捨てねばなりません。親鸞会は捨てるべき雑行をやれを教えられているのですから、雑行が捨たるはずがないのです。親鸞会は自分がやっていることが雑行だと分からないと捨てられないなどと詭弁を使いますが、私達が定散二善等の諸行が雑行だと分かるのは善知識方がそのように教えられているからです。それにもし親鸞会の言う通りなら、「雑行を雑行と知らされるために雑行を修せよ」といった教えがなければなりませんが、終始「雑行はすてて」とこそ書かれ、「雑行を修せよ」とは一切書かれておりません。蓮如上人がこの後重ねて、

このほかには別の仏をもたのみ、また余の功徳善根を修してもなににかはせん。

と教えられていることからも、弥陀の救いに遇うのに定散二善等の余の功徳善根を修せよという教義は真宗にはありません。親鸞会教義がでたらめであるとここでも知ることができます。

一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。これをすなはち弥陀如来の摂取の光益にあづかるとは申すなり。または不捨の誓益ともこれをなづくるなり。かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、その疑あるべからず。

とあるように、南無阿弥陀仏を疑いなく聞き受けて、ひとえに阿弥陀仏に往生をおまかせしたなら、その人は光明の中に摂取され、決して捨てられることはありません。そしてこの世の命が尽きたなら直ちに真実報土へ往生するのです。何と尊い阿弥陀如来のご本願でしょうか。最後に、このように広大な弥陀の恩徳をどのようにして報すべきかと言えば、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称名念仏しなさいと教えられ、終わっています。
やはり、親鸞会流「三願転入の教え」や獲信のための(因縁としての)諸善の勧め、「必ず通らねばならない道程」は全くありませんでした。親鸞会教義とは、所詮でっち上げの寄せ集め創作教義であることをよくよく知って頂きたいと思います。
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プロフィール

淳心房&しゃあ

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(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
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(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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