蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(33)

 そもそも、毎月両度の寄合の由来はなにのためぞといふに、さらに他のことにあらず。自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり。しかれば往古より今にいたるまでも、毎月の寄合といふことは、いづくにもこれありといへども、さらに信心の沙汰とては、かつてもつてこれなし。ことに近年は、いづくにも寄合のときは、ただ酒・飯・茶なんどばかりにてみなみな退散せり。これは仏法の本意にはしかるべからざる次第なり。いかにも不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべきところに、なにの所詮もなく退散せしむる条、しかるべからずおぼえはんべり。よくよく思案をめぐらすべきことなり。所詮自今以後においては、不信の面々はあひたがひに信心の讃嘆あるべきこと肝要なり。

 それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。かくのごとくよくこころえたる人は、まことに百即百生なるべきなり。このうへには、毎月の寄合をいたしても、報恩謝徳のためとこころえなば、これこそ真実の信心を具足せしめたる行者ともなづくべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章4帖目12通)



蓮如上人の当時は、毎月、親鸞聖人の命日の二十八日と法然上人の命日の二十五日に会合をもっていたそうです。その会合をするのは、他でもない、自身の往生極楽の信心獲得のためだと蓮如上人は教えられています。ところが、近年はせっかく会合を開いても飲食だけに終ってしまい、肝心の信心について語り合うことがなく皆帰ってしまうとのことで、蓮如上人は「いかにも不信の面々は、一段の不審をもたてて、信心の有無を沙汰すべき」「不信の面々はあひたがひに信心の讃嘆あるべきこと肝要なり」と仰っています。
他力の信心とはどのようなものか、自分は他力の信心を獲得しているのか、阿弥陀仏をたのむとはどういうことか、信心の体である南無阿弥陀仏とは如何なるものか、弥陀の救いを信じられずどうしてもこのように思ってしまうのだがどうか、このような私でも信心獲得できるのか、どうしたら信心獲得できるのか、どうしたら弥陀に一向一心になれるのか、本当に阿弥陀仏はいらっしゃるのか、こちら側から何もしないで本当によいのか、助かるにはやはり善や念仏に励まねばならないのではないか、今日にも無常が迫っているのに本当に自分は間に合うのか、などなど、真宗の教えを聞いたら様々な不審が出てくると思います。今挙げたのはほんの一例に過ぎません。詳しくは当ブログのリンク先である安心問答をご覧ください。多くの方が疑問や質問をして、それらに答えられています。このような問答、話し合いを信心の沙汰といいます。決して暗記比べや活動の報告会ではありませんので、誤解しないで下さい。
当流の安心のおもむきを聞くのが聴聞であり、それを聞いた人同士で話し合うのが信心の沙汰です。では、このお手紙では蓮如上人は当流の安心のおもむきをどのように説かれているでしょうか? まずそれを聞いてみたいと思います。

それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。かくのごとくよくこころえたる人は、まことに百即百生なるべきなり。

「あながちにわが身の罪障のふかきによらず」ですから、阿弥陀仏はどれほど罪の深い者でもお助け下さいます。次に「ただもろもろの雑行のこころをやめて」と仰っています。往生行としての諸善万行(弥陀の救いを願って修める諸善万行、往生に役立てようとして修める諸善万行と理解したらよいです)は雑行です。ここで蓮如上人は、雑行に励んで弥陀の救いを願う計らい心を誡められています。「一心に阿弥陀如来に帰命して」とは、余仏を念ぜず、余の善にうつらず、ひとえに阿弥陀仏に後生をおまかせすることです。「今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたの」むとは、阿弥陀仏の「後生助けるぞ」の仰せに対し「仰せの通り後生お助けましませ」とおまかせすることです。そのように弥陀をたのむ衆生を、阿弥陀仏はことごとく摂取して、決してお捨てになりません。

蓮如上人の教えはこのお手紙では以上です。やはり、親鸞会流「三願転入の教え」や必ず通らねばならない道程、罪悪の沙汰、善知識の指示に無条件服従せよという教え、宿善を求めよ・厚くせよという教えなどは存在しませんでした。因果の道理も説かれていません。地獄一定の自己を知らされねばならないとも教えられていません。

さて、このように教えを聞きますと、疑問が出てくる方があると思います。「阿弥陀仏にどうまかせたらよいのか?」「『後生たすけたまへ』とあるから『後生助けて下さい』とお願いしなければならないのか?」「罪を造るのに平気でいいのか?」など、思いつくものを書いてみました。他にも疑問は沢山出てくると思います。疑問が出たら放っておかずに知識・同行に尋ねて下さい。

一 蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。(御一代記聞書)

蓮如上人もこのように仰せです。自身の安心を決定し、今度の一大事の往生をよくよく遂げて頂きたいと思います。
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プロフィール

淳心房&しゃあ

Author:淳心房&しゃあ
(淳心房)
平成21年10月に親鸞会を退会し、「親鸞聖人の正しい教えを真偽検証する」ということで、専らコメンテーターとしてやってきました(^^)v
しかし、ようやく自分の中での真偽検証は終了したので、名前も改め、淳心房と名乗ります♪
ただし「真偽検証」は今まで馴れ親しんだ名前ですし、親鸞会教義が親鸞聖人の正しい教えなのかどうなのか、一人一人が真偽を検証して頂きたいと思い、ブログのタイトルとして残しました。
一人でも見て下さる方があれば幸いです☆


(しゃあ)
平成21年8月に親鸞会を退会しました。淳心房さんと共同でブログを書いています。何かありましたらメール下さい~
singikensho@yahoo.co.jp
(スパム防止のため@を大文字にしてあります。メール送信時は小文字に変えて下さい。)

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