蓮如上人と三願転入にどのような関係が??(52)
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章5帖目16通)
この白骨の御文章はとても有名です(とは言っても私は家が他宗の檀家だったので知りませんでしたが)。『ウィキペディア』白骨 (御文)にも解説が詳しく載っています。また『浄土真宗本願寺派 長明寺』御文章(白骨の御文章)によると、白骨の章には後鳥羽上皇の『無常講式』や存覚上人の『存覚法語』などからの引用が見受けられますが、単なる引用ではなく、内容をより平易な文章にかみ砕いていると解説されています。
ただ、これは『飛雲』高森会長と1万年堂出版の実態で言われているような「盗作」とは違います。『フレッシュアイペディア』盗作によると、
盗作(とうさく)とは、他人の著作物にある表現、その他独自性・独創性のあるアイディア・企画等を盗用し、それを独自に考え出したものとして公衆に提示する反倫理的な行為全般を指す。「剽窃(ひょうせつ)」とも呼ばれる。
とあります。白骨の章は元々はお手紙ですから、公衆に提示されたものではありません。それが広く一般に知られるようになったのは後世のことです。また、話は反れますが『教行証文類』も「盗作」とは違います。「『大無量寿経』(上)にのたまはく」「憬興師のいはく(述文賛)」等とあるように引用、引文であります。これらと、大沼師や伊藤師の文章を「盗作」して公衆に提示し、本として出版して利益を得ている行為との違いが分からない人は、間違いなく「高森先生信心」の人です。
さて、白骨の章では世の無常を切々と訴え、教義に関しては実に簡潔です。この世は老少不定のはかない世界だから、
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。
とだけ教えられています。「後生の一大事」とは、親鸞会で言うような「死ねば必ず無間地獄に堕ちる」という一大事ではありません。『安心問答』後生の一大事とは、どういうことでしょうか?(頂いた質問)にあるように、往生浄土の一大事ということです。
「阿弥陀仏をふかくたのみまひらせて」とは、「我をたのめ、必ず助ける」という阿弥陀仏の力強い誓いを計らいなく聞き受け、仰せの通り阿弥陀仏に往生浄土の一大事をおまかせすることです。
「念仏申すべきものなり」とは、他のお手紙から称名報恩の義であると伺えます。また、称名は浄土真実の行ですから、真宗の教えを聞き、浄土への旅路を歩む者は常にたしなむべきであることもこれに含まれているでしょう。選択本願の念仏は諸行とは違い、我々のような凡夫も行ずることができる至って易しい行です。しかも一声一声が無上の功徳をもつ最も勝れた行です。だから一声だけでは足りないということはありませんし、かといって何万回、何十万回と称えても称え過ぎるということもありません。これが、阿弥陀仏が本願において一切の諸行を選び捨て、ただ一行と選び取られた念仏であります。
白骨の章でも勿論、親鸞会流「三願転入の教え」や横の線に該当する教え等、親鸞会で説かれる様々な珍説は存在しません。大体、親鸞会は老少不定のはかない世の中であると本当に分かっていないから、宿善を厚くしなければ、信仰が進まなければと悠長に活動していられるのです。今日死ぬとなったら、只今無条件で救い摂る本願を聞き、念仏して往生をゆだねる以外に我々が助かる道がありますか? これが分かった人はまともな思考能力のある人です。すぐに会を離れて本願を聞いて下さい。これが分からない人は思考停止しています。その人が個人的に騙され続けるのは自由ですが、善もどきの善をして社会に害悪を撒き散らさないで頂きたいと思います。
されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。(御文章5帖目16通)
この白骨の御文章はとても有名です(とは言っても私は家が他宗の檀家だったので知りませんでしたが)。『ウィキペディア』白骨 (御文)にも解説が詳しく載っています。また『浄土真宗本願寺派 長明寺』御文章(白骨の御文章)によると、白骨の章には後鳥羽上皇の『無常講式』や存覚上人の『存覚法語』などからの引用が見受けられますが、単なる引用ではなく、内容をより平易な文章にかみ砕いていると解説されています。
ただ、これは『飛雲』高森会長と1万年堂出版の実態で言われているような「盗作」とは違います。『フレッシュアイペディア』盗作によると、
盗作(とうさく)とは、他人の著作物にある表現、その他独自性・独創性のあるアイディア・企画等を盗用し、それを独自に考え出したものとして公衆に提示する反倫理的な行為全般を指す。「剽窃(ひょうせつ)」とも呼ばれる。
とあります。白骨の章は元々はお手紙ですから、公衆に提示されたものではありません。それが広く一般に知られるようになったのは後世のことです。また、話は反れますが『教行証文類』も「盗作」とは違います。「『大無量寿経』(上)にのたまはく」「憬興師のいはく(述文賛)」等とあるように引用、引文であります。これらと、大沼師や伊藤師の文章を「盗作」して公衆に提示し、本として出版して利益を得ている行為との違いが分からない人は、間違いなく「高森先生信心」の人です。
さて、白骨の章では世の無常を切々と訴え、教義に関しては実に簡潔です。この世は老少不定のはかない世界だから、
たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。
とだけ教えられています。「後生の一大事」とは、親鸞会で言うような「死ねば必ず無間地獄に堕ちる」という一大事ではありません。『安心問答』後生の一大事とは、どういうことでしょうか?(頂いた質問)にあるように、往生浄土の一大事ということです。
「阿弥陀仏をふかくたのみまひらせて」とは、「我をたのめ、必ず助ける」という阿弥陀仏の力強い誓いを計らいなく聞き受け、仰せの通り阿弥陀仏に往生浄土の一大事をおまかせすることです。
「念仏申すべきものなり」とは、他のお手紙から称名報恩の義であると伺えます。また、称名は浄土真実の行ですから、真宗の教えを聞き、浄土への旅路を歩む者は常にたしなむべきであることもこれに含まれているでしょう。選択本願の念仏は諸行とは違い、我々のような凡夫も行ずることができる至って易しい行です。しかも一声一声が無上の功徳をもつ最も勝れた行です。だから一声だけでは足りないということはありませんし、かといって何万回、何十万回と称えても称え過ぎるということもありません。これが、阿弥陀仏が本願において一切の諸行を選び捨て、ただ一行と選び取られた念仏であります。
白骨の章でも勿論、親鸞会流「三願転入の教え」や横の線に該当する教え等、親鸞会で説かれる様々な珍説は存在しません。大体、親鸞会は老少不定のはかない世の中であると本当に分かっていないから、宿善を厚くしなければ、信仰が進まなければと悠長に活動していられるのです。今日死ぬとなったら、只今無条件で救い摂る本願を聞き、念仏して往生をゆだねる以外に我々が助かる道がありますか? これが分かった人はまともな思考能力のある人です。すぐに会を離れて本願を聞いて下さい。これが分からない人は思考停止しています。その人が個人的に騙され続けるのは自由ですが、善もどきの善をして社会に害悪を撒き散らさないで頂きたいと思います。
スポンサーサイト